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2025年09月02日
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カテゴリ: 資料館
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こんにちは、資料館です。
​今回は、​ ​​ 「広報おおつき」9月号 ​​ ​に掲載された「大鹿川の巨石 -明治40年の大水害-」の解説です。​

まずは、広報の記事をおさらいです。

明治40(1907)年8月22日から26日にかけて山梨県に降り続いた大雨は、県内各地に土石流や土砂・洪水氾濫を発生させ、死者233人、流失家屋5000戸あまりに及ぶ甚大な被害をもたらしました。
北都留郡での死者は87人にものぼり、最も被害の大きかったのは、笹子川沿いの笹子村、初狩村、広里村の三村でした。その初狩村では、死者44人を出し、宅地・耕地のほとんどが流失し荒地となってしまいました。
被害の規模が大きく、容易には復興の目途がつかなかったため、県は明治41年から44年にかけて3回にわたって罹災者たちを北海道虻田(あぶた)郡に移住させることにし、上記三村では89戸、397人が移住しました。
笹子町の吉久保地区と白野地区の境を流れる大鹿川左岸には、この時に発生した土石流により上流から押し出されてきた巨石を現在も見ることができます。その大きさは、『山梨県水害史』(1912)によると「長さ八間(14.5m)巾六間(10.9m)」とあり、土石流の威力のすさまじさを今に伝えています。
「広報おおつき」(2025 №812) 


大雨をもたらしたのは琉球諸島東方と小笠原諸島南西で発生した2つの台風が停滞していた梅雨前線を刺激したことによります。
5日間の県内各地の総降水量は、甲府で315.4mm、睦合村(現南部町)で469.3mmだったのに対し、大原村(現大月市)が718.0mm、丹波山村が608.5mmに達するなど、県東部に大量の雨が降りました。
ちなみに、大月の5日間の総降水量は年間降水量の51.8%にあたり、また23日だけでその半分以上の415mmの雨量を記録しました。。

​『​ 山梨県水害史​ 』(山梨県水害史発行所 1911)の「第九章 明治四十年水害史」に当時の被害状況が書かれています。​
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていますので、興味ある方は全文を読んでみるといいでしょう。
忙しい方のために、「第七節 南北都留両郡水害実記」の北都留郡に関する記述だけ以下に引用しますので、試し読みしてみてください。
なお、旧字体は常用漢字に、漢数字は算用数字(アラビア数字)に直してあります。

40年度の雨量は笹子付近に最多量を示し、所謂郡内地方より言う時は、其裏に当れる東山梨郡に於ては日川重川の氾濫となり、東八代郡に於ては金川御手洗川等の洪水となれり、而して笹子御坂等の諸山を界して其表に位置する我郡内地方も笹子川大幡川及び河口湖等惨状最も峻烈を極めたり、以て知るベし此大洪水は笹子及び御坂等の連山を中心として起り、裏に流れたるは所謂国中地方を禍いし、表に注ぎたるは所謂我郡内地方を苦めたるものなることを、前既に叙したる如く我南都留郡に於ては22日より26日迄の5日間1576.5ミリの降雨を示し、就中中野村は雨量645ミリの大量に達す、北都留郡に於ては大原村は718ミリの大雨量を示し、他の二個所の観測を合する時は1740.5ミリに達せり、此驚くべき大雨量は23の渓流に注いで下流桂川によりて海に入るものなるが、渓流如何でか此大雨量に支(一字判読不明)得べき、果然山岳崩壊となり渓流の押出となりて近世稀なる大破壊を見るに至れり、又増水の為に水底に沈没した村もあり。

北都留郡を貫流するを笹子川とし、大鹿川其他の支流ありて皆之に注ぐ、笹子初狩の二大村は多数の部落を率いて此笹川の左右に誇れり、而して22日以来の降雨によりて笹子川は大洪水となり、又左右の群山には大崩壊起りて或は支流の渓谷に押出し或は笹子の本流に墜落す。斯くて笹子川の流域は大惨状を呈するに至れり。

​笹子川の上流に黒野田あり、之れ笹子村の一部落なるが、此部落は所謂笹子隧道によりて天下の旅客に記憶せらる、然るに此部落は笹子川の大反乱によりて破壊せられ、殊に鉄道線路を破壊せしかば旅客運送の不便実に言わん方なかりき、茲に於て政府は其復旧を急ぐとともに隧道口に臨時停車場を仮設し以て辛うじて交通の便を開けり、第53図は其実景を写せるもの以て当時の状況を知るを得ん、下りて字橋詰に来れば民家の流出したるも甚だ多く、近く身辺を見、遠く停車場を望めば、唯だ残留半潰の家屋と左右諸山の崩壊のみ、大字白野に来れば大鹿川氾濫して巨岩を押出し、下図に示せる如く高さ丈余に達せる鳥居を埋め去り、僅かに其の蓋木のみを露わす、下図電信柱の向うに見ゆるは即ち鳥居の蓋木とす、今尚旅客の見る如く此附近一帯大石巨岩の磧にして中には数万貫にも達するものもあり、 第56図は巨石中の巨石にして長さ8間幅6間と註せらる、当時水害視察として来峽せられたる日野西侍従等此巨大なる石よりも之を押出したる崩壊の威力に驚き、県内先導者と共に撮影せらる、即ち56図は其写真とす 、白野の国道筋の人家は、この大鹿川の氾濫によりて全く埋没の厄を免る能はざりしもの多く殊に此地方は住民は養蚕家のことゝて家も二階立なるが多し、然るに大鹿川の押出は何の苦もなく之を埋没せり、第57図は白野が激流の本瀬となり、為めに流失したる残存家屋の一部を示したものなるが、一枚の写真尚一小渓に過ぎざる大鹿川の横暴の如何に甚だしかりしかを知るに足るべし。​

笹子川に沿へる国道は全部崩壊せられ、鉄道線路は崩れ、鉄線は曲り所々に折断するものあるを見き斯くて笹子村に於て140の人家を流し、40の人家を埋没し、1000に余る人民を窮乏に陥いれ、跡振り向きもせず、之より一瀉初狩村を襲うなり。

初狩村の惨状は笹子村に比して其性質残酷なり、平地は笹子川の為に流失し、山麓は崩壊の為に圧倒せられたり、第58図は初狩村字立河原が笹子川の氾濫によりて其国道を川の本瀬とせられたる実況なるが、既に国道激流の本瀬と為る以上は、沿道の人家、付近の田畝の安全なるべき筈もなく、一寒部落にして30に垂んとする人家流失し、150の住民は其居所を奪はる、更に眼を転じて彼方山麓を見れば、中初狩区なる唐沢崩壊して祖師堂跡26戸を潰し11名の即死者を出す、水に流没するの惨に比して唯だ一思いに圧死するの安きを言う勿れ、死の惨は一なり、傷の苦みは一なり、何ぞ苦楽を異にせんや、第59図は其唐沢が崩壊して祖師跡を破壊したる実況なるが、他人之を写真に見るも尚恐怖の念に満たされ惻隠の情禁ずる能わざるものあり、況や爰に家居したる26戸の人々、其親の苦悶を見、其愛児の悲泣を聞き、其死を見、其傷を見、而して己も土砂木材の下に圧せられ身動きさえも自由ならざるの境遇にある時、嗚呼此処は活きながらの地獄なり、罪なくして陥いりたる残酷なる地獄なり、誰か同情の涙に咽ばざるものぞ。

唐沢の大崩壊は崩壊と云うよりも一種急激なる河の観を為せり、其無限の土砂は墜落以上一歩を進めて流下せり、而して其速度は墜落に劣らず、第60図は其崩壊が如何に怖るべき勢を以て流れたるかを示せるもの、其下にあるものゝ危険押して知るべきのみ。

初狩村の崩壊は之に止らず、下初狩に至て実に惨状極に達せり、即ち此区字下宿なる寒場沢に大崩壊起り、50余戸の人家は土砂の下に埋没又は潰倒し、25名は即死し、10名は傷く前には家も蔵も人も家畜も、田も畑も、山も宅地も、大地皆呑み尽くさんとする笹子川あり、後ろには寒場沢崩壊して恐怖に満てる村民を老いも若きも男も女も、圧殺せんとす、否既に50の人家を潰し、30の生命を奪いたり、第61図は其惨状の一面を写したるものにして、第62図亦然り、見よ満目蕭条として地に生色なく鬼哭長えに絶えざらんとす、高きを見れば山は落ちんとし、低きを視れば家は覆らんとするとき、神、仏にも見離されたるを感じたるならん、徒らに天道の無情を怨んで恵沢の厚きを思はざるは、悲しき時の人情なりと雖も、亦彼らが斯る叫びに同情を表せずんばあらず、山来笹子川の沿岸、山岳の傾斜最も急なれば之を耕したるの罪を責むるは、冷静なる者独り之を克くす、今其惨状を見其苦みを後代に伝うるに当て、是等に悲到するは到底為し能わざる処なり。

山は斯の如く崩壊して200有余の家を奪い60人を殺す、而して川は愈々激して沿岸悉く嘗め尽し、之より尚も其下流なる広里村を衝く同村真木区地籍に架したる鉄橋は築堤と共に流失し、国道の橋梁又木片の如くに流れ行けり、大字花咲に至れば国道は流失して激流となり沿道の人家悉く流失す、第63図は其悲惨なる実況の一部を写したるものなれども、此一部以て全村の荒廃を知るを得ん。

丹波川にも崩壊あり、都留川にも崩壊ありき、左れど北都留郡の惨状は此笹子川の流域に如くものなく、就中笹子初狩及び広里の三村最も悲惨なる状況に陥いれり、左れば此郡被害の9割は此三村に係るものと知るべし。

郡内の者沢の押出の音を聞いてビャク来ると謂う、川に沿い、山を負うて家居する郡内地方のことなれば、沢の押出の恐るべきは言うを待たず、郡内人には此ビャク程恐るべきものなく、小児泣いて静まらざればビャク来ると唱えば泣き已むと称せらる、然るに40年の洪水は笹子川の大氾濫と同時にビャク大に来りて、泥水巨石を流したるものビャク来の声に小供を泣き已ませたらんも、全人民の叫喚となれり、嗚呼。
(南都留郡 略)
北都留郡水害調査表
●人  死者87人 傷者36人
●家屋 全潰246戸 半潰64戸 破損468戸 流失825戸 浸水347戸
●堤防 決壊37ヶ所1585間 破損4ヶ所106間
●道路 流失埋没279ヶ所12075間 破損342ヶ所6126間
●橋梁 流失破損217ヶ所
●田  埋没流失76丁5反 浸水29丁8反
●畑  流失埋没329丁2反 浸水29丁8反
●山林 埋没流失405丁3反
●山崩 914ヶ所
(南都留郡水害調査 略)
『山梨県水害史』(山梨県水害史発行所 1911) 266p~275p


文中の赤字の部分が、冒頭写真の「大鹿川の巨石」です。
上が2025年の冬のもの、下が『水害史』の56図になります。
​​
※おまけ
場所を教えて欲しいとのリクエストがありました。
ここ ​になります。
富士急バス原入り口下車 徒歩5分

次回は、移転先について触れてみたいと思います。





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最終更新日  2025年09月05日 11時51分21秒
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