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大雄山最乗寺の参拝後、御殿場線山北駅傍の「桜のトンネル」が見たくて訪れた。目的地をカーナビにセットしたが通い慣れた道で南足柄市から山北町へ。4月3日(金) 14:15県道74号線(小田原山北線)沿いに「P」の案内板があり山北町役場裏の臨時駐車場へ。山北町役場駐車場所在地:神奈川県足柄上郡山北町山北1301-4”やまきた桜まつり”の期間中は無料開放している。但し、閉門時間は16時であったか。駐車場の東側に建つ建物は「山北町生涯学習センター」。看板に「⇦ やまきた桜まつり会場」と。臨時駐車場を振り返る。桜まつりへの途中に咲いていたピンクの桜。この桜は満開前であったが品種は?。前方の建物はJR御殿場線沿いに建つ「町営サンライズやまきた」。山北町の水源環境保全・再生事業 案内図 ~ かながわの水源環境の保全・再生をめざして! ~水源環境保全・再生の取組 神奈川県では、豊かな水資源を損なうことなく次世代に引き継ぎ、将来にわたり良質 な水を安定的に県民の皆様が利用できるようにするため、平成19年度から水源環境の 保全・再生に取り組んでいます。また、その財源として、個人県民税の超過課税(水源 環境保全税)のご負担をお願いしています。施策展開の方向性 水源環境を保全・再生するために、次の事業に取り組みます。 ■森林の保全・再生をするために、公益的機能の高い森林づくりを行います。 ■河川の保全・再生をするために、水辺環境を整備して自然浄化機能を高めます。 ■地下水の保全・再生をするために、地下水かん養対策や水質保全対策を行います。 ■水源環境への負荷軽減をするために、ダム集水域において公共下水道や合併処理 浄化槽の整備を促進します。丹沢湖(三保ダム)のある水源地、山北町では将来にわたり良質な水を安定確保するために、水源環境保全税を活用して次の4つの事業に取り組んでいます。 ■地域水源林整備 ■河川・水路整備 ■地下水保全 ■浄化槽整備JR山北駅南口無人改札口になっている。山北町役場を利用する方はこの改札口を利用されるのであろう。南口改札口辺りから山北駅ホームを見る。明治22年に東海道線の開通で山北駅が出来た。昭和の初めに御殿場線になるまでは鉄道の町として大変賑わい主要駅として栄えていた。ホームの西側に駅の南北を連絡する跨線橋が架かっている。観桜後渡ったが、バリアフリー化されていた。ホームに建つ待合室か。右上の山の中腹を東名高速道路が走っている。ホームに立つ「道了大薩埵」と刻まれた石柱。大雄山最乗寺に関連する石碑だが説明板が立っているのか。跨線橋の南側にソメイヨシノが満開であった。この辺りから南北の連絡跨線橋が架かっている。ホームは島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホーム北側が1番線、南側が2番線であり、基本的に1番線を上り列車、2番線を下り列車が使用する。かつては、現在あるホームの南側にも島式ホームが設置されていた。山北町健康福祉センター所在地:神奈川県足柄上郡山北町山北1971-2山北駅の南側にある山北町健康福祉センターの3階にさくらの湯がある。町民以外でも2時間600円で利用でき、ちょっとした銭湯であると。入口に「ともしびショップさくら 営業中」の案内。入口に貼られていたポスター。「第53回 やまきた桜まつり イベント日 3月29日(日) ソーラン山北よさこいフェスティバル 4月4日(土) 期間:3月24日(火)~4月7日(火) 場所:神奈川県山北町 鉄道公園周辺 期間中のライトアップ 午後6時~10時迄」。 館内に入ると1階に「山北町健康福祉センター受付」。向かい側にある「ともしびショップさくら」から撮影。ともしびショップさくら数人のおばちゃんたちが営業しておられた。朝購入した駅弁があったが昼食をとっていなかったので食事をすることに。ともしびショップさくら 食事メニューいろんなものがあったが「とろろそば」をオーダー。こちらにも”ともしびショップさくら”と。 飲物、軽食、ご飯の部 パート1、麺類、そば・うどん。どれもリーズナブルな価格であった。とろろそば 600円リーズナブルな価格で美味しかったが量が少々少なかった。売店コーナーで「河村新城 御城印 1枚 300円」が販売されていた。山北町健康福祉センター1階フロア―。1階フロア―の北側に休憩用椅子があり山北駅ホームが見えていた。入選写真が貼られていた。[入選]神奈川県観光協会会長「夜桜トンネルを抜ける」内田篤史 (開成町)ともしびショップさくら健康福祉センターの壁面に「公共交流スペース案内図」。健康福祉センターの西側に「山北鉄道公園」があった。手前に駐車場があり、西側に売店、テーブル席があり多くの観光客がおられた。山北鉄道公園公園自体は小さく、鉄棒、バネを使った遊具、SLを模した滑り台付きの遊具程度。また、御殿場線で活躍したD5270蒸気機関車が静態保存され、イベント会場になっている。目的地の桜が満開であった。ちょうど上り線が入線していた。覆い屋の中に蒸気機関車が保管展示されていた。D5270蒸気機関車の代名詞である、D51デゴイチよりも大きなボイラーを持つ、貨物用最大の蒸気機関車D52型70号機。静態保存されており、圧縮空気を動力にして動くと。側面から見るが保護柵が邪魔である。このD5270蒸気機関車は悪天候などを除き、月一で整備運行を実施していると。(日程は決まり次第、山北町役場HP及び山北町観光協会HP新着情報で更新)。なお、運転距離は公園内の現行軌道を12m延長して、わずか動輪2回転分と少ない。蒸気機関車を走らせる力はなんの力でしょうか 湯わかしの水がふっとうする時ふたがもちあがることがあります。これはなんの力で、 もちあがったのでしょうか。左と右の2つのことと蒸気機関車を走らせる力とどこが同 じか考えて見ましょう。 また、左のような実験をしました。まもなくコルクせんは、いきおいよくとびだします。 これはなんの力でしょうか。 水が水蒸気に変わる時には、その体積は1,700倍にふえます。もしとじた容器の中で水 を、熱して水蒸気に変えると圧力は非常に大きくなります。この原理を利用したのが蒸 気機関車です。私の大きさ D形(動輪四対 貨物用)52形(テンダー機関車) 最大馬力 1,600馬力 (最高速度) 75km/H 機関車の全長 20,550mm (先水車長さ 8,775mm) 機関最大高さ 3,980mm (先水車高さ 3,060mm) 機関全重量 96t (機関部74t+炭水車22t) 石炭の積載量 10t 炭水車水容量 25t 車輪の直径 (動輪1,400mm 炭水車車輪860mm)D52形蒸気機関車の内部と名称運転席へのタラップがあったが。D5270号ごあいさつ私は52形蒸気機関車といって、日本で一番大きく力の強かったテンダー機関車です。そしてD52形兄弟の70番目の生れです。私は昭和19年4月に生れてから山陽線や、東海道線で、働き昭和26年2月国府津機関区に配属になってからは、ほとんど御殿場線で活躍し皆様と一緒にこの山の間を何百回と走りました。私の走った全距離は862,275kmです。私は本来貨物列車用ですが、御殿場線のような山線で勾配の大きい線路では旅客列車も引いておりました。御殿場線が昭和43年8月1日全線に電車が走るようになったので私のつとめも終りになりましたので、この山北町の皆様と国鉄当局のご協力によって、この場所に記念として置いて下さるというので安心しました。これからは皆様と一緒に昔なつかしい思い出ばなしをいたしましょう。どうか皆様、お子様方も可愛がって下さい。記念碑には、「東京鉄道局新橋管理局 山北機関区跡 昭和十八年三月十三日建之 昭和三十八年三月十三日建之 山北機関区□□会員一同」。こちらは判読できなかった。動輪であったか。山北鉄道公園から東側を振り返る、売店では軽食、飲料水を販売していた。ビルは3階にさくらの湯がある山北町健康福祉センター。遠く右上の山頂に白い建物。14:45ズームアップ、?山の頂上に立地する”株式会社トヤマ”である。食堂から富士山が望めるビュースポットであると。いつか訪れたいと思っているが。 ー 続く ー
2026.05.06
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大雄山最乗寺の境内から下り途中「バス停道了尊」へ駐車して散策した。4月3日(金) 13:25大雄山最乗寺茶屋最乗寺境内から下る途中にある土産物、飲食店である。傾斜地にあり無料駐車場がある。左側にも茶屋があり「自家特製 おでんみそ」の看板。また、県道723号線(関本小涌谷線)の起点・終点である。傾斜地に建つ「大雄山最乗寺茶屋」である。昔からある老舗の土産物店、飲食店である。電話ボックスの上には”九葉の羽団扇(はねうちわ)”があった。観光案内板があり、苔むした路面には天狗が描かれたタイルが埋められていた。大雄山最乗寺大雄山最乗寺は、室町時代の初めに了庵慧明禅師により創建された曹洞宗の大寺院です。開創以来六百年以上の歴史をもつ霊場で、全国四千余りの末寺をもっています。最乗寺を「道了さん」と呼ぶのは、開山を助け多大な力を発揮した道了尊(妙覚道了大菩埵)によるものです。道了(尊)は寺院建立後、「今より先、永遠にこの山に在って寺を守護し、人々の苦を救い利益をもたらす」と唱えて、天狗となり飛天したと伝えられています。その霊験を信じて最乗寺が道了さんとして信仰を集め、天狗にちなみ、寺には九葉の羽団扇(はねうちわ)や天狗が履く多くの下駄が奉納されています。天狗伝説の里てんぐのみち仁王門から道了尊バス停までの約2kmの遊歩道。1万株のあじさいや林床のシャガなど四季折々の花が咲き、秋には紅葉と訪れる人々の目を楽しませてくれます。また、樹齢四、五百年の杉並木は「神奈川県の天然記念物」「かながわの美林50選」に指定され、森林浴も楽しめます。 南足柄市参道入口に大きな石燈籠が立っていた。ジオサイトに佇む文化遺産 1 最乗寺 (saijyoji)箱根外輪山の裾野に建つ修行専門道場「最乗寺」最乗寺は箱根火山の一つである明神ヶ岳の裾野に建っています。境内を流れる川の石も、箱根火山起源の溶岩です。最乗寺は応永元年(1394年)に了庵慧明禅師が開山しました。鶴見の曹洞宗大本山総持寺の直属の末寺にあたる修行専門道場で、全国に四千余りの門流を持っています。曹洞宗は禅宗の一派で、最乗寺では現在でも多くの僧が修行に励んでいます。南足柄市指定文化財 大雄山杉林現在、最乗寺の寺域には17万本の杉があると言われ、中には500年を経過したものもあります。この杉は信者の寄進によって植えられ、守られてきたもので、江戸期に約50万本、明治以降に約50万本の寄進があったと推計されます。この豊かな森は、水源涵水の役割もあり、狩野の清左衛門地極地などに豊かな水を届けています。松平大和守直基の墓 南足柄市指定文化財松平大和守直基は徳川家康の次男である結城秀康の五男にあたります。直基の墓は、将棋の駒形をした安山岩製で、高さ400cm、幅135cm、厚さ94cmの大きさです。直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者である徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています。多宝塔 南足柄市指定文化財最乗寺の多宝塔は、神奈川県下で唯一の多宝塔遺構であり、曹洞宗の寺院としては珍しく、内部には多宝如来を祀った厨子が安置されています。安気地蔵尊 (あんきじぞうそん)右側のガラス戸に「大雄山 子育延命 安気地蔵尊」と。祈願かお礼参りの方か上ってきた時から門前に人だかりがあった。唐破風の入口柱に「安気地蔵」「宗教法人 大慈院」と。扁額には「延命子育 安氣地蔵尊」と。 内陣を覗き見る。手前には大きな”九葉の羽団扇(はねうちわ)”が置かれていた。祭壇をズームアップ。大雄山最乗寺境内への入口には対の石灯籠(写真はネットから)。境内手前の駐車場へは右側から進入。三門まではニ三百メートルであるので登ることに。普通車は右側から進入するが「大型車進入禁止」の看板。中央の参詣道を登ることに。苔むした石碑には、「大雄山最乗寺は應永元年了庵慧明禅師によって開創された曹洞宗の古刹です。 この了庵禅師に随侍されたのが妙覚道了薩埵で十一面観世□菩薩の化身といい伝えられ 今もなお当山の護持と多数信仰者の守護のために法力を不断に発揮しておられます。 更に当山は当初より□材として多くの雲□の禅修行の道場として著名なることは周知の ところです 應永元年から五百七十八年 昭和五十一年一月十五日 大雄山最乗寺□住第十七世 形山□映」。杉林の中に明神ヶ岳からの沢が流れる。川向うに公衆トイレがあった。杉が聳え木漏れ日の中の参詣道を登る。樹齢四五百年の杉の根元。参詣道脇には伐採された切り株も。杉林の中に三門が建っていた。三門の全景が入る撮影場所がなく杉の根元から見上げる。道了尊三門平成22年(2010)にお寺を建てた、了庵慧明禅師が亡くなってから600年を記念するために建てられて、平成15年(2003)10月27日に完成した門である。門の形は2階建てで一階に屋根がある門で名前は二重門という。高さは22mの高い門で二階には、22体の仏像が祀られていると。三門の扁額「大雄山」。三門の間から上側の参詣道を望む。いつも車で来て境内横の駐車場へ停めるので歩かない参詣道である。三門を潜り奉納碑が並ぶ参詣道を望む。三門を潜り上側から振り返る。樹々は芽吹き前だが、秋の紅葉時にも絵になるポイントである。秋の紅葉シーズンにも訪れてみたいスポットである。太鼓橋を渡ると右奥に公衆トイレがある。紅白の幕で飾られた”大雄山最乗寺茶屋”。右側の看板には、「道了尊売店 そば処メニュー 天狗そば・うどん 890円 てんぐセット 1,080円 とろろそば・うどん 870円 椎茸そば・うどん 850円 えび天そば・うどん 1,130円 大判かき揚げそば・うどん 1,080円 ・・・ みそおでん 3本 300円、5本 450円 いなり寿司(2個) 240円 ドリンク類も ジェラートアイス ¥400」と。いろんなお土産物を販売していた。”天狗葉扇煎餅みそ”をお土産で購入 ¥540バス停「道了尊」バスのりば「道了尊」。左後方には「てんぐのこみち案内図」。バスは「大雄山駅行き」で時刻表は、 8:00 25 50 13:00 25 55 9:15 50 14:25 10:20 55 15:00 11:35 16:00 17:00 と頻繁に運行していた。バス停横にも奉納碑が立っていた。仁王門横の枝垂れ桜を再度愛でる。13:45この後、坂を下り足柄平野を北上し今日最後の目的地「やまきた桜まつり」へ向かった。 ー 続く ー
2026.05.05
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大雄山最乗寺の散策を始める。4月3日(金) 12:45駐車場脇に咲いていた枝垂れ桜。予想どうり満開の枝垂れ桜が迎えてくれた。駐車場には他府県ナンバーが多かった。大雄山最乗寺には何度も参拝しブログアップしているので、今回は主目的である本堂周りの枝垂れ桜のみを撮影ブログアップします。駐車場全景図(全254台)境内下にあり無料で開放されている。黄色星マークの右側に駐車して参拝。上記現在地から左側の参詣道へ階段を下りる。車椅子の場合は右側から境内へ入れる。下の看板に「参道順路」と。三門からの参詣道へ下り瑠璃門へ向かうことに。参詣道には苔むした歴史を感じさせる奉納碑が立ち並んでいる。明治三拾年ごろの奉納碑で「金壹百圓」と。参詣道の下のバス停側には三門が見えていた。仁王門からの参道約3kmには樹齢500年以上の杉並木(県天然記念物)がうっそうと茂っている。三門をズームアップ。帰路に立ち寄ることに。瑠璃門側の階段。夏に参拝すると杉並木に覆われ暑さを凌げる空間である。参詣道の両側には石灯籠、多くの奉納碑が立ち並んでいる。通用門である”瑠璃門”への階段を上り境内へ。左側は「宝物殿」。瑠璃門四本の柱の上に笠木を渡して切妻造り本瓦葺きの屋根を載せる薬医門になる。左右の四本の柱の間に瓦屋根が載る回廊(通路)が付いていて中を行き来することができる。瑠璃門の扁額は山号の「瑠璃門」。多くの千社札が貼られていたが最近は禁止になっている寺院が多いが。右側に総受付があり御朱印が頂ける。瑠璃門の入口に「総受付はこの門を入って右側です」とあった。大雄山最乗寺全景大雄山最乗寺(道了尊)の草創応永元年(1394)。福井県の永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗のお寺である。創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれている。この道了にちなんで、境内には多くの下駄が奉納されている。また、仁王門からの参道約3kmには樹齢500年以上の杉並木(県天然記念物)がうっそうと茂っている。光明亭越しの本堂前には2本の満開の枝垂れ桜が聳えていた。光明亭の濠では小亀が甲羅干し。濠の周りのツツジも整姿され開花時も楽しみだ。本堂、大香爐、2本の枝垂れ桜が満開。昨年3月23日に、”南足柄の春めき桜”を見に来た時立ち寄り参拝したが、その時の枝垂れ桜は固い蕾であったのだ。大香爐前から境内を見る。光明亭、書院、総受付の白雲閣を望む。大香爐の傍に建つ僧堂(座禅堂)。聖僧文殊菩薩を祀る所から僧堂と呼ばれている。室内は撮影禁止になっていた。僧堂の扁額は「□佛□」。この光景を見たくて来たが満開であった。本堂 (護国殿)大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し全国に4千余りの門流をもつ寺である。御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏(わきじぶつ)として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。開創以来6百年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ。昭和29年(1954)に再建された。間口15間、奥行12間。昭和を代表する仏教建築家、伊藤忠太氏の設計であると。右側の枝垂れ桜逆光になったが左側の枝垂れ桜。花びらが散ることもなくちょうど満開になったようだ。本堂の扁額「護国殿」。内陣に入り、御本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏(わきじぶつ)として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場である。内陣の扁額「最乗寺」。本堂の南側にも堂塔が多くあるが何度も参拝しているので今回はスルーした。本堂前に立つ銅製の燈籠。南側に回り込み枝垂れ桜を見上げる。本堂前の北側に聳える枝垂れ桜。今年はタイミングよく訪れることができた。本堂前北側から2本の枝垂れ桜を見る。階段を下り下から見上げる。光明亭の濠越しに見る。光明亭の濠に映える枝垂れ桜。再度本堂下へ、見納めの枝垂れ桜である。大雄山最乗寺の枝垂れ桜を楽しんだ一時であった。ツツジも整姿され4月下旬には満開になっているのであろう。最乗寺境内を後にし駐車場へ。ミツバツツジが奇麗に咲いていた。満開のミツバツツジ。ズームアップ。境内方向を振り返る。駐車場への傾斜地にも枝垂れ桜が植えられていた。ズームアップ。駐車場脇に咲く枝垂れ桜。ズームアップ。13:20駐車場へ戻り下を見ると、出口側にも枝垂れ桜が植えられていた。十数年後には成長し枝垂れ桜の名所になっているのであろう。 ー 続く ー
2026.05.04
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六本松跡がある曽我丘陵から西側斜面のみかん畑を下る。4月3日(金) 11:20六本松跡を後にし次の目的地「祐信宝篋印塔」へ向け曽我丘陵の西側を下ることに。六本松跡にあった案内板、 祐信宝篋印塔 700m 15分 忍石 300m 5分 ⇗ 城前寺 2000m 35分 宗我神社 2000m 35分下る途中に設置されている案内板。ウォーキングコースになっているので距離数も書かれ親切である。目的地までは「伝曽我祐信(すけのぶ)宝篋印塔 540m」と。みかん畑の中にある農道は狭かったが奇麗に舗装されていた。歩くと登るのはつらいが下ってくるのは足柄平野が見え最高のロケーションであった。吾輩はカーナビの案内で目的地へ到着、案内板があったので道路脇へ駐車。曽我の里散策コース・国府津曽我丘陵ウォーキングコース下には「伝曽我祐信宝篋印塔 入口」と。伝曽我祐信宝篋印塔所在地:神奈川県小田原市曽我谷津1159農道から上がると林の中にポツンと宝篋印塔が立っていた。何故このようなところに立っているのかと一瞬思ったが。管理人の方がおられるようで奇麗に整備されていた。塔の前にも新しいお焼香台。小田原市指定重要文化財(昭和三十六年三月三十日指定) 曽我祐信宝篋印塔 (所在地)小田原市曽我谷津1159 (所有者)神保 厚昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘をもたないので、造塔の意図、年時、造立者、大工名など、一切不明ですが死者往生を本願としたものと思われます。塔の総高は220センチ(基壇を除く)に達し、基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられています。関東における基本的な様式を備えた大宝篋印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。 小田原市教育委員会宝篋印塔前から見上げる。日もさほど当たらない鬱蒼とした中にあった。南側に農道がある。宝篋印塔入口から足柄平野の小田原市街地方向を望む。遠くには真鶴半島が見えていた。この後、4月上旬は「大雄山最乗寺の枝垂れ桜」が見頃であるので向かうことに。大雄山最乗寺は足柄平野の西側に位置するので酒匂川を渡り南足柄市へ走ることに。道了尊仁王門前バス停所在地:神奈川県南足柄市大雄町酒匂川を渡り大雄山駅前を走り抜け、狩川から県道723号線(関本小涌谷線)を上り「仁王門バス停」へ。仁王門横の桜が見事に咲いていたので駐車した。バス停横にそろそろ手入れが必要な案内板があった。大雄山最乗寺参道二十八宿道標二十八宿石燈籠は、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道しるべです。一丁目から二十八丁目の道程を知らせるとともに、宵祭りの参道を照らし参拝者を安全に導く燈籠として設けられたものです。燈籠は、元治元年(1864)小田原誠信社中、及び明治40年(1907)東京浅草新吉原講中によって建てられました。仁王門バス停上って来てこの光景を見て駐車した。先には枝垂れ桜も咲いていた。ソメイヨシノであったか満開になっていた。ピンクの枝垂れ桜も満開になっていた。バス停から上り三叉路からの北側の道路脇に枝垂れ桜並木があり満開であった。交差点の角に各方面への案内板があった。道了尊仁王門安政元年(1854)建立で、最乗寺最古の建物である。門前には桜の花びらが散っていた。大雄山最乗寺、道了尊さんの仁王門で、これより先が「境内」となると。仁王門は右側に阿形像、左側に吽形像の二体の金剛力士像が安置された朱塗りの門である。左側に「最乗寺専門僧堂」の扁額を掲げている。仁王門の扁額「東海法屈」。仁王門の右側に聳えるソメイヨシノと枝垂れ桜。仁王門横の石碑に、「明治三拾□壹年十月 仁王門修繕壹式 東京一心講」と。右側の阿形像の金剛力士像。金剛力士は金剛杵とゆう武器を持ち仏法を守護する護法神で、二体の尊像が祀られている門を仁王門とう。左側の吽形像の金剛力士像。大雄山茶屋天んぐ 仁王門本店所在地:神奈川県南足柄市大雄町1125-2大雄山にある和菓子屋さんで、甘味処やランチを食べることが出来ので一度は寄ってみたい。土産物も販売しており店舗脇に無料駐車場がある。食事は要予約であるか確認が必要。女性好みの上品な甘味である。茶屋天んぐと仁王門以上3枚の写真はネットから借用。仁王門を潜り三叉路からの北側を望む。奥には行かなかったが南足柄市の枝垂れ桜絶景スポットである。奥をズームアップ。バス停から東方向の足柄平野を見下ろす。バス停から再度枝垂れ桜を望む。道路脇に「ようこそ 天狗の里 道了尊へ 大雄山 最乗寺」と。仁王門バス停から杉並木の県道723号線(関本小涌谷線)を上る。右側に一丁目から二十八丁目までの遊歩道がある。スギ林の中に桜が咲いていたので駐車して撮影。12:35満開の桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.05.03
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引き続き光明寺の桜を愛でる。4月3日(金) 10:35とこしえの塔永代供養納骨堂『とこしえの塔』は、相模の海に向かい、霊峰富士、伊豆・箱根連山を望み、四季折々に変化する小田原市国府津山の緑を背にした静寂な高台に位置していますと。前回訪れなかったので今回お邪魔した。富士山は見えなかったが絶景スポットである。とこしえの塔この塔は、墓地承継者のおられない方、個人・夫婦等の単位で埋葬されたいと希望される方々のために設立された、会員制・とこしえの塔の会の永代供養納骨堂です。これらの諸精霊が阿弥陀如来の慈愛に抱かれ、輝く魂へと昇華されますように、また、恒久の世界平和を願って、光明寺およびとこしえの塔の会が永代にわたってご供養するものです。阿弥陀如来座像とこしえの塔横から、墓地、足柄平野、富士を望むが富士は見えていなかった残念。天気が良ければ絶景スポットである。平成8年(1996)に開創700年記念事業の一環として永代供養納骨堂「とこしえの塔」を建立したと。ライトアップ用のランプが設置されていた。東側の斜面にはシャガの群生地があった。一輪をズームアップ。とこしえの塔を後にする。ソメイヨシノの老木の幹から芽吹いた若木も開花していた。生命力はあるようだが近年病気になる木が多いと。境内の東側は傾斜地で竹林が迫っていた。今年のタケノコは・・・。見上げる。富士山が見えておれば隠れた絶好の撮影スポットであったのだが。傾斜地に鎮座していた社殿は。鳥居が立っていたが扁額もなく不明。住職に聞けばよかったのだが。本堂前へ下り立つ。4月5日(日)に”花まつり・お花見の会”が盛大に開催され、住職の法話も聞ける。光明寺の桜を楽しみ、次の目的地はこれも前回歩いた「剱沢川沿いの桜並木」へ。剱沢川沿いの桜並木所在地:神奈川県小田原市田島 玉泉寺周辺前回「国府津・曽我の里散策コース」の玉泉寺を参拝した時、この桜並木を知り再度訪れた。剱沢川に架かる尾田原橋の西側に玉泉寺がある。橋の袂に石柱があり「平成十六年度 宝くじ桜植栽地」と。今年は平成16年度(2004)に植えてから22年を経ており巨木の桜並木になっている。駐車場がなく交通量も少ないので道路脇に車を停め撮影。満開のソメイヨシノズームアップ。剱沢川の上流側。川の東側は遊歩道になっているのでのんびりと散策できるコースである。車の交通量も少なくのどかな桜並木である。下流側を望む。剣沢川沿い(約700m)で桜が楽しめる、小田原田島地区の「田島桜の里」。晴れていれば、富士山も望めるスポットであると。小田原城の桜は多くの観光客が訪れるが、ここは市民の隠れた憩いの場になっている「田島桜の里」であると。”剱沢川沿いの桜並木”の最上流部に架かる「剣沢橋」へ移動。剱沢川の下流側の遊歩道(東側)。舗装されていないので水溜りも・・・。剣沢橋上から下流側を望む。右側には近くに鎮座する「津島神社祭禮」とあった。西側の車道を望む。ここから下流側に約700m続く桜並木である。剣沢橋の袂から東側の曽我丘陵地を望む。この後この丘陵地にある「六本松跡」へ行くことに。この後この狭い道を進んだ。前回訪れた時は左側でおばあちゃんがみかんを売っておられたが。剣沢橋の袂で目的地を「六本松跡」にして梅林の間を抜け上ってきた。目的地の”六本松跡”へ到着。所在地:神奈川県小田原市曽我谷津中央上の道路脇へ車を停め、上ってきた道を振り返る(右側)。左側の道を下ると「一本松跡 500m」へ。上ってきた坂道を見下ろす。道路脇に立っていた「ウォーキングコース案内図」。曽我の里散策コース 見晴らしコース ●所要時間 約2時間10分 距離8.6km 里コース ●所要時間 約1時間23分 距離5.5km 国府津・曽我丘陵ウォーキングコース ●所要時間 約3時間 距離11km国府津・曽我の里散策コース ●所要時間 約2時間40分 距離7.9km曽我の里散策コース ●見晴らしコース ●里コース をズームアップ。国府津・曽我丘陵ウォーキングコース 城前寺 2,200m 一本松跡 500m 下曽我駅 5,400m 国府津駅 5,800m R3.3 小田原市観光課六本松跡古代千代台地は師長国の府中で、この地方の文化の中心地であったので、西からの旅人は皆ここに寄って、この道を、目指す坂東や奥羽へと向かったと推定(弓削道鏡等)される。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、上洛や富士の巻狩りなどにこの道を通り、いまも鎌倉山、将軍山また豪族中村氏がお出迎えした所を「大迎え」などの地名が残っている。また、この地の豪族が鎌倉に馳せ参じた鎌倉街道でもあり、坂東三十三番観音の五番勝福寺から六番長谷寺に詣る巡礼道でもある。戦国乱世のころ、京の聖護院准后道興は「答えする 人こそなけれ 足曳の 山彦山は嵐吹くなり」を詠み、降って元禄のころ、松尾芭蕉は「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」。門人の白雄は「人の知る 曽我中村や 青嵐」その後、蕪村も「雨ほろほろ 曽我中村の田植かな」と詠んだ。この六本松の地名となった最後の松の大樹は、明治の終わり頃惜しくも長い一生を終わっている。車で「忍石」へ行こうとしたが道が狭く途中で引き返した。忍石への小径から振り返る。忍石への曽我丘陵から南東方向を見下ろす。手前に二宮の吾妻山、左に平塚の湘南平テレビ塔展望台、遠くに三浦半島が見えていた二宮の吾妻山をズームアップ。平塚の湘南平テレビ塔展望台をズームアップ。六本松跡へ戻ると石碑が二基立っていた。石碑には「六本□趾」と。松尾芭蕉句碑字は読めなかったが「ほととぎす 鳴き鳴き飛ぶぞ いそがわし」か。この碑は芭蕉復興運動を行った加舎白雄が立てたものであるとされている。11:20次に向かったのは上って来た坂を下り「祐信宝篋印塔 700m」へ。 ー 続く ー
2026.05.02
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今年2月4日(水)に、”関東三大梅まつりの下曽我の梅林”を訪れた時、国府津駅から御殿場線の下曽我駅まで歩いた。その時「光明寺の参道の桜並木」がビュースポットであることを知り、ソメイヨシノが満開のこの日愛車のノートで訪れた。4月3日(金) 9:55西湘バイパスの大磯西インタから国道1号を走りJR国府津駅へ。国道1号(旧東海道)の国府津駅前交差点を右折して駅前へ。前回来た時、駅前にある「東華軒」で駅弁を買おうと思っていたので立ち寄ることに。国府津駅前駅前に一般車用の駐車場が分からなかったので東華軒東側の広場へ駐車。駐輪場の先に小さく富士山が見えていた。東華軒 ハローズ国府津店所在地:神奈川県小田原市国府津4丁目2明治21年(1888)7月1日構内で駅弁販売を開始した(東海道本線初の駅弁とされる)。明治21年、竹の皮に包んだ握り飯から始まってから、100年余り、伝統の味を守りつつ、新しい味にも挑戦しつづけておりますと。期間現地の「いいところ弁当」をランチ用で購入。久しぶりに駅弁を購入したが、1,480円と高騰していた。美味しそうないろんな駅弁があった。売店のみで工場は別の場所にあると。かつては売り子さんが立売箱(たちうりばこ)に駅弁を入れホームに立っていたが。今はそんな風情も見かけない。昼のランチにする予定であったが食べる機会を失い自宅へ戻り夕食の膳に。20~30センチほどの容器であるが駅弁ならではの飾りつけが日本文化か。いろんな食材が使用され味は言うまでもなく美味しかった。時宗光明寺所在地:神奈川県小田原市国府津1082最初の目的地光明寺へ。境内から相模湾や富士山、箱根連山の眺望が眼前に広がり、境内を囲む桜や新緑の木々が四季折々の美しさを見せてくれる。駐車場はこの参道を上り境内に有ったのでとりあえず狭い参道を進入した。境内に車を停め参道入口へ下りることに。住職がおられたので参道脇にネコちゃんがいた。参道入口に「花まつり お花見の会」と書かれた幟旗が立っていた。参道入口に立ち見上げる。参道入口の掲示板に、「お釈迦様の誕生をお祝いし、お花見を楽しもう 第30回 (光明寺) 花まつり・お花見の会 (光明寺檀信徒でない方でも、ぜひご参加ください) 開催日 4月5日 (日) 小雨決行 場 所 光明寺境内(開催中、夜間ライトアップ) 第1部 お花見の会(午前11時より) 第2部 花まつり(午後1時30分頃より)この光景を見たくて来たが光明寺参道に咲くソメイヨシノは満開であった。御殿場線の国府津駅方面。御殿場線の下り下曽我、山北、御殿場方面。参道入口に”近郊の道案内”があった。国府津・曽我丘陵ウォーキングコース 菅原神社 200m 西山農道休憩所 1,200m 国府津駅 1,000m 上町隧道 2,800m 六本松跡 4,200m R5.12 小田原市観光課参道入口から西方向を望む。ここからは富士は見えなかった。高架橋は御殿場線。参道入口から急な坂を登り本堂裏の墓地へ。光明寺の傾斜地に、「霊苑分譲中 ○一般墓地 ○後継者を必要としないお墓 永代供養納骨堂 「とこしえの塔」(生前契約可)」。参道を戻り境内へ。寺号標石に「時宗 海向山 光明寺」。参道に植木屋さんと住職が”花まつり・お花見の会”が近いので清掃しておられた。住職が「ソメイヨシノも70~80年を経過し病気になり、新しい品種を植えている」と。参道に咲く満開のソメイヨシノを見上げる。二日後の”花まつり・お花見の会”には散り始めているか。参道を上り見下ろす。ソメイヨシノは戦後に植えられたようで我が年輪と同じ。本堂前のソメイヨシノ。見上げると満開であった。本堂右側に立っていた観音像。本堂の右側に廻り前回見なかった六地蔵。また、花まつり・お花見の会が近いので提灯が吊るされていた。六地蔵尊にも花が供えられていた。水子地蔵尊石垣に地蔵が立っていた。途中、富士山が顔を出していたので本堂裏の墓地へ廻ったが雲の中であった。足柄平野を見下ろす。枝垂れ桜はまだ開花しはじめであった。南側の参道入口方向を見下ろす。光明寺西側の斜面に咲くソメイヨシノ。高架橋を御殿場線の電車が走る。満開の桜と電車。青空に映えるソメイヨシノ。まだ蕾の桜もあった。10:30御殿場線の高架橋、左側には東海道本線の電車。箱根の山並みが見えていた。 ー 続く ー
2026.05.01
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女坂最終処分場周りにある女坂花桃の道を反時計回りに散策。最終処分場の北側にあった薬王寺を参拝。4月2日(木) 15:55日蓮宗妙龍山薬王寺所在地:神奈川県藤沢市用田141道路脇に寺号標石「日蓮宗 妙龍山 薬王寺」が立っていた。後方には開花前の桜。掲示板に、「今月の聖語 吉事には八日をつかひ給ひ候也」と。薬王寺本堂。明治10年(1877)、尾上ハマ尼によって薬師菩薩を祀る薬師堂が建てられたのが、この薬王寺のはじまり。関東大震災で倒壊し、しばらくの間廃寺となっていたが、平成8年に現在の3代目住職によって再興されたと。日蓮聖人像台座に「立正安国」と。上空を見ると厚木基地への帰還機。この時間帯次から次と帰還していたがどこから来ていたのか。4発の大型ジェット機である。銅板葺き屋根の本堂。本堂の扁額「薬王寺」。本堂左前に覆い屋があり像が立っていた。水かけ用の柄杓もあったが。右側には、座像、記念碑が立っていた。右から「開堂廿五年祭記念碑」「南無妙法蓮華経」「開堂五十年祭記念碑」と刻まれていた。覆い屋の中には座像。座像をズームアップ。慈悲のあるお顔であった。本堂前から南側の参道を見る。新しい大きな石燈籠が対で立っていた。本堂の左奥に駐車場、トイレがあった。”女坂花桃の道”の案内板に書かれていた利用トイレである。薬王寺脇の坂道にも花桃が植えられていた。この道を北へ向かうと中原街道(県道45号線)と合流する。女坂花桃の道周辺へ戻る。薬王寺を見る。女坂最終処分場の西側に植えられた花桃並木。こちら側は臨時駐車場から車椅子で来れ新幹線の跨線橋辺りまで散策できる。花桃をズームアップ。ピンクの花桃。白の花桃。並木を振り返る。まだ若木だが十年後には。花桃をズームアップするがまだ若木で樹高も低かった。女坂最終処分場のフェンス越しに南側の花桃を見る。臨時駐車場入口へたどり着く。ここから南下、すぐ左折して反時計回りに散策した。約1時間の散策であったが最終処分場の目隠し用?のフェンスが景観を損なっていた。臨時駐車場の南側のフェンス。せめてこちら側のフェンスは不要ではと思うが。フェンス越しの花桃並木。花桃をズームアップ。ピンク、白の花桃。花桃を楽しませていただいた。駐車台数は約30台とあったが広かった。北側のフェンスで最終処分場を囲っている。浸出水処理設備処理施設は「凝集沈殿、砂ろ過、活性炭処理」をして下水道放流している。興味ある”浸出水処理設備”をズームアップ。北側にある薬王寺を望む。最終処分場はシートで覆われて破砕不燃物・焼却灰が埋められている。東側の花桃並木。こちら側が木も成長して見応えがあった。約1時間と短い散策であったが花桃を愛で後にした。10年後の光景が楽しみであるが。16:25馬頭観音・庚申塔・道祖神・地蔵堂所在地:神奈川県藤沢市用田252アップダウンの帰路の途中に史跡があったので駐車。振り返ると花桃。中原街道への途中にあった史跡である。地蔵堂赤頭巾と前掛けで飾られたお地蔵様であった。右から「馬頭観世音・双体道祖神・庚申供養」と並べられていた。来た道を振り返ると花桃が栽培されていた。植木鉢に植えられた花桃。天気の合間に訪れた花桃であった。5月のGWは”長野県阿智村の「花桃の里」”は混雑しているのでは!阿智村の「花桃の里 2026見頃・開花状況・花桃まつり」👈をクリック願います! END
2026.04.30
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”女坂花桃の道”を引き続き散策。4月2日(木) 15:30東海道線沿いの南側から上ってきて南東部に位置する新幹線の跨線橋。この跨線橋を渡ると南側に女坂スポーツ広場があり駐車場もある。跨線橋に「お願い」「投込み禁止」の2枚の掲示。この場所は「46K115M JR東海 湘南保線所」と。大阪側にある”女坂花桃の道(南側)”。新幹線車内からこの景観が確認できるか。東京方面を見下ろす。撮影用の100φmmほどの覗き窓が欲しいものだが。天気が良ければ富士が見えるのであろうか。ズームアップ。下り線の東京方面に新幹線が見えた。現在の東海道新幹線の最高速度は270キロである。因みに他の山陽・東北・上越新幹線は300キロ、北陸・九州・北海道新幹線は260キロで運行している。東京方面の線路。北側に”厚木海軍飛行場”があるので上空を軍用機が着陸態勢に。跨線橋の南側から北側を望む。跨線橋の上から女坂最終処分場東側の花桃の道を見る。こちらにも「花桃基金」があった。「この花桃は地域の奉仕活動です 花桃基金にご協力ください 女坂に花桃を育てる会」。 「トイレは薬王寺境内にあります。(注意)トイレは綺麗に使用してください!」と。昨夜の雨で散った花びらが路面を彩っていた。昔から中国では「災いを除き福を招く」と言われている「モモ」。その「モモ」の花を観賞するために改良したのが「花桃」です。品種はさまざまありますが、ここでは「ほうき立ち性」という「横に広がらず、天に向かって伸びる」タイプの「花桃」を多く見かけると。ローアングルから見上げる。厚木海軍飛行場への帰還機が旋回して着陸態勢に入っていた。かつては相模湾から茅ヶ崎上空を飛んでいたが。三色の花桃と菜の花とのコラボ。桜には黄色の菜の花が映える。幹から芽吹いたピンクの花桃をズームアップ。ピンクと白の花桃。女坂最終処分場の周りには畑が広がり工場もある。道路脇に立っていた看板に、「御所見花桃の咲く町女坂 女坂花桃の道 女坂に花桃を育てる会」と。女坂花桃の道を振り返る。女坂最終処分場所在地:神奈川県藤沢市用田150藤沢市では、ごみの焼却処理施設から出る焼却灰や不燃物を埋立処分しています。現在廃棄物の埋立を行っているのは女坂最終処分場であると。入口横に看板があり、「一般廃棄物の最終処分場 一般廃棄物の種類 破砕不燃物 焼却灰 埋立処分の期間 平成9年10月~令和25年3月予定 管理者名 藤沢市長 連絡先 藤沢市役所 0466(25)1111」とあった。 こちらには、「厚生年金・国民年金 積立金還元融資施設 女坂一般廃棄物最終処分場 藤沢市」と。女坂最終処分場入口入口手前右側に桜が咲いていた。大島桜であったか。ズームアップ。受付があったが人影を見かけなかった。女坂最終処分場藤沢市内の一般廃棄物処理施設には、5つの最終処分場と2つの焼却施設がある。女坂最終処分場の東側のフェンス沿いに花桃が植えられていた。ズームアップ。最終処分場内に入り北側から女坂最終処分場を見下ろす。南側に浸出水処理設備がある。持ち込んだ破砕不燃物・焼却灰は覆い土されているのであろうか。臨時駐車場に咲く花桃をズームアップ。土盛りに「女坂」と。フェンスの外から最終処分場の南側を望む。金網越しにズームアップ。道路脇に「P ⇦ 200M」の標識があった。女坂最終処分場入口を振り返る。15:55道路を挟んだ女坂最終処分場の北側に、薬王寺が建っていた。 ー 続く ー
2026.04.29
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花桃と言えば長野県阿智村の「花桃の里」が有名だが遠いので、昨年義姉(ぎし)から聞いていた近場の「葛原の女坂花桃の道」を訪れた。4月2日(木) 15:10女坂(めざか)花桃の道所在地:神奈川県藤沢市葛原182午後天気が回復したので急遽カーナビを「女坂花桃の道」にセットして出発した。場所は藤沢市北部の御所見地区の女坂最終処分場周辺にあるためフェンスに囲まれていた。道路沿いの案内看板に「⇨ 駐車場」と。臨時駐車場になっており開けられていた。花桃の開花に合わせて無料駐車場(約30台)として開放している。フェンス越しに赤・白・ピンクの花桃が咲いていた。”女坂花桃の道”は、地元住民がまちづくりの一環として約20年前に整備したものである。約450本の花桃が植えられ、沿道約250メートルにわたり、赤・白・ピンクの花が順次開花する。花桃は観賞用に改良された桃で、中国では古くから「福を招く縁起の良い木」として伝えられている。見頃は4月上旬までと。フェンスの南側を東海道新幹線が横切っている。駐車場脇に、「この花桃は地域のボランテア活動 花桃基金ご協力」の募金箱。「トイレは薬王寺境内にあります。(注意)トイレは綺麗に使・・・」と。女坂花桃の道では「ほうき立ち性」と呼ばれる、横に広がらず上方向に伸びる品種が見られるのが特徴。赤、白、ピンクの花が混在して咲くほか、足元の菜の花が黄色の彩りを加える。写真愛好家の間では、東海道新幹線と花桃の景観を組み合わせた撮影も見どころの一つとなっている。駐車場に車を置き、反時計回りに散策することに。こちらの案内板には「⇦ 駐車場 午後六時閉門」と。駐車場から南へ進み振り返る。フェンス沿いに進んだが、昨夜の雨で足元はぬかるんでいた。多くの家族連れが訪れておられた。路地を抜けると扇状に広がったピンクの花桃が迎えてくれた。青空に映える花桃。ここからは下り坂で足元も悪く車いすはここで折り返し。路面には昨日の雨で花びらが散っていた。菜の花とのコラボ。右上を東海道新幹線が走る。女坂最終処分場の周りに花桃が植えられているがここは南側に位置する。左側のフェンス内は女坂最終処分場になる。過密ダイヤの東海道新幹線は数分ごとに高速で通過していた。花桃を見上げる。花桃は下枝には花芽が少なかったこの辺りは一番低地になっておりこの先で坂になっている。新幹線も上を走る。フェンス内は女坂最終処分場。南側に東海道新幹線が走り高速で通過するので風圧がすごい。花桃が植えられ散策路にベンチが置かれていた。南側の散策路はアップダウンがあった。この辺りは小田原、新横浜間の直線路で時速200キロ以上で走行では。まだ若木の花桃の木であった。前方に赤錆びた跨線橋があった。新幹線が通過、乗客も高速で走るのでこの数百メートルの光景は見えないのであろう。新幹線路線の出入口があったが当然ながら施錠されていた。看板に、「東京 46K230M 上 新大阪 天沼」とあった。こちらは上り線側であるのでキロ数は東京までか。この辺りからは上り坂に。階段を上り見下ろす。バリアフリー化されていないので車椅子では通れない。数分待つと上り新幹線が来た。撮り鉄の撮影スポットになっている。十秒ほどの撮影タイムである。南側の東側は階段を上る。赤・白・ピンクの花が順次開花すると。階段を上ると緩いスロープになっていた。ローアングルから見上げる。紅白の花桃を見上げる。赤色の花桃をズームアップ。女坂最終処分場の西側にも花桃が植えられていた。15:30女坂最終処分場越しに大山が見えていた。 ー 続く ー
2026.04.28
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出雲大社相模分祠からの帰路に急遽「関東三大稲荷の白笹稲荷神社」へ立ち寄った。3月22日(日) 15:10拝殿右側へ2基の鳥居が建っていた。右側に幟旗があり、「~ 秦野で福集め ~ 南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。鳥居の扁額「七福神」。寿老人寿老人とは、長寿・財宝・名誉・病気平癒を授け、人々の安泰と健康を守る神様である。寿老人は位の高い神様で、常に長寿と自然の象徴である鹿を従え、不老長寿のシンボルであり、邪悪を祓い退ける桃の実を手にしているのは、その証である。寿老神と書く場合もある。祠の中には陶器製の寿老人があった。拝殿右側から千本鳥居をくぐり社殿の裏側にある「東末社」へ。朱色の鳥居の扁額には「正一位 稲荷大明神」と。東末社への案内板。千本鳥居をくぐり下ると「東末社」前へ。下ってきた千本鳥居を振り返る。右上に社殿。東末社東末社草木の精霊を祀る東末社は、草祖社・木祖社と言い、霊験あらたかなパワースポットとして信仰を集めています。社の左右に鎮座するお狐様は、明治時代にイギリスから初めて輸入されたコンクリートで造られました。東末社右側から千本鳥居をくぐり社殿裏へ上る。鳥居の左前には、東末社の右側に鎮座するコンクリート製のお狐様。説明板に、「コンクリート製のお狐様 明治五年にイギリスから初めてコンクリートが輸入され、そのコンクリー トにより造られたお狐様です」と。東末社の右側に、白笹稲荷神社と書かれた扁額の鳥居。境内絵図では「狐塚」とあったが。小さな祠があり、周りには大小の狐が多く奉納されていた。この鳥居の扁額にも「白笹稲荷神社」と。権兵衛稲荷新しい石鳥居、石祠が建っていた。石鳥居の扁額「権兵衛稲荷」と。新しい狛狐と石祠。権兵衛稲荷の名称由来茨城県神栖市周辺に於いて代々庄屋を務めていた安藤家の当主が権兵衛と名乗っていた事に由来している。茲に奉納にあたり従来の西末社を合祀し、権兵衛稲荷としたものである。東末社、権兵衛稲荷から坂を登り本殿裏へ。境内案内「⇦ 社務所」「東末社 ⇨」。写真の右奥に「鹿子の木」があったようで根元に説明板があった。本殿裏に鎮座する「祖霊社」。祖霊社の裏側に石碑が立っていた。祠の傍に「祖霊社」と。祖霊社の裏の石碑に「敷石寄附碑」、右側の円柱には「御神木」と。社殿横の千本鳥居。歌碑?があったが判読できなかった。後方は東末社への千本鳥居。境内から階段を下り”白笹の杜広場”から鳥居を見上げる。鳥居の扁額には「白笹稲荷神社」と。階段右上に「弥栄銀杏」が聳える。銀杏の根元に、「弥栄銀杏(いやさかいちょう) 銀杏の木は、昔から子孫繁栄や良縁御縁をととのえると共に、安産の御利益 があります。 雄雌揃った銀杏ですので夫婦円満や子宝の恵みが受けられます。 銀杏は樹根を拝むと母乳の出がよくなるという言い伝えがあります」。境内の高木が聳え鬱蒼としていた。この日は夕暮れになり参拝者も少なかった。右側の鳥居をくぐり下ると白笹の杜広場へ。高木の銀杏の木を見上げる。駐車場への途中に「白笹うどん 近道 歩3分」と。木柱に「一貫田(いっかんだ)湧水」。一貫田湧水は、秦野市名水スポットの一つで、水道水源としても利用されていた。小さな崖からしたたり落ちる白笹稲荷神社湧水と合わせて日量500㌧が室川へ流れ出ている。白笹稲荷神社を後にした。いつもながらにもう少し下調べをして参拝すべきであった。黄金(おうごん)の泉白笹稲荷神社の駐車場脇にひっそりとあるので、気づかず通り過ぎる可能性大である。黄金の泉ヒカリモは黄金色に輝く珍しい藻類です。その輝きによって、金運に効く縁起物の泉が出現します。(四月末から十二月)この日は三月下旬で黄金には見えなかった。駐車場脇には竹林もあり、桜が2本植樹され説明板が立っていた。左に「鬱金桜(うこん桜)」、右に「御衣黄桜 (ぎょいこう桜)」。鬱金桜 (うこん桜)淡い黄緑色の優雅な花が珍しい品種です。黄金色の花により金運の桜としても尊ばれております。四月中旬開花します。御衣黄桜 (ぎょいこう桜)花弁が赤くなり緑色の花が咲く大変貴重な品種です。四月中旬開花します。近年はソメイヨシノは病気に弱いので他の品種が植樹されていると。駐車場脇に公衆トイレがあったが使用時間は「8:00~16:30」と。15:25自動販売機も設置されていた。わずか30分程の参拝であったが、当神社では「骨董蚕の市 毎月第5日曜日」が開催されているので再度参拝したいものだ。はだの桜みち県道62号線の西大竹交差点から県道706号線の新橋交差点までの区間に、約6.2kmにわたって桜並木が続いている。この桜並木は神奈川県で一番の長さを誇り、毎年春になると、美しい桜のアーチが人々の目を楽しませてくれると。西大竹交差点から南下、東名高速の秦野中井ICがあったが一般道の県道71号線(秦野二宮線)を利用、西湘バイパスへと走った。途中、中井電話局前交差点のガソリンスタンドのレギュラーの値段は、164円/ℓ。16:15西湘二宮ICから西湘バイパスを走り、国道134号の”道の駅湘南ちがさき”交差点を左折。自宅へは16時半に到着した。この日の走行距離は60キロで歩行数は8,400歩。3月下旬の「伊勢原三嶋神社の枝垂れ桜 他」を楽しんだドライブであった。 END
2026.04.27
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出雲大社相模分祠、西光寺周辺を散策後、帰路についた。3月22日(日) 14:55セブンイレブンから県道62号線(はだの桜みち)を帰路につく。途中信号標識が「白笹稲荷入口」と。まだ時間が早かったので急遽立ち寄ることにし左折。15:00はだの桜みちの白笹稲荷入口交差点を左折して数百メートルに位置していた。ここから小田急秦野駅までは1.6キロ歩いて22分と。白笹(しらささ)稲荷神社所在地:神奈川県秦野市今泉1089朱色の鮮やかな鳥居が建っており、大鳥居の奥が広い駐車場になっている。当社は「食」を守り「生きるチカラ」を再生する関東三大稲荷の一つとのこと。社号標石に「白笹稲荷神社」と。大鳥居鳥居の柱に「月次祭 令和八年毎月一日 午前十時 斎行」。赤い幟旗には「正一位 白笹稲荷大明神」と。鳥居の奥に広い駐車場があったが参拝者の車は少なかった。大鳥居の扁額「白笹稲荷神社」。掲示板のポスターには「白笹稲荷 骨董蚕の市 毎月第5日曜日開催!!」と。関東三大稲荷 白笹稲荷神社境内絵図境内が広いので本殿回りをズームアップ。胸像の台座に「栗原秦堂翁」と。胸像をズームアップ。”栗原秦堂翁”の「秦堂」は書家の号である。栗原宣太郎翁栗原宣太郎は、白笹稲荷神社宮司元廣と津満の長男として、元治元年に生まれる。後に第三代白笹稲荷神社宮司となる。幼少より学問に優れ、日本大学で政治、経済を学び、秦野で初めての学士となり後に権田直助や小笠原東陽に師事する。第三代南秦野村長、神奈川県議会議長、衆議院議員を三期歴任し、明治四十一年五月に政界を引退する。その後は、白笹稲荷神社の御神威発揚に努め、崇敬者の講組織等を始め、神社の振興に尽力された。又、書家で号を秦堂と称し、後に帝展(日展)の審査員となる。多岐分野での功績により、勲四等旭日章を受賞する。 昭和十八年十二月八日 逝去 享年七十九歳第2駐車場脇に咲くソメイヨシノが3分咲きになっていた。県道62号線(はだの桜みち)の桜並木はこれほど咲いていなかったが。参集殿傍に咲いていたこのピンクの花は桃であったか。駐車場から緩い坂を下ると白笹稲荷神社の鳥居が建っていた。関東三大稲荷 白笹稲荷神社境内絵図本殿の裏側にも多くの境内社がある。鳥居の手前に二基の石碑が立っていた。左の石碑には「奉納 白笹稲荷神社」、右には「境内整備の碑」と。境内整備の碑栗原家は代々白笹稲荷神社の社家として神明に奉仕してきた・前宮司栗原元彦は更に境内を神域にふさわしいものに整備・・ご神威の高揚を図ることを祈念し百年の大計を志したその志を継承して崇敬者の浄財を仰ぎ平成十五年九月に・・・した 赤誠をもって尽力し同十七年七月完成したここにこの意義ある事業の完遂を感謝して後世に伝える・・めに記す 平成十七年十月吉日 宮司代務者 責任役員 金子元重 高瀬 □ 梅原□□ 栗原□□ 小泉□□白笹稲荷神社の鳥居。右側を下ると「白笹の杜広場」がある。竹で作られた手水場。白笹稲荷神社の湧水を利用して手水としている。手水場の後方に狛犬、狐。白笹稲荷神社の由来創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。天保12年(1841)に成立した『新編相模風土記』には、「稲荷社 白笹稲荷と号す。祭神蒼稲魂命。例祭二月初午の日。及六月二十八日なり。拝殿あり。老松 園一丈。一株を神木となす。末社 明王権現 子安明神」と記されています。鳥居の扁額「白笹稲荷神社」。鳥居下の右側に衣裳をまとった子守り母狐。左側にも同じような子守り母狐。子守り母狐お稲荷様と御縁の深いお狐さんのなかでも、子供を慈(いつく)しみ育て日々お守りしている子守り母狐です。お子様の健やかな成長の御利益が授けられます。境内へ上がり社殿を見る。境内に置かれていた、「祝 参拝記念 関東三大稲荷 白笹稲荷神社」。銅板葺きの社殿御祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと) 大宮売命(おおみやのめのみこと) 猿田彦命(さるたひこのみこと)拝殿右側の木鼻。左側の木鼻。拝殿の唐破風彫物は狐が稲穂をくわえていた。白笹稲荷神社の紋「白笹」と。拝殿の扁額、「正一位 白笹稲荷神社 相模國高座郡 長後□」。拝殿、幣殿を見る。拝殿内の扁額「白笹社」。拝殿内には奉納された一升瓶が多く供えられていた。拝殿に上がれば天井絵が見れたのだが下調べ不足であった。拝殿天井絵日本の歌舞伎絵の第一人者である後藤芳世画伯(院展特待)が、七年の歳月をかけて描き上げた天井絵。 格天井150枚の龍神様、風水四神や宝尽くしの図は神々しい赤誠の作です。天井絵は、本殿が開いている午前9時から午後4時まで自由に見ることができる。問合せは同神社社務所【電話】0463-81-0256 までと。(写真はネットから)15:10拝殿前から境内を見下ろす。右側の建物は「社務所・授与所」。 ー 続く ー
2026.04.26
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西光寺の参拝後、Googleマップで事前に調べていた周辺の寺社史蹟を訪ねた。3月22日(日) 13:45ひときわ目立つ西光寺のイトヒバである。西光寺周辺の寺社史蹟この後、赤丸内を訪れたが歩いて行ける範囲内であったが車で移動した。最後は星のマークのセブンイレブンへ。西光寺の駐車場から次に訪れたのは「三協町の双体道祖神」へ。道が狭いので歩いて散策するべきであった。三協町の双体道祖神所在地:神奈川県秦野市平沢1573-7室川に架かる向開戸橋の袂に四基の双体道祖神が並んでいた。年代等はわからないが、僧形、男女共に合掌型で、苔むした感じが何とも良い。この坂を登ると震生湖へたどり着く。この後は車で移動したので目的地への道を間違い右往左往したので整理してアップ。区画整理されていない狭い道は歩いてスマホの案内で進むべきであった。御嶽神社所在地:神奈川県秦野市渋沢1574静かな所に鎮座する神社で近くに民家があるので騒がないでくださいと。鳥居の扁額「御嶽神社」。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。神社横には畑があり民家の方が農作業中であった。拝殿の扁額「御嶽神社」。狭い敷地の中に鎮座していたが手水鉢もあり地元の方々の崇敬を集めているのであろうか。ここからも東の方向に弘法山が見えていた。弘法山の権現山展望台をズームアップ。車がすれ違い出来ない狭い道であった。大神宮所在地:神奈川県秦野市平沢1566古民家の住宅街の中にある神社で車の中からは分かりづらかった。駐車場がないので近くの空き地に車を停めさせていただき参拝した。小径の反対側から振り返る。由緒等の説明板もなく詳細は不明。内陣を覗き見る。狭い境内だが石燈籠、手水鉢が奉納されていた。新しい賽銭箱も。地元集落の方に崇敬されているのであろう。藤繁稲荷所在地:神奈川県秦野市平沢1560-3新しい住宅地の中にあった。入口に「プリマ ヴェーラ Prima Vera」と。二階建ての賃貸アパートで、小田急小田原線渋沢駅からバスにて5分 土橋下車徒歩5分の距離にあります。2014年6月に完工し、建物の構造は木造ですと。賃貸アパートの一角にある稲荷である。アパート新築時に整備されたのであろう。祠の扁額「藤繁稲荷」。説明板はなかったが扁額に「寛政12年(1800年)建之」と。賃貸アパートからの出口。南側の渋沢丘陵を望む。次に向かったのは北側にある「土橋跡」。その途中のティー字路にあった石碑。石碑に字が刻まれていたが・・・。石碑前から南方向の来た道を振り返る。土橋跡所在地:神奈川県秦野市平沢1555秦野駅から土橋経由渋沢行きのバスに乗り、土橋で下車。バス停から南下、小田急線の踏み切りをわたり進むと、土橋跡のこの石碑がある。土橋跡 土橋由来記明治のはじめここに樹令数百年の欅の大樹が5本ありました。この木の根の下を小さな流れがありましたが、大水のたびに流れは次第に深くなり杣道に橋が出来た様になりました。人々はその上を渡っていつしか土橋と呼んでなれ親しんできました。そしてこの付近一帯の地を「土橋」と呼ぶ様にもなりました。その後、たびたびの大水で大樹が倒れたりしましたので、大正15年にコンクリート橋となり、昭和63年の道路改良工事に伴ない暗渠になったのです。東方向のこの道は、昭和63年の道路改良工事に伴ない暗渠になったと。石碑前から西方向を見る。西光寺周辺の散策を終え、東へ進み”県道62号線(はだの桜みち)”へ。県道62号線の三協町交差点。はだの桜みちの桜並木であるがまだ開花前であった。セブン-イレブン 秦野出雲大社入口店所在地:神奈川県秦野市平沢1281-2県道62号線(はだの桜みち)を走り出雲大社入口交差点角にあるセブンイレブンへ駐車。セブンイレブンの先に今日最後の目的地「神社」があったので歩いて向かった。桜が咲いておれば最高であったのだが。歩道の左手に神社。神社所在地:神奈川県秦野市平沢1314-4祠、鳥居は新しくなっていたが説明板等はなかった。Googleマップに載っているのだが詳細は不詳。古い石燈籠、手水鉢も置かれていた。東側に回り込む。近年に整備されたようだ。”名もなき神社”から駐車しているセブンイレブンへ戻る。道路脇に大きな看板「関東のいずもさん 出雲大社 相模分祠 ↱ 20m先右折 P130台」と。出雲大社相模分祠の杜を望む。14:50セブンイレブン前の出雲大社入口交差点。 ー 続く ー
2026.04.25
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御嶽神社、八坂神社の散策後、Googleマップで事前に調べていた近郊の寺社史蹟を訪ねた。3月22日(日) 13:15出雲大社相模分祠の駐車場から、御嶽道を南下して県道62号線(はだの桜みち)へ出て右折。”はだの桜みち”を百メートルほど走り左折してここ”道祖神”前へ。”くさやま矯正歯科&小児歯科”の敷地の一角にあった。西光寺への途中にあった、朱色の祠と道祖神である。道祖神前から戻り、走って来た県道62号線(はだの桜みち)を振り返る。百メートルほど先に出雲大社入口交差点がある。桜みちであるがまだ開花前であった。文字道祖神、五輪塔等が並べられていた。井光山 西光寺所在地:神奈川県秦野市平沢1631出雲大社相模分祠から一番近い寺院である。門前に立つ幟旗に「南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。駐車場から”はだの桜みち”から南下して来た道を振り返る。駐車場脇に新旧の双体道祖神。台座が新しいので移設整備されたのであろう。駐車場脇の苔むした石碑に「□□碑」と。下に碑文が刻まれていたが苔むして確認できなかった。新しい玉垣傍に石祠が二基。台座に「辨才天」、「水天」とあった。この日は春分の時期で参拝者が多かった。左には石碑が立ち、北側には大山が聳えていた。道路脇に石碑が立っていた。苔生した石碑には「天社神」と。天台宗西光寺寺院の由緒等の説明板はなかったが、天文年間(1530年)中興と言われていると。明治以前は旧平沢村総鎮守御嶽、八坂神社別当を歴代務めた。境内には市指定保存樹木のイトヒバが聳えている。寺号標石「天台宗 西光寺」。宗祖伝教大師「天台法華宗年分学生式」ニ曰ク 照千一隅 山則國寶 平成十七年三月吉日参道脇に六地蔵が立っていた。山 門左側に「當山大施餓鬼會 執行五月廿四日 午後二時より」と。 山門の扁額「井光山」。本 堂山門と本堂の間に梵字が書かれ仏塔が立っている。また背の高い石燈籠が一対立っていた。本堂の扁額「西光寺」。本尊:阿弥陀三尊。貼り紙に、「毘沙門天スタンプ ➩➩➩ お願い 一、スタンプを押す際、必ず消毒をしてください。 一、朱肉の蓋を閉めてください。 一、左記の御眞言を唱えながらスタンプを押して頂くと各々の心願が近づきます。 御眞言 オン・ペイシラマナヤ・ソワカ」と。本堂前から奇麗に整備された境内を見下ろす。本堂前左側に赤い幟が立ち「奉納 南無毘沙門天王」と。社の中に陶器製の”毘沙門天”が鎮座していた。本堂の左側から見上げる。山門の右側に茅葺屋根の鐘楼が建っていた。墓地の入口には新旧の地蔵が立っていた。赤の幟旗には「南無水子地蔵尊」と。こちらの青色の幟旗には「南無観世音菩薩」と。観世音菩薩、水子地蔵尊が立っている。鐘楼横から本堂を見る。境内は近年に整備されたようで新旧の石像等が立っていた。境内に聳えるイトヒバ (別名:ヒヨクヒバ)。イトヒバとは樹高5m〜20m程になるヒノキ科の常緑針葉高木。日本では4月〜5月頃に開花する。イトヒバの幹は直立して、樹形は円錐形になり樹皮は赤褐色で、縦に裂けて薄く長く剥がれ、細枝は垂れ下がって糸状になる。次に訪れたのは近くにある「大六天神社」。近くにあるので西光寺の駐車場に車を置きスマホの案内で東方面へ進んだ。道路脇に、ちょこんと建っており住宅に挟まれてるので、車だと見過ごす神社であった大六天神社所在地:神奈川県秦野市平沢1668Googleマップには「第六天神社」となっていたが。社殿の扁額「大六天神社」。内陣には小さな祠が納められていた。住宅街の小径から東の方向に弘法山が見えていた。弘法山の権現山展望台をズームアップ。かつて妻と鳥撮りで良く訪れた山である。13:45大六天神社前から西方向の西光寺のイトヒバを望む。この辺りは新しい住宅地に。 ー 続く ー
2026.04.24
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出雲大社相模分祠の境内を散策後、隣接する御嶽神社、小坂神社へ参拝。3月22日(日) 12:55県道62号線の出雲大社入口交差点からの御嶽道から御嶽神社の巨木を見上げる。突き当りを右折すると出雲大社相模分祠の参道入口へ。玉垣に奉納された多くの提灯が吊るされていた。秦野市マンホール蓋丹沢の美しい自然と澄んだ空気をいつまでも大切に守り、次代へと引き継ぎ快適な市民生活環境の保全を願い定めた市の花「なでしこ」を幾何学的に13箇所、そして中央に市章を配置したものを図案化している。御嶽神社所在地:神奈川県秦野市平沢1223出雲大社相模分祠の杜の南西部にある神社である。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。両部鳥居の扁額「御嶽神社」。石碑には「御輿奉献寄附者芳名碑」と。奉納金額と氏名が刻まれていた。昭和五十九年四月七日建立。境内の正面に「御嶽神社」、左奥に「八坂神社」が鎮座。左側には御神木の”千年の大けやき”が聳える。鳥居の右側に「御神輿殿」が建っていた。御神輿殿の扁額「御神輿殿」と。畳一枚小の小さな「手水舎」。御嶽神社と八坂神社の説明板御嶽神社祭 神 倭建之命、大己貴命、少名彦命、櫛真知命境内社 金毘羅八幡社、山王稲荷天神山之神合祀社由緒沿革 創立年歴は不詳でが、建久三年(1192)の頃より神社前の参道を御嶽道と称し、(その先を 北条と言う。大化班田条里の名を今も残す)平沢村の鎮守であった。境内には樹齢八百年 余りの大欅二本(秦野市文化財指定木)があり、明徳三年(1392)四六貫五百文の当社家領 が寄進されている。慶長十三年(1608)踊宮鈴張の地に家康公鷹狩の節当社に参拝、社殿 の改修を命じた。翌慶長十四年改修、棟札に「奉修御嶽権現社檀事本願神主草山兵庫守、 寺家分草山藤左ヱ門慶長十四年酉年十一月吉日・・・」とある。 現在の本殿はその時のもので神職は白川家の配下であった。宝永八年(1711)二月十三日 宗源宜旨により正一位御嶽蔵王権現と称えられ(当社古文書)明治六年七月三日上地し、御 嶽神社と改称、昭和九年幣帛料供進指定神社となる。昭和五十一年五月三日本殿を除き全 社殿を新築木造銅板葺とした。 神社庁指定結婚式場は、明治十三年出雲大社国造千家尊福宮司と後の報徳二宮神社初代祠 宮草山貞胤翁によって勧請され、大国主之命を祭神とする大社造り神殿を式殿としている。 この式殿は、貞胤翁より草山文之助翁に引き続き、草山智義翁に引継がれ智義翁は、片岡 の信徒を始め多くの崇敬者の再建願望を自分の心とし再建に努力他界に際し、長男貞胤に その遺志を引き継がせた。昭和四十七年御嶽神社の隣接地に本殿を再建、昭和五十四年八 月幣殿、拝殿、参集殿を同時起工昭和五十五年四月一日、神楽殿、神殿の遷宮式並びに幣 殿、拝殿、参集殿の竣工式を執行、後結婚式場は神奈川県神社庁の指定を受け現在に至る。宮 司 草山清和連絡先 出雲大社相模分祠 秦野市平沢1221 ☎ 0463-81-1122八坂神社祭 神 須佐之男命、大国主之命境内社 道祖神社由緒沿革 創立年歴は不詳であるが、別名金毘羅宮と称し、境内には樹齢八百年を越える大欅 二本があり市の指定木である。昭和八年の台風時に倒木した杉樹の年輪は985輪あ った。寛政元年(1459)酉年四月の社号額「金毘羅大権現」は神祇宮資延王謹書と あり、文政二年(1819)作の手水鉢及び同年の石灯籠一対がある。神輿は寛政二年 (1461)の作で、西光寺遷宮師時代、寺社の往復に奉仕した。明治二年西開戸鎮座 牛頭天王社(往古天王畑にあり)明治六年西光寺持八坂社を合祀し八坂神社と改称し て独立したが氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。昭和五十一年 御嶽神社の社殿を移築改造して現神社となる。宮 司 草山清和連絡先 出雲大社相模分祠 秦野市平沢1221 ☎ 0463-81-1122境内の東側に境内社の”金毘羅八幡社”であろうか。扁額がなかったので?である。隙間より内陣を覗き見る。厄除けえびす陶器製のえびす像であった。厄除けえびす平成二十三年九月二十一日関東地方に襲来した戦後最大級の台風十五号は神奈川県に大きな災害をもたらしました。御嶽神社に於いても南側に立つ樹齢三百年の欅が倒され神輿殿・拝殿・えびす様を直撃し多大な被害を受けました。しかし不思議なことに木をどかすとえびす様の姿は何処にもありません。皆で周囲を探すと五メートル先の御嶽神社の横でいつもと変わらぬ笑顔で座っておられました。石碑には「令和 御大典記念」と。御嶽神社両部鳥居改修事業奉賛募金名碑此の両部鳥居は天保十四年(西暦1843年)神主・草山和泉の代に建立されました。大正十二年の関東大震災で甚大な被害を受けましたが、昭和御大典記念として台石等基礎を改め元の座に復しました。此の度、平沢氏子中八百二十九名より奉賛を賜り、令和御大典記念として柱・貫等を改める事としました。笠木・島木と神額は天保十四年建立当時の物を用いています。 令和二年四月吉日下には、奉賛金・氏名が刻まれていた。境内の樹々を見上げる。ソメイヨシノも咲き始めていた。御嶽神社の拝殿石燈籠には倒壊防止対策の補強が施工されていた。拝殿の扁額「御嶽神社」。御嶽神社(みたけじんじゃ) 通称 御嶽さん(おみたけさん)御祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 櫛真智命(くしまちのみこと)創立年歴は不詳であるが、建久三年(1192)頃より神社前の参道を御嶽道と称し、平沢村の鎮守神として記録されている。慶長十三年(1608)踊宮鈴張の地に将軍徳川家康公が鷹狩りに来た際に、当社に参拝、社殿の改修を命じ、翌年に極彩色の彫刻を備えた桧皮葺きの御本殿を改修した。昭和五十一年に本殿を覆う形で木造銅板葺の御社殿を修造し、現在の形となった。奥に鎮座する本殿は慶長年間に改修された当時の姿である。境内には、神輿蔵・金毘羅宮・神楽殿・石碑等、数多く祀られている。大正十二年、神木が倒木したが、年輪が980もあった。内陣の拝殿・幣殿・本殿を見る。内陣にも扁額「御嶽神社」。本殿をズームアップ。大けやきの下に神楽殿。注連縄を巻かれた御神木のけやき。保存樹木(指定第1号)ケヤキ(にれ科) 目通り周囲 4.8M 指定 昭和49年9月30日 樹木を大切にしましょう。 秦野市八坂神社(やさかじんじゃ) 御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと) 大国主命(おおくにぬしのみこと) 八坂神社の創立年月日は不詳。 当社の社殿は昭和四十二年、御嶽神社新築の際、古い社を移築したもので、 昭和六十年、屋根は銅版葺きとした。 疫病よけの御利益をもつとされる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御神木 千年の大けやき 御嶽神社の境内には秦野市文化財指定木である樹齢千年余と五百年余の御 神木の大けやきが二本ある。 千年の大けやきの腰の位置には大きなコブが生えており日照りの際、御神 木のコブを引っ張ると伊勢原の大山より恵の雨が降るとの伝承がある。 平成になり老朽の為、取り除かれた。神楽殿前から御嶽神社を望む。神楽殿の左側に道祖神群があった。神楽殿前から、樹齢千年余と五百年余の御神木の大けやきを望む。御嶽神社の左側(西側)に鎮座する八坂神社。社号標石に「八坂神社」と。石鳥居の扁額「八坂神社」。八坂神社社殿社殿は昭和五十一年に隣の御嶽神社の社殿を移築改造したものである。氏子民は八坂様とも金毘羅様とも称し親しんでいる。拝殿前の彫り物。内陣を見る。平沢御嶽・八坂神社例大祭 令和八年四月五日 (日)◎大祭式 神輿発輿 【午前八時○○分 ~ 午前九時○○分】◎神輿御渡 【午前九時○○分 ~ 午後五時○○分】 ※本神輿は車載・人力で巡業します◎神社宮入 皆様こぞって勇壮な宮入をご見学下さい 【午後五時○○分 ~ 午後五時三○分】◎氏子福引大会 【午前十時○○分 ~ 午後三時○○分】 豪華景品が当たります! 先着350名まで・空くじなしNHK 小さな旅「水まもる里 ー神奈川秦野ー」 放送日【総合】4月19日(日) 午前8時~ 4月24日(金) 午前11時5分~八坂神社前から境内を見下ろす。樹齢千年余のけやきの根元も朽ちて養生。左側には「文政二年(1819)作の手水鉢」が無造作に置かれていた。両部鳥居、御神輿殿が建つ境内南側。八坂神社の東側に鎮座する御嶽神社。本殿の銅板葺き屋根。八坂神社を望む。右側に鎮座する御嶽神社の間を抜け第三駐車場へ。神社の裏側に樹齢五百年余のけやきが聳える。八坂神社の裏に「御大典紀年」と刻まれた石碑。石碑には「御嶽神社 玉垣石垣造営寄附名碑」と。奉賛金額と多くの氏名が刻まれていた。御神木の大けやき二本のうちの一本で樹齢五百年余のけやきである。白い木柱には「秦野市保存樹木 昭和49年9月30日指定 第1号」と。13:10御嶽神社と八坂神社の裏に聳える”やぶつばき”。やぶつばき平成二十二年五月、県立秦野戸川公園で斎行された第六十一回全国植樹祭も式典行事で、皇后陛下は当社のヤブツバキより採取した種をお手捲きになられた。江戸時代より生育している古木で樹高も高く大変珍しい椿の原木である。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ⇧ 直進 約30m ◇御嶽神社 ◇八坂神社 ◇千年の大けやき ⇦ 左へ 約50m ◇出雲大社相模分祠 ◇出雲記念館 ◇千年の杜(せんねんのもり) ◇全国名水百選遊水地 ー 続く ー
2026.04.23
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引き続き出雲大社相模分祠の境内を散策。3月22日(日) 12:25右側の石に「千年乃杜」と刻まれていた。また幟旗には「~秦野で福集め~ 南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」と。千年の杜入口から入ると社の中に「ダイコク様」が鎮座。陶磁器製のダイコク様であった。南はだの村七福神と鶴亀めぐりかつての南秦野村を通る寺社仏閣を巡りつつ、地元の人々ともに福を磨き、福を集め、古きよき南秦野村の伝統を語り継いで行きたいという思いから始められた七福神巡りです。七福神と鶴亀スポットを巡り、十個全ての御朱印を集めると完歩賞がもらえます。千年の杜の入口に【ダイコク様】、御嶽神社に【エビス様】が鎮座しております。 ※朱印ケースの暗証番号は設定されておりません。そのままレバーを引いてから開けて 下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・○大黒天【ダイコク様】 「五穀豊穣」「商売繁盛」の神様で、幸せをもたらす打ち出の小槌を持っています。 大陸より伝わった七福神信仰と日本に伝わる出雲の大国【ダイコク】様の信仰が習合 したものとも考えられます。○恵比寿【エビス様】 「商売繁盛」の神様で、七福神の中で唯一の日本出身の神様。ダイコク様と並んでお 祀りされる事が多いですが、実は親子の関係にあたる神様です。日本名を事代主命 【ことしろぬしのみこと】と称します。”千年の杜”は、平成十九年に植樹祭が斎行され、この森には照葉樹を中心に約12,000本60種の日本古来の樹木が混植・密植されている。森の中には湧水があり、メダカやドジョウ・ホタル等が生育していると。千年の杜の奥に鎮座する「龍蛇神の社」。ゆずりの水この湧水は地下51メートルより汲み上げられた清らかな「ゆずりの水」として朝夕多くの参拝者がお水取りに訪れると。龍蛇神の社千年の杜内には、杜の守り神として「龍蛇神」をお祀りしています。龍蛇神とは大国主大神さまの御使神で、「縁結びの神」「幸福を授ける神」として慕われている神様である。右側の看板には、「H27年度環境省主催『名水百選』選抜総選挙『おいしさ』部門全国一位 秦野の名水 『千年の杜』お水とり用ペットボトルは授与所へ 天然水」と。龍蛇神の社 (りゅうじゃしんのやしろ)出雲地方に古来より伝わる龍蛇神様を千年の杜の守り神としてお祀りする。古くより、出雲の地では旧暦十月十日に全国の神々が参集し、縁結びの会議がなされるといわれる。古来より十月を神無月と呼ぶ所以でもあり、出雲地方では神在月(かみありつき)、お忌みさん(おいみさん)とも称し特別な信仰がある。神々が集う出雲の地に全国の神々をご案内・先導する神様が龍蛇神様である。縁結び・金運の御利益があるとされる。社殿正面の湧水は全国名水百選の丹沢秦野湧水群の一つに数えられ、一年を通じ一定の温度で保たれ、夏は冷たく冬は温かみのある自然の天然水である。地下五十一㍍より汲み上げられるこの湧水は、自然の力によって秦野盆地の地下で長い年月をかけて丁寧に濾過され、ミネラルも豊富で飲料水としても親しまれている。 祭典日(龍蛇神様の特別拝観実施) ○正月三が日残念ながらペットボトルを持参していなかったので・・・。ネットに、お水取りは無料です。お持ち帰りの際には、ご自身でボトルを持参するか、お持ち帰り用のペットボトル(150円)・名水ボトル(1200円)をお受け下さい。お持ち帰りになりましたお水は冷蔵庫で保管してお早めにお召し上がりくださいと。千年の杜の守り神”龍蛇神の社”。猛暑の夏場は暑さをしのぐための憩いの場になるのではと。夏にはホタルも舞う。千年の杜入口 (南側)このモニュメントは、近代金物造形アート 三つ足鳥居『記憶としての構造』。「秦野千年の杜」この杜は、秦野を「世界で一番美しい森の盆地のまち」にすることを目指し、さまざまな生命を育む森や緑豊かな地球を大切にしようとの願いが込められています。「ふるさとの木による ふるさとの森づくり」を提唱する宮脇昭・横浜国立大学名誉教授が植樹を指導し、毎日新聞創刊135年記念事業・あすを植える「My Mai Tree」キャンペーンと連携し、植樹祭が開催されました。 平成19年6月 「秦野千年の杜植樹祭~出雲大社相模から」 主催 千年の森をつくる会 共催 毎日新聞社、出雲大社相模分祠 後援・協力団体 秦野市、秦野市教育委員会、秦野市農業協同組合、秦野商工会議所、(他諸略) 千年の杜の入口左側にダイコク様。右側には双体道祖神と「龍蛇神の社」と。出雲大社相模分祠 本殿並びに拝殿島根県出雲大社より正式に御分霊を賜わった出雲大社教の分祠。出雲大社の御祭神「大国主大神」様をお祀りする。明治二十一年(1888年)に、出雲大社第八十代国造・千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり報徳家であった草山貞胤翁が大国主大神の御神徳を関東地方に広める為この地に鎮祭申し上げた。そのほか近隣の秦野・伊勢原・平塚に鎮座する累代の神社二十三社二十八柱の御祭神を合祀している。社殿は大社造りと権現造りを組み合わせた独自の様式で翼幣殿と呼ばれる長い幣殿が特徴的である。◎お宮参り・七五三詣・家内安全・縁結び・厄除け・交通安全・八方除等 各種御祈願を斎行。◎祭典日 月次祭 (つきなみさい) 毎月一日午前十時三十分出雲記念館にトイレがあったので引き返すことに。出雲記念館ロビーの隅に神輿が展示されていた。館内にはいろんなお土産物が販売されていた。左には、「島根県出雲特産 しょうが湯 5袋 600円」と。大相撲百周年記念 左手形:第七十四代横綱 豊昇龍 右手形:第七十五代横綱 大の里節分の日には伊勢ヶ浜部屋の関取達が参加して盛大に行われる。出雲記念館前から社殿を見る。良縁桜のソメイヨシノは一分咲き。杜の豆腐工房 三河屋境内の隅で豆腐関係の品物を販売しておられた。水を汲みに来てお土産に美味しい豆腐、湯葉、豆腐ジェラートを買う人が多いと。今だ「謹賀新年 豆腐ジェラード ¥500」。訪れた時多くの人が食しておられた。昼時でお腹が空いたので肉まんを一個購入。いろんな種類の豆腐を販売、350~500円。石像が集められていた。12:50出雲大社相模分祠を後にし、隣接する「御嶽神社、小坂神社」へ。 ー 続く ー
2026.04.22
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引き続き出雲大社相模分祠の境内を散策。3月22日(日) 12:10拝 殿御祭神 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 事代主大神(ことしろぬしのおおかみ) 合祀祭神28柱(兼務神社23社のご祭神)沿 革 出雲大社相模分祠は、明治21年(1888)に、島根県御鎮座の「出雲大社」第80代国造・ 千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、「秦野煙草の祖」と仰がれる草山貞胤 翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方 に広めるための要処としたのを創まりとする。拝殿前に「旧【大しめ縄】展示(期間限定)。昨秋、大しめ縄の掛け替えを執り行いました。ここに旧【大しめ縄】を展示致します。ぜひとも直接じかに触れて大神様のお力を頂いて下さい。拝殿には新しく掛け替えられたしめ縄が吊るされていた。拝礼作法 二礼四拍手一礼 神語【祈りの言葉】~三回唱える~ 幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)守給(まもりたまい)幸給(さきはえたまえ)参拝の作法 賽銭を入れ、 まず 二礼 深いお辞儀を二度します 次に 四拍手 おわりに 一礼 深いお辞儀を一度します 軽くお辞儀をして、さがります御祭神の恵比寿さま拝殿前から南側の境内を見る。ソメイヨシノの良縁桜が聳える。出雲記念館から良縁桜を見上げる。右:桜 春ロケーションフォト 予約受付中 🌸成人式前撮り・後撮り 🌸卒業・卒園 🌸ランドセル撮影(入学) 🌸結婚式左:美保岐餅(みほぎもち) 6個入 1,100円(8%税込) ◎天皇家の弥栄を祈り奉献した【美保岐玉】にちなんでつくられた、縁起の良い 三色のお餅です。 ◎出雲大社の祭事の際にもお使いいただいております。授与所の祈祷受付 令和八年厄年表 年齢は数え年によります 男 二十五歳 平成十四年生 女 十九歳 平成二十年生 四十二歳 昭和六十年生 三十三歳 平成六年生 六十一歳 昭和四十一年生 三十七歳 平成二年生いろんな種類のおみくじが販売されていた。鳥居の右側には”おみくじ掛け”が設けられていた。祖霊社相模分祠では昭和60年(1985)に境内に祖霊社を建立し祖霊祭祀に勤め、平成28年に納骨堂を開設し、祖先祭祀の振興を図って参りました。祖霊社(それいしゃ)大国主大神様は幽冥(死後の世界)を主宰する幽冥主宰大神とも称えられ祖霊社の御祭神として奉られている。その御神格に基づき、出雲大社相模分祠では信徒会が組織され、各家のご先祖様を崇敬し先祖供養をお仕えする御社殿でもある。通夜・神葬祭・ご葬儀の出張奉仕も承り、五十日祭・一年祭・三年祭などの式年祭や水子供養等も斎行される。 祖霊参りの期間 春分の日 新暦お盆 旧暦お盆 秋分の日 正月三が日 等◇毎月第一日曜日午後三時よりみたままつり(月次祭)を斎行。予約不要でご参列できます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【鎮魂の祈り】 幽冥神語 三回唱える 幽世大神(かくりよのおおかみ) 憐給恵給(あわれみたまいめぐみたまえ) 幸魂奇魂(さきみたまくしみたま) 守給幸給(まもりたまいさきはえたまえ) 拝礼作法 二礼四拍手一礼祖霊社前から境内を見る。祖霊社の左側(西側)に銅像、石碑が立っていた。 歴代分祠長(宮司)の記念碑歴代分祠長 (宮司) の記念碑草山貞胤(くさやまさだたね)翁【文政六年(1823)~明治二十六年(1895)】 煙草作りの祖とも仰がれ「神奈川県の100人」にも選定される。 ほか草山文之助・草山智義・草山貞胤。二基の像と石碑が立っていた。右側に一基の石碑があった。中央の石碑に「かながわの100人」と。草山貞胤翁顕彰碑 草山貞胤ハ文政六年当所氏神ノ社家草山和泉ノ世継ノ彦トシテ生レ安政五年 拾九社ノ神社ヲ兼務シ、嘉永五年ヨリ煙草栽培ヲ研究シ、温床ノ開発、育苗、 早期収穫、密植多収、木枯等各種乾燥法、水車機械刻ミ等技術革新ヲ進メ、 全国ヨリ耕作指導ヲ依頼サレ之ニ耐エ切レズ、耕作指導員ヲ多数養成シ全国 ニ派遣シ、日本ノ煙草栽培技術革新ニ大キク貢献サレタ、明治廿一年出雲大 社相模分院ヲ創立シ、後ニ報徳二宮神社創立発起人トシテ努力シ初代神職ト ナル、大日本農会頭彰仁親王殿下ヨリ緑白綬有功章ヲ、賞勲局ヨリ緑綬褒章 ヲ下賜サレ、昭和五四年かながわノ歴史上ノ人物百人ノ一人ニ選定サレタ、 郷土ノ偉人デアル。 平成三年十一月吉日 出雲大社相模分祠長 草山貞胤敬白草山貞胤(くさやまさだたね)翁一番奥に立っていた石碑。草山智義翁顕彰碑 大教正草山智義翁ハ社家十九代目亥之助ノ世継トシ明治十五年五月六日生レ、秦野西・南・ 曽屋小学校等二十七□教育ニ精励□後十数社ノ宮司ヲ奉仕傍ヲ新園芸技術ヲ導入シ村々家 ヲ起シ村議ヲ□ノルモ教育ノ心止シ難ク、妻大輔教めすト平塚市ニ十陶□裁縫学校ヲ創設 婦喜久ト子女ノ教育ニ当ル、又神奈川ノ百人祖父貞胤ノ勧請サレタ 出雲大社相模分院ノ 再建ヲ念願シ布教ニ献身努メ昭和三十一年長男貞胤ニ遺言シ神殿及参集殿□表等ヲ建立相 模分院ヲ再興セシメラレタ 昭和五十八年六月五日 出雲大社相模分院長草山貞胤拝書 草山智義翁説明板がなかったので???。境内の西側にはテントが数張りあったが桜まつり用であろう。手水舎、石鳥居を振り返る。境内の隅に石碑、奉献 手水舎 小巻家 第十代 小巻義男 第十一代 小巻公平 昭和六十二年九月二十三日 出雲大社相模分祠 御祭神 大国主之大神(大国さま)、事代主之大神(恵比寿さま)、兼務神社二十柱の神々 教徒祖霊 霊神 御神徳(萬結び福を招く神) 一、大国様は国土を治める神で大床主の神といわれ地鎮祭の神政治の神 農業の神 一、因幡の白兎を助けられたように病気や災害を除く方法を教えられた医薬や厄除の神 一、多くの試練にくじけない成功の神 学問の神 一、結びの神男女の結び縁結び家族の結び家内安全御子結び子宝安産の神客結び金結び 等商売繁盛の神、票結び選挙の神等高い御神徳を慕い福の神として深く信仰されて いる大國の名水(環境庁名水百選) この手水舎の水は慶長十四年以来池や井戸から湧出した名水で四百年来長寿の水酒造等と 尊重され出雲の大神の威霊によって変若水(わかがへりの水)の信仰が・・・ 茶道用長寿の聖水として県内外より求めに来る人も多く、環境庁より選ばれた全国名水百 選の一つである。出雲大社相模分祠本殿の手前左側に天神社と筑紫社、祓社と三社並んでおります。小さいですが本殿と同じ作りで立派ですと。右奥から天神社、筑紫社、祓社と並ぶ。天神社 祭神 神産巣日神 少名毘古那神 筑紫社 祭神 多紀理比売命 田寸津比売命 市杵島比売命祓 社 祭神 瀬織津比咩神 速開都比咩神 気吹戸主神 速佐須良比咩神 三社を正面から。同じような造りである。三 社◇天神社 神産巣日神 (かみむすびのかみ) 少名毘古那神 (すくなひこなのかみ)◇筑紫社 (つくしのやしろ) 多紀理比売命 (たぎりひめのみこと) 田寸津比売命 (たぎつひめのみこと) 市杵島比売命 (いちきしまひめのみこと)◇祓社 (はらえのやしろ) 瀬織津比咩神 (せおりつひめのかみ) 速開都比咩神 (はやあきつひめのかみ) 気吹戸主神 (いぶきどぬしのかみ) 速佐須良比咩神 (はやさすらひめのかみ)手水舎の横に聳える良縁桜。満開時には見応えがあるのであろう。12:25幟旗に、「南はだの村 七福神と鶴亀めぐり」、「秦野の名水」、『名水百選』選抜総選挙『おいしさ』部門全国一位 と。千年の杜(せんねんのもり)「ふるさとの木によるふるさとの森」を再興させようと横浜国立大学宮脇昭名誉教授の指導のもと平成十九年に植樹祭が斎行され、この森には照葉樹を中心に約一万二千本六十種の日本古来の樹木が混植・密植されています。森の中には湧水があり、メダカやドジョウ・ホタル等が生育しています。この水源は全国名水百選にも選定され、平成二十七年に環境省が行った、~名水百選三十周年記念~「名水百選」選抜総選挙の「おいしさがすばらしい名水部門」で全国一位にもなった秦野盆地湧水群のひとつでもあります。わけても当社の水源は地下五十一メートルより汲み上げ、長い時間かけて自然の力によって濾過されたミネラルの豊富なおいしい地下水です。一年を通じ同じ温度で保たれ、夏は冷たく冬は温かみのある湧水です。当社の「ゆずりの水」は多くの参拝者がお水取りに訪れる憩いの場となっております。 (飲料可・保健所の水質調査を毎年実施) ー 続く ー
2026.04.21
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秦野市へ入り、「出雲大社相模分祠」の参拝をし併せて周辺の寺社史蹟巡りを行った。3月22日(日) 11:50出雲大社相模分祠所在地:神奈川県秦野市平沢1221出雲大社相模分祠の西側にある第三駐車場へ駐車(無料)。第三駐車場から東側へ進む。秦野千年の杜入口。「秦野千年の杜」この杜は、秦野を「世界で一番美しい森の盆地のまち」にすることを目指し、さまざまな生命を育む森や緑豊かな地球を大切にしようとの願いが込められています。「ふるさとの木による ふるさとの森づくり」を提唱する宮脇昭・横浜国立大学名誉教授が植樹を指導し、毎日新聞創刊135年記念事業・あすを植える「My Mai Tree」キャンペーンと連携し、植樹祭が開催されました。 平成19年6月 「秦野千年の杜植樹祭~出雲大社相模から」 主催 千年の森をつくる会 共催 毎日新聞社、出雲大社相模分祠 後援・協力団体 秦野市、秦野市教育委員会、秦野市農業協同組合、秦野商工会議所、(他諸略) 境内では"桜まつり"が開催されているようでテントが張られていた。右側には「古札納所」があり古い札が積まれていた。南はだの村 桜まつり令和8年3月21日~4月12日 高さ20mのソメイヨシノ 良縁桜 秦野名水仕込みの 甘酒 (毎日10:00~16:00) 桜・提灯ライトアップ (期間中毎日21:00終了) ストリートピアノ (期間中 毎日10:00~16:00) 花手水・つるし雛・限定御朱印・露店 など 神奈川で一番長い桜並木道 はだの桜みち まで徒歩100m よさこいご縁まつり よさこい奉納・コンテスト開催 よさこい奉納演舞 4月11日(土) 10時ー18時 50チーム以上 約1000人 4月12日(日) 10時-19時 踊り子参加! キッチンカー・露店出店境内には多くの参拝者が。南側の参道入口へ廻り、第二駐車場から境内を見る。参道入口右側に立つ社号標石「出雲大社相模分祠」。向かい側の左手の石碑には「出雲大社相模分院」と。参道脇に「出雲大社 相模分祠 絵地図」。北側の境内。南側の「はだの桜みち」。年間行事 1月1日 歳旦祭 4月上旬 桜の花見 1月3日 福迎祭 6月下旬 夏越の大祓(茅の輪くぐり) 2月3日 節分祭 7月上旬 ほおずき市・朝顔市 2月4日~下旬 梅祭り 9月9日 例祭 2月11日 紀元祭 9月秋分の日 秋季祖霊大祭 2月17日 祈年祭 12月23日 天長祭・新嘗祭 3月春分の日 春季祖霊大祭 12月下旬 年越の大祓 ※毎月1日午前10時30分より 月次祭 ※毎月第一日曜日午後3時より みたままつり(祖霊社)参道の左側には「斎館」その先に「御車祓所」がある。「斎館」入口。桜まつりで土産物店も出店。幟旗に「秦野名水 良い水 良い豆 良いとうふ 杜のとうふ工房三河屋」。看板には「豆腐ジェラート ¥500(税込)」。石碑には、草山貞胤翁帰幽三年記念事業 平成七年九月九日施工 出雲大社相模分祠参道清美寄付者芳名 奉納金額と氏名が刻まれていた。掲示板に、小田急線秦野駅に副駅名がつきました「出雲大社相模分祠 最寄駅」と。水質検査成績書(一般項目)。石鳥居鳥居の扁額「出雲大社」。大きな絵馬に、「開運招福 福の神 ダイフク様 秦野七福神と鶴亀めぐり 関東のいづもさん 出雲大社相模分祠」と。鳥居の下右側に「石像 午」と。鳥居の下左側に「石像の卯」。鳥居の右側奥に建つ「出雲記念館」。出雲大社内にある売店や打ち合わせ、結婚式の準備等を行う場所である。 相撲に縁があるので色々なグッズや手形もあったりする。鳥居を潜ると参道の両側に臨時の手水場が設置されていた。臨時の手水場を過ぎると右側に藤棚があり、おみくじ掛けがあった。また藤棚の下には十二支の石像があった。桜の木の下に手水舎、絵馬掛け。桜は、良縁桜のソメイヨシノで高さが20mある。境内の中央に聳える良縁桜で咲き初めであった。手水舎お宮参りの女の子であったか家族で参拝しておられた。桜まつり期間中で赤提灯が吊るされていた。絵馬掛けにはいろんな願いごとが書かれた絵馬があった。手前には「良縁桜」と書かれた立札。良縁桜を見上げる。手水舎の手水鉢が花手水で飾られていた。龍の口の横には七福神。ズームアップ。花は供えられた花の一部であろうか。本殿・拝殿手前左側には、授与所、右側には出雲記念館が建っている。左側には「祈祷受付」「御朱印受付」と。おみくじ・おまもり・御朱印 8:40~17:00祈祷受付 8:40~16:30【桜まつり】限定御朱印 3月21日~4月12日まで頒布出雲記念館入口右側にストリートピアノが置かれていた。結婚式場 出雲記念館参集殿として昭和五十四年に竣工し、平成六年に改装し名称を「出雲記念館」としました。結婚披露宴を始め、衣裳・美容・写真室があり、結婚式・お宮参り・結納・七五三・成人式・金婚式のお手伝いをしております。そのほか、忘年会、歓送迎会、同窓会などの会合やパーティーの会場としてご利用いただけます。館内にて当分祠特製の和菓子や島根のお菓子などを販売しております。併せて、神輿や縁の品々の展示見学やご参拝の休憩所としてもご利用できます。 ー 続く ー
2026.04.20
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引き続き三嶋神社の満開の枝垂れ桜を楽しんだ。3月22日(日) 10:55二年越しの三嶋神社の枝垂れ桜を楽しんだが、できれば快晴の日が良かったが。三嶋神社を後にすることに。境内社が建っていた。木製の鳥居に「諏訪社」とあったが由緒等の説明板はなかった。枝垂れ桜越しに神楽殿枝垂れ桜であったか。ズームアップ。ソメイヨシノであったか。スイセンも満開に。拝殿の神紋をバックに。スイセンを見上げる。三嶋神社を後にし坂道を下る。三嶋神社を振り返る。11:10国道246号沿いの駐車場へ戻る。駐車場は広く無料であったがトイレ施設はなかった。この後、秦野市にある「出雲大社相模分祠」へ行くことに。カーナビを「出雲大社相模分祠」にセットして国道246号を秦野方面へ。道路脇に、「関東のいずもさん 出雲大社相模分祠 約5km ⇧」と。車道にはサイクリスト、歩道にはジョギングをするランナー。国道246号の左側の標識に「新善波隧道」と。ここを左折すると善波峠で、糟屋宿(現在の伊勢原市)と曽屋宿(現在の秦野市)の間にある峠。トンネル入口に「善波隧道」と。トンネルの中が伊勢原市と秦野市の境になっている。秦野市に入り天気が良ければ富士山が見えたのであろう。カーナビで「浅間神社」があったので立ち寄ることに、この先を右折し小径へ。浅間神社 (名古木)所在地:神奈川県秦野市名古木1471カーナビに従って走り浅間神社下へ、この先は国道246号。斜面に白い花が咲いていた。白いハナニラの群生地。春に星形をした白や薄紫色の花を咲かせる。葉に傷をつけるとニラのような香りがする。食用のニラとは別種で毒性があるので注意と。星形のハナニラ。道路脇に車を停め参拝。山の傾斜地の狭い敷地の一角に鎮座する浅間神社。拝殿の扁額「浅間神社」。内陣を見る。簡易な祭壇には神鏡が置かれていた。右側の壁には奉納者の名が書かれていた。拝殿前から鳥居を見る。眼下には国道246号が走る。国道246号、秦野市街地を望む。入ってきた北西方向の狭い道。境内の木の間から西方向に富士山が見えていた。境内から南西方向の秦野市街地を望む。後方には、右に金時山、中央に箱根の二子山が見えていた。神社前の道路脇に可憐なスミレが咲いていた。この後目的地の「出雲大社相模分祠」へ。国道246号を秦野市へ。道路標識には、右折「県道70号線 ヤビツ峠」と。国道246号名古木(Naganuki)交差点。セルフガソリンスタンドの値段は「レギュラー 164」と。国道246号新町交差点を左折し小田急小田原線の踏切。11:40この先の左側が、目的地の出雲大社相模分祠の駐車場。 ー 続く ー
2026.04.19
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三嶋神社の満開の枝垂れ桜を楽しむ。3月22日(日) 10:30三嶋神社境内下の広場に咲く枝垂れ桜。枝垂れ桜をズームアップ。三嶋神社拝殿拝殿の彫り物拝殿の扁額「三嶋神社」内陣を覗き見る。内陣の鴨居には、明治天皇の肖像画、例祭の写真、表彰状が掲示されていた。拝殿から東側の境内を見下ろす。満開の枝垂れ桜が聳える。撮影が昼前で曇り空であったため青空がないのが残念。この枝垂れ桜を求めてくる人がチラホラと。境内までは国道246号から坂道を登り5分ほどで来れる。この木の下にベンチ、テーブルが置かれており数組の方が団欒していた。社殿を左から。境内の東側に聳える枝垂れ桜である。樹齢はまだ数十年であろうか。この枝垂れ桜は伊勢原市登録になっている、「地域景観資源 三嶋神社のしだれ桜 市景観条例に基づき登録された景観上重要な資源です 令和2年度登録」と。国道246号の南側からの脇参道入口に新しい石柱が立っていた。中央に「太郎重氏」、右に「竹美姫」、左に「六太兵衛」。三柱建立由緒文治元年(1185)に善波太郎重氏が没した際、阿夫利山におわした石尊大権現のお告げにより、重氏を以て八幡神とし、竹美姫(重氏の妻)を御嶽権現とし、六太兵衛(竹美姫の父)を明神として、善波のそれぞれの地に祠を建立して祀り、武門興隆及び地域鎮護の守護神としました。慶安四年(1651)に、当時善波の領主であった渡邊綱貞の御嶽山に八幡神、御嶽権現、明神の三社を合祀しましたが、強風により社殿が倒壊したため、寛文七年(1667)に現在地の大松山に遷座しました。ここに三嶋神社創建の由緒を誌すと共に、後世まで伝承されることを願い、三柱を建立致しました。 平成二十七年三月吉日 太郎の郷づくり協議会南側から境内を見る。社殿裏側(西側)の山地の下草が奇麗に刈り取られ整備されていたので入った。その山中に新旧の石祠が置かれていた。社殿の裏側から境内を見下ろす。枝垂れ桜をズームアップ。スギ林の中に石祠があったがこの時期は寒く嫌なものが出没しないので入りやすい。再度、枝垂れ桜を見下ろす。下草を刈り取っているので花も咲いていた。スマホで撮影・検索すると「ツルニチニチソウ」とでたが。裏山から社殿北側を見下ろす。左奥の建物は神楽殿。枝垂れ桜を見下ろす。境内裏側の山林、氏子さん達の手で奇麗に整備されていたので歩けた。神楽殿の横から枝垂れ桜を見上げる。満開の枝垂れ桜両部鳥居を見下ろす。枝垂れ桜越しに拝殿を見る。拝殿とのコラボ。ズームアップ。再度、鳥居を見下ろす。社殿の左側に石碑群があった。先程この裏山を歩いた。石碑の前に、石祠が三基。右には「廿六夜待資金寄附名標」と。表面には寄附金額、氏名があったが彫りが浅く確認できなかった。中央の石碑には「本社改築寄附」と。この石碑にも寄附金額、多くの方々の氏名が彫られていた。設置年代は「維時明治三十二年九月榖旦」とあった。裏山が奇麗に整備されている。左側には、「三島神社 御造営寄附芳名碑」と。この石碑にも寄附金額、多くの方々の氏名が彫られていた。10:55二年越しの枝垂れ桜を楽しんだ。 ー 続く ー
2026.04.18
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昨年参拝した時、枝垂れ桜の見頃が過ぎていた。その時地元の方から「春分の頃が見頃です」と聞いていたので、曇っていたがこの日に訪れた。3月22日(日) 10:05カーナビを「伊勢原の三嶋神社」にセットして9時半前に自宅を出発し、走り慣れた県道を走り国道246号を秦野方面へと走った。この辺りの国道246号はいつも渋滞しているのでこの大きな看板が目に入る。上は東名高速道路の高架橋。この辺りは国道246号で伊勢原市の西エリアにあたる。国道沿いにはソメイヨシノが植えられているがまだ開花前であった。国道246号の北側は昨年「伊勢原市の寺社史蹟巡り」で訪れている。南側の寺社史蹟については未制覇場所が多いのでこれからの訪問になる。目的地が近くなり国道沿いに気になる表示板があり駐車。案内板に「⇐ 太郎の郷さんぽ 矢倉沢往還」と。国道246号を秦野へ向けて走ると反対車線側に「三嶋神社 しだれ桜 ➩」の看板。10:10 道路脇にスクラップ置場があり、右側手前に駐車場があった。新しい看板が立っていた。右側の看板が倒れていたので立て直したが「左土手(国道)側に駐車してください」とあった。既に一台の車が駐車していた。三嶋神社へはこの坂を登り徒歩3分と。この辺りはクマの出没がないが熊除け鈴をつけリュックを背負って上った。神奈川県も丹沢山中に出没するようだがこの辺りには・・・。遊歩道下には若木が植えられていたが防獣除けのネットが張られていた。ズームアップ。シカ、サル、イノシシ対策であろうか。突き当りに看板が立っていた。看板に、「注 意 ・ここは野猿の出没区域です ・決してエサを与えない。 ・お弁当等の残りは、必ず持ち帰る。 みんなでマナーを守ってサルからの農作物被害を減らしましょう! JAいせはら農政対策委員会」。「注意」の傍に立つ案内板に「太郎の郷さんぽ 三嶋神社 ⇨」と。右側が上ってきた坂道。左上が三嶋神社境内になる。前回は、東側の正面へ上ってきたので回り込むことに。境内の枝垂れ桜が満開であった。昨年はこの狭い道を上ってきて途中の広場に車を停め参拝した。伊勢原、平塚方面を見下ろすが残念ながら曇り空で見晴らしが悪かった。東側からの上り坂で、この道が三嶋神社への参道であると。三嶋神社所在地:神奈川県伊勢原市善波714善波の鎮守。三嶋神社の入口には十数本の枝垂れ桜があり春の盛りには見事な花を咲かせる。昨年は2025年4月6日(日)に訪れており、その時のブログ「三嶋神社の枝垂れ桜」を 👈をクリック願います。木製の両部鳥居。三嶋神社御祭神 大山砥之命、倭健之命、誉田別之命由 緒 大治元年九月創建 東鑑に善波太郎特に尊崇高く当善波の郷内三嶋社御嶽社八幡社 の三社あり、慶安四年一社に合併し寛文七年現地善波太郎重氏の居蹟に移し、天正 十一年北條氏より社領二貫文、天正十九年御朱印を賜う。昭和四十一年現社殿を新 築、善波の総鎮守である。 結婚式、地鎮祭、命名、方位、厄除等神事相談承ります。連絡所 秦野市平沢1221 出雲大社相模分院参集殿 宮司 草山清和 電話(81)1122鳥居の扁額「三嶋神社」。鳥居下から参道を見下ろす。参道の両側にはみかん畑が広がっていた。ソメイヨシノが咲き始めていた。ソメイヨシノの開花状況は2~3分咲きであったか。昨年来た時は満開であった。歴代の善波氏一一五〇頃 善波左衛門善氏 太郎重氏の父 善波太郎重氏 相模国善波邑八幡社縁起、源太入道和讃に記あり 文治元年(一一八五)重氏没す 重氏を以て八幡と称し、竹美姫(重氏の妻)を御嶽権現とし、六太兵衛(竹美姫の父) を明神と称し之を崇むる建長六年 (一二五四) 善波又次郎 北条氏より鎌倉幕府小侍所衆に召し加えらる 以後将軍を警固す正安三年 (一三〇一) 善波四郎行綱 田、屋敷の売買につき鎌倉幕府よりの下知状観応元年 (一三五〇) 善波太郎有胤 関東管領足利基氏に御供し上杉憲顕と共に飯山寺、日向山の諸戦で活躍、その恩賞 により基氏より小袖を賜る応安元年 (一三六八) 善波十郎左衛門尉胤久 足利氏満が野心を有する武蔵平一揆討伐のために江戸牛島、足利、宇都宮まで遠征 するに際し御供せしめる 永徳元年(一三八一)氏満に叛した小山義政討伐に従い武蔵・下野戦で忠節を尽くす応永三三年 (一四ニ六) 善波藤太郎憲有 足利持氏の近臣一色持家を大将とする武田八郎信長討伐の戦に従い諸所の御陣を警 固す天正一一年 (一五八三) 善波禰宜 北条氏忠より三島社に宮免二貫文安堵の朱印状 天正一九年 (一五九一) 社領一石の朱印状 慶安四年 (一六五一) 御嶽山に八幡、御嶽権現、三島明神の三社を合祀す 寛文七年 (一六六七) 社頭破損につき大松山に遷す (古記録、古文書より) 平成九年三月 太郎の郷づくり協議会三嶋神社社殿石碑に「善波一族館阯」。鳥居を見下ろす。斜面にはスイセン、ソメイヨシノが咲きテーブル席が用意されていた。境内の北側へ入り枝垂れ桜を見る。案内板に「⇐ 太郎の郷さんぽ 勝興寺」と。勝興寺は北側の谷戸にあり昨年4月6日(日)に参拝している。枝垂れ桜を見上げる。地元の方が言われたように春分の日が満開であった。枝垂れ桜は高木であったが。石燈籠に奉納年度があったが。境内の東側、斜面に枝垂れ桜が植えられている。枝垂れ桜の下に、「伊勢原市登録 地域景観資源 三嶋神社のしだれ桜 市景観条例に基づき登録された景観上重要な資源です 令和2年度登録」と。この他には説明板もなく枝垂れ桜の種類等は不明。枝垂れ桜の下にはテーブル席があり神社の氏子さんであったか談笑しておられた。ビール持参で楽しんでおられた。黄色のスイセンが奇麗に咲いていた。10:30樹の幹には防獣対策のネットが巻かれていた。枝垂れ桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.17
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熱海港を散策。2月18日(水) 13:35熱海後楽園ホテル所在地:静岡県熱海市和田浜南町10−1熱海港の桟橋から「熱海後楽園ホテル」を望む。かつて野球の読売ジャイアンツが納会を開催しているホテルである。数年前に伊豆の国市の”順天堂大学医学部附属静岡病院”へ入院した時、同部屋の方がこのホテルで料理長をやっていたと。函南町在住と聞いていたが・・・。熱海港は、背後に全国屈指の温泉都市をひかえた伊豆半島の玄関口に位置しており、大島航路や初島航路等の離島間航路が運航され、年間の船舶乗降人員は25万人以上に達していると。ホテルの前にはヤシの木並木。アタミロープウェイ山麓駅(後楽園駅)アタミロープウェイは熱海ベイリゾート後楽園の隣にあり、「山麓駅」と、「山頂駅」とを結んでおり、全長約273メートルのロープウェイとなっている。アタミロープウェイはちなみに日本一短いロープウェイであると。温泉街に程近い熱海港近くから、八幡山山頂まで一気に昇るアタミロープウェイである。レトロなゴンドラに揺られて3分間のショートトリップで「あいじょう岬展望台」に到着。そこは、目の前に輝く海と大空が広がる魅惑の展望台となっていると。熱海後楽園ホテルには一度は宿泊してみたいホテルであるが。熱海港の東側には”熱海観光港芝生広場”があったが今回はスルーした。北西方向に熱海ヨットハーバー・スパ・マリーナのレインボーデッキを望む。初島行き14:00はまだ乗船前であった。海面にはカモメであったか多くの水鳥が。船体に「金波銀波 KIMPA GIMPA」と。やはり新造船ではなくリニューアルしたようで、補修痕が見受けられた。金波銀波とは、日の光や月の光に照らされて金色や銀色に輝く波の様子を表す四字熟語。高速ジェット船「セブンアイランド結」の出航を見て見たかったが時間が?サンレモ公園フェリーターミナル近くにある公園で、トイレと水飲み場と遊具がある。イタリアのサンレモ市との友好で名付けられた公園であると。石碑に、愛(まごころ)あなたのランプの灯を もう少し高く掲げてください!見えない人々の行く手を 照らすために! ー ヘレンケラー ー 2008年3月23日 熱海ライオンズクラブ 創立50周年記念公園の一角に桜が咲いていた。あたみ桜であったか。既に葉桜になっていた。公園の一角に石碑石碑には、「熱海市歌 坪内逍遥 作 真冬を知らざる常春熱海 真夏も涼しき秋の海辺に 千歳を湧き湧くくすしきいで湯 病めるも怠り憂いも忘る ああこの楽土は我が住む町 (以降略) サンレモ公園にはヤシの木も聳え、藤棚もあった。熱海港船客待合所入口には、「第71回 伊豆大島 椿まつり 2月1日(日)~3月22日(日)」の横断幕。バス停であったか、「静岡県熱海港船客待合所 富士急マリンリゾート 東海汽船」と。向かい側に「ウオミサキホテル」があった。13:50タイムズ熱海市営臨港滞在時間25分で駐車料金は110円であった。先輩が早めに帰りたいとのことでカーナビを自宅にセット。熱海港から国道135号をひたすら走り、JR真鶴駅手前を左折して裏道の県道740号線(小田原湯河原線)を走り根府川駅へと。14:30白糸川橋梁撮影場所は、県道740号線(小田原湯河原線)の根府川駅手前。近くに豆相人車鉄道根府川駅跡があり、相模湾側に白糸川に架かる橋が目に入る。白糸川に架かる東海道本線と、東海道新幹線の2本の橋。東海道本線の赤い鉄橋「白糸川橋梁」。白糸川橋梁をズームアップ。強風時には東海道本線も運転停止となることがあり、現役時代「強風のため小田原・熱海間が運転停止」とよくあったものだ。白糸川橋梁の歴史初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受けた。現在の橋は、被災の翌年に新たな橋に架け替えられた二代目である。3連トラスは初代の橋の図面がほぼそのまま使われ、被災前とほぼ同じ形態で再建された。トラスは赤く塗装されており、全長 199.34m、高さ 24.5mである。鉄道撮影スポットになっており、東海道新幹線も過密ダイヤだけに数分ごとに通過する。関東大震災で壊滅したが初代の図面により初代のまゝに再建されたと。この辺りは「おかめ桜」であったが、開花し初めであった。先輩が先を急ぐとのことでスルー。おかめ桜まつりは例年2月末から開催されている。先輩を自宅に送りとどけ、昼食をとっていなかったのでいつもの「かつや」へ。15:40かつや大磯店所在地:神奈川県中郡大磯町国府本郷439旅をするといつも利用する全国チェーンの「かつや」である。国道1号の国府本郷交差点にある「とんかつ かつや」。ロースカツ定食 ¥913最近のオーダーはタブレットからになっているが店によってシステムが異なっている。遅い昼食後、近くの大磯西インタから西湘バイパスへ入る。この時間帯は渋滞もなく順調に走れる。15:50西湘バイパス大磯出口先輩の忘れ物自宅に帰り、助手席を見ると先輩の忘れ物が。先輩に電話、この夜茅ヶ崎の居酒屋で手渡し御馳走になったのである。この日の歩行数は7,500歩、走行距離は約100キロで、累計は166キロであった。 END
2026.04.16
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十国峠から、県道20号線(熱海箱根峠線)を走り熱海市街地へ。2月18日(水) 13:00梅園の結び葉所在地:静岡県熱海市福道町8熱海梅園と來宮神社の間にある展望台である。今年1月27日(火)に「熱海市内の花を愛でに」で訪れた時この展望台へ上っている。ステージ入口に、「梅園の結び葉 展望デッキ 10:00 ~ 16:30 <最大定員 20名様迄> 安全を考慮し 身長130cm以下のお子様のご利用はご遠慮いただいております。 17時 ~ 翌朝9時まで展望デッキのご利用はできません」と。ウッドデッキからの熱海温泉街を見下ろす光景はビュースポットになっている。眼下は東海道新幹線、東海道本線、伊東線が走る交通の要衝地である。右側の高層ビルは熱海後楽園ホテルで、山には熱海城、沖合には初島が見える。東海道新幹線の新丹那トンネル入口。東海道新幹線の上りが疾走。手前の線路は保線区の路線。県道20号線(熱海箱根峠線)のこの辺りは急坂になっている。向かい側の建物に像が立っていた。ズームアップ。カーナビを「熱海港」にセットして出発。来宮駅前を走り旅友のKさんがJRの車内に忘れ物をして引き取りに来たという熱海警察署。今年1月に熱海桜を見に来た時、ここ国道135号の熱海渚橋から上流へと歩いた。13:25タイムズ熱海市営臨港所在地:静岡県熱海市和田浜南町6熱海港の乗船口の直ぐ隣の立地で、初島に行くには便利であると。駐車料金もリーズナブルな価格である。駐車場営業時間 24時間営業最大料金:駐車後16時間 1,760円基本料金:最初の16時間まで/30分 110円、16時間以降/60分 110円熱海港待合室前静岡県熱海港船客待合所待合室内は混雑していた。11 大島行 7⃣・8⃣ 番口はそとの桟橋内にあります12 初島行は 5⃣・6⃣番 ゲートです 初島航路ご案内、次便は「14:00」と。初島のお土産コーナー初島往復乗船券発券機初島航路 料金表 ■往復乗船料金 (熱海⇦➩初島) 大人(中学生以上) 2,900円大島への発券場は奥にあった。大島・神津島行 乗船券売場 東海汽船 伊豆大島行き 9:10、14:10 入港地は岡田港伊豆大島 2月2日~28日 時刻 変則になっているので要注意 熱海~大島 料金 (2月) (片道) 大人 5,840円館 山 2月7日~3月22日 時刻 熱海~館山 料金 (片道) 大人 8,830円大島便は「乗船名簿記入台」と。伊豆大島へは半世紀以上前に江ノ島から船で渡った。待合室には大きな荷物を持った多くの人が、異国旅情感を漂わせていた。熱海港船客待合所から桟橋へ。桟橋には海上自衛隊色の船が停泊していた。今年1月27日(火)に熱海へ来た時、熱海港を出港するこの船を見ていた。その時のブログでは、船は新船「金波銀波 (きんぱぎんぱ)」で2025年7月12日就航で熱海港~初島港を結ぶ「初島リゾートライン」を約30分で運航する高速船であると。船体に「金波銀波」と。船体を見るとなんとなく補修したような感が、また「金波銀波」の左に「シ」の字が。港関係の方に「新造船」かと聞くと「リニューアルし船名も変更した」と。熱海ヨットハーバー・スパ・マリーナのレインボーデッキを望む。いつもは反対側から見ているのだが。初島へは、イルドバカンスプレミア、金波銀波の2種類の定期船が運航している。こちらの船には「東海汽船 セブンアイラアンド 結」とあった。高速ジェット船「セブンアイランド結」東京竹芝~大島・利島・新島・式根島・神津島航路に就航する「セブンアイランド結」東京・熱海〜大島・利島・式根・神津島航路を運航します。ジェット船初のバリアフリーシップとしてバリアフリー席、多目的トイレ、船内階段用の昇降式チェアーを搭載している。全長約27.36m、総トン数176t。旅客定員数は241名。ジェットフォイルの建造は国内では1995年以来となり、25年ぶりの新造船として登場した。航路:熱海~伊豆大島、神津島。14時出航の初島行き「金波銀波」。⑥ 初島行 乗船改札口 ⑤金波銀波の仕様 ・最大速カ:18.6ノット (時速約33.5キロ) ・旅客定員:626名 ・全 長:44メートル ・全 幅:8.2メートル ・総トン数:292トン の高速船である。船体に「熱海 ⇔ 初島」と。約30分で運航している。出港準備が終わり待機する係員。後方に回り込む。13:35船体の溶接線が奇麗でなかったが日本の製造?かと。 ー 続く ー
2026.04.15
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引き続き半世紀ぶりに訪れた十国峠頂上(日金山)からの眺望を楽しむ。2月18日(水) 11:45ウッドデッキの西側にハンモックが設置されていた。ハンモックに愛犬と寝そべりながら風景を楽しんでおられた。この後先輩がチュロスの破片をワンちゃんに与えると美味しそうに食べていた。北側のモニュメント前へ。富士山の頂上にはまだ雲がかかっていた。愛犬をモニュメントの上に座らせて撮影する人も。なかなか飼い主の方を見てくれない。シャッターチャンスを待つには順番待ちの人もいるので諦める必要がある。スマホで撮影こちらの方は自撮り用台にスマホを載せて撮影。団体客であったか多くの人が来られた。徐々に富士山の全景が見られるようになってきた。函南の丘陵地にある函南ゴルフ俱楽部のコース。山頂駅12:15発のケーブルカーで下山することに。十国峠頂上(日金山)から約1時間の眺望を楽しんだ。もう少し天気が良ければと思うが。中間点ですれ違う。上る時とは違う車両に乗車したようだ。車両を繋ぐロープが左側にある。ケーブルカーとは、山岳の急斜面などを、鋼索(ケーブル)が繋がれた車両をウインチ等で巻き上げて運転する鉄道である。鋼索鉄道ともいう。車両に動力を積まないため推進効率に優れており、近年では山岳地帯のみならず都市や空港等での輸送にも用いられている。ズームアップ。山麓駅森の駅 箱根十国峠1階には土産売店、喫茶コーナー、そば処(58席)等があり、休憩の拠点になっている。広さ420平方mの土産売場は、箱根や伊豆の名産品・民芸品を豊富に取り揃えている。富士宮やきそばを販売。富士宮焼きそば缶詰 660円と新しい製品が。店の広さに比べ客数が少ない感がした、やはり団体客が来ないと。海産物も販売昼食時で蕎麦でも食べたかったが、先輩が少食で食べないとのことでスルー。十国峠・食事処塩ラーメン 1000円海老天そば・うどん 1400円 かき揚げそば・うどん 1000円ちからうどん 1000円 ざるそば・うどん 800円大揚げきつねそば・うどん 900円 とろろそば・うどん 900円エビフライ定食 1500円 とんかつ定食 1400円 他昨夜飲んだ冷酒の”箱根山”が美味しかったので1本購入した。観光案内所でもらったパンフレット。伊豆函南 伊豆の玄関「かんなみ」の新名所かんなみの桜まつり 令和8年2月14日(土)~3月15日(日) 見頃:2月下旬~3月中旬(例年) 十国峠パノラマケーブルカー乗り場入口富士山が奇麗に見えていた。十国峠頂上からは奇麗に見えているのであろう。県道20号線を挟んだ西側の展望台へ移動。高い場所がないのでベンチの上に上がり撮影。富士山の麓とには自衛隊の演習場がある。広い駐車場を振り返る。この後県道20号線(熱海箱根峠線)を下り熱海へと向かうことに。西熱海ゴルフコース所在地:静岡県熱海市熱海1800熱海梅園横を下る予定であったがカーナビは別のルートを案内。既に私はゴルフは卒業しているが、このゴルフ場は距離はないが、幅の狭いコース、打ち上げや打ち下げのコースもあり難易度は高い。グリーンも片傾斜だったり、海に向かって順目だったりと難しい面白いコースであると。ゴルフ場のコースは山の傾斜地にあり眺望は良いがプレーヤーにとっては厳しいのでは。ここでのプレー経験はない。12:50この日は平日であったが多くの車が駐車していた。 ー 続く ー
2026.04.14
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十国峠頂上(日金山)に半世紀ぶりに訪れ、頂上からの眺望を楽しむ。2月18日(水) 11:25お願い地蔵の後方から十国峠展望台を望む。展望台の右側に富士山が見えていた。南側の案内板に「⇦ 熱海日金山霊園」と。天空のドッグランの方向からハイカーのグループが上って来られた。この辺りはクマの心配もないので、機会があれば天気のよいときに歩いてみたものだ。ドッグランの南側には「源実朝の歌碑」がある。望遠鏡があり、東側のテラスに「安房国 AWA ⇨ 」と。頂上からは晴れた日には富士山をはじめ、相模湾や駿河湾、伊豆半島、遠くは南アルプスまで見渡せ、その名の通り十の国を一望できる壮大なパノラマが広がりますと。東側の眼下には、湯河原の温泉街、真鶴半島が見えていた。天気が良ければ三浦半島、房総半島も見えるのであろう。真鶴半島をズームアップ。北側のテラスに移動、手前に「上総国 KAZUSA ⇨ 」、奥に「相模国 SAGAMI ⇨ 」と。遠く北側には箱根の駒ヶ岳も見えていた。北側のテラスに移動、左側に「⇦ 信濃国 SHINANO 」、右側に「⇦ 甲斐国 KAI 」と。テラスの奥に二つの石碑が立っていた。手前は「江戸時代の1783年8月に、熱海の里長が建てた石碑」であると。石碑には漢文であったか、「伊豆國賀茂郡日金山頂 所観望者十國五島 自子至卯相模國武蔵國 安房國上總國下總國 自辰至申其國所隷之 南面 五箇島及遠江國 自酉至亥駿河國信濃國甲斐國 天明三年八月東都林居 士諸島出雲光英源清候 等應熱海里長渡邉房求 之需建之」と。十国峠十国五島を俯瞰できることから、この峠の名ができました。天明3年、当時の熱海里長が建てた古い「いしぶみ」です。熱海をこよなく愛した高山樗牛は有名な『わが袖の記』の中で十国峠に登る遊びはことのほか壮快で、北は足柄、南は大島、東は江ノ島、西は田子の浦まで壮大な眺めたぐふべきものなし・・・と記しています。頂上にこのような2枚の説明板があったが少々疲れていたのでそろそろ更新時期か。テラスの北側へ回り込む。十国峠頂上の北東辺りに立つ石碑。石碑には「小堀春樹君 偉功記念碑」と。右側の石碑には記念碑の碑文が刻まれていた。記念碑の碑文は苔むして判読しづらかったが、「この記念碑は、故小堀春樹氏を・・・」。ネットで調べると故小堀春樹氏は、夜間航空の安全を企図し、1932年11月28日の十国峠山頂をはじめ他8箇所に航空灯台を建設し、政府に貢献した偉功を称え1939年11月に中腹に建てられた記念碑。灯台の達磨山への移設もあり、1968年3月にここ山頂へ移されたと。テラス北側に、十国峠の文字が入ったモニュメントが設けられていた。モニュメントの右側に、「登録記念物 十国峠(日金山) 平成28年3月1日登録 この記念物は重要な文化財です 文化庁」と。このモニュメントに対する「登録記念物」ではなかった。富士の頂上に雲がかかっていたが、頂上付近は風が強いようで刻々と光景が変わっていた。手前には自撮り用のカメラ台もあった。この日はインバウンド客も見当たらず順調に撮影していたが、富士が雲にかかりシャッターチャンスにならず。雲がかかった富士山頂上。テラスの西側に案内板が立っていた。 動く大地を眺める ー「十の国」と「4つのプレート」ーここ十国峠からは、伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・安房・上総・下総・武蔵・信濃の十国を見渡すことができますが、それだけでなく、地球の表面を覆う「プレート」のうち4つのプレートや、火山が長い時間をかけて作り出した地形を一望できます。眼下に見える駿河湾は、伊豆半島を含むフィリピン海プレートが、本州の下に沈み込んでいる場所で、この湾の向こう側はユーラシアプレートです。晴れた日には、伊豆と本州の衝突に伴って隆起した南アルプスの山々を遠くに望むこともできます。十国峠からの景色は、伊豆と本州の衝突という大事件を私たちに物語っているのです。南から来た火山の贈りもの本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かつては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前の出来事です。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んだ地形をもつ魅力的な半島が形作られています。手前から、愛鷹火山、富士山、南アルプスの山並み。函南町眺望地点 十国峠展望台【十国峠展望台・レストハウス】函南町の地形は、箱根連山から狩野川周辺まで、山間部、丘陵地、平坦地が連続し、それぞれの地形特性に応じて少しずつ穏やかに変化しながら、町全域が連続的かつ一体的にまとまりのある景観を形成しています。それぞれの地域から様々な表情を見せる町の景観をお楽しみいただけます。ここ十国峠は、伊豆と本州の衝突以降にできた湯河原火山という古い火山の一部です。伊豆・相模など昔の十国を見渡せることが名前の由来です。展望台からは田方平野から駿河湾や丹沢山地に至るまで、富士山を含めた大パノラマ景観が得られます。 令和4年10月3日指定 函南町役場建設経済部都市計画課展望台の西側から函南町の田方平野を見下ろす。眼下には「森の駅箱根十国峠」「函南ゴルフ俱楽部」「愛鷹山」が見える。二人の若者が食べていた「チュロス」。ネットにも載っている「十国峠の峠チュロスで是非食べて下さい」と。話をすると、岡山大学の学生で二人で旅していると、出身地を聞くと広島県福山市近田とのことで自分の故郷と近かったのでビックリ。山頂駅右側の富士山の周りは雲が多かった。テラスから南方向を見る。中高年のハイカー集団が来ておられた。足元に「遠江国 TOTOUMI ⇨ 」チュロスを食べるために、十国峠展望台の中へ、TENGOKU CAFE(天国カフェ)インバウンド客がおられなかったので待つこともなく購入できたが、オーダー・支払いは機械操作で高齢者には操作しづらかった。メニューも新しいもので親しみがなかった。右側に目的の「TOGE CHURROS 峠チュロス ¥550 雲上で味わう、甘い幸せ」と。チュロスの形が峠の文字をあしらっている。チュロとはスペイン・ポルトガル・モロッコおよびキューバなどのラテンアメリカ各国で広く食べられている揚げ菓子である。日本ではチュロおよび複数形のチュロスとして定着していると。チュロスは揚げたてで熱かった。自分は初めて食べるものであったが中に餅が入っており甘みもあり美味しかった。展望台の西側にテーブル席があり、休憩しながら駿河湾が見渡せる。TENGOKU CAFE(天国カフェ)テンゴク神社展望台の中に入ると入口(東側)に、絵馬で飾られた「テンゴク神社」が祀られていた。左側には機械式の「十国峠 開雲おみくじ」が置かれていた。テンゴク神社インスタ映えのパネルも。若者用の鏡であろうがおじさんには使い方も分からずスルー。展望台の中に鎮座するテンゴク神社。11:15TENGOKU CAFE(天国カフェ)の前にはお客さんが、人気のチュロスであろうか。 ー 続く ー
2026.04.13
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芦ノ湖畔から国道1号へ上がり、箱根峠から県道20号線(熱海箱根峠線)の稜線を南下。2月18日(水) 10:55森の駅 箱根十国峠所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20十国峠ケーブルカーの登り口駅に併設されている「箱根・十国峠レストハウス」は、お土産品やそば処が入った便利な施設。1階そば処では「桜えびのかきあげそば」や伊豆産本わさびが丸ごと1本付いた「本わさびざるそば」がいただける。また屋外テラス席もありペット同伴での利用も可能。天気の良い日は富士山も見え絶景スポットである。十国峠パノラマケーブルカー田方郡函南町桑原の十国峠山麓駅から十国峠山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカー路線。概ね15分ごとに運行しており、移動にかかる所用時間は3分。山麓駅には沼津産のアジや由比港の桜えびを使ったグルメを提供するテイクアウトショップを、山頂駅には360度のパノラマを楽しめる展望テラスやカフェを併設している。十国峠山頂駅をズームアップ。県道20号線(熱海箱根峠線)沿いに立つ観光案内板。「森の駅 箱根十国峠」「パノラマケーブルカー 絶景展望テラスまで3分」と。県道20号線を挟んだ西側に展望台があり移動。雲の流れが速かったが富士の姿が見えていた。ズームアップ。富士山の宝永火口をズームアップ。先輩は椅子に上がり撮影、富士山の方向ではなかったが。土足で椅子へ上がられたのでこの後拭かれたか。県道20号線を挟んだ”森の駅箱根十国峠駐車場”を振り返る。この日は平日であったが多くの車が駐車していた。森の駅 箱根十国峠の左側に”十国峠パノラマケーブルカー”乗り場がある。窓ガラスに”十国峠パノラマケーブルカー”と。富士山の顔が見えていたので十国峠山頂へ行くかと思案。十国峠パノラマケーブルカーの路線をズームアップ。両駅からケーブルカーが動く。十国峠山麓駅から山頂駅の全長316mを結ぶケーブルカーで標高差は101メートル。標高766mの日金山の山頂に到達する。思い出せば十国峠山頂へは半世紀以上前に一度上ったことがある。しばし童心に戻り動きを追った。2階にある十国峠山麓駅のTICKET売り場。次の発車は「11:15」と。先輩に話をして上ることにしチケットを購入。往復乗車券 おとな 730円時刻表 始 発 9:00 この間15分に1本運行 下り最終 17:00料金表 普通運賃 おとな往復 730円、片道 370円 片道はハイキング専用です。 山頂から山麓に直接歩いて戻る道はありません。十国峠山麓駅の改札口横にケーブルカーの運転席か。モニターに山麓駅、頂上駅の状況が映し出されていた。山麓駅ホーム出発前に記念写真。車体には愛称の「十国峠」のネームプレート。車体に「日金」と。車体は昭和30年(1955)に日立製作所が製造している。最前部から頂上駅を見上げる。白い貼り紙に、「このケーブルカーの制動装置はテオドルベル式で、自動・足踏・過速・手動の四種を併 せて装備しています。」と。ホームに「十国峠山麓」。車両の銘板に、 1号 日金号 自重 7.05t 定員 96人後部座席から山麓駅を見下ろす。ケーブル路線の中間部で下り車両とすれ違う。かつては車体塗装はライオンズカラーであったと。天気が良ければ三島市街地、駿河湾が見えるのであろうが残念ながら・・・。森の駅箱根十国峠の建屋、駐車場を見下ろす。頂上駅に到着。山頂駅のホームに降り、右側に愛鷹山連山が見えていた。愛鷹山連山は見えたが富士山は残念ながら雲に隠れていた。ホームに「十国峠山頂」と。山頂駅のホームは傾斜がきつく足がすくんだ。十国峠山頂から南側にある”天空のドッグラン”を望む。頂上のテラスに「伊豆国 IZU ⇨ 」と。天空のドッグラン所在地:静岡県田方郡函南町桑原1400-20ここへは姫野沢公園手前の峠の駐車場に駐車して、グランピング施設を抜けて徒歩で来れる。山頂の一角に新しい地蔵が立っていた。十国峠「お願い地蔵」建立のご案内十国峠は、昭和初期より伊豆や熱海と箱根を結び、また、日本の交通の要所として大きな役割を果たしてきています。昭和7年、熱海峠と箱根峠を結ぶ「自動車専用道路」が開通するとともに、山頂に日本初の「夜間航空灯台」が設置されました。さらに昭和32年、日本初の「カーブミラー」が自動車専用道路に設置されました。平成18年「十国峠ケーブルカー開業50周年」を記念し、また、この地を訪れた皆さまの「旅の安全と交通災害ゼロ」を祈願しまして平成19年この「お願い地蔵」を建立しました。お願い地蔵お願い地蔵の後方から十国峠展望台を望む。右側奥に富士山が見えていた。展望台の前にステージがあり撮影スポットになっているようで人が絶えない。富士山をズームアップ。11:25東側の眼下には真鶴半島が見えるのだが。 ー 続く ー
2026.04.12
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この旅二日目は、前日と違って晴れていたので芦ノ湖、十国峠へ向かうことに。2月18日(水) 7:30朝食配膳かつてはバイキングであったがこの日は客数が少ないためか配膳されていた。チェックアウトは10時であったが9時半に出発した。Kさんの同期のメンバーも9時半ごろには出発帰路についていた。改修工事に莫大な費用がかかるとのことだが、健康保険組合だけに任すのではなく会社側からの援助で継続してほしいものだが。今年8月末の閉館までに何度利用するか、次回は「4月15日(水)」を予約済である。絶景日帰り温泉 龍宮殿本館所在地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根139途中、大涌谷等の観光地もあったがスルーし、芦ノ湖畔にある”龍宮殿本館”前へ。今まで宿泊ホテルと思っていたが開放的な食事処、サウナ、温泉、絶景が楽しめる日帰り温泉施設であると。営業時間は8:00~20:00で、一般料金は2,300円。箱根芦ノ湖畔に佇む「龍宮殿本館」。2017年にリニューアルし、心と体を癒す極上の絶景日帰り温泉がオープンしました。雄大な芦ノ湖の自然と一体となるようなダイナミックな景色と、富士山も同時に望むロケーションの素晴らしさが特徴ですと。一度のんびりと訪れてみたいものだが。駒ヶ岳ロープウェーが運行していたのでロープウェー乗り場へ。広い駐車場があった。箱根駒ヶ岳ロープウェー箱根園駅をズームアップ。箱根園 雪・そり遊び広場駐車場に隣接してある芦ノ湖畔のプレジャーランドに冬季限定で出現する、雪遊びやそり遊びが楽しめるゲレンデである。雪遊びスペースは公園の砂場くらいと狭いが、ソリは無料で貸し出してくれる。 ソリを楽しむ家族をズームアップ。箱根駒ヶ岳ロープウェー箱根園駅一時駐車場がなくロータリー脇に車を停めて撮影。箱根駒ヶ岳ロープウェーは、芦ノ湖畔と箱根で2番目に標高が高い駒ヶ岳を結ぶ。約7分の空中散歩でたどり着く山頂からは、芦ノ湖や箱根外輪山はもとより、富士山、 相模湾、駿河湾、そして遠くは横浜ランドマークタワーや東京スカイツリーまで望むことができる360度絶景のパノラマスポットである。標高1,356mの駒ケ岳を見上げる。箱根の絶景が楽しめる山頂展望広場は2025年4月25日に「箱根駒ヶ岳 芦ノソラ」としてリニューアルオープンした。駒ヶ岳の山頂にはかつてはスケートリンクがあった。乗り場まで行って値段表等を確認したかったのだが。ネットからの情報では、運行時間9:00~16:50、往復運賃2,200円。夜はイルミネーションになるのであろう。P9 箱根町支所下駐車場箱根海賊船元箱根港の南側にある駐車場で国道1号(旧東海道)から芦ノ湖畔へ下りる。駒ヶ岳の全景が奇麗に見えていた。富士山は雲に隠れ見えなかったが右側に箱根神社の”平和の鳥居”。平和の鳥居箱根神社前の道路を挟んで芦ノ湖・元箱根湾に建つのが平和の鳥居。昭和27年にサンフランシスコ平和条約締結を記念して建てられた。扁額には吉田茂元首相が記した「平和」の文字があるが、湖側を向いているので陸側から見ることはできませんと。右側の箱根海賊船元箱根港に海賊船が停泊。海賊船をズームアップ。富士山の周りの雲の流れが速くしばし待つと頂上が見えた。海賊船が入港。ズームアップ。船名は「ビクトリー」と。箱根海賊船元箱根港の桟橋には多くの人が乗船待ち。元箱根港には二隻の海賊船。富士山の周りは徐々に天気が回復しているのか富士山が見えてきた。箱根駅伝ミュージアム所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根167箱根駅伝の歴史と魅力を伝えるミュージアム。歴代の大会の概要、優勝校、優勝校や誕生したスター選手などが紹介されている。入場料は大人750円で入館はスルー。東京箱根間往復大学駅伝競走 往路ゴール・復路スタート碑選手はこの先の国道1号の箱根関所南交差点を右折して復路ゴール点へ入って来る。往路ゴール富士山の頂上が見える。路面に、「東京箱根間往復大学駅伝競走 箱根町2024.1.2」と。復路スタート箱根町園地からの富士山。箱根海賊船 箱根町港所在地:神奈川県足柄下郡箱根町箱根161箱根町港桟橋箱根海賊船 ご案内◆ 航路図 1⃣ 箱根町港 現在地 ② 元箱根港 ③ 桃源台港◆ 運賃表 片道 所要時間 約40分 箱根町港 ⇨ 元箱根港 ⇨ 桃源台港 おとな 1700 箱根町港 ⇨ 元箱根港 おとな 600 往復 所要時間 約70分 箱根町港 ⇨ 元箱根港 ⇨ 桃源台港 ⇨ 箱根町港 おとな 3000 チケット売り場に、特別船室 特別船室券 数量限定で販売中! A:普通船室(BACK) B:特別船室(FRONT) 箱根フリーパス 船・ロープウェイ乗り放題パス+¥700 片道 普通乗船券 +¥800 片道◆ 時刻表 12月1日~ 次の便は10:30で、➡ で指されていた。元箱根港 経由 桃源台港 行 12月1日~3月19日桟橋には 10:30 出航の海賊船が着岸していた。海賊船の後方に富士山が見えていた。出航も間近で乗船開始していた。後方に富士山。船主の女神船名は「QUEEN ASHINOKO」と。元箱根港に向けて出港。芦ノ湖には三隻の船が航行していた。雲の流れが速く富士山は隠れていた。ズームアップ。箱根関所周辺散策図10:35箱根町港レンタカーで来たインバウンド客を多く見かけた。 ー 続く ー
2026.04.11
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箱根へは二人とも何度も来ているので見るところもなく早めに目的地の宿泊所へ。2月17日(火) 14:55仙石高原ビラ所在地:神奈川県足柄下郡箱根町仙石原1285-417ビラは箱根の仙石原にある温泉保養施設として、昭和30年代から運営を続けてきており、現在のビラは平成7年(1995)8月に建て替えられて、今日に至っている。今までに何度も利用していたが今年8月に閉館するとのことで今回の旅を計画した。大きな表札には、「住友重機械健康保険組合 仙石高原ビラ」 もともとは浦賀船渠(うらがせんきょ)の健康保険組合が所有していたが、昭和44年(19 69)に住友機械と合併して住友重機械健康保険組合の管轄となった。この急坂を登り突き当りを左折すると「ポーラ美術館」がある。左側は急な坂道になっており700~800メートル下ると、国道138号の小塚入口バス停がある。旅の目的のもう一つは”旅友の同期グループが宿泊する”とのこともあった。1階:エントランス、1階から3階はエレベーターを設置。2階:フロント、ロビー、食堂、娯楽室(カラオケ、麻雀等)、管理室。 ただし、カラオケ室はコロナ以来使用禁止になっていると。3階:客室、大浴場建て替え後30年が経過し施設の老朽化が進み、今後とも安全に施設を運営し続けるためには大規模な修繕工事が必要となるなどから今年8月に閉館することになったと。外観は奇麗だが温泉だけに水回り等に大規模な改修工事が必要に。1階:エントランスエレベーターor 階段を利用して2階へ。2階:ロビー、フロント、お土産品コーナー チェックインは15時からで我々が一番乗りに。部屋にあった”お知らせ” 2025年8月 住友重機械健康保険組合 理事長 白石 和利 仙石高原ビラの閉館について掲記の件、長らくご愛顧頂いてきた健康保険組合の直営保養施設である仙石高原ビラ(以下、ビラと言う)を、来年(2026年)8月末をもって閉館することを、7月に開催した組合会で決議し、ビラの運営を委託している東京ケータリング㈱殿とも閉館に向けた協議が整いましたのでお知らせ致します。ビラは箱根の仙石原にある温泉保養施設として、昭和30年代から運営を続けてきており、現在のビラは1995年8月に建て替えられて、今日に至っています。これまで多くの利用者を受け入れてきたビラですが、建て替え後30年が経過し施設の老朽化が進み、今後とも安全に施設を運営し続けるためには大規模な修繕工事が必要となり、莫大な費用を要することから、今般、ビラの今後を種々検討した結果、冒頭申し上げたように「閉館」と言う結論に至りました。ご案内から来年8月末の閉館までに、1年の期間を置かせて頂きました。限られた期間とはなりますが、この間にビラを再訪頂いたり、これを機にビラを訪れて頂くなど、最後までビラをご活用頂きますよう、お願い申し上げます。 以上 注記: 本通知は、健康保険組合のホームページや、健康づくりサポートアプリのPep Up なども通じて、ご案内しております。洋室は布団の上げ下げがないのでいつも利用。山側であるのでカーテンをひいても樹林。ベッドは2台だが定員3名の洋室。トイレ洗面所廊下から大涌谷がある南側を見る。3階の廊下の両側に客室。北方向の奥に男女別の大浴場がある。西側に特別室・和室があり、東側の斜面側に洋室がある。特別室<5人部屋・1室>和 室<定員5名・5室>洋 室<定員3名・4室> 和室に比べ部屋代が安い。3階から吹き抜きの2階ロビーを見下ろす。旅友の同期グループに電話、バス停まで迎えに行くことに。3階から2階への階段。壁面には健康組合員が描いた絵が掲示されている。15:25急な坂を下り国道138号の小塚入口バス停へ。道路標識には「冬用タイヤ装着 チェーン携行」、また「只今の気温 0℃」と。バス停をズームアップ。新旧の案内板には、「箱根リハビリテーション病院 老健施設デンマークイン箱根」と。バス到着時間まで時間があったので周辺を散策したが0℃のため寒かった。橋は早川に架かる小塚橋で、下ってきた坂を振り返る。かつて来た時この坂道を登ったことがあるが、きつかったことを思い出す。橋の袂に石碑が2基立っていた。後方の山が白かったのでズームアップ。山頂であるので気温は氷点下で樹氷であろうか。早川の上流側。橋の親柱に「早川」、石碑の後方には「小塚山」と。石碑には字が刻まれていたが「□□□ 小塚山□」。もう1基の石碑にも字が刻まれていたが・・・。裏面には「七転八起」の字であったか絵が刻まれていた。下流側の親柱に「小塚橋」と。小塚橋上から早川の下流側の渓谷を見下ろす。これからは新緑に。早川の上流側渓谷。小塚入口バス停バスはJR小田原駅からで、行き先は「桃源台方面行」、「御殿場プレミアム・アウトレット方面行」。愛車はバス停の先の広いスペースに駐車して待った。小塚橋の全景が見えなかったがアーチ橋であったか。後方の中腹には、箱根リハビリテーション病院当院は、国内有数の保養地・箱根仙石原に位置し、正面に箱根外輪山の金時山を眺め、眼下には早川の流れを見下ろすという、たいへん恵まれた自然環境に囲まれています。また、交通の便もよく、都心からも短時間でお越しいただけます。当院は、リハビリテーション病院として、理学療法、作業療法、言語聴覚療法のリハビリはもちろんのこと、温泉を利用したリハビリ用プールも完備し、在宅復帰から長期療養まで、多様なニーズに対応できる医療の提供を目指していますと。そろそろ到着時間になり、桃源台行のバスが到着。気温は1℃になっていた。車中の通路を開けるために多くの人が下車していた。同宿の彼らに聞くと「小田原駅前から満席で立ちっぱなしの客もいた」と。バス停から4人を乗せ仙石高原ビラへ。旅友のKさんは参加しなかったが、同期の人が9名参加していると。他の5名の方は別の方の車が迎えに来ていたようだ。冬場は樹々の葉が散り見通しが良いが春からは青々とした新緑に囲まれる。15:50夕食時間が18時からのため風呂へ入ることに。脱衣場この日の宿泊者は女性がいなかったためか、いつもの女性風呂が使用されていた。まだ入浴者がいなかったので撮影。かつてはサウナもあったが。温泉は大涌谷からひかれており白濁している。泉 質:酸性-カルシウム-硫酸塩・塩化物温泉。適応症:関節リウマチ・変形型関節症・腰痛症・神経痛等。浴室には湯気が立ち込めレンズが曇った。男性風呂からは富士の頂上部分が見えたが。廊下から大涌谷方面の山を望む。18時から夕食追加料理で「サザエのつぼ焼き」をオーダーしたが先輩は嫌いだと。我々二人の他にはKさんの同期9名であった。お酒は各自ビールの中ジョッキ、冷酒を1本飲んだ。お品書きには「如月の仙石路」と。21:40夕食後、9名の中に元職場での同僚がいたので誘われ昔のことを思い出しながら談笑した。アルコール類、つまみは彼らが持ち込み。遠くは名古屋から参加。この日の歩行数は、6,600歩、車での走行距離は67キロメートルであった。 ー 続く ー
2026.04.10
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新松田駅を後にし、今夜の宿泊地箱根の仙石原へ向かう。雪が心配だが”はこね金太郎ライン”を走ることに。2月17日(火) 13:25ロマンス通りに面した新松田駅近くの駐車場へ。この祠は既に廃祠であるとあったが今だ奇麗に管理されていた。カーナビの目的地を「仙石高原ビラ」にして出発した。カーナビの案内で県道78号線(御殿場大井線)を狩川に沿って西へ進んだ。道路脇の標柱に「矢倉沢里山さんぽコース」と。道路脇に「足柄道」の標識、説明立札があった。ここから県道を外れ左下の小径へ入った。矢倉沢関所と周辺東海道の脇街道として賑わった矢倉沢往還には徳川幕府により「入り鉄砲と出女」を取り締まるため、ここ矢倉沢の地に関所を置き旅人を厳しく取り締まりました。関所は季節に関わらず午前六時から午後六時までの間しか通行が出来ませんでしたので関所周辺には旅籠等が立ち並び、関所を通過する旅人で大変賑わったそうです。現在も「立花屋」「釜成屋」「大和屋」「江戸屋」「常陸屋」「車屋」等、当時の屋号が各家に伝わっています。県道78号線から旧道に入り、しばらく走ると説明板を発見。一段高い場所に説明板のみが立っていた。矢倉沢関所跡(末光家)江戸時代に入り、東海道の最重要である箱根関所が整備されましたが、それに伴い、矢倉沢にも箱根の脇関所として矢倉沢関所が設置されました。ここは定番人屋敷、蔵、番所である矢倉沢裏関所で構成され、通行人の取り締まりを行いました。周りは七十間(約126m)を超える柵や竹垣、生垣、茨垣といった防御施設も備えその後施設の拡張も行われました。関所は小田原藩によって管理され、時期によって変化があるものの、番士二名、定番士三名(うち一名は裏関所番)、足軽、中間等若干名が配置されました。矢倉沢関所は明治になって廃止されましたが、末光家には、門柱の礎石、数枚の通行手形などが所蔵されています。 平成二十一年三月 南足柄市教育委員会矢倉沢関所跡の西側の家の石垣。大きな玉石で石垣が造られていた。先輩が道路脇で変な行動を・・・・・。小径から広い道へ上がると道路脇に石碑が立っていた。足柄古道は、足柄古道は、足柄道、足柄路と呼ば、律令時代から奈良時代には、既に官道として整備されていました。箱根古道は乙女峠と明神岳という標高1000m前後の二つの難所を越えるのに対し、足柄古道は横走(御殿場)から足柄峠(759m)を越え直接坂本(関本)、小田原方面に出ることができる便利な道だったのです。足柄古道は物資の輸送や富士講の人々で引き続き賑わったといわれています。大小の苔むした石碑があったが字が確認できなかった。箱根方面の山並みには雲がかかっており雪の積雪が心配になる。県道78号線(御殿場大井線)の坂道を上ると道路脇に「足柄古道」の道標。橋があり「関場橋」の銘板を確認。前方に「はこね金太郎ライン入り口」。はこね金太郎ライン入り口に広場があり駐車。左折すると県道731号線(はこね金太郎ライン)経由で仙石原へ通じる。広場に「周辺観光案内」があった。この周辺にも「夕日の滝」等があったが天気が気になりスルーした。古と今をつなぐ、足柄古道名 称:足柄古道足柄古道は、古代から東西を結ぶ街道として整備されました。万葉集にもこの地で詠まれた歌が多く残されていることからこの道が古くから人々の往来に深く関わってきたことが分かります。古道の一部は今でもハイキングコースとして整備され、史跡を巡りながら歩くことができます。矢倉沢往還(江戸 ~ 駿河)江戸と駿河を結ぶ矢倉沢往還のルートとしても使われました。上ってきた県道78号線(御殿場大井線)を振り返る。バスのりばがあった「足柄古道入口」。行き先は「地蔵堂」で、平日/9:28、16:29 土・日・祝日/8:24、9:19、15:14 足柄古道入口に立つ石柱。彫られているのは登山者の姿であったか。パーキングを見下ろす。右側の標識に「足柄古道入口」と。パーキングから”はこね金太郎ライン”へ入ると道路脇に除雪された雪があった。昨日の雪で積もったようだ。はこね金太郎ラインは、南足柄市矢倉沢から箱根町仙石原に新設された県道731号線で全長10.9kmある。金太郎ラインを上るに連れ木の枝の雪が白くなってきた。警備員が立ち一瞬交通規制かと思ったが、工事中の警備員であった。タイヤがノーマルタイヤであったので積雪を恐れたが。金時見晴パーキング所在地:神奈川県南足柄市矢倉沢ここのパーキングにはトイレ、売店なしで即登山口になる。休日は登山者で満車になると。パーキングの標高は853メートルで、後方の右方向は金時山に至る。南足柄市 金時見晴パーキング。トンネルは”金時隧道”、道路標識に「芦ノ湖 9km、仙石原 3km」と。南足柄市 金時見晴パーキングパーキングからの登山口方向。パーキングから東方向を見下ろすが曇っていた。木の枝には昨日からの雪が積もっていた。ズームアップ。パーキングにトイレがないので、「金時見晴パーキング付近の公衆トイレのご案内」 ① 金時公園内(約5分) ② ラーメン屋「蔵一」駐車場内(約7分) ③ 箱根仙石原観光案内所(約7分) ※ カッコ内は金時見晴パーキングから車での所要時間いずれも箱根仙石原方面にあるが、南足柄市は予算がないのか・・・。金時山・明神ヶ岳方面ハイキングコース入口ハイキングコース入口には注意書きのいろんな看板が立っていた。中にはクマの絵も見えた。クマ出没注意熊に出会ったら・・・ ・大声出さない ・走って逃げない ・冷静に立ち去る 連絡先:箱根町環境課 ☎ 0460-85-9565クマの出没は現実的にいつあったのか表示してほしいものだが。金時・明神コース案内図金時山 45分、明神ヶ岳 100分。腐れかかった木柱に「ブナの植樹千本記念」と。金時見晴パーキングを見上げる。後方の稜線を上ると標高1,212mの金時山へ。この時の気温は5℃であったか。見るところもなく早々に引き上げ仙石原へ。金時隧道を抜け箱根側に入ると樹々に雪が積もっていたが、道路の雪は溶けていたので運転には問題なく下ることができた。ヒノキに積もった雪。14:35交通量も少なく道路脇に駐車して撮影。 ー 続く ー
2026.04.09
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”モンタナ”はお笑いタレントで俳優の飯尾和樹が「ずん喫茶」の番組で訪れた喫茶店で、追っかけの私は茅ヶ崎、藤沢に次いで4店目である(’25/8/3に放映)。2月17日(火) 12:35カフェ・喫茶 モンタナ所在地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1216 松屋ビル2階先輩が1階の店舗を覗き見「店は閉まっている」と。目的のモンタナは2階であったのだが。珈琲好きな飯尾和樹が番組「ずん喫茶」でアポなしで訪れている。モンタナのコーヒーはオリジナルブレンドの豆を挽き、布フィルターで抽出する「ネルドリップ」であると。モンタナ MENU2階に上がると昼時でほぼ満席状態であった。これもテレビ放映された効果か。壁面には大きな絵が吊るされていた。写真はお客さんが帰られた後に撮影。窓際の席に座り大きなガラス窓から新松田駅前を見下ろす。小田急新松田駅舎&ロータリーこの辺りは、小田急線とJR御殿場線が交差する交通の要衝地になっている。また、小田急線は右手の東側から御殿場線へ乗り入れている(Googleマップより)。店主の西村知子さん(72歳)。テレビで放映されて以来有名人になり本人に断って撮影。カウンターには洗い物が多かった。店名は「義理の父が米国へ旅行した時、モンタナが気に入り名付けた」と。入店した時は在席しておられたので帰られた後に撮影。ふたりともナポリタンをオーダーサラダ付きナポリタンで900円であった。かつて東京へ上京したころ、土曜日のランチで東京駅八重洲口のイタ飯屋さんでナポリタン、イタスパをよく食べたものだ。タバスコの家庭用は60mlだけに、瓶の大きさにビックリ(350ml)。タバスコが最初に日本に入ってきたのは、第二次世界大戦後の1940年代といわれ、その後、喫茶店やレストランなどに置かれるようになり、一般にも認知された。プロレスのアントニオ猪木が経営していたアントントレーディング社が、1970年代に代理店契約を結び、日本人にその味を定着させたと。以下3枚の写真は、TV画面から、飯尾和樹と店主の西村さんがトーク。一人でやっているのでお客さんが手伝ってくれカップの引き下げ洗いまでもやってくれると。我々が訪れた時はスタッフが一人おられたが。ずん飯尾のオーダー絞めて2,000円ぐらいであったか。ハンバーグライス、しょうが焼き。食事後、飯尾が残したサイン入りカップはカウンター隅に無造作に置かれていた。店主から「どうぞ撮影してください」と言われテーブル席に移動して撮影。反対側には、「手づくり銀座! しょうが焼きハンバーグ アメリカンジャンボカップ 最高に旨い めざせ! 幻の『めんどくさい』カツカレー」と。飯尾が店主との会話で「カツカレーのオーダーはめんどうくさい」と言う言葉から。店から出て小田急新松田駅を見る。飯尾和樹はこの後、近くの「cafe asahi」も訪れた。新松田駅から北側の路地を入りJR松田駅南口へ。この店を訪れたと思ったが違っていた。駅周辺にはカフェ・喫茶が多かった。第27回まつだ 桜まつり2026年2/7(土) ➤ 3/8(日) 西平畑公園公園内に駐車場がないので臨時駐車場からシャトルバスで会場へ。JR松田駅南口JR東海 松田駅御殿場線の運行は1時間に1~2本であるので人の往来が少ない。運行掲示板、運行が少ない。御殿場線時刻表小田急線の特急ふじさん号が1日3本運行している。この時間帯は販売所は有人であった。交通系ICカードでは、「TOICAエリアからSuicaエリア等へまたがってはご利用いただけません」と。よって事前にきっぷをご購入ください近距離きっぷ運賃表まつだのおすいマンホール蓋松田町無形重要文化財である「松田大名行列」のデザインが入ったマンホール蓋。JR松田駅南口から小田急新松田駅を見る。13:20飯尾和樹が訪れた店はこの右側にあった。以下5枚の写真は、TV画面から、次に訪れたのは「cafe asahi」。もともとは食堂であったが2006年に”cafe asahi”として創業したと。飯尾から「昔の写真はありませんか」との問いに写真を取り出していた。現在の店主は4代目の大石直子さん(56歳)で、右は3代目の義母で親子で営業していると。開業した当時は食堂であったと (写真は昭和2年ごろ)。先程のモンタナで食事をしたので4代目の娘が作るチーズケーキを食べていた。飯尾和樹のサイン入りコーヒーカップ。 ー 続く ー
2026.04.08
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曽我富士見の里の枝垂れ梅を楽しむ。2月17日(火) 11:50曽我富士見の里から西を望む。天気が良ければ梅の花と富士山が望める絶景の場所であると。その絶景の写真をネットから。富士山の手前には右に矢倉岳、右に金時山が見えるのだ。まだ若木だが紅白の枝垂れ梅。10年後には立派な梅の木になるのであろうが。この日は平日で訪れている人は我々二人だけであったが。富士山はその存在感を象徴させる一コマになるのであろう。荒れた田んぼも5月には田園風景が広がる空間になるのであろう。紅梅をズームアップ。白梅の下に巣箱がふたつあった。若木の白梅の傍には「発酵鶏ふん 採卵鶏」の肥料袋が置かれていた。一本の木に二袋も与えるのであろうか。ロウバイの花と種子。この光景を目に残し後にすることに。また別の季節に訪れたいと。この広場のシンボルツリーになるのであろう。御殿場線の梅林踏切へ戻る。遮断機が下り「チンチン」であったか「カーンカーン」と鳴っていたかしばし待機。下り線が来た、橋は水路橋。ズームアップ。線路脇の枯れ草が生い茂る、かつては車内からのたばこポイ捨てで火災が発生。これも人手不足で放置状態になっているのであろうか。ここはJR東海の管理内だが予算不足か。沼津行き普通電車のワンマンカー。下り、御殿場・沼津方面。先輩も線路脇で電車を追っかけていた。線路沿いは管理してほしいものだが。水路橋をズームアップ。瑞雲寺横を流れていた沢の水路橋であったか。同踏切から、”曽我富士見の里”方向を望む。県道72号線(松田国府津線)のカルバートから振り返る。緩い坂道を登り瑞雲寺の駐車場へ戻る。曽我丘陵からの沢であるが川の名は?。旧道脇の公園から中河原配水池を見上げる。配水池の下に紅白の梅であったか。更にズームアップ。瑞雲寺の入口へ戻る。お寺の梅林が奇麗に咲いていた。境内の梅林には紅白の枝垂れ梅が聳えていた。枝垂れ梅の実は食べるのであろうか。それとも観賞用に特化しているのか。12:10瑞雲寺の駐車場を後にし、次の目的地”小田急の新松田駅”へ向かうことに。この周辺の梅林を見るために駐車したが無料であった。県道711号線を北上、正面の丘陵地には「西平畑公園」の河津桜会場がある。文久橋神奈川の橋100選の内の一つ、川音川が酒匂川注ぐ最下流の橋で、昭和62年(1987)に完成した橋長108mの連続鋼鈑桁橋。橋名は、かつてこの位置にあった船の渡り賃として文久銭1銭を要したことに由来している。すぐ上流には御殿場線の橋梁が架かっている。県道脇に看板があり、「⇧ まつだ桜まつり 臨時駐車場」と。新松田駅周辺は狭く駐車場へ。新松田駅前のロマンス通りを振り返る。駐車場脇に祠があった。Googleマップには載っているが「祠」と。祠の傍にナギの樹が聳えている。祠の扉に貼り紙があり、「ご協力への感謝のことば 『大いに多忙のところ、このお知らせ文を読み上げいただきましてありがとうございます。 2024(令和6)年廃祠(とは云っても、これのことを示す語が見あたらないか又は無い) 廃祠からその後、本年は令和5年から一年目。そしてこれは、おいなりさんの御霊抜き済 みの「廃祠」であります』。 しかし、丁寧に扱って、当地はもちろんのこと、この敷地周辺共々清浄でありつづける ようにみなさま方の主体的ご理解とご協力とをいただき、日々の清掃と管理に務め、 守っていきます。 そしてまた、このナギの樹がみなさま方と共に、活力と地力をを高めていけるように、 おだやかにあたたかい心で見守っていただけることに感謝申し上げます。 これからも、当地そしてまた駅前周辺、地域全体が、みなさま方の心のささえの場、やす らぎの場として各々めいめい主体的に情報共有し、明るい未来へと目的を定めて発展して いきますように、どうぞよろしく。 2024(令和6)年1月8日(日) 記傍のフェンスにも長文が、「その気になって気がつけば、天気がいい日は富士山がくっきりとよく見える。やっぱり ふじさん」きれい。今ここに、この高い山は見た目もそうですが内側から光輝くさまに、 造れない美しさがあるようだ。・・・後略。小田急、新松田駅前ロータリーへ。目的地の「COFFEE GRILL モンタナ」を発見。お笑いタレントで俳優の飯尾和樹が番組の「ずん喫茶」で訪れた喫茶店である。新松田駅の駅舎に。小田急新松田駅(北口)改札口。12:35かつて箱根方面でゴルフをやった時迎えに来た駅である。 ー 続く ー
2026.04.07
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瑞雲寺の裏山の墓地へ廻る。2月17日(火) 11:15墓地への斜面にあった祠を見上げる。案内板。皇大神宮祠への足場が悪いので下から見上げ説明板を撮影。自修学校創立者瑞雲寺二十一世大井龍跳先生を師と仰ぎここに学びし者、昭和十五年卒業自修学校二十九回生一同が、木工技術を修めた匠に頼み、精魂を打込み仕上げた皇大神宮を母校に贈った。斯れより五十年の歳月を経て、平成十二年寺の物置の改築の折り斯の皇大神宮が発見され、瑞雲寺住職道範師のご協力により、ここに御堂を建設して、皇大神宮を修めて永久に御祭りする事とした。 平成十三年二月十一日 自修学校二十九回 卒業生一同岩場の登り口に「曽我兄弟ゆかりの 西行法師開眼 力不動尊」とあった。皇大神宮を見る。傾斜地に祠が2社建っており、手前に「力不動尊」、奥の下に「皇大神宮」。力不動尊・(不動根)この瑞雲寺に伝わる錬金伝説この場所は隆起型の活断層である相模トラフ(神縄・国府津ー松田断層帯)の突起場所です。この断層の構造は世界有数のプレート(太平洋プレート・フィリピンプレート・北アメリカプレート・ユーラシアプレート)から造られています。4つのプレートから造られている場所は世界的にも2か所しかなく、その活断層の集合地点がまさしくこの地であります。この断層上でもあり、当寺瑞雲寺の鬼門にある須賀神社の祭神は荒神(荒ぶる神)とは地震(活断層)の神様であります。宗我神社は曽我氏が氏神です。曽我・須賀・蘇我、断層と錬金術この力不動尊の力とは、マグマの集約地点地球・宇宙の生命の黄金の力(パワースポット)です。曽我兄弟が念願成就のため祈願した石造であり、智力・体力・財力等にすべて正しく生きようとする方に無限な強い力をかして下さいます。狭く足場が悪いので手前で引き上げた。瑞雲寺のモッコク近寄れないのでモッコクの根元をズームアップ。多くのモッコクが単幹であるが、この木は株立状であると。瑞雲寺のモッコク 小田原市指定天然記念物(昭和六三年一一月一日指定) (所在地) 小田原市上曽我九○ニクスノキの分布は、本州南岸(南関東以西)、九州の近海地方に育成する暖地性樹木です。しかし、その植栽分布は関東北部、北陸地方の日本海側、東北地方(秋田・宮城・福島)に及んでいます。この木は、瑞雲寺庫裏の東側、寺林内の中腹に生育し、本市内では最大級の古木です。多くのモッコクが単幹であるのに、この木は株立状です。瑞雲寺の寺林は、寺の東北側に隣接する、須賀神社の社叢に続いている自然林的な要素を備えています。この木の近くには、クスノキの大木や、イロハカエデの古木があり、また、ヒサカキやアオキなどの低木も多く生えています。このことから、この木は自生樹と考えられます。 小田原市教育委員会モッコクの全景。墓地から中河原配水池への道を下り駐車場へ戻る。右側の沢沿いに早咲き桜の河津桜?が植えられていた。左側には瑞雲寺の梅林が広がっていた。中河原公民館の屋上に大きな拡声器が設置されていた。門前へ下り立つ。右は中河原公民館で、隣接して山車庫もあった。山門には梅まつりに訪れたグループ。この後、瑞雲寺の南側に「曽我富士見の里」があるので歩いて行くことに。沢沿いに立つ六角柱の六面に地蔵立像が彫られていた。奥には「馬頭観世音」の碑も。瑞雲寺入口に立つ看板に、「曹洞宗 龍珠山 瑞雲寺」と。旧道の花見橋の袂に、「曽我 富士見の里 梅まつり 開催中 ⇦」の案内板。案内板の横に「冨士見の里ふれあいまつり周辺案内図」。また、標識も立っていた、「国府津・曽我丘陵 曽我の里 ウォーキングコース散策コース」。沢の安全柵にミモザが植えられ咲き始めていた。春先を彩る黄色のミモザである。旧道の国府津方面。小さな公園があり遊具が設けられていた。公園内に石碑があった。3基の石碑があったが説明板がなく詳細は不明。後ろ側の道が旧道で右折すると瑞雲寺へ。”富士見の里”への案内板があり坂を下る。民家の入口に「1998 SABOTEN サボテン工房」と。また、黒板には「焼芋あります 一本350円」。富士見の里ふれあい周辺案内図民家の庭先に咲くミモザを見上げる。坂を下ると三差路に白梅が咲いていた。後方を県道72号線(松田国府津線)が横切る。梅林の中に「⇦ 富士見梅園」の案内板。県道72号線(松田国府津線)の下を通り抜けJR御殿場線の踏切へ。梅林踏切上り国府津方面を望む。下り御殿場・沼津方面を望む。かつての御殿場線は複線であったので敷地が広い。曽我富士見の里所在地:神奈川県小田原市上曽我2590敷地内に柏真館があり個人のふる里フォトギャラリーであると。梅と富士山との撮影には最適の場所であると。農地の一角に梅林があり、”曽我 富士見の里”の看板が立っていた。他にも「梅まつり会場」の看板「梅まつり」の幟旗。西側に回り込む。看板には「富士山が望める絶景です 曽我 富士見の里」と。「入場無料 お気軽にお立ち寄りください」と。まだ木は若いが枝垂れ梅が10本ほど植えられていた。曇り空で残念であった。紅白の枝垂れ梅が満開に近かった。右側に回り込む11:50ズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.06
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当寺は昨年の2025年9月23日(火)に訪れて以来2度目の参拝である。曽我梅まつりの中河原会場になっており駐車場は無料。2月17日(火) 10:55龍珠山 瑞雲寺所在地:神奈川県小田原市上曽我902瑞雲寺は花の寺として知られている。後方に梅林が広がっていた。昨年のブログは「下曽我の寺社」👈をクリック願います。右側の建物は「中河原公民館」。寺号標石に「曹洞宗 龍珠山 瑞雲寺」。瑞雲寺(ずいうんじ)曽我梅林の中にある寺として知られるこの寺は、龍珠山瑞雲寺と号し、曹洞宗で津久井の大井山功雲寺の末寺であり、相州黒岩城主本多豊前守が、日頃帰依していた功雲寺の5世仁忠継儀和尚を招請して、明応元年(1492)に建立した名刹である。創建当初は、現在地より東方200メートルの丘上に建立されたと伝えるが、江戸時代の後期に現在地に移されたと言う。寺には、18世観源大器和尚の「へえずり石」や、縁結びと子宝を授かると伝える「洗心池とめん玉弁天」があり、また曽我兄弟が父の仇を討つために願文を納めて、「十人力」を授けられたという「力不動尊」が安置されている。この不動尊は大山不動尊の前不動で、曽我剣沢の地にあったものを江戸時代後期に当寺内に移されたものである。なお寺内入口左側の梅林は、21世住職によって創設された当時足柄平野唯一の私学「自修学校校舎」の跡地である。同校は明治43年7月に開設され、大正15年8月、校舎拡張のため東方丘陵に移転。のち湘北中学校、湘北高校、向上高校と校名を変更した。龍珠山 瑞雲寺案内図石碑には「曽我の春」の歌詞が刻まれていた。 作 詞 峯 としはる 作 曲 佐々木忠孝 唄 八汐亜矢子山門の右に「龍珠山」、左に「瑞雲寺」と。後方の丘陵地には巨大な3基の貯水タンクがある”中河原配水池”。瑞雲寺の梅林に紅白の枝垂れ梅が咲いていた。ちょうど11時で鐘楼の鐘が撞かれ始めた。参道の一段高い場所に石碑が立っていた。石碑に「自修学校発祥之地」。木柱に「曽我自修学校発祥の地」と。自修学校発祥の地明治時代、小学校の制度は全国的に普及したものの、それより上級の進学は不可能に近い状況が多かった。瑞雲寺二十一代大井龍跳和尚は、この不備を救うため寺の本堂でこの地域の青年を教導し、やがて明治四十三年、ここに校舎を建設した。教科は修身・国語・漢文・英語・数学(代数・幾何)珠算など、後の旧制中学校三~四年程度を教えたという。大正十二年、関東大震災により校舎は倒壊したが、大正十五年、規模を拡大するため東方の台地上に移転した。後に校名は湘北中学校・湘北高等学校となる。更に学園は伊勢原市に移り向上高等学校と改名される。その後、自修館中等教育学校を併設した。明治・大正・昭和・平成にわたり、この私学の果たした地域への貢献はまことに大きかった。平成二十二年七月、学校法人向上学園は、創立百周年を迎えることとなった。 平成二十一年三月 小田原市教育委員会顕彰碑〈復刻〉湘北高等学校長大井龍跳(りゅうちょう)先生逝いて早くも三回忌を迎え温容高風追慕の情転切々たるを覚ゆる瑞雲寺住職として信を一身に聚むるも宣なるかな弱冠にして学舎を寺隅に興してより自修学校を経て自修学園の今日に到るまで風を望み薫化の恵みに浴するもの七千に及ぶ自修創立四十周年を記念して学園卒業生等議のここに先生の墓碑を建立し遺徳を偲ぶ 昭和二十五年十月十四日 自修学園湘北高等学校長 田代信二識 昭和二十五年十月十四日 自修学校卒業生 自修学園卒業生 教職員 生徒 建立境内にはいろんな石仏が立っていた。石仏群境内の一角に集められた石仏群。苔生した石仏群瑞雲寺と石仏群龍珠山瑞雲寺は曹洞宗の寺で、寺伝では明応元年(1492)の創立という。寺号は小田原北条氏家臣の本多豊前守信親(法名瑞雲院龍珠宗洞)に由る。山内には石造物群が多い。 ・六観音石龕。坐像と立像の二型が現存し、この地方の六観音信仰の遺物として珍しい。 ・六地蔵石龕 ・石造阿弥陀如来坐像 ・石造観音菩薩立像 二躯 ・石造地蔵菩薩立像 二躯 ・石造閻魔王坐像 ・万霊供養塔 ・唯念名号碑 ・自然石石塔(観音・馬頭観音)二基 小田原市教育委員会石仏群をサルスベリの古木が覆う。本 堂本堂の天水桶後方には梅林が広がっていた。天水桶への導水管。本堂の扁額「龍珠山」。本堂前には土足で入れる土間があった。本堂への引き戸の前に「脚下照顧(きゃっかしょう)」と。脚下照顧の意味は、他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見ろ。自己反省を促す意で用いられると。本堂入口に「瑞雲寺」と。土間から境内を見る。本堂の西側に梅林があった。鐘楼には人影はなかったが11時の鐘が撞かれていた。鐘楼に取り付けられたタイマー。鐘楼の周りに「自動作動中」の立札があったか。撞き棒は鎖で吊るされていた。人がいなくても自動で鐘が作動し大きな音を出すとビックリするのではと。熱心にスケッチをする先輩、いつまでたっても設計屋さんである。作動中を見たかったが。昨年9月23日(火)に訪れた時は樹々が青々としていた。顔出しパネルを真似て彫られたのであろう曇り空で梅の花は映えなかったが。白梅はまだ満開ではなかったようだ。本堂前裏山の墓地への途中本堂を振り返る、客殿前の梅が満開であった。観梅用の梅の花をズームアップ。満開であった。11:15裏山の墓地への斜面に祠が2社。 ー 続く ー
2026.04.05
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時間が過ぎましたが、今年8月末に閉館する「仙石高原ビラ」を利用して箱根への一泊旅行を計画した。二宮に在住の先輩を誘い、梅を見ながらの旅行であった。前日天気が悪く箱根では雪が積もったのではと思いながら自宅を愛車のノートで出かけた。2月17日(火) 9:50国道1号を走り二宮の先輩宅へ向かったが西の空は曇っていた。二宮の富士見が丘団地へ入り、東海道新幹線の高架。珍しく先輩は家の外で待機しておられた。国道1号に戻り目的地を曽我梅林にして西へ走る。この「のんき亭」は国府津駅手前の国道沿いにあり何度か利用したが数年前から休業状態に。昇珠園(しょうじゅえん)所在地:神奈川県小田原市曽我別所93国府津駅の先から県道72号線(松田国府津線)を北上、県道沿いにある梅干し専門店。近くに小田原牧場アイス工房がある。神奈川を代表する「十郎梅」をはじめ、「白加賀梅」「杉田梅」「南高梅」「小梅」の主に5種類の梅を栽培しています。当園自慢の梅を使った「完熟梅干」は、完熟になるまで樹の上で育てた梅のみを使用し、昔ながらの味を大切に、ひとつひとつ丁寧に心を込めて作り上げていますと。県道を走っていて右手車窓にこの枝垂れ梅を見て急遽立ち寄った。県道沿いの民家の庭にも枝垂れ梅が咲いており皆さん競って栽培されている感がある。近くにも枝垂れ梅が咲いていたので昇珠園の駐車場に車を停め散策。民家の庭先に咲く紅白の枝垂れ梅が満開状態になっていた。2週間前の2月4日(水)に国府津駅から下曽我駅まで歩いたがその時はまだであったが。かんざしの飾りの如くに咲く枝垂れ梅である。ズームアップ枝の中をメジロが忙しく動き回っていた。メジロをズームアップ。小径から紅白の枝垂れ梅を見上げる。先輩が他人の敷地内へ入って撮影していたので注意するが。最近は撮影マナー問題が多々発生している。望遠レンズでズームアップ。ピンクのカーテンのような枝垂れ梅である。枝垂れ梅の枝が並ぶと私には暖簾の如くに見えるが。次に向かったのは、昨年9月23日(火)に麓の瑞雲寺から見上げた「中河原配水池」。カーナビの案内で瑞雲寺横を通り抜け丘陵地へ上った。中河原配水池所在地:神奈川県小田原市上曽我930小田原市高田にある高田浄水場にて処理された水は、ほぼ全てこの配水池に送られている。丘陵地には3つのプールがあり、総容量は26,000立方メートル。標高73.9mにあるこちらから小田原市内の約7割の家庭へ水を送っていると。また、ここからの眺望は富士山、箱根連山、足柄平野を見渡せ、桜の名所であると。門扉に「中河原配水池」。説明板が見当たらなかったがプールの直径は10メートル以上はあったか。先輩も高級スマホで撮影。中河原配水池は急斜面を登った丘陵地にある。足柄平野を見下ろす。富士山、箱根連山が見えるのだがこの日は厚い雲に覆われ見えなかった。この後、山越えで箱根仙石原へ向かうが雪雲が心配であった。南西方向の丘陵地には煙が上がっており小田原市の施設であろうか。小田原市街地方向を望む。こちらも生憎の曇り空で真鶴半島、伊豆半島は見えなかった。小田原市街地をズームアップ。更にズームアップするがビルの影になり小田原城は見えなかった。先輩は設計者だけに搬送車の構造をスケッチしていた。この辺りの丘陵地ではみかんの栽培をしていたのでモノレール式搬送車であろう。中河原配水池から下山し、瑞雲寺へ向かう。10:55中河原梅林(曽我梅まつり中河原会場)である瑞雲寺の駐車場へ下りる。当寺は昨年9月23日(火)に訪れて以来2度目の参拝である。先程上った中河原配水池を見上げる。駐車場に咲いていた河津桜をズームアップ。 ー 続く ー
2026.04.04
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愛車のリンちゃんのバッテリー残量が少ない中、浄見寺、成就院へ立ち寄った。3月24日(火)13:25浄見寺の入口にいつも芝桜が植えられており撮影スポットに。博物館の遊水地にも植えたらどうかと思うが、後の管理が大変で実現には?。浄土宗浄見寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤4317浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠政が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611)に建立した浄土宗の寺院。江戸時代の名奉行として有名な、大岡越前守忠相を出した大岡家代々の菩提寺である。山門右前に「大岡越前守菩提所」と刻まれた標柱が立っている。山門の扁額「窓月山」。茅ヶ崎市では市の四大祭りのひとつである「第71回大岡越前祭」を、4月18(土)、19日(日)の両日開催する。山門から境内を見る。大岡家と浄見寺大岡家の始祖の地は三河国(現・愛知県)で、家系図には左大臣藤原教実の子孫とあります。鎌足を祖とする藤原氏の一族です。教実は京の九條に屋敷を構えたことから姓を九條と改め、後にその子孫が三河国の大岡に居を移して大岡を名乗りました。現在に続く大岡家の初代忠勝は、徳川家康の祖父にあたる松平清康ならびに父広忠に仕えて武勲を上げ、広忠より「忠」の一字を賜り、それまでの名を改めて忠右衛門忠勝としました。二代忠政は、天正十九年(1591)五月三日に家康より相模国高座郡堤村を賜りました。その後、慶長十六年(1611)に、三代忠世が父兄の冥福を祈るために窓月山浄見寺を建立しました。寺山号は初代忠勝の法名である「大綱院殿忠誉窓月浄見居士」に由来しています。以来、今日まで大岡家代々の菩提寺となっています。「大岡裁き」で有名な五代忠相は、享保二年(1717)二月三日に町奉行に就任し、官職名を越前守に改めました。町火消しの結成、小石川養生所の設置、物価政策などに尽力する一方で、多くの人材を登用しました。後に、寺社奉行に就任し奏者番を兼ね、加増によって一万石の大名となり、三河国西大平に陣屋を構えました。大岡家との縁により、西大平藩のあった愛知県岡崎市と浄見寺のある茅ヶ崎市は、昭和五十八年に「ゆかりのまち提携」を結び、現在においても様々な交流を続けています。 大岡奉賛会歴代当主の系統図本 堂境内には「若き法然像」等多くの像があったが既にアップしているので省略。本堂の扁額「浄見寺」。本堂前から山門を振り返る。正面の階段を上ると「大岡家の墓地」がある。覆い屋の中に「六地蔵」が鎮座。六地蔵の左側に「絵馬奉納場所」。絵馬奉納所の中に位牌(レプリカ?)、忠相の法名「松運院殿前越前刺史興誉仁山崇義大居士靈位 寶暦元年 十二月十六日」と。大岡家の墓地浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、十三代まで一族累代の墓碑五十八基が整然と並んでいる。それぞれの墓石の前に「・代 ・・」と、奥の玉垣の中が五代目忠相の墓地であろう。閉ざされた墓地前から北側を望む。浄見寺のオハッキイチョウ 昭和三十六年三月十四日 神奈川県天然記念物指定 葉にギンナンが結実するイチョウの変種。昭和六十三年に行った年輪幅の調査から樹 齢はニ百年前後と推定されていますが、並んでいるナギとともに、浄見寺の創建時に 稙えられたとも伝えられています。浄見寺の寺林 昭和四十ニ年七月ニ十一日 神奈川県天然記念物指定 相模野の自然樹林が少なくなっている中で、昔の樹林の様子を残す寺林として貴重で す。スダジイ、タブノキなどの照葉樹か多く見られます浄見寺の大岡家一旋墓所 昭和三十六年ニ月十四日 茅ヶ畸市史跡指定 浄見寺は越前守忠相で有名な大岡家代々の善提寺で、初代忠勝をはじめとする墓など が立ち並んています。天正十九年(1591) ニ代忠政は徳川家康からこの地、堤村を与 えられ、その後慶長十六年(1611)に浄見寺を建立しました。 茅ヶ崎市教育委員会墓地前から境内を見下ろす。境内では大岡祭のための準備がされていた。高木の枝おろしでクレーン車を使用しての伐採作業中であった。墓地から下り、山門へ向かう。浄見寺前に、「民俗資料館 旧和田家」が建ち、ソメイヨシノの古木がある。枝先を見上げる、まだ三分咲きであったか。旧和田家の見学へ見学は無料である。民俗資料館 旧和田家 昭和五十七年七月 茅ヶ崎市指定重要文化財市内萩園の旧家で、江戸時代には村役人をつとめていた和田家の住宅を、昭和六十年に移築復元したものです。この民家の特徴は、幕末の大型民家であること、良質の材料を用いていること、改造が少ないこと、記録が残されていて建設の経過がわかることてす。「安政ニ乙卯年(1855)三月吉日/御棟札/富家十一代和田清右衛門盛久」と書かれた棟札もあり、棟上げした時期がわかります。また、建築に関わる記録から、用材などを買い始めたのは嘉永四年(1851)、地ならしなどを始めたのは嘉永七年(1854)であることや、用材の購入先、関わった職人の職種や数などもわかります。 茅ヶ崎市教育委員会頂いたパンフレットから、江戸時代を感じる家、旧和田家みんなでワイワイ建てました 旧和田家を建てたのは、大工・木挽・石屋・左官・屋根屋・畳屋・建具屋といった職人 だけではありません。村人も木材を運んだり屋根を葺いたりと、さまざまな助け合いを 行ったそうです。しかも、萩園村だけでなく近隣の村の人々までも駆けつけたとのこと。 その数はのべ1,000人を超えたそうです。豪華な間取です 江戸時代末期の民家は、4つの部屋からなる四間取がスタンダードでしたが、旧和田家 は六間取。つまり、6つも部屋があるということ。しかも、通常の入口に加えて身分の 高い来客専用の入口(シキダイ)までもあるというから、これはかなりの格式の高さです。 さすが、村の役人というだけありますね。細かいところも見てほしい 家のあちこちには細かなデザインがちりばめられています。室内の壁が漆喰だったり、 床柱は白檀の木、菱形模様の欄間などなど。見学するときは、そういった・・・。地の利を活かして適材適所 もともと旧和田家が建っていた萩園村の西側には、相模川が流れていました。このこと が、立派な家づくりに大いに役立ちました。家の柱や床などそれぞれに適した木材や板 などに加工された木材を、水運を利用していろんな土地から取り寄せことが・・・。ドマへ入る。建屋内は奇麗に清掃されていた。ドマの屋根は吹き抜けになっており、屋根裏には大きな木材が使用されていた。茅葺屋根も近年に葺き替えされたのか奇麗であった。江戸時代末期の民家は、4つの部屋からなる四間取がスタンダードだが、旧和田家は六間取。6つもの部屋つながっている。東側にナガト、ナカノマ、オクノマとつながっている。チャノマ (茶の間)家族が団らんする場所。囲炉裏があり、食事時、和田家では男性がダイドコロを向いて座っていた。※ 女性のうち、祖母と母親はダイドコロとチャノマの間に座り、食事の世話をした。囲炉裏には蓋がしてあった。ドマの隅にカマドがあったが大きいものであった。カマドにある羽釜も大きく大所帯の感がある。西側からダイドコロ、チャノマ、ナガトを見る。チャノマ、ナガトをズームアップ。黒光りの床である。西側からの旧和田家。茅ヶ崎市景観重要建造物 第1号 平成29年4月7日 指定民俗資料館 旧和田家和田家は、江戸時代に萩園村の村役人を務めた家柄です。旧和田家は、同家11代和田清右衛門によって建てられたもので、幕末の民家の特徴を備え、良質の材料を使い、また改造も少ないことから建築当時の姿が見られる歴史的にも価値の高い建造物です。移築復元のため、解体作業中に「安政2(1855)年三月吉日」の年号のある棟礼が発見され、建てられた年代が明確になりました。また、「居宅普請財木買入帳」などの建築に係わる記録も残っており、建築準備が始まったのが嘉永4(1851)年であることや、建築資材の購入先、普請に関わっ人々のことが詳細に分かりました。 開館時間:午前9時 ~ 午後4時 休 館 日 :月曜日(祝日が月曜日のときは翌日が休館) 年末年始(12月27日 ~ 翌年1月4日)浄見寺、旧和田家を後にし帰路についた。帰路のルートはスリーハンドレッドクラブのコース間を抜いて帰ることに。13:50高野山真言宗 甘沼山成就院所在地:神奈川県茅ケ崎市甘沼473成就院は花の寺として知られており茅ヶ崎の北部へ行ったときよく立ち寄るお寺である。いつも綺麗に咲いているホウキモモは咲き初めであった。ホウキモモをズームアップ。ホウキモモは色鮮やかに咲くので好きな木である。数日後には満開になるのであろう。境内の花はまだ咲いていなかったのでこの日は門前で引き返した。毎年行われている「花まつり」が4月8日(水)に開催されるとの看板。釈迦の誕生を祝い、仏像に甘茶をかけ、健康や子どもの健やかな成長を願う伝統行事である。春の風物詩として地域住民らに愛されている。ホウキモモを見上げる。成就院前の畑に植えられているチューリップで、毎年この時期に咲いている。背丈の低いチューリップである。10分ほどの滞在で成就院を後にした。14:10帰宅時の愛車のリンちゃんのバッテリー残量は5%で走行可能距離は4kmであった。バッテリー残量が少なくなり途中で電源を切っての走行であった。また、歩行数は6,900歩であった。 END
2026.04.03
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妙伝寺の枝垂れ桜を訪れた後、その帰路久しぶりに博物館を訪れた。3月24日(火)12:30茅ヶ崎市博物館所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3786-1当館は令和4年(2022)7月30日(土) 市内堤に『茅ヶ崎市博物館』としてオープンした。以降何度も訪れブログアップしている。エントランスへのステージから北側を望む。博物館の窓ガラスに桜の”プリンス雅”が映り込んでいた。エントランス入口。博物館の南側には駒寄川が流れ上流側(東側)には駐車場がある。受付の右側に「5地形に応じたサマリー展示」、「基本展示室」「企画展示室」があり、基本展示室は定期的に展示品を入れ替えている。エントランスホールに「5地形に応じたサマリー展示」。展示室の左側に「基本展示室」があったが今回はスルーし「企画展示室」へ入ることに。企画展示室の入口に、「知っているようで知らない、えぼし岩の自然 茅ヶ崎市博物館 企画展 えぼし岩調査隊! ~ どんな生きものがすんでいるのか? ~ 観覧無料 2026.1.21(水) ~ 6.28(日) 開館時間 9:00 ~ 17:00(最終入館16:30) 休館日 月曜日(休日の場合は開館、翌平日休) 臨時休館日 2/17、3/17、4/21、5/19、6/16」と。企画展示室の壁面に、ごあいさつえぼし岩の調査岩礁の生きものの大都会岩礁は生きものの大都会茅ヶ崎の沖合に鎮座するえぼし岩、昔、公家や武士、神官がかぶった帽子の一種「烏帽子」に形が似ていることから、「えぼし岩」という呼び名で親しまれています。えぼし岩のほかにも、姥ケ島、尾根島、筆岩など様々な呼び方もされていました。そんなえぼし岩のまわりには、ゴツゴツとした岩でできた「岩礁」の環境が広がっています。岩のすきまや生い茂る海藻には、いろんな生きものが集まります。また、潮が引いたときにだけ現れるタイドプールは、波の影響が少ない穏やかな環境です。「小さな魚の隠れる場所」「えさのある場所」「子どもが育つ場所」など、岩礁は多くの生きものにとってくらしやすいにぎやかな環境になっています。そして、それぞれの生きものが互いに関わりあって、岩礁という世界を作っています。生きものたちが「なにを食べるか」「どう隠れるか」「どうやって身を守るか」など、えぼし岩で生きる工夫を見ながら、えぼし岩での水中のくらしをお楽しみください。数百万年前から見つめてます「烏帽子(えぼし)」は、平安時代~江戸時代の貴族や武士が被った帽子のこと。姥島は、その形に似ていることから「えぼし岩」という名前で親しまれています。えぼし岩の地層はおよそ1,000~800万年に、深海の砂や泥が海流や風によって運ばれ、積み重なってできた地層の一部とされています。茅ヶ崎にヒトがくらしはじめるずっと昔から、静かにこの地に存在し続けています。えぼし岩湘南を歌った歌の中に数多く登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」。正式名称は「姥島(うばじま)」で、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6m。企画展示室ショーケースの中にはパネル、標本が展示されていた。姥島の生きもの姥島の生きものえぼし岩がある姥島群島は複数の岩礁群により成り立っており、海中の岩礁域や、潮の満ち引きに合わせ形成されるタイドプール(潮だまり)など、多様な磯の環境が創出され、多くの生物が生息しています。海中の岩礁域にはウツボやメジナ、イシダイなどの岩場に生息する魚類がみられます。干潮時に現れるタイドプールにはカエルウオやソラスズメダイなどの魚類、ウメボシイソギンチャクやウミウシの仲間、貝類、イソガニやイワガニなどの甲殻類を観察することができます。潮の満ち引きに合わせ水中から水上に環境が変化する潮間帯では、潮間帯に生育するアナアオサやヒジキなどの海藻がみられます。冬季には冬鳥のウミウがねぐらとして利用し、その糞により岩肌が白くなる様子がみられます。地質の成り立ち姥島群島をつくる地層は、約1000~800万年前に堆積した深海の砂や泥からなります。この地層は、海洋プレート(フィリピン海プレート)が大陸プレート(北米プレート)の下に沈み込むかつてのプレート境界で、堆積物が大陸プレート側にこそぎ取られてできた「付加体」と考えられています。えぼし岩に鳥(とり)つかれてカモメ、ウミウなどの標本が展示されていた。えぼし岩に鳥つかれてえぼし岩でみられる生きものは、水中だけにはとどまりません。空を飛ぶ鳥の仲間も、岩礁の環境をうまく使ってくらしています。では、どんな鳥が、なぜえぼし岩に訪れるのでしょうか。えぼし岩は、水中の生きものでにぎわう場所です。鳥たちは、魚やカニなどの食べ物を探しにえぼし岩へ訪れます。また、相模湾にポツンと浮かぶえぼし岩は、天敵となる動物が少なく人も立ち入りにくい、安全な環境であることも、鳥たちにとって魅力です。水中にくらす生きものと同じように、鳥たちにとっても「食べる場所」「休む場所」としてえぼし岩は機能しています。このパートでは、えぼし岩で観察される鳥たちをテーマにしています。水中でのくらしを磨いた魚たちと、空から海を読む鳥たち。同じ岩礁を舞台にしても、見方を変えれば生きもののくらしも大きく変わります。それぞれのくらしを比べながら、生きもの同士のつながりを覗いてみましょう。トビピーヒョロロロ・・・という悠長な鳴き声とは裏腹に、彼らは優れたハンターです。えぼし岩の上空で風に乗りながら、釣り人の皆様の頭上から虎視眈々と獲物を狙っています。 所蔵:日本大学生物資源学部博物館ハシボソガラス茅ヶ崎市の街中でもよく見かける黒色の鳥です。植物の種から動物の死骸まで、いろいろなものを食べます。ちょっと目を離した隙に、調査で捕まえた魚を取られてしまうことも。えぼし岩の高さは、およそ14.615メートル。サカナのカラダのヒ・ミ・ツいろんな魚の標本があり学芸員の方が説明をしておられた。上段:ヒメジ、ミシマオコゼ下段:カナガシラ、ホウボウ、カレイ目の仲間基本展示室基本展示室の一角に、「明治に生まれたおばあさんの話」。かつての懐かしい生活用品も展示されていた。明治に生まれたおばあさんの話 茅ばあさんの一生展示品を見て外へ、昼食時を過ぎていたので受付で確認し、コンビニで購入したおにぎりを食べ休憩。ステージの北側にピンクの桜が映り込み癒しの空間であった。コミュニティバスが通過。バス停そばに駐輪場があり、レンタル自転車もあった。曇り空で富士は見えなかったが、民家の住宅が邪魔しているか。休憩後、博物館の東側にある駐車場へ廻る。その駐車場の一角に3つの展示品が整備されていた。この円柱はかつての「茅ヶ崎市文化資料館」前にあったものである。以前ブログアップした「ヒロ散歩」👈をクリック願います。円柱の前には説明板がなかったのだが。後日、4日後の28日(日)に訪れた時はこの説明板が設置されていた。馬入川の鉄橋に使われていたレンガ積み橋脚 (部分)馬入川の鉄橋に使われていたレンガ積み橋脚 (部分)このレンガ積みブロックは、馬入川鉄橋に使われていたレンガ積みの橋脚の一部です。平成27年(2015)に行われた現在の鉄橋の耐震補強工事で、橋脚の基礎を掘り下げた際に発見されました。イギリス式といわれる、明治時代に伝えられたレンガの積み方を見ることができます。馬入川の鉄橋は、明治5年(1872)に新橋~横浜間にて開通した東海道線が、明治20年(1887)に横浜~国府津間が延伸して開通することにあわせて、長さ約648mの鉄橋として架橋されました。その後、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊しました。なお、当時の鉄橋の一部は、今でも相模川河川敷や流路に遺されています。写真左:開通当初の馬入川鉄橋写真右:関東大震災で倒壊した馬入川鉄橋西行の歌碑「芝まとふ 葛・・・ 砥上ヶ原・・・」と。鶴岡八幡宮の一ノ鳥居(西行の歌碑)鶴岡八幡宮の一ノ鳥居として江戸時代から大正時代まであったものの一部です。大正12年(1923)に発生した関東大震災で鳥居は倒壊してしまいました。その後、国道134号沿いの現・茅ヶ崎公園野球場駐車場にあったバスロータリーに西行の歌碑が彫られ、設置されていました。戦後、国道の道路改修に際し折損し、当館の前身である文化資料館(1971~2022)に移設され門柱となっていました。 芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上ヶ原に 牡鹿鳴くなりこの歌から、当時の茅ヶ崎周辺の様子がうかがえます。西行(元永元年・1118~文治6年・1190)は平安時代末期の歌人で、朝廷に仕える武士でしたが、23歳の時、妻子も官位も捨てて出家し真言宗の僧となり、全国を旅しつつ自然と仏道に心を寄せ、多くの歌を残しました。『新古今和歌集』の代表的歌人で、歌集『山家集』があります。写真上:倒壊前の鶴岡八幡宮の一ノ鳥居(大正時代)写真下:国道134号沿いバスロータリー(1960年代)円柱の右から二本目・三本目・四本目には、「昭和三十四年三月鶴嶺八幡宮鳥居の古材にて 建之」、「建設 茅ヶ崎市 企画 郷土研究会」、「西行の歌碑」が刻まれていた。こちらの礎石には説明板があった。上記左側の石の上部に、「第十七号 測点 地理寮」と。下寺尾廃寺(七堂伽藍)の礎石ここに置かれている大きな石は、市内下寺尾に所在した古代寺院(七堂伽藍)跡から出土したものの一部で、当時のお寺の建物の柱を支えた礎石と考えられています。石質は凝灰質閃緑岩と鑑定されており、柱を据える部分を加工したものも見られます。このような礎石の多くは、古くから土地所有者の方が掘り出されていたようで、現在では下寺尾周辺で約三十個が庭石等として保存されていることが確認されています。下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)と呼ばれているこの寺院は今から約千三百年前に創建されたと考えられており、海老名にある国分寺より古い時期に建てられた、相模国における初期寺院として注目されています。七堂伽藍跡からは古墳時代後期および奈良・平安時代の古代土器などに混じって瓦も出土しており、これらの礎石の存在から、このお寺には礎石建ちで瓦葺きのりっぱな建物があったことがわかります。 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎丸ごとふるさと発見博物館 (平成ニ八年三月)コミュニティバス乗り場「浄見寺入口」。駐車場から大岡越前通り戻り博物館周りを一周。コミュニティバス予定時刻表「31 浄見寺入口」。北部循環市立病院線で運行は1時間に1本と少ない。近い将来には前日試乗した自動運転バスが運行するのであろう。浄見寺入口の交差点脇に赤い花が咲いていた。見上げると寒緋桜であったか。ズームアップ。桜の下から茅ヶ崎市博物館を見る。博物館の西側から。遊歩道には「岡崎市から贈られたマンホールふた」。岡崎市(愛知県)のデザインマンホールふた令和5年(2023)、岡崎市が下水道事業着手から100周年の節目を迎えたことを記念し、本市を含む5つの親善都市・ゆかりのまちとデザインマンオールふたを交換しました。交換した蓋は、大岡家の菩提寺である浄見寺がある堤の地に設置しました。蓋のデザインは、世界中に広がる日本独自の「Kawaii」文化の原型を作った岡崎市出身のアーティスト、内藤ルネ氏によるものです。名奉行で知られる大岡越前守忠相の曽祖父が、徳川家康から堤村(市内堤)を与えられ、大岡家本家は代々地頭でした。また、忠相は晩年、西大平藩(岡崎市)の藩主となりました。この縁により、昭和58年(1983)7月から両市はゆかりのまちを提携しています。なお、本市の蓋は、愛知県岡崎市西大平町にある大岡越前守陣屋跡に設置されています。 令和5年12月 茅ヶ崎市岡崎市から贈られたマンホール蓋以下3枚の写真は岡崎市在住の旅友から、茅ヶ崎からのふたは「愛知県岡崎市西大平町にある大岡越前守陣屋跡」に設置された。因みに、この地は東海道53次を歩いた令和元年(2019)10月15日(火)に訪れている。この時のブログは「御油宿~岡崎宿」👈をクリック願います。岡崎市に設置されている説明板、大岡越前守忠相西大平藩陣屋西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋がおかれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宜が継ぎ、廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。大岡家は、江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした左の地図は「三河国額田郡大平村地図」(安藤平久氏所有)博物館入口への遊歩道。駒寄川も整備され、これからはこのエリアに桜等の植栽か。市民への桜植栽の寄付金もよいのでは、一本1,000~2,000円/名なら多くの人が参加するのでは。博物館の後方にはメタセコイアが聳える。13:25駒寄川に架かる橋から博物館を見る。案内板には「旧和田家住宅・旧三橋家住宅」と。浄見寺の案内がなかった。 ー 続く ー
2026.04.02
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今日から令和8年(2026)の新年度になり、桜前線も東北地方へ。この日は、市立病院のリハビリセンターで「妙伝寺の枝垂れ桜が奇麗」と聞き急遽訪れた。3月24日(火)11:45日蓮宗歓照山 妙伝寺(みょうでんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤1032山門の両脇にそびえるイチョウの木。奥に目的の枝垂れ桜が聳えていた。山門の手前右手に立つ、天保九年(1838)銘の萬霊塔。側面に「歓照山 妙傳寺」。 階段を上り山門へ。山門の扁額「妙傳寺」。山門を入ると正面に西向きの本堂。右手に手水舎、左手に鐘楼が建っている。本堂には相州小出七福神巡りの”毘沙門天”が祀られている。右手上の墓地の一角に目的の枝垂れ桜が聳えていた。本 堂文禄元年(1592年)に、日安上人を開山として草創されたといわれている。本堂前に「日蓮聖人像」が立っている。本堂の扁額「歓照山」。本堂前から墓地への入口。墓地入口に建つ句碑には「長閑さや 群盲の象を 評しける」と刻まれている。昭和31年(1956)に建立された村井湖月庵の句碑である。本堂裏の駐車場へ。目的の枝垂れ桜を東側から見る。南側へ回り込む。由緒等がなく詳細は不明であるが樹齢は?。満開の枝垂れ桜をズームアップ。花弁数の多い桜は兼六園菊桜で300~350枚あると。知り合いの墓地へ回り込み。手前にはイチョウの木があり奇麗に剪定されていた。枝垂れ桜をズームアップ。丸く刈られた木は?。檀家さんが多いお寺はどこも樹々が奇麗に管理されている。お彼岸でどこの墓地にも綺麗な花が供えられていた。墓地には枯れたススキも。西側から見上げる。ズームアップ。新しいお堂の「慈照殿」。堂の扁額「慈照殿」。2つの堂が並んでいる。お題目塔に「南無妙法蓮華経」と。水子地蔵堂手前の標柱には「妙法水子地蔵菩薩」と。堂内には「水子地蔵菩薩像」が立ち、台座に「普明照世間」と。枝垂れ桜を振り返る。山門から本堂を振り返る。12:05大岡越前通り側に聳える古木は楷(かい)の木。楷(かい)の木は「学問の木」として有名であると。妙伝寺から大岡越前通りを西へ走り、久しぶりに茅ヶ崎市博物館へ向かった。この時期この通りを走るとピンクの桜が咲いているが品種が分からずいつも「?」と。民家の表札には桜系の「吉野」と。道路脇に自転車を止め民家の桜を撮影。ちょうど住民の方がおられ尋ねると「雅(みやび)(プリンセス雅)」だと。ネットから埼玉県鳩ヶ谷市・埼玉植物園から当初、プリンセス雅として売り出された品種。埼玉県内の苗木生産者がヤマザクラとして栽培している中から発見・選抜したといわれ、カンヒザクラと他種(染井吉野?)との雑種と推定されると。まだ若木であったが雅子様ご成婚を記念して新種のサクラに「プリンセス雅」と名付けら、現在は「雅桜」と呼ばれている。雅の枝先をズームアップ。道路沿いにも同じような色の桜が咲いていたが「ヨウコウ(陽光桜)と横浜緋桜」だと。咲き初めの横浜緋桜(ヨコハマヒザクラ)。赤い蕾の寒緋桜系の横浜緋桜。こちらも寒緋桜系のヨウコウ(陽光桜)。大岡越前通りをさらに西へ走ると、茅ヶ崎市博物館前のバス停へ。若木の桜が満開であった。先程の住民の方が自分が植えたという「プリンセス雅」。満開の雅桜であった。ズームアップ。走って来た大岡越前通りを振り返る。12:30市立博物館前にある、コミュニティバス乗り場「浄見寺入口」。 ー 続く ー
2026.04.01
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小出川の河津桜も終わり、3月も下旬になり日本列島もいよいよソメイヨシノの開花時期になり、市内の桜を追った。3月24日(火)9:00この日は「運動耐容能 (CPX) 検査」で市立病院へ。1月に上記検査を行い、その後週2回のリハビリを行いその効果をチェックのため2度目の検査。リハビリの内容は30分間筋力トレーニングを行い、そのあと自転車を30分間こぐ。運動耐容能 (CPX) 検査運動耐容能(CPX)検査は運動負荷検査の一つで、心電図、血圧、呼気ガス(マスクを装着)を測定しながら、ペダルがだんだん重くなる自転車をこぐ運動を行って頂きます。心電図からは運動に対する心拍数応答、虚血性変化、不整脈など、血圧も運動に対する血圧応答、呼気ガスからは運動に対する酸素などの摂取量、換気量などを測定し、肺・心臓・筋肉を含めた予備能力を測定する検査で、体力測定である。(写真はネットから)この日の検査結果は「前回と変わらず」で自転車の負荷は「43W」と。市立病院の中庭に「お月さんとうさぎ」のモニュメント。この中庭はリハビリ専用で一般者は立入禁止になっている。帰り際、リハビリの係の方から「市内の妙伝寺の枝垂れ桜が奇麗」と聞き帰宅後行くことに。市立病院の東側にある「上ノ田公園」。ソメイヨシノが10本ほど植えられているがまだ開花前であった。この地下には雨水調整池がありこの地区の浸水対策用に設けられている。上ノ田公園雨水調整池浸水被害を軽減し、安心して快適に暮らせる環境づくりを!この施設は本村周辺地区の浸水区域の雨水を調整池に導水し、一時的に貯留した後、調整池の雨水ポンプにより菱沼雨水幹線へ強制排水させていきます。 計画貯留量 約6,000m3上ノ田公園に設けられている「健康遊具総合案内板」。遊具が4基設置されている。最近はリハビリの帰りに、上記①の「てくてく(ウオーキング)」を使用している。上ノ田公園の北側から富士山の頂上が見える。上ノ田公園の北側を千ノ川が流れており、その一角に枝垂れ桜があり毎年奇麗に咲いており五分咲きか。ズームアップ(3/24撮影)。以下2枚の写真は、上記撮影3日後の3月27日(金) 午前中の開花状況。昨日(3/26)は雨が降ったが満開に近かった。千ノ川沿いに植えられているソメイヨシノ。枝先のところどころが開花していた。下流側を振り返る。この先の上流側はバス通りになっており「一時停止」の取締りを度々行っている。千ノ川は十数年前に氾濫しその後浸水対策で50cmほど嵩上げされている。水位計も設置され、市立病院横の「上ノ田公園雨水調整池」へ導水しているようだ。ここからは残念ながら富士山は見えない。11:10リハビリ後自宅へ帰り、妙伝寺の枝垂れ桜を見るため「昼食は欠食」にして愛車のリンちゃんででかけた。バッテリー残量は30%で、走行可能距離は23kmとギリギリであった。県道404号線(小出県道)の「300CLUB 入口」。案内板には「300CLUB ENTRANCE」と。この時期クラブハウス前の枝垂れ桜が奇麗であることを思い出し急遽立ち寄ることに。この交差点から「ENTRANCE」までは急坂になっており愛車のリンちゃんで上った。スリーハンドレッドクラブ所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼441予想どうりクラブハウス前の枝垂れ桜は満開であった。駐車場には高級車が並んでいた。スリーハンドレッドクラブの会員数は少ないので駐車場が狭い。既に満開の枝垂れ桜である。自然のままか樹形が素晴らしい。高級車の後ろに周りクラブハウスを望む。まだ咲き始めの枝垂れ桜もあった。ENTRANCEのドアーをズームアップ。ドアーには「魚」の絵があったが。満開の枝を見上げる。更にズームアップ。クラブハウスの周辺には枝垂桜が5~6本植えられているようだが関係者以外は立入禁止?。すれ違ったクラブ関係の女性から「危ないので・・・・・」と。枝垂れ桜は古木になっているようで枝には支柱。青空に映える枝垂れ桜まだ花吹雪にはなっていなかった。コースにも桜がありこの奇麗な枝垂れ桜を市民に開放してほしいものだが。一本の木はこれから咲く遅咲きか。古民家風の建物があったが。11:30クラブハウスの手前東側には送迎車用の運転手控室がある。著名人が来場されるだけに高級車が多く、キャディーが終了時間予定を知らせている。 ー 続く ー
2026.03.31
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小田原城の馬出門を後にして帰路についた。2月6日(金) 14:50小田原市観光交流センター所在地:神奈川県小田原市本町1丁目7-50小田原城の正門馬出門の前に建つセンターで、観光資源の活用を図る拠点として観光に関する情報の発信及び提供、地域の文化、歴史、伝統等の体験の場の提供等を行っている。1階は、観光案内所、カフェ、物販などがあり、2階はフリースペースになっている。国指定史跡 小田原城跡 小田原城跡小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は中世の城と近世の城が同じ場所に重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、二の丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門、馬出門、御用米曲輪の復元整備が進められています。小田原城の歴史年表 応永24 1417 鎌倉公方・足利持氏が大森氏に小田原を与える。 明応9 1500 伊勢宗瑞(北条早雲)、この頃までに小田原に進出。 永禄4 1561 長尾景虎(上杉謙信)、小田原城を攻め城下に放火。 永禄12 1569 武田信玄、小田原城を攻め城下に放火。 天正18 1590 豊臣秀吉、小田原に侵攻 北条氏直、総構で大軍を防ぎ、長期戦の 末に開城。 その後、徳川家康の家臣 大久保忠世が入城。 慶長19 1614 大久保忠隣改易、小田原城破却 元和5 1619 阿部正次が入城。 寛永9 1632 稲葉正勝が入城、近世化工事が進められる。 寛永10 1633 寛永地震により、小田原城、城下町に甚大な被害。 延宝3 1675 この頃、稲葉正則による小田原城近世化の改修が完了する。 貞享3 1686 大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城。 元禄16 1703 元禄地震により、天守など倒壊・焼失 宝永3 1706 天守再建 天明2 1782 天明地震により、天守が傾く。 嘉永6 1853 嘉永地震により、石垣など崩れる。 明治3 1870 小田原城廃城、天守など売却され、解体される。 明治34 1901 小田原城内に御用邸が建設される。 大正12 1923 大正関東地震(関東大震災)により石垣など崩落、御用邸が廃止される。 昭和4 1929 小田原高等女学校・小田原第二尋常高等小学校建設。 昭和9 1934 隅櫓復興、この頃までに二の丸堀に石垣が積まれる。 昭和25 1950 小田原こども博覧会が開催され、動物園、こども遊園地が開園される。 昭和35 1960 天守閣復興。 昭和46 1971 常盤木門再建。 平成9 1997 銅門復元。 平成21 2009 馬出門復元。 平成23 2011 馬屋曲輪整備。 平成28 2016 天守閣平成の大改修。主な城主北条氏直(1562~1591)、大久保忠世(1532~1594)、稲葉正則(1633~1696)。 2021.3 小田原城総合管理事務所右上の絵図は、文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城お堀端通りのソメイヨシノ。開花時には桜のトンネルになる。二の丸隅櫓、左奥には天守閣。前回令和5年(2023)3月30日(木)に訪れた時の桜満開時の写真。二の丸東堀にはカモ馬出門土橋のめがね橋めがね橋をズームアップ。学橋 (まなびばし)この学橋が最初にできたのは昭和4(1929)年のこと。市立の城内小学校が二の丸に移転した際に竣工した。この橋を渡ると小学校があったことで、「学橋」と名付けられた。その小学校は平成4年に移転したが、橋だけは今も残っていると。二の丸広場にあるMAP学橋を渡り二の丸広場へ立ち寄った。二の丸広場を通り抜け本丸東堀へ。高い場所に本丸広場があり天守閣を見上げる。梅の木があり紅梅が咲いていた。”小田原城の観梅”を目当てに来たが梅の満開には少し早かった。本丸東堀の菖蒲畑この場所は6月に「あじさい・菖蒲まつり」が開催され多くの観光客が訪れる。常盤木橋の北側にある本丸東堀で右上には常盤木門。本丸の東側の斜面には多くのあじさいが植えられている。常盤木橋を望む。本丸東堀には鉢に植えられた菖蒲が出番を待っていた。本丸東堀の植込みにはロウバイが咲いていた。紅梅とロウバイ白梅をズームアップ。弁財天通りに立つ標柱に「史跡 小田原城址」と。小田原駅東口(約470m)への弁財天通りを進む。弁財天曲輪にある広場。民家の後方は松が聳える本丸広場の杜。弁財天通りを進むと道路脇に標柱。標柱に「弁財天」と。江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし元禄十年(1697)に蓮池の南側にあった「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六、七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。弁財天通りの旭丘高校前交差点からお城通りへ。旧町名保存碑 弁財天所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目6お城通りの標柱には「べさいてん」と刻まれていた。側面の説明文は、先ほどの「弁財天通り」のものと同じであった。駅前からのお城通りの突き当りにある旭丘高校前交差点を振り返る。南西の方向には天守閣が見えていた。標柱には「弁財天」と。お城通りの小田原駅東口を望む。某ビルの掲示板に、かつての小田原駅の写真、浮世絵があった。小田原駅小田原駅が開業したのは、大正9年(1920)10月のことでした。国府津駅の開業から、実に33年の月日が過ぎていました。開業にあたっては、盛大な祝賀会が催しされ、多くの人々が昼夜の別なく祝賀に酔いしれたと言う事です。この写真は、乗合自動車や人力車など、大正の昔を偲ばせる乗り物が写し込まれています。 写真集「昨日の道 去年の坂」より東海道小田原宿東海道を歩む旅人にとって、この地は特別なものであったことでしょう。徳川幕府は江戸防衛のため、酒匂川へ橋をかけることも渡し舟を使うことも許さず、旅人は渡し場から川越え人足によって川を渡らねばなりませんでした。酒匂川を渡り疲れきった旅人を出迎えるのが、江戸日本橋を発ち九つ目の宿にして初めての城下町であるこの地「小田原」です。人々はここ小田原の地で疲れを癒し、英気を養い、天下の嶮、箱根山に向かいました。町並みの一角にはコンビニの「LAWSON」が営業。人通りが少ない感じがしたが。ミナカ小田原の三階にある金次郎広場へ上がる。以前来た時は多くの人が訪れていたが。小田原駅東口のペデストリアンデッキからミナカ小田原のテラス席がある「金次郎広場」。「ひもの山安」の試食コーナーがあったが準備中であった。ステージの台座に「映画 二宮金次郎 夫婦像」と。二宮金次郎の夫婦像説明小田原が生んだ偉人、二宮金次郎夫婦の像江戸時代末期、小田原の栢山村に生まれた二宮金次郎(尊徳)の生涯が、史上初めて描かれました。五十嵐匠監督の手によって、2019年1月、尊徳翁の関係した多くの市町村の皆様の協力により、百十三分の劇映画として完成いたしました。多くの皆様にご覧頂きたいと願い、劇中の二宮金次郎夫婦の像をここに設置いたしました。尊徳翁の業績に感謝して、今こそ、その教えを実行する時が来たと考えます。 平成三十一年一月六日(小田原市特別上映会日)寄贈 万葉俱楽部会長 高橋 弘 小田原市長 加藤 憲一 彫刻制作 宇野 務二宮金次郎夫婦の像金次郎広場には揚げ物、スイーツの店があり購入してテラス席で飲食できる。テラス席からは天守閣も見えていた。ミナカ小田原のタワー棟3階エントランスホールへ入ると、甲冑が展示されていた。エレベーターで最上階へ上ると足湯もあったのだが今回もスルーした。雛壇飾りも置かれていた。また街角ピアノも置かれていた。パネルには、「演奏無料 どなたでもご自由に演奏いただけます 時 間 11:00~18:45 場 所 タワー棟3階エントランスホール」と。金次郎広場からペデストリアンデッキへの通路から小田原駅の東口を見下ろす。ミナカ小田原の前では「みかんの詰め放題」がまだ営業していた。15:35小田原駅の改札口へ。上野東京ライン「15:38 高崎」へ乗車。昼食も食べずに動き回ったので、ホームのコンビニで食料を購入、車中で遅い昼食をとった。16:10茅ヶ崎駅に到着。この日は”小田原城天守閣への登城”と”観梅”を目当てに来たが梅の満開には少し早かった。また、この日の歩行数は14,000歩であった。 END
2026.03.30
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本丸広場から二の丸広場へ。2月6日(金) 14:25小田原市郷土文化館開館時間:9時~17時 入館無料小田原市の郷土資料を収集、保存、展示する資料館。市の歴史の他、民俗や考古、自然に関する資料を収蔵・展示している。今回はスルーした。南曲輪に咲く紅梅。老木越しに銅門を見る。二の丸の一角にビャクシンと銅門。ビャクシンの根元に標柱、「小田原市指定天然記念物 小田原城跡のビャクシン 小田原市教育委員会 平成十六年度設置」と。小田原市指定天然記念物 (昭和五十六年三月三十日指定)小田原城跡のビャクシン 所 在 小田原市城内3-22 樹 相 目通り幹囲 3.1メートル 株本周囲 約3.9メートル 樹 高 約15メートル 枝張り状況 東西約12メートル、南北約15メートルビャクシンは主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約4.5mのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。 小田原市教育委員会深い年輪が刻まれている目通り幹囲3.1メートルのビャクシン。城址公園内の巨木巨木 (オオマツ) 天保年間(1830~1844)に書かれた「相中雑志」に記載されている「七本松」の一つと 推定され、市内最大のものです。イヌマキ 常盤木橋の前にある、樹齢約520年以上、幹回り4.5mに及ぶ市内最大の巨木です。 本丸広場の巨松と双璧をなします。ビャクシン カブ元周囲約3.9m、樹高約15.0mと市内最大級です。樹齢不詳ですが、小田原の歴史 とともにあり続けてきた風格を感じとれます。御感の藤 東側と中央の株は樹齢180年を超える古木です。大正天皇がご覧になって感嘆されたこ とから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。樹高が約15メートルあり二の丸広場で存在感を示している。紅白の梅の後方は小田原市郷土文化館銅門の復元銅門は、住吉堀の復元事業と併せて昭和58年(1983)から平成5年(1993)まで発掘調査が行われた後、平成5~7年(1993~1995)にかけて、桝形や櫓台石垣復元工事が、平成8、9年(1996、1997)にかけて、渡櫓門や土塀の復元工事が、日本古来の伝統的な工法で行われました。石垣の復元工事には、関東大震災で住吉堀に崩落した石材に加え、角石に真鶴産小松石(安山岩)平石に、蔵王山系安山岩か使われています。建築工事は、小田原市建築協同組合が受け負い、復元にあたっては、宮大工の芹澤伸明氏が棟梁を務め、市内の大工職人や近隣の左官職人らの匠の技が結集されました。復元に使われた木材のうち、鏡柱など14本の檜材は、ラオスから輸入しています。また、天井の大梁2本は、国産の黒松を使用し、丸い刃が付いたハマグリ釿(ちょうな)により、鱗のような風合いの加工がされています。これらの檜や松は樹齢200年を超える大径木が使われています。小田原城案内図正面入口から天守閣への登城ルート(赤線)二の丸広場から常盤木門の南多聞櫓・北多聞櫓、後方に天守閣を見上げる。銅門 (あかがねもん)江戸時代の二の丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。桝形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。 2019.03 小田原城総合管理事務所銅門前からビャクシンを望む。銅門渡櫓門を潜り抜け振り返る。国指定史跡 小田原城跡 銅門 (あかがねもん)銅門は、小田原城二の丸の表門にあたる桝形形式の城門で、渡櫓の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていることから、この名で呼ばれています。馬屋曲輪から住吉橋を渡って、桝形正面の埋門形式の「内仕切門」を潜って桝形内部に入ります。桝形を西に折れると「銅門渡櫓門」となります。渡櫓門は、幅約6m、長さ約23m、高さ約12mの規模で、渡櫓には「石落とし」と呼ばれる敵を撃退するための仕掛けが設けられていました。銅門は、明治5年(1872)に解体されましたが、発掘調査により石垣の位置が明らかになり、城絵図や古写真などから復元設計が検討されて、平成5~7年(1993~1995)にかけて桝形や櫓台石垣が、平成8、9年(1996、1997)にかけて渡櫓門や土塀が、日本古来の伝統的な工法で復元されました。写真上 明治5年に銅門が解体される直前の写真で、櫓門の屋根や土塀の傷みが激しく小田原 藩が城を維持できなくなった様子を示しています。下の図 文久図に描かれた江戸時代末期の銅門と住吉橋土塀に組み込まれた銅門桝形内仕切門を内側から見る。銅門桝形の土塀の内側にある二の丸に聳える松。右側は住吉堀に面した土塀。内仕切門を出て銅門渡櫓門を望む。住吉橋銅門桝形内仕切門と馬屋曲輪の間にかけられた橋。 平成 2年 (1990) 復元 平成30年 (2018) 改修 2019.03 小田原城総合管理事務所住吉橋の袂に、「銅 門 開門時間 午前7時から午後9時 照明時間 日没から午後10時まで」と。住吉堀に架かる住吉橋。国指定史跡 小田原城跡 住吉堀 (すみよしぼり)住吉堀は、銅門と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間を仕切る堀で、寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。昭和58年(1983)から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認され、江戸時代の絵図と合致することが確認されました。また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘り残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988)から発掘調査と並行して、城絵図や発掘成果と整合させて行われました。また、平成2年(1990)に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には、平成7年(1995)までの6年間を要しました。復元に際しては、関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、真鶴産小松石(安山岩)を新たに使用しています。写真上:住吉堀の近世石垣と戦国期の障子堀写真下:銅門の下から検出された江戸時代初期の野面積みの石垣右上図:戦国時代の住吉堀 障子堀右中図:江戸時代初期の住吉堀 障子堀右下図:江戸時代前期以降の住吉堀銅門 (あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。写真:解体される前の銅門(明治5年) 横浜市美術館蔵小田原城二の丸の表門であった銅門。銅門への住吉橋。小田原城と銅門 (あかがねもん)銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壺曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋 (現在のめがね橋) から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。左図:江戸時代末期の小田原城絵図 (部分) 小田原城天守閣蔵馬屋曲輪から銅門、後方に天守閣を望む。多くの説明板があった。城内には歴史を伝える老松が多く聳えている。天守閣、巨松をズームアップ。馬出門桝形の内冠木門平成21年(2009)に復元。馬出門と内冠木門の2つの門を配した構造となっている。内冠木門内冠木門はそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門である。内冠木門 (うちかぶきもん)馬出門の枡形の内側にある門 平成21年 (2009) 復元 2019.03 小田原城総合管理事務所内冠木門国指定史跡 小田原城跡 馬出門桝形馬出門桝形は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡って奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。明治34年(1901)に、二の丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、平成15年(2003)から整備のための調査を開始し、平成21年(2009)に復元整備を完了しました。石垣の復元には、安山岩を用い、馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。右上:発掘された馬出門枡形右下:寛文図に描かれた馬出門枡形 左/改修前 右/改修後馬出門桝形(内側)から馬出門を見る。馬出門もそれぞれの控柱に屋根のつく『高麗門』という形式の門である。周囲の土塀には三角形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が1間(約1.8m)間隔で開けられ、流石に小田原城の大手口(正面)だけに、太平の世に建設されながらも実戦的な防備が備わっている。馬出門から内冠木門を見る。馬出門馬出門 (うまだしもん)馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に枡形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大震災で倒壊しました。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されました。 2023.03 小田原城総合管理事務所二の丸東堀に建つ二の丸隅櫓、朱色の学橋(まなびばし)。二の丸広場、隅櫓。国指定史跡 小田原城跡 馬出門馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、枡形の内側に位置する内冠木門と同様、控え柱にそれぞれ屋根がつく「高麗門形式」の門であったと考えられています。発掘調査によって、明治34年(1901)に設置された皇族の御用邸時代の石垣や江戸時代の石垣、門の礎石などが確認されました。これらの成果や絵図をもとに、平成21年(2009)に高さ約6.3m、幅約4.7mの規模を持つ馬出門が復元されました。復元には、柱や扉は欅、屋根の下地は椹(さわら)、土塀の控柱には栗を用いました。御用邸時代の門は、馬出門土橋から直進して門をくぐることができるように向かって左側に位置をずらすとともに、石垣を高く積み直しており、写真で当時の様子を知ることができます。写真上:発見された馬出門の礎石跡と石垣写真下:御用邸時代の馬出門馬出門土橋から南方向を見る。右側は馬屋曲輪。馬出門土橋からきた方向の二の丸東堀を望む。3月下旬には桜が咲き誇る。馬出門前に聳えるソメイヨシノ。14:50馬出門を振り返る。この日は正規ルートを逆に散策した。 ー 続く ー
2026.03.29
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小田城天守閣の5階から下りる。2月6日(金) 14:005階の展望フロア―から4階へ降りる。4階と3階は吹き抜けになっており、3階の甲冑展示品が見えていた。4階から3階への吹き抜けに掛軸が2枚吊るされていた。3階企画展示室金小札紫糸威二枚胴童具足 (きんこざねむらさいとおどしにまいどうわらべぐそく)小田原藩主大久保家に伝来した品で、鎧の着初めや元服時に着用する少年用の童具足です。胸板や吹返、杏葉などに大久保家の家紋である「上り藤に大」が金蒔絵でほどこされています。元禄年間(1688~1704)頃の製作と考えられます。体験コーナー甲冑姿で写真を撮ろう!顔出しパネルではなく甲冑姿であった。1階常設展示室左に、「平成の大改修 新・小田原城 神奈川二十一世紀の会 二○一七年一月二十七日」中央に、「賞状 第19回神奈川イメージアップ大賞 小田原城殿 2017年1月27日 毎日新聞社 代表取締役社長 丸山昌宏」。小田原フラワーガーデン 2026年梅まつり 1月24日(土) ~ 3月1日(日) 約300品種 500本 梅園入園 駐車場 無料1階 常設展示室 江戸時代の小田原城1階 常設展示室から、階段下の「入場券販売所」フロアーを見下ろす。フロアーの一角に小田原城のパンフレット、日本100名城のスタンプ類が置かれていた。ポスターには「北条五代を大河ドラマに!」と。入場券販売所発券は待つこともなく購入できていた。天守閣を出ると西側の斜面に桜の古木があった。桜の枝に「カンヒザクラ」の名札。カンヒザクラ(寒緋桜)はやや膨らんだ蕾であった。天守閣から下り本丸広場から見上げる。展望デッキには多くの人が登城していた。常盤木門・SAMURAI館史跡 小田原城跡 本丸跡小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門(くろがねもん)と呼ばれていました。本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図 (通称「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。図ー1 江戸時代の小田原城復元模式図図ー2 「宮内庁図」本丸部分(宮内庁書陵部蔵)図ー3 発掘調査で発見された「七本松」を囲う石組図ー4 発掘調査で発見された焼土本丸広場にはソメイヨシノの古木も聳えている。3月末の桜まつりには多くの人が訪れる広場である。また本丸広場には「桜の標準木」がある。その幹には「桜の標準木」と書かれ名札。この桜(ソメイヨシノ)は、小田原城址公園内の開花を観測するために指定した「標準木」です。 小田原城総合管理事務所本丸から常盤木門を出て見上げる。昭和46年(1971)に再建。同門内には、刀剣・甲冑を展示しているSAMURAI館がある。また甲冑などの着付け体験も受け付けている。常盤木門の下に標柱と説明板。標柱に「常盤木門」と。史跡 小田原城跡 小田原城 常盤木門 本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繫栄しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました(「文久図」右図)。明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常盤木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲冑を展示しています。また、日本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。朱色の常盤木橋を見下ろす。市指定天然記念物のイヌマキが聳えている。紅梅が咲いていたが満開ではなかった。常盤木橋上から北側にある本丸東堀の菖蒲畑を見下ろす。この場所は6月に「あじさい・菖蒲まつり」の会場になり多くの鉢が準備されていた。常盤木橋・常盤木門を見上げる。常盤木門の渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式となっている。国指定史跡 小田原城跡 本丸東堀と常盤木橋江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に本丸と二の丸をつなぐ木製の橋が描かれており、「常盤木橋」と名付けられていたことが分かります。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面入口になります。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。右上:文久図に描かれた江戸時代末期の常盤木橋と本丸東堀右下:明治3年の常盤木門と常盤木橋本丸東堀の菖蒲畑を見下ろす。青フェンスの先は御用米曲輪発掘調査現場。本丸への正面入り口になる常盤木橋。常盤木橋紅梅はまだ満開ではなかった。梅の木には俳句の短冊が吊るされていた。咲いていた紅梅をズームアップ。小田原城跡のイヌマキ小田原市指定天然記念物 (昭和四十九年三月三十日指定)小田原城跡のイヌマキ 所 在 小田原市城内3-22 樹 相 目通り幹囲 4.5メートル 株元周囲 約6メートル 樹 高 約20メートル 枝張り状況 東西23メートル、南北13メートルイヌマキは関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社や寺院の境内にも多く見られます。この木は、幹回り4.5メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げて傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 小田原市教育委員会イヌマキの主幹は左巻きで目通り幹囲 4.5メートル。樹齢を感じさせる幹周りである。支柱があるイヌマキを見上げる。常盤木門の南多聞櫓・北多聞櫓を見上げる。白梅も見頃にはまだ早かった。後方は銅門(あかがねもん)。梅の木の下ではご婦人が休んでおられた。白梅はまだ満開ではなかった。ズームアップ。小田原市のおすいマンホール蓋。背景に箱根の山と奥に頭をのぞかせる富士山。二の丸櫓を従えた小田原城と酒匂川の渡し。地名はないが、小田原とわかるデザインである。14:25銅門 (あかがねもん)手前には市指定天然記念物のビャクシン。 ー 続く ー
2026.03.28
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小田原城の天守閣は、平成28年(2016)に耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われたとのことで、十数年ぶりに登城することに。2月6日(金) 13:15小田原城の天守閣登城口は階段を上った天守台の上にある。今まで多くの天守閣へ登城したがこのような構造になっているのは珍しいのでは。登城口への階段には桜の木が覆いかぶさっている。満開の時には、この写真は、’23/3/30(木)に訪れた時の写真。桜まつり期間中で登城口は長蛇の列であった。この時のブログは「小田原城のサクラ見物」👈をクリック願います。高齢者のためのバリアフリー化は行われているのか気になったが。登城口から本丸広場を見下ろす。登城口へ入ると「小田原城 天守閣」。 1 常設展示室1 2 常設展示室2 3 企画展示室1 企画展示室2 (回廊) 企画展示室3 4 企画展示室4 5 常設展示室3 展望デッキ1階の入場券販売所天守閣へは1階で靴を脱ぎ見学、インバウンド客もチラホラと見うけられた。これに大陸からの人が訪れると順番待ちになるのであろう。いろんなパンフレット、日本100名城のスタンプが置かれていた。今回押印した「日本100名城のスタンプ」「入場券」。前回は平成28年(2016)の耐震改修工事前に登城したようだ。日本100名城は2016/11/18に岐阜城で制覇し、1,292番目で登録完了者として認定された。現在は続日本100名城に挑戦中で、現在70城を征服し残るは30名城のみになっている。1階には「箱根の寄木細工」が展示されていた。天守閣内の撮影についての注意書き。2階 常設展示室 戦国時代の小田原城 小田原城を本拠とした戦国大名小田原北条氏の事績と、歴史上名高い小田原合戦に ついて紹介しているが、何故か撮影禁止になっていた。3階 企画展示室 (回廊) 小田原ゆかりの美術工芸や甲冑・刀剣、小田原城周辺の発掘成果などを紹介している。 回廊ののぞき窓から北方向の小田原駅周辺を見下ろす。 右側の山影は ”大山” であろうか。4階 企画展示室 その後の小田原城 明治時代から現代に至る小田原城の歴史を、古写真を中心に紹介します。 左写真:銅門・住吉堀・馬出門・馬屋曲輪・御用米曲輪などの発掘調査が行われ、そ の成果を基に史跡整備が進められています。 中 央:小田原宿のにぎわい 右写真:小田原城を取り巻く城下の暮らし 御用邸時代明治時代の小田原には、伊藤博文や山県有朋らが別荘を構えました。明治天皇の皇女である常宮・周宮内親王も小田原の気候や土地柄を気に入り、御用邸の建設計画が持ち上がりました。小田原町と旧藩主大久保家は宮内省と土地の売買や交換を行い、明治34年(1901)に御用邸が建設されました。これを期に、天守台に設けられた大久保神社を移し、馬出門や隅櫓の整備が行われました。御用邸には後の大正天皇や昭和天皇も滞在しました。関東大震災大正12年(1923)9月1日、マグニチュード7.9の関東大震災が発生しました。小田原の町はほぼ全ての建物が倒壊・損傷するとともに、町の中心部は火災により焦土と化しました。城跡内では御用邸も被災し、江戸時代の姿を残す二の丸隅櫓、天守台、堀の石垣も崩壊しました。右写真:二の丸住吉堀と銅門跡左写真:お堀端通りの桜並木 大正12年(1923)頃 小田原市立図書館蔵天守閣復興昭和25~28年(1950~1953)にかけて、戦後復興の一環として天守台の石垣の積み直しが行われました。折しも、全国的に天守の復興が盛んになっており、「小田原城天守閣復興促進会」が結成されるなど、市民からも復興を望む声が高まっていました。昭和33年(1958)市は天守閣の復興を決定し、翌年から始まった「天守閣復興瓦一枚運動」では、瓦の枚数にして2万枚以上の寄付が集まりました。昭和35年(1960)5月25日、小田原城天守閣は開館の日を迎えました。また、天守閣に続き昭和46年(1971)には常盤木門も再建されました。写真上:建設中の天守閣建設中の天守閣再建された常盤木門昭和45年(1970) 小田原市広報広聴課蔵進む史跡整備小田原城廃城明治3年(1870)、暴風雨による被害や藩の財政難を理由に、知藩事大久保忠良が新政府へ小田原城の廃城を願い出て、天守は解体されました。城跡は陸軍省の所管になり、二の丸隅櫓だけが残りました。その後、旧藩主大久保家の請願申請により、明治23年(1890)に払い下げられ、更に小田原町へ転売・貸し出されました。天守台には、明治26年(1893)に藩祖大久保忠世をまつる大久保神社が建てられました。写真上:解体中の天守5階展望デッキ5階には警備員の方がおられた。順路は西側のデッキからで反時計回りに巡った。西側のデッキにある説明板。諸山十尊 (しょざんじゅっそん)天守閣最上階から見えるのが箱根連山です。これらの中で、天守背後に位置する駒ヶ岳、明神ヶ岳、二子山、石垣山など10の山頂は、諸山十尊として天守七尊とともに信仰されていました。西側の箱根連山。柵には「⇦ 箱根」と。写真に山の名前が書かれているので助かる。箱根連山の左に、二子山、その右側に駒ヶ岳。手前の傾斜地の右側には小田原競輪場。南側のデッキにある説明板。この日は見えなかったが伊豆大島も見える。展望デッキの南西側隅に望遠鏡が設置されていた。南側の柵に「真鶴・伊豆半島 ⇨」と。小田原漁港に架かる”小田原ブルーウェイブリッジ”をズームアップ。。いつもは海岸線を走る国道135号からこの天守閣を望んでいるが。南東隅にも望遠鏡が設置されていた。展望デッキは高いところで足がすくむがどうにか撮影。東側のデッキにある説明板。本丸広場の”常盤木門・SAMURAI館”を見下ろす。広場には樹齢が400年を超える”巨松”が聳えている。小田原の城下町を見下ろす。遠くには三浦半島が見えるのだが。北側のデッキにある説明板。北方向を望む。北方向の小田原駅周辺を見下ろす。右側眼下には”御用米曲輪”の発掘調査現場。ミナカ小田原高層ビルの上層階には公共サービスやホテル、クリニックモール、14Fの屋上には無料の展望足湯庭園がある。小田原駅は、JR東海道本線、東海道新幹線、小田急が乗り入れ交通の要衝になっており、箱根への玄関口になっている。5階 常設展示室3 小田原城天守再現 江戸時代に天守にまつられていた摩利支天像の安置空間を再現し、再現に生かされた 職人の技を映像で紹介します。摩利支天と小田原城小田原城天守閣上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていました。大久保忠朝が貞享3年(1686)に佐倉藩(佐倉市)から小田原藩に復帰した際に、天守に祀ったとされています。『御天守摩利支天』と呼ばれ、元禄16年(1703)の地震において焼失をまぬがれたことから、更に尊崇を集めました。摩利支天像は、明治3年(1870)に天守が取り壊された際に、永久寺(小田原市城山)に移されましたが、昭和35年(1960)に天守閣復興された際に遷都されました。小田原城天守模型の調査小田原市から委託を受けた・・・・・(後略)。市民による摩利支天安置空間再現摩利支天安置空間の再現にあたっては、かつての小田原藩有林などを中心とした小田原産材が用いられ、その多くは市民の寄付によりまかなわれました。切り出しや・・・・・・・・(後略)。14:00天守型厨子 (てんしゅがたずし)天守型厨子 年代未詳 小田原城天守閣蔵 高さ 161.0cm 幅 72.5cm 奥行 71.5cm摩利支天像が納められていた厨子で、小田原城天守の姿を模したものと思われます。一層部分には観音開きの扉があり、内部には金箔が貼られています。作られた時期は不明ですが、明治3年(1870)の小田原城廃城後に摩利支天像を安置していた永久寺(小田原市城山)刊行の「天守七尊」図には、本資料に納められた姿で摩利支天像が描かれており、昭和35年(1960)の天守閣復興の際に摩利支天像とともに小田原城天守閣に収められました。摩利支天と天守七尊摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。小田原城天守のものは三面六臀(さんめんろっび)(3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。また、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められています。江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年(1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。 ー 続く ー
2026.03.27
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この後、久しぶりに天守閣へ登城することに。2月6日(金) 12:50中国からの来日客は減少しているようだが、小田原駅から南下するお城通りには大きなスーツケースを持った観光客が往来していた。右の町並みは江戸っぽい雰囲気を出しているミナカ小田原で、レストラン、土産物店がある。ラスカ小田原の駅ビルを振り返る。旭丘高校前交差点に立っていた案内板、周辺案内図交差点から城址公園北入口へ向かった。右側はお城通りで、前方に東海道線に架かる青橋がある。正面に「小田原城址碑」が立っている。碑には「小田原城址」と。小田原城址公園北入口になる。小田原城案内図天守閣開館時間 9時~17時(最終入館16時半)。小田原城案内図案内図には小田原城正規登城ルートは、左の「馬出門」からの赤線であると。今回は、裏側のルートを選び短距離で登城。御用米曲輪北西土塁 国指定史跡小田原城跡御用米曲輪の外周部には、江戸時代に土を盛って造られた土塁が廻っており、この場所は北西土塁と呼ばれています。この場所は本来は土塁で塞がれていましたが、野球場として利用されていた時に開削されたこの場所を利用して、土塁の構築状況を確認しました。その結果、高さ5m以上に土を積み上げていたことが分かりました。ここから本丸側20mの場所で実施した発掘調査では、自然地形の尾根が確認されていることから、地形を巧みに利用し、その上に土を盛り上げて土塁が造られていることが分かりました。出土遺物などから、この土塁は江戸時代の寛永10年(1633)・延宝8年(1680)などに修復されたと考えられます。また、下層からは、戦国時代のかわらけが多く出土しており、土塁の下には戦国時代の遺跡が広がることが分かりました。発掘調査で確認された北西土塁の断面左図:文久図に描かれた江戸時代の御用米曲輪と北西土塁右図:現在地 2023.3 小田原市教育委員会かつては野球場であった、御用米曲輪。現在も発掘調査が行われている。発掘調査現場天守閣を望む。大掛かりな発掘調査が行われており立入禁止になっているのか。小田原城址公園北入口から天守閣への遊歩道を上り、柵越しに”御用米曲輪”を撮影。遊歩道脇には多くのパネルが掲示されていた。御用米曲輪の蔵跡 国指定史跡小田原城跡御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、曲輪への出入りは二の丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から黒門坂を下って入るしかありません。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輪」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。城絵図などの資料から、蔵の規模は3間×15間(約5.9m×約29.5m)で、文政4年(1821)頃には、北東土塁上に3棟、平場に3棟の計6棟の蔵が存在し、蔵には米のほかに、大豆、小豆、あらめ、塩、武具などが備蓄されていたことが分かりました。平成22~27年(2010~2015)に行われた発掘調査でも、6棟の蔵跡が確認されましたが、この中で6号蔵跡は、一番新しく19世紀以降に構築された可能性が高いなど、蔵の構築時期に差があることが分かりました。また、遺構からは、布基礎状に外周を掘り込み、人頭大の礫と土や砂利を積み重ねた重厚な造りの基礎であったことが確認されました。これらの蔵跡の遺構は重なっていないことから、場所を変えずに建て替えが行われてきたものと考えられます。蔵跡の周辺からは、徳川将軍家の家紋である三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多数出土しており、天守閣に展示されています。写真左上:文久図に描かれた江戸時代末期の御用米曲輪写真右上:調査で確認された6ヶ所の蔵跡写真左下:御用米曲輪から出土した三ツ葉葵紋の瓦写真右下:発掘された4・5号蔵跡の基礎瓦積塀で囲まれた空間 国指定史跡小田原城跡この場所は、御用米曲輪北西土塁の裾にあたり、瓦と土で積み上げられた瓦積塀が2列見つかりました。瓦積塀の奥には石垣が築かれ、手前からは柱穴列が見つかったことから、囲まれた空間が存在したと考えられます。囲まれた空間は約10m四方であり、柱穴列は柵などとみられます。柱の間隔が一部広く空く場所があり、この部分が出入り口である可能性があります。空間の底面には砂利が敷かれていました。石垣は北へと延びていますが、どのような構造が続くのかは不明です。瓦積塀は、基礎に根府川石を敷き、主に平瓦を転用して積み上げています。塀は、上部は後世の削平を受けており、もともとの高さや上部構造は不明ですが、残る瓦積塀の高さから150cm以上の規模を持つことが確認されました。瓦の年代から塀は元禄16年(1703)以降に築かれたものとみられます。この空間は、絵図や文献に明確な記載はなく、どのような使われ方であったのかは分かっていませんが、構造的には宗教施設や煙硝蔵等の可能性が考えられます。相次ぐ災害や明治時代の廃城により、江戸時代の建物の残っていない小田原城においては、江戸時代から遺る唯一の構築物ということになります。下左図:発掘調査で確認された空間中央上:江戸時代の絵図に見る瓦積塀の位置中央下:瓦積塀と基礎の石 (南東から)右 上:全景 (北西から)右 下:瓦積塀の側面 (北から) 2023.3 小田原市教育委員会戦国大名北条氏政はここで何をした? ー 史跡小田原城跡御用米曲輪現場説明会 ー 2月15日 (日) 10:00~15:00(12:00~13:00は休止) 担当者による解説 ①10:30~11:15 ②13:30~14:15 場所:小田原城址公園内御用米曲輪 昨年11月の現場説明会以降、新たに戦国時代の石組水路や建物跡などが見つかりました。 4代目当主北条氏政はここで何をしたのか? 今回の説明会では、そのナゾに迫ります。御用米曲輪の発掘調査現場を見下ろす。御用米曲輪の戦国時代のかわらけ御用米曲輪の調査では、戦国時代の素焼きの土器であるかわらけが大量に見つかっています。かわらけは、主に非日常的な儀式や饗宴などで酒杯や皿として用いられますが、再使用しない習わしがあります。大量に廃棄されたかわらけは、戦国期小田原城の中心でもあった御用米曲輪の様子を考える上で、重要な出土品です。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪の戦国時代の建物跡御用米曲輪の南西側には戦国時代の建物群が広がり、周囲には石組水路や石で化粧された井戸などが配置されていました。湯屋(蒸し風呂)の可能性が高い建物とつながる一番大きい建物跡は、趣向を凝らした庭園に面していました。小田原北条氏の主要な人物の居館であったことが推定され、戦国期小田原城の中心ともいえる場所でした。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている小田原市観光アプリケーション ARポイント 風魔小太郎 御用米曲輪江戸時代の御用米曲輪内の様子を再現しています。周囲をぐるりと土塁で取り囲まれた曲輪で、江戸幕府の蔵が最大6棟あって、米やアラメ、塩などが厳重に保管されていました。AR機能の使い方 ダウンロード無料 ①メイン画像「バーチャル歴史散策」をタップ ②「表示施設設定」をタップ ③「小田原城 御用米曲輪」のみにチェックし「設定」をタップ ④このポイントだけが表示されます。御用米曲輪の切石敷遺構御用米曲輪の南西側からは、切石を敷き詰めて造られた戦国時代の庭園の一部が発見されました。色の異なる切石をモザイク模様のように配し、切石敷の一角には板碑を転用した巨石が立てられていました。このような切石を多用する庭園は、小田原北条氏の本城である御用米曲輪以外にはないとても個性的なものです。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪の池御用米曲輪の南東側からは、16世紀後半に小田原北条氏によって造られた庭園の池が見つかりました。 安山岩製の石塔の四角い部材や風祭石、鎌倉石と呼ばれる切石を用いて護岸されていることが大きな特徴です。このような護岸がなされた池は全国的に例がなく、小田原北条氏の文化や技術を知るうえで重要な成果となりました。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている遊歩道を上ると天守閣下の石垣に突き当たる。この辺りでは城内整備工事が行われていた。城内案内板。御用米曲輪の瓦積塀御用米曲輪西側の土塁の裾の部分から、瓦と土で築かれた瓦積塀と呼ばれる当時の建物の一部が発見されました。相次ぐ災害や明治の廃城により、当時の建物の残っていない小田原城においては、現存する唯一の貴重なものです。江戸時代の絵図や文献史料には描かれてない建物跡が明らかになったことは、大きな成果でした。 小田原市教育委員会右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている遊歩道脇のフェンスの合間から御用米曲輪を見下ろす。御用米曲輪出土の三ツ葉葵紋軒丸瓦平成22年度から実施した御用米曲輪の発掘調査では、推定15tを超える大量の瓦が出土しています。中でも徳川将軍家の三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多く出土したことが特徴的で、全国的にも最多の出土量です。御用米曲輪に幕府の蔵が置かれるなど、小田原城が徳川幕府と関わりの深い城であったことを示す重要な出土品です。 小田原市教育委員会御用米曲輪の蔵跡江戸時代の絵図には、御用米曲輪に江戸幕府の蔵が最大で6棟描かれています。発掘調査では北東側の土塁の上から3棟、曲輪内部から3棟の蔵跡の基礎が発見され、絵図の記載が裏付けされました。蔵には米のほかに弓や鉄砲などの武具や馬具、大豆や籾(モミ)、小豆、塩、アラメ(海藻)なども収められていたようです。 小田原市教育委員会右の上:文久図(部分):文久元~3年 (1861~63)頃右の絵:戦国時代の御用米曲輪全体図 現在地★&写真撮影方向➡が記されている御用米曲輪説明板前方に見える平坦な場所は、江戸幕府の米などを収める蔵があったことから御用米曲輪と呼ばれています。平成22年度から史跡整備事業に伴う発掘調査を行い、江戸時代の蔵跡、戦国時代の建物跡などが発見されました。現在、江戸時代と戦国時代の双方の小田原城の魅力を体感していただけるよう、整備工事を進めております。 小田原市教育委員会上記説明板の写真(空撮)。手前の広場が”御用米曲輪”、上の山は豊臣秀吉が陣取った石垣山。御用米曲輪を見下ろす。戦後は、野球場、臨時駐車場として使用されていただけに広い。国指定史跡小田原城跡小田原城は15世紀の文献史料に初めて登場し、その後、戦国時代には小田原北条氏の東国支配の拠点となりました。江戸時代には、現在見られるような天守や石垣を備える城に改修され、江戸の西の守りを固める重要な城でした。現在、二の丸の表門である銅門(アカガネモン)や大手筋の馬屋曲輪、馬出門の整備が進み、小田原城正面の景観が甦っています。 小田原市教育委員会小田原城の空撮(東側から)。本丸茶屋・売店横から上ってきた遊歩道を振り返る。多くの説明パネルがあった。樹々の間から御用米曲輪を見下ろす。本丸広場の公衆トイレ傍に立つ案内板。小田原城案内図 周辺案内図 本丸広場本丸広場 ⇦ 天 守 閣 ⇦ こども遊園地 休園中 ⇩ 常 盤 木 門 ⇩ 銅 門 ⇩ 馬 出 門国指定史跡 小田原城跡 小田原城天守閣小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)、二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1706)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。現在の天守閣は、昭和25年(1950)から3年かけて天守台石垣の復興工事が行われ、その後、観覧車が設置されるなどしましたが、昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興されました。そして、平成28年(2016)に「平成の大改修」として、耐震補強と大規模な展示リニューアルが行われました。左の絵図は上から、 初代 望楼型天守(加藤図)、二代目 層塔型天守(正保図)、三代目 層塔型天守(文久図)。右の上絵図、 文久図に描かれた江戸時代末期の本丸と天守 写真は中央から、 明治3年解体中の天守、明治26年天守台に建立された大久保神社 昭和30年頃天守台の観覧車、昭和35年天守閣復興工事小田原城址公園 花案内城址公園内では四季を通じて花が咲いておりその場所が記されている。各々の花の開花時期花ごよみ うめ 1月下旬~2月下旬 ふじ 4月下旬~5月上旬 さくら 3月下旬~4月上旬 はなしょうぶ 5月下旬~6月上旬 つつじ 4月中旬~5月上旬 あじさい 6月中旬~7月上旬 はす 7月上旬~8月中旬主な行事 梅まつり 2月上旬~2月下旬 小田原城あじさい花菖蒲まつり 桜まつり 3月下旬~4月上旬 6月上旬~6月中旬 小田原北條五代祭り 5月3日 小田原ちょうちんまつり 10月上旬 小田原城菊花展 11月上旬~11月中旬本丸広場から天守閣を望む。石垣からの高さは27.2mで、全国第7位の高さを誇る。最上階のデッキからは小田原市街地や相模湾などを一望できる。天守の鯱をズームアップ。天守へは今日は行列になっていないのでスムーズに登城できるようだ。桜まつりの時期には長い行列になっている。小田原城 天守閣 登城口小田原城天守閣「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、 入り口の「付櫓」、 両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。天守閣入場料:大人/510円、小中学生/200円。開門中 小田原城 天守閣 登城口13:15小田原城 入 館 料 :天守閣/大人 510円、常盤木門SAMURAI館/大人 200円 天守閣+常盤木門SAMURAI館の2館共通券/大人 610円 開館時間:9:00 ~ 17:00 (16:30 入館締切) 休 館 日 :12月31日 ~ 1月1日・12月第2水曜日 (天守閣のみ) ー 続く ー
2026.03.26
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ブログアップが遅れましたが、2月初旬にネットで小田原城跡の280本のウメが見頃であるとのことで訪れた。あわせて天守閣への登城が数十年前であったので、午前中はリハビリに行き早めの昼食をとり電車で出かけた。2月6日(金) 11:35いつもの駐輪場へ愛車のリンちゃんを預け茅ヶ崎駅へ。駐輪場は現在は無料。今日はカメラに「UVフィルター」を装着したので青空が映えない。割烹寿司魚重所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町3-24茅ヶ崎駅北口から徒歩数分にある老舗寿司店で、以前、”平塚から茅ヶ崎を歩くツアー”で昼食をとった所である。店先には、2月6日(金) ランチメニュー値段は2年前と同額であった。後日、訪れた”割烹寿司魚重”の店内。昼食をとるため息子夫婦と12時半ごろ訪れたが、店内は満席で約20分待ちであった。座敷席(椅子席もあり)、カウンター席とあった。”一口カツとあら煮定食”をオーダーした。税込1,400円。みそ汁にも魚のあらが入っており、ライスはお代わり自由であった。店先に「夜の部は予約のみ」との貼り出しがあった。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキワットマンBLiX茅ヶ崎店ペデストリアンデッキの茅ヶ崎駅北口大きな横断幕に、「SHONAN UNITED BG 2/20(金)18:30、2/21(土)15:00、4/11(土)15:00、4/12(日)14:00 会場 茅ヶ崎市総合体育館」と。JR茅ヶ崎駅改札口茅ヶ崎駅での改札はここ一カ所のみである。茅ヶ崎駅は3本のホームがあり、北側の1~4番ホームを見る。相模線の1、2番ホームのこの石は烏帽子岩に似ているが。説明板の字が一部消えていたが「開業90周年記念 烏帽子岩モニュメント」と。JR小田原駅小田原駅に隣接する伊豆箱根鉄道大雄山線で「大雄山線道了尊方面電車のりば」と。沿線には富士写真フイルムの工場がある。12:25ホームから3階の改札口へ。右上の壁には「相州小田原停車場」の写真が貼られていた。駅前には多くの乗り合いタクシーであろうか勢ぞろいしている。東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川 絵 師:歌川広重 制作年:天保4年(1833)頃 版 元:竹内孫八 判 型:大判錦絵 所 蔵:斎藤文夫コレクション色彩豊かな山肌の箱根連山。小田原城の城郭と宿場の家並を背景に、酒匂川が流れゆく。この川の往来は、川越し人足が旅人や荷物を運ぶ徒渡しでおこない、旅人が一人で川を越えることはできなかった。人足がかつぐ輦台には駕籠ごと載せられ、侍川越とよばれる経験豊富な人足が先導する。また、肩車で川を渡る旅人も見える。穏やかな流れのようであるが、河川敷には蛇籠をおいて洪水に備えている。天井から大きな小田原提灯が吊るされている。改札を出て振り返る。■ JR線近距離きっぷ運賃表 ■ 茅ヶ崎から510円小田急線乗り換え方向。コンコースの上には小田原だけにいろんな魚のイラストが掲げられていた。観光案内所の前に立つ風魔忍者(ふうまにんじゃ)。3階の小田原駅東口ステンドグラス東海道線のりば(上野東京ライン・湘南新宿ライン)改札口を振り返る。海鮮茶屋 魚國所在地:神奈川県小田原市栄町1丁目1-9 ラスカ小田原 2階産直鮮魚と地酒にこだわる気取らない海鮮料理店で、天ぷらやご飯ものも提供している。人気店でいつも順番待ちの人が店先に並んでいる。店先にメニュー海鮮茶屋のお膳料理 刺身盛合せ御膳 2250縁(税込)、魚國の海鮮丼 2150縁 他多くのメニューがあったが、金額は2000~3500縁店先には順番待ちのお客さんが並んでいたが高齢者が多かった。東口にある2階のペデストリアンデッキから南側にある小田原城を見る。天守閣をズームアップ。出かけに嫁さんから「駅前にあんパンの有名店があるのでお土産に」と言われていたのでGoogleマップで調べ訪れた。駅前東通り商店街守谷製パン店所在地:神奈川県小田原市栄町2丁目2-2小田原では歴史ある老舗のパン屋さんで”あんパン”は餡が多く美味しいと。店先にカラーコーンがあり一瞬定休日かと思ったが入口は路地側であった。店内に入ると、店員の方が5人ほどおられ手際よく対応しておられた。お土産にあんパンを3個、途中で食べるために”甘食”も2個オーダーした。帰宅後、嫁さんに渡したが以前に比べ小さくなったと!店を出て小田原駅側のアーチには「HIGASHIDORI」。横断幕には「小田原駅前東通り商店街」と。おいしいもの横丁ガイドマップ小田原駅前東通り商店街マップにはいろんな飲食店が記載されていた。東口バスのりば案内バスのりばへは、 ルート① 地下街を通ってご利用下さい。 ルート② エレベーター経由で2階デッキを通ってご利用下さい。小田原市全域案内図バス乗り場箱根方面のバスが発着する。小田原駅東口から南方向に目的地の小田原城がある。2本の石碑が立っていた。手前の石碑には「小田原高等学校 発祥之地」。明治三十三年(1900)神奈川県第二中学校設置が認可され、翌年ここ新蔵・揚土の地に開校した。その後県立第二中学校、県立小田原中学校と改称。大正三年、東海道線小田原駅開設のため、北条五代の小田原城趾であり宮内省の御料地であった八幡山の現在地に移転。昭和二十三年県立小田原高等学校となった。二本目には「あげつち(揚土)」。地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった、谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されていた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。バスロータリーを振り返る。ミナカ小田原入口万葉倶楽部が手がける商業施設で小田原駅に直結している。江戸っぽい外観が楽しい雰囲気で、レストラン、食べ歩きにむいたお店や、お土産屋さん等色々あるので館内散策するだけでも楽しいと。12:50ミナカ小田原前に出店していた「小田原みかん詰め放題」。1回300円と安かったが荷物になるのでスルーした。 ー 続く ー
2026.03.25
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伊勢原市の大山阿夫利神社の麓にある「大山新道おかめ桜並木」を楽しむ。3月14日(土) 13:40道路脇の広場に車を停めおかめ桜を観桜。県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)沿いに植えられている桜並木である。木によって差がありこの木は満開前であったか。イギリスから里帰りしたおかめ桜である。大山ケーブル駅方向へ少し上ってみた。伊勢原カントリークラブ入口を振り返る。昨年はここで引き返した。道路を横切り伊勢原カントリークラブのコースを見る。川は鈴川。未確認だが相模湾が見えていたか。ズームアップ。再度、伊勢原カントリークラブコースを見る。大山ケーブル駅方向の桜並木。スマホで「大山新道おかめ桜並木」が紹介されたので訪れる車が多く駐車していた。Googleマップで「大山新道おかめ桜並木」を検索するともう少し先であったので上ることに。伊勢原カントリークラブの入口から県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)を上ると、桜並木が続いていたので脇道へ入り停車。大山ケーブル駅方向の桜並木を見る。桜並木はおかめ桜。道路脇のおかめ桜と菜の花。大山バイパスへ出て並木を望むがまだ若木が多い感じがした。道路脇の看板に「大山小学校 学校農園」と。県道611号線(大山坂戸線=大山バイパス)を上り大山への入口にある、左側に「清水屋みやげ店」、右側に「かどや」。所在地:神奈川県伊勢原市大山295、296左側に広場があり、公衆トイレもあった。清水屋は夏場にはかき氷を販売し人気であると。更に坂道を登ると「丹沢大山国定公園」のゲートが建っていた。このゲートを潜るのは久しぶりであるが何度目になるか。県道611号線(大山坂戸線)を上り、大山旧参道入口。今回はここでUターンした。大山旧参道入口かつて江戸時代から大山詣で人々が渡った加寿美橋(何代目か)である。橋の袂に立つ看板案内板に「P 神社駐車場 この橋から約160㍍」と。この先から急な坂道を登り大山ケーブル駅へ。今回はここで引き返したが、機会があればこの先に駐車(無料)して散策したいものだが。大山旧参道入口の向かい側に鎮座していた「お稲荷さん」。交通量が多く、向かい側からズームアップ。大山旧参道入口から下り、石碑があったので道路脇へ駐車。御柱 (おんばしら)この御柱は、第五十六回を迎えた「伊勢原観光道灌まつり」において、姉妹都市 長野県茅野市のご協力による「御柱里曳き」に使用されたもので、 最大直径 一・○五メートル 長 さ 十三・五メートル 重 さ 四トン のモミの木です。 令和五年十月吉日 第五十六回伊勢原観光 道灌まつり実行委員会 協力 阿夫利陸2メートル四方の中に石碑が置かれていた。中央の石碑に「大山参道入口」と。最大直径 1.05m、長さ 13.5mの御柱。傍に駐車場がなかったので道路脇へ駐車した。車窓からの”大山新道おかめ桜並木”。大山バイパスの両側に植栽されているおかめ桜であった。先程撮影した伊勢原カントリークラブ入口には数台の車が駐車していた。伊勢原カントリークラブ入口から帰路につき県道603号線(上粕屋厚木線)を走る。前方は新東名高架橋。この辺りには「神成松遺跡」がありいまだ発掘調査が行われている。道路標識「新東名 3⃣ 伊勢原大山」。伊勢原へ来たら「寿雀」で卵を購入するのが恒例になっているのでこの後立ち寄ることに。14:20寿雀 直売所所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋47兎に角濃厚な卵であると。土日休日は開店前から行列となることが多いが、サイズを選ばなければ午後でも並ばずに購入できると。この時間帯は待つこともなくLサイズ(約500円)を2パック購入できた。営業時間 午前9:00 ~ 午後4:00定休日・・・第4日曜日・元旦しかし店先で撮影しようとして1パックを落とし7個が割れ2個は使用不可能に。落とした卵の後片付けは店の方が行うとのことでお願いし帰宅した。自宅には15時過ぎに到着した。急遽訪れた早咲きの「春めき桜」と「おかめ桜」であった。機会があれば大山の麓を散策したいものだが。 END
2026.03.24
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石庄庵と周辺の春めき桜を愛でる。3月14日(土) 12:45手打ちそば石庄庵所在地:神奈川県秦野市寺山1580 ☎ 050-5869-7909 (予約・問い合わせ)。蕎麦の自家栽培や地元野菜の地産地消を継承しながら、秦野の財産、丹沢の緑と名水を大切に考えているスローフード蕎麦店。全国約4万軒と言われるそば店の中で、つねにベスト100店に選ばれる、神奈川を代表する手打ち蕎麦店である。今回は1時間は待つようでスルーし次回の楽しみとした。予約可と。(以下3枚の写真はネットから)お品書き石庄庵そば懐石(右上) 3,500円税込み 新聞、そば専門誌、TVなどで広くご紹介頂いている一番人気のおしなです。天ぷら蕎麦(上) 2,100円税込、下は”せいろと天ぷらセット”か。第2駐車場から店舗を見る。バリアフリー化されていないので高齢者、障害者用の駐車場が店舗入口近くにある。多くの人が順番を待っておられた。満開の春めき桜を見上げる。第1駐車場を見下ろす。第1駐車場に隣接して西側にある「石彫の小径」。石彫の小径 施工協力者順不同石庄庵中丸の里山を守る会 特別警備保障 中野建設 秋山石材 亀川石材 関野 勇井上 進 奥津晶男 はだの南レディスクリニック 防犯カメラ設置 特別警備保障石碑に、 西巻一彦 石彫のある 小径 ー 石庄庵 ー 西巻一彦 プロフィール 1959 神奈川県横須賀市生まれ ・ ・ 2018 石庄庵に「西巻一彦 石彫のある小径」開園後方の高台に、待ち合い休憩テラスがある。園内には石彫作品が多数あったが説明板を見つけれず詳細は不明。園内には四阿、椅子席もあり休憩できるようであった。隣の第1駐車場に咲く春めき桜。この辺りには春めき桜以外の桜が植栽されていた。高台に店舗がありテラス席からそばを食べながらここを見下ろせる。ネットの中には何が植えられていたか。ワサビ畑かと思ったが。再度、春めき桜並木通りへ出る。バイク、自転車で訪れる人もいたがまだメジャーでない場所であるので人が少ない。まだ石庄庵へそばを食べにくる客筋がメインであるか。駐車場へ車を停め桜並木の上流側へ移動。満開の春めき桜であるが、最大の特徴である「香りの強さ」は感じられなかった。石庄庵の杜を望む。四季折々で違った光景になるのであろう。駐車場の手前が蕎麦畑になるのであろうか。ご夫婦であったようでまだ奥さんとペットを被写体に撮影しておられた。この畑には秋には白いそばの花が咲くのであろう。下流側の駿河橋上へ戻る。13:00この時間帯には駐車場は空いていたが、店舗前には順番待ちの人が多くおられた。春めき桜を約40分ほどの散策で楽しんだ。この後上流側へ上り帰路についたが次の目的地を、「大山新道おかめ桜並木」とした。石庄庵から狭いくねくねとした道を走り県道70号線へ向かった。道路脇に「手打ちそば 石庄庵 ➡ 500m」の案内板、道路標識、道祖神があった。道路標識に、「不動越 高取山 大山 ⇨」、下には「⇦ バス停 才戸入口」と。小径脇に置かれていた道祖神であったか。13:10石庄庵から県道70号線(秦野清川線)へ戻り坂を下り、国道246号の名古木交差点へ。ここを左折して国道246号を伊勢原方面へ走った。国道沿いのガソリンスタンドのレギュラー値段は187円/ℓとあった。国道246号は渋滞が予想されたがスムーズに走れ、昨年4月に伊勢原地区を動き回ったのでこの辺りの地理感があり坪ノ内交差点を左折し裏道を走った。県立いせはら塔の山緑地公園所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1804-1ここも何度か訪れており今回はトイレ休憩で立ち寄った。いせはら塔の山緑地公園パークセンター山の斜面に寒緋桜が植えられており満開に近かった。まだ若木の寒緋桜であった。ファミリーマート 伊勢原三ノ宮店所在地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1101-1石庄庵で手打ちそばを食べれなかったのでコンビニに立ち寄った。左側は東名高速道路。当店は東名高速の側道の三宮交差点脇にあり、伊勢原の渋滞区間を回避する裏道にある。近くに「三之宮比々多神社」があり昨年数回参拝し立ち寄っているコンビニである。窓ガラスに、「ファミチキ or レッド とおむすびセットで買うと 100円引き!! 3/23(月) まで」と。ファミチキの意味が分からず店員に聞くと、ファミリーマートが2006年から販売し、同ブランドの主力商品となっているフライドチキンであると。また、ファミリーマートはファミチキを自らの「看板商品」と位置づけており、世間一般からもファミリーマートを代表する商品と受け止められていると。購入は、おにぎり2個とファミチキをオーダーしたが暖かくジューシーで美味しかった。また、おにぎりも値上がりした分大きかった。ファミリーマートから県道612号線(上粕屋南金目線)を北上、大山バイパス入口へ。前方は、大山入口交差点。左折すると県道611号線の大山バイパスを走り「大山ケーブル駅」へ。目的地の「大山新道おかめ桜並木」は途中にある。大山入口交差点をズームアップ。石碑と石燈籠が立っている。13:40大山入口交差点から大山バイパスを2キロほど走ると桜並木が車窓に見えてきた。左側に「伊勢原カントリークラブ ⇦ 左折」の看板。スマホに「大山新道おかめ桜が満開」とあったので訪れたが、ここは昨年伊勢原の史跡を散策している時訪れた場所であった。その時は木の幹に「おかめ桜」の名札がなかったので桜の名は不明であった。既に満開の時期は過ぎ花びらが散っていた。枝先をズームアップ。 ー 続く ー
2026.03.23
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”手打ちそば石庄庵”周辺の春めき桜へ到着。3月14日(土) 12:20奥から引き返し道路脇に止め桜並木を見下ろす。スマホで紹介されたので桜見物、手打ちそば石庄庵への車が来ていたが桜見物用の駐車場がなかったのが残念。右側は棚田で、まさに里山の風景である。左側を流れる中丸沢沿いに植えられている桜並木である。更に左上には”東京カントリー俱楽部”のコースがある。手打ちそば石庄庵 (いししょうあん)所在地:神奈川県秦野市寺山1580 ☎ 050-5869-7909 (予約・問い合わせ)。最初からこの電話番号でカーナビをセットすべきであった。駐車場を探すが道路脇にはなく、石庄庵の駐車場を利用することにするが満車でしばし待機。ようこそ石庄庵へ訪ねてみたい蕎麦店 全国百選入選店蕎麦の自家栽培や地元野菜の地産地消を継承しながら、秦野の財産、丹沢の緑と名水を大切に考えているスローフード蕎麦店。全国約4万軒と言われるそば店の中で、つねにベスト100店に選ばれる、神奈川を代表する手打ち蕎麦店である。営業中 ● 午前11時30分より ● 休憩時間 午後3時00分~午後5時 ● ラストオーダー午後7時 定休日は毎週月曜日 祭日のみ営業 翌日振替え 丹沢里山の移り行く四季をお楽しみ下さい 春・・・・多品種の桜、眩しい新緑 夏・・・・棚田、ホタル、紫陽花 秋・・・・彼岸花、秋そばの花 初冬・・・里山の紅葉 冬・・・・空気が凛としています★ そばの里会員募集 ★ ● 竹炭焼き会 ● お米作り田植え ● ホタルを育てる会 ● そばの自家栽培 ● 手打ちそば教室 ● 陶芸教室 高齢者、障害者のお客様は、店舗入口の第2駐車場をご利用下さいませ。満開の春めき桜中丸の里山を守る会 春めき桜植栽地域この地域は2013年神奈川県で15番目の里地里山に指定されています。ふるさとの原風景を残す貴重な棚田や田畑、竹林、源氏蛍の生息地域でもあります。私たち中丸の里山を守る会は上流に桃の木の植栽、下流は早咲き品種の春めき桜の植栽を行い、地域やハイカーさんに花の美しさに感動を与えています。春めき桜は秦野市の桜の名所としても広報されています。又河川の定期的な清掃活動や道路の草刈を行い景観の維持管理をしています。主な活動として植栽の他、田植え、農業、炭焼き、桜祭り等を行い地域と一体に活動しています。この様な活動に興味をお持ちの方、募集中です、市内外問いません。 連絡先 0463-82-1222 石井みんなのふるさと豊かな自然を大切に守りましょう!!石庄庵の駐車場に車を停め、春めき桜の散策開始。満開の春めき桜春めき桜は、南足柄市発祥のサクラの栽培品種。2000年(平成12年)に品種登録された。花形は一重咲きで、開花期は3月中旬。最大の特徴は香りが強いことで、視覚障害者も香りを楽しめる桜として知られる。春めき桜は植物学的には、カンヒザクラとシナミザクラの交雑種であると考えられている。最大の特徴は、その圧倒的な「香りの強さ」にあると。だが私の鼻には届かない。中丸沢に架かる駿河橋蕎麦店の石庄庵へ上ってきた道を振り返る、この先にも石庄庵の駐車場があった。この橋が春めき桜並木の入口にあたる。橋の欄干に「駿河橋」と。この駿河橋の袂が春めき桜の起点になる。橋を渡ると200メートル程の春めき桜の並木が見える。駿河橋の下の斜面にも植栽されており桜の絨毯の如くに咲いていた。手打ちそば石庄庵の駐車場。ちょうど昼時の12時半で駐車場は満車状態であった。管理する人も不在で各自で駐車。駐車場入口前から上流側を望む。まさに満開の春めき桜であった。中丸沢の擁壁に「工事概要」。道路と中丸沢の間に植栽された春めき桜。手前には近年に植栽された桜もあり、幹には植栽者の名札があった。南足柄市で咲く春めき桜はもう少し赤みを帯びている感があるが。一般的に桜というと4月開花のソメイヨシノ「新入生を迎える桜」だが、『春めき桜』は3月に開花する「卒業生を送る桜」として愛されていると。後方の山には”東京カントリー俱楽部”のコースのネットが張られていた。桜の下では白いドレスを着た女性が犬を抱いて写真撮影。道路の左側は棚田であるので田植え後に再度訪れてみたいものだ。春めき桜の花は一重咲きで、淡紫ピンクに紫ピンクのぼかしが入ったような色をしていると。ズームアップ。青空に映える春めき桜石庄庵の駐車場を見る。手打ちそば石庄庵の店舗は前方の杜の中に建っている。黄色の花は菜の花ではなかったが。駐車場から店舗への入口に、毎週月曜定休日営業時間 (昼) 午前11時30分~午後3時迄 準備中 午後3時~午後5時迄 (夜営業)午後5時~午後8時迄 午後7時迄にご入店お願い致します 午後5時以降は電話ご予約をお願い致します タクシー手配は最終午後8時です 定休日 毎週月曜日、祭日のみ営業翌日振替休日以下は新聞の切り抜きから、寺山の春めき桜が開花 夜はライトアップも寺山の中丸沢の川沿いに植えられている春めき桜が開花した。この桜は「中丸の里山を守る会」(石井貞男会長)の会員が毎年のように植樹を続けてきたもの。川沿いを中心にその数はおよそ90本にまで及んでいる。春めき桜は、南足柄市で開発された早咲き種。ソメイヨシノより一足早く咲き、春の雰囲気が楽しめる。石井会長は「寺山の素晴らしい里地里山の自然環境を、地域の皆さんで楽しみながら保全している。今年も咲きだしたかれんな花を楽しみに多くの方に訪れて欲しい」と話す。また、夜はライトアップも行われている。先程から「・・さん何名様どうぞ」の声が聞こえていた。駐車場から階段を上り店舗へ行くが待ち時間があることを感じた。前方には「屋根付きの待ち合い休憩テラス」が設けられていた。”待ち合い休憩テラス”に貼られていた感謝状、神奈川新聞の記事他。訪ねてみたい蕎麦店全国百選 丹沢の懐 小蓑毛そばの里 手打ちそば 石庄庵 石庄庵の移り行く四季折々をお蕎麦とご一緒にお楽しみくださいませ● 1月、2月雪が降ると里山は幻想的な風景になります。● 3月~5月上旬迄石庄庵敷地内及び河川敷には約130本を超える桜の競演 (春めき桜、染井吉野桜、大島桜、枝垂れ桜、八重桜 桜切りそばの材料)● 5月~6月新緑と共に蛍池付近や河川敷で源氏蛍の観賞ができます (テラス席はご予約を)。● 7月~9月秦野の軽井沢石庄庵は標高230mで市街地とは外気が3度低いので涼しいですよ (8月のお盆には古代蓮も見頃です)● 10月第一駐車場隣の蕎麦畑にて可憐な白いそばの花が観賞出来ます。● 10月中旬~12月下旬駐車場隣の彫刻公園で10月桜も観賞出来ます。● 11月中旬~12月末は敷地内及び里山の紅葉が奇麗ですよ■ 手打ちそば 石庄庵の営業時間 午前11時30分より午後8時迄 午後5時以降はご予約をお願い致します。 休憩時間 午後3時30分~午後5時 午後5時以降ご予約お客様のお車配車は最終午後9時とさせて頂きます。 毎週月曜日定休 祭日のみ営業翌日振替休日石庄庵ドローン空撮 2024年 撮影者 神奈川新聞秦野支局長浅川氏待ち合い休憩テラスから店舗方向を見る。正面の三角屋根が店舗 (赤色)。第1駐車場からは階段がありバリアフリー化されていないが、高齢者用には店舗傍に第2駐車場が設けられている (右上)。水場にはフキの葉が育ち立札に、「秦野の水は環境省指定の『名水百選』」と。右側の庭に小さなな祠があった。立札に「隠れそば店 石庄庵の縁結び蕎麦」と記されていた。12:45矢張り店舗の前には席があり順番待ちの方が十数名おられた。待ち時間を尋ねなかったが今回は諦めることに。 ー 続く ー
2026.03.22
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スマホ情報で「秦野市寺山の春めき桜が見頃」とあったので急遽愛車のノートで出かけた。カーナビで住所を「秦野市寺山86-2」で設定するがヒットせず「寺山865-2」とでて仕方なくとりあえず出発した。近くに蕎麦屋があったのでそれにすべきであった。3月14日(土) 11:00急遽出かけることにしたので「昼食は不要と伝え」自宅を11時前に出発、県道44号線を西へ。いつも訪れる西久保橋の上には数人のカメラマンがこの光景を撮影に来ていた。寒川町へ入る。寒川南インタから高速道路を使用するかどうか迷ったが、到着時間を考え圏央道東名利用へ。東名高速道路の渋滞情報「秦野中井ー足柄SA 断続渋滞17km 80分」と。圏央道寒川南インタ圏央道の西側には富士の姿が見えていた。ズームアップ。圏央道の海老名南JCTから新東名高速道路へ入る。この辺りからの富士の全景は丹沢の山並みで裾野部分が隠れている。新東名厚木南インタ厚木南インタをズームアップ。右には大山が聳え、正面に富士と絶景である。願わくば富士の裾野が見れれば最高だが。伊勢原JCTの後方に大山が聳える。右側は新東名高速道路の高架橋。現在の新東名は「新秦野 ⇦⇨ 新御殿場インタ」間の高松トンネルの完成遅れで全線開通が遅れている。カーナビの案内で東名秦野中井インタを出た。国道246号の名古木交差点。カーナビの案内はこの交差点を横切り県道70号線(秦野清川線)をヤビツ峠方面へ。交差点脇にガソリンスタンドがあったが「レギュラー 179円/ℓ」と高騰していた。折角値下がりしたガソリン価格も、米国のイランへの武力行為で高騰。トランプ大統領の指示ひとつでガソリン価格高騰、株価下落と日本経済は揺さぶられている。カーナビのセットが曖昧であったので愛車は山中の狭い道路へと入ったので引き返した。11:55秦野市 東公民館所在地:神奈川県秦野市東田原1538-3カーナビのセットが出来ず館内の受付で尋ねた。スマホで探していただき「県道70号線へ戻り、道路脇に”手打ちそば石庄庵”の案内があるのでそれを目指してください」と親切に教えていただいた。東公民館前から富士が見えていたので公民館前の道路へ。観光案内標識があり、「関東ふれあいの道 ⇦ 源実朝公御首塚、下大槻 ⇨」と。東公民館前交差点からの富士。同交差点から富士をズームアップ。この先約1キロに”源実朝公御首塚”があるが今回は以前行っているのでスルーした。興味のある方は以前行った時のブログ「秦野にある源実朝公の首塚」👈をクリック願います。公民館入口に貼られていた「歴史と文化の里・東みちご案内」。 ②ヤビツ峠レストハウス ⑭源実朝公御首塚 ③菜の花台展望台 ⑮波多野金塊植物苑 ⑤大日堂 ⑯田原ふるさと公園 ⑨緑水庵 ㉒名古木の棚田 (北・南)東地区まちづくり運動実施委員会 令和4年11月16日 設置案内板には記載されていなかったが今日の目的地は「★」辺り。所要距離は約2キロほどであったか。東公民館はコミュニティセンターで地域の女性グループが集まっておられた。ブロンズ像は平成3年11月23日に設置された「慈愛 井上久照作」と。ここは旧東秦野村の役場跡で、駐車場には多くの車が駐車していた。公民館から教えていただいた県道70号線(秦野清川線)へ戻りヤビツ峠方面へ上る。電柱には「手打ちそば石庄庵」の案内板が多くついていた。県道70号線のバス停脇に石碑群があり駐車。バス停には「神奈中 東中学校前」と。後方には「東京カントリー俱楽部 ➦ 右折」の看板。右側の岩に石板がはめつけられ「清水湧水池跡」と。ふるさと秦野 景観100選 清水湧水池跡 (記念碑)新編相模國風土紀稿(1841年)に「此所清水湧出す 田間の用水として 又民家の用水ともなす」と記されている。かつてこのあたりに四カ所の湧水池があった。この地を「清水」と呼ぶのはこの湧水による。縄文中期から、この地で生活をしてきた先人たちの命の水でもあったこれらの湧水地は、2004年におこなわれた県道改修工事を最後に、その姿をすべて消し、東小学校・東中学校の校歌の歌詞にその影を残すのみとなった。人は歌うとき、おのずとその情景を思い浮かべる。この地に住む子供たちが、思い浮かべる「清水」として、先に私たちは記念の碑を建立した。このたび、秦野市は市制五○周年を記念して『ふるさと秦野景観100選』を選定したが、「清水湧水池跡」がその一景として選ばれた。私たちは、そのことを喜びとし、この案内板を設置した。 二○○七年 一月吉日 清水自治会左側には「久奈斗神(道・境の神)」「萬霊塔」と刻まれた石塔。県道70号線から斜め右方向の県道701号線(大山秦野線)へ入り、工事中で突き当たる。道路脇に「手打ちそば石庄庵」の案内板があり右方向へ。石柱に文字が刻まれていたが確認できなかった。左側にも壊れた石碑があった。右折すると直ぐにあった「文字道祖神」。文字道祖神と地蔵が数体集められていた。新東名の高取山トンネル出口(西側)上を越え、東京カントリー倶楽部の西側の谷戸へ下る。”手打ちそば石庄庵”の駐車場。中丸沢に架かる駿河橋を渡ると「石庄庵 P」の看板が。車窓には春めき桜の並木が満開であった。道路脇に駐車場がなかったので通り抜けた。坂を上り奥で引き返したが中丸沢の上流にピンクの花が咲いていた。”中丸の里山を守る会”が上流に桃の木の植栽、下流は早咲き品種の春めき桜の植栽したと。花桃をズームアップ。12:20春めき桜並木の最上流部から見下ろす。右側の広場は農耕地で駐車場としての整備は行われていなかった。 ー 続く ー
2026.03.21
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログ最終です。3月8日(日) 9:45この日は車で買い物に出かけたが西の空が晴れていたので小出川沿いに遠回りして撮影。新湘南バイパスの高架下から小出川の河津桜を望む、予想どうり富士が見えていた。石碑には「旧跡 懐島山 (ふところじまやま)」。小出川の河津桜まつりも3月8日まで。富士をズームアップ。茅ヶ崎JCTから延びる圏央道の高架。後方には大山が聳える。小出川の東側も市街化調整区域で田んぼが広がっている。箱根の山並み、金時山、富士を追う。新湘南バイパスの料金所辺りは高所になるので最高では。ダイヤモンド富士も絶好のポイントであろうか。愛車を西久保橋の東側下に駐車していつもの定点ポイントへ上がる。今年も多いに楽しませてくれた絶景である。西久保橋から下流右岸に咲く桜並木である。10:00今年も2月には下流の梅並木、3月にはここ小出川の河津桜と多いに楽しんだのであった。また、ここを訪れた時、下流の萩園橋までの両岸を歩く散歩道にもなった。また来年もアップすることを目指したいが・・・。ここからは嫁さんが昨年ネット販売で苗を購入して育てた庭の花をアップします。3月14日(土) 撮影玄関先に咲くパンジー毎日の水やり、花がら摘みと大変だがおかげで奇麗に咲いている。パンジー、ストック他の苗を購入して寄せ植えした。パンジーパンジーとの寄せ植え。白菜の花が咲いた。これからは脇芽を摘み食材に。パンジー、アリッサム地植えしたパンジー、アリッサムパンジーいろんな寄せ植えをしているが赤系統がないのが私にとっては不満であるが。嫁さんの好みは、白、青、黄色系統であったか、いつも意見が合わず。鉢植えのクリスマスローズ地植えのクリスマスローズをローアングルから追う。白の一重のクリスマスローズ地植えしたクリスマスローズの八重低いところに咲くので一重か八重か分からない。嫁さんに言われローアングルから撮影。白の八重もあった。ズームアップ。朝陽を浴びるクリスマスローズを撮影。オダマキ種が飛び散り咲いたオダマキである。リュウキンカも種が飛び散りいたるところで咲き乱れている。ワスレナグサ地植えのヒヤシンスも毎年咲く。ハナニラ多年草で毎年咲いてくれる。オキザリス球根性の多年草で繁殖力が強くカタバミの仲間である。ハクモクレン我が部屋から見え、昨年大胆に剪定したハクモクレンも2月下旬に咲き始めたが終盤に。これからは散った花びらの清掃が大変である。これからはサクラ前線が北上するがどこまで追いかけれるか。 END
2026.03.20
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログです。この日はその二日目で、西の空が青空であったので再度訪れた。3月5日(水) 9:30予想どうり車の車窓から富士山が全景をみせていた。ようやく富士山が全景をみせてくれた。この先で左折して左側手前に愛車をとめ散策した。いつもと同じように西久保橋上から下流側を望む。昨日は風が強かったがこの日は穏やかな日であった。まだ時間が早かったので訪れている人は少なかった。富士と箱根の山並みが良く見えていた。今年は富士の積雪は南側の静岡県側が多いようだ。西久保橋を渡り東側へ移動。ズームアップ。左側に金時山、倉庫の右側に矢倉岳、富士山と並ぶ。私以外にも数人の方がこの光景を撮影に訪れておられた。いつもの定点ポイントから撮影。対岸から撮影。寒緋桜越しの富士山この日も小出川を萩園橋まで下ることに。右岸の桜並木の上には富士の姿が。水鏡も映える。鉄塔も映える。途中で上流側を振り返る。桜の間に茅ヶ崎市環境事業センターの煙突。富士も奇麗に見えていた。富士をズームアップ。メイン会場近くにはキッチンカーが出店していた。対岸を幼児集団が”雀の学校”の如く賑やかに上ってきて集合していた。先生から集合がかかるとその途端に雀たちは静かに整列していた。キッチンカーは2台出店、農道には多くの車が止まっていた。幼児たちをズームアップ。”ファーム29萩園農園”には温室が多く建ち、電線が景観を失っている。下流側の萩園橋。ここからも富士が見えていた。天気が良く子供たちの集団が訪れていた。萩園橋から上流側へ上る。この日は何故か幟旗が立っていなかった。桜並木の全景親子連れのグループが多く訪れていた。メイン会場近くには多くの自転車が駐輪していた。キッチンカーは2店出店、車の上には富士の姿も見えていた。新しく建てられたESRの倉庫が景観を損なっている。既に散り始めた河津桜の枝も。車を西久保橋の西側に止めているので更に上流へ進む。数名のライダーが遊歩道に乗り入れ撮影に興じていた。ヘルメットを被っていたので最初男性かと思ったが女性であった。河津桜をバックに愛車を撮影。満開の河津桜、菜の花。女性ライダーは3名であった。話しかけると、撮影した写真はインスタ映えの写真に投稿すると。天気が良く穏やかであったので幼児連れのグループが多く訪れていた。最上流部から振り返る。ズームアップ。10:30平和な日本を象徴する光景である。約1時間の散策で後にした。 ー 続く ー
2026.03.19
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天気が良く河津桜と富士山のコラボを求め撮影に出かけた3日間のブログです。3月4日(水) 11:25萩園橋から上流側を望む。堤にも菜の花急斜面を下り河川敷から見上げる。北からの強風に幟旗がはためいていた。水際にも遊歩道が欲しいものだが。階段がなく下りるのも大変であった。この日は風が強く幟旗がはためいていた。今年も多いに楽しんだ小出川の河津桜。メイン会場の標本木今年のソメイヨシノの開花は3月20日以降には咲くとの情報があり今年はどこへ行こうかと。続日本100名城とのコラボで行こうかと。桜の幹に名札「春めき桜」。春めき桜の蕾も赤く染まり開花間際に。おかめ桜も咲いていた。この時期、本場のJR根府川駅周辺も桜まつりが開催されている。可憐なおかめ桜をズームアップ。富士をバックに。新しく新設された倉庫が邪魔に。河津桜と菜の花のコラボ。菜の花の香りが漂う。幹に「玉縄桜」の名札。玉縄桜もいつのまにか満開に。青空に映える満開の玉縄桜。玉縄桜をズームアップ。河津桜と寒緋桜。二本の寒緋桜が満開に。満開の寒緋桜ズームアップ。昨夜降った水溜りに花びらが。一部葉桜になった河津桜もあった。ズームアップ。最上流部から振り返る。この景観を今年も何度撮影したか。今年も楽しませてくれた河津桜である。平日であったがこの時間帯には多くの人が訪れて来た。11:55最上流部の河津桜の下には休憩所があり、”花とともにくらす会”のメンバーが休憩。 ー 続く ー
2026.03.18
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