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久々に更新です。忙しかった訳でもなく、病気をしていた訳でもなく、元気に毎日を過ごしています。いやいや、今更ながらズボラな自分をつくづく痛感(汗)。メール、私書箱へメッセージ、お電話を下さった皆さん!お返事すぐ書きます!ゴメンナサイ!私は元気です!自分の記録のために写真中心に先月末から今月いっぱいを振り返ります。近所の公園のアヒルです。雁です。そしてカモ。皆息災でなにより。夫、今シーズン最後のイカ釣り。Cicciさんが予定日より2週間も早く長男出産。妊娠中「おむつケーキ作るよ宣言」をしていたのでこんなモノいらんだろうなぁ、と思いつつも強引に贈呈。夫と休みが重なったので、海に貝とりに行きました。収穫。晴天でした、陽に焼けました。釣り餌にする海のミミズです。別の日に夫が船から釣ったヒラメです。キャレン&ボブ宅へ夕飯に呼ばれました。サル妻さんご実家のBBQに呼ばれました。相変わらず超豪華食材!うちは、夫の釣ったヒラメでジョンを焼いて持って行きました。OZさん宅の焼き鳥BBQに呼ばれました。手前は、絶品だったOZさん手作り「手羽先餃子」。こんな芸術的な料理、生まれて初めて知りました(恥)!別の週末、又OZさん宅BBQに呼んで頂きました。いつも呼ばれるばかりでスミマセン。。。。(汗)うちが持参した夫作のカルビ。BBQの後、カラオケをしながら頂いたデザート。このカラオケで夫は100点を取り、OZさんパパより豪華商品を贈呈される。相変わらずの美女だったOZ家のチョコ。アルバイトを始めてからめっきり外食が多くなりました。この日はめずらしくアメリカン・レストランへ。バーバラ&マイク夫婦宅へ夕飯に呼ばれました。ピッチャーの中身は、アメリカの日本食レストランでおなじみの「人参ベース和風ドレッシング」夫のレシピでバーバラが作りました。夕飯の後は長島のオイスターベイを散歩。長島にあるCold Spring Harbor’s Laboratoryという大変有名な研究所のカフェテリアにブランチを食べに。ウワサ通り、ホテルのビュッフェのようでした。食後の腹ごなしに研究所内を散策。ずっと年上だけどとても気の合う友人マー女史が3週間ぶりに長島に帰国。I missed her so much!彼女の義妹さんは日本人で、その方の経営する和食レストランへ行き、豪華なディナーをご馳走に。大満足。春に唐辛子を植えた畑に、先々月、庭師が除草剤を撒きうちの畑(本当は花壇)が全滅しました。等間隔で苗が植わってるのに何で分からないんだ(怒)!!!と非常に立腹していたら、階下のアンソニーが私の怒りに怯え花壇の土を全部入れ替えてくれた。「土代出すよ」と夫が言うも「い、いいよ、いいよ(kangが怖いから)」byアンソニーとの事。ワタシそんなに怖かった。。。。??でもアリガト~!ひひひ。。。こんな感じに過ごしていました。結局、ほとんど「食べたもの日記」になりました。どうしてもこの路線から抜け出せないワタシ。。。今年の後半もこの調子でマイペースにやっていきます!
2005/06/29
今朝、ソウルにいる双子の甥っ子のかたわれからメールがきました。明日6/13に海軍に入隊します。 26ヶ月のサービスです。場所は珍海です。 数年後にお会いしましょう、お元気で!だって~!毎週シオモニに安否電話してるけど甥っ子に赤紙がきたなんて話も聞いてなかったよ~。特攻の命を受けた息子から手紙を受け取った母親のような心境のワタシ、大げさ?急な事でビックリでしたが知らせてくれてありがとう。身体に十分気をつけるように。いつも君を思う家族がいる事を忘れないように。私の祖父の生まれ故郷である珍海に行くのはなにかのご縁だね。君が帰ってくる頃、君に新しい従兄弟が出来ている事を祈っててね。と、あわてて返事を書きました。たくましくなって帰って来いよ~!うちの近所に住む 日系アメリカ人の兄弟は米軍兵として現在、兄がクウェートに、弟が沖縄に派遣されています。お母さんはいつもクゥエートにいるお兄ちゃんを心配して「あの辺のニュースだけはしっかり見ている」そうです。
2005/06/12
「あなたの伯父さんの同級生です」というメールを下さった方を、ここでは仮に「Aさん」と呼ばせて頂きます。私の伯父の事を「伯父クン」と呼びます。 39年卒業のAと言います。本日たまたま同窓会のホームページを初めて開き、伯父クンを尋ねていらっしゃることを知りました。同君は僕らの学年でした。卒業時は4組で、確か下通り商店街の○○店に住んでいたと思います。そんなに親しいわけではありませんでしたが、友達の友達といった関係でした。伯父クンとはB君が仲良しだったと思います。伯父クンは、大人しい人柄でちょっと都会的な雰囲気でした。卒業後は会う機会もなく、今日久しぶりに懐かしい名前に接しメールしました。もっとも去年投稿されていたわけですのでいろんな情報が寄せられたものとは思いますが・・・。伯父クンの同級生/Aより これが優しい優しい紳士、Aさんからのメールの抜擢です。大興奮状態だった私は早速 お礼を書きました。書き込みを見てメールをくれたのはAさんが始めてであること。まだ伯父の事を覚えていて下さる方がいて、とても嬉しいこと。大人しくて都会的という伯父の人柄を聞いて、姪の私がくすぐったい思いでいる事。そして、もし可能なら、伯父と親しくして下さったBさんに是非お話を伺いたい、という内容のメールを送りました。↓優しい優しいAさんから、その翌日届いたメールの抜擢です。早速の返信おそれいります。1年以上もの間、消息がなかったとのこと、同級生として申し訳ない思いです。本日5月14日にB君と電話で連絡をとりました。彼も私も同じ熊本市内に住んでいます。B君も突然の話題にびっくりしていましたが、ひととき高校時代にタイムスリップして懐かしい話が出来ました。もちろん伯父クンの事が話題の中心で、思ったとおり、一番の親友だったそうです。彼も早速メールしてくれるとのことでした。なにかB君しかわからないような思い出もあると思います。卒業アルバムなど、私は無くしてしまいましたが彼は持っていそうです。 伯父クンの同級生/Aより伯父の親友Bさんと連絡を取ってくれた~?!でもって、AさんとBさんで、伯父の思い出話をしてくれた?!私の興奮は頂点を越えており、お腹が痛くなるほど(笑)。死んだ人間も、その人が関わった人達の記憶の中でこうして生き続けることが出来るんだねぇ。私が熊本に行った時、何気なくすれ違った人の一人がこのAさんかBさんかもしれないんだよねぇ。その時お互いに死んだ伯父の事を考えていたかも知れなんだよねぇ。余談ですが、私はこれをきっかけに、私の記憶の中でまだしっかり生きている、昔死んだ知人「もみあげ君」の事を思い出し、5/16に「天国のもみあげ君へ」という日記を書きました。そして、母の抗がん剤治療が始まる当日5/19付けで伯父の一番の親友でいてくれたBさんからメールが届いたのです。以下抜擢です。先日、高校時代の懐かしい友人から突然電話があり、「伯父クン」を知っている人を探している伯父クンの姪御さんいるとの連絡をうけました。高校をS39年に卒業して41年経ちますが、今でも伯父クンを思い出すことがあります。何故かと云いますと、私は高校卒業後就職しましたが、就職祝いに姉から腕時計を買って貰いました。その時計を買ったのが、当時伯父クンの下宿していた店で、伯父クンのお父さんが推薦された腕時計(KING SEIKO)を今でも大切に使っているからです。伯父クンが大学時代に他界されたことを知ったのは、ずいぶんと年数が経ってからのことでしたが、「何で」との思いは、今でもあります。今でも、高校時代の柔和な伯父クンの面影を頭の中で思い浮べることがあります。よろしければ、伯父クンのお墓が熊本のお寺であれば、お教え頂けませんでしょうか。気になっておりましたので、お墓参りしたいと思いますので。 伯父クンの親友/Bより遂に、遂に、遂に、遂に、遂にコンタクトをとってしまった!会った事のない私の伯父と親友だったBさん。母の大好きだった兄と親友だったBさん。Bさんが今腕にはめている腕時計は、41年前に私の最愛の祖父が推薦したものなんだ~!それが真実な証拠に、なんと、私の祖父も死ぬまでKING SEIKOを使っていたぞ!伯父は、高校時代に想像できたでしょうか?今目の前にいる自分の親友が、41年経った後に、自分の会う事も無い姪っ子と「長島-熊本」という距離を越えてe-mailで連絡を取ってしまうなんて。。。あの世にいる伯父よ、恐れ入ったか、ふっふっふ。。。(笑)私の母は、高校卒業後、集団就職で汽車に乗って上京しておりその他の伯父の家族も、伯父の死後には皆 東京に出てきておりました。だから私は熊本には住んだ事が無く、土地には大変不慣れなのですが、覚えている限りの情報で伯父の墓があるお寺をBさんに知らせました。そして面識も無い者に、こんなに親切にメールを下さったお礼。母の大好きだった兄が生前仲良くして頂いた方にメールを差し上げている自分にとても興奮していること。親切なAさんやBさんの記憶の中で生きている伯父は大変幸せ者であること。治療の副作用で、心細く苦しい思いをしているであろう母にこの話をしたら、きっと喜ぶに違いないであろうこと。を返信しました。5/19、私は便箋を引っ張り出して、母の入院している病院気付けで「インターネットでこぎゃん人達と知り合ったもんね」と母に手紙を書きました。実はその日(日本の5/20)、東京で銭湯を営んでいる母の伯父(私の祖母の兄)が92歳という長寿を全うして他界しました。入院中の母に、そういった緊急の知らせを出来なかった不便があったため、父と妹はその数日後に、携帯電話を母に買い与えていました。一日一回、院外に出て携帯電話の電源を入れてメールを確認するように言ったそうです。一週間後、生まれて初めて持たされた携帯電話で悪戦苦闘したであろう母から、2行だけの「携帯メール」が私に届きました。嘔吐抑制の点滴をガラガラと引っ張りながら外へ出て病院の表のベンチに腰掛けて、「たちつてと。。。かきくけこ。。。こりゃ何だろか。。。変換はどれだろか? 送信はこれだろか。。。?」と首をかしげブツブツ言いながら 打ったであろう母からのメールです。手紙届いたよ。びっくりした。そんな事があるんだね。兄の思い出にゆっくり浸ります。ほんとにありがとう。母終わり
2005/06/09
そう、私は「インターネットの力を借りて人探しに成功した」っていう話を尻切れトンボ状態で放置しているんですよね。すみません「別にもういいよ、続きは」とお思いでしょうが一応書きます(笑)。前回の日記に書いたように、私は曽祖父や伯父の伯父の個人情報を記載し、本名で書き込みをし真剣に探している姿勢をアピールしたのですが、書き込みから1ヶ月経っても、2ヶ月が経っても、そして半年が過ぎても、誰からも何の連絡もありませんでした。丁度書き込みをした頃、楽天でHPを始めたこともあり半年が過ぎた頃には、お恥ずかしいながら「人探し」の件は、しばし私の記憶の外となっていたのでした。それから更に1年が過ぎました。今年4月に、母の病気の知らせを受け私は1週間だけ見舞いに帰りました。長島に戻ってから数週間、母の余命の事を考える日が続きました。癌関連の本に書かれた「Quality of Life」という言葉を見ては母に残された日々を、少しでも質の高い日々にと今まで母が、叶えたくても叶わなかったことをさせてやりたい、してやりたい、という思いが募っていました。「ナスカの地上絵が見たか~」ってのは、今はちょっと体力的に無理そうだけんねぇ。。。諦めてもらいましょう。それじゃ、あとは何だ。。。。??と考えた時に「母の慕った兄」の存在を思い出したのです。私は、早死にした母の兄がいたことは知らされていましたがその人について、又その人の死について面と向かって聞ける者はおりせんでした。ただ、始めにも書いたとおり、母は兄のお骨を持っていた位、兄のことを非常に慕っていたことは確かなのです。20年前に祖母が死に、2年半前に祖父が死にました。期待の長男を若くして亡くした傷が一生癒えなかった私の祖父母です。それまでタブーだった母の兄の話、今両親亡き後、娘の私と話すことが出来たら、母は喜ぶかしら、病気の苦しみから少しは解放されるかしら、親孝行になるかしら、そういえば、ああ、そういえば、いつかの書き込みはどうなったのかしら、誰か見てくれたのかしら、それとも大学入学後すぐ亡くなった伯父の事もう覚えている人など居ないのかしら、一人位はいるかしら、だめしら、どうかしら、どうかしら~、どうかしらったら、どうかしら~、と再び「人探し熱」が私に発熱したのでした。そんな5月のある日、母の抗がん剤治療の丁度一週間前に、見慣れぬ名前の男性から「あなたの伯父さんの同級生です」というメールをもらったのです。そこには、当時の伯父と時間を共にした者にしか知りえない情報、例えば伯父が下宿していた店、卒業時の組などが書かれていました。間違いなく、私の会った事の無い伯父を知る人だわ~。この時、私がどんなに、どんなに、興奮状態だったかご想像できますでしょうか、おほほ(笑)。続きは、すぐ書きます!
2005/06/07

お待たせしました「人探し」の続きです。まずは「どうやって探したの?」というご質問が多かったのでその話からします。手短に言うと「インターネット」の力です!インターネット万歳~!!!母の兄である私の伯父と、その父親である私の祖父と、そのまた父親である私の曽祖父は、親子三代で同じ高等学校を卒業しています。曽祖父 明治9年生まれ 同31年卒業 (当時はまだ中等学校)祖父 大正6年生まれ 昭和10年卒業 (当時もまだ中等学校)伯父 昭和21年生まれ 同39年卒(戦後6・3・3制になり高等学校に)この高等学校の掲示板に、私は「人探し」の書き込みをしたのです。祖父の話は以前に「最愛の祖父」として、何度も話を書いているので、「ああ、あの変わった爺さんのことね」と思い出して下さる方もいるかもしれません。実は、その父親である私の曽祖父も、変わり者でした(恥)。曽祖父は、中等学校卒業後 明治37年に日露戦争へ出兵し、戦地から母校へ、ちょっとユニークな手紙を何通か宛てており歴代名物卒業生なのです。ワタシの不謹慎な性格のルーツここにありです(汗)。。。↓本邦初公開、kangの先祖です。軍人が曽祖父です。「得多」という欲張りな名前です。着物を着て座っているのが曾祖母、私が8つになるまで生きていました。そのひざに寄りかかり、汽車の玩具をもった子供が私の最愛の祖父(当時3歳)です。どんな風に変わっていたかというとですねぇあいにく私も会った事が無いので、ここに曽祖父が母校に宛てた手紙をちょっとだけ紹介しますので察して下さい。読めます?読めませんよね、スゴイ乱筆ですもんねぇ(恥)曽祖父本人の手紙の書き出しを拝借すれば職務の閑ヲ得テ走リ書キ、乱レ筆幸二御許シ下サレ度。です古い漢字を表示出来ないのですが、タイプしてみると、こう↓です。駄馬一頭の代を尋ネて見れば 七千二百五十円 五百 計算誤りて消しましたそれは高いねと云ゑば或る人答て曰く。我兵團ラムーチン攻撃の際、敵の砲弾六百発。我兵團の損害馬一頭。而して一弾の代十二円五十箋と算し12.5×600=¥7500円或は又 生命よりは米五合と言ふ事あり。 理由 浪予街1戦に我部下の兵の背負嚢に 砲弾の破片が丸りまして、其内にありました 米の五合を打ち飛ばしました。其兵曰く、 生命よりは米五合がをしかったとの事。斯かる事ども書いて見たり談じてみたりして(以下省略) とまぁ、こんな感じの「ちょっとおもろい戦地の話」を母校に送り続けた名物卒業生だったようです。(他にも可笑しな、というか不謹慎な手紙が何通も母校に残されているので、今度機会のある時にここで紹介します)私は、この「名物卒業生 得多」の孫をご存知の方いませんか?と書けば少しは注目度も高いだろうと思い、掲示板に、そのように書き込みをしたのです。書き込みをしたのは今から1年半ほど前。伯父が卒業してから40年近く経つので同級生達は58~59歳だろう、インターネット世代にぎりぎり入るよね、きっと誰か見てるよね、あの「明治の名物卒業生」の孫なら多分覚えてくれている人がいるよね、と淡い希望を抱いて書き込んだのでした。ご、ごめんなさい「続きです」と書いておきながら結局 話が大きく反れただけで、全然先に進みませんでした。。。今日はここまでです、すみませ~ん!
2005/06/01
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