田中およよNo2の「なんだかなー」日記

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2009年09月22日
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カテゴリ: 超硬派
その絵の前はガランとしていた。

人気のない絵だったのだ。

僕だけが、立ち止まっていた。

真ん中にいるポケーっとしただけの女性が浮いている。
そして、その周囲には幼い子供の天使がいる。
じっくりみると、雲の形のように子供の顔もある。

ドラマティックな絵画が続いた後に、柔らかい温度が
その周囲にはある。

無理して生きなくてもいいんだって、予感に僕は
包まれる。

名前は「6人の人物の前に現れる無原罪の聖母」
画家はバルトロメ・エステバン・ムリーリョ。
17世紀のスペインの画家である。

         *

美術館に入場するまでに90分かかった。
それだけ、列が長かったのだ。

京都市美術館で開催されている
「ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画」
行ってきた。


開催終了直前の今日に行った。

時間の都合、そう、嘘じゃない。

実は僕「ルーブル展」と銘打っている展示会は
あまり好きではないのだ。
「ルーヴル展(もしくは、ルーブル展)」は名前だけで


大抵は、2、3枚有名な絵を持ってきて、他はルーヴルの
倉庫に眠っているような絵画でお茶を濁してしまうのだ。
だから、時代背景とかもバラバラだし、統一性がない。
有名な2、3枚を覗いては、絵として、感動を受けることは
少ない。
でも、人は異常に多い。
なにしろ「ルーヴル」なのだから。

今回は私の大好きなフェルメールもきているし、ベラスケスも
あるし、いきたいなぁって思った。

         *

90分、待ったのはしんどかったけど、展示会は
なかなか、よかった。

ただ、予想通り、目玉の絵とそれ以外の絵の差は
大きかった。

目玉のフェルメールの絵は小さかったけど布の雰囲気とかは
流石だった。

ベラスケスとその工房の絵は荒いタッチを繊細に積み上げ、抜群の
技量を示していた。

ムリーリョに心を惹かれたのは予想外だった。
恥ずかしながら、展示されているのを知らなかったのだ。
あったのか、という驚きをもって、その絵を眺めた。

彼のこの絵画には愛してあげたくなる何かが、あるような
そんな気がしていた。

         *

バルトロメ・エステバン・ムリーリョという名前は相当絵画に
詳しくないと知らないはずだ。
つまりは、人気がないのだ。

僕もNHKの 「プラド美術館」 をたまたま見なければ、
知りもしなかっただろう。

大きな理由は、彼以外に中世スペインには有名な
大家がいるからだろう。

中世のスペインで重要な画家を三名挙げろと質問を100人にしたら、
100人答えは同じはずだ。

ベラスケス、ゴヤ、そして、エル・グレコだ。

ベラスケスは、描くことへの技量の高さで、
ゴヤは、描く対象の主題の明暗の幅の大きさにおいて、
エル・グレコは、描く対象への形の強弱のつけ方において、
美術史そのものに影響を持っている。

この3人の印象が強く、ムリーリョはかすんでしまっている。

もう一度、ここを 「プラド美術館」 みて欲しい。

ベラスケス、ゴヤ、エルグレコは、それぞれ一回放送の割り当てなのに、
ムリーリョか、スルバランは二人で一回放送の割り当てである。

残念ながら、それが事実である。


         *

もし、あなたがここまで読んで、ムリーリョに興味を持ってもって
彼の絵を見ていたとしよう。

きっと、こう思うのではないだろうか。

なんじゃこりゃ?
聖母がどこに視線があるか、わからずにーボーっと
しているだけじゃないか。
めちゃくちゃ、ばかっぽいじゃないか、と。
しかも、背景もぼけーっとしていて、メリハリがないって。

確かに、それは否定できない。

受胎告知(天使からキリスト妊娠を告げられた場面)や
ピエタ(十字架からおろされたキリストを抱きかかえる場面)の
マリアは凛々しい。
神々しささえあり、近寄りがたき気高さだ。
ドラマチックであり、美しい。

僕は、そんな受胎告知や、ピエタの絵も好きだ。

でも、なぜだろう。
時々、飽きてくるのだ。
その絵の中のマリアは天使に一礼をし、あるいは亡くなって
しまったキリストを見つめているだけなのだ。

ふーん、という感じになってしまう。

         *

やがて、僕は実物のムリーリョの「無原罪の聖母」の前に
立つ。
右に二歩くらい、左に二歩くらい、ずれてみる。

どこに動いても、その無原罪の聖母は僕を見つめている
ように思う。
しかも、睨み付けるような鋭さではない。

僕の後ろの人に視線を合わせ、でも、僕から目を
そらしていない。

間違いなく、守られている、そんな人間としての
暖かさがムリーリョの聖母にはある。

だからだろうか。

聖母の周囲に描かれている天使達の表情には無理がない。
にこやかである天使、はにかむような天使、ちょっと
考え事をしているような天使・・・。
柔らかく、無理をせず、ナチュラルにそこにいる。

教義に縛られた宗教画というより、人が日常に欲している
家庭の温度がそこには感じられる。
きっと、それこそが、人間に必要なことではないだろうか。

絵画として、ムリーリョは実物と、印刷物などとの差が
出やすい画家なのかもしれない。

(予断だが、クリムトは実物と印刷物の差がもっとも激しい
画家だと思う)

         *

実際、ムリーリョは宗教画だけではなく、貴族ではない庶民を
描いた作品にも傑作が多い。

その瞬間や、表情はなにげないけれども、とても大切なものを
気づかせてくれる。

僕はムリーリョの絵をいくつか見たけれども、いつも同じような
暖かさを感じる。
作品の出来、不出来の差も少ない。
優れた技量も持っている。

悪い言い方をすると、ワンパターンだ。

         *
さて。

ここまで読まれて、あなたは思うかもしれない。
ムリーリョという画家は家庭に恵まれた画家だったのではないかと。
例えば、ルノアールが妻や、子供らとの日常の暮らしの中から
あのような柔らかい絵を生み出したのと同じように。

でも、実は、違う。

ムリーリョは幼くして両親を無くし、6人いた子供のうち、5人は
ペストで幼くして亡くしている。
生き残った1人も耳が聞こえなかったという。

だから、ムリーリョが自らの絵に描いた大切なものは現実に
彼が見て感じたものではない。

きっと、手に入れられなかったからこそ、心で強く望み、
筆を通じてしか描けなかったものなのだ。

         *

画家の人生と絵画を結びつけるのは、安直であり
危険であるは、わかっている。

ただ、僕はムリーリョの一連の「無原罪の聖母」の優しさには
彼の祈りが込められていると思う。
本当は、彼の目の前に、存在して欲しい、授けて欲しいという
祈りが。
その祈りが、柔らかい筆致をもつ技量と交じり合った時、凡百の
宗教画を超えた作品を生み出したのではないだろうか。
彼にとっては絵を描くことが神や不条理と向き合う宗教行為
そのものであったのかもしれない。

その祈りが強すぎたため、温かみしか描くことが、
特に晩年の彼にはできなかったのではないだろうか。

同じもの、同じことしか、描けない。
きっと、ムリーリョに関しては、このような厳しい言い方も
できるのだろう。

それが、明と暗、どちらもきっちりと見つめ、快楽に酔いしれ
さらには、狂気の近くまで降りていったゴヤとの大きな差
なのかもしれない。

ベラスケスや、エルグレコを超えられなかった理由でもあるのでは
ないだろうか?

         *

にもかかわらず、ムリーリョは素晴らしい画家である。
時の洗礼を経てなお、ここに彼の名前が残っている。

なぜなら、彼が祈った世界は絵を通じ、時間と場所を越えて、
僕たちに残っている。
少なくとも、僕には。

彼の希求し、強く祈りをこめた何かの温もりは僕らも
常に望んでいて愛しているものなのだ。


※もっと、「なんだかなー」なら『 目次・◎ものがたり 』まで





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最終更新日  2009年09月22日 21時59分14秒
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