2004年01月02日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類


ベンヤミン芸術論における美術館の機能、そして芸術の
転がる先



ベンヤミンが遺した『複製技術時代の芸術作品』、『写
真小史』といった著作は有名な芸術論である。しかし、
それは芸術を主役としない芸術批評と言える。



そこで肝心なのは人間の知覚、歴史的スパンでの時間の
中での世界認識の変容、そしてその変容がどのような方
向性と可能性とを持っているのか、そこにこれらの作品




時代の流れの中、美術館というメディアが現れる。それ
は多量の作品を収集陳列すること、またそれを不特定多
数の人間に入り口広く公開するという働きにより人と芸
術に新しく、またこれまでとはいささか異質なコミュニ
ケーションが成立し、意図せざる新しい時代の文化を排
出した。



美術館で芸術(実はベンヤミンの芸術批評における芸術
とは便宜的に用いられているものでしかない。芸術の概
念は、そのため、広義に捉えてほしい)に接するとき、
人は、かつてのように「まだ見ぬ伝説の美」をもとめて
行脚を続けてきたりはしていない。逆に芸術が、それも




だれもここでは芸術を拝まない。芸術は陳列という提示
形式により、およそ拝むようなものとしては知覚され得
ないだろう。かつての宗教的、呪術的儀式の道具が人を
拝ませ、畏怖させたのとは対照的な芸術との関係性が成
立する。




ることもできる。芸術をテクストに思考する。これは美
術館の生み出した芸術の持つ啓蒙的性格の発現と言える
だろう。こうして時代は芸術が思考を必要とする啓蒙の
モメンタムを迎える。



かつての芸術は、宗教儀式の道具であれどこかの神殿の
装飾品であれ、人間に恐怖感にも近い抑圧を与えていた。
それは絶対無比であり批評の俎上に上げることなど言語
道断の、無批判を大前提とする神秘的、絶対的存在とし
て、人に対しては支配的に君臨するものであった。



そもそも、何者かに見られることで存在意義を持つよう
なものですらなかったのである。芸術は、美術館の登場
でそのあり方を一変する。




美術館で人は見せるために展示された芸術を見、個人の
思考によってその芸術を知る。以前ならばまともに見る
ことすらおそろしかった芸術、それは一方的に、しかも
存在するという事実一つで人間に恐怖を与え、人間を知
という既存権力への冒涜から遠ざける政治的機能を持っ
ていた。



人を保守的、無思考=奴隷的存在の要件である素朴な服
従に必要な愚かさという能力を一方通行の不可視なメデ
ィアを通じて注入し続けていたわけだ。



心理ビジネスと霊感商法はいつの時代にも存在する。彼
らはルターとグーテンベルクを悪魔としないといけない。
それはともかく、大衆は啓蒙されてしまった。この知への情熱を否定することは、衆愚主義への
準備作業となるのである。



知的であり批評的であることは、その善悪も損得も無関
係に、未知のものを理解の射程に捉える。知的態度とは
知の認識による全てを利害とは無関係に肯定するもので
ある。



もし芸術の頭脳的な鑑賞を「神秘、人間に不可触の神聖、
批判など不可能な偉大」といった敬虔で綺麗なことばで
否定するなら、それは「知ることによって無効となる力」
の側からの言説である。そして、そうでしかない。

知ること、そしてその絶え間ない知的努力による何より
も、何も知らず根拠など求めず信仰し、己の心を無知蒙
昧と信仰によって完成する楽園に温存しようとするのが
こうした物言いをさせる欲望の形式だ。

知って、知性が認知して、そのために否定せざるを得な
いことなどはじめから無価値であるという正論は、「明
晰であることの過酷さ」「自由でいることの孤独と不安」
に耐えられない人々には無意味だ。

美術館に啓蒙的機能があることは確認した。未知の領域
を、人々は思考を媒介して再認識した。ここに、既にイ
ンタラクティヴな方向性が垣間見える。人は芸術へのア
クセス権を獲得し、その影響によって思考し行動するこ
とが可能になった、という意味で。

また、人が脅えるどころか楽しんで、はっきりと言えば
芸術に対して優位な立場から対象との関係を成立させて
いることも重要である。人は知性と技術によって強くな
ったのだ。視覚対象の典型として芸術を考えてみても、
人は古い時代の美徳であった素直だとか服従だとか、常
識を備えていればファシズム待望の準備でしかないと分
かる概念を、もはや持たない。

近年の芸術作品には触れたり中に入ったり加工したりと
いったものが多く出てきている。これが主流になるのに
10年とはかからないだろう。視覚と思考が接触した芸術
は、インタラクティヴの度合いを増して今日に至ってい
るのである。

体験する芸術。自ら有り様に関与する芸術。このインタ
ラクティヴな芸術は一層その性質を増し、またスタイル
にも大きな変化を遂げながら歴史の傾向性を示していく
と確信できる。

さて、人がコントロールできる芸術、というものをどう
考えるか?これを肯定できるか否かは一つの試金石であ
る。操作可能な芸術にはありがたみや高尚さがない、そ
れは事実かもしれない。そして、芸術に市井の人々が加
工をしていくなど冒涜的だと、やはり言う人は言う。

しかし、芸術のコントロールという行為には人が芸術と
のスタンスをとるための練習でもあり、当然、芸術でな
い外界諸事象との関係性を取り結ぶ練習でもある。

可能性としては複数の才能が化学反応を起こすような芸
術の到来もあり得る。そしてここまで歩みを進めたなら、
もはや冒涜的であるということはほとんど、人間性の保
証である。

冒涜を野蛮とする敬虔な人間のありかたはこうだ。因習、
悪弊は伝統とする。既存権力の害悪には社会のためにと
正義感たっぷりに共犯関係を結ぶ。

美術館へと芸術作品が移っていった時期、少なからぬ人
々がそれを芸術の終焉と感じた。その気持ちを察するこ
とはできる。芸術が我々に感じさせてくれた荘厳さ、畏
敬、神秘、そういった要素がなくなってしまうことは、
これらの概念を政治的に危険な部分と関連づけずに考え
るなら、確かに、ここに芸術が喪失した巨大な要素があ
るとわかる。ベンヤミンは偉大とか天才とか無二といっ
た念、威圧的な作用を持つそれらの概念をアウラとし、
芸術作品の歴史をアウラの消失過程として捉えた。


ベンヤミンは、彼自身がノスタルジックな芸術を愛した
にもかかわらず、この芸術の変動にポジティヴな可能性
を見いだした。既に述べた美術館のもたらす機能もその
一つである。

例えば美術館の芸術作品は、それを単に視覚器官によっ
て知覚するのではなく、単純一方通行な受容関係の形成
を起こすのではなく、(知覚と認識や感情は現実的に不
可分であるが)思考し、心理的営為を経て、物質たる芸
術にその結果としての知覚像を見いだす仕方で現れる。

知覚のあり方は当然個々人により異なるが、時代の知覚
というものも存在し、歴史の中どの時代にも特色や傾向
を持った時代の知覚が存在した。

主に視覚という知覚器官を通じて出会う芸術などもそれ
自体の有り様は原理的に問題となりえず、この物質が人
の受容体験の中でどう認識されこれは一体?」と思考せざるを得ない。
「泉」は思考を喚起する装置なのだ。

「つまり、ある文学が時代の生産関係にたいしてどうい
う立場にたっているのかと問うまえに、生産関係のなか
でどうなっているのか、と問いかけてみたい。
この問いは、ある時代の作家が作品を生産するその生産
関係の内部で作品がになう機能に、直接向けられている。
」(「生産者としての作家」『ベンヤミン著作集9 ベ
ンヤミン 晶文社)

作品は固定的存在ではなく、生産プロセスの中において
も(これは結局社会の中において、ということに等しく、
「受容形式の中において」とも換言できる)、関係性の
中に存在すると言うのである。生きた動的な社会の中で、
関係性において作品はその有り様を変化させる。

芸術は確かに、よりインタラクティヴに、よりコミュニ
ケーション的に存在形式を変化させていく。政治性の側
面からの、この理論の補足など、ラディカルな現実の前
で野暮なことかも知れない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2004年01月10日 16時53分37秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

LazyLinePainterJUN

LazyLinePainterJUN

コメント新着

乗らない騎手@ ちょっとは木馬隠せw あのー、三 角 木 馬が家にあるってどん…
ボーボー侍@ 脇コキって言うねんな(爆笑) 前に言うてた奥さんな、オレのズボン脱が…
開放感@ 最近の大学生は凄いんですね。。 竿も玉もア○ルも全部隅々まで見られてガ…
まさーしー@ なんぞコレなんぞぉ!! ぬオォォーーー!! w(゜д゜;w(゜д゜)w…
通な俺@ 愛 液ごちそうたまでしたw <small> <a href="http://hiru.kamerock…

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: