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2006年07月30日
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2006 King George VI & Queen Elizabeth Diamond Stakesには日本のハーツクライが参戦してたんですが、残念ながら3着に敗れました。。優勝はモンジュー産駒のハリケーンラン。。2着にL.デットーリ騎乗のエレクトロキューショニスト(父レッドランサム)。。レース後、橋口調教師のコメントは「凱旋門賞ではディープインパクトに頑張ってもらいたい」と締めくくられてる。今回の敗戦の悔しさがわかる。キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスは毎年7月にイギリスのアスコット競馬場のダイヤモンドデーで行われる芝12ハロン(約2400メートル)の競馬の競走。競走名はイギリス国王ジョージ6世とエリザベス皇太后に由来。ヨーロッパの上半期最強馬決定戦として3歳はエプソムダービー・アイリッシュダービー・ジョッケクルブ賞の優勝馬・出走馬、4歳以上はコロネーションカップ・タタソールズゴールドカップ・エクリプスステークス・プリンスオブウェールズステークスなどのグループ1の優勝馬・出走馬が参戦し、世界有数のハイレベルな競走が行われる。世界的にエプソムダービー、凱旋門賞と並び欧州競馬最高峰レースの一つとされている。また、日本では「キングジョージ」と略して呼ばれることが多いほか、これらの3レースを全て制した馬を主に日本では「欧州三冠馬」と呼ぶ。
2006年07月30日
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プロレス記念日、ナミの日、東北自動車道全通記念日、明治最後の日、みその日(毎月)、土用の丑北里柴三郎、ペスト菌発見(1894)明治天皇崩御(1912)日本プロレスリング協会結成(1953)自衛隊のジェット機、雫石町上空で全日空機と衝突。全日空機の162名死亡(1971)沖縄県で交通ルール、車は左に変更(1978)古賀政男に国民栄誉賞(1978)台風6号により九州で暴風雨被害。死者29名。家屋損壊110戸。浸水38000棟(1973)東北自動車道、浦和~青森間全通(1986)誕生:エミリー・ブロンテ(作家1818) ヘンリー・フォード(自動車王1863) 新見南吉(1913) 立原道造(詩人1914) 荒井注(タレント1928) 斎藤晴彦(俳優1940) ポール・アンカ(歌手1941) アーノルド・シュワルツェネッガー(俳優1947) ロザンナ(タレント1950)
2006年07月30日
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これから爺婆のところへお出かけです~ 息子は電車を見れる、乗れるで嬉しそう(^ .^)y-~~~
2006年07月29日
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今日も愛機に跨がり走りますえ~
2006年07月28日
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Z1-R(Z1R、ぜっとわんあーる、ずぃーわんあーる)は、川崎重工業が1978年に製造を開始した大排気量クラスのオートバイである。1970年代から80年代にかけて大流行したカフェレーサーをイメージしたビキニカウルのモデルとして知られ、4気筒の排気を1本に集合させた4in1マフラー、アルミニウム製鋳物によるキャストホイールを装備する。Z1-R以前のカワサキ車は重工業メーカーならではの無骨さをセールスポイントにしてライダーに支持されていたが、競業他社の車種に比べてファッショナブルさや精彩に欠けていた。Z1-Rはそれまでのカワサキ車のイメージを一掃する異色のモデルである。メル・ギブソン主演のオーストラリア映画の『マッドマックス』に登場する車種として知られる。1976年(1975年)にGL1000が発売され、それまでは小型化・高機能を追い求めていた日本国内のオートバイ市場にアメリカ市場向けとしてトランザム(Trans America、大陸横断)指向が知られるようになる。これに対応するオートバイとして総排気量1,000ccを越すリッターモデルが求められるようになった。このような市場背景に応じるように、カワサキも1977年にZ1のエンジンのシリンダー径を大きくするボアアップしたエンジンを積むZ1000を発売、翌年の1978年にZ1000をベースにそれまでの曲線フォルムを捨て、直線基調でまとめられたZ1-Rが発売された。翌年、さらに直線デザインを強調したZ1000MK-2にモデルチェンジするものの、銀色の流麗なフォルムは人気が高く、Z1000MK-2ベースによりZ1-R2が製造された。発売後数十年経過しているが根強い人気があり、多くの車両が逆輸入され高値で取引されているモデルである。出来れば、私も所有したい(切望!)
2006年07月26日
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カワサキ・750ターボ(750turbo)は、川崎重工業が1984年に発売した、カワサキとしては唯一の750cc過給器付きオートバイ。歴史1970年代後半、排ガス規制の為に著しく非力となった四輪車が、その対策としてそれまで航空機の特殊な技術だったターボチャージャーをこぞって採用し、ターボブームが巻き起こった。そして1980年代に入り、それまで空冷自然吸気エンジンが主流だったオートバイ界にも世界初のターボ車が登場した。1980年にホンダからCX500Turboが登場、1982年にはヤマハからXJ650Turbo、スズキからXN85が立て続けに登場。しかしこれら各メーカーはターボチャージャーを“中排気量で750cc並みのパワーを実現する機構”と位置づけての開発だった為に、中型クラスの車体に750cc並みのパワーを持つツアラーという位置づけだった。当時唯一ターボ車を持っていなかったカワサキは、過給器付きエンジンの開発を行っていなかった訳ではなく、ホンダ・CX500Turboデビューの翌1981年の東京モーターショーには既に750turboのプロトタイプが参考出品されていた。このプロトモデルは無塗装のアルミ製カウルをリベットで留めており、アッパーカウルからテールカウルまでのその流れるようなデザインは第二次世界大戦中も戦闘機や爆撃機を作り続けてきた川崎重工業の鉄臭さや航空機に似た機能美すら感じるスパルタンな外見であった。翌1982年のケルンショーでは正式に量産モデルとして披露された。カワサキはその昔から最速最強を自負しており、この車両も当然の如く「世界最強最速のターボモデル」というコンセプトのもと、1984年にデリバリーが開始される。時期で見ると国内4メーカー中で最後発となった同車だったが、それだけに他メーカーのターボモデルの性能を大きく上回る112psというハイパワーとスポーツ走行性能、セパレートハンドル(U.S仕様はややアップハンドル気味)、バックステップ、当時の最高グレードであるVレンジタイヤなどが与えられており、名実共に文字通り“世界最強最速のターボモデル”となった。なお当時の750ccクラスの最高出力は85ps前後、輸出専用の1100ccクラスでも120ps程度であったことからもその過激さが分かる。また従来から他メーカー製のエンジンに比べて品質過剰とまで言われ続けてきたカワサキ伝統の頑強なZ系エンジンと、理論上は過給圧を上げるだけでいくらでもパワーが上がる特性を持つターボチャージャーの組み合わせはお互いの欠点を上手く補った組み合わせとなり、当時の社内テストでも同社フラッグシップだったGPZ1100(1983年発売)を大きく超えるパワーを発揮してしまった為、あえて112psにデチューンされた。しかしそれでも0-400mタイム10.71秒(GPZ1100は11.10秒)、最高速度235km/h(GPz1100は237km/h)という当時の750クラスを遥かに越えた驚異のデータを叩き出してしまう。またターボチャージャーの大パワーに対応する為に専用の大口径Fフォーク、大口径ディスクブレーキと強化クラッチ/強化フレームなどが与えられた。この750turboはGPZ750をベースとした派生モデルと思われがちだが、実際にはZ750FXIIやZ750GPなどと同様にZ650ザッパー系をベースとして設計されており、GPzシリーズのカウルやタンクなどのデザインは750turboを受け継いだもの。事実同車の車体整備マニュアルはGPZ750シリーズではなくZ750GP用を参照するよう指定されており、一見共通に見えるカウル類などもGPZとは互換性が無く、外装はもちろんエンジンやフレーム/フロントフォーク/リアスイングアームなどもGPZシリーズとの共通パーツは極度に少ない。またサイドカバーやアンダーカウルなどには、1981年の東京モーターショーで公開されたプロトタイプのアルミニウム剥き出しカウルの名残りとしてリベットが残されているのも特徴。ちなみに同車から始まったデザインは後の水冷GPZ900Rまで受け継がれ続けた。しかし当時の規制により2輪ターボモデルは国内での販売が認可されず、全メーカーのターボモデルは全て輸出専用となった。また750ターボの価格はフラッグシップモデルのGPZ1100より高価であり、当時の円レート換算で230万円以上の価格が設定されていた。(ちなみに1984年当時の大卒者平均初任給は約13万円)当然の如く、この特殊で高価なターボモデルを購入できるユーザーは世界でもごく少数に限られた。また社会の常として大ブームの後には必ずアンチ派が発生し、些細な事を大きく取り上げて叩く。具体的な例としては「ターボモデルはターボラグがあり、オートバイの繊細なアクセルワークには不向き」などと悪評を囁かれた。これらのマイナス原因が重なった結果、同社のフラッグシップGPZ1100をも凌駕した世界最速最強の750Turboは僅か2年でモデル生命を閉じ、時代の波の中に葬られた。スペックメーカー公表値は以下の通り。エンジン形式 空冷4サイクル4気筒DOHC2バルブ + ターボチャージャー 排気量 738cc ボア×ストローク 66.0×54.0mm 圧縮比 7.8:1 タービン 日立製(最大200,000rpm) 最大ブースト 650mm/kg キャブレーション方式 D.F.I(デジタルフュエルインジェクション) 最高出力 112ps/9000rpm 最大トルク 10.12kg-m/6,500rpm バルブタイミング(インテーク)Open 22 degrees BTDC/Close 52 degrees ABDC/Duration 254 degrees バルブタイミング(エキゾースト)Open 60 degrees BBDC/Close 20 degrees ATDC/Duration 260 degrees オイル容量 3.5L 潤滑方式 ウエットサンプ オルタネーター容量 20A @8,000rpm 変速機 5速リターン ギア比 1速/2.285 2速/1.647 3速/1.272 4速/1.045 5速/0.833 全長 2190mm 全幅 720mm 全高 1260mm ホイールベース 1490mm 最低地上高 155mm シート高 780mm キャスター角 28.00° トレール量 117mm Fフォークストローク 130mm Rスイングアームストローク 105mm 最小回転半径 2.7m タイヤサイズ F:110/90-18 R:140/80-18 タンク容量 17.0L 乾燥重量 233kg
2006年07月24日
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さて、今日はあの忌々しいく、ひつこい雨がネタ切れの隙に溜まった洗濯物を片付けてやるちねみに今日はこんな日下駄の日(全国木製はきもの業組合連合会)、てんぷらの日、夫婦の日(毎月)▲近江朝廷軍、瀬田で大海人皇子軍に大敗する(672)▲ハーメルンの笛吹き。ネズミの大量発生に困ったハーメルンの町長は 笛吹き男に頼むと、笛で誘って川で溺れさせて退治。町長がお礼を払うのを 渋ると男は笛で子供たちを誘い出し失踪(1376)▲イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸(1549)▲高田光政が日本初のアルプス3大北壁征服(1967)▲文部省が初の肥満児全国調査を発表(1969)▲ちびくろサンボ、人種差別と報道(1988)▲小樽市に石原裕次郎記念館ができる(1991)誕生:メンデル(修道僧・植物学者1822) 浜口庫之助(作詞・作曲家1917) 中原ひとみ(1936) 安西水丸(イラストレーター・漫画家1942), 岡林信康(ミュージシャン1946) 江本孟紀(元プロ野球選手1947) 家田荘子(ノンフィクション作家1958) 原辰徳(元プロ野球選手1958) 森公美子(タレント1959) 内村光良[ウッチャン・ナンチャン](1964) 渡辺典子(女優1965) 藤井恒久(アナウンサー1969)
2006年07月22日
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日曜日に遅ればせながらダ・ヴィンチ・コードを観てきました。。上映時間2:30とかなりの長編でしたが、観客を飽きさせない映画です。。なにせ、謎解きのシーンが面白い結果、観客に対する説明シーンんなんだが、テンプル騎士団が第一回十字軍の遠征で、聖地エルサレムに侵攻するシーンは圧巻でした。。まるで、自分がその現場に居たかのように感じました。。その中に、「13日の金曜日」がナゼ?不吉とされるか由来もチラッと説明されてます。。ただ、やっぱり原作((文庫版)「ダ・ヴィンチ・コード上・中・下巻セット 」)を読んでから映画を見た方がより内容を理解できると思います。あらすじルーヴル美術館で館長のソニエールが殺される。死体は「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で発見された。この奇妙な死に方は犯人ではなくソニエール自身が行ったものであった。パリの書店で著書のサイン会を行っていたハーバード大学の教授ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は、フランス司法警察のファーシュ警部(ジャン・レノ)に呼び出され、捜査協力を求められる。現場で警部と共に検証を行った彼の元に暗号解読官のソフィー(オドレイ・トトゥ)がやってくる。警部の目を盗み彼をトイレへと呼び出した彼女は、ラングドンが第一容疑者で彼を逮捕する気であることを伝える。ソニエールと会う約束をしていたから、そして現場に彼の名が残されていたからである。
2006年07月18日
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41万キロ走ったエンジンに真新しいコンプレッサーが組みあがりました~
2006年07月13日
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この部品、エアコンのコンプレッサーが焼き付いてました。今新しい部品に交換作業中。
2006年07月13日
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毎日蒸し暑い日々続きます(;-_-+そんな中、今日ようやくトラックのエアコン修理です。 はい!今日でエアコン無し卒業~
2006年07月13日
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教えた訳でもないのに我家の息子は、正座でテレビ観賞。いったいどこで覚えてきたか謎(;-_-+
2006年07月10日
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さて、明日はドイツW杯決勝ですね。。個人的にはあまりサッカーに興味無い方なんすが、さすがに決勝となると興味湧いてきます。。イタリアの守備はド素人の私でも「すっげ~」とTVの前で口あけてしまうほど。フランスはジダン、ビィエラ、テュラムと決勝という特別な時に力を発揮してきそうなベテランが揃ってますね。。イタリアのリッピ監督はどちらのチームがよりタイトルに飢えているか見てみようじゃないかとの言葉。対してフランスのドメネク監督はこれをファイナルとは考えていない。穏やかに休暇に入る前に勝っておかなくてはならない一戦というだけだらしい。両監督とも自信に溢れたコメント。ドメネク監督の言葉は日本人にゃ発想できない言葉かも
2006年07月09日
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今日は、久々に息子と二人なので二人でぶらぶら電車の旅にでてます~
2006年07月08日
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今日は昨日に引き続きあまり知られてない、初代大和についてです。。。大東亜戦争末期に建造された大和は2代目で、初代大和の艦長はなんとあの東郷平八郎元帥大和(初代)初代・大和(やまと)は、初代・葛城型の二番艦、3本マストの汽帆兼用の鉄骨木皮スループ。日本海軍最初のケースとして民間の神戸小野浜造船所で建造された。明治16年(1883年)2月23日に起工、明治18年(1885年)5月1日進水、明治20年(1887年)11月6日に竣工。初代艦長は東郷平八郎大佐(昭和天皇に勉強など教えた人)であった。初めは巡洋艦と呼称されていた、日清戦争には、僚艦とどもに威海衛百尺崖攻撃や劉公島砲台の砲撃などに活躍し。明治31年(1898年)3月21日、三等海防艦に類別、日露戦争にも第三艦隊の一員として参戦した。大正元年(1912年)8月28日、等級改定で三等が廃され二等海防艦に艦種変更される。さらに、大正11年(1922年)8月28日に、姉妹艦武蔵とどもに特務艦(測量艦)となった。海防艦時代後期から測量任務として長期間に従事、また日本海中央部に大和堆を発見した。昭和10年(1936年)4月1日除籍。その後、司法省の所管に移され、浦賀港内に繋留されて、少年刑務所の宿泊船になり。大東亜戦争中、解体のため横浜に回航されたが、敗戦1ヶ月後の昭和20年(1945年)9月18日、台風のため鶴見川の河口に沈没。昭和25年(1950年)ついに解体された。新造時要目常備排水量:1480トン 長さ:61.4m 幅:10.7m 吃水:4.6m 主機:横置還動式2気筒連成レシプロ蒸気機関1基、1軸 主缶:円缶(石炭專焼)6基 出力:1600馬力 速力:13ノット 燃料搭載量:石炭150トン 兵装:17cm単装砲2基、12cm単装砲2基、7.5cm単装砲1基、25mm四連装機砲4基、11mm三連装機砲2基 乗員数:230名
2006年07月05日
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大東亜戦争末期に東シナ海で撃沈された「大和」が沖縄へ向け出撃する約5時間前の全景写真が、米国立公文書館所蔵の記録写真の中から発見されたとらしい。そこで、今日のネタは「戦艦大和」です。小学生の頃、「宇宙戦艦ヤマト」がTV放映開始され、それに影響されて学校の図書室で「本物の大和」が見たくて写真探したりしたなぁ~あと、作れないくせに大和のプラモ欲しがってたなぁ~同世代の方コメントくださいね~大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。太平洋戦争開戦直後に竣工・就役した。その後、連合艦隊旗艦任務を務め、これは司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役するまで継続された。艦歴 起工 1937年 11月4日 進水 1940年 8月8日 就役 1941年 12月16日 除籍 1945年 8月31日 性能諸元 基準排水量 65,000トン(完成時) 満載排水量 72,808トン(完成時) 全長 263.0m 全幅 38.9m 平均吃水 10.58m 最大速度 27.46ノット 乗員 3,300名 軸馬力 153,553馬力 (軸数4) 装甲 舷側 410mm甲板 200mm主砲防盾 600mm 兵装 新造時 3連装45口径46cm砲 3基 3連装60口径15.5cm砲 4基 40口径12.7cm連装高角砲 6基 25mm3連装機銃 8基 13mm連装機銃 2基 最終時 3連装45口径46cm砲 3基 3連装60口径15.5cm砲 2基 40口径12.7cm連装高角砲 12基 25mm3連装機銃 52基 25mm単装機銃 6門 13mm連装機銃 2基 建造「大和(計画名A140F5)」は1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の第4ドック(造船船渠)で起工された。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、それは秘密裏に建造され、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根がかけられた。建造に携わる者は厳しい身元調査が行われ、造船所自体が厳しい機密保持のために管制下におかれた。建造には当時の最新技術が注ぎ込まれた。日本工学(現ニコン)製の世界最大の15メートル測距儀(照準器)、東芝製の高効率冷蔵冷凍庫、士官居住区のエアコン完備、三菱製、戦闘艦橋までの3人乗りエレベータなど、日本戦艦初の試みも多数なされた一方で、装甲内にあり簡単に交換が利かない動力部分は失敗が許されないため、すべて中圧力の重油専焼ボイラーという保守的な設計がなされた。そのため最高速力は列強のライバルにやや劣る27.5ノットにとどまった。建造費は約1.5億円であり、当時の国家予算の3%に及んだ。そして1940年8月8日進水、「天皇陛下進水式御臨席」の噂も飛び交う中、結局は海軍大臣代理より「大和」と発表される(なお艦首に菊の御紋章のある軍艦の艦名に関しては海軍省の提出した2つの候補から天皇が選定した一つをその艦に命名するのが慣例である)。もっとも、進水といっても、武蔵の様に陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合はドックにただ、注水するだけであった。しかも、機密保持からその進水式は公表されることもなく世界一の戦艦の進水式としては非常に寂しいものに思われたという。なお、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」そのものを象徴する意味合いも含まれており、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。1941年12月7日公試終了、同年12月16日就役。 太平洋戦争の開戦日12月8日にも本艦の収益予定が影響を与えている。(46センチ砲弾)戦役1942年2月12日連合艦隊旗艦となる。同5月29日柱島出航、ミッドウェー海戦に参加、同6月14日柱島帰投。1942年8月17日ソロモン方面の支援の為柱島出航、同8月28日トラック入港。1943年2月11日、連合艦隊旗艦任務を通信、旗艦設備が改良された「武蔵」に委譲。1943年5月8日トラック出航、柱島へ向かう。この頃、ソロモン諸島で激戦が繰り広げられている最中にも泊地から動かない様を揶揄して、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」と呼ばれた。1943年12月25日トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より攻撃を受け3番砲塔右舷に1本被雷した。破口はバルジのみであったにもかかわらず、爆発の衝撃で舷側鋼板の下端部が内側に押し込まれ、装甲鈑構造の支持ブラケットが内側に動いて弾片防御縦壁を突き破り、機械室と火薬庫に想定外の浸水被害を受けた。これは敵弾の命中の衝撃のみで浸水をきたす恐れがあるという致命的な欠陥であった。1944年6月15日、マリアナ沖海戦に参加。同10月22日、レイテ沖海戦に参加。第二艦隊旗艦として米軍上陸船団の撃破を目指し出撃。25日サマール島沖海戦にて主砲弾を104発発射。大和に突入しようとした駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により前甲板に4発の爆弾が命中、約4000トンもの浸水を受けるも、戦闘継続に支障は無かった。レイテ湾の入り口まで来たが、第二艦隊司令長官栗田健男中将は何故か反転し、突入することなく引き返している。レイテ湾口ではキンケード中将の率いる米第七艦隊が待ち伏せしており、その中には戦艦6隻が含まれていたから、もし栗田中将が突入を命じていれば、史上最後の戦艦部隊同士の艦隊決戦になっていた可能性が高い。最期呉に帰港した後の翌1945年3月、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。目立った被害はなかった。同年4月6日、沖縄に向けて出撃する。「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」る為にと神大佐の発案で唐突に実施された。大和(艦長有賀幸作大佐、副長能村次郎大佐(中佐?)、砲術長黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官伊藤整一中将、参謀長森下信衛少将)に沖縄特攻の命令が下ったのは、4月5日、出撃の前日であった。第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(冬月、涼月(防空駆逐艦))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)など)と共に山口県徳山湾沖より出撃(天一号作戦(菊水作戦))。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は豊後水道で呉に引き返させた。菊水作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまり、その航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和し、もし、沖縄にたどり着ければ東シナ海北西方向から沖縄島残波岬に突入、自力座礁し大量の砲弾を発射できる砲台として陸上戦を支援し乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。アメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能にちかく、作戦の意義はまさに、一億玉砕のさきがけであった。しかも戦争末期には日本軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近では米潜水艦に行動を察知され、特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡されたいう。当初、米第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていたが「大和」が西進し続けたため日本海側に退避すると思い、航空攻撃を命じた。偽装進路をとらず、沖縄に直進していたら、世界最後の戦艦同士の砲撃戦になっていた可能性はあった。4月7日14時23分に、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の波状攻撃で猛攻を受ける。11本の魚雷と7発以上の直撃弾を受け、大火災をおこした大和は最後の魚雷が命中した3分後傾斜が6度から20度になり総員退艦命令が出された。しかし、艦内の大半のものにそれは知られず、総員退艦発令3分後大傾斜後横転(のちに転覆?)し海中で弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある)、船体は折れて海に沈んだ。そのときに発した火柱は、遙か鹿児島でも確認できたという。同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではない。米軍航空隊は「武蔵」撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていた。その方法とは片舷の対空装備をなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようという物で、実際に第一波攻撃では「大和」は魚雷を被弾していない。しかしながら、米軍側と日本側の戦闘記録による命中数と被弾数には大きな食い違いがあり、魚雷に至っては米軍側は30本以上を主張しており、その戦闘の激しさを物語っている。なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか積んでいなかったとされていたが、実際には約4,000(満載6,000)トンの重油を積んでいた。重油タンクの底にある計量不能の重油を各所からかき集めたためで、実際にはその量だと全速力でも3往復はできたという。また、うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料なども必要とされるため現金もかなりの額を持っていったといわれている。 戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,498名、生存276名。現在現在の大和は、北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345mの地点に於いて、艦首は北西(方位310度)に、艦尾部は東(方位90度)方向に、右舷を下にした艦首部より一番副砲までの原型をとどめた部分、転覆した状態の三番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部が約170メートルの間に、中央部の原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、それぞれ半分泥に埋まった状態で沈んでいる(NHK特集『海底の大和、巨大戦艦四十年目の鎮魂』にて放送)。
2006年07月04日
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毎年7月第一土曜日曜に開催
2006年07月01日
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