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■岩本由輝『東北開発人物史』刀水書房、1998年 から(適宜、当ジャーナルで要約・再構成しています。なお、当時の政治経済情勢が大変参考になるため、また岩本氏の人物描写に引き込まれ、ついつい詳しく引用しています。)1 経歴 - 誕生から卒業まで内ヶ崎贇五郎(うんごろう)は明治28年、富谷村の12代続いた造り酒屋内ヶ崎酒造店の五男に生まれる。父内ヶ崎儀左衛門、母サダ。なお、長男豊一郎、次男隆次郎(五代目藤﨑三郎助)である。贇五郎3歳の時に父が38歳で逝去、祖母の晩酌の相伴をするなど可愛がられ、後年に自身は3歳から飲み始めたと語る。贇五郎は小学校の校庭で遊んでいるうち教室に入り込むなど学校が好きで、母サダは校長に頼み込んで、明治33年に学齢期より2年早く村立尋常高等小学校尋常科に通学した。良い成績で進級し、明治37年3月尋常科を卒業する。高等科進学に際しサダは贇五郎を仙台で勉学させることを考える。儀左衛門の死後、サダは長男豊一郎の後見人として家業を切り盛りしてきたが、豊一郎が19歳となり、母が贇五郎と弟の豊治を連れて仙台に出ることに賛成した。すでに、次男隆次郎は親戚の藤﨑家養子となり、長女たけは仙台市の田丸祐一郎に嫁いでいた。贇五郎は母たちと仙台市覚性院丁に住み、37年4月仙台市立立町尋常高等小学校高等科に入学した。成績は良く、普通ならば高等科2年を卒えて中学校受験だが、学齢に達していない贇五郎はさらに2年間高等科に通い、明治41年3月卒業し、無試験により(高等科卒業成績が2番だったため)4月に宮城県立仙台第一中学校(現仙台第一高校)に入学した。大正2年2月、やはり2番の成績で仙台一中を卒業する。このあと、大正2年9月に(当時の高校と大学は9月新学期、7月卒業)、第二高等学校第二部工科に入学し、大正5年7月二高を卒業する。高校入学のころ既に電気をやろうと決め、中学校以来のボートも続けた。大正5年9月、贇五郎は上京して東京帝国大学工科大学電気工学科に入学。主任教授は鳳秀太郎(与謝野晶子の実兄)で、親戚の藤﨑家が四谷区塩野一丁目29番地に立てた金剛寮(宮城県出身学生の宿舎)に住んだ。大正8年7月、工学部電気工学科(大正8年2月の学制変更で学部制)を卒業して、大学推薦で大阪電燈株式会社に就職した。2 大阪電燈から大同電力へ大阪電燈株式会社は明治22年設立で、創業時の施設は老朽化し、また発電所の増設も課題だった。贇五郎が入社したのは、わが国最初の火力の大規模発電所として春日出第一発電所(2万kW)を完成させた頃で、技術者は張り切っていた。しかし、建設費負担で株式が無配に転落するなど社内には動揺があった。もっとも、贇五郎には、芦屋の船場の御寮はんの隠居屋に下宿して、ご隠居さんから小唄や歌沢を教わり、晩酌が二本付くという余禄があり、その後の贇五郎の処世に役立った。半年目の大正9年1月には新設の日本水力株式会社に出向を命じられ、丸の内の三菱仲15号館に勤務となる。日本水力は、大正8年に大阪電燈、京都電燈株式会社、北陸電化株式会社の三社が出資し、水力電気を大阪電燈と京都電燈に売電する目的で設立された大会社である(大正9年1月北陸電化を合併して資本金5千万円)。大正9年4月の第一次大戦反動恐慌で日本水力は金融の道を断たれ、贇五郎らは発注の解除に奔走する。そこで、日本水力は、木曽川開発で大阪に給電しようとしていた福沢桃介の大阪送電株式会社及び木曽電気興業株式会社と合併することになり、大正10年1月に大同電力株式会社(社長福沢)が設立される。贇五郎も大同電力に出向となり、名古屋の旅館にしばらく下宿する。大同電力はまず木曽川に読書(よみかき)発電所(40,700kW)を建設することになり、贇五郎が担当となり長野県西筑摩郡読書村三留野(みどの)に赴任。建設現場の宿舎で若い者と酒を飲んで気焔をあげた。ときに、福沢桃介(諭吉の長女房子の夫)は日本最初の女優川上貞奴を愛人として三留野に連れてきたが、こうした私行に反感を抱く贇五郎が口にするなど脱線話が伝わる。大正12年12月に工事は完了し、逓信省の試験には贇五郎みずからハンドルを握って試運転をした。完了後は読書発電所主任としてしばらく三留野に滞在する。大正13年3月、贇五郎は大阪府北河内郡門間村(現門真市)の大川橋変電所主任となり、大阪の社宅に住むようになる。ここは読書発電所から送られる電気を配電する施設である。その夏に、上司の技術課長藤波収(のちの北海道電力社長)に呼ばれ、川崎金属飛行機の工場(神戸)を視察する福沢社長の随行を命じられる。辞退すると、藤波はどうしても君でなければ駄目というので、しぶしぶ同行した。一日の視察だが、贇五郎は福沢から貴重な教訓を与えられ、福沢桃介という人物を再認識する。実は、福沢が知人の娘の世話を依頼されたため、人物テストをするための同行だった。まもなく、博多の若松築港株式会社重役高橋達の次女まさと見合いをして、大正14年9月挙式。贇五郎30歳、まさ22歳で、大阪府豊能郡池田町(現池田市)に新居を構えた。12月には大阪支店工務係主任となるが、この間6月から社内の労働委員会のメンバーとして労働問題の処理にあたっている。やがて経営者となったときに貴重な経験となる。3 五大電力の時代昭和2年金融恐慌、昭和4年にはじまる世界恐慌を経て、電力競争が批判されて電力統制論が台頭する中でも、五大電力(下記)は地位を強くしていった。・東京電燈株式会社 =(供給地盤)関東・東邦電力株式会社 =(供給地盤)中京、九州、四国・大同電力株式会社 =卸売・日本電力株式会社 =(供給地盤)関西、卸売・宇治川電力株式会社 =同上中でも、大同電力の成長は特にめざましかった。昭和5年11月に、内ヶ崎家13代当主の長兄豊一郎が亡くなる(45歳)。継嗣がないので贇五郎が14代当主となり、12月に家督相続したが、家業は叔父(父儀左衛門の弟)文之助を内ヶ崎酒造店代表とした。昭和9年には、結婚10年目で待望の長男儀一郎が誕生(贇五郎38歳、まさ30歳)。昭和11年9月、五大電力は北支電気事業調査団を派遣するが、贇五郎は大同電力の代表として参加する。調査の結果、天津に2万kWの火力発電所を建設が妥当との結論を出している。この調査旅行の際、大陸にいる日本人の中国人に対する傲慢な態度に心を痛めている。帰国した贇五郎は、調査課長兼任のままで工務部発変電課長に任ぜられる。昭和11年10月、逓信省は電力国家管理案大綱を発表する。すでに昭和10年5月頼母木桂吉を中心に電力国営案が練られ、昭和11年3月、2.26事件後の広田内閣の庶政一新の題目の一つとして、逓信大臣となった頼母木が、民営国有の特殊会社を設立して発送電を一括して政府が管理し、電気料金を2割引き下げるとする方針(頼母木案)を示す。五大電力はじめ事業者は強力な反対運動を展開するなかで、管理案大綱が発表されたのだった。昭和12年6月、近衛内閣が登場すると、逓信大臣永井柳太郎のリードにより、12月第73帝国議会に関連4法案(永井案)を提案、昭和13年3月に成立をみる(8月施行)。4月の国家総動員法の公布(5月施行)で、反対は許されない雰囲気となった。4 日本発送電(日発)の発足大同電力の常務だった藤波は、国家管理が必至との判断から、大同電力を一括して国策会社に出資してその中で事業を進めるべきとの考えを持ち、気心の知れた贇五郎にたびたび説くようになる。贇五郎も藤波の決意に賛意を表明するが、社長増田次郎(昭和3年に福沢から代わった)ほか社内の大勢は国家化管理反対の姿勢を崩さなかったので、意見の表明は勇気のいることだった。4法案成立を受けて、藤波は増田に対して、小売りの少ない当社は会社ぐるみ新会社に入るべきである、名を捨てて実を残すにはそれしか方法はない、と進言。国策会社の日本発送電株式会社への一括出資という持論を献言したのだった。増田は他事業者との協調維持の観点から、最初から賛成はしない。贇五郎も気が休まらない毎日が続いたが、部下の瀬戸千秋と平井寛一郎が藤波や贇五郎に賛成したことは心強かった。そしてついに藤波が増田の説得に成功する。昭和13年10月、大同電力は贇五郎を、瀬戸、平井ら20数人とともに日本発送電株式会社設立事務所設営のために東京の帝国ホテル向かいの逓信省の建物(バラック)に派遣された。ここで、技術面の責任者として設立準備を進めた。昭和14年2月、大同電力は、所有設備の一切を日発に出資または譲渡して解散を決定。大同電力をはじめ公営を含め33事業体が発送電設備の大半を日発に出資することになった。寄合所帯の総裁を誰にするかで最後までもめたようだが、結局増田次郎が初代総裁に就任した。昭和14年4月、日発は発足、また電気庁が設置された。4月1日の午後、増田は全社員を集めて訓示をおこなった(電力資源の有効開発、低廉な配電、公益優先の精神で国家最高の目的達成を第一義とする、など)。これは藤波の意見を容れて贇五郎が原稿を書いたといわれる。日発では、藤波は理事長兼工務部長、贇五郎は参事兼送電課長に任ぜられた。発足当時の日発は経営が厳しく、昭和14年は渇水で水力発電が麻痺し、補うための火力も石炭不足で思うに任せなかった。昭和16年1月には増田が責任をとり辞任、2代目総裁には日本電力株式会社社長の池尾芳蔵(かつて国家管理案反対の急先鋒)が就任。この間、政府は配電部門に統制を加える方向を打ち出し、昭和16年1月に配電事業統制要綱を発表、9月には配電会社設立命令が出された。戦時体制のもと、昭和17年4月には、東北配電株式会社など9つの配電会社が発足している。日発にも変化があり、昭和16年10月に各電気事業者に対する第一次強制出資が行われる。12月には東北振興のための設立された東北振興電力株式会社が日発に合併して解散し、同日に日発東北支店が置かれた。ところで、贇五郎は昭和16年10月、富山事務所開設事務所長を命じられ富山に赴任する。廃止された支店の復活だが、内実は池尾による左遷である。贇五郎に付けられた本社社員は1人だけ。池尾は日発設立を推進した藤波や贇五郎が煩わしい存在にみえたが、理事兼工務部長の藤波に手出しできない分、贇五郎を狙い撃ちにしたようだ。このとき、贇五郎は単身赴任。丈夫でない妻まさに北国の寒さが思いやられ、また、儀一郎が国民学校に入学したばかりだからであった。赴任にあたり当時衆議院副議長で一族の内ヶ崎作三郎から富山県知事町村金五(のち北海道知事)あて紹介状をもらっており、町村は事務所開設の建物として教育会館を貸してくれ、また、事務所要員として富山県営電気の職員の採用を依頼してきたため、一挙に70人の部下ができた。配所の月をみる思いの贇五郎だったが、こうして日発富山事務所が発足し贇五郎は所長となった。しかし池尾の御殿女中的な仕打ちが続き、昭和17年4月事務所は富山支店に昇格するが、支店長は田波芳三、贇五郎は支店次長に格下げ人事だった。昭和18年2月田波の後任支店長桜井督三でも贇五郎は支店次長のままだった。池尾により出世が遅れた贇五郎だが、しかし、この出世の遅れが敗戦時の追放から免れることになった。昭和18年8月、池尾が辞任し第3代総裁に新井章治(関東配電株式会社社長)が就くと、処遇も一転。昭和19年4月贇五郎は本社に呼び戻され工務部長に就任。同日、藤波は関東配電の副社長に転じている。このあと、昭和20年4月、贇五郎は日発東北支店長に赴任。7月9日夜から翌日未明にかけての仙台大空襲では支店も焼失の憂き目にあった。5 東北配電と労働問題戦後は、被害を受けた施設の復興、占領軍との折衝、また労働組合の結成により組合との交渉も日常業務となった。組合の中には日本共産党の指導で引き回されたところも多かった。日発では、昭和20年12月に本店従業員組合が組織されたが、東北支店でも同月、各職場別の従業員組合が結成された。しかし、日発本支店の組合は労使協調路線をとったので、贇五郎は支店長として苦労は少なかった。ところが、昭和21年2月に発足した東北配電株式会社従業員組合は、最初から日本共産党指導のもと、委員長に入江浩、書記長に佐藤栄蔵を選び、即日会社に8か条の要求をつきつける。従業員を我が家の使用人のように考えていた東北配電社長の橋本万之助は、初めての団体交渉の場で立腹して興奮し、そのまま社長を辞めてしまう。代わって副社長遠藤伍一が社長になるが、5月1日メーデー当日に姿をくらます。従組は、社長の一切の権限を組合委員長が行うと宣言し社内を占拠する異常事態となった。このため、憂慮した宮城県知事(東北六県行政協議会議長)千葉三郎と東北地方商工局長宮脇参三は、贇五郎に東北配電副社長就任を要請する。再三固辞するも、千葉や宮脇が日発総裁の新井に働きかけたことから、新井の口添えで5月31日ついに、火中の栗を拾う思いで贇五郎は日発東北支店長を辞し、東北配電副社長に就任した。50歳であった。この間、日発及び各配電会社の組合により、昭和21年3月、全国電気産業労働者単一組合結成懇談会(愛知県蒲郡町)、4月には日本電気産業労働組合協議会結成準備大会(伊東市)が開かれ、6月25日に東北配電従組は中央大会を開き、日本電気産業労働組合協議会(電産協)に加盟を決定。電産協は7月6日に全国結成大会(金沢市)を開き、8月19日発足の産業別労働組合会議(産別)に加盟。産別における日本共産党フラクションの跳梁は目に余ったが、その産別の中核的な組合が電産協であった。そのあと、電産協は、2.1スト挫折後の昭和22年2月に単一組合結成を決議し、5月、日本電気産業労働組合(電産)の結成大会(京都市)を開催。なお、東北配電従組はこれに応じてすでに2月に解散を決定、5月には電産東北地方本部結成大会(新潟市)が開催された。東北配電副社長として出社した贇五郎は、従業員の冷たい態度に迎えられた。まずは、社内占拠を終わらせるため、理事の堀豁(とおる)と相談しながら、組合交渉では逃げないこと、できない約束はしないことの2つを守ることとした。これは、かつて大同電力工務課主任のころの労働問題処理の経験を生かした。毅然とした贇五郎の態度に、組合員には単に怒号を浴びせても進展しないと察知する者が出て、6日目に組合は一応占拠をやめると通告してきた。次に対応しなければならなかったのは、遠藤社長(会社に出てこない)が約束した協定(人事に関しては組合と協議して決定する)を改めることだった。9月の株主総会で贇五郎は取締役副社長、堀は常務取締役(労務担当)となり、正面からこの問題に取り組む。11月に遠藤社長は辞任し(公職追放)、贇五郎が名実ともに取締役社長となった。ただし、昭和22年2月1日に予定された2.1ストの挫折により、スト計画が労働運動への日本共産党の介入だったことへの反省が各方面から起きる。産別民主化同盟の結成の動きがそれだが、電産の中にも共産党批判を鮮明にするみどり会が組織される。組合が人事管理を行っていた東北配電でも、人事の不公平感から当の組合員の中にも不満が高まってきた。そのような不満を階級意識の欠如とする組合の態度が、さらに組合に対する不信を増大させた。東北配電従組が解散し電産東北地方本部に改編される(上述)と、一般組合員は一層組合から遊離した。そして、多くの組合員は、安易に組合に妥協して雲隠れした遠藤前社長の約束など有効性がないことを知るのである。社長としてできることは約束するができないことははっきり拒否する贇五郎の態度が、信頼されるようになってきた。贇五郎が工学部出身出身で数字を挙げて粘り強く説得する態度も幸いしたかも知れない。かつての組合闘士に聞いても、橋本のように団体交渉の場で激高して辞表を書いたり、遠藤のように組合の言うがままに協定書を書いて姿をくらますような社長は、今でも非難するが、贇五郎の名を挙げて非難する者はいない。6 電気事業の再編成昭和22年12月、過度経済力集中排除法が公布施行され、昭和23年2月22日に、日発、東北配電など9配電会社が同法適用の第二次指定を受ける。これと同時に、持株会社整理委員会から電気事業再編成計画書の提出を求められ、4月に日発は全国送配電一社化案を、9配電は各区域別の発送電一環会社案を提出した。贇五郎は(かつて創立に関わった)日発はいまや使命を終えたとして、解体再編成を主張し、先頭に立っている。このとき念頭にあったのは、日発に合併された東北振興電力の役割の継承であり、これを贇五郎は「東北地方の振興はまず電力から」と表現した。東北配電は、贇五郎とともに経営改善に尽力していた常務取締役の堀を取締役副社長にする。ところが、東北振興電力の使命を継承しようとしたもう一つが、同社の姉妹会社として設立された国策会社の東北興業株式会社だった。東北興業は、昭和24年4月過度経済力集中排除法の指定解除の前後に、東北振興電力が有した水利権を回復して利用する北上川水系総合開発計画策定に着手する。これに対して、東北配電は昭和25年2月に、東北興業の自家用発電計画と同じ水系に別途の発電計画を発表し、以後両社は激しく対立し政治問題化する。贇五郎は東北興業に継承する力はないとみて、譲るつもりはなかった。電気事業再編成の方は、日発案が国家機関的立場で、9ブロック分割案が完全な民有民営の立場だが、このほかに電産の労組の立場から全国一社化案もあった。それぞれに政治的立場が絡んだが、昭和24年11月、GHQの指示で通産大臣の諮問機関として電気事業再編成審議会が設置され、松永安左衛門(元東邦電力社長)を会長として審議を開始。昭和25年1月の答申では、日発と9配電を解体し、新たに9ブロック別に会社を設立することまでは同じだが、ブロック間の融通を行う会社を別に設立する多数意見と、融通会社を設けない松永私案が併記された。GHQは2月に審議会案に反対を明らかにする。そこで、政府は松永私案に修正を加え、ブロック間の融通は新設する公益事業委員会の調整に委ねるとの案でGHQの了承を得て4月法案(電気事業再編法案及び公益事業法案)を提出するが、結局与野党の反対で審議未了となった。11月、マッカーサーが吉田首相に再編促進の書簡を送りつけ、政府は臨時閣議で抜き打ち的にポツダム政令により電気事業再編成令および公益事業令を公布した。これが現在の9電力会社体制の基礎になる。昭和26年4月、東北配電と日発は歴史を閉じる。7 東北電力の発足昭和26年5月1日東北電力株式会社が発足。日発の東北地区の設備と東北配電の全設備を継承し、資本金9億円。贇五郎は取締役社長になる。会長には白洲次郎(吉田茂首相の側近。電気事業は素人で一切を贇五郎に任せた)、副社長の一人に東北配電で労務問題で苦労を共にした堀豁を、また、常務の一人に日発設立にあたり大同電力から行動を共にした瀬戸千秋が就任。贇五郎は「日本の再建は東北から、東北の開発は電力から」をモットーにリーダーシップを発揮。贇五郎56歳、最も油が乗り切っていた。最初に取り組んだのは急速に増大する需要に対応する電源開発であった。その最大の問題は、日発解体に伴う9電力相互の電源帰属問題だが、当時わが国最大の電源と期待された只見川筋の未開発地点は未決定のままだった。東北電力は贇五郎の指揮で、5月1日(発足の日)に福島県から水利利用許可を得て、12月に柳津・片門両発電所の建設にとりかかる。これに対して、東京電力による水利使用計画変更申請があったが、福島県は昭和27年7月に申請を返戻し、8月には東京電力の水利使用許可を取り消した。東北電力は、9月の総理大臣裁定を得て、さらに上田・本名両発電所建設に着手した。その以前の8月に、東京電力は福島県知事を被告に行政処分取り消しを福島地裁に提訴したが、これは訴外の東北電力との只見川の電源開発をめぐる争いだった。昭和29年1月、東京電力の取り下げで解決している。贇五郎が工事着工の既成事実で積極的に対応したのは、東北の電力資源は東北で使用すべきとの信念に基づくものであり、また会長の白洲が吉田首相の側近だったことも有利に作用した。東北興業が進めようとした北上川水系総合開発についても、いったん閣議了解までいったものを昭和26年6月までに断念させている。ここでも白洲の政治力が大きかったようだが、贇五郎は東北興業にはすでに開発する力がないと見抜いていただろう。東北開発の主役が古い国策会社から新しい公益事業に移ったことを示している。8 東北開発の主役として贇五郎はこうして重くなった東北開発に対する責任を自覚し、必要な調査活動を積極的に展開する。根津知好の主宰する日本経済研究所に総合的調査を委嘱するとともに、電力問題については進藤武左衛門、港湾施設については豊田雅孝、地下資源については吉野信次、合成繊維について伊藤忠兵衛、農業振興と肥料工業については荷見安を、それぞれ専門調査委員会の委員長に据えた。その成果が、一連の調査報告書となり、のちの東北開発促進の基本資料として重要な役割を果たす。・『東北の電力と産業振興』昭和26年1月刊行・『東北の港湾と産業振興』昭和26年10月刊行・『東北地方の電力需要』昭和27年10月刊行・『東北の電力と工場誘致』昭和28年3月刊行・『東北の地下資源と産業振興』同上・『東北のチタン砂鉄資源』昭和29年3月刊行・『東北の農業振興と肥料工業』昭和29年4月刊行・『東北の石灰石資源』昭和30年2月刊行・『東北の産業振興と合成繊維』昭和30年7月刊行贇五郎には財界はじめ社会活動が期待され、すでに東北電力創立前から、昭和25年4月日本経営者団体連盟(日経連)常務理事に、昭和26年4月宮城県経営者協会理事長に就任した。また、昭和27年3月東北経済調査協会会長、8月には東北電話協会連合会会長。11月には、経済団連合会(経団連)理事と日本電力調査委員会委員となる。昭和28年3月には仙台商工会議所会頭と東北6県商工会議所連合会会長、6月には宮城県信用保証協会会長にも就いた。昭和29年4月には東北電気協会会長、7月に日本商工会議所常議員、8月には東北電業会理事長となり多忙を極めた。9 東北開発三法昭和30年1月、鳩山内閣施政方針演説で東北開発推進を約束する。贇五郎はこれまでの調査結果を積極活用する決意を固める。7月に経済審議庁から改組された経済企画庁が策定した「東北地方総合開発調査実施要綱」が9月に閣議報告された。贇五郎ら東北の各商工会議所の幹部が日商および東商の代表と懇談し、東北開発懇談会(10月に東北総合開発懇談会)を発足させている。こうした活動の結果が、東北開発三法の形で現れた。・北海道東北開発公庫法(←北海道開発公庫法の一部改正) 昭和32年4月成立・東北開発促進法 昭和32年5月成立・東北開発株式会社法(←東北興業株式会社法の一部改正) 同上昭和32年8月には、東北開発促進法第4条による東北開発審議会委員に贇五郎ら35名が任命され、9月には会長に就任。審議会が策定した東北開発促進計画(昭和33-42年)は、昭和33年8月閣議決定された。この間、東北電力は只見川など水力中心の大規模電源開発を画したが、昭和31年9月着工の八戸火力発電所は火主水従の方向に切り替えるものだった。昭和32年10月には仙台火力一号機の建設が開始。贇五郎がこれらを新鋭火力電源開発と称した。・昭和33年6月 八戸火力発電所1号機 運転開始(以下同)・同年10月 同上2号機・昭和34年10月 仙台火力発電所1号機・昭和35年11月 同上2号機・昭和37年6月 同上3号機このように東北電力の事業は順調だったが、昭和34年1月5日、仙台市消防出初式に出席した贇五郎は、その場で倒れた。東北大学学長黒川利雄らの診断で延髄被蓋症候群で予断を許さないということであったが、3月末に一応退院し社長職務に復帰。日本経済新聞は10月から「私の履歴書」を連載(18回)した。同年10月に白洲会長が退任し、昭和35年5月には贇五郎も社長を退任して、相談役に就いている。10 その後東北電力社長退任後、昭和36年6月、贇五郎は東日本興業株式会社取締役会長に就任。昭和36年には内ヶ崎酒造店の代表社員として甥の欣一と経営を手掛ける。昭和36年10月仙台市名誉市民に推挙、同月、東北経済開発センター会長に。10月には宮城県経済審議会会長に就任する。さらに、昭和38年2月宮城県社会福祉協議会会長、10月には宮城県福祉事業団理事に就任するなど、悠々自適というわけには行かなかった。なお5月には東日本興業社長を辞任、相談役に就任している。このあと、贇五郎は昭和43年6月に東北電力名誉相談役、昭和55年4月同社名誉顧問に推戴される。昭和57年9月22日、満87歳の3日前に嚥下性肺炎で亡くなる。11 参考文献(原典に記載のもの)河野幸之助『内ヶ崎贇五郎』日本時報出版局、1959年12月東北電力社史編集委員会編『東北電力20年のあゆみ』東北電力株式会社、1972年3月新妻規矩雄編『東北電気事業五拾年回顧史』電報新報社、1976年4月内ヶ崎贇五郎流芳録編纂委員会編『内ヶ崎贇五郎流芳録』東北電力株式会社、1985年4月■関連する過去の記事(岩本由輝さん著作をもとにしたもの。他にもあったかも) 原田好太郎と山形の機械工業(2025年01月25日) 東北開発の具体像(2023年04月06日) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 仙台藩の経済と財政を考える(5) 升屋と中井(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(4) 藩財政の構造と御用商人(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日) 鮎川と鯨の歴史(2011年1月29日)
2025.03.03
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先日の河北新報に、中江一丁目の「花の湯」が今月末で休止するとの記事があった。昔ながらの番台が残る市内唯一の施設。86年の歴史があるという。記事によると、仙台の銭湯は、かしわ湯(一番町一丁目)が2018年閉店。現在は、駒の湯(国分町一丁目)、喜代乃湯(小田原一丁目)、鶴の湯(長町四丁目)が営業を続けているという。思い出す。2014年の夏のことだ。私は、とある学会の研究大会での発表を申し込んでおり、金曜の仕事の後に広瀬通のターミナルから都市間夜行バスに乗ったのだが、その前に仕事の先輩が飲み屋でミニ壮行式を開いてくれた。自分はそのあとに一人で、一番町のかしわ湯で風呂に入ってから、バスターミナルに向かったのだが、その先輩が乗り場に顔を出して差し入れをしてくれたのだった。かしわ湯は、小さなビルの階段を地下に降りるような施設だったと記憶している。二番丁大通りからちょっとだけ入ったところ。たしか、ほかに一人客がいたと思う。仙台でスーパー銭湯以外の銭湯に入ったのは、たぶんこの時だけではないか。もう10年以上も前になるのか。私の発表は拙いものだったが、コメントをいただいた先生方や一緒の発表者の方々との交流がその後も続き、自分の幅を広げられたように思っている。しんみり思い出している。
2025.02.26
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我が国の政教分離はどの方向に向かうのか。■宍戸・林 編『総点検 日本国憲法の70年』岩波書店、2018年(田近肇執筆部分)から、ODAZUMA整理1 背景日本国憲法の政教分離規定(20条1項後段、同条3項、89条前段)の背景には、明治憲法下で国家神道に事実上国教的地位が与えられ、他の信仰や団体を迫害した歴史的事情がある。これを踏まえ、国家と宗教を分離するGHQの神道指令を永続化するために憲法に盛り込まれた。憲法施行後も主として神道との関係が問題となった(政教分離規定違反が争われた最判集民事に登載の16件の判例のうち、14件が神道に関わる)。2 日本型の政教分離このことから、学説上も実務上も、諸外国とは異なる独自の展開をしてきた。(1) 国家と宗教の分離まず、欧米では、教会 church と国家の分離と表現されるのが通常だが、我が国は、国家と宗教の分離との言い方が多い(津地鎮祭以来の判例でも)。これには、神社神道を教会の語で示す違和感に過ぎないとする見解もあるが、他方で我が国の政教分離原則が「宗教と国家の分離」であることに特別の意味を認める見解もある(津地鎮祭控訴審判決が、神道指令は、西欧諸国の国家と教会の分離ではなく、国家と宗教の分離という徹底したものである、と説く。近時でも再評価する見解=石川健治)。こうした見解は、一般の宗教というよりは神道と国家の関係を念頭にしている。すなわち、神道は整然と体系化された教義というより、共同体の祭祀や儀礼を中心とする特徴ゆえに、国家と神道の関わり合いは、神社組織に対する国家の支援というよりは、神道や神社の祭祀や儀礼に対する国家の事実上の関与という形で生じることが多い。そして、この事実上の関与をも政教分離規定で禁止されていることを徹底するため、「国家と宗教の分離」と強調されるのだ。(2) 目的効果基準上記の事情は、違憲審査のあり方にも影響を及ぼす。最高裁は(津地鎮祭判決)、国家行為が宗教的活動(20条3項)に該当するか否かについて、目的効果基準を判断枠組みとする。これは、米国判例のレモン・テストを変容した形で受け入れたものと言われる(芦部信喜)。しかし、レモン・テストの場合、1.目的の世俗性、2.宗教を振興・抑圧する効果の有無、3.過度の関わり合いの有無、が独立したテストであるが、我が国の目的効果基準は、目的と効果が独立して機能させられることのないまま、むしろ「さまざまな要素を考慮し社会通念に従って判断される」とする点で、総合衡量の手法だと指摘される(阪口正二郎)。レモン・テストが我が国で変容した理由は明らかでないが、日本の場合に問題とされるのは神社神道絡みの事実行為だからという説明(大石眞)が正鵠を得ていると思われる。すなわち、問題とされるのは、神道の教義の公認とか神社組織に支援といった国家による組織的支援というより、今や習俗化しているようにみえる行事や儀礼に対して国家機関が事実行為を通じて関与することだからである。そして、そうした事実行為には、立法の目的や効果を論じるのと同様にその目的や効果を論じることはできないから、結局、その行為が世俗化した社会的儀礼と言えるか否かが決定的となり、その結果、通常は目的判断も効果判断も国家行為の社会的儀礼該当性の判断に従属することになりそれぞれ独自の意味を持たないことになる(林知更)。このような条件下で政教分離規定についての違憲審査に実効性を持たせうるかを考えるとき、注目されるのが愛媛玉串料判決(最大判平成9.4.2)である。この判決で最高裁は、目的効果基準を用いるにあたり、行為の目的をその行為の態様等との関連において客観的に判断し、効果に関しては社会に与える無形的なあるいは精神的な効果や影響をも考慮して、米法にいうエンドースメント・テスト〔ODAZUMA注、一般人から見て特定宗教を後押ししているとの印象を受けるかどうか〕に類似したアプローチをとった。事実行為による関わり合いをいかに審査すべきかの一つの方向を示していると思われる。(3) 国家神道への否定的評価の影響ところで、我が国の特殊性に、政教分離原則を擁護することが民主主義運動であり平和運動でもあるという構図がある(阪口)。それゆえ、政教分離原則は、信教の自由のよりよき保障という文脈のみで捉えるのは決定的に不十分であり、平和主義(2章)と象徴天皇制(1章)との密接な関係の中で理解しなければならない(佐々木弘道)と説かれる。いうまでもなく、軍国主義的イデオロギーの宣伝のために用いられた国家神道を解体するために政教分離原則が導入された歴史的事情が背景である。そして、この国家神道に対する明らかな否定的評価に基づき、学説上も実務上も、多くの見解が、単なる神道でなく国家神道を念頭において完全分離や厳格分離を主張してきた。しかし、問題は、国家神道を念頭に形作った政教分離原則をそのまま他の宗教団体(国家主義的要素が取り除かれた神道も含めて)にも一般化することが適切かどうかである。東日本大震災の際、地方公共団体によっては宗教や宗教団体の取り扱いに過剰とも思える反応がみられたが(田近肇)、その原因のひとつに、国家神道を念頭に置いた政教分離観を一般化した結果、他の宗教団体を巻き添えにしてしまったと言えないか。憲法は、国家神道以外の一般の宗教にはむしろ肯定的観点に立っているのである(佐藤幸治)。それゆえ、政教分離観をそのまま他の宗教団体についても一般化して、宗教というものを政治的共同体から駆逐しようとする無神論的な政教分離観をとることは適切でない(大石眞)と思われる。3 訴訟制度の問題我が国の司法権は英米流の概念を継受したため、具体的事件・争訟性の要件が司法権の概念の中核をなし、客観訴訟が許されるのは法定の場合に限ると理解されている。他方で、政教分離規定は、制度的保障というかどうかはともかく(津地鎮祭以来最高裁がとってきた制度的保障性は石川健治によって止めを刺された感)、主観的権利を保障したものではないとの点でほとんどの学説は一致している。その結果、政教分離規定違反を裁判で争う場合に、地方公共団体なら住民訴訟を利用できるものの、国の行為には制度がない以上争いようがない。こうした現状のもと、殉職自衛官合祀拒否事件(最大判昭和63.6.1)のように、宗教的人格権という主観的権利の侵害という論理構成で主観訴訟を提起する方法がとられてきた(小泉元首相靖国神社参拝事件=最二判平成18.6.23、靖国神社霊璽簿訴訟=大阪高判平成22.12.21)。しかし、最高裁が宗教的人格権あるいは類似する権利を法的に保護されたものと認めたことはなく、宗教的人格権の主張は政教分離規定違反とされる国の行為を統制するうえで成果を上げたとはいいがたい。それは、この権利の内容や外延の不明確さに加えて、そもそもその権利の構成に無理があったからと思われる。すなわち、この権利の内実は「ある死者の追悼を独占する遺族の利益」に帰着するが、何らかの形で個人と縁のあった他者が追悼することは認めざるを得ず(原田尚彦)、それゆえ最高裁が宗教的人格権あるいは類似する権利を承認しないのは無理もなかった。ともあれ、原告適格がスタンディング論〔ODAZUMA注、司法権の本質たる具体的事件性を要件づける原告適格ということか〕の本家の米国以上に厳格に解されている結果、政教分離原則は、一方では国家神道を念頭に厳格な分離が説かれながら、他方では、その立場から最も警戒されるべき靖国神社と国の関わり合いが違憲審査をまぬかれるという矛盾した状況におかれてきた。しかし、現行の訴訟ルールで政教分離規定に違反するとされる国の行為を統制できないのであれば、訴訟ルールの見直しも必要ではないか。スタンディングに関する米国判例法理を参考に、少なくとも89条は支出行為の違法性を争う納税者訴訟を憲法上承認したものと解すべきとの主張もあり(松井茂記)、また、国レベルで客観訴訟を導入することもできよう。いずれにせよ、国の行為を違憲審査の俎上に載せ、その統制を可能にする工夫がない限り、我が国の政教分離原則の発展はないように思われる。4 政教分離の新たな課題 = 市民的公共圏における政教分離原則従来、憲法の下では宗教は全くの「わたくしごと」と説かれてきた(宮沢俊義)。たしかに政教分離原則下では、宗教は国家的な政事ではありえないが、個人と国家の間には社会のレベルがあり、政教分離原則は宗教が社会において一定の公共的な役割を担うことを禁ずるものではないだろう。近時は、公共空間を国家的公共圏と市民的公共圏に区別し、国家的公共圏が政教分離原則により世俗化され無色透明に保たれるべきなのに対し、市民的公共圏では宗教の旺盛な活動が期待され、政教分離原則は市民的公共圏からの宗教の撤退を意味しないと説かれることがある(石川健治)。実際、東日本大震災では、宗教団体・宗教者も積極的に救援や復興に取り組み、役割を果たした。こうした活動は市民的公共圏での活動に属するが、だからと言って政教分離原則と無関係ではない。現実には、市民的公共圏における私人の活動であっても国家が全く無関心ではいられないからである。本来国家が行うべき活動(被災者の救援)ならば、国家と宗教者・宗教団体が協力連携することが望ましい或いは必要かも知れない。ここで、市民的公共圏で宗教者・宗教団体が公益的・社会的活動を行うとき、政教分離原則には従来と異なる側面が問題となることに気づく。すなわち、従来は、国家機関が「社会的儀礼」を通じて関わる場合のほか、国家が積極的施策の受益者に宗教団体を含めること(文化財保護、私学助成)で関わり合いが生じる場面だったが、ここでは、宗教者・宗教団体がその社会的活動に関して国・地方公共団体と協力連携するという形の関わり合いである。ただし、その協力連携において国家が恣意的に協力相手となる宗教団体を選別したり、社会的活動の中で布教宣伝が行われることがあってはならないことから、憲法上どこまで或いはどういう形であれば国家が協力連携が可能とみるべきかを明らかにすることが、新たな課題である。
2025.02.18
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少し前だが、1月末のニュースで、国連の委員会が皇室典範改正を勧告したのに対抗して、日本政府が拠出している資金を、当該委員会活動に使わないよう要求したと外務省が発表した、という。外務省のサイトに出ている記者会見録からポイントを整理してみる(北村外務報道官会見録、1月29日。おだずま整理)。------------・読売記者 女子差別撤廃委員会が、昨年、日本の皇室典範改正を求める勧告を出したことで伺う。日本政府として、皇室典範改正に関する記述の削除を求めていて、委員会は要望に応じていないが、日本政府としての対応はどうか。・北村外務報道官 女子差別撤廃委員会に対しては、対日審査のプロセス及びその審査後にも、我が国の考えを、繰り返し、丁寧かつ真摯に説明してきた。にもかかわらず、最終見解においても、皇室典範の改正に係る勧告が維持された。 この状況を踏まえ、政府として我が国の考えを改めて書面で提出し、女子差別撤廃委員会のウェブサイトに、それを掲載させたところ。 ここで、我が国の考えとは、具体的には、まず皇位につく資格は、基本的人権に含まれておらず、皇室典範で継承資格が男系男子に限定されていることは、女子差別撤廃条約にいう「女子に対する差別」には該当しないこと、そして、皇位継承の在り方は、国家の基本に関わる事項であること。従って、女子差別撤廃委員会が皇室典範を取り上げるのは適当ではなく、皇位継承に関する規律は受け入れられず、削除されるべきだという内容である。 また、今般の事案を踏まえ、女子差別撤廃委員会に対し日本政府として2つの措置を講じることとした。第1に、女子差別撤廃委員会の事務を行っている国連人権高等弁務官事務所に対し、これまで用途を特定して毎年拠出している任意拠出金があるが、その使途から女子差別撤廃委員会を除外すること。そして、第2に、本年度に予定していた、同委員会の委員の訪日プログラムの実施を見合わせること。この2つの措置を講じることとして、女子差別撤廃委員会側に伝達したところ。・読売ほかの記者の質問に対し北村回答(要点) 伝達は1月27日。 任意拠出金の総額は手許にないが、正確には女子差別撤廃委員会に向けてではなく、その事務を担う組織の国連人権高等弁務官事務所に対して、大体年間2から3千万円任意拠出している。国連人権高等弁務官事務所に対する任意拠出金の中から女子差別撤廃委員会に関連する活動に金が使われたことは、少なくとも平成17年以降はないのだが(近年では北朝鮮、カンボジア、ハンセン病差別撤廃などの活動に充てるということで拠出)、今般の決定により、今後とも、女子差別撤廃委員会の活動に、この任意拠出金の一部なりとも使われないことが確保されるので、日本政府の立場をより明確に示すことになる。 任意拠出金は分担金とは違い、日本政府が重要と考える活動や組織に支出するもので、使途を組織に伝達することはよくあること。高等弁務官事務所に対する拠出金じたいを止めるということではない。------------問題の国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)(おだずま注、一般には女子でなく女性の訳語を充てるようだ)の最終勧告は、昨年(2024)10月29日だった。その要点は下記。・男系男子にのみ皇位承継を認める皇室典範は女性差別撤廃条約の趣旨に反する。なお、委員会の権限の範囲外とする日本の立場には留意する・夫婦同姓を義務付ける民法を改正し、選択的別姓を導入すること・中絶に配偶者の同意を必要とする母体保護法の改正・婚外子とその母の社会的な差別からの保護日本政府の任意拠出金の使途制限の公表のあと、テレビを眺めていると、ある女性の有識者氏が、これ(日本政府の対応)はとんでもないことだ、ジェンダー平等に反する、日本が国際的に遅れている象徴だ、などと威勢のいい解説をしていた。しかし、そのような批判的解説は実は事態の的を射ておらず、一般の耳障りは良いと思っているのかもしれないが、問題の解決にもさほど貢献しない一方的な論調に過ぎないと思う。以下に当ジャーナルの見解を示す。1 基本的な議論の仕分け 議論を整理しなければならない。皇位承継の問題には、男女同権の議論とは質の異なる論点を含むからである。 皇位継承を論じる際に人権の視点や女性活躍を促進する視点などが当然あって良いが、そもそも日本国憲法は基本的人権とは別の章(しかも第一章)を設けて天皇について記述しており、象徴である国家機関の性格から一般の国民に保障される人権(例えば男女の本質的平等)が制約されることは前提としている。このことは念頭に置かねばならない。 加えて、これも重要なことであるが、民主主義国家の君主(争いあるが)である天皇のありようをどう定めるかは、主権国家の自律的判断であるとするのが国際常識だろう。従って、他の国や国際機関が介入すべき問題ではないということは重要である。異質の論点と指摘したのは、この点である。 以上から、皇位継承で女系や女子を認めよとする立場の論者が、そうだとしても国際機関からの日本批判は不当だと主張して全くおかしくないのである。 テレビの有識者氏は、民法などの問題について積極改革派で、それと同列に皇位継承問題を捉えているのだろうが、問題なのは、その勢いだけで、国連機関からの介入に対する政府の対応までバッサリ切り捨ててしまっていることだ。1-2 補説 あえて論点比較的に整理すれば、次のようになろうか。(a) 国内での議論の局面 ・一般の女性人権問題に対して皇位問題は国家機関たる特殊性 →人権制約を容認(b) 国際関係の局面(自律か介入か) ・世界普遍の価値観を踏まえ人権救済の観点からの介入は、一般の女性人権問題でも皇位問題でもあり得る構図 ・ただし、皇位問題は、介入自体が不当とされる余地が大きい ←(a)の特殊性。また、国家の根本に関わる事項であるため2 政府の対応について 外交には詳しくないので自信はないが、今回の政府対応は、報道には異例とするものもあったが、じつはさほど突飛なものでもなく、むしろ落ち着いた対応とも言えると思う。 拠出金はそもそも政府が国際協調の視点から、各国の人権状況の改善のために、裁量的に支出するものだろう。従って、日本の国策としての姿勢が反映することは当然だ。また、実際に拠出金が従来CEDAW活動に使われていないことから、使途についての措置を表明しても現実問題として活動に支障は出ない。これらを勘案して、つまり配慮をした上での政府の判断だったと言えるのではないか。 報道の中には、関税などで他国をゆさぶるトランプ新政権を引き合いに、日本もトランプに倣ったかなどと評するものもみられるが、面白さだけで注目(ヒット稼ぎ)を引き出す報道姿勢は、本当に勘弁してほしいものだ。3 条約と国内法の関係 さて、テレビの有識者氏は、日本政府が国際機関に反発することがおかしいというのだが、その意見を根拠づけるとすれば、国際政治的な視点から妥当かどうかという議論の場面とともに、あまり議論されていないと思うが、(介入を許すべきほどに)我が国の国内法整備が国際規準に決定的に遅れている或いは国際基準に反しているのかという議論の場面において、遅れているとか劣っているとかいうことが説明されなければならないと思う。 この議論とは、言い換えれば、日本の国内法が国際法(条約)に反しているのかという議論である。政府が反論した皇室典範の問題だけでなく、民法等の問題についてもいえることだ。 憲法上の大論点であるが、承認された条約は、国内法形式に変型する(焼き直す)必要がある(二元論)のではなく、そのまま国内的にも法規範として効力を生じる(一元論)のであり、さらに条約は憲法に劣位し、憲法に反する条約は無効というべきである。もっとも、条約が違憲審査の対象になるとしても、現実に司法審査が可能かどうかはまた別問題で、司法権を限界づける統治行為論により、一切審査はできない、或いは、一見極めて明白な違憲無効の場合は司法審査の対象となる(砂川判決)。 これは数十年前の私の学んだ図式なので、いまは違うのかもしれない。 テレビの有識者氏は、憲法学説はともかくとしても、条約と国内法整備の関係について、あるいは国際政治の側面から日本の位置やあるべき姿勢などの視点でもよい、論議の作法をわきまえて解説してほしいものだ。持論を補強したいとばかりに、或いは政権の姿勢批判のためだけか、なんでも頭から否定や批判してみせるのでは、何のためにもならない。
2025.02.14
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月曜日が新聞休刊日で昨日火曜日の朝刊をみて驚いた記事。9日投開票の西目屋村長選挙の結果だ。・当選 桑田さん(現職)431票・次点 田村さん(新人)428票投票率は83.64%と、仙台や宮城県では今や考えられない高さだが、それでも前回より0.51ポイント下がったという。前回と同じ顔ぶれで、3票差で現職が再選。ちなみに前回は118票差だった。僅差でもっとすごいのが、2010年の大鰐町長選挙が得票同数で、法により抽選で決した。青森県内では、過去に首長選挙で1票差が2度もあったという。
2025.02.12
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昨日投開票の山形知事選挙。現職の吉村知事が5選を果たしたが、投票率は過去最低の39.67%だった。従来の最低は2001年の48.81%なので、だいぶ下がった形だ。前回(62.94)と比べると実に23ポイント以上も下回っている。もっとも、今回の選挙は事実上無風(メディア表現では信任投票)で、前回対立候補を擁した自民も含め、共産党までのオール与党体制。投票行動を駆り立てる要素がなかったこともあろう。それにしても、以前は連続して現職が敗れる結果が続き、吉村知事になって逆に無投票も続き、前回(令和元年)は久々の対立構造で投票率も盛り返した。・今回(2025年) 39.67(%、以下省略)・前回(2021年) 62.94 ←吉村400,374 大内りか160,081・2017年 無投票・2013年 無投票・2009年 65.51 ←吉村320,324 さいとう弘309.612・2005年 59.32 ←さいとう弘275,455 高橋和雄270,978 本間和也30,877宮城県知事選挙の投票率は、昭和27年の76.66%が最高。最低は平成25年(2013、村井三選)の36.58%で、その後2度の知事選は衆院と同期日もあって50%台だ。仙台市長選挙は平成25年(2013、奥山二選)に30.11%と当時最低を記録したが、令和3年(2021、郡二選)はついに30%を切り、29.09%となった。
2025.01.27
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山形県の機械工業の原点とされるミシン工業に技術的貢献を果たしたのが、原田好太郎である。■岩本由輝『東北開発人物史』刀水書房、1998年 から(適宜、当ジャーナルで要約・再構成しています。)1 職人から出てきた技術者原田好太郎の貢献は、地域の工業近代化を技術的に支えたことにあるが、大発明や大発見ということでなく、地域において江戸時代から内在的に蓄積された伝統的な技術を継承しながら、新たなものを加えて時々の地域経済を振興した意義がある。日本の各地にそうした人物がいたが、好太郎もそのひとりである。ただし、好太郎(明治28年山形市生まれ)は小学校を途中でやめて木工職人の徒弟となり、その技術をベースに独学で機械製造業への道を開拓した。少なくとも輸入技術の直接の影響はない。とかく日本の近代化は欧米由来の技術で進められたと思われるが、好太郎のように、高い水準の日本の伝統技術を持って、輸入技術を自分のものとして使いこなせる人間がいたことは見落とされてきた。2 独立するまで明治28年生まれ。原田家は山形城下鉄砲町にある天台宗の宝光院の寺侍を代々務めていた。しかし、維新後、寺は朱印状による禄高を失い、祖父が失業。貧しい時期であったようだ。好太郎は10歳で山形市立第二小学校に入学(実年齢では4年遅い)、明治40年に3年で中退し、すぐ山形市八日町の和田金蔵という木工織機製造の親方に徒弟奉公する。当時、若いほど技術が身につくとされ、12歳の徒弟は珍しくなかった。好太郎は、大正7年、23歳まで親方に奉公。大正8年から2年間兵役(歩兵32連隊)。大正11年東京に出て、はじめ徳岡という木型屋、間もなく中村という木型屋に勤めている。かつて職人は一人の親方の下で修業を終えて給料をもらう身になっても、さらに技術を身に着けるために旅修行をしたのだ。好太郎が木製織機製造の親方から独立して、木工の技術を生かせる木型屋に進んだことの意味は重要である。和田のところは織機を金属で作るには至らず未だ木製の段階だったが、当時の日本は機械を機械で作る段階に移行する時期だった。職人が親方から独立する場合、仕事を食い合わないよう別の土地でやるか仕事を別にすることが有るが、好太郎の場合は、そうした事情というよりは、木製織機を製造する仕事がすでに時代遅れと判断して、山形市の鋳造業界に習得した木工技術を生かして参入するつもりで、自ら積極的に木型屋を選択したのだろう。3 木型屋、東京進出、部品生産から完成品メーカーを目指す大正12年、父芳蔵が亡くなって好太郎は山形に戻り、宮町で木型屋を開設する。好太郎が参入したのは、鉄瓶などの伝統鋳物ではなく、汎用鋳物ともいわれる近代的な機械鋳物だった。昭和2年に弟健次郎とともに原田鋳物工場を開設して、米沢市の帝国人造絹糸製造株式会社(のちの帝人)の注文で人絹やステーブルファイバー(スフ)の製造機械を生産していた五百川鉄工所(山形市)の下請けとして、機械鋳物により製造機械の部品生産を行うことになる。しかし、金融恐慌で帝人の親会社である鈴木商店が倒産。米沢工場が撤収となったため、五百川鉄工所からの注文がなくなり、好太郎は東京市場からの部品注文によって、金融恐慌とそれに次ぐ世界恐慌の波を切り抜ける。原田鋳物工場の作る部品の評判は高く、昭和9年、好太郎は東京に進出を決意し、蒲田に旭鋳造所という鋳物工場を開設した。好太郎は、恐慌の経験により部品メーカーの危うさから、アセンブリー(加工組立)として完成品メーカーとなることを念願していたが、当面は部品メーカーから脱せないので、注文の多い東京に出るのが得策と判断したのだ。しかし、東京に出た結果、下請けながらミシン工業とつながりができた。旭鋳造所は、幸先よく、帝国ミシン株式会社(銘柄はパインミシン。のちの蛇の目ミシン)の協力工場として鋳物部品を供給できた。そして、昭和10年、旭鋳造所に機械工場を作る。昭和12年には経理顧問として平木信二(戦後にリッカー・ミシンを始めた人)を迎える。昭和13年になると、帝国ミシンからミシン・テーブルの注文を受けるが、木工職人として本格的な修行をした好太郎が一番得意にやれる仕事だったろう。まだミシン完成品メーカーではないが、ミシンの鋳造部品、機械部品、テーブルの生産を行ったことで、念願の完成品メーカーの見通しができたのではないだろうか。4 山形の地域経済を牽引この間、好太郎は山形市についてもおろそかにせず、昭和13年に山形電鋼株式会社の設立にかかわる。企業グループの形成を意図したと思われる。翌14年には山形市円応寺にあった昭和セメント株式会社を買収して、ブリキのスクラップを原料に再製鉄の生産を始める(のちに株式会社原田鋳造所)。昭和15年、帝国ミシンが旭鋳造所の鋳物工場と機械工場を買収する一方で、個人企業だった原田鋳物工場を帝国ミシンとの折半出資(資本金40万円)で株式会社原田製作所に改組した。原田製作所の社長には帝国ミシン専務の小瀬与作が就き、好太郎は専務となった。このとき、戦時統制下で株式会社設立に日銀の承認が必要で、はじめ資本金50万円の設立を申請して却下されたので、好太郎は山形県出身の日銀総裁結城豊太郎を動かして発足にこぎつけたといわれる。日米開戦後は平和産業のミシン製造から軍需生産に転換が求められたが、金属欠乏で海軍から命じられた木製プロペラで仕事は継続した。ミシンのテーブルづくりの技術の転用だが、好太郎の木工職人としての原点に関わるものだった。木製プロペラは横浜市の日本飛行機株式会社に納められたが、間もなく同社は山形市に疎開工場を作り、県内工場からプロペラのみならず機体全体の部品調達を行うようになる。木製飛行機が実際に飛んだかわからないが、木製のプロペラや機体を製造する技術が、敗戦後に山形県の木工家具生産の技術につながる副産物を生んだのだ。グッドデザイン賞などで著名な天童木工株式会社は、かつて日本飛行機に関係した技術者たちが戦後創設したものである。5 ハッピーグループの形成敗戦により日本飛行機のような軍需だけの会社はなくなり、疎開工場はほとんど山形から去っていく。好太郎は、原田製作所を軸にグループ再編成に向かうのだが、単なる再編ではなく、疎開工場で山形に残ろうとするものを含めて、それまでの部品メーカーから脱して完成品メーカー構築をめざしたのだった。昭和21年4月15日、原田製作所はついに完成品のミシン第1号を作り、ハッピーミシンの銘柄で売り出す。また同年には山形電鋼株式会社を再設立して、ミシン部品を供給させるグループに加えた。しかし、部品メーカーであったときの経験から、傘下の工場には、原田製作所だけに供給させず、積極的に他のメーカーにも納めさせた。競合ミシンメーカーだけでなく、ミシン以外のメーカーからの受注も促進させたのが特徴だが、そこには、五百川鉄工所から機械部品の注文を受け喜びも束の間、親会社倒産で注文が途切れた好太郎の苦い経験があったから、単用部品でなく汎用部品メーカーの方向を参加工場に勧めたのだった。こうして、ハッピーグループの部品メーカーは、全国の業界から「部品山形」の評判をとるほどに汎用部品製造の能力を発揮することとなった。6 ミシン市場ミシンは、タンス、長持ちに替わり欠かせない嫁入り道具とされ、重要な市場だったが、それまで部品メーカーで商品販売の経験がない原田製作所が、自社ブランドを消費者に買ってもらうのは困難であった。かつての納入先の帝国ミシン(蛇の目ミシン)、旭鋳造所で経理顧問をした平木信二(リッカーミシン)と、激しい競争となった。昭和21年5月、ハッピー・ミシン販売株式会社を設立。最初は特約店方式をとったが、特約店との関係が円滑でなかったようだ。蛇の目ミシンは直売方式で伝統的な月賦販売を採用しており、ハッピーもまもなくこの方式をとる。日本で長い歴史を持つ月賦販売で、いずれのミシンメーカーも大いに販売を伸ばしたのだった。好太郎は、こんどはミシンを使う人を作り出す必要を考え、昭和22年、原田高等洋裁学院を開設。他方で、敗戦国日本が本格的に貿易を行えるのは昭和24年だが、好太郎はそれ以前から米国にミシン輸出を行っており、これが日本のメーカーの中でハッピーの製品輸出率が高い背景である。安定的に米国市場に輸出するため、好太郎は昭和23年に東北精機株式会社をつくり、高質の部品を供給させるとともに、他社からも積極的に受注させ、「部品山形」の評価の大きな要因となった。しかし、昭和24年IMF加入(1ドル360円の固定レート)でフロアープライス(商品ごとのレートでミシンは500円程度)が撤廃された衝撃が大きく、経営の曲がり角を迎えた。7 労働争議と好太郎の晩年好太郎は経営引き締めで対応したが、それが原田騒動とも呼ばれる一大労働争議「ハッピー争議」を惹起する。山形県の労働運動史をみると、仁丹体温計株式会社山形工場、株式会社鉄興社、合名会社宮崎芸能社の映画館が、大争議とされるが、ハッピーもこれと並ぶものであった。しかし、根っからの職人である好太郎は労働運動をほとんど理解できないまま否応なしに対応し争議をこじらせた面もあった。このころ、原田製作所は都市対抗野球に強力なチームを出場させ、ストライキで野球どころではあるまいと取り沙汰されても、好太郎は野球だけなやめられないと頑張ったと伝えられている。とにかくストが多かった。昭和28年、原田製作所は社名をハッピー・ミシン製造株式会社(現ハッピー工業株式会社)とし、そのころから好太郎は体調を崩す。昭和29年7月に大手術、30年9月1日に満60歳で亡くなった。やり残したことが、いろいろと多かったであろう。(以下、おだずまジャーナル補足)ハッピージャパンのサイトの沿革を読むと、1953年(昭和28)ハッピーミシン製造株式会社と名称を変更。1978年台湾に現地会社を開設し、操業開始。1985年、ハッピー工業株式会社に変更。90年代はシンガーミシンのブランドで供給を開始し、2000年同社の国内独占販売権を取得して今日に至る。2014年には、東北精機工業株式会社、株式会社シンガーハッピージャパンと統合し、株式会社ハッピージャパンと称する。2017年タイ工場で量産開始。2021年には、20年ぶりの自社ブランドミシン(mycrie)を販売開始。2023年には創業100周年、とある。■関連する過去の記事(岩本由輝さん著作をもとにしたもの。他にもあったかも) 東北開発の具体像(2023年04月06日) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 仙台藩の経済と財政を考える(5) 升屋と中井(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(4) 藩財政の構造と御用商人(2011年3月5日) 仙台藩の経済と財政を考える(3 本石米と買米制度)(2011年2月20日) 鮎川と鯨の歴史(2011年1月29日)
2025.01.25
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交通事故件数についてのニュースがあった。■警察庁報道発表資料(1月8日) 令和6年中の交通事故死者数について全国では交通事故発生件数が290,792件(速報値)ではじめて30万件を下回った。また、死者は2,663人で、前年より15人減少し、(1948年以降)過去3番目に少ない。死者のうち65歳以上が1,513人で6割弱に達するが、前年より47人増えており、2015年以来の増加である。宮城県では、事故数が3,785件で(現統計となった1965年以降で)過去最低。けが人は4,565人。件数、けが人数ともにこの10年間で半数以下に減った。死者数は47人で前年同数。死者のうち、高齢者(65歳以上)が26人、また車線はみだし20人であった。バイク事故は前年の倍の12人で、40代50代が目立ち、宮城県警察では、再び乗り始めた「リターンライダー」世代に自分の技量を確認して安全運転に努めてほしいとする。飲酒運転による死者は65年以降はじめてゼロになった。宮城県警察では事故数や死傷者数の減少傾向について、道路環境整備、車の安全性能向上、医療の発展などを挙げている。(以上、宮城県の部分は朝日新聞記事などから。)東北各県の交通事故死者数は次の通りだ。青森 43岩手 28宮城 47秋田 31山形 24福島 51■関連する過去の記事 歩行者いるのに止まらない車 マナーの悪い県はどこか(2016年10月19日) 女性ドライバーの少ない宮城(2015年12月1日) 東北6県の交通事故の比較(2013年4月23日) 減少傾向の交通事故死者数(10年1月3日) 冬タイヤ装着率について(09年12月3日) 山形県は全国トップレベル! シートベルト着用率比較(08年6月1日)(各県のデータ) 東北の交通事故死者数をみる(06年1月5日)
2025.01.09
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1.朝比奈三郎 朝比奈三郎が榛谷(はんがえ)四郎の頭を、入相の鐘の音に合わせて殴りつける場面。鐘がごんとなれば、「くはん」と握りこぶしで殴る。近松門左衛門『曾我会稽山』1718年。 くはん(かん)は、頭を殴る音にしては明る過ぎにも思え、現代語では「がん」がふさわしいが、江戸時代の本は濁点に厳密でないので、本当は「がん(ぐはん)」で濁点を付さないだけかもしれない。しかし、ここは鐘の重い「ごん」のあとに、鐘に即応して仏具の鉢が鳴るように頭は「かん」となる、と考えたほうが良い。2.宮沢賢治「があん」 鉄砲の音が響いたが熊は少しも倒れないようだった。「小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめん真っ青になった。」宮沢賢治『なめとこ山の熊』1934年頃。 音が感じられるようでもあるが、音より抽象的な衝撃のようでもある。擬音語か擬態語か一義的には決めがたい例であるが、他の用例のように、擬音語から擬態語への流れ(音の感覚から衝撃の感覚へ)にあるといえる。3.宮沢賢治「きりきり」 「その時風がざあっと吹いて(中略)玄関の前まで行くときりきりとまはって小さなつむじ風になって...」「まるで何と云ったらいゝかわからない変な気持がして歯をきりきり云はせました」宮沢賢治『風の又三郎』1934年。 「きりきり」が二種類の意味で用いられる。前の例は、風が巻き上がる様子で、きつく引き絞る様子の用例。後の例は、歯をきりきり言わせるのだから、こすれ合って立てるきしんだ音の意味である。 なお、近代の「きりきり舞い」は、片足で体をきつく引き絞るように回転する様子が、何者かによってなすすべなく回転させられているように見えることから生まれた言葉である。■小野正弘『感じる言葉 オノマトペ』角川選書561、2015年 から(おだずま要約)本の奥付によると著者の小野正弘さんは明治大学教授、1958年一関市の生まれで東北大学大学院文学研究科に居られたそうだ。オノマトペの使用例として、宮沢賢治の作品が何度も登場している。また、宮本百合子も何度か引用されている。「むかつく」の項では、石川啄木の酒の俳句と太宰治が用例として出ている。最初の朝比奈三郎は、宮城県人にとっては、七ツ森や品井沼を作った伝説上の大男だが、歴史上は鎌倉御家人で安房国朝夷郡を所領とした和田(朝比奈)秀義である。著者小野さんの著作は、日本文学史や国語史に基づくものであって、東北など地域別言語学の視点ではない。私(おだずま編集長)が、手にした本から勝手に「東北」を探しただけなのだ。しかし、著者が宮沢賢治はじめや故郷の文学に格別の思いを抱きながら研究を続けて来られたのではないか、などと拝察したのだった。■関連する過去の記事(宮沢賢治) めがね橋(2016年3月21日) 花巻と里川口(花巻川口町)(10年5月16日) 歴史秘話ヒストリア「宮澤賢治」の再放送予定(10年5月13日) サラリーマン宮澤賢治を描いた佐藤竜一先生がTV登場!(10年5月7日) 我が心の宮澤賢治(09年3月2日) 新宗教と東北(09年7月7日) 雨ニモマケズ(08年11月25日) 藤原嘉藤治を讃える(07年6月16日)(宮本百合子) 東北開発の具体像(2023年04月06日)=安積開墾の中条政恒の孫が宮本百合子(石川啄木・太宰治) 東北各県の三大名物集(07年5月8日)(石川啄木) 盛岡と豆腐(2012年10月6日) 岩手公園の名称問題を考える(06年7月12日)(太宰治) 千畳敷海岸(2013年5月26日)=文学碑 小泊地区と銘菓ごんげんざき(2013年6月8日)=津軽の像
2025.01.08
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下記の本にある一節。山手線の大塚駅周辺の町名は、線路を境に、豊島区北大塚と南大塚にくっきり分けられている。しかし、南大塚の南には、文京区大塚が接している。そもそも大塚駅の所在地は1969年まで豊島区西巣鴨二丁目だったものを、住居表示を機に、北大塚、南大塚とした。(概略引用は以上)■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年新町名を付する際、交通結節点として馴染んだ駅名を中心に表現するのは合理的発想だろう。ただ、大塚駅の名は、その昔まだ駅周辺の巣鴨あたりが畑地だったころに、山手線内側でより都市的集積の高かった場所(利用者の多かった場所)の地名を借用したのだろう(おだずま推測)。このように、名付けられた駅が、その駅名に採用された地域の中心の場所から多少ずれていたり、地域のまったく外に所在している事例がある。後者の地域の外に所在する駅名のケースは、例えば、鉄道が何らかの事情で市街地を離れて開通したときに、利用者の多い市街地の地名、あるいは駅周辺のブランド力を高めるという思惑、さらには政治的配慮から命名されるケースなどが考えられる。宮城県の実例でいうと、陸羽東線の中新田駅(現在の西古川駅)がある。■関連する過去の記事 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 仙台領飛び地の龍ケ崎と鉄道忌避伝説(2022年12月27日)もっとも、中新田駅の場合は、駅名が存続しなかったので現在は混乱はないが。今尾さんの著作で大塚の例を読んで、すぐ連想したのは仙台の中山、北中山、南中山だ。中山の場合は鉄道や駅は関係していない。青葉区中山(中山ニュータウン)は昭和30年代後半から開発された仙台では先駆的な郊外団地だ。公務員住宅、東北電力の施設、短大なども設置された。双葉総合開発が80年代からたしか「いずみ中山」として造成販売したのが、いまの北中山、南中山の町名の一帯だと思う。ニューワールドや観音様も関連していたはず。おだずま推測だが、「いずみ中山」の名で分譲したのは、仙台市中心部から決して遠くない(昭和の中山のあたりだよ)と思わせる意図があっただろう。その後に正式町名を決めるのは行政だが、「いずみ中山」に移住した人たちに「中山」は馴染んでいるし、他方で青葉区でなく泉区を冠するので、「いずみ中山何丁目」と難しい地名にする必要もない。そんな感覚で、シンプルに北(南)中山という町名になったのではないか。大塚の場合とは、違う点も多いが、共通点もある。その後、西中山や中山台という町名も登場した。■関連する過去の記事(中山に関して。また周辺の街道などに関して) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山峠の狼(2011年10月6日) 中山道と狼石(2011年1月13日) 仙台のロータリー(その12)中山吉成(その2)(2011年1月11日) 仙台のロータリー(その11)中山吉成(その1)(2011年1月10日) 仙台のロータリー(その10)桜ヶ丘ロータリー(2011年1月9日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■関連する過去の記事(仙台の団地造成史。中山周辺に関して) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)■関連する過去の記事(今尾恵介さん関連) 方言漢字、地域文字(2025年01月03日) 山の呼び方(山、岳、森など)(2024年12月26日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 大船渡線の成り立ち(2022年12月22日) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日)
2025.01.07
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埼玉県八潮市に、垳(がけ)という地名があり、全国でここだけだという。江戸時代の文書に、垳村の名で登場するので当時の誰かが字を考えたものだろう。国字研究で知られる早稲田大学の笹原宏之教授(国語学)は、これらを方言漢字と名付けた。■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年■関連する過去の記事(方言漢字) 地域文字 霻霳(一関市)(2024年12月13日) 方言漢字を考える(2019年11月18日)■関連する過去の記事(今尾恵介さん関連) 山の呼び方(山、岳、森など)(2024年12月26日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 大船渡線の成り立ち(2022年12月22日) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日)
2025.01.03
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山の呼び方は、実に多様だ。一般的には「山」で、富士山(ふじさん)、大雪山(たいせつざん)、安達太良山(あだたらやま)のようにサン、ザン、ヤマと読んだり、鳥取県付近では大山(だいせん)、蒜山(ひるぜん)のセン、ゼン(呉音)もある。岩木山のように、ヤマとサンのどちらの読みでも良い場合も多い。「岳」(タケ、ダケ)も有名な高峰に多い。岳は高い山、険しい山の意味を持つ。木曽の御嶽山(おんたけさん)や東京都の大岳山(おおたけさん)のように、岳(嶽)と山が同居する例もある。単に御嶽(おんたけ、みたけ)と呼ばれたのが後で山をつけたのだろう。また、ミネ(峰、峯、嶺)と呼ばれる山も多く、さらには「・・峰山」の形式もある。竜ヶ森(りゅうがもり、岩手県、秋田県)のように「森」を用いるのは主に東北地方。ほかには、紀伊半島南部、四国西部、沖縄(読みはモイ)など。森とは、山地でも平地でも木が生えている場所を意味するが、古くは山そのものを指したという。反対に、世田谷区の八幡山(はちまんやま)のように、「山」が平地を含む森の意味で用いられた場合もある。両者の意味は長い時間をかけて逆転し、その時間差で「森」の山名が上記の地域のような周縁部に残ったと考えられるのかもしれない。八幡平市の前森山(まえもりやま)のように、後に山を付けたものもある。山の語尾は、山、岳、森だけではない。・「丸」 檜洞丸(ひのきぼらまる)=丹沢山地・「頭」 丸子頭(まるこがしら)=広島県と島根県の境界にある恐羅漢山(おそらかんざん)の近く・「鼻」 王ケ鼻(おうがはな)=長野県美ヶ原の西に聳える・「壇」 五社壇(ごしゃだん)=福島県新地町以上の山の語尾は複数みられるものだが、以下は全国で1つの珍しい例だ。・高毛戸(たかげど)=秋田県湯瀬温泉の近く・野竹法師(のたけほうし)=和歌山県紀伊半島中央・両様(りょうざま)=秋田県の森吉山近く・小猿合(こさるご)=福島県川内村・浜益御殿(はまますごてん)=北海道石狩市の暑寒別岳の近く・日本国(にほんこく、にほんごく)=山形、新潟の県境■今尾恵介『地名の魔力:惹きつけ、惑わす、不思議な力』PHP研究所、2024年■関連する過去の記事 山形と新潟の県境にある山 日本国の伝説(2013年10月9日)
2024.12.26
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岩手県一関市の名の由来は、諸説あるもいちばん有力なのは「一堰」説。北上川の洪水を防ぐのに、一堰、二堰、三堰を築いたことに因むというのだ。資料としては室町期成立とみられる「月泉良印禅師行状記」に「一堰願成寺」とあり、文明16年(1484)の中尊寺巡礼札には「三堰」とあるとされる(『岩手県の地名』)。堰が関に転訛する例はいくつもある。文京区関口は、江戸時代に神田川をせき止めて上水を送ったという「大洗堰」がルーツ。他方、一関は「関所」に由来するとの説もあるが、関所を第一から第三まで近接しておくことはあり得ないとして信憑性を持たない。■丸善出版編『47都道府県ご当地文化百科・岩手県』丸善出版、2024年6月(谷川彰英執筆部分)
2024.12.24
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多賀城碑の経緯や碑文内容についてわかりやすい説明の書籍があって、大いに参考になった。■會田康範・下山忍・島村圭一編『文化財が語る 日本の歴史:政治・経済編』雄山閣、2024年(下山忍さん執筆部分「古代の石碑は何を語るのか」)以下に当ジャーナルの整理と要約により記す。文字の着色や下線などは当ジャーナル。1.古代の石碑について 日本における古代の石碑と確認されているのは18基。最古は宇治橋碑(646以降、宇治市、架橋記念碑)である。(古い順に3番目)那須国造碑(700,大田原市、墓碑・顕彰碑)、(4)多胡碑(711、高崎市、建郡記念碑)、(12)多賀城碑(762、城修造記念碑)の日本三古碑も含まれるが、18基全体では仏教や寺院関係の石碑が多い中で、これらは地方行政に関し、すべて東国(東山道)であることが注目される。 上野三碑とされ、特別史跡、またユネスコ「世界の記憶」に登録されているのが、(2)山上碑(681,高崎市、墓碑)、(4)多胡碑、(8)金井沢碑(726、高崎市、供養碑)。 分類すると、所在地では、奈良県5基、群馬県4、熊本県4、宮城・栃木・滋賀・京都・徳島が各1基。 古代の行政区画では、東山道7、畿内6,西海道4(すべて同一寺院に),南海道1基。 種類別には、記念碑6、墓碑4、経典・偈文3、寄進・寺領関係2、仏足跡・歌碑2、供養碑1、造塔1基である。 国宝3基、重要文化財7基、特別史跡3基、など。〔おだずま注:文章中では多賀城碑は重要文化財として説明されているが、18基の「古代の石碑一覧表」の中では、「文化財等指定等」の欄に多賀城碑は「国宝」と明記されおり、表では国宝は4基になる。なお書籍の奥付けでは2024年5月10日初版発行とある。国宝指定(官報告示)は2024年8月27日だが、既に同年3月15日に国宝指定の答申が出ている。〕2. 歴史的背景 石碑は、中国では秦の時代から建立された。目的は墓碑が最も多く、顕彰碑、橋や道路の紀功碑なども。 朝鮮半島最古の石碑は楽浪秥蝉(ねいてい)碑(178年)で、高句麗広開土王(好太王)碑)414年)が有名。半島では、石碑の多くが領域拡大の証明のため最前線に建立されたと指摘されるが、この性格は多賀城碑にも共通する。 日本には半島伝来で伝わったと考えられ、文字(漢字)の使用に遅れて7世紀半ばから始まるが、中世の板碑の盛行(5万基)などと比較すると、自らの政治的権威を誇示するための有効な方法とは位置付けていなかったのではないかとの見解がある。3.多賀城碑と壺碑(つぼのいしぶみ) 多賀城碑は762年(天平宝字6)の紀年銘をもつが、世に忘れられて、江戸時代初期に発見された。・新井白石『同文通考』には、「万治・寛文の頃に土中」から見つかったとある。・仙台藩儒学者の佐久間洞巌『奥羽観蹟聞老(もうろう)志』には、「草莽の中に埋もれること千年」とある。 こうして「発見」された多賀城碑は城修造記念碑より「壺碑」として知られることになる。壺碑は、坂上田村麻呂が弓の弭(はず)で日本中央と書きつけた陸奥の古碑とされ、古来より歌枕として著名で、11世紀移行多くの歌人が取り上げた。・西行 「陸奥の国 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」 多賀城碑が壺碑として知られた背景には、末の松山、浮島、野田の玉川、千引石、沖の石などの歌枕を領内に整備していた仙台藩が強く関わったとの指摘がある。 壺碑発見の報をうけ、井原西鶴も寛文年間に訪れるなど文人の来訪が相次いだ。1689年(元禄2)来訪の松尾芭蕉もその1人である。この時、まだ覆屋はなく、路傍の石碑は「苔をうがちて文字幽(かすか)なり」だったという。4.近世の保護 仙台藩でも「発見」後に佐久間洞巌らに調査研究を命じたが、文化財の保全に大きく貢献したのは徳川光圀である。光圀は修史事業の一環として家臣の丸山可澄(よしずみ)を1691年(元禄4)に派遣して多賀城碑を実検させ、1694年前後に藩主伊達綱村に親書を送っている(義公書簡)。壺碑は古来有名な碑であるが破損していると聞く、差し出たことだが、修復を加え、覆屋を建て、長く保全できるようにしていただきたい、との趣旨であった。 なお、光圀は1681年(天和1)に那須国造碑を知り、家臣の佐々宗淳(さっさむねきよ)に調査と修復を命じている。 綱村は光圀の助言に従い、覆屋を建立したと考えられる。綱村在任中(1660-1703)に建立という文献史料もあるが、発掘調査結果からも1700年前後が推定され一致する。なお発掘調査からは、1875年(明治8)、1889年(明治22)、1954年(昭和29)にも改修されたという。5.偽作説と真作説 明治の研究で壺碑とは無関係であると知られるが、同時に近世の偽作との説が提起され昭和に至るまで大きな影響を持った。・田中義成、黒板勝美、喜田貞吉 らの国史学者・中村不折 らの書家偽作説の主な根拠は、(1)碑の形態、(2)書体、(3)碑文内容(里程、国号、官位官職など)、(4)関係文献の批判。真作説からの反論もあったが、学会趨勢は偽作説を黙認する傾向にあり、資料として活用されることはなかった。1969年当時は地元の人も偽作の碑と言い切ったという(平川)。 真作説の浮上の契機は、60年代からの多賀城跡の発掘調査である。その結果、多賀城には4時期の変遷があったことが明らかになる。・第Ⅰ期 8世紀前半の多賀城創建・第Ⅱ期 8世紀後半の大々的な改修・第Ⅲ期 780年(宝亀11)伊治公呰麻呂の乱による焼失後の再建・第Ⅳ期 869年貞観大地震による崩壊後の復興このうち第Ⅲ期と第Ⅳ期は文献上から知られていたことを裏付けた結果となった。偽作説は、近世の知識人が文献を基に碑を作成したとするが、1960年代以降の調査で初めてわかり、江戸時代には文献上知り得ない第Ⅰ期と第Ⅱ期についても碑文と一致することが明らかとなった。 そのため、多賀城碑の再検討が開始された。その経緯と内容は、安倍・平川編『多賀城碑ーその謎を解くー』(雄山閣、1999年)に詳しいが、文字は古代の薬研彫りで、碑文も集字(拓本からの収集)でなく一人が書いたものであること、などから偽作説の根拠は薄弱となり、重要文化財指定にもつながった。 同書刊行以降は真作説に立つ研究が多いが、碑文の書体と書風から偽作説に立つ研究もある(安本)。6.碑文からわかること6-1.多賀城からの里程・去京一千五百里・去蝦夷国界一百廿里・去常陸国界四百十二里・去下野国界二百七十四里・去靺鞨国界三千里 まず京からの位置を示したのは、多賀城が朝廷の出先機関であることを示し、次に蝦夷国との距離を示したのは、蝦夷政策の拠点である多賀城の性格を端的に示す。 常陸国と下野国は、陸奥国と接するそれぞれ東海道と東山道のそれぞれ果ての国。 靺鞨国は渤海国と考えられ、出羽国と通交の可能性が高いが、碑を制作させた藤原朝獦が陸奥国だけでなく出羽国も管轄する按察使の地位にあったことによる。6-2.里程の検証 一里を534.6mとすると、・平城京から801.9km・蝦夷国界から 64.2km・常陸国界から 220.3km・下野国界から 146.5kmとなる。議論あるが、まず平城京の距離は東山道経由で実測とほぼ一致。蝦夷国界の距離は岩手宮城県境付近となり、当時の最北の城柵が桃生城(石巻市)だったことから当時の律令政府の実効支配の北限となる(柳澤)。 常陸国界と下野国界は、勿来関(当時名称は菊多関)と白河関と考えると、多賀城からほぼ同距離なのに大きく異なっている(偽作説の一つの根拠だった)。 常陸国界について。多賀城から東海道経由で勿来関まで計測すると177.7kmで、碑の里程に足りない。里数の誤りの可能性も指摘されるが、東山道を経由すると碑とほぼ一致する。最短距離でないのは非合理だが、多賀城のある陸奥国が東山道に属したためだろう(柳澤)。 下野国界について。白河関までの計測距離は173.0kmで、碑の里程と一致しない。解釈は難しいが、718年(養老2)に陸奥国から一時分離した石城国・石背国との関係から、陸奥国と石城国の境に置かれていた玉前(たまさき)関から白河関までの里程を示したもの(計測距離は143.4km)であるとされるが(柳澤)、下野国のみ多賀城でなく玉前関を起点とする説明が必要だろう。 また、常陸国界を、常陸国と下総国の境とし、同様に下野国界を下野国と上野国の境と考えると、碑の里程と非常に近い距離となる。藤原朝獦が常陸国や下野国から鎮兵を挑発する権限があったことに由来するという(長瀬)が、朝獦が任命されていた節度使についてさらに解明が必要だろう。6-3.蝦夷国について 蝦夷国界について、里程に異論はないものの、律令国家統治下にない蝦夷に行政単位の「国」を用いた点が問題とされた(偽作説の一根拠)。蝦夷政策を推進した朝獦が敢えて事蹟を誇示したという解釈(平川)や、律令国家の華夷思想を背景に四至を明示したとの解釈(長瀬)がある。6-4.靺鞨国について 渤海国のことと考えれている。696年高句麗の遺民大祚栄が靺鞨族を率いて建国し、唐や新羅との対立から727年以来しばしば日本と通交した。靺鞨(靴下を意味)は唐による蔑称で、友好国日本が国号として用いるのは不自然とされてきたが、律令国家の華夷思想から敢えて蝦夷国と並べてこう呼称したとされる(平川、長瀬)。また、この靺鞨国は、渤海国でなくツングース系の粛慎(あしはせ)を指すという説(伊藤)、渤海より北方の黒水靺鞨を指すという説(柳澤)もある。6-5.藤原朝獦の地位 多賀城碑は、碑を修造した藤原朝獦の事蹟を顕彰する意図が強く読み取れる。その官位・官職は、「参議・東海東山節度使・従四位上・仁部卿兼按察使・鎮守将軍」とある。 このうち官位である従四位上が文献上の従四位下と一致しない(偽作説の一根拠)が、大野東人の官位との均衡のためとされる(安倍・平川)。 朝獦は、藤原仲麻呂の四男。757年(天平勝宝9)の橘奈良麻呂の乱の後に多賀城に赴任し、陸奥国・出羽国を管轄する按察使に加えて、鎮守将軍にも任命され、蝦夷政策の全権を委ねられた。桃生城、雄勝城を造営するとともに、国府・鎮守府の置かれた多賀城の修造にあたった。碑文の天平宝字6年(762)12月1日が、参議就任の日に当たることもその顕彰の意図とされる。 仁部卿とは民部卿のことで、父仲麻呂政権の唐式官名採用により、当時こう呼称されていた。 節度使は兵士の徴収や訓練、兵器の製造などを担当する軍政官。761年に新羅征討を目的に任命され、実戦の際は朝獦も指揮官となる予定だったと考えられるが、764年孝謙上皇らの仲麻呂政権打倒(仲麻呂・朝獦父子敗死)で、新羅征討計画は頓挫した。■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 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2024.12.21
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岩手県に見られる地域文字に、一関市の地名「霻霳」(ほうりょう)がある。字北霻霳に八雷神を祀る霻霳神社がある。天正12年(1584)葛西氏家臣の二関兵庫が勧請、江戸時代には宝龍権現と呼ばれた。豊隆権現社を維新の際に豊隆神社と書き改めたとされる。なお、「ほうりょう」と読む地名は東北地方に散見され、法量(十和田市)、法霊(八戸市ほか)、法領(花巻市ほか)、豊料(一関市)、方両(一関市)、宝良(奥州市)、宝領、宝領前(石巻市ほか)、保料、保料前ほか(大河原町)、宝量(大仙市)、堀量(湯沢市)、宝了(遊佐町)、方料(二本松市)など様々な表記がある。阿部和夫『一関の地名と風土』(トリョーコム、1981年)は、一関市の「豊料」地名として、同市赤萩(ママ)の豊料や、厳美町の宝竜とともに、北豊隆、南豊隆があげられ、降雨や豊作、安産を願う神で竜神または雷神に起源をもつとする。豊隆神社が一関市花泉町金沢と同町老松にある。■笹原宏之編『方言漢字事典』研究社、2023年 から■関連する過去の記事 方言漢字を考える(2019年11月18日)
2024.12.13
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川島秀一さんの近著を読んでいて、オカミサンが取り上げられている。私自身の小学生の頃の自宅での光景を思い出した。■川島秀一『ハナシ語りの民俗誌』勉誠社、2024年・第三部第一章 口寄せの声(初出は、巫覡盲僧学会事務局「巫覡盲僧学会会報」第15号、2003年、とある)・第三部第二章 一生を語るということ ー 東北の口寄せ巫女の語り(初出は、日本昔話学会編「昔話ー研究と資料ー」第37号、2009年、とある)1 オカミサンと口寄せについて川島氏の上掲書では次のようなことが叙述されている。非常に興味深い内容なので、内容を紹介させていただく(当ジャーナルで整理と要約)。------------1.呼ばれ方 死者(ホトケ)を自身に憑依させてその口を通して語らせる盲目の口寄せ巫女は、青森県から岩手県北部の旧盛岡藩の地域ではイタコと、岩手県南部から宮城県にかけての旧仙台藩領域ではオカミサンと、秋田県ではイチコ、山形県はオナカマ、福島県はワカと呼び分けられている。2.オシラサマと口寄せ 巫女の祭文のひとつ「オシラサマの祭文」(オシラ祭文)は、現在イタコが儀礼(オシラサマアソバセの中で語る。旧仙台藩領のオカミサンも同様のオシラ祭文を語ったようだが、現在は儀礼で用いることはなく、オシラサマの由来譚の形で伝承されている。なお、岩手県沿岸部で呼ばれるイタコは、上記とは異なり晴眼者で、修験神子(みこ)の系譜だが、やはりオシラ祭文を(「シラオの本地」として)儀礼の中で語る。 これとは別の儀礼が、「口寄せ」で、ホトケの一生を語るものである。3.口寄せの形態 亡くなったばかりの死者(新口)のオカミサンによる口寄せは、大きくいうと、ミチビキ(ミチワケ)に始まり、家族を相手にナナクチを語り(ホトケの一生)、最後にトメグチで終える。 ミチビキは、ホトケが男性(女性)なら過去の女(男)の死者(古口)を、身内の中から選ぶ。オカミサンが、どのオホトケで下ろしますか?と訊ねることから始まる。トメグチは必ずしも異性を当てるわけではない。このミチビキとトメグチの2人の古いホトケに挟まれて、新しいホトケが語る。 遺族の一人に対しての口寄せ(ヒトクチ)は10分から30分くらい。家族である7人を相手にして、一人一人にホトケが「問い口や」と呼びかけながら、実は自分の一生を語るという構造である。 1993年気仙沼市の事例(90歳近くで亡くなった女性)では、トメクチは先に亡くなった夫。ナナクチは、ホトケの長男夫婦、孫夫婦、ひ孫夫婦と続く(6人)。オカミサンが鉦を一つ鳴らすたびにヒトクチ終えるが、ナナクチの後に休憩を取ったのち、本家、二番本家と続き、一日で53クチを語り終えている。 1997年の同市内の事例は、ホトケが90歳近くの男性。ナナクチには、嫁(長男の妻)と孫の2人が順に対応するが、その場に語る相手がなくてもナナクチは行われた。ナナクチの後休憩を挟んで、本家からシンルイに続けて、22人がほぼ2クチづづ、計40口を語り、トメグチはホトケの(亡くなった)男親であった。 一般には、亡くなったホトケのより若い頃を知っている身内から始まり、最近だけを知る身内へと流れていくようだ。一人で2クチ頼むというのは、その参加者が自分に対する語りだけでなく、その場にいない者の名前を告げて(参会者たちと共に)もうヒトクチ聞くことができる。 基本的にホトケ対依頼者1人のディアローグが原則だが、ほとんどはホトケの一方的語りで、問い口を通して返答するだけ。 上出の第二の事例では、ホトケが嫁に対して、4月6日に西の方角でケガがあるから気をつけよと語っている。多くの参加者は、食うようであるとともに、自分たちの災厄を予言して注意を促してくれることを期待している。4.口寄せの要件 ー メッセージとしての声 栗原郡築館町伊豆町の巫女(明治30年生まれ)が口寄せの由来を語る伝承では、お釈迦様が、十大弟子のひとり目連尊者に、亡くなった母親を生き返すことはできないが声は聴くことができる、と教え諭している。しかも、口寄せの声とは、死者を懐かしむ声ではなく、目連が枕許に母親が立つので何か伝えたいことがあると思ったように、死者から遺族へのメッセージを得る手段としての声を求めているのである。 このことを口寄せの儀礼の現場でみよう。口寄せは広義では、神を下ろす神口と、ホトケを下ろすホトケ口に分かれるが、民俗語彙では神口をタクセン(託宣)やオセンダクと呼び、儀礼をオクチビラキやカミサマアソバセ、オシラサマアソバセと呼ぶ。ホトケの方は、ホトケ口もその儀礼も、口寄せと呼ぶ。 託宣と口寄せという2つの巫業における声に注目すると、託宣は神から一方的なメッセージがなされるため、叙事的で抑制された声を出すが、口寄せ(とくに亡くなったばかりの新口)は双方からの対話にならない呼びかけ合いで、叙情的で韻律的な声を出す。 もちろん託宣にはアイヘンドウと呼ばれる仲介役が、口寄せにも問い口と呼ばれる仲介役がいて、神やホトケがよくない予言をしたときに「守ってくだはれせ」などと言葉をかけるが、この問い口を無視して遺族が死者に呼びかけることが新口の特徴である。 岩手県大東町猿沢の巫女(明治45年生まれ)が1990年に行った口寄せ(子どものホトケ)では、ホトケが順次遺族に呼びかけており(問われるイトコ様よ、問われる母親様よ、など)、また遺族が随所でホトケに声を呼び掛けている。 このように、口寄せの言語とは、託宣の独白(モノローグ)と異なり、呼びかけの言語であり、ホトケと遺族の間の会話にならない呼びかけ合いの場を作り上げている。5.サエギリボトケ 七口下ろしを終えると、最後に新口のホトケに一番身近で長命の者のトメクチと呼ばれる口寄せが行われる。ところが、このトメクチを呼ぼうとするときになって突然思いもよらないホトケが巫女に憑いて語り出すことがある。これをサエギリボトケや主(ぬし)なしホトケという。ワカバ(水子)の例や、遠隔地で亡くなり供養されなかったホトケの場合もある。 サエギリボトケが出るのが可能な理由は、口寄せの声が特に声色をつかわないことに起因すると思われる。声の主体はいつでも替えられる可能性があり、常に主体が曖昧化、多重化していると言える。6.口寄せの儀礼空間にみる声の問題 宮城県中田町の巫女(大正12年生まれ)は新口でも古口でも、センス(扇)で口を隠して口寄せを行う。扇の上に神が乗ることで自分の神口が可能になることと語っている。口を隠すことで他界の言葉を語ることを示すとともに、扇にホトケが乗ることに関わるのかもしれない。 気仙沼地方の新口の口寄せの例では、桃と柳の枝を死者のミタテ(納棺)の時に使った布キレで巻き付け、水の入った茶碗の中に立てかけておく。口寄せの最中、問い口が時折、その茶碗の水に濡らした綿で布切れを湿らせる。オホトケが喉を乾かさずにたくさん語るためとされる。この場合、巫女は祭壇に向かっており、後ろに控える遺族からは巫女の口は見えない。むしろ、桃と柳の枝がオホトケの口として象徴されているのである。 これらのように、巫女は、語っている「声」と、目に見える「口」を分離させる。口寄せに耳だけで参加するよう仕向けるわけだ。7.オシラ祭文との関係 宮城県のオカミサンは、オシラサマなどの神様を下ろして語る「神口」、死者の霊を下ろして語るホトケグチ(新口、古口)と分けて呼ぶが、一般にホトケグチを口寄せと捉えているようだ。 口寄せとイタコのオシラサマアソバセのそれぞれの儀礼で、下ろした神霊の一生の語りを聞いた後に、今後に気を付けるべき「日忌み」を教えてもらう点で構造上の一致があり、語りを聞き入る側にとっては同様の心持をもった参加の仕方だと思われる。ただ、オシラサマアソバセの場合は、家族の個人ごとの占いの前に、当年の村の一年間の様子を語る点が違う。 この「日忌み」を青森県のイタコはウラナイと、岩手県の修験神子のイタコはヒイミ、宮城県のオカミサンはタクセン(託宣)やゴセンダクと呼ぶ。 唐桑町(現気仙沼市)の巫女(大正13年生まれ)の場合、オシラサマアソバセは、(1)六根清浄の祓い、(2)岩戸開き、(3)国がけ(全国の寺社の名を唱える)、(4)オシラサマの御真言、(5)東方立て、(6)オシラ善神の祭文(馬娘婚姻譚はなし)、のあと巫女にオシラサマが憑いて一人称で語り、参集者はゴセンタクを聴く。 陸前地方では、オシラサマを持たない集落では、その集落の神社の神様を巫女が下ろして、一人称で語る占いを聴く(神様アソバセ)。 オシラサマアソバセを行うご縁日は、1,3,9,12月の16日が主で、命日と呼ぶところが多い(オシラ祭文の中で、3月16日に蚕となって舞い降りる姫の命日)。 口寄せもオシラサマアソバセも、口寄せやご縁日など限定された時間で語ることに、その特異な意味が生まれると思われるが、場所についても要件であり、奥座敷か神棚仏壇が祀られたオガミと呼ばれる部屋で行われる。しかし、ナナクチとオシラ祭文が決定的に違うのは、ナナクチがホトケが一人称で語るのに対して、祭文は「姫は」など三人称で、また、「語る」のではなく「よむ」と巫女の中で使い分けられる。 ただし、津軽のイタコが伝承を管理する「岩木山一代記」という祭文では、イタコが村に呼ばれその年の豊凶などを占う前に岩木山の神が憑いて自らの一代記を語る。五所川原市桜田の巫女(大正4年生まれ)によると、この神は人間に向かって、神になってもこんなに苦労していることを語るのだという。彼女は、岩木山一代記をモノガタルと言い、一人称で30分くらい語るものだった。また、同女は「金比羅一代記」という祭文も伝承し、船祈禱に読まれるが、その詞章も一人称である。「弘法大師の一代記」も伝承する。これらの一代記は婆さまたちから要望があれば、占いを離れてなかば娯楽のように祭文だけ語ることもあったという。 口寄せのナナクチとオシラ祭文の間に、この岩木山一代記などの祭文(語り物)を置くと、それらの共通基盤が明らかになると思われる。 陸前高田市気仙町の巫女が伝承する「十六ぜんサマ」というオシラ祭文は、馬娘婚姻譚は説かないが、「オコナイ(オシラサマのこと)は今ぞ居ります草間よりあしげの駒に手綱よりかけ」で終わり、口寄せでも同じ詞章が使われる。志津川町の巫女(大正11年生まれ)による口寄せのヨリクチ(導入)の詞章には、「今ぞ寄り来る長浜の葦毛の駒に手綱寄りかけ」とある。これらの詞章のある祭文がオシラ祭文のモノガタリ成立以前に語られていたことも考えられる。 以上から、日忌みなどの共通性から考えると、オシラサマが巫女に憑いて一人称で語ることは、オシラ祭文として定着する以前からあったように思われる。おそらく、修験などの文字を持った者により、中国の捜神記などの伝奇小説の文献の関与によって「オシラ祭文」は成立して、イタコなど巫女の伝承に影響を与えたと思われるが、明らかにオシラサマが憑いていると聴く者に認知されなければその後の占いに積極的にかかわることがなかったと思われる。つまり、オシラ祭文は、巫女自身に憑かせるためだけでなく、オシラサマが憑いていることを周囲に明らかにさせる祭文でもあったわけだ。8.一生を語る意味 ホトケが一生を語ることがなぜ供養になるのか。枕崎市のカツオ漁に関する民俗に、大漁祝いの一つとして「供養釣り」がある。この儀礼は、大漁の後に湾内にカツオ船を浮かべて、ワラで作ったカツオを用いて大漁を再現する。つまり、カツオの最後の様子を再現してカツオの供養にもなるという考え方。亡くなった人が一生を最後まで語ることがそのホトケの供養にもなるという点で、繋がっていると思われる。------------2 自分の思い出 祖母が亡くなって、しばらく経った日だと思う。小学校低学年だった私の家に親類が集まり、座敷にオカミサンを迎えた。私は誰かの言うがままに、並ばされて、ハイ次はアンタだよ、と促されてオカミサンの前に(背後にだったか)移動したように思う。正直いうと幼少の私は祖母に冷たい態度を取っていた自覚があって、優しく接することのないままに亡くなった祖母から叱責があるかもと内心怯えたことを覚えている。オカミサンの口を通して祖母から言われたことで記憶にあるのは、水の事故に気をつけなさい、川や海に近づくな、ということ。たしかに、友人と川遊びに行って木から落ちたりしたから、納得する感覚があったように憶えている。 周りではおばさんたちが、あー、そーだそーだなどと涙ながらに合いの手をいれて、語りに聴き入る。おそらく、祖母の一生の思い出話に共感し、また、残された家族親類への占いを受けて感謝する、その全体が供養の空間だったのだろう。 そして、オカミサンは、一本弓を張った楽器のような道具を畳に置いていて、これを弦でジャンジャカジャンジャカと鳴らすと、次の人に交替するのだった。儀礼の後、従兄弟たちとジャンジャカと物まねをして遊んだものだった。 この儀式とは別の日だと思うのだが、やはり自宅の座敷で、お坊さんによる法要の一場面だったろうか、2人がそれぞれ鉦とシンバルのようなものを持って、チーン、ジャーンとやる。最初は1秒以上間を置いて、徐々に間隔を詰めて、チーンとジャーンを繰り返し最後は同時にトレモロになって終わる。これを何度か繰り返していた。もちろん、これも従兄弟たちと台所の鍋のフタを持ち出してマネをしたものだ。■関連する過去の記事 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日)
2024.12.07
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畿内の王権は各地の有力豪族を国造に任命して地方を統治していた(国造制)が、大化の改新(645年)で成立した孝徳朝は、これを解体して評(コホリ)を設置し、その後、評を束ねる国を置いた。古墳時代以来の有力豪族による間接統治から、中央集権的な地方統治に転換を図ったのである。陸奥国が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』斉明5年(659)3月条「道奥与越国司」である。『倭名類聚抄』(10世紀)で後の陸奥を「三知乃於久」と訓じているため、道奥と陸奥は同義とみなされている。また、『常陸国風土記』では、我姫(あづま)国であった関東から東北(東国)を8か国に分けたとある。このうち1つが道奥国とされ、評の設置が進んだ653-654年(白雉4-5)頃には、国が成立していたと考えられる。676年(天武5)には「陸奥」と記されており、この頃までに表記が、道奥から陸奥になった。当初の陸奥国の領域は、福島県から、太平洋岸は宮城県大崎地方まで、日本海側は山形県内陸部だった。これらは都からの連絡路(東山道の前身)の最も奥に位置したことから、「道奥」「陸奥」の国名は王権支配の辺遠を表現したものと考えられている。■関口重樹編『日本史の中の宮城県』山川出版社、2024年(齋藤和機氏の執筆部分)から■関連する過去の記事 陸奥はなぜ「むつ」と読むのか(2017年8月14日) 「むつ」の語源(2007年8月27日)
2024.11.26
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1 宮城県の粘板岩県西部の三陸海岸地域には、粘板岩の石脈がある。薄く板状に割れやすい粘板岩は、古くから石碑や硯の材料にされた。特に、雄勝の硯石は品質が高く、藩の保護を受けたとされ、封内風土記にも硯の産地であったことが記されている。粘板岩は明治時代になると、石盤と天然スレート葺き屋根の2つの使い道で、日本の近代化を支えた。2 石盤板状の粘板岩に木枠を付けたもの。蝋石の筆で文字を書き布などで拭き取ることで、ノートの代用品だった。学制発布以降、西洋から伝えられて全国で使用が推進された。当初は輸入に頼っていたが、横浜の商人・山本儀兵衛(ぎへえ)が雄勝を訪れた際に粘板岩と出会い、雄勝で会社を興して採掘と石盤製造を始め、東京に支社を置いて販路を拡大させた。需要増大のなか、山本らは宮城県監獄署に採掘製造作業への出役を要請、1878年(明治11)には雄勝に監獄署分監が設置されるに至る。分館では天雄寺(てんゆうじ)に囚人の寄宿舎を建設して採掘と生産を増加させた。3 天然スレート天然スレート葺き(石盤葺き)は、厚さ5mm程度の粘板岩を切り揃えて屋根を葺く技術で、明治時代に西洋建築とともに日本に伝わり、国内では東京駅丸の内駅舎(1914年、大正3)が有名な建築例である。石盤と同様に輸入が中心だったが、ドイツで技術を学んだ篠崎源次郎が1889年(明治22)に東京でスレート商会を設立、雄勝の天然スレートの販売と施工を行い、全国の官公庁、銀行、教会などを中心に広く流通した。天然スレートは、雄勝のほか、登米、女川、陸前高田でも生産された。採掘される山で品質や色が微妙に異なり、東京駅丸の内駅舎では建築当初は雄勝産、以降は場所を変えて雄勝産と登米産が使われている。4 宮城県の景観全国の建築の洋風化に応えるため生産された天然スレートだが、宮城県内では、むしろ従来の住宅の建て替えや葺き替えの使用例が多くみられる。さらに母家のみならず長屋門、倉庫、風呂など付属屋で天然スレートが葺かれるのも特徴である。登米市登米町や石巻市北境などでは建物群として残り、宮城県特有の景観をつくりだしている。■関口重樹編『日本史の中の宮城県』山川出版社、2024年(関口重樹氏の執筆部分)から公益社団法人日本建築士会連合会の会誌「建築士」(2019年2月号から同年11月号)に、CPD講座として「陸前地方の天然スレート建築」の連載がある。(大沼正寛氏(東北工業大学)、阿部正氏(ノーマルデザインアソシエイツ)による)私は建築の素人ながら、幅広い視点と豊富な資料と画像をもって、スレート産地と地域産業の実態、災害との関係、産地周辺の民家の特徴、さらには保全活動など、たいへん面白い内容だった。以下にリンクを引用させていただく。第1回 東京駅のスレート屋根をみつめながら(2019.2)第2回 雄勝─スレート産業の黎明(2019.3)第3回 近代洋風建築を包んだ陸前スレート(2019.4)第4回 石巻地方と仙台 ─産地周辺での波及と近代化の風(2019.5)第5回 登米スレートの登場と大正昭和の普及(2019.6)第6回 入谷と矢作の石材開発─雄勝と登米の間(あわい)で(2019.7)第7回 スレートへの「屋根替え」がつくる景観(2019.8)第8回 天然スレート屋根の構法と技術(2019.9)第9回 文化的景観と産業遺産の両義性 ─台湾・英国をみる(2019.10)第10回 スレート千軒講 ─ゆるやかな活用保全をめざして(2019.11)
2024.11.25
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先日登米市内を走っているとカーナビに「本吉街道」と表示が出た。帰宅してから道路地図を見てみると、栗原市若柳や登米市石森を経由して、米谷から水界峠を経て志津川に至る道に本吉街道と付記されている。少し詳しくいうと、次のようだ。(1)まず、国道4号の栗原市沢辺地区から、三迫川沿いに下流に下り若柳の川北に至る。この区間は、現在の県道4号(中田栗駒線)の南に並行する感じで川沿いに繋がっている。沢辺町の集落や大林地区の街村をつなぐ。かつての栗原電鉄が寄り添って走っていた。(2)次に、若柳(川北)からは現在の県道4号(中田栗駒線)で、東北本線石越駅の南を通り、登米市役所石越支所付近を経由して、登米市石森の中心部を経て国道346号に出る。(3)交差点を渡る(国道346号をクロス)と、道は国道398号になり、浅水から米谷大橋を渡って、一路のぼって水界峠(新水界トンネル)をめざし、越えると入谷、志津川に出る。こんな感じだ。県道4号(中田栗駒線)は国道4号の西側にも続いて岩ヶ崎に至るのだが、この道路地図では、国道4号の西の部分には「本吉街道」の語がないから、奥州街道(陸羽街道)から志津川で東浜街道と合流するまでの区間を、本吉街道と呼ぶ趣旨なのだろう。ところが、YAHOO!マップでみてみると、「本吉街道」と付された道は、若柳地区で県道4号を離れ、下の画像のように迫川をこえてまた戻ってくるルートとされている。そして、「本吉街道」の文字は、若柳中心部から西には付されていない。■関連する過去の記事 歴史ある水界トンネル(2012年10月20日)
2024.11.12
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前回の当ジャーナル記事(広瀬川の赤さびと亜炭坑(2024年11月05日))のあと、読売新聞が解説していた。概要は次のとおり(おだずま要約と下線)。広瀬川変色 亜炭坑原因か/「吐口」に赤い堆積物 11月8日読売新聞県内版(小山太一さん、藤本菜央さんと署名がある)------------先月30日突然赤濁し、一時は愛宕大橋や広瀬川付近まで広がった。仙台市下水道南管理センターの31日の調査で、霊屋橋下流約400mにあり廃坑につながる「吐口」付近で赤いヘドロ状堆積物が見つかった。東北大学高嶋礼詩教授(地質学)は、鉄を含む層に挟まれた亜炭坑から廃坑にしみ出した水に鉄分が含まれており、バクテリアの繁殖で酸化して赤い鉄さびが作られるのではないかと分析する。センターによると、吐口は地下水と雨水が一緒に排出されているが、地下水に含まれる鉄さびが吐口の内部などに堆積し、前日29日夜から降り始めた雨の影響で川に流れ出た可能性がある。2010年12月と昨年6月にも川の赤濁があり、愛宕大橋から上流約750mの長徳寺付近の吐口の鉄さびが原因だった。仙台ではかつて安価な燃料として亜炭が盛んに採掘された。広瀬川周辺には亜炭の廃坑が数多く残り、今後も流出する恐れはある。センターは毎年吐口の清掃を実施する方針を決めており、今年は11月の予定だった。高橋史典管路管理係長は、堆積物が流出しない方法を検討し、速やかに除去していきたいとする。------------記事には地図が付いており、広瀬川右岸の長徳寺の場所から、さらに200mほどだろうか上流に「鉄さびが流出したとみられる吐口」と吹き出しが付されて地点がプロットされている。向山二丁目のバス通りの崖下、米ケ袋の県工業高校の対面になる。前回記事で記したが、仙台放送の報道では、「郡山」との解説で白いマンションが建つ崖の映像があったが、やはり向山二丁目だったのだろう。(以下は2024.11.20追記)さらに、11月13日河北新報が記事を出していた。広瀬川変色 原因は鉄成分/仙台市 雨水管の点検継続------------(おだずまジャーナルでまとめ)東北地方整備局仙台河川国道事務所などが12日発表。赤水は、向山二丁目の雨水管から下流に向かって10月30日に発生。仙台市下水道南管理センターが採取した物質を分析したところ、高濃度の鉄成分が検出された。河川管理者の県は、11日12日の両日新たな濁りや魚の死の被害がないことを確認。雨水管から下流では農業用に取水している。人の健康に影響はないと判断しているが、環境に影響がないとは言い切れないとして、市が雨水管の点検を継続する。管理センターははけ口近くにあった堆積物の分析を継続しており、周辺に無数にある亜炭坑跡を流れて鉄成分を多く含む地下水が雨水管に入り込んでおり、自然由来の鉄さびとみられている。-----------仙台河川国道事務所のサイトに、記者発表資料がある。広瀬川で赤い水が流下(第4報)(11月19日)これには地図が付けられており、流出した吐口の地点がわかる。■関連する過去の記事(広瀬川周辺、地層、亜炭) 広瀬川の赤さびと亜炭坑(2024年11月05日) 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日)=緑ヶ丘などの宅地災害 広瀬川の名を考える(2013年11月30日) 愛宕下の発電所(2013年11月25日) 鹿落旅館のこと(2013年11月24日) 足元の仙台を掘りおこす 亜炭香古学(2013年07月26日) 大年寺山(08年10月18日) 八木山と鹿除土手(08年10月13日) 仙台の名の由来(07年9月20日) 西多賀を考える(07年5月23日) 私の「越路」の思い出(05年12月28日)
2024.11.11
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【当ジャーナル注】この記事のあと、別記事として流出地点に関する続編がありますのでご参照下さい。→広瀬川の赤さびと亜炭坑(続)(2024年11月11日)【注ここまで】10月29日から、広瀬川の水が赤く濁ったことがニュースになった。(以下、各メディアの報道から。)29日に広瀬川の水の色が変わったと警察に通報が相次ぐ。30日、霊屋橋から宮沢橋の付近で2km近く赤い変色が確認され、警察から東北地方整備局仙台河川国道事務所に通報があった。昼過ぎには川の色は元に戻ったが、近くで鉄さびを含むヘドロ状の固まりが見つかり、かつて周辺にあった亜炭の炭坑から鉄さびが流れ出たとみられる。河川管理者の宮城県では、広瀬川に接続する向山二丁目の雨水本管(直径2m)から鉄錆が流れ落ちた可能性があるとみて、仙台市下水道南管理センターに調査を依頼。同センターがはけ口2か所を点検したが異常は確認されなかった。31日に同センターがはけ口辺りで【*注】、自然由来の鉄錆とみられるヘドロ状の堆積物を発見。周辺の亜炭廃坑の地下水がはけ口から排出され、地下水に含まれる鉄分が参加して堆積した可能性がある。(【*注】仙台放送の報道では、太白区郡山としているが、それだとかなり下流になる。太白区向山の誤りかと思うがどうか。映像では白いマンションが映っていた。)地中の雨水管の奥には、亜炭坑の廃坑跡と思われる接続があることから、そう考えられる。仙台では特に青葉山エリアから八木山エリアにかけて亜炭層が多くあり、今も広瀬川沿いにはよく見かけられる。戦前から亜炭は家庭用の燃料として広く利用されており、そのため広瀬川沿いにはかつて多くの亜炭の坑道があり、いまも名残は多く残っているという。戦後しばらくは掘っていたが、亜炭が燃料として使われなくなると、廃坑を埋め戻す資金がないので、入り口をふさぐくらいで中は坑道が残って地下水がたまり、地層中には鉄分もあるから赤茶さびた水となって残っており、これが川に流出した可能性がある。過去にも同様の事例があった。2010年12月と昨年6月で、いずれも雨水管にたまった鉄さびの流出が原因。人体への影響はないことが確認されている。(報道の概要は以上)。■関連する過去の記事(広瀬川周辺、地層、亜炭) 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日)=緑ヶ丘などの宅地災害 広瀬川の名を考える(2013年11月30日) 愛宕下の発電所(2013年11月25日) 鹿落旅館のこと(2013年11月24日) 足元の仙台を掘りおこす 亜炭香古学(2013年07月26日) 大年寺山(08年10月18日) 八木山と鹿除土手(08年10月13日) 仙台の名の由来(07年9月20日) 西多賀を考える(07年5月23日) 私の「越路」の思い出(05年12月28日)
2024.11.05
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1 明治15年のコレラ流行と宮城県の対応明治政府は、明治10年に虎列刺病予防法心得を各府県に達し、明治13年に「府県衛生課事務条項」「町村衛生事務条項」を整備、さらに伝染病予防規則を整備して感染症予防法令が確立した。町村衛生委員は、町村内の世話をする担当者で、住民の公選。宮城県でもおよそ200から250戸に1人選出された。明治13年5月には宮城県独自の虎列刺病予防手続(全67条)がつくられ、コレラ予防の内容が整理された。具体的には、患者の把握(医師、町村衛生委員、村長、巡査などが関わる)、船舶検査、掃除、飲食注意、検疫委員の選出(流行時)、隔離(衛生委員、警察、検疫委員)、消毒・焼却、吐瀉物処理、死体の処理(警察)、群衆禁止、である。この流れの全体について、町村衛生委員や警察が関わる。このうち、隔離に関しては、管内で患者の発生を知った場合、衛生委員は家族が感染しないよう患者との接触の仕方について説明し、警察は患者宅の門戸に病名票を貼付し、往来や出入りを取り締まる。自宅療養の患者は衛生委員と検疫委員が検分し、自宅療養が行き届かない場合は避病院(ひびょういん)へ入院を説得すること、とされた。明治15年のコレラ流行は全国で51,631人の患者と33,784人の死者を出した。明治12年の流行を免れた宮城県にとっては、維新後初めての本格的流行であった。患者数3,977人、死者は2,361人で、患者数は東京に次いで全国2位、死者数は3位であった。最初の患者は7月18日に亘理郡荒浜、伊具郡を経て間もなく仙台区に伝播し、9月初旬に最も激しく流行。宮城県の対応は、6月半ば神奈川県の流行を聞いたことから、船舶検査手続を定め、各港湾に検疫所を設け、医員や警察を派遣。6月18日船舶検査に着手する。しかし、荒浜の発生を受け、7月21日に警部長、衛生課長が出張し、巡査、村役人、衛生委員を指揮して予防消毒を実施。避病院・火葬場の設置、交通遮断などの処置。それでも封じ込めはむずかしく、仙台区に患者が発生すると、宮城郡荒巻村台原に避病院の新築を決めた。患者の吐瀉物は広瀬川に投棄し、沿川町村に川水の使用を禁止する。7月23日には、諸興行、寄席などの営業停止。7月31日県庁内に検疫事務局設置、各郡区に検疫事務所設置。8月には、各郡区のほとんどで発生を受け、臨時巡査225人、医員68年、検疫掛67人を派遣。流行衰退を受けて9月19日検疫事務局閉鎖、各郡区の事務所も10月25日までに漸次廃止。2 流行現場の実態と避病院(ひびょういん)人権を無視した警察の強引な消毒や隔離の対応が、コレラ自体とともに人々に恐怖感を植え付けた。避病院は、応対する医師や看護婦が不十分で、しかも破れた紙障子に消毒薬の臭気が鼻をつく劣悪な環境で、実態は患者の収容施設に過ぎず、自然治癒をするごく少数を除いては死を待つところであった。実際、維新後初めての全国的流行である明治12年には、住民が避病院設置に反対したり、警察や医師を襲うコレラ騒動が各地で発生した。避病院については、上述の宮城県の虎列刺病予防手続(明治13年)で詳細に定められた(第18条-第40条)。まず、位置は往来の多い路傍や井戸・川の近くは避ける。人家の少ない村落では相当の空家を用いても良い。おおよそ人口千人に患者1人の割合で設けること。構造は、重症、軽症、快復期の三種類の病室を設けること。また、従事者や患者親族への対応なども規定されている。さらに明治15年には流行の中で避病院規則が出され、具体的な取り決めの他、患者入院料は一日30銭、貧困者は免除、などとされた。明治15年における各府県設置の避病院の数は107で、そのうち宮城県は26で第1位だった。■出典竹原万雄(たけはらかずお)『明治時代の感染症クライシス:コレラから地域を守る人々』(よみがえるふるさとの歴史 5 宮城県石巻市)、蕃山房、2015年■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 黒石寺蘇民祭を考える(続)(2024年02月20日) 黒石寺蘇民祭を考える(2024年02月18日) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.11.01
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仙台市内の居酒屋で飲んで気に入り、ついに酒店で一升瓶を購入した。■関連する過去の記事 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日)
2024.10.31
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久しぶりに出会った。社会人になりたての頃に買って読んだ。何度か本棚を探して見当たらなかったが、引っ越しに紛れてなくなったのだろう。きのう、図書館で思いがけず目にしたので借りてきた。この表紙の感じ、そうそう、まさにこの本だ。収められている作品は、つぎのとおり。東北新幹線殺人事件 小林久三X橋付近 高城高七月・星の女 都筑道夫妻を愛す 高橋克彦瑠璃色の底 阿刀田高遠い春 藤雪夫人形たちの夜・秋 中井英夫(解説 山前譲)■小林久三他『仙台ミステリー傑作選』、河出書房新社(河出文庫)、1987年
2024.10.24
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かなり前になるが、仙台のロータリー交差点のシリーズで、東仙台五丁目、案内集会所のところを記事にした。・仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日)秋の休日、東仙台駅から歩いて県道(利府街道)を横ぎり、坂を登って細い抜け道を出ると、案内集会所の前に出た。そう、あのロータリーだ。ネコがのっそり歩いていた。■関連する過去の記事(松原街道を中心として) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.10.14
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梅田川に架かる苦竹橋(松岡街道、中原本通り)から川沿いに堤防道を下っていくと、左手(川側)に苦竹町内とプレートが貼られたプレハブがある。「何事も あわてずいそがず まず相談」その先で道は仙石線ガードをくぐり、新田大橋で梅田川を渡れば新田小学校や小鶴新田駅方面に至る。■シリーズ 仙台百景(こんな企画で100まで続くでしょうか) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 止まる(シリーズ仙台百景 41)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日) 旧代ゼミ前(シリーズ仙台百景 39)(2015年10月24日) ペデストリアンデッキのマーク(シリーズ仙台百景 38)(2015年6月2日) send i(シリーズ仙台百景 37)(2015年4月18日) 飲酒運転に、喝!(シリーズ仙台百景 36)(2011年9月24日) みんなのよい食プロジェクト(シリーズ仙台百景 35)(2011年5月14日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 耀け!!ベガルタ仙台(シリーズ仙台百景 33)(2010年12月26日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) フェンスのメッセージ(シリーズ仙台百景 30)(2010年2月28日) 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年10月12日) 松森焔硝蔵跡(シリーズ仙台百景 28)(08年8月31日) 十一面観音堂(シリーズ仙台百景 27)(07年10月23日) 陸奥国分寺薬師堂(シリーズ仙台百景 26)(07年10月17日) 県民の森 鶴ケ丘口(シリーズ仙台百景 25)(07年8月26日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) 県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) 数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) 半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) 仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) 仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) 仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) 仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) 仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) 仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) 仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) 仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) 仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) 仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) 仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) 仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) 仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) 仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.10.14
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昨日(10月7日)臨時国会では代表質問の論戦があった。自民のいわゆる裏金議員の公認問題などが取り上げられていたが、立憲民主党の野田代表の質問の中にこんな一節があった。(a)石破総理は解散について、総裁選では予算委員会を開くなど信を問うべきだと言いながら、戦後最短の解散を行おうとしている。(b)総理就任前の一国会議員として解散総選挙に言及したのは、天皇の国事行為に踏み込む発言で断じて許せない。(a)については、新内閣成立後の早期解散が自民の一つの狙いであり、そのやり方を非難して見せて、石破氏の言行不一致を際立たせたいという小さな戦略だろう。国民民主党の玉木代表も、予算委を開くとの前言を翻したが、申し訳ないとか恥ずかしい気持ちはないのか、と質問している。(b)の点は、天皇専属の国事行為に踏み込むのは不当だというレトリックだから、いちおう憲法論議ということになる。石破総理の答弁は、総理に選出され条件が整えばとの前提を置いた上の発言なので国事行為に踏み込んだことにならない、と説明。それはそうだろう。野田氏の論法からすれば、総裁選で解散について言及した候補者全員が憲法違反になる。解散を「しない」判断も天皇専権のはずだから、早期解散すべきでないといった野党議員だって国事行為に踏み込んだことになる。そんなバカな話はない。野党がわが国の政治課題の本質論を避けて、表面的な難癖や印象づけで国民の目を集めようとするのは、いかがなものか。かつて総理を務め、民主党政権内部でも論議があった中、国の将来を見据えて社会保障と税の一体改革(消費税増税)に道筋をつけた野田氏のリーダーシップは大きく評価されるべきだと思っている。私が驚いたのは、その野田氏が、野党として総理や自民党の言動を非難するのはいいとして、軽薄にも憲法論を持ち出したことの、情けないほどの軽さ。自身が発案したのだろうか。■関連する過去の記事 なぜ今解散なのか(2014年11月17日)=安倍総理と野田氏
2024.10.08
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ラベル正面には、「紫黒米酒OMOWAKUHIME Light Feeling Sake 平安の武将が愛した娘 おもわく姫」と記されている。精米歩合90%、アルコール分8度。製造は蔵王酒造(白石市)、企画は多賀城市観光協会。そして、「多賀城市の古代米(紫黒米)を100%使用した低アルコールのお酒です。優しい甘味とキレの良い酸味が口一杯に広がります。」と記されている。美味かった。以下は、購入の際にいただいたパンフレットの内容を転記します。ほんのり甘酸っぱい想いがわく〈古代米美酒〉おもわく姫※お酒は二十歳になってから販売店・提供店 *株式会社 すずこう 宮城県多賀城市下馬2-11-14 TEL:022 (365) 8850*ネット注文も承ります https://suzukougift.base/shop古代ロマンに想いをはせて、心華やぐ芳醇なひとときを。史都・多賀城の地に伝わる、いにしえの恋物語。ヒロインの名は「おもわく」。歴史のかなたに咲いた、美しい恋をモチーフに生まれたお酒「おもわく姫」。淡い色合いと爽やかな香り。ほんのり甘酸っぱい舌触り、そこから広がる華やかな味わい。フレッシュな白ワインのようにフルーティーな、新感覚の日本酒です。新感覚を醸し出すのは、はるかな時を超えて現代によみがえった古代米。悠久の歴史と伝説の物語に想いをはせ、芳醇な酔い心地をお楽しみください。Brand ー Omowaku hime多賀城グルメブランド「しろのむらさき」のお酒。 多賀城を流れる野田の玉川には、伝説の架け橋があります。平安時代の武将・安倍貞任が、美しい村娘・おもわくに恋をして、彼女のもとへ通うために架けたといわれる「おもわくの橋」。別名「安倍待橋(あべのまつはし)」です。 そんな恋物語が伝わる当地では、古代から稲作が盛んに行われていました。紫の稲穂が特徴の品種「紫黒米(しこくまい)」を中心に古代米を育て、それを原料に誕生した新たなグルメブランドが、多賀城の「しろのむらさき」。そのブランドを牽引する古代米美酒が「おもわく姫」です。 古代米には、ポリフェノールの一種・アントシアニンやビタミン、ミネラルなどの成分が含まれています。精米歩合90%の「おもわく姫」は栄養素を豊富に含みつつ、古代米特有のフルーティーな酸味と香りが、爽やかで軽い飲み口を実現しています。 ストレートで味わうだけでなく、生レモン搾りや炭酸割り、グレープジュース割りなど、カクテルベースとしても楽しめます。フルーツとの相性が抜群なので、サングリア風のアレンジもおすすめです。(写真の解説)1:フルーティーで爽やかで軽い飲み口が特徴。2: 炭酸やジュース割り、サングリアなどお好みのアレンジで楽しめます。3: 現在も残る野田の玉川に架かる「おもわく橋」。Production ー Omowaku hime若き作り手たちの志が、伝統を未来へつなぐ架け橋に。 古代米の作り手は、多賀城高橋地区の由緒ある農家7代目を継ぐ食品開発者。古代米を醸すのは、宮城の老舗蔵元「蔵王酒造」気鋭の若き杜氏。伝統の継承と革新に挑む、若き志が架け橋となり、古代の恵みが新時代の日本酒として結実しました。(写真の解説)1:多賀城高橋地区の7代目農家により生産される古代米。2: おもわく姫と杜氏の大滝真也氏。3:一般的なお米に比べ、ミネラルやビタミンが多く含まれる古代米。4:宮城の老舗蔵元によって醸造される、おもわく姫。History ー Omowaku hime史跡からの出土品が物語る、古代みちのくの稲作。 多賀城は、奈良時代に陸奥国(みちのくのくに)を統治する国府として創建された北の都。現在、日本三大史跡に数えられる城跡は、およそ1300年もの歴史を誇ります。城跡出土品に記された「黒舂米(こくしょうまい)」 の文字が当時の稲作を物語り、グルメブランド「しろのむらさき」の誕生につながりました。(写真の解説)1:松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚の際、訪れている壷碑。2: 多賀城のほぼ中央に位置し、政務や儀式が執り行われた政庁跡。OMOWAKU HIMETagajo madeSake created from ancient rice grown in Tagajo.■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2024.10.01
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後世に守り伝えたい遺産だ。9月22日河北新報(みやぎ面)に出ているので、紹介する。------------大崎/380年前から山あいの農地潤す水利施設/「南原穴堰」守り伝えたい「世界かんがい遺産登録」で報告会/ 組合員「先人たちの苦労に感謝」(以下本文) 約380年前に造られ、現在も山間地の農地を潤す大崎市鳴子温泉の水利施設「南原穴堰(ぜき)」が、歴史的価値を持つ農業用水利施設を認定する国際かんがい排水委員会 (ICID)の「世界かんがい施設遺産」に登録されたことを受け、市は報告会を開いた。 南原穴堰は1644~47年、河川から遠い山間地の用水確保のため造られ総延長は1880m。1330mを占める隧道(トンネル) は全て、たがねやのみを使った手掘り。高低差5mの緩い勾配を、 夜間にたいまつの明かりを使って測量するなど高い技術が生かされ、現在も水田や牧草地計25秒haに用水を提供する。 オーストラリアのシドニーで3 日あった表彰式には、伊藤康志市長と南原穴堰水利組合の上野孝作組合長(68)らが出席した。「農業とコミュニティーの発展に貢献した地元の知恵と創意工夫」との登録理由について、6日に市役所で開かれた報告会で上野組合長は「先人たちが苦労して残してくれたことで私たちは生かされている。感謝したい」と強調した。 掘削のために崖から掘られた9カ所の横穴「狭間(さま)」は土砂の排出にも用いる。近年は手作業からハンドル式のゲートになり負担は軽減したが、春と秋には地域外からも支援を受けて清掃作業(江払い)を行うなど維持管理が欠かせない。組合役員の上野健夫さん(65)は「子どもの頃からあって当たり前だった穴堰が、世界に誇れるものだった」と感慨深げに語った。 健夫さんの長男滝人さん(34)は会社勤めを経て就農3年目。「清掃作業だけでなく、子どもたちの農業体験や観光と組み合わせたイベントなど、外から人を集めて穴堰を守っていくことも必要」と語り、交流サイト(SNS)での情報発信にも意欲的だ。 上野組合長と表彰式に出席した伊藤市長は、看板の多言語表記など、国内外からの視察に対応すると説明。「地元任せでなく、市民や企業が価値に気付き、保全に参加する仕組みをつくりたい。次代を担う子どもたちにも関心を持ってもらい、一過性にせず未来につなげる」と述べた。 市は11月8、9日に登録記念のシンポジウムを開催する予定。------------大崎市作成のペーパーがあり、穴堰について説明がある。以下に紹介する。------------ICID 世界かんがい施設遺産 登録(2024.9.3 Sydney)『南原穴堰』 Minamihara-Anaszeki Irrigation Canal~山間地の荒地を、知恵と技の巧みな水管理で、約380年続く農村に変えた生きた遺産~ 人家もない荒れ地の山間地で、標高が高く、河川から取水できない中、新たな用水確保のため、1644年から1647年の3年をかけ、隧道を含む約2kmの水路を、手掘りで岩を削り水路を完成させた。山間地で約380年にわたり水稲を生産、食料を確保し、農村が生まれ、暮らしを守り続けている重要な水管理施設である。 総延長1,880m、その内隧道が1,330mであるが、高低差が5mしかなく、非常に緩い勾配 (0.3%)に対し、夜に松明の明かりを利用し、対岸の山から声を出し指示をして、杭打ちを行い測量し、隧道を掘削したが、知恵を活かした測量と掘削の技術により実現した歴史的にも貴重な施設である。 また、崖から横穴「狭間(さま)」を9ヶ所掘削し、狭間から左右に隧道を掘削したが、狭間からは岩石を排出した他、水の力で土砂払いができる仕組みに工夫されている。約380年前に計画実行された巧みな工夫と技術の高さにより、現在も維持管理では労力を少なく土砂払いが継続できており、約380年前の形状を残した生きた遺産を、地域内外の人々が協働で守りながら活かしている。------------このプリント(ペーパー)には以下の写真も掲載されている。・「隧道の内部」~約380年前の手振りの凹凸の形状や燭台が今も残る~・隧道出口から田んぼまで続く「開水路」~協働で維持管理する土水路にはイワナも泳ぐ〜・隧道の横穴「狭間(さま)」(7号(勘兵衛)狭間)~隧道内部の土砂が水の力で排出される~・日本国内位置図■参考サイト 南原穴堰水物語(宮城県北部振興事務所農業農村整備部)■参考サイト 大崎耕土「世界農業遺産」鳴子温泉エリア■関連する過去の記事(大崎耕土) なぜ大崎耕土と呼ぶのか(07年7月25日)■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 堺田の分水嶺(山形県最上町)(2024年07月06日) 中山平温泉駅(陸羽東線)(2024年07月03日) 一栗中学校跡(大崎市岩出山)(2024年07月02日) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)■関連する過去の記事(品井沼干拓など) 品井沼開拓資料館、元禄潜穴入口、品井沼駅(2024年06月12日) 元禄潜穴第6ずり出し穴(松島町根廻)(2024年06月11日) 明治潜穴公園(松島町幡谷)(2024年06月10日) ふれあい広場(明治潜穴出口、松島町根廻)(2024年06月09日) 元禄潜穴の穴尻、一分間停車の碑(松島町根廻)(2024年06月05日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 青木存義(松島第五小学校の碑)(2024年05月25日)■関連する過去の記事(宮城県内の河川改修など。これらの他、貞山堀などの記事もあります) 川村重吉(2024年01月22日) 川村孫兵衛重吉(2012年6月21日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)=皇太子の一分停車について記載あり 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 高城川を考える(06年8月26日) 七北田川を考える(07年10月3日)(寛文の流路変更)
2024.09.25
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国宝に指定されてからは、初めてその姿を見に訪れました。傍らの解説板の内容が下記。------------国宝 多賀城碑(古文書)詳しくは知りたい方はこちらから(QRコード、ホームページ)〔おだずま注 ジャンプ先はこちら(多賀城市サイト)〕多賀城去京一千五百里去蝦夷国界一百廿里去常陸国界四百十二里去下野国界二百七十四里去靺鞨国界三千里西此城神龜元年歲次甲子按察使兼鎮守将軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也天平寶字六年歲次壬寅参議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也天平寶字六年十二月一日 上部に「西」の一字があり、その下、細い線で囲んだ中に11行、140字が刻まれています。碑文内容は大きく二つに分かれ、前半は、京(平城京)などから多賀城までの距離が記されています。当時の一里は約535mです。後半には、神亀元年(724)、大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)、藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後の行に碑を建てた年月日が刻まれています。 碑文の内容が藤原朝獦による修造に力点を置いていることから、多賀城修造記念碑とみることができます。 碑は歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても有名で、元禄2年(1689)、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途中、碑と対面し、そのときの感動を紀行文『おくのほそ道』に書き残しています。 また多賀城碑は、那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、栃木県大田原市)、多胡碑(たごひ、群馬県高崎市)とともに、 日本三古碑のひとつに数えられています。 多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また、数少ない奈良時代の金石文として貴重であることから、平成10年6月30日に国の重要文化財、令和6年8月27日に国宝に指定されました。 令和六年八月 多賀城市教育委員会 寸法 高さ248cm (地上部196cm)、最大幅103cm、最大厚さ72cm 石材 花崗質砂岩----------■碑の脇の説明板の中でQRコードから入るサイト(重要文化財多賀城碑) 真偽論争を含む碑の経緯や、歌枕としての整備、全国の古碑などについてわかりやすく記されています。藩政時代に仙台藩や南部藩で行った歌枕の地の整備は、現代でいえばインバウンド誘客の取組でしょうか(おだずま談)■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2024.09.16
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-4 大柄沢キリシタン洞窟 1973年(昭和48)8月、山の持ち主Nさんが下刈り作業中に、偶然みつけた。道らしきものが続いていることに気づき、右側が崖になる藪を進んでいくと、山の一部に人工的に色が変化している場所を発見。鶴橋をいれるとぽっかり穴が開き洞窟の入口とわかった。 岩穴は高さ1.3m、底辺1m、奥行き10mほど。奥には細断と思われるものが2段あった。灯火用の金属片を岩に取り付けた跡もあった。 その後訪ねる人もなかったが、NHKで放映することになり、一昨年〔おだずま注、鈴木氏の著書は2020年1月の講演がもと〕、持ち主に無理にお願いしてショベルカーで低木を掃っていただき、入口に辿り着いた。50年近く経た洞窟の入口は土砂が崩落していたが、懐中電灯で照らした洞窟の中は、ロウソクの煤で薄暗く、ミサで使用したのか壊れた皿が散乱していた。〔おだずまコメント。ネットなどで調べると、大柄沢(おおがらさわ)キリシタン洞窟は、大籠教会から西に1.5kmで登米市米川地区にある。登米市の土砂災害危険個所のマップで、国道346号の北側に大柄沢キリシタン洞窟の語がみえる。米川里山だよりのマップ〕4-5 大籠の地名 大籠の地名には殉教地を物語るところがある。シト(使徒)の沢、トキゾー(徒刑場)沢、デス(仏)、ハセバ(架場)など。ハセバは稲を干すハセ掛けのように死体を並べたということ。殉教を「架けた」と表現する地域もあった。 大籠地区自治会協議会は、殉教と製鉄の里として「大籠の旧跡と名所」という地図を製作。この中にキリシタンに関わる史跡は22箇所もある。一部、米川(狼河原)のキリシタン関係の遺跡と後藤壽庵の碑も掲載されている。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.13
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕4 大籠地域とキリシタン4-1 千早東山 新聞報道された大津保村の一部、大籠は多くの殉教者を出した。大籠を巡検した東北大学教授村岡氏がまとめたのが、村岡典嗣『仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡ー伝説と史実』(改造社、1928年)である。村岡氏が情報を得た儒学者の千早多聞は、父親が千早東山といい、人名辞典によると、「磐井郡奥山村の人で、江戸に出て山地蕉窓の養子となり、儒学者として幕府に仕える。安政の頃故郷に戻り隠遁する。」とある。東山は故郷愛が深く村民に非常に慕われ、明治34年に80際で亡くなる。 東山の著書には『大籠往来』と『大籠神明記』、他に『裁増坊物語抄録』がある。この3つを手にした村岡は「これでもう大籠のことはすべてわかったような気がした」と書いている。ただし、『裁増坊物語抄録』は現代人の視点で読むと荒唐無稽と一笑に付されてもやむを得ない。「裁増坊」とは大籠村の百姓で1613年(慶長17)に生まれ、1750年(寛延3)まで地域に生存し、高野山には7度参詣し、93歳から剃髪して裁増坊と称し、130歳まで生きたとある。とすると1792年(元文2)まで生きたことになる。伊達政宗に故郷大籠の地誌などを話したという内容が記されている。村岡氏の論文にはその一部が引用してあるが、栽〔ママ〕増坊は「大籠の地は自然に恵まれ、まるで桃源郷にいるように、心安らかに暮らしている」と話している。現在、大籠に伝わる人名地名などの口伝や伝承に鑑みると、全くの妄想話として切り捨てがたい内容であり、『裁増坊物語抄録』の記述が信頼できるかどうかは別として大きな影響を与えた。 現在大籠の遺跡、遺物として目の当たりにできるのは、大籠の仙人ともいうべき千早東山の故郷愛の記述に基づく作品が、村岡氏によって発掘されたことによる。4-2 石母田文書 その後、村岡氏は大槻文彦著の支倉常長の遣欧使節について書かれている「金城秘韞補遺」に掲載されていた「石母田文書」と出会う。栗原郡高清水町の石母田家に切支丹関係の文書があることを知り、石母田家の家老土田甲平氏を訪ねる。大長持67個に入っていた文書は火災に遭い、小長持に大小23、4束しか残っていなかった。同伴した研究室の大森、重森文学士と共に、二日にわたって調査した結果、キリシタン関係の文書が断片的なものも合わせて約46通見つかった。 石母田家は元和、寛永の頃、仙台藩江戸詰奉行で政宗の右腕と言われた石母田大膳亮宗頼の家である。膨大な文書を前に村岡氏を奮い立たせたのは、大籠で俗称「塔婆」と呼ばれる地域に1640年(寛永17)の殉教後62年後の1701年(元禄14)に建てられたと伝えられる供養塔「元禄の碑」だった。建立者の氏名が1712年(正徳2)大籠村宗門御改帖に記載されていたのである。地域に口伝えで伝わった石碑は単なる供養塔でなく、殉教者の墓石であった。遺跡と文書が一致したことで、口承の碑であっても、信ずべき検証者であることを知った。以上の資料を精査、実地踏査した村岡氏は仙台切支丹史をまとめようとしていると記している。4-3 製鉄とキリシタン 葛西氏滅亡後、旧家臣団は結束して、この地方の特産である砂鉄精錬に注目した。天文年中(1550年頃)まで奥羽地方に鐵の烔屋がなく、千葉土佐・佐藤但馬が備中に行って製鐵法を学んできたが結果がよくなく、1558年(永禄1)、布留大八郎・小八郎兄弟(千松地域に在住し後に姓を千松と改める)を呼び寄せて効率の良い鐵の製錬を行った。その結果、烔屋も増え、はじめは北上川河口(旧追波川)で製錬し、寛永年中(1624年頃から)に飛騨・勘座衛門・駒吉・越中の4人は狼河原に居住して製鐵を行っていた。 大籠では背の沢(千松沢)から烔屋が始まって八人衆と言われる指導者も生まれて次第に量産していく。鉄砲・武器・農具を生産し、問屋に卸していた。『藤沢町史』によると多くは生活必需品である鍬、鎌、鍋、釜、鉄瓶などを生産している。特に農機具は需要が多かったようだ。烔屋八人衆とは、千葉土佐、首藤伊豆、須藤相模、佐藤淡路、佐藤治、佐藤丹波、佐藤肥後、沼倉伊賀である。この中の多くは葛西氏の旧家臣で馬籠の佐藤家の血縁の者だった。千葉土佐を除いた7人はキリシタンとして成敗されている。 「安永風土記書出し」(仙台藩では1773年(安永2)江刺郡から始まった地誌)によると、大籠村の人頭数は114人、保呂波村は151人、藤沢村303人だったので、昭和26年2月の新聞見出し「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「使徒3万人」は信徒の実数ではない。 1612年(慶長17)、家康が初めてキリシタン禁教令を発し、1613年には江戸でキリシタン狩りが始まった。登録されていた3700人のうち1500人が小伝馬町に送られたが、殆どの者は転んだり、取り締りの緩い奥羽地方の金銀山・鉱山に逃亡した。多くがヤマに逃げ込んだのは、家康が金銀を獲得するため、幕府の直轄地として保護政策「御山五十三条之事」をとったことが要因でした。鉱山に入っている者についての取り調べは不問にするという治外法権が認められ、ある意味安住の地になったのが都合よかった。鉱山の生産様式は基本的に採鉱部門と製錬部門に分かれ、例えば採鉱部門は、鉱脈の探索、試掘、開坑、その後鉱石を採取して坑外に運搬するまでの作業があり、大規模な労働力が集まって一つの町が形成される。佐渡鉄山の最盛期には10万人近く集まっていた。このように多くの労働力を調達するため、外来者は条件なしに受け入れた。仙台藩のみでなく、当時の支配者にとって自国の財原となる鉱山経営のために、鉱山技術者の導入も必然だった。なかには、共同体から脱落した者、遁走した武士、水のみ百姓が雇用され、鉱夫たちの階級が自然に形成された。 キリシタン鉱夫は他と違い強い絆が必要だった。それまでも日本のキリシタンの組織として、「組」「結」と呼ばれる組織(コンフェリア)をもっており、フランシスコ会では「帯の組」、イエズス会の場合は「さんたまりやの御組」(マリヤ会)を結成して団結した。鉱山では、それぞれの立場で身の安全を保つ工夫をしていたのだ。 1917年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩の院内鉱山の人々は、他国から入っている者の割合が非常に多かったが、仙台大橋袂の広瀬川殉教碑の殉教者と出身をみても、全員がそれぞれ違う国の出身。また、姓の有無で分かるように武士や農民、身分に関わりなく幾筋にも分かれた坑道に隠れていた。カルワリオ神父が捕縛された颪江(おろせ)鉱山(その後渋民鉱山に改名、現在ダムの一部)は、仙台領と佐竹領の境界付近で、カルワリオ神父が秋田へ向かう布教ルートにある鉱山。この時60余人が生活を共にしていた。神父が懇意にしている居者が、柏峠付近にいたと思われる。 鉄鉱石に恵まれた旧大津保村のたたら製鉄の烔屋跡を流れる川は、いつも赤かったと言われていて、現在も赤く染まった川石があり、流れる水は茶色に染まっている。付近を流れる砂鉄川では川底を掬うといまだに砂鉄が採れる。この地域に他国のキリシタンや宣教師が入り込んでいても不思議ではない。 千松大八郎・小八郎兄弟が切支丹で、表向きは烔工として布教に努めたという説があるが定かではない。千松兄弟のキリシタンに関わる文書はない。炯屋八人衆の千葉土佐の子孫千葉哲夫氏の屋敷続きの畑の中にある墓群の一番奥に二代目千葉土佐の墓石がある。墓碑には「寛永一八年八月七日、栄寿院顕阿広俊道寛居士 八月七日 千葉土佐 九十七」とあり、側面に「父 狼河原村月山之住累徳曰 母 長坂太郎息女也」とあり、墓の裏面に由緒が刻字されてある。「当国御鐵方根元之始也永禄年中、大綱様御用鉄並東照宮権現公御城御用鉄指上候、当国御両御城御用鉄甚御重宝都而御国用不及申鍬打方上分ニ而菊一菊上天下一与銘目御免之上貞山公ヨリ奥州御鉄方長之家也与有御意末世御鉄繁昌之大祖也」と刻まれ、大籠で採れた鉄は、太閤様や東照宮の権現様に奉納し、最高の鉄製品であったと称賛している。初代千葉土佐は、葛西氏滅亡後、初め歌津村に逃げたが、その後東和町東上沢の月山に居住し製鉄に没頭した。この時41歳、二代目土佐は14歳だった。この後二代目土佐は大籠村に転住。千葉家の屋敷墓は、二代目千葉土佐の墓が一番奥にあり、その前方に千葉土佐の子孫の墓が雑然と置かれる。墓の頭部にキリシタンのマーク(一、1、卍、釣り針)があるので、何代かにわたりキリシタンであったことが推測される。二代目千葉土佐の墓石の上部には「一」とある。初代の千葉土佐も製鉄を行っていたが、南蛮流ではなかったようだ。 この地域の鉄で農機具がたくさん作られた。「藤沢町問屋及川勘助の取引」の記録によると、天明8年の8月から9月の生産者は保呂羽の3人で賄い、寛政元年には生産者が6人に増えて、岩屋堂や江刺、最上とも取引をしている。天明と寛政の鍬取引数は、4374枚にも及んだ。多くの工人が大籠に入り製鉄を行ったことを物語る。保呂羽の領主の屋敷墓は、後ろに山を背負った一段高い奥に代々の領主の大きな墓石があり、40センチほど下の段に、取り囲むように小さい墓石がある。この屋敷のご当主によると、先祖がいくつか炯屋を持っており、小さい墓石はそこの工人たちの墓だと考えているということであった。この墓の中にもやはりキリシタンのマークがある。大籠地域の屋敷墓には、墓石の法名の上部にキリシタンのマーク、「卍」「一」「心」を多く見かける。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.10
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大学生のころ、台湾は英語では Formosa と通称するが、もちろん Taiwan や Taiwanese(台湾人)も通用すると学んだ記憶がある。しかし、その後今に至るまで何十年、Formosa の語はしばらく見聞きしなかった。ところが、である。いま、台湾のプロバスケットボールチームが来県して、仙台や南三陸で現地訪問や子どもたちとの交流を図っている。きのう(9月5日)夜には、仙台89ersと国際親善試合をしたというのだ。そして、そのチームの名が Fomosa Dreamers で、現地表記が「福爾摩沙夢想家」だ。Fomosa とは美しいという意味で、チームのカラーは緑。ファンたちは、腕時計や靴下まで緑でそろえるのだという。宮城県も県の色は緑だ(最近はズンダ色とも)。これからも交流を深めていきたい。
2024.09.06
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■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)〔前回から続く〕3-2 馬籠地域とキリシタン 調査隊〔当ジャーナル注、村岡典嗣氏の探索と論文(昭和3年)をもとに行われた昭和26年の只野淳氏ほかの探索隊を指すと思われるが、著者の高橋氏たちの最近の探訪かも知れない。〕が最初に入った地域が馬籠である。市明院という寺に切支丹の記述がある文書を見つける。これは、田束山の縁起について書かれた文書の中にあったものである。(田束山については前回記事に記した。)3-3 大柴佐藤家・大東佐藤家 先祖は義経の忠臣の佐藤忠信である。忠信の兄嗣信は屋島の戦いで戦死しており、兄弟の忠死を憐れんで母尼公は、父秀衡から化粧地として賜ったといわれる先祖ゆかりの地、馬籠に「信夫館」を建立し居住した。大柴、大東の佐藤はもともと兄弟である。本家分家の関係ではないが、大柴佐藤家子孫の山内繁氏(気仙沼在住)談では、大柴佐藤家が肝煎りだったので分家が大東のように記載されいてる書物があるが、それは現在の視点の解釈と思うと話している。 1772年(安永9)4月の風土記に、馬籠村肝煎り佐藤善作が「代数有之御百姓書出」として提出した文書があり、そこには「佐藤淡路の子小六郎・小六郎の子寅蔵・寅蔵の子太郎兵衛・太郎兵衛の子善作古切支丹肝煎り」と記載している。事実、1672年(寛文13)8月29日付の「本吉郡馬籠古幾里志丹近親類書付帳」に馬籠村肝煎り寿慶の名で記載されている。 寿慶は転宗を思わせる名だが、僧侶風の名にすることで過去にキリシタンだったことを世間の目からそらす目的であったのか、実際に転宗したのか不明。寿慶の父として十郎左衛門信治佐渡の名も記載されいている。佐藤十郎左衛門信治佐渡は、支倉常長と共にサン・ファン・バウティスタ号に乗ったと言われるが、遣欧使節の委細が書かれた『金城必韞』(大槻磐水、1912年)には、乗船者の中に記載がない。 大柴佐藤の子孫の山内繁氏の母山内むつ氏の著書『年輪』(1973年)に、「ローマから持ってきた宝物の話」として、山間地の馬籠に先祖が700年も住んでいたこと、ローマから持ってきた3つの宝物(金の十字架、香炉、インク壺)が長く伝えられたこと、分家の大東家には入口の分らない屋根裏に隠れキリシタンの部屋が最近まであったこと、が書かれている。 現在米川教会の台座の裏に「佐十」と墨で書いていある木造のキリスト像は、佐藤十郎座衛門のことと思われる。インク壺は大東佐藤の子孫の奥様佐藤かぢ子さんの管轄にあるとのこと。 大東佐藤家は兄の大柴佐藤家から東の方向にあることからそう呼ばれるようになった。肝煎りの大柴は役人の出入りも多く、キリシタンを隠せないので大東に隠したと思われる(山内繁氏談)。隠れ部屋にはフランシスコ・バラヤス神父が隠れていたと考えられる。佐渡の古い墓には頭部に卍のキリシタンマークが付いているが、今は倒れて草むらに覆われている。〔おだずま注、上掲書p170に大東佐藤家の図があり、仏壇の奥に隠れ座敷がある。〕3-4 馬籠小山家 大変古い家で、午王野沢という田束山に登る山道に面した山深いところにある。南蛮鍛冶屋のこの家のお嫁さんの話では、夜口笛を吹くのは幕府の役人の合図だ、日が暮れたら家の灯が外に漏れないように、との言い伝えがあったという。小山家には梵字を模った不動明王の掛図があり、Jesusの「J」が組み込まれている。3-5 三浦家文書 『本吉町小史』によると1632年(寛永9)、馬籠のキリシタンが一斉に捕縛された。村には女性子供しか残らず農業が成り立たないので、領主の三浦下総、佐藤和泉、吉祥寺の住職が、転宗を進めに城下仙台牢を訪ね、許されて帰村した史実が記されている。3-6 ポーポー様の伝承 本吉町林の沢という山奥に、ポーポー様と呼ばれる墓石がある。20年前見に行った時は、頭が欠けて三角の墓石のようだった。現在は墓は倒れて見えない。日付は消えかかっているが、町史によると寛永8年1月24日。『本吉町史』によると地域に伝わる伝承として、昔、林の沢にポーポー様が住んでいた。よそ者である吹雪の晩に太田山から下りてきて某宅に一夜の宿を求めた。村人は天狗にでもさらわれたかと温かく迎えた。ポーポー様はこの地方の言葉がわからないが、病人があると魔法のようにポーポーと息をかけて治してくれた。ポーポー様はこの地で一生を終えた。村人墓を建て病の時は墓にお願いをした。近在では、子どもたちがいまでもポーポーと息をかけてさすってやる習慣がある。ポーポー様は修行者なのか、キリシタン宣教師の落ちのびた姿ではないかともいわれる。墓に釣り針マークがあること、宣教師は他の地方でも十字らしきものを切りマメチョマメチョと言ってまじないをした様相に似ているからということだ。 寛永8年(1631)以前に馬籠付近に滞在の可能性のある宣教師は次のとおり。・ジョアン・ポルロ神父・フランシスコ・バヤラス神父(孫右衛門)・ルイス・カブレラ・ソテロ・ゼロニモ・アンゼリウス・カルワリヨ神父(長崎五郎右衛門) 仙台藩がキリシタンを厳しく取り締まるようになったのは、支倉ら遣欧使節の帰国後で、上記の中で確かに潜入していたのはバラヤス神父と推察される。たしかに、馬籠の逗留したと思われる屋敷や馬籠に通じる道筋の隠れ家と言われる家には、マリア観音に模した仏像や背中に十字の入る像が見つかっている。また、キリシタンの関わりを想起させる、葦原刑場、弥惣峠などの地名も残る。 取り壊されたが、大東佐藤家は地域でバテレン屋敷と呼ばれていた。15年ほど前、子孫の奥様で教師の方に話を聞いたら、中二階の隠れ部屋は小さな集会堂だったということから、バラヤス神父が同宿の半三郎とともに大東佐藤家に逗留して布教したのは確実でないかと思う。 馬籠小山家にも同じような隠れ部屋があった。〔当ジャーナル注。明治8年、津谷、馬籠、山田の3村が統合して御嶽村、そのまま明治22年町村制で御嶽村となり、単独で昭和16年津谷町になる。参考記事として、津谷小学校山田分校廃止裁判(2012年3月1日)〕■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.09.03
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今日(9月2日)は暑かった。歩いて用務先に行くつもりが汗が噴き出そうなのでバスに切り替え。しかしバス停で待っている間に、まだ朝の7時台だが蒸し暑かった。今年、宮城県には初めて熱中症警戒アラートが出た。仙台で35℃と早朝のニュースが報じていたが、アメダスによると、仙台の最高気温は12:18で32.8℃である。現在17:00時点では、気温は27.8℃、湿度は75%で、時折雨が降る。気温じたいは極端に高くはないが、最近やっと猛暑も和らいだかとの期待に反して9月に入ってもこれか、という憤懣?か。丸森町では現時点で今日の最高気温が、34.7℃(11:52)とのこと。
2024.09.02
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下記文献の記載から、東北のキリシタン聖地とされる地域について記事にさせていただく。歴史を学ぶことの重要さをかみしめながら、今を生きる地域の姿を考えたい(構成と一部見出しは当ジャーナル)。高橋陽子氏は、下掲書巻末の執筆者紹介によると、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員、専門は国語国文学。あとがき(加藤美紀による。同氏は、2023年度まで仙台白百合女子大学カトリック研究所長、2024年度から仙台白百合女子大学学長)によると、東北キリシタン研究会は高橋陽子氏と川上直哉氏(日本基督教団石巻栄光教会牧師、仙台白百合女子大学カトリック研究所客員所員)を中心に2016年立ち上げられた。また、髙橋氏は東北キリシタンを祖先に持つと思われる歴史愛好家として紹介されている。■高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収■同書に基づく記事シリーズ・今回 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)1 意気込みをもって探査された驚愕の史実 かつて『宮城県民新聞』が、昭和22年1月1日の第一号から昭和28年まで続き、同年12月から「県政だより」と名称を変更した現在に至る。創刊号には、「県政の基本を確立」の見出しがあり、戦後の立て直しに向かう姿勢が示される。 県史編纂のために宮城県史編纂室という部署を設けて昭和25年10月21日に、執筆分担が決定した記事が掲載されている。昭和26年1月には、年頭の顔合わせが開かれ、「調査に精進して」「光彩ある縣史を作りたい」という見出しで、集まった歴史・文化担当10人の意気込みが感じられる。 歴史担当者は各地域を分担して伝承や文書に関わる家や人を訪ね、次第に隠れキリシタンの存在が明らかになっていく。担当の中心だった只野淳氏の探査の結果が、昭和26年2月11日の地方紙・全国紙に「東北にキリシタン聖地」「長崎を凌いだ仙台藩の切支丹」「貴重なキリスト布教の発見」の見出しが語るように驚愕の史実として報道された。 聖地とされた大津保村は、1955年まで東磐井郡にあった村(一関市藤沢町大籠、室根村津谷川、藤沢町保呂羽にあたる)。藤原氏の時代から有力な金の産地で、大籠の地名は、秀衡が大きな籠に乗って当地に来たことにちなむとも伝えられる。現在も100を超える金山跡がある。古くは本吉郡に属した荘園だった。2 探査の基礎資料 遺跡探査の基礎資料は、村岡典嗣(つねつぐ、東北大学教授)の論文「仙臺以北に於ける吉利支丹遺跡-傳説と史實」(1928年)。村岡は元岩手県立博物館長菅野義之助氏から大津保村に切支丹の伝承・遺跡が多くあることを聞いて、探訪に出かけた。本吉郡狼河原から始まり、大籠、馬籠を訪問。出会った千早東山によって大籠の切支丹の十分な知識を得たと述べている。中でも「栽増坊物語抄録」(当地の歴史と伝説)には、切支丹について次のように記される。 千松大八郎、小八郎兄弟がこの地に来て、この地の旧家と共に製鉄に従事し仙台領の製鉄の根元となった。兄弟は切支丹で布教に努めたので信者が三万人にも増えた。その後、藩の禁教が厳しくなり刑死してしまった。 村岡は、この伝説が村社である神明神社の縁起「大籠明神由来記」とも重なる部分があり、大八郎が迫害を避けられず、デウス仏を埋めた場所に石の山神を置いて祀った話や、千松神社、大善神、千松屋敷跡、大八郎墓、首塚など物語に登場する遺跡を歩いて確認した。 その後、栗原郡高清水町に仙台藩重臣石母田大膳亮宗頼の家老土田甲平宅を訪ね、『石母田文書』に出会う。切支丹関係の文書が46通みつかり、伝承・遺跡と文書が一致した。3 馬籠地域とキリシタン 馬籠は調査隊が最初に入った地域。藤沢町保呂羽と隣合せの地域である。調査隊は市明院という寺で、田束山の縁起について書かれた文書の中に切支丹の記述をみつけた。〔おだずま注。この調査隊とは昭和26年の只野淳氏ほかの探査のことと思われるが、直近の髙橋氏ほかのチームのことかも知れない。〕3-1 田束山と満海上人 田束山は金が豊富な平泉藤原氏管轄の霊山だった。当時、七堂伽藍70余坊を有する山で多くの僧がいた。龍峯山(たつかねさん)とも表記し、竜神信仰(水の神)として本吉地方の信仰の山でもあった。 『志津川町史』では、834-847年(承和年中)に開創された。秀衡が観音堂を建て、山上には羽黒山清水寺(せいすいじ)、中腹には田束山寂光寺、北峰を幌羽山金峰寺と要所に大伽藍を築いた。清衡の四男本吉四郎高衡がこの山を掌ったとも伝えられる。奥州藤原氏が出羽三山信仰を強化して独自の勢力圏を図ろうとした様相が浮かぶ。弁慶の長刀一振りが寄進されたとも伝えられる。 藤原氏滅亡後、知行地を引き継いだ葛西清重もまた坊僧四十餘宇を建て、家臣の千葉刑部に寺社を掌らしめたと言われるが、葛西氏滅亡後荒廃した。 昭和46年発掘調査で経塚群が発見され、山上の経筒から約800年以前のものと推定され、平安後期には信仰の霊場であったことが確実に。1632年(寛永9)、田束山に僧坊が立ち並び仏教のメッカになっていたところに、寺が邪宗門改めを容赦なく行ったことで、キリシタンの仏閣への反感が爆発して寺院を焼き払った。田束山の大上坊にある大学院その他の房や入谷八幡社もその時焼き打ちにあったと伝えられる。 田束山から尾根続きに南西1キロほどの峰を満海山と呼び、山頂の塚が満海上人の入定の地と伝えられて「満海上人壇」という解説板が建てられている。 伝承では、満海上人は天正年間気仙沼松崎に生まれ、弥勒菩薩に深く帰依し、自ら即身仏になったと伝えられる。また別に、馬籠地区にキリシタンが増えて田束山の四八坊の僧侶は切支丹宗門に転じてしまい、天台宗の満海上人は転宗した僧との法問に敗れ、食を絶って入滅したとの伝承もある。さらに、田束山を預かっていた満海上人が修行から山に戻るとキリシタンの暴挙で霊山は壊滅状態になり、自分の力不足を悲観してせめてキリシタンの非道を後世に知らしめる意をもって入定した、など諸説ある。 しかし上人の没年が『気仙沼町史』では1567年(永禄10)になっており、キリシタン一揆は1632年(寛永9)である。没年と一揆の年号が『歌津町史』と『気仙沼市史』〔おだずま注、ママ〕では違う伝承で疑問が残るが、キリシタンが力を見せつけようとした伝承として残されている(「田束山中興満海上人伝、清水浜細浦、市明院誌」)。 田束山の登り口は、(1)樋ノ口地区から。行者の道と言われ、蜘蛛滝、穴滝など修行場。滝の裏に洞窟。登り口の観音堂には慈覚大師作といわれる不動明王。(2)払川ルート(3)小泉ルートの3つがあり、払川ルートは馬籠に通じる。このルートの登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう。 田束山清水寺(せいすいじ)からキリシタン蜂起の際に下げてきたと伝えられる細浦の正音寺に四分五寸の金佛坐像(天竺国の佛工作と言われる)があったが東日本大震災の津波で流失した。 東北キリシタン研究会〔おだずま注、著者の高橋氏が所属しておられる〕が満海上人壇を訪れた。案内板の反対側の小山が壇で、側には送電塔。入滅の後一度も掘り起こしていない当時のままだそうだ。案内板には上人と共に経典なども埋められているとある。 (おだずま注、南三陸町観光協会のパンフレットから)以下は当ジャーナルのコメント。高橋氏の御著作では、田束山の登山ルートのうち、払川ルートは馬籠、平泉に通じるとある。あるサイトでは、登山ルートは、樋の口ルート(行者の滝)、払川・上沢ルート、小泉(気仙沼市本吉町)の3つがあり、徒歩で古来の修行の場や自然を堪能するなら樋の口ルートを、手軽に自動車なら後2者のルート、と案内される。払川ルートは、山頂から南下し満海山を経由して、払川ダムの上流の県道206号(地図アプリでは歌津字払川の地域)に通じるものを指すのだろう。入谷地区から田束山をめざす道が払川を経由していく。払川はかつて街道の交差する宿場として栄えたという。(払川 in 南三陸観光ポータルサイト)(なお、みちのく潮風トレイルは、入谷から払川を経由するルート。)なお、私の場合は、国道45号から歌津IC辺りで県道236号に入り、払川ダムの付近から右折して山に登る道を車で登った。地図アプリでは、この県道236号付近に歌津字上沢(かみさわ)の地域名が見える。「払川・上沢ルート」と称するのは、車で行ける登山道ができる前は、沿岸部から県道236号を通って払川集落までいって上ったからなのか。話を高橋氏著作に戻すが、同書掲載の地図(p167)では、「払川」が田束山の北に記されている。西に牛王野沢(ごおうのさわ)、北に馬籠、と記される。これだと確かに、「払川ルートは馬籠に通じる」、「払川登り口から国道346号を横切って北上すると、平泉に向かう」との記述(p169)とすんなりマッチする。しかし、払川集落からは、県道206号を北上してつづら折りを越えて馬籠(西郡街道、国道346号)に至るものの、かなり迂遠である。南山麓の払川集落とはべつに山の北側に「払川ルート」があったとは考えられないので、地図で山の北にプロットされた「払川」は、キリシタンの馬籠とその影響を受けた田束山僧坊の関係を重視するあまり、著者が誤解されたのではないかと推察する。■関連する過去の記事(田束山) 田束山(2023年05月30日)■関連する過去の記事(登米市関係) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.31
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以前から気になっていたこと。栗原市内に栗原(くりばら)という地区名がある(正しくは栗原市栗駒栗原で、この後に(字表記を挟まず)小字名が続く。「栗駒栗原」が大字名)。旧栗駒町尾松地区の一部で、栗原(くりばら)簡易郵便局の名にもなっている(もっとも同郵便局の所在地は栗駒菱沼)。この地区名の経緯、また、改めて現在の市名である栗原の名の由来について、栗原郡教育會編『栗原郡誌』(大正7年初版、平成10年復刻、伊藤真正社発行)をみてみた。1 栗原の名の由来 栗原郡の「栗原」の由来については以下のように書かれている(上巻p8、なお当ジャーナルで旧字体を改めた部分有り)。------------二.栗原郡名の由来古への栗原郡は伊治城地の一部にして和名抄の所謂栗原四郷の地なりしを中世葛岡郡の一部、長岡郡の西一半及び新田郡の全部を合併し、更に近年は新田郡に属する佐沼南北の地を割きて之れを登米郡に又た鬼首村を割きて玉造郡に編入し以て今日に至れるものとす伊治及び栗原の名の始めて史に現はれたるは称徳天皇の神護景雲元年にして続日本紀に 神護景雲元年十月辛卯勅見陸奥所奏即伊治城作了自始至畢不満三旬朕甚嘉馬宜加酬賞式慰匪窮云々 同年十一月乙巳置陸奥國栗原郡本是伊治城也云々とあり、即はち栗原郡は伊治城作了後同城下の地に新たに建置せられたるものに係れり、而して伊治城は現今の富野村城生野に置かれ、同城下の地たる伊治村は古人の新田郡即はち現今の登米郡の西境より北は現今の若柳、西は富野村に達する間、迫川を以つて圍まれたる一帯の平野なりしが如く、(和名抄、郡郷の部に、栗原、清水、仲村、會津の四郷あり、會津はエヅにしてイジの転化せるもの、即はち古への伊治村乃至伊治郷なり)栗原郡は今の尾松村字栗原四辺の地にして後には今の栗原郡南部旧十九邑の地を栗原の荘と称し遂に現今の郡名として伝へられるるに至れり栗原の地名の起原に就きては伊治をコレハルと訓じたるより起れりとなすものと或は夷語より来れるもの等種々の異説あつて定かならず栗原郡旧地考云○ 今も栗原村とて二迫の内にあり 栗原寺の跡もかずかず残りて本堂屋敷、西の坊屋敷などその他彼是と屋敷名は残れり、これぞ古の栗原の里の本居にて四方八面皆此村なりけんを田所も開け戸口も多くなりて姉歯の里などや先づ出来そめけん云々○ 栗原郡と名つけられたるは必ず近きあたりに栗原といふ名たたる所有るに因りて栗原をもて名付けられつらん、元は今の栗原村をさすにやあらん、姉歯の松、栗原寺など今に絶えせぬ名高き所あればなり云々復軒雑纂云○ 留守文書元弘四年二月晦日のもとに陸奥二迫の栗原郷内外栗原並片子澤内云々など見えて当時尚ほ栗原郷の名を存せり云々○ 白河藩の廣瀬蒙齋が陸奥五十四郡考補遺には伊治は訓読「これはる」にて栗原と声近しといへり若しくは伊治城管下の地を郡に建てらるる時、伊治の音読なるに新たに訓を施し声の近きを以て栗原の字に作り新に郡に命名せられしものか云々------------下巻p261では(各地域の地誌の部分)、尾松村の経緯について次のように書かれている。------------明治八年町村分合の際、上下稻屋敷を統一して稻屋敷村及び八幡、櫻田の二村を合して八幡村、菱沼、栗原を合して栗原村と称し、同九年宮城県の管轄に移り、同二十二年市町村制移行に際し、栗原、八幡、稻屋敷の三村を合して旧荘名を襲ぎ、尾松村と称するに至れり------------この後に、安永七年七月書上風土記における各村(稲屋敷、櫻田、八幡、栗原)の記載が紹介されている。いずれも、尾松荘(表記は、尾松荘、尾野松庄、小野松庄、などと異なるが)に属しているとされている。2 行政上の村の推移藩政時代は栗原郡は(本)栗原、一迫、二迫、三迫、佐沼の5区に分割し、このうち二迫には14か村。すなわち、姉歯、泉沢、稲屋敷、鶯沢、片子沢、栗原、桜田、城生野、梨崎、菱沼、文字、八幡、渡丸、富の各村である。 明治8年の統合では次のとおり。 ・富野村 ←富村+城生野村 ・八幡村 ←(合併)桜田村 ・栗原村 ←(合併)菱沼村 ・姉歯村 ←(合併)梨崎村明治22年町村制施行で栗原郡は22町村、かつての二迫地域を中心に記すと次の通り。 ・富野村(単独) ・尾松村 ←稲屋敷村+栗原村+八幡村 ・姫松村 ←王沢村+片子沢村+宝来村 ・沢辺村 ←沢辺村+姉歯村+大堤村小堤昭和の合併により以下となる。 ・築館町(昭和29年) ←築館町+玉沢村+富野村+宮沢村 ・金成町(昭和30年) ←金成村+沢辺村+津久毛村+萩野村 ・栗駒町(同上) ←岩ヶ崎町+栗駒村+尾松村+鳥矢崎村+文字村+姫松村(片子沢、宝来) ・一迫町(同上) ←一迫町+金田村+長崎村+姫松村(王沢)そして、平成17年に栗原市。現在の住所表記については下記記事を参照。■関連する過去の記事(市町村合併後の大字小字の表記) さらば富谷町...そして「字」も(2016年10月9日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)3 (参考)大崎における「大崎」の場合 大崎市古川に大崎の地名があるが、名生館と大崎氏の歴史を踏まえて明治に大崎の村名を採用し、変遷を経て(東大崎村、西大崎村など)、いまでは合併新市も名称も同じで大変に複雑な構造になった。 大崎市古川大崎は、次のような経緯をもつ地域である。・明治8年 大崎村←名生村+伏見村・明治22年 大崎村←大崎村+新田村+清水村+下野目村+南沢村・明治29年 (分村)→東大崎村(大字大崎・新田・清水)、西大崎村(大字下野目・南沢)・昭和25年 古川市大崎・平成18年 大崎市古川大崎(↓画像 「大崎市古川大崎」の区域。なお、隣接して「古川清水」「古川新田(にいだ)」の区域がある。)(過去記事 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) を参照下さい。)■関連する過去の記事(栗原の名の由来、古代の蝦夷の歴史など) 照明寺と伊治城跡(栗原市)(2024年08月25日) アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)■関連する過去の記事(荒瀬橋) 国道4号荒瀬橋の事故(09年1月14日)■関連する過去の記事(大崎市内の大崎地区について) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日) 亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 中世宮城の名族たち(その2)(2016年12月26日) 中世宮城の名族たち(その1)(2016年12月23日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 「西古川」小学校と「古川西」中学校(2013年1月27日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日)(宮城の古代・中世の「館」) 葛西氏と大崎氏(10年9月22日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 丹取郡の成立と大崎平野への移民(10年3月16日)
2024.08.27
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暑さ厳しい夏の日だったが、栗原市築館の照明寺と伊治城跡を訪れた。まずは、照明(しょうみょう)寺。道路沿いに白い説明板。------------伊治城跡と出土品 伊治城は、古代律令国家が、陸奥国の経営のために設置した城柵の一つである。『続日本紀』により、設置年が神護景雲元年(767)で あることが明らかな数少ない城柵の一つで、その所在地については、江戸時代の中頃から近年に至るまで多くの論考が行われ、その中で築館城生野地区が有力な擬定地であった。 昭和52年から54年まで宮城県多賀城跡調査研究所が、昭和62年からは築館町教育委員会(現 栗原市教育委員会)が、発掘調査を行った。これらの調査の成果により、築館城生野地区が伊治城跡であることが確定され、平成15年8月に政庁と内郭の区域が国指定史跡に指定された。 伊治城跡は、外郭・内郭・政庁の区域を土塁と大溝、築地塀で区画する三重構造であり、外郭は東西700メートル、南北900メートルで不正五角形を呈している。外郭は主に竪穴建物跡が検出される。 内郭は外郭の南東寄りにあり、築地塀で区画される。東西185メートル、南北245メートルで長方形を呈している。掘立柱建物が整然と配され、実務官衙域を構成している。 政庁は内郭の中央部にあり、築地塀で区画される。東西61メー トル、南北61メートルで方形を呈している。内部は北寄りに位置する正殿を中心に西脇殿や前殿、後殿が配され、三時期の変遷が確認されている。二時期目の建物は焼失しており、宝亀11年(780)に起きた、「伊治公呰麻呂の乱」によるものと推定されている。 照明寺の住職であった松森明心師が、大正時代から収集した瓦や土器、石器などの遺物は、「松森コレクション」として研究者により紹介され、伊治城跡が築館城生野地区にあったことがほぼ定説となった。 これらの遺物は、「伊治城跡出土遺物」として、築館町有形文化財 (現栗原市有形文化財)に指定され、栗原市築館出土文化財管理セン ターで保管されている。 また、外郭南東部の竪穴建物跡からは、発射台と発射装置を持った弓の一種である『弩』の発射装置である「機」が出土した。我が国で初めての発見であり、律令軍制や古代兵器の実態を解明する上で大変貴重であることから、宮城県有形文化財に指定された。 令和六年六月 栗原市教育委員会------------次は、伊治城跡だ。国道4号からちょっとだけ入った場所。------------伊治城跡 奈良時代後半の宮城県北部は、中央政府が積極的に進めていた征夷政策(蝦夷を治める政策)に対し蝦夷の抵抗が高まり非常に不安定な地域であった。伊治城は、このような情勢の中で、栗原郡を中心とした宮城県北部における征夷政策の拠点にするため神護景雲元年(767)に設置されたものである。続日本紀や日本後紀には、延暦15年(796)までの伊治城に係わる記事が見られ、なかでも「伊治公呰麻呂の乱」は当時の政府を震憾させる事件として著名である。これは、この地域の大領であった伊治公呰麻呂が宝亀11年(780)に按察使紀広純と牡鹿郡の大領道嶋大楯を伊治城で殺害し、さらに多賀城を攻撃し放火するというもので、このことはそれ以後の律令政府と蝦夷の長期にわたる戦争の発端となった。 伊治城跡の発掘調査は昭和52年度から断続的に行われ、城生野大堀の台地北端では外郭北辺の区画施設である大溝と土塁が、唐崎・地蔵堂地区では伊治城の中枢である「政庁」や官衙ブロック(役所の実務を行なう場所)が検出されている。政庁は、東西約55m、南北約60mの広がりをもち、築地塀に囲まれた内部には、正殿・脇殿・後殿・前殿・南門などの建物が配されている。また、調査では呰麻呂の乱によると考えられる火災の跡も確認されている。 栗原市教育委員会------------なお、最後の「栗原市」はシール貼付なので、この説明看板は築館町時代(平成17年まで)の設置なのだろう。■関連する過去の記事 アテルイの里、田んぼアートの大谷翔平(奥州市)(2024年08月18日) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)
2024.08.25
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何度も通っていたはずの平田橋を、足を止めてじっくり眺めたのは初めてのこと。松原街道が梅田川を渡るところが、平田橋。平田五郎が狐に出会ったのは、神谷川ともいわれるが、或いはこの辺りだったか...こんな標識が欄干に取り付けられている。道知るべ石から平田橋を渡る手前(原町三丁目側)にあった。松原町内会の名前がイキですね。橋を渡ってすぐにあった看板。三丁目も五丁目も、単位町内会は同じ原町松原町なのだろうか。■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・今回 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.24
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■今回探訪のシリーズ記事・平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・今回 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)コンビニの壁面の案内図を拡大してみました。■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2024.08.23
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いつか訪れたいと思っていましたが、念願かない、過日行ってみました。小学校のすぐ脇、昔は小高い場所で背後は清水沼が広がっていたのか、などど想像しながら拝観しました。延慶の碑から平田五郎の伝承をたどってきたのですが、平田氏とともに志田郡堤根から遷宮した神社ということもわかりました。この記事の最後に説明の内容(テキスト)を掲げています。■今回探訪のシリーズ記事・今回 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) ・原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日)・平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)------------平田神社御由来当神社は今より四百年前、後陽成天皇の御代、 即ち慶長八年十月十四日に、藩祖伊達政宗公居城を岩出山より仙台に移すに当たり、仙台藩士平田五郎政高氏共に随い来たり、平田氏の先住地なる志田郡堤根村(現在の古川市堤根) より当時の苦竹村の現在地に遷宮せりとある。御祭神は豊受姫神にして五穀を御授け下されし神、即ち伊勢外宮に祭祀する豊受大神の御分霊にて五穀豊穣の守護神なり。 村民は信仰厚く、正保年間の頃より苦竹村の産土神として崇敬又厚く、遷宮者平田氏の姓を とり平田明神と稱されしも、明治四年国家の崇祀として公認され平田神社と改稱、現在に至る。 又、伝えらるる所によれば、平田五郎政高氏は神霊の御加護の下、不思議の神力を得て度々の合戦に抜群の功あり、勇名天下に轟いたという。 伊達政宗公当苦竹村通過の折は、必ず下馬の上参拝せしと記録されている。境内に秋葉山神社あり、御祭神は火産霊神に して、石碑に明治十一年寅年七月吉日刻とあり。平田神社祭儀 例大祭 四月第三日曜日 種籾祈願祭 二月二三日 新穀感謝祭 十一月二十三日神社境内総坪数 弐百五拾四坪拾弐合石碑 古峯神社・明治二十二年三月十三日 湯殿山・天保四年 慈眼山元亮撰書 原町中建立 蔵王山・弘化四丁末年四月八日 觀世音・嘉永二年三月八日 山神・嘉永三年三月十二日平成十五年一月吉日 平田神社総代会 遷宮四百年記念謹書------------
2024.08.22
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かなり前に、学校給食と「いただきます」の関係について論じたことがある。■関連する過去の記事 「いただきます」について(その2)(合掌と教育)(05年11月24日) 「いただきます」について(05年11月24日)ところで、どうして「いただきます」と言うのか。下記文献にはこう書いていた。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(樽井由紀執筆部分。なお文中の=フリガナはおだずま付記)------------ものを受け取る場面や食事をはじめる際、わたしたちは「いただきます」と言う。この言葉は、頭部(人体の頂=いただき)より上で行われる動作と関わりがある。神聖な存在や目上の人から物を受け取る際、頭を垂れ、両手を差し出す姿が「おしいただく」である。------------奈良県では大晦日の夕方に、餅を頭上に「いただく」しぐさをしながら松明を回すフクマルコッコ(福丸よ来い)の行事がある。また、香川県高松市や徳島県由岐(現美波町)では、鮮魚を頭上で運搬する女性の行商人を「いただきさん」と呼ぶという。頭上運搬の多くは海村で見られ、物を頭に載せた行商人を、瀬戸内海では広くカベリ、徳島でイタダキ、伊予の松前でオタタと呼ぶ。山村では、京都の大原女が有名。同書に掲載された全国マップ(頭上運搬の分布)では、、東北で唯一、石巻市内(渡波あたりか)にドットが表示されている(なお新潟県で2か所。新潟市と上越市あたり)。出所は『民俗学辞典』東京堂出版、1951年、とある。そこで、先日になってやっと某公共施設でこの書籍の現物にあたってみることができた。■柳田國男監修 民俗學辭典 財團法人民俗學研究所編 東京堂出版(なお、奥付には、「民俗学辞典 民俗学研究所編 東京堂出版」とある。昭和26年初版、昭和50年四八版、と表記されている。書籍はどなたかの寄附のようだった)すると、冒頭の写真集の中の1つのページに「第九図 頭上運搬」として、3枚の写真がある。沖縄本島糸満、奄美大島住用村、伊豆式根島だ。また、とじ込み式(袖折り)の地図に「頭上運搬の分布」として全国35カ所が示されている。東北では1 宮城縣牡鹿郡江島だけである。朱色のドットはちゃんと海中(小さな離島なので)に示されている。私が最近読んだ上掲書の方は、ドットが誤りだ。なお、新潟の2か所は次の通り説明されている。4 新潟縣三島郡出雲崎町5 新潟縣直江津市関係する記事(p29、p66、p305)を読んでみたが、今日伝承されているところの大部分は海村で女性がおこなうもの、などと説明されている。上掲書のとおりだ。■関連する過去の記事(江島) 足島の海鳥に危機(2017年1月9日) 江島列島 足島と笠貝島(2016年6月14日) 離島と水道(2016年3月17日) 善知鳥と女川江島(2015年3月13日) 宮城の離島を考える(10年5月13日) マリンパル女川(10年5月6日)■関連する過去の記事(新潟県出雲崎町) 東の妻入りと西の平入り(2022年5月14日)(新潟県出雲崎町)
2024.08.21
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東京駅丸の内南口そば、KITTEの2階3階に、インターメディアテク(東京大学総合研究博物館)があり、1922年アインシュタインが来日した際に乗ったと伝えられるエレベーターが展示されている。以前訪れたときは、同じ場所で存在感を放って展示されていたはずが、今回いってみるとフロアの周囲は企画展示(海の人類史)に占拠され、その片隅に佇んでいるようだった。説明書きには仙台の記載はない。■関連する過去の記事(アインシュタインと仙台・松島) 寺田知事の松島公園化(2016年1月23日) 扶桑第一の好風 松島を考える(10年2月21日) 松島の世界遺産断念を考える(10年2月18日) アインシュタインと仙台(その7)(07年5月27日) アインシュタインと仙台(その6)(06年8月31日) アインシュタインと仙台(その5)(06年1月15日) アインシュタインと仙台(その4)(06年1月4日) アインシュタインと仙台(その3)(05年12月18日) アインシュタインと仙台(その2)(05年12月17日) アインシュタインと仙台(05年12月14日)
2024.08.20
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奥州市の田んぼアートの大谷翔平を見てきました。物見やぐら(巣伏の戦い跡)に登って眺めます。やぐらの中には、新聞記事の紹介など。ニュースで気になっていた「ホ」の解説も。跡呂井田んぼアート実行委員会の方々の努力に頭が下がります。やぐらの足もとから水沢市街地方向を眺めます。やぐらに登る階段の手前に碑文。次のように書かれています(振り仮名を適宜カッコ表示。また、漢数字をアラビア数字に変更)。------------蝦夷(えみし)の群像「胆沢」は、『続日本紀』宝亀7(776)年「陸奥軍3千人を発し、胆沢の賊を伐(う)つ」と初めて登場する。その後、延暦21(802)年に胆沢城がつくられる平安時代初期にかけ古代東北史の歴史舞台となった。 この胆沢の歴史は、国家支配の拡大という歴史の流れにのみこまれていく蝦夷社会をうつしだす歴史でもあった。 宮城県栗原の蝦夷出身の郡司・伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)の乱(宝亀11年)で伊治城(これはるじょう)と陸奥国府多賀城が焼き落され、9年後の延暦8年には、紀古佐美(きのこさみ)の率いる朝廷軍をアテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)が「日上(ひかみ)の湊(みなと)」に敗る「巣伏(すぶせ)の戦い」がおこっている。 そして、延暦13年と20年の2度にわたる坂上田村麻呂とアテルイの「胆沢の戦い」の後、胆沢地方は古代国家の支配に組込まれた。 この延暦21年、アテルイをはじめ多くのエミシたちは、胆沢の肥沃な大地で平穏に暮らせることを願い坂上田村麻呂に降伏するが、アテルイとモレは、河内国椙山(すぎやま)(大阪市枚方市)で処刑された。 胆沢の未来を願ったアテルイとモレ。彼ら「蝦夷の群像」を千年の歴史のなかで見つめ続けてきた北上川とともに、彼らが願った胆沢の未来を、私たちは築いていかなければならない。胆沢の合戦(レリーフ)原画・中一弥(河北新報社 提供)------------■関連する過去の記事 大谷選手ゆかりの学校たち(奥州市)(2024年01月01日)■関連する過去の記事(アテルイ、東北のエミシなど) 城館の歴史(その2 北東北の城館)(2021年9月25日) 覚べつ城を考える(2015年1月2日)(旧川崎村の河崎の柵) 日本の大合戦 東北は5つ(2012年3月4日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 東北の「館」を考える(2011年9月25日) 栗原と伊治について(10年7月25日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日)
2024.08.18
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利府街道(県道8号仙台松島線)を岩切から利府町に入って間もない辺りにある碑の説明板が、いつの間にか、新しくなっていました(以前の説明板の画像は末尾掲出の過去記事に)。過去に記事を書いた頃は、神谷沢の浜街道で神谷川に架かる土橋と三原良吉氏著作にあることから(末尾掲出の過去記事参照)、平田橋は神谷沢のこの碑の辺りだろうと思っていました。私が図書館で町史などを調べると、伝説の紹介はあっても橋の記載はなかったのでした(2015年3月現地探索?した過去記事あり)。しかし最近、利府町のボランティアサークルの方々(りふdeおは梨)が作った絵本『平田五郎』を手にしました。町のことを知り、足で調べて、子どもたちに読み聞かせる素晴らしい取組に敬服しますが、仙台市宮城野区原町の平田神社が関係するということです。たしかに、原町の松原街道(国道45号から利府街道ガス局交差点方面に出る旧道。坂下交差点を経由しない近道ルート)で梅田川を渡るのが、平田橋です。さて、新しい説明板の内容を、以下にテキスト文で示します(振り仮名は適宜当ジャーナルで括弧書き追記)。------------延慶の碑(えんきょうのひ)- Enkyou's monument -鎌倉時代、延慶3年(1310年)に建てられた石陣で、板碑(いたび)と呼ばれるものです。高さ約1.4m、幅約1.25mの砂岩の巨石に「大日如来」を意味する「ア」という梵字(古代インドのサンスクリット語)が彫られています。その下には「延慶三年二月二七日敬白」と刻まれています。板碑は、鎌倉時代に北関東地方に始まり、室町時代にかけて県内でも盛んに建てられました。梵字によって自分が信じる仏様を現し、それを敬うことにより、親や先祖のあの世での往生を願いました。この碑には、平田五郎という人にまつわる伝説があり、昔から「力試石(ちからだめしいし)」とも呼ばれています。The stone monument was built in the 3rd year of Enkyo (1310) during the Kamakura period, and is called an "Itabi".The Sanskrit character "A" (ancient Indian Sanskrit word), which means "Vairocana", is carved on a giant sandstone with a height of about 1.4m and a width of about 1.25m. There are words "February 27th, the 3rd year of Enkyo (1310)", "Sincerely" engraved in the lower part of it."Itabi" began in the Northern Kanto region during the Kamakura period, and was also actively buift throughout the prefecture until the Muromachi period.The Sanskrit characters represent the Buddha they believe in, and by respecting them, they wished their parents and ancestors to remain peacefully after their death.There is a legend about a man named Goro Hirata who use this monument to test his strength by lift it up, and that is the reason it has long been called the "Chikara Dameshi Ishi" (strength test stone).「延慶の碑」にまつわる力試し伝説江戸時代の初め、平田五郎という男がいました。五郎は伊達政宗に仕え二百石を拝領し、利府本郷(利府、館、大町の辺り)に住んでいました。ある日仕事から帰る途中、神谷沢にある神谷川の土橋で、きつねが落としていった玉を拾いました。その夜、五郎の前にきつねがあらわれ、「あの玉がないと仲間のところに戻れません。玉を返していただければ、そのかわりに怪力を身につけて差し上げます。」と懇願されました。五郎はきつねが可哀そうになり、玉を返してあげました。翌日、五郎は試しにこの延慶の碑を持ち上げると、まるでわら束を持ち上げるかのように軽々と持ち上げることができました。そのことがあってから、人々はこの碑を「力試石」と呼ぶようになりました。令和5年8月 利府町教育委員会------------■関連する過去の記事 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)
2024.08.17
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戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・続編予定中1 町村合併 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)2 米川新聞 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。 3 沼倉たまきの生涯(1896-1990) 米川新聞の編集発行人であった。 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。5 キリスト教に関する記事 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。------------ 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。------------ 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。------------ 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事------------ 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。------------ (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという------------(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。------------ 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。------------ この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。------------ 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。------------ この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。------------ 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。------------ 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。6 カトリック布教からみた米川新聞の評価 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。------------〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」------------ 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ) 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。■関連する過去の記事(登米市関係) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.16
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盆の供え物に、キュウリで馬を、ナスで牛を模して造られる「精霊馬」がある。祖先が現世には馬で早く帰来し、来世には牛でゆっくり戻るようにとの思いが込められたとされる。近年、従来の素朴な牛馬ではない工夫がされて、ネットで公開されている。キュウリやナスをカットし組み合わせて、車やバイクや飛行機にするなど。祖先の乗り物という意識は保持されつつ、ネット画像を見て、自分の考えや思いを反映したアートをさらに画像にアップするという、お盆を巡る現代の民俗のあり方と言えよう。■島村恭則編『現代民俗学入門:身近な風習の秘密を解き明かす』創元社、2024年 から(堀田奈穂執筆部分)同書によると、山形県遊佐町では、精霊馬の代わりに、家の軒先に自動車などの模型を吊るす風習がある。キュウリなどの野菜ではなく、模型なのだ。故人が好きだった車種にしたり、先祖の人数が多いとバス、さらには飛行機にする家庭もある。野菜でアート化するケースと同様に、故人への思いと供養の気持ちが反映されている。ところで冒頭の画像のキュウリとナスは、お盆に実家でもらった野菜です。盆が開ければ、秋が来る、はずの東北もまだまだ暑い日が続くよう。
2024.08.15
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仙台・宮城では、県北をケンポク、南北をナンポクと呼ぶ人が多い。宮城固有の地域名である仙北(宮城県の仙台市以北の主に内陸部)も、センポクの読みが主流だ。以前から書いている話題だが、いつも通って見慣れている看板を、「証拠」とばかりに撮りましたよ。当ジャーナルの研究課題(?)の一つですが、今回は写真だけで失礼します。■関連する過去の記事 なすびも。やはり「けんぽく」だ(2016年6月17日) 地下鉄東西線乗りました(2015年12月6日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月26日)
2024.08.14
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ある本を読んでいたら、こんなことが書かれている。------------現在の視点から見れば、「写真を撮る」とは文字通り自ら撮影することを指す。しかし、〔中略〕幕末から明治初年においては「撮影される、あるいは肖像写真を依頼する」ことを指した。写真を制作する行為は、一般からかけ離れた専門的なものだったのである。------------保阪正康ほか『世界から見た20世紀の日本』山川出版社、2016年(三井圭司執筆部分、写真史概説:明治から大正の写真を支えた技術)何年か前だが、新型コロナのワクチンを「打つ」という表現に最初は戸惑った。打つのは医療関係者であり、一般人は「自分の腕に打ってもらう」はずなのだ。覚せい剤常用者じゃあるまいし。とはいえ、「皆さん打ってもらってください」「俺はもう打ってもらった」「勧奨されても打ってもらいたくない」などの語法は面倒でもあり、「打ってください」「もう打ったよ」「打ちたくない」と、自動詞的な言い方が定着した。明治の写真の場合は、誰でもカメラで手軽に撮影できる現代と違い、被写体側はまさに撮影してもらうのであり、撮影するのは装置と知識を備えた写真師に限られた。それでも被写体側を主語にして「撮る」という言い方だったという。他人に注射されるワクチンなのに自分を主語に「打つ」というのと、似ている。予防接種法をみよう。予防接種とは、ワクチンを人体に注射又は接種することと定義される(第2条)。そして、例えば定期接種であれば、市町村長が予防接種を行わなければならない(第5条)。他方で、打たれる側の一般人についての表現をみると、例えば定期接種の一部について「対象者は、これらの予防接種を受けるよう努めなければならない」とされる(努力義務、第9条)。さらにややこしいが、対象者が16歳未満などの場合は「保護者は、その者に〔中略〕予防接種を受けさせるため必要な措置を講ずるよう努めなければならない」とされ(第9条)、いずれにしても、予防接種を実施するのは市町村長、一般人は接種を受ける、という構図だ。では、接種の現場に関連する公的な表現はどうか。厚生労働省の手引きでは、被接種者、接種実施医療機関等、などの用語が使われている。あくまで接種するのは医療従事者であり、一般人は接種を受ける側である。ワクチンの準備、回数の確認、予診、注射、経過観察など予防接種を提供する側が主語になるのは当然である。おそらく、「打つ」の用語法は、俗な言い方として始まって定着してきた。新型コロナ以前にも、季節性インフルエンザや子宮頸がんワクチンをめぐっても、(被接種者を主語として)「打つ」「打たない」語法はあったのだろう。言葉の厳密さを気にする度合いは各人の感覚によるが、それでも一般に通用している意味はわきまえた方がいい。写真を撮る、ワクチンを打つ、などの「自動詞か他動詞(受け身・使役)か問題」に関しては、私がたまに気になるのは、次のような言葉だ。・使用者・労働者=被用者 労働する側であり、雇用される側、なので納得できる。・雇用者これはちょっと微妙。本来は雇用する側(雇用主)を意味しそうだが、雇用された人を意味する場合がある。例えば、労働力調査(総務省統計局)では、「就業者」の内訳として、「自営業主・家族従業者」と並んで「雇用者」がある。簡単にいえばサラリーマン(死語か)だろう。また、今では「(非)正規雇用者」の語さえ通じているように思う。用語法の変化の背景には、雇用される側に立って、その主体性を重んじる風潮があるのかもしれない。昔なら労使二元構造を前提に被用者固有の課題を認識し、その地位向上がテーマだったが、今や一緒により良い「雇用」の実現、より良い労働環境の整備、生産性の向上、さらに少子化や人的資源経営にも立ち向かって行きましょう、ということ。やや考えすぎだが。生活保護の「被保護者(世帯)」、児童福祉における「要措置児童」などの他動詞受け身形の言い方も、変わっていくのだろうか。
2024.08.10
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雄藩という語は、解説によると2通りの使われ方があり、ひとつは江戸時代の規模の大きい大名、具体的には加賀、薩摩、仙台など。もうひとつは、藩政改革に成功して幕末に勢力を発揮した薩長土肥などを指していう、と解説にある。当ジャーナル編集長はかねてから、仙台の人が雄藩(東北の雄県)と自称する意識構造を気にしつつ、他地域と異なる仙台の(守旧的・閉鎖的・排外的ともいえそうな)文化特性を多角的に研究してきた(と胸を張るほどのものではありませんが)。雄藩の語に関しては、一般には幕末・維新の歴史を彩る西南などの諸藩をいうと思うが、仙台では大藩伊達藩の誇りを今なお称揚して、或いは維新の「主役」だった薩長への忌避感もあってか、400年前の三大外様大名の存在感を現在に投影して、東北の雄県などと言って見せる。しかしながら経済産業や人材育成の面でどれだけ「威光」に劣らない努力をしてきているのかが実は大事なのだが。■過去の記事 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日)ところで、下記書籍を読んでいた。幕末史の見方が、ちょっと前までの通り一遍の倒幕史観から、実証的研究を経てだいぶ変わっていることが面白かった。「雄藩」の語はたしかに公武合体や攘夷を唱えて動いた諸藩を指して記述のなかにさも自然に登場する。ただし、その路線は一致していたわけではなく、各藩の立場は極めて多様でかつ時点を追って変わっていく。また、列藩同盟の内部の対立なども新たな視点で捉えられそうだ。歴史は奥が深い。すべての歴史とは現代史である、とはクローチェの言だったと思うが(磯田道史が書いていた)、現在にいきる我々がよく学び直そう。■文献 小林和幸編著『明治史研究の最前線』筑摩書房、2020年■関連する過去の記事(仙台・宮城の県民性や歴史認識などに関しては、下記以外もあります。フリーページ記事リストをご覧ください。) 仙台・宮城と雄藩(雄県)を考える(2023年02月26日) 三柄大名(07年8月17日) 見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日)(明治末年の出来事) 仙台・宮城の気風を再び考える(06年7月3日) 肝付兼武のこと(06年6月13日) 仙台文化を理論的に解明?(06年2月17日)
2024.08.02
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