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何年振りかに ブログをUPします。
March 24, 2015
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久々に書き込むブログは、とても切なく、胸の痛くなる、夢ではないかと、けれどもまぎれもなく現実のこと。今日は、真冬に戻ったような 雪降りです。隣の地域は、とてつもない、悲惨な状況の上、同じような寒さにあります。しかも、もしかすれば、暖房や、夜は 明かりもなく、ましてや食べ物もなく、孤立している 命も多くあるやも知れない時に!自然が、今は 敵でもあるかと思えます。天災と人間が招く混乱と、さまざまに 刻々 事象は進んで行きます。頼るは、 本当に暖かな 心の温もりのみ。いつの時も、立ち上がる時は、心も強く 暖かく、そして やさしくある、 そこから始まります。今は、それを そこに 充満しなければ なりません。
March 17, 2011
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ほったらかしのブログをおさらいしたいと思います。時々に、思うが侭に書き連ねていたせいか、読み返しすると、今の自分では、書けないような表現がつづられていたりします。その時々、日々のうちにあったこと、思ったこと、悩んでいたこと、追いかけていたこと、創造していたこと、・・・・それを時間を置いて眺めると、いかに、今の時間が、大切なのかと気づかせてくれたりします。夢や、希望は、正直に真っ直ぐに追った方がよいと思います。それは、時には、苦しかったり、悲しかったり、思いどおりにいかなかったりが、多いほど、強いほど、 なおさらに、夢や希望も強くなって、自分を支えているのだ と感じたからです。日々、幸せに満ちて生きて、日々楽しくばかり思える としたら、もはや、そこには晴れ、の意味もなく、ただ日常があるだけにすぎません。しかし、生きている、世間は、自己と必然的につながっていて、必ず、どこかには、悲があったり、苦があったり、そこに悩む人がいたり、苦しんでいる人がいたり、している・・・時間軸の横のつながりにも、晴れ ばかりではなく ケ も確かにある。だからこそ、 強く 夢を追い、諦めずに希望を見出す それは、 苦を味わい知り、悲を感じ入れられる 人 だからこそできる。幸せに思うことや、楽しさを享受する、それは 晴れとケ の中に仕組まれている。他を励まし、支えることも、 そして、自分を自分自身で また支えることだってできるのだ。 晴れ であれ ケ であれ、 正直に夢を希望を 追い、願い、今を生きる。
November 11, 2010
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久々どころではありません。果たして、このブログは大丈夫でしょうか?ログインも 書き込み方も忘れてしまいました。とりあえず UP いたします。
November 3, 2010
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昨年の新年挨拶以来のブログ。年に一度のブログになってしまいました。パスワードも忘れてしまうほど。今年も1月後半になりました。政治も経済も多くの問題を抱えたまま新年を迎えました。海外では、イスラエルとパレスチナの争いもあり、いつにも増して不安な年明けを迎えている人もきっと多いのだと思います。 私もその一人かもしれません。そうした中で、今月の二十日には、アメリカで若き新大統領が誕生しました。かつて、日本の総理大臣の所信演説すらまともに聞いたこともないのに、深夜にもかかわらずオバマ大統領の就任演説を聞いていました。 世界経済の悪化の発信源でもあるアメリカで、最悪ともいえる状況下で、初の黒人大統領としての演説。 その姿勢には、これまでの為政者にない、清廉さと民意を主体とする政治へ本気で変えようとしていることを強く感じました。 政治に市民の直の考えが集まる草の根のネットワークの構築や、政治運営スタッフの顔ぶれも、党派を越え、選挙でのライバルをも取り込むなど。今後、国内、世界との協調をいかに進めて行くのか そのために自分の足元もまた、開かれた協調体制の準備の表れに違いない。とても賢い智慧だと思います。一般民衆との意識の乖離(かいり)が今も埋まらない日本。 いまだ党利党略に足をすくいあっている政治家の資質、暗に自己の安泰を優先する行政官僚の意識。また企業の思いやりのなさ。これらは、今後大きく揺さぶられてくるように感じます。個人に於いても、自分のことしか考えない風潮もいろいろな問題を作ってきています。今後こうした意識の変革を伴なわなければ、世界全体の調和もさらに危ういのは確かです。その意味でも、他国であっても今度のオバマ大統領の政治運営は大きな期待を抱かせていると感じます。困難なときこそ、新しい智慧や、意識や、手法がきっと見出されてくるように思います。決して暗く考えるのではなく、人と人が温かな意識で繋がりを持つことは、個人の憂いもきっと全体の問題として見えてくるような、思いやりある豊かさに通じるものだと思います。そうした、開かれた意識が台頭するときには、自分だけ良ければ という意識は小さな価値として自明にもなるでしょう。これから、より良い方向へと向かう兆しが見えているように感じています。私自身もまた、今年いろいろな問題に対して、そうした前向きな気持ち意識を強くして行きたいと思います。
January 23, 2009
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松の内も過ぎ、今年も本格的に始動します。 久々にブログを書いています。 昨年は、個人的にも、私の周囲でも多くの出来事がありました。 その多くは、出逢いとそして別れであったりしました。 大切な人との別れ、予期せぬ方々との出逢いそれらが錯綜しました。 人生にも、大きな節目や、基点が仕組まれているのです。 自分の内面と裏腹に、また自分の思いと相応して、・・・・・。 自分の人生とは言っても、すべてが自己のみで完結することはなく ほとんどのことは、他の人とあるいは周囲の状況に左右されながら 進んで行くものだと実感します。 出逢いと別れとが人生だと言ってもよいほどに、自分とは一人では 成り立ち得ない者 と感じています。 さて、そこから見出されるのは、理想であれ夢であれ、希望であれ それらは、私自身が、どのように、他者とまた、周囲とを意識し、 そこに、心を動かし、愛情を持ち、慈しみ、或いはその反対であっても その次第によって、出逢い、そして別れ その作用は大きく自分に返って くるものである・・・・・ということです。 今年も、どんな場面が展開してゆくのだろう それを思う時、 その序章は、既に私自身の意識の内に始まっているのだと 今、疑いなく感じている。 良き一年であるために、そしてより良い人生であるためには 私自身のその意識が良き意識を描いていることから始まっている。 皆さん、それぞれがまた、良き人生でありますように
January 16, 2008
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生き抜くための感動を創れ生きる気概を得せしめる感動を起こせあらゆる 分野に それを起こせ生きることを諦める人にも 生きる気概を抱かせるくらいの感動を起こせあらゆる 芸術家よ、凡人よ、 喜びと、深い情を起こせどこまでも 可能性はなくならない人々よ、情にこそ 貪欲になれ生きる 気概を 創れ
September 11, 2007
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程よい 初夏の季節晴とケ ・・・・・ 日常と非日常 日々のなかにも、祭礼・儀礼の節があり、生き物の生態にも、さなぎ・脱皮・巣立ちそれぞれの節目がある場所にも、鳥居・門・敷居・上段、の仕切りがある。季節にも、また当然、四季の移ろいがある。さらには、歴史・時間にも、そして宇宙全体にも見えない仕切りはある。それらは、あらゆる連鎖系のなかにあってまたそれぞれの意味と働きを成す。日常から非日常が消えたとき、それは悲しみや苦しみ喜びや感動もなくなることに等しいと思う・・・。儀礼や祭礼は、喜び事も、悲しみ事にも、改め事にもある。繰り返されるからこそ、こうした節は自然界に必然と存在する。意識したとき、 はじめて 晴とケ の働きが現れる・・・。
June 6, 2007
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風のくに 人の中にも風が棲む 人の外にも風が起きる 人の世界にも風が舞う すべての基点は 気 気もまた見えないもの 見えないけれども 気 はある 天気の風は気圧がつくる 高から低へ 低からまた高へ 変化移行で風がうまれる 気圧は温度に左右され 冷たい か 暖かいのか もし、冷たいならば熱を加える 熱はまた気によって変化する 気 は 始まり 気 は強いのか 弱いのか 気 は濃くなるのか 薄くなるのか これから 吹く風は 必然と 常に 風はあり 気によって 風 は決る
April 21, 2007
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見たこともない 風どこから来たのか 風どこへ行くのか 風だれも 風 を見たことがないでも だれでも 風 を感じている気圧が創ったのではない 風 はやはり 風 が創っているこれから 春の風 が来るだれにでもやってくるだれも 風 を見たことがないだれでも 風 を感じている 風 は自分で 風 起こす
April 13, 2007
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つれづれ 心象風景 心の中も三寒四温 今年は、例年になく 季節の節目が感じられぬまま いよいよ、春 昔のすまいであれば 内外の寒暖の差は少なく 日に日に、暖かさが増すのは いかにも喜びも元気も増してゆくように 実感できていました 徐々に人の体感感覚も鈍くなり 目で追う季節感と、極端な寒暖差の 繰り返しになれきってしまい ほんとは、微妙な感覚とかが わからなくなってしまっているのではないかと 日本特有の微妙な差異を感じ取る文化、 色あい、音色、肌合い、空模様、香り、 ほんのり、ぼんやり、ほどよい、あいまい ゆえの 情緒はかすんでゆく それでも、また春霞の季節はめぐってくる
March 16, 2007
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昨日の夜から、また真冬になりました。 もう、三月に入って、今年は桜も相当に早い 開花予想となっていましたが、なごり雪より 冬の跡を刻んでいるような雪模様です。 それでも、確実に春はやってきます。 異常気象だと不安なことも予想されますが 自然界では、それぞれの生き物がそれぞれに 精一杯生きようとしてます。 どんな環境であっても、一途に。 人間の社会だけは、ある意思や、目的 を持ちそれを実現する智恵と可能性を 持ちえていると私は思います。 いろいろな、問題が起るときこそ 新たな、叡智が必然と生まれてくるのでは ないかと思います。 これから、未来をどのように描いて行くべきか 理想であれ、なんであれ、暖かな思いのあふれる 未来を願い、その実現を諦めずに互いに働きかける ならば、きっとその未来も確実にやってくるのだと 思います。 不安をネタにして、いろいろな教示を示すことよりも より、暖かな 言葉や、気持ちを 素直にどんどん と吐出しして行くことのほうが大切なのだと思います。 日常に、苦労や、困難や、問題が多いときほど 即効性のある処方箋は、 この素直で、もっとも叡智に満ちて、 力強いものは、 その思いやりあふれる 言葉といたわりの姿 の他にはないと私は思います。 未来を造る基は、今このときにあるのだと。 ちょっと力んでみました・・・・・。
March 12, 2007
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今日は、心すべき日 自身の現在も、過去も、そして未来も この人ありて、あるもの されど、すでに その人はなし 月日がいくら流れすぎても この縁は、かわららず 遠く、深く、永く、 過去にも、未来にも、つづく 不可思議にもにて、 命はめぐり、めぐり、 何処へか行き過ぎ 思い出に、思い 浮かびくるときは 時をこえて、在り。 悲しくも、寂しくも、 儚くも、されど 重く、深く 過去も、現在も、未来も 彼の人の在りて 我が母
March 8, 2007
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久しぶりに、気の向くままに・・・ もう、三月になりました。 いつもの事ながら、あっと言う間に三月。 今年の冬は最後まで暖冬のようです。 異常気象だとよく聴きますが、雪の無い冬は すごしやすいのも確かです。 通年、雪の無い地方は特別なことでもないでしょうが 雪国で、雪が降らないと、それはそれで不都合があったりします。 喜べないこともあります。 農作物も、異変に感じるのでしょうし、平年と 違うとやはり、それによって出来の違いもあるのです。 常に、穏やかに気候がめぐりくることがないのは、 過去にもいっぱいあるわけで、現代に限るのではないのですが 確実に違うのは、人の生活が環境を確実に変化させている という事実です。 とどまることのない、欲求がある限りは、徐々に 人災の気象異変が日常化してくるのでしょう。 祈願や、占いによってはどうにもならないことです。 頼りは、やはり人間の 智恵 だと思います。 智恵・智恵・智恵・・・ つづく
February 28, 2007
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まずは、遅ればせながら・・・・・ 今年も、よろしくお願い致します。 良い、一年でありますように・・・。 早、半月が経過しています 長々、ブログもお休みでしたが、 つれづれなるままに また、書き込みたいと思います。 いつの間にか、書き込みの設定も変わっていたり 時の流れは~・・・ つい先日まで、年賀のはがきが届いていたかと 思っていたのですが、日々は走り行き、 今年は、雪も走り雪で、降っては融ける。 降って融ける雪も潔い気がします。 今年は、潔く行こう。 いさぎ・・うさぎ?・・・今年は いのしし 猪突妄信・・?訂正 猪突猛進で・・・ 実際、いのししにしてみれば、必死に逃げるための猛進らしいのだが・・・ 逃げる、日々を追うのではなく、追われるのでもなく、 今年は、 日々を迎え撃つ 如く・・・ 先手必勝の一年で・・・ と思い込んでいます。
January 19, 2007
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つれづれに この間、しっぽ2さんのブログを覗いたら、 嬬恋2006 ライブでの 吉田拓郎と中島みゆき のデュエットソングの紹介があり、そこにUPされた リンク 先の方のブログで、その場面の映像をみました。 もう懐メロになってしまったか、わが青春ソング・・・ されど、多くの同世代は、その当時の歌に感動し 昔に戻っていったに違いない。 何年経っても、青春時代と呼ばれるころの思い出 は、新鮮な記憶を刻んでいて、音楽と重なって その情景が映像となって、鮮やかに蘇る。 今、背後にその青春ソングの詰まったCDが流れている 不思議と元気が出てきたりするのです・・・・・ 理屈無しに、興味に走り、理屈無しに好きになり、 感情に素直な日々は、確かに理屈抜きに印象となる。 何に対しても、感じる感性 は 若さの特権でもある。 歳を経て、人生を重ねて、知りうることも、 経験となり、身につくことも、個性として 自己を意識し、自己を見出し、重さを加える ことも、大切な人生の価値ではある。 けれども、何かに対して、新鮮な感動を 覚え、喜び、悲しみ、反応するという 感性は、無くなってはいけないし 無くなりもしない・・・・ 幾つになっても、青春ソングをききたい・・・ 幾つになっても、新鮮な感動を刻んでゆきたい・・・ などと、背後に聞こえてくる曲を聴きながら 思ったりしている。 あのすばらしい愛をもう一度~ 22才の別れ 神田川 岬めぐり フィーリング 時代 サボテンの花 池上線 心の旅 青春の歌 思い出まくら 青春の影~ ・ ・ もう おやじと呼ばれている世代かぁ~・・・・。
October 7, 2006
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つれづれ ・・・・台風の季節13号は、九州地方を中心に大きな被害をもたらしました。被害に遭われた皆さん、さぞかし不安な毎日を送られていることでしょう。毎年のことながら、秋は台風の季節。農作物の収穫期に狙いをつけたかのようにやってきます。おだやかな、そよ風ならば、心地よくもある『風』なのに・・・台・大が付けば、恐ろしいものに変貌してしまいます。『風』は、空気の動きがはっきりと感じられるものですが、見ることはできません・・・雲や、雨や、舞い上がる塵、そよぐ葉また、風音で風と解るだけ・・・その色も、香りも無く・・・風の起こす可視的な物や事象でしか確かめようのないもの・・・恐ろしく振舞えば、台風となり穏やかに振舞えば、好香を運ぶまた、気候の全般を動かしもする常に、在りながら、しかも見えず他を作用させて、姿を様々に現す自然界の神のよう・・・・・光よりも、空気よりも、水よりももっと神秘的なその本質・・・人や、生き物の中にも『風』があるその時は、呼吸とともに・・・言い換えるなら、命をも運んでいる『風』が全く止めば 命も止む『風』は無常(つねならず)・・・止むことなき『風』 願わくば穏やかに 吹かん ・・・・・。
September 19, 2006
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夏の終わりを告げるかのような 雷雨がありました。日に日に秋へと移ってゆきます。人の人生にも春夏秋冬があるのでしょうか四季に例えるなら、少年期・青年期・壮年期・そして老年期つつがなく一生を送るとすれば、それぞれの季節に符合するような人生となるのでしょうか・・・それが、理想的なのでしょうか私はそうは思いませんあらゆる命は、一瞬、一瞬のつながりを生きている季節の移り変わりは、つながる連鎖のかたちであり始終ではないと思うのです。その季節の日々は変化を伴なって刻々と移り変わることであり、四季は完結もしなければ、始まりも終わりもないもの・・・・・人生も、その時々の大切さは年代や、小・青・壮・老それぞれ変りはしない・・・むしろそれぞれの日々の生き様があるのであり、区分されるようなもではないと・・・人生に、長短はあるけれども、一瞬一瞬においては、どの時期も、年代も同じ価値、同じ意味があり、功を成す、財を成す、名を成す、ことなどでは完結はしない・・・どの時期にも、どの時節にもそれぞれの移ろいを伴なって次へとつながってゆく一瞬、一瞬に 本当の価値があり、意味があり、移ろいがある自己の内側、つまりは一つ一つの命は一つの答えを持ち、またその答えはすべてのつながり、移ろいによって見出されるものであり、どんな一つの命も、一つだけで完結はしない。少年も青年も壮年も老年もみなつながる老年の次は少年・青年・壮年・そしてまた老年・少年・・・・・・・・・・四季はそれを教えてくれるそれ故に、少年にも老年があり、老年にも少年がり、青年にも老年があり・・・・季節と符合すべきは、その移ろいに添う場面なのであり、結実を求めるのみが大事なことではない・・・と私は思います。あの刹那の雷、雷雨にも、そこに至る移ろいがありその作用もまた、意味も価値ももっている。
September 7, 2006
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つれづれに今年も、九月に入りました。いつもの年より、夏が短いように思います。少しずつ、涼しい風が増してきました。初夏から盛夏、そして残暑から初秋へいつものことながら、普段の生活はさほど内容もかわらないのに、季節は、確かに変わって行きます。農業が中心の社会ならば、季節感をより実感しながら日常の生活の内容が移り変わりするのでしょう。今は、自然現象の中でも、地震や豪雨、熱波、豪雪などなど・・・極端なことばかりが問題視され、微妙な季節の変化に気を払うことが少ないように思えます。大きな変化が問題になるときは、すでに、微妙な変化に疎くなっている結果とも言えます。大きな力が求められる時はけっして、良い時節ではありません。大いに褒められること大いになじられること大いにうれしいこと大いにかなしいこと大いに儲かること大いに損をすること大いに恐れること大いに怒れること大いに楽しいこと・・・・・・少しの感動少しの微笑み少しの憂い少しの優しさ少しのゆとり少しの心遣い少しの迷い少しの言葉少しの移ろい・・・・少しを大事にしなければ・・・・。
September 4, 2006
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今日、2016年のオリンピック 国内候補地は東京都に決定されました。同じく、候補地として名乗りを上げていた、福岡市は落選となりました。もし、開催が決定されたならば、東京は2度目となる訳ですが、賛否両論あるのでしょうが、私は、どうかといささか疑問に思います。 また、建築的な見方からすれば、こうした、一大イベントには、都市計画的規模の事業となり、建設分野が主体的な計画の根幹となります。運営と共に、建築行為は象徴的なイメージを具体的な形にする役割を担うこととなります。今回は、建築家も、両方の候補地に安藤忠雄VS磯崎新の巨匠が付き、建築家の対決でもありました。結局、安藤氏が勝ったことになりました。 さて、この決定について、私なりに感じることは、東京都の知事も建築家も、少々人間的なスケール感に欠けるのではないかと言うことです。何故、今さら東京なのか・・・何故、一人の建築家が提案を任されるのか・・・経済力や、運営のノウハウ経験実績、また、知名度に於いても、東京も安藤氏も申し分ないのですが、だからこそゆえ、 なおさに何故なの?そもそも、オリンピック競技の基本姿勢には、世界の融和の中にアスリートが、競い合う場であり、そこに行き着くためには真剣な努力の積み重ねがあります。いまだ、オリンピックの五輪の内アフリカ・南アメリカ大陸は開催がゼロ。アジアでは、北京を含め3回決れば、東京が2回目どうも、でしゃばり東京と言えなくもない気がします。石原都知事も自論があってのことでしょうが、どこか、独善小都市国家の宰相のような印象がいたします。さらに、表参道ヒルズの設計者である安藤氏も、また本気で東京に賛成したのだろうか?パトロンのご指名あれば、いたし方ないのか、正直に、一人の建築家のイメージでこうした、単なるイベント施設以上の公共的な意味合いの深い計画を行う時代ではすでにない・・・のでは福岡は地方都市の気概を示そうとするところもあるようですが、それもまた、同じ土俵の概念で、東京に負けてしまうのでしょう。経済至上主義や、自己の顕在化に躍起になる姿勢は、あいも変わらず。 もし、日本が世界の平和をと願うなら、 全国内の自治体の総意によって候補地を 決定とする とか。 (IOC委員とかもうさんくさいよな・・・) いまだ、開催されない大陸の候補地を バックアップする側の国として名乗りを 上げるくらいのスケールが必要ではないかと 私は思うのでした。どうも、近ごろの ・家・の付く方々 ・家・が小さくなっているのでは・・・ 世のため・人の為・・・のスケールとは、もっと開かれて自在な発想ができるもです。まして、財が多少でもあるなら、人の智慧と感動を買われた方がよい。
August 30, 2006
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結局、夏の甲子園は、劇的な決勝戦となりました。しかしながら、延長再試合とは・・・いずれにしても、とても見ごたえのある決勝戦でした。大会以後も、ヒーローの登場で話題が続いていますね~・・・。勝ちにこだわる、監督のコメント・・・早実勝っても、負けても精一杯楽しんで・・・駒大その違いがでたのではないかなと感じました。しかし、いずれにしても、高校生野球の精一杯の姿であったと思います。多くの、これからの少年に夢を与えたにちがいないと思います。いや、私自身や多くの大人にも新鮮な、感動をくれた大会だったと実感してます。
August 23, 2006
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夏の風物詩 甲子園今年も、いよいよ明日決勝戦。必死になって、白球を追いかける高校生の野球は、無心になって、打ち込む結果、思わぬドラマが生まれたりします。お盆休みの間、地元の高校もベスト8に進んだので、けっこう他の試合も見ましたが、凄い試合が多かった。一応、昔は高校野球少年の私。当時を思い出したりしながら見入ってしまうのでした。夢中になって、何かに打ち込むことけっこう、いまでもあこがれます。さて、明日の決勝戦、優勝旗は、海を渡り北に再び戻るのでしょうかそれとも、都の西北か、夏の甲子園!
August 19, 2006
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ごぶさた つれづれ久々に ブログ 書いています。こちらは、先週から一気に真夏の天候。今日は夏祭りも最中です ・・・熱気・・・よいひびきです夏は・・・熱気・・・です暑いのは当然です・・・夏だから・・・涼むのも夏ゆえ暑い夏はいっぱい汗をかき、熱気にさらされて 身も心も熱くなる・・・夏らしい夏。・・・とてもよい。夏は夏!夏には思いっきり自分の熱も放つ・・・方が良い。夏バテするほどの熱気。日陰で涼む心地よさ。それぞれの夏・・・夏には夏の思いやりがある・・・この熱気がなければならない。みんなそれほどの気丈あればよい節度の四季を願いながら・・・踊れ! 老若男女! 自分も!・・・。
August 6, 2006
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久しぶりのつれづれ七月七夕も過ぎ夏本番も間じかに 自分の人生もいつもが本番なのだろう けれど、・・・・時には、リハーサルと思えるような時期もあり、はたまた、ずーとリハーサルのような気にもなってみたり、いったい、人生って・・・・・とか、ぼやいてみる 人の人生にも、きっと季節の移ろいのような ものがあるのでしょう 天気のような移ろいがあるのでしょう晴れたり、曇ったり、雨だったり、春あり、夏あり、秋あり、冬ありそのまた、移ろいの最中だったり、 その時々にいろんな出来事があり いろいろな気持ちが動いたり、いろいろな思いを描き ながらも・・・、大筋のシナリオはあるようですがぴったりくるような場面ばかりでもなくシナリオに手を加えつつよりよい本番をと思いながら・・・・・ いつが本番なのかわからない リハーサルのくりかえし・・・ それでも まぎれもなく、これ日々 本番 周りの移ろいはどれもが、確かに 本番を繰り返している 人だからこそ 夢を追いかける 本番 を生きられる 人生の節目にあたり
July 8, 2006
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つれづれにやはり、予想と期待どうりにはならず・・・。Wカップの日本は敗退。ねばり強さを発揮できず・・・・残念でした~勝負では、攻めるとき、そして守るときが繰り返えされるは常。攻めるときに、攻める、守るときには、守る・・・がしっかり果たせれば負けることはない。とは言うものの・・・やはり普段の鍛錬が大事にはちがいない。建築などは、勝負とはことなり、常に、守りが主体となる・・・のではないか と思う。普段は、何もしていないようだが、外から力が加えられたときそのねばりが発揮される仕組みだ。何もしていないときは、もっぱら、支えに徹している。絶対に負けてはいけない建築ではある。見栄えだけ良くて、いざとなったとき勝手に倒壊するようではいけない。しかし、普段もかっこよくいざというときも強いという建築・・・あるいは、普段はとても、しとやかな麗人だが、ここぞというときは非常にうまく力をかわして守るみたいな建築だといい~これ、勝負の世界も、建築も、やはり、目立たぬところでの、努力や忍耐がものをいうのはおなじかもしれないな~かく言う私自身の ねばり について検証してみたのだが、・・・・・・ムムムっ・ム~・・・・・・・一次予選敗退~・・か・・・。
June 25, 2006
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つれづれに・・・・今夜は、Wカップ第三戦。日本は正念場です。とにかく、頑張れ日本!!観戦前の書き込みを・・・私には、予知能力がある・・・わけでもないが、勝つような気がします・・・・というより、勝ってほしい~。ゲーム・勝負ごとだから実力も大事だが、・・・・・今日は瀬戸際の強さが見たい。つづきは、後ほど・・・・・
June 18, 2006
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つれづれに六月半ば 入梅。水無月 の 梅雨雨の多くなるこの月なのだけれども水無月というのも妙な感じ・・・。季節の移り行く様は、生き物すべての営みの循環と符合する・・した・・・のが自然徐々に季節の移ろいと人の営みはずれを生じて、季節の循環と必ずしも符合せずとも成り立つがごとくにも思われる・・・・のだがおそらく、近年の自然界の不調和の裏は刻々と移ろうという自然の循環を重く捉えぬ者が仕組んできたのではないのだろうか・・水 は 命 と直接につながっている水・自然を 意識せよ水の満ちる六月に水の無いことを憂いて観る・・・そんな警告とも思える水無月 季節の移ろいを普段に、意識する これからの時代は とても 肝心な意識 となるように思います。※水無月の語源は「水・の・月」無は の にあたるつまりは田んぼに水を引く月であることから本当は水の月をあらわしています・・・・。だそうです。
June 15, 2006
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だから どうなんだ・・・なんなだ・・・ のつづき・・・ 部屋つづきの縁側に座って、 天気がよければ、日向ぼっこ 雨がふれば、深くせり出た 雨よけで、そぼふる庭を眺めつつ 気が向けば 玄関がわりに 庭先へ 時には、近所のおなじみさんが 縁先こえかけ たちよりで 腰掛けながらの 茶話を はたまた、子供も遊び場に、 夏は、昼寝の場所になり 本当に 縁側 多目的 これまた 生きた『間』ではある 内と外のいりまじり 人と人も 交差する 縁はいなものあじなもの 結構贅沢気分 できるかな 決ったものは置かないけれど 月見団子のちゃぶ台や 座布団、座椅子や、ひざまくら、 盆栽いじりに、野菜かご 寝ござに、囲碁・将棋盤 結構、いろいろ置けたり します たまには、そうめん食べたり します とにかく、いろんな風情を 醸し出す それが 『縁』 でありまする 開け放たれて 決まりがないから いろんなことを だめだといわず はたします・・・・。 ああ、どこへ行ったか そんな 『縁』・・・と。 つづく・・・・
June 2, 2006
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縁がある はなし 縁があるは無し・・・ ちかごろの住宅には『縁』がないものが増えている・・・ 建築には『縁』えん と呼ばれる部分があります 縁(ふち)にあるので えんがわ と言わずに ふちがわ でもいいのではないか とも思います。 普通、建築の意識は、部屋と外の間に この『縁』は 存在する訳で、家の ふち側である。 しかし、呼び名は 『えん』である・・・・ 確かに、 『縁』あるいは 『縁側』 は えん・えんがわ と呼ぶほうが 様になる・・・ 興味深いのは やはり 『縁・えん』の意味。 人の『縁』とか、縁(えにし)などなど つまりは、 あるものとあるものをむすびつける はたらきや そのめぐり合わせ、出逢い などの起因・・・・・ 建築の『縁』には実はこの働きがあるがゆえに そもそも 『えん』と呼ぶ。 そのほかの 建築部分や部材では 額縁(がくぶち)・野縁(のぶち) 竿縁(さおぶち)などのように 縁をふち読みしている。 つまりは、『縁側』えんがわ とあえて 縁を ・えん・ と読んで(呼んで)いるのは えにし を生みお越し、展開しうる ・ところ・として 意味を重くする 部分なのであると言える・・・ だから どうなんだ・・・なんなだ・・・ の以降は つづく・・・
May 30, 2006
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詩的な『間』 門 のあいだには 日 間の字は、「門」あいだから覗く「日」 この場合は、立体的な視覚 ものともののあいだ を指して 日を挟む・・・・ 日は時でもあり・日は明かりでもあり・日は中心でもあり・・・・・ なにもない空間は 間 ではなく ただの空(くう)である・・・ 『間』 には、確かな 大事な物事を収めて 間(ま)となる・・・ 『間』 をあなどることなかれ・・・ 世がうまく治まるゆえんも 『間』に何があるか による・・・つまり 世間 の納まり である・・・ また 世間の 『間』 は人と人の 『間』 によって 左右される つまり ・人間・ 『間』がなければ ・人間・にはならない・・・ 建築的 『間』 は 人間 を包む また『間』 なのである・・・・ 『間』を軽んじることなかれ・・・・・。 昔、昔、門の替わりに人と人が 囲炉裏 を囲んで できる 『間』は それは 立派な 『間』 である ・・・火 とぬくもりと 人の気配と 心持と 時には 言葉と 時には 食 と 時には、いろいろな 音と・・・ そして 表情と 流れる時間と 変化する周りの陰影と・・・ ゆらぎとともに・・・そして やすらぎと・・・・・ 『間』 とは 生きた ところを 指すのです・・・・。 ・・・つ づ く・・・
May 24, 2006
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計画(プランニング)と『間』 『間』についての、イメージによって、計画そのもの の印象が全くことなってきます。 建主の、設計者の計画における 『間』に対してのイメージの 持ち方如何で、決定的にその印象が変わります。 イメージしている『間』の内容がすでに 違っているゆえに、当然、出来上がる 印象は異なるのです。 ここでいう『間』は単純な「空間」と同じではありません・・・ 量的な空間のみならず、 床、壁、天井の仕上げ、人、物、間仕切り、外の景色 間同士のつながり、人の動き・・・・・ それらが混在しながら、変化する・・・ それが『間』です ゆえに、間取り(プラン)をイメージしているときに すでに『間』でどのようなことが起きて、どのような 展開になるのか、それをどのように想定し設定したのか それによって 『間』 は決定されそれに添った・力・を発揮します やはり、 『間』 は、柱や壁で区切られた空間であると いったような機械的イメージではなくもっと能動的であり、 芝居の効果的な舞台装置・背景以上の決定的な印象と、 具体的な作用を、醸し出して人に作用を与えるものです。 それ故に、住宅でも、ビルであっても、 それを企画したり、設計したり、要望したりした 人そのものをそこに反映しているとことにもなります。 特にプランニング(内部の間取り、建物全体の配置など) に於いては、『間』の連続であるがゆえに、 この 『間』 に対しての各自の認識がすでに 出来上がる建物の性格を決定していると言えます。 『間』 とは、人と物と空間と素材とそして心理と それぞれの考え方、あるいは生き方、 価値観までもが交差する 。 と捉えられるものです。 『間』は区切る のみならず 繋ぐものでもあります。 結構、人間関係の『間』の複雑さや、深さに似ています・・・・ つづく
May 23, 2006
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『間』の基本知識講座 『間』の基準は人の所作から・・・・・ モジュールというスケールの尺度は人体の動きから 生まれています。 肘から手まで、一尺(≒30cm)、畳が(3尺×6尺)で 起きて半畳 寝て一帖 の大きさとか 畳の長手が、一間(いっけん) 一間×一間 で一坪(3.3m2) それで、3坪は6帖間 二間×一間半(≒3.6m×2.7m)といった具合 高さは、身長から 出入り口の高さ(≒6尺) 天井は+2尺で8尺(2.4m) が日本の間 の基本。 そして、部分や家具でも 机、椅子、流し台の高さ、も ドアの巾も高さも 皆、もともと 人の体の所作から決ってきました。 機能的な 『間』は 人体の仕組みと所作 によって。 ・・・・・基本の寸法はいろいろですが・・・・・ 間尺に合うようにするための必要な知識は まず、自身のことを知ること・・・・・ 人には、動作の癖もありますゆえ、自分の行動 パターンも結構影響したりします・・・・・から・・・・・ それと、 生理的な感覚は、『間』の設定が相当に関わっていて それに、視覚(色・明るさ・距離感・・・・)と触覚とが加わります・・・・ では、 美的な 『間』 とは何で決まるのか・・・・ さらに それぞれの深層心理(経験やイメージ風景・・・なども) が関わってきます・・・・・ また、 折々の感情とか・・・当然個人のセンスも・・・・・。 ・・・じつに・・・・・ 固定された『間』は 気がつかない間 に 規制と拘束をしていたり・・・・・ 所作を決めてしまっていたりしています・・・・・ 本当は、 『間』 にはいろんな、いろんな ものが、詰まって 『間』を造っています・・・・ そこで、 『 間 』 を考えるときに 忘れてならないのは、 実は、 『変化する』 という 相反する概念・・・・・ です。 実に 『間』 は相当に ・力・ を 秘めているのですね~・・・・・ 数字上の寸法も、感覚も、 奥行き、ゆったり・奥ゆかしさも そして、個々の 『らしさ』 までも・・・・・ そして、 人同士の『間』にも この 『間』 は作用しているものなのです・・・・・ 『間』 の話は 結構 奥が深い・・・・・ 少し、 間を あけて ・・・・つ づ く・・・・
May 20, 2006
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ー序ー 『 間 』 ・・・・間合い、間取り、間が合う、間に合う、間違い、・・・・・ 間尺に合わない・・・・・等々 およそ、住まいや、建築に於いて決定的な要因は 『 間 』 である。 生活する中で、人同士の関係にも、この『間』は 問題となる。 建築は、あまり動かない物だから、余計に『間』が 大事だ。 適度な『間』は心地よくもあるが、 間が悪い、間尺の合わない間合いの間取りは、間違いなく 問題になる・・・・・のです。 美的にも 機能的にも 感覚的にも 生理的にも この 『 間 』 は決定的な働きを為す のです。 基礎や構造が、ハードの主役なら 『間』はソフトの主役である・・・・ つづく・・・・・・・
May 17, 2006
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つれづれに 五月の半ば、一年でもっとも優しい季節。 命が芽吹き、再生し、勢いを増す。 この時は、恵みの慈雨も降ります。 日の熱も程よい。 いろいろな命を勇気づけます。 耐えしのぐ時、そして生きている喜びを感じる時。 また耐える時、そして生きている喜びを感じる時・・・ 実ることは終りでもあり、始まりの点でもある。 すべて、等しくはないけれども、 それぞれに、それぞれの時節が必ず具わる 人それぞれの中にもきっと時節はある。 じっとよくみれば、大も小も さほど 差はない。 季節の気配の中に知らせていることがある・・・
May 15, 2006
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今日、もう二十年近く前に以前の事務所で担当し お世話になっている方のお宅を訪ねました。 ちょっとした依頼の相談の打ち合わせを兼ねて 何年ぶりかでお宅を拝見しました。 本来なら、設計事務所はずっとメンテナンスの相談等に 応じながら お付き合いするのですが、当時の事務所をやめた 事情もあって 直接に、私がお相手できずにいたのでした。 その間は、ところどころ傷みや、ちょっとした 雨漏りなどもあったそうですが、工事を請け負った 業者さんに都度、依頼して対応されて居られました。 結構な規模のお宅で、尚且つ少々複雑な形態故も ありますが、それ以外は、さほど古びたといった 感じでもなく、きれいな住まい方をされていました。 何の具合悪いこともなく何十年ももつ建物であれば それに越したこともないのでしょうが、実際は、七、八年 サイクルで、多少予防的な意味合いも含めて、メンテナンス しながら、維持する方が建物もより長持ちします。 それ以上に、その御主人、御家族は、非常にその住まいを 気にいっておられる御様子で、愛情深く思って住んで おられるのだそうです。 私としては、なによりもうれしい限りのことです。 私も都度、いろいろな意味で、勉強しなければならないことが ありますが、なにより、住まう方や使われる方が、建物に 対して、愛着をもっていることは最も重要なことであり、 手入れや維持管理されている建物は、よりその住む人 使いこなす人に馴染むものとなります。 また、その方の生活・個性に添って計画されているので、 なお更に余計に、愛着も深いものとなります。 そのように、維持していくと、よほどの不都合 な事情がない限り、建物は相当な寿命があります。 もう一つ、見えないことで意味深く上げられるのは、 愛着を持たれている、住まいや建物は、その住む人や、 使う人の日常を、共に同じように生活しながら 安堵感、落ち着き、時には多少困らせることも あったりしなが、その生活時間を・より良く導いてゆく・ という働きを 作用としてなしているという点にあります。 それほどに、建物は人の身近な存在であろうと思います。 洋服でも、ちょっとした小物でも同じように、価値をもって 大切にしながら、持ち主自身を励ましたり、和ましたりすることが あるように・・・・、建物は包み込むという役割の中で、空間と 時間を人と共有しながら・・・・・。 基本的な、機能、構造はもちろん重要なことです。 それらと共にまた「気配」のような醸し出される たしかな、作用も存在しているものです。 造る側も、それをどのように察知して建物に 愛着を込めて計画し、造り出すか、したのか・・・・・ 私が、最も関心をもつところのでもあり、 それによって、その建物の寿命も、人の 日常にも少なからず善くも悪くも影響を 及ぼしているのだからと、自覚を深くしなければ ならないと改めて思うのでした・・・・・。 つづく
May 5, 2006
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建築物は、多く、いやほとんどは自然界の産物を利用し加工した素材で成り立っています。これら資源的な産物には、木 のように生物であるものもあります。賢治のように、あらゆるものに命を見出すならば、鉱物も土も石もまた、「生物」足りえます。木が切倒されるまでは、確かに生きています。成長という現実の命はそこで絶えます。それから先、人の手によって加工され建物の大切な要素となり、例えば適所に用いるとその耐用は実際生きた年数に又等しいとも言われます。言い換えれば、第二の寿命でしょうか・・・勝手な人の言い草かもしれませんが・・・けれども、死して尚そこに命を見出すという、格好の事例とも言えるかも知れません。そして、本来自然界に生きることは、こうした、多くの命との関わり合いとその恩恵によって、また他の命を支える仕組みに依るものと感じとることがでます・・・『活かす』ということは、生きているものばかりに、当てはめるのではなく、いかに、一つの本来ある命を、他の命と重ね合わせて、あるべき作用と働きとをあたえるか、見出すか、あるいはその価値と意味とを増して行けるかとうことではないかと思います。慈しむという心 がそうした智慧にいたるのでしょうか・・・ややもすれば、傲慢に陥り、こうした他の多くの命と活かすことを軽んじて行く傾向のものが生まれて来ます。建築とは、確かに築き上げること、創造することでもあります。 と同時に多くのものを実際に活かすことのできる行為でもあります。と私は思います・・・少なくとも自身に言い聞かせるべきことであると・・・・建築を行う前に、必ず「計画」の段階という形以前の見えない思考と検討期があります。それは、伝統という規範の計画のときもあります。新たな仕組みや考え方を打ち出すこともあります。いずれにしても、見えない意識がすべてに作用して形になってゆきます。故に、人自身の普段の考え方、生き方がなにより重要な「資源」に他ならない・・・・これは、建築という分野範疇に限られたことではないかとも思います・・・・・まさしく、詩的な建築は 『詩』の意味こそ先になければならないということになります・・・・つづく
May 1, 2006
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詩的な建築 と言えども・・・・・ いわゆる 芸術 という範疇には 建築も必然的に 含まれている・・・・・。 建築の範疇には、住宅のみならず あらゆる建設行為が 含まれます では、それらが皆 芸術 と呼んで 違和感なく 存在しているのでしょうか・・・・ また、逆に 建築の芸術性 とは 何なのか・・・・ 世間で問題となっているマンション(集合住宅と呼ぶ)などは 芸術 に値するのだろうか・・・・ 建築を為しているのには、違いないでしょうが それらの一連、 全体を見渡して 芸術性 を見出す ことは 実際にむずかしい・・・・ それ以前に、とんと 芸術 などとは程遠い 概念の言葉がそこからは多く聞こえてくる 実際に 建築行為 を為しながら 経済のしもべの如く のみ行う建築行為は 芸術性とは 経済の下の価値 と 自ら位置づけしているのに等しい・・・・ 建築はすべてが 芸術性 に添って為されるもの とは言えないにしても・・・・ 芸術性 という 視野を置いて眺めてみると 建築に、芸術性を置かなければ また その 建築も 建築たる価値を失う という 特性をもつ と言い得るのです。 さて、 ここで詩的な建築 を語るときは 人 を中心 として 建築 を語ります このことは、 芸術性 ということも 建築する ということも すべての ことは 人から 起こり始まり為される のだ ということ忘れてはならず、 本来、芸術性 とは 人に具わる 大きな価値 なのであり 人をしてまた人 と成す 感性である・・・ それが 詩的な建築の 姿勢の底辺です・・・・。 つづく
April 28, 2006
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先日の花見で・・・手作り弁当を持って花見に行きました。そこで・・・・・桜とリズム音楽と大道芸の火と酔っ払いの踊る若者と子供と風船と空とこどもの親と写真家と一輪車の子供とが同時に一緒のところを・・・・ その前に座って一度に聞いて見ていました。 しかしなんとにぎやかで和やかな情景なんだろうか・・・・・。
April 26, 2006
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もう四月も半ば過ぎ。 雪が降りました。 桜も間もなく見ごろの時期に。 安定した春日和が恋しい・・・ 南の方はもう桜も終わり、今は東北を北上中。 一年でもっとも気分のよい時期です。 暖かさが増し、暑さに変わるまで 暑さからまた涼しくなり、寒さを感じる 移り変わりのさなかに短い安穏の時期があります。 穏やかに、柔らかい光とほどよい温もりの暖かさは だれでも心地よいものです。 人もまた、そうした心持でいられる時が 最も良い。 桜に雪はどうも似合わない。 満開の桜には ほのかに うすぐもりがよく似合う・・・ 散りゆくときには、人肌のそよぐ風・・・ ちょっとおじんくさい・・・。 青春 に似合うのは、やはり 春 です。
April 20, 2006
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久々に書き込んでいます。日々の生活は、自分の予定によって繰り返されるばかりではなく、予定外の用事や、突発的な出来事や、身内や周りの人々との関わり合い、また仕事・・・いろいろ、不確定なことも組み合わされて過ぎて行きます。自分らしい生活、生き方をしたいと思うのですが自分自身のみの時間や、生活ということ、自分が欲することだけで成り立つことはほとんど不可能なのはだれでもが感じていることでしょう。それでも、自分らしく生き、自分らしくあるということが、意味があり、価値があるとするなら、それは、自分の関わるあらゆる事柄のなかで発揮され、意識付けされ、習慣化され、 ・自分のかたち・となっていくことである・・・ といえるかと思います。それ故に、できる限り 人は、自分自身に正直であるのと同時に他の人や、場面に実直に誠実に向き合うことがいかに大切なのか・・・・・という当たり前すぎることを大切にしていく・・・そのなかに意味も価値もある 自分らしくある・自分のかたち・がつくられる。創造的なあるいはデザインなども、実にそのことが端的にあらわれるもです。 創造的であればあるほど自分には正直でなければならないからです。 感性 ということも事実は その人自身を端的に 示しているものです。 感じ方はその人の感情感覚 を端的に示します。故に、 いかにどうのような生き方を、あるいはどのような人間でありたい とその人が欲して目指しているのか、目指すのかそれは、とても重要なことであり、すでに、 らしくある・かたち・らしさ・はその方向で、かたちとなってゆくことになると思います。 自分のかたち 私は、このことが成り立つのに不可欠なのは 自分の自由さ以上に他にたいする思いやりである と思っています。
April 8, 2006
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軸組み編 いわゆる 構造 というものは人体なら 骨格になる 近ごろの 計算頼り の計算が成り立たぬ 構造もある・・・・柔軟なる骨格・・・ 骨組みにも軟骨のような機能を持たせる 構造があります・・・・ しなやかさをもつ構造・・・・ 上屋全体が免震構造なのである・・・ でも、今は昔 の構造・・・・・。 だが・・・五重塔や大きな寺社伽藍は 多くの地震に耐えている・・・・。 多少の手当ては受けてもめったに弱音は吐かない・・・ なぜなら、母なる大地の変動を素直に想定して その動きに見事に追随する・・・親思いの構造ゆえ・・・ そこにあるのは、 理に叶った あそび 心 なのである・・・ 締め付けず、互いに力を受け流すように働く・・・ あそび もまんざら悪いことではないないのだ・・・ けれども・・・この技を施す教育者は今はほとんどいない・・・ 残念なことだ・・・その名は・・・筋金入り匠職人。 骨一本一本の働きを知り、見事にくみ上げてゆく・・・ 軟骨は 組み手 と呼ばれる・・・ コンクリートよりも鉄骨よりも実は強いのが この 木組み なのである・・・。 仕方なく今は、骨格をがちがちに組む。 あるいは、コンクリートで固める・・・。 ボルト、溶接、セメント、とにかく がっちり仕組まなければならない・・・ ・・・だから、絶対、計算など手抜きするなっ・・・! 材料をケチったりするな・・・・・よっ・・・! 大黒柱・芯柱 のこと 大黒柱は太くて実に頼もしい・・・ 上屋の中心にあって、屋根の重みを一手に 引き受ける・・・。 今は、半強制的家族平等みたいに皆で支えあう・・・ 実は大黒柱や、塔の芯柱には、見事に屋根組みや 他の梁や子柱がよりそうよに仕組まれている・・・ なぜなら・・・寄り添うことによって初めて 大黒柱・芯柱もバランスをとることができるのである。 親父の権威も、妻子あってのものなのである・・・・うむっ。 従いながら、見事に旦那を操縦しているかのように・・・似ている・・ (一家安泰の秘訣 かもしれない・・・・余談です・・。) つづく・・・ (木組み ・・・ 組み手:多種多彩のそれぞれの箇所に応じた 組み手があります。木の性質も応用し 木が変化することを想定して初めから 組まれます。 また、壁には、柱を横に貫通する貫 を通して、柱同士がある傾き以上に 倒れない仕組みがあります。 )
March 28, 2006
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土台となるべき・・・土台となれ 母なる大地と直接に触れている建築部分が 基礎・土台。 基礎・土台・・・最も大事な役割を受け持つ・・・ 礎石・基礎・・・・・上屋全体の重みや、 風・地震・雪の重み・・・それらに耐えうる にはしっかりとした土台なればこそ。 上屋の仕組みが 繋がり、伝え云々して のしかかる土台。 いかに柱が仁王立ちして頑張っても 最後は、土台がすべてを引き受ける。 土台は、大地と厚い信頼関係になければ この大役もままならぬ。 重さは力となり屋根から梁・桁そして壁あるいは 柱へそして土台・基礎から一気に母なる大地へ・・・ 見え隠れしながら土台は地味な働きをする。 最もよごれ役でもある。 土台・基礎は自分もしっかりしなければならない と同時に、上に載っている全部の仕組みに結束を 促す。・・・みんな つながれ と激を飛ばしている しっかり者。 最後の大役をまっとうするがための心意気なのである。・・・ なんと 頼もしい存在であろうか・・・ 最も近く、母なる大地に抱かれながら 最も一家の結束を願う 孝行者 見えない力と見えない作用を深く理解して最後まで留まり すべてを支え受け持つ・・・・ それが 基礎と土台の真の姿・・・なのである・・・。 (基礎には 独立基礎・連続の布基礎・床一面のベタ基礎 などがありますが、それぞれの引き受け方の違いがあります。 硬くて安定した台地なら独立基礎でも、 少し柔らかい大地なら連続の布基礎。 あるいはベタ基礎。 基礎の底面積に接する大地が どれだけしっかり重さを受け取れるのかによって決ります 。)
March 26, 2006
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いよいよ春めいてきました。春彼岸の間は、法要や、お墓参りと霊前で手を合わせる機会が必然的に多くありました。そのたびに、亡き人へ心を手向けるのですが同時に自分の心境も浮き上がり、心の在りようを自覚させられているようです。 ・・・ 心の度合い ・・・・・。人の想いを慮る自分の心の度合い・・・いつも、自分というものを確かめる秤りです。自分を知るということは、自分と関わる人や場面無しにはできないことなのでしょう・・・この有縁の中で、自分を知り、育て、活かし、成長し、また、自分という個が形成されてゆく。良くも悪くもその中で、自分自身との対話も繰り返されつつ。先祖や、精霊の前で手を合わせたりするときは私自身、自分自身の心を澄ます故に、尚更に自分の心の在りようが自分で自覚されるように思います。どれほどに、他の心に対して私自身の心は思い深くあるのだろうかと・・・・近ごろの、自分を省みて、心薄く感じるが故によけいに、そんな心境になったのでしょう・・・できれば、心厚く・・・・ありたい・・・。春彼岸も明ければ、生ける精霊も活気を帯びます。生きることの中にこそ、心厚くなければ、本来は、手向ける(供養する)心も篤く、厚くなれないのかもしれません・・・。春彼岸の明けに寄せて。
March 23, 2006
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はじまり・・・・・ 始まりは、母の胎内から起る あらゆる建築は、母なる大地から始まる 母に依らずには、何事も生じえない 建築は、大地を拠り所とし、大地を頼りに立ち上がる しかも、大地からその成分はすべて譲られて・・・・・。 その大地に根を下ろし、たち上がって後は、 自らの重身と力をさらに母なる体内へゆだねている。 この恩を忘れて、建築を語っては、不孝の極み・・・。 ・・・・・・・・・・・ 普通は、基礎から始まる建築ですが、この基礎の 基 はしっかりと(土)が上屋を支える形になっているのですね~・・・。基本の基礎の基本の基の基本は 土 にあり。したがって、建築の始まりも、土から始めなければならない。母なる大地にも、皮膚あり筋あり筋肉あり、骨あり、脂肪あり。ところによっては水あり、垢あり、・・・・・。母の子を思うが如くに、母の慈愛力の及び安きところ即ち、筋肉、骨格に近くあることがもっとも母子とも安心となる・・・。やや、古文書の雰囲気を帯びてきたようですが、やはり、 基本は基礎以前に、立つ場所の なのです。これを踏まえて・・・・・ ながれて とどまる 土泥 は 水垢に似て 盛り土の厚塗り化粧は、脂肪に似たり・・・ 鍛えて固い筋肉は、流れの後の砂利石に近く、 山を固める岩肌は、骨格を支える筋のよう・・・ 畑田は、水なくて固く、水に合えば形なく、 山の筋と、筋肉を 借りずには頼りなし・・・ 水近くに粘りの土あり、融通の利かないわがままで 細かい砂は、自覚なくながれる・・・・。 ゆめゆめ、何事も しめ固め、鍛えてのち用をなす・・・なり・・・ どうにも 詩的にならず・・・。
March 17, 2006
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序 このカテゴリーは、 建物や、その周辺、そして建築の 部分や、構成、雰囲気、・・・それらをランダムに そして、詩的に、また私的に、時には指摘を交えて 素敵に語ってみようかと思います。 建物は、音楽なら一つの 楽曲と言えます。 建物は、社会では、一つの主張を持つ個性です。 建物は、感性なら、一つの人格です。 そして、寿命をもつ一つの命でもあります。 人に寄り添い、人と共に生きてゆきます。 建築とはそうしたものです。 支える技術は、鍛錬です。 育てる栄養は、親しみと住みこなしです。 生まれる前から、すでにその一生は始まります。 空想や、希望や、憧れ、待ち望んで生まれ出る様は なんら、いろいろな生き物と変わらないのです。 そして、事実、建物はまた多くの命の集合から 生まれ、育まれて、その存在があるのです。 多くの命をもらって、また、多くの命を見守る。 それが建築のあるべき姿です。
March 14, 2006
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つれづれに今夜は、 雪です。乾いていた地面が、一面白くなりました。本当に、 なごり雪 となりそうです。ところでなごり雪 が・・・・流れていたあのころ・・・ああ、なんとなつかしいかな・・・東京で見る雪・・・ちょっとタイムスリップしました。もう何年経ったのだろう あのころから・・・駅のホームに 雪が・・・やっぱり降っていた・・・のでした。春の入り口・・・なごり雪・・・・・
March 13, 2006
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心象風景 段々と日が長くなってきました。 この間まで、わからなかったことが、 ようやくわかりかけてきました。 長い時間をかけないと気づかないこととか、 どうしても、自信がもてないこととか、 そんなことが、ある時、ある場面で、 ひらめきのように、自分をうながす 瞬間があります。 けして、突然に起きたわけではないのですが。 その途中には、けっこうな葛藤があります。 明快な、答えも、指針もあるようでないのです。 ただ、目をそらすことができないままに見てきたのです。 ただ、逃げ出すことができないままにきたのかもしれません。 それが、また自分自身でもあります。 自分の生き方は、自分にしかできないものですから、 そうした、葛藤のようなものも、自分ゆえに起ります。 けれども、どうしても大事なことや、あるいは信念の ようなものは、捨てないこと、持ち続けること・・・ その途中に、そうした自分に返ってくるものがあります。 それは、人に依って、それぞれ違った感覚のものでしょうが きっとあります。 自分を信じることは、とても大切なことです。 どんな葛藤があったとしても、 それも含めて 自分なのだとかんがえて・・・・・。 無駄なことはないのだとおもえる人生 そういうことにつながる ひらめきなのでした。
March 11, 2006
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深夜便になってしまいました。今朝方はかなり冷え込むようです。これから、北半球は春 そして 南半球は秋へ同じ地球上に、全く同じ季節のところはごく小さな範囲でしかなくて 刻々と変化しながら それぞれの季節を迎えます。地球上では、常に季節が混在している・・・本当に、微妙な循環。やはり、地球はそのものが生きているのだな~と実感してしまいます。いじめては いけませんね・・・感謝もせねばなりませんね・・・などと 真夜中に思ったのでした・・・。
March 6, 2006
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心が豊かであるように デザインする・・・ けれども、 デザイン は何かをつくることだ とはかぎらない。 それぞれの 生き方や、生活もすべて 一瞬・一瞬 が創造的なのだ と考えた方がいい 運命・・は ・・・すでに決っているわけではないのだ。 だ か ら こ そ 創造する ことは 心の豊かさ へ誘うためのもの・・・ わたしは そう考えている・・・・。 思い通りに生きられることがすべてとも思わない。 どんなときでも どうデザインしてゆこうかと 創造的に生きること だから だれもが デザイナー たりえると・・・・ できるかぎり 心がゆたかでいられるように デザインする・・・・・ そう自分に言っている
March 4, 2006
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建築つれづれ現代の建築デザインの歴史は、近代以降からの技術が基礎となっています。今も、鉄とガラスとコンクリートがもたらした技術が基本となっているのはさほど変わってはいません。 日本において、古来の 木と土(石)と紙の建築から一気にそうした西洋式の建築技術を取り入れたのは明治時代の国策でもありました。 西洋建築技術の導入は、当時は必須の政策だったのです。 お雇い建築家と呼ばれる外国の建築家を招きいれまた、当時の帝国大学現在の(東京大学)の造家学科の学生を中心として、近代建築は展開されました。また、世界的な建築史に於ける近代から現代建築へとデザインが一新される背景にも、新たな芸術思想と共に為政に対してのまた時代の変革を自分たちの使命感として挑んだ建築家の働きが土台にあります。こうした建築家には、必然的に独自の時代に対する認識と先見性、そして哲学がありました。時代を背負い、民衆に寄与すべき哲学を有して、斬新なデザインとその技術の開発に力を注いだのです。バウハウス などは建築分野にとどまらずその思想は社会的にも影響をあたえました。時代の変革期には、そうしたスケールの大きな多くの代表的巨匠が現れています。 それぞれに独自の理念と哲学をもって。さて、現代に目を向けたとき、多方面において、また、世界規模で変革あるいは、新たな価値観を伴なった哲学が必要となってきたのではないかと感じます。バブル期前後も ポストモダン を求める動きがありましたが、バブルの崩壊と共にその実態がないままに、現在へ至っています。昨今の構造問題などは、いかに 哲学が置き去りされてきたのかを象徴しているのではないかと感じます。今、そうした事象に批判・評論も大事ですが、何より求められるのは、こうした、多岐に渡る分野で共通して起きている問題を踏まえた、今までにない、 新たな価値観をもつ哲学の提示 だと思います。建築は直接人々の日常生活に関わりを持つと同時に文化においtも、創造性、技術、また多くの分野とも深く関わるものです。ただ単に、デザイン性、経済性だけで成り立つものでもなく、社会性を顧慮すべきものと言えます。その 新たな価値観を持つ哲学 は多分どの分野でもある意味共通して機能される内容のものとなるのは間違いないように思います。
March 1, 2006
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