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西武鉄道 10000系:特急「むさし」特急「むさし」は、朝と夕方~夜が主な設定時間であり、観光特急ではなく、ビジネス特急の性格が強いものです。(西武新宿線においても、「小江戸」が誕生する前に新宿~本川越間で同名の特急が設定されていました。)平成20年過ぎから西武線に接する機会が多くありましたが、なぜか自分が動いている時間には設定がなかったようで、過去写真を探しても1枚も記録が残っておらず、当時から「全然撮れない」とぼやいていたようです。平成29年6月8日 東久留米駅にて 特急「むさし」 何年振りかの現場で、偶然に撮ることができた初めての特急「むさし」は、platinum expressのラッピング編成でした。令和2年2月8日 石神井公園駅にて 「むさし66号」 CLASSICそして月日が流れ、池袋線からの撤退アナウンス後に撮影を始めた特急列車。ここでやっとCLASSICを撮影できました。令和2年2月8日 秋津駅にて 送り込み回送上の写真と同日の回送列車。「むさし」から飯能へ回送され、さらに「むさし」の運用される設定で、アプリが無かったら捉えるのが難しい存在です。令和2年3月1日 特急「むさし74号」 ラストラン記念ヘッドマーク再び出撃のラストラン記念ヘッドマーク編成が、たまたま「むさし」でした。令和2年3月6日 練馬駅にて 特急「むさし23号」 ラストラン記念ヘッドマークもう訪問しないだろうと思って数日、時間休が取れたので寄り道でGETも、またまたラストラン記念ヘッドマーク編成の「むさし」でした。並べてみましたら、ノーマルなシチュエーションが全くなく、ちょっとビックリしました。すべてがレアモノなんてね。走っている時間帯の関係でやむを得ない部分が大きいのですが、これほどまでに当たりづらかったとは、掘り出すまで気が付きませんでした。西武鉄道 10000系:特急「ちちぶ」(その1)西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー 特急列車運転50周年西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー(プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. )
2024.11.30
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415系(塗装変更後):常磐線E531系化が完了して久しい常磐線上野口の普通列車ですが、その昔は国鉄型の鋼製車が殆どを占めていた時代が長く続きました。過去ログ『415系(ローズピンク):常磐線』昭和60年に開催された科学技術博覧会(つくば万博)を契機として、長距離電車の15両化、赤電からの塗装変更が実施されています。どちらの塗装もあまり好きではありませんでしたが、やはり常磐線の普通電車と言えば赤電であり、塗装変更後は殆ど写真を撮ろうという気にはなれず、記録も殆どありません。平成元年5月5日 荒川沖~土浦間にて 415系 下り普通列車かなりピンが甘いようですが、なんでこんなアングルで撮ったのか謎です。この頃になると、403系以前の車両は殆どなくなり、1500番台が出揃ってきていたんじゃないかと記憶しています。平成19年1月12日 藤代~取手間にて 415系 1391M平成19年2月12日 藤代~取手間にて 415系 1396M415系は上野口から撤退することになり、鋼製車の活躍も末期となった頃です。この2枚は鹿島鉄道の撮影帰りに撮影したもの。古い401系や403系が無くなり、殆ど興味も失せてしまっていましたが、415系も経年の割には比較的に早く姿を消してしまったような印象があります。415系は初期車が冷房付きの旧型スタイルで特徴があったのですが、当時はそのことを知らなかったので、特に記録することもできず、気が付いた時には既に廃車になった後でした。[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1771 415系500番台(常磐線・国鉄標準) 4両増結セット【特別企画品】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1770 415系100番台(常磐線・国鉄標準) 4両基本セット【特別企画品】
2022.07.18
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185系・183系:臨時特急「草津51・52号」平成21年9月まで運転されていた臨時特急「新宿あがつま草津」でしたが、冬シーズンになって設定がなくなってしまいます。このまま運転形態がなくなってしまうのかと思われましたが、平成22年のゴールデンウィークに復活します。ただし、列車名が「草津51号・52号」となり、本線を走る定期列車と区別が付かなくなってしまいました。平成22年春(ゴールデンウィーク)平成22年5月4日 回9692M 185系 「草津51号」送込み回送平成22年5月4日 9692M 185系 「草津51号」下り 51号 5月1~4日上り 52号 5月2~5日運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 15:37 ~ 新 宿 18:23使用車両 185系7連マーク 専用ステッカー式掲示(「草津」)列車番号をそのままに、何故か列車名が「草津」になってしまいました。上野発着列車と区別するためか、現代の臨時としては珍しく50番代の号数設定となっています。定期のヘッドマークで用が足りるにもかかわらず、何故か専用のステッカー式ヘッドマークが用意されました。平成22年夏平成22年7月18日 185系 「草津51号」平成22年8月1日 185系 「草津52号」平成22年7月18日 北本~桶川間にて 183系OM103 「草津52号」平成22年8月29日 183系OM102 「草津52号」平成22年9月20日 183系OM103 「草津52号」下り 51号 7月17・18・24・31日・8月7・14・21・28日・9月18・19日上り 52号 7月19・25・8月1・8・15・22・29日・9月20日運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 12:13 ~ 新 宿 14:54使用車両 185系7連(運転日赤字のみ183系充当)マーク 専用ヘッドマークは作成されず、185系は定期「草津」、183系は「特急」今回は185系のみならず、一部の上り52号に183系も充当されてされました。185系は定期の「草津」、183系は初めて「特急」を使用しています。平成22年秋平成22年10月9日 池袋駅にて 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月10日 185系 OM03 「草津51号」 送り込み回送平成22年10月10日 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月11日 185系 OM03 「草津52号」平成22年10月11日 185系 OM03 「草津52号」返却回送下り 51号 10月9・10・30日・11月6・13・20日上り 52号 10月11・31・11月7・14・21日列 車 名 「草津51号・52号」運転区間 下り 9003M 新 宿 10:59 ~ 長野原草津口 13:28及び時間 上り 9004M 長野原草津口 12:13 ~ 新 宿 14:54使用車両 185系7連マーク 10月9~11日運転の列車は、80系準急時代のデザインを模したヘッドマークが 用意された。平成22年10月30日 185系 OM03 「草津51号」平成22年10月31日 185系 OM03 「草津52号」平成22年11月6日 大塚駅にて 185系 OM03 「草津51号」平成22年11月13日 185系 OM03 「草津51号」平成22年11月14日 185系 OM03 「草津52号」平成22年11月20日 185系 OM03 「草津51号」今期は185系のみの運用となりましたが、準急「草津」運転開始から50周年を記念したイベント色の濃いものとなり、185系(OM-3編成)が80系時代の塗装に、そして80系時代を模したヘッドマークを掲げるなど話題となりました。なお、今期は最後の運転までOM-3編成が充当されました。特製のヘッドマークが掲げられたのは最初のみであり、その後は定期の「草津」のマークとなっています。塗装については賛否両論となりましたが、変化の少ない185系に一石投じたJR東日本の姿勢は賞賛に値すると思います。しかし、この設定は1シーズンのみにとどまることとなり、「リゾートやまどり」の出現によりその設定も目まぐるしく変化することとなります。
2022.10.29
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ED77牽引:ジョイフルトレイン「オリエントサルーン」団体専用車両、いわゆるジョイフルトレインでは、サロンエクスプレス東京・サロンカーなにわをきっかけとして、欧風客車或いは和洋折衷車両というのも多く出現しました。平成5年2月6日 翁島~磐梯町間にて ED77+オリエントサルーンこれはオリエントサルーン使用の団体列車です。和洋折衷タイプの絨毯敷仕様で、12系からの改造6両編成です。オリエントサルーンは仙センの配置で、主に東北地方で活躍していた列車でしたので、なかなか関東ではお目に掛かることはできません。あまり興味が湧く車両ではありませんでしたが、磐越西線でED77が牽引する姿も初めてでしたので、雪晴れにそびえる磐梯山をバックに合わせてみました。と言いましても、本来このアングルはD51のために用意したものでした。私が撮影したオリエントサルーンは、このほかにEF65が牽引しているものとの2枚だけですので、今となっては貴重な資料になっています。
2023.01.16
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189系彩野編成:東武鉄道直通特急「きぬがわ」先般、485系の東武直通特急「きぬがわ」をご紹介いたしましたが、今回は189系彩野編成による臨時特急や代走の「きぬがわ」をご紹介したいと思います。東武鉄道との直通運転に関しては、東武鉄道側が100系スペーシアを3編成用意し、JR東日本は485系1編成のみとなっています。検査時における肩代わりは東武鉄道側が主に負うこととなりますが、繁忙期による臨時増発にも対応することとなるため、189系彩野編成を東武直通用に改造し、臨時列車及び検査時の代走に充てることになりました。485系と違い、189系彩野編成はヘッドマークが用意され、さらには懐かしい国鉄時代風の文字マークでしたので、個人的には非常に好きでした。平成19年5月26日 「きぬがわ4号」代走平成20年12月6日 「きぬがわ4号」代走平成20年12月6日 「きぬがわ5号」代走平成23年1月9日 「きぬがわ93号」平成23年2月11日 「きぬがわ93号」平成23年2月12日 「きぬがわ93号」「きぬがわ」の臨時投入が多かったためにコマ数は結構あったのですが、当時はまだデジイチを導入していなかったので、ブレたり構図が悪かったりと良いものが残せませんでした。このシーズンの臨時運転が最後の運用となり、さらに平成23年3月11の大震災も重なり、特にイベントなどもなく、189系彩野編成にとってはさびしい引退となりました。189系彩野編成:東武鉄道直通特急「日光」
2024.11.29
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485系 クロ481ー2300番台:特急「雷鳥」クロ481ー2300番台は、平成3年に特急「かがやき」6連用としてクハ481-300番台から改造された先頭グリーン車。特急「かがやき」の廃止により-2301が「加越」「北越」用に、-2302・-2303は「はくたか」用に転用されました。「はくたか」の681系化により-2302・-2303共々国鉄色となり、「加越」に運用されたそうです。「加越」の「しらさぎ」統合化、683系化で余剰となり、「雷鳥」に使用されるようになりました。※撮影は、平成20年4月22日です。今庄駅にて クロ481-2302 「雷鳥8号」南今庄駅にて クロ481-2303 「雷鳥16号」こうした角度でとってしまうと、クハ481-300番台と全く区別はできません。最後まで「雷鳥」に使われたと思ったのですが、この後余剰となって183系化され平成23年に廃車されたそうです。
2023.07.19
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101系:京浜東北線鉄道ファン誌のNo561(2008年1月号)とNo562(2008年2月号)で、「京浜東北線を駆け抜けた車両たち」と題して京浜東北線に使用された車両や時代背景など詳細に記された記事が載っております。この記事をお読みになった方はお判りと思いますが、京浜東北線にも都合3編成の101系が運用されていたことがあります。私も詳細については知らないのですが、昭和45年12月2日から運用開始され、昭和53年10月、現在の武蔵野線(新松戸~西船橋)延長開業による列車本数増に必要な車両として捻出されるまで、8年弱の期間に亘り京浜東北線を走っていたとのことです。昭和51年頃 南浦和~浦和間にてネガが露出不足のため、コントラストの欠ける寝ぼけた写真になってしまいました。原版は6×6の「リコーフレックス」という2眼レフで撮影したものです。夕方らしい上にレンズシャッター式なので、写真もブレブレな感じです。当時、103系の写真など全く撮る気の無い頃でしたので、おそらく、101系が来たことが判って慌てて撮ったものではないかと思われます。昭和52年 赤羽駅にて旧高架の赤羽駅です。おそらく・・・赤羽駅で特急列車を撮影した帰り、家に帰ろうとホームへ来たものの赤羽止まりに遭遇。しかもそいつが101系だったものだからたまらない。駅員さんがサボを回し始めたので、せっかくだからレアな幕の時に撮ってやれ!なんてシチュエーションだったのでしょうね。ネガから見つかった唯一のカラー写真であり、構図は悪いですが私的には大変貴重な1枚です。昭和53年頃 蕨駅にてこちらは最晩年の頃の写真と思われます。当時は、鉄道雑誌をお小遣いで買える頃ではなかったので、101系がなくなることも察知出来なかった筈です。おそらく、蕨駅で特急列車の写真を撮っているときに偶然来た101系を収めたのだと思います。時代的に判断して、この後間もなく武蔵野線用に1000番台化改造され改造され転出していったものと思われます。103系 京浜東北線:クモハ103103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM103系 京浜東北線:オレンジ色「京浜東北線」HM付き103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ209系500番台:京浜東北線
2024.09.15
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キハ56系:急行「狩勝」「狩勝」は、札幌圏から釧路方面を根室本線で結ぶ急行列車でした。昭和55年当時ですが、急行「狩勝」はDCが3往復、客車夜行が1往復設定されていました。このうちDC急行は、札幌~釧路間を基本とし、下り夜と上り朝が帯広発着です。釧路発着の1・6号は富良野駅にて富良野線直通の普通列車を釧路間で併結しています。また、上り4号のみは根室~札幌を直通としていました。これは、急行「ニセコ」の上り1本が根室~函館に設定されていた頃からの名残で、札幌にて系統が分割されて「狩勝」となったものです。当時はまだ石勝線が完成していない時代ですので、根室本線への列車は全て滝川経由となっていました。特急「おおぞら」も3往復しか設定がありませんでしたので、夜行含めて4往復設定されていた急行「狩勝」は、全ての列車にグリーン車も連結された、重要な幹線優等列車でした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にてこちらはネガプリントからのスキャニング画像です。残念ながらブレてしまっていますが、キハ56形の213番ですね。キハ56系はキハ58系の北海道版で、外観は窓が1周り小さいのが特徴です。また、グリーン車のキロ26はキロ28形のような2連の大窓ではなく、さらに1周り小さい1席1個の窓が特徴となっており、キハを含めて全て2重窓となっています。キハ56形200番代は最終増備車で、パノラミックウィンドウにスカート付きが特徴です。さらに、写真では判りませんが、冷房準備工事車でクーラー搭載予定箇所にフタがしてありました。※最終的には、廃車となるまで冷房化されることはありませんでした。昭和56年3月 根室本線 落合~新得間にて上の写真と同じ区間ですが、新得側からやや落合寄りの第1ターンとなる橋梁です。こちらは番号が不明ですが、初期型のキハ56を先頭とする「狩勝」。全てが小窓で判り難いのですが、前から5両目のフレームギリギリに写っているのがキロ26形グリーン車です。昭和56年3月 「狩勝」の愛称サボなんでこんなサボの写真をリバーサルフィルムで撮っていたのか疑問だったのですが、よくよく考えて見ると車体色がクリームと赤のツートンではありませんので、どう見てもキハ22に取り付けられたサボと言うことですね。「狩勝」には基本的にキハ22は使用されていなかったと思いますので、おそらく富良野線からの直通併結車両を目撃した際に撮影したのではないかと思われます。昭和56年3月11日 函館本線 白石~厚別間にて同区間を撮影場所を探しながら歩いていた際に撮影したものです。コレは列車を撮るために待っていたのではなく、前を歩いていた親子が大変絵になるスタイルだったのと、そこに偶然この列車が通り掛かったので思わずシャッターを切ったことを憶えています。なお、この写真、もしかしたら急行「大雪」かもしれないことをお含みおきください。※編成的には「狩勝」で間違いないと思いますが・・・。急行「狩勝」は、ご多聞に洩れず特急化の波に飲まれ、尚且つ石勝線の開業と言う一大プロジェクトのアオリもあって全て特急「おおぞら」に吸収・格上げされて消滅いたしました。辛うじて根室本線の快速として「狩勝」の名前が残っていましたが、そこには急行時代の優等列車としての面影は残っていませんでした。オハネフ12形:夜行急行「狩勝」(旧型客車時代)送料無料◆セット販売 98579/7428/7429 TOMIX トミックス 国鉄 キハ56-0系 急行ディーゼルカー (狩勝) セット(4両)+キハ56-0形 (T)+キハ27-0形 Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】送料無料◆98579 TOMIX トミックス 国鉄 キハ56-0系 急行ディーゼルカー (狩勝) セット(4両) Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98579 国鉄 キハ56 0系急行ディーゼルカー(狩勝)セット(4両)
2023.03.27
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485系ボンネット型:特急「ひたち」(文字マーク時代)特急「ひたち」は、昭和44年10月に上野~平を結ぶ季節列車として誕生しました。車両はキハ81を含む80系気動車で、特急「いなほ」の間合運用のかたちを採っていました。昭和47年10月、羽越本線の全線電化により「いなほ」が485系化。これにあわせて、特急「ひたち」も仙台運転所の485系を使用するようになりました。485系は仙台運転所持ちの9連又は12連が使用され、9連は「あいづ」と、クロを含む12連は「ひばり」「やまばと」と、クロを連結しない12連は「ひばり」と共通運用を組んでいました。その後、フリークエンシーによる整備が始まると短編成化が実施され、サロを含む9連のみ、さらにはサロを連結しない7連へ変化していくことになります。今回は、比較的に多く撮影していたボンネット型のうち、文字マーク時代の画像をご紹介いたします。昭和51年頃 上野駅にて クハ481「ひたち」ボンネット車の並び上野駅で1日いるとこのような風景に短時間ですが出くわすことがあります。「ひたち」と「ひばり」が共通運用のため、片方のヘッドマークを取り替えた瞬間に見られる風景です。実際には、「ひたち」同士の同方向への並びはありませんので、どちらかが「ひばり」だと思われます。昭和54年頃 上野駅にて クロ481「ひたち」「ひたち」には仙台運転所持ちのクロを含む9両編成の運用があり、「あいづ」と共通運用が行われていました。このうちの数往復がクロを含む編成でしたが、あまり撮影していなかったようです。昭和57年10月12日 常磐線 荒川沖~土浦間にて上越新幹線が間もなく開業となる頃で、「みちのく」が廃止されるために撮影に行ったときのものです。この頃の「ひたち」は、上信越スジのイラストマーク化に遅れをとっており、まだ文字マークでした。私的にはこちらの方が好きなので、この時撮っておいて良かったと思います。まだ仙台運転所持ちの時代です。その後、九州からの転入車を加えて大所帯化し、勝田区の所属となってヘッドマークもイラスト化されることになります。送料無料◆セット販売 98825/98826 TOMIX トミックス 国鉄 485系 特急電車 (ひたち) 基本セット(6両)+増結セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【8月予約】送料無料◆98826 TOMIX トミックス 国鉄 485系 特急電車 (ひたち) 増結セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【8月予約】※新製品 8月発売※485系特急電車(ひたち)増結セット(5両)【TOMIX・98826】「鉄道模型 Nゲージ トミックス」送料無料◆98825 TOMIX トミックス 国鉄 485系 特急電車 (ひたち) 基本セット(6両) Nゲージ 鉄道模型 【8月予約】※新製品 8月発売※485系特急電車(ひたち)基本セット(6両)【TOMIX・98825】「鉄道模型 Nゲージ トミックス」
2023.02.15
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EF81牽引20系寝台客車:臨時急行「あおもり」私が初めて知った急行「あおもり」は、名古屋から東京を経由して東北本線で青森へ行くという、当時としても奇抜な運転経路で走った列車というイメージです。Wikiに掲載される解説と矛盾しますが、運転期間のうち一部(運転初日?)が時刻表非掲載で上野経由となっており、高校時代に上野駅でアルバイトをしているときにも目撃した記憶があります。もしかしたら、局報で見たのかもしれません。或いは、中学時代にDJで見たことがあるのか、記憶が曖昧です。その後、日本海経由で正式に時刻表に掲載されるようになり、運転区間も大阪~日本海経由~青森で運転されています。晩年は583系が使用されていましたが、唯一私が撮影したのは20系客車を使用していた時代です。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間にてEF81が牽引する20系客車時代の臨時急行「あおもり」です。20系も上帯のない晩年時代です。おそらく、「日本海」が2往復化され、陳腐化した20系の活用を図るため設定されたと思われます。プリントからスキャンしたのであまり画像が良くありません。当時は風景重視の写真ばかり撮っていたので、列車写真としては使えない構図になってしまいましたね。もうちょっと線路に近いところから撮っておけば良かったと後悔します。
2023.08.24
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東武鉄道 モニ1473:荷物電車今回は東武鉄道に存在した旧型荷物電車をご紹介いたします。昭和50年代までは、御多分にもれずに大手私鉄においても荷物輸送が行われていることが多く、国鉄と同様に旧型旅客電車を改造した古い車両が使われていました。東武鉄道にもモハ1400形と言う電車から昭和39~40年にかけて改造されたモニ1400形が5両存在していたようです。昭和56年6月6日 新大平下~新栃木間にて 荷物電車 モニ1473東武鉄道における旧型電車7300系・7800系を中心とした列車の撮影のために訪れた際、徒歩移動中に偶然背後からやって来たモニを撮影したものです。それまでも東武電車の写真を撮ったことはありましたが、本格的に沿線の撮影に臨んだのは初めてであり、線内にこのような旧い荷物電車が存在していることも知りませんでした。当時は形式や車番等が不明であったため、なかなかアーカイブできていなかったのですが、東武鉄道の旧型車両に関する資料を公開している方の写真から車番を判定することができました。国鉄車と同様に古い電車の改造では種車に由来する個性があるため、このような詳しい情報を提供してくださる方がいて本当に助かります。調査して驚いたことに、東武鉄道における荷物電車の廃止後も、このモニ1473は廃車を免れて西新井工場の入換車として杉戸工場の入出場車牽引などに使用され、西新井工場が閉鎖となる平成16年3月まで活躍していたそうです。しかし、同年7月、残念ながら保存されることなく、解体されてしまったとのことです。
2023.10.17
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東急電鉄 1000系:東京メトロ乗り入れの終焉※本記事は、2013-02-28に投稿したもので、当時の表現になっています。平成25年3月15日をもって、東急東横線は東京メトロ副都心線への乗り入れに伴って渋谷駅が地下へと切り替わることになりました。前回は日比谷線03系車両が東横線乗り入れ廃止についてご案内いたしましたが、今回は、逆に東横線から日比谷線に乗り入れている東急1000系についてご紹介いたします。東急1000系は18m車で日比谷線乗り入れができる車両ですが、乗り入れ車両とは別に、多摩川線・池上線に運用される3両編成の同系が存在します。日比谷線乗り入れは専用の8両編成となっています。平成25年1月8日 東急東横線 都立大学駅にて北千住行きのトップナンバー車に出会いました。今まで特に興味のあったシチュエーションではなく、写真を撮ったのはこれきり。偶然に立ち会った東京メトロ03系との並びシーン。良い記念になりました。平成25年2月10日 東横線 多摩川駅にて 1105 菊名行き1000系自体が形式消滅になることはありませんが、乗り入れの廃止に伴い、「北千住」「南千住」といった字幕は見納めとなります。
2024.11.17
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チキ80000形:コンテナ積載貨車 長物車チキ80000は、生石灰(せいせっかい)を輸送するために製造された用途を特定した貨車で、昭和51~55年に掛けて44両が製造されています。日本鋼管京浜製鉄所向けの生石灰輸送は、青梅線奥多摩駅や東武鉄道大叶駅から南武線浜川崎駅までホッパ車にて輸送が行われていましたが、京浜製鉄所が昭和51年に扇島へ移転した際に専用線が敷設されなかったため、浜川崎駅からトラックによる輸送体系とする必要があったことによるものです。外観や用途はコンテナ車そのものですが、車籍編入の条件のために特定コンテナの積載専用とする長物車に分類されたということです。これは、国鉄の私有貨車制度においてコンテナ車の私有を認めなかったこと及び運賃制度においてコンテナ車の扱いになると割高になるためであったそうです。そんな事情で製造されたチキ80000は、外見も他の貨車には見られない、不思議な風体の貨車に思えました。昭和55年11月2日 尻手駅にて EF15199牽引チキ青梅線から南武線を経由して浜川崎へと向かう、EF15199が牽引する貨物列車です。次位以降に連結されているのがチキ80000で、後部は何を連結しているのか判らないのが残念です。ED16が昭和58年くらいまで活躍していましたので、この頃でも当然ED16が牽いてきても良さそうですが、この列車は立川機関区のEF15となっていますので、もしかしたら東武大叶からの列車なのかもしれません。昭和58年3月20日 撮影場所不詳 ED168牽引 奥多摩工業チキ80004大宮操車場で貨車の入換を担当するようになり、やっと貨車への興味が出てきた頃です。大宮操車場でも稀に大宮工場入場のためにハンプに落ちてくることがあり、添乗したことがありました。しかし、最初の頃は、チキを名乗りながら車上に添乗するスタイルだし(通常は側面に添乗)、短いし、奇妙な貨車だと思っていたんですよね。工場入場においてはコンテナが外された状態で来てしまうので、それまで空車の姿を見たことのなかったチキ80000が、この写真と同一の貨車だとは思っていませんでした。さすがにこの写真を撮った頃にはその正体が判っており、やはり記録としてこのようなアングルで撮ったのではないかと思います。昭和61年3月17日 EF641020牽引 上り貨物列車こちらは分割民営化直前の青梅線です。ED16やEF15の姿は既に無く、貨物の大合理化で余剰となった新性能の電気機関車に置き換わりました。写真では浜川崎方に3両が連結されています。現在はフツーにコンテナが私有化されていますので、現在も続いていればおそらくコキ50000或いはコキ200のような車両で運転されていたのでしょうね。チキ80000は全車ともJR貨物に引き継がれましたが、その直後から廃車が始まってしまい、青梅線の貨物輸送廃止で完全に消滅してしまいました。新製が昭和51~55年ですから、最終新製車は8年程で廃車されてしまったようです。
2023.08.14
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485系:特急「はつかり」「はつかり」は、昭和33年10月ダイヤ改正で誕生した東日本初となる特急列車で、上野(東京)~青森間を結びました。誕生当初は、東海道線特急列車の電車化により発生したスハ44系及び10系グリーン車・食堂車を使用した客車列車であり、ブルートレインと同様の塗装をした大変オリジナル色の強いものでした。また、しばらくの間は常磐線経由の設定となっています。昭和35年、国鉄初となる気動車特急キハ81系により無煙化、スピードアップが図られますが、初期故障が多く、遅れが多発したことは有名です。昭和43年、東北本線の全線電化開業により、初めて東北地区に583系が誕生します。583系による運転は9月9日となり、さらに10月のダイヤ改正では東北本線経由に改められます。大きな改正ごとに本数が徐々に増発され、昭和48年のダイヤ改正で初めて「はつかり」にも485系が使用されることとなりました。今回は、この485系で運用された特急「はつかり」をご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて昭和52年頃 蕨~西川口間にて昭和52年春頃? 上野駅にて485系貫通型「はつかり2号」と気動車急行「いいで」「ざおう」の並び(再掲)昭和53年頃 蕨~西川口間にて昭和54年頃 東北本線 蕨~南浦和間にて昭和54年3月 西日暮里駅から昔はそこそこ有名撮影地であった西日暮里駅からの写真です。写真は上野駅に向かう特急「はつかり」。座席の向きの様子から、尾久からの送込み回送のようですね。ドアはちゃんと閉めましょうよ(笑)。昭和55年 西川口~蕨間にて昭和56年8月 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて東北・上越新幹線開業直前の頃の写真と思われます。この写真も1500番台でかなり慌てて撮ったようで、おそらく300mm手持ちでピントを合わせながら構図も考えている間がなかったようですね。写真では分かりづらいかもしれませんが、セイタカアワダチソウのような高草が画面のセンターにカブってしまい、どうにもならん状態ですが、望遠効果でなんとか目立たなくなっているようです。1500番台も当時はそこそこ逢える確率のあった車両でしたが、数ある特急のどの運用に入っているか、前後のどちらに付いているかというところまで追う事は難しかったので、駅撮りではない状況ではなかなか難しかったですね。たった1枚しかないとは、非常に寂しいものとなってしまいました。485系は全て青森運転所に所属するもので、サロ・サシ各1両を込んだ12両編成となっています。当初からサロは2号車でしたが、「食堂車への距離が遠い」との不評から6号車へ付け替えが行われ、これは583系にも共通しています。青森運転所では開設当初にボンネット型の運用があったようですが、「白鳥」「いなほ」での運用実績は記録があるものの、「はつかり」に関しては未だにその記録に接したことはありません。東北新幹線の開業によ盛岡~青森間の、さらに青函トンネル開業後は函館まで足を伸ばすことになりますが、平成14年に新幹線が八戸延伸された際、特急「白鳥」「つがる」に愛称が変更され、特急「はつかり」の名称は消滅しています。583系:特急「はつかり」その1583系:特急「はつかり」その2
2024.11.13
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489系貫通型:特急「白山」(53・10改正後)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。今回は、ヘッドマークがイラスト化された以降の489系貫通型の写真を探してみましたが、JR化後にJR西日本が継承した数が少なかったこともあり、たった1枚しか見つかりませんでした。昭和58年1月12日 長野駅にて 489系「白山」長野駅で381系特急「しなの」と並ぶ489系「白山」。他に撮影した写真が何故かボンネット型や非貫通型ばかり。何故貫通型が少なかったのか、もしかしたら運用の関係で実際にそのような状況だったのかもしれません。489系非貫通型:特急「白山」(53・10改正後)489系:特急「白山」(53・10改正前)489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)
2024.11.27
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団体企画列車 「オリエント・エクスプレス '88」(オリエント急行)昭和63年、フジテレビ開局30周年及びJRグループ発足1周年の記念事業として、各国政府及び鉄道各社(者)の協力により、パリ→東京間でORIENT EXPRESS'88(オリエント急行)が運行されました。(プロジェクトの正式名称は"HITACHIカルチャースペシャル・ORIENT EXPRESS'88")東京に到着後は、日本全国を巡る団体列車という大規模な企画となりました。新聞や報道でも大々的に取り上げられ、一大ブームになっていたような記憶もあります。地方まで出掛けて撮ることはもちろんしませんでしたが、関東に来たときは何が何でも撮ろうという意気込みはあったように思います。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にて EF651017牽引外国の列車が日本中を走って話題となった「オリエント急行」。外国規格の大型車両が日本を走れるとは思っても見ませんでした。様々な苦労があったようです。昭和63年12月6日 倉賀野~新町間にて EF651030牽引線路規格が違うので、船下ろしに際してTR47台車に履き替え、連結器が違うために片側にバッファー連結器を付けた控車でサンドイッチし、かなり長い期間に亘って日本を走りました。昭和63年12月23日 西川口~蕨間にて D51498+EF5861牽引中でも一番の話題となったのがD51が牽引を果たした「オリエント急行」。D51498の復活記念運転で、上野~高崎間をEF5861の補機付で運転されました。このように、普段の運転ではトップスターである61号機も、このときばかりは脇役に回りました。D51は上野~大宮のわずかな区間のみの運用となりましたが、夕刻の運転でさらに区間が短かったことから、報道の煽りも手伝って、沿線は大変な人出となりました。昭和63年12月24日 撮影区間不詳 EF5861牽引翌日の返し運転です。「オリエント急行」を捉えた最後の写真となりました。
2023.11.14
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キロ59系:サロンエクスプレスアルカディア「サロンエクスプレスアルカディア」(通称「アルカディア」)は、国鉄末期の昭和62年3月25日に竣工。実際に営業運転に就いたのは分割民営化後という、国鉄生まれか、JR生まれなのか、非常に分かりづらい珍しい車両です。北海道で「アルファ・コンチネンタルエクスプレス」から始まった、えらく激しい造りの展望室をもつ欧風タイプの団体用グリーン車。そのデザインの元となったのは、おそらく名鉄の「パノラマスーパー」かと思われますが、その後の経済成長に伴って豪華さが売りの欧風車両が次々と誕生し、九州・四国を除く全国に波及していったスタイルです。特に、短編成で小回りの利く気動車に採用されています。アルカディアも分割民営化とともに営業運転に就き、配置区の新潟を中心として活躍を始めたわけですが・・・昭和62年11月22日 磐越西線 山都~喜多方間にてその矢先、わずか1年後の昭和63年3月30日、上越線の越後中里~岩原スキー場前を走行中、1号車(キロ59 508)の排気管過熱により同車が全焼してしまうという、大変不幸な出来事が起きてしまいました。その後、片側先頭車を廃車により失って運行できなくなってしまった「アルカディア」は、残り2両も休車となってしまいました。しかし、約4年後の平成4年、先頭車を追加で改造して組成、普通車に格下げした上で盛岡へと活躍の場を変え、「Kenji」として生まれ変わることになります。改造車とはいえ、たった1年では改造費の減価償却も出来ませんから、なんとか残り2両を活かしたかったところでしょう。不運なスタートとなったにもかかわらず、東日本に残る最後のキハ58系として活躍しました。写真は、鉄橋を渡ってくるところを正面から狙っていたところ、不覚にもフィルムの巻上げを忘れてしまったために撮影することが出来ず、慌てて三脚からカメラを外して後追いで撮ったものなんです。あわよくば、一切記録に残すことが出来なかったおそれもあった「アルカディア」ですが、残念な構図とはいえ、1枚でも記録に残せたことは私としても不幸中の幸いでした。
2023.11.22
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165系:臨時急行「伊那路」昭和58年7月、それまで運転されていた飯田線豊橋口からの急行「伊那」が廃止されますが、平成4年に165系による臨時急行として復活。愛称は「伊那路」となりました。当時、淘汰が進んでいた165系による運転と言うのも話題になり、後年には往年の東海型ヘッドマークまで掲げられるようになります。平成6年12月10日 飯田線 東上~野田城 165系「伊那路」165系の老朽化、淘汰はさらに進み、平成8年3月の改正により特急化、急行列車としての短い役割を発展的解消により幕を閉じました。
2023.12.09
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103系(スカイブルー):青梅線前記事で青梅線の103系をご紹介いたしましたが、ここに1枚だけレアな写真があります。青梅線では、73系やクモハ40形による運転が行われていたようで、既に101系で統一されていた中央快速線とは別体の運用になっていました。このうち、青梅直通の快速のみ101系が使用されていました。首都圏における新性能化の過程の中で、昭和51年頃から103系の転入が行われ始めたそうで、これには京浜東北線のATC化準備で余剰となるスカイブルーのクモハを含む4両編成が続々と導入されたみたいでした。中央快速線でさえ103系が導入されていない時代でした。昭和53年2月19日 青梅駅にて スカイブルーの青梅線この時代は記念切符を積極的に収集しており、近場で発売されると分かったときは、わざわざ買いに行きました。この日は青梅マラソンの開催を記念した入場券が発売されることを知り、これを買いに行って初めて青梅線を訪れた訳ですが、乗る電車・留置されている電車の殆どがスカイブルー一色であることに大変驚きました。まだ中学生でしたので、京浜東北線・山手線のATC化などという高度な知識は持ち合わせておらず、何故このような事態になっているのか訳が分からなかったのですが、高校生になって色々な情報がアタマに入るようになり、やっとこの時の状況が理解できるようになりました。くやしいのは、この写真を撮ったときには72系が運用が残っていたようで、この翌月にさよなら運転があったということ。今となっては何の興味もないマラソンの記念切符などどうでも良く、旧型国電の記録を漏らしてしまったことに悔いが残ります。
2024.04.11
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京成電鉄:赤電3300形(非冷房時代)京成3300形は、昭和43年に登場した通勤型電車で、先にご紹介いたしました3200形と同様に2扉両開きとなっており外観上は殆ど変わりませんが、台車が空気バネとなった点が大きく異なります。しかし、2次車以降はコイルバネとなり、標準化されています。誕生時はもちろん非冷房であり、ヘッドライトが上部2灯となっていましたが、昭和59~61年頃にかけて冷房化、さらにヘッドライトを下部に移設するなどの更新工事が実施され、登場当初とはかなり印象が異なっています。昭和55年5月 京成幕張駅にて 3333非冷房時代のオリジナル3300形。3333が急に目に入ったので、付けていた300mmレンズで強引に撮りました。ちょっとブレちゃってんですが・・・。なかなか「3」が4つも並ぶ車号って無いですよね。忘れられない車両です。昭和55年5月 京成幕張駅にて 3344こちらは反対向きの3344。この後、冷房改造や塗装変更の繰り返し、顔の整形など、かなり印象が変わってしまいました。京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)京成電鉄:赤電3200形(非冷房時代)京成電鉄 モハ700形:行商専用列車 京成電鉄:青電2100形・210形北総鉄道:7260形(7261F)
2024.09.11
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西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー(プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. )本記事は、2020-02-10に投稿したもので、当時の表現になっています。西武鉄道では、平成28年12月25日からニューレッドアローのうち1編成を「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」として運転していました。車体には、秩父夜祭の山車などと地域の代表的なランドマークのデザインをラッピングが施されました。平成31年7月、新型001系導入に伴う10000系廃車第1号となったのが、この「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」として運転されていた10103Fでした。※撮影は、平成29年6月8日、東久留米駅にて。10000系ニューレッドアロー platinum express 特急「むさし」珍しく現場の仕事があり、早めに到着したためにホームで撮影。偶然に来た特急が「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」でした。現在に至るまで、最後に撮影したニューレッドアローがこの写真でした。プラチナ・エクスプレスには「プラチナ・エクスプレス 川越Ver. 」がありましたが、そちらの方は撮影する機会が無く、当該編成(10104F)も廃車第2号となり、既に横瀬送りになっています。
2024.11.10
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485系 クロ481:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。481系の東北本線版として誕生した483系は、登場当初よりグリーン車を制御車としたクロ481が設定されました。これは、始発となる上野駅の中央改札が1号車端となっていたことに起因すると思われます。クロ481は、東北本線初の電車特急として誕生した「やまびこ」はもちろん、その後誕生した「ひばり」「やまばと」「あいづ」を含め、常磐特急の「ひたち」にも使用されました。今思えば、東北・常磐特急が地平ホーム、中間にしかグリーン車を組み込めなかった上信越の特急が高架ホームとしていたのも、このメイン改札の位置が考慮されていたのかもしれません。地元を走る「ひばり」編成の中でも、ピカイチかっこ良かったクロ+サロ編成。このクロ+サロ編成を含めて、クロ481使用の「ひばり」の写真をご紹介いたします。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 「ひばり」クロ編成激しい画像で申し訳ない。サクラパックで撮った撮影初期の頃の写真です。ネガがなく、プリントからの拡大スキャン。昭和50年以前は、「ひばり」に583系運用も含む4種類の編成が走っていました。これはそのうちのクロを連結した12両編成で、「やまばと」と共通運用で使用されていたものです。初期の「やまびこ」編成の名残でしょうかね。登場当初はサハ481を含む13両編成だったようですが、その後サハが抜かれて12両編成になっています。昭和52年頃 蕨~西川口間にて先頭車の流し撮りで詳細は不明ですが、おそらくクロ+サロ編成かと思われます。昭和52年頃 大宮駅にて クロ+サロ編成これは編成が良く判る写真です。上野方にクロ481+サロ481を連結し、中間にサハ481も挟んだ13両編成でした。当時、485系による13両編成は、「白鳥」のサロ+サロ編成と「ひばり」のこの編成のみでした。昭和52年3月21日 古河~栗橋間にてシャッター幕が故障し、走行ムラが出来てしまった写真。それでも何とかクロ+サロの編成が判るように写ってくれました。この時代のクロ+サロ13両編成は憧れでした。今ではNゲージでもラインナップされ、古き良き時代が再現できるようになりましたが、本格的にNゲージをやっている頃はクロ481が欲しくてしかたなく、クハ481から改造しようかなんて考えていました。しかし、運転台直後のクーラー有無など、形状の違いからなにもせずにそのままに。クロ481が製品化された頃には財政が脆弱になり、購入すら断念したままとなっていましたが、しばらくNゲージから離れていたため少しは回復し、やっと手に入れることができました。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 貫通型:特急「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」485系:臨時特急「ひばり52号」583系:団体列車 特急「ひばり」リバイバル運転485系K-1編成:団体列車リバイバル「ひばり」E653系勝田車:団体列車「リバイバル特急ひばり」号
2024.11.24
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国鉄 直流型電気機関車:EF5895(宮原機関区)EF58シリーズ、今回は宮原機関区の95号機です。過去ログ『EF5895牽引:81系お座敷列車(ミハ座)』の再掲写真になります。昭和55年8月 神足~山崎間にて EF5895牽引 スロ81系ミハ座原形窓の美しいカマでした。パンタグラフが切れてしまったのが残念。この写真を撮った1年後には廃車になってしまったようです。95号機昭和31年 7月16日 川崎車輌+川崎重工製 浜松機関区昭和56年 9月19日 廃車 宮原機関区
2024.11.26
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20系寝台客車:寝台急行「新星」「新星」は、上野~仙台間を結んでいた寝台専用急行です。編成は盛岡行きの「北星」に比べてこぢんまりしたものでしたが、それでもA寝台車を含む寝台専用列車として高級感がありました。しばらくは10系寝台編成で組成されていましたが、寝台特急「ゆうづる」の14系・24系化により捻出された20系を使用するようになり、「天の川」と並んで上野口初の20系急行となっています。昭和52年頃 上野駅13番線にて ナハネフ2220系化間もない頃の写真だと思います。左側に写っているサロ455?にまだグリーン帯が付いています。20系化最初の頃は、最後部はナハネフ22がほとんどでしたが、ナハネフ21と交互に連結された時期がありました。テールサインは終始「急行」の表示だったのが残念です。昭和57年11月6日 上野駅13番線にて ナハネフ23終焉間近の「新星」。57・11改正での廃止がアナウンスされており、早朝から撮影に出たときのものです。上野駅に到着した直後に撮ったものでしょう。ホームを歩く「新星」から下車したサラリーマン風の男性の姿が見えます。どの程度の乗車率があったのかは不明ですが、仙台という土地柄、ビジネス客の利用はあったのでしょうね。昭和57年11月6日 上野駅13番線にて ナハネフ23どうも上の写真と同じもののようです。推進回送の準備が整って、引っ掛け式のヘッドライトが付け終わっています。晩年の頃には20系の淘汰がかなり進んでおり、ナハネフ21の姿を見ることはなくなり、ナハネフ22も少なくなってきたようで、このナハネフ23を見る機会が多かったように思います。急行「新星」の横サボ。愛称名を装備しない急行列車では、このような横サボが唯一の証人となりますね。昭和57年11月6日 上野駅13番線にて EF58117牽引このころはまだEF58が活躍しており、当たり前のように急行列車に使用されていました。本来、20系を牽引するにはブレーキの増圧装置が必要でしたが、カヤ21に改造されてからは牽引機を選ばなくなりました。昭和57年11月13日 尾久客車区にて ナハネフ22他廃止2日前の「新星」編成。洗浄線で身体をキレイにしてもらっているのでしょうか。こうした日常の光景も、明日はラストラン。もう2度とここへは戻って来れなくなるんですね。東北新幹線の大宮暫定開業後も半年間生き長らえた「新星」でしたが、上越新幹線開業前日の昭和57年11月14日をもって廃止となりました。今では上野~仙台間をわずか1時間半で結んでしまうわけですから、わざと6時間掛けて寝る時間を確保する列車が必要であるという持論には無理がありますよね。でも、この頃は特急列車で4時間掛かってしまったわけですから、寝ながらでも午前中の会議に間に合わせるという、ビジネスには欠かせない列車であったのでしょう。
2024.11.28
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旧型国電 牽引車:クモヤ22112クモヤ22は国鉄時代に使用された職用車で、主に電車の牽引車として使用された車両です。20m級のクモヤ90に対し、17m電車の改造等により牽引車としたものにクモヤ22の形式が与えられ、種車の違いから0番台、100番台、110番台、150番台、200番台が存在しました。首都圏における牽引車はほぼクモヤ90となっており、クモヤ22は中京~関西圏に配置されていたようです。そのため、私自身はまったく遭遇機会のない形式でした。そんな中、1度だけクモヤ22に遭遇したことがあります。昭和58年6月29日 浜松工場附近にて クモヤ22112クモヤ22112は、運転台無しのモハ10を両運転台に改造しクモヤ22となった車両で、晩年は浜松工場で牽引車として使用されていたようです。しかし、鉄道ブームに乗って旅客用に復元、クモハ12041として飯田線を走りました。本来、クモハ12としては仙石線に存在した12040がラストナンバーとなりますが、元々クモヤ22112はクモハ12としての原番号を持たなかったため、このラストナンバーの追番号を名乗っていました。事業用車然とした前面に「クモハ12」としての風格は感じられず、違和感アリアリであったことも原因となり、大好きな飯田線にはまったく訪問することはありませんでした。
2022.11.06
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旧型国電 73系:鶴見線 TOMIXから旧型国電73形電車が発売になります。TOMIX 国鉄72・73形 南武線・鶴見線 販売首都圏で新性能化が比較的に遅かった鶴見線。全国的にも戦時・戦後型であるモハ73形は最後まで見ることが出来ましたが、鶴見線では可部線や富山港線のようにラインカラーをまとっていませんでしたので、73形らしい茶色のままの好ましい姿で走っていました。昭和53年2月19日 鶴見駅にて 折り返し待機中のクモハ73形多分ですが、初めて鶴見線を訪れたときの写真です。今までアルバムに入れたまま何も気にしていなかったのですが、鶴見線で撮ったクモハ73の写真は、この写真のものを除いて全て更新工事施行車でした。もしかしたら台数的に少なかったのでしょうか。同じ頃まで残っていた南武線や横浜線も同様に更新車ばかりでしたので、ライトが屋根上にある限りなく原形に近いクモハ73の未更新車の写真少ないです。昭和54年12月頃 浅野駅にて 原形3段窓のクハ79450一見更新後のような整ったスタイルをしていますが、3段窓をはじめ、埋め込み式のヘッドライトも登場時からのものです。どうも、クハ79のこの番台区分が、101系の顔の始祖だったようですね。昭和54年12月 浅野駅にて クハ79これも同じ編成のようです。昭和54年12月 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車この写真で着目していただきたいのが、2両目に連結されているモハ72形。モハ72系の最終グループである全金属製の920番台です。側板の位置が他車よりも高く、窓にもRがついて滑らかです。101系がモハ90系として登場したときのデザインに、限りなく似ているのが特徴の車両でした。昭和54年12月頃 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車これも同じ編成のようです。昭和54年12月 鶴見線 弁天橋電車区にて綺麗に写っており、ネガの再現性も良かったのですが・・・サボ「回送」です。ご意見によれば、「回送」行先札を準備しているケースは旧型国電では稀であり、かえって貴重なのでは?ということです。昭和54年12月頃 武蔵白石駅にて 更新工事施行済みのクモハ73更新済みのタイプで、高窓・ライト埋め・客窓のサッシ化が実施されています。撮影場所は、構内配線の状況から、おそらく武蔵白石ではないかと思われます。この時点においても101系が僅かながらに入線しており、昭和55年くらいが73系の末期ではないかと思われます。98490 72・73形通勤電車(鶴見線)セット(3両)[TOMIX]【送料無料】《12月予約》98489 72・73形通勤電車(南武線)セット(4両)[TOMIX]【送料無料】《12月予約》[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98489 国鉄 72・73形通勤電車(南武線)セット(4両)
2022.12.17
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207系900番台:常磐緩行線常磐緩行線を語る上で欠かすことができない存在であった207系900番台。国鉄最末期の昭和61年に製造された国鉄初となるVVVFの新製車で、203系との性能比較を兼ねて常磐緩行線・千代田線用として1編成のみ導入されたレア車両です。不足編成の補充を兼ねた導入の中で、当初から若干の問題を抱え、さらに製造コストが高かったことから実用化されないまま試作編成の900番台1編成のみで製造を終了してしまいました。JRになってから西日本に207系が導入されましたが、こちらは全くの別物。900番台のみで終わってしまった国鉄207系は、JR西日本から見たときに空き形式と認識されてしまったのでしょうか?平成20年4月12日 金町駅にてそれまで撮影したことがなかった207系900番台。置換えの話が出て本気で狙いに行って捕獲しました。当時は運用サイトなど知る由もなく、偶然に頼るしかありませんでしたが、比較的に労せずキャッチできたものです。行先もレアな柏行き!平成20年4月12日 新松戸駅にて柏行きの下りがキャッチできたので、上りも直ぐに帰って来ると踏んで新松戸まで迎撃に行きました。これで一応満足してしまったか、この後は撮影機会に恵まれず。約1年半後、早くも引退を迎えてしまいます。平成21年12月5日(以下、同日) 松戸車両センターからの出庫最終運転は団体列車として仕立てた「ありがとう207系900番台」。レアな「団体」表示は見易い字幕。それにしても、貫通扉が無かったら埼京線205系そのものといった印象です。出区した207系900番台はゆっくりと松戸駅へ向かいますが、手前の線路でカブられているうちにかなり遠くまで行ってしまいました。北松戸~松戸間にて撮影場所を良く知らないうえ、折り返しまでそれほど時間もなかったので、松戸駅の反対方向へ。行き着いた先は駅にほど近いお寺の駐車場でした。撮影アングルを選んでいたら、ちょうどご住職が顔を出されて話しかけられました。事情を説明すると快く場所を貸してくださり、安心して撮影することができました。まあ、結局はまたバックをカブられてしまいましたけど。1編成しかないにもかかわらず、予期せず3回くらいは乗車の機会があった縁ある車両。しかし、写真に収めることができたのは都合2回のみであり、ちょっと心残りがありましたが、比較的に枚数を残せて良かったと思います。今やコスト計算を先に検討することが当たり前となった世の中ですから、このような900番代のレアな編成というのは出辛いかもしれません。
2023.09.04
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475系・457系:北陸本線 普通列車北陸本線の普通列車ですが、昭和60年度まではEF70形牽引による旧型客車で運転されていました。昭和60年3月ダイヤ改正において、旧型客車の老朽化及び都市型ダイヤ実施に伴い、特急格上げで余剰になった急行型車両である475系(457系を含む)や581系・583系改造の419系に置き換えられました。平成25年3月14日、北陸新幹線金沢開業に伴う在来線の3セク化により北陸本線の輸送体系も大きく変貌することとなり、ここに475系が承継されないことになりました。北陸本線で普通列車として長きに亘って活躍してきた475系電車は、導入時の赤電塗装から2代目となる塗装のままここに終焉を迎えることになります。その活躍は、本来の目的である急行列車としての活躍期間の2倍にも及びました。平成20年4月22日 今庄駅にて 318Mちょっと遠目で不鮮明なのですが、クハ455-61+モハ456-19+クモハ457-19の編成のようです。クモハ457は、交直流型急行電車の最終版で、広域移動を考慮して50Hz・60Hz共用の万能車として製造された車両です。新製時からの冷房車で、AU13×5搭載、モハ456のパンタ部にルーバーが無いのが特徴です。平成20年4月22日 南今庄駅にて クモハ475-50ほか6連 239M前編成は、クハ455-63+モハ474-50+クモハ475-50の編成のようです。こちらは竣工時に非冷房で製作されており、後に冷房車に改造されています。クーラーはAU12を6個搭載しています。比較的に早いうちに改造された車両のようです。後編成は残念ながら番号が読めません。もしかしたら、前述のクハ455-61を併結している可能性もあります。平成20年4月22日 いずれも金沢駅にて クモハ475-46ほか復刻塗装されていたクモハ475-46+ モハ474-46+クハ455-60の編成です。いやしくも金沢に着いた朝と、撮影を終えて金沢に帰って来た時に偶然に遭遇しました。サハ455-4この日の早朝に撮影したコマのようです。この当時は485系「雷鳥」や419系がメインであったため、457系はそれほど真剣に撮っていなかったようです。それでも、サハ455は東北線系からは早々に撤退してしまったため、常磐線で見た記憶があるくらい。多くが先頭車改造されてしまったこともあり、最後まで残ったサハは非常に貴重な存在でした。北陸には4度撮影に行ったことがありますが、475系の普通列車に遭遇できたのは平成20年4月22日に訪問した時だけであり、写真もこれだけしか残っていません。この時は419系も運用されていたため、普通列車の本数の少なさも相まって、走行写真を撮ることができませんでした。平成27年3月、北陸新幹線開業により最後の急行型として現役を貫いていた475系・457系が引退することとなりました。言い方を変えれば、今まで良くもっていたな、と思います。旧型国電でさえ50年程度活躍したものが最長ですから、先に製造された471系ともなれば正に旧型国電に匹敵する長寿でした。以下、金沢開業の直前に「トワイライトエクスプレス」などを撮影に行った時のものです。平成27年1月24日 津幡駅にて 475系 524M貨物列車を待っていたら、偶然にもデカ目の475系がやってきました。この回の撮影で2ドア車の走行写真を撮れたのはこれのみでした。平成27年1月24日 金沢総合車両所富山支所にて 457系他 6連この回の撮影では、この富山や金沢で複数の475系等を目撃し、パンタが上がって動きだそうな状態も見ましたが、運が悪いというか、走行しているシーンは本当に当たりませんでした。写真は帰路の特急「はくたか」の車内から撮影したもので、これが最後のお別れになった写真です。田舎が東北ということもあり、455系とともに育ったとも言える私。ヘッドマークの無い地味な存在でしたが、カラーリングとドアステップが長距離優等列車のイメージを彷彿させ、とても好きな車両でした。
2024.03.21
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国鉄 直流型電気機関車:EF6652EF66シリーズで、今回は52号機です。下関運転所に配置され、昭和60年3月ダイヤ改正から東海道・山陽口のブルートレインを牽引した一員ですが、ブルートレインの縮小によりJR貨物へ移籍することになり、再び第一線で高速貨物列車の牽引に当たりました。平成26年6月21日 EF6652牽引 4083レ平成26年7月20日 南浦和~東浦和間にて EF6652牽引 4083レ平成27年7月24日 EF6652牽引 4083レ残念ながらブルトレ牽引時代の写真は見つかりませんでした。JR貨物へ移籍となったため、飾り帯の撤去やクーラーの設置、塗装変更が行われています。永く活躍していましたが、いつの間にか運用から外れ、この写真を撮った年度中に廃車になってしまったようです。
2024.05.27
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茨城交通 キハ200形:キハ201茨城交通湊線の時代、同社には元国鉄のキハ20形が5両在籍していました。冷房改造されて最後まで残っていたキハ205(形式はキハ20形)が間もなく引退等あるようですが、他のキハ200形4両は既に廃車されています。廃車されたうちの1両であるキハ201は、廃車になってからも阿字ヶ浦駅に留置され、海水浴時の更衣室として使われていたそうです。※撮影は、平成18年4月30日、茨城交通阿字ヶ浦駅にて。キハ201は、国鉄から鹿島臨海鉄道を経由して茨城交通にやってきた車両で、鹿島臨海鉄道時代にヘッドライト及びテールランプが妻板ボックス化改造されており、前面の印象がオリジナルとはかなりかけ離れています。そんな印象のギャップが、写欲をそそられなかった原因でもあったと思います。キハ200形は冷房改造がされておらず、ワンマン化も行われていなかったため、この写真が撮影された平成18年までにすべて廃車されたようです。定期運用撤退からさほど時間が経っていないにもかかわらず、海が近いせいか痛みが酷く見えます。同車は平成21年まで使用され、3月に解体されてしまったということです。
2024.10.30
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国鉄 オハ60系客車:オハフ6044(釧路)2回目の渡道の際、釧路駅の側線で旧型客車3連が休んでいるのを見つけました。そのうちの1両が初めて見た3連窓のオハフ60でした。オハフ60は、中間車のオハ60が誕生した翌年の昭和25年に改造されたものですが、当時はまだ北海道向けの二重窓化が難しかったということで、小窓で誕生したそうです。戦前型のオハ31のような3連小窓スタイルで、窓3つに対してボックス2組となっています。中の1組の座席を外すとストーブが設置できるような配置ですが、実際には蒸気暖房が使用されている時代でもあり、ストーブを設置するための配置とするような意図はなかったようです。昭和56年3月 釧路駅にて オハフ6044繋がれた3連のうち、一番最初に目を引いたのがこの車両でした。客車と言えば旧型ばかりの時代に育った私からすれば茶色い客車など珍しいものではない時代でしたが、3連窓の客車を見るのは初めてであり、60系客車にこんな車両があったのか・・・と初めて知り、とても感動してシャッターを切ったものです。そろそろ51系客車の導入も始まってきた頃ですが、北海道ではまだほとんど見たような記憶はありません。しかし、そんな時代であってもこのスタイルはこのとき以外には見たことがありませんので、おそらくは真っ先に廃車となってしまったグループではないかと思われます。そんな最初で最後の1枚となった、私的に貴重な資料となっていますマイクロエースから、なんとオハフ60の2両セットが発売されるそうです。この車両、昔から欲しくて、なんとか改造で作ることはできないかと考えていたのですが、このスタイルで3連窓の形態を構成できる種車が見当たらず、挫折していました。今回の発売を知り是非とも欲しいとは思うのですが、如何せんM車なみの値段になっているのがどうにも納得できない。そして心配なのが、同車の窓ガラスは内側が平面処理できず、特に小さい窓だとレンズ状に見えてしまう欠点があること。まあ、近年はマイクロ製品を敬遠しているので、この点が改善されていれば是非とも手元に置きたい車両です。この44番って・・・これじゃん。A5712 マイクロエース オハフ60 ぶどう色2号 北海道型 2両セット Nゲージ 鉄道模型 【未定予約】※新製品 11月発売※オハフ60 ぶどう色2号 北海道型 2両セット【マイクロエース・A5712】「鉄道模型 Nゲージ」
2022.06.03
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103系(低運転台):横浜線今では想像が付かないかもしれませんが、横浜線は昭和50年代半ばまで茶色い電車が走っていました。103系も比較的に早くから導入されましたが、根岸線で同居している京浜東北線と比較すると、何故か見劣り感がありました。昭和55年3月頃 横浜線 八王子駅にて73系を置き換えて間もない頃だと思いますが、元々早いうちに103系が導入されていた横浜線では、京浜東北線と同じスカイブルーの車両を使用することが多々あったため、ヘッドマークタイプの「横浜線」という線名表示を掲げていました。誤乗防止の措置かと思われます。当時の中央線「特別快速」と同じようなデザインのヘッドマークは、103系に非常に似合っていたと思いました。そのような写真を撮っておきたかったところですが、この時撮った103系は直に車体に塗装したようなタイプで、文字もショボイです。よく、転属直後で塗装変更が間に合わないときに使われるタイプの表示でした。多分、山手線のお古ですね。しかも、1両目と2両目以降で明らかに色が違って見え、非常に古い汚い感じがしました。山手線や京浜東北線ではそろそろ冷房車が普及しだしてきた頃でしたので、余計に古く感じたのでしょう。写真は八王子駅ですが、階段部分にしか屋根が無く、今とは比較できない程ローカル感がありました。
2022.06.09
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国鉄 天北線:キハ22・キハ40天北線は、宗谷本線の音威子府駅からオホーツク海側に向って分岐し、南稚内で元の宗谷本線南稚内駅へ至る、比較的距離の長いローカル線です。途中の浜頓別駅では興浜北線が分岐、その他には接続する路線がありません。天北線は他の路線とはやや性格が異なります。最果ての地、稚内へと至る重要路線である宗谷本線の迂回ルートとしての役割があり、悪天候などによりどちらかが不通になったとしても、生きている方の路線を使用して運転を続けることが出来ます。現に、私が初めて稚内を訪れた際、悪天候により両線とも不通となりましたが、翌日の急行「天北」を宗谷本線経由として運転を再開、これに乗車したことがあります。特に冬場においては、このような運転が行われることがあったようです。昭和63年6月25日 天北線 曲淵駅にて時間調整中のキハ22首都圏色車を撮影。昭和63年6月25日 天北線 芦野~猿払間にて キハ22237雄大なスケールにキハ22の単行が溶け込む。昭和63年6月26日 天北線 撮影地不詳「北海道といえば牧場」というようなイメージがあったので、モーモーちゃんたちをいれてパチリ。実はココをレンタカーで走っていったら、ビックリした牛たちが怒涛の如く逃げて行ってしまい、落ち着くのを待つまで大変だったんです。モーモーちゃんたち、驚かせてゴメンネ!昭和56年3月 稚内駅にて キハ2222あまり車番とかって、フィルムが勿体無くて撮らなかったんですが、こういうの見ちゃうと嬉しくなってつい撮ってしまいます。今となっては遠い思い出。浜頓別経由と言えば、もちろん天北線です。北の果てで出会った、おもしろい名前の気動車です。天北線も赤字ローカル線と言う名に漏れずに特定地方交通線となり、平成元年4月を以って廃止となっています。
2022.06.10
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485系1500番台:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。主に485系仙台車が使用車両となりますが、仙台車に混じって青森運転所の車両も多く運用されていました。北海道に781系が登場し、その任を解かれた485系1500番台が青森運転所に集中配置されたため、4つ目のクハ485-1500も「ひばり」に使用されるようになりました。昭和56年 上野駅にて と583系「はつかり」と並ぶクハ481-1500「ひばり」上野駅での1コマ。東北・上越新幹線が開業するまで、極日常的な風景でした。昭和57年5月頃 300番台だとばかり思っていた写真なのですが、良く見たら北海道用の1500番台でした。蕨駅の貨物取扱いも健在で、田端~川口間の折り返し中継となる蕨駅では、DD13や旧型電機日常的に見ることができました。1500番台が青森へやって来たのが昭和55年半ばですから、「ひばり」に充当されたのは実質僅か2年程と言うことになります。本数はそれなりにあった筈ですが、ただでさえ運用の長い青森運転所の車両であり、出逢う確率はかなり少なかったようです。98795 国鉄 485-1500系特急電車(はつかり)基本セット(6両)[TOMIX]【送料無料】《発売済・在庫品》10-1479 485系200番台 6両基本セット(再販)[KATO]【送料無料】《発売済・在庫品》【予約 2022年9月予定】 Nゲージ TOMIX No:98796 485-1500系特急電車(はつかり)増結セット(3両)
2022.09.22
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183系1000番台:特急「とき」(地元編)「とき」は、言わずと知れた上野~新潟を結ぶ特急列車。一時期は東京駅にも乗り入れていました。勾配線区である関係から151系に勾配抑速ブレーキを追加した161系を初導入。さらに出力不足からモーター出力をアップした181系へと移り変わります。しかし、豪雪地帯を走る上越線では、あまりにも過酷な気象条件に181系が耐えられず、車両故障が多発、あたらしい耐寒・耐雪型の特急車両の開発が急務となります。ここで誕生したのが183系1000番台です。直流型特急電車の決定版となった同車は、増備に増備を重ね、同時に同性能の横軽強調装備をした189系を派生、中央東線・信越本線を含む181系を駆逐することになりました。そういう意味では、私の同世代からすると、新幹線と同じくらい恨まれた車両であると思います。今回は、183系1000番台を最初に投入した特急「とき」の比較的に近場で撮った写真からご紹介いたします。昭和51年 赤羽駅にてまずは文字マーク時代の「とき」です。今まじまじと見ると非常あっさりしたマークですね。でも、私等の年代からすると極当たり前の姿で、このマークを掲出していること自体が特急列車のステータスだと思っていました。もらい物のリコーオートハーフで撮った赤羽駅を通過する183系1000番台の「とき」。とにかくブレちゃって困ったカメラですが、時にスピード感を表現してくれることもありました。地平時代の4番線上野方を通過。文字マークと相まって、時代を感じさせます。昭和52年頃 上野駅にて満を持して登場した183系1000番台でしたが、181系の方がスタイル的にもバリエーション的にもファンが根強く、写真的にもスルーしていたファンが多かったのではないでしょうか?昭和55年 上野駅にていきなり時代が飛んで、イラストマークの「とき」。既に181系にもイラスト化が飛火していました。多分、AE-1を使い始めた頃で、オート露出&リバーサルでキレイに撮れていましたね。昭和55年頃 赤羽駅にて昭和55年初頭くらいの写真ではないかと思います。雪が降ったんでわざわざ撮影に出たんでしょうが、暗さもあってブレています。元々183系1000番台「とき」なんて、あまり被写体の対象にはならなかったのですが、この「とき」はイラストが薄い黄緑色のヤツだったので、慌てて撮ったのでしょうね。本当はもっと緑が濃いのですが、何故か1編成だけ黄緑色のがあったのです。昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にていずれも末期に突入した頃に撮影したもの。自分でフィルム現像したものなので、粒状が良くありません。多分コダックのトライ-Xだったと思います。それまで殆ど見向きもしなかった183系1000番台「とき」でしたが、上越新幹線に道を譲って廃止ということになりゃ、「撮らないわけにも行かない」って感じで撮り始めました。昭和57年 蕨駅にてこれも上の写真と同時期。この時代は殆ど駅撮りなんてすることはなかったのですが、とにかく記録しなきゃ行けないという焦りと、就職してしまったために連休が取れずに地方にまで撮影に行く機会がないということで、近場ばかりで撮っていたようです。昭和57年6月頃 大宮駅にて給料も入るようになり、とうとうマミヤM6451000Sを買ってしまいました。まだ買ったばかりで標準レンズしか持っていませんでした。描写力は35mmの比でなく、その凄さに感動さえ覚えました。標準レンズのみでウエストレベルファインダーということもあり、機動性はありませんでしたが、上越新幹線の開業にギリギリ間に合い、少しですが在来特急の記録に寄与できました。チラッと見える東武野田線の3000系も、今となっては懐かしいですね。当時は全然見向きもしませんでしたが・・・。昭和57年11月13日 赤羽~尾久間にて最終日の前日です。この頃は「何でも良いから撮っておけ!」という感じでした。
2022.10.13
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20系寝台客車:寝台特急「北星」昭和38年10月ダイヤ改正で誕生した夜行急行列車「北星」ですが、その列車スタイルが幸いし、昭和50年3月改正からは20系寝台客車の使用により特急列車化されることになります。急行列車の特急化というのは、白紙ダイヤ改正の都度に行われてきたものですが、山陽新幹線博多開業による山陽・九州特急の動きが非常に大きかったため、特にこのダイヤ改正では顕著に特急化が実施されたように思います。同時に、金沢行きの急行「北陸2号」も同様に20系化のうえ特急列車に格上げされています。なお、20系客車は「はやぶさ」「富士」「出雲」「日本海」の24系24型化により余剰となった車両を活用しています。昭和50年夏頃 EF58牽引 ワサフ8800を連結した「北星」写真は、ポケットカメラ、列車の引き足らず、絹目写真と悪条件の揃った画像で、大変見づらく、公開するような写真ではないのですが、これだけしかないため敢えて投稿させていただきました。小学6年生のときだと思いますので、腕前はご勘弁ください。これくらいが精一杯です。急行「北星」時代から続く新聞輸送の関係があり、P型引き通し管を設備したワサフ8800が運転開始から約1年間連結されていました。当形式は言わば「北星」専用車両とも言えるものでしたが、その活躍は僅かであり、その後は一般の荷物列車に転用されています。昭和52年 上野駅にて早朝の「北星」は、高感度の無い時代、撮影するのも結構大変なものでした。昭和52年頃 大宮駅にて EF5884牽引 上り「北星」かなり薄暗い時期の撮影ですので、おそらく冬休みに撮ったものではないかと思われます。ヘッドマークが付いていないことから、後に20系化された急行「天の川」や「新星」と区別が付かないところが悲しいです。昭和52年 蕨駅にてこれから写真を撮りに行こうというとき、目の前を通過した「北星」。時間的には午前10時を回っていると思いますが、おそらく途中で運転が打ち切りとなり回送されて来たものでしょう。なんといっても驚いたのは、EF58の次位にカニ22が連結されていたことでした。昭和52年 尾久客車区にて カニ22 「北星」上の写真を撮った後、撮影の予定は急遽変更され、尾久客車区まで出向くことになりました。カニ22の「北星」を撮らせてもらおうと頼み込んだのですが、頑なに断られてしまいました。これはふて腐れて帰る途中、建物の陰から撮影したものです。当時、一眼レフではありましたが、レンズは広角しか持っておらずかなり小さくなっていました。スキャニングして「北星」が判るくらいまで拡大することができました。20系客車が特急車両としての活躍も晩年となった頃、進んだ廃車よる影響でしょうか、客車区間での車両のやり取りが行われたようです。そしてイレギュラー的な動きも見られるようになり、ナハネフ23「北陸」や、さらにはカニ22が「北星」「北陸」に使用されるようになったようです。昭和53年3月20日 上野駅にて カニ21こちらは下り最後尾となるカニ21。上野駅では到着後推進回送となるので、このカニ21は夜の下りを撮るしかありませんでした。もっとも、昭和50年3月の特急「北星」運転開始から1年間、最後尾にはワサフ8800が連結されていましたので、このカニ21の姿を撮ることはできませんでした。昭和53年9月頃満を持して誕生した軽量客車でしたが、それが仇となって老朽化が顕著であり、誕生からそれほど経っていないにもかかわらず、早くも淘汰が始まってしまうことになります。「北星」も昭和53年10月改正からは14系化されることになってしまいました。14系寝台客車:寝台特急「北星」
2022.10.24
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455系:急行「ばんだい」「ばんだい」は、上野~会津若松・喜多方を結ぶ急行列車。昭和34年9月に準急列車として誕生、昭和37年に急行列車に格上げとなります。昭和42年7月、会津若松~喜多方間の電化完成によって「ばんだい」は455系化、「いわて」「あづま」との併結運転を開始、さらに同年10月の改正からは「まつしま」との併結運転も開始され、その後の東北本線系の急行列車網が確立されます。昭和57年3月21日 磐越西線 磐梯町~翁島 急行「ばんだい1号」日中線を訪れた帰りに寄った初めての磐越西線での撮影。当時はこの線も特急「あいづ」急行「ばんだい」「いいで」「あがの」「いなわしろ」など多数の優等列車運転されていました。身軽な6両編成の急行「ばんだい」も、郡山から「まつしま」「あづま」「いわて」などと併結され、12両になって上野を目指しました。昭和55年8月13日 上野駅にてお盆の多客シーズン真っ盛りの上野駅。455系は山形・会津若松から到着した「ざおう6号」「ばんだい10号」。152号機牽引の列車は「津軽3号」と思われます。時刻表によると、この並びはありえない筈なのですが、番線変更があったのかもしれません。昭和57年1月4日 白坂~豊原間にて 急行「あづま2号」「ばんだい2号」(再掲)関連記事『455系:急行「あづま」』でご紹介しています。昭和56年1月5日 豊原~白坂間にて 急行「いわて1号・ばんだい5号」関連記事『455系:急行「いわて」』でご紹介しています。昭和56年1月5日 白坂~豊原間にて 急行「まつしま6号・ばんだい4号」東北新幹線の開業前年であり、田舎とは言えどテキトーに立っていれば特急・急行がバンバン走ってくる時代でした。後方には巻き上げた雪が僅かながら煙状に写り込みました。東北急行の最後の隆盛でした。急行「ばんだい」は臨時列車も多数設定されており、気動車や客車列車も存在しましたが、何故か夜行列車の設定ばかりであり、写真に記録することはできませんでした。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット[KATO]【送料無料】《07月予約》10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット[KATO]【送料無料】《07月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット
2023.07.27
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国鉄旧型電機 EF1832(大宮工場)EF18は、EF58として製造されながらも、他車とは違う運命を辿った機関車です。EF58は戦時設計であり、戦前製の~EF57までと同様に先台車・デッキ付きとして誕生しましたが、その時代背景から製造が中止され、打ち切り後は暖房装置を搭載した箱型に変わりました。さらに、製造途中であった旧車体の2両(35・36号機)は、車体の頭部分を挿げ替えて変形機として誕生しています。さらに、既にほぼ完成していた3両(32~34号機)については、車体をほぼそのままに歯車比をEF15と同様とし、不足していた貨物用機に転用することになりました。ただし、将来的にEF58への編入を考慮したためか、別形式としながらも車号は32~34号機そのままとして誕生しています。性能の特殊性からか汎用として使用できなかったようで、静岡周辺のローカル貨物運用に終始し、わずか30年ほどで生涯を終えています。昭和54年 大宮工場解体線にて EF1832詳細の記憶は定かではありませんが、友人から「大宮工場で茶色い機関車が解体するところにいた」という情報を聞いて訪れたと思います。小雨降る中、1時間駆けて自転車で行き、高い塀の外から自転車の荷台に乗りって傘を差しながら撮ったような記憶があります。そこに居たのはEF1832号機で、パンタグラフも外されておらず、まだ手が付けられていないようでした。他に複数のEF80も居り、当時はあまり記憶していませんが、EF80も淘汰され始まっていたようです。その陰からクハ181「とき」がちらっと。EF18が現役の頃、静岡方面に写真を撮りに行ったことがありますが、EF18には逢えませんでした。他に、どのタイミングだったか忘れましたが、新幹線車窓から駅にて停車中のEF18牽引貨物列車を追い越した光景が目に焼き付いており、飛び降りて写真を撮りたかったという衝動に駆られた記憶が今でも残っています。EF58の旧車体を完全な姿で残す生き証人的存在であったEF18。その姿を活躍中に記録することができなかったのが非常に残念です。特にEF1833は引っ掛け式のテールライトが存置されていて、凄く会いたいカマでしたが、いずれも実現しませんでした。EF1832昭和26年 5月31日落成 東芝製 沼津機関区昭和54年 1月12日廃車 浜松機関区
2023.11.04
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EF6019・EF65501牽引:快速「EL&SLみなかみ」高崎のEL・DLが営業運転終了へ快速「SL奥利根」の運転開始以来、時として上野まで運転区間が延長され、高崎以南の牽引が電気機関車となることから快速「EL&SL奥利根」として運転されました。高崎~水上間のSL列車は、平成20年8月の運転以降「SLみなかみ」に改められましたが、「EL&SL奥利根」は平成20年中においては何故か「奥利根」の名称を引き続き使用していました。今回は、自身でキャッチした平成23年度以降の快速「EL&SLみなかみ」についてご紹介したいと思います。平成23年9月11日 EF6019牽引平成24年8月4日 EF6019牽引 9767レ平成24年8月5日 EF6019牽引 9767レここまではEF6019の牽引しかキャッチできませんでした。最後の8月4日はEF65501が予告されていましたが、何故か牽引機が入れ替わってしまい、非常にガッカリしたものです。平成26年10月25日 EF65501牽引 9735レ平成26年10月26日 EF65501牽引 9735レ平成27年10月17日 EF65501牽引 9767レ平成27年10月24日 EF65501牽引 9767レ平成26年度及び27年度は何故かPトップばかり。ヘッドマークの似合うカマですが、なんかしっくり来ないのはオレンジ色が邪魔しているような感じでしょうか?EF6019は既に廃車となり、EF65501も令和6年秋の運行を最後に廃車となってしまうことが発表され、永らく動態保存の牙城となっていた高崎のカマ達も終わりを告げようとしています。
2024.08.02
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489系:特急「あさま」「あさま」は、上野~長野・直江津を結んでいた特急列車。181系によって運転を開始しましたが、碓氷峠を通過するに当たり8両までという編成両数の制限がネックとなっていました。これを解消するため、165系電車によるEF63との協調運転の試験が実施され、その成果からまずは489系が落成、金沢行きの「白山」が誕生するとともに「あさま」にも使用されるようなりました。特急「あさま」の使用車両はあくまでも189系が中心であり、489系編成は2~3往復程度であったと記憶しています。「白山」との共通運用であったため食堂車が連結された時期もありましたが、食堂車は営業していませんでした。昭和51年 上野駅にてまずはボンネット篇です。ボンネット車用のヘッドマークは181系と共用で使用されていました。昭和52年 上野駅にてこちらは連結器むき出しの500番台。ヘッドマークには2種類のフォントがありました。昭和52年 上野駅にてこちらはタイフォンがスカートに付いた初期タイプ。一時期、屋上のホイッスルカバーの外された車両が存在しました。昭和54年5月 蕨~西川口間にて クハ489-353・10改正でヘッドマークのイラスト化が実施されました。ボンネット型への採用はしばらく見送られていましたが、「とき」「白山」「はくたか」には昭和54年くらいからイラスト化されたボンネット車用のヘッドマークが用意されました。しかし、何故か「あさま」ようは準備されなかったようです。時刻表を見ると、53・10改正以降の489系は1往復のみとなってしまったようです。その後は489系の食堂車がなくなり、189系編成とは時刻表上の区別が付かなくなってしまいました。昭和51年 赤羽駅にて昭和51年 大宮駅にて昭和51年 上野駅にて酷い写真ですみません。中学1年の時、オートハーフで撮った写真です。走行写真はホントどうにもならないくらいブレちゃうんです。文字マークが懐かしい、古き良き時代です。昭和58年8月17日 大宮駅にて昭和54年か55年くらいから489系の運用がなくなってしまったため、イラストマークの489系「あさま」の写真がまったくありませんでした。昭和58年夏、臨時の「あさま」に489系が充当されることが判り、夜遅い時間だったのですが、わざわざ大宮駅に出向いた記憶があります。489系の復活と共に、イラストマークの入っている489系「あさま」を初めて撮りました。平成8年9月28日 横川~軽井沢間にて クハ489-200番台その後も「あさま」への定期運用は無かったのですが、JRになってから489系が長野所に取り残されることになり、直流区間専用の489系が配置されました。金沢局の車両も変な塗装にしちゃってくれましたが、長野所の489系も189系グレードアップ「あさま」と同様な塗装がされ、異様な雰囲気で189系と共に活躍しました。貫通扉の改造工事をしたのでしょうか、ただでさえ狭い貫通型のヘッドマークが、さらにひと回り小さくなっています。平成8年11月2日 信越本線 御代田~信濃追分間にて長野新幹線の開業も近くなり、碓氷峠への撮影が活発になっていった頃です。平成9年10月1日、長野行き新幹線の開業と同時に碓氷峠(横川~軽井沢)間が廃止になりました。在来線特急の「白山」は廃止、「あさま」も新幹線にその名を譲って終わりを告げます。さらには、長野に残ったJR東日本の489系も用途廃止となり、ひっそりと廃車されました。489系には非貫通型車両も存在しましたが、何故かこの「あさま」の写真はありませんでした。
2024.10.18
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20系寝台客車(ナハネフ):寝台特急「あけぼの」上野~秋田・青森を結んでいた寝台特急「あけぼの」。登場時から20系寝台客車により運転されており、20系が老朽化により廃車にある中で、最後まで定期特急列車として運転された寝台特急として歴史に刻まれています。子供の頃から20系が大好きで、身近な線路を走る20系寝台特急である「あけぼの」が大好きでした。まだ中学生くらいの時に撮った写真が中心ですが、今回は20系寝台客車のうち客車部であるナハネフ22及びナハネフ23に絞ってご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて ナハネフ22 「あけぼの」の並び昭和50年代の上野駅では、上信越・高崎線が上のホーム、東北線は地平ホームの仕切りがありましたが、いくつかの例外もありました。下りの「あけぼの」は地平ホーム発ですが、上りは高架ホーム着で、時間が近いため隣同士で並ぶシーンが毎日展開されていました。おそらく、早朝の地平ホームは、常磐線の夜行列車が多数到着しているため、本数の多い東北スジの夜行を飲みきれなかったんでしょうね。その割には「越前」が地平ホームに到着していたりしましたが・・・。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ22とナハネフ23の並びこの頃になると、20系の特急列車からの撤退、急行への格下げ、状態の悪い車両の廃車など、動きが顕著になってきました。それが影響してか、本来は中間に封じ込められて、首都圏では末端に顔を出すことがなかったナハネフ23が付属編成にも登場するようになりました。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ23上の写真のナハネフ23をチューボーカットで撮影したもの。ナハネフ21「日本海」に会って以来、この顔の虜になってしまっいました。このピンク色に染まったテールマークに極限の魅力を感じました。昭和55年頃 大宮駅にて ナハネフ23)久し振りに撮ったナハネフ23「あけぼの」でしたが、異常なほど真っ赤なテールマークに違和感を感じました。もっとほんのりした色だったような・・・。朝6時くらいで真っ暗なところを見ると、冬場に撮った写真のようですね。昭和55年3月 青森駅にて ナハネフ23こちらは初めての北海道撮影行で乗り継ぎの際に撮影したもの。青森着の「あけぼの」は、途中秋田駅で付属編成を落としてきますので、必然的にナハネフ23が顔を出すことになります。逆にナハネフ22は撮影できないと言うことですね。写真のテールマークはひらがなが白地、ローマ字が赤地でガチャ目になっています。ひらがなの方は書体がおかしいので、盗難にでもあって手作りで作ったものでしょうか?だとしたら悲しいことですね。こうして見ると、一番撮影できた筈のナハネフ22が殆どありませんでした。「いつでも撮れる」ヤツはいつもこうなっちゃうんですね。「あけぼの」の20系は昭和55年10月まででしたので、最後まで残った特急運用ではありましたが、私的にはそれでも高校2年生だったことになりますから、有名撮影地などで走行写真を撮ったりするのは厳しい状況でした。結果的に駅撮り写真ばかりとなってしまいましたが、大好きな20系客車を間近で見ることが出来て、記録に残すことが出来ただけでも満足に思います。
2024.10.21
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EF58牽引 旧型客車:急行「八甲田」「八甲田」は上野~青森を結ぶ急行列車。特急列車が高価な寝台列車であった時代、安価に北海道との連絡を行うために大変重宝された列車でした。上野駅を19時台の早いうちに発車し、仙台以北を夜行で早朝に青森着。上りは青森駅を日付が変わった深夜に発車し、仙台以南は昼行列車のように走って11時台に上野に到着します。昭和50年3月ダイヤ改正までは、仙台~青森間でB寝台を増結しており、古くは全区間にB寝台を連結していた時代もあり、さらに気動車による昼行設定されていたこともありました。私が接していたのは旧型客車でグリーン車を1両連結していた時代からで、特に上り列車は遅い時間だけあって、写真に撮る機会もそこそこありました。今回はこの中からEF58が旧型客車を牽引していた時代のものを集めてみます。昭和51年頃 EF58152牽引昭和52年頃 EF58153牽引昭和53年頃 EF5858牽引いずれも上り列車で、11時近い時間なので撮影はしやすい列車でした。グリーン車以外は普通車のみ。上野方に郵便車のオユ10、ワサフ80000を連結しています。写真ではオユ10は既に冷房改造完了後のようです。ワサフ8000は客荷両用として誕生した貨車ですが、ほぼ荷物車用として使用されており、主に荷物列車に連結されました。中でも、西日本の急行「音戸」と東日本の急行「八甲田」には定期で連結された花形運用でした。ちなみに、昭和53年の時刻表によると、オユ10は下りが上野~郡山間、上りが全区間、ワサフ8000が往復とも全区間とやや変則的な運用だったようで、下りの青森口のみワサフ8000を最後尾に走る姿を見られたようです。EF65牽引 12系客車:急行「八甲田」EF57牽引 旧型客車:急行「八甲田」ED75牽引 12系客車:急行「八甲田」5147 ワサフ8000[KATO]《04月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5147 ワサフ8000
2022.04.06
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キハ58系:快速「あがの」2022年3月ダイヤ改正において、磐越西線の会津若松~喜多方間が非電化区間化されてしまいました。確かに、急行列車が走っていた時代からせいぜい3往復くらいの電車列車しか走っておらず、普通列車は客車列車か気動車のみでした。また、同じダイヤ改正において、永らく設定されて来た快速「あがの」も廃止になっています。快速「あがの」は、仙台から東北本線・磐越西線を経由して新潟を結ぶ気動車列車です。元々は仙台発新潟行きの急行列車として走っていたものですが、東北新幹線開業後は磐越西線の急行列車も次々と格下げされ、メジャーであった「ばんだい」「いなわしろ」「いいで」といった全ての急行列車は快速列車に格下げ又は廃止になっています。昭和62年6月14日 下り 快速「あがの」撮影区間は定かではありませんが、会津若松~喜多方の電化区間で撮影したものです。急行「あがの」もご多聞にもれず快速化されてしまったわけですが、写真のとおり急行列車としても遜色が無いほどの編成で走っていました。グリーン車が付いていないのは止むを得ないところですが、それでも新津方の非電化路線を走る7両編成は圧巻だったと言えます。昭和63年4月10日 上り 快速「あがの」スキャンしていないプリントがあったのでスキャンして拡大したところ、種別表示に「快速」が表示されていましたので、間違いなく快速「あがの」であることが判明しました。この時代は景色を重視して撮影した写真が多く、この時代としては珍しくヘッドマークシールが掲示されていたのですが、遠目に撮影してしまったために結局何が表示されていたのか全く判らない写真になってしまったのは残念です。5300 オハフ45 ブルー[KATO]《08月予約》5300 KATO カトー オハフ45 ブルー Nゲージ 鉄道模型 【8月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5300 オハフ45 ブルー[鉄道模型]ホビーセンターカトー (Nゲージ) 5228A オハ46 ブルー ボディレボリューションファクトリー Nゲージ オハ46インレタ 尾久 7203
2022.04.13
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キハ58系:急行「おが」「おが」は、上野~秋田間を奥羽本線経由で結んでいた急行列車です。東北の昼行急行は、奥羽本線の全線電化開業後も気動車急行として存置され、他の急行「いいで」「ざおう」や「出羽」とも複雑な共通運用を組んでいました。昭和52年1月 大宮駅にて 急行「おが1号」こちらはキハ28800番台を先頭にした秋田行き急行「おが1号」です。まだ国鉄の塗装合理化が始まる前でしたので、修学旅行指定の解除後、一般運用に共通使用されていた頃もしばらくは修学旅行色のままでした。昭和52年というと、運用から外れたEF57を追って宇都宮運転所へ何度か出掛けたことがありましたので、電車待ちで偶然撮ったものと思いますが、運が良いと先頭に修学旅行色を見ることが出来ました。新幹線などまったく想像も付かなかった時代で、広々とした空を見ることができました。昭和55年7月23日 蕨~南浦和間にて 秋田行「おが1号」ブレちゃってます・・・。既に塗装合理化後であり、グリーン車の帯は消え、修学旅行色も消滅しています。こちらは冷房準備車となった後期のキハ58と思われますが、東北急行はグリーン車を除き、晩年まで非冷房車で大勢あったことも特筆されます。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて 秋田行「おが1号」東北・上越新幹線開業に伴う57・11改正を迎える晩年の頃の写真です。東北の気動車も多少の冷房化が進んできたのか、先頭車のキハ58冷房車となっています。中間にも2両並んで冷房車が連結されていますが、1両はグリーン車でしょうね。下りの「おが1号」は上野発が7時過ぎでしたので、撮影の時間帯は良かったのですが、夜行群の到着が終わった後の上り通勤時間帯となっていたため、撮影する機会が非常に少なかったですね。ヘッドマークが付いていれば、格段に撮影回数も上がっていたと思います。昭和51年11月に奥羽本線全線が電化したにも拘わらず、昭和57年11月のダイヤ改正前日までディーゼルのまま走っていた、架線の下の気動車急行の代表格であった列車と言えると思います。【中古】Nゲージ/KATO 10-1531 キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット【A’】※スリーブ若干傷み【中古】Nゲージ/KATO 10-1531 キハ58系(非冷房車) 急行「いいで」 7両セット【A’】※スリーブ若干傷み
2022.05.22
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451・453系:急行「つくばね」古く辿るとキリが無いので省略いたしますが、昭和43年10月のダイヤ改正において、電車急行としての「つくばね」が誕生しています。急行「つくばね」は、上野から東北本線を経由し、小山の手前の「間々田駅」から水戸線へ短絡する貨物線を通り水戸線へ乗り入れ、結城・下館・友部を経由して常磐線「勝田駅」まで運転されていました。途中の結城までは急行ですが、水戸線内~勝田までは普通列車となっていました。(電車化当初は、下館まで急行運転をしていたようです。)水戸線は交流電化区間のため、使用車両は451系又は453系です。東北本線の黒磯以遠へ行く急行はすべて451系~457系で運転されているため、特に注目する車両には見えないのですが、当列車は勝田電車区の車両を使用していたため、東北本線の日暮里~岩沼間では唯一見られた編成でした。また、最大の特徴は、当時、大宮を出て最初の急行停車駅である「小山」に到達する前に水戸線へ短絡してしまい、代わりに「間々田」に停車しました。間々田駅の歴史の中でも、急行列車が定期で停車したのは「つくばね」だけでしょう。昭和60年1月5日 栗橋~東鷲宮間にて 上り急行「つくばね」「小山駅」を経由しなかった理由としては2つ考えられます。1つは、小山駅の東北本線と水戸線のホームの間に貨物ヤードがあり、転線に時間が掛かかり過ぎるため、直通列車としての時間的利点を優先した。2つ目は、小山駅を経由するとスイッチバックになるため、勝田電車区又は上野駅時点で列車の向きが変わってしまう。といったところでしょうか。おそらく、後者の理由の方が大きいと思います。「つくばね」は、東北新幹線上野開業を迎えた昭和60年3月に廃止となったため、写真は最末期の頃のものとなります。ヘッドライトのシールドビーム化など魅力も半減していましたが、7両という仙台電車区所属車とは一味違った編成が、勝田電車区の急行「つくばね」であることを主張しています。水戸線結城駅→100kmの急行券・自由席グリーン券です。「つくばね」の名称は一切見当たりませんが、実際問題として水戸線には「つくばね」以外のグリーン車を連結した列車はありませんので、「専用」であったと言えます。※臨時列車でお座敷(グリーン車扱い)使用の列車は運転されたと思いますが、原則指定席だと思われますので、ここでは「専用」という表現をいたします。発行駅は水戸線岩瀬駅であり、水戸線内は普通列車の種別ですので、当然岩瀬駅から乗車することができますが、急行区間は結城駅からとなるため、表示も結城→となります。ここでひとつの疑問が湧くのですが、「つくばね」は普通列車区間においても「普通列車用グリーン車」として営業しており、普通列車の区間においてグリーン車に乗車するとなれば、当然「普通列車用グリーン券」を購入しなければなりません。しかし、例えば「下館」から「大宮」まで通しでグリーン車の乗車する場合、全行程で100kmに満たない場合でも「下館」から「結城」までの「普通列車用グリーン券」を購入しなければならないのでしょうか?優等列車用のグリーン券であれば、普通列車のグリーン席に座っていても問題の無いような気がしますが・・・。読者様からの情報により、このような場合はそのまま普通列車グリーン車に乗車できる特例規定があるそうです。国鉄時代に与野駅で1年半ほど勤務しましたが、意外とこのグリーン券は着札があり、短区間で高額ながら需要があったようです。
2022.06.14
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旧型国電 クモハ40077:大糸線快速 大糸線全通65周年号 運転スカイブルーの旧型国電、大糸線の続きです。今回が最終回となりますが、最後は両運形クモハ40です。旧型国電が全国で終焉を迎え始めたころですが、両運形の旧型国電で旅客用となると、西のクモハ42、東のクモハ12など、まだその特性を発揮した車両が現役でいました。一方、生産量数では一番多かった通勤型のクモハ40ですが、都市部に多くが存在していたためか、比較的に早く淘汰されてしまい、国府津の職員輸送用を除くとかなり希少になっていました。むしろ、飯田線に残っていたクモハ60(クモハ40の出力増強版)が5両も残っていたのは奇跡と言えるでしょう。スカ色や茶色が一般的な両運形ですが、ことスカイブルーとなれば全国でも大糸線だけとなっていました。(その少し前までは、富山港線や大垣区にも配置されていました。)昭和56年7月21日 信濃森上駅にて クモハ40077大糸線の1日だけの撮影で最後に撮ったショットだったと思います。先般ご紹介いたしましたクモハ60の編成の最後部はクモハ40だったんですね。あの鉄橋のアングルでは後部が撮影できませんでしたので、クモハ40が連結されていたことには気が付きませんでした。大糸線には、ここでしか撮ることのできなかったノーシル・ノーヘッダーのクモハ60やクモハ54、2扉部分低屋根のクモハ43802や804、合いの子の唯一の低屋根改造車であるクモハ43810、最後の旧サロ45であるサハ45、そしてまた最後のサハ57と、希少な車両がいました。終焉にあって、撮影も1日限りとなったために殆ど撮ることは叶いませんでしたが、希少であったこのクモハ40077だけでも撮ることができたのは幸いでした。旧型国電 クモハ60:大糸線旧型国電 クハ55:大糸線旧型国電 クモハ54005:大糸線キハ58系:急行「白馬」
2022.08.24
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485系3000番台:臨時特急「つがる53・54号」奥羽本線の秋田~青森間に運転された特急列車の歴史を見てみると、かつて昼間は「白鳥」と「いなほ」の各1往復くらいしか走っておらず、他には夜行で「日本海」「あけぼの」といったブルートレインくらいのものであり、優等列車の少なかった時代はこれらの夜行列車もヒルネ利用として使われていました。新幹線網の整備によりアクセス特急も充実することになり、「いなほ」「たざわ」といった外区間からの直通列車や、純粋に秋田~青森間に設定された「むつ」などもありました。しかし、この区間の乗車率は決して良くは無く、運用の効率化により系統分割が図られ、短編成特急「かもしか」へと移行されることになります。この時期、この区間には撮影に訪れることが無かったため、その記録は残念ながらありません。東北新幹線が八戸まで延伸された際、それまでの「はつかり」は北海道函館への直通列車が「白鳥」となり、青森までの列車が「つがる」に改名されることになります。その際、季節延長で弘前まで足を伸ばすこともあったようです。さらに東北新幹線が新青森へと到達すると、東北本線内でのアクセスが不要になってしまうことになり、青森~秋田間の特急列車が整理され、ここに現在の秋田~青森間の特急「つがる」に定着することになります。それまで485系3000番台を中心に使用してきた「つがる」でしたが、E751系が余剰となったために運用が整理され、検査や故障時を除いてはE751系によるを行っていました。そんな中でも、臨時列車には予備車である485系3000番台が充当されることがあり、全国から485系が次々と姿を消していく中では貴重な存在となっていました。平成24年3月11日 青森駅にて 特急「つがる53号」「あけぼの」の撮影を邪魔するかの様に停車中の485系「つがる」でしたが、既に青森センターの485系は定期運用を持っていませんでしたので、大変貴重なシーンでした。485系3000番台を直に見たのも初めてだったと思います。平成24年3月13日 青森駅にて 特急「つがる54号」同じ回の撮影最終日、青森駅へ出向くと偶然にもまた遭遇しました。たまたま遭遇した臨時特急「つがる」。目的には入れていなかったので、今になって思えばラッキーな出会いでした。函館新幹線の開業により完全に行き場を失ってしまった青森センターの485系。平成28年3月、青森センターは盛岡センターの派出に格下げされてしまったようで、485系も盛岡センターへの所属替えとなったようです。そしてその後は活用されることもなく、廃車となってしまったみたいです。
2023.01.17
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E3系1000番台(初期塗装):山形新幹線「つばさ」山形新幹線「つばさ」に使用しているE3系1編成にシルバーカラーが復刻、令和5年2月11日より営業運転が開始されたそうです。E3系つばさ シルバーカラー 運転『E3系2000番台(初期塗装):山形新幹線「つばさ」』で外装変更前の姿をご紹介いたしましたが、以前400系の最後期を撮影に行った際、1000番台を偶然にも1枚だけ撮影していました。平成20年8月2日 小山駅にて L51編成 「つばさ107号」山形新幹線用のE3系1000番台は、新庄までの延長開業用として2編成(L51・L52)が新製されました。さらに、2005年に1編成(L53)が増備されて計3編成が誕生しています。0番台からの改造でさらに2編成(L54・L55)が登場しますが、初期の2編成は既に廃車となっており、3編成が新塗装に変更され現在に至ります。
2023.02.12
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EF715牽引 12系客車:臨時列車(奥羽本線)今でこそ12系客車も製造から50年前後を迎えた国鉄型車両で、ほぼ動態保存的な存在となってしまいましたが、民営化初期の頃は改造により用途が変わってしまった車両があったとしても、まだまだ定期列車や波動用に使用されていました。板谷峠のスイッチバック廃止が目前となった頃、同区間の撮影で偶然にも12系客車を使用した臨時列車を捉えることができました。※撮影は、平成2年2月18日です。板谷駅付近にて赤岩駅にていずれもEF715牽引による12系客車を連ねた臨時列車です。1枚目が山形方面へ、2枚が板谷峠を下山した帰りに撮影した福島方面への列車で、いずれかが営業運転・回送になっていると思います。記憶としては臨時急行列車と思っていたのですが、その後の調べで臨時急行が設定された様子はなかったため、一般団体列車のようです。今でしたら12系客車による臨時列車も情報が載るのですが、当時は客車によるジョイフルトレインの全盛期で、それらによる団体列車の情報で満載でした。このような特徴のない12系による団体列車程度では、運転情報に載るような余地はない時代でした。
2023.02.20
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113系:東海道本線 普通列車既に全廃となって久しい東海道本線の113系ですが、今回は懐かしい113系時代の普通列車の写真をご紹介いたします。普通列車は撮影の対象から外れており、それほど枚数は撮影していませんでしたが、珍しい写真も撮っていました。昭和54年頃 品川駅にて 113系 静岡車品川止まりの臨時列車でしょうか。品川駅へ到着後、田町電車区へ回送されるシーンです。当時の東海道普通列車は、田町・国府津・静岡各区の車両が東京駅へ乗り入れしていましたが、このうち静岡区の編成はグリーン車無しのモノクラス編成でした。したがって、時刻表でも区別が付いたようです。しかも、かなり遅くまで冷房改造されずにいたため、ご覧のように原形のグローブ型ベンチレーターずらりと並ぶ壮観な編成を見ることができました。昭和55年8月 東京駅にて 113系 クハ111非冷房車夕方撮影のためブレてしまって、所属や車号表記が判別できません。押し込み形ベンチレーターに原形非冷房であることから、113系の初期車と思われます。この当時、房総系のスカ色では見られたタイプですが、東海道本線東京口では冷房化の促進が急速であり、あまりお目にかかれないタイプでした。昭和56年2月1日 根府川~早川間にて付属編成が非冷房4連。おそらく111系と思われますが、基本編成は113系新製冷房車のようです。付属編成は静岡車と考えられますが、このような混結運用があったのか?詳しくは知りません。昭和58年7月24日 戸塚~保土ヶ谷間にて 113系冷房改造車この頃になると、東京口の湘南電車は静岡車を除いてほぼ100%冷房化されていたと思います。冷房化に際してはヘッドライトのシールドビーム化も実施されているため、冷房改造初期のデカ目のままの車両もなかなかお目に掛かることは出来ませんでした。この列車もデカ目でなかったらシャッターを切っていなかったことでしょう。昭和59年3月23日 東海道本線 保土ヶ谷~戸塚間にて 111系 静岡車一番上の写真から7年、静岡区の111系非冷房編成がまだ残っていました。後部の方を良く見ると、何両か押し込み形ベンチレーターの113系初期車が混結されているようです。EF58牽引荷物列車の写真を撮るために構えていたのですが、思わぬところで貴重な列車を撮ることができました。昭和54年5月 大船駅にて 113系 湘南色・スカ色混結画像を大きくしていただけると判るかもしれません。最後部の次に連結されているモハユニットがスカ色となっています。昔から東海道本線では良く見られたようですが、写真ではあまり捉えたことがありませんでした。昭和56年8月21日 富士駅にて当時、旧型国電に没頭していたので、新性能車である113系や115系などは眼中になかったわけですが、混色編成というデザイン感覚を麻痺させるような編成というのは放っておけない存在だったため、乗り継ぎの合間に見た同列車だけは撮影していたようです。先頭車のクハ111ですが、おそらくは横須賀線あたりで使用されていた初期113系で、窓周りを見る限り0番台で間違いないでしょう。横須賀線・総武快速のスルー運転により、冷房車や冷房準備車が優先配置となり、本格的な改造を要する基本番台を手放して都落ちさせたのではないかと思われます。連なる車両はモハ111系となっており、グローブ型ベンチレータを搭載しています。北方面に住む私としては、あまり出逢える機会が少なかった車両でもあり、記録としても希少なものとなります。クハ111の方向幕は未だ準備すらされていないことから、短編成化に合わせて取り急ぎ手当てしたような様子も見て取れますし、なかなか面白いものではないでしょうか。悲しいことに、当時はフィルム現像も自分で行っていたため、カラーでないのは残念なところです。昭和54年5月頃 品川駅にてこの写真は、未だ東海道線と横須賀線が分離運転する以前の写真です。この列車、東海道線の普通列車なのですが、編成は南フナの横須賀線用の113系1000番台です。ラインカラーでない車輌を使用するときは、基本的に線名表示シールを貼って誤乗防止策を施すことが多いですが、101系や103系はともかく、113系や115系ではそのようは措置はあまり見たことがありません。この写真の列車も、線名表示はしていないものの、行先札が貫通路の窓の内側から架かっています。しかし、これでは小さ過ぎて一目では判りそうもありません。また、この列車の特筆すべきところは、通常品川始発の場合、7・8番線の始発ホームから発車するのですが、このホームは通常の東海道・横須賀線が発着する番線なのです。そして、貫通路にぶら下がっている行先表示も、どうもプラスティック製のきちんと作成されたもののようです。さらに、付属編成を連結するとグリーン車の位置が違ってしまうためか、基本編成のみの11連となっています。行先表示が準備されているところを見ると、私の経験が少ないだけで、もしかしたら良くあった話なのかもしれません。でも、中学1年から高校2年くらいまで品川へ結構な回数の写真撮影に行きましたが、このような措置を見たのはこの1回だけでした。
2023.03.15
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