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昨日AMAZONに注文していた本が手元に届きました。あの素晴らしい曲をもう一度フォークからJポップまで富澤一誠著ケーブルテレビの歌謡ポップスチャンネルでおなじみの人で、この人結構好きなのです。音楽評論家ですが、フォークに詳しくなぎらよりは真実性がある。私のフォークのイメージはこの本の中にあるアイビーカットに白いソックスここなんです。当時私の周りの友人は100%と言っていいくらいアイビーでした。吉田拓郎が好きで好きでたまらなかったけど、ちょっと違うんですね。同じ下宿になった和歌山の白浜出身の同級生が大学の軽音楽クラブに入って、4年間PPMのコピーをやっていました。彼はポール役だったと思います。フォークという名前のクラブは存在しませんでした。2年後下宿に入ってきた後輩が大阪の人間でしたが、フォークは高校くらいまででみんなJAZZとかブルースをやりだすと言っていたのを思い出しました。吉田拓郎とか井上陽水などをコピーしたりするのは。私たち地方出身の田舎ものだけでした、1回生か2回生の時の文化祭は上田正樹とスターキングデリシャス(大上留利子)で次の年は憂歌団。学校の中でフォークというイメージはありませんでした。別にそういうわけではありませんが、大人の音楽はないかとJAZZを聴くようになったのです。吉田拓郎も73年の伽草子で終わり。ほかのフォークには全然興味がなく、ただ自分の好きな音楽として、フォークに限らず、JAZZ以外にも聴いていました。神田川とか結婚するって本当ですか遠くで汽笛を聞きながらなどなど。嵯峨野さやさやもその中の1曲で今でもたんぽぽの妹の三代さんには年賀状だけは出させていただいています。最近、懐かしの歌番組がありますが、たんぽぽも是非出演してもらいたい。
2013年01月27日
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毎日、寝る前に昔読んだJAZZ関連の本を読んでいます。10ページほど読むとすぐ眠くなってしまう。植草甚一著1978年4月12日紀伊国屋 松山店で買ったものです。もう一冊は植草甚一著昭和52年1月19日 難波 南海通り 波屋書店で購入2冊とも400ページほどあるので読み終えるのはいつになるやら。最後まで鉛筆で線を引いているので、よく勉強していたんだと感心してしまいます。私にとっては1950年代のハードバップが一番良かったんだと再認識。JAZZは聴かなくなりました、というよりレコードの再生をしなくなりました。何故?めんどくさい 今日家に帰ったところで近所の人に会って突然、「町内会長やってくれんかな。ワシも今年80になるけん(町内会長を降りたい)。」2級下のがいろいろ世話をしているので、「あいつが町内会長もやったらええのに」と言ったら、「民生委員やら公民館の世話をやっとるけん忙しいんよ。」ただやってもいいんですが、私、言いたいことをいうたちなので、敵を作ってしまってこういうのは適任ではないのです。それでかどうかほとんどの人にB型ですかといわれるのです。
2013年01月25日
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いつの頃からか休みの日は一日パソコンの前に座ってテレビを観ています。おたくです。録画していた「東京ラブストーリー」の最終回を観ていて、織田裕二が駅員に尋ねるシーンがあるのですが、その駅員の人、知り合いでした。下手くそなしゃべりで、素人なので仕方がありませんが、以前もACジャパンのCMにも出演していて何故なのか、今度あった時に聞いてみようと思っています。この舞台となった梅津寺(ばいしんじ)の遊園地は今はありません。我が家からはこの渡し舟か伊予鉄三津駅から2つ目の駅になります。現在駅舎は建替えられキレイになっています。 ノラ猫の出会いと別れ2いまだに死んだとは思っていないので毎日夜は駐車場へ行っています。(と言ってもだいぶあきらめてはいます。)連れて帰っておけばと思ったりはしますが、ノラ猫として産まれてきた宿命だと思い又そういう関係であったと思っています。性別も気にしたことがなかったのでオスだったのかメスなのか出会った瞬間から別れはつきもので恋愛でも若い頃はよくそういう内容のことを日記(毎日書いてはいませんが)に書いています。倉橋由美子ではありませんが、青春とは振り返りたくないもので当時の日記を読み返す気にはなりません。書き残すクセはいまだに残っていて、百均でその年の手帳を買って毎日何かしら書いています。1月3日以来猫の姿は見ていないので命日は1月3日にしようと思っています。我が家にはこの12歳と11歳の猫が2匹います。
2013年01月22日
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祝日は固定の方がいいのに。1972年1月15日。近くの公民館で成人式があり、スーツを着て出席しました。当時ここ松山では19歳で成人式を迎えることになっていました。浪人していてもうすぐ受験日という不安定な心理状態でありました。式が終わって電車で街まで彼女に会うために行ったことを今でもハッキリ覚えています。「ある猫との出会い、そして別れ」時期はハッキリ覚えていませんが6~7年ほど前、借りている駐車場の手前にあるマンションのゴミ捨て場でいつもニャーニャーないている子猫がいました。あまりになくので、誰の目にもとまり追い払われおびえているのが不憫で駐車場のほうにくるよう仕向けてエサをやるようになったのです。かなり時間はかかったと思うのですが、それからその猫との毎日が始まったのです。家から駐車場まで200mくらいあるのですが、角から駐車場まで70~80m角を曲がると、足音で解るのか絶妙のタイミングで道路を隔てた向こう側から車のところまでくるのです。車で帰ってくると同じようにバックする車にひかれそうになるくらい待ち焦がれているのです。ただ、帰ったときいないこともあり、そういう時は夜9時頃駐車場へ行くと待っていました。雨の日も、寒い日も、暑い日も、台風でどしゃ降りの日も、欠かさず行っていました。どんな日でもほとんど待っているのです。あれだけよくなく猫がほとんどなかなくなって大人しい猫になっていました。それでも、どしゃ降りの日などはニャーニャーとかなりないて、待っていたといいたいのか、こんな日でもきてくれたのかと言いたいのか、違う姿を見せていました。命あるものの宿命か昨年の12月に入った頃からエサをあまり食べなくなり、車まで来てはいるのですが、出かけるのを前足を揃えて見送ってくれるのです。日が経つにつれ2日、3日来ない日があるようになったのです。たまに車のドアを開けたままにしていると、車に飛び乗ってきて、中を行ったりきたりするのですが、しばらくすると外にでていたのが、12月後半から今年の1月にかけては外にでないのです。シートを倒して横になると顔を私の顔に近づけてジッとして動かない。背中をなでながら、30分くらい抱いてやっていました。温かみが欲しかったのだと思います。今年に入って、12月の後半になると朝は全く姿をみせず、夜も4、5日姿を見せなくなっていたのが、珍しく1月2日、3日と連続で夜待っていたのです。ただ、1月3日を最期に姿を見せることはなくなりました。この猫には名前をつけていなく、いつも「ほうかね。ほうかね。」といっていたのでほうかねというのが自分の名前だと思っていたのかもしれません。子猫の時はよくないていたのが、ほとんどなかなくなり、最期の頃はまたよく鳴いて、待っていたんだよと言っているように聞こえました。今でも、毎日夜駐車場へは行っていますが、姿を見せることはありません。こんなにショックを受けるとは・・・。以前、我が家の車庫にいた猫たちです。
2013年01月14日
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