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1月はブログ更新をしなかった。個人的に忙しかったこともあるが、福岡正信氏の『無』という本を読んだことが、その原因だった。そこに衝撃的な思想を見出したわけでも無く、おぢさんの思想を根底から覆されたわけでもない。むしろおぢさんにとって、前々から思っていることであったり、少なくともすんなりと受け入れられる内容である。どちらかといえば当たり前、至極当然のことが述べられている。福岡氏の思想は目新しいものではなく、老荘の思想を現代に当てはめて考えているようなところが多い。老荘が旧約であれば福岡氏はキリストか。福岡氏は老荘の思想を蘇らせ先に往き、辿り着くべき到達点を示してくれた。福岡氏は横浜税関植物検査課の職を辞した1937年にはここに到達し、『無』第Ⅰ部を著した1947年には完成していた。【中古】 究極の田んぼ 耕さず肥料も農薬も使わない農業 /岩澤信夫【著】 【中古】afb価格:1045円(税込、送料別) (2020/3/15時点)楽天で購入おぢさんが福岡氏を知ったのは、岩澤信夫氏の著書を通じて不耕起無肥料栽培の先駆者として認識したのが最初である。というわけで第Ⅲ部の自然農法から読み始めた。しかし、福岡氏の自然農法を取り入れるにしても、具体的な方法を細かいところまで真似しようとするのは無駄で、氏の手掛けた農園という環境に縛られた一事例だと了解された。寧ろ自然農法を選択させた思想を感得すれば、各々の環境にあった自然農法が自ずと生まれてくる。『無』は第Ⅰ部 神の革命(宗教編)、第Ⅱ部 無の哲学(哲学編)、第Ⅲ部 自然農法(実践編)の3部に分かれているが、重要なのはⅠ部である。Ⅰ部が根本的な思想であり、Ⅱ部は解説であり、Ⅲ部は実践例である。 無い。 何も無い。 何でもなかった。 人間は価値ある何ものも所有してはいなかった。p.Ⅵ 福岡正信『無Ⅰ神の革命(宗教編)』福岡氏は人間の文明、知識、科学、社会ことごとくを無価値なものとして否定していく。おぢさんも人間たちのやることに元々不信の眼差しを向けてきたが、ここまで徹底はしていなかった。今まで人間を全体としては信頼し、科学、文明、政治、社会というものにわずかばかりの期待を抱いてきた。福岡氏は1巻を費やして、無価値(物)「価値あるものは何もない」、無知(心)「人は何も知りえない」、無為(行為)「人は何をなしえたのでもない」と説いていく。思い返してみると、それは近代科学文明を憎む少年であったおぢさんが、直観的に感じていたことであった。そして、それは正しかったと今思う。およそ半数の者は生き続けていればこの境地に辿り着く。彼らは自然に還ろうとする者である。また、半数の者は全く賛同しない。彼らは自然から離れようとする者である。これは性によって決まるのだろう。児童教育に携わるおぢさんの親友から聞いた話では、子供たちははっきりと二つのタイプに分けられるそうだ。ゲームや動画サイトが好きな子供と外で土を触ったり動物や昆虫に興味を示す子供。人類は二つの種に分かれようとしている。氏の言葉は伝わらない者には全く伝わらない。このことは本人も分かっていた。それでも氏は多くの本をものにしている。無駄だと知りつつも、言葉にせずにはいられないことが多かったのだろう。【新品】【本】自然に還る 福岡正信/著価格:2750円(税込、送料別) (2020/3/15時点)楽天で購入個々の人間は別として、人間全体の作り上げた文明を眺めてみる。 醜悪。。。おぢさん自身、醜悪な人間文明に毒されており、嫌でも人間と向き合っていくことは避けようがない。それでもう十分なのだ。それ以上に人間に関わる必要はない。人間というものを信頼して今まで言葉を発してきた。言いたいことは言うべきであり。伝わる者には伝わると思い書き連ねてきたが、自然の孤児である人間よりもっと大きな自然を相手にしたいと思うようになった。田んぼにいると、田んぼを這い回る虫の一匹のようになりたい、と思う。今まで人間を相手にしなければいけないというような強迫観念めいたものがあったが、猿から人間となったときから反自然の哀れな孤児である人間と向き合う必要はないと今は感じる。人類が自己の姿をふり返ったとき、そのときから人類は大自然を構成する一部ではなくなり、大自然から離脱した孤独な孤児へと転落したのである。p.108 福岡正信『無Ⅰ神の革命(宗教編)』氏の本におぢさんの言いたいことは全て言い表されている。その氏が言葉は無用だと言うのであれば、おぢさんに言うべき言葉はない。 ……だが書き終わってみれば、私は私のことすら書きえず、緑の一葉が語る哲学を伝えることはできなかった。 やはり言葉に無言であった。 書物は無用である。 私は一切を投げ捨てて、表題に書いた。 「無」と。 無の中にすべてがある。 無の一言、すでに十二分であった。p.ⅩⅥ 福岡正信『無Ⅱ無の哲学(哲学編)』にほんブログ村
2020.03.15
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世の話題は新型コロナウィルス(covid-19)一色である。イランとアメリカの対立も、米中の貿易問題も、北朝鮮の挑発行為も何もかも脇に押しやられた感がある。世界中の政治が単なるショーでコロナに主役を奪われてしまうと他の役者はパフォーマンスをしても注目を集めて点数を稼ぐことができないので大人しくしているしかない。さてと、80年前に戻るか。日本は英米ソに屈服したように思える。弱きを助けて強きを挫くのが大和魂であり、国粋ではなかったか。また大言壮語、薄志弱行は武士の恥ではなかったか。もちろん、今日の結果は、過去三十数年間にわたる国民の己惚れと弛緩とが原因である。己惚れることが愛国的であり、他国を軽蔑することが国粋のような安易な道を歩んで来た結果である。阿部氏は真に御気の毒である。p.292 昭和15(1940)年「近々抄」『近きより2』第4巻第1号<新年号>独ソ不可侵条約が結ばれ、親独派の面目が潰れた頃は親英米に舵を切る好機だったが、結局英米との関係修復は果たせなかった。新型コロナをネタに、中韓を揶揄する愚劣、80年を経て不変。□この激変期にめぐり会わせた阿部内閣は甚だ御気の毒であるが、来るべき時代のため、万難を排して推進力の歯車からベルトをすっかりはずし、そして静かに退場して欲しい。それだけがこの内閣への期待だ。p.301 昭和15(1940)年「編集後記」『近きより2』第4巻第1号<新年号>阿部内閣は4カ月の短命、安倍内閣は7年も続いている。支持率も高止まり。「このコロナの騒動にめぐり会わせた安倍内閣は甚だ御気の毒であるが、来るべき時代のため、万難を排して推進力の歯車からベルトをすっかりはずし、そして静かに退場して欲しい。それだけがこの内閣への期待だ。」という方も少なくはないだろうが、おぢさんはあと20年くらい終身総理で宜しいじゃないかと思い始めた。聴くところによると、安倍氏でないと日本は持たないそうだ。日本も馬鹿にされたものだとも思うが、列島住民にはお似合いの総理かもしれない。自民党CM 「進む、総裁」篇(30秒)(2013/07/02)「元気で 強く 安全な 日本へ!」「日本を守る」「成長の実感を、その手に。」7年近く前から日本を前に前に進めているそうだ。ご苦労様なことだ。日本国民はさぞかし、成長の実感をかみしめているのだろう。自民党CM 「この道を。力強く、前へ。」(2016/06/25) 日本は今、前進しています。 雇用も、所得も。 全国で大きく改善しています。4年前にも日本は力強く前へ進んでいたらしい。何か、空しい。にほんブログ村
2020.02.22
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鏑川上中流域を対象として土器の編年作業を行ってきたが、雄川以西に限定するとS字甕の調整がハケ目からケズリに移行する段階(暫定編年4期)以降の例が少なく、時期的に限定されてしまう。古墳前期の後半は実際にこの地域の人口が希薄だったのかということ自体も興味深いが、古墳前期全体をカバーする編年を行いたいので鏑川流域全体に範囲を広げて検討を行うことにした。今回は鏑川流域内で最東端に位置する竹沼遺跡の土器を検討する。竹沼遺跡は鏑川の支流鮎川の左岸に営まれ、吉ヶ谷式土器が分布する埼玉県の児玉地方と神流川を挟んで隣接している。同時期の児玉地域の吉ヶ谷式との比較もしてみたいところだが、それは今後の課題とする。 鏑川流域の遺跡地図 鏑川流域弥生~古墳前期集落 分類結果 「竹沼」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類古墳前期の遺構で発掘調査報告書に詳細な報告がなされているのはEH-20号住居のみ。そのほかに五領式期の住居1軒がEH-20に隣接し、和泉式期の住居と詳細時期が触れられていない住居それぞれ一軒の計四軒で集落内一支群を形成していたと報告書は見ている。以下EH-20号住居の土器を見ていく。EH-20号住居出土の甕EH-20号住居の土器は殆どが床直上または覆土でも床面に近いところから出土しており、一部を除き一括出土品と見られている。上に示したような甕をおそらく併用していた。横刷毛がないか、あったとしても低い位置のS字甕はおそらくF3タイプ。41の甕は頸部がまっすぐ立ち上がり密な輪積みを持ち、胴部には文様がなくヘラミガキが施されている。43は無節縄文Rが施されている。竹沼遺跡の壺壺1は折り返しの口縁部と肩部に二条の単節縄文LRが施され、胴部は球形を呈している。やはり折り返し口縁の壺40は文様を持たない。これらがF3のS字甕の時代に併存していた。竹沼遺跡の鉢、器台等鉢38が輪積痕を残すところは吉ヶ谷式寄りか。小型壺の頸部は短く屈曲している。同住居から出土した小形台付甕もやはり屈曲する短い頸部を持っている。赤彩で折り返しであるところは鞘戸原Ⅰ-8号住居鉢19と共通する。器台は2点出土しており、既に確立していたことが分かる。権現堂Ⅲ区153号住居器台6、南蛇井増光寺C59号住居器台59などがやや似ているだろうか。竹沼遺跡の高坏高坏2点は片方は強く湾曲した杯部を持ち、もう片方は広く広がる杯部をを持つ。いずれも樽式の系統から脱却している。阿曽岡65号住居の高坏の様相に近いように見える(下図)。器台も高坏も脚部穿孔を施すものと、施さないものが一点づつであるのは、古墳前期でも時期的にやや早いことを示しているのだろう。参考文献 群馬県藤岡市教育委員会 1978 『竹沼遺跡』にほんブログ村
2020.02.11
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2019年の日本の平均気温は観測史上最高、世界の平均気温も歴代2番目か3番目になりそうという話だ。大晦日の今日は横浜など南関東で日中の最高気温が20度を超えたところもあった。おぢさんの住む北関東でも、春の陽気だ。例年なら咲いていない庭のバラが数輪咲いている。寒いのが苦手のおぢさんであるが、全く喜べない。夜は寒くなるという話を聞いて、良かったと思う始末だ。野生動物が生息範囲を拡大し、過疎化、人口減少により人類が後退している、彼らは奪われた土地を取り戻している。長い目で見れば望ましい状況。最悪の有害生物である人間が他の動物を有害鳥獣と呼んでいるのが滑稽だ。人里への野生動物出没が増加している。地方の人口減少、狩猟人口の減少、個体数の増加、猪についていえば温暖化による生息域の拡大など多くの要因が考えられるが、山林が放置されていることも大きな原因だろう。増加する竹林や耕作放棄地が餌の供給を増やし、個体数増加の原因となっている可能性がある。狩猟人口の減少により、動物の人間に対する警戒心が薄れてしまっている。雑木林は動物の餌となるどんぐりが実るなど生産力が高い。人と野生動物とのバッファーゾーンとしても機能してきた。薪の需要が減り、人が手を入れることによって維持される雑木林は自然植生に戻りつつある。人間が里近くの山に入り、山を利用していくことが被害の軽減につながる。クマ出没増加各地でクマが出没のニュースが相次いでいる。ツキノワグマによる被害は149人に上り過去最悪となっている。原因として夏の天候不順によるどんぐりの凶作が疑われている。例年より冬眠に入る時期が遅れているという話もある。 クマ出没警報12月末まで延長 人身被害続き注意喚起(2019/11/28 秋田魁新報) 秋田県は28日、県内全域に発令中の「ツキノワグマ出没警報」を、12月末まで1カ月延長すると発表した。 富山のクマ被害、過去最悪ペース(2019/12/6 共同通信) 各地でクマの出没が相次ぐ中、富山県では6日までに20人と、過去最悪のペースで人的被害が出ている。 診療所に侵入のクマ3頭を捕獲 南魚沼 倉庫内で冬眠か(2019/12/9 新潟日報) 新潟県南魚沼市二日町の萌気園二日町診療所の敷地内にクマがいると、診療所の職員から南魚沼署に通報があった。 県内のクマ出没急増 2019年度、既に最多271件(2019/11/18 カナロコ:神奈川新聞) 神奈川県のクマ出没件数は年度途中にもかかわらず、過去最多だった2016年度(193件)を既に大きく上回る。 クマの親子とバッタリ 69歳男性、顔などかまれ重傷 滋賀(2019/11/21 毎日新聞) 21日午前8時35分ごろ、滋賀県高島市マキノ町西浜の山中で、同市安曇川町南船木の無職の男性(69)から「クマにかまれた」と119番があった。 ツキノワグマ出没増える 岡山県内 19年度215件 餌の不作影響か(2019/12/19 山陽新聞) 岡山県内でツキノワグマの出没が増えている。県によると2019年度の出没件数は今月18日現在で215件と、年間で最多だった16年度(237件)に次ぐ多さで推移。イノシシ出没増加イノシシ年の今年は東北以南の日本各地でイノシシ出没のニュースが余りにも多く、最早ニュースにもならないという状況になっている。アーバン・イノシシという言葉も生まれた。おぢさんが田圃をやっている地域では5年前くらいに一時減ったが、最近また増えているという話を聞く。 店に入ると「逃げて!」 イオン高崎にイノシシ 市が注意促す(2019/12/5 上毛新聞) 群馬県高崎市棟高町の大型商業施設、イオンモール高崎周辺で3日、イノシシ1頭が出没…温暖化によって分布を北に広げ、今まで考えられなかったような都市部にまで出没している。東京都の国立や足立区、埼玉県の富士見市で目撃された。イノシシ年は来年も続きそうだ。にほんブログ村
2019.12.31
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日本列島には2019年現在、約1億2千6百万の人間が生息している。比較的大型で、雑食性とはいえ動物性の餌の摂取も多く、食物連鎖の頂点に位置する人間という生物が、これだけの数生息しているというのは、生命の歴史の中でも極めて特異なことだろう。数が増えすぎて森林に被害を加えているといわれるシカの約50倍の頭数の人間がこの列島にひしめいている。頭数、体重いずれも推定の概数。頭数は「特定哺乳類生息状況調査」(生物多様性センター)など複数サイトを参考にした。「種重」という言葉はないが、ここでは体重も考慮した種全体の重量として表した。日本列島に住む動物は事実上人間のみと言っても過言ではない。人間は自然界のバランス、生態系という概念からすれば逸脱した生き物となっている。人間は存在するだけで他の生物にとって著しく有害な生物である。そればかりでなく、人間は積極的に大量の化学薬品、放射性物質、重金属を撒き散らし、化石燃料を燃やして二酸化炭素を大量放出している。この有害生物は早急に駆除する必要がある。不自然であることが人間の性であり、人間を含めた自然である。といえば、それまでだが、この存在は持続可能なものなのか。駆除するまでもなく自滅の道を歩むのは自然の摂理なのか。日本に限らず、人間は自分たちの存在が、種として極めて巨大となってしまったということを自覚する必要がある。過去の環境問題や公害問題がある地域、地方の問題に留まっていたのに対して、近年の環境問題は、その影響が地球規模となっていることにその特色がある。地球をめぐる不都合な物質 拡散する化学物質がもたらすもの【電子書籍】[ 日本環境化学会 ]価格:1100円 (2019/12/21時点)楽天で購入プラスチックごみも二酸化炭素も排出源は世界規模であり、PCB、水銀といった物質が赤道から極地まで地球上の隅々まで汚染している。汚染されていない場所は地球上にはもう存在しない。これまで煙突を高くして広い範囲に拡散し、煤煙の濃度を下げることや、有害物質を含んだ水を大量の水で希釈して濃度を下げるという対策がしばしば行われてきたが、世界規模の工業化によってそのような対策は環境対策とは言えなくなった。にほんブログ村
2019.12.21
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ブログの更新が滞り、そろそろ死んだかと思われるのも癪なので、更新してみる。国家主義が現代最大の脅威と思っていたが、最大の脅威は環境問題であると最近気付いた。80年前の「近きより」をなぞっているのは、戦前戦中の国家主義と現代の国家主義を見つめるのがその目的である。しかしもはや最大の脅威が国家主義ではなく環境問題であるとすると、「近きより」をなぞるのが優先課題ではなくなるか?前回、戦線という言葉を使ってしまったが、環境問題は敵意や対立では解決しない。友愛、寛容、妥協がこの脅威に対処する鍵となる。80年前、日本は汪兆銘派と結んで日中戦争を戦っていたが、蔣介石率いる国民党政府を始めとする中国大陸の民衆勢力ほぼすべてを敵に回していた。現代の環境問題も人類は仲間を含めほぼすべてを敵に回して自滅の道を歩んでいる。日本は1941年に真珠湾攻撃を仕掛け、太平洋戦争を引き起こすが、それがほぼ確実に日本の敗戦という結果で終わることは、アメリカのオレンジ計画、日本の総力戦研究所、秋丸機関でも的確に予想されていた。知識人は滅亡の道であることを十分認識できたにも関わらず、日本は自滅の道を歩んだ。そうすると、意外とこの環境問題も80年前と似ていると思えてくる。今でも国際的な機関IPCCが海水面上昇など様々な警告を発している。ということで、80年前に戻るか。●瓦斯の使用量を各戸とも去年の三割七分減に強制することは我々は了解出来る。けれど瓦斯の口数を各戸ごとに一定数だけ閉鎖して歩くことは理解出来ない。p.287 昭和14(1939)年「電気と瓦斯」『近きより2』第3巻第10号<11・2月号>80年前は戦争のために化石燃料の消費を抑えなければならなかった。今回は環境のために化石燃料の消費を抑えなければならない。それは強制ではなく、各自の自覚によらなければ成果を上げることは出来ない。日中戦争を起こして二年以上、米国の締め付けはまだ本格化していなかったが、物資の生産は資源、原材料の不足によって徐々に厳しくなっている。電気・ガス・米穀、木炭などあらゆるものが統制されていった。太平洋戦争を始める二年以上前、日本は既に経済的に苦しくなり始めている。苦しい立場に立たされ、追い詰められて乾坤一擲、真珠湾を攻撃した。しばらくは良く見えたが、ミッドウェー、ガダルカナルで敗退し乾坤一擲レイテ、サイパン、硫黄島、沖縄で戦ったが予想通り敗退。挙句の果てに本土に敵を引き付けて乾坤一擲、相手を叩き有利な条件で講和するという幻想を一部の者は抱いたが、何とかポツダム宣言を受諾して敗戦した。考えてみると、1937年の日中戦争開始以来、日本は苦し紛れの攻勢で敗退している。将棋でもチェスでも駒の配置が悪ければ勝てない。日本は日中戦争以来、戦わずして負けている。現代人も環境問題で同じ状況に陥っている。 欠乏する生活必需品の品種が増えるに従って、国民は深刻に考え始めて来た。官尊民卑が骨の髄までしみこんでいるこの国の善良なる町人達までが「これでいいのかしらん」と思い始めて来た。 識者は既に事変数年前より、事ここに至ることを憂えていたが、猛り狂うこの国独特の反動思想の荒波は、遮二無二に人々の批判の自由を奪い、狂暴を逞しうし、国民はただその旋風のまにまに翻弄され、眩惑されていた。p.290 昭和15(1940)年「新年の言葉」『近きより2』第4巻第1号<新年号>(A版)自然災害(実際は人工災害)が増えるに従って、人類は深刻に考え始めて来た。「これでいいのかしらん」と思い始めて来た。しかしながら、これは環境を餌にした金儲けの陰謀だという俗説が、日本庶民に流布している。そもそも財界は環境軽視派であり、今に至っても環境を利用した金儲け派よりも日本では強大である。重視すべきなのは、誰かがどこかで不正な利益を得ていることよりも、現実に私たち一人一人が環境破壊に勤しんでしまっているということだ。にほんブログ村
2019.12.14
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地球は温暖化しているのか?国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は「19 世紀後半以降、世界平均地上気温が上昇していることは確実である」[1]としている。 地球温暖化(気象庁) 地球温暖化についてコンパクトに分かりやすくまとめられている。 IPCC 第5次評価報告書 IPCCの報告書(日本語訳)も気象庁等のHPに掲載されている。下図は1891~2018年の世界の年平均気温の変化を示している。100年で0.73℃上昇している。「世界の年平均気温偏差」(気象庁ホームページより)台風の発達に影響する、海面水温も上昇している。「年平均海面水温(全球平均)の平年差の推移」(気象庁ホームページより)これらの変化の原因は、言われているように温室効果ガスの排出という人為的なものか?IPCCでは「人間による影響が20 世紀半ば以降に観測された温暖化の支配的な原因であった可能性が極めて高い」[2]としている。では温室効果ガスはどれだけ増えているのか。温暖化への寄与度が一番高い二酸化炭素の濃度は産業革命以前は280ppm程度で長い間安定していたが、最近は急速に高まっており、一部では人体実験レベルともいわれている。 今の地球のCO2濃度は、人類史上例のない人体実験レベル(ニューズウィーク)「気象庁の観測点における二酸化炭素濃度及び年増加量の経年変化」(気象庁ホームページより)二酸化炭素濃度は冬に高まり、夏に低下する。季節による陸上生物の活動の変化が影響している。陸地の多い北半球の夏には植物の光合成が優勢となり、二酸化炭素濃度は低下する。しかし、そんな季節変動はものともせず、コンスタントに二酸化炭素が蓄積されている。 「温室効果ガスの濃度の変化」(気象庁ホームページ) 長い目で見た温室効果ガスの濃度の推移が分かる。気候は徐々に変化するので、人間は馴化してしまって異常性に鈍感になってしまう。オリンピックの長い歴史の中で暑さがこれほど問題視されたことはなかった。おぢさんが少年の頃には基本的に冷房というものはなく、どこの家でも扇風機で過ごしていた。夏でも夕方には涼しくなることが多く、夕涼みを楽しめたが、今では死語となりつつある。昔、北関東で甘がきを育てるのは難しいとされていたが、今では余裕で甘くなっている。埼玉県の小川町辺りはミカンとリンゴが両方とも育てられる場所とされていたが、今では群馬県の平野部でもリンゴは厳しい。その代わりミカンは十分育てられる。最近、近所を散歩していて驚いた。タチアワユキセンダングサという草が空き地を埋め尽くしていた。元々、熱帯性の植物で沖縄では畑などに嫌というほど蔓延っていたが、本州では冬に枯れるので、たまに見かける程度だった。そのうち本州も沖縄並みに銀ネムが蔓延って亜熱帯風の景観になるかもしれない。背後に潜む環境問題台風15号、台風19号とそれに続く温帯低気圧による被害。東京オリンピックのマラソンと競歩の札幌開催を巡る問題。現代の多くの問題の背後には温暖化を始めとする環境問題が隠れていることが多い。ヒアリ定着の問題。各地で相次ぐ橋崩落のニュース。豚コレラ拡散。温暖化が直接の原因ではないが、問題の引き金となったり、被害を増幅している例が多い。ヒアリは元々熱帯性の蟻だ。豚コレラを拡散しているといわれるイノシシは元々関西に多く関東では少なかった。台風により、大量の災害ごみが発生し、大量のプラスチックごみが海に押し流され、放射性物質も拡散した。環境破壊が更に別の環境破壊を引き起こす。制御不能となりつつある。[1] Stocker, T.F., D. Qin, G.-K. Plattner, L.V. Alexander, S.K. Allen, N.L. Bindoff, F.-M. Bréon, J.A. Church, U. Cubasch, S. Emori, P. Forster, P. Friedlingstein, N. Gillett, J.M. Gregory, D.L. Hartmann, E. Jansen, B. Kirtman, R. Knutti, K. Krishna Kumar, P. Lemke, J. Marotzke, V. Masson-Delmotte, G.A. Meehl, I.I. Mokhov, S. Piao, V. Ramaswamy, D. Randall, M. Rhein, M. Rojas, C. Sabine, D. Shindell, L.D. Talley, D.G. Vaughan and S.-P. Xie, 2013: Technical Summary. In: Climate Change 2013: The Physical Science Basis. Contribution of Working Group I to the Fifth Assessment Report of the Intergovernmental Panel on Climate Change [Stocker, T.F., D. Qin, G.-K. Plattner, M. Tignor, S.K. Allen, J. Boschung, A. Nauels, Y. Xia, V. Bex and P.M. Midgley (eds.)]. Cambridge University Press, Cambridge, United Kingdom and New York, NY, USA. [2] IPCC, 2013: Summary for Policymakers. In: Climate Change 2013: The Physical Science Basis. Contribution of Working Group I to the Fifth Assessment Report of the Intergovernmental Panel on Climate Change [Stocker, T.F., D. Qin, G.-K. Plattner, M. Tignor, S.K. Allen, J. Boschung, A. Nauels, Y. Xia, V. Bex and P.M. Midgley (eds.)]. Cambridge University Press, Cambridge, United Kingdom and New York, NY, USA.にほんブログ村
2019.11.09
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鏑川上中流域古墳前期土器の編年作業のために、当初分析を予定した住居の土器をほぼ検討し終えた。ここで、分類した土器をすべて類型別に集計して編年作業に入ろうかと思ったが、2つの問題が浮かび上がった。まず検討した住居だけでは、S字甕の調整が刷毛目からケズリに移行する段階以降が非常に少なくなってしまうことが分かった。もう一つは、いままで検討対象を住居から出土した土器に限っていたが、壺は住居より墓から出土する場合が多く、また完形のものが少ないので、墳墓の土器も検討対象にすることが必須と思われた。まずは雄川以東にも範囲を広げて土器の検討を行い、最終的な編年をまとめることにする。雄川以東は土器の様相が異なるという情報もあるが、雄川以西の鏑川流域でも遺跡ごとにかなり個性があることが分かったので、そこは気にしないことにした。また壺については、甕をベースに編年を纏めたのちに墳墓の土器を対象に加えて、編年の中に組み込んでいきたい。ひとまず、この段階で暫定版として鏑川上中流域の主な遺跡の土器を編年しておくこととした。主にS字甕と器台に注目し、その有無とタイプで主な遺跡を0期~5期の6つの期に段階分けした。多々、問題はあるかも知れないが、気になる点が一つある。1期を外来系土器(特に北陸系)の割合の高さを重要なキーとして0期とは分けたのだが、実際には0期と同時期の在来土器圏外からの移住者の住居または集落を1期として分けた可能性があることだ。ここは判断がつかなかった。編年作業をしていて確信したのは、在来系土器と外来系土器はかなり長い期間併存していたということと、在来系土器と外来系土器の比率は住居毎、集落毎でかなり違っていたということだ。例えば一ノ宮押出遺跡の2期では在来系土器は検出されないのに対して、上丹生屋敷山の2期ではほぼ在来系のみという具合だ。今回時系列で並べた土器の図をあらためて見てみると、外来系として移入され異彩を放っていた土器は、漸次その特徴が在来系土器に取り入れられているような印象を受ける。各期の主な遺跡(数字は住居番号)と土器の特徴鏑川上中流域古墳前期土器編年図ー甕(暫定版) ※縮小されているのでファイルに保存すると大きく見えます。土器図版転載元 群馬県埋蔵文化財調査事業団 1997『南蛇井増光寺遺跡Ⅴ』 富岡市教育委員会 2009『丹生地区遺跡群』 富岡市教育委員会 1994『一ノ宮押出遺跡』 富岡市教育委員会 1997『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』 群馬県埋蔵文化財調査事業団 1995『中高瀬観音山遺跡』にほんブログ村
2019.10.26
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80年前、独ソ不可侵条約によってファシズム勢力と社会主義勢力が手を結び、ドイツのポーランド侵攻によってファシズム勢力と帝国主義勢力の戦いの幕が切って落とされた。戦いは1941年のドイツによるソ連侵攻と日本による真珠湾攻撃によって帝国主義&社会主義連合のファシズムに対する戦争に戦線が変化した。1945年のファシズム勢力完全崩壊を待つまでもなく、1943年には更に巨大な戦線が用意されていることが予見されていた。近時の世界を動す力のあるものは米と露である。(1939/11/20)p.1363 宇垣一成『宇垣一成日記3』ここで英、独を挙げずに冷戦の主人公となる米ソ2大超大国を挙げているのは流石だ。とはいえ、冷静に考えれば当然の結論ともいえる。冷戦の前提条件は大戦前から整っていた。エール大学のニコラス・スパイクマン教授は、真珠湾の攻撃直後に出版した『世界政治におけるアメリカの戦略=アメリカと勢力均衡』(America's Strategy in World Politics : The United States and the Balance of Power)と題する著書のなかで「ドイツと日本を抹殺することは、ヨーロッパ大陸をソ連の支配にまかすことになるだろう」といい、「ウラル山脈から北海までのソ連は、北海からウラルにひろがるドイツにくらべて、大きな改善とはなりえない」と述べている。p.37 アルバート・C・ウェデマイヤー、妹尾作太男 訳『第二次大戦に勝者なし(上)』現在も自由主義勢力、ネオファシズム勢力(米)、ツァーリズム勢力(中、ソ)の対峙が続いているが、戦線は変化している。最大の敵は最早ネオファシズムではない。ましてやツァーリズムでもない。最大の敵は吾々人類全体であり、その敵の攻撃に晒されているのも吾々人類全体である。吾々は自滅の道を歩んでいる。台風19号は自然災害ではなく人工災害だ。今後毎年のように19号のような台風が日本列島を襲う。国連気候行動サミットで演説したトゥンベリさんに対するトランプ氏、プーチン氏の論評がこの戦線の変化を象徴している。「明るく素晴らしい未来を楽しみにしているとても幸せな少女のようだ」 ドナルド・トランプ大統領吾々大人たちが環境破壊のツケを残し、若者の明るく素晴らしい未来を奪っている。そのために彼女が怒り、不幸のどん底にいるということが理解できていない。「現代の世界が複雑で多様であることを誰もグレタに教えていない」 ウラジーミル・プーチン大統領残念ながらプーチン氏は世界が複雑で多様であるために、世界規模で人類が環境破壊の被害を被りつつあるという単純で重要なことが見えていない。世界の政治家、そして大人たちは未だ脅威を正しく認識できていない。絵でわかる地球温暖化 (KS絵でわかるシリーズ) [ 渡部 雅浩 ]価格:2420円(税込、送料無料) (2019/10/22時点)楽天で購入さてと、80年前に戻るか。▷段々と用紙が統制になっていきます。本誌もこれ以上厚くすることは出来なくなりましたので、来月号から一層緊張し無駄を省いていくつもりです。p.258 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第9号<10月号> 《昭和14(1939)年》十一月十四日。くもりて暗し。正午ちかく寒雨降り初めしころ炭屋の主人来り炭品切れになる虞れあり。永年の御得意先故品切にならぬ中土釜一俵だけ持って参りましたと言ふ。〔以下一行弱切取。四字抹消〕戦争の禍害いよいよ身辺に迫り来れり〔以上行間補〕。p.81 永井荷風『断腸亭日乗(下)』(岩波文庫版)物資は欠乏し、国民は倹約を強いられた。現代の戦線も、化石燃料をなるべく使わず、車ではなく自転車で出掛け、生分解されないものを買わない倹約が求められる。「ソ連撃つべし」ということ以外を言ったら誰をつかまえても国賊のように罵った連中が、日ソ協定が出来たといって悦んでいるからおかしなものである。ソ連を軽侮することのみを国民に吹き込んだ輩が、今となってソ連の機械化部隊は侮り難いなどというとは無責任も甚だしい。p.260 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第10号<11・2月号>後世の歴史家は、現代の日本をどんな風に批評するだろうか。現在、飛ぶ鳥を落とすような威勢のいい人間が、実は日本の国を食物にした大悪党であったり、「太陽は地球の周囲を回転す」というような口あたりのいいことを平気で言えた人間だけが出世した不思議な時代であった。と国定教科書に書かれるかも知れない。p.262 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第10号<11・2月号>昨日まで敵であったソ連が敵でなくなると、ソ連に対する言動を180度変える人間。昨日まで天皇は現人神だといって、軍国主義的教育をしてきた教師が敗戦を迎えて180度言動が変わったという話。いつの時代も、自分で考えずに尻馬に乗るだけの人間は少なくない。よく言えば適応力があるということになるか。しかし、今度の闘いはできるだけ早く、できるだけ多くの人が危機を認識し、生活を変えるということである。先頭に立つべきではないだろうか。5年もすれば、環境問題が最大の脅威であることが、いやでも皆に認識されるようになる。にほんブログ村
2019.10.22
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人間を信じる (岩波現代文庫) [ 吉野源三郎 ]価格:1430円(税込、送料無料) (2019/10/11時点)楽天で購入前回『君たちはどう生きるか』の甘ったるいヒューマニズムにやや嫌気が差したことを話した。それにもかかわらず、吉野源三郎氏の『人間を信じる』というさらにヤバそうな題名の集成本の「ヒューマニズムについて」という文章を何故か読んでしまった。この文章の主題は「人間は信頼できるか」ということだ。そこで読者は意外なことに、あの人を信じ切った甘ったるい作品を書いた吉野氏の深刻な人間不信を見出す。『君たちはどう生きるか』しか読まなければおぢさんは吉野氏に不信感を抱き続けたままだったが、その不信感は吹き飛んだ。吉野氏の人間不信はおぢさんのものよりも深かった。おぢさんは楽観的に、ざっくり人間は51%信頼できると考えて、それで良しとしていた。この点では吉野氏は全く違うようだ。これは数の問題ではありません。多数決できまるような問題ではありません。人間の数多くの行為の中から、明るいものと暗いものとをひろいあげ、それを貸借対照表のように両側にならべておいて、その決算をやってみても、それでこの問題の答えを見つけることはできないのです。p.18 吉野源三郎「ヒューマニズムについて」『人間を信じる』(岩波現代文庫版)人間はどういうものなのか、ということが問題だとすると、善人も悪人も共に人間であって、しかもここでは、悪人が善人をしめ殺しているのです。そればかりではありません。この問題にかけては、かりに善良な人間が百人のうち六十人を占め、悪い人間のほうは四十人だとしても、――いや、善良な人間がもっと多く、圧倒的な多数を占めたとしても、少なくとも少数の悪人があるというだけで、すでに「人間はみんないい人だ」などという甘い人間観はなり立たなくなるのです。p.17 吉野源三郎「ヒューマニズムについて」『人間を信じる』(岩波現代文庫版)吉野氏の場合、特にことわりはないが、善人は信頼でき、悪人は信頼できないということが前提されている。しかしネオファシストは善人は信頼せず、むしろ悪人を信頼する。ネオファシストは平和ボケの平和主義者は悪人ではないかも知れないが、お人好しすぎて信頼できない。彼らに任せたら間違いなく国は亡ぶと考える。平和主義者はネオファシストはバカではないかも知れないが、凶悪すぎて信頼できない。彼らに任せたら、殺し合いの世の中になると考える。お互いに自分たちは信頼でき、もう一方は信頼できないと考えている。このような根本的な価値観の相違があるが、信頼できる人間と、信頼できない人間がいるということに関しては一致している。われらが正木ひろしも次のように述べている。 人を信ずる事はそれ自体が善いことで、人を疑う事はそれ自体が既に悪いことのような感覚を植えつけられている善良なる人々は、たやすく人に欺かれて不幸な目に遭うものである。信ずべきを信じ、疑うべきを疑うことが正しいという教育を小学校時代からしなければ、現代の日本には生息できないであろう。p.265 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第10号<11・2月号>人間の本性は吉野氏のいうとおり数の問題ではないかも知れないが、多数決で決めざるをえないことも少なくない民主主義が信頼できるものとなるためには、どうしても信頼できる人間の数こそ問題となる。基本的に人をあまり信頼しないネオファシストが民主主義を信頼するのは難しいのではないか。ネオファシストは民主主義を悪用するか、破壊しようとする。どんな人間を信頼できると考えるかは見方が分かれるが、このお人好しと悪人の勢力図は意外と変動するのではないか。日和見人間がこの変動を増幅する。80年前、ファシストの勢力が枢軸国で頂点に達し、自由主義者は潜伏を余儀なくされた。5年後、ファシズムは崩壊し、自由主義が息を吹き返した。現在のネオファシスムの隆盛も今が頂点である。アメリカのトランプ、イギリスのボリス・ジョンソン、中国の習近平、日本の安倍晋三。既に若干の陰りさえ見える。彼らあるいはその後継勢力も5年後には大半が崩壊しているだろう。話を戻そう。吉野氏は人間の本性がこういうものであると証明するようなことは無理だし、それでは自由な人間らしさが無くなってしまうという。人間がどんな醜いことをしたにしても、また、どんなすばらしい事業をやったにしても、それはそうせざるを得ないように人間以上のものからあらかじめきめられていたからであって、彼には、それ以外に選択の余地がなかったからだ、ということになってしまいます。どんな悪事も彼の責任ではなく、どんな善事も彼の功にはならないのです。人間はただ神の手で動かされてゆく将棋の駒のようなものになり、人間の人間らしい自由は、どこかにいってしまうのです。p.38 吉野源三郎「ヒューマニズムについて」『人間を信じる』(岩波現代文庫版)ここが、吉野氏に共感できない根本となる部分だ。人間とはまさに神の手で動かされてゆく将棋の駒そのものである。ユヴァル・ノア・ハラリ氏が『ホモ・デウス』で熱心に説く、自由主義の権威を失墜させる自由意志の無さだ。吉野氏は自由意志こそ自由の権威の源泉であると認める点でユヴァル氏と同族である。ホモ・デウス 下 テクノロジーとサピエンスの未来 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]価格:2090円(税込、送料無料) (2019/10/11時点)楽天で購入しかしながら、多くの自由主義者は自由意志の存在など全く想定していない。自由主義者はユヴァル氏がまったく重視しない「人間が内なる欲望に従って行動できる」という、まさにそのことに自由の価値を見出している。自由意志と自由への渇望はレイヤが違う。吉野氏が避けたがっている結論、悪事も善事も彼の責任ではない。というのがこの世界の現実であり、悪人を処罰するというのは論理的には無茶苦茶な話で、便宜上死刑になってもらうに過ぎない。安倍晋三支持者である責任は彼自身には無いし、平和ボケの責任も彼自身にはない。責任は大日如来にある。吉野氏は人間は悪魔と天使の可能性(そんなものは実際にはない)を持った存在であるとして、人間の本性を考えることを止めてしまい、「人間を信頼するか、どうか。」という問いは、決意による選択の問題、という結論に達してしまうのである。この世界に対して、自分の意志をもって関与していこう(恐らく変えていこう)という態度は吉野氏の特性なのだろう。その点は大いに好感が持てた。しかし、おぢさんとしては自由意志の無い我々には本性があり、そしてその本性は集団としてうねるように変動する。おそらく戦争・恐慌・災害などで引き起こされる、その大衆変動が解明すべきもののように思われた。さてと、80年前に戻るか。▶北支派遣……岡野秀夫氏より『久シ振ニ「近きより」ヲ見マシタ。相変ラズ心臓ノ強イコトヲ言イ、理想ニ燃エテ居ラレル姿ヲ思イ出シテ北支ノ一角カラ一筆呈上シマス。斯ク言ウ小生実ハ直接私用デ会ッタリ話シタリシタコトハ一度モアリマセンガ、本年五月半バ迄東京民事地方裁判所ニ居リマシタノデ、毎月無償デ彼ノ小ッポケナ雑誌ヲ送ッテ貰ッテ居リマシタ。今デハ山東省ノ○○ニ一軍属トシテ兵隊ト寝起ヲ共ニシテ居リマス。ソシテ新東亜建設ノ大進軍譜ヲ直接拝聴シテ居ルノデス。東京デ下ッ端官吏トシテ惨メナ生活ヲシテ居ル時ハ、先生ノ言葉モ行動モ(キビキビシタ様)モ実ニ気持チヨク受ケ入レタモノデシタ。トコロガ此ノ二、三ヶ月ノ集団生活デ都会ノ泣虫小僧ノ駄々トシカ聞エナクナリマシタ。御免、』p.252 昭和14(1939)年「誌友だより」『近きより2』第3巻第9号<10月号>このたよりには正木氏からの返信もある。それにしても「新東亜建設ノ大進軍譜」という表現、北朝鮮の国営放送を彷彿とさせる。それはどうでも良いとして、右派的な人と左派的な人がいて、どちらつかずの人がいる。経済重視の人がいて、軍事重視の人がいて、どちらつかずの人がいる。国粋的な人がいて、国際的な人がいて、どちらつかずの人がいる。多くの変数の混合の様々な人間がいて、互いをバカにしながら議論しているこの日本とこの世界は本当に変わっていない。現代のネトウヨは80年前に瓜二つの兄弟を見出す、アナキストのおぢさんも80年前のそこかしこに自分を代弁する言葉を見出す。そういう世の中全体はそうそう一気には変わらないが、学校・会社・軍隊という集団生活の場は、大衆の思想を変えるには都合がよい場所だ。何らかのきっかけで一つの方向に大衆の思考が傾き、それが正のフィードバックを持っているとしたらどうなるのだろう。▷世界は子供の喧嘩のように変転極まりなく、低級な論理、意地悪、不信、手前勝手等あらゆる非文明な妄想にとりつかれて、のたうち回っています。p.258 昭和14(1939)年「編集後記」『近きより2』第3巻第9号<10月号>まるで、ネオファシストが跋扈する現代世界を形容しているようだが、80年前も帝国主義国は哀れな劣等人種を保護すると称して植民地政策を正当化して独立運動を弾圧した。新興帝国主義国は自存自衛のためと称して領土獲得に乗り出していた。低級な論理だ。信頼できない人間は避けることもできるが、信頼できない大衆を避けることは難しい。にほんブログ村
2019.10.12
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おぢさんが気になった環境関連情報 小麦製品のグリホサート残留調査1st (農民連食品分析センター 2019/3/10) 日焼け止め、世界のサンゴ礁に有害作用 研究 (AFPBB News 2015/10/22)最近の環境関連ニュース 日本のサンマ不漁は台湾や中国の乱獲が主因か (President Online 2019/8/30) アコヤガイ 原因不明の大量死 愛媛・三重に続き長崎でも (東京新聞 2019/9/6) 岐阜に迫る、豚が消える日 感染続く豚コレラ、飼育半減 (朝日新聞デジタル 2019/9/9) 豚コレラ対策ワクチン接種へ 農水省方針、発生エリアで (朝日新聞デジタル 2019/9/18) 浜辺にシャチ7頭打ち上げられ住民らが救助 アルゼンチン (NHK 2019/9/17) ゲノム編集食品、食品表示義務なし 流通制度固まる (日本経済新聞 2019/9/19) おぢさんの記憶によると、特定の魚が何年か毎に豊漁不漁を繰り返すことはあるので一概に言えませんが、前代未聞の不漁ということで気になります。日本もかつて様々な魚種で、特にマグロなど乱獲を行いましたが、自分の首を絞めることになるので、自主的な資源保護のルール作りをしていった歴史があります。甘すぎるとはいえ、まずは北太平洋漁業委員会(NPFC)で制限が設けられたことは歓迎すべきでしょう。 アコヤガイの大量死、シャチの座礁いずれも原因は不明ですが、何だか分からないうちに被害だけはしっかりと出てしまいます。ここが環境問題の恐ろしい所だと思います。まさか、日焼け止めクリームがサンゴに大きな影響を与えるとはだれも考えなかったと思います。しかし、日焼け止めクリームに含まれる化学物質オキシベンゾンはサンゴに被害を与えるのに十分な濃度で海水中に放出されてしまっています。気づいた時には手遅れになっていることが多いということは、先回りして対策を立てなければならないということではないでしょうか。疑わしい物質は使用しない、更に、使用実績のない化学物質は使用しないという態度が望まれるのではないでしょうか。そうすると、グリホサートなどの除草剤は真っ先に使用をやめるべき物質となると思うのですが、ホームセンターなどで大量に売られています。 ゲノム編集食品、食べたくないですね。除草剤を安心して使えるように除草剤で枯れないようにゲノム編集された米。食べたくないですね。今の時代は信用できる生産者と結びつくか、自分で食物を生産するくらいしか道は無いような気がします。 豚コレラ拡大しています。人間を含め本来動物は免疫力があり、危険な伝染病が流行しても全滅することはまずありません。そうやって、ある程度淘汰されることにより種として免疫力を保っているのではないかと思います。ただ飼育している豚が淘汰されるに任せるわけにはいかないのも分かるので、ワクチンにより疑似的な感染を起こすのも分かります。気になるのは豚たちが本来の免疫力を発揮できる環境で飼育されているかということです。適度な運動をし、ストレスの少ない環境で飼育されている豚は日本ではまだまだ少ないと思われます。アニマルウェルフェアとは何か 倫理的消費と食の安全 (岩波ブックレット) [ 枝廣淳子 ]価格:626円(税込、送料無料) (2019/9/22時点)楽天で購入希望 「国境超え、気候変動止めよう」26都市で若者らがデモ (朝日新聞デジタル 2019/9/21) 地球温暖化、対策遅すぎる 日本の科学者らの訴え相次ぐ (朝日新聞デジタル 2019/9/19)さすが若者、さすが科学者、生きているだけで環境破壊になってしまう世の中の仕組みをみんなで変えていこう。にほんブログ村
2019.09.22
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2017年8月に『漫画 君たちはどう生きるか』が発売された。以降、漫画、原作小説ともにベストセラーを続けていた。おぢさんも本屋に平積みされていたので興味はそそられたが、今さら「どう生きるか」考える年齢でもないよねということで暫らくパスしていた。しかし、余りにも良く売れているらしいので、軽く内容をチェックしておくかという気持ちで原作の岩波文庫版を半年ほど前に読んでみた。青少年向けということもあり、読み始めると面白くて一気に読んでしまった。しかしながら、少年の頃であれば、気にはならなかったのかもしれないが、どうも人間を信じるヒューマニズムが鼻についてよろしくない。おぢさんは、それまで吉野源三郎氏の作品は読んだことはなく、どんな人物かも知らなかった。少し調べると、平和・護憲運動活動家であり、岩波書店の編集者で『世界』の編集に携わっていたことや、『きけわだつみのこえ』出版の中心人物、中村克郎氏が兄の手記出版について吉野氏に相談していたということを知った。世界中でネオファシスト政権が席巻している現代、日本でこの著者の作品がベストセラーになることに奇異な感覚を覚えた。ネオファシストは基本的に人間を信じない人々なのではないのだろうか。自国は他国から正当な扱いを受けていない、あるいは他国からの軍事的な脅威にさらされているという、他国を信頼しない心。トランプ支持のFOXニュース以外はフェイクニュースだと決めつけるメディアや世間に対する不信。他人、他国を信頼しないから外交でも軍事でも強硬に自国の利益を主張する。この世界的な世相から免れていない日本で、人を信じる甘ったるいヒューマニズム臭漂う本がベストセラーになった。これは何を意味しているのか、表面上はネオファシズムに覆われてしまっているように見える世界。実際には見えない所で自由主義が意外としっかりと息づいているということなのではないか。表面は時代の大きなうねりによって変わったように見えるが、表層と深層が入れ替わるのみで全体は意外と不変ということなのだろう。先述のようなわけで吉野氏の書いたものは敬遠するつもりだったのだが、たまたま図書館で氏の『人間を信じる』というどストレートなタイトルの集成本を手に取ったので、もう読むことはないと思っていた氏の作品を読むことになった。おぢさんは最近あらためて、人間が信じられないならば、その人間たちが行う政治も民主主義もやはり信じられるものにはならないということを思い返していた。これは、結構重要なことだ。人間という信頼できない生物相手にブログで政治的主張をしたところでむなしいだけではないか。バカだか凶悪だか知らないが、とにかく信頼できない連中に何を言っても無駄、政治など無視して残りの人生を謳歌するに越したことはないのだ。政治などもってのほか、人間という信頼できない生物とはなるべく関わらないようにして、やむをえず関わるときは利用してやるか、騙してやるかぐらいの気持ちでいるのが人間不信の正しい態度だ。吉野氏もまったく同じように考えていた。民主主義という名で呼ばれるこの原則の底に横たわって、この原則に生命を吹きこみ、血肉を与えているものは、ほかでもないヒューマニズムなのです。人間を愛し、人間を信頼し、人間のこの地上における幸福を肯定しないで、いったい、どこに民主主義がなりたつでしょうか。 実際、もしも人間が信頼できないものであるなら、民主主義もなにも、ありはしません。日本の民主主義的建設はもちろんのこと、そのほかいっさいの人間的努力もむなしいものとなって、私たちには、むきになってあらそわねばならない問題など一つもないことになってしまいます。p.14-15 吉野源三郎『人間を信じる』(岩波現代文庫版)実際、元々政治的な人間が政治的な世界からは距離を置くケースは結構ある。アドラー心理学で有名なアルフレッド・アドラーは政治に幻滅して、教育によって人間を変えなければ世の中は変わらないと考えた。それも一つの方法だが、信頼できない人間に信頼できる教育が可能かという疑問が残る。それでも政治参加に意味があるとすればガンジー氏の言うような意味ぐらいか。あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。 ――マハトマ・ガンジー吉野氏の『人間を信じる』についての感想は次回にするとして、80年前に戻るか。 その弱点に向ってメスを入れ、世界最優秀国とする努力を為すことこそ本当の愛国のはずであるのだが、弱点に触れないように、痛いところは障らせないように、ただ盲目的に国民を働かせようとするから一向に栄えないのである。子供ではあるまいし、いつまでもだましおおせるものではない。p.242 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第9号<10月号>80年前と全く変わらない情けない愛国がこの国に瀰漫している。本当のことを言うと、貶めているとか、批判ばかりとか言って逆切れしているようでは、いつまでも成長できない。いくら誠意を示しても、頑として譲らないのは米国である。このお坊チャンと貧乏人の子とは、いつか一度は太平洋で相見えねばなるまい。p.243 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第9号<10月号>二年後の太平洋戦争を予見しているようだ。もっとも、日米戦争は幕末の攘夷の時代から予見するようなものがあったが、この頃はもっと切迫し、対英米戦争不可避論がけっこう取り沙汰されていた。1939年7月26日、米国は日本の中国侵略に抗議して日米通商航海条約破棄の通告してきた。これにより日米関係は大きく悪化する。当時、日本は石油、鉄製品など軍需物資を含む多くの素材を米国からの輸入に頼っており、米国との貿易が閉ざされることは日本にとって死活問題だった。太平洋戦争をアジア解放、日本の防衛戦争だとしてアメリカの不正義を罵りながら、現代においてアメリカ追従、同盟強化を主張するほど奇妙なことはない。アメリカが悪だったとすると、いつ改悛したのだろう。「国家百年の計」というが、国家は理想的な場合でも百年の先しか考えてくれない。しかし我々の本能は未来永劫の先を考えている。p.245 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第9号<10月号>年金に関しては、百年どころか五十年先のことも考えられていなかった。しかし、目先の参院選でごまかすのには成功した。国家が浅はかなのか、国民が浅はかなのか。 老後2000万円不足の真犯人 年金10兆円を散財した自民党と官僚80年史(マネーポスト)年金が負の遺産となっている原因は、過去の自民党のバラマキと杜撰な管理に起因していることは間違いないが、責任を取るべき人間は死んだか、呆けている。お人好し国民は、泥棒に今も票を入れている。福島原発事故も責任を取るべき人はいないらしい。そういえば、太平洋戦争も東京裁判で裁かれた人間はいたが、天皇は裁判にもかけられていないし、辻政信は何の責任も取らされずに議員として復活した。正しいことなら通るのが当りまえだと考えている人間を「まだ若い」と称するのであるそうな。p.245 昭和14(1939)年「近々抄」『近きより2』第3巻第9号<10月号>実際、おぢさんくらいの年齢になると、現代の政治のように、正しくないことは通り、正しいことは通らない場合が多いことを身をもって実感する。ただし「まだ若い」というのは誉め言葉で、正しいことが通らない世の中は変えてやらにゃあならん、と考えている人間はいつまでも若い。にほんブログ村
2019.09.20
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30日、香港で「雨傘運動」を主導したリーダー2人と、民主派の議員3人が逮捕された。香港の権力は民主化を求める人々を、秩序を乱すもの、暴力的なものとして位置づけ、あたかも過激派を取り締まっているかのような顔をしている。実際に過激なのは香港警察と背後の中国共産党であることを人類は忘れてはならない。権力が秩序あるいは社会の安定という言葉を使うとき、それが権力者の為の秩序や安定となってはいないか監視していくことが重要だ。深圳の武装警察の映像が公開されたり、装甲車が香港に入る映像が中国の国営テレビで放送されている。この状況に天安門事件(中国共産党政府が民主化を求める自国市民を多数殺傷した事件)を思い出した人も多いだろう。中国共産党に求める「天安門殺戮を繰り返すな」。 Don’t repeat Tiananmen Square.中国本土も香港も監視社会、警察国家の度合いが酷いものだが、どちらも一朝一夕でこうなったわけではない。徐々に悪化していく。中国、香港そして日本を含む世界の多くの国民がこの過程を追っている。一見香港の方が状況は悪そうに思えるが、日本国民には権力に対する警戒心が全くないという点は明らかに香港より劣っており、簡単に状況が悪化する恐れがある。話題を変えて。。。田圃の片隅で育てていた里芋が猪の襲撃を受けて全滅した。今度見つけたら猪鍋にして食ってやる。あまりにも悲しいので、80年前に戻ろう。80年前の8月23日に独ソ不可侵条約が締結された。この条約は、日本がソ連と戦争した場合に、ソ連の負担を軽減したり、そのような条約をソ連と締結することを禁じた日独防共協定に違反していた。しかもこの条約は日本とソビエトがノモンハンで激しく戦っている最中に締結されたものだった。アンケート回答でこの不可侵条約締結に言及したものがあった。<アンケート> 公私の生活において 一、最近愉快だったこと 二、最近不愉快だったこと 三、その他の偶感中 原 東 吉一、独逸がなければ夜が明けず、日も暮れないように独逸を尊重して居た人が独ソ不可侵条約成立を聞いた時の様子、ナニ独逸は前世界戦争に於て日本の敵だから日本の利害などに頓着するものかとこの始末予見して居ったような人の様子共に見ものでした。――筆者は弁護士――p.232 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>秋 田 雨 雀一、独ソ不戦条約の締結の問題には可なり驚かされました。これは独ソ両国にとっては避けがたい必然性であったろうとは思いますが、これが世界に与える影響は相当大きいことと思います。《後略》二、不快なことは独逸の背信行為。――筆者は伊太利の声楽家――p.232-233 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>小 佐 井 清 平《前略》日本の面目玉を全くつぶした独蘇条約が発表された時、彼等《おぢさん補:日独親善に浮かれていた人々》はどんな顔をしましたか。私はそれ見たことかと思いましたが、実は人一倍憤激せずにはいられませんでした。――日本新聞記者、美術之日本主幹――p.234 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>日本人一般に驚きを以って迎えられた独ソ不可侵条約締結は、その後の世界を変えていく。当時オーストリアを併合し、チェコスロバキアを飲み込んだナチスドイツを抑止するために英ソ間の条約が模索されており。四月以来、日本の紙面でも頻繁に報道されていた。独ソ接近説も報じられることはあったが回数は明らかに少ない。この条約締結で陸軍や内閣の面目は丸潰れとなり英米協調派が一時盛り返した。平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と発言し、内閣は総辞職した。親独反英米の心情がこの頃には陸軍だけでなく日本国民一般に相当浸透しており、そういった人々には大変なショックだったことが上のコメントからも伝わってくる。しかし、秋田雨雀のように必然とみる向きもあった。宇垣氏も同様の見方だ。独蘇の不可侵条約締結の報は何だか霞ヶ関や三宅坂〔陸軍〕辺には晴天の霹靂であり様に見へる。驚天し狼狽し憤慨し怨恨するなど取り取りの形相が現れて居るが、余は何も驚くには値せぬ、来るべきものが当然に到来したのであると考えて居る。《後略》(《昭和十四年》八月二十三日)p.1353 宇垣一成『宇垣一成日記3』平沼氏の発言は「想定外です」と白状したようで名言(迷言?)だ。平沼内閣の辞職理由は言辞抽象的なるも、責任感を表明せるものにして内閣更迭の理由を公表せざる我国近時の慣例を破りたる好例と謂ふべし。ただ独逸の不信行為に出逢ひて国際情勢複雑怪奇なるに驚きたりと云ふは、余りに純朴らしく、外交史に通ずるものの苦笑を禁じ得ざる所なり。国際信義の必ずしも頼むに足らざるのみならず、詭計を憚らざる独逸外交の流儀は過去数十年に於ける昭著の事実にあらずや。(昭和二十年二月記)p.41 深井英五『枢密院重要議事覚書』独ソ不可侵条約締結前から日独伊の軍事同盟を目指す動きがあったが、日本はソ連をその対象としようとしていたのに対して、独逸は英仏を対象としようとしていた為、初めから軍事条約締結には無理があった。各国の関係を独ソ不可侵条約締結前と後で図にしてみる。独ソ不可侵条約締結によって、ソ連はドイツと日本というファシズム国家との二正面作戦を回避するとともに、英独の潰し合いを高みの見物するという、この上ないポジションに立つ事が出来ている。ドイツもやはり英仏とソ連を同時に相手にするという二正面作戦の危険を回避し、英仏に集中できるということを考えると、この条約締結は意外というよりむしろ当然と思えてくる。この独ソ不可侵条約は日本と米国との戦争の可能性を高めたのかもしれない。芦田均は「確実性」とまで表現している。日本政府部内の苦悩に満ちた論議が、もはやどんな結果を生んだとしても、ドイツとの同盟の主目標は、いまや無断で修正されつつあった。当時までは、日本の主目標は、反ソヴィエトの同盟国を獲得するということであった。この時以来この目標は、日本がロシアを味方と認めて、ドイツとともに西欧列強にくってかかる計画に加わるかどうかという問題に変わっていったのである。 注目されるべき点は、このような事態の逆転は、つきつめれば最後に日米間に戦争が起こるというほとんど完全な確実性を包蔵していたことである。なぜなら、日本とソ連が結び付けば、日本の膨張政策は南方にしか向かうことができなくなる。南方に向かえば、日本は、アメリカにとってきわめて重要な原料源や連絡路を脅かし、かつフィリッピンを包囲することになるからであった。p.126 芦田均『第二次世界大戦外交史』芦田の見解からすると、独ソ不可侵条約は南進の要因であり対米戦争へと繋がっていたことになる。スチュアート・D・ゴールドマン氏はノモンハン戦争が独ソ不可侵条約をめぐるスターリンの意思決定に影響を及ぼした可能性があるとしている。そうするとノモンハン戦争は結果的に独ソを結び付け、それにより日ソ関係を改善させ、日本に北進よりも南進を選ばせるという、巡り巡って意外な影響を及ぼした戦争であったのかもしれない。この他にもノモンハンでソ連手強しという印象を持った、辻政信や服部卓四郎が参謀本部作戦課に返り咲き、南進を主張し対米開戦を主導したということからも、ノモンハン戦争は南へ、そして対米へという影響を与えたように見える。引用文中の旧字体は適宜、新字体に改めた。にほんブログ村
2019.08.31
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鞘戸原Ⅰ遺跡と鞘戸原Ⅱ遺跡は中高瀬観音山遺跡の東南東約2.5Kmに位置する。中高瀬観音山遺跡との間には目立った集落遺跡はないが、中高瀬観音山遺跡と同じ北山丘陵上に古墳前期の前方後方墳の茶臼山西古墳と、同じく古墳前期の円墳と推定される茶臼山古墳がある。このほか、北山丘陵と南後閑の辺りには、弥生後期から古墳前期の土器を出土している包蔵地が散在[1]しており、この時期このエリアに人が住んでいたことは間違いない。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 鞘戸原Ⅰ・鞘戸原Ⅱ遺跡の土器分類結果 鞘戸原Ⅰ・鞘戸原Ⅱ 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類甕は1点を除き在来系。頸部輪積痕を残すものが多い。施文は櫛描もあるが、縄文が圧倒的。 〔左〕Ⅱ-10号住居 甕2(B2Pa) 〔右上〕Ⅰ-8号住居 甕6(A'3) 〔右下〕Ⅰー7号住居 甕2(B4Ra)短い頸部が弓なりに湾曲する〔右上〕の甕6のみ外来系と判断した。壺も在来系が大半で、縄文施文が多く櫛描は少ない。 〔左上〕Ⅰ-1号住居 壺3(A2Pa) 〔右上〕Ⅱ-23号住居 壺4(IOa) 〔左下〕Ⅰ-1号住居 壺5(残存部少) 〔右下〕Ⅰ-7号住居 壺5(F1)Ⅰ-1号住居 壺3は上丹生屋敷山で多いタイプに似ている。羽状文?を結節縄文で区画したⅠ-1号住居 壺5とⅠー7号住居 壺5の長頸壺は外来系。Ⅱ-23号住居 筒状の花瓶のような形の壺4は同じような形のものがこの地域にあった筈だが、思い出せない。ただいま捜索中。高坏は完形のものは少ないが傾向は読み取れる。大半が樽式を脱した古墳時代のものといった雰囲気だ。 〔左上〕Ⅱ-23号住居 高坏1(F4Oa) 〔右上〕Ⅰ-8号住居 高坏11(E5Oa) 〔左下〕Ⅰ-7号住居 高坏6(D??b) 〔右下〕Ⅰ-8号住居 高坏13(D3Oa)左上の高坏は東海系か。高坏を全体的に眺めると、遠方の系統であったり、非常に整った形の椀型であったり、裾が大きく広がる脚部、丸い穿孔など、明らかに樽式の系統とは異なっている。鉢は片口を含め3点、有孔鉢が1点、器台は下段の2点のみで完形のものはない。 〔左上〕Ⅱ-23号住居 鉢3(A1Mb) 〔右上〕Ⅰ-8号住居 鉢19(Fb) 〔左中〕Ⅰ-1号住居 有孔鉢9(A2) 〔右中〕Ⅰ-8号住居 鉢18(A1Ma) 〔左下〕Ⅰ-8号住居 器台16(F??a) 〔右下〕Ⅰ-8号住居 器台17(残存部少)縦横比はやや異なるものの、左上の鉢3、左中の有孔鉢9、右中の鉢18のシルエットが似ているようにおぢさんは感じる。数が少ないので断定はできないが、やや小さく弱く突出する底部、弱く内湾する口縁という形態が当時の一般的な鉢の形だったのかもしれない。鉢19はおぢさんの使用している類型では分類不能だった。頸部輪積み、口縁部縄文の特徴から吉ヶ谷系と推定し、新類型、鉢Fとして分類し、赤彩を表す b を付した。鉢2点で赤彩が見られるのは、時代推定の手掛かりになりそうだ。全体の土器数が少ないためかもしれないが、器台はやや少なく、まだ定着していない段階だろうか。[1] 詳細は p.5-6 1992 富岡市教育委員会『鞘戸原Ⅰ・鞘戸原Ⅱ・西平原遺跡発掘調査報告書』参照。 図版は同報告書より。にほんブログ村
2019.08.11
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7/21に参院選の投開票が行われた。安倍首相は「憲法改正を最終的に決めるのは国民投票だ。議論するのは国会議員の責任だ。議論は行うべきである。これが国民の審判だ」と発言し、憲法改正への意欲を示した。おぢさんは改憲勢力が2/3を割り込み、改憲の発議が出来ないという結果こそが民意であり、改憲をしてはいけないという民意が示されたと捉えるべきだと思うが如何だろうか。 首相記者会見 安倍首相「議論は行うべきが国民の審判だ」そうはいっても、安倍晋三氏は民意に逆らって改憲の議論を進めようとするだろう。野党は改憲に関する議論は拒否でよいだろう。おぢさんは日本国憲法は全体的には大変すばらしいものであると思っているが、部分的には変えた方が良い部分があると考えて居る。例えば天皇の地位を定めた第1条は良くない。「天皇制はこれを廃止する。」という条文にすべきだ。第27条「すべての国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ。」の「義務を負ふ」の部分はカットだ。生きるために働くのであって、国家に働けと言われる筋合いはない。以上の改憲を提案したい。映画「新聞記者」を鑑賞した。 「新聞記者」の藤井道人監督、当初は制作を断っていた。その理由とは?(HUFFPOST)記事によると河村光庸プロデューサーが藤井道人監督に持ち掛けたということで、河村氏はどんな作品を手掛けてきた人なのか気になった。『あゝ、荒野』(岸善幸監督)、『かぞくのくに』(ヤン・ヨンヒ監督)どちらも人間ドラマ?必ずしも政治がテーマという人でもないらしい。そして監督、俳優、テーマなど半島繋がりがある。日韓関係が悪化している。米国が仲裁で幕引きか?ガキが喧嘩をしていたら、ガキ大将が来て無理やり仲直りさせられる図だろう。日韓がやっているのは外交ではなく内政だ。双方とも気にしているのは相手国ではなく自国民の目であり、問題を解決しようという意思はない。ガキ大将アメリカはイランを挑発し、戦争を起こそうと必死になっている。どこもかしこも自国第一主義、憎悪と暴力が支配しているように見える。達観したように、これが冷酷な国際社会の現実、などとうそぶく人も居そうだが、それはロマンティックに過ぎる見方だ。世界は愛と優しさに溢れている。これが温かい人間社会の現実だ。ただ、それが今は地下水脈となっており吾々には地表に表れた憎悪の流れしか見えなくなっている。両方の現実を見なければならない。80年前の英仏米などの帝国主義国家、独伊日などの強力政治(ファシズム)国家、共産主義国家蘇の三つ巴の対立が激化する憎悪の時代はドイツがポーランドに侵攻する1939年から1943年にかけて頂点に達した。その後1945年までにファシズム国家群が崩壊し、憎悪の時代は終わった。しかし、束の間の平和は、冷戦に取って代わられ、新たな憎悪の時代を迎えた。原因は相互不信だ。警戒心は人間が生物として持たなければならなかった当然の感情であるが、本来人間同士で過度に抱くべき感情ではない。その結果は、どう考えても良いものではない。歴史上、警戒心を抱くべき相手を間違えていたと思われるケースは少なくない。アヘン戦争前夜、清が警戒すべき相手は、イギリスであったが、清が警戒していたのは西方や北方の騎馬民族だった。海を越えて深刻な脅威が迫るということは想像を絶する事だった[1]。北朝鮮、中国、韓国、ロシアなどなど、日本国民が警戒心を抱く相手は多いが。最大のもっと身近な敵を見逃していないか?さてと、80年前に戻るか。前回に引き続き『近きより』のアンケートを見ていこう。<アンケート> 公私の生活において 一、最近愉快だったこと 二、最近不愉快だったこと 三、その他の偶感80年前の5月から9月にかけて日蘇間で戦われたノモンハン戦争は、当初満蒙国境紛争と呼ばれ詳しく報道されていなかったが、航空戦の戦果は華々しく報じられていた。「撃墜一千機突破 関東軍発表 又も九十七機屠る」(「東京朝日新聞」三九年八月一三日付)。広 瀬 雄一、ハルハ河畔の敵機撃墜。 ――府中第三高等女学校々長、もと府立第三中学校々長――p.210 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>浅 原 六 朗一、満ソ国境で敵機撃墜の数が日毎にふえた事。p.214 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>両者とも愉快だったこととして、敵機撃墜を挙げている。撃墜された飛行機のパイロットは少なからず死亡したはずだ。敵だろうと味方だろうと撃墜は非常に不愉快な出来事である。「平和ボケ野郎が、戦争なんだから、敵が死ぬのはやむを得ないだろうが」という見方がある。そういう考え方が戦争がなくならない原因だ。吾々は戦争であろうが敵であろうが人を殺せば、殺人だという、真っ当な感覚を維持したい。あいつは敵だから殺せという国家があるとすれば、吾々はその国家を相手にするべきではない。航空戦は当初、日本が優勢であったが、その優勢も後半には覆される。航空戦についても戦車戦と同様のことがいえるのだが、ソ連は量の面だけでなく質においても日本を大きく引き離していた。六月から七月初旬の時点では、ソ連のI-16戦闘機は日本の九七式戦闘機に太刀打ちできなかった。しかし八月攻勢の準備段階に、新型のI-16を導入している。胴体と風防の装甲を強化したこの新型に対して、九七式戦闘機の七・七ミリ機関銃でダメージを与えることは不可能だった。p.209 スチュアート・D・ゴールドマン『ノモンハン 1939』ソビエト・モンゴル側の死傷者が、日本・満洲側を上回っていた可能性が高いことを理由にノモンハン戦争は勝利だったという歴史修正主義者もいるが、実態は全般的に時が経つほど量と質において劣勢に立ち敗北を喫していた。しかし、関東軍は負けを認めようとせず、戦闘を続けようとした。現代の歴史修正主義者も関東軍と同じように80年前の負けを認めようとしない。関東軍は大きく国益(どうでもよいものだが)を損ねた。現代の歴史修正主義者も、本人たちは愛国者のつもりだが、結果的には国益を損なう哀れな者だ。[1] 清はベトナム・台湾など南方海上の海賊に悩まされていはいたが、イギリスの脅威に比べるまでもない。ノモンハン1939 第二次世界大戦の知られざる始点 [ スチュアート・D.ゴールドマン ]価格:4104円(税込、送料無料) (2019/8/9時点)楽天で購入にほんブログ村
2019.08.08
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下丹生赤子Ⅰ遺跡では弥生後期の住居が29軒検出されている。このうち8軒の住居の土器が報告書に図版化されている。これらのうち7軒の住居の土器を分析した。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 遺跡の位置については以下参照。 鏑川流域(丹生エリア)の鏃分析 下丹生赤子Ⅰ遺跡の土器分類結果 下丹生赤子Ⅰ 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類最初に甕と壺の傾向を見てみよう。甕で一番多いのは A1Ra。輪積みがなく、やや開く口縁部を持ち櫛描施文の甕が多い。他にも3文字目が R:「櫛描施文」のタイプが目立ち、P:「縄文施文」が無い。1点のみであるが、S字甕が検出されている。やや高い位置に横刷毛が施され、内側に刷毛目はない。壺も櫛描施文が多く、縄文施文は1点に留まっている。在来系には見られない長頸壺 F3 が1点検出されている。甕と壺の類型毎集計〔左上〕44号住居 甕1 〔右上〕44号住居 甕5〔左中〕26号住居 甕1 〔右下〕38号住居 壺4〔左下〕26号住居 甕2鉢は3文字目 M:「直線的に開く」タイプが5点、N:「強く内湾する」タイプが3点。4文字目 a:「無彩」が5点、b:「赤彩」が3点となっている。〔左〕14号住居 鉢6 (A2Na) 〔右〕14号住居 鉢7 (A1Mb)高坏は先頭Dの「内湾の強い椀型杯部」を持つものがやや多く、後出的なE:「ハの字状に開く杯部」も見られるが、樽系のA、Bや吉ヶ谷系のCのタイプも存在している。器台は完形のものがない。脚部としたもののいくつかは器台だと思われるので実際はもう少し多くなるだろう。高坏、器台を通じて脚部は後出的な4:「ハの字状に開く脚部」、5:「大きく裾が広がる脚部」を持つものが多く、丸い孔を穿ち、無彩のものが多いという傾向がみられる。〔左上〕4号住居 高坏4 (B7Na) 〔右上〕14号住居 高坏8 (E??a)〔左中〕66号住居 高坏3 (C??b) 〔右下〕66号住居 高坏4 (D5Oa)〔左下〕14号住居 器台11 (B???)図版は 富岡市教育委員会 2009『丹生地区遺跡群』《図版編》より。にほんブログ村
2019.07.17
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参院選が7/21に投開票となる。選挙制度というと一票の格差が問題視されることが多いが、おぢさんは小選挙区制の方が大きな問題ではないかと思っている。1人区では結構票が読めてしまう所が少なくないのではないか?住んでいる地域によっては、結果が分かり切ったどこかの国の選挙のようになってしまう。これで、投票率を上げようといってもね。。。ほかにも1人区がある一方で東京都のように6人区もある。同じ選挙区選挙をやっているはずなのに地方と都会で全く性質が違っている。これも格差だよね。おぢさんとしては中選挙区制に戻すべきだと思います。政府が韓国向け半導体材料の輸出規制を強化すると発表した。自民党の選挙対策であるが、日本人にはおおむね受けが良いと思われる。実際は日韓双方にとって不利益であるばかりでなく、世界経済にとってもマイナスだ。日本の輸出規制強化、米中の貿易戦争と世界は自国第一主義によってブロック経済を志向している。約80年前の繰り返しとなっている。これは世界の民衆が過去を学び、それを踏まえた新たな思考の結果としての繰り返しなのか?それとも、単純に過去を忘れて同じような道を歩んでしまっているだけなのか。さてと、80年前に戻るか。前回に引き続き『近きより』のアンケートを見ていこう。<アンケート> 公私の生活において 一、最近愉快だったこと 二、最近不愉快だったこと 三、その他の偶感このアンケートにおいて、80年前の日本が如何に自由のない世界であったかが、図らずもにじみ出ている。今回はこの点に注目していく。清 水 桂 一三、「近きより」位はっきり言う新聞雑誌がもっと出来ないかしら。 ――料理、食料新聞主幹――p.192 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>『近きより』もカムフラージュや皮肉で、かろうじて政府や軍部の批判をしている。しかも伏字ばかりだ。どこが「はっきり」なのかという感じがするが、実際にこれが限界だったと思うと恐ろしい。中 山 久一、近来、社会批評家が時局便乗主義に成り下がって、何ひとつ腹の底から物の言えないでいるとき、貴紙八月号巻頭言、および近々抄に接するを得たことは、酷暑の驟雨、爽快無類でした。 ――私立共立薬学専門学校独逸語教授――p.192 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>近頃は、腹の底から物を言うと「シンゾーバンザーイ」となる批評家ばかりがテレビに出ている。強要や忖度だけでなく、経営陣からしてシンゾー氏寄りが増えているようだ。10代、20代では自民党支持者が多い。現在でも与党が衆院の約7割、参院の6割を占めているが、与党はますます安泰だろう。堀 田 実 寛二、不愉快なことが甚だ多いのですが、公私生活に及ぼす影響が恐ろしくて言えません。文字通り言語道断です。之れが更に不愉快です。 ――筆者は東京区裁判所判事――p.196 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>雑誌のアンケートに素直に答えると何をされるか分からない世の中だった。氏の場合、不用意なことを書いて判事の職を解かれたりしたら、たまったものではないということだろう。萩 原 達 厚サを誇り、執筆スタッフをじまんし、発行部数に鼻をうごめかす雑誌は有るが、真に胸を打つ底のものは稀な現在、本誌が身をもって書かれ、測々として人心の奥所をゆりうごかす真剣味を持っていることは真に敬服に堪えません。剣と同じようにペンも強い力のあることを実証し、フラフラ腰のジャーナリズムと国民を愚口して省みぬ傾向の多い××を思い切り叱りみちびいていただき度いと思います。不愉快なことが余り多くて書き切れぬ気持ちです。 ――筆者は通信局、「通信だより」編集者――p.196-197 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>今になって『近きより』を読んでもあまり分からないかも知れないが、当時にあって政府批判、軍部批判のタブーに挑むこの雑誌は命懸けであった。『近きより』はたびたび発禁を食らい、正木は後に憲兵隊の呼び出しを受けた。尾 佐 竹 猛二、自由主義の排撃ということ程不愉快なことはありません。 ――法学博士、大審院判事――p.198 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>最近、当時の日本は自由な民主的な国家だったというプロパガンダが喧しい。実際は自由と民主主義の敵だった。その事実を覆い隠さんとする試みは、警察国家日本を取り戻そうという試みの一環だろう。金 子 白 夢三、御誌の正木兄の筆は痛快、全く痛快だ。時に痛罵骨に徹することがあって愉快。「近きより」を手にする毎に痛快を連発する。《略》 ――筆者は名古屋組合教会牧師、東洋哲学の権威――p.201 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>『近きより』大絶賛だが、裏返すと『近きより』レベルの批判は全く封じられて、貴重な存在になってしまっていたということだろう。今『近きより』を読んでも、痛烈ではあるが、過激でも口汚くもない。横 山 光 彦二、近頃不愉快だったこと。先頃挙行された奉天の滅ソ排英大会には強制的に出席せしめられた。 ――筆者は奉天高等法院判官――p.219 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>動員が掛かって大会に強制参加。非民主国家そのもの。久留島 秀三郎二、何と不愉快なる事の多き、『すべからず』『すべからず』此れでは愉快な世にはならぬ。 ――筆者は岸本鉱業株式会社専務、「印度・印度支那」、「馬賊を語る」等の著あり――p.223 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>統制で不愉快な思いをしているという回答も散見される。言論が不自由であるばかりでなく、行動も不自由な国家となっていた。こんな、不自由な国で最大限、自由な主張を展開していた正木氏の身を案じる回答もいくつかあったので一つ紹介する。都 河 龍 御誌は毎号至極面白く拝見しています。今の御時勢には腹で思っていても、口には出せないことが沢山あります。それを勇敢に言い切っておられるのには寧ろ驚いています。併し一歩を過って飛んだことになられはせぬかと、その点を恐れたり、陰ながら御心配したりしています。 ――筆者は「婦女界」社長――p.227 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>不自由な非民主主義国家日本を伺わせる回答が多いが、最近の「当時の日本は自由な民主的国家であった」説を信じるのは自由だ。「米中戦争の次は日韓戦争か? 拙速な強硬策は禁物だ」湯之上 隆(JBpress)ニホンオオカミは消えたか? [ 宗像充 ]価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/9時点)楽天で購入にほんブログ村
2019.07.07
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反送中、撤回控罪、加油香港自給のために今年から稲を育てている。おぢさんの地域では5月頃まで雨不足で、水が来ないために田植えが出来ずに困っていたが、梅雨に入ってからは順調に雨が降り、おぢさんの田んぼもようやく田植えが済んだ。6月中旬の田んぼ最近、連日のように高齢ドライバーによる事故や、杉良太郎氏や尾木ママの免許自主返納などが報道されている。こうして高齢ドライバーが自主返納を検討するように促されることは大変よいことだ。問題は、本当に返納しなければならない人こそ判断力が衰え、運転を辞める時期の判断ができなくなってしまっていることだろう。政府が高齢者向けの限定免許案を検討していることや東京都のアクセル踏み間違い防止装置助成といった動きを歓迎したい。選択制の限定免許は実効性が乏しいという批判もあるが、できることからでも手を付けるべきだ。こうしたことが報道されることにより高齢で運転するということが非常識だという認識が定着する効果がある。とはいえ、まだまだ「運転するな」≒「死ね」となってしまう現実がある。高齢者に運転させないという政策以上に、運転しなくても生活できる社会づくりこそ本道で力を入れなければない。免許自主返納者に対する支援制度や多くのスーパーが配送サービスを行うようになるなど、自動車がなくても暮らせる社会への動きも徐々に進みつつある。高齢者が乗客のライドシェア(白タク)を解禁すべきだ。政府は白タク規制の緩和を検討しているが、共産党は反対している。ここは反対のしどころではない。さてと、80年前に戻るか。今回は『近きより』恒例のアンケートを見ていく。<アンケート> 公私の生活において 一、最近愉快だったこと 二、最近不愉快だったこと 三、その他の偶感愉快だったこととして「日英会談」で日本語を使ったことと回答している人が多い。例えば。古畑 種基一、日英会談に公然日本語を使用した事。日本人は如何なる場合にも「日本語第一主義」たれとは 十数年来の小生の主張。p.191 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>長谷川 誠也一、近頃、頗る愉快に感じましたのは、日英会談に日本語が用いられた事でございまず。p.200 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>久保 良澄一、近頃愉快だったこと――先頃の日英会談が、遂に不調に了った事は遺憾であるが、然し此会談に日本語を以てしたことは近年の快事である。p.233 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>ここでいう日英会談は、天津事件について話し合うためのものだった。天津事件とは『近きより』文庫版では以下のように注釈されている。一九三九年四月九日、天津のイギリス租界内で発生した、親日派中国人・程錫庚暗殺事件の犯人引渡しを要求する日本側に対して、イギリス当局はそれを拒否。そのため同年六月一四日、日本軍が報復措置として、天津のイギリス租界の完全封鎖を強行したもの。p.170 『近きより2』日本に犯人を引き渡すということは、イギリス租界を支配するのは日本だというようなものだ。イギリス当局が要求に応じるわけはない。香港が容疑者引き渡しを認めるとすれば、香港を支配するのは中国だと認めることになる。香港の自治、一国二制度はそこで終わってしまう。会談の本質ではないものの、日本語使用は当時の日本人の自尊心をくすぐったのだろう。ただ、交渉は8月21日に決裂した。交渉自体に注目した人は英国の交渉姿勢に不満を感じた者が多かったが、中村屋のボースとして有名なボース・ラスビハリは日本の姿勢を不満に思った。ボース・ラスビハリ二、日英会談に於て、日本側から英国に提供した要求は、我輩に最も不愉快な感を抱かせた。我輩から言わせれば日本として「東亜新秩序建設主義」に基づいて、英国に対し支那から彼の総退却を要求したならば日本は全アジアの総意を代表しアジア復興に大いに貢献する事が出来たであろう。然し日本は犯人の引渡、治安、経済等のささいの問題のみにとどまり、大をすて小のみに固執したので、新秩序建設主義の建前から見ればこの会談に用いた日本の政策は大なる失態である。p.203 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>頭山満など右翼や革新右翼の中には本当に亜細亜の開放を願い活動する人間は少なくなかった。しかし軍隊を含めた日本全体の姿勢は解放者とは程遠い。東亜新秩序とは結局のところ日本による半植民地化である。Fears Hong Kong protests could turn violent amid calls to 'escalate action' (The Guardian)Hong Kong lets protesters' deadline to scrap extradition bill pass, setting stage for further demos (Reuters) 75歳以上の運転免許返納がまるで進まない実態(東洋経済オンライン)水を守りに、森へ 地下水の持続可能性を求めて (筑摩選書) [ 山田健 ]価格:1620円(税込、送料無料) (2019/6/20時点)楽天で購入にほんブログ村
2019.06.20
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南蛇井増光寺B区の土器を分析した。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 南蛇井増光寺エリアB区の土器 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類縄文施文はやや少なく櫛描施文が多い。滑らかな頸部の形や文様などに科野的なものがたまに見られる。全体的な傾向は、南蛇井増光寺C区と同じだ。問題は、なんといっても南蛇井増光寺遺跡では唯一となるS字甕だろう。B168号住居(上表では「台付甕 F2」)から出土している。S字甕は口縁部破片と台部破片を同一個体とみなし、台部のハケメがなで消されていないことからF2として分類した。復元すると高さ30cm程度のS字甕になるだろう。出土位置は他の土器の多くが床密着か低い層位からの出土の中、口縁部は覆土からの出土し、台部は床面+5cmで出土している。この住居の図化されている土器は9点で、あまり多くないうえに完形のものはない。B-168号住居のS字甕B-168号住居の土器S字甕が出たB168号住居の他の土器を見ると、櫛描波状文の樽式の3期以降で特に新しいものという印象はないものの、よく見ると少し特徴がある。左上の甕2は頸部は簾状文ではなく波状文が3連止めとなっている。また櫛は多めの9本単位となっている。右上の甕3は簾状文はなく波状文のみだが、珍しいものではない。甕4は頸部輪積で波状文が頸部に施文されている。6は高坏の杯部で口縁部の水平の広がりはない。7は無形壺的な形のミニチュア土器。今回分析対象とした住居はすべて、南蛇井増光寺遺跡の報告書でV期とされている住居である[1]。Ⅴ期は外来系特に北陸系土器の共伴が目立つ時期とされている。おぢさんは正直なところ、在来系の土器はいわゆる樽式の3期の段階とあまり区別がつかない。ということでこの段階の樽式土器を少し観察しておきたい。B-22号住居の土器2は無節の縄文。この時代、無節の縄文がやや多い印象がある。4は頸部に2連止めの簾状文が施されているが、櫛の一単位が異様に太い。細かく本数の多い櫛と、このように太い櫛が共存している。5は乱れて疎らな波状文。B-61号住居の土器1は簾状文がやや離れて2段になっている。上は4連止め、下は2~5連止めの不規則な簾状文が施されている。4は吉ヶ谷式の系統らしく頸部の括れがほぼない。似たような形の高坏が2点(7、8)出土している。樽式によくある深い杯部と、後の時代に典型的な大きく広がる杯部の中間的な形をしている。この中間的な形がこの時代に一般的であったとすれば時系列的に違和感がない。[1] 以下参照。 群埋文 199X『南蛇井増光寺遺跡Ⅰ』 全体図 群埋文 1997『南蛇井増光寺遺跡V C区・縄文・弥生時代 本文編』p.722にほんブログ村
2019.06.12
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少女、父に向い、 「お父さん、本当のことを言ってはいけないんですってね」p.178 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三「近々抄」のコーナー末尾が唐突に、この少女の問いかけで終わっている。これだけでは何のことか分からないが、本当のことが言えない世の中であったということだろう。この号の「近々抄」は、不自由な社会を批判し、自由で、自主的且つ活力ある人間を求める文章が多いことに気付く。自分の犯す不始末を蔽わんために言論に不当な圧迫を加えるものは、陛下の行政上の大権を私するもので、不忠この上ないものである。p.177 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三言論の自由は何を措いても重要だということだ。最近維新の丸山穂高衆議院議員が国後島の宿舎でビザなし交流訪問団の大塚団長と以下の会話をして、維新を除名処分された。野党6党派は17日、辞職勧告決議案を衆院に提出した。与党はこれには同調せず、21日譴責決議案を提出した。丸山氏「団長は戦争でこの島を取り返すことは賛成ですか、反対ですか」団長「戦争で?」丸山氏「ロシアが混乱しているときに取り返すのはオッケーですか」団長「いや、戦争なんて言葉は使いたくないです。使いたくない」丸山氏「でも取り返せないですよね」団長「いや、戦争はすべきではない」丸山氏「戦争しないとどうしようもなくないですか」団長「いや、戦争は必要ないです」丸山議員は明らかに、戦争をしてでもこの島を取り返すべきだ、という自論への同調を求めている。与党議員や自民党支持者の本音、彼らにとっての本当のことを口にしただけである。実際「丸山議員がんばれ~」という応援の声や、「本当のことでも言ったらダメなことはあるね。でも丸山議員には頑張ってほしい」など同情的な声が多い。おぢさんは、国境問題は国家の希薄化(ビザなし交流もこの方向だ)で解決すべきであるし、戦争は人殺しであるという事から、丸山氏の戦争志向には反対である。しかし、法的拘束力はないとはいえ国民に選挙で選ばれた議員を辞めさせるというのはあってはならないことだと思う。維新の生みの親、橋下徹氏は丸山氏について「選挙で落選させて現実を認識させた方がいい」と言ったそうだが、現在の列島住人による選挙では当選するのではないか。今でこそ、この発言が問題になっているが、こういうタカ派の過激発言が頻出しているうちに問題発言では無くなってゆく。戦争しても取り返せないという、軍事力の現状を変えるために核武装をし、国防費を大膨張させるべきという主張が幅を利かすようになる。その頃には丸山氏は総理大臣になっているかもしれない。おぢさんは、適正な防衛力の存在の可能性を否定するものではない。しかし、日本に於いてそれを過度に膨張させないことは困難だろう。80年前と何か変わったというのか?80年前にも抑制的な防衛政策を志向した軍人、政治家、一般市民は決して少数派ではない。それでも結局、タカ派の暴走を止めることはできなかった。そもそも、現代の日本人は軍部の暴走を否定する傾向がある。日本は彼らのような過激派に引きずられることになる。今回が初めてではない。戦前に実際に起きた事である。にほんブログ村
2019.05.26
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花ノ木遺跡、午王山(ごぼうやま)遺跡、吹上遺跡。これらは新河岸川の右岸、和光市にある環濠集落である。出典:国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/#14/35.795713/139.627304/&base=std&ls=std%7Cd1-no865&blend=0&disp=11&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1)地理院タイル(デジタル標高地形図)「東京湾」【技術資料D1-No.865】に遺跡名を加筆。花ノ木遺跡から午王山遺跡、午王山遺跡から吹上遺跡、それぞれの距離は500m程度で近接している。地形図から分かるように、吹上遺跡と花ノ木遺跡は舌状台地上に、午王山遺跡は残丘上に集落が存在していた。各遺跡の概要は以下「和光市歴史の玉手箱」で紹介されている。 花ノ木遺跡(和光市歴史の玉手箱) 午王山遺跡(和光市歴史の玉手箱) 吹上遺跡(和光市歴史の玉手箱)花ノ木遺跡周辺。番号の各位置で写真を撮った。①の地点の標高が8m程度、遺跡の地点が28m程度で周囲の平地からの標高差は20m程度である。①この交差点を右折して、坂を上ると花ノ木遺跡のある台地上に出る。坂の途中には新倉氷川八幡神社があり、坂には宮坂という名がついている。②遺跡のあった台地上から南西方向を眺める。急な坂になっている。③遺跡のあった台地上から北東方向を眺める。急な坂になっている。④遺跡のあった台地上から北東方向を眺める。急な坂になっている。⑤遺跡のあった台地上から南西方向を眺める。急な坂になっている。⑥遺跡のあった台地上から南南東方向を眺める。この方角のみ、ほぼ平坦になっている。左右の路地に入るとすぐに坂道になっており、細い台地の先端部分に集落が営まれていたことが分かる。午王山遺跡周辺。番号の各位置で写真を撮った。①の地点が標高10m程度、遺跡が標高25m、午王山の北側が標高5m程度となっており、平地との標高差は15~20m程度である。①南方から午王山遺跡のある丘を見上げる。②車で午王山の上に出るには、西からこの午王山通りを登るルートしかない。弥生時代もこの西側からの道がメインルートだろう。正面に小さくて見にくいが小さな社、狭間稲荷神社がある。③狭間稲荷神社あたりから北の方向を眺めると、このとおり急な下り坂になっている。④狭間稲荷神社から②の坂を上から眺めた様子。⑤午王山の台地上から南の方向を眺める。向いの台地上にはマンションが見えるが、その手前には谷が広がっている。午王山は南北は崖、東西も急傾斜で切り立っており、平地上に浮かぶ巨艦のようなイメージだ。⑥午王山遺跡の遺構配置図。2重の環濠が集落をめぐっているのが分かる。西の方にも一条の環濠が一部見える。現地案内板では3重の環濠の可能性もあるとしている。おぢさんは、弱点である西側を強化する後世でいうところの堀切であると思うがどうだろう。吹上遺跡周辺南を流れる白子川から一段上がった平地から吹上遺跡のある丘の方向を写したのが①の写真。遺跡標高が23m程度、①の地点の標高が7m程度、あたりの白子川が標高2m程度となっている。下の平地からの高低差は15m程度で、細く台地が延びている南西方向以外は急な斜面に囲まれている。①南から遺跡のある丘を望む。この写真ではわかりにくいが、実際に眺めると高低差が明瞭。②路面のすべり止めが物語るように、南西以外はすべてこのような急斜面を登らなければ、集落に近づけない。③北側から遺跡のある台地上へ向かう道。花ノ木遺跡の近くには宮坂、とう火坂という坂があり。吹上遺跡の近くには稲荷坂、妙典寺坂という坂がある。午王山は文字通りの山であり、地名に遺跡付近の地形の険しさが現れている。これらの遺跡の周囲との標高差は15~20m程度で高地性集落の基準には全く及ばないが、午王山遺跡の環濠が最大幅2.9m、最大深さ1.7mであることを考えると、やはり元々の地形こそが防御の主力であることは間違いないだろう。南通遺跡でも見たように、環濠は補助的な役割であり、メインは自然地形であることを、この度の環濠集落遺跡めぐりで確信した。にほんブログ村
2019.05.13
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今から80年前、1939年5月11日、満洲国とモンゴルの国境で衝突が起きた。これがノモンハン戦争の発端だった。5月15日には日本の軽爆撃機がモンゴル領内のモンゴルの国境警備隊に空襲を加えた。5月28日にはハルハ河東岸のソ連側陣地に攻撃を仕掛け、双方約2千の兵力が激突し、この戦闘で日本側は東支隊約200名が戦死したほか、山県支隊も159名の死者、119名の負傷者を出し、ソ連側も死者138名、負傷者198名を出している。このほか満・蒙国軍も多数の死傷者を出したと思われる。当時の新聞を見ると、毎日のごとく日中戦争の戦果を報じ、重慶政府の終わりも近いような希望的記事も出ている。ところが中国大陸は無限の空間なのか、どれだけ勝ちを収めても日中戦争は実際には終わらなかった。新聞を読んでいても世界は理解不能だ。我々は現代の世界をどれだけ理解できるのか。日中戦争を戦っていた80年前の世界を理解できるのか。山本夏彦氏によれば、「戦前のまっ暗史観」は左翼の嘘だそうだ。たしかに、戦前の日本を別世界として連続性を否定してしまうと、戦前の日本を想像することも難しくなるし、事実からほど遠くなる。「戦前のまっ暗史観」といって昭和六年の満州事変から敗戦までの十五年まっ暗だったというのは左翼の言いふらしたウソである。なるほど社会主義者とそのシンパは、特高に監視されてまっ暗だったろう。けれどもそれは一億国民のなかの千人か五千人である。満州事変はこれで好景気になると国民は期待し歓迎したのである。はたして軍需景気で失業者は激減した。まっ暗なのは昭和十九年第一回の空襲からの一年である。飢えかつえたというが、都民は近県に買出しに行ったのである。農家は十分に食べてなお売るべき米を持っていたのである。ウガンダの母子のように、真に餓死に瀕したものは一人もいなかったといくら言っても食いものの恨みは恐ろしい、私はマクロの話をしているのに読者はミクロの話を持ち出して激怒するのである。戦前という時代を再現するには断続して何回か何十回か言わなければならない。p.152-153 山本夏彦『世は〆切』山本氏もまっ暗と認める最後の一年でさえ、戦争はどこ吹く風で別世界での出来事というような場所も少なくはなかった。福井市から、北陸本線で駅二つ目の春江町は、まったくの別世界。戦争は、なにより紡織機供出という形で、住人に襲いかかったが、以後、若者の出征を除けば、《中略》生命辛々、西宮から辿りついたぼくは、とりあえず、女がもんぺをはかず、老人浴衣がけ、道に壕はなく、なにしろ、つけっ放しのラジオから洩れる音は、遠い地域の警報を伝えるが、町をゆるがすサイレンの音がない、聞けば、敵機の機影を誰も目にしていない。《中略》春江の、低く貧しい家並みは、やはりやさしい。戦争などどこでやっているのかといわんばかりの、老人、女子供、本来なら、すでに国民義勇兵法施行され、彼らの多くも竹槍刺突訓練のはず、いっさいうかがえぬ。そもそも防火用具がない。p.23-25 野坂昭如『終戦日記を読む』日中戦争、太平洋戦争は巨大な戦争だった。場所により、人により状況も変わってくる。東日本大震災が、体験した人間の数だけの多様な東日本大震災であったのと同じように、個人的な多様な戦争観が生まれる。山本氏の言うようにマクロ的な抽象か、あるいはミクロ的な体験でも何十となく搔き集めるしかない。相矛盾するような内容も、嘘ではなく、そう見えたということが多いのだろう。そうやって当時の情報を飲み込んでいくと、当時の風潮(その一部かもしれないが)が見えてきて、自分が80年前にいるような感覚になってくる。「一日戦死」のスローガン、縁起でもない、まるで敗戦予想の稽古みたいな、民衆のサイコロジーのわからぬ連中のやること概ねかくの如し。政治の貧困の一例。p.170 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三戦死した(国家に利用されて殺された)人間を英雄に祭り上げ、英雄になりたいという馬鹿どもを煽った張本人が兵役を逃れ安全なところに身を置いていた。当時の新聞を見ると戦死者をひたすら称賛、神格化する記事が並ぶ。またぞろ、そういう空気が日本に復活してきている。本当かうそか、軍部の意向というものはよく聞くが、国民の意向というものはよく聞かない。軍部の責任は重大である。p.171 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三軍部に対する警戒心を持たず、軍部の容喙を容認してきた国民の自業自得といえばそれまでだ。そもそも、主権者としての意識が国民に皆無なのは戦前戦後の連続性といえるだろう。己も苦しんだのだから、お前も苦しめ、己も撲られたんだから、てめいも撲る、というような根性は日本を世界的に高めていく心理状態ではない。p.173 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三大学出だというと殴られる。新兵が部隊に配属されるとまず殴られる。これぞまさしく日本文化だと感じる人も少なくないはずだ。あからさまな暴力は少しは減ったのか、陰に隠れて陰湿化したのか知らないが、根性は昔も今も変わらない。断髪令、パーマネント禁止令、いよいよ学校長に通達さる。p.176 昭和14(1939)年「四、近々抄」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三禁止、統制、配給。当時の新聞でよく見かける言葉だ。弱い敵と見縊っていた中国と戦っているのに戦時体制。戦前は真っ暗ではないにしても、暗雲立ち込める時代というのが公平だろう。にほんブログ村
2019.05.11
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黄金週間旅行は和光市周辺の博物館と遺跡を巡り歩いた。埼玉県の南部、荒川の右岸の富士見市や和光市周辺には環濠集落が集まっている。星印が環濠集落。まず富士見市の弥生後期の環濠集落である南通遺跡周辺を歩いた。薄緑の★が南通遺跡。概要は以下のページを参照。南通(みなみどおり)遺跡(富士見市)南通遺跡の復元住居(弥生時代)(ココシルふじみ)富士見市遺跡地図(埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ)南通遺跡が所在する針ヶ谷2丁目付近の地図。丸囲い数字は写真を撮った場所。環濠が現地図上のどこを廻っていたのかは今後しらべたい。集落はいわゆる舌状台地上に営まれていた。東南には柳瀬川が流れ、その河川敷から台地上面まではきつい勾配になっている。付近の柳瀬川標高が6m、台地上の針ヶ谷小学校前交差点辺りが標高19mなので高低差は13m程度。弥生人の生活の場として考えた時には、柳瀬川に流れ込む小川が一番魅力的だったのだろう。人力で田んぼをやるには、簡単に堰き止めて田んぼに水を引き入れられる小川があり、その周りに水を順次入れられる緩傾斜の土地があるのが理想だっただろうと推測する。デメリットとしては台地上なので生活水は得にくく、すぐ近所ではあるが水を汲むためにそれらの小川まで下りる必要があっただろう。環濠集落ということで防御面に注目すると、東南に流れる柳瀬川と河岸段丘は非常に堅い守りとなっていることが分かる。遺跡の南西側は、谷津となっておりここもかなり防御に貢献するはずだ。その谷津の末端部分、針ヶ谷小学校の南は、現在は堀のような池になっている。遺跡の北側は目立った障壁はないが、先ほども触れたように、台地に降った水が流れ出す小川と付随する谷が幾筋もあったことは間違いない。さらに、北東に2Km程には新河岸川が流れており、その間には北通遺跡など弥生後期の遺跡が点在している。これらの集落が友好的である場合には、柳瀬川と新河岸川に挟まれたこの一帯を共同で防衛することも考えられるだろう。西側以外は天然の障壁に囲まれていたと考えることができる。台地上面の西側は水か得にくく、ほとんど人の住まない土地だったのだろう。後に閑地であることから、半島からの移民を入植させ、新羅郡や高麗郡が置かれたことも、それを裏付けている。西側からは、迂回してくる敵以外は考えられなかったかもしれない。このようにしてみてくると、環濠という人が作った溝と土塁によるたかが2・3メートルの高低差よりも、もともとの自然地形の方が大きな障壁であることに気付く。環濠は人工物であるために、中と外を区画(大抵は防御の為)する構築者の意識は明確であるが、実際の防御においては自然地形の果たす役割の方がはるかに大きい。環濠は弱い西側に対する守りなど、補完的なものだったのではないだろうか。おぢさんは以前、高地性集落として有名な富岡市の中高瀬観音山遺跡を紹介した。また、環濠集落として有名な高崎市の日高遺跡も紹介している。今回の南通遺跡は集落の地形に注目すると、中高瀬観音山遺跡に近く、後世の平山城に通ずるものがあると思うのだがどうだろう。環濠集落についての議論で以前から思うのは、もっと立地に注目すべきだということだ。日高遺跡のように特筆すべき自然地形がない(それでも、やや離れて東側に染谷川、更に東に利根川がある)ところに環濠集落が営まれるケースはまれで、高低差のあるところ、やや大きな河の流れる所を選んで集落を築いているケースが多い。われわれが、住む場所を選ぶ際に、職場に近いとか、自然災害に対する安全度、親の住む場所などの歴史的経緯など様々な条件から総合的に判断するように、弥生人たちも様々な条件を勘案して住む場所を選んでいたはずだ。この南通遺跡の場合も含め、住処選びの一番の条件は、稲作などの生業を営むのに適しているかということだろう。それは当然として、防御に適した土地であるか、ということも弥生後期の毛人たちが住む場所を選ぶ際に重視していた点であることは間違いない、とおぢさんには思える。①西方の台地上に向かう道。河岸段丘をなしている。自然による変化、人為的な改変、成形など当時の風景とはかなり変わっているだろうが、何段かの崖があり、台地に切り込みを入れる幾筋かの小さな谷が所々にあるという地形が自然と想像できる。②同じ場所から南西方向を写す。土留で成形されているが、もともと崖だろう。人工の環濠とは比べ物にならない障壁だということが納得できるだろう。③崖の下には、また段差がある。④柳瀬川の対岸から、集落の方向を望む。東または南からの敵は、この河を渡り、自然堤防を乗り越え、台地から流れ出す小河川を渡り、先ほどの崖をよじ登り、環濠集落を攻撃しなくてはならない。⑤暗渠から柳瀬川に流れ出す小川の出口。小学校の南の池から通じているようだ。⑥暗渠出口から柳瀬川に注ぐ小川を眺める。丁度、環濠のV字型の溝くらいの規模。⑦左に小学校の南側の池が見える。池の対岸が崖になっている。当時のままではないとはいえ、防御に向いた地形だったのは変わらないだろう。⑧小学校の北東側のやや曲がった道路。もとは沢だろうか?⑨小学校の入り口にいきなり竪穴式住居。ご先祖様?が見守る学校。⑩の位置から北西方向を見る。池から続く窪地となっている。環濠などなくても、十分防御力の高い地形であることが納得していただけただろうか。環濠はこの天然の要害を補完しているに過ぎない。勝手に命名すると、平山城集落と呼ぶのが相応しい。にほんブログ村
2019.05.04
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「令和」が良いの悪いの以前に、元号要らない。天皇制要らない。という議論が盛り上がらなかったのは遺憾であった。消費税増税が10月に予定されている。今まで2回の増税の好機を政権の都合でやり過ごした。先のことは分からないので、どうせ上げるのならば、上げられるタイミングで上げておくべきであった。最悪のタイミングにならなければ良いが、保証の限りでない。列島住人は危険な賭けに付き合わされている。桜田大臣が事実上更迭された。「被災地より議員」発言は勢いで言ってしまったものだろう。気の毒と言えば気の毒だ。結果的に本音と違う発言になってしまうことはある。夫れよりも気になるのは「物分かりがいい」という塚田一郎国交副大臣の忖度しました発言だ。本当のことを言ったら辞めさせられてしまった。大臣も官僚も、官邸の意向を忖度ばかりしているという誰もが知っている事実を述べたまでだった。後の釈明会見で「事実ではなかった」と嘘をついたことの方が余程問題である。本当のことが言えないというのは、いやな世の中になったものだ。加計、森友、下関北九州道路、利益誘導ばかりやっている現内閣だが、内閣支持率は上昇して50%程度らしい。国民が安倍氏や麻生氏が利益誘導する分には構わない、というのだから好きなようにやらせておいた方が良い。さてと、無駄話はこれくらいにして80年前に戻るか。80年前(1939年)の4月、関東軍作戦参謀の辻政信少佐が「満ソ国境紛争処理要綱」を起案した。満ソ国境ではそれまでも小競合いが度々発生していたが、この要綱は一時的にソ連領内に侵入することも辞さない強硬なものだった。5月、国境線係争地域のノモンハンで外モンゴル軍と満州国軍の間で衝突が発生し、小松原道太郎中将率いる関東軍第23師団は、要綱にもとづいてソ連・モンゴル軍を撃破すべくノモンハンに進出し激しい戦闘が繰り広げられた。ノモンハン戦争は『近きより』にも関連する記事が出てくるので、そのときまた取り上げる。杭州から上海への汽車で、正木氏は乗り合わせた日本人の商人と話をする。《商人は》杭州に店をもってこの汽車で筍を荷車一台上海へ卸しに行くのだという。二三年前に蘇州の支那人と知り合いになったら、その人が信用してくれて、友達を沢山紹介してくれたので、それからそれへと手を拡げることが出来、今では農産物を青島の方まで出しているという。その人は支那人の友情の厚いこと、人を信用することの大なることを讃えて、とうてい日本人にはあの真似は出来ないといっていた。いい話をきいたと思った。p.145 昭和14(1939)年「近きより 二 杭州行」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二オレオレ詐欺とか還付金詐欺とかアポ電とか、なかなか人を信用できない世の中だが、やはり基本的には人を信用したい。日本人もちゃんと基本的には日本人を信用している。それがどうも仲間内だけに限られてはいないか。中国人は○○、韓国人は××、アメリカ人は△△。日本人以外となると途端に別の生き物扱いするのはそろそろやめにしたいものである。奉天の同善堂こそは、北大営を見なくとも見なければならない。棄子の養育場だ。日本人が建てたのではない。五十数年前に支那の一富豪が全財産をなげうって設立したものだ。何のむつかしい規則もない。自分に育てることのできない嬰児を、夜そっと来て小さな窓口の中へ入れておくと一人前になるまで、無料で育ててくれるのだ。奉天には一人の嬰児殺し、貰い子殺しもない。 日本では刑罰で解決しているところを、奉天では慈悲で解決している。p.168 昭和14(1939)年「三、大陸スナップス」『近きより2』第三巻第七号<八月号>大陸紀行号 その三当時、日本は中国と戦争をしていたが、大陸を紀行して、正木氏は中国人の良いところを見るようになったようだ。おぢさんも自民党や安倍氏の良い点をみるようにしたい。既に世界一などとほざく輩は、国民を愚にする最悪性の亡国奴と言わなければならない。p.150 昭和14(1939)年「巻頭言」『近きより2』第三巻第六号<七月号>大陸紀行号 その三今の日本は最悪性の亡国奴にあふれ、最悪性の亡国ネット網と亡国番組で亡国情報を連日連夜垂れ流している。その中にあっておぢさんは救国活動に勤しんでしまっている。物事を突きつめて考え、考えたことを実行することは、一般日本人には向かないらしい。困ったことです。p.164 昭和14(1939)年「6」『近きより2』第三巻第六号<七月号>大陸紀行号 その三いやいや、仕事のことばっかり考えている仕事人間や、スマホゲームを突きつめている人間。一般日本人もバカにしたものではないと思うが、政治・歴史は一部マニアばかりが熱心で、そもそも関心のない人が多いように感じる。なんとか生きてゆければ、そんなものは時間のムダというのも分からないでもない。にほんブログ村
2019.04.15
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以前分析した中高瀬観音山遺跡の東に所在し、互いに近い距離にある3つの遺跡(下高瀬上之原、内匠日向周地、内匠日影周地)の土器をまとめて分析した。中高瀬観音山のシートに追加して集計を行った。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 中高瀬観音山(含む下高瀬上之原/内匠日向周地/内匠日影周地) 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類3つの遺跡の位置関係は以下のようになっている。「遺跡位置およびグリット配置図」[1] 《拡大可能》 1.下高瀬上之原遺跡、2.内匠日向周地遺跡、3.内匠日影周地遺跡、4.内匠上之宿遺跡弥生後期~古墳前期の各遺跡の住居址は、下高瀬上之原遺跡が古墳前期の住居4軒、内匠日向周地遺跡が古墳前期の住居1軒、内匠日影周地遺跡A区が弥生後期の住居11軒、内匠日影周地遺跡B区が弥生終末期の住居1軒をそれぞれ検出している。各住居からどのようなタイプ土器が検出されたのか見ていく。住居毎の土器類型別集計中高瀬観音山216、下高瀬上之原4、内匠日向周地11の3軒の住居はいずれもS字甕(F類の台付甕)を検出しており、その特徴から順序が分かる。下高瀬上之原4(F1, F2)→中高瀬観音山216(F4)→内匠日向周地11(F6)という順序は間違いないと思われる。〔左上〕下高瀬上之原4甕1(F1) 〔中〕中高瀬観音山216甕1270(F4) 〔右〕内匠日向周地11甕16(F6)〔左下〕下高瀬上之原4甕3(F2)3つの住居はS字甕の3つの段階を代表していると見做し、各段階の様相を考えていく。下高瀬上之原4(F1, F2)では単口縁平底甕G3が新しい印象だが、在来系の甕A1Oa、B1Paが検出されている。A1Oaは上丹生屋敷山のYA240甕1などと同じく在来系の文様が欠落したものだろう。B1Paの縄文は口縁部に僅かに施されるのみである。また底部のみの出土で千種甕か月影甕か判別できないが、この段階では北陸系が共伴していた。またこの段階には東海系の高坏G4Oaが伴っている。〔左〕下高瀬上之原4甕15(A1Oa) 〔右〕下高瀬上之原4甕16(B1Pa)〔左〕下高瀬上之原4甕8(D1) 〔右〕下高瀬上之原4甕10(G3)〔左〕下高瀬上之原4高坏18(G4Oa) 〔右〕下高瀬上之原4高坏19(?4Oa)中高瀬観音山216(F4)では単口縁平底甕はG2が1点、G3が3点出土しており、G3主体の段階か。鉢はB1とB2が2点づつでB1-B2の過渡期だろう。中高瀬観音山216の土器は以下リンク参照。 中高瀬観音山(中高瀬観音山エリア)古墳前期土器編年内匠日向周地11(F6)では単口縁平底甕はG3が3点で一番多いが、G4も2点出土しており、G3からG4への過渡期だろうか。G9Naの高坏が5点出土しており、時期的にF6段階のS字甕に対応するものと考えてよいだろう。〔左〕内匠日向周地11甕11(G4) 〔右〕内匠日向周地11高坏6(G9Na)中高瀬観音山遺跡や今回取り上げた遺跡が所在する観音山全体をながめると、樽系や吉ヶ谷系の甕からS字甕の最終段階のもの迄が出土しており、弥生後期から古墳前期の期間、ほぼ継続して人が住んでいたことが分かる。F1からF2(どちらかといえばF2か?)段階の下高瀬上之原4号住居が在来系が残る最後の段階だったのかもしれない。この段階には北陸系の甕も伴っている。先述のように内匠日影周地遺跡には弥生住居が多数あるが、今回分析したB区2号住居よりも古い(樽式3期)と判断して対象としなかった。その根拠としては縄文を持つものが無いことや、簾状文の多連止めが少ない(時期よりも科野方面の傾向を持つと考えた方が良いかもしれない)、高坏の脚部の長大傾向などである。その土器の特徴としては頸部が屈曲せず滑らかなカーブを描く甕が多い点、簾状文ではなく横線文が多いなど科野からの影響が色濃いように思えた。[1] p.6 群埋文 1995 『内匠日向周地遺跡 下高瀬寺山遺跡 下高瀬前田遺跡』に加筆その他土器の図は下記の各報告書から採った。 群埋文 1994『下高瀬上之原遺跡』 群埋文 1995『内匠日向周地遺跡 下高瀬寺山遺跡 下高瀬前田遺跡』 群埋文 1995『中高瀬観音山遺跡』にほんブログ村
2019.04.06
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日本にも移民制度が導入され、今後列島外にルーツに持つ人や混血の人の割合が増えて2・30年もすれば、人種差別もその根拠が失われるかもしれない。この時代にあって、人種差別のマインドは未だ保持されている。このマインドは80年前とあまり変わっていない。紅毛人はホテルで支那人を使い、支那人は街頭でウドン粉の饅頭にブタの油肉をつけ、相変わらずニンニクを喰っている。旅行者の眼には上海はその土地と同じく支那人が僅か一万人の紅毛人に使役されている以外の何物でもないように映ずる。p.131 昭和14(1939)年「近きより 一 上海風景(東京に擬えて) 3 上海の文明」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二イギリス商人からアヘンを没収した林則徐による西洋研究を魏源がまとめた『海国図志』(1842)は日本語に訳され、幕末の知識人の間に欧米の帝国主義に対する警戒心を喚起した。1862年に上海を訪れた高杉晋作は英仏人に使役される中国人を目の当たりにして危機感を抱いた[1]。大川周明は英国の植民地下のインドについて書かれた Sr.Henry Cotton, New India or India in Transition(ヘンリー・コットン卿『新インド』)という本を読み、インドでの人種差別に憤りを覚えた[2]。人種差別は多くの人の心に違和感、嫌悪感、怒りを起こす。日本人は、支那人を使役する紅毛人とは違う存在となることができたのか?南京攻略時の蝗軍兵士の陣中日記では、捕虜を使役して、用が済むと殺したことが書かれている。 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。 年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。 午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。 敵の銃をひろひて打てるものなり。 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。 一丘をこえて南京の城壁目〔間〕近に見ゆ。 城壁千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。p.78 小野賢二ほか編「堀越文男陣中日記」(1937/12/14分)『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』五族協和と謳っていた日本人は、中国人を友人と見做すべきだったと思うが、当時書かれたものの多くに、中国人に対する侮蔑と憎しみの感情が表れている。以下は日中戦争に従軍したある中佐の陣中日記の一節。事変は案外早く片づきませう。うんとやっつけます。徹底的にやられるでせう。支那も馬鹿にも程がある。p.41 小長井信昌 編著「輸送途上より家族への手紙」(1937/9/5分)『オ父サンノセンサウ』《小長井鑑重中佐の陣中日記》これは、膨大な中国蔑視の一例に過ぎない。このような中国人に対する憎しみと侮蔑の感情は、日本人兵士の行動となって表れた筈だ。その場面に正木氏は遭遇する。改札口はバラックの外にあって、そこも長蛇をなしている。やがて日本軍人が二三名やって来て改札を始めるかと思っていると、改札口の構内に積んであった手荷物をポンポンと外の泥濘の中へ放り出した。雨が降って来ていたので、支那人が手荷物を雨のあたらないように構内に積んでおいたのであった。蝟集していた支那人はそれを拾うので大騒ぎをやっている。切符を切り始めた。群がる支那人を剣附銃をもった兵士が二三人で整理するのだが、言葉が分からないせいか、兵士は泥靴で支那人の腰脚の辺を蹴り、胸を突く。また頭の上に支えている支那人の荷物を銃剣で突くので、群衆の顔には恐怖の色がありありとみゆる。私はその精悍な兵士の顔を見た時、身体中がゾッとした。殺戮の形相だ。殺すか殺されるかという緊張感だ。初めて見た私には周囲の気の抜けた光景とはおよそ不調和な感を抱いたけれど、さんざん支那兵に悩まされて来た軍人には支那民衆に対しても極度の憎悪の念が燃えるのも無理はないのであろう。犬に噛まれた者は、子犬に対しても極度の緊張を感ずるものである。(私自身は成長した鼠を見ると命がけな敵意を感ずる。)しかし、この朝この光景を見た私はゾッとした寒気に似たものが終日離れなかった。「戦争をしたからには絶対に負けてはならない」と、現地を見て帰って来る人が言うのは、こういう光景をしばしば見るからであろうと思った。「親善のための戦争」という命題を考えているうちに汽車は出た。p.139-140 昭和14(1939)年「近きより 二 杭州行 1 北停車場」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二この事件が正木氏の日中戦争に対する見方を変える転機となったようだ。「五族協和」「親善のための戦争」「本当に提携するための悩み」。言い方はいろいろできるが、この戦争が協和、親善、提携に結び付かないという事を認識した事件だったのだろう。明治国家をつくった人びと【電子書籍】[ 瀧井一博 ]価格:810円 (2019/3/24時点)楽天で購入[1] 高杉晋作は1867年(慶応三年)の徳川昭武使節団に加わった。使節団はフランスへの途上、上海に立ち寄った。(p.149-152, 瀧井一博『明治国家をつくった人々』参照)[2] p.80-82, 大塚健洋『大川周明』参照。にほんブログ村
2019.03.24
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先週は韓国の文国会議長の「天皇による謝罪」発言がテレビで報じられていた。おぢさんがテレ朝の『グッドモーニング』を見ていると、正確な言葉は忘れたが、コメンテーターが気色ばんで文氏の発言は無礼だと言っていた。同じくテレ朝、2/23放送『週刊ニュースリーダー』の「今週のニュース!気になる人物トップ10」では2位に「応酬に街の声は?「盗人猛々しい」韓国・文国会議長(73) VS 河野大臣(56)」が選ばれていた。文氏の発言について「無礼だ」という街の声が紹介されており、政府や首相は韓国に対してもっとしっかりと言うべきだというような意見も二三紹介されていた。ブログを書いていると「世界から放置されだした韓国...でも、これも作戦通りだとしたら?」という煽りのダイレクト出版のWEB広告が目に留まった。日本にいると、レーダー照射問題にしても、徴用工問題にしても、文氏の発言にしても、全く日本には非がなく、自衛隊や日本政府が言っていることが正しく、韓国が嘘ばかりの言いがかりを付けているように報道されている。列島の住民たちも、その報道に全く疑問を抱かず、「韓国はけしからん」という考えで一様になっている。おぢさんは個々の問題に関して定見はない。ただ、最近の世論の動向を怪しいと思いつつ眺めていた。聞くところによれば文氏の発言などは韓国でもたいして関心を集めていなかったという。そうすると、これら一連の問題で騒いでいるのは日韓両国どころか日本だけということになるか?列島住民が韓国憎しで一様に踊らされているとすれば、その仕掛け人は?などと考えていた。黒幕探しはさておき、指摘しておきたいのは日本の言い分が正しいとコンセンサスができているのは日本国内だけだということである。これは簡単に確かめられる。”Korea Japan” とでも Google で検索して海外の記事をいくつか読んだだけで日本のような一方的な報道が行われていないことが分かる。英語が読めなくてもブラウザの翻訳機能で十分だ。海外の報道では大抵、日本と韓国の主張を両方紹介して、結論めいたことは言っていない。報道がその調子なので、受け取る側もどっちが本当なんだ?というのが大勢であろう。というより、何やってんだあいつらと思われるのが関の山だ。日本の世論がガラパゴス化している。これはおぢさんは重大なことだと思う。たとえ、日本の報道通り日本が正しいとしても、海外ではそうは思われておらず、そのことを自覚していないとすれば問題である。国内の世論のみしか知らない民衆は、事実上選択することのできない政策を政府に要求することになる。もとは政府が誘導したことかもしれないが、意図した以上に民衆が先鋭化してしまうことはよくある。日比谷焼討ち事件、中国の愛国無罪の反日デモなど無数にある。解説者とかコメンテーターと呼ばれる人々は少なくとも海外世論との乖離を列島住人に自覚させなくてはならないと思うが、無理だろう。彼等の多くは当然この乖離に気がついているだろうが、そのような本当のことを言ってしまうと、反日とかなんとか言われて日本の報道の世界で生きていくことはできなくなる。現在の日本は巨大エコーチェンバーだ。さてと、80年前に戻るか。正木氏は上海に五日間滞在した。滞在期間の不足は認めつつ、当時の上海の文明についての印象を書き留めている。上海では英語は非常に普及しているように考えていたが、案外普及していない。ホテルとか紅毛人の来る店だけで、一般は本当のかたことしか喋れない。それは北京でも同じことだった。あるホテルのボーイは明後日のことを next tomorrow といっていた。またあるボーイは「彼は昨日来た」というのを “He come yesterday” と流暢に喋っていた。彼等は数百の英単語を支那流に並べているように思えた。日本語は支那の花柳界には大いに通ずるようである。p.128-129 昭和14(1939)年「近きより 3 上海の文明」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二支那花柳界に対する日本人の貢献については前回も取り上げた。経済力のある国の言語が通じるようになるのは自然だ。日本語が通じる時代はもう来ないだろう。入口のところに排日の書物が何十種となく積まれていたので、それを見物していたら店員が来て、私に “Red Stars over China” という本や、H. G. Wells の “Shape of Things to come.” という本は日本人がよく買うといった。前者は支那共産党の活動を書いた本だし、後者は此度の事変を十年も前に予言している書物だそうだが、輸入禁止になっていると聞いていたので私は買わずに来た。それに値段も両方で五十円くらいする。紅毛人は実に物を高く売る。それなのに支那人は紅毛人を排斥しないで日本を嫌うのはよほど深い原因があるにちがいない。p.130 昭和14(1939)年「近きより 3 上海の文明」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二仲間だと思っていた人間に裏切られたとしたらどう感じるだろうか。同じ東洋人の顔をしていながら、自分たちが偉いと勘違いしている日本人をどう思うだろうか。第一次大戦に便乗してドイツから奪った山東省の権益を認めさせ、警察権や軍の指揮権まで要求する二十一カ条の要求だけでも図々しいにも程があるが、断固膺懲(どんだけ偉いんだよ?)の声明や、国民政府を対手とせず(誰を対手とするんだよ?)…の第一次近衛声明、どれをとっても中国人の感情を逆なでする物だった。日本が嫌われる十分すぎる原因があったにもかかわらず、当の日本人はそれを自覚していなかった。報道を含め、日本全体がエコーチェンバー化していた当時にあっては無理もない。参考:Forget North Korea: Is the Next Showdown in Asia Japan vs. South Korea?(The National Interest) 「少なくとも、P-1の乗員が本当に攻撃の危険を感じていたならば、駆逐艦の近くを周回しつづけたとは考えにくい」という指摘は尤もだ。この記事でも言うように日韓双方とも本気で武力衝突するつもりなど無いという全体を見ることの方が大事だろう。Japan and South Korea's Unnecessary Squabble(The Diplomat) 韓国の元軍人の書いた記事。にほんブログ村
2019.02.28
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内匠上之宿遺跡は中高瀬観音山遺跡のある離れ山と呼ばれる東西方向の丘陵の東端にある。位置は下記の鏑川上中流域の弥生集落分布のリンクで確認してほしい。当遺跡からは弥生時代末頃の住居が4軒検出されている。住居の間には距離があり、集落というよりも散在という方が近い。 鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 「内匠上之宿」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類甕類型毎集計残存部が少ないために分類できないものが多い。櫛描文の土器が図化されているのは5号住居のみで少ない。殆どが縄文の吉ヶ谷系。頸部輪積み(1文字目がB)のものが一定の存在を示しており、吉ヶ谷式の影響が濃厚である。各住居の甕から1点づつ選び以下に示した。下図の右側に配置した16号住居、21号住居の甕は、下に図を示したもの以外も、頸部に明確な屈曲部を持たず、滑らかに湾曲する形態を示している。これはおそらく吉ヶ谷式の影響だろう。櫛描文の有無や頸部形態など住居毎に若干個性がある。〔左上〕5号住居1甕 〔右上〕16号住居6甕〔左下〕10号住居6甕 〔右下〕21号住居1甕壺類型毎集計「上丹生屋敷山(丹生エリア)古墳前期土器編年―壺」の記事を書いているときに、壺の分類を変更する必要性を感じて、それ以降、壺の検討は保留していた。今回は、結節縄文の壺が気になったので、取り上げることとした。〔左〕5号住居7壺 〔右〕16号住居7壺5号住居7壺は折り返し口縁で折り返し部に波状文、口唇部に刻みが施されている。16号住居の壺は頸部が短い上に広く甕に近い。「大きく開く単口縁」として分類したが、やや違和感がある。図から判断すると弱く面取りされているかも知れない。胴部外面には箆ミガキがしっかり残っている。〔左上〕内匠上之宿遺跡10号住居1壺 〔右〕八木連荒畑遺跡4号住居1壺〔左下〕古立中村遺跡30号住居6壺10号住居1壺は結節縄文になっている。吉ヶ谷式の影響が濃厚な段階の鏑川上中流域では単純な単節縄文が多い。似たような例を探すと結節縄文ではないが、古立中村遺跡30号住居6壺、八木連荒畑遺跡4号住居1壺(付加条縄文)があったが決して多くはない。外来的と言っていいと思うが、これらの要素が吉ヶ谷式の一部として入って来たのか、別の系統から入って来たのか気になるところだ。高坏等類型毎集計高坏は残念ながら完形の物がない。杯部または脚部どちらかのみではあるが全体的に眺めると、杯部は樽式の深型から浅く広がる形態への、脚部は樽式の長大な脚部からハの字に広がるものへの過渡期を示しているように思える。その中で興味深いのが口縁部折り返し?輪積み?の高坏である。報告書では甕とされているが、おぢさんには吉ヶ谷系の高坏の杯部に見えるので高坏とした。5号住居2高坏器台は1点のみ。たまたまかも知れないが、鉢が見当たらない。21号住居11器台住居毎の類型別集計櫛描文の土器が明確に残っているのは5号住居のみ。これが他の家との時間差を物語るのか、個性なのかは難しいところ。報告書では4軒に大きな時間差はないと見ている。櫛描文が消えようとする段階の家々だと思われるが、外来系と断定できるものはない。器台もまだ少ない段階ということだろう。群馬県埋蔵文化財調査事業団 1993 『内匠上之宿遺跡』 土器の図は本報告書から採り、再構成した。にほんブログ村
2019.02.22
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前回、国家が発行する通貨を使わず自給自足するということを書いた。しかし、我々はすでに飼いならされて久しい豚である。無理をする必要はない。楽しみながら徐々に野生を取り戻したい。おぢさんは今年から米を育て、食料の自給率を高めようと考えている。休日以外は酒も断つことにした。酒は悪いことばかりではないが、酒税はかかるし、若い時分に十分飲んだ。現代社会は経済成長を至高の価値として激しいレースを続けている。このレースとは早く縁を切りたい。我々はモノやサービスを作り出し、その対価として金を貰っている。稼いだ金を交換手段として必要なものを買って暮している。そのはずなのだが、正直なところ、ガラクタと無駄なサービスにウンザリ(Fed up)だ。大量のモノとサービスが作り出され、それをフォアグラのガチョウのように無理やり飲み込まされ消費させられている。必要なものはわずかだ。衣食住と光熱費。それも、金を介して得るのではなく自前のほうが効率的な場合もある。とりあえず、節約が手っ取り早い。節約なんて、憂鬱になるとか、楽しくないという人もいるが、心持一つだ。先月は、水で食器を洗っていたら、ガス代が約20%削減できた。年寄りの冷や水ともいうが、便利になり過ぎて弛緩した老人は不便な生活を取り戻した方が身のためだ。多少不便な生活にマゾヒスティックな快感を覚えるようになったら占めたものだ。さてと、無料のタイムマシンで80年前に戻るか。戦争と花柳病、それは聖戦という名にふさわしくないしろものである。王陽明曰く『山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し』p.87 昭和14(1939)年「近きより 5」『近きより2』第三巻第三号<四月号>蝗軍は中国軍とだけでなく、性病とも戦っていた。性病はどこの国の軍隊にとっても悩みの種で、慰安所設置の第一の理由は兵士の性病予防である。《前略》ただ驚いたことは、花柳界と飲食店の大繁盛である。これは何も上海に限ったことではなく、私の旅行した都会全部に共通な現象であったが、上海はもとよりその例に洩れない。何しろ働き盛り人間が乗りこんでいる上海である。そして月給や手当もよく、社交の必要もあろう。官吏も軍人も旅行客も、ワンサワンサと花柳界に流れこむ。p.131-132 昭和14(1939)年「近きより 4 上海の日本人」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二おぢさんが若かりしとき、高度経済成長で豊かになった日本の男たちは、大挙して東南アジアへと社員旅行に出かけた。しかし、その実態は買春旅行であった。時代が変わっても、やることはあまり変わらない。海外へ行くと下半身が開放的になり、性病を土産に持ち帰る。上海には東京の派出婦人会みたいな制度の特殊筋肉労働婦人会があって、電話一つで即時出張するそうだ。ことに事変以後、難民の姑娘がその会員になっているとか。「×××協同社」と呼んでいる。「協同」という字はあるいは「共同」であったかも知れない。p.137 昭和14(1939)年「近きより 6 その他いろいろ」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二特殊筋肉労働とはよくいったものだ。電話の発明は1870年代だが、この時代にも普及率はまだまだ低かった。それでもデリヘルは存在した。昔も今もやることはあまり変わらない。戦場体験者 沈黙の記録 (ちくま文庫) [ 保阪 正康 ]価格:864円(税込、送料無料) (2019/2/3時点)楽天で購入にほんブログ村
2019.02.03
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古立中村遺跡、八木連荒畑遺跡の鉢・高坏・器台を分類した。鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 「古立ー八木連」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類鉢の分類集計鉢は直線的に開き平底で無彩の A1Ma がほとんどを占める。〔左上〕古立中村32号住居 鉢1 〔右上〕古立中村32号住居 鉢4〔左下〕八木連荒畑25号住居 鉢1 〔右下〕八木連荒畑8号住居 鉢2右上の鉢4のみ強く内湾し、丸底の A3Na。高坏の分類集計高坏の杯部は「ハの字状に開く」E が多く、次いで樽式の深型の B が多い。樽式の口縁部が外反する深型の杯部 A も多い。脚部は 4 の「ハの状に開く」物が多く、脚部穿孔しないものが多数派だが、丸い孔を穿つものも一定の存在を示す。〔左上〕八木連荒畑5号住居 高坏1 〔中上〕八木連荒畑8号住居 高坏4 〔右上〕八木連荒畑25号住居 高坏2 〔左下〕八木連荒畑8号住居 高坏9 〔右下〕八木連荒畑25号住居 高坏3左下の「八木連荒畑8号住居 高坏9」以外はすべて E4Na に分類したが杯部を見るとあまり大きく広がらず、B のやや深い杯部との中間的な形態が多い。脚部も右上の「八木連荒畑25号住居 高坏2」のように大きく広がるものは少なく、やや小さめか 3 の「開脚度が低くあまり広がらない脚部」との中間的な形態を示すものが多い。器台器台は古立中村遺跡から出土した F4Na の2点のみ。〔左〕古立中村29号住居 器台3 〔右〕古立中村30号住居 器台4赤彩の有無はあるものの互いに似通っている。器台の少なさが遺跡の時期の下限の手掛かりになりそうだ。器台が様式内で確立している上丹生屋敷山遺跡の環濠外段階より、全体的に早い時期に入るだろう。 上丹生屋敷山(丹生エリア)古墳前期土器編年―高坏、鉢、器台妙義町遺跡調査会 1990『古立中村遺跡 古立東山遺跡 八木連狸沢遺跡 八木連荒畑遺跡』 土器の図は本報告書から採り、再構成した。にほんブログ村
2019.01.20
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分断、分断、分断。アメリカ、イギリス、フランス、日本。世界中が国内に深い分断を抱えている。安倍晋三氏は自分を支持しない人々を「あんな人たち」と呼んでいたが、あんな人たちにしてみれば、あんな首相であり、その間には国境線とは比べ物にならない分断がある。「吾国」という言葉が、自分が属する共同体を意味することを多くの人は期待するだろう。しかし、実際には自分とは相容れない団体(国)に強制加入させられ金(税)を巻き上げられている。というのが少なからぬ者の実感である。全くの乖離だ。この乖離をどうするか?上から手を伸ばしてきて、金をひったくり、よからぬことに使っている団体はやくざであり、闘うべき相手ではない。むしろ、土民は下から築き上げ、自立していくべきだ。国より県、県より村、村より自治会、自治会より隣人、そして何より個人が自立しなければならない。自主独立した個人が結びつくことから始めなければいけないと近頃つよく感じる。吾々は国家が発行する通貨に依存する限り、国家と資本主義社会の二重の奴隷であり豚である。国家の資金源になりたい人はそうさせておけばいい。われわれはまっぴらごめんだ。豚から猪に戻ろう。鶏から野鶏に戻ろう。畜から獣に。自給自足し、国家が発行する通貨をなるべく稼がず、使わない。国家の資金源を断とう。国家と闘うのではなく相手にしない。さてと、80年前に戻るか。中国旅行で正木氏が乗船した浅間丸は4月10日昼に神戸港を出航し、瀬戸内海を進む。実に日本には要塞地帯が多い。如何に風光明媚であっても要塞地帯であっては写真はもとより、スケッチも出来ない。瀬戸内海は洵《まこと》に美しいけれども全部が要塞地帯である。画心のない人達にとっては余り影響はないかもしれないが画心のある者にとってはそれは最大の苦痛である。p.105 昭和14(1939)年「近きより 7 要塞地帯」『近きより2』第三巻第四号<五月号>大陸紀行号瀬戸内海全体がスケッチ禁止となっても画を描かない人は不都合を感じない。弁護士が殺され、四六時中監視カメラで監視され、宗教が弾圧される今の中国でも不都合を感じない人は多い。今の日本でも不都合を感じない人は多いようだ。東京にいる間、上海で第一に見たかったのは軍艦出雲と陸戦隊本部とである。私は雑誌発行者としての資格で領事館警察部の方に案内されて戦跡を見にドライヴさせていただきました。江湾鎮、大場鎮、市政府等を見ての帰りに陸戦隊本部へ参りました。ここは前述の扇形の竹と紙との線上、中央部に近き北停車場のすぐ南にある建物で、ちょうど東京の警視庁ぐらいの大きさです。ここで千余名の我が海軍勇士が、邦人と共に十数日間にわたり二十万の支那軍を堰止め一歩も近づけなかった全く日本魂の本拠地なのです。p.115 昭和14(1939)年「近きより 13 上海雑感 その二」『近きより2』第三巻第四号<五月号>大陸紀行号う~ん、なんだかよく分からないけれど愛國。正木氏もこの時点までは、日本のいわゆる勇士たちが戦った戦跡を見て胸に熱いもの(悲しみや怒りとは異なる)がこみあげて来ちゃう当時の普通の日本人だったのだろう。これがどう変わっていくのか、なぜ変わっていくのか。昔マホメットは「剣かしからずんばコーランか」という題目を掲げて戦争をなし、支那の如く広い中央亜細亜を回教によって統一した。日本は今、それ以上の大仕掛な戦争をしている。「剣かしからずんば親善か」である。 過去二年間の日本の剣は、既に二百数十万の敵を屠り、我もまた六万の生霊を犠牲にした。その結果如何なる程度の親善が生まれたのであろうか。p.117 昭和14(1939)年「巻 頭 言」『近きより2』第三巻第五号<六月号>大陸紀行号 その二支那と日本の間に親善は生まれたのか?上海共同租界の様子はどうだったのか?一歩河向うへ入ると、ここは全くの自由都市である。本屋には排日の図書が並んでいるし、往来では抗日新聞を呼び売りしている。p.112 昭和14(1939)年「近きより 11 ガーデン・ブリッジ」『近きより2』第三巻第四号<五月号>大陸紀行号当たり前の話だが、戦争で親善など生まれはしない。戦争で親善が生まれたのは国民の敵である皇軍を破った米軍と日本の庶民の間ぐらいだ。にほんブログ村
2018.12.27
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古立中村、八木連荒畑の両遺跡の甕を分類した。鏑川上中流域のエリア区分 鏑川上中流域の弥生集落分布 分類結果 「古立ー八木連」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類編年作業試行段階から気になっていた「く」字形に屈曲する短い頸部を今回から「形態:6」として分類することとした。既に分類作業を終えた遺跡に関しても順次この変更を反映する。以下はこの形態として分類した台付甕。〔左〕29号住居 台付甕6 [A6Rb]、〔右〕29号住居 台付甕8「く」字という迄はいかないが、この程度の屈曲を含む短めの頸部がこの分類の対象となる。台付甕は頸部が短く強く屈曲する場合が多いので、この分類が多くなると予想される。底部が欠損しているが、同じ29号住居の8のような台部がつくと推定した。残存部が少なく分類不能なものが多いが、それ以外では、やや開く頸部を持ち櫛描文が施された A1Ra のタイプが 1/4 以上を占め一番多い。次いで頸部輪積みで櫛描文の B1Ra が多い類型となっている。櫛描文施文の甕が主体の住居が大半を占めるが、縄文施文が主体の住居(八木連荒畑8号住居)や、混在する住居(八木連荒畑6等)が見受けられる。縄文主体の八木連荒畑8号住居に於て後出的なA'3の甕が出土していることを考えると、古立―八木連エリアでも櫛描から縄文へという時期的な変遷があったと考えられそうだ。八木連荒畑8号住居ではG4の甕も出土しているが、こちらは混入の可能性が高いと思われる。〔左〕八木連荒畑8号住居 甕18 [B1Pa] 〔右〕八木連荒畑8号住居 甕15[A'3]甕18は台付の可能性もありそうだ。頸部は箱清水系の弓なりに括れる頸部「形態:5」と少し迷った。甕15は科野でいうハケ調整くの字甕に属するものか。図版はすべて以下調査報告書から採った。 妙義町遺跡調査会/編 1990『古立中村遺跡 古立東山遺跡 八木連狸沢遺跡 八木連荒畑遺跡』にほんブログ村
2018.12.18
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桜田義孝・五輪担当大臣兼サイバーセキュリティ戦略本部担当大臣が、パソコンを使えないサイバーセキュリティ大臣ということで物議を醸していた。 パソコン使えぬ桜田五輪相 空気読む判断力はあるとの評価も(Newsポストセブン)パソコンを使うかどうかが、サイバーセキュリティ担当としての適性を見る目安になるかといえば、そうでもないということは多くの人が気づいている。それよりも気になるのは、答弁で背後に控える官僚たちである。まるで大臣は答弁をするロボットで官僚に操られているだけのように見える。当人が「答弁書を間違いのないように読むことが最大の仕事だ」と発言している事からも分かるように、彼は官僚が用意した答弁を読み上げるロボットである。質問も用意された回答も、たいして理解していないからちぐはぐな答弁になる。 国会答弁の作り方1 〜大人も子供も、議員さんも〜 (若手キャリア官僚は今こんなことを考えています)「私自身はそんなに詳しくない」と認めるように桜田大臣はサイバーセキュリティに関してまったくの素人である。そして「いろんな能力を総結集して、ジャッジしてやるのが私の仕事」「判断力は抜群」という具合に自分の役割を認識している。情報処理のように急速に拡大発展し、分野が細分化、専門化が進んでいく領域では特に目立つが、政治家にポストをポンと割り振って、その専門分野の知識を期待するなど無理な相談であることは誰でもわかる。縮小する分野も一部にはあるかもしれないが、学問も社会も複雑化細分化が進み、更にそれが急速に変化していく。法案を考えるのも専門家に近い官僚のチームであり、野党の質問に対する回答を考えるのも専門家並みの官僚である。官僚出身の政治家が多いのも頷ける。大臣は方向性を示したり、官僚の説明を聞いて選択するくらいがいいところだ。専門でもない一政治家がいきなり、大臣として各省を任され統括するというシステム自体が、変化の速い時代に合わなくなってきているのかもしれない。本会議よりも委員会の比重が増しているのも、そうした専門化の流れに沿うものだ。社会制度や政治制度は以前なら何世紀も持ちこたえたものだが、今日ではどの世代も古い世界を破壊し、それに替わる新しい世界を建設する。『共産党宣言』が見事に言い当てているように、現代世界は不確実性と動乱を是が非でも必要とするのだ。固定的な関係や昔ながらの偏見は一掃され、新しい構造は定着する間もなく時代遅れになる。p.29 ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)『ホモ・デウス』下前回書いたように、近代民主主義は200年以上前に考えられた古くて巨大なシステムである。このシステムは複雑化し、激しく変化していく現代に対応できるのだろうか。国家という構造物も昔ながらの構造のまま維持することは難しくなっているのではないか。さてと、80年前に戻るか。80年前に比べて、今の時代は人民の権利が守られる良い時代になっただろうか?言論の自由は守られているか? 「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。大学でビラを配っただけで逮捕される時代に。行政機関の権力は乱用されていないか? 国の対抗措置「違法」 「辺野古」撤回執行停止申し立て 行政法研究者110人声明 (琉球新報) 辺野古新基地:行政法研究者110人の声明文全文 (沖縄タイムス)80年前、弁護士の有志が人権蹂躙撲滅の決議を行った。今日に過去と同じような人権蹂躙が行われていないか、確かめられるように、少々長いが『近きより』に掲載されたその決議部分を示しておこう。一月十四日、日比谷松本楼に東京三弁護士会[1]の有志である左の弁護士が集まり、左のような決議をいたしました。 決 議法曹出身を首班とする現内閣[2]は、法律文化の汚辱たる人権蹂躙を根絶するため、左記諸点に対し適当なる対策を講ずべし。一、警察官が名を行政執行法に藉り、不当に人民を検束して省りみざる所謂連続検束、又は検束の蒸返しなるものは明かに法律の濫用にして人権蹂躙なり、此際行政執行法の誤まれる運用を停止せしめ、以て従来の弊風を一排すべし。二、被疑者に自白を強要し、時には暴力を加うるが如きは夫れ自身明かに犯罪なり、犯罪捜査の局に当るものが、反って犯罪を犯して省みざるが如きは戦慄すべき違法行為なり。遵法精神鼓吹に努力しつつある当局は、先ず脚下の清掃に留意せざるべからざるや勿論なり。三、密行せらるべき捜査中の事実が外間に漏洩し、または公然新聞紙に掲載せられ、これが為め関係者の名誉信用を棄損することの極めて大なるものあり、斯く如きは明かに司法綱紀の紊乱にして、懲戒処分に値する行為なるに拘わらず、従来平然として行われたるは遺憾なり。現内閣は速やかに綱紀を振粛し、以てこの種の弊風を根絶すべし。四、拘留機関は原則として二箇月にして、例外として特に交流継続の必要ある場合に於ては更新することを得るものとす。然るに今日の実情は拘留期間は屡々更新せらるるを常態とし、例外規定が反って原則視せらるるが如き奇観を呈せるは遺憾なり。加之《しかのみならず》長期拘留は往々被告人の精神健康並びに職業等に悪影響を及ぼし、実刑に優る苦悩を与え、之が為め虚偽の自白を余儀なくされ、審理の紛更を招く原因となることあり。故に当該官庁をして法律の運用に過誤なからしめ、以て長期拘留の弊害を一掃すべし。p.67 昭和14(1939)年「近きより 71 人権蹂躙撲滅の決議」『近きより2』第三巻第二号<三月号>日本に人権概念などあったためしはなく、当時は一層悪化していた。人権を守るための闘いを続ける弁護士たちはいたが、彼等の努力も空しく、日本の人権蹂躙は一層悪化していく。組織というものは一旦ある方向に傾いても、振り子のようにバランスを保つ場合と、そのまま一方向に落ち込んでいってしまう場合がある。ある点を超えると元には戻れなくなるということだ。ちなみに最近の人権蹂躙も、まったくひどいものがあり80年間ほとんど進化していない。籠池氏の拘留は10か月に及んだ。起訴されないうちから実名報道は日常茶飯事であるし、報道されなくてもネットで拡散する。[1] 一八九三年、代言人制度からあらためて弁護士法が制定され、代言人組合に代って、同年、東京弁護士会設立。一九二四年、第一東京弁護士会が、二六年、第二東京弁護士会が分立、三弁護士会となる。[2] 平沼内閣。にほんブログ村
2018.12.02
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出入国管理法改正案についての論議が盛んになってきた。 出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法 の一部を改正する法律案の骨子について (首相官邸) 出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律案(法務省)この問題に関しては既に多くの記事が書かれている。以下のリンクの記事では、現在や将来の日本が人手不足であるとし、適正な受け入れ人数を検討している。1%弱の潜在成長率を維持することを前提としたベーシックな試算の一つとして参考になる。 外国人労働力の受け入れは2025年からでも間に合う(島澤諭:WEDGE Infinity)この記事でも述べられているように、前提条件によって人手不足数からして大幅に変わってくる。女性や高齢者の労働環境改善による労働力率の向上や、賃上げによる人手不足の解消効果の指摘は賛同できる。この他の記事にも、実質賃金が上がらない中での外国人労働者の受け入れ増加に否定的な意見は多い。外国人労働力の受け入れに於て検討すべき事項は非常に多いが、現時点でおぢさんが主張しておきたいのは、景気後退期(不景気)のことを考えておくべきである、ということと、経済成長を維持することを前提とすべきではないという2点である。「移民」定義のコンセンサスはないようだが、実際問題として日本は既に多くの移民を受け入れている。 日本がいつのまにか「世界第4位の移民大国」になっていた件(芹澤健介:現代ビジネス)現状でどれだけ外国人労働者が増えているのか。近年の外国人労働者数の増加は、概数で3.5万人、7.0万人、12.0万人、17.6万人、19.5万人(2013~2017)と推移しており増加幅そのものが急速に増えてきている。この従来の在留資格での外国人労働者に加えて、新たな在留資格での労働者を受け入れるというのが今回の改正となる。新たな在留資格での労働者数の見積は初年度は同約4万8千人、5年間で最大35万人となっている。近年急速に外国人が増えたという印象があるが、法案成立によっておそらく現在の1.5倍程度ペースで外国人労働者が増加することになるだろう。総務省|平成28年版 情報通信白書|人口減少社会の到来一方で、日本人の労働者数は今後どうなるのか。生産年齢人口(上図緑部分)は今後、毎年60万人以上のペースで減少していく。高齢者(水色部分)の労働参加が進んだとしても労働力不足が深刻化するのは間違いない。リーマンショックからの回復局面以来の世界経済の好調によって意識されることが少なくなったが、景気後退期(不景気)には雇用情勢は一変する。この局面に外国人労働者が邪魔者扱いされることがあってはならない。そのために、人手不足の現在だけを意識するのではなく、予め景気後退期を意識した政策が求められる。近年の「景気後退過程における完全失業者数の推移をみると、1997年から1999年にかけての2年間で完全失業者は87万人増、2000年から2002年にかけて39万人増となったのに対し、2007年から2009年にかけては79万人増となっている。」(「労働経済の推移と特徴」)。80万人程度の雇用喪失は十分想定しておく必要がある。 労働経済の推移と特徴(厚労省)政府は5年間で約146万人の人手不足、約26万~約35万人の受け入れを見込んでいる。その人手不足のほとんどを国内人材の確保で補い(2/3程度)それでも不足する分を外国人労働者をということになっている。 国の失踪実習生の調査に誤り 理由が賃金87%→67%(Yahooニュース/朝日新聞DIGITAL) 外国人労働者受け入れ、5年で最大35万人 政府試算(朝日新聞DIGITAL) 介護人材確保、国内20万人(ロイター/共同通信)人手不足の試算が妥当なものかというのが問題で、どういう根拠による数字なのかを示す必要がある。仮に146万人の人手不足という数字が正しく、その内100万人が国内人材で対応可能であるとすれば、残り46万人の不足をどうするのかということになる。好景気と不景気の両方に完全に対応することは不可能である。46万人の労働力不足の状態であれば、80万人の雇用喪失が起こったとしても、失業者数は34万人に収まる。しかし、35万人を受け入れていた場合には、人手不足は10万人ですむが、不景気には倍の70万人程度の失業者を産むことになる。受け入れ数に正解はなく結局はどうしたいのかということにはなるが、最大35万人という数字は好景気にチューニングしすぎているように感じる。外国人労働者によって目指すべきは人手不足の緩和であり解消ではない。人手不足による成長鈍化、税収伸び悩み、サービスの低下などは甘んじて受け入れるべきではないだろうか。彼らを我々の仲間の一人として受け入れるのでなければならない。そのために帰化を前提とした移民政策を正面から検討すべきである。彼らは成長のための道具ではないし、不景気になったからと言ってさよならというわけにはいかない。予想通り、この問題に関して右派の方々はあまり声を上げない。経団連、財界、経済重視という系統か、排外主義(ヘイト系)、復古国粋主義の系統かを見分ける試金石となっている。Further Reading: 白豪主義から多文化主義国家になるまで、オーストラリアに学ぶ『移民政策』(上) (高野凌:WEDGE Infinity) 自称“難民”が急増!? 超人手不足でいま何が…?(NHK) 「外国人雇用状況」の届出状況まとめ(平成29年10月末現在)(厚労省)にほんブログ村
2018.11.18
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安倍首相は遠からず憲法改悪を持ち出してくると思われる。彼は憲法とは「国のかたち、理想の姿を語るもの」であると何度も主張している。これに対して、憲法とはそもそも国家権力を縛るものであり、安倍首相の考え方は間違っているという声が寄せられている。 (教えて 憲法)国家権力しばる「立憲主義」(朝日新聞) 憲法理解できぬ安倍首相に改憲語る資格なし(志葉玲)改憲派からは、首相の意見を擁護して、「民主的な選挙によって選ばれた権力者の権力が縛られるのはおかしい」、「縛られて、何もできずにすっころぶ。こんな憲法狂ってる」というような声が聞かれた。民主主義であるから、元々「権力を縛るためのもの」だった憲法を「国の理想の姿を語るもの」にした方がいい。と国民が思えば、そうなるのは当然であるが、近代民主主義を産んだ世代の人間にとってそうした事態は全くの想定外である。このことは、安倍晋三氏も恐らく感づいている。2014年2月3日の衆院予算委員会で安部晋三氏は「憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方」と発言している。これは間違いだ。「王権が絶対権力」を持っているのに「国家権力を縛るもの」があるというのはおかしい。実際は王権が絶対権力を持つことへの反省から憲法というのは産まれてきている。イギリスの権利の章典は名誉革命時のものであり、フランスの人権宣言や憲法も革命後である。王が絶対権力を持っていた時代は、王が好き勝手に戦争して、好き勝手に課税するろくでもない時代だった。だから憲法でそれを変えた。それを元に戻せば、また権力者が好き勝手にできるようになる。という単純な話だ。当時の民衆は未来の我々を見てため息をつくしかない。人類は200年の記憶を持たない。この憲法とは?論議を眺めていて、おぢさんは少年の頃に読んだ『第二の地球へ』というSF小説を思い出した。巨大な宇宙船が舞台の話で、その宇宙船は第二の地球を目指して、長い間宇宙空間を飛び続けている。しかし、宇宙船内の住人は何代か世代交代しており、自分たちが宇宙船に乗っているということさえ忘れている。そろそろ着陸準備をしないといけないのだがどうなってしまうのでしょう。。。という示唆する内容の多い面白い話だ(もう少し詳しい話はこちら、「"The Star Seekers (1953)" by Milton Lesser」(英語の読めないSFマニアの原書落ち穂拾い))。われわれはこの宇宙船の住人のようだと感じる。近代民主主義という巨大なシステムの乗員でありながら、その設計思想を忘れてしまっている。時代は変わり状況も変わるのだから、政治も変っていくのだろう。しかし、近代民主主義は全体がバランスをとるように良く考えられた巨大なシステムである。設計思想・基本設計を踏まえない変更は禁物だ。さてと、80年前に戻るか。本当に日本の国を思う者は、日本の現状と世界の現状とを、ありのままに見なければならない。真実に立脚しない理想は空想であり妄想であり、飛んで火にいる夏の虫である。日本国民は真実を知り、真実に耐え、真実を発展して行く十分なる素質と実力とを有する。p.82 昭和14(1939)年「巻 頭 言」『近きより2』第三巻第三号<四月号>世界の、あるいは、亜細亜のまんなかで咲き誇る日本という思いの為に、日本の現状と世界の現状を直視できない、真実を知ることができない当時の日本人を見て、正木氏はこの文を書いたのだろう。80年経って日本人は少しは真実を知ることができるようになっただろうか。おぢさんには全く変わっていないように思える。日本だけでなく、世界の民衆も3世代を経て先祖返りしたようにさえ感じる。正木氏はこの号で自身の中国旅行を予告している。この旅行で、中国を自分の目で見て、知ったことが彼を大きく変えたようだ。以下は古賀正義氏による「近きより」の解説文からの引用。この旅行を境目にして、正木の論調から排外的愛国主義が消え、「鬼畜米英」という種類のキャッチフレーズが流行した――というよりも使用を強制された――時代になっても、彼は敵の美点長所を見る必要を説くまでに成長する。p.406 古賀正義「解説」『近きより2』正木氏は自身を変えることになる、この中国旅行をなぜ計画したのか。旅行の目的は、新しい日本の姿を見て来たいというのが第一です。 満州事変、支那事変以来、旧来の「日本」という概念が著しく変更して来ました。東京、大阪が二つの中心であった楕円形の日本が、急にくずれて広大な多角形になったようです。 とにかく一度見て来なくては「日本」という文字が生き生きしません。百聞一見に如かずという気分に襲われます。 第二の目的は、少し呑気な時間を味わいたくなったのです。p.83 昭和14(1939)年「近きより 1 生まれて始めての航海」『近きより2』第三巻第三号<四月号>近きより本文と編集後記に記されている訪問予定の都市を結ぶと以下のようになる。1939/4/8か9に東京を発ち。4/10正午神戸出航。4/12上海着18まで上海に滞在。それから先ははっきり決めていないものの、上海から南京に行けたら南京へ行き、青島、北京、大連、奉天、新京、ハルピンを見学し、朝鮮を経由して5/10頃に帰京というプランだ。正木氏の中国旅行予定ルート確かに広大な多角形だ。正木氏も日本が拡大し東洋の大帝国となったことに気を良くしていたのだろう。にほんブログ村
2018.11.17
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南蛇井増光寺C区の甕に続き、高坏、鉢、器台の検討を行う。残存部が少なく、分類不能なものは予め省いた。 分類結果 「南蛇井増光寺エリアC区の土器」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類本遺跡の鉢で際立った特徴は赤彩品(末尾が b の類型)が多いことである。上丹生屋敷山遺跡では環濠内段階で16点中2点。環濠外段階では皆無であった。鏑川流域の弥生後期の集落では西端に位置し、赤い土器と呼ばれる箱清水式土器の領域に近いことが影響しているだろうか。もう一つ注目すべき点は、上丹生屋敷山の環濠外段階で見られたような外来系のB1やE類型がまだ見られない点である。類型で一番多いのは A1Mb で、A1Ma が次いで多い。両者の違いは赤彩の有無のみで、平底で直線的に開く形態の鉢が当遺跡では圧倒的に多いということになる。上丹生屋敷山では A1 の底部が突出しないものと A2 底部が突出するものがほぼ同数であったが、本遺跡では平底が多いという傾向がある。杯部が深い樽式の伝統的な高坏(先頭が A または B)が13点に対して、ハの字状に開く杯部を持つ高坏E が9点となっている。上丹生屋敷山の環濠内段階では、樽系7点対、ハの字5点だったので、比率としては非常に近い。上丹生屋敷山の環濠外段階では樽系は姿を消している。南蛇井増光寺の高坏 E の杯部は広がりが弱く樽式と中間的。C区ではミニチュアを含め以下9点の器台が出土している。内4点が検討対象の住居からの出土だが、残存部が少ないことと、器台であるか疑問ということもあり、2点のみを分類した。形はばらつきがある。50号住居の器台は北陸系だろう。図版は富岡市教育委員会 1997『南蛇井増光寺遺跡Ⅴ』本文編から採り、再構成と住居番号を付す編集を施した。にほんブログ村
2018.11.17
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南蛇井増光寺遺跡C区の住居の内、調査報告書で4期(いわゆる樽式4期の時期に収まると思われる)とされる住居[1]の土器を検討し分類した。 分類結果 「南蛇井増光寺エリアC区の土器」南蛇井増光寺遺跡については既に鏃関連の記事や古墳前期土器編年試行で取り上げた。 鏑川流域(南蛇井増光寺エリア)の鏃分析 遺跡内の調査区区画、調査報告書の内容 鏑川上中流域弥生末期~古墳前期土器編年見直し試行ー甕の分類1(南蛇井増光寺C区)類型集計結果左側に頸部輪積み無し、右側に頸部輪積みのものと外来系のものを示した。圧倒的に頸部輪積み無しで櫛描施文のA1Ra類型が多く、次いで頸部輪積みで櫛描施文のB1Raが多い。おそらく外来系のA'3以下が1/10程度存在するほか、頸部がなだらかに湾曲する科野系(先頭A5)が僅かに含まれる。次に、南蛇井増光寺遺跡C区4期の甕を形質毎に集計した。上丹生屋敷山遺跡の甕の形質と比較しながら見ていく。 上丹生屋敷山(丹生エリア)古墳前期土器編年―甕 上丹生屋敷山(丹生エリア)古墳前期土器編年―環濠外段階時期細分在来系甕の施文を上丹生屋敷山と比較する。上丹生屋敷山の環濠内段階では樽系(櫛描)61%、吉ヶ谷系(縄文)10%。環濠外段階では樽系16%、吉ヶ谷系61%となっていた。南蛇井増光寺では、樽系65%、吉ヶ谷系16%となっている。上丹生屋敷山の環濠外段階の住居のほとんどからS字甕または器台が検出されているが、南蛇井増光寺C区ではS字甕は324号住居で口縁部破片が1点(弱い面取りが残るのでB類的)検出されたものの例外的であり、器台も少数にとどまっている。こうした点から考えると南蛇井増光寺は上丹生屋敷山の環濠内段階の様相に近い。また、樽系と吉ヶ谷系の比率も環濠内段階と対応している。頸部輪積みの甕は2割となっている。上丹生屋敷山では環濠内/外のどちらの段階でも4割であったので随分低い。輪積みの影響が吉ヶ谷式を初めとする東側から及んだことによる位置的なものか。頸部の形態は、広がり気味の樽頸部が70%を占める。上丹生屋敷山の環濠内段階では樽頸部が86%、環濠外段階では68%となっている。頸部括れが弱い吉ヶ谷頸部は上丹生屋敷山ではほとんど見られなかったが、南蛇井増光寺では8%と少ないものの一定の存在を示している。くの字状頸部は樽頸部とする方針だったが、今回の検討ではぶれて短頸部に入れてしまった。後で見直したい。全体的には、上丹生屋敷山の環濠内段階と環濠外段階の中間的な様相に見える。上丹生屋敷山の環濠外段階の在来系住居では櫛描文はごく少なく殆ど縄文施文であることを考えると、南蛇井増光寺はそれよりも早い段階かもしれない。北陸系(むしろ科野経由の北陸影響)や南関東系の影響が一部住居に見られることはより遅い時期を示唆しているのか、住居数が多いために北陸または科野からの移住者の住居がたまたま含まれているだけなのかは後で土器自体を比較して検討したい。南蛇井増光寺遺跡の3期以降の土器を見ていると、樽、科野、吉ヶ谷など近隣の土器形式が融合しつつあるように見える。以下の甕はその一例。C227号住居 甕9頸部付け根には簾状文ではなく科野にやや多い横線文。肩部には縄文が施されている。[1] p.722 富岡市教育委員会 1997『南蛇井増光寺遺跡Ⅴ』本文編の地図のⅤ期の住居が該当する。にほんブログ村
2018.11.11
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国家に命を差し出す愛国の士や、自由の為に死すアナキスト程ではないにしても、政治活動は人生の貴重な時間を犠牲にしている。ブログであれ投票であれ命を消費している。命を全うするために命を削り、その結果として得る物は何もない。予想外や正反対の成果でも得られれば良しとすべきだ。そして成果と思ったものまで単なる幻想だとしたら、我々は際限なく自慰行為を繰り返す変態の集団だ。貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。たいていの人は、古代ギリシアの神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。p.181 ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)『ホモ・デウス』(上)共同主観的現実は共同幻想に近い。自由を神のように崇めるアナキストや国家にしがみつく国家主義者を誰が責められるだろうか。僕らは否が応でも崖っぷちに立たされてサルトルの深淵を覗き込まされている。足を滑らすことも、手を離すことも選択肢には有り得ない。何かにしがみつくしかない。全く無意味な世界に意味を持たせて自衛隊の駐屯地で腹切りしたり、アイスピックで仲間の胸を刺し続ける。そうしないと政治も世界も自分自身も意味を失ってしまう。しかし僕らのような変態よりも多いのは、世界が無意味なのは薄々感じつつも重力に逆らって浮遊する正常人だ。正常な人も変態も、政治ではなく資本主義経済のお蔭で昔よりずっと満足すべき状態におかれている。現状が維持できれば良いのだ。現政権で何が悪い?ということになる。三つの問題(飢饉・疫病・戦争)の軽減は政治に不満を抱く根本的な原因を縮小した。その半面、それらが技術的に対処可能な問題と考えられることによって、その責任が政治に求められるようにもなる。さてと、80年前に戻るか。31 服装と待遇《前略》バスが一口坂を過ぎる頃から、だんだんと口元の方へ近づいて来ると、中ほどのところに巡査が両手で両方の吊革を掴んでいて通れない。私は「ちょっと」と言って通ろうとしたら、巡査は私の方を振り返って見て、「おれも降りるんだ」と、まるでどなりつけるようなゾン気な口のききかたをして、一層その両腕を突張った。今までこんな場合に、こんな口のきき方をされたことがないので、やはり私の服装が労働者風のジャンパーだったためだったろうと思っている。p.36 昭和14(1939)年「近きより 31」『近きより2』第三巻第一号<新年号>当時の警官の横暴については以前にも書いた。お巡りさんは戦後、進化したが一般人はどうだろう。近頃は人により態度を使い分けるべきだ、という人も多いようだ。店員に対しては威張り散らしてもいい、あるいは、偉そうな態度をとることが偉いことだと勘違いしている人もいる。おぢさんは、誰に対しても優しく敬意をもって接するのが理想だと思う。実るほど頭を垂れる稲穂かな、という言葉もある。大震災のドサクサまぎれに、日本人はいろいろの国辱的の行為をなした。 このドサクサまぎれに事をするという風潮は、甚だ卑怯な、武士道に反する行為であることを、反省しておく必要がある。p.52 昭和14(1939)年「近きより 20」『近きより2』第三巻第二号<三月号>大震災直後、多くの朝鮮人が殺された。中国人も殺された。日本人も間違われて殺された。群衆は不確かな情報をもとに殺人を行った。我々はまた同じ事を繰り返さないか。今、入管法改正案が審議されている。現在、技能実習生と留学生が日本で多く就労しているが、その中で起きている問題を見直さず、何人受け入れるのか計画も予想もない。仕切り直して最低限のビジョンを示すべきだと思うが、ここまで拙速なのは産業界の意向だからだろう。数に任せて可決さえすればいいという傲慢さを感じる。にほんブログ村
2018.11.02
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東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡の東海系の系統に属すると思われる住居の土器を観察する。S字甕が含まれている住居を単純に東海系としたが、共伴するS字甕以外の土器が東海系かどうかは現時点おぢさんの知識では分からない。今回は単純にそれらに似たような形の土器を各地の報告書から拾ってみた。縮尺は統一していない。 分類結果 「東八木、阿曽岡・権現堂」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類 鏑川上中流域のエリア区分(遺跡の位置もこちらで) 鏑川上中流域の弥生集落分布 参考: 東八木、阿曽岡・権現堂(阿曽岡・権現堂エリア)古墳前期土器編年―甕(在地系1) 東八木、阿曽岡・権現堂(阿曽岡・権現堂エリア)古墳前期土器編年―(北陸系)東海系住居権現堂Ⅱ区83号住居、権現堂Ⅲ区153号住居が該当する。《権現堂Ⅱ区83号住居》4、5はS字甕。図を見る限り羽状ハケではなく放射状ハケのようにも見える。とすれば古いA類的なものとなるが、少しイレギュラーなだけか?5は横刷毛が残るF2(C類)、4は頸部までの残存で横刷毛は見えないが、横に開いた口縁部の形態からもF2としていいだろう。7もS字甕の台部とみて間違いないだろう。3の甕は何とも言えないが、それ以外のくの字甕や椀型の高坏は在来の系統とは思えない。くの字甕の頸部屈曲の角度や長さは3点共似た傾向を示しているように見える。底部の形が不明でこれだけではどこの系統ともいえない。椀型杯部の高坏は北陸にも東海にもありそうだが、図をよく見ると口縁端内部が面取りしてあるように見える。東海の有名な廻間遺跡の報告書を見ると杯部内面を面取りした高坏が廻間Ⅲ式2段階より前には一定程度みられるようだ。参考に廻間遺跡の椀型高坏を下に示す。くの字甕の外面の調整は1がヘラナデ、2がヘラケズリ、6がハケとなっており各様だ。廻間遺跡の椀型高坏図からのみではっきりしないが、口縁端部内面は面取りされているように見える。《権現堂Ⅲ区153号住居》こちらは3のS字甕のみで東海系としてしまったが、2の小型甕はおそらく直立口縁(月影式影響甕)で北陸系。1、2は底部が肥厚しているように見える。4の鉢は権現堂Ⅱ区83号住居の高坏のように口縁端部内面が面取りされ、底部が小さく突出している。類例を探したが今のところ見つけられていない。6の器台は括れ部に厚みがあり、端部に面を持つ。この器台は北陸系住居と推測した権現堂Ⅲ区141号住居6の器台の形に近い。北陸系住居とした阿曽岡65号住居の器台も同じ系統かもしれない。柳町遺跡(長野県飯山市)SI22柳町遺跡の北陸系土器は関東への影響を考えると面白いものが多い。廻間遺跡の器台廻間遺跡の器台の中から権現堂の器台になるべく近いものを探したが、ピッタリと一致するものはない。ただ部分的には似たところもあり、この器台の系統が東海系であっても違和感はない。左側は富山県、右側は長野県佐久市と中野市の遺跡から権現堂の器台に近いものを探した。廻間遺跡の例とどちらが似ているか甲乙つけがたい。器台に限らず、外来系土器の系統を割り出すのはなかなか難しい。S字甕があれば東海系住居としたが、在地の系統が明確には見いだせず、北陸系など外来系の影響が濃厚な所に東海の影響がかぶさったという印象を受ける。東海系とした2軒の住居の土器のほか、阿曽岡65号住居24の有稜高坏、阿曽岡92号住居4, 5の有稜高坏が東海系と思われる。科野で古墳前期に流行するハケ調整くの字甕[1]は在地の甕に北陸の甕の影響があって成立したと考えられるように、今回科野の土器を発掘調査報告書で見ていると在来、北陸、東海と簡単に割り切れないものが多く、かなり融合していたのではないかと感じた。また土器の移動と言っても、主に動くのは限られた器種ではないかという感触を得た。権現堂Ⅲ区153号住居に似た器台が出土した権現堂Ⅲ区141号住居の土器も、1甕の口縁端部の面取りや胴部のハケ?(観察表ではヘラミガキ)、2甕の口縁部などから北陸系と推定し類例を探したが見つからずどういう系統なのかはっきりしない。権現堂Ⅲ区141号住居の土器科野のS字甕は毛野のものより早い時期のものが多いように感じる。『廻間遺跡』の報告書では「土器の移動」について考察するなかで、東山道経由での廻間様式の流入を想定している[2]。時期によって主要な流入経路に変遷があったかもしれないが、利根川や荒川を遡上するルートが主なルートであった可能性はないだろうか。荒川流域の土器の様相を確認したい。[1] 青木一男 1999「古墳時代前期の土器の理解」『長野市内その3松原遺跡』 参照。[2] 赤塚次郎 1990「考察」『廻間遺跡』図版は以下各報告書から採った。 富岡市教育委員会 1997『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』 愛知県埋蔵文化財センター 1990『廻間遺跡』 飯山市教育委員会 1996『上野Ⅷ・柳町遺跡』 富山県教育委員会 2013『下黒田遺跡・下佐野遺跡・諏訪遺跡・蔵野町東遺跡・蔵野町遺跡・駒方南遺跡発掘調査報告』 富山県教育委員会 2004『富山市打出遺跡発掘調査報告書』 佐久市教育委員会 2001『一本柳遺跡群 西一本柳遺跡V・VI 中長塚遺跡I・II 松の木遺跡I・II』 中野市教育員会 1992『間山』にほんブログ村
2018.10.21
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NEWS ZEROの村尾キャスターが降版したり、報道ステーションの小川彩佳アナが降版したり、御厨氏司会の時事放談が終了したり。どうなっているんでしょうね。経営陣の忖度ですか。調べてもいませんが気になります。「その42:不易流行」の記事で『ホモ・デウス』という本を紹介した。この本によると現代は飢饉・疫病・戦争を克服しつつあるという。これは人類にとって前代未聞の状況である。前例のない水準の繁栄と健康と平和を確保した人類は、過去の記録や現在の価値観を考えると、次に不死と幸福と神性を標的とする可能性が高い。p.32 ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)『ホモ・デウス』(上)『ホモ・デウス』では、人間至上主義が現代の宗教であると指摘している。どんな政治的信条であろうと、人間至上主義という点ではネトウヨもアナキストも大差ない。 農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる。p.125 ユヴァル・ノア・ハラリ(著)柴田裕之(訳)『ホモ・デウス』(上)戦前でも天皇が現人神であると本気で信じる人は、たとえ国家主義者であっても少なかっただろう。とはいえ、そういう神話にある程度の陶酔を感じる者は多かったのではないか。日本の本質は国体であり、万世一系の天皇であり、天皇と日本はほぼイコールだった。彼らにとって天皇こそが至上の存在であり、彼らは天皇至上主義者だった。現在のいわゆる右派の隆盛は、日本会議を初めとするこの古い天皇至上主義者の地道な活動によるところが大きい。しかし、(はっきり分けられるものでもないが)現在のウヨクはこの古いタイプの国家主義者とは似て非なるものだ。現在の右派では、天皇至上主義者はむしろ少数派だ。その天皇崇敬の度合いはまちまちだが、彼等の多くにとっては日本イコール天皇ではないし、天皇は至上の存在でもない。ウヨクの多くにとって平和主義者の天皇はただただ邪魔な憎むべき存在となっている。安倍晋三氏、石原慎太郎氏やネット上のウヨクの言動を観察していると、明らかに彼らは天皇至上主義者ではなく、現代人らしく人間至上主義者である。現代人はウヨクであれ天皇という神をもはや必要としなくなった。さてと、80年前に戻るか。自由主義を憎む余り、自由までも憎んでいる人がある。自由の反対語は束縛または奴隷であるということを知らないのか。p.51 昭和14(1939)年「近きより 17」『近きより2』第三巻第二号<三月号>自民党の憲法改正草案と現行憲法を比較してみると、自民党の皆さんは自由を憎んでいるようだ。現地の兵隊さんを尊敬する余り、寄ってたかって蒼白いインテリを馬鹿にするけれど、飛行機を設計したり、火薬の研究をしている人達は皆蒼白いインテリだ。p.58 昭和14(1939)年「近きより 49」『近きより2』第三巻第二号<三月号>安全保障関連法案に反対する学者はバカ、共謀罪法に反対する学者はバカ、憲法改正に反対する学者はバカ。蒼白いインテリを馬鹿にする風潮は見事復活を遂げた。花柳界の女達にはいわゆる信仰家がかなり多い。だらしない生活を送っている彼等が、そのおまいりの日には朝早く起きて出かける。しかし彼等の信仰というのはかくの如くおまいりに行くことより多くも少なくもないのだ。おまいりに行くこと即ち信仰なのである。けれどこの程度の信仰家は愛国紳士の中にもかなりあるようである。p.59 昭和14(1939)年「近きより 53」『近きより2』第三巻第二号<三月号>近代は神の時代から人間の時代への過渡期だから信仰が薄れるのも無理もない。今や、神も英霊も死んじまった。安部氏のように靖国参りをしない国家主義者も可能だ。十年前、共産党を弾圧するのに熱心の余り、共産主義でさえなければ何でもよかった時代、青年の大衆は滔々として利己主義によって共産主義を清算したのだ。その結果が一種の新しい伝統となって現代の青年を支配しているように考えられて来た。p.65 昭和14(1939)年「近きより 68」『近きより2』第三巻第二号<三月号>現代の青年は国家主義に支配されているのだろうか?一部の青年はそうかもしれないが、何者にも支配されず、己の目で見、己の頭で考える頼もしい若者が多くいる。あえて言えば個人主義だ。未来は希望が持てるぞ。さて、80年経過し、再び自由を憎み、蒼白いインテリを馬鹿にし、靖国参り即ち信仰、という愛国紳士が共産主義でなければ何でもよいと利己主義に走ってはいないだろうか?彼等の愛国心は利己心が仮面を被ったものではないか?どうなんですか安倍さん。と本人に訊いても仕方ないか。個人主義は大いに結構だが、利己主義はいただけない。にほんブログ村
2018.10.14
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中高瀬観音山遺跡は高地性集落として有名な場所である。このブログでも既に取り上げた。 中高瀬観音山遺跡 中高瀬観音山遺跡―石鏃分析本遺跡は集落が狭い尾根上に継続して営まれていたために遺構の重複が激しい。このためいわゆる一括資料と言えるものがあまり見当たらない。編年作業の対象時期で例外的に一括性に優れる土器が取り上げられた住居2軒を見出したのでその土器を検討した。 分類結果 「中高瀬観音山」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類《216号住居》〔左〕216-1272 (F4) 〔右〕216-1274 (G2)216号住居ではS字甕が3点と球胴形のくの字甕2点が出土ている。S字甕はどれも上に示したものと似ており、全て横ハケがなくハケが粗いF4(D類)のタイプ。くの字甕もハケ調整で、もう一点のくの字甕の頸部はやや直立する。一ノ宮押出ではF2とF3のS字甕が主体で9号住居のみF6段階のS字甕が検出されていたので、216号住居のS字甕はその間を埋める資料となる。F5が抜けているが、F5は時期的な差ではなく口縁部が伸長するタイプでF4(C類)と並行する。〔左〕216-1271 (E2) 〔右〕216-1273 (C2)壺はこの2点が出土している。1271(E2としたがE3と中間的)はミガキ調整で底部は欠けているが突出しそうだ。1273(C2としたがC3と中間的)は粗いハケ調整となっており、頸部付け根には突帯のようなものが廻っている。〔左〕216-1265 (B1) 〔右〕216-1264 (B2)鉢はB1タイプとB2タイプが2点づつ、それぞれ似たような感じのものが出土している。216号住居はG2タイプの甕やC2タイプの壺など、F4のS字甕と並行する土器群を知るのに良い材料となる。《KJ04号住居》〔左〕KJ04-1317 (E??b) 〔右〕KJ04-1319 (A4Pa)KJ04号住居は数は少ないものの住居の重複がなく興味深い資料が出ている。壺1319は折り返し口縁部と肩部に縄文が施されている。口縁はやや異なるが、上丹生屋敷山遺跡の環濠外段階でよく見られたA2Paなどとほぼ同時期かやや先行するものだろう。共伴の高坏1317は脚部の大半を欠いているが、上丹生屋敷山の高坏で例に挙げたYA132号住居4(E4Na)と残存部までは似た形をしている。ただし、こちらは赤彩品である。中高瀬に適用できるか分からないが、上丹生屋敷山では高坏の赤彩品は環濠外段階にはほぼ見られなくなる。高坏1317も上丹生屋敷山の環濠外段階よりやや早いと推測できる。編年作業はまだ途中で暫定的であるが、今まで見てきた遺跡の時期的対応を推定した。上から下への順序で推移したという見通しを立てている。 上丹生屋敷山環濠内(1段階)、東八木阿曽岡権現堂(樽系) 中高瀬観音山KJ04、東八木阿曽岡権現堂(吉ヶ谷系) 上丹生屋敷山環濠外(2段階)、東八木阿曽岡権現堂(吉ヶ谷系) 上丹生屋敷山環濠外(3段階)、一ノ宮押出、東八木阿曽岡権現堂(吉ヶ谷系・北陸系) 上丹生屋敷山環濠外(4段階)、一ノ宮押出、東八木阿曽岡(東海系) 中高瀬観音山216 一ノ宮押出9土器の図はすべて群馬県埋蔵文化財調査事業団 1995 『中高瀬観音山遺跡』に依る。にほんブログ村
2018.10.13
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「熱狂的愛国主義≒宗教仮説」の記事を書いて以来、本を読みながら、熱狂的愛国主義(ショービニズム)について考えている。最初に読んだのは『近代日本のナショナリズム』。この本ではナショナリズムの思考やメカニズムについて考察している。ナショナリズムとは大いなる謎である。第一次世界大戦勃発時、レーニンは世界の社会主義政党が自国の戦争の支持に回ったことに驚愕する。ナショナリズムは、特定のネーション(国民・民族)に愛着し、これを優先する特殊主義の一形態であるように思える。他方、社会主義やマルクス主義は普遍主義的な思想である。普遍主義者の特殊主義への突然の折れ曲がり、ここに、この出来事の驚きの中心がある。p.1 大澤真幸『近代日本のナショナリズム』そうなのだ。藩同士で争っていては誰の利益にもならないと認識していながら、何故か国同士で争っていては誰の利益にもならないとは認識しない。しかも、それによって人類の悲劇が繰り返されていることがあまりにも明白であるにも関わらずである。さらに、自他ともに普遍主義的であると認めるであろう社会主義者までも容易にナショナリズムに転じてしまうというのだから事は重大だ。ナショナリズムは、特殊主義の一形態であると見なされ、これを批判したり、乗り越えようとする者は、コスモポリタニズムのような何らかの普遍主義的な思想に立脚しようとする。だが、第一次大戦の直後の出来事は、普遍主義によってはナショナリズムを克服しえないことを示唆している。p.2 大澤真幸『近代日本のナショナリズム』悲しいことに、その通りだろう。さらに、思想的にだけでなく現実的に国際化が進展したとしてもナショナリズムが容易には解消されないことは、多民族国家アメリカ、ロシア、中国、EUの状況を見れば想像に難くない。ナショナリズム自体が世界的になるというナショナリズム全盛の時代が現出している。普遍性への志向と特殊性への志向、真っ向から対立するこれら二つのベクトルが、いかにして、どのようなメカニズムに媒介されて接続することができるのか。普遍性への志向が、どうして、特殊性への志向へと反転するのか。ナショナリズムをめぐる探求が解明すべき中心的な問いは、ここにある。p.3 大澤真幸『近代日本のナショナリズム』普遍から特殊への突然の「反転」。ナショナリズムの謎の根本が一般的には認識もされていない。近代日本のナショナリズム【電子書籍】[ 大澤真幸 ]価格:1458円 (2018/10/6時点)楽天で購入さて、前回のナショナリズム全盛期80年前に戻るか。蔣の民衆に告ぐる書を読む。彼は日本を永久的の敵として闘っている。日本は東洋の団結のために闘っている。どちらが愛の分量が多いか、愛の分量が多い方が最後の勝利を得るものと知れ。p.35 昭和14(1939)年「近きより 24」『近きより2』第三巻第一号<新年号>中国には中国のナショナリズムがあった。日本には日本のナショナリズムがあった。そして、東洋の団結を建前に、西洋の物質主義文明の進出に精神の国日本が中心となって対抗する、という物語がナショナリズムを煽っていた。東洋全体を日本の支配下に置く試みは、普遍化の建前で特殊化の範囲を拡げる試みだった。支那民衆の、あの笑いを忘れたような顔は、不幸にして多くの野蛮未開の人種の中には一層多くある表情だ。 絶えざる苦悶と恐怖とが、あの表情を作り上げたのだ。p.46 昭和14(1939)年「近きより 8」『近きより2』第三巻第二号<三月号>日本人こそ野蛮未開の人種であったことを正木氏はのちに知ることになる。絶えざる、苦悶と恐怖を与えていたのも日本軍だった。この約一年前の日本軍兵士の陣中日記を覗いて見よう。《1937年》十一月九日 天気よし。 一天〔点?〕の雲なきまことに日本晴れなり。 児島姉より手紙とハガキ来る。 捕虜をひき来る油座氏これを切る。 夜に近く女二人、子供ひとり、これも突かれたり。p.71 「堀越文男陣中日記」、小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』《1937年》十月六日《前略》九時目的地に到着する、出発地より八里楊行鎮、途中家屋の破壊せる様、惨たり、死体の臭気に顔をそむく、目的地にて捕慮〔虜〕十余人銃殺さる、水悪くコレラ患者あり《後略》p.8 「斎藤次郎陣中日記」、小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』捕虜を殺し、女、子供も殺す日本軍。蔣介石の不屈なねばり強さに感心している外国人があるが、無力なる同胞の困苦窮乏に無神経になりさえすれば、誰だって長期抗争は出来るのである。キリストだってソクラテスだって、これを殺すには手間がかからなかった。太古の時代から為政者の妄想のため、国を亡した例はいくらでもある。むつかしいのは国民を真に幸福にし、生物学的にも隆盛に赴かしめることである。p.48 昭和14(1939)年「近きより 8」『近きより2』第三巻第二号<三月号>見事なカムフラージュ。蔣に対する批判は本音かもしれないが、言いたいのは後半の為政者に対する警告だろう。正木氏の懸念した通り、この何年か後に、国民の困苦窮乏に無神経な軍部と政府首脳のもとで、不屈なねばり強さを発揮する羽目になったのは日本人だった。蔣も日本軍もそれぞれの国民の支持を集めていた。その支持はナショナリズムに基づくものだった。にほんブログ村
2018.10.08
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木島平村の根塚遺跡を訪れた。朝鮮半島の加耶地方からもたらされた渦巻文装飾付鉄剣が出土したことで有名な場所である。遺跡は弥生後期の円形墳丘墓、集石墓、木棺墓が点在する小さな丘である[1]。周辺は田んぼが広がっており。大塚・平塚・小塚と呼ばれる丘が海に浮かぶ島のように田んぼから突き出している。これらの丘は古墳のようにも見えるが、基部の堅い安山岩が残って出来た自然残丘と考えられている。根塚遠景。右側の杉木立が根塚。大塚。根塚から平塚を望む。平塚からも弥生時代後期の住居址が1軒見つかっている。詳細は以下の報告書を参照。 根塚遺跡(全国遺跡報告総覧)根塚遺跡周辺根塚は弥生時代後期には墓域として利用されている。墓の遺構が根塚の丘に点在する。遺構のおよその位置を以下の図に示す。『根塚遺跡』「第1図 グリット設定図」に加筆《拡大可能》遺跡の中心には円形墳丘墓(黄色円)がある。周溝までの斜面には河原石で2、3m幅の貼石がされていたとされる。円形墳丘墓の中央には南側が開口した円形周溝墓(オレンジ円)が有り、そのほぼ中央に6号木棺墓が位置する。根塚遺跡の木棺墓は木棺自体は残存せず痕跡から推定される。棺底からは細形管玉73点、ガラス小玉が134点、側板溝より3号鉄剣が出土した。そのほか、円形周溝墓の墳丘と周溝などから勾玉1点、管玉2点、砥石1点、多量の弥生土器が検出されている。円形墳丘墓(『根塚遺跡』巻頭図版2より)円形墳丘墓の北西には1~3号の集石墓が存在する。いずれも河原石を使用している。丘の西側では木棺墓が6基検出された。7号木棺墓に接して2号鉄剣が出土している。7号木棺墓の周りは三重の柱穴群が楕円形に取り囲んでいるのが検出され、その一番外側の楕円内で1号鉄剣が検出された。2号鉄剣(木島平村『根塚遺跡』巻頭図版4より)根塚遺跡の一番のお宝。2号鉄剣は朝鮮伽耶地方で製作された儀礼用の剣と考えられている。長さ74cmで弥生時代の鉄剣としては最大級。根塚遺跡では他に弥生時代の実用剣が2本出土しておりこちらも朝鮮半島で製作されたものと考えられている[2]。渦巻装飾の類例は国内では京都市八幡市のヒル塚古墳(4世紀後半)にある。朝鮮半島では慶尚南道金海市酒村面の良洞里古墳にいくつか見られる[3]。第162号の轡、第212号出土の鉄剣、第313号出土の鉄剣等がある。これら鉄製品は土坑木槨墓から出土し。第162号はA.D.2C後半、第212号はA.D.2C末~3C初に比定されている。 八幡の古墳と鏡(7)-ヒル塚古墳と渦巻状装飾付き鉄剣-(Y-rekitan 八幡) 京都府立山城郷土資料館 - 邪馬台国大研究 ページ 3/4 辺りに写真あり 「八幡市ヒル塚古墳の発掘調査」『京都府埋蔵文化財情報』第33号 (京都府埋蔵文化財調査研究センター) 慶州舍羅里130号墓 ページ中ほどに渦巻装飾写真あり 蔚山下垈遺跡43号墓 ページ中ほどに渦巻装飾写真あり 金海良洞里162号木槨墓 ページ中ほどに渦巻装飾写真あり 蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?(ひもろぎ逍遥) 後の時代であるが関連?根塚遺跡の弥生時代の鉄剣はいずれも剣先を西に向けた状態で見つかっている。これらの鉄剣や墓の年代推定の決め手となる土器形式は、報告書によると円形墳丘墓のあるK区の土器は尾崎式段階の終わり頃から箱清水式段階。1号と2号鉄剣が出土したB区の土器も尾崎式段階から箱清水式段階だがK区よりも若干新しい様相とされる。報告書で引用している「99シンポジュウム 長野県の弥生土器の編年」が手許にないこともあって、樽式との併行関係がいまいちはっきりしないが、だいたい樽式2期末期から3期初頭だろうか。朝鮮半島の渦巻装飾品の年代とも近いと思える。 石川県埋蔵文化財情報 [PDF](石川県埋蔵文化財センター) 長野県と石川県の併行関係が参考になる。鉄剣の渦巻装飾からは蕨手刀を、二股に分かれた柄からは新保田中村前遺跡(高崎市)の鹿角製の柄を連想したが、関連はあるのだろうか?蕨手刀は7世紀後半に科野と上毛野で発生し、その後東北に波及したものと考えられるので直接の関連は考えにくい。鹿角製の柄は弥生後期と思われるので関連があるのかもしれない。新保田中村前遺跡 鹿角製の柄 2009/02/26 発掘情報館だより(群馬県埋文) 鹿角製の柄を取り付けた鉄剣の復元画像あり鉄剣、ガラス小玉、翡翠製の勾玉という副葬品や、円形周溝墓の主体部の木棺墓や礫床墓などは有馬遺跡(渋川市)とよく符合する[4]。有馬遺跡の礫床木棺墓という墓制は長野方面から伝わったと考えられ、両遺跡ともに河原石を主に使用している。〔左〕根塚遺跡のガラス小玉・管玉・勾玉 〔右〕有馬遺跡のガラス小玉・勾玉(『根塚遺跡』巻頭図版6、『有馬遺跡Ⅱ 弥生・古墳時代編』《本文編》巻頭図版より)有馬遺跡の集落は樽式の1期から形成され、3期に最盛期を迎え、古墳前期にも継続する。3期の単位墓群・周溝墓が27基、主体部として礫床墓87基が検出されたほか、土器棺墓46基も検出されている[5]。時代的に根塚遺跡の礫床墓と重なっていた可能性もあるだろう。副葬品は、総数で鉄剣8本、鉄釧2、銅釧4、銅鏃1、翡翠製勾玉3、石製管玉8、ガラス小玉322などが見つかっている[6]。ガラス小玉のガラスは両遺跡ともカリライム系ガラス。管玉も両遺跡で多数出土している。根塚遺跡の管玉は鉄石英と碧玉製、有馬遺跡の報告書では赤色ケイ質岩と報告されているものが多いが、根塚で鉄石英と報告されているものに相当するだろう。鉄剣の剣先は足元の方向を向く傾向があるようだ。主体部の方向は決まっていない。ガラス小玉は頭部付近、剣は腰のあたりから出土することが多い所から見ると、身に着けていたか、それに近い状態で埋葬したのだろう。日本海側からの金属器の流入は、北近畿(特に丹後)→能登→善光寺平→毛野というルートを想定できる[7]。北陸からの影響は根塚遺跡の土器からも窺われる[8]。この道は丹後から、さらに朝鮮半島に通じていた。出土品は村内の「農村交流館」内「木島平村ふるさと資料館」に保管されているが、担当者が不在で収蔵庫は見ることが出来なかった。事前に問い合わせた方が良い。資料館には村内の弥生時代後期の三枚原遺跡出土の土器が数点展示されている。[1] 吉原佳市ほか 2002『根塚遺跡』木島平村教育委員会 根塚遺跡の遺跡および遺物に関する基本的な情報と、遺物の図版はすべてこの報告書に依った。[2] p.112-137 大澤正己・影山英明「第Ⅶ章 鉄剣分析結果」『根塚遺跡』[3] p.65『根塚遺跡』[4] 佐藤明人ほか 1990『有馬遺跡Ⅱ 弥生・古墳時代編』群馬県教育委員会 有馬遺跡の遺跡および遺物に関する基本的な情報と、遺物の図版はすべてこの報告書に依った。 [5] p.9『有馬遺跡Ⅱ 弥生・古墳時代編』《本文編》[6] p.466『有馬遺跡Ⅱ 弥生・古墳時代編』《本文編》[7] p.27 深澤敦仁 2015「樽式土器文化圏の人々が感じた新たな時代のはじまり」 『ゆくもの くるもの』 深澤氏は田口氏と、豊島氏の言葉を紹介しながら弥生後期の情報ネットワークの帰着地として 樽式土器文化圏を位置づけている。 「田口一郎氏は樽3期の状況を「今、内陸の有馬の地から、遠く丹後の海を望む。」と表現し ている。」「豊島直博氏が「東日本型金属器文化圏」と示した動態」[8] p.47, 54 『根塚遺跡』K区出土67甕が北陸系土器とされている。 p.39-40, 56 田嶋明人 2009「古墳確立期土器の広域編年」『石川県埋蔵文化財情報』第22号 [PDF](石川県埋文)ではB区出土101高坏が能登宝達志水町宿東山6住例に酷似し、漆町2群併行としている。関連文献 福島孝行 2016「洛東江流域の源三国時代墓制と丹後・但馬地域の弥生時代後期墓制」[PDF] 『京都府埋蔵文化財論集 第7集』(京都府埋文)にほんブログ村
2018.09.29
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今回は、東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡の北陸系の系統に属すると思われる住居の土器を観察する。住居毎に見てみいく。縮尺は統一していない。 参考: 東八木、阿曽岡・権現堂(阿曽岡・権現堂エリア)古墳前期土器編年―甕(在地系1)土器の例を挙げた遺跡の位置地図データ ©2018 ZENRIN ①東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡 ②栗林遺跡 ③六反田南遺跡 ④県・県西南部遺跡 ⑤下佐野遺跡 ⑥愛宕遺跡 ⑦小林遺跡北陸系住居阿曽岡11、阿曽岡33、権現堂Ⅲ区143の各住居が該当し、阿曽岡40、権現堂Ⅲ区141も同系統だと推測する。《阿曽岡11号住居》阿曽岡11号住居の土器[1]面を持ちわずかに上下に伸長する口縁端部と肩が張り尖った底部が推測される器形や、胴部のハケ調整が施された甕2,3は、千種甕の系統。また、5の器台も明らかに北陸系のもの。以下に類例を北陸と科野から挙げる。阿曽岡11号住居土器の類例〔左上〕栗林遺跡第33号住居7 〔右上〕六反田南遺跡SK218-11〔左下〕六反田南遺跡SD213-36 〔右下〕栗林遺跡第29号住居57《阿曽岡33号住居》阿曽岡33号住居の土器阿曽岡33号住居の甕も明らかに北陸系と思われる。頸部内側の段差も北陸系の甕によくみられる。阿曽岡33号住居の土器の類例〔上段〕六反田南遺跡SD196〔下段〕県・県西南部遺跡1号住居《権現堂Ⅲ区143号住居》権現堂Ⅲ区143号住居の土器球胴化傾向とハケ調整が全体的に顕著。甕1は頸部の輪積みが吉ヶ谷系にみえる。胴部がハケ調整になっており、吉ヶ谷系と北陸系が融合しているように見える。北陸系器台も出ている。〔左〕下佐野遺跡SZ9-81〔中〕愛宕遺跡SD404B-153、愛宕遺跡SK23B-154、愛宕遺跡SD103B‐155〔右〕小林遺跡SX01-447、下佐野遺跡井波地区SI02‐3119下佐野遺跡SZ9-81の壺?の短いピッチのハケはいかにも北陸らしい。図では頸部に輪積痕が残っているように見える。底部の突出も権現堂Ⅲ区143号住居壺2に対応している。輪積みはたまたまかも知れないが結果的に似ている。短い頸部が直立する甕は多くは無いが珍しくもないようだ。器台も高坏もピッタリ一致ではないが似ているといえそうだ。よく探せばもっと似ているものがありそうだ。このように、図化された土器のすべてが北陸系に見える住居があるほか、阿曽岡47号、阿曽岡65号などは北陸系と思われる土器を含んでおり、北陸の影響が遺跡全体としても強く認められる。[1] 各遺跡の土器の図は、以下報告書より採った。東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡 富岡市教育委員会 1997『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』栗林遺跡 長野県埋蔵文化財センター 1994『長野県中野市内 : 栗林遺跡・七瀬遺跡』六反田南遺跡 新潟県教育委員会 2008『六反田南遺跡・前波南遺跡』県・県西南部遺跡 長野県埋蔵文化財センター 1998『軽井沢町内・御代田町内・佐久市内・浅科村内 : 県遺跡・県西南部遺跡・池尻遺跡・小田井城南部台地遺跡・唄坂遺跡・金井城跡・中金井遺跡群・栗毛坂遺跡群・下蟹沢遺跡・長土呂遺跡群・常田居屋敷遺跡群・前田遺跡群・砂原遺跡・中平・田中島遺跡・土合遺跡』下佐野遺跡 富山県教育委員会 2013『下黒田遺跡・下佐野遺跡・諏訪遺跡・蔵野町東遺跡・蔵野町遺跡・駒方南遺跡発掘調査報告』愛宕遺跡 富山県教育委員会 2013『白石遺跡・大江東遺跡・大江遺跡・愛宕遺跡・今開発東遺跡・今開発遺跡・三ヶ・本開発遺跡発掘調査報告』小林遺跡 大島町教育委員会 2003『小林遺跡』下佐野遺跡井波地区 高岡市教育委員会 1992『市内遺跡調査概報 I』にほんブログ村
2018.09.24
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世界的に右派政党が台頭したあたりから、どうも現代世界の政治と大衆(特に日本)が理解できないと感じていた。自分の世界認識が古臭くなって、自分の思考が放つ腐敗臭に息が詰まり、咽かえるような思いをしている。80年前をなぞるとしても、現代に活かしたいと考えているので、自分が若かった頃と何が変わったのだろうという問いを反芻していた。そして最近『ホモ・デウス』という本を読んでいて、ここではないかというものに思い当たった。この数十年というもの、私たちは飢饉と疫病と戦争を首尾良く抑え込んできた。もちろんこの三つの問題は、すっかり解決されたわけではないものの、理解も制御も不可能な自然の脅威ではなくなり、対処可能な課題に変わった。p.10 ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』(上)この本の主題は「この三つの問題」ではなく、それらが解決に近づいた後どうなるのかというのが主題であり、政治が主題でもないようだが(追記:読み進めて分かったが政治の根本に関わる本であった)、おぢさんは「この三つの問題」がほぼ解決される、ということが政治にもたらす影響について考えずにはいられなかった。この手の問題はほぼ解決されました的な言説にはかなりの抵抗を感ずるが、大きなトレンドとしては首肯できるものであると考える。例えば、世界全体の5歳未満児死亡率はWHOによれば1990年には出生1000人当たり90.6であったのが2016年には42.5にまで減少している[1]。これは飢饉と疫病の問題が改善されない限り起こりえない現象だ。多くの人が疑問に感じるに違いない戦争も、直近の世界的戦争である第二次世界大戦当時の人口が22億人、死傷者数が4千万人であるとすると世界人口の1.8%が犠牲となった。これは積算なので年間ではずっと少ない。膨大な犠牲ではあるが、世界的に割合で見るとその犠牲者や遺族は少数派だ。第二次世界大戦が終結後も数々の戦争が発生したが、先の大戦に匹敵する死傷者数を数えた戦争は発生していない。キューバ危機などいつも瀬戸際には立っていたが結果として核戦争は発生していない。73年間世界規模の大戦は発生していないのである。今や先の大戦の記憶を持つ可能性のある80歳以上が世界人口に占める割合はわずか1.7%[2]である。少数派だからなんだ。というのがおぢさんの素直な感情であるが、この少数派(多数派ではない)に過ぎないというのは重要な点だ。ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来【電子書籍】[ ユヴァル・ノア・ハラリ ]価格:3888円 (2018/9/22時点)楽天で購入続きはそのうち書くとして、80年前に戻るか。自民党総裁選の街頭演説で、安部晋三氏はまたもや批判を批判するという後ろ向きなことをしていた。曰く「野党や一部のマスコミは批判ばかりしていた。今でもそうだ。批判だけしていても何も生み出すことはできない。私たちに求められているのは具体的な政策だ。私たちは無駄な批判はしません! 」。無駄な批判ですね。。。圧倒的な議席を持つ自民党の、これまた圧倒的な総裁が批判を意識する必要は無い。本人も言うように愚直に政策で攻めればいいだけの話だ。余程うしろめたい事あるのか、経済政策で行き詰っているということを自覚しているということだろう。この期に及んで政権が批判を批判するというのは、一切の批判を許さない言論弾圧と呼ぶべきか。首相が右翼学園の便宜を図ろうが、お友達の学部新設の便宜を図ろうが、国会で嘘をつこうが、官僚がそのために嘘の答弁をしようが、公文書を改竄しようが、それを苦に官僚が自殺しようが、何をしようが蚊の鳴くような批判しか起こらない日本国民は治めやすい国民だ。80年前から変わらないし、今後も変わることはない。日本では放火犯の冤罪[3]で、別の真犯人が別の事件で出て来るまで、二年半も刑務所に入れておいた事件を、新聞も別に大問題にせず、また責任者が被免されることも無いらしいのです。治め易い国民です。p.35 昭和14(1939)年「近きより 28」『近きより2』第三巻第一号<新年号>日本では何故冤罪事件を問題にしないのか?全体の為に個人の犠牲は仕方がないという考え方があるからだ。人間である前に使い捨ての国民であることが求められる社会は我々自身が作り出している。右翼の大御所のように噂されていた平沼騏一郎氏が首相になった[4]が、その言うところ、為すところ、何等国民を興奮させるものがない。 ただ一議員の質問に答えて「日本の皇道主義と外国の全体主義との相違は、外国のは全体のために個人を犠牲とするに反し、日本の皇道主義は全体のために個人を犠牲にしない」といったことだけは国民は銘記しておかねばならぬことと思った。p.49 昭和14(1939)年「近きより 8」『近きより2』第三巻第二号<三月号>日本人は生きて帰ると本人ばかりか、家族までもが爪弾きにされ、袋叩きに遭う。全体の為に徹底的に個人を殺す村社会日本。やがて特攻隊という個人犠牲の狂気を産みだした。この歴史を知る日本人は正木氏の言う通りこの平沼の嘘を銘記しておかなければならなかったが、そんな記憶力は私たちには期待できない。今も会社の為に個人が犠牲となる狂気が続いている。司法三長官[5]を務め、司法の知識に明るいのみならず、不思議と弁護士の仲間に知己の多いこの首相平沼騏一郎氏時代に、忌まわしい人権蹂躙を根絶する制度が確立しなかったら、当分人民共は切捨御免の官尊民卑時代が続くものと観念しなければなるまい。p.49 昭和14(1939)年「近きより 8」『近きより2』第三巻第二号<三月号>平沼騏一郎が人権蹂躙の元凶だったことを皮肉っているのだろう。平沼騏一郎は大逆事件の首謀者であり、検事としてアナキストを含む土民26名を刑法73条(大逆罪)という無実の罪に陥れ、幸徳秋水以下12名(14名は恩赦などにより未遂)を殺害した。この平沼らによる殺人事件以来1945年の日本の滅亡は約束された。天皇を裁かない茶番の東京裁判により、戦前体制を裏で維持した日本は再び戦前体制が表となり自滅しようとしているが、今度は他の国家群と共に仲よく蒸発するだろう。国家は戦うべき相手ではない。歴史上の儚い夢である国家は相手にせず、受け流し、やり過ごすのが正しい対処法だ。[1] Global Health Observatory (GHO) data - 3.2 Newborn and child mortality(WHO)[2] ”Population by Age Groups - Both Sexes” World Population Prospects 2017(United Nations) を基に計算。[3] 一九三五年、新潟県内で発生した放火事件で、畳職のMが犯人として起訴され、大審院まで一貫して無実を主張して争ったが及ばず、放火犯として服役した。ところが、三八年真犯人が名乗りでて、Mは再審の結果、ようやく無罪となった。(旺文社文庫版注)[4] 皇道主義をかかげた右翼の総本山「国本社」の創設者・平沼騏一郎が、一九三九年一月五日内閣首班となった。(旺文社文庫版注)[5] 司法大臣、大審院長、検事総長の三つのポストを指す。(旺文社文庫版注)にほんブログ村
2018.09.23
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今回は、東八木、阿曽岡・権現堂の甕を分析する。東八木遺跡と阿曽岡・権現堂遺跡は高田川を挟んで500m程の距離があるが、報告書も一緒になっているのでまとめて扱う。 分類結果 「東八木、阿曽岡・権現堂」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類 鏑川上中流域のエリア区分(遺跡の位置もこちらで) 鏑川上中流域の弥生集落分布東八木遺跡Ⅰ区からは弥生時代後期の住居址7軒が検出されている。阿曽岡地点からは弥生時代後期の住居址が58軒、古墳時代前期住居址が4軒検出されている。権現堂地点Ⅰ区からは弥生時代後期6軒、Ⅱ区からは古墳時代前期6軒、Ⅲ区からは弥生時代後期25軒、古墳時代前期9軒の住居址が検出されている。権現堂地点は全面調査ではなく道水路部分のみの発掘のため、さらに多くの住居が存在したことは確実視されている。周辺には宇田恵下原遺跡、一ノ宮押出遺跡、宮崎浦町遺跡、黒川小塚遺跡が存在する。おそらく、弥生中期後半以降、位置を変えながら集落が継続して営まれていたのだろう。同遺跡の古墳前期の土器の様相は混沌としている。吉ヶ谷、南関東、北陸、東海などの要素が、あまり溶け合わずに共存する。深澤敦仁氏が示した古墳前期の1期の様相がよく表れている。 引用の「1期」部分を参照。 鏑川上中流域弥生末期~古墳前期土器の変遷見直しの為の地ならし(おぢさん)遺跡全体を見渡すと、時期も土器の傾向も多様で途方に暮れるのだが、住居毎に決まった系統に属していると思われる場合が多いことが分かった。住居を土器のタイプで見ていくと以下の4つの系統に分類できる。 樽式系:櫛描簾状文と波状文が指標となる。 吉ヶ谷系:頸部輪積みと縄文が指標となる。 北陸系:口縁部の面取りと尖った底部(千種甕)、直立幅広の口縁(月影甕)、 装飾器台が指標となる 東海系:S字甕、有稜高坏が指標となる。樽式は当地で弥生中期後半の竜見町式から継続する在地様式である。この地域では樽式の3期区分での2期から縄文を施す吉ヶ谷式の影響がでてくる。3期にはほぼ在地化し、融合する現象も起きている。この吉ヶ谷式に始まる東南方向からの影響は、所謂4期に南関東からの影響となって継続するのだろう。今回は北陸や東海の影響よりも、吉ヶ谷式を含む在地様式が依然優勢な住居を観察していく。樽式系住居阿曽岡20、阿曽岡54、権現堂Ⅲ区172の各住居が該当し、甕では A1Ra のタイプが圧倒的に多い。頸部輪積痕や縄文を施すものが少数見受けられる。これらの住居では外来系土器は見られず樽式の3期と考えてよさそうだ。〔左〕阿曽岡54号住居2(A1Ra) 〔右上〕阿曽岡20号住居7(B1Ra) 〔右下〕阿曽岡20号住居6(A1Ra)吉ヶ谷系住居阿曽岡47、阿曽岡65が典型的なものと言える。甕では B1Ra(頸部輪積痕があり、櫛描文を施す)の頻度が一番高くなる。樽式系住居の段階から継続するタイプであり、外見上特に変化は見られない。縄文を施すものの頻度も上がる。樽式と吉ヶ谷式が並存する中に南関東系と思われるものや北陸系が少数みられる。これが樽式系住居の次の段階に位置付けられるだろう。〔左〕阿曽岡47号住居6 〔右〕阿曽岡47号住居10〔左〕阿曽岡47号住居4 〔右〕阿曽岡65号住居1帯縄文と強い球形胴志向と赤彩。弥生町式などの帯縄文土器文化圏からの影響を疑う。類例を探したい。〔左〕阿曽岡65号住居21 〔右上〕阿曽岡47号住居18 〔右下〕阿曽岡65号住居20ハケ調整で口縁部に刻みの入る単口縁台付甕は、おそらく同時期の南関東でも一般的。あまり自信がないが〔左〕の台付甕は器形的に科野方面からの影響ではないかと感じる。〔右上〕は月影甕の影響でよいとして、〔右下〕もハケ調整と器形の類似から北陸系と見てよいだろう。このように、在地様式が依然支配的ながらも、他の様式に属する土器が少数認められるのが、この時代の様相だ。土器の図は富岡市教育委員会 1997『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』から採った。にほんブログ村
2018.09.16
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親に甘やかされて育てられたかった、という人はいるだろうか。子供を甘やかして育てたいと思う人はいるだろうか。何をやっても注意されず、我儘いっぱいに育つ。マナーも身につかず、だらしない生活習慣を直そうともしない。幼児のうちはまだいいが、そのうち手に負えなくなる。自分の非を認めようとせず、注意をすれば逆切れしたり、開き直ったり。大半の人は、甘やかされて育てられたいとは思わない。國を愛するという気持ちが、子を甘やかす親のようになっていないか。さてと、80年前に戻るか。 16 生命の実相 ある人から谷口雅春氏の名著「生命の実相」を贈られました。余り厚いので放っておきましたが、せっかくだからと思って、ちょっとのぞいて見ると、中々警句に富み面白いものでした。ただ医薬や医療をけなしているのが感服出来ません。医療の知識は、やはり人間の道具と同じく人間を人間たらしめる神の贈り物で、言わば神業であると思います。お薬師様も神様ではありませんか。皇軍が支那の西瓜を喰べてコレラにかかったような場合、本人の心懸けが悪いといえましょうか。戦争などするから悪いのだといえば、日本に戦争をさせているのは、日本人ではなくて世界です。世界を直さなくてはコレラを予防することは出来ません。それまで待つと病人は死んでしまいます。精神でコレラが治るんだというよりは、コレラの予防注射をしたり、弱酸性の水につけてコレラ菌を殺してしまう方がよろしくありませんか。p.24-25 昭和14(1939)年「近きより 16 生命の実相」『近きより2』第三巻第一号<新年号>どこから手を付けたら良いだろう。まずはやはり、谷口雅春氏に触れないわけにはいかない。谷口雅春氏といえば、あの日本会議の母体となったといわれる生長の家の創始者である。『生命の実相』は雑誌『生長の家』の合本ということだ。「名著「生命の実相」。余り厚いので放っておきました」わかります。おぢさんも読む気になりません。「医薬や医療をけなしているのが感服出来ません。」どうして、医薬や医療をけなすのかは以下記事を読むと、なるほどねとなる。 島田裕巳『日本会議と「生長の家」、世間が知らない本当の関係』(iRONNA) 「生長の家」創始者・谷口雅春先生を学ぶ会「戦争などするから悪いのだといえば、日本に戦争をさせているのは、日本人ではなくて世界です。」近頃、日本人がよく口にするフレーズに似ている。「戦争をしようとしているのは、日本ではなくて中国です。悪いのは中国です。」何時の時代も、何処の国でも悪いのは外国。自国は悪くない。この時点で正木氏も日本人だった。そう言えば過去数年間の日本は、外国を馬鹿にし、日本を世界一のように言うことが愛国者の資格である如く流行していた。p.32 昭和14(1939)年「近きより 19 戦時下の国民」『近きより2』第三巻第一号<新年号>愛国者の資格は80年前と変わっていないようだ。今も旧態依然とした愛国者が日本を覆い尽くしている。我が子を溺愛し、他所様の子を馬鹿にする。自分の子を一番のように言う。恥ずかしい親と愛国者の資格はあまり変わらない。もし戦争がこんなに拡大することが初めから解っていたとするならば、国際連盟にいて、日本の八紘一宇の大思想を彼等の面前に叩きつけ、人種平等、門戸開放、移民の自由、関税障壁撤廃、印度独立等を叫び、支那を味方にひっぱりこんでおいた方がよろしかったかも知れない。p.33 昭和14(1939)年「近きより 23」『近きより2』第三巻第一号<新年号>今でも所謂愛国者に人気のある八紘一宇の大思想。三原じゅん子議員が3年前に国会でこの言葉を口にして物議を醸した。国会での前後の発言は以下リンクで確認していただきたい。 「八紘一宇」とは何か? 三原じゅん子議員が発言した言葉はGHQが禁止していた (HuffPost)総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか? 三原じゅん子議員 2015/3/16 参議院予算員会 (取り消し線はおぢさんによる)「八紘一宇」という言葉を除けば全く賛成だ。おぢさんもやや似たような趣旨のことを以前記事に書いた。しかし、ここで「八紘一宇」という言葉を使うことに関しては、不適切としか言いようがない。彼女はなぜここで「八紘一宇」という解説が必要な言葉をわざわざ持ってきたのか。私とて、この言葉が戦前に国威発揚のために使われたことは存じております。そしてあの戦争が日本の歴史に悲劇をもたらしたことも十分に理解しているつもりです。 よって戦争の原体験を持つ政治家たちの多くは、「八紘一宇」をそういう意味としてとらえてきたのです。でも私たちにはそうした体験はありません。だからこそ、この言葉が持つ本来の意味を評価する必要があると思います。三原じゅん子「だから私は「八紘一宇」という言葉を使った」(東洋経済オンライン)この言葉は戦前、世界を欺くために使われた言葉である。松岡〔洋右〕に言わせれば、八紘一宇は「世界的な同胞主義」を意味し、八紘一宇のもとで世界中のあらゆる国民が「それぞれ自分にふさわしい場所」をもつようになるという。だが松岡自身が明らかにしたところでは、この「同胞主義」は日本を「盟主」とし、各国民に「ふさわしい場所」を割り当てるのは当然、この「盟主」になるだろうという。p.42 オットー・D・トリシャス 著、鈴木廣之/洲之内啓子 訳『トーキョー・レコード(上)』八紘一宇の理念と実態が真に「世界的な同胞主義」であったならば、支那を味方にすることもできただろう。東南アジアの占領地域で反日の動きが出てくることもなかっただろう。侵略の意図を覆い隠すために使われた言葉を、その歴史を体験していない世代は、本来の意味で評価すべきだという。自分たちの世代が体験していない歴史は無かったかのように素通りだ。そして、最大の問題はこの「八紘一宇」の本来の意味である。そもそも「八紘一宇」の本来の意味は何なのでしょうか。この語源は、神武天皇が即位された際に作られたとされる「橿原建都の詔(みことのり)」に遡ります。「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」つまりは「世界のすみずみまでも、ひとつの家族のように仲良く暮らしていける国にしていこうではないか」という建国の理念です。三原じゅん子「だから私は「八紘一宇」という言葉を使った」(東洋経済オンライン)世界の・・・という現代語訳は、善意の意訳ではなく、悪意に満ちた誤訳である。原文は神武紀即位前紀己未年三月「掩八紘而為宇、不亦可乎」であるが、「八紘」は「世界のすみずみ」で良いとして、問題は「掩」=「(覆)おおう」だがいったい誰が覆うのか?これは言う迄もなく神武天皇である。そして「宇(いえ)」となっているが、原義は「ひさし」「のき」の意で「家」に直結する。そこから、「空間」「天下」「国家」の意味が派生する。「(天皇が)世界のすみずみまでも支配して、(天皇の)国家にすることは、大変良いことではないか」というのが素直な訳である。そしてこれが、列島内他民族侵略の動機を素直に吐露したものであり、千七百年の時を隔てた亜細亜他民族侵略の動機でもある。近代と現代においては、その真意を掩い隠しているだけである。おぢさんの訳が妥当なものであることは、直前の己未年二月条を読んでみるとはっきりとする。それは凄惨な他民族殺戮紀である。此の三処の土蜘蛛、並に其の勇力(たけきこと)を恃みて、来庭(まう)き肯(か)へにす。天皇乃ち偏師(かたいくさ)を分け遣して、皆誅(ころ)さしめたまふ。又高尾張邑に、土蜘蛛有り。其の為人(ひととなり)、身短くして手足長し。侏儒と相類(あいに)たり。皇軍、葛の網を結きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めてその邑を号(なづ)けて葛城と曰ふ。夫れ磐余(いはれ)の地の旧の名は片居。亦は片立と曰ふ。我が皇師の虜(あた)を破るに逮(いた)りて、大軍集ひてその地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。或の曰はく、「天皇往(むかし)厳瓮(いつへ)の粮を嘗(たてまつ)りたまひて、軍を出して西を征ちたまふ。是の時に、磯城の八十梟帥(やそたける)、彼処に屯聚(いは)み居たり。果して天皇と大きに戦ふ。遂に皇師の為に滅(ほろぼ)さる。故、名けて磐余邑と曰ふ。《中略》又、族衆戦ひ死(う)せて僵(ふ)せる屍、臂(ただむき)を枕きし処を呼びて頰枕田と為ふ。p.236 岩波文庫『日本書紀(一)』「八紘一宇」は紛れもなく侵略国家の理念であり、未来永劫、捨て去るべきものである。にほんブログ村
2018.09.01
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今回の科野旅行で見て実感したいと思ったのは、土器における北陸からの影響と、日本海側からの金属流入である。中野市の柳沢遺跡は銅鐸5個、銅戈8本を出土した遺跡で、これだけの数の銅鐸、銅戈が一つの遺跡から出土するのは全国的に見ても珍しい。銅戈のうち1本は九州型で、畿内型と九州型が一緒に出土したのは初めてである。これ等銅器の埋納時期は弥生中期後半から後期初頭と推定されている。 中野市内その3 : 中野市柳沢遺跡(全国遺跡報告総覧)柳沢遺跡の周辺©2018 Google、ZENRIN柳沢遺跡は千曲川と夜間瀬川の合流地点に在り、青銅器埋納抗だけでなく、水田や住居址、礫床木棺墓群も見つかっている。遺跡の東は高社山から延びる尾根が迫り、西は千曲川と夜間瀬川となっており、山と川に挟まれたような場所だ。水田の水はどこから引いたのだろうか。千曲川は大きすぎるだろう。水田の位置からすると夜間瀬川か東の山から流れ出す小さな流れが手ごろに思える。《現地案内板》遺跡は千曲川の堤防の下に埋まっている。〔左標柱〕南側約百五十メートルにわたり弥生時代中期の水田跡が発見されています。〔右標柱〕約十メートル西側に弥生時代中期の青銅器埋納坑が発見されています。肝心の銅戈と銅鐸は中野市立博物館に展示されている。 中野市立博物館(公式HP)九州型の1号銅戈。2本の樋が先で合わさっている。右側は模造品。出土当時は赤銅色をしていたというので模造品のような色だったのだろう。〔左〕2号銅戈、〔右〕3号銅戈。2~8号銅戈は樋が交わらない近畿型。〔左〕4号銅戈、〔右〕5号銅戈。6号銅戈。〔左〕7号銅戈、〔右〕8号銅戈。形、大きさ共にそれぞれ個性があることが分かる。模造品は本物よりはるかに厚い。本物は研げば切れそうだ。どこかで実用品ではないということが書いてあったと思うが、あとで調べたい。銅鐸と一緒の埋納坑から出てくるということは、おそらく祭器として使用されていたのだろう。柳沢遺跡で出土した銅鐸は外縁付鈕式で弥生中期後半のものと思われる。塩尻の柴宮出土銅鐸は弥生後期の三遠式銅鐸で時代も由来も異なる。柳沢遺跡は出雲などの西側との関連が考えられるのに対して、柴宮の銅鐸は東海との関連がうかがわれる。 塩尻市立平出博物館②―科野旅行(おぢさん) 柴宮出土銅鐸が展示されている。日本海側から科野を経由し毛野に至る金属器流入ルートは弥生中期後半から継続して存在していたと思われる。鉄釧は千曲川流域に分布の中心がある。 長野市立博物館―科野旅行(おぢさん) 鉄釧、銅鉾、石鉾、石戈の展示。にほんブログ村
2018.08.27
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一ノ宮押出遺跡の古墳前期の土器編年作業のつづき。今回は鉢、高坏、器台を見ていく。 分類結果 「一ノ宮押出」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類 鏑川上中流域のエリア区分(遺跡の位置もこちらで) 鏑川上中流域の弥生集落分布 一ノ宮押出遺跡の鏃などについて 鏑川流域(阿曾岡・権現堂エリア)の鏃分析―②鉢・高坏・器台の分類集計鉢ではB1が突出して多い。B1と一括りにしたが、大きさや形態の個体差は大きい。B1は上丹生屋敷山遺跡では混在住居段階と外来住居段階にみられる。〔左〕3号住居11(B1) 〔中〕5号住居19(B1) 〔右〕8号住居13(B1)鉢Eが3点で2番目に多い。口縁が短く開く形態であるが、個体差が大きい。〔左〕14号住居21(E) 〔中〕15号住居14(E) 〔右〕5号住居15(E)A2Ma に分類した鉢が1点在るが、樽式の系譜というわけではなく、たまたま在来系に近い形態をしているように思われる。高坏は5個しかない。杯部が「D:内湾の強い椀型」のものが2点ある。ケズリ調整主体のS字甕が出土した新しい段階の9号住居から G9Na(脚からやや離れた位置に稜を持ち、裾部が屈曲し、やや広がる中空柱部を持つもの)出土している。〔上左〕6号住居12(D3Oa) 〔上右〕6号住居11(D5Oa)〔下左〕9号住居8(G9Na)器台は E4Oa が12点中5点で目立っている。19号住居の器台は受部の屈曲部を垂下させている。この形態を新たにGとして分類することとした。〔左上〕3号住居13(E4Oa) 〔右上〕8号住居24(E4Oa)〔右下〕19号住居10(G?Oa)にほんブログ村
2018.08.25
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昨年夏に科野を旅行したのであるが、長野市よりも北を訪れる余裕がなかった。今夏は長野市以北をメインに旅をした。 旅行・遺跡 「科野旅行」のリンク参照毛野の土器は、弥生後期以降、在地の樽式が比企丘陵の吉ヶ谷式や佐久盆地の影響を受け変容する。更に古墳前期、石田川式土器と呼ばれる東海色の強い土器の様相となる。東海からの影響や移住は相模など南関東でも指摘されている。筆者は関東地方以北の東海系土器は、まずは駿河湾岸地域との関係を求めるべきと考える。また群馬県の石田川式の東海要素の拡散・定着(友廣 1995、深澤 2005など)と、南関東の東海系文物の来歴はまったく違うことは明らかである。[1]このように毛野と相模などの土器を比べてみれば、東海要素といっても経由だけでなく内容も「まったく違う」と考えられている様だ。南関東の東海色と石田川式の東海色の違いはおぢさんには、まだよく分かっていない。ただ、海路を主にした南回りのルートと山合いの路を主にした北回りのルートが在ったことは、地理的必然であり、後の東海道、中山道を考え合わせても間違いのないところだろう。北ルートと南ルートで内容に大きな差がつく要因があるとすれば、地理的に北陸からの影響が考えられる。東海色の強い石田川式が確立する前には北陸系を含む様々な地域の影響があった[2]。弥生時代後期の科野はだいたい松本辺りが土器文化圏の境界になることが多い。古墳時代前期も、東海と北陸の要素が流入し、あまり溶け合わないまま毛野に流れ出したのだろう。古墳前期の土器文化流入の推定模式図メインルートの碓氷峠や、佐久地方と鏑川流域を繋ぐ内山峠は、何度か通ったことが有る。碓氷峠を経由しない科野方面からの影響も指摘されているので、今回は実際に考えられるルートの一つを通ってみたい、ということもあり二度上峠を通って嬬恋に達し、鳥居峠を科野側に抜けるルートを選択した。二度上峠に達すると浅間山の大眺望が広がった。峠を越えてもまだ群馬県、科野ではない。吾妻川と万座川合流点付近の断崖。良い景色だが、観光地ではないようだ。嬬恋の辺りは江戸時代、1783年(天明3年)浅間山の噴火によって甚大な被害を受けた。3世紀末にも浅間山は噴火しており、その時の噴出物は浅間C軽石と呼ばれ、遺跡の時期を知る重要な指標となっている。弥生後期から古墳前期にかけて群馬県の北西部の遺跡は少ない。浅間C軽石後の古墳前期は火山の影響を受けていると思われる。弥生後期にも火山の影響はあったのだろうか。鳥居峠を越えて科野に入り、最初の目的地である菅平高原自然館に到着した。下界よりかなり涼しい。動物のはく製などが展示されている。菅平高原の自然環境を知るには良い。考古資料もあるということなので、訪れたのだが、名前の通り自然がメインで弥生時代の土器は甕が1点のみ、古墳時代も土師器が少々といったところ。弥生時代の甕は折り返しがなく、あまり括れず、肩がはっきりしない器形でやや箱清水寄りのように感じた。展示されていた遺跡地図によると、菅平高原にも弥生時代の遺跡が幾つかあるが、説明はなく内容が分からないのは残念だ。全国発掘調査報告書総覧でもこの辺りの報告書は見当たらなかった。[1] p.113-114、西川修一「2 年代の物差しと併行関係 土師器の編年⑤関東」 『古墳時代の考古学1 古墳時代史の枠組み』[2] p.459-461、深澤敦仁「1 太田地域における古墳時代前期の土器編年試案」 『成塚向山古墳群』などにほんブログ村
2018.08.18
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