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ヒステリックな小泉首相を支持する小泉首相に対して、石原に似てきた、軍人的になってきた、ヒステリックな感じを受ける、などの声が聞こえる。それらの意見について間違っているとはわたしも思わない。しかし、わたしはそれを支持する。9.11以後、テロリズムと言う名の戦争はもはや他人事ではないのだ。軍人的性格をもった政治家はむしろ必要である。--------------------------------------------紙紙というなんとも謙虚な名前のEditorがある。勿論フリーだ。しかしこれは非常に便利。タブEditorではないのだけど、作った文書は全て見出しに表示されるし、いきなり日本語入力もできる(わたしの場合ATOK)。また一行目がTITLEになって自動保存してくれるのも楽でいい。インタフェイスも洗練されており、これがフリーがというのが信じられないくらいだ。また、箱という機能があり、これで文書を用途別などに仕分けしておける。行番号の表示はないが、桁番号は表示されている。是非ともお奨めしたいEditorだ。http://www.ki.rim.or.jp/~kami/
2004年01月31日
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日本人の政治的民度の低さ構造改革には時間がかかる。それが3年や4年ですむことでないことがなぜわからないのか。小泉はダメだとバカなことを言い、田中の娘を根拠もなく擁護する。小泉がこの歴史上もっとも困難な時代にどれほどの功績を残してきたのか、思い返してもらいたい。辻本や管と比べてもなんら政治的主張のない、単なるおばはんが持て囃されてしまうのが今の日本の絶望的民度の低さを表明している。「田中が膿みを出した」?いったい政界財界の誰を糾弾したというのか。あれほど恩のある小泉を、自分の失態で外務大臣辞職後に「抵抗勢力」などと言っているのだから、バカは東大目指す小学生以下。鈴木宗男の方がずっと誠実だ。
2004年01月30日
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これは日本の薬局でも入手可能です。デクサトリムという強力なダイエット薬を使っていたのですが、死者が出て発売禁止になってしまい、マイクロに乗り換えました。これは一月に3万円くらいしますし、3キロくらいしかおちません。しかし、食事制限をしないでもよく、おまけに服用がおいしい。パウダーを水で溶かして飲むのですが、おやつのジュースとして十分なほどおいしいのです。是非お奨めします。
2004年01月29日
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沢山のものを書く人の場合、インターフェイスに倦怠しないよう、洗練されたそれをもつ複数のエディタを利用することが望ましい。わたしが利用しているのは以下の三種だ。何れもタブエディタであり、行番号表示の機能がデフォルトでついている。Vectorや窓の社で入手可能だ。MKエディタ http://www.mk-square.com/ JaJedit http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Bay/5525/ EdLeaf http://www.edcom.jp/ しかし文書作成に肝要なのはむしろ変換ソフトで、スタンダードのIME以外にWindowsに対応したものとして秀逸なATOKを試用してみることをすすめる。テクストエディタはみな入力のスピードが速く、思考を停滞させない。更に変換ソフトなどは思考を加速させると言えるだろう。しかしだ、重要な論文などの場合には必ずワープロソフトによる清書を必要とすることは看過してはならないことだ。それは単にフォントなどの変更にとどまらず、ワープロの持つ様々な機能が文書の完成度を高めるサポートをしてくれるからだ。Wordでも一太郎でも、表現に対する注意などの機能を通じて、推敲を補助する。このサイトを訪れてみてほしい。また、協力を仰ぎたい。http://groups.msn.com/FreewareReview
2004年01月28日
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文書作成に必要なアプリケーションわたしは文書を作るのにいきなりワープロを使うのは得策でないと思う。何しろ入力が遅い。余計な機能も多い。やはりテキストエディタで草稿をつくり、ワープロは清書につかうべきだろう。ワープロでは一太郎とWordが二大ソフトになっているが、わたしは個人的な好みで一太郎を使っている。いずれにせよ、ワープロよりもずっと軽量でそのほとんどがフリーウェアであるテキストエディタは非常に重宝している。多く文書を書く人はそのインターフェイスに倦怠しないよう、複数のエディタを使うことをお奨めする。特に(これはブラウザにも言えることだが)タブ表示のものはありがたい。具体的にはJaJedit、MKエディタ、EDLeafなどだ。また紙というソフトは文頭を文書名にし、自動保存するという優れもので、常駐させているわたしのようなユーザも少なくない。テキストエディタは何れも入力が早く、ものによってはワープロに劣らない機能を持っている。入力の早さは何もタッチタイピングのスピードが優れた人にだけ有効なのではない。早い文書化は、人間の思考を加速させてくれるからだ。しかし、実は文書作成にとって何より肝心なのは変換ソフトなのだ。変換ソフトとはMicrosoftのIMEとJustsystemのATOKのこと(Windows対応ではこの二つしか知らない)。一長一短あるものの、わたしは後者を使っている。なにしろdokomoと入力してDoCoMoと表示されるのだからすごい。ただ前者が無変換キーで即カタカナ表示がされるのに対し、後者は辞書にないカタカナを変換してくれない場合が多い。サップといまでこそ入力できるが、前ヴァージョンではまだボブ・サップがメジャーでなかったため、勝手にサップレゼンテーションなどという変換候補が出てしまった。変換ソフトもまた、思考を加速させるメディアだ。少なくとも日本語の文書を作成する限り、ATOKが理想的だと思う。
2004年01月27日
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ブラウザにはSleipnirを使っている。やはりポイントになるのはカスタマイズ性の高さだろう。といっても、わたしが重宝しているのはむしろEnd User的なこのソフトの持つ扱いやすさである。Lunascapeと同様のタブ表示は非常にありがたい。また検索エンジンがバーにあり、これもありがたい。Lenascapeの方がタブブラウザとしては優れているが、Sleipnirは必要十分ということくらいを言える。ブラウザにもとめることを他にあげるとしたら、それは何よりもMSNExplorerだけが現在実現している、IDとパスワードによりどこからでも同じ環境でブラウジングができるということだ。また、OperaやNetscapeのようにメールが付随することは好ましい。
2004年01月26日
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ちょっとリッチなメモ帳という謙虚な名前をしたフリーウェアがある。しかしながら、そのないようはワードパッドなどとは比べものにならないほど優れている。フォントは豊富で表示サイズのカスタマイズ、更にはTextの色まで指定できる。太字、斜め、下線、左、中央、右も思うがままだ。しかしこのソフトが決定的に優れている点はタブエディタであるということだろう。ブラウザにしろ、エディタにしろ同じである。タブ表示ができることは便利だ。換言するなら、タブ表示ができないことは非常に不便だ。
2004年01月25日
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デジタルな世界現実世界はデジタルであるという根拠こう考えてみてはどうだろうか?現実世界それ自体というものを想定することはできない。知覚によってのみ、われわれが現実世界と呼んでいるものは存在を許される。そして、その知覚を規定するのは言語である。言語は明らかにデジタル媒体だ。だとすれば、現実世界なるものはデジタルでしかあり得ない。現実はアナログでなくデジタルだ。--------------------------------------------世界には、実際のところ驚愕するほどに共通性をもつ多ジャンルの方向性がある。医学の、学習の、生活の、芸術の、つまりはもはや全てのジャンルにおいてということができるわけであるが、それら諸事象には同じ発展傾向が、進展方向性が見出される。それはインタラクティヴな性質を高めていくという結論へ至る。インタラクティヴであるための大前提は人間の全体的な啓蒙と服従欲、被支配欲からの脱却であるといえる。もっともインタラクティヴでない状態とは、芸術に例えるのならば凝視することもはばかられる神聖にして偉大、荘厳さはひれ伏すことに根拠を必要としない、そういう関係性にある。そして順序を追えば、前パラグラフのような仏像への礼拝から、美術館に陳列された芸術に対して積極的に見ることで分析、評価、認識、感化といった人間サイドからの動向が生じる段を通過していく。芸術は人間を根拠なく単に弱者とし萎縮させることから、人間に人間の側からの動きを促進させることにその主要な機能を移行させていく。とりわけ近現代の芸術はDuchampの泉に代表されるような思考能力の発動、向上の刺激剤として働き、ここでは多様な解釈の成立という事実が人間サイドの一層高度な積極性を生じさせる。「人類の歴史は耐えざる啓蒙、脱呪術化」(ヴェーバー)テクノロジーの発達と学習環境の良質化とは人々にこの美術ジャンルにおいても啓蒙をもたらす。絵を描くことのできる人(手段はあまりにも豊富だ)が時代とともにどれほど増えてゆくのか。3歳からピアノを習っていなくてもいい。スリーコードのギターポップ、パンクという様式はテクニックのない人々にメッセージを伝える方法論として音楽の使用を許した。楽器を持たなくてもhip-hopは表現として機能する。「人はもはや信じない。ただ知りたい」(シュタイナー)信じることは場合によっては犯罪的な結果をもたらすし、 少なくとも知的堕落を招くことならば多々起こす行為と言える。信仰ということばからもこれが宗教的精神営為であることは間違いないが、根拠を求めることこそが知性であり、無根拠とは利己主義の安寧であり共犯である。科学の発達、いやむしろ卑近な例として識字率の向上のようなことがどれほど多くの衆愚状況を好転させてきたかは計り知れない。コンピュータがもたらす利便性は人の強さへと直結し、またその操作がもたらす啓蒙的性格をとりわけテクスト制作とプログラミングに見いだせる。人はただ読むだけでなく書くようになった。人はただ配達される新聞の読者であるのにとどまらず、情報を発信することを始めた。インターネットによるコミュニケーションの土着性からの脱却、多彩かつ高度な人間の本質たる言語使用による関係性の促進、こうした傾向にインタラクティヴとの形容を与えるのは不自然ではないだろう。人は芸術作品を作り出した。そして人は、芸術作品に入りこみはじめた。人のふれ方が動作原理になる芸術が作られるようになった。精神分析は自由連想法からカウンセリング形式へと変わった。娯楽、ゲームもまた、ある種の社会的関係性を洗練させる媒体としての側面を持ち始めた。世界は、インタラクティヴになってゆく。
2004年01月24日
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漫画家の話として聞いたことがある。主人公が男性であれ女性であれ、苦労して苦労して異性にもてようとする作品の場合、作者自身は大抵もてるらしい。逆もまた真なりで、主人公に異性が容易なかたちで集まってくるような漫画の作者は、もてない人が多いというのだ。『ゴルゴ13』あたりはそうとうもてない作者が書いているということか。閑話休題。漫画で泣いたと言えば、西原理恵子の『ぼくんち』である。特に3巻は泣きながらずっと読んでいた。あの漫画の主張は、悲しいときには笑うんだ、ということに集約される。それだけでもう、切ない気持ちになるじゃないか。ところで、西原理恵子って結構美人。タイプだな。ぼくは28歳の男だけど、読み込んだ少女漫画が二つある。『有閑倶楽部』と『バナナフィッシュ』だ。あっ、あと『ちびまる子ちゃん』もか。そういう人は結構多いと思う。> >
2004年01月23日
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単純な区分だが、興奮、覚醒系の脳内物質はアドレナリン(英語ではepinephrinだが、ここではアドレナリンに統一)、ノルアドレナリン、ドーパミン、があげられる。アミネプチンという現在入手できないクスリはアドレナリンを刺激するという。これによりおこる反応は覚醒、興奮、疲労回復、攻撃性向上、痛みへの強い対応、不眠などだ。ノルアドレナリンは精神科、神経科などで処方される抗うつ薬により刺激される。これもまた元気系の反応が出るが、逆の鎮静系であるセロトニンと同様に、食欲を抑える。逆に上記のドーパミンは食欲を向上させるという。ノルアドレナリンを刺激するクスリは代表的なものにルジオミールがある。また、SNRI(選択的セロトニン、ノルアドレナリン再取り込み阻害剤)という新種のクスリであるトレドミンにより、セロトニンと同時に刺激を受ける。これはドーパミンが精神的覚醒を強める(覚醒剤にもこの効果がある)のに対し、むしろ肉体的覚醒、体力向上に役立つ。個人輸入可能なナルコレプシー薬がこれを最も刺激するかもしれない。ドーパミンについては精神科で簡単に処方されるドグマチールという健康薬、また抗うつ薬のアモキサンが刺激を与えると言われ、話題のリタリンもノルアドレナリンと同時に刺激を与える。逆に鎮静系といえばセロトニンは落ち着きをあたえ、SSRIであるデプロメール、プロザック、また類似のレスリンというクスリにより刺激され、落ち着いた幸福感、鎮静感が生じる。プロザックは個人輸入で、他の上記二種類は精神科でよく出る。ギャバもまた鎮静系で、眠気と安心感を起こす。睡眠薬はこれを刺激するケースが多いのだ。もてる作家、もてない作家 (AM 01:10)漫画家の話として聞いたことがある。主人公が男性であれ女性であれ、苦労して苦労して異性にもてようとする作品の場合、作者自身は大抵もてるらしい。逆もまた真なりで、主人公に異性が容易なかたちで集まってくるような漫画の作者は、もてない人が多いというのだ。『ゴルゴ13』あたりはそうとうもてない作者が書いているということか。閑話休題。漫画で泣いたと言えば、西原理恵子の『ぼくんち』である。特に3巻は泣きながらずっと読んでいた。あの漫画の主張は、悲しいときには笑うんだ、ということに集約される。それだけでもう、切ない気持ちになるじゃないか。ところで、西原理恵子って結構美人。タイプだな。ぼくは28歳の男だけど、読み込んだ少女漫画が二つある。『有閑倶楽部』と『バナナフィッシュ』だ。あっ、あと『ちびまる子ちゃん』もか。そういう人は結構多いと思う。
2004年01月22日
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歴代ぼくの彼女はすべからく男前女でした(^^ゞ。「好きなmusician?カーティスとコモドアーズ」「たばこ?マイルドセブン」「趣味?生きること自体じゃないの?」「酒?カクテル嫌い。日本酒か水割り」例えばこんな具合でしたね。男は一度好きになった人のことを、一生好きでいるものです(未練とかそういうんじゃなくてね)。女性は全然そうじゃないと知人が言ってました。
2004年01月21日
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既に掲示板にも書いたのですが。--------------------------------------------この話を発信しようかどうか、ぼくはずっと悩んできた。それは大いに不本意な誤解を招くおそれが多分にあるからだ。しかし、シュタイナーに関するCommunityを作ったこの機会に(http://groups.msn.com/SteinerLab/ )思い切って複数のサイトにこの書き込みをすることを決心した。ケロイドさん、8番目のサルさん、オリビンさん、カナリアさん、LeoneedさんらNET仲間は、わたしが決して宗教くさい人間ではないことを分かってくれていると思う。シュタイナーはキリスト教と関係があるが、その思想は当宗教と明らかに矛盾している(とわたしは解釈している)。回りくどくてもうしわけないが、更にまた、わたしは大学時代に異端審問や魔女狩り、黒猫殺しなどキリスト教の犯罪を散々に断罪する試論をいくつも書いてきた。そして、仏教の方がよほど思想として優れていると今でも確信している。ところがだ、わたしはキリスト教に密接に関係した、ある治療法によって救済された過去を持っている。具体的には、奇形なみの猫背、首の軋轢と痛み、不気味なほどの内股、これらを背負って20年以上生きてきたわけだが、これが、「十字式」という治療法によってほぼ完治したのである。針、指圧、オイル、ヨガ、アーユルヴェーダ、整体、接骨院、整形外科、枕、ベッド、電気、リフレ、アロマ、クスリ、何れも長く根気強く続けた。しかし治らなかった上記の症状が、わずか数回の「十字式」によってほとんど消えてしまったのだ。ハッキリ言って、この治療は見た目にもすごく怪しい。強く体にふれるわけでもなく、道具を使うわけでもなく、キリスト教徒とおぼしき治療者はまるで悪霊退散の儀式のような「はっ、いやっ!いだっ!とうっ!」などと声をはっしながら軽く体に(背中)ふれるだけなのだ。しかも、その時間は2~3分程度である。肩こり、神経痛などに悩んでいる人には是非おすすめしたい。ホームページを参照下さい。http://www.jujishiki.co.jp/ 治療施設は全国に数カ所あります。決してこの書き込みは広告などではありません。
2004年01月20日
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誰とは言わないけど(楽天の人じゃないよ)「心病む人のページ」みたいのつくってるアホダレがいる。言ってしまえ、勝山とかいう絶望的に不細工なやつです。わたしも既に書いた通り、精神科通ってます。だけどそれがHPのテーマになったりしちゃあ情けないでしょう?「わたし病気です」なんてな書き込みばかりの掲示板があったりして。とりわけ鬱病なんてベタ、スタンダード。こんな時代にハッピーなやつなんていません。その辺腹をくくって生きてくのがまっとうな大人というものです。わたしの複数のHPにも精神科通ってる人はいっぱいいます。けどみんな、哲学したり、音楽やったり、絵を描いたり、ぼくみたいに翻訳やったりしてるわけです。「職業は病人です」てな人は甘ったれ。
2004年01月19日
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MicrosoftとUNIXのアプリケーションについてデファクトスタンダードとなっているWindowsにもわたしは高い評価をしています。日記にも書きましたが(エディタ日記)freeで多くの名作が入手できる。Windowsのエディタと言えばやはり秀丸でしょう。これには秀逸なメーラである鶴亀も付属するため、やはり評価しないわけにはいかない。しかし、いわゆるGUIはユーザの愚民化につながるのではないでしょうか?ディレクトリという概念を知らずに何年もWindowsユーザを続けている人はままいます。中にはOSという概念すら知らない人がいる。UNIX、正しい後継者はFreeBSDでありLinuxではないのですが、ここではあえて区別はしません。アプリケーション(マイナーなものもメジャーなものもふくめ)を比較したとき、先ずWin側のWordとUNIX側の一太郎とで後者の方がはるかに優れていることは使用してみればわかることです。とりわけ一太郎ArkはWebページを作成するのに非常に重宝します。エディタに関して言えば(日記、エディタ日記参照下さい)Winでは秀丸、一方UNIXでは一太郎などJustsystem系エディタをはじめ多くのフリーソフトが流通しています。この点において両者は互角と言っていいでしょう。決定的に違うのは入力変換ソフトです。Winの場合デファクトとしてIMEとなっていますが、UNIXの場合には(数種類ありますが)ATOKが基本です。つまらない例えを言えば、dokomoと入力してDoCoMoと変換されるのがATOKです。IMEとは新語などに対しても対応力がまるで違います。続いてブラウザの比較をしてみましょう。UNIXのスタンダードであるNetscapeはplug-inブラウザであり、Messenger、composer、Mailが付属しています。この理念はMicrosoftをはるかに凌駕するものです。しかし、MSにはMSNExplorerという突出してすぐれたブラウザがあります(XP以後)。これは全国どこにいても(エッジとかそういう問題でなく、NETカフェなどでも)ブックマークなどを共通させることができ、Messenger、Mailも付属しています。これにかんしてはMSの完勝と言えるでしょう。一方UNIX陣営では高速を売り物にするOperaブラウザがあります。今後の発展に期待したいところです。
2004年01月18日
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もう5年ほど精神科に通院してる。リタリン処方なんかもそのおかげで実現してるわけ。その間、相性の合う医者を求めて何件かの病院に訪れた。しっかし驚くのは、その診断結果の違い。関内のある医者。「あなた人格障害です」…おいおい。鎌倉のある医者。「ゲーテは君みたいな人がいるのを天国で喜んでるよ」…褒めすぎ。ちなみにこの医者との面接はドイツ語で行っていた。今は上大岡にあるヒルサイドクリニックというところに通ってます。主治医の荻久保先生、すごくいい医師です。追記。わたしの精神科、神経科診断結果関内某クリニック:人格障害鎌倉某診療所:繊細な人横浜某クリニック:心身症現在通っているクリニック:鬱病三浦某病院:不眠症鎌倉駅近く某診療所:統合失調症なんだこれは?
2004年01月17日
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エディタ論ぼくは複数のエディタをインストールしている。エディタは軽量なのでこのことに全く問題はない。ワープロソフト(一太郎をぼくは使っている。他にWordなど)の容量を考えれば、エディタくらいは10種類程度インストールしておいても構わないはず。ではなぜ複数のエディタを使う必要があるのか?文書を沢山書く場合、そのインタフェイスに対して倦怠感を感じてしまってはいけないからだ。ワープロはあくまで清書用であり、文書作成は高速なエディタで行うのは、多くのPCユーザが行っていることだろう。どういったエディタが好ましいか?と考えると、NoEditor、TeraPad、TepaEditorといったインタフェイスのデザイン性に優れたものが先ずあげられる。文字数や行番号が表示されるものもある。しかしそれ以上に便利なのがタブ表示が可能なエディタである。具体的には先ず第一にMKEditor、最近のものではManaやTexterがあげられる。これらは複数の文書を書く際に非常に重宝する。文書をいくつも作り、バックアップしたのはいいが、それがどこに格納されているのか忘れてしまう場合がある。これは非常にこまったことだ。ぼくの場合、texterやManaで掲示板書き込み文、HP掲載用文書、日記、Mail文書を書き、常駐させているMKEditorにコピー、ペーストして保存することで、自分の書いた文書を管理している。
2004年01月15日
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吉田がデビュー戦でホイスに圧勝したとき、同じ日にノゲイラと激闘を演じ日本中の人気者になったボブ・サップよりも強いと思った。ホイスとの再戦は精彩を欠いたが、今、吉田に関して不安はない。ヴァンダレイ・シウバとのあの激闘があったからだ。判定負けとなったが、判定は本当に微妙で、吉田勝利としてもよかったくらいだと思う。マストジャッジ制でどちらかの勝利を決する場合、ラウンドが2,3では少なすぎるのではないか。再戦をみてみたい。年間ベストバウト!
2004年01月10日
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美術館の機能-ベンヤミンベンヤミン芸術論における美術館の機能、そして芸術の転がる先 ベンヤミンが遺した『複製技術時代の芸術作品』、『写真小史』といった著作は有名な芸術論である。しかし、それは芸術を主役としない芸術批評と言える。 そこで肝心なのは人間の知覚、歴史的スパンでの時間の中での世界認識の変容、そしてその変容がどのような方向性と可能性とを持っているのか、そこにこれらの作品の主題がある。 時代の流れの中、美術館というメディアが現れる。それは多量の作品を収集陳列すること、またそれを不特定多数の人間に入り口広く公開するという働きにより人と芸術に新しく、またこれまでとはいささか異質なコミュニケーションが成立し、意図せざる新しい時代の文化を排出した。 美術館で芸術(実はベンヤミンの芸術批評における芸術とは便宜的に用いられているものでしかない。芸術の概念は、そのため、広義に捉えてほしい)に接するとき、人は、かつてのように「まだ見ぬ伝説の美」をもとめて行脚を続けてきたりはしていない。逆に芸術が、それも色んなところから長旅を経てやってくるのだ。 だれもここでは芸術を拝まない。芸術は陳列という提示形式により、およそ拝むようなものとしては知覚され得ないだろう。かつての宗教的、呪術的儀式の道具が人を拝ませ、畏怖させたのとは対照的な芸術との関係性が成立する。 ここで人は芸術に対して批評的であることも冷笑的であることもできる。芸術をテクストに思考する。これは美術館の生み出した芸術の持つ啓蒙的性格の発現と言えるだろう。こうして時代は芸術が思考を必要とする啓蒙のモメンタムを迎える。 かつての芸術は、宗教儀式の道具であれどこかの神殿の装飾品であれ、人間に恐怖感にも近い抑圧を与えていた。それは絶対無比であり批評の俎上に上げることなど言語道断の、無批判を大前提とする神秘的、絶対的存在として、人に対しては支配的に君臨するものであった。 そもそも、何者かに見られることで存在意義を持つようなものですらなかったのである。芸術は、美術館の登場でそのあり方を一変する。 美術館で人は見せるために展示された芸術を見、個人の思考によってその芸術を知る。以前ならばまともに見ることすらおそろしかった芸術、それは一方的に、しかも存在するという事実一つで人間に恐怖を与え、人間を知という既存権力への冒涜から遠ざける政治的機能を持っていた。 人を保守的、無思考=奴隷的存在の要件である素朴な服従に必要な愚かさという能力を一方通行の不可視なメディアを通じて注入し続けていたわけだ。 心理ビジネスと霊感商法はいつの時代にも存在する。彼らはルターとグーテンベルクを悪魔としないといけない。それはともかく、大衆は啓蒙されてしまった。この知への情熱を否定することは、衆愚主義への準備作業となるのである。 知的であり批評的であることは、その善悪も損得も無関係に、未知のものを理解の射程に捉える。知的態度とは知の認識による全てを利害とは無関係に肯定するものである。 もし芸術の頭脳的な鑑賞を「神秘、人間に不可触の神聖、批判など不可能な偉大」といった敬虔で綺麗なことばで否定するなら、それは「知ることによって無効となる力」の側からの言説である。そして、そうでしかない。 知ること、そしてその絶え間ない知的努力による何よりも、何も知らず根拠など求めず信仰し、己の心を無知蒙昧と信仰によって完成する楽園に温存しようとするのがこうした物言いをさせる欲望の形式だ。知って、知性が認知して、そのために否定せざるを得ないことなどはじめから無価値であるという正論は、「明晰であることの過酷さ」「自由でいることの孤独と不安」に耐えられない人々には無意味だ。美術館に啓蒙的機能があることは確認した。未知の領域を、人々は思考を媒介して再認識した。ここに、既にインタラクティヴな方向性が垣間見える。人は芸術へのアクセス権を獲得し、その影響によって思考し行動することが可能になった、という意味で。また、人が脅えるどころか楽しんで、はっきりと言えば芸術に対して優位な立場から対象との関係を成立させていることも重要である。人は知性と技術によって強くなったのだ。視覚対象の典型として芸術を考えてみても、人は古い時代の美徳であった素直だとか服従だとか、常識を備えていればファシズム待望の準備でしかないと分かる概念を、もはや持たない。近年の芸術作品には触れたり中に入ったり加工したりといったものが多く出てきている。これが主流になるのに10年とはかからないだろう。視覚と思考が接触した芸術は、インタラクティヴの度合いを増して今日に至っているのである。体験する芸術。自ら有り様に関与する芸術。このインタラクティヴな芸術は一層その性質を増し、またスタイルにも大きな変化を遂げながら歴史の傾向性を示していくと確信できる。さて、人がコントロールできる芸術、というものをどう考えるか?これを肯定できるか否かは一つの試金石である。操作可能な芸術にはありがたみや高尚さがない、それは事実かもしれない。そして、芸術に市井の人々が加工をしていくなど冒涜的だと、やはり言う人は言う。しかし、芸術のコントロールという行為には人が芸術とのスタンスをとるための練習でもあり、当然、芸術でない外界諸事象との関係性を取り結ぶ練習でもある。可能性としては複数の才能が化学反応を起こすような芸術の到来もあり得る。そしてここまで歩みを進めたなら、もはや冒涜的であるということはほとんど、人間性の保証である。冒涜を野蛮とする敬虔な人間のありかたはこうだ。因習、悪弊は伝統とする。既存権力の害悪には社会のためにと正義感たっぷりに共犯関係を結ぶ。美術館へと芸術作品が移っていった時期、少なからぬ人々がそれを芸術の終焉と感じた。その気持ちを察することはできる。芸術が我々に感じさせてくれた荘厳さ、畏敬、神秘、そういった要素がなくなってしまうことは、これらの概念を政治的に危険な部分と関連づけずに考えるなら、確かに、ここに芸術が喪失した巨大な要素があるとわかる。ベンヤミンは偉大とか天才とか無二といった念、威圧的な作用を持つそれらの概念をアウラとし、芸術作品の歴史をアウラの消失過程として捉えた。ベンヤミンは、彼自身がノスタルジックな芸術を愛したにもかかわらず、この芸術の変動にポジティヴな可能性を見いだした。既に述べた美術館のもたらす機能もその一つである。例えば美術館の芸術作品は、それを単に視覚器官によって知覚するのではなく、単純一方通行な受容関係の形成を起こすのではなく、(知覚と認識や感情は現実的に不可分であるが)思考し、心理的営為を経て、物質たる芸術にその結果としての知覚像を見いだす仕方で現れる。知覚のあり方は当然個々人により異なるが、時代の知覚というものも存在し、歴史の中どの時代にも特色や傾向を持った時代の知覚が存在した。主に視覚という知覚器官を通じて出会う芸術などもそれ自体の有り様は原理的に問題となりえず、この物質が人の受容体験の中でどう認識されこれは一体?」と思考せざるを得ない。「泉」は思考を喚起する装置なのだ。「つまり、ある文学が時代の生産関係にたいしてどういう立場にたっているのかと問うまえに、生産関係のなかでどうなっているのか、と問いかけてみたい。この問いは、ある時代の作家が作品を生産するその生産関係の内部で作品がになう機能に、直接向けられている。」(「生産者としての作家」『ベンヤミン著作集9 ベンヤミン 晶文社)作品は固定的存在ではなく、生産プロセスの中においても(これは結局社会の中において、ということに等しく、「受容形式の中において」とも換言できる)、関係性の中に存在すると言うのである。生きた動的な社会の中で、関係性において作品はその有り様を変化させる。芸術は確かに、よりインタラクティヴに、よりコミュニケーション的に存在形式を変化させていく。政治性の側面からの、この理論の補足など、ラディカルな現実の前で野暮なことかも知れない。
2004年01月02日
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