全14件 (14件中 1-14件目)
1
こんばんわ!ねこままんです。昨日は 世界遺産に認定されている「原爆ドーム」から100mの位置にドームを見下ろすほどの高層マンションが建設途中にあるため、「恒久的な平和の語り部=原爆ドーム」の景観を著しく損ねることになる とお知らせしました。とても多くの方々に閲覧していただき、皆様の関心の深さをヒシヒシと感じました!「世界遺産」を認定しているUNICEF(ユニセフ)は世界遺産の景観・維持保存のために「緩衝(かんしょう)地帯」という構造物などの建設を禁止するなどの土地を定めています。今回の建設計画は日本の法律上は、違法ではありませんがこのUNICEFの取り決めには反します。 ※この建設計画はUNICEFへの報告は一切されていなかった。つまり「恒久的に全世界の人々の貴重な遺跡」として保存することを認められた証の「世界遺産」という認定を返上しなくてはならない事態も考えられるそうです。そこで、今年2月になって日増しに高くなる建築現場の様子を見て初めて被爆者の方々、平和団体の方々、周辺住民の方々はこのようなマンションが建設されることになっていることを知り、「世界遺産「原爆ドーム」の景観を守る会」が結成されました。施主には「建設計画縮小」、広島市に対し「広島市景観条例への、緩衝地帯での建築物の高さ制限を盛り込むこと」を実現させるための署名が今年4月より開始されました。この活動を多くのメディアがとりあげ、多くの平和団体も賛同しています。ぜひ、みなさんも署名運動にご協力御願いします。詳細は・・・●昨日のねこままん日記をごらんください。●今回の出来事の詳細を紹介し、署名用紙をダウンロードできるサイトを作りました。 よろしければ一度御覧ください。☆☆ 2006年4月18日 最新情報 ☆☆▽本日、「守る会」事務局の方より以下のような連絡がありました。 ●署名締め切り4月末以降も、署名活動をしていただける方がいらっしゃれば 5月に入っても署名を受け付けたい。 ●署名は用紙に手書きで書かれたものを、「守る会」宛てに郵送していただきたい。▽署名活動に賛同し、署名したいと思っていただいた方の中で 「署名用紙のダウンロード方法がわからない」 「諸事情により署名用紙を郵送できない」という方は ねこままん日記の「HOME」にございます「メッセージを送る」を利用してご相談ください。 ※その際、楽天ブログをお持ちでない方は こちらより返信可能なメールアドレスの記入も御願いします。一人でも多くの方の署名活動への参加を心よりお待ちしております!
2006年04月18日
コメント(5)
ねこままんです。今朝、Yahoo!ニュースご覧になりましたか?広島の惨劇を後世にそのままの形で伝えてくれる「原爆ドーム」。そのすぐそばにドームより19mも高い高層マンションが来年2月の建設完了予定で建設中なんだそうです。このマンションは世界遺産委員会の設定する「緩衝(かんしょう)地帯」 、つまりドームの南東約100m地点に建てているんだとか!!ちなみに「緩衝地帯」とは、「指定された世界文化遺産が、 物理的にも景観的にも損なわないように指定される地域」を意味します。世界遺産委員会において、平成8年12月5日(日本時間で6日)に世界遺産に登録された原爆ドームですが、今回のマンション建設により景観を損ねるなどの理由により登録が取り消される恐れもあるそうです。今年2月になって初めて、被爆者の方々や平和団体の知るところとなり、「世界遺産「原爆ドーム」の景観を守る会」が結成されました。この建設の中止を求めて、署名活動が今月より始まり現時点で2500人分の署名が集まっているそうです。また、この活動に賛同する団体も動き出しています。そこで、広島に思い入れのある「ねこままん」。大阪に住んでるからといって、じっとなんてしてられません。「広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)内 世界遺産「原爆ドーム」の景観を守る会」へすぐにメールを送り、県外の私でも署名活動に参加できるのであれば、署名用紙のフォームを送ってほしいとお願いしました。すると、突然のメールにもかかわらず、事務局の方よりWORDと一太郎で作られた「署名用紙」をメール添付で送っていただきました。詳細に興味のある方、ぜひ署名したいと思っていただけた方、ままんは急遽(きゅうきょ)、文書ダウンロード用の簡単なサイトを作りましたので、ぜひそちらよりダウンロード願います。「署名は今月いっぱい」ということらしいので、出来るだけ多くの方々にこの現状を知って頂くために少しでも賛同いただけたブログをお持ちの方、ままんの作ったサイト『【至急】原爆ドームの景観があぶない!署名お願いします。』へのリンクを御願いします。※URLは… http://nekomaman.web.fc2.com/hiroshima/top.html です。1~2時間で作った簡素なページですが、一度ご覧になってみてください。みなさんとブログの力でこの貴重な遺跡を守りましょう!一人でも多くの方がこの署名運動に参加していただけることを切に願う ままんです。 ☆追加情報 (2006/04/17 23:11)☆署名用紙の入手方法について、日記お友達から質問いただきました。説明不足でごめんなさいね。以下の通りにしていただくと入手可能です。(大丈夫!簡単!)(1)ままん日記中の 『【至急】原爆ドームの景観があぶない!署名お願いします。』をクリックする。(2)原爆ドームの写真の載ったページが開き、下の方に署名活動に賛同いただける方は本ページより署名用紙をダウンロードできます。(192KB) ※1つのフォルダーに Word・一太郎文書形式の2種類が含まれております。 ※圧縮ファイルですが、自己解凍形式にしておりますので解凍ソフトは不要です。こちら より入手いただけます。というような文章がありますので、その「こちら」をクリックします。(3)すると、「ファイルのダウンロード」という小ウィンドウが開き、 「保存」ボタンをクリックしてください。 「form_shomei.exe」という圧縮ファイルがダウンロードされます。ファイルの大きさは192KB程ですので、それほどPCに負担はかかりません。(4)ダウンロードされたファイルは圧縮されていますが、解凍ソフトのない方の為に クリックするだけで自動的に解凍する「自己解凍形式のファイル」ですので、 そのままクリックしてみてください。(5)「form_shomei」というフォルダが新たにできればOKです。 このフォルダを開くと「shomei_ichitaro.jtd」という一太郎文書ファイルと 「shomei_word.doc」というword文書ファイルがあるはずです。 お持ちのソフトの方のファイルをクリックすると、署名用紙が表示されますので、 そのまま、印刷をしてご使用になってください。
2006年04月17日
コメント(11)
(7)命の力はたくましい! 被爆アオギリ【前回までのおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は (7)命の力はたくましい! 被爆アオギリ になります。アオギリ(青桐)とは大伴旅人(おおとものたびと)が歌に梧桐(あをぎり)として詠んでいるくらい古い植物です。夏の季語にもなってる初夏を感じさせる大きな葉をもっています。このアオギリ、広島の平和記念公園の片隅で命のたくましさを語ってくれています。あの忌まわしい日、このアオギリは爆心地より北1.5kmの広島逓信局(現郵政局)中庭にあり、被爆してしまいました。爆心地に向いていた面は幹の奥深くまで熱線で焼かれ、えぐられました。1973年、郵政局の建替工事の際に現在の位置に移植されました。写真をよ~くみてくださいね。2本のアオギリがありますね。幹の中心に空洞があるでしょ?これはね、アオギリ自身が原爆で焼かれた傷口を「治そう!生きよう!」と頑張ってる姿なんですよ。人間も同じです。あのとき熱線で大やけどをされた方々の傷口はお肉が盛り上がってキズを「治そう!生きよう!」としたんです。今はこのアオギリもかなりのお年を召していますし、倒れちゃいけないから、写真のように支えをして守られています。ままんがこの写真を撮影した日は熱中症になりそうなくらい暑い日だったんだけど、このアオギリのそばにいると心なしか涼しかったんですよ♪あの忌まわしい日もこの樹は自らも傷つきながら、木陰で横たわる人を見守っていてくれました。その中のお一人が今もこの被爆アオギリのそばで語り部として頑張ってくれています。(残念ながら、ままんが行った日にはお会いできませんでした)60年経った今でも立派に葉を青々と茂らせ、平和の大切さを物語ってくれています。同時に「命ってこんなにたくましいんだよ。だから、命は大切にしなくちゃ!」って話しかけられている気がしました。このように被爆した樹木はこのアオギリだけでなく、広島中に数多くあります。広島に訪れた際はぜひ探してみてください。そして触れられるようでしたら、幹に手をあてて目を閉じてみてください。彼らの平和のメッセージが伝わってくるかもしれません。彼らも立派な語り部ですから…
2005年08月12日
コメント(15)
こんばんは!ねこままんです。昨日は60年前、昭和20年8月9日午前11時02分長崎市松山町上空 約500m上空で広島につぐ2個目の原子爆弾が投下されました。この原爆投下により、長崎では約7万人の方が亡くなりました。(広島での原爆投下死亡者数は約14万人)さて、今日の記事は原爆の仕組みなどについて詳しくお話しますね。化学の授業のようにならないよう、わかりやすくご紹介しますね。本当はいつものように写真を載せたいのですが、「ままん」は長崎の原爆遺跡を広島ほど訪れたことがありません。(過去2回行きました。)ですので、今日は文章ばかりになります。ごめんなさいね♪【広島と長崎の原子爆弾の仕組みの違いは?】さて、放射性物質があるだけでは原子爆弾にはなりません。放射性物質をねずみ算式に猛烈な勢いで核分裂をさせることですさまじいエネルギーを発生させるのです。それでは、2つの原子爆弾の違いを簡単に紹介します。広島型はウラン、長崎型はプルトニウムというそれぞれ別の放射性物質が使用されています。核分裂させる方法も違います。広島型は、ピストルを想像してください。一つの筒の両端にそれぞれウランのかたまりがあります。片方のウランを爆薬で筒の反対側にあるウランに向けて発射するのです。ぶつかった2つのウランのかたまりはその衝撃で、ものすごいスピードで核分裂を起こさせます。こうして発生したエネルギーを爆弾に使用しました。このような起爆方法を「砲撃型」と呼ばれます。長崎型は、爆弾の中心にプルトニウムが配置されています。そのプルトニウムの周りを爆薬で包むようにします。爆薬を爆発させると、真ん中にあるプルトニウムが圧縮されます。こうしてプルトニウムに核分裂を起こさせます。これにより発生したエネルギーを爆弾に使用しました。このような起爆方法を「爆縮型」と呼ばれます。【広島と長崎の原爆の爆発力はどれくらい?】広島型は TNT火薬15キロトン分長崎型は TNT火薬21キロトン分 です。【旧ソ連のチェルノブイリ原発事故では19年たった今でも周辺地域では人体に影響を及ぼす高濃度の放射能が検出され立ち入り禁止区域が設けられていますね。なぜ広島と長崎では被爆後人が住めたの?】わかりやすく言うと「核分裂で生じた物質」の量の違いです。一つの原爆ではわずか数kgです。しかし、チェルノブイリ原発事故ではこの量が凄まじく、今でも地表面などに残っています。本当は放射線の種類(α・β)の違いなども関係ありますが、ここでは難しすぎますので、説明はやめておきます。【長崎原爆の被害の実態が知りたいのですが?】長崎原爆では投下1日以内に日本の軍隊から派遣された山端庸介(やまはたようすけ)さんが被爆翌日10日早朝から逃げ惑う長崎の人々の姿を数多く写真に残しました。被爆後数日~数ヶ月のものが多い広島の写真以上に、原爆の悲惨さが伝わるかもしれません。●山端庸介さんの写真を見てみたい方はこちらその他には・・・●長崎原爆資料館●永井隆 - 己の如く人を愛したひと ●国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館 ●長崎の原子爆弾被害に関する科学的データ今日の日記は文字ばかりとリンクの紹介ばかりになってゴメンネ♪広島巡りに一区切りがついたら、次は自分の足で長崎をまわりたいと思っています。そのときはまた、新たなシリーズを組みます。少しお時間をくださいね。本当は9日のうちに書き始めたこの記事、調べながら書き込んでいたら、日付が変わってしまいました。明日からは 広島シリーズに戻りますね。それでは・・・(^0^)/
2005年08月09日
コメント(20)
(6)燃料会館(現レストハウス)【前回までのおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は (6)燃料会館(現レストハウス) になります。一昨日は昭和45年8月6日午前8時15分17秒に広島へ原爆が投下されてから、60年目を迎えました。皆さんは追悼式をご覧になりましたか?たくさんの人が参列していたのは左図下の部分です。ねこままんも寝室のベッドの上で正座して黙祷を捧げていました。(少し不謹慎?)左の建物は上地図の旧燃料会館です。現在は観光案内所&休憩所で、中に売店や自動販売機があり、レストハウスと呼ばれています。この建物が原爆ドームの次に爆心地に近い貴重な原爆遺跡です。爆心地から170mの距離にあります。1929年、中島本町に大正屋呉服店として建造されました。 戦時中は、呉服屋は廃業、広島燃料配給統制組合が買収。一般に燃料会館と呼ばれました。この建物はほぼ炸裂地点直下にありながら、左写真のように何とか原型をとどめる事が出来ました。この写真は建物の裏手から撮影したんでしょうね。 実はこの爆心直下のこの建物に生存者がいたんですよ!コンクリートの堅牢な建物が即死必死の状態から守ってくれたんです!この人はココの地下室に書類を取りに降りて助かったそうです!では、この人の体験の一部をご紹介しますね!「ドーンという音が聞こえたとたんに電灯が消え真っ暗になった」「外は暗い。半月くらいのあかるさだ」「急いで元安橋のところへ来た。橋の上を見ると。中央手前あたりに丸裸の男が仰向けに倒れ、両手両足を空に伸ばしてふるえている」「四囲を見渡すと、地上も空も真っ黒い煙だ。その黒い煙の中に今やっと逃れ出た(燃料)組合の建物がぼーっと建っている」「元安川の水の一部が盛り上がったと思ったらクルクルと円柱となって空高く舞い上がった……水の竜巻だ」(『原爆体験記』朝日新聞社刊 より)このかたは1982年に84歳で亡くなりました。つまり、この建物の地下室が4つの直接の猛威からこの人を守ってくれたのですね。4つの猛威とは… 「立方メートルあたり何トンもの衝撃波」 「衝撃波の生み出す爆風」 「致死量以上の放射能の直接被爆」 「太陽表面温度以上の熱線」この建物の地表1階部分は現在、とってもキレイに改装されていて当時の面影はまったくありません。ままん、被爆の跡ないかしばらく中でお茶飲みながらキョロキョロしてたけど、キレイなもんです!だから、この建物横の説明版に気が付かなければ、この建物が貴重な原爆遺跡であることはまずわからないと思います。みんな中で飲み物を飲んでサーっと出て行ってしまったのは、とても残念でした。もっとアピールして欲しいと思いますね!この建物、外見もとてもキレイですが、今でも地下室は当時のままだそうです。建物の老朽化を理由に、広島市により取り壊しが検討されましたが、市民レベルでの保存運動が高まり、果ては国が市に保存要請するなどして保存への機運が高まっています。地下室は希望すれば見学できるという話がありますが、今度広島に行く際は事前に連絡して見学できるか尋ねてみるつもりです!※地下室の様子をココで見たい方はこちらをどうぞ!今日はままんの愛蔵本のうちの2冊をご紹介しますね。機会があればぜひ読んでみてくださいね♪『原爆投下・10秒の衝撃』NHK出版~その瞬間、広島の街に、人々に何が起きていたのか!?放射線、熱線、そして衝撃波……。巨大なエネルギーに蹂躙(じゅうりん)された10秒間を徹底検証して話題を呼んだNHKスペシャル番組「原爆投下・10秒の衝撃」(平成10年度文化庁芸術祭優秀賞受賞)の出版化~【ままん評】日米の研究者が科学的な側面から、原爆のもたらす現象を明解・詳細に解説。投下後10秒間を解き明かすことで、原爆の全てが凝縮されています。ままん一番の愛蔵書です!『原爆体験記』 広島市原爆体験記刊行会編朝日新聞社発行【ままん評】この本のベースになる小冊子は被爆5年後に被爆者の体験記として編集されましたが、アメリカ占領政策下であったため、発行することができませんでした。被爆後20年目の昭和40年に体験記を追加する形で初めて世に出ることになりました。新書サイズの文字ばかりの本ですが、体験者の方々の鬼気迫る話に思わずページをめくる手が進んでしまいます。※お花のバナーは「ALOHA OHANA」さんでいただきました!きれいでしょ♪心が晴れ晴れするようなお花の素材がいっぱいです!
2005年08月07日
コメント(8)
こんにちは!ねこままんです。今日はとってもいい天気の大阪です。ねこままん タイトルにあるように また「とてつもないこと」を始めることになりました。気の遠くなるような…。それは…新聞の切り抜き!それも今日から過去にさかのぼって!「なんでまた、こんなことをし始めたの?」とお思いの方も多いはず!それは、最近ままんのライフワークになりつつある広島・長崎・戦争被害の資料集めの為です。誰に頼まれてる訳でもなく、コレでお金稼ぎする訳でもないんですが、今年の夏の新聞は戦後60年という節目のせいか、とても関連記事が多いのです。ままんは もともと本を読むのが「だぁ~い好き♪」なので、コツコツ関連本を収集しているのですが、本以上に今年の記事はとても興味深いものが多いのです。最近始めた「忘れてはならない出来事~広島」もリンクしてもらっている人以外からも注目されているようで、記事をアップすると「お目にかかったことのない方」が訪問してくださってます。ままん コレをうけて 「こんなに反響があるんなら、生半可な情報ではいけないわ!」 とまたまた熱くなり、5月18日からの新聞(毎日新聞大阪版ですが)を押入れからかき集めてきました!スゴイ分量です。(右の写真はほんの一部)これで、最新情報もおりまぜて、皆さんに中身の濃い記事をお届けできます!さぁ、この膨大な新聞の中から切り抜く「切抜き」、 どうやって整理しましょう?少々悩んでおります。スクラップブックに張るか…スキャナで読込・編集してCDに焼くか…今後、人に見せるならCD化する方がいいかなぁ? なんて考えてるんですけど…みなさん どう思われますか?ままん 整理方法に迷っておりまする!ご意見お待ちしております!
2005年08月07日
コメント(9)
(5)爆 心 地【前回までのおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は (5)爆 心 地 になります。広島原子爆弾投下の爆心地といえば、皆さんどこかご存知?原爆ドーム?―違います。相生橋?―かなり お詳しい! 違うんです。では、どこか?上の地図をじっくり見てください。地図右下に「爆心地」とありますね。そう、ここが爆心地なんです。爆心直下、ここには「島病院」という病院がありました。島病院の玄関上空580mで原子爆弾が炸裂しました。ここではねこままんの所蔵本『原爆投下・10秒の衝撃(NHK出版)』の本文抜粋をお届けします。とてもあの瞬間がよくわかる文章です。爆 心 地 広島原爆投下の照準点となったT字形の橋、相生橋の東隣、原爆ドーム周辺の広島市中区大手町一丁目には今、雑居ビルやタワーパーキングが立ち並ぶ。その谷間の路地にかつて「猿楽町(さるがくちょう)」という街並みがあった。江戸時代、広島城に仕える能楽師が住んでいたためにこの名がついたといわれている。 猿楽町には、260世帯1055人が暮らしていた。町にはいろんな店が軒を連ねていた。亀の子だわしや軍手まで置いてあった八百屋、初荷には大在の人で賑わった自転車屋、甲子園で活躍した町のヒーローがいたカメラ屋……。それぞれの店は皆くっついていて、その屋根づたいに子供たちはよく鬼ごっこをした。陽棚とよばれる物干し台が格好の遊び場だった。町は子供たちの楽園だった。(猿楽町 元住民たちの証言より)爆撃機エノラ・ゲイ フィヤビーは、まだメガネをかけたまま、じっと目標から目を離さずにいた。空中偵察写真の白黒の像が色彩のある像に変わって展開していた。緑とやわらかいパステル色と、建物のくすんだ色とが、大きな人の指のような形の陸地の上にぎっしりと並び、広島湾の濃青の海の際まで連なっていた。大田川の六本の分流は茶色であった。市内の主要な街路はにぶい金属的な灰色に見えた。細い紗のような霞が市の上空にかすかに光っていたが、フィアビーの視野を曇らせはしなかった。照準点のT字型の相生橋がまさに彼の照準器の中心の十字線のところに来かかっていた。「やったぞ」。フィヤビーは最後の調整を行い、信号音のスイッチを入れた。それはピッ、ピッ、という低い連続音で、フィアビーが爆撃航程最後の15秒間の自動時限装置を作動させたことを示す。……「爆弾が落ちようとしている」 午前八時十五分十七秒。エノラ・ゲイの爆弾倉の扉がパッと開いた。そしてこの時には誰も何もしなくてもよかった。世界最初の原子爆弾は自動的にいままでかかっていた掛け金を離れて落下した。(ゴートン・トマス、マックス・ホーガン著『ドキュメント エノラ・ゲイ』TBSブリタニカ刊より) エノラ・ゲイから投下された原爆は43秒後に爆発するように設計されていた。エノラ・ゲイが安全な区域まで逃げきれる時間、爆発の威力が最も効果的に地上に伝わる高度などを綿密に計算して設計されたといわれている。 原爆の炸裂点は、壁に残された熱戦の影の分析から当時の細工町十九番地、島病院の上空だということがわかっているが、原爆炸裂点の高度が何メートルだったかについては諸説ある。例えば、広島平和記念資料館では580メートルとしている。これは、広島のいたることろにできた熱戦による影の角度から計算したといわれている…(以後省略)この写真は被爆前の「島病院前」の写真です。コンクリート製の立派な建物で、中庭は緑にあふれていました。 この写真は被爆直後、1945年11月頃撮影されたものです。島病院は入り口だけが残りました。右手に護国神社の鳥居が見えます。ねこままんは今年6月28日、この旅での最後の訪問地としてこの場所を選びました。左がその時の写真です。今も同じ場所に「島外科」と言う名前で病院があります。周囲は冒頭にあった通り、繁華街でこの場所が惨劇の中心であったことを思い起こさせるものはこの病院前の小さな説明版だけです。「ほんまに? まさにこの場所で、60年前に今日見てきたことが起こったいうの?」不謹慎ですが、昔とのあまりのギャップにショックで安らかにお眠りくださいという言葉よりも、この言葉しか浮かんできませんでした。誰がおいたのでしょうか、千羽鶴が説明版の上に置かれていました。ねこままんがここを訪れたのは夕方の17時過ぎ。辺りに林立するビルの谷間のこの場所は、ぽつんと忘れ去られたかのように繁華街の中ほどにありました。ねこままんは吹き出す汗を拭くのも忘れ、しばらくこの碑をぼーっと眺めていました。この日1日、自分が直接目にし、触れた数々の場所を思い浮かべながら…ふと気づくと、さきほどまでビルの隙間からのぞいていた青空は、いつしかオレンジ色の夕焼け空に変わっていました。右手に見える元安川からは一服の爽やかな風が吹き抜けていきます。炎天下広島の町をリュック一つで歩き回り、体に熱気のまとわりついている ねこままんをまるで労(ねぎら)ってくれているようでした…「お疲れさんじゃったねぇ…」そんな優しい広島弁が聞こえたように思えました。 このまま、ホテルに戻る気にもなれず、もう少しこの場所を感じていたい ねこままんは 島病院裏手の小さなジャズ喫茶に入りました。豆の香りの芳しい冷たいブラックコーヒーをいただきながら、夕闇に包まれていく元安川を見ながら、いつもの自分にリセット。一日に体験した出来事は能天気なねこままんですら、感じ入ることが多すぎて、こうやって気持ちをリセットしないと普通の生活に戻れないような気がしたのでした。同時に来てよかった、また来なくてはならない…そんな思いを強くしたひと時でした。広島にお越しの際はぜひこちらにも足をお運びくださいね。原爆ドームのすぐ裏手にあります。さて、今日は7/30にもお伝えしましたが、広島・戦争関連の番組が放送されます。お時間がございましたら、ぜひご家族でご覧になってみてください。そして戦後60年、平和の大切さをご家族で語り合ってみてはいかがでしょうか?★ ★ ★ 本日放送の番組は以下の通りです ★ ★ ★●8/5(金)TBS系列18:55 戦後60年特別企画 「“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた… いま、明らかになる悲劇の真実」 英BBC制作ドキュメンタリードラマもとに 原爆開発から投下までの歴史事実をひもとく ▽原爆投下…その瞬間広島の町と人々は…? ▽検証・原爆の破壊力そしてキノコ雲の実態 ▽吉永小百合が被爆者の手記を朗読… 極限状態における心理、惨劇の全ぼうほか日本テレビ系列21:03 金曜ロードショー「火垂るの墓」(1988年新潮社) 野坂昭如原作 高畑勲監督※お花のバナーは「ALOHA OHANA」さんでいただきました!きれいでしょ♪心が晴れ晴れするようなお花の素材がいっぱいです!
2005年08月05日
コメント(13)
(4)県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼之碑【前回までのおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は (4)県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼之碑 になります。広島県立第一高等女学校は当時「県女」と呼ばれ、1922年に建てられた木造校舎とおしゃれな鉄製の門扉が特徴的なハイカラな女学校でした。当時の県女生はこの学校に入れたことを大変誇りに思っていたといいます。この写真は当時この学校の正門にあった4本柱のうちの一つです。平和大通りの緑地帯にひっそりと当時と同じ場所に今もひっそりと立っています。(ねこままん撮影)この写真は原爆が投下される前の第一高女の写真です。立派な校舎です。写真の門扉は鉄製のおしゃれなデザインの頃のものですが、1942年には金属不足で国に供出され木造にかえられてしまいました。この写真は原爆投下後、1945年11月に撮影された第一高女の正門付近です。赤丸部分の4本柱がわかりますか?周囲の状況を見ても、いかに凄まじい状態だったかわかりますね。ちなみにこの場所は爆心地より650mしか離れていませんでした。原爆投下により、建物疎開作業に動員されていた1年生をはじめ、297人の生徒・教職員が犠牲になったそうです。本当に心が痛みます。この写真は 追憶之碑正面です。ねこままんも中学から短大まで京都の女子校で学生生活を過ごしました。偶然にも、ねこままんの中学の時の制服が彼女達と同じ紺のセーラー服でしたので、他人のような気がしません。碑の前で手を合わせていると自然と涙が頬をつたいました。もっとおシャレしたかったろうに…もっと友達と勉強したかったろうに…もっと友達と遊びたかったろうに…熱かったでしょう…辛かったでしょう…こう彼女達を想い、ねこままんはお線香を手向けこの場を後にしました。(ねこままん撮影)こちらは門柱裏手の左側にある小さな碑です。(ねこままん撮影)さて、明日のねこままんの「忘れてはいけない出来事~広島 その7~」は(5)爆 心 地 をお送りします!※広島県立広島第一高等女学校について詳しく知りたい方に おススメのHP及び出版物等をあげておきますね♪【おススメのHP】◆広島の今から過去を見て回る会 「県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼之碑」のページ ◆広島の原爆遺跡と碑 このHPはトップページに原爆投下からの時刻カウンターがあります。 ねこままんが広島の遺跡を訪ねるきっかけになったHPです。 「県立広島第一高等女学校」のページ ※また、今回の記事の上から2~4枚目の写真は こちらから拝借しました。(ありがとうございました) とても詳しく書かれた秀作です。ぜひご訪問ください。◆「大下靖子さんの夏服」のページ【おススメのビデオ】◆「夏服の少女たちヒロシマ・昭和20年8月6日」 (NHKサービスセンター発行 NHKソフトウェア発売) ビデオレンタルででていましたよ♪ままんも見ました。 彼女達のけなげな姿に涙がとまりません…【おススメの本】◆「夏服の少女たち―広島・昭和20年8月6日」 (大野充子著 ポプラ社刊 1989年7月発行)◆「ひーちゃんはいった―広島の少女たちの遺書―」 (大野充子著 ポプラ社刊 1977年7月発行)◆「あなたへ(1945年ヒロシマ・8月6日のない日記)」 (大野充子著 あすなろ書房刊 1985年8月発行)◆「広島第一県女一年六組森脇瑶子の日記」 (細川浩史・亀井 博編 平和文化刊 1996年6月発行)※お花のバナーは「ALOHA OHANA」さんでいただきました!きれいでしょ♪心が晴れ晴れするようなお花の素材がいっぱいです!
2005年08月03日
コメント(11)
(3)移動演劇さくら隊原爆殉難碑【前回までのおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は 移動演劇さくら隊原爆殉難碑 です。この碑は平和大通りの緑地帯にひっそりと建てられています。「さくら隊」は、正しくは「桜隊」。戦時中に慰問劇団として日本中をまわっていました。当初は東京を拠点としていましたが、東京大空襲により、当時重要な軍都であった広島に移りました。あの頃は広島を中心にして、中国地方を慰問していたようです。8月6日、桜隊のメンバーは広島市中区堀川町の宿舎(今は繁華街のど真ん中の雑居ビルが建ち並ぶ)にいました。9名中5人が即死。残る4人は崩れた建物からやっとのことで這い出しました。この中で有名なのが「仲みどり」さんです。仲さんは近くを流れる川辺まで何とかたどり着き、救助隊に助けられ広島宇品港にあった臨時の救護所に運ばれます。この救護所では医療物資の不足、押し寄せる負傷者に完全に対応できませんでした。当然のことと思います。仲さんは爆心地から たった700mの距離で被爆したにもかかわらず多くのかすり傷を負ってはいましたが、自力で歩けたようです。8月8日、仲さんは歩いて広島駅に行き、故郷である東京を目指します。東京に着いた仲さんは、東京大学の病院へ行きます。偶然ですが、当時放射能が人体に与える影響を知る医師はほぼ皆無でした。実はただ一人だけいたのです。東大の都築教授だけが戦前アメリカで放射能が人体に与える影響を研究した経験がありました。仲さんはこの教授の治療を受けることができました。しかし、物資に乏しく、今ほど医療技術の発展していない当時は経過を見守ることしか出来ず、8月24日お昼に亡くなりました。ただ、仲さんはある意味、とても重要な貢献をすることになります。それは仲さんが 「医療データが多く残されている、日本で始めての原爆症患者1号」となったからです。データは書類だけでなく、遺体は解剖され標本にされました。このデータの多くは占領下にあった日本から、アメリカに移されます。1970年代になってやっと機密保持が解け、日本に返されました。最近になってもこのデータの一部が発見されるなどしました。つまり、彼女の存在は「放射能被害に対する医療の研究」や「平和の重要性」を私達に伝えるという大きな貢献を果たしたといえます。ねこままんがこの碑を訪れた日は、太陽が焦げるかと思うほど照りつける暑い日でした。ちょうど碑のある緑地帯は木のおかげでなんとか直射日光から逃れることができました。ねこままんはそれまで何時間も歩いていましたので、汗だく。持っていたペットボトルのミネラルウォーターが完全にミネラル「ホット」ウォーターになっていました!碑の隣には古ぼけた木製の長いすがあり、暑さで熱射病になりそうでしたので、ここに腰掛けました。平和大通りは広島の大きな幹線道路なので、目の前を途切れることなく車が走っています。不思議と車の騒音は気になりません。なぜか この緑地帯だけ時間の流れが違う感じです。まるで周りの木々が 「60年前にここであったこと、忘れないでねぇ」っていってるみたいに…決してオカルト的な感じではありませんよ♪なんていうのかなぁ、懐かしさ・悲しさ・わが身の幸せを一度に実感できる不思議な感覚です。うまく表現できなくてごめんなさいね♪観光バスに乗って、団体で広島を観光するのも楽しいものです。でも、次に広島を訪れる機会があれば、少人数でこの緑地帯をぜひ歩いてみてください。おススメします。※この移動劇団さくら隊については、毎日新聞(大阪版)の夕刊にて 「夕刊すとーりー」で連載が組まれています。(現在も進行中) 大阪版お持ちの方はどうぞごらんください!◆『明日まで待てない!早く知りたい!』とか…『大阪住んでないから読めないじゃん!!』とか…思ってらっしゃる方、ご心配なく!大阪以外の方でも、「Mainichi INTERACTIVE 夕刊すとーりー」で過去の連載分もご覧いただけますよ♪ぜひどうぞ!※桜隊のメンバーについて詳しく知りたい方は、 桜隊原爆忌の会のHPをご覧ください。大変わかりやすいですよ♪※また、この劇団を描いた作品として、 新藤兼人監督の『さくら隊散る』という映画があります。 おそらくお近くのレンタルショップにあるのではないでしょうか。さて、明日のねこままんの「忘れてはいけない出来事~広島 その6~」は(4)県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼之碑をお送りします!※お花のバナーは「ALOHA OHANA」さんでいただきました!きれいでしょ♪心が晴れ晴れするようなお花の素材がいっぱいです!
2005年08月02日
コメント(4)
(2)本川小学校 続き【前回のおさらい♪】今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。二日目の28日は丸一日、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡」を中心に自分の足でまわってきました。今日は前回の「(2)本川小学校」の続きになります。原爆投下時、本川小学校は爆心地から南東350mしか離れておらず、児童約400名・職員10名の尊い命が失われてしまった悲しい場所です。しかし、戦後多くの人々のおかげで当時の場所に復校され、現在も広島市立本川小学校として地域の人々に愛されています。この小学校には現在も被爆した建物の一部が「本川小学校平和資料館」として残されています。さて、今日はその資料館の展示物についてのお話です。みなさん この文章きっとご覧になったことがあるでしょ?そうです!広島平和記念公園内の「原爆死没者慰霊碑」に書かれている碑文です。広島大学文学部教授の雑賀忠義さんが書いたものです。あの碑文はこれをもとに作成されました。こちらがその広島平和記念公園の中心にある「原爆死没者慰霊碑」です。上の文章が刻まれた碑は丸い屋根状のモニュメントの下にある四角いものがそうです。これは石室になっていて、毎年、その年に亡くなった原爆被爆者の名前を書いた名簿が8月6日に入れられます。(名簿は関係者の申し出で記されます)建築家丹下健三さんによって埴輪の家をイメージして作られました。この温かみのある丸いお屋根で亡くなった方を雨風から守ろうという考えでデザインしたそうですよ。(記念公園内の特集はまた後日ね♪)今年もNHKで8:00AMから式典が放送されます。みなさんも是非、原爆投下・終戦から数えて60年目の今年、TVの前で亡くなった方を悼んで黙祷してみてください…さて、明日のねこままんの「忘れてはいけない出来事~広島 その5~」は(3)移動演劇さくら隊原爆殉難碑をお送りします!※この移動劇団さくら隊については、毎日新聞(大阪版)の夕刊にて 「夕刊すとーりー」で連載が組まれています。(現在も進行中) 大阪版お持ちの方はどうぞごらんください!◆『明日まで待てない!早く知りたい!』とか…『大阪住んでないから読めないじゃん!!』とか…思ってらっしゃる方、ご心配なく!大阪以外の方でも、「Mainichi INTERACTIVE 夕刊すとーりー」で過去の連載分もご覧いただけますよ♪ぜひどうぞ!※お花のバナーは「ALOHA OHANA」さんでいただきました!きれいでしょ♪心が晴れ晴れするようなお花の素材がいっぱいです!
2005年08月01日
コメント(8)
みなさん おはよう!!!!ねこままんです♪今日も朝から大阪は底抜けにお天気です♪今日は京都にブラブラしに行くので、「忘れてはいけない出来事~広島~」は簡略版になりますが、お許しくださいねぇm(_ _)m今日は、広島・終戦関連のテレビ番組をあげてみました。よければご覧ください。(お住まいの地域によって時間などが微妙に違うかも しれないけど…調べてなくてゴメンネ!)●8/2(火)日本テレビ系列21:00 終戦60年特別ドラマ 「二十四の瞳・日本人なら誰もが泣いた不朽の名作! 瀬戸内海に浮かぶ美しい島で暮らす12人の 子供たちの運命を変えた戦争の悲劇」●8/5(金)TBS系列18:55 戦後60年特別企画 「“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた… いま、明らかになる悲劇の真実」 英BBC制作ドキュメンタリードラマもとに 原爆開発から投下までの歴史事実をひもとく ▽原爆投下…その瞬間広島の町と人々は…? ▽検証・原爆の破壊力そしてキノコ雲の実態 ▽吉永小百合が被爆者の手記を朗読… 極限状態における心理、惨劇の全ぼうほか日本テレビ系列21:03 金曜ロードショー「火垂るの墓」(1988年新潮社) 野坂昭如原作 高畑勲監督8/6(土)NHK08:00 広島平和記念式典19:30 被爆60年・平和巡礼2005・HIROSHIMA世界に伝えよう ・被爆者の心 佐渡裕、五嶋龍、ミーシャ・マイスキー、 佐藤しのぶ佐野成宏、槙原敬之ら平和を祈る 音楽家たちのコンサート▽対談・大石芳野21:00 NHKスペシャル 「被爆者・命の記録」爆心1キロ ・刻まれた放射線▽奇跡の生存者を今襲う“重複がん” ▽14度の手術・闘い続けた60年ほんでから(=それから)、昨日の夜から頂いたみなさんのコメント読ませてもらいました!お返事&ご訪問は帰ってきてからしますからねぇ~♪ごめんねぇ~♪(マダムおかんloveさん リンクありがとう♪)さっき朝風呂入ったから、髪の毛乾かして…まぁ、ゆっくりぼちぼち行ってきま~す♪
2005年07月30日
コメント(4)
(2)本川小学校今年6月27日、ねこままん、広島にダンナ様「ねこぱぱん」と2泊3日で行ってきました。一日目は大阪から広島の移動に費やしました。二日目の28日は丸一日、「ねこままん」と「ねこぱぱん」別行動でした。(決して夫婦喧嘩したのではないよ♪「ままん」と「ぱぱん」は二人とも一人っ子だから、お互いの趣味の行動には口出ししない暗黙の了解があるのです!)っと、いうことで「ねこままん」は朝9時には広島市中区銀山(かなやま)町のホテルを出て、普通はあまり観光客に知られていない「原爆遺跡巡り」に出かけました。また、この日は暑いのなんのって!広島は大阪より暑く感じましたよ。広島市内には太田川・元安川・京橋川・猿猴川の4本の川が流れています。『だから蒸し暑いのかなぁ』なんて思いながら、ねこままんテクテク歩きました。まずは朝食!広島の繁華街、八丁堀にある喫茶店でモーニング!美味しいコーヒーとクロワッサンでさわやかな朝のひととき♪♪朝食を済ませ、また照りつける太陽の下『焼き豚になるやんかいさぁ!!!』とブツブツいいながら、原爆ドーム前を過ぎ、相生橋を渡りました。(この時点で時刻は朝10時頃でしたが、Tシャツはグッショリ!)橋を渡りきると、広電(懐かしいチンチン電車ね♪)の本川町という可愛らしい駅がポツンと道の真ん中にあるのが目に入ってきます。駅を見ながら左手の筋を曲がると、広島市立本川小学校があります。今も現役バリバリの小学校です!今回の遺跡巡りはここからスタートです。この小学校は、原爆投下のほぼ真下にあった小学校なのですが今も当時の校舎の一部が残されており、資料館となっているのです。正門に立つと、きれいな白い校舎と立派な体育館が目の前にデーン!ねこままんが訪問した日は平日の火曜日だったので、中から生徒さんの楽しそうなキャピキャピ声が聞こえます♪ねこままん 一瞬『ほんまに入っていいんやろか??』と悩むほど見た目 普通の小学校なんです。正門の扉はガッチリ閉まっています。「御用の方はスピーカーで…」って書いてあるので…ままんインターホン押しました。ドキドキ!旅行前に大阪から本当に訪問していいのか電話確認してたけど…そんでもって、資料館を閲覧したいと伝えました。すると、スピーカーから先生の声で『右手の門を開けてお入り下さい。そして右手建物の職員室へお越し下さい。』言われるがまま、職員室入り口へ。そこで名前・住所を記帳して、「訪問者ですよ~ん」って書かれたバッチを渡されました。胸元につけて、体育館横を進むとそこだけ別の空気の流れを感じるコンクリートの建物がありました。周りの新築の建物が少し見えると思いますが、すごく浮いてる感じです。さすがの「ままん」も入るのに躊躇!さらにこの日は平日ということもあって、「ままん」しか訪問者無し!記帳には前日も訪問者無し!まぁ、意を決して入り口に近寄ると、木の表札がかかっていて「本川小学校平和資料館」って墨で書かれています。戸の左手に目を落とすと銀板の説明プレートがありました。こんな風にかかれていました。 本川小学校平和資料館 1945年(昭和20年)8月6日(月)、午前8時15分。原子爆弾は本川小学校の南東350m・上空約580mで爆発しました。強烈な熱風と放射能をあびた校舎は外部を残して全焼、倒壊し、校長先生ほか10名の教職員と約400名の子供たちの尊い生命が一瞬のうちに奪われました。 この平和資料館は1928年(昭和3年)に広島市で小学校として初めて建てられてた鉄筋3階建ての校舎の一部ですが、原子爆弾の被害を受けた状態をそのまま残し、被爆の「証」として保存することにしました。 展示室には被爆の様子を写した写真と被爆した遺物などを展示しています。また、地下室はここで亡くなられた多くの方々のごめい福を祈る「祈り」の場として残しています。 多くの人々の悲しみと願いが秘められたこの「平和資料館」から、平和の大切さと人命の尊さを学んでいただきたいと思います。1988年(昭和63年5月)じっくり説明板を読み、「ままん」中に入りました。入ってすぐ正面に机が設けられ、北海道から沖縄、海外の方が置いていかれた千羽鶴・色紙がありました。そとから聞こえる無邪気な児童の声、目の前の千羽鶴の山、今自分が立っている建物内の灰色のはがれかかった壁でまるで当時にタイムスリップしているような感じがしました。さらに歩を進めると壁に何やら書いてあります。「配電盤跡」で原子爆弾で焼け焦げた跡とあります。さらに顔を近づけてみると、プラスチック部分・配線までもが焦げ付き、コンクリートには黒いススまでついて、当時のままでした。さすがに ねこままん、この辺りから写真は撮れなかったです。撮影禁止なんてどこにも書いてないんだけど、シャッターが押せなかった…写真に残すより記憶にとどめたほうがいいような気がしたからです…だから、写真はありません。ゴメンネ♪さらに進むと部屋のドアの木枠が焦げているところ、天井に今も残る黒煙の跡、正直 気分が重くなりました。すると、大きな部屋に着きました。そこは地下室のようで、入って正面の壁上部の天井からまばゆいまでの陽ざしが差し込んできます。しかしその陽の光も壁から1mくらいの床を照らすだけで、そこ以外は地下室らしく暗くひんやりして、どこか古めかしい香りがしました。そして先程まで聞こえていた子供たちの声もセミの声も聞こえずとても静かな空間でした。「ままん」この部屋に何もしないでボーっと10分ほどいました。 もし当時自分がここにいたら、どんな感じだったのか…あまりきれいではない壁にもたれかかって考えていました。「陰鬱とした地下室の暗がり」と「希望に満ちた陽ざし」陰と陽の両極端が 余計に平和なことの大切さをしみじみ実感させてくれました。部屋の真ん中には 以前広島平和記念資料館で実際に使用されていた原爆投下位置を示す大きな立体パノラマが置かれていました。さらに進むと一転、現代風のつくりの廊下や部屋になり通路に原子爆弾に関する説明がパネル紹介されていました。そして通路を進むとある小部屋につきます。そこには数多くの原爆遺品が展示されていました。下はその中のほんの一部で、記帳時にもらったパンフレットから抜粋したものです。明日は、この小部屋で ねこままんが「目が釘付け!!」になった下の写真についてご説明しますね♪【ちょっとした雑学コーナー】 この本川小学校、被爆漫画家の中沢啓治さんが戦後すぐに転向した学校です。ちなみに有名な漫画「はだしのゲン」は中沢さんの実体験が忠実に表現された漫画です。ちなみに中沢さんの通っていた小学校は「神崎国民学校」で、神崎小学校として復校しています。 主人公ゲン=中沢さんが九死に一生を得ることになった「門柱」は今でも同校に実在しています。「はだしのゲン」を愛読している方で、広島にお越しの際はぜひ訪れてみてください。 ちなみに「はだしのゲン」は1973年~88年まで雑誌に掲載され、単行本は700万部発行。英語、ロシア語、韓国語に全編が翻訳・出版され、アニメやミュージカルにもなりました。
2005年07月29日
コメント(16)
おはようございます!ねこままんです♪今日から新シリーズ「忘れてはいけない出来事~広島~」を一日一回のペースで掲載していくことにしました。今年2005年はちょうど戦後60年にあたります。日本をとりまく国際情勢はテロ・核兵器所持など、平和に向かうどころかますます物騒な世の中になってしまっています。こんな世の中だからこそ、「人類で唯一の被爆国 日本」は世界中に平和の重要性を声高に叫ぶべきだと思う ねこままんです。しかし、悲しいかなあの戦争を自らの体験として語ることの出来る方は60代後半以降のお年を召しており、年々「かたりべ」となれる方々が少なくなっているのが実情です。しかし、これらは決して「忘れてはいけない出来事」だと思うのです。その中でも「原子爆弾の被害」は体験された方が限られており、もっとも忘れてはならない出来事だと思うのです。そこでねこままんを含め、「戦争を知らない世代」ももっと過去の出来事に目を向け、次世代の子や孫に平和の大切さを伝えていければと思い、このシリーズを始めることにしました。ちなみに…ねこままんは特に「歴史を学校で深く学んだ」とか「研究者」ではなく単なる「大阪在住の明るいだけがとりえアホタレの主婦」です。ですから、これから書き込んでいく記事も間違っていたりする箇所があるかもしれません。そんなときは、どんどんコメントお願いします。勉強させていただきます!また、実際の体験者の方のコメントもお待ちしております。***************************(1)1945年8月6日 午前8時15分この時間、みなさんはきっとご存知のことでしょう。そうです、歴史上初めて核兵器が人類に使用された痛ましい日です。簡単に説明すると、当時敵国であったアメリカがドイツに遅れまじと開発した「原子爆弾」の威力を試す目的と早く戦争を終結させる目的で、広島に原子爆弾を投下しました。この日、広島は太陽がジリジリと照りつける暑い日だったそうです。お外ではせみがジージーと鳴いていました。ちょうど休み明けの月曜日で、人々が動き始めた時間帯でした。 ある家庭では丸いちゃぶ台を囲んでにぎやかに朝ごはんを食べ、 家族が出かけた後、お母さんが洗濯物を干し、 学生さんは空襲による建物の延焼防止のため、炎天下の中 家々を壊す「建物疎開」という作業に汗を流していました。 学生さんの中には朝の授業を受けていました。 勤務先では朝の朝礼が行われていました。そんな中、まずアメリカの飛行機B29が飛んできました。広島中に空襲警報のサイレンが鳴り響きます。人々は毎日鳴り響くサイレンの音に慣れっこになっていましたが決められたとおり防空壕に避難するなどしました。しばらくして、空襲警報が解除され、人々はまたそれぞれの生活に戻った矢先のことです。3機のB29が飛んできました。1機の名前は「エノラ・ゲイ」、あとの2機は観測機でした。このとき、空襲警報は鳴らず、ある人は空を見上げ太陽の日差しを浴びて銀色に輝く機体を見て、 『きれいじゃのぅ…アイスキャンデーみたいじゃ…』と思ったそうです。そして、運命の午前8時45分…目もくらむような閃光が広島をおおい、次の瞬間ドォォーンという爆音がしたかと思うと、経験したこともないような爆風が何の罪もない一般市民を襲いました。(被爆体験をされた方はこのときの様子を「ピカドン」と表現しました。)B29「エノラ・ゲイ」より原子爆弾「リトルボーイ」が投下されたのでした。 原子爆弾は広島中心部にあるT字型をした特徴のある相生橋を目標にして、地上から約580mの高さで炸裂しました。原子爆弾は投下されて100万分の1秒の間に核分裂をおこし、高性能火薬TNT1万5千トン分のエネルギーを放出しました。次に核分裂が終わると、小さな太陽のような火球が発生しました。この火球は発生当初、数百万度・10万気圧というエネルギーを持っていました。次第に火球は大きさを増し、半径100mになる頃には表面温度が数千度になりました。これは太陽の表面温度と同じだそうです。つまり、広島にいた人は太陽の熱線をたった580mほどの距離から浴びることになったのです。資料館で展示物を見られた方はご存知だと思いますが、この熱線のすさまじさは表面の溶けた瓦屋根の展示物からもうかがうことができます。熱線だけでなく、この爆弾は人体に大きな影響をあたえる放射線を多く放出しました。放射線の恐ろしさについては、別の日にお話するとしましょう。また、熱線・放射能以外に爆風が襲いました。爆風は爆発によって生じた「衝撃波」が作り出します。この衝撃波は音速の秒速350mを記録するもので、これにより空気が移動して生じました。爆心地から1km内では真上から10万トン/立方メートルの圧力がかかったそうです。つまり、爆風は熱線・放射線で痛めつけられた人々・建物を容赦なくなぎ倒したのです。一部のアメリカ人のなかには原子爆弾のおかげで戦争が終結し戦死者数が抑えられたという人もいます。事実、そうなのかもしれません。しかし、原子爆弾の被害実態を目の当たりにするとそのような考えの人も持論を声高に叫ぶことができなくなるそうです。戦争はどちらが良い・悪いはないと ねこままん思います。ましてや、製造したアメリカですら、どのような影響を与えるかわからなかった原子爆弾を なかば実験のように罪もない一般市民に落とすなど、どのような背景があるにせよ許されるべきことではないと思います。もうすぐ、60年目のあの日がやってきます。ねこままんのつたない文章ですが、この書き込みが皆さんの心の中になにかしら訴えかけるものがあればうれしく思います。最後に…広島から遠く離れた場所にお住まいの方でも広島平和記念資料館の展示物を詳しい説明つきで見ることが出来ます。その他、いろいろ広島の原爆について知ることの出来るサイトをあげてみました。よろしければ ぜひ一度訪れてみてください。◆広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム ⇒ http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/◆国立広島原爆死没者追悼平和記念館 ⇒ http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/index.php◆広島原爆写真館 ⇒ http://www.nvccom.co.jp/abomb/◆CGギャラリー (広島県の宮島工業高校 インテリアクラブ作成の秀作です) ⇒ http://www.urban.ne.jp/home/kibochan/miyakou/cg.htm◆核兵器廃絶をめざすヒロシマの会 ⇒ http://e-hanwa.org/◆原水爆禁止日本協議会(日本原水協) ⇒ http://www10.plala.or.jp/antiatom/
2005年07月28日
コメント(13)
みなさん こんばんは!いつも元気100倍 ねこままんです!もうそろそろ 歯でも磨いて寝るべぇと思っております。寝る前に ず~っと考えていた記事の予告をしておきます!ねこままん6月末に広島に旅行してきたと過去の日記にカキカキしましたね。広島の街の雰囲気・地元の人の温かさも 広島に一年に一度行ってしまう理由の一つでもあります。ここからは いつもアホなことばっかり言うてるねこままんですが、ちょっとばかり まじめな「ねこままん」に変身さしてもらいます♪******************************ねこままんが広島に一年に一度は行く理由…それは60年前の広島で起きたことを深く知るため。そう、あの悲惨な原爆投下。ねこままんは生まれも育ちも大阪生まれで、親戚も広島にはいません。でも、小学校の頃から不思議とあの出来事が他人事に思えなかった。初めて広島に行ったのは約5年前。初めての原爆資料館訪問。ショックでした。何かが私の心を突き動かしました。それから、毎年広島に行くと資料館に行きました。今回も行きました。ただ、今回は単なる観光ではなく、すごい下調べをして原爆当時のつめ跡をのこしている「原爆遺跡まわり」をしました。すごく胸が痛くなるくらい「つらい」ことですが、ただ時の流れにまかせて「なんとなく」日常をすごしている自分がなんと幸せなことなのか、もっと一日一日を大切にせなあかん!と思わせてくれます。年々資料館を訪れる人数が減っているとか、平和記念公園の折鶴に放火されたとか、碑にキズをつけたりする「アホタレ」がいたとか耳にすると日本人の中にあの出来事が風化していると感じ悲しくなります。明日から、一日に1回のペースでねこままんの「忘れてはいけない出来事~広島~」のコーナーを作ってカキカキしていきます。ぜひよければ読んでみてください。画像も入れてわかりやすくね。ねこままんの持てる知識をフル稼働させて書いていきます。読んでくれた人の心にすこしでも「忘れてはならない出来事」をとどめることが出来れば幸せです。******************************さぁ、ここからはいつもの「あっかる~い♪」ねこままんの登場です!一昨日の日記でねこままん、少しずつやけど食事制限のおかげで「ベルトの穴が減りましてん♪」っという報告をいたしました。今日も使っている革ベルトの穴が一番きつくしめてもウエストがゆるくてずれて、パンツ見えそうです♪ねこままんのお勤めしてる会社は服装が自由なので、出勤はいつもジーンズの軽装なのです♪仕事中にパンチラのサービスカットを披露してしまうと同僚が悩殺されてしまいますので、明日ベルトに穴を2つ増やすことにしました。ねこままんのお父ちゃん(実父)に穴をあけてもらう予定です。このお父ちゃん、おんとし67歳やねんけどいまだにハーレーのサイドカー(=バイクです)をあやつってツーリングに出かけ、家ではレザークラフトをするパワフル父ちゃんです!夕方になると散歩と称して 毎日1時間くらい歩いてはります。先日、毎年受けてる人間ドックで「下腹に影がある」と言われ、精密検査したら、なんとウォーキングで筋肉がついて内臓が見えんかったという逸話を増やしてくれました♪67歳でも筋肉増強している 父ちゃん♪さすが父ちゃん♪ 自慢の父ちゃんです♪ってなことで、明日ベルトに穴2つあけてもらいま~す♪それでは、夜も更けてまいりました。ねこままん 天使の寝顔でオネムします♪おやすみ~(-o-)Zzz
2005年07月27日
コメント(13)
全14件 (14件中 1-14件目)
1