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今日は11月3日、文化の日です。そして、明治節でもあります。また、亡き祖父母の結婚記念日でもあります。祖母は昨年亡くなりましたが、私の脳ミソには明治節のメロディーが残りました。別に明治天皇を尊ぶ思いがあるわけではありませんが(かといって尊んでいないわけでもありませんが)、歌そのものが私の好みです。今日は一人で歌いました。【中古】明治節唱歌
2017年11月03日
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1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍によって広島に原子爆弾が落とされました。私の祖母はその時、女学校を卒業して香川県でいたそうです。働いていたの?「働くのではなく、勉強していた」何の勉強?「微分や積分や」そんなのがわかったの?「さっぱりわからなかった」原爆が落ちた時は、周りは何と言っていた?「ピカドンが落ちたと言っていた」その時既に“ピカドン”が落ちたという認識があったの?「“新型爆弾”と言っていた。朝が早かったから、通勤の人がたくさん死んだんじゃ」その日も暑かったかな?「暑かったよ」このような話を、テレビで平和記念式典の中継を見ながら毎年祖母としています。
2013年08月06日
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67回目「原爆の日」 英仏が初出席、中国は欠席 産経新聞 8月6日(月)10時23分配信 広島は6日、67回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が行われ、原爆投下時刻の午前8時15分、遺族ら約5万人が犠牲者の冥福を祈った。 松井一実市長は「平和宣言」で、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策の確立や、核兵器廃絶へのリーダーシップの発揮などを国に求めた。また、東日本大震災と原発事故の被災者の姿が67年前の広島に重なるとして「心は共にある」と呼び掛けた。 式典では野田佳彦首相があいさつし、福島第1原発事故により全町避難している福島県浪江町の馬場有(たもつ)町長も初めて出席。世界71カ国と欧州連合(EU)の代表が参列した。 主な核保有国では、米国のルース駐日大使が平成22年に続き2回目の出席のほか、イギリスとフランスは初めて大使が出席。ロシアは大使を派遣せず1等書記官が出席、中国は欠席した。 被爆者健康手帳の所持者は3月末現在、21万830人で昨年より8580人減少。平均年齢は78・10歳で0・66歳上がった。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120806-00000549-san-pol1945年(昭和20年)8月6日の朝、アメリカ軍によって原子爆弾が投下されました。私の祖母はその時16歳で、香川県にいました。この日、祖母は学校で先生に「アメリカの新型爆弾が落ちました」と言われたそうです。8月6日はとても暑かったそうです。
2012年08月06日
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祖母に、若かった時の「将来の夢」を聞いてみました。すると、祖母は言いました。「さあなあ…戦争があったから、そんなものはなかった」失礼しました。
2012年04月19日
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ドキュメント'11「1819枚のいのち」2011年8月7日(日)24:50~被災地では、もう一度最愛の人の温もりを感じたいと、瓦礫の中から写真を探し出そうとする姿がみられる。今から70年前にも家族の絆を引き裂いた忌まわしい出来事があった。1941年に勃発した太平洋戦争。「僕が戻らなかったら、弟と結婚しなさい…」93歳になる女性は、夫が遺した切ない約束を守って生きてきた。結婚してわずか3か月で夫を戦地に見送った別の女性は言う。「今も気持ちの整理がつかないの…」不条理な運命を背負った彼女たちが、肌身離さず持ち続けてきたものが、最愛の人の写真だ。石川県の遺族会では「戦争の記憶を風化させてはいけない」と、戦没者の遺影や遺品を集めて展示することにした。一枚の写真に込められた戦争の記憶と、遺族が歩んできた現実を見つめ直す。 ナレーター:小山茉美 http://www.ntv.co.jp/document/台風12号が接近したせいで(というかおかげで)、家にいることになりました。祖母の隣で録画したこの番組を見ながら、自宅で作業をしていました。千人針のエピソードを見ながら、祖母が言いました。「よう縫うたぞ、千人針。授業中に回ってくるんじゃ」兵士230万人が死亡しました。その6割は戦死ではなく、餓死です。最後の1年半で9割が亡くなりました。
2011年09月02日
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今日、今年度初めて「涼しそうですね」と言われました。毎年何人かからこの言葉をかけられるのです。初夏、お好み焼き屋に「かき氷始めました」の貼り紙が出るように。私の心に「涼しそう始めました」の幟(のぼり)が立ちました。帰宅して祖母に話すと、祖母も若い頃はそうだったと言っていました。そして祖母の娘、つまり私の母も若い頃はそうだったと言っていました。私は母方よりも父方の血が濃く出ていると思っていましたが、思わぬところでDNAを感じました。
2011年06月15日
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今日は11月3日、文化の日です。祖母は言いました。「明治節じゃな」毎年、このように言います。戦前は、明治天皇の威徳を表すためにこの日を明治節にしていました。そして、明治節の歌もあり、式典で歌ったりもしていました。おばあさん、歌ってみたら?「アジーアのひがーし、日出ーずるとこーろ…じゃ」この歌は、以前も書きましたように、私も歌えるようになりました。「この日はうちの結婚記念日じゃ」ええっ!?そうだったのですか。それは初耳。
2010年11月03日
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5月10日に放送された「ホンマでっか!?TV」を見ました。http://wwwz.fujitv.co.jp/b_hp/honma-dekka/index.html音が出る反復運動をすると人は癒されるらしく、例えば日常生活ではたくあんを包丁で切ってもその効果はあると言っていました。2008年12月21日 に書いたように、祖母は漬け物が嫌いです。私が祖母に「おばあさんは漬け物を切ったことはほとんどないね」と言うと、祖母は「ほとんどどころか、1回もない」と言いました。私が「じゃあ、おじいさんも漬け物が嫌いで良かったね」と言うと、祖母は言いました。「だから結婚したんだもの」それが決め手ですか!?・・・ほんとに?「ほんとに。」
2010年05月13日
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本日、2月11日は建国記念日です。戦前は紀元節といい、神武天皇の即位日を祝う日でした。「くーもにそびゆる 高千穂の~ たーかねおろしに 草も木も~♪」いつものように祖母は歌ってくれましたが、今年は私も一緒に歌うことができました。来年はフルコーラス歌えるようになるといいなと思います。http://www.youtube.com/watch?v=ZNM-s1kyCJo
2010年02月11日
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「明治節」の歌を祖母は途中から忘れてしまっていたので、調べてみました。楽天ブックスのCD「戦時式典歌・唱歌」でサンプルが聞けましたが、すべてではありません。しかたがないので、下記でメロディを聞きながら、五線譜に書きました。http://www2s.biglobe.ne.jp/~shigeaki/PastDays/meizisetu.htmlそして、歌詞を音符に割り振りました。音数合わせは勘です。五線譜も検索しると、ダウンロードできるところがすぐ見つかりました。祖母の前で歌ってみると、「ほんな感じじゃ」(=そんな感じです)と言って、覚えているところや思い出したところを一緒に歌ってくれました。しかし、自信がついたからといって、カラオケに行って「明治節」があったとしても、歌わないようにきをつけたいと思います。一 アジアの東 日いずるところ 聖の君の 現れまして 古き天地 とざせる霧を 大御光に 隈なくはらい 教えあまねく 道あきらけく 治め給える 御代尊二 恵みの波は 八州にあまり 御稜威の風は 海原越えて 神の依させる 御業を弘め 民の栄ゆく 力を展ばし 外国国の 史にも著く 留め給える 御名畏三 秋の空すみ 菊の香高き 今日のよき日を 皆ことほぎて 定めましける 御憲を崇め 諭しましける 詔勅を守り 代々木の森の 代々とこしえに 仰ぎまつらん おおみかど
2009年11月22日
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11月3日は文化の日。日本国憲法が公布された日であり、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とする日のため、文化の日といいます。戦前は明治節といい、明治天皇の誕生日を祝う日でした。この日は学校は休みですが、式典のために登校しました。学校に着いたら天皇陛下の御真影に礼をし、校内に入ります。式典は講堂で行います。教頭先生が御真影を収めてある戸棚のようなものの扉を開け、中から巻物の教育勅語を取り出して校長先生に渡し、校長先生が読み上げます。その手には白手袋をはめます。その間、生徒は静かに聞いています。読み終えたら丁寧に巻き戻し、また戸棚のようなものの中に収めます。そして、君が代と明治節の歌を歌います。祖母は歌ってくれました。「アジアの東、日いずるとこーろ♪聖の君のふんふふふふ……もう忘れた」また、来賓を1人お迎えし、天皇陛下がいかに素晴らしいかという内容のお話を聞いたのだそうです。生徒も教育勅語を教えられ、声に出して読んでいました。祖母がそらんじてくれました。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗、國ヲ肇ムルコト…深厚ナリ。…60年も経ったら忘れた。最後に『御名御璽』と言ったのだけ覚えてる」その日は紅白の餅か何かをもらえたの?と聞いてみましたが、「くれなかった」とのことでした。
2009年11月03日
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戦争の番組を録画したものを見ながら、祖母と話をしました。「ばあちゃんもこうやって飛行機を作ってたよ」「砂糖はないし、お菓子はないし。ご飯も食べられなかった」「ばあちゃんが女学校で教えてもらった国語の先生は戦争で玉砕したよ。大学を出たばかりで、20歳くらいだった。文法の先生だった。名前はもう忘れてしまった」「女学校は4年。その前に小学校6年と、幼稚園1年。普通の子は2年行くけど、ばあちゃんは3月生まれだから年が足りなくて、1年しか行かなかった。女学校を卒業したのは18歳」「空襲の時は香川でいたから知らないの。香川も高松は空襲にあったけど、ばあちゃんがいたところは円座という田舎だったから、空襲に遭わなかったの」香川では知っている人がいなかったんじゃないの?「香川でいたときは女学校を一緒に卒業した人が5、6人いたから、知っている人はいたよ」予科練って、何?「普通、軍役は20歳が来たら従軍の義務があったの。それより若いときに自分で志願していった人が予科練」
2009年09月26日
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終戦記念日はどこでいたの?と、祖母に聞いてみました。「敗戦記念日はね、香川にいた」どうして?「今のKDDIの前身の会社で、勉強してた」なんで?「男の人がいなかったから。挺身(ていしん)というのがあったの」どうやって?「自分で選んだの。昔は女学校を卒業したからといって、家でいさせてもらえなかったの。だから香川へ行ったの」どこで住んでたの?寮があったの?「うん。愛媛や高知からも来てたよ。3、4人で一部屋」その時に昼ご飯は何を食べたの?昼ご飯はあったか?「昼ご飯なんかなかったよ。あっても、小麦粉を溶いたのを焼いたのが2枚」その時はやせてたの?「やせてたよ」何時から何時まで働いていたか覚えてる?「覚えてない」何時に起きて何時に寝てたか覚えてる?「覚えてない」勉強をしてたの?機械を作ってたんじゃなくて?「機械を作ってたのは女学校の時。(2006年12月8日の日記参照)3月に女学校を卒業して、それから8月まで、技師になるために勉強してた。男の人が戦争に行ったから、女の人がしなくちゃいけなかったの。微分積分や三角関数を習ったんだよ」難しそうだけどわかったの?「わからん」玉音放送は聞いたか?「8月15日の昼に工場で聞いたよ。何を言っているのか何にもわからなかった。戦争が終わって男の人が帰ってきたから、私も帰ってきた」8月15日は暑かったか?「暑かったよ」
2009年08月16日
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祖母と話をしていて、何気なく曜日の話になりました。「サンデー、マンデー、チューズデー、ウエンズデー、フライデー…フライデーの次は…」サタデーですよ、おばあさん。おばあさんの時代でも学校で英語を習っていたんですね。何十年経っても、ちゃんと覚えているんですね。
2009年05月12日
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2008年12月21日の日記にも書いたとおり、祖母には好き嫌いが多いです。数日前、親戚にわけぎを大量にいただいたので、今日の夕食はわけぎのぬたでした。しかし、祖母はわけぎが嫌いなので食べません。「昔、私が子供だった時、わけぎとたこのぬたが晩ご飯のおかずに出たの。私はわけぎが嫌いだし、その時はたこも嫌いだったから食べなかったの。ごはんにもまた何か嫌いなものがまざってたから食べなかったの。おかずは昔のことだから、ぬただけだったから、食べずにいたの」じゃあ、その時はおばあさんは痩せてたんですか?「今みたいには肥えてなかったよ」おばあさんは何を食べてたんですか?「芋とか」昔の人の中には「芋は戦時中に食べ過ぎたから嫌いだ」というようなことを言う人がいますが、祖母の中の芋の容量はまだまだあるみたいです。
2009年04月02日
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今日もあたたかかったです。2月では観測史上最高気温だったそうです。それはさておき。2月11日は建国記念日でした。祖母が若い頃はこの日を紀元節といい、神武天皇の即位日を祝ったのだそうです。「くーもにそびゆる 高千穂の~ たーかねおろしに 草も木も~♪」なぜか今日、祖母は歌ってくれました。http://www.d-score.com/ar/A04112411.html
2009年02月14日
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都道府県対抗の駅伝をテレビで見ながら、祖母が大きな声でつぶやいていました。「1都2府43県……1つ足りない…」真っ昼間から番町皿屋敷をやらないでください。1道、つまり北海道が抜けているのですよ。ちなみに、北海道というのは昔、東海道とか山陽道とか呼んだのをそのまま使っているのです。「私が習った時は東京府だったから、3府43県だった」とも、祖母は言っていました。確かに、昭和18年、祖母が14歳までは、東京都は東京府だったのです。まさに生き字引。
2009年01月18日
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物のない時代を経験しているわりに、私の祖母は食べ物の好き嫌いが多いです。嫌いな食べ物の筆頭は、漬け物です。家の中で漬け物が入った入れ物の蓋を開けると、瞬時にそのにおいを察知して「臭い!」と嫌がりますので、漬け物を食べるときは祖母に遠慮しながら食べています。祖母の亡夫、つまり私の祖父も漬け物は嫌いでしたので、ナイスカップルと言えるかもしれません。祖父は漬け物を切ったまな板と包丁をすぐさま捨てていたと聞いています。祖父は船員でした。物のない海上で、何てことを。祖父の周囲で漬け物を食べることが許されてたのは、私だけだったそうです。そんな2人に育てられた私の食生活に、漬け物は存在しませんでした。漬け物の存在を知ったのは、幼稚園の給食です。家から持って行った、ドラえもんの弁当箱に詰めたごはんの上に、先生が真っ黄色の沢庵の千切りを入れてくれました。以来、私は漬け物好きになりました。幼い頃、日曜日にデパートに連れて行ってもらうと、きまって漬け物をねだりました。また、長じて恩師と夕食をご一緒したとき、「あなたの漬け物の咀嚼音はパリパリとリズミカルでいいね」と、妙な褒められ方をされたこともありました。秘してなおにじみ出す私の漬け物好きよ!…弾圧された自我は無意識のうちに漏れ出すのですね。日増しに寒さがつのります。今年もかぶらの漬け物がおいしい季節になりました。
2008年12月21日
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鱧(ハモ)のおいしい季節になりました。私の住んでいる県では今年も鱧がたくさん捕れています。祖母が幼い時は家でよく食べていて、高級魚でもなんでもなかったそうです。夕方よく売りに来たのでお父さんが買い、家で料理をしてくれたそうです。しかし、湯引きなどではなく専ら付け焼きで、ウナギのような食べ方をしていました。鱧好きの私がうらやましがると、祖母は言いました。「うっちゃ、鱧や好かん」(=私なんか、鱧なんぞ好きではないのです)…ああ、そうなんですか……鱧はおいしいですが、骨切りがたいへんです。骨切りとは、鱧を腹開きにして平らに置き、背骨に対して直角に包丁を構え、ジャッジャッと皮を切らないように細かい切りこみを入れて小骨を切ることです。以前、親戚に鱧をもらった時、祖母が吸い物にしてくれたことがありました。…骨切りが所々うまくできておらず、シャゴシャゴした触感でした。骨切りって難しいんだなあと、身をもって知りました。「老眼の骨切り」…と、この話を聞いた友人は、ことわざのようにまとめてくれました。類義語は「年寄りの冷や水」あたりでしょうか。
2008年07月09日
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夕食の時、ひょんなことから靴の話題が出ました。祖母は靴についての持論を展開してくれました。「靴はね、底が厚い靴じゃないと、長距離を歩けないのよ。軍隊の靴の底はあんなに厚いでしょう?ねえ!?」そんな、さも私が軍隊の靴を知っているように言われても。なんとなく、イメージができるような、やっぱり無理なような…軍隊の靴の底は厚いんですか。へー。ほー。 ←祖母が思い描いているのがこんなのじゃないことだけは確かです。
2008年01月05日
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今日は11月3日、文化の日です。以前は明治節と言い、明治天皇の誕生日を祝う日でした。祖母は、「アジーアのひがーし、日いずるとこーろ♪」と、明治節の歌を歌ってくれました。
2007年11月03日
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「鉄兜を2階にも置いとけ!」これは祖母の言葉です。新潟地震以降、我が家でも防災対策について考えています。祖母はヘルメットのことを「鉄兜」と言うのです。戦時中の気分です。
2007年07月30日
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「夏の夕焼け蓑を出せ。秋の夕焼け鎌を研げ」これは今日祖母に教えてもらったことわざです。夏の夕焼けは雨の前兆だから蓑の準備をし、秋の夕焼けはこれから晴れるということだから、鎌の準備をするということです。初めて聞いた言葉でした。今日はきれいな夕焼けでした。
2007年06月10日
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私の住む地域では昨日の晩、1時間くらい雷が鳴りました。当然のように、朝食時の話題は雷でした。「心臓が早鐘を打って、顔がのぼせてきた」と、祖母はいかに恐ろしい思いをしたかを私に語って聞かせました。曰く、ドアの隙間から雷の光が入ってきて恐ろしかった。曰く、用足しに行くのをついていってもらおうと思った。曰く、私の部屋の電気が消えていたし、何も言ってこないから寝ているのかと思った。すみませんね。私はその時間は友人と電話で話をしていたんです。電気がついてなかったのは、空がえらく光るので、部屋の電気を消して真っ暗にし、さらにカーテンを開けて、花見ならぬ雷見を楽しんでいたからなんです。昔は私も雷が怖かったのに。雷が鳴ると、おんぶ紐を持って祖母の所に走っていき、夏の暑い時に2人で身を寄せ合いながら、汗だくになって雷をやり過ごしました。家に母がいる時も同様で、私はやはり祖母の方に走ったそうです。これはきっと、祖母が生きている限り、繰り返し言われることでしょう。また、雷についてはこんな事もありました。私が母と寝ていた時、やはり夜中に雷がひどく鳴った時がありました。その時、雷が嫌いな母は私を放っておいて、祖母の元へ行きました。母は大人だけれど、やっぱり自分のお母さんがいいんだなあと、子供ながらに思いました。雷は家族についての思い出を増やしてくれます。今度雷が鳴ったら、きっと祖母と一緒にいましょう。←『雷文化論』【内容情報】(「BOOK」データベースより)世界の文化は雷をどう意味づけているのか?人間と雷の多様なかかわりを探る、「畏れ」と「恵み」という雷の文化的側面に着目した刺激的な「雷入門」書。
2007年06月09日
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今日は昭和の日という祝日です。去年まではこの日をみどりの日と言っていました。そのまた前は天長節と言っていました。「今日の良き日は大君(おおぎみ)の~生まれ給いし良き日なり~♪」以前、この日は昭和天皇の誕生日ということで、式典が行われていました。祖母が学生の時はこの日は学校で式典があり、天皇と皇后の御影を開け、教育勅語を読み、式典が終わったら下校していたそうです。その時に歌った歌が上記の歌です。祖母に教えてもらいました。
2007年04月29日
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ワケギのおいしい季節になりました。色んな人からワケギを頂いたので、昨日も今日もワケギを食べました。明日の分もあります。いつも、祖母がぬたにしてくれています。しかし、祖母自身はワケギを食べられません。祖母は言います。「戦争中の物のない時分でも、嫌いなものは絶対に食べられなかったわ」祖母は物のない時代を経験しているわりに、食べ物の好き嫌いが多いです。チャレンジ精神もないので、変わったものはまず食べようとしません。
2007年03月14日
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昨日、私がなかなか帰ってこないので、祖母はなかなか寝られなかったそうです。「布団に入って目をましこましこしてたよ」と言っていました。そんな表現は初めて聞いたので、即座に書き留めました。祖母が昔住んでいた地域での言葉だそうです。
2007年01月21日
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65年前、1941年12月8日に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃しました。この時、祖母は12歳、女学校1年生でした。祖母は女学校4年生の10月から3月まで、兵庫県の深江にある川西航空へ行きました。そこで飛行機の爆弾を抱えているところを造ったそうです。「しんめい寮」(しんの字は親、めいの字は失念)という寮で寝起きし、朝8時から5時まで作業をしました。卒業式は川西航空で行われました。故郷へ帰る電車に乗るため三宮駅へ行くと、人が大勢いました。仕方なく窓から荷物を投げ入れましたが、駅員に逆の入り口から電車に入れられたため、卒業証書を含む荷物一切を紛失したそうです。終戦は1945年、祖母が女学校を卒業した明くる年でした。
2006年12月08日
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祖母は先日兵隊に追いかけられる夢を見たそうです。60年前のことを夢に見るんですね、かわいそうに。祖母は実際に兵隊に追いかけられたことはないそうですが。「最近北朝鮮が核実験をしたからかなあ」と言っていました。私の祖母の安眠のために、北朝鮮に核実験をやめてもらいたいです。
2006年10月18日
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最近、私は日本一安いという噂の金毘羅タクシーに電話をかけなければいけない用事がありました。夕飯の時、そのことを思い出したのでしょう、祖母が確認してきました。「金毘羅うどんに電話したの?」…言いたいことはわかりますが、なぜうどん!?聞けば、昔祖母は金毘羅うどんという所にうどん作りを習いに行っていたことがあるそうです。親戚がうどん屋をすることになり、その手伝いのためだそうです。なるほどね。
2006年08月25日
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今晩は私が住んでいる地域が主催する花火がありました。少し遠いものの一応家から見えるので、祖母と一緒に見ました。「この部屋暑い!クーラーつけてるの!?」いつものように室温は27度に設定してあったのですが、エキサイトして暑くなったようです。祖母は花火が好きなのです。「どーんと出た花火だ何百里~♪空一杯に広がった♪……あとは忘れた」この歌は祖母が小学校で習ったそうです。私は習ってません。それにしても、相変わらず文頭が勢いよくて、ちょっとドキッとしました。花火は1時間やってましたすが、実際見たのは30分ほどです。今年のは最後の方がいろんな種類があり、けっこうおもしろかったです。「あと何回見れるもんかな」と、ちょっと寂しい言葉を残して終わりました。
2006年08月12日
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