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つい最近知り合った洋服のデザイナーの知人が、先月個展を開いたのですが、展示していた洋服の中にとても気に入った作品があったので、ついついその場で「ぜひ!」と購入させてもらった洋服が、ようやく今日できてきました。彼女が思ってた私のサイズと実際の私のサイズが違っていて、「え~!」なんて驚かれましたけれど(全体がやはり元歌い手体系。苦笑。。)、結局、もともと展示していた洋服のサイズでほとんどOKな状態で。。。帰宅して鏡の前で着合わせてみながら、ニコニコしてしまいました。まともな洋服なぞ、ここ数年2着くらいしか購入しておらず、そのうちの一種類は、また他のデザイナーの知人のオーガニック作品。どちらも、輝いている人の作品で、とても気に入っている。今日、渡された洋服のデザイナーがとてもすてきなことを言っていたので、ますますその作品も輝いて見えるのかもしれないが、その言葉を紹介しようと思います。「自分が創りたい、表現したいという気持ちは誰にも止められない。だから自分の表現したいと思うことを、自分の信念をもってやり続けていけばいいこと。誰かがそれを止める権利はないのだから」この言葉を聞いたときに、とっても勇気をもらったように感じました。まったくもってそのとおり、そうなんだよなぁと。。。笑。
2006年05月24日
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昔から「笑顔が素敵な人だね」と言われるようになりたいな、と思っていました。でも、ずいぶん以前に「マガリーさんは笑顔がとっても素敵なんだから、いつも笑顔でいたらいいのに」と言われたことがありますがテレもあったりして「何言ってるのぉ?」とあまり真に受けたこともなかったのですが、最近「笑顔がいいねぇ」と言われることが多く、自分では意識していない自分のトレードマークのようで「少し自分を見直してみよう」と思ったりしています。あまりにも連続で言われることが多いので、普段はどんなカオしてるんだろう?と逆に自分の表情が気になったりしていますが(結構気難しい顔してるのかも?)。でも、無意識のうちに、自分が目指していたものが10年以上かかって自分の中で育っていたのかなと少し嬉しい気持ちです。これからも、誠実でありたい、素敵な人と言われるように素敵な生き方を目指したいな、と思います。いろんな意味で、多方面から支えてくれている方々に感謝しつつ。
2006年04月23日
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日本文化が世界に広まり、相互理解が深まるのはとてもよいことであると思う。SAYURIのように、日本人以外の監督によって日本文化を表現された映画を見ると、一体、日本で生きている私たちは、日本人の本来持つべきわびさびについて、どの程度持っているのだろうか、と思ってしまう。最近フランス語のレッスンでネイティブと話していると、特に思うのが、言い回し方の違い。外国は割り切って、事実だけを伝えようとしていることが多いので、使う単語も率直で短い。それで明快に相手に伝わる。しかし、日本の場合は、よくオフィス研修などでもあるように、相手に対する言葉遣いが非常に微妙で~なんとかしかねる、とか~なんとかづらい(聞こえづらい)とか、はっきりと聞こえないと言わないで、わざわざ~づらいとつけてやんわりとするのが日本人らしいとされる。もちろん「聞こえづらい」と「聞こえない」はずいぶんと意味合いが違うのだけれど。でも、言葉上がそうであっても、その人自身の本質的なものが備わっていないとそれは、単に言葉だけのものであり、「聞こえない」と言ってしまっても同じことだったりする。そこが、侘び寂びのあるかないか、である。侘び寂びは、日本人が日本人であるために必要な素養。侘び寂びを感じ入る余裕のある人間でありたいと思うのであるが、みなさんはいかがでしょう。
2006年01月28日
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嘘をつくときはだいたい真実(自分の気持ちの中、見極めているほんとうのこと)を自分の中でわかっているとき。成り行きで嘘をつかなくてはいけないこともあるが、軽い嘘(すぐにバレても仕方がないとあきらめのつく嘘)ならともかく、真実をわかっていながら嘘をつくとその嘘をさらにつかなくてはいけなくて、その嘘をさらにカバーするためにまた違う嘘をつく。そんなことを繰り返していると、一瞬、本当はなにが真実だったのかわからなくなってしまって自分を見失ってしまいそうになってしまうのだと思う。では、真実って何?ということ。事実と真実が違うことは山ほどあると思う。真実は結果。結果がすべてだという世の中で、真実って何だろう?と考える日々を送るのが事実をつきつけられたとき。たとえ自分が悪くなくても、世間の判断で「事実」が自分に降り掛かってきたとき、その事実は真実とは違う、と言える強さがあるのか。人生は結果が全てであるなら、その結果を乗り越える真実はないのか?。真実って何だろう?と、また、考える。警察の横暴でいい加減な取り調べによってえん罪が蔓延していた戦後、罪のない人が獄中に追い込まれた事実は闇に隠されながらも、確かに存在する。それでも「生きる」ことに希望を持って社会に戻った人がいる。自分にとっての真実って何だろう?今生きていること、伴侶を持つこと、仕事をすること、旅をすること、家にいること、こうしてブログを書いていること、これらは全て事実である。この事実の中に、真実はあるかもしれないし、ないかもしれない。今、見えるところにいるのが全てなのだろうか?今、肉体的に感じるものが全てなのだろうか?真実はこれ以外のところにあるのではないだろうか?嘘をつくことの愚かさを事実を突きつけられて知るが、真実の前には、嘘をつくことは恥でしかない。しかし、その恥を、あえて受け入れて生きていくのもまた人生である。
2005年12月25日
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J'avais ete professeur de musica,mais maintenant, suis profession liberale.講師時代、学校がカトリックだったので(一応母校なんですが、全国区の有名私立お嬢様学校。→注:そこを出たからと言って、必ずしも本人がお嬢様である、またはお嬢様になるという確率は保障されておりませんので悪しからず。)、音楽という授業を受け持つにあたっては、小中高の芸術音楽だけではなく、いつしか宗教音楽という分野も受け持つことになっていました。当時は一応求道中(信者になるために勉強をしていますという意味)ということにして(まあ、実際勉強は何度かいたしましたが)、宗教音楽+宗教学的なことも含めて授業を受け持っておりました。モチロン、自分の学んだ、また勉強を続けていた音楽の過程においては宗教音楽(オラトリオ、ミサ曲など)の方がどちらかというと主であったのですが、授業となると話は別で、芸術的な高め方をするのとは別の目的をもたせ、ある程度カトリックの教えの範囲でないといけないという主旨の元に行う、タイヘン難しい分野でした。おそらく、生徒の中には「どうして今こんなことをやっていなくちゃいけないのか?」「なんで先生の話を聞いてなくちゃいけないのか?」「一体、こんな授業は何の役に立つのか?」ということを感じていた子もたくさんいたのではないかと思います。実際、そんな声が上がったこともありました。芸術音楽の場合は芸術性を高めるというはっきりとした目的があり、当然高等学校レベルにもなると競争の世界で、単に「楽しい」という感じ方だけではない評価も出てくるため、必然的に個々の実力に応じた採点をしなくてはいけなくなってくるのですが(大学にその科を専攻で入ろうとしている生徒もいるわけですから当然といえば当然)、幸か不幸か、街の中心部に学校があったときは(今は移転して郊外)、比較的理解力の高い生徒が多かったので授業自体もかなり高度なことを要求できました。論文形式の試験などをやったときもありましたがそれなりにこなしてくれていたので、私自身も充実していたように思います。宗教音楽の授業では、ミサが1日の中でどのくらいどのように行われるか、また実際ミサの中ではどのような音楽が使われるか、など、それ以外にもいろいろ。もちろん聖歌を歌えるようになるのが最大の目的でしたが、芸術音楽とは違った目的で、生徒の心に何かしら残るようなものでありたい、と願いながら授業をしていました。「心から」歌ってほしかったから。音痴だと言って恥ずかしがる生徒がいました。でも「この世に音痴はいないのよ。それに聖歌は音痴だからといって歌ってはいけないものではないのよ。自分の心がちゃんとそこにあればいいの」彼女たちは今、むかしそういう授業を受けたことをどう感じているのかな、と、時々思います。たぶん、そんな授業があったことも忘れているかもしれません。でも、いつも彼女たちに言っていたことを思い出します。「まず、自分のことを愛してくださいね。聖書には「自分と同じように隣人を愛せよ」と書いてある箇所がありますが『隣人』だけが強調されがち。まず『自分』を可愛がらなくちゃ。。」「朝鏡見て『私かわいい』と思う人?」と聞くと、誰も手を上げないのですね。「あら、ちゃんと『私かわいい』って思わなくちゃ。みんなかわいいのよ。私は、みんなが大好きよ。。」というと、キョトンとした表情をしたりして。「今は、何やっているのかわからなくていいのよ。この授業でやっていることを、今はわからなくていい。逆にね、今、無理してわかろうとしないで。卒業してから、何年も何十年も経ってから、いつかわかる時がくればいいから。」これって、人生の中における事象にも共通するのかな、と最近思います。まだ20代の若輩が、よくそんなことが言えたなあと今は思うのですが、その時はその時で、目一杯人生を生きていたからそんな言葉も伝えられたかなあと。音楽の講師として教壇を離れて数年経ちますが、人に何かを伝えたいという思いは必ずいつか通じるのだと信じることが、教壇に立つ人の最大の使命だと、今でも思います。それは、結局、自分を信じて、自分を愛すること。自分の思いが、いつか必ず届くと信じること。かなあ、、、。と。なんか、ふと思いました。彼女たちは、素敵な母親になっているでしょうか。身体的に子供ができないかもしれない私は、ちょっぴりうらやましい。彼女たちの幸せを、ささやかに祈るこのごろです。
2005年11月02日
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☆~Je te regarde toujours.~☆こんなことを書いてみました。昨日までかなりハイテンションだったけれど、やはり今朝から風邪っぽくてダウン気味。。。身体がだるい。。外はとってもいい天気だったのですが。もちろんお洗濯はしましたけれど、お腹の調子がどうもよろしくない。。。んんん。。。。Day by day って、日ごとに、という意味。de jour en jour かなあ?秋が深まって冬になって、春になって夏になって、そうしてまた秋がきて。冬がきて、春になって夏になって。1年が過ぎて2年が過ぎて3年が過ぎて…人ってそうやって歳を取っていって、いつか、土に還るんだなあ、と。何かに感動する気持ちってどこからくるんでしょう。実は、私、ここに告白しますが、この2、3年ほど音楽が聴こえなかったのですね。何を聴いても「ただの音」にしか聞こえてこなくて、楽譜を見ても、何も見えてこないし、聴こえてこないし、どれを聴いても同じ…。音楽科を出てるのにこんなことってあるの?というくらい「音価」が自分の中になくなっていた。(もちろん、譜づらの音取りは出来ています。でも「音楽」じゃない。)何が原因だったのか今もってわからないけれど、これはわたしの仕事上、完全に致命傷。そしてそれを人には言えなかったこと。というかそのことを人から追求されるまで、自分でも「音楽が入ってこない」ことは、はっきりとはわからなかった。でも、先月、それが解けた。。。何が原因だったんだろう。よくわからないけれど、ある時を境に音楽が自分の中に入ってくるようになった。1回、もしくはせいぜい2回聴けば身体に音楽が入るのが当たり前だった私にとっては、とても苦しかった時期でした。空を見て「きれいだな」と思う気持ち。空気がおいしいな、と感じること。木の匂い、山の匂い。路に咲く草花。人を大好きだと思える気持ち。そんなことがホントは大事なんだろうなあ。Je te regarde toujours.
2005年10月24日
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たぶん、それぞれの人生に、それぞれの意味があるんですよね。きっと。。。私は、両親がクリスチャンで、小さいときからそんな環境で育ったわりには、やたら、占い(カード)をやったり、生まれ変わりだとかを信じる方で、自分の意志で信者になった今も、そんな考えから外れることもなく、たぶんクリスチャンの中では相当にハズレものかもと思ったりします。でも、実際、人に言わないだけで、白昼夢とか、デジャウ゛ュもあったりするから、考えの基本はキリスト教だけど、色んな神秘体験もありかな、と思ったりします。神秘体験とは関係ないけど、人との出会いは、いつも必然を感じます。偶然なんてなくて、自分にとって必要な出会いがちゃんと用意されている、ということ。神様が、いろんなことを設定してるんだなあ、と最近とても思います。たぶん、次に生まれてくるときのために、出会って、準備をしておくことも大切なんだなあ、と。。。前の人生で、出会っていた人と、また再会したりもして。どこかで記憶があるから、不思議。今の人生は、命がなくなったら、そこで終わってしまうけれど、決して自分から終わりにしてはいけなくて、ちゃんと神様がいいよ、と言ってくれる時まで頑張らないといけない。。。ま、実際、不整脈何度か起こしている身としては心臓止まる度に「まだ、死にたくない、やることある!」と思って復活するから、わたしの場合はしつこく生きるタイプだと思うけれど。。。必然の偶然。。。
2005年09月28日
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一昨日から「相方の実家に帰省」というと少し聞こえはよさそうですが、実は一昨日は那須温泉に一泊、昨日は彼の実家に一泊、という状態で、今日は夕方から用事ができたので、午前中には実家を出て15時には家に着いてました。温泉の湯当たりをしてしまったのか、昨日は1日中だるくて結局義母孝行ができずに甘えっきりで、着いたとたんにバタン…キュー。移動が多かったせいで疲れがたまっていたのか、低気圧で少し雨が降ったせいもあったかな。ところで、我家と相方の実家との間、高速道路340キロを車で走っていて(私は助手席だけど)ふと気づいたことがあった。たぶん、どこの地域でも少し街中から外れれば、当たり前の景色なのかもしれないが、私にはとても新鮮で、今日のTytleがなんかわからないけど納得!という感じである。私は、自分の実家の周囲は田園だらけであるが、隣はお寺さん(曹洞宗だったかな?)という環境で育ったせいか、「お墓」というものはちゃんとお寺さんなどの「墓地」にあるものだという固定観念があった。ところが、東京から北上してくる途中、何度も山の中や田園の中を突っ切ってくるのだが、お寺さんがなくてもお墓だけ集まっている場所が幾つもあったのである。そして、その景色を見たとき、私はふと「キツネの嫁入り」の話を思い出した。そりゃ、人間は騙されるだろうなあ。と。妙な納得。田園地帯、山の切り立ったところに、ふと存在するお墓。ん~~~~~。
2005年08月28日
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何かのコマーシャルでむかし使われていましたね。最近、この言葉をよく思います。1日1善!そして、それを誇示しないこと。何気なくできるようになるといいなぁ、なんて。先週の誕生日から、毎日いいことと反省を記す日記を付け始めました。久しぶりです。そして一日を、ああ、今日はこんないいことがあったな。自分はこんなふうに幸せだったな、と振り返ります。たとえば、平穏無事に過ごすことが実は一番幸せと、よく言われるけれど、そんな平穏無事の生活の中でもよく考えると必ずシアワセな出来事があるんですよね。そしてそういうことを考えるだけで幸せだったりして。。言葉も巡り巡っていたりするんですね。大事にしたいです。
2004年07月31日
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