仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.09.03
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カテゴリ: 東北



 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収
■同書に基づく記事シリーズ
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山) (2024年08月31日)
・今回  東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村) (2024年09月03日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域) (2024年09月10日)
東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟) (2024年09月13日)

■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲)
米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など (2024年08月16日)
海無沢の三経塚 (2010年11月11日)
カトリック米川教会 (2010年11月9日)

〔前回から続く〕
3-2 馬籠地域とキリシタン
 調査隊〔当ジャーナル注、村岡典嗣氏の探索と論文(昭和3年)をもとに行われた昭和26年の只野淳氏ほかの探索隊を指すと思われるが、著者の高橋氏たちの最近の探訪かも知れない。〕が最初に入った地域が馬籠である。市明院という寺に切支丹の記述がある文書を見つける。これは、田束山の縁起について書かれた文書の中にあったものである。


3-3 大柴佐藤家・大東佐藤家
 先祖は義経の忠臣の佐藤忠信である。忠信の兄嗣信は屋島の戦いで戦死しており、兄弟の忠死を憐れんで母尼公は、父秀衡から化粧地として賜ったといわれる先祖ゆかりの地、馬籠に「信夫館」を建立し居住した。大柴、大東の佐藤はもともと兄弟である。本家分家の関係ではないが、大柴佐藤家子孫の山内繁氏(気仙沼在住)談では、大柴佐藤家が肝煎りだったので分家が大東のように記載されいてる書物があるが、それは現在の視点の解釈と思うと話している。
 1772年(安永9)4月の風土記に、馬籠村肝煎り佐藤善作が「代数有之御百姓書出」として提出した文書があり、そこには「佐藤淡路の子小六郎・小六郎の子寅蔵・寅蔵の子太郎兵衛・太郎兵衛の子善作古切支丹肝煎り」と記載している。事実、1672年(寛文13)8月29日付の「本吉郡馬籠古幾里志丹近親類書付帳」に馬籠村肝煎り寿慶の名で記載されている。
 寿慶は転宗を思わせる名だが、僧侶風の名にすることで過去にキリシタンだったことを世間の目からそらす目的であったのか、実際に転宗したのか不明。寿慶の父として十郎左衛門信治佐渡の名も記載されいている。佐藤十郎左衛門信治佐渡は、支倉常長と共にサン・ファン・バウティスタ号に乗ったと言われるが、遣欧使節の委細が書かれた『金城必韞』(大槻磐水、1912年)には、乗船者の中に記載がない。
 大柴佐藤の子孫の山内繁氏の母山内むつ氏の著書『年輪』(1973年)に、「ローマから持ってきた宝物の話」として、山間地の馬籠に先祖が700年も住んでいたこと、ローマから持ってきた3つの宝物(金の十字架、香炉、インク壺)が長く伝えられたこと、分家の大東家には入口の分らない屋根裏に隠れキリシタンの部屋が最近まであったこと、が書かれている。

 大東佐藤家は兄の大柴佐藤家から東の方向にあることからそう呼ばれるようになった。肝煎りの大柴は役人の出入りも多く、キリシタンを隠せないので大東に隠したと思われる(山内繁氏談)。隠れ部屋にはフランシスコ・バラヤス神父が隠れていたと考えられる。佐渡の古い墓には頭部に卍のキリシタンマークが付いているが、今は倒れて草むらに覆われている。
〔おだずま注、上掲書p170に大東佐藤家の図があり、仏壇の奥に隠れ座敷がある。〕

3-4 馬籠小山家
 大変古い家で、午王野沢という田束山に登る山道に面した山深いところにある。南蛮鍛冶屋のこの家のお嫁さんの話では、夜口笛を吹くのは幕府の役人の合図だ、日が暮れたら家の灯が外に漏れないように、との言い伝えがあったという。小山家には梵字を模った不動明王の掛図があり、Jesusの「J」が組み込まれている。

3-5 三浦家文書
 『本吉町小史』によると1632年(寛永9)、馬籠のキリシタンが一斉に捕縛された。村には女性子供しか残らず農業が成り立たないので、領主の三浦下総、佐藤和泉、吉祥寺の住職が、転宗を進めに城下仙台牢を訪ね、許されて帰村した史実が記されている。

3-6 ポーポー様の伝承
 本吉町林の沢という山奥に、ポーポー様と呼ばれる墓石がある。20年前見に行った時は、頭が欠けて三角の墓石のようだった。現在は墓は倒れて見えない。日付は消えかかっているが、町史によると寛永8年1月24日。『本吉町史』によると地域に伝わる伝承として、昔、林の沢にポーポー様が住んでいた。よそ者である吹雪の晩に太田山から下りてきて某宅に一夜の宿を求めた。村人は天狗にでもさらわれたかと温かく迎えた。ポーポー様はこの地方の言葉がわからないが、病人があると魔法のようにポーポーと息をかけて治してくれた。ポーポー様はこの地で一生を終えた。村人墓を建て病の時は墓にお願いをした。近在では、子どもたちがいまでもポーポーと息をかけてさすってやる習慣がある。ポーポー様は修行者なのか、キリシタン宣教師の落ちのびた姿ではないかともいわれる。墓に釣り針マークがあること、宣教師は他の地方でも十字らしきものを切りマメチョマメチョと言ってまじないをした様相に似ているからということだ。
 寛永8年(1631)以前に馬籠付近に滞在の可能性のある宣教師は次のとおり。
・ジョアン・ポルロ神父
・フランシスコ・バヤラス神父(孫右衛門)
・ルイス・カブレラ・ソテロ
・ゼロニモ・アンゼリウス
・カルワリヨ神父(長崎五郎右衛門)
 仙台藩がキリシタンを厳しく取り締まるようになったのは、支倉ら遣欧使節の帰国後で、上記の中で確かに潜入していたのはバラヤス神父と推察される。たしかに、馬籠の逗留したと思われる屋敷や馬籠に通じる道筋の隠れ家と言われる家には、マリア観音に模した仏像や背中に十字の入る像が見つかっている。また、キリシタンの関わりを想起させる、葦原刑場、弥惣峠などの地名も残る。
 取り壊されたが、大東佐藤家は地域でバテレン屋敷と呼ばれていた。15年ほど前、子孫の奥様で教師の方に話を聞いたら、中二階の隠れ部屋は小さな集会堂だったということから、バラヤス神父が同宿の半三郎とともに大東佐藤家に逗留して布教したのは確実でないかと思う。
 馬籠小山家にも同じような隠れ部屋があった。

〔当ジャーナル注。明治8年、津谷、馬籠、山田の3村が統合して御嶽村、そのまま明治22年町村制で御嶽村となり、単独で昭和16年津谷町になる。参考記事として、 津谷小学校山田分校廃止裁判 (2012年3月1日)〕









■関連する過去の記事(田束山)
田束山 (2023年05月30日)

■関連する過去の記事(登米市関係)
米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など (2024年08月16日)
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海無沢の三経塚 (2010年11月11日)
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最終更新日  2024.09.13 08:45:06
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