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いちごを荼毘(だび)に付した日、わたしはこう書いている。
いちごの骨を見たとき、ああ、自分(の一部)がいちごになった、と感じました。同時に、胸のなかに、悲しみ過ぎてはいけないと戒めるものが生じたのです。悲しみに暮れている場合ではありません。
いちごが17年と8か月、果たしてくれていた役割を引き継がねばならないからです。
自分(の一部)がいちごになった、という実感が、いまのわたしには確かにある。慌てず騒がず淡淡と生きたいと希うようになったことひとつとっても、それはいちごの影響だと思える。彼女のようにスマートにはゆかないが。
これほどの思いをわたしに抱かせる存在が猫だということが、不思議だ。ほんとうに不思議だ。
わたしは猫と縁なき子ども時代を過ごしている。父も母も、ふたりそろって猫を得意でなかったことによる。おそらくそれには理由があったと思われるが、尋ねたことはない。猫のことは話題にするのさえ、なんとなく憚(はばか)られるからだった。
しかし、そんな両親に対して、いちごのことで一度だけ思いきったことをした。昨年の夏、富士山麓にある両親の山小屋に、いちごを連れて出かけたのである。滅多にはないが、家じゅうの人間が1日半以上いなくなるときには、近所の友だちにたのんで、いちごのごはんや水の世話、身のまわりのこと、何より「いちご」と名を呼んでもらうことにしてきた。が、昨夏はそういう気にならず、両親には告げずに5人と1匹で出かけた。
車からいちごを積んだキャリーバッグをおろし、「連れてきてしまいました」と云ったとき、父は「そうか」と云い、母は何も云わずに笑った。
いちごはその場を察し、滞在中、両親の目に触れるところに出て行かなかった。鳴き声ひとつ上げなかった。
それが、いちごとの大事な思い出のひとつになっている。父と母は、もしかしたら憶えていないかもしれない。
さて、何のはなしだったかと云うと、猫ぎらいのはなしだ。
わたしは自分も、猫を苦手だと思いこんでいた。
苦手意識は、人生からその対象を閉めだしてしまうものらしく、わたしの目には猫の姿が映らなかった。
そう云えば一匹だけ知り合いはいた。小学生のあいだ週一度通ったピアノのせんせいの家に住んでいた、大きなキジトラだ。こちらが演奏にも、和音の聞きとりにも苦戦しているのに、助け舟も出さず、同情もしてくれない、無愛想な猫だった。名前は……、わからない。名乗り合わなかった。
小学6年のとき、ピアノをよしてフルートをやってみたらどうか、という話が持ちあがった。ある日とつぜん、ピアノのせんせいの家にあらわれたフルートのせんせいに促されるまま、唄口を吹いて音を出したわたしに、そいつが飛びかかった。わたしは耳のうしろを引っ掻かれた。その瞬間、フルートも、そしてピアノの人生も、いっぺんに幕を閉じた。
あのままピアノをつづけていたら……、その上中途半端な気持ちでフルートに乗り換えたりしていたら……、どれだけ余計な苦労したことだろう。せんせいもわたしも、だ。それを思うと、あのキジトラには感謝しないといけない。
二女がいちごを拾ってきたのはそれから20年後のことだ。
生まれたばかりの、てのひらにのるようなちっちゃな黒猫のいる暮らしのなか、わたしはたちまち、猫を好きになった。好きだと思った瞬間、いちごも、わたしの云うことがわかるようになった。わかってはいても、ぜんぜん意には介さず、あのころはいたずらばかりしていたが。
いちごと暮らすようになってからは、道の上でも訪問先でも、猫が出てきてわたしに何か話しかけてくる。はなしのなかみの解読はむずかしいが、ごく稀に、「雨になるよ」とか、「この先に吠える犬がいる」と何とはなしにわかることもある。
なあんだ、わたしは猫好きじゃあないのさ。と、思った。
自分の実感のないことでも、誰かの考えや、時代の風潮につられ思いこんでしまえば、長きにわたってそれはつづく。実感のないことでも、ふと鵜呑みにできてしまう怖さも、そこには存在する。
だが、思いこみには、こういうのもある。
この夏、進めなければならない仕事が、なかなか手につかなかった。もしかしたら、わたしにはできないかもしれない、約束の日までに書き上がらないかもしれない、と疑心暗鬼になっていた。ところが、ためらいながらちょっと手をつけてみたところ、調子が出てきたのである。
この瞬間をつかまえて、「これはできる。書き上がる」とみずからに云い聞かせた。こういうのも、思いこみの一種である。ここにどれほどの実感がともなっているか、いささかの不安はあるものの、この思いこみはつづける決心だ。
三女の宿題の山が食卓を占領していました。
この日は、かわいいお客様もあるというのに……。
思いこみをとり払い、
床の上に布をひろげ、食卓としてみました。
献立は、素麺と夏野菜の天ぷら、ぬか漬けです。
この日とり祓った思いこみは、
「食事は、決まったテーブルで」でしょうか。