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「聖書を聴いて」カテゴリー 第一回は 今日2019年7月28日 年間第17主日C年 の第一朗読 創世記を聴いての感想です。 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える叫びを聞いた主に対して アブラハムは主のみ前に進み出て 大多数の人たちの罪が重いからと言って 少数の正しいものを一緒に滅ぼしてしまうのかどうかを神に訴えます。アブラハムは人数をどんどん値切っていって ついには正しい人が十人いれば 滅ぼさないことを確約してもらいますが 最初の訴えのところ 創世記18:25のアブラハムのことばは圧巻です。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目にあわせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」赤で記した部分 アブラハムになりきって声に出して読んでみてください。いかがですか。正しい者を悪い者と一緒に滅ぼしてしまうこと それは 全くありえないこと それは 正義ではないのだ とアブラハムは神の前で言い切っている。聴いていたとき これって ことばが悪いけれど アブラハムは神に対して 神さまはこうあるべきでしょって決めつけて 少数の正しい人を救うことを確信をもって訴えていると感じたのですね。一般に日本では民主主義と言うと最大多数の最大幸福であって どう考えてもおかしなことでも そのことを支持する人が大多数ならば それが優先されるわけです。しかし この場合は違います。アブラハムは 神がどのような方なのかを知っているので 神がその正しさを行わないことはありえない たとえ 大多数が悪いとしても 少数の正しい人を一緒に(いわば十把一絡げで)滅ぼしてしまうことは 正しくない 神の正義に叶わないと強く訴えかけます。もしかしたら わたくしたちにはこの点が欠けているのかもしれません。神がどういう方であるのかを よく知っているのか そして アブラハムのように神の正義を知っていて その正義が実現するために 神に対等に訴えかけているのかどうか。「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎ」(創世記15:17)神はアブラハムと契約を結ばれました。契約と言う概念 日本人にはなじみのないものと考えられていますが この場合 神とアブラハムは対等な関係で契約を結び もし どちらかが契約を破ったら 動物のように二つに裂かれることを承知する と言うものです。言い換えれば アウラハムだけが一方的に神との契約を守り 契約を破ったら 動物のようになる のではなく 神もアブラハムに約束したことを 守らなければ同様に自らを処遇する と言う意味なのです。その意味で神とアブラハムは対等なのであり アブラハムがこれほど強く訴えかけるのは 当然のことと言えるでしょうし 何よりも その契約が対等であり その契約を締結した神と言うお方が どういうお方なのか 神のことをアブラハムは知識だけではなく実存・体験としてよく知っているということもうかがえます。だからこそアブラハムはすべての民の父であるのではないかと思います。
2019.07.28
この数年間 以前のサイト「アトリエおおましこ」の記事をこのブログに移し 主日・主日に優先する祝祭日の答唱詩編などの解説も一通り書き終えて 更新をさぼって?来ましたが 今日から その日のミサの聖書朗読を聴いて味わって 素直に感じたことを書き綴る「聖書を聴いて」のカテゴリーを追加して書き綴ってみたいと思います。神学的聖書学的な考察をするわけではなく ミサのことばの典礼で聴いてこころに落ちた聖書のことばに感じたことを書き綴る感想文みたいなものです。聖書はまず読むものであることはもちろんですが 礼拝集会では聴いて味わうことも大切な味わい方だと思います。ある意味 読んでいると読み飛ばしたり 読み込んだりすることもありますが 聴くことによって 違った味わいがあるものです。
2019.07.28
普段は ほとんど 東京カトリック神学院への授業でしか行かない東京ですが 昨日は 久しぶりに Te deum21Te deum21 という次世代の典礼音楽を考える方々のワークショップの講師として招かれて上京し 初めて六本木にある フランシスカンチャペルセンターへ伺いました。東京駅で 実家へ行っていたハニーと合流し 有楽町で日比谷線に乗り換えて六本木へ。日比谷線も東急東横線へ直通しなくなってから初めて乗り 赤い車体の電車が来た時には東急の車両かと思ってしまいました。 簡単にこの時の様子を書きますと まずは 最初に昨日の各年共通の集会祈願で祈りを始めましたが まず ここで皆さんにだめだし。そこから 講話を始めて テーマにした典礼の現在化とイメージについて さまざまな角度から お話と関連する聖歌の練習をしました。 参加された方は 普段 小教区で聖歌隊やオルガン奏者として奉仕されている方が多く もしかしたら もう少し 聖歌の練習に時間をとってほしかったかな と考えましたが どのように歌って祈るか どういう伴奏をするか を考えるためには やはり ベースとなる典礼や聖書に関する 基本的な理解 知識がなければなりません。そうでないと 単なる 習慣になってしまうからです。 わたくしにとってもあっという間の二時間でした。 聖歌や典礼に関する集まりで いつも思うのは 講話の中でも少し触れたのですが こういう学びは一部の信者が知っていればいいものではない と言うこと。教会も毎年 新しいメンバーを加えて若返っていくのですから 多くの信者の方 特に 若い方々に 教会や典礼についての基本的な理解や知識 それを踏まえての豊かな祈りとしての聖歌を体得する機会がもっとあれば そして積極的に参加していただきたいということです。なぜなら 「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉」(典礼憲章10)であり「典礼祭儀はすべて、祭司キリストとそのからだである教会のわざであるので、他にまさる聖なる行為」(同8)だからです。
2019.07.22
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