重信川の岸辺から

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2008/05/31
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 ずっしりと重い大判の本を手にした時、予感がした。これはすばらしい本に違いないと。時々、そういう予感を持つときがあり、そのとおりであることが何度かあった。この本も期待通りの本だった。長田弘『読むことは旅をすること 私の20世紀読書紀行』(平凡社)。

 最初の「海辺の墓標」を読んで、この本はすこしずつ丁寧に読むことに決めた。毎日寝る前に一章ずつ読み進めた。「テレジーンへの道」「百塔の街から」「アウシュヴィッツ以前以後」「詩が矜持である国」……全体が35章からなっている。

 最初「失われた記憶を求めて」12章はポーランドと絶滅収容所とユダヤ人作家や詩人たちが、つぎの「無言の肖像」16章には、革命から大粛清へと続くソビエト時代の作家や詩人たちそしてスペイン市民戦争等などが、最後「書かれざる歴史」7章では日本人との関わりでのシンガポールとスペイン市民戦争が中心となっている。いずれもそこで生き死んだ作家や詩人たちをとおして。

 内容はあまりにも豊かで複雑で、深い。ここには私の感想を一つだけ書こう。

 国家からみれば、国民は代わりがきく。人々からみれば国家は代わりがきく。国家は国民をつくるが、国民が国家を作った国はない。国家はわたちたちの日常と対置される存在である。

 人は自分の生まれを選択できない、時代も場所も選択できない。その選択できない「負い目」を引き受けて生きることが生きるということである。

 人は「I WAS BORN」として生まれ、必ず死ぬ。その生と死の間を、日常を生きることを仕事として生きること。一番大切なのはそういうことだ。

 この本は「はじめに」に、エミリ・ディキンスンの詩が引いてある。


  この場所を知る人はいない
  ここでくりひろげられた苦悩が
  いまは平和のように静かだ

 そしてこういう「読むことからはじまったわたしの旅は、それぞれにそれぞれの場所で、「わたしの時代」を生き切った人びとの、フィロソフィー・オブ・ライフ(人生に対する態度)としての、パトリオティズムの行方を確かめる旅だった」

 では、パトリオティズムとはなにか、それは「のぞむのはどのような国のあり方かという問いかけ」であるという。

 私はこの本を読み終えようとして、のぞむのはどのような国のあり方かという問いかけの答えとして、人びとの日常を日常として保つべきものが国だと思った。

 最後に大粛清の時代にレニングラードの拘置所の面会の列のなかで、「この私たちのことを書いてくださいますか?」とささやいてたずねられた詩人アフマートワが「書きます」と短く答えたというエピソードが印象的だった。










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Last updated  2008/05/31 04:26:12 PM


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