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一昨日、母から絶賛悪口大会の電話攻撃を受け、その夜は眠れないし、翌日も落ち込んだりイライラしたり。私の一生はこうして母に苛められて終わるのかと思うと夢も希望もなくなりそうだった。歌もダンスも創作もどうせ大したことはないのだ。仕事も。
今日も不安定な状態で出勤したものの、作業が異様に多い上、相変わらずミスはするし、作業中に後ろにひっくり返る始末だった。これは膝が悪いため、しゃがむ動作が苦手になっていて、おまけに太ったのでバランスがますます取れなくなったせいである。先週はヨガを二回くらいしかやっていないのに筋肉痛まで起こしていた。それで、しゃがむ→立ち上がるという動作すら繰り返しているうちにクラクラし、バランスを崩してひっくりかえったというわけだ。誰も見ていなかったのが不幸中の幸いである。
帰路、寒くて震え上がりそうだった。痩せた白い野良猫が植え込みに隠れこむ姿を見たらよけいに切なくなった。あんなに痩せていてこの冬を越せるのか。野良猫の多くが冬に命を落とす。痩せてもいないくせに我が末路のように思えた。連れて帰れなくて本当にごめんね。私のことなど見向きもしていなかったけれど。
すると今度はシベリアンハスキーの散歩に出会った。背筋をピンと伸ばし、早足で本当にカッコいい。連れて歩いている男性も速足で、どちらも幸せそうだった。
ここから、連想して実家の老犬が脳裏に浮かぶ。
母は頭の方は怪しいことになっているが、元来足腰丈夫で手先も器用だ。ルーティンになっているので、朝と夕方はこの老犬と散歩し、犬のシャワーからトリミングまで一人でこなす。
この犬は元々、父に懐いていた。しかし、父は老人ホーム、病院となり、お墓に入ってしまったのだが、亡くなってからは家の中に入っていないため、犬は父の死がわかっていない。もう6年も経つのに。毎晩、父を待って、父のベッドで眠っているという。
そして朝になると諦めて、母を起こしに行き、散歩に誘う。母も昼夜逆転しがちな体質だが、犬のお陰で生活リズムが保たれている。犬も母しか頼れないのは理解している。
それを思い出したとき、実家の犬にとっては多少母がボケようと、悪口三昧であろうと、犬は母に元気に生きていてほしいのだと改めて気付いた。
多分、この世で一番、母の元気を願っているのはこの犬だろう。実の娘より、孫より、犬の方がずっと母を慕っている。
こんなことを書くなんて、なんと薄情な娘だと(婆さんだが)思われる方も多いだろう。
しかし、私とて同じ状況なのである。
多分、この世で私の生を一番願っているのはやはり飼い猫なのだ。人見知りが強く、環境の変化に弱いここちゃんは静かに私と暮らせることだけが楽しみなのである。もちろん、娘は私を気遣って毎月のように外食に誘い出したり、私の着ているものがみすぼらしいという理由で服を買ってくれたりしている。でもあの娘は私が死んでもすぐに立ち直り、元気に生きていける逞しさがある。友人も減りつつあるし、私がいないと生きづらくなるのはここちゃんだけだろう。
そのために私は生きているというか、生かされている。母と同じなのだ。人は誰かのために生きているということが支えになる。人間でなくても、動物でも同じ地球の仲間ではないか。
だから、例え、母の毒舌に苦しめられようと、母は犬が生きている限り、頑張ってもらいたい。
犬のために。
そう思ったらなんだか、スッキリした。落ち込まなくなった。
シベリアンハスキーの散歩に元気をもらった。