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国鉄 70系・80系:名古屋駅にて生まれて初めて名古屋駅に降り立ったのは昭和52年。まだ中学1年の春休みでした。名古屋と言えば日本でも東京・大阪・京都と並ぶ大都市ではあることは当然に知っており、当時、485系・583系「しらさぎ」、583系「金星」、キハ80系「くろしお」「ひだ」、日本初の振り子式特急381系「しなの」など、それまで逢ったことのない憧れの特急列車が発着する夢の場所でした。初めて乗車した大垣夜行(当時347M)、そして初めて降り立った名古屋駅。最初に出迎えてくれたのは憧れの特急列車ではなく、都心部では見られなくなった70系と80系という、ローカル然とした旧型国電たちでした。昭和52年3月30日 名古屋駅にて当時も既に111系や113系は走っていたでしょうし、中央西線の普通列車はスカイブルーの103系が幅を利かせていたように記憶しています。しかし、この時間に見られた光景は、東海道線の80系と中央西線の70系という、別の意味で憧れのシーンでした。都心では既に旧型国電が撤退し、神奈川・千葉でのみ73系が見られた時代。首都圏で70系と80系が顔を合わせることがあったのは、当時では高崎駅だけだったように思います。そんな珍しい光景が、しかも80系が2本も居るわけですから、旧型国電ファンになる前の自分としても、これには興奮したものでした。あれから50年近くが経過、113系はおろか後発の117系でさえも世代交代となり、さらに211系すら終焉を迎えた今となっては、夢のような光景となってしまいました。
2024.03.31
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EF65500番台牽引:寝台特急「さくら」ブルートレインとしては老舗となる寝台特急「さくら」。東京~長崎・佐世保を結んでおり、牽引機は他のブルトレと同様に、EF58→EF60500番台→EF61→EF65500番台→EF651000番台→EF66となっています。非電化区間にあっては、SLやDD51、九州電化区間ではED72・73・75300番台なども活躍していました。今回は、中学生の頃に撮っていたEF65500番台牽引の「さくら」をご紹介いたします。昭和51年 東京駅にて EF65512牽引 1レ昭和52年 田町駅にて EF65530牽引 1レ昭和52年3月30日 名古屋駅にて EF65540牽引 2レ昭和53年 東京駅にて EF65530牽引 1レ昭和53年 田町駅付近にて EF65538牽引 2レ撮り始めの頃は白い花びらにピンク背景ばかりだったので、これが正規のヘッドマークとばかり思っていたのですが、P形最後の頃に撮った写真は2枚ともサクラの花びらと周りの色使いが逆転したヘッドマークになっており、フィルムスキャンするまで30年もの間、まったく気が付きませんでした。最後の頃は、何故かフィルムの真ん中のピントが合わない事象が発生。スキャンした時の悩みの種となっています。貴重な写真なのに・・・。平成20年5月24日 EF65535 JRおおみや鉄道ふれあいフェア2008にて平成22年11月6日 EF65535 隅田川駅構内にて平成26年11月15日 尾久車両センターにて平成27年11月14日 尾久車両センターにてオマケ写真です。P型牽引の時代と言うのは中学2年生くらいまででしたので、あまり良い写真は残っていません。イベントでこのようにきれいな写真が撮れるようになったのはうれしいですが、なんとも複雑な気持ちになります。
2024.03.30
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キハ40系:函館本線 普通列車(その2)令和2年3月のダイヤ改正において、函館本線の山線区間(長万部~小樽間)に新型電気式気動車H100形を投入することになり、キハ40系が撤退しました。今回は、同区間で撮影したキハ40系の写真をご紹介したいと思います。昭和63年6月28日 小沢~俱知安間にて キハ40178ほか2連 上り普通列車C623牽引「SLニセコ」を撮影するために訪れた山線。数少ない列車本数の中で、構図確認のために利用できる数少ない普通列車でした。なかなか顔を出さない羊蹄山で、数回の訪問の中でやっと撮れた日でした。平成元年7月 撮影区間不詳 キハ40222 単行普通列車この写真も俱知安~小樽間の普通列車ですが、平成になると単行列車も運転されるようになりました。ゾロ目が嬉しい同車ですが、コンパクトカメラ(AD-1)で撮影したためブレてしまいました。平成5年10月10日 銀山~小沢間にて キハ40249ほか2連結婚してから初めて訪問した北海道。やはりC623牽引「SLニセコ」を撮影するために訪れた山線。国鉄時代のタラコ塗装は消滅し、キレイな北海道色に姿を変えましたが、北海道の普通列車の主力であることには変わりありませんでした。この写真を最後に、北海道への訪問は途切れてしまいました。キハ40系:函館本線 普通列車(その1)
2024.03.29
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JR東日本 215系の点検蓋大宮駅湘南新宿ライン下りホームの横にある大宮総合車両センターの線路群では、日常ではこの辺で見られることの無い車両が居て楽しい場所です。駅撮りに行った際、偶然にも思わぬ光景に出くわすことがあります。※撮影は、平成23年2月25日、大宮駅ホームから。215系クモハ215の1階側面に並んでいる点検蓋を開けて、中を覗いています。なんで工場の中で点検しないのかは不思議ですが・・・。ホームの端に行って戻ってきたら、担当の人が2人に増えてました(笑)。ホビぽっぽ様情報によると、ここにはバッテリーが納まっているようです。見上げて蓋の裏を見ているのは、ここに説明書きがあるのではないかと。何かトラブルがあったのでしょうか?全車2階建てをコンセプトに誕生した215系。鳴り物入りで「湘南ライナー」に使用していましたが、他への転用が利かずにもてあまし気味。しかも、他車を無理矢理オール2階にしてしまったもんだから、1号車と10号車のクモハ215の1階は機械だけになってしまいました。日常では見ることの出来ない、貴重なシーンが撮れました。【中古】Nゲージ/TOMIX(トミックス) 98444JR 215系 近郊電車 (2次車) 4両基本セット【A´】スリーブ若干傷み[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98445 JR 215系近郊電車(2次車)増結セット(6両)【中古】Nゲージ/TOMIX(トミックス) 98445JR 215系 近郊電車 (2次車) 6両増結セット【A】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98444 JR 215系近郊電車(2次車)基本セット(4両)
2024.03.28
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名古屋鉄道 1000系:パノラマsuper(リニューアル前)昭和の時代、旧型国電に夢中になり、何度も出掛けた飯田線。豊橋口では名古屋鉄道と線路を共有し、7000系・7500系パノラマカーは嫌ってほど目にしておきながら、1度も写真を撮ったことがありませんでした。時は流れ、平成17年。愛・地球博の開催にちなみ、名古屋の親戚を訪問するとともに、愛・地球博へ。そして、女房と娘が別行動をする日に名鉄の撮影に行ってみました。折しも中部国際空港セントレアが開港となり、名鉄特急の体制も大幅に変化しました。特に、元祖パノラマカーやその後継のパノラマデラックスさえも廃止になってしまうという。ミュースカイの誕生と共に、それまでのフラッグシップとなっていたパノラマsuperも4両編成は2つにばらされ、1200系と手を組むことになります。当時、この情報を得たのは鉄道ダイヤ情報のみ。どうにか最後の姿を見てみたくて名鉄撮影を試みたのですが、これらの動きは既に終わってしまい、記録することはできませんでした。最後の7000系を待つも、撮影に訪れた本線では1本も見ることができず、代わりに撮影できたのは6両編成に組み変わった後のパノラマsuperだけでした。※撮影は、すべて平成17年7月23日、ポジフィルムからのスキャンです。木曽川堤~黒田間にて 1016F木曽川堤~黒田間にて 1116F番号を読み取れる写真はこの2編成しかなかったのですが、偶然にも元4両編成時代のコンビを捉えることができました。木曽川堤~黒田間にて 編成番号不詳木曽川堤~黒田間にて 1115F?しばらくこの区間で撮影していましたが、目的とする7000系・7500系パノラマカーは通りませんでした。本笠寺~本屋崎間にて変化がないので已む無く移動してみるものの、途中の支線でパノラマカーを見るなど、悲惨な結果でした。しかし、このパノラマsuper編成もここ数年の間にリニューアルされたそうで、塗装の印象もかなり変わってしまいました。当時はこのような状況に非常にガッカリしたものですが、今となってはこれらの光景も貴重なものとなりました。
2024.03.27
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485系:特急「雷鳥」(貫通型)特急「雷鳥」は、昭和39年10月の改正において、東海道新幹線の開通とともに誕生した特急列車です。特急列車としては初となる、交直両用型の481系が使用された、当時としても画期的な列車でした。ここでの成功は、東北本線への電車特急の誕生、山陽から九州への乗り入れの速達化に貢献しました。登場当初からしばらくは481系初期車が使用されましたが、485系の誕生とともにシフトされ、金沢運転所の特急車両配置とともに489系も使用されるようになります。今回は、485系(489系)から貫通編成のご紹介です。昭和57年8月8日 富山駅にて平成20年4月22日 南今庄駅にて クハ481-228 「雷鳥16号」オリジナルタイプの貫通型です。昭和57年撮影のものは、もしかしたらクハ489かもしれないことはご了承ください。平成20年4月22日 南今庄駅にて クハ481-801 「雷鳥9号」平成20年4月22日 福井駅にて クハ481-801 「雷鳥30号」平成20年4月22日 金沢駅にて クハ481-801 「雷鳥41号」JR化後は、京都車や新潟車、そして金沢車とバラエティに富んだ車両、塗装車が使用されました。写真はそのうちでも異色だった簡易貫通型の車両で、元は「くろしお」電化の際に誕生した改造車です。4連というミニ編成を2編成併結する際、貫通路の連結を簡易にするためにこのようなスタイルとなりました。485系ボンネット型:特急「雷鳥」485系クロ481ー2000番台:特急「雷鳥」485系 クロ481ー2300番台:特急「雷鳥」485系:特急「雷鳥」(非貫通型)581系・583系:特急「雷鳥」
2024.03.26
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キハ10系・20系:国鉄 高千穂線高千穂線は、日豊本線延岡駅から内陸に向かって高千穂峡のある高千穂駅までを結んでいたローカル線です。開業当初は「日之影線」と呼ばれており、高千穂駅までの延伸開業時に「高千穂線」と改称されています。地図をご覧いただくとお判りいただけると思いますが、最終的には熊本側から来る高森線と接合し、延岡~立野(豊肥本線)を直通する計画でした。私は、高千穂から高森までバスで抜けたことがあるのですが、阿蘇の外輪山でしょうか、非常に勾配のきつい道路を「いろは坂」の如く延々カーブを続けながら相当な時間を掛けて降りていった記憶があります。このような人も住んでいないような地形のところに鉄道を通しても、経営の負担になることは目に見えています。要は無理のある計画であったということですね。昭和54年3月25日 キハ20系2連との交換風景どこの駅かは覚えていませんが、途中駅で交換がありました。赤字ローカル線ではありますが、結構乗客は乗っていましたね。この頃「首都圏色」は未だ居なかった時代で、気動車はすべて標準色でした。写真はキハ20の2連ですが、初期車のバス窓車と後期の2段窓車で組成されており、非常に興味深い写真だと思います。昭和54年3月25日 3両編成の普通列車私が延岡~高千穂間で乗車した3両編成の列車で、キハ11+キハ20+キハ11でした。キハ10系に乗ったのは初めてで、通路側に肘掛けが無かったのには驚きました。寝ていてコケたら通路に転がってしまいます。でも、戦前の電車や客車でも肘掛けがなかった車両って意外と多いんですね。標準色ばかりで大変好感が持てる時代でした。折角キハ10系や20系がゴロゴロ走っているのに、興味が特急列車に行ってしまっていて、ちゃんとした写真は撮っていませんでした。キハ10なんて他には写真を持っていませんから、自分的に非常に貴重な1コマなんです。平成元年に第3セクター化され、高千穂鉄道としてなんとか存続してきた「高千穂線」ではありましたが、不幸にも平成14年の台風により鉄橋が流失、そして全面運休となり、復旧に必要な莫大な経費を考慮した結果、残念ながら廃止となってしまいました。
2024.03.25
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489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)特急「はくたか」は、昭和40年10月ダイヤ改正において、それまで大阪~上野を結んでいた気動車特急「白鳥」を分離する形で誕生しました。運転経路は「白鳥」と同様に信越本線経由となり、使用車両もキハ82系のままとしています。昭和44年10月の改正において、「はくたか」は電車化により経路が上越線と変わり、信越本線経由の列車は489系の登場により「白山」となっています。昭和53年10月改正まで向町運転所の485系が使用されていましたが、同改正より金沢運転所の489系が使用されることになり、信越本線経由の「白山」と共通運用が組まれるようになります。今回は、昭和53年10月改正後の写真をご紹介いたします。昭和56年頃 クハ489-300番台 非貫通型53・10から特急ヘッドマークがイラスト化されたのですが、ボンネット型の多かった「はくたか」はイラストマークを見る機会が少なかったように思います。この昭和56年頃には既にボンネット車にもイラストマークが導入されていましたので、そういう意味では見慣れてきた頃と思います。金沢運転所の489系に運用が変り「白山」と共通運用でもあったために、非貫通型の遭遇率も高かったような気がします。昭和56年10月 クハ489-704 非貫通型上り「はくたか」で、何故か流し撮りしています。ボンネット型じゃなかったので、どうでも良かったのでしょうか・・・。ピントもバリバリ合っているので、伸ばしても細部までキッチリ見ることが出来る、珍しくもクリーンヒットな作品。昭和57年5月 クハ489-500番台こちらは、EF63連結側の500番台ボンネット車。状況的にはカブりなんですけど(笑)。でも、こんな時代もあったんですな・・・。と思わせる1枚となりました。昭和57年11月6日 上野駅にて クハ489-500番台廃止を1週間後に控えて最期の活躍をする「はくたか」。このショッカーの本部に付いていたようなマークともお別れ。この1週間は、上野口の最期となる列車の写真撮影に翻弄されていました。赤スカート車との衝撃的な出逢いから10年。毎日身近で見ていた筈なのに、意外と撮影枚数が少なかったですね。途中でイラストマーク化されたことにも原因があると思いますが、下りの「はくたか」の時間に上りが通勤の普通列車ばかりという、撮影に非効率的な時間帯に走っていたことも不運だったような気がします。金沢運転所のボンネット車はヘッドマークのイラスト化が早かったため、489系の文字マークの写真がありませんでした。特に連結器むき出しの500番台は特徴があったので、この点の記録が出来ていなかったのは残念です。その後、ほくほく線の開業により、まさかの復活を果たした「はくたか」でしたが、北陸新幹線の金沢延伸開業で2度目の廃止となっています。そして、その名は新幹線の名称として引き継がれました。『485系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正前)』『681系・683系:特急「はくたか」』
2024.03.24
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481系・485系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正前)特急「はくたか」は、昭和40年10月ダイヤ改正において、それまで大阪~上野を結んでいた気動車特急「白鳥」を分離する形で誕生しました。運転経路は「白鳥」と同様に信越本線経由となり、使用車両もキハ82系のままとしています。昭和44年10月の改正において、「はくたか」は電車化により経路が上越線と変わり、信越本線経由の列車は489系の登場により「白山」となっています。電車化に当たっては、60Hz交流電化の北陸本線を経由することから、向日町運転所の481系・485系が使用されることになりました。電車化当初はまだ489系は誕生しておらず、金沢運転所には485系も配置されていませんでした。このことから、特急「はくたか」に使用される481系は関東で見ることができた唯一の例であり、その運用は関東~九州に及ぶスケールの非常に大きい運用となっていました。今回は、昭和53年10月改正前の写真をご紹介いたします。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 481系 赤スカート車昭和53年10月改正まで、「はくたか」は向日町運転所の481系が使用されていたため、このように赤スカート車が上京する機会がありました。上野口で見られる唯一の関西仕様の車両です。ヘッドマークを注視すると、ロール式のようですね。私が撮影できた唯一の例でもありました。それまで583系やキハ181系の憧れが強かったですが、この写真を撮って以来、赤スカート車が非常に好きになりました。昭和51年頃 上野駅にて クハ481ボンネット車 この頃の「はくたか」はボンネット車が圧倒的に多かったような気がします。ですので、それなりに写真に撮る機会も多かったような。まだ向日町運転所の481系時代が続きます。昭和51年頃 赤羽駅にて クハ481ボンネット車高架化前の赤羽駅での写真。リコーオートハーフでの撮影のため、ブレてしまっています。今までアルバムに入ることすらなかった写真でしたが、今となっては懐かしい風景です。昭和52年頃 大宮駅にて クハ481300番台 非貫通型何度かは目にしたことのあった非貫通型の写真。しかし、殆どボンネットが多かったような気がします。基本的には文字マーク時代の特急列車が好きな私ですが、何故かこの非貫通型の「はくたか」文字マークがしっくり来ないんですね。イマイチ格好良くない。それでも遭遇率が低かっただけに、文字マーク時代としては唯一の非貫通型の写真です。昭和53年3月 西川口~蕨間にて クハ481ボンネット車後追いで撮影した下り「はくたか」。こちらが上野方なので、自連むき出しになっていないところからクハ481であることが判ります。昭和53年10月改正からは、使用車両が金沢運転所の489系に変更され、「白山」と共通運用になりました。また、貫通型・非貫通型はヘッドマークがイラスト化されています。『489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)』『681系・683系:特急「はくたか」』
2024.03.23
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記事内容を大きく誤っていたことが判明いたしましたので、内容を削除いたしました。内容が検証できましたら改めて記事にさせていただきます。申し訳ございません。
2024.03.22
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475系・457系:北陸本線 普通列車北陸本線の普通列車ですが、昭和60年度まではEF70形牽引による旧型客車で運転されていました。昭和60年3月ダイヤ改正において、旧型客車の老朽化及び都市型ダイヤ実施に伴い、特急格上げで余剰になった急行型車両である475系(457系を含む)や581系・583系改造の419系に置き換えられました。平成25年3月14日、北陸新幹線金沢開業に伴う在来線の3セク化により北陸本線の輸送体系も大きく変貌することとなり、ここに475系が承継されないことになりました。北陸本線で普通列車として長きに亘って活躍してきた475系電車は、導入時の赤電塗装から2代目となる塗装のままここに終焉を迎えることになります。その活躍は、本来の目的である急行列車としての活躍期間の2倍にも及びました。平成20年4月22日 今庄駅にて 318Mちょっと遠目で不鮮明なのですが、クハ455-61+モハ456-19+クモハ457-19の編成のようです。クモハ457は、交直流型急行電車の最終版で、広域移動を考慮して50Hz・60Hz共用の万能車として製造された車両です。新製時からの冷房車で、AU13×5搭載、モハ456のパンタ部にルーバーが無いのが特徴です。平成20年4月22日 南今庄駅にて クモハ475-50ほか6連 239M前編成は、クハ455-63+モハ474-50+クモハ475-50の編成のようです。こちらは竣工時に非冷房で製作されており、後に冷房車に改造されています。クーラーはAU12を6個搭載しています。比較的に早いうちに改造された車両のようです。後編成は残念ながら番号が読めません。もしかしたら、前述のクハ455-61を併結している可能性もあります。平成20年4月22日 いずれも金沢駅にて クモハ475-46ほか復刻塗装されていたクモハ475-46+ モハ474-46+クハ455-60の編成です。いやしくも金沢に着いた朝と、撮影を終えて金沢に帰って来た時に偶然に遭遇しました。サハ455-4この日の早朝に撮影したコマのようです。この当時は485系「雷鳥」や419系がメインであったため、457系はそれほど真剣に撮っていなかったようです。それでも、サハ455は東北線系からは早々に撤退してしまったため、常磐線で見た記憶があるくらい。多くが先頭車改造されてしまったこともあり、最後まで残ったサハは非常に貴重な存在でした。北陸には4度撮影に行ったことがありますが、475系の普通列車に遭遇できたのは平成20年4月22日に訪問した時だけであり、写真もこれだけしか残っていません。この時は419系も運用されていたため、普通列車の本数の少なさも相まって、走行写真を撮ることができませんでした。平成27年3月、北陸新幹線開業により最後の急行型として現役を貫いていた475系・457系が引退することとなりました。言い方を変えれば、今まで良くもっていたな、と思います。旧型国電でさえ50年程度活躍したものが最長ですから、先に製造された471系ともなれば正に旧型国電に匹敵する長寿でした。以下、金沢開業の直前に「トワイライトエクスプレス」などを撮影に行った時のものです。平成27年1月24日 津幡駅にて 475系 524M貨物列車を待っていたら、偶然にもデカ目の475系がやってきました。この回の撮影で2ドア車の走行写真を撮れたのはこれのみでした。平成27年1月24日 金沢総合車両所富山支所にて 457系他 6連この回の撮影では、この富山や金沢で複数の475系等を目撃し、パンタが上がって動きだそうな状態も見ましたが、運が悪いというか、走行しているシーンは本当に当たりませんでした。写真は帰路の特急「はくたか」の車内から撮影したもので、これが最後のお別れになった写真です。田舎が東北ということもあり、455系とともに育ったとも言える私。ヘッドマークの無い地味な存在でしたが、カラーリングとドアステップが長距離優等列車のイメージを彷彿させ、とても好きな車両でした。
2024.03.21
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781系:特急「ライラック」特急「ライラック」は、昭和55年10月1日の改正で誕生した北海道では2番目の電車特急です。それまで運転されていた函館本線札幌~旭川間の「いしかり」を引き継ぎ、さらに千歳線経由の電化で運転が可能となった札幌~室蘭間を直通する特急列車として設定されました。ただし、末端区間の東室蘭~室蘭間は普通列車となっています。※設定にあたっては、気動車急行「ちとせ」を格上げした形としています。車両は北海道用に開発された781系電車が使用されました。昭和56年3月11日 函館本線 白石~厚別間にて雪煙を巻き上げて驀進する781系。加速性能・最高速に優れた電車特急781系は、711系急行列車にもディーゼル特急にも勝り、都市間の速達輸送に貢献した。昭和56年3月??日 滝川駅?にて俊足を誇った「ライラック」。各主要駅に停車しながら北進した。昭和56年3月11日 大麻~厚別間にて昭和56年3月19日 千歳線 恵庭~島松間にて「ライラック」は、それまでの旭川~札幌間の都市間輸送に、さらに千歳線電化により室蘭への輸送も担うようになりました。支線である東室蘭~室蘭は、普通列車として支線へ乗り入れるようになりました。昭和56年3月??日 札幌駅にて 高架化される前の札幌駅に停車中の「ライラック」。旭川~室蘭の直通運転では、札幌で折り返し運転が必要となっています。平成2年9月6日 豊幌~上幌向間にて昭和61年11月1日の改正により、それまで6両編成を通してきた781系は、速達型の「スーパーホワイトアロー」ととも4両編成化された。平成4年7月1日、新千歳空港駅開業に合わせた改正が実施されました。この時点において、「ライラック」は元「いしかり」の運転区間であった札幌~旭川間のみとなり、札幌~室蘭間は「すずらん」と名称が変わってしまいました。この時点において、JR北海道は本州からの連絡は鉄道ではなく、航空機からであることをセオリーとして完全に吹っ切れたようです。民営化されたので、「鉄道一体」という考えから脱却を図ったのでしょう。そして平成19年9月30日、最新型の特急型電車789系の導入による「スーパーカムイ」が誕生、ここに781系電車特急「ライラック」も同時に幕を閉じることとなりました。
2024.03.20
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485系:快速「くびき野」北陸新幹線の延伸開業に湧く北陸。1月1日の大地震さえなければ、もっと活況になっていたことと思います。それでも、復興の足掛かりになってもらえば、それはそれで嬉しい。いずれは北陸新幹線に乗って訪れたいものです。一方、ちょいと離れた新潟・長野地区において、「北越」などの廃止で消滅してしまった新潟色(上沼垂色)をE653系で復活させるらしい。E653系 上沼垂色車両 運転これといった話題が見い出せない身としては、ちょっとした嬉しい出来事かも。本題です。快速「くびき野」は、信越本線で新潟~新井間を結んでいた快速列車です。長野新幹線が開業した平成9年10月1日、長野~新潟間を結ぶアクセス列車として誕生した特急「みのり」でしたが、新幹線の接続から長野以遠を利用する乗客は殆どなく、平成14年に早くも廃止となりました。同時に、需要のあった新井~新潟間の都市間輸送速達列車として快速として存置されたのが快速「くびき野」で、特急車両の485系がそのまま使用されました。地域間輸送の太さは昔とかなり変わってしまいましたが、古くは上田~新潟間を結んだ急行「とがくし」や、長躯名古屋~新潟を結んだ急行「赤倉」もこの列車の起源と言えると思います。平成27年3月14日、北陸新幹線の開業に伴い、新たな接続点となる上越妙高駅を含む新井~新潟間の特急「しらゆき」として、車両のグレードアップと共に存置、発展的解消されることになりました。平成23年5月4日 485系T-17編成 快速「くびきの1号」 青海川~鯨波間にて信越本線の日本海区間は、何度か通過したことはあるものの、撮影を行ったことはありませんでした。この写真を撮った時も急行「きたぐに」を撮影に行った時のもので、殆どついでといったものでした。風光明媚な区間を走っていた列車だけに、もう少し撮影に行っていれば・・・とちょっぴり後悔してます。
2024.03.19
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205系1100番台:鶴見線(扇町へ)鶴見線205系1100番台撮影記の最終回で、終着の扇町駅へと向かいます。鶴見線には過去に3回か4回は来ていると思いますが、いずれも浜川崎駅で南武線浜川崎支線へと向かってしまっているため、扇町も今回が初踏破区間となります。※撮影は、令和5年11月11日です。浜川崎駅にて 扇町行 T11編成大川駅から徒歩で浜川崎駅へ。ちょうど扇町行の時間となりました。こちらのホームに来たのは21年振りですかね。こんなにホーム狭かったっけ?クモハ204-1101やってきたのは大川支線で乗った編成と同じT11でした。山手線のモハユニットのうちモハ204側に運転台を取り付けたもの。205系でも比較的に初期の車両となっています。扇町駅にて初下車となった扇町駅。記念写真を撮っていたらちょうど良いところに猫ちゃんが居たのですが、トイレに駆け込んで出てくると、もういなくなってました。残念。もう何枚か撮ろうと思っていたら、直ぐに発車。今回の撮影で一番せわしなかった。クハ205-1101帰りはクハに乗車。クハは元埼京線の車両で後期のため、ドア窓が大きいタイプです。浜川崎駅にてわずか数分で浜川崎駅に到着。時間調整が入ります。先に到着した浜川崎支線から客が何人も乗って行きました。最後にホームを離れるT11編成を撮って終了。この時点でもまだ9時ちょい過ぎ。せっかくここまで来て帰路に着くには早過ぎですね。鶴見駅に着いてから2時間弱ですが、久し振りに何だかスゴク楽しめました。普段はしない乗り鉄もできましたし。205系1100番台:鶴見線(鶴見駅)205系1100番台:鶴見線(大川支線)103系:鶴見線旧型国電 73系:鶴見線JR東日本 鶴見駅:鶴見線乗換口発行 区間変更券
2024.03.18
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EF62牽引:急行「越前」令和6年3月16日、北陸新幹線が延伸開業され、東京~福井間が1本で繋がりました。東京から北陸へ行く場合、富山・金沢へは信越本線~北陸本線経由が一般的でしたが、福井は微妙な位置にあり、距離的には信越本線経由が微妙に近いものの、時間的には東海道新幹線~北陸本線経由が有利でした。北陸新幹線など影も形もなかった時代、唯一福井へ直通する夜行急行がありました。「越前」は、上野から信越本線経由で福井まで運転された、北陸急行の中では1番距離の長い夜行急行でした。編成は、荷物車、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車自由席で、普通車指定席は連結されていません。途中直江津まではEF62が牽引しています。「越前」は夜行列車でしたが、上野着が7:05と比較的ゆっくり到着するため、冬期においても上野口での撮影が可能な列車でした。特徴としては、私の知る限り近代化更新後の旧型客車で統一されており、荷物車もパレット積み対応のマニ37(青)で、EF62の前面警戒色以外すべて青で統一されていたイメージがあります。昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF6223牽引 上り「越前」昭和57年5月頃 浦和~南浦和間にて EF6222牽引 上り「越前」昭和57年11月13日 上野駅にて EF6237牽引 上り「越前」到着昭和57年11月14日 大宮駅にて 上り「越前」到着この区間において、定期列車でEF62を見るとことが出来たのがこの「越前」と夜行急行「妙高」のみでしたが、「妙高」は駅撮りも出来ないほど早朝の到着時間であったため、実質的に写真に撮ることが出来たのはこの「越前」だけでした。「越前」は上野~福井間を信越本線経由で設定されていましたが、昭和57年11月の上越新幹線開業時に上越線経由であった「能登」の廃止により、運転区間を金沢で打ち切りされた挙句に愛称まで乗っ取られてしまうことになります。やはり、福井県に入らない列車名に「越前」を使用することは出来なかったのでしょう。この上り「越前」は、臨時運用のカマの送り込みスジとして使用されていたそうで、EF62同士やEF58との重連運用が生じることが多かったそうです。しかし、当時はそのような情報を知る由もなく、私は一度も見ることができませんでした。EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)489系:急行「能登」
2024.03.17
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キハ181系:特急「やくも」(その1)伯備線及び山陰本線の一部が電化し、新幹線岡山開業以来、陰陽連絡の大役を担うことになった特急「やくも」が381系化されることになり、「つばさ」以来のキハ181系ファンであった私は一大決心の末、友人を引き連れて山陰へと旅立ちました。旅費を節約するため、当時165系の「大垣夜行」から普通列車の「山陰」を乗り継ぎ、初めて山陰本線へとやってまいりました。今回は、一連の行程で撮影した特急「やくも」のうち、止まっている写真をご紹介したいと思います。※撮影は、昭和55年8月です。松江駅にて 「やくも10号」駅間撮影が終わった移動中に途中の松江駅で交換したようです。当時、松江駅は既に高架化されていたようですが、ちらっと写るホームを見ても、まだ完成直後のように見えます。旧客の窓から撮った「やくも」。今となっては貴重なシーンです。乗っている列車は、福知山発浜田行の543レのようです。出雲市駅にて 「やくも12号」カラーとモノクロで撮影されておりますが、いずれも同一列車のようです。この列車だけは益田発となっており、電化により出雲市~益田間は廃止されました。出雲市駅にて「やくも5号」列車は5号ですが、今ほど本数のない時代ですので、時刻は17時ちょうどになっています。時刻表によると当時は6往復が設定されていました。グリーン車1両を含む9両編成で、食堂車まで連結された堂々たる編成でした。
2024.03.16
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255系:特急「わかしお」特急「わかしお」は、昭和47年、東京地下駅の開業と同時に「さざなみ」と共に運転が開始されました。老朽化・陳腐化による車両の更新を行うため、当初から使用されて来た183系0番台の一部を新製255系に置き換えることになりました。平成5年7月のことです。255系導入に当たっては、名称を「ビューさざなみ」「ビューわかしお」とし、差別化を図りました。なお、平成17年12月ダイヤ改正において、「ビューわかしお」は「わかしお」に変更されています。「ビューわかしお」のデビューから30年、予てから噂はありましたが、255系がとうとう全面撤退となるそうです。ただ、京葉線の通勤時間帯における快速の廃止で地元自治体と大揉めに揉めた経緯があり、どうも6月くらいまでは255系が暫定的に延長して使用されるようですけど。平成19年8月26日 葛西臨海公園駅にて平成21年10月24日 潮見駅にていずれも京葉線の201系や205系量産先行車の撮影をしていたときに偶然に撮っていたもので、いずれも東京着上り「わかしお」の折り返し入庫回送列車のようです。ヘッドマークがありませんから、まあどうでも良いところ。元々房総特急は乗車率が昔から良くなくて、183系0番台の9連では完全に過剰供給でした。国鉄時代末期から短編成化を実施した中で、鳴り物入りで誕生した255系は再び9連の貫禄ある編成で活躍してきましたが、道路の発達には太刀打ちできなかったようです。いよいよ令和6年3月の改正で全面撤退となり、このまま廃車となってしまう可能性が高いようです。一時代を築いたというにはあまりにも地味な存在だったように思います。183系0番台:特急「わかしお」183・189系:臨時特急「新宿わかしお」189系M51編成:臨時特急「わかしお82号」10-1870 255系 9両セット[KATO]【送料無料】《06月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1870 255系 9両セット
2024.03.15
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255系:特急「しおさい」「しおさい」は、昭和50年3月10日のダイヤ改正で、総武本線の全線電化により誕生した特急列車です。それまで、総武本線の優等列車は急行「犬吠」が気動車で運転されており、特急「しおさい」の誕生とともに電車化(153系・165系)されています。特急化から183系0番台(のちに189系が混入)で運転されてきましたが、E257系500番台の誕生により、平成17年からは255系も運用に入るようになりました。平成27年3月のダイヤ改正において、内房・外房で輸送力を持て余していた255系による運用が主体となり、E257系すら撤退してしまったと思っていたのですが、朝の1本のみ残存していたようです。平成20年5月3日 物井~佐倉間にて 特急「しおさい14号」撮影会でいわゆるモノサクに行き、終焉間近の113系を撮っていました。暗くなってきての撤退途中、偶然にやってきた255系「しおさい」撮っておいたもので、あまり撮影機会のない中、やっと1枚だけ撮っていたという状況。255系メインの列車となった「しおさい」ですが、令和6年3月ダイヤ改正で255系が全面撤退となり、1往復を除いてE259系による運用になってしまうようです。あの塗装では、なんか「しおさい」らしくないですね。183系:特急「しおさい」
2024.03.14
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キハ40系盛岡色:津軽線 345D※本記事は、2018-03-24に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年3月のダイヤ改正で、八戸線のキハ40系が「うみねこ」を除きすべてキハE130系に置き換えられ、これに伴いキハ40系盛岡色が終焉を迎えたとの情報がありました。遠く離れた地の情報でもあり、八戸駅を乗り換えで使用したことはありましたが、八戸線を撮影したことはなかったので、ちょっと戸惑ってしまいました。何故かというと、私の記憶では、八戸線以外の路線でも盛岡色の印象があったからなのです。釜石線では平成6年頃から、山田線などでは平成19年頃からキハ110系に置き換えられていたらしく、青森近辺でも、路線として孤立している大湊線では、快速「しもきた」を含めてキハ100系化されてしまっていたようです。あまり塗色変更車が好きでなかったために撮影が疎かになりがちでしたが、盛岡色で1枚だけ撮影していたのを思い出しました。平成24年3月11日 青森駅にて 津軽線 345D キハ40556ほか寝台特急「日本海」が最後を迎えるとき、青森まで行って撮影してきました。その際、ホームに停まっていた津軽線の345Dを撮影したものですが、これが盛岡色を撮った最初の写真だったようです。昔ならこのような状況ではまず写真を撮ることはなかったのですが、ここはやはりデジカメ時代の産物と言ったところですね。盛岡車は渡り板に記号番号が記載されているので、車番も判って良い記録になります。平成24年3月13日 青森車両センターにて キハ40568ほかなんとなく別に見たような記憶があったのでデータを探したところ、青森車両センターを偵察に行った際、DE101751が居たので写真を撮り、構図の関係で手前に写っていたのがキハ40568盛岡色でした。おそらくは、八戸線運用のために青森に駐機している車両だと思われます。民営化の頃からキハ40系を始め、キハ20系、キハ45系、キハ58系まで巻き込んで東北東部を席巻した盛岡色ですが、いつの間にかキハ110系などの新鋭車に置き換わっており、盛岡管内ではキハ40系も絶滅車になってしまうようです。八戸線のキハ40系全廃と盛岡色消滅の繋がりがイマイチ良く理解できなかったのですが、津軽線を調べてみたらいつの間にか秋田車の運用に差し変わっており、やっと状況が理解できました。偶然ではありますが、この塗装車がギリギリのところで記録出来ていたのでホッとしました。
2024.03.13
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名古屋鉄道:3150系(オリジナル塗装)名鉄では珍しい銀色の3300系。4両編成の3300系に対し、2両で編成したものが3150系と区別されています。平成16~17年に2次車まで誕生したもので、その後は製造がされていませんでした。平成27年、10年振りに製造が再開され、特に4次車以降はカラーリングが変更されました。これに合わせ、先に運用されていた1~2次車についてもデザインが変更されました。※3150系については、1~4次車が初期車、5~7次車が後期車となります。平成17年7月23日 木曽川堤~黒田間にて 3153F 急行まだ登場間もない頃で、銀色の車両が走っているのは知りましたが、例によって銀色はあまり興味が湧かず。ただ、当時はやはり名鉄では珍しい銀色なので印象は強い車両でした。平成21年8月22日 飯田線 下地駅にて 3154F 急行佐久間レールパークに訪問し、帰りに下地駅で途中下車した際に来た名鉄列車。銀色電車が懐かしくてシャッターを切りましたが、残念ながらブレてしまいました。名鉄では異色なデザインの車両も、カラーリングの変更によりスカーレットの面積が増えたことにより名鉄らしい車両になりました。いずれもついでに撮れたものですが、また時代を表現する車両の記録となりました。
2024.03.12
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気仙沼線:津波に呑まれた志津川駅東日本大震災から13年が経過しました。復興はかなり進みましたが、地域が元通りになることはなく、まして亡くなった方が戻ることはありません。原発の事故さえなければ、もう少し早く進んではいたと思うと、なんともやるせないです。乗り鉄ではないので、東北のローカル線には殆ど訪問した記録がなく、石巻線や仙石線までは行ったことがあるものの、三陸は未開の地です。クルマでは通ったかもしれませんが・・・。そんな三陸で、バスで行った唯一の地域が南三陸町の志津川でした。平成23年4月、東日本大震災の発災から1か月弱のことです。ただ、被災地への緊急支援のため、どこに何をしに行くかも告げられず、しかも、1日前倒しで出発するように命令されました。そんなことで、自分の行った場所が理解できませんでした。昭和50年7月号 交通公社時刻表より場所を把握する手段として、手元にあった時刻表路線図をスキャンしてみました。しかし、海岸沿いに志津川駅が見つかりません。良く見ると、気仙沼線がまだ完成していないのです。気仙沼線は、昭和52年12月に全通、国鉄最後に完成した地方交通線だったそうです。平成26年6月号 交通公社時刻表より近場にあった時刻表の路線図で、震災発生後となりますが、路線図はそのまま掲載されています。志津川駅は内陸部に入っているような表示ですが、これはデフォルメで、もっと海に近いですね。そのため、町の中心部を含め、大津波に襲われてしまいました。支援先である志津川小学校から町の中心部方向を撮った写真です。見渡す限りの更地になっていますが、家の基礎だけは残っており、かなりびっしりと家が建っていたのではないかと思われます。中学校へ作業用のレンタカーを返却した徒歩での戻り道、川もないのになぜか陸橋があるのでここを昇ってみて愕然としました。知識のある者なら分かる、線路の路盤にしか見えない光景。ケータイしか持っていないので見易い写真ではないのですが、直線の奥のほうには土台のような残骸が残されており、ここが駅だったんであろうということも想像するに難くなかったです。無くなってしまった街、そこら中に散らかった瓦礫・残骸ももちろんショックな光景でしたが、路盤流失でも大概は残るはずである線路が枕木ごと流され、全く残されていなかったのは衝撃でした。津波がこれほどまでのパワーを持っていること。あれから13年。支援に行った当時は、復興したらもう一度行ってみようと思っていましたが、なかなか再訪問する気にはなれませんでした。この間、この時期が巡るごとに被災地の復興の様子が気になりますが、整備はかなり進んだようです。しかし、また災害に襲われる危険のある気仙沼線は再建が断念され、BRT化により区間廃止となってしまいました。こんな辛い気持ちで迎える廃線は初めて。この機会を最後と願います。時間が取れたら、またこの地域を訪れてみようという気持ちが強くなってきました。
2024.03.11
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キハ35系職員輸送:川越線→大宮操車場貨物大合理化が行われた昭和59年2月ダイヤ改正まで、大宮操車場では朝の通勤時間帯に職員輸送用の列車が走っていました。定期列車の川越線が大宮到着後、客を降ろすとそのまま回送扱いとし、大宮操車場の職員を乗せて西部入換(下り発着線の位置)まで職員輸送を行っていました。大宮操車場の発着線はすべて電化されていましたが、当時の川越線は非電化でしたので、キハ35系4連を延長のように使用していました。構内が大雪の画になっていますので、おそらく昭和59年に撮影したものではないかと思われます。このシーズンは非常に雪が多く、入換でも泣かされたものですが、既に廃止を間近に向かえた職員の心情としては、お別れの記録作りに恰好の演出を提供してくれました。列車は入換扱いで下り線を逆走、下り発着線(現在の国の合同庁舎付近の位置)まで走り、折り返してまた大宮まで戻って来ました。この写真は返しの写真となります。返しには乗ったことが無かったので、大宮機関区に入庫したのか、大宮駅まで行って定期列車に充てたのかまでは定かではありません。この列車では始業時間ギリギリの到着となるため、当時一番下っ端であった私などは、余程さらに下の職員(私は同期の中でも一番早く配置されたので、既に同じ年の後輩がいた)が同じ出番にならない限りは、使用できるものではありませんでした。そんなことで、ほぼ2年間配属となってしましたが、10回も乗ったことが無いと思います。当時はキハ35系そのものが珍しくも貴重でもありませんでしたので、カメラを向けることは殆どありませんでした。そのため、大宮操車場構内を走る同列車を撮った写真というのは殆ど無く、広大な発着線をノンビリと走る同列車の風景を撮らなかったことは、非常に勿体無いことをしたと思います。
2024.03.10
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683系:特急「しらさぎ」平成15年、485系から683系に変わって以来、12年にわたって北陸を走り続けた特急「しらさぎ」ですが、北陸新幹線が開業する平成27年3月改正をもって、681系に車種変更されるという概要が発表されました。あわせて、運転区間も名古屋・米原~金沢間に変更されることになりました。683系登場以来、北陸へ撮影に行ったのは2度のみであり、記録としてはあまりありませんが、683系「しらさぎ」の画像を集めてみました。平成20年4月22日 今庄~南今庄間にて 「しらさぎ4号」平成20年4月22日 南今庄駅にて 「しらさぎ1号」平成20年4月22日 南今庄駅にて EF510-6牽引貨物列車&「しらさぎ3号」平成20年4月22日 敦賀~新疋田間にて 「しらさぎ58号」平成21年8月23日 柏原~近江長岡間にて 「しらさぎ3号」平成21年8月23日 近江長岡~柏原間にて 「しらさぎ4号」 平成27年1月23日 津幡~倶利伽羅間にて 「しらさぎ7号」平成27年1月23日 金沢駅にて 「しらさぎ57号」平成27年1月23日 金沢駅にて 「しらさぎ64号」平成27年1月24日 越中大門~小杉間にて 「しらさぎ17号」「サンダーバード」と「はくたか」は同じ編成構成となっているのに対し、「しらさぎ」は基本編成が5連であるため、5連又は3連増結の8連と、統一性を欠いていました。さらに、「サンダーバード」と「はくたか」のブルーラインは統一されていましたが、「しらさぎ」はJR東海のコーポレートカラーであるオレンジラインが追加されているため、「サンダーバード」と共通運用されることもありませんでした。「しらさぎ」は681系化され、運転区間も北陸新幹線と併行する区間廃止されました。さらに、北陸新幹線が敦賀まで開業すると、北陸本線の走行区間はほんのわずかになってしまうことになります。平成27年1月23日 特急「しらさぎ14号」 倶利伽羅駅にて
2024.03.09
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【謎】根室本線:C58牽引 貨物列車or混合列車?※ 2021/7/17 23:37のリバイバル記事のため、表現が当時のものになっています。【写真】根室本線 混合列車:混441レ&混444レこのところ連続で金町のHさん提供の根室本線混合列車に関する写真等をご紹介させていただき、好評を得ました。先述のとおり、この列車には混合列車という性格の中に主目的であったコキ10000系「北海ライナー」の源流となる部分のほか、荷物車や郵便車の運用や役割まで、想像以上に深堀することになり、自分自身が一番わくわくしてしまう結果となりました。そして、一連のご提供いただいた写真の中で441レ&444レではない写真が1枚あり、ネタに組み込めませんでした。この写真も注意してみると非常に興味深いものであったので、検証できた範囲だけですが説明を組んでみたいと思います。昭和48年3月23日 厚岸にてC58牽引の根室本線を行く貨物列車。後部から2両目と3両目はコンテナ車が連結されており、フルコンで色彩的に冷蔵コンテナが積載されていることを考えるとコキ10000と思われ、上りの444レでしか確認できなかった「北海ライナー」用コキの下り送り込みと考えられます。やはり、時間帯の関係で441レではなく、貨物列車で運用されていたと考えて良さそうです。それ以外にどんな貨車で構成されているかを見てみますと・・・カマの次位は草で見えにくいのですが、どうも車掌車のようで、しかも黄帯を巻いているようです。ワフ21000の二段リンク未改造車であるロワフ121000でしょうかね。その次にかなり古い形のワムが。これはワム50000形でしょうか?その後は定番のワム群、タキ3000のようなタンク車が連結されています。そしてお馴染み、木材チップ輸送用のコトラ90000が5両。コキ10000が2両と続きます。そして最後部。この車両が謎を深めてしまいます。最後部に連結されている荷物車らしき車両。アップにして注視してみると、ベンチレータの数からどうも郵便車っぽいです。スユ42のような車両でしょうか?しかも、さらに良く見るとT形の煙突らしきものも確認できます。1つは向かって右側の車端に、もう1つは中央よりやや左寄りにあります。これは右側に車掌室、センターは郵便区分室に当たると考えられます。このことから、途中駅解結がある貨物列車で、終点まで運用される郵便車を最後部に連結し、暖房が届かないためにストーブ付きの車両を用意している、と想像することができると思います。ただ、これは最後部の郵便車が定期運用であることが前提での話になります。単にこれが回送連結だとすればすべてがクリアになってしまい、定期連結だとすればこれが混合列車ということになります。しかし、これも微妙で、荷物車や郵便車と貨車を混結した定期混合列車(つまり客を乗せない)と言うのはあまり認識がないので、これを混合列車と言うのか貨物列車と言うのか分からない、というのがオチです。【答え】列車番号を調べれば分かります・・・知りませんけど。1枚の写真でこれだけ楽しめる。素晴らしいです。模型での編成ネタにも持って来いですね。
2024.03.08
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EF66牽引:寝台特急「みずほ」東京口におけるブルートレインの利用低迷を打開する策として、25系にロビーカーを組み込むことになりました。その際、勾配区間におけるPFの定格がやや低く、ダイヤの定時確保が困難になることから、貨物用の大出力機であるEF66に白羽の矢が立ちます。本来であれば、ロビーカーを持たない14系編成の「さくら」「みずほ」には影響の無かった話ですが、運用の共通化ということでそのまま移行されたようです。『EF65500番台牽引:寝台特急「みずほ」』『EF651000番台牽引:寝台特急「みずほ」』今回も枚数は少しだけですが、EF66化後の寝台特急「みずほ」の写真をご紹介いたします。昭和62年2月14日 三島~函南間にて EF6650牽引一連の撮影で初めて富士山バックの撮影に挑んだものですが、なかなか富士山は現れてくれませんでした。「みずほ」のヘッドマークは全体的に白っぽいので、強い日差しが当たると飛んでしまうのが難点でした。昭和62年2月15日 真鶴~根府川間にて俯瞰による鉄道風景写真を好んで撮るようになった頃です。結果的にヘッドマークすら良く見えない写真になってしまいまいた。対九州の寝台列車の利用率低下に歯止めがかからず、誕生から終始脇役的な列車として存在してきた「みずほ」でしたが、平成6年12月の改正をもって東京発のブルトレとしてはいち早く廃止されてしまいました。
2024.03.07
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名古屋鉄道:2200系(登場当初)名古屋鉄道の特急型車両である2200系電車です。2000系「ミュースカイ」をベースとして、一般車を混結する編成とするためにやはり平成17年から運用を開始しました。「ミュースカイ」はホワイトを基調としてブルーのラインを配したデザインに対し、2200系はホワイトを基調に名古屋鉄道のカラーである名鉄スカーレットを配したデザインとしました。平成17年7月23日 木曽川堤~黒田間にて 2200系2203F登場間もない頃に撮影したもの。一般車を混結した編成なので、国鉄時代からの特急列車を知る身としては、サイドから見るに違和感を禁じえません。しかし、セントレア開業関連のダイヤ改正からは「ミュースカイ」を除く特急列車をすべて指定席車と混結する方式に転換してしまったため、在来の1000系「パノラマデラックス」も含めこのような編成となってしまいました。写真の2203Fは1次車で、この頃はまだ4編成しか存在しなかったためか、数時間粘ってもこれ1枚しか撮影できなかったように記憶しています。現在は塗装デザインが変更されてしまい、このデザインは消滅しています。
2024.03.06
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789系:特急「白鳥」前記事で789系「スーパー白鳥」をご紹介いたしましたが、今回はスーパーではない789系「白鳥」のご紹介です。「はつかり」から「白鳥」への切替当時より、速達タイプはJR北海道789系による「スーパー白鳥」、停車駅が多いものをJR東日本485系3000番台による「白鳥」としていましたが、運用の調整等により「白鳥」に789系が使用されることがありました。ただ、それほど頻繁には行われていなかったようで、現地においてもこの運用を注目するファンが居たようです。私も現地に行ったときに線路端で知り合った高校生に情報を聞き、偶然に捉えることが出来ました。※撮影は、平成24年3月13日です。789系 「白鳥28号」 油川~青森間にて貨物列車を撮影するために青森車両センター付近うろついていました。ここで1人だけ撮影者と出会い、聞くところによると地元の高校生で、スーパーではない789系「白鳥」が来るという情報を得ました。しかも定期列車への運用変更のようです。この情報を聞かなければ、撮らずに立ち去っていたかもしれませんでした。789系 「白鳥23号」 青森駅にてバスに乗って青森駅に戻ってみると、偶然にも折り返しとなるスーパーではない789系「白鳥」が停まっており、じっくりと撮ることが出来ました。ヘッドマークをアップにしてみると、デザインは「スーパー白鳥」とまったく同じようですが、「super」の文字が表現されておらず、「白鳥」専用のものとなっています。平成24年3月13日 青森駅にて モハ789-200中間に簡易運転台が付いた車両です。いつもこうしたシーンを逃してしまうので気を付けていました。青函トンネルを通過する在来線定期旅客列車は消滅し、こうして青森駅でJR北海道の車両を見ることもなくなってしまうのでしょう。そして、特急「白鳥」は2度目の消滅となってしまいました。
2024.03.05
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キハ82系:特急「北斗」特急「北斗」は、函館~札幌を結ぶ、北海道では「おおぞら」「おおとり」に続く第3の特急列車です。登場から永らくキハ82系が使用され、臨時列車を含めると、最後までキハ82系が使用された列車としても有名です。使用車両はグレードアップが進められ、現在も都市間を結ぶ特急列車として重要な地位にあります。今回はキハ82系時代をご紹介いたします。昭和56年3月 札幌駅にて北海道へは前年の3月同時期にも訪れていますが、「北斗」の写真は函館駅で撮ったものくらいしか見当たりませんでした。本数も道内で一番ありましたので、逆にあまり撮っていなかったようです。その反動か、2回目に訪れた時は、結構駅撮りもしていたようで、特に地平時代の札幌駅で撮った写真は多かったようです。昭和56年3月 札幌駅にてこちらも同じく札幌駅にて。時計があって、17時を回ったところですが、かなり明るいですね。低いホームと相まって、直ぐに線路に降りられるくらい高く根雪が積もっています。昭和56年3月20日 森~東森間にて北海道からの帰途、友人とウマが合わずに別れ、一人でさっさと帰ろうとしたものの何だか惜しくなってしまい、早朝に着いた函館から引き返して走行写真を撮りました。そこそこ長い時間いましたが、通ったのは「北斗」「おおぞら」と貨物列車の3本だけだったみたいです。昭和56年3月20日 函館駅構内にて函館駅の外れに掛かっている跨線橋から、青函連絡船乗り継ぎの合間に撮影していました。札幌駅は氷の中と言った情景でしたが、道南はやはり気温が高いのでしょうか、日陰に雪の残骸がある程度しか見当たりません。上の写真はキハ82の初期型で、運転席直後のクーラーを増設したタイプ。そして、下の写真は後期型で、初めからクーラーが増設されているタイプです。上から見ると、2番目のクーラーとの距離の違いが判ると思います。写真からでは見づらいですが、初期型の行先札はトイレ窓直上に設置され、後期型はドアの直ぐ横上にあるので、サイドから見るとより違いが判ります。そのようなアングルの写真も撮っておけば良かったのですが、この頃はそんな違いがあることさえ知りませんでした。昭和58年9月7日 函館本線 赤井川駅構内にて大沼駅~大沼公園~赤井川と徒歩で踏破した際、赤井川駅に着いて普通列車を待つ間に撮影した写真です。本来であれば駅から外れたポイントで撮りたいところですが、何故かこの安全側線と本線の坂道の雰囲気が非常に気に入って、敢えてこのアングルを選んで撮りました。とにかく、このときは東京を出てから家に帰るまで雨が一切止むことは無かったという悲惨な撮影行でした。晴天だったら、もっと違うさわやかな雰囲気で撮ることが出来たのでしょうが、如何にもローカルなひなびたシーンになってしまいました。当時からでも本数が多く設定されていた「北斗」でしたが、室蘭本線などでの駅間撮影をしなかったこともあり、キハ82系の写真は意外と少なかったです。その分、後の撮影では道南から室蘭本線に掛けて立ち寄ったことが多かったため、キハ183系の「北斗」は随分と撮っています。まあ、高校生レベルで行っただけで興奮モノの北海道でしたから、全体の中でこれだけ撮れていれば仕方なかったと思います。キハ183系:特急「北斗」
2024.03.04
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名古屋鉄道 2000系:「ミュースカイ」(登場当初)「ミュースカイ」として現在も活躍している名古屋鉄道2000系電車。中部国際空港(セントレア)へのアクセス用車両として、2004年(平成16年)1月29日に運行を開始しました。現在は、4両編成12本が運用されているということですが、登場当初は3両編成となっていました。予想を上回る需要があったため、3連×2で対応していましたが、需要に追い付かなくなってしまったため、中間車を増備して現在のような4連×2の運用になったそうです。平成17年7月23日 木曽川堤~黒田間にて 2000系 2006(二次車)愛知万博を訪れた際、親戚の叔父がクルマで送ってくれたために名鉄の撮影が実現しました。目的は7000系だったのですが、残念ながら1本も会うことが出来ませんでした。登場したばかりの2000系には興味もありませんでしたが、3両編成時代というのは非常に短い期間でしたので、貴重な時代の記録の1コマとなりました。
2024.03.03
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183系マリ32編成:団体「上野動物園パンダ号」高崎線方面からは、上野動物園への遠足?でしょうか、幼稚園生向けと思われる団体列車が良く運転されます。平成になってからは183系が主に使用されていたようですが、やはり183系引退に伴って185系へと移行していきました。※撮影は、平成25年3月2日です。183系マリ32編成 9525M 団体「上野動物園パンダ号」時折りこのように列車名が設定されるものがありますが、ヘッドマークが掲出されるかどうかはビミョーでした。それでも、OM車は国鉄色ばかりの時代でしたので、地元を通る営業のマリ車はそこそこ貴重な存在でした。
2024.03.02
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485系ニューなのはな:団体列車(東北本線)※本記事は、2016-09-26に投稿したもので、当時の表現になっています。平成28年9月25日、千葉地区を担当していたジョイフルトレイン「ニューなのはな」が長野への廃車回送を兼ね、団体臨時列車「ありがとう485系 ニューなのはな 長野への旅」として運転されました。平成10年2月、それまで運転されていた165系お座敷車両「なのはな」の後ガマとして誕生した「ニューなのはな」。当時、客車によるジョイフルトレインの淘汰にあたり、電化区間を効率的に運用できる485系を種車とした改造車両が多く誕生しました。特に、「ニューなのはな」は、座席と座敷の両用として使用できる構造としており、他の485系改造車両とは一線を画す車内設備となっていました。平成21年10月31日 9662M平成21年10月31日 9663M平成24年10月20日 9737Mいずれも地元で撮影したものです。幕張電車区に配置されている性格から房総~中央線での運用がメインで、武蔵野線を通過して東北・高崎方面への運用もそこそこありましたが、上野発着や新宿経由での運用はあまり多くなく、地元で捉えるのは困難な車両でした。特にこうしたジョイフルトレインは、団体列車以外にも臨時快速列車に運用されることが多くありますが、ヘッドマーク設備が無いことから遠征してまで撮影に行きたくなるほどの写欲もなく、そのため同車の記録もほとんど残っていません。今回は「ニューなのはな」に後継車両の準備が無く、波動用の車両も183系マリ車の撤退から無配置状態となっていますので、このまま房総地区における波動用車両の配置はなくなってしまうのでしょうか?送料無料◆A3672 マイクロエース キロ59系 リゾートサルーンフェスタ 3両セット Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】A3672 キロ59系 リゾートサルーン・フェスタ 3両セット[マイクロエース]【送料無料】《08月予約》ほんと、色んなもん出しますんね。しかも髙っ!
2024.03.01
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