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この春から民法研究会というグループに参加させてもらっています。
メンバーは社会人学生、行政書士受験生、司法書士受験生、司法試験受験生、民法が好きな人などです。准教授から毎回テーマに沿った事例が挙げられ、各自が指定の立場にたって主張します。
私は、正しい答えとか、ベストな回答が必ずある事を信じて疑っていませんでした。問題が与えられると、まず自分の感覚で、そうであって欲しい答えを胸に関係書籍を読んで気に入った・・つまり自分の感覚にあう判例を見つけてはそれが答えだと考え、まとめ上げます。少しだけ慎重にしようと、反論される想定もしておきます。さらにそれに対抗する方策も考えたりしてなんだかパーフェクトのような気分に浸っていました。
ところが・・・
発言者の意見は様々で、同じ方向に向かっているのに条文や根拠が違うし、結果も微妙に違います。先生は発言者の主張をメモに書き取ったり、黒板に図で表わしたり、誤ったものも含めてすべて尊重してくださいます。 すごいと思うのは、先生はほぼ否定しません。そうしたいのならこの要件が確認できればいいですね、とかむしろこの条文を使ったほうが、立証責任が相手方にあるのでやりやすいでしょうね、と「そうか!」と気付かせてくれます。
また、自分の意見の主張をする事は、知っている事を繰り返すだけなので、勉強にはならない、相手の主張のどこがどうおかしいのかを相手にわかるように説明する事のほうが勉強になるからと、ベテランにはそれを求めます。こうして2時間近くの勉強会が終わり、出尽くした感覚で飲み会に行くのですが、ふと、あれ?結論は?と思うとはっきりした答えがないのです。
相続に関する勉強をしている行政書士メンバーの1人で、とても尊敬している方がいてその方に少しお話し(メール)したところ、「答えは出ていると思う。答えとは問題の所在の把握だ。議論の分かれ道である。結論は事案により、立場により千差万別なので決めようがない」(勝手にアレンジ転載)とお言葉をいただきました。
勉強のあり方について目が覚めた思いです。