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93 心を尽くして神をたたえ【解説】 冒頭、個人の感謝から始まる詩編103は、その美的表現、豊かな思想から、旧約の「テ・デウム」(⇒「賛美の賛歌」)と呼ばれています。全体は大きく3つの部分に分けられます。第一の部分は1-7節で、ここでは神による赦し、いやしが述べられます。続いて、それを動機として、8-19節では神のいつくしみをたたえ、最後にすべての被造物に神を賛美するように呼びかけます。神がシナイ山でモーセにご自分を顕現されたとき、神ご自身「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト34:6-7)と宣言されたように、恵みといつくしみとは神の属性であり、神との関係が修復されるときは、まず、神のほうから許しを与えてくださるのです。 答唱句は、前半、後半ともに、旋律が主に音階の順次進行によって上行します。「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」が、付点四分音符+十六分音符のリズムで強調されています。さらにこのどちらも、旋律の音が同じばかりでなく、和音も位置が違うものの、どちらも4度の和音で統一されています。「かみをたたえ」は、「かみ」の旋律で、前半の最高音C(ド)が用いられ、祈りが高められ、バスでは「かみをたたえ」が全体での最低音F(ファ)で深められています。また、この部分はソプラノとバスの音の開きも大きくなっています。なお、「たたえ」は、バスでFis(ファ♯)がありますが、ここで、ドッペルドミナント(5度の5度)から、一時的に属調のG-Dur(ト長調)に転調して、ことばを強調しています。後半の「こころにとめよう」は、旋律が全体の最高音D(レ)によって、この思いが高められています。 詩編唱は、最初が、答唱句の最後のC(ド)より3度低いA(ラ)で始まり、階段を一段づつ降りるように、一音一音降り、答唱句の最初のC(ド)より今度は3度高いE(ミ)で終わっていて、丁度、二小節目と三小節目の境で、シンメトリー(対称)となっています。【祈りの注意】 早さの指定は四分音符=69くらいとなっていますが、これは、終止の部分の早さと考えたほうがよいでしょう。ことばと、旋律の上行形から、もう少し早めに歌いだし、「心を尽くして」と「すべてのめぐみを」に、力点を持ってゆくようにしたいものです。決して、疲れて階段を上がるような歌い方になってはいけません。この答唱句の、原点は、イエスも最も重要な掟と述べられた(マタ22:34-40他並行箇所)、申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」によっていることを思い起こしましょう。 「すべての恵み」で、何を思うでしょうか。わたしたちが神からいただいている恵みは はかりしれません。毎日の衣食住、ミサに来れること、友人との語らい、家族団らんなど、さまざまな物事があるでしょう。わたしが、この世の中に生まれてきたことも大きな恵みです。、しかしこの「すべての恵み」を、端的に言い表しているのは、「主の祈り」ではないでしょうか。「主の祈り」のそれぞれの祈願こそ、神が与えてくださる最も崇高で、最も大切な恵みではないかと思います。これらのことを集約した祈りであるこの答唱句を、この呼びかけ、信仰告白にふさわしいことばとして歌いましょう。 二回ある上行形は、やはり、だんだんと cresc. してゆきたいものですが、いつも、述べているように、決して乱暴にならないように。また、音が上がるに従って、広がりをもった声になるようにしてください。一番高い音、「かみをたたえ」、「心にとめよう」は、丁度、棚の上に、背伸びをしながらそっと、音を立てないで瓶を置くような感じで、上の方から声を出すようにします。「かみをたたえ」でバスを歌う方は、全員の祈りが深まるように、是非、深い声で、共同体の祈りを支えてください。 この恵みの頂点は、やはり、パウロが『コリントの信徒への手紙』で述べている、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3-4)=受難と復活、そして、その前の晩に弟子たちとともに過ごされた、最後の晩さんの記念=ミサであることは言うまでもありません。ミサにおいて、この答唱句を歌うことこそ、この答唱句の本来のあり方なのです。 「すべての恵み」でテノールが、その最高音C(ド)になりますが、これが全体の祈りを高めていますから、それをよく表すようにしてください。 最後の rit. は、最終回の答唱句を除いて、それほど大きくないほうがよいかもしれません。最終回の答唱句は、むしろ、たっぷり rit. すると、この呼びかけに力強さが増すのではないでしょうか。 今日の朗読や詩編で語られることの一つは、「初心に帰る」ことではないでしょうか。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる」(マルコ2;22)ために、わたしたちは、ミサごとに、あるいは日々、神のことば耳を傾け、神にこころを向けなお(回心)します。今日の、詩編唱は、これらを端的にあらわしています。詩編の先唱者はもちろん、詩編を味わうわたしたちも、神に立ち返ることのできる恵みを日々新たにして、生きることができるようにしたいものです。 わたしたちが神からいただいている恵みははかりしれませんが、往々にして、わたしたちは、その恵みに対する賛美と感謝を出し惜しんでいるのではないでしょうか。いただいた恵みを思い、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神に賛美と感謝をささげたいものです。
2006.01.31
67 神はわたしを救われる【解説】 詩編41は、詩編集の第一巻の終わりに位置します(詩編1~41)。本文の最初は、詩編1と同じく「アシュレー=幸いだ」から始まります。また、最後の14節は、そのために地けられた「栄唱」です。 病の床に伏す作者は、詩編31と同じく、敵ばかりか親しい友にまで中傷されます(5-10節)が、確固とした信頼をもちながら、神に病気の回復を祈ります(11-13節)。これらの詩編(41および31)は、いずれも、キリストの受難(ユダヤ教指導者やローマの官警の中傷、弟子たちの離散)における嘆きに結びつくものでしょう。 この詩編の作者は、イスラエルの王の一人とする説があり、ヘブライ語の語法から、ダビデの時代にまでさかのぼるとも言われています。 答唱句は、珍しくテージス(小節線の後ろ)から始まります。旋律の音は、G(ソ)、A(ラ)、C(ド)の三つの音で、その他の声部の音も大変少ない音で構成されています。文末以外は、ほとんどが八分音符で、「すくわれる」と「たたえよう」で四分音符が用いられて、ことばが強調されています。とりわけ「たたえよう」では、アルトのAs(ラ♭)とテノールの最高音E(ミ)で、信仰告白のことばが高められています。さらに、テノールは冒頭から「いつくしみ」までC(ド)が持続して、神への信頼と救いの確信が表されています。 詩編唱は、3小節目でバスに臨時記号が使われ(Fis=ファ♯)、緊張感が高められますが、4小節目は5の和音で終止し、旋律も答唱句の冒頭と同じ音になり、落ち着いて終わります。【祈りの注意】 冒頭は、指定の速度の、四分音符=72よりやや早めで始めるとよいでしょう。八分音符が連続しますので、メトロノームで計ったように歌うと、歌はもちろん祈りになりません。変なたとえかもしれませんが、ところてんを作る道具で、最初に、一気に押し出すような、そんな感じではじめるとよいでしょう。2小節目の「救われる」でやや rit. しますので、「わたしを」くらいから、わからない程度にゆっくりし始めます。「その」のバスが八分音符一一拍早く始まるところで、テンポを元に戻します。最後の「いつくしみをたたえよう」から、再びわからないように rit. して、最後はていねいに終わります。最後の「たたえよう」は、こころから神をたたえて、祈りを神のもとに挙げるようにしたいものです。 この答唱句は、「神はわたしを救われる」と現在形になっています。神の救いのわざ(仕事)は、かつて行われて終わってしまったのでもなく、いずれ行われるのでそれまで待たなければならないものでもありません。神の救いは、今も、継続して行われています。その、顕著なものが、やはりミサではないでしょうか。ミサは、キリストの生涯の出来事を思い起こす福音朗読と、その救いの頂点である主の過越=受難-復活-昇天を記念=を、そのときその場に現在化するものです。このミサが、世界のどこかで、必ず継続して行われている。それを、この答唱詩編は思い起こさせてくれます。そのことを思い起こしながらこの答唱句を歌うことが、祈りを深め、ことばを生かすことになると思います。 イスラエルも含め、古代文明では、病気はその人や、親・先祖の罪の結果と考えられてきました(現在でも、そういって、法外な値段でつぼを売りつけたり、多額の寄付を強要する集団があります。注意しましょう。)。キリストの過越は、これを払拭するものですが、それは、第一朗読にあるように、神ご自身が「わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」からです(イザヤ43:25)。キリストによる、病気のいやしは、これらの実現と考えられるでしょうか。 詩編唱は、この、キリストによる病のいやしをこころに刻んで語りかけましょう。特に、詩編唱の3節は、イザヤの預言でも予型として語られるように(24b)、キリストの過越を思い起こしながら歌いましょう。この、詩編唱の3節は、後半が特にことば数も多いので、早めに歌います。4小節目はどうしても息継ぎが必要なら、楽譜の段が変わるところで息継ぎをします。 これらの、預言、そして預言の実現である、キリストの過越を述べ伝えることこそ、イザヤが預言している「彼らはわたしの栄誉を語らなければならない」ことなのです。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.01.30
114 主は豊かなあがないに満ち【解説】 この、詩編32は、「回心の7つの詩編」(他に、6、38,51,102,130,143)の一つで、アウグスティヌスが好んで唱えた詩編です。詩編の類型としては、個人的な感謝の詩編で、罪の赦しを受けた人の感謝の歌です。詩編の表題には、「ダビデの詩」とあり、バトシェバと姦通を犯したダビデが、預言者ナタンの叱責を受けて、自らに死刑宣告をした後、その罪を赦されたことに感謝して(サムエル記下12:1-15)歌った歌とされています。 答唱句は、詩編唱と同じ歌い方がされるものの一つ(他に「神よ あなたの顔の光を」、「父よ あなたこそ わたしの神」)です。バスは、常にD(レ)で持続しますが、この、答唱句の確固とした信仰告白を力強く表しています。 詩編唱は、第1・第3小節の終止音の四分音符(主に「、」)が、その前の全音符から、2度高くなっており、第2・第4小節では(主に「。」)2度下降しています。さらに、各小節の冒頭の音が順次下降しており(1小節目=A(ラ)、2小節目=G(ソ)、3小節目=F(ファ)、4小節目=E(ミ))、文章ごとのバランスをとりながら、ことばを生かしています。 この詩編唱は、当初、『典礼聖歌』(分冊第二集=31ページ)で、旧約朗読後の間唱として歌われた「主よ よこしまな人から」(詩編140)に用いられていました。現在、『典礼聖歌』(合本)で歌われる詩編唱の第3・第4小節が「主よ よこしまな人から」の答唱句として、第1・第2小節が、同じく詩編唱として歌われていました。 「主よ よこしまな人から」が作曲されたのは、典礼の刷新の途上だったため、新しい詩編や朗読配分、などが確立したときに、この曲は使われなくなり『典礼聖歌』(合本)には入れられませんでしたが、新しい答唱詩編である「主は豊かなあがないに満ち」の詩編唱に受け継がれました。【祈りの注意】 解説にも書きましたが、答唱句は、詩編唱と同じ歌い方で歌われます。全音符の部分は、すべて八分音符の連続で歌います。「豊かな」と「あがない」の間があいているのは、読みやすくするためです。また、「あがないに」と「満ち」、「いつくしみ」と「深い」の間があいているのは、楽譜の長さ(答唱句と詩編唱の)をそろえたための、技術的な制約によるもので、こらら赤字のところで、息継ぎをしたり、間をあけたり、赤字のところを延ばしたりしてはいけません。下の太字のところは、自由リズムのテージス(1拍目)になります(*は八分休符)。 主はゆたかなあがないに満ちー*|いつくしみふかいー* 詩編唱は、第一朗読を受けて歌われます。人祖の犯した罪のゆえに、人類はもとより、すべての被造物がうめき苦しんでいます。しかし、洗礼によってキリストの死と復活に結ばれたわたしたちは、その罪の束縛から解放されたのです。詩編の先唱者は、それを深く感謝して歌いましょう。 答唱句は、その詩編のことばに対して「主はゆたかなあがないに満ち、いつくしみ深い」と答えます。詩編と同じく、八分音符の連続ですが、包丁がまな板を鳴らすような歌い方に鳴らないようにしましょう。 冒頭は、きびきびと歌い始め、1小節目の終わりで、rit. し、ほぼ、そのテンポのまま「いつくしみ」に入り、最後は、さらにていねいに rit. して終わります。全体は、P で、最後の答唱句は PP にしますが、それは、この答唱句の信仰告白のことばを、こころの底から、深く力強い、確固としたものとするためです。決して、気の抜けたような歌い方にならないようにしてください。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.01.29
59 神のわざを思い起こそう【まえおき】 通常、週日(主日・祝祭日・記念日以外)の答唱詩編は扱わないのですが、今回は、2月11日(建国記念の日)に大阪教区の岸和田教会で、「高田聖歌の心を学ぶ会」(テーマ=「聖 週 間 の 典 礼」)が行われ、わたくしも講師の一人として出席します。そこで、この日の締めくくりに行われるミサの答唱詩編として歌われる、「59 神のわざを思い起こそう」を今回は取り上げます。【解説】 この答唱詩編が、主日に歌われるのは9月14日の十字架称賛の祝日が主日と重なった場合だけです。 この、詩編78は、創世記後半のヤコブ物語を端緒として(1-8節)、出エジプトと荒れ野における40年の彷徨(12-55節)を中心にして、最後はダビデの統治に至る(56-72節)、イスラエルの歴史を歌っています。この歌は、申命記32章1-44節にある、「モーセの歌」と似ており、内容も、南北分裂以前であることから、かなり古い時代に書かれたものと考えられています。 マタイ福音書13章35節では、詩編の2節=詩編唱の1aの3小節目を引用して、イエスがたとえを用いて語ることは「預言者を通して言われたことが実現するためであった」(同)といわれています。なお、「たとえ」には過去の出来事に隠された教訓の意味も含まれています。 答唱句はこの詩編全体の要約を現しています(答唱句の様式については、ホームページの「答唱詩編」の中の「答唱句の種類」をご覧ください)。「起こそう」は、前半の最高音H(シ=ゴシック)と5度の下降(赤字)によって、この呼びかけが強められています。後半の「ちからある」の6度の跳躍(赤字)と最高音のCis(ド♯=ゴシック)で、歴史全体に働かれる神とその力(δυναμιs=デュナミス)が表現されています。また、二回出てくる「わざ」は、旋律がE(ミ)-A(ラ)という同じ音型で統一されており、その神の働きを意識させています。 詩編唱は、ことば数も多く、神による、古代イスラエルの救いの歴史が、淡々と畳み掛けるように歌われます。1小節目→2小節目、2小節目⇒3小節目は、それぞれ、旋律が同じ音で続き、アルトは半音上がり、精神的緊張と持続を高めています。【祈りの注意】 答唱句の旋律は、かなり跳躍していますが、祈りの基本であるレガート(滑らかに歌うこと)を心がけましょう。四分音符=80くらいですが、あまりあわてないようにしたいところです。なぜなら、この後、詩編で救いの歴史のことばが、畳み掛けるように語られるからです。 今日の第一朗読は、列王記12:26-31、13:33-34で、王国分裂のきっかけとなった、ヤロブアムの背信行為が語られます。詩編唱は、この朗読を受けて、2bと5aが歌われます。ヤロブアムの背信行為は、やがて王国全体に広がり、ついに、北のイスラエル王国は、南のユダ王国よりも約140年早く滅亡します。 なお、週日(記念日も含め)の朗読は、第一朗読が二年で一回り、福音朗読が一年で一回りするように、『聖書』の記載順にしたがって読んでゆく「準継続朗読」(必ずしもすべての章・節が読まれるわけでもないので)となっているので、第一朗読と福音朗読の間に、主日のような、関連性は特にありません。 さて、今日は2bと5aが歌われますが、詩編の1節ごとに答唱句を挟んで歌います。つまり 答唱句⇒2b⇒答唱句⇒5a⇒答唱句のようになります。また、5aは、その後、すぐに答唱句に続くので最後の「そのいのちはにわかに絶えた」は楽譜のa括弧(繰り返し記号のあるほう)ではなくb括弧(一番下の段)で歌います。 現在も、最近、いろいろな事件で騒がれているように、神様よりも、人間の作った事のほうが大切という、偶像礼拝・偶像崇拝が、いずこでも見受けられます。わたしたちも、ついつい、そのようなことにこころを奪われないように、今日の朗読を、深く味わい、こころに刻み付けたいものです。【お知らせ】 この、59 神のわざを思い起こそうは、不肖、わたくしがアドバイザーを務めた、「典礼聖歌アンサンブル」のCD『四旬節の聖歌』に全詩編唱が歌われています。ぜひとも、お聞きいただきたい一曲です。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)
2006.01.23
『典礼聖歌研究工房アトリエおおましこ』の名前の由来としたおおましこの写真を「さえずり」に専用の「書庫」を作り、アップしてみました。 こちらと、『年代記』にもアップしてみたかったのですが、元の写真がネガだったため、容量不足で、どちらもアップすることができませんでした。 上の「さえずり」をクリックしていただくと、別ウィンドウで表示されます。さらに、「さえずり」の最下段の「最新の画像」の下のタイトルをクリックすると、そのページが表示されます。ぜひ、おおましこの写真をお楽しみください。
2006.01.20
27 栄光は世界におよび【解説】 詩編147(ここでは前半)は、詩編集の最後にあたる《ハレルヤ詩編》の一つです。現在、『聖書 新共同訳』などの底本となっている " Bibilia hebraica stuttgartennsia" (ヘブライ語)では、一つの詩編となっていますが、「七十人訳(ギリシャ語)」や「ブルガタ訳(ラテン語)」では、1節-11節を詩編146(その前までの詩編はも一つずつ番号が繰り下がる)とし、12節以降を147としています。現在の研究では、この詩編を一つの詩と考えるヘブライ語の原典のほうが、正確と考えられています。 この詩編は、全部で三つの部分に分かれていますが、それぞれのはじめの部分に、主ヤーウェに対する賛美のことばが、語られています。第一部は1節-6節、第二部が7節-11節、残りが第三部です。第一部では主に、バビロン捕囚からの救いのわざが神の星への支配で、第二部では、豊作が雲に対する支配で、暗示されて語られています。これは、周辺諸国で、星辰崇拝などが行われていたことと関係があると思われます。これらによって、この詩編は、捕囚からの解放と豊作という、歴史と自然の中で働かれる神をたたえています。《ハレルヤ詩編》詩編集の巻末に置かれた詩編146から150は、はじめと終わりに「ハレルヤ」が置かれているので、このように呼ばれる。なお、詩編113から118も、ユダヤの伝承では「エジプトのハレルヤ」を呼ばれ、過ぎ越しの会食で唱えられてもので、こちらを特に〔ハレルヤ詩編〕と呼ぶことが多い。 答唱句は冒頭、音階の第三音から、上行音階の、しかもユニゾン(すべての声部が同じ音)で始まり、四声に分かれる「世界」で、旋律は前半の最高音Cis(ド♯)に達しています。この間、バスは「栄光は」から「世界」で、6度下降跳躍しています。これは、作曲者が「時間と空間を超越した表現」として用いる、旋律の6度の跳躍の反行にあたります。これによって、また和音の広がりによっても、神の栄光の世界への広がりが現されています。その後の「世界におよび」で、旋律は音階で属音E(ミ)に下降しますが、天におられる神の栄光が、世界(全地)に行き渡る様子が示されます。 後半、旋律は和音構成音で上行し、「かみ」で、答唱句全体の最高音D(レ)に達し、バスとの広がりも、2オクターヴ+3度という、原則として、もっとも広いものになり、神の栄光、神の偉大さが現されます。最後の「神は偉大」には「-」(テヌート記号)が付けられており、これによって、このことばが一音節づつ力強く歌われるようになっている。 詩編唱は、高音部のCis(ド♯)から力強く始まり、落ち着きと壮大さをもって、音階で下降します。【祈りの注意】 解説にも書いたように、答唱句は全体、力強く歌います。しかし、冒頭のユニゾンの上行音階は、cresc. したいので、最初からf では、後が続きません。最初は、やや、弱め(ただし精神は冒頭から力強く)で歌い始めましょう。「世界に」で、前半の最高音になりますから、のどと胸を開いて歌いましょう。バスは、特に力強く、また、深い声で歌ってください。その後、旋律は、いったん下降しますから、少し、dim. するとよいでしょうか。「すべてを」からは、また、上行しますので「かみ」に向かって cresc. しましょう。最後の「神は偉大」は「-」(テヌート記号)が着いていますから、答唱句の中では、もっとも力強く、地面を踏みしめるように歌いますが、一つ一つが飛び出したようになってはいけません。あくまでも、祈りとしてふさわしい、レガートの中でのテヌートであることを忘れないようにしましょう。 テンポは四分音符=66ですが、あまり、早くなると、せっかちに聞こえます。力強さを現すためにも、雄大さが感じられるテンポを考えましょう。だからといって、冒頭のユニゾンがだらだら歌われると、全体のしまりがなくなります。ここは、階段を一気に駆け上がる気持ちで歌うとよいのではないでしょうか。 詩編唱は、第一朗読のヨブ記と福音朗読の、本当に橋渡しのようなかっこうです。ヨブ記では人生の苦悩が語られますが、詩編唱では、それを受けて「神は失意の人々を支え、その傷をいやされる」ことが述べられます。それは、イエス・キリストの到来によって、まず、シモン・ペトロの姑において、現実のものとなったのです。答唱句も、詩編唱も、この、神の栄光の現われをたたえて歌われます。詩編唱を歌うかたは、この確信を、こころに刻みつけ、自らのものとして歌ってください。それが、一回毎に、答唱句を、その確信によって、なお、力強いものとするからです。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)『ともに祈り・ともに歌う 詩編 現代語訳』典礼委員会 詩編小委員会訳(あかし書房 1972 )石黒則年『詩篇』新聖講解シリーズ 旧約12(いのちのことば社 1988 )
2006.01.18
35 神に向かって【解説】 今日の詩編唱で唱えられる詩編95:1,2から、この答唱詩編の答唱句が取られています。この詩編95は、神殿の神の前に進み出て礼拝を促す(2節)巡礼の形式で始まります。後半は、荒れ野における歴史を回顧し、神に対する従順を警告しています。1節の「救いの岩」をパウロは、1コリント10:4で「この岩こそキリストだったのです」と述べ、この前後の箇所では、イスラエルの先祖が荒れ野で犯した、偶像礼拝について記しています。また、ヘブライ3:7-11,15でもこの箇所が引用され、キリスト者も不信仰に陥らないように警告しています。 8節の、「きょう、神の声を聞くなら、・・・・ 神に心を閉じてはならない」という箇所から、この詩編は、『教会の祈り』で、一日の一番最初に唱える「初めの祈り」の詩編交唱の一つになっています。「きょう」ということばは、ただ「昨日」「今日」「明日」という、連続した日の一つではなく、このことばによって、今、読まれる、あるいは、読まれた神のことばが、そのときその場に実現することを意味しています⇒《祭儀的今日》。ナザレの会堂でイザヤ書を読まれたイエスが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と話されたことを思い起こしてください。 答唱句は、冒頭、旋律が「神に向かって」で和音構成音、「喜び歌い」が音階の順次進行で上行して、最高音C(ド)に至り、神に向かって喜び歌うこころを盛り上げます。また、テノールも「神に向かって」が、和音構成音でやはり、最高音C(ド)にまで上がり、中間音でも、ことばを支えています。前半の最後は、6度の和音で終止して、後半へと続く緊張感も保たれています。 後半は、前半とは反対に旋律は下降し、感謝の歌をささげるわたしたちの謙虚な姿勢を表しています。「感謝の」では短い間(八分音符ごと)に転調し、特に、「感謝」では、いったん、ドッペルドミナント(5度の5度)=fis(ファ♯)から属調のG-Durへと転調して、このことばを強調しています。後半の、バスの反行を含めた、音階の順次進行と、その後の、G(ソ)のオクターヴの跳躍は、後半の呼びかけを深めています。 詩編唱は属音G(ソ)から始まり、同じ音で終わります。2小節目に4度の跳躍がある以外、音階進行で歌われますから、歌いやすさも考慮されています。また、4小節目の最後の和音は、答唱句の和音と同じ主和音で、旋律(ソプラノ)とバスが、いずれも3度下降して、答唱句へと続いています。【祈りの注意】 答唱句は、先にも書いたように、前半、最高音のC(ド)に旋律が高まります。こころから「神に向かって喜び歌う」ように、気持ちを盛り上げ、この最高音C(ド)に向かってcresc.してゆきますが、決して乱暴にならないようにしましょう。また、ここでいったん6度での終止となりますし、文脈上も句点「、」があるので、少しrit.しましょう。ただし、最後と比べてやり過ぎないように。後半は、テンポを戻し、「うたを」くらいから、徐々にrit.をはじめ、落ち着いて終わるようにします。 答唱句、全体の気持ちとしては、全世界の人々に、このことばを、呼びかけるようにしたいところです。とは言え、がさつな呼びかけではなく、こころの底から静かに穏やかに、砂漠の風紋が少しづつ動くような呼びかけになればすばらしいと思います。 詩編唱は第一朗読、申命記を受けています。預言者は、ここに書かれているとおり、神が命じられたことを民に告げるのがその役割です。ですから、預言者は、勝手に「神のことば」と称して何かを語った場合には、その責めを神の前に負わなければなりませんが(20節)、反対に、預言者が神の名によって語ったことに民が聞き従わないときには、その人が、追求されるのです(19節)。 多くの人は、イエスのことを「預言者」と捕らえていましたが、会堂にいた男に取り付いていた汚れた霊(複数)は、それ以上の「神の聖者」であったイエスに、必ず聞き従わなければならないことを知っていたのです。 詩編唱は、このような、神の預言者、神の聖者のことばに聞き従うことを促して歌われます。神の預言者、神の聖者のことばは、神の名によって語られたものだから、「きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない」からなのです。 詩編を歌うことは、まさに、この「神の預言者」であることを、ぜひこころに留めていただきたいと思います。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968)《預言(者)と予言(者)》 「預言(者)」と「予言(者)」。この二つのことばは、キリスト教の中でも混同されていますが、実は、大きな違いがあります。 「預言(者)」は、今日の申命記の朗読にもあるように、神が命じることを神の名によって語る(者の)ことです。すなわち、神から、神のことばを「預かって」語ることから、「預言(者)」と書きます。 一方、「予言(者)」は、「ノストラダムスの大予言」などがありますが、未来のことを予め(予測して)語る(者の)ことを言います。 このように「預言(者)」と「予言(者)」には、大きな意味の違いがあるのですが、発音が同じことから教会や神学者の中でも、これらを混同していることが多々あります。 予言(者のことば)は、確信があるわけではなく、聞き従う必要はありません。しかし、預言(者のことば)は、神が命じた確かなもので、必ず聞き従わなければならないのです。
2006.01.13
137 すべての人の救いを【解説】 詩編25は、詩編34と同じく、ヘブライ語のアルファベットの第6文字(ワウ)が省略されたアルファベット詩編です。ただし、現代の底本では、他に、第2文字(ベート)と第19文字(コーフ)も欠けています。「道」ということばが何度も繰り返され、神の道を歩み続けることができるようにと、罪の許しを求める祈りがささげられます。 答唱句はアルトとバスが第2小節までC(ド)、和音も主和音を保つことで、すべての人の救いを願う精神の持続を表現しています。後半は一転して、和音も動き、特に「(待)ち望む」で、旋律は最高音のc(ド)に至り、テノールではAs(ラ♭)が経過的に用いられ、救いを待ち望むこころと決意が神に向かって高められます。 詩編唱は、六の和音から始まり、救いを待ち望む姿勢が継続されます。第3~第4小節にかけては、伴奏のテノールでFis(ファ♯)を用いて和音が属和音に至り、和音進行でも祈りでも、答唱句へと続くようになっています。【祈りの注意】 答唱句はあまり早くならないように注意しましょう。答唱句のこの、ことばをゆっくりと噛み締めるように祈りたいものです。人間、誰でも一人や二人は好きになれない人がいることでしょう。その人たちのことをぜひ思い起こし、その人たちの救いを願い、この答唱を祈りたいものです。「すべてのひとの」と「救いをねがい」の後の八分休符の前の「の」「い」は、そっとつけるように歌い、ややdim.すると、ことばが生きて、祈りも深まります。 後半の「わたしは」からは、だんだん大きくしながらrit.しますが、決して、乱暴に怒鳴らないようにしましょう。「待ち望む」で、このcresc.は最高点に達しますが、「望む」からは、徐々に、dim.すると祈りも深まるのではないでしょうか。答唱句全体がP で歌われますから、このcresc.もP の中でcresc.すると、自然と祈りが深まるでしょう。 詩編は、最初の「開祭」(7月12日付)でお話した原則を思い起こしてください。詩編唱の1節で「神よ」という呼びかけがありますが、ここで、区切りを入れると、音楽ばかりか祈りも途切れてしまいます。この詩編唱は、どの小節も一息で祈りましょう。「神よ」や「神は」の後、半角あいているのは読みやすくするため、途中で字間があいているのは楽譜の制作上の限界であることは、すでに述べています。 1節の最後の「くださぃ」は、「さ」をのばし「ぃ」をそっとつけるように、天におられる神に呼びかけるようにします。決して「さいー」と品が悪くならないようにしてください。最後に歌う答唱句は、この答唱詩編の締めくくりとして、テンポも少しおとし、PP で歌うと、より、この答唱句の祈りのことばが深まるでしょう。 第一朗読では、ヨナによるニネベの町への回心の呼びかけが読まれます。詩編唱の、特に、2節は、この呼びかけをもたらされた神の み心が語られています。このあとヨナは、この、神のいつくしみに腹を立ててしまいます。がリラや湖畔で召しだされた弟子たちも、自分たちが一番と思いこみ、しばしば、他の人々に嫉妬したり、弟子たちの間でさえ、仲間割れが起こります。わたしたちも、ついつい、神のいつくしみの深さをなかなか受け入れられないことがあるかもしれません。 わたしたちの方からではなく、神の、また、キリストの方からわたしたちを召しだしてくださった、いつくしみと恵みの深さ・豊かさを思い起こしながら、この詩編を味わいたいものです。 【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968
2006.01.09
54 神の み旨を行うことは【解説】 この答唱句の元となった詩編40(答唱句は9節を元に作られています)は、元来、二つの異なる部分からできています。前半は2-11節で、病気から回復したことへの感謝の祈り、後半は12-18節で、そのうち14-18節は詩編70とほぼ同じもので、個人的な嘆願の祈りです。 聖書《七十人訳》では、6節の「人々の集い」を「エクレシア」=「教会」の原語、10節の「告げ知らせ」を「福音を伝える」=後の「福音」の原語、と訳しています。これらは、新約聖書をはじめ、教会ではなくてはならない、重要なことばとなっています。 答唱句の前半、従属文の部分は、「おこなう」が最高音(B=シ♭)を用いてことばを強調しています。続く「うことは」では、一時的に属調のF-Dur(ヘ長調)に転調することで、丁寧にことばを語り、行う決意を呼び起こします。後半は、すぐにB-dur(変ロ長調)に戻り、まず、「わたし」が最低音のCから始まり、謙遜のこころを表します。「こころの」は、付点八分音符と十六分音符で、最後の、「よろこび」は音価が拡大され、斜体の部分は最高音B(シ♭)によって、こころ(魂)が喜びおどる様子と、答唱句全体の信仰告白の決意を力強く表しています。 詩編唱は、終止音と同じ音から始まり、1小節1音の音階進行で下降して、開始音Fに戻り、作曲者の手法「雅楽的な響き」の和音で終止します。バスのEs(ミ♭)は答唱句のバス(D=レ)とテノール(F=ファ)のオブリガートとなっています。【祈りの注意】 答唱句全体の信仰告白は、聖母マリアが歌った「マリアの歌」(マグニフィカト ルカ1:46-)に通じるものです。いつも、この信仰告白の決意を持ち、神の み旨をわきまえることができるように祈りましょう。 「神の」を心持ち早めに歌うことが、この信仰告白の決意のことばを生き生きとさせます。メトロノームのように歌うと逆にだらだらしますし、上行の旋律も活気がなくなります。 「みむねをおこなう」は、現代の発音では同じ母音Oが続きます。どの声部も同じ音で続くので「み旨をーこなう」とならないように、はっきり言い直しますが、やりすぎにも気をつけましょう。 「ことは」の後で息継ぎをしますが、この息継ぎは「は」の八分音符の中から少し音を取って、瞬時に行います。ここを、テンポのままで行くと、しゃっくりをしたようになります。この前から少し rit.すると、息継ぎも余裕を持ってできますし、何よりも祈りが深まります。 後半は、すぐにテンポを元に戻しますが、「こころ」あたりから rit. に入り、付点のリズムを生き生きと、また、力強く歌って締めくくりましょう。この時、先にも書きましたが、聖母マリアの心と同じこころで歌うことができればすばらしいと思います。 なお、これらの rit. は、いつしたのかわからないように、自然に行えるようになると、祈りの深さもましてきます。 この日の第一朗読ではサムエルの召しだしが、福音朗読では、後に教会の礎となった、ペトロとアンドレ兄弟の召命が朗読されます。二人の、この召しだしによって転換した人生が、今日の答唱詩編の詩編唱に集約されていると言えないでしょうか。それはまた、わたしたちキリスト者一人ひとりについても当てはまることです。詩編唱を歌う方はもちろん、それに耳を傾けるわたしたちも、この、詩編で語られる、わたしたちキリスト者に共通の「預言職」を、深くこころに刻みつけるようにしたいものです。【参考文献】『詩編』(フランシスコ会聖書研究所訳注 サンパウロ 1968
2006.01.09
明けましておめでとうございます 元日から6日まで家内の実家に行っており、7日は長野教会の聖歌隊の練習、今日8日は朝からミサという具合に、ほとんど自宅を留守にしていたため、ようやく今日、メールとブログをチェックしたところで、皆様への新年のごあいさつも大変遅くなってしまいました。 『今日の聖歌』と、『典礼聖歌研究工房アトリエおおましこ』のホームページと関連ブログ、今年もよろしくお願いいたします。明日以降、『今日の聖歌』も更新を開始いたします。 なお、正月の様子は『年代記』に記述してありますので、ご覧ください。 書き込みをしてくださった皆様、ありがとうございます!
2006.01.08
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