
日支事変が始って以来、既に一年数カ月になり、《中略》本年一月に発表された犠牲者の数が万を越え、その後数十回の大激戦を経過した今日、多数の戦死者、またそれに数倍する傷病者の加ったことは当然であろう。
我々銃後の国民の一員として、皇軍がかくの如き劣等なる敵によって多少なりとも犠牲を蒙ったことを遺憾とすると共に、その犠牲者に対し一層深甚なる同情を感ぜざるを得ない。
いかに劣等なる敵と雖も敵は敵である。もし皇軍のかくの如き犠牲を敢てする戦闘なくしては、彼らは如何なる暴威を振って我が権益を蹂躙し、国威を傷つけたか解らない。我々が今日国内に於いて安んじて業務に服し得るのは、皇軍将士の犠牲の賜である。《中略》
我々はもとより与うべき人爵もなく、富もない。けれど彼らに対し、同情し感謝する念は乏しきものではないと信じている。我々は国民各自が、何等かの方法に於いて、絶えずその感謝の情を彼らに伝えることは同胞としての至情であると共に、義務でもあると思う。
伝え聞くところによれば、今次の戦闘に於いては、敵味方共に機械化部隊の活躍が盛んであったため、失明者の数が非常に多く、中には上陸間もなく失明したため、その予期する奮闘が出来なかったことを煩悶懊悩している者もありとのことである。《中略》
皇軍勇士の失明は、我々に代わって失明されたのだ。
《中略》彼等に感謝する唯一の手段は、彼らの失明によって我々の眼が活かされ、彼等の御蔭によって我々がその恩沢に浴していることを知らせるにあると直感した。《中略》職業以外に眼の恩沢に浴している者は、その余分なる労作の一部を彼等に対する感謝の形として提供することが出来易いと考えた。
p.320-323
昭和13(1938)年「皇軍失明勇士に感謝する絵画展覧会開催について(招待状に代える)」『近きより』第二巻第六号
喜多氏《おぢさん補注:院展の同人、喜多武四郎》来訪の目的の一つは、同氏が『日本文化』八月号に執筆された「彫塑に於ける日本主義の問題」という論文に就いて、小生の批評を求めに来られたのであった。私は無遠慮に、同氏の日本主義も多くの日本主義者と同様に、生の日本主義でなくて、死の日本主義であることを指摘し、かつて私が東京薬専女子部の雑誌に書いた「戦争・愛・女性」というエセイを示した。
p.328 昭和13(1938)年「赤城山に登る前夜」『近きより』第二巻第六号
《おぢさん補注:八月》十七日、朝グズグズしていたら九時の汽車に間に合わなくなった、次は十一時過ぎだ。二時頃前橋へ着き、赤城山行きのバスが出るまで一時間半停車場前のバスの中で待たされた。バスの中で女の車掌も待っている。昼寝を始めると車掌さんが時々大きな声で流行歌を唄い始めるので、その度にびっくりして目を醒ます。怒るわけにいかない。いよいよ動き出した時にはバスは満員になっていた。前橋の郊外に出るまでには、辻々で乗客が増え東京の市電以上にギュー詰めになった。男女混淆だから、ダンスに数倍する風紀問題である。しかも絶えずガタンゴトンと揺れるのである。
バスは新坂平という所まで行く。富士で言うなら七合目くらいでもあろうか。前橋から約一時間かかった。
p.330 昭和13(1938)年「赤城山に登る前夜」『近きより』第二巻第六号
おそらく汽車の中か、バスの中で知り合ったのだろう。それにしても自己紹介もしないうちから六畳一間に六人が泊まることに定めてしまうなんて、随分思い切っているなと考えざるを得なかった。警視庁が、カフエーだ、喫茶店だなどと気をもんでいる間に、彼等は鉄道省宣伝のハイキングによって、思う存分な自由を呼吸しているのである。
p.332 昭和13(1938)年「赤城山に登る前夜」『近きより』第二巻第六号
80年前より―その63(『近きより』をな… 2020.02.22 コメント(6)
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