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22日の山口県光市・ 母子殺害事件
の差し戻し控訴審の判決後、 元少年
の弁護団は広島弁護士会館(広島市中区)で記者会見し、「 殺害
方法など客観的事実を無視した判決だ」などと声を荒らげて批判した。
殺害
から早9年の歳月が過ぎようとしている。日本の少年犯罪が減らない、殺人事件が減らない背景には、「 人権擁護
」と言う極刑にも人権をと叫ぶ人々がもたらした弊害ではないだろうか。
彼らは、自分が主張する信念は死ぬまで変えないだろう。例えその矛先が被害者遺族であろうとも意に介さない。自分の「エゴ」を完遂することが彼らの「正義」であり「目的」でもあるのだから。昨日の彼らのコメントに「仕事だから」とハッキリと発言している。要するに自分達の「エゴ」と「仕事」を利用していることを宣言しているのである。
この面からも今回の被告人 少年A
の主張を利用し、その先に見える「死刑廃止」と言う目的を達成するために手段を選ばない様が見て取れてしまうのである。
「 殺害
した事実」よりも「 殺害
した方法が違う」と言う全く論拠にも幼稚な話を法廷に持ち込み本来論争する視点を確りと被告人と進める責任を持つ弁護士が、 殺害
された命よりも「いま目の前にある命」を優先して活かせと叫び続けている。
この理屈は、生き残る種が強い、殺される、生きる価値のない人間は万死で仕方がないと強弁しているように聞こえないだろうか?
だから被告人の弁論の中で獄中手記なるものが公表され内容が反省の欠片も感じさせないと昨日の裁判長の判決になるのではないか?
今回の弁護団の主任弁護士である安田好弘さんは、
1980年8月19日新宿西口バス放火事件(6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事)
1995年にはオウム真理教の教祖、麻原彰晃の主任弁護人を担当
など被告弁護人として極刑裁判には名を飾る人物でもある。
今回の裁判の彼の主張は
母親の殺害について
被告は思春期に母親の自殺を目撃しており、母親に甘えたい気持ちから被害者女性に抱きついたところ、大声を出されたので口をふさいだ。しかし手がずれ込んでしまい、首が締まり女性を死に至らしめてしまった。これは今の日本の法律では傷害致死にあたる。犯行の際に水道屋の格好をしたのは
ママゴト遊びの一環
であり犯行に計画性はない。
母親の屍姦について
その後少年が母親の死体に行為を行った件については、
相手がすでに死んだ後に行っているので罪には当たらない
。行為は被害者の生命を救うための魔術的な儀式であり被告は○○が人間を復活させると信じていた
赤ん坊の殺害について
赤ん坊を床に叩きつけたのは、本人の意図としては赤ん坊を泣き止ませる為。
赤ん坊を泣き止ませようと、首にちょうちょ結びをした
所、きつく締まり過ぎてしまい、赤ん坊は死んでしまった。これも傷害致死にあたる。
被告の責任能力について
被告は精神の発達が遅れており、その精神年齢は12歳程度である。
詭弁もココまで来ると弁護士の精神鑑定が必要ではないだろうか?
昨日の記者会見でも弁護士が主張しているコメントの責任を鑑定医の発言がごとく責任転嫁している。
既に正義が被告弁護人には存在しないことが明白なのである。彼らを後ろ盾する偽善者集団、人権擁護を拡大利用し続ける弁論には虫唾が走るが、教育の中に人権を振りかざしその人権を 過保護
に擁護してきた結果が少年犯罪の拡大に寄与していることを彼らは反省すべきである。
教育の現場で「わるさ」をする子供を擁護し、「虐めを」容認し「親が子供を虐待」することも擁護する。
命を奪われた者への敬意も尊厳も、遺族への労わりも陳謝の念も被告弁護人にはない。これは、マスコミ・メディアも同罪でもある。
今回の事件で当時は、18歳でも現在は既に成人である。遺族も被害者の映像も事件当時から垂れ流しである。死者への尊厳と言う言葉は、マスコミが口に記事にすることは許されるのか?
法の前では、全てが公平であると言うのは幻想でしかない。これは紛れもない事実でもある。この不可解な問題は、やはり義務教育のところから捻れた平和教育を行い続けている弊害でもあるのである。
価値観の多様化と言う誤魔化しがもたらす社会の捻れは、判断力を誤らせ思考を停止させるのに十分な役割終えたのである。
結果、「誰でも殺すのはよかった」「死にたかった」など安易で身勝手な社会を形成したのではないだろうか。
過保護・甘やかしを推進し続け得たものは何だろうか?
事件番号 平成2う1058 をご存知だろうか?
マスコミが取り上げたタイトルは
女子高生コンクリート詰め殺人事件
である。
この事件は、加害者が全て少年(未成年)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、犯行期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったこと、などの点で社会に大きな衝撃を与えたが、
東京高等裁判所の判決は、主犯格の少年は懲役20年、他の少年はそれぞれ懲役5年以上10年以下、懲役5年以上9年以下、5年以上7年以下というもの。 その他3人の少年が少年院に送致された。
その後、刑期を終えた者は再犯を犯している。
どちらの犯罪も18歳にも満たない人間が起こした殺人事件である。
弁護士も司法も何をこの事件から学んだのだろうか?
人権を守ることは生きている人間だけではなく死んだ人間にも配慮される必要があると当時も叫ばれたが無視されていた。
ならばいま今回の事件でマスコミも被告弁護人も死者への尊厳をもっと尊ぶべきではないだろうか。
事件を越した親の第一声は「自分の子がするなんて信じられない」「他の子供が唆したのでは」「うちの子に限って」
無責任な学校や地域社会では「あの子がこんなことを起こすとは信じられない」「大人しい優しい子」「素直な生徒」
地域の認識力が確りとしている社会は、「あの子は何時も心配だった」「家庭がうまくいっていなかった」「親に問題があった」などフォローが出来いるので重大な事件には発展していない。
フォローを受け付けない出来ていない社会ほど少年犯罪や「いじめ」など陰湿で解決できないレベルにあるのではないだろうか。
18歳未満の売春を取り締まるのは、買春側だけであり身体を売る少女を厳しく罰を与えることも実名公表の場すらない。犯罪予防と言いながらも加害者保護がここでも起きているのである。
売春は、身体を提供する側が加害者でありそれを受け入れる側は共犯者である。
これほど 過保護
に加害者が擁護される国は日本くらいではないだろうか。
人権と騒ぐ彼らの人権とは在日外国人の人権だけであり 日本人
の 人権擁護
など眼中にないとも巷では論じられているが。
果たして今回の事件もそうなのだろうか。
失われていく 日本人
としての自覚と誇り、己の存在意義をも奪う教育
老いても子に託せない社会
男女平等と言う無責任を振り回す人々
方向性を見出せないまま崩壊していく様を見ているだけでは済まない状況にあることがいいのか悪いのか。
口や頭では「悪」を理解していたとしても行動に移すのに二の足を踏んで「誰かがしてくれるのを待つ」だけでは己を守り未来のこども達を守ることだなどできないことは理解されているのだが・・・
死刑が殺人の最終手段だと言うだけではなく、被害者遺族への最大の配慮が死刑であることも加害者弁護人は理解するべきでもある。
「法律は利用しない者には力を貸さず 利用する者にしか力を与えない」
誰もが平等である間違った思想や教育を与え続けることが如何に危険かが理解する時に日本人はあるのではないだろうか。
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