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本田由紀さんが、「市場主義の波 家族・教育にも」という文章を書いている。(27日 朝日)そのなかの、「個人を守る社会モデル構築を」という章でこんなことを書いている。
社会モデルを作りかえる必要がある。労働条件面で企業と交渉する企業横断的なユニオンや団体である。「自由競争のもとでは、劣悪な労働条件を飲むしか仕事が提供されない力が働く。それに抵抗するのは簡単ではないがセーフティーネットの拡充とともに、働くものすべてが声と力を持つことが不可欠だ。」
「教育で格差を温存すると、社会階層が世帯間で引き継がれる基盤になる。可能な限り学力などの格差を無くすのが教育領域の責任だ。日本では、家庭の経済的、文化的な資源と、次世代の教育による成果(学力や学歴)が密接に関連している。それを断つ方向にもっていくことが必要だ。少なくとも、公教育は可能なかぎり家計に依存しないようにしなければならない。」
この文章を読んで、一昨日の日記に書いた橋下知事と高校生との議論を思い浮かべた。格差は格差を生む。家庭の文化的、経済的資源は教育の成果に密接に関連している。教育領域は、できるかぎりこれを断つことが必要だという本田さんの意見と橋下知事の意見の距離の大きさを思った。
高校生はそもそも私学助成を減額しないでほしいということで、本田さんが書いたことと同じことをいっていたのだ。私学高校は現在では、公教育を補完し、公立高校とほぼ同じ役割を果たしている。教育領域を担う知事は家庭の文化的、経済的資源が成果に直接反映することのないようにしてほしいといっていたのだ。
橋下知事はそれがわからなかった。分かっていたかもしれないが、その要求を否定した。日本は自己責任の国だといい、それがいやなら、国を変えるか、国を出て行けといった。彼はそこで知事としての責任を放棄し、政府や自治体の役割を否定したのである。
本田さんは「近年、若者には「自己責任」の考え方が蔓延している。どんなに劣悪な環境に置かれても、マクロな社会構造として把握せず、「自分のせい」と思いがちだ。それは何の解決にもならないどころか、問題を温存するだけだ。今の状況を見極めて、趨勢にあらがうことでしか、個々人と、この社会、さらには世界を、存続させるすべはない。」とも書いている。
あの話し合いで、橋下知事は「自己責任」を繰り返した。彼としては本田さんの指摘する若者の考え方の弱みをついたつもりかもしれない。だが、 高校生は、状況を見極めて、解決を求め、社会の問題として、自らと、社会を存続させるために、橋下知事との話し合いの場を求めたのだ。橋下知事には、そのことが分からなかった。
だから、「自己責任」を繰り返した末に、「国から出て行け」といったのである。橋下知事は、高校生と話し合いの場の持つ意味が分からなかった。それだけでなく、話し合うということがどういうことであるかが、分からなかった。
橋下知事は自分の意見や立場に反するものは排除していいといったのだ。橋下知事は、この時点で民主主義も憲法もみごとに否定してみせたことになる。
この橋下知事は26日「大阪の教育を考える府民討論会」にも参加して自論を展開したという。(朝日27日)紹介されているかぎりでは、暴論の連発だが、その中でも次の発言がすごい。
「9割の先生は一生懸命やっている。地域でチェックして、1割のどうしようもない先生を排除してください。」
ここでも排除の論理である。いかにも、いやなら国を出て行けという知事らしい。だが、知事という公人が排除を呼びかけていいはずがない。1割に何の根拠も定義も意味づけもないのである。これでは、市民に恣意的に「先生」の排除をよびかけていることになる。これでは、教育の否定である。
昔も今も、排除の論理が多くの悲劇を生んできた。一つの見方や立場や体制や権力をのみ正当とみとめ、他を排除する論理である。橋下知事の「排除の論理」が認められてはならない。それは多様であるのが本質である、人間の否定である。