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NHKBSの「にっぽん縦断こころ旅」で故火野正平さんから引き継いだ、女優の田中美佐子さんが、「2025年秋の青森県」でここ「奥津軽いまべつ駅」を訪れ10月18日に放送された。10月22日(水) 16:45史跡大平山元遺跡から県道14号線(津軽中山ライン)を北上して夕闇の奥津軽いまべつ駅へ。奥津軽いまべつ駅に隣接して北側に津軽二股駅、道の駅、駐車場がある。JR津軽線津軽二股駅は駅自体は待合室もない1本ホームだが、地元産を販売する道の駅が併設されていて食事も可能であると。奥津軽いまべつ駅所在地:青森県東津軽郡今別町大川平清川91-1今別町のシンボルである青函トンネルをゲート風にデザインし、そのガラス壁面から津軽の自然のイメージを発信し、地元の誇りと愛着が感じられるような駅としています。シンボリックなアーチを冠した駅入口と奥に延びる連絡通路、背後の駅舎を結びつけて、青函トンネルとその先に広がる津軽海峡、更に北海道の北の大地のイメージをデザインしています。最上階ではアーチ製の開口部から切り取られた風景から、トンネルと豊かな自然を感じさせます。NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」で故火野正平から引き継いだ田中美佐子さんもこの秋2025シリーズでこの駅を出発していた(放送は10月13日 1317日目)。彼女は新青森駅から新幹線でこの地へ、この後は約13kmをチャリオ君で「高野崎」へ。出入口にはタクシーが待機していたが、どなたかが予約していたのであろう。青函トンネル入り口の町 今別町へようこそ町内のいろんな観光地が記されていた。NHKのこころ旅でも、ここを起点に田中美佐子さんが「高野崎キャンプ場」を目指した。はやぶさ10号 上り1番列車 青函トンネル通過(H.28.3.29)1階のエレベーターホールに、JR奥津軽いまべつ駅 駅舎開放時間 6:00 ➧ 23:00 みどりの窓口 7:00 ➧ 17:10 ※一時閉鎖時間 11:00~12:10、15:00~16:00奥津軽いまべつ駅 案内図エレベーターで上ると、長い連絡通路があり「新幹線 改札口」と。連絡通路から南側の青森方面を望む。左側は新幹線のホーム建屋、同レベルの外側は貨物列車用路線であろうか。ズームアップ。いろんな線路があったが、新幹線の保線用もあったのか。右側の車両は「軌道モータカー」であったか。同場所から北側の北海道方面を望む。左側は「道の駅 いまべつ 半島ぷらざ アスクル」、その右側は「津軽二股駅ホーム」。新幹線改札口左側の待合室には人の気配がしなかった。時間は、16:55出発表示板に、 上り 19:27 東京 はやぶさ42号 下り 17:01 新函館北斗 はやぶさ23号 18:58 新函館北斗 はやぶさ29号後6分で下りが来るので、入場券を購入してホームへ行くべきであったが。上下線ともに一日7列車が停車するようだが駅員は何名で対応しているのか。連絡通路にいろんなパネルが貼られていた。新幹線を近くでみませんか? 新幹線ホームへのご来場は、入場券をお買い求めください。 入場券は、みどりの窓口・発券機にてお買い求めできます。上り・下りの新幹線を同時に見ることができる時間帯H5系(北海道新幹線車両)を見ることができる時間レール削正車(さくせいしゃ)(スペノ)新幹線がレールの上を走行するとレールに細かい傷がつくんだ。その傷を取り除くためにスペノが活躍するぞ!レール削正車がレールの表面を削ることでレールのキズを予防・修理をしているんだ!新幹線の乗り心地の良さや静かな音で運転できるのはレール削正車のおかげなんだ!軌道モータカー新幹線用(軌間1435mm)と在来線用(軌間1067mm)の2タイプが存在するよ。三線軌条に対応するため奥津軽いまべつ駅の保守基地にはどちらとも配置されているよ! ※三線軌条とは・・・軌間の異なる車両を運転するため片側を共用、残り2本をそれぞ れの軌間に合わせたもの。夏期は、貨車(トロ)を連結し、レール等の重量物の運搬を行うんだ!冬期は除雪装置を装着し除雪に使用するぞ。ロータリー装置という除雪機を取り付けて雪を飛ばし除雪するぞ!飛ばす場所がないときには雪捨て貨車で別の場所に運ぶこともあるよ!マルチメンテナンスワゴン(MMW)新幹線は25000ボルトの(家の電気の250倍)強い電気がないと動けないんだ!その電力がちゃんと供給できるか確認する大切な車両だよ。新幹線には電気と電気を送る架線が必ず必要になります。架線にはパンタグラフと直接触れる「トロリ線」、「トロリ線」を真っすぐにする「吊架線」といった電線や「トロリ線」と「吊架線」をつなぐ「ハンガ」、柱と架線を接続する「碍子」などのさまざまな部品があります。それらがしっかりと設置されているかを点検し修理するために役立つ車両なんだ!架線を点検するために、作業員は地上5メートル(家の2階ぐらい)の高さで点検するぞ。点検箇所ではまず架線に電気が流れていないことを確認します。電気が流れている架線の2メートル以内に近づくと感電しちゃうんだ!安全を守るためにとても危険な仕事を作業員の人たちはしているんだ!レール探傷車(N-RIC)長さが11メートルで(鎌倉大仏の高さとほぼ同じ)、重さが32トンの(乗用車32台分)、大きな大きな車両。新レールにキズやヒビがないことを超音波で確認するお医者さんのような車両。新幹線用の車両は年に2回、異常がないか検査するために走行するんだ!検査して、キズやヒビが出ていたらレール削正車という車両がレールをきれいにするぞ!(レール削正車も紹介してるよ!見てみて)右の写真は在来線用の車両だよ。年に1回すべての線路を検査するため走行するよ。レール探傷車は自分で走行して検査することができるんだ!確認車夜間に行われる作業終了後、線路を走り、線路上や近くに落し物や危ないものがないか確認します。確認車は新幹線の安全を守る”最後の砦”のような存在です。新幹線が200km以上での走行区間は確認車の走行後でなければ運転させられないんだ。作業終了後に線路を走る時、右下の写真のように棒を出して走るよ!この棒は「検知棒」といい、落し物や危ないものがないか確認するために付いています。ほぼ毎日2台が最高速度90km /hものスピードで走行し、確認を行うことで北海道新幹線の安全を守っているよ!下りは階段を下り「⇧ 約90m 観光案内所(道の駅)、津軽線」。1階の待合室新幹線の出発時間が電光板に。待合室内駅に隣接する「今別町営屋内無料駐車場」。手持ち撮影のためピンボケに。新幹線の駅周辺でこれだけのどかなところはあるであろうか。ちょうど下り列車が到着した。夕闇の奥津軽いまべつ駅である。奥津軽いまべつ駅を後にし宿泊地の三厩へ。三厩にある「竜飛ウェルカムツリー」。17:20JR三厩(みんまや)駅所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩東町52かつて卒業した会社でこの町へ下水機械を納めていたので来たかった地である。JR三厩駅津軽国定公園龍飛津軽半島最北端の駅 三厩(みんまや)この駅も令和9年(2027)4月1日に廃駅になるようだ。きっぷうりば■JR線近距離きっぷ運賃表■ 大平:420円、蟹田:590円、青森:1,170円津軽線発車時刻:始発6時1分、最終17時50分で一日5便。最終到着列車 :19時14分このようなポスターも。乗合タクシー わんタク (青森県今別町・外ヶ浜町の一部エリア) ・蟹田駅~龍飛埼灯台ルートを運行! ・エリアを運行! 営業時間:9:00~17:00 ・運賃 割引対象者 1回 300円、1カ月定期券 2,000円三厩駅にも故火野正平さんがNHKの”こころ旅”で2011年に訪れている。火野さんが訪れた14年前は車両も2両編成である(写真はNHKの映像から)。17:40竜飛旅館所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩中浜110 旅館は事前にネットで調べ電話をして予約していた。その際女将さんから「珍しい名前ですね」と言われ親しみを感じたが、応対は予想どうりの人であった。部屋は和室の畳敷きであった。部屋には暖房の石油ファンヒーターが置かれていた。夕食は18時からであった「夕食の膳」。昨夜に比べ豪華で品数も多く、”特別純米酒 田酒(でんしゅ)”を2本飲んだが、これもフルーティーで美味しかった。食堂には多くの方がおられたが食事を終え早々に部屋へ去られた。客筋には仕事関係で宿泊している方もおられ長期で滞在か?。奥には一組のグループが宴会で盛り上がっていたが、当初予定では私も・・・・・。カウンターには地酒の「特別純米酒 田酒(でんしゅ)」。女将さんに美味しかったのでお土産用に頼んだが非売品だと、残念。昭和を感じさせる古いキリンビールのポスターが貼られていた。20:00風呂は木樽の風呂桶であった。この夜も運転疲れで爆睡した。今回もノートパソコンを持参したが。この日の走行距離は 273km、累計では 1,260kmに、歩行数は約10,000歩であった。 二日目END
2025.11.29
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蟹田港を後にし、今夜の宿泊地「三厩」へ向かう。10月22日(水) 16:15外ヶ浜警察署前から内陸の県道12号線(やまなみライン)を走り北上。道路前方に北海道新幹線の高架とJR津軽線の交差点があり駐車。上を北海道新幹線、横から他の線路が北海道新幹線の路線へと。JR津軽線は地上部を横切っている。この辺りの上空写真をGoogleマップより。推測として青函トンネルは三線軌条(さんせんきじょう)で、貨物列車も走っているのでJR津軽線への引き込み線であろうか。三線軌条とは、鉄道において軌間の異なる車両を運転するために、通常1対2本の軌条(レール)で敷設される線路について、片側のレールを共通として残り2本のレールをそれぞれの軌間に応じて敷設したもののこと。撮影場所は赤丸の「稲荷神社」前。稲荷神社所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田山本紅葉坂18境内は奇麗に整備されており日頃から地元氏子さんが清掃されているのであろう。由緒等の説明板がなく詳細は不詳。鳥居の扁額は「稲荷神社 山本氏子中」と。右側の狛犬「阿形像」。コロナ禍時にはマスクをつけていたが、この袋は?。後方には新幹線からの引き込み線、切株も。左側の狛犬「吽形像」。こちら側には北海道新幹線が走り通過時にはこの静寂を破るのであろう。杉木立の境内の中に社殿が建っていた。拝殿の扁額「稲荷神社」。境内の裏からJR津軽線と、電化線の北海道新幹線からの引き込み線を見る。社殿を右側から。社殿前左側に末社。共通台座の上に三基の碑があったが。北海道新幹線の高架。一日に何便通過するのか。この辺りは線路が三階層になっているようだ。最初、保線用の引き込み線かと思ったがGoogleマップでそれらしき建物がなかったので。稲荷神社を後にし、県道12号線(やまなみライン)脇に「大平駅」と。補助案内板の「大平山元遺跡、むーもん館 700m ➪」を見落とした。日の入りもまじかで西日が、一段高く(雪対策)電話ボックスもあった。JR津軽線の「大平(おおだい)駅」所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田大平山元近くにあった寂れた路線の駅を訪ねた。かつての線路跡は保線車両の車庫になっている。下りの三厩方面。令和7年(2025)6月10日、同日開催の締結式にて、当駅を令和9年(2027)4月1日に廃止することで合意したと。この先三厩駅までが廃線になるようだ。蟹田駅、青森駅方面を望む。線路脇には草が延び、下北半島のJR大湊線に比べると線路の保線状況が悪い。ホーム下に待合室が建っていた。待合室の壁に「大平(おおだい)」。「⇐ 中小国 津軽二股 ⇒」今年の締結で、中小国駅から北側の三厩駅間は令和9年(2027)4月1日に廃線となるようだ。津軽線発車時刻上下5便が発着している。■JR線近距離きっぷ運賃表■ 上り:青森 680円、下り:三厩 420円待合室内のポスターに、外ヶ浜町大山ふるさと資料館 旧蟹田町立大山小学校の木造校舎を利用した資料館です。 役目を終えた農具や漁具、懐かしい民具など教室を使って展示しています。町 内から見つかった土器や石器、土偶もあります。 史跡大平山元遺跡の古い縄文土器片も展示しています(一部は県重宝に指定され ています)史跡大平山元遺跡史跡大平山元遺跡は、東津軽郡外ヶ浜町字蟹田大平山元の蟹田川左岸、旧石器時代の終わり頃から縄文時代のはじまりの頃の生活の移り変わりを知ることができる遺跡です。旧石器時代の生活の道具である石器や縄文時代の始まりの土器片が見つかっています。ただいま史跡整備中です。待合室からホームを見る。過疎化が進み車社会になると、一日に何人利用するのか。かつては、島式ホーム1面2線で手前に線路があったようだ。大平駅から再度、北海道新幹線の高架下へ戻る。この先の新幹線はトンネルに、この辺りは交通の要衝地に。人影もなくどこへ行ってもクマが怖いので一人での散策を迷う。陽が沈む時間に。16:30この後途中にある、北海道新幹線の「奥津軽いまべつ駅」立ち寄ることに。観光案内板に「史跡 大平山元遺跡 ➪ 1km」と。以下二枚の写真はネットから。国指定史跡 大平山元(おおだいやまもと)遺跡令和3年(2021)7月27日、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。外ヶ浜町山元地区にはⅠ〜Ⅳ遺跡、墓地公園遺跡などいくつもの縄文遺跡が発見されているが、このうち本遺跡は縄文時代草創期のものである。これらから出土した石器や土器は、大山小学校跡の大山ふるさと資料館から、む~もん館に移設保存されて自由に見学ができるようになっている。近くにあったのだが、今回の旅では予定外になっていたのでスルー。16:45奥津軽いまべつ駅入口交差点。陽が沈み回りも薄暗くなり車もライトを点灯。 ー 続く ー
2025.11.28
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下北半島からいよいよ津軽半島へ。10月22日(水) 15:30国道7号から国道280号へ入り内真部バイパス、蓬田蟹田バイパスを北上。田んぼの中の直線道路で高速道路の如くに皆さん制限速度の+20キロ以上で走行。両側に田園風景が拡がっていたので減速し立ち寄った。農道に入り駐車、走ってきた南方向を振り返る。しばしこの場所で田園風景を撮影した。南方向の稲刈りが終わった田園風景。右側(西)の山の麓を北海道新幹線、左側(東)をJR津軽線が走っている。JR津軽線の駅へ行きたかったのだが。同場所から北側の田園風景。紅葉していたのは何であったか。右側の蓬田蟹田バイパスは交通量は少なく高速で通過。北側の山並みをズームアップ。左奥は北海道新幹線の高架。田んぼの中には温室も設置されていた。後の観光案内板から「トマト」栽培だと。北海道新幹線の高架をズームアップ。道路の西側に防雪柵が設けられており、一部は折りたたみ状態になっていた。蓬田蟹田バイパスの北方向。村の駅 よもっと所在地:青森県東津軽郡蓬田村阿弥陀川汐干106竜飛崎への途中にある道の駅で、外では水揚げされたばかりの魚介類に人が集まり、蓬田村をはじめとする津軽半島の新鮮な農産物や加工品が並ぶ、観光の中継地点にぴったりの場所であると。店内にも入ったが、訪れたのが夕刻で地元の買い物客も少なかった。24時間使用できるトイレ。観光案内板に「北緯41°の村」と。北緯41°の村北緯41°の主要都市:シカゴ(アメリカ)、イスタンブール(トルコ)、ローマ(イタリア) バルセロナ(スペイン)ガソリンスタンドが隣接していた。”村の駅よもっと”から北上すると直ぐに標柱が眼に入り立ち寄った。道路脇に立っていた「蓬田(よもぎだ)城址 ➪ 0.3km」。標柱に「史跡 蓬田城址」と。所在地:青森県東津軽郡蓬田村蓬田蓬田城史誌緑一色鬱蒼とした杉林 樹齢四百五十年の老松が聳え立つ東西に、水濠・空濠が設けられ、奥地に辨財天宮があり、鎮守八幡宮地に本丸があったと言われています。蓬田城は1238年鎌倉時代に築城され、藤崎城主安東氏の一雄潮潟四郎道貞の居城であったと伝えられている。相馬氏は1185年平家が屋島の戦いで滅亡、福岡から流れ流れ安東氏の庇護により、平将門八代目相馬佐伝四郎則政が蓬田城主となり安東氏の配下として行動した。南部所領となって、奥瀬建助氏が居城し、数代を経て文明の頃、相馬氏蓬田越前守則政が城主となり、凡そ百有余年外が浜一帯を支配し、十三湊を良港に日本海貿易をはじめ朝鮮中国と国交し文化と産業経済繁栄の礎を築かれた。しかし、天正十三年三月二十七日知謀と謀略の優れた津軽為信公に、城を明け渡し南部に逃れる。後に、蓬田城主相馬小三郎・平次郎兄弟が、五稜郭戦争に出征の時、先祖を祈願するため宗像大社から分神してきた額を八幡宮に奉納されました。七 八百年の歴史と伝統、由緒ある蓬田城は山あり川あり海辺近く、風光明媚な城下町であった。昔を偲ぶとき、先人の遺産に感謝し、流風余韻に前進すべきであることを望む。 平成十四年八月吉日 氏子総代 山本兼光同場所から西側の麓を南北に走る北海道新幹線を望む。案内板が立つ国道から数百メートル入ると蓬田城址に八幡宮や弁天堂がある。写真はネットから。更に北上すると、東津軽郡蓬田村から外ヶ浜町へ入る。案内板に、「世界遺産 大平山元遺跡、津軽国定公園 竜飛崎 ↰ 外ヶ浜警察署交差点」「大平山元遺跡まで10km 竜飛崎まで42km ⇐」と。外ヶ浜町に入り更に国道280号を直進。外ヶ浜警察署交差点右折し、むつ湾フェリーの出航港へ立ち寄ることに。蟹田港敷地に入り「フェリーのりば」の案内板。16:00むつ湾フェリーターミナル所在地:青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田中師宮本160最上階の展望台までは階段を登り、二階には中華料理屋があると。この日は運航休日のため閉館中であった。閉館中の館内をネットから。通常は一日四便だが、お盆の8月10日~8月16日は6便に増便しているようだ。人手不足でこの日、10月22日(水)は運航日であった。よって、館内には「航海士・機関士 募集中!」のポスター。この写真は古いようで旅客運賃等が値上がりしている。今回は利用しなかったが、フェリー「かもしか」運行時刻表運航期間:4月21日~11月5日 ※運航休日がございます。津軽半島の蟹田と下北半島の脇野沢を1日2往復。見どころいっぱいの2大半島をわずか1時間で繋ぐので、青森県をぐるりとまわる旅に最適であると。●旅客運賃 2等旅客片道 大人 1,950円 往復 3,710円●自動車運賃(車両の長さ) 3m未満 6,700円 3m以上4m未満 8,900円 4m以上5m未満 11,100円 我が愛車のノートはどのクラス?。 観光バスも乗船可能 上記には、運転手一名の料金を含む。●特殊手荷物運賃 自転車 850円 別に旅客運賃が必要。岸壁から停泊中の「かもしか」を見る。港入口の「蟹田港東防波堤灯台」。灯台の下には釣りを楽しむ人、今夜の酒のつまみに収穫は?。島影は午前中走った対岸の下北半島。蟹田港東防波堤灯台塗色構造 白塔形灯 質 群閃緑光、毎6秒に2閃光、Fl(2) G 6s光達距離 5海里塔 高 11メートル灯 高 13メートル初点灯 昭和42年3月むつ湾フェリーはこの「かもしか」一隻で運航してきたが老朽化で今シーズン限りで引退。新しく長崎佐世保で進水した「かけはし」に引継ぎ、来年4月から運航する。完成した「かけはし」は全長が44.5mで総トン数は約400t。旅客定員が240人で、乗用車20台を載せることができ、「かもしか」とほぼ同規模の船となっている。フェリーターミナルの最上部は展望台になっているが歩いて登るのでキツイと。引退する”かもしか”を前方から。乗船時には船首が上がり乗用車を搭載。今シーズン限りで引退の「かもしか」。現行の「かもしか」は建造から26年が経過し引退するとの事であるが寿命は半世紀?。この後の人生は、解体されるのか、あるいは他国へ売却されるのか。NHKBSの「にっぽん縦断こころ旅」で2011年に故火野正平さんが乗船した。その時の写真をNHKの映像から、乗船前に無邪気に走り回っていた。引退までの期間は後僅かに、11月5日に冬季期間になり運休になる。見納めに「長い間無事故で、ご苦労様でした」。16:05フェリーターミナルを見る。ターミナルの裏に竜飛崎への海岸線を走る国道280号がある。この後、宿泊地の三厩へ向かうが、海岸線を走るか、内陸の県道12号線(やまなみライン)と迷ったが到着が遅くなるので内陸を選択し出発。 ー 続く ー
2025.11.27
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カーナビの案内が今夜の宿泊地到着が17時となったので先を急ぐことに。10月22日(水) 13:30国道279号(むつはまなすライン)を南下、横浜町の「道の駅よこはま」を目指す。この辺りも交通量が少ないので快適に走れた。左前方に、ホタテをモチーフにデザインされた特徴ある建物が見えてきた。道路標識に「⇦ 道の駅 よこはま」「菜の花プラザ」と。13:35道の駅 よこはま所在地:青森県上北郡横浜町林ノ脇79-12東北の旅計画時にこの道の駅を知り立ち寄った。この建物がユニークであると。ホタテをモチーフにデザインされた特徴ある建物の道の駅。書き込みでは”ホタテバーガー”を食べたかったと。この日は販売していたか。入口に「菜の花プラザ」の看板。横浜町の菜の花畑は日本最大級の作付面積を誇り、5月には満開の菜の花を見に多くの人々が訪れますと。菜の花ソフトクリームを380円で販売。下北半島の観光案内板横浜町から主要都市への距離、所要時間が記載されていた。道の駅の北側には「菜の花ロード」があり、毎年5月中頃の土曜日、日曜日には、菜の花畑の真ん中で、町の一大イベントである菜の花フェスティバルが開催され、見渡す限りの菜の花畑はたくさんの観光客でにぎわいますと。館内ではいろんなお土産物を販売していた。物産館は、新鮮な朝取り野菜や、なまこ・ホタテ・菜の花の加工品、土産品など豊富に取り揃えられています。一番人気は店内のキッチンで作る「菜の花ドーナツ」。生地に菜の花を練りこみ、なたね油で揚げたドーナツは優しい甘さでおやつに、手土産にぴったり!レストランでは、ホタテ塩ラーメンやホタテ丼など、横浜町産の新鮮なホタテを使ったメニューが人気であると。地元牧場の生乳をたっぷり使い、菜花を練り込んだ「菜花ソフトクリーム」もおすすめです。横浜町郷土館横浜町郷土館は道の駅に隣接して建ち、今年4月27日に、縄文時代からの地域の歴史・文化を紹介する施設として開館した。入館料は無料であったが。先を急ぐので早々に道の駅を出発した。カーナビは国道279号を南下、横浜吹越インタから下北半島縦貫道路(無料区間)を走り野辺地インタまで南下し、みちのく有料道路を使用して青森市内まで約80km。下北半島縦貫道路(無料区間)は片側通行であった。ここの道路標識にも「クマ」。高台には風力発電が多かった。久しぶりに車が連なりスピードが落ちる。途中突然雨が降る、これも異常気象か。道路標識に「自動車道終点」と。現在の下北半島縦貫道路は279号のバイパス的な扱いで無料であった。野辺地インタをを出て国道4号へ。ここを右折して、みちのく有料道路へ向かう。国道4号を七戸・十和田方面へ走り、この先の”七戸北インタ交差点”を右折。当初予定では「浅虫温泉駅」へ立ち寄ることを考えていたのだが時間がなく諦める。この辺りは積雪があるようで道路標識に中央線の矢印が。みちのく有料道路を走るの初めてで全線片側一車線であった。みちのく有料道路の途中にあった料金所(770円)。青森東インタを出て県道44号線の三本木交差点を左折。県道44号線から複雑に走り国道4号へ。青森市内の国道だけに渋滞。国道4号を青森駅方面へ。時間があれば青森駅、青森港へ行きたかったのだが、またの機会の楽しみに。国道4号沿いの並木はケヤキであったか。青森市内の中心部を走る。この先300メートルを横切るのは「柳町通り」で右側には、青森駅・青森港へと。この通りでは、東北三大祭りの1つで国の重要無形民俗文化財に指定されている「青森ねぶた祭」が毎年8月2日~7日に開催され多くの人で賑わう。写真をネットから、青森ねぶた祭は「人形ねぶた」と呼ばれる山車に続き、「跳人(ハネト)」と呼ばれる踊り子たちが「ラッセラー、ラッセラー」と掛け声を上げながら踊り歩く。左前方に「青森市役所本庁舎」所在地:青森県青森市中央1丁目22-5青森市は東北地方を縦貫する路線および本州と北海道をつなぐ路線の結節点で、北日本における交通・物流における要衝である。人口は、2025年10月1日現在 256,304人で、人口密度は 311人/k㎡。青森市役所の西側に隣接する重量感のある建物は「日本銀行 青森支店」。カーナビの現在地は国道4号から国道7号に。青森市内は国道4号と国道7号の終点になっている。青森県庁東側の「青い森公園」前に立っている。国道4号:東京都日本橋から宇都宮市を経て青森県庁横の青森市長島2丁目を結ぶ約839km国道7号:新潟市中央区本町通七番町から青森市長島2丁目を結ぶ約585.9 km国道7号を新青森駅方面へ走る。雲が多くなる。カーナビの案内は後980mで「油川バイパス新城入口」を右折。青森市街地を離れ津軽半島へ。前方に北海道新幹線の高架橋。北海道新幹線は、コロナ禍の中2020年10月18日に【Go To トラベルキャンペーン適用】でフリープラン4日間を利用し、新函館北斗駅まで乗車している。ここを左折すると新幹線の新青森駅へ。立ち寄らなかったので「新青森駅」をネットから。新青森駅は東北新幹線の終着駅で、北海道新幹線の起点となる。北海道新幹線は現在は新函館北斗駅まで開業。現在札幌までの延伸工事が進めらているが完成は遅れ2038年末の開業になると。後13年だが・・・。国道7号の油川バイパス新城入口交差点を右折して津軽半島へ。15:25ローソン 青森羽白店所在地:青森県青森市羽白池上209-1国道7号から右折して国道280号を北上、前方は北海道新幹線の高架橋。交差点の先左にローソン、右手前にはセブンイレブンが開業していたが集客は。 ー 続く ー
2025.11.26
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JR大湊線金谷沢駅の東側に寂れた神社があったので参拝。10月22日(水) 12:50金谷沢八幡神社所在地:青森県むつ市奥内金谷沢国道279号(むつはまなすライン)の信号から西側に入るとJR大湊線金谷沢駅そばに鎮座しているが説明板がなく詳細は不明。交差点から金谷沢駅までのわずか200メートルの道がGoogleマップでは「金谷沢駅通り」と記されておりその北側にある。かつては木が聳えていたのであろう。石柱があり「記□碑」とあり、手前には枯れた株。後方には燃料タンクが設置されていたが。道路を挟んだ神社の向かい側にあった水場。他の方のブログから神社の手水であると。また、夏でも清く冷たく、参拝者の火照りを鎮めてくれますとあったが説明がなく手を洗うだけにした。右側の石柱には「□□□念碑」と。左右ともに整備補修されていなかった。参道入口には立派な鳥居が建ち注連縄も吊るされていた。鳥居と社殿神社の敷地西側に2棟が建っていたが神社関連か。左側には「金谷沢生活改善センター」、右側奥にも建物。この燃料タンクは?。金谷沢生活改善センターの中を覗き見る。奇麗に清掃されており定期的に使用されているようだが。参道脇に立つ掲示板には何もなく。社殿前には、常夜燈、狛犬が奉納されていたが新しい。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。トタン葺きの拝殿。拝殿の隙間から内陣を見る。中は奇麗に清掃され、椅子、座布団があった。西側下から社殿を見上げる。南側の広い境内を見る。社殿下西側に建つ建物。入口上に「金谷沢学校備品保管庫」とあったが。また注連縄があったが神社関係か。保管庫前から金谷沢駅ホームを見る。この道も「金谷沢駅通り」となっているが右奥が突き当りになる。参拝中に他府県ナンバーの車が一台。道路端にドングリorイガグリが落ちていた。これもクマが出てくる要因の一つではと。約10分ほどの散策で金谷沢駅、金谷沢八幡神社を後にした。13:00国道279号(むつはまなすライン)を南下。道路脇の幟旗に「東通村森林組合」、立札には「チャーリ・・・」。何故かこの辺りの国道はアップダウンであった。交通情報盤に「ツキノワグマ出没警報 走行注意」と。ゆとりの駐車帯 横浜町大豆田所在地:青森県上北郡横浜町稲荷平18辺り国道279号(むつはまなすライン)を南下、昼時で駐車帯があったので立ち寄る。標柱に「田名部(たなぶ)街道」と。当街道は藩政時代、奥州街道野辺地宿から北郡横浜村を経由して、北郡田名部村へ至る盛岡藩の脇街道であった。代官をはじめ勤番の藩士が、盛岡城下から田名部間52里30町44間を往来していたが、夏分は五日路といい、冬分は七日路と。幕府の巡見使の通行、恐山参拝の通行時以外は閑散たるものであったが、幕末期には北方警備のため田名部道を通過し、大間・奥戸・佐井湊等から蝦夷地に渡海していくために整備されていったと。振り返るとコンビニローソンがあった。看板には「ゆとりの駐車帯 むつ湾の景色をながめて一休み」と。駐車帯にはトイレ、四阿もあった。四阿脇から北方向にある大湊駅方向を望む。下北半島中央部に位置する恐山山地最高峰の釜臥山(かまふせやま)が見えていた。右側は頂上にレーダーがある釜臥山で標高878.2m。左奥は小尽山か。白いドームは「みなとオアシスおおみなと しもきた克雪ドーム」。下北半島道路案内図主要都市間の距離が記載されていたが字が薄れ見ずらかった。 十和田県土整備事務所駐車帯脇には咲き終わったハマナス。ハマナスの赤い実。陸奥湾を見る。島影は夏泊半島の大島か。ズームアップ。トイレの先はこれから行く津軽半島。駐車帯脇に”ほたて観音”が立っていた。「ほたて観音」平成四年七月 陸奥湾がいつまでも美しい海であるよう 漁業の繁栄と操業の安全 旅行者の健康と交通安全など さまざまな願いをこめて建立される。製作は南部名久井窯元である、砂庭大作氏。世界でも、とても珍しい陶器製の観音像高さ一・八メートル。台座を合わせると約四メートル。台座を合わせると約四メートルもある”ほたて観音”。台座に「ほたて観音」。手のほたてをズームアップ。ほたて観音の右側下にはハマナス。トラベルプラザ·サンシャイン所在地:青森県上北郡横浜町稲荷平127店先にラーメンとあったので入らなかったが、ドライブイン、お土産、食堂が一緒になったお店であると。お土産は横浜町にちなんだ菜の花やなまこ、ほたて関連のものを中心に、下北半島のお土産も取扱っている。食堂はホタテコロッケやなまこそば、菜の花ラーメンのほか、陸奥湾の海の幸がたっぷり入った「陸奥湾ラーメン」など、地元の特産品をふんだんに使ったメニューを楽しめる。また、ここでしか食べられない「菜の花ソフトクリーム」は、菜の花にちなんだ黄色いソフトクリームで、ほどよい甘さが人気ですと。ローソン 横浜町店ラーメン通でないのでローソンでおにぎりを購入したが、ホタテコロッケやなまこそばは食べたかった。この辺りはホタテ、なまこの産地であると。下北半島の東側には風力発電。山を越えると太平洋側の東通村へ。13:25これから行く南方向は雲が厚くなっていた。 ー 続く ー
2025.11.25
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川内ダムから陸奥湾の海岸線へ出る。10月22日(水) 11:50県道46号線(かもしかライン)を南下。再度、この先で国道338号と合流。南の空の青森市内方向は雲が厚かった。国道338号と合流、カーナビの案内はここを左折。右折すると、むつ湾フェリーが出航する脇野沢港まで18キロ、約25分。この日は生憎休航日のため陸路で対岸の蟹田港へ。所要時間は156キロ、約3時間。因みにフェリー利用だと出航時間もあるが約40キロ、1時間半。田野沢ゆとりの駐車帯所在地:青森県むつ市川内町田野沢国道338号沿いにある”ゆとりの駐車帯”で青森県内にはこのような駐車場が多い。一段高い場所に設置された公衆トイレがあったが自動販売機は無かった。トイレの右側に観光案内板。先程あったものと同じ観光案内板「かわうち」だが・・・。Googleマップでは奇麗に見えていたが何故このように・・・。黄色丸内が現在地と。大型車も入れる駐車場である。道路脇に「田野沢ゆとりの駐車帯」と。左側の高台には、四阿があり陸奥湾が見下ろせるビュースポットになっている。”田野沢ゆとりの駐車帯”から国道338号を東へ走り直ぐ海岸の広場へ。車を停め南側の陸奥湾を望む。南方向をズームアップ。説明板が立っていた。田野沢の海底林ここ田野沢の岬の海には、かつて陸地に繁茂していた森林の跡が残っています。海底林と呼ばれるものです。海岸の潮間帯にあり、樹林の根部や倒木が三十二本ほど確認されていますが、砂礫(砂利)下の泥岩盤にはもっと広がっている可能性があります。樹種は現在下北半島に自生していないスギやサワラです。この海岸の地質は、恐山火山の火砕流や第四紀更新世の田名部層(この泥炭は昭和二十三年に田野沢炭鉱で採掘)からなっています。海底林は今から二十五万年から三十万年前、冷涼気候から温暖期に移行する時期のものです。その後、長い地球環境の変遷を経て、最終氷期(約二万年前)以降の海面上昇で海岸が侵食後退し海底林になったものと推定されます。現状は海岸の砂礫により見ることは難しい日もありますが、干潮時や春期の大潮の時期には姿を見せてくれます。下北半島には、同じような海底林が関根の海にもあります。全国的には富山県魚津埋没林や石川県松任沖海底林が有名です。 平成二十一年四月 むつ市 平成三十一年三月 再建 同場所から西方向の脇野沢方面を望む。”田野沢の海底林”から国道338号を東へ向かう。この辺りには海上自衛隊大湊航空基地がある。釜臥山(かまふせやま、かまぶせやま)は、青森県むつ市にある山。下北半島中央部に位置する恐山山地の最高峰であり標高は878.2m。右側の麓には釜臥山スキー場。釜臥山には展望台があり、頂上に白い建物が見えていたがレーダー?。左側には「北の防人大湊 約2km」の看板。カーナビの現在地。JR東日本大湊線の大湊駅へ立ち寄ることを考えたが。工事中で片側通行のため信号待ち、左の車窓は自衛隊基地であったか。12:20ENEOS ナビステーション大湊SS所在地:青森県むつ市大湊町19-2むつ市内のレギュラーガソリンが159円と安かったので満タンにすることに。むつ市には自衛隊があるので安いのか。国道338号の大湊駅方面。ローソン むつ大湊新町店大湊駅はこの先にあったようだがカーナビをセットしていなかったので通過した。JR大湊線下北駅国道338号の中央町交差点を右折して、県道272号線を南下。本州最北の駅であり(JR東日本の最北駅でもある)、駅舎のホーム側には「てっぺんの駅」という看板が掲げられている。かつては下北交通大畑線が接続していた。国道279号(むつはまなすライン)を南下していると「金谷沢駅」の案内板があり立寄った。国道から西へ入り200メートル程にある。12:40JR大湊線金谷沢駅所在地:青森県むつ市奥内金谷沢単式ホーム1面1線を有する地上駅である。青森駅管理の無人駅である。廻りにはコンビニもなく民家も離れて数軒ある。トイレがあったか?。下りの大湊方面。左側の林は陸奥湾からの西風を遮る防風林。行き先表示板待合室内除雪用の備品が置かれていた。重要指名手配の写真があるのは秘境駅ならではか。大湊線発車時刻左:上り 野辺地・八戸方面 始発5:25、終電20:16 と一日6本の運行右:下り 大湊方面 始発7:22、終電22:10 と一日7本の運行JR線近距離きっぷ運賃表上り方面 野辺地 990、浅虫温泉 1680、東青森 1920、三沢 1800下り方面 大湊 240この辺りの大湊線は森の中を走っているが防雪用であろうか。上りの野辺地駅方面。下りの大湊駅方面。秘境駅の趣が漂う。ホームから上り方面を望む。12:45線路の保線作業は行われているようだ。この路線の乗客は恐山、大間方面へ行く人が利用しているのか。 ー 続く ー
2025.11.24
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仏ヶ浦から国道338号(海峡線)、途中から県道253号線を走りむつ市へ。10月22日(水) 11:10道の駅かわうち湖所在地:青森県むつ市川内町福浦山314本州最北端の湖「かわうち湖」にある町特産のヒバ材を使ったロッジ風の道の駅であり、特産品販売コーナーや軽食・休憩コーナーがあります。かわうち湖沿いにある道の駅で木々に覆われ自然豊かであるが、これからはクマ対策が。紅葉もこれから見頃に。ようこそ青森へ左側の写真は、①十和田湖 ②奥入瀬渓谷 ③尻屋崎 ④恐 山 ⑤仏ヶ浦 ⑥川内川渓谷 ⑦薬研渓流 ⑧鯛 島 道の駅 かわうち湖川内町特産のヒバ材を使ったロッジ風の道の駅である。館内では、旬の新鮮野菜の即売や名物のけいらん・黒豆ソフトなどが味わえますと。観光案内板と句碑句碑には「運命を 突き抜けてゆく 夕燕 芳賀博子 句」と。野平(のだい)エリア そそり立つ孤峰が見つめるカルデラ盆地とその歴史 野平カルデラ 縫道石山(Mt.Nuidoishi) 福浦下ノ崎 親不知渓谷 立ち寄ってみよう!おすすめの施設 津軽海峡文化館 アルサス 仏ヶ浦 オオウラヒダイワタケ 川内ダムこちらの句碑には「むらさきの 道に来たらし 鈴を振る 弘子 句」と。県道沿いに広場があり標柱に「野平高原交流センター」と。広場の周りには句碑が立っていたようだ。広場の奥は望遠レンズで撮影。左側には『川柳「多発信」』の碑。レイクハウス 野平高原交流センター営業時間:休憩室・売店 9:00~16:00(土日祝は17:00まで) レストラン 11:00~14:30(ラストオーダー14:00)定休日 :木曜定休(11月下旬~4月上旬閉鎖)館内に入り「観光・イベント案内」。いろいろとパンフレットがあったが、立ち寄れないので未入手。非売品のショーケース内には「宇賀焼」「下北和紙人形」が展示されていた。地元産の野菜類も販売されていた、大根は一本 150円。「館内 無断撮影禁止」と。道の駅「かわうち湖」は、車中泊におすすめできるスポットであると。広々とした駐車場を備えており、大型車も駐車可能。周囲は自然豊かな環境で、静かに過ごせる点が大きなメリット。ただし、冬季は閉鎖期間があるとのこと。県道253号線の道路標識。道の駅を出て県道253号線を走ると直ぐに川内ダム。道路脇に車を停め、水位の下った人造湖のかわうち湖を見下ろす。ズームアップ。ダム堤頂長(ダムの端から端まで) は、137m。左側は、ダム管理所。川内ダム重力式コンクリートダムで高さ55メートル、堤頂長137.0メートル。 川内川水系川内川に建設された洪水調節・河川維持を目的としたダム。 このダムは下北半島の左下付近にあり本州最北端のダムである。石碑には「川内川水系 川内ダム」と。ダム管理所前に立つ石碑には「水豊か 人栄ゆ 青森県知事 北村正哉書」。また2枚の説明板川内ダムの設備○川内ダムの役割 ●洪水調節 洪水時には、洪水調節を行い、下流の地域を洪水による災害から守ります。 ●河川環境の保全 天気の良い日が長く続くと川の水が少なくなり魚や水辺の植物がいきていけなく なります。しかし、ダムにはみずがめの役割もあるため、川を枯らさないように 水を補給することができます。常用洪水吐 洪水の際には、ここから水を流して洪水調節を行います。非常用洪水吐 常用洪水吐では調整できないような異常洪水時に使用されます。ほとんど使用される ことはありません。河川維持用水(管理用発電) 川を枯らさないように、常に0.6m3/s以上の水を放流しています。 また、その水を利用して、発電を行っています。 ダムの大きさ 堤頂長 137m、高さ 55m川内ダムの諸元川内ダムは、コンクリートの重みで水圧に耐える「重力式コンクリートダム」であり、ダムに使われているコンクリートの体積は約9万m3で、重さにすると約21万トンです。河川名 川内川水系川内川位 置 青森県むつ市川内町福浦山形 式 重力式コンクリートダム堤体積 93,541m3 完成年 平成6年(1994)集水面積 48.0k㎡湛水面積 1.47k㎡総貯水容量 16,500,000m3計画高水流量 370m3/s調節量 335m3/s放流量 35m3/sダム天端入口 標高192.0mかわうち湖ダム建設によって36戸が移転した。野平・留魂の碑が建てられており、それによると、戦前、満州や樺太に移住したが敗戦によって故国の地を踏み、昭和24年この下北半島を開拓するも、入植20年にして国の離農政策によって止むなく 42戸が離農、残36戸も川内ダムの建設により移転せざるを得なかったという。ダムの天端の両端には小中学校で作成された記念プレートが埋め込まれている。こちらには右から、「むつ市立むつ中学校」「川内町立戸沢小学校 平成四年三月制作」「□小学校 平成四年三月制作」。 同じように下流側にも、まだスペースがあったが。左は「八幡宮例大祭 川内中」、右に「みんな元気! 第一川内小学校」と。平成四年(1992)三月制作とあり、児童は今では33歳になり訪れる人もいるのであろうか。この風景を見て懐かしく思うのであろうか。皆それぞれに・・・。管理用発電棟川を枯らさないように、常に0.6m3/s以上の水を放流しており、また、その水を利用して、発電を行っている。渓谷の紅葉が始まっていたが少し早かった。ダムの大きさは、堤頂長 137m、高さ 55mで、中央部にエレベーター室。下流側の川内川渓谷。これからむつ市街地に向けて下る県道253号線。川内ダムからすれ違う車もない県道253号線を下りT字路で駐車。下ってきた道を振り返る。ズームアップすると道路標識に「仏ヶ浦 26km、川内ダム 6km」と。湯ノ川に架かる橋の袂で休むおばあちゃんが一人。T字路に立っていた観光案内板に「かわうち」。案内板の上の切り絵は「ホタテ」「かじかがえる?」「壺?」であろうか。”どこへ行こうか” ●川内川渓谷遊歩道・大滝・川柳の道・おう穴群 ●陶芸センター ●ふれあい温泉川内・キャンプ場 ●川内ダム ●野平高原交流センター(道の駅かわうち湖) ●湯野川温泉・濃々園年間行事 物産品 ●夏まつり(やまめつかみどり) 8月14日 ●宇賀焼 (ネブタまつり) 8月14日・15日 ●ケイラン ●八幡宮例大祭 9月第3土・日 ●ひばっ子ラーメン ●川内高原まつり&ベコまつり 10月第2日曜日いろいろと行事があるようだが次の世代への継承は・・・。先程のおばあちゃんが一人で歩いて来られたがクマが怖い。交通量が少ないのでおばあちゃんも道路の中央を悠々と我が世と、車は止まるが。11:35これから進む県道46号線(かもしかライン)。人影がなく過疎化した集落であった。 ー 続く ー
2025.11.23
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今日は「11月22日 ➪ いい夫婦の日」で、車のナンバーにも多くの人が「11-22」を採用。東北の旅2日目は下北半島の津軽海峡沿いを南下し、「仏ヶ浦展望台」をめざす。10月22日(水) 10:00国道沿いに電話ボックスが建つ「磯谷漁港」。所在地:青森県下北郡佐井村佐井道路脇の看板に、「第1種 磯谷漁港 所在地:佐井村字磯谷地先 管理者:青 森 県 水産部漁港課 下北地方漁港事務所 所管丁:水 産 庁」。第1種漁港は、日本の漁港の中で最も小規模なものであり、主に地域の小規模な漁業活動を支える役割を果たしている。磯谷漁港入口を過ぎ津軽海峡に島が見えていたので駐車。沖合は津軽海峡。道路標識に「338号 むつ・大間」と。佐井村マンホール蓋村の花スカシユリと村の木ヒバ、名勝地仏ケ浦、鮭がデザインされている。国道下に広い空き地があり漁網が干されていた。この辺りは、左に津軽半島、右方向には北海道が見える。沖合には小さな島も。大魚島(およしま)佐井村磯谷地区の沖合約1.5kmにある大魚島。大魚島と書いてオヨシマと読む。オヨは魚のイシナギを指し、この島周辺でイシナギが多く獲れたことからこの名前が付いたと。左側は、今夜宿泊する津軽半島の竜飛崎方面。大魚島の周囲は岩礁が多く、座礁する船が多かったことから灯台が建てられ昭和三十五年(1960)十二月に点灯した。灯台の高さは10メートル、海面から灯火までの高さは19メートルで、9.3km先まで光が届くと。海岸沿いの民家の壁は潮風からの腐食を考え板葺きが多い。擁壁にハート形に造形された花が咲いていたが、ハマギクであろう。磯谷漁港から約25分交通量の少ない海岸線、山間部の国道338号(海峡ライン)を走り南下。北側にある福浦漁港から急カーブが続く坂を上りここ仏ヶ浦駐車帯へ。Googleマップでは「仏ヶ浦展望台」となっている。10:30仏ヶ浦駐車帯所在地:青森県下北郡佐井村長後仏ヶ浦の海岸線へ下りるのは「行きはよいよい帰りは怖い」からここからの眺望が良いと。到着した時数台の車が駐車していたが、仏ヶ浦を見下ろすだけで滞在時間は短時間。公衆トイレがあったが工事中で仮設トイレが設置されていた。入口に建つモニュメントに「仏ヶ浦駐車帯」と。ここまでのアクセスは車になるので他府県ナンバー、レンタカーが多い。駐車帯脇に、バリアフリー化された展望台が設置されていた。横に説明板が2セット立っていた。下北半島のMAP仏ヶ浦へのアクセスが陸路、海路で記されている。MAPの中で現在地の海が日本海となっているが津軽海峡では・・・。MAPをGoogleマップから。ついでにこの後の走行ルートをセット。走行距離、所要時間は、223km、約4時間と。ここにも「下北かるた巡り」この地は「ほ」と。仏ヶ浦は極楽の磯 羅漢、如来が立ち並ぶ 佐井村 仏ヶ浦緑色凝灰岩の断崖が海風の浸食を受け、仏具仏像に似せた奇岩奇石を形造った。一ツ仏、如来首、五百羅漢、極楽浜等、仏教にちなんだ名で呼ばれている。周辺およそ2kmにわたって白緑色の凝灰岩が凄まじく立ちつくしている様はまさに極楽浄土を思わせる。大正11年大町桂月が訪れ、「神のわざ鬼の手づくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」と詠っている。 お問い合わせ先 社団法人むつ青年会議所 ☎ 0175-22-4360ステージから南側を見下ろす。ここからの写真は樹々の間が狭いのでこの写真がベスト。仏ヶ浦船着き場(定期船)をズームアップ。遊覧船が着岸し、仏ヶ浦を30分間自由散策できる。今シーズンの営業は11/01に終了。運航再開は令和8年5月1日を予定していると。この写真はネットから。船着き場近くには建物がありトイレもあるようだ。海岸からの立ちつくしている姿は仏像仏具を想わせ、ほとんどが仏の名にちなんで呼ばれており、仏ヶ浦の名も、これに由来していると。ステージで撮影していると交通パトロールの方が休憩で立ち寄られ喫煙。話しかけると「ここの数十メートル先から見たら視界が広いですよ」と。数十メートル北側へ歩き教えていただいたところへ移動して撮影。確かに少し視界が広かった。仏ヶ浦の原型は、約2000万年前の海底火山活動によって形作られたといわれている。神秘的に並ぶ巨岩・奇岩の中には、岩に名前や言い伝えがあったり、源義経の伝説にまつわる岩も存在していると。国道から海岸へ下りるには近くの駐車場から約10分であると。この後の写真はスマホで撮影。むつ湾フェリーの下北半島側の脇野沢港はこの先にある。この光景を遊覧船で見るためにはここでの滞在は約2時間必要になる。紅葉の始まった下北半島であった。仏ヶ浦駐車帯へ戻る。10:45宇都宮ナンバーのキャンピングカーが駐車。展望台からは樹々が生い茂り視野が狭かった。15分ほどの撮影タイムで後にした。仏ヶ浦駐車帯から約2キロメートル下ると「仏ヶ浦駐車場入口」へ。先を急ぐので立ち寄らなかった。駐車場からの遊歩道(写真はネットから)。海岸までの距離は約600メートルで下りは約10分、上りは約16分を要する。入口には「熊出没注意!」の看板が立っていると。仏ヶ浦駐車場入口から、さらに国道338号(海峡ライン)を南下。紅葉が奇麗で駐車したが。人の気配もなく、車も少ないので車外での撮影にも注意。観光地におけるクマ対策が必要、特に紅葉を楽しむ山間部は要注意ではなかろうか。仏ヶ浦駐車帯方向を振り返る。さらに国道を南下、工事中で停車。急斜面の擁壁に吹き付け工事をしているようであった。作業員がロープに吊るされ作業。ズームアップすると作業員は4人であった。紅葉が進んでいたので再度道路脇へ駐車。このトンネルは明り取りの穴があるが。11:05交通量が少ない国道338号(海峡ライン)。トンネルは雪対策用か?。 ー 続く ー
2025.11.22
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”本州最北端の地大間崎”の散策後、津軽海峡沿いの国道338号を南下して「仏ヶ浦」へ。10月22日(水) 9:40国道沿いに見晴らしの良いところがあり休憩を兼ねて駐車場へ。国道338号(海峡ライン)の道路標識。直進すると「脇野沢・仏ヶ浦」へ、ここは「願掛岩(がんかけいわ)」。駐車場の向かい側に施設があった。入口の木柱に「野営 宿泊施設 ケビンハウス」。総ヒバづくりのログハウスです。津軽海峡が一望できる高台に位置し、天気のよい日には北海道・津軽半島もよく見えます。海峡に沈む夕日や幻想的な漁火の風景を見ることができる癒しの場所です。周りに民家はなく、静かな日は波の音だけが響き渡る空間になりますと。クマ対策は・・・。願掛岩駐車場所在地:青森県下北郡佐井村佐井矢越75-48辺り大間方面を振り返る。国道の山側に願掛公園ケビンハウス・キャンプ場がある。駐車場の先に「女願掛岩」があり入口に鳥居が建っていた。鳥居を潜ると「女願掛岩」への途中に「願掛け神社」がある。右の岩山は「女願掛岩」の一部である。沖合に豆粒の島影があったが、佐井村磯谷地区の沖約1.5kmにある大魚島(およしま)。その先の山並みは津軽半島であろうか。ズームアップすると、津軽半島の竜飛崎であったか。駐車場から眼下を見下ろす。左の岩山は「男願掛岩」の一部になる。侵食が激しい海岸であるようだ。夏の時期にはキャンプを楽しむ人の磯場になるのであろう。右に女願掛岩、左に男願掛岩がある。海岸へ下りることを考えたが人影もなく・・・、ここで引き返す。佐井村[新・観光三景]「鍵掛け縁結び」海峡の潮風をまともに受けて、虚空にそびえる二つの巨きな岩山が、佐井村矢越岬の「願掛け岩」です。右手の岩山が「女願掛け」左手の岩山が「男願掛け」と呼ばれています。古くは、「願掛け岩」とも呼ばれ、縁結びの神として深く信仰を集めていました。佐井村の「新・観光三景」の選定に当り、この信仰を新たな視点で取上げ、鍵掛け岩にちなみ「鍵」の奉納で縁結びをかなえようと、鍵掛けネットを設置して、皆様の願いにお応えいたします。年に一回「願掛けまつり」の日には、佐井村上げてのご祈祷で縁結び成就をお祈り申し上げますので、あなたも「鍵」を掛けて、縁結びをお願いしては・・・・・。[ご注意]※錠はしっかりと掛けてください。外れると縁が遠のきます。※鍵は、二人でそれぞれお持ちください。※できれば、時々お立寄りいただき、錠が掛かっているかお確かめください。※錠をお持ちでない方は、佐井村内でお求めいただくと、さらに効果が増すようです。※男願掛けにも鍵フェンスを設置しておりますので、ご利用下さい。 より一層願いがかないます。説明板の後方に「鍵掛けネット」が設置されている。駐車場へ戻るが訪れる人がいないので散策を控えることに。国道沿いに立っていた案内板、電話ボックス。願掛公園観光案内図国道沿いに蓮池があった。国道沿いに「矢越八幡宮」の標柱があり参拝することに。交通量も少なく人影もなかったので躊躇したが。階段下の社号標石に「八幡宮」と。側面に「天平九年五月建之?」と刻まれていたが。佐井村の中心部から南に約3キロ、矢越岬の願掛岩のふもとに鎮座する矢越八幡宮。両部鳥居この鳥居は主柱2本の前後に袖柱が2本ずつ、合計6本の柱で構成されている。江戸時代の紀行家菅江真澄も詣でている。菅江真澄 奥の浦うらより「糠森のあたりからおりると、矢越の大岩のこちらにまします かんかけの御社の鳥居に 桜の大枝を折ってつくった かぎ をうちかけてあった」。東洋文庫版 菅江真澄遊覧記3 寛政五年(1793)四月十六日の日記より引用。階段を上ると人気もなく静寂を感じさせる境内に狛犬。右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。境内を覆う松の先に拝殿。八幡宮の説明板がなく詳細は不明。唐破風の拝殿をズームアップ。彫物が匠の技である。拝殿の扁額「八幡宮」。境内の北側に建物があったが。社殿を南側から。境内からの男願掛岩を見下ろす。境内隅にあった小さな祠。境内から南側の海岸線を見下ろす。左側はこれから走る国道338号(海峡ライン)が南下している。境内から、八幡宮前を走る国道を見下ろす。男願掛岩の手前に碑が立っていた。この先に四阿がありビュースポットがあったので向かうことに。国道沿いの高い場所に鳥居が建っていた、その左側には碑、説明板。国道の切通しに設けられていた。木柱には「鳴海要吉文学碑」と。明治の歌人、鳴海要吉が明治40年にこの地に小学校教員として赴任した際残した歌が刻まれている。説明板には「鳴海要吉文学碑について」と。背後に男願掛岩。鳴海要吉文学碑についてわが国の文学史上、忘れることのできない優れた新しい短歌を数多く残された鳴海要吉先生は、明治四十年三月、当村佐井小学校に赴任され、同年十月末、田代小学校(東通村)に転出されるまでの数ヶ月の短い期間でありましたが、村の人々と村の風景を深い愛情をもって歌われました。今、その作品の中から、この地にゆかりのある一首を碑に刻み、先生の面影をしのぶものであります。右上に「あそこにも みちはあるのだ 頭垂れ ひとひとりゆく 猿がなく浜」。左上には、同じ歌がローマ字で刻まれていた。下には「鳴海要吉文學碑」と。国道338号(海峡ライン)の峠に四阿が設けられていた。南側の眼下には海岸線が繋がる。左下の建物は「スイミングハウス」。南側の島影は津軽半島。海岸線は磯谷漁港の北側辺りになるか。男願掛岩の下の岩礁には多くの海鳥が休んでいた。大魚島(およしま)灯台津軽海峡にある大魚島は、佐井村磯谷地区の沖合約1.5kmにある無人島である。道路脇に止めていた車へ戻る。国道だが交通量が少なく1台通過したか?。矢越八幡宮前から下りスイミングハウス前に駐車。女願掛岩(奥)・男願掛岩(手前)をズームアップ。女願掛岩・男願掛岩は、仰ぎみる海抜百メートル余りの巨岩である。振り返ると重量感あふれる迫力にまず圧倒される。昔から神の岩山として地元の人々に深く信仰されてきた。寛政四年(1792)、菅江真澄がこの地を通ったとき、稲の社、八幡の社が並んでいたと。海岸には多くの浮遊物が上がっていた。9:55この日はむつ湾フェリーが休航のため青森市内経由で三厩の旅館へ。カーナビの案内では休憩なしで所要時間・距離は約5時間、240キロと先が長い。 ー 続く ー
2025.11.21
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東北の旅二日目。念願の「本州最北端の地大間崎」の散策を続ける。10月22日(水) 8:40石柱には「こゝ本州最北端の地」と。最北端といえば今まで「日本の最北端 宗谷岬」「最北端の線路」へ行っている。碑の前で記念写真。スマホでお互いに撮影したが寒かった。今年初めてダウンを着る!。スマホで撮影したが映像が奇麗である。渡島半島の南東端、亀田半島の太平洋に突き出た恵山(えさん)もくっきりと。弁天島に建つ「大間埼灯台」、後方の北海道の山並みもくっきりと映り込む。大間埼灯台と弁天神社本殿本州最北端、下北半島大間崎のさらに沖合にある弁天島に建つ灯台が、まさに本州最北端の大間埼灯台。津軽海峡の航路の安全を守るために大正10年11月1日に初点灯(昭和27年の十勝沖地震で破損し、昭和28年2代目を再建)、高さは37m。白と黒のツートンカラーに塗り分けられた灯台は日本の灯台50選に選定されている。ゲンベイ礁灯標大間崎と弁天島の間のクキド瀬戸に建ち、この辺りは潮が早く浅瀬もあり危険な海域であり孤立障害標識である。津軽海峡沿いにある”本州最北端の地大間崎”ステージ。まだ時間が早いので観光客は少なかった。石川啄木歌碑青森県近代文学館 館長 小山内時雄右から、「大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき」「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」「大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり 青森県知事木村守男 □」と。英文でも書かれていた。それぞれの石碑の裏面にも字が刻まれていた。右には「協賛者」左には「協賛者の氏名」中央には、「石川啄木の代表□□□□□の歌の原風景はここだという風評は、函館にかれの墓ができ たころからあった。 大間の地蔵庵主が「啄木はしばらくここに滞在したが、そのときかれは大変おちこんで いた」と言ったという。それは、明治三十五年盛岡中学を中退するころで、同年十月の 「明星」に次の歌が載っている。 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋 「東海」の歌は明治四十一年六月のノート「暇ナ時」に記されている。東京から北海道と 長い流浪のあと上京して小説にいどんだが、小説は売れず眠れない夜がつづいたとき、 以前に彷徨したこの小島が心をよぎったのだと思う。 むつ市の鳴海健太郎は明治三十五年ころ隣村大畑にいた「明星」の歌人医師中山梟庵の 歌集から啄木と会った証拠の歌を発見した。 啄木はよも忘れまじ青森県大畑にある正教寺内 梟庵 私たちは歌集「一握の砂」の中から、三首選んで、新しい明日を希いながら早世した かれの鎮魂ををしたいと思う。 一九九八年七月 青森県啄木会 川崎むつをここにも咲いていた「ハマギク」。昨日訪れた”尻屋埼灯台”辺りにも多く咲いていた。日本海軍特務艦 豊国丸戦死者忠霊碑 内閣総理大臣 福田赳夫書裏面に、「昭和二十年七月十四日 午后二時三十六分米軍艦載機と交戦し、激斗のすえ乗員百三十 五名の勇士、艦と共にこの海に眠る」 英霊に捧ぐ「海を征き 海に散りたる つわものの 御霊よ永遠に あらかにあれ 詠寿山」昭和五十二年七月十四日 三十三回忌に当り 豊国丸 遺族会戦友会 建之 第四監視艇隊関係者黒い石碑には「日本海軍特務艦豊国丸戦死者名簿」と。戦死者全員の階級と氏名が刻まれていた。ハマナスが咲いていた。民宿 海峡荘 本館所在地:青森県下北郡大間町大間大間平17-734食堂も経営しており看板に「海峡のまぐろ屋」とあり、メニューがあったが、「お客様へ 大変申し訳ありませんが、本日まぐろの入荷がありませんので、 食堂の営業は、お休み致します。 海峡荘店主」と、書かれた貼り紙。例:マグロさくら丼 3000円、トッピング丼 3000円、サンマみそ煮定食 1000円 等。お食事処 かもめ民宿もやっているようで「素泊り ¥3000」と。天童よしみ 歌謡碑 平成21年7月 復刻1978年9月発売「みちのく慕情」はシングルA面曲。作詞:瀧竜二、作曲:熊五郎。みちのく慕情 瀧 竜二 作詞歌は「みちのく慕情」👈をクリック願います。ネットで見ると天童よしみが売れる前のシングル盤で、1枚600円と懐かしいものであった。ステージに描かれた「本州最北端 大間崎」。ステージの壁面に「漁船と一本釣り、マグロ」のレリーフ。床面には、右に、大臣が「・・・外国と・・・」と言い物議を醸した「日本最東端 納沙布岬」。上には「日本最北端 宗谷岬」、 左には「本州最北端 大間崎」と。 大間崎レストハウス1階は立入禁止になっていたので2階へ上がる。観光案内所とあったが無人。2階には大間の観光案内が掲示されていた。大間崎エリア 本州最北端の大地の形成と海洋生態系を感じる 大間崎と海脚 津軽海峡を流れる海流 大間崎の海洋生態系 立ち寄ってみよう!おすすめの施設 津軽海峡文化館 アルサス 津鼻崎 垂水海岸 大間まぐろ 大間崎レストハウスの2階は、9:00~17:00まで開業。期間は4月27日から10月31日までで、冬季間(11月~4月後半)は閉館している。三方がガラス窓で囲まれ、白黒灯台が建つ弁天島や津軽海峡をはさむ雄大な北海道の山々を望むことができ、有料望遠鏡が設置されていた。顔出しパネルも。「このマグロは2019年豊洲市場初セリで史上最高額となりました!」「縁起物マグロ 落札額 3億3360万円」大間崎レストハウスの2階から津軽海峡、ステージを見下ろす。大間町 観光MAP駐輪場脇に「下北かるた巡り」この地は「へ」と。弁天島にゴメが舞う津軽海峡大間崎 大間崎津軽海峡に突き出た「ここ本州最北端の地」(北緯41度33分、東経140度58分)の岬である。「大間のマグロ」の一本釣りが全国的に有名である。ここから600m離れたところに、周囲2.7kmの弁天島が浮かび、野鳥の宝庫として知られている。島にある灯台は、津軽海峡を航行する船の安全運行の役を担っている。島と岬の間は、川のように早い潮流があり絶好の釣り場となっている。 お問い合わせ先 社団法人むつ青年会議所 ☎ 0175-22-4360平成19年度 地方再生モデルプロジェクト事業左上から右へ、「大間町」「むつ市大畑」「佐井町」「風間浦村」「むつ市」「むつ市脇野沢」「むつ市」「東通村」「むつ市川内」「野辺地町」「六ヶ所村」「横浜町」。かるたで名所が書かれている。有限会社大間観光土産センター所在地:青森県下北郡大間町大間大間平17-728大間崎レストハウス前に開業する土産物店で朝から賑わっていた。年中無休で、夏期(4~10月)は8時から18時、冬場は9時から17時まで営業。本州最北端大間崎の目の前にある大間町最大のお土産物屋。大間産本マグロをはじめ品揃えが自慢のお店。おススメは「まぐろの塩辛」、「大間産の早煮昆布」等。オリジナルのTシャツやステッカーなどのグッズも多数取り揃えていますと。店先に、大間のスターであるマグロ漁師の山本さんの等身大パネル。それほど広くない店内にところ狭しと土産物が置いてあり選択が大変。山本さんグッズのTシャツから、塩辛、魚類までと品数が多い。この店はお客さんが多く土産物も多品種で迷い、結局隣の土門商店でお土産を購入した。ポストの横には「こゝ本州最北端のポスト」と。駐車場へ戻る(写真はネットから)。左側には、公衆トイレ、多目的トイレが建っている。大間崎テントサイト駐車場に隣接してあり、夏場には多くのテントが立ち、炊事棟、公衆トイレも完備している。キャンプ場は周囲に食べ物屋さんがあり、テイクアウトもできるので便利である。◆利用料:無料 ※ご予約の必要はありません。閉鎖期間ありと。9:10大間崎駐車場案内。第1駐車場には、レンタカー、他府県ナンバーの車が多く駐車していた。次の目的地を「仏ヶ浦展望台」にして大間崎を後にした。下北郡大間町のマンホール蓋 (黄色矢印が下)。中央部に「町章」、左上に町の木「クロマツ」、右上に町の鳥「カモメ」、下部に町の花「ハマナス」 、空白部にスリップ止めの◆の模様か。右前方に「大間町役場」庁舎。国道338号と国道279号の角に建つ庁舎。大間町役場所在地:青森県下北郡大間町大間奥戸下道20-4人口と世帯数(2025.10.31現在) 人 口:4,571人 男 2,334人 女 2,237人 世帯数:2,465世帯 一世帯2名以下で過疎化が進んでいるようだ。大間町の町域は東西約8km、南北約15kmで面積は52.09k㎡、人口密度は79.9人/k㎡(2025.10.1現在)。大間町役場から国道338号を「仏ヶ浦」に向け南下。山側には風力発電、傾斜地には太陽光パネルが多くあった。前方は津軽海峡でしばし海峡沿いを南下する。9:20奥戸(おこっぺ)郵便局所在地:青森県下北郡大間町奥戸向町77-14国道338号沿いにある郵便局である。過疎化した町にも郵便局はある。 ー 続く ー
2025.11.20
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東北の旅2日目は、下北半島から津軽半島の竜飛崎へ移動。旅の計画時に、Googleマップで「大間崎 ➪ 竜飛崎/三厩駅」の走行ルートを検索。下北半島の脇野沢港から”むつ湾フェリー”を使用、津軽半島の蟹田港のルートが出たが、この日22日(水)は人手不足から休航日であった。このルートでの所要距離・時間は129km、3時間35分。上記ルートはフェリーが休航日であったので陸路に。このルートでの所要距離・時間は271km、約5時間と倍近く走ることになる。10月22日(水) 7:30疲れから爆睡したため、目覚まし時間を変更していなかったためいつもの7時に起床。当初は明るくなる6時頃を考えていたのだが。朝食は7時からであったが7時半にホールへ。メニューは一般的なものであったが、イカ刺しが付いていた。ホテルの売店は8時半からオープン。宿泊費はお酒一本飲んで、14,610円。一人宿泊のため割高になった。朝食後、8時15分にホテルを出発。おおま温泉海峡保養センター近郊の「内山公園案内図」。かつて、故日野正平がNHKのこころ旅で裏山の「西吹付山展望台」を訪れていたので行きたかったのだが現在は立入禁止に。函館が見れ夜景がきれいだと。当初予定では7時過ぎには出発する予定であったが、目覚しのセットを変更しなかったために遅れた。取り敢えず「本州最北端の地」へ行くことに。おおま温泉海峡保養センターから坂を下り大間崎へ。弁天神社所在地:青森県下北郡大間町大間大間平17-750マグロの一本釣りで有名な大間漁港一帯の氏神さんで漁の安全と大漁を祈ると。鳥居前にひびが入った手水鉢が置かれていた。鳥居の扁額「弁天神社」。弁天神社拝殿御祭神:瀛津島姫尊、大国主命、姪子命大正六年(1917)、島に大間灯台(大正十年初点灯)を建設するため、祠の位置を四十八館の水難救済所の近くに移したところ、村に天変地異が続発したため(境内に出る蛇を弁財天が嫌って毎日雨を降らせたとも言われています)、大正九年に再び島の北端へ戻し、異変が治まったといいます。昭和二十八年(1953)、いか釣り船の遭難が続いたため、漁船から見やすい島の南側の現在地に移転し、同五十三年四月三日には四坪の本殿が落成し現在に至ります。拝殿の扁額「弁天神社」。拝殿前から鳥居を見る。道路脇の咲き終わったアジサイの花柄。大間崎駐車場第1駐車場所在地:青森県下北郡大間町大間大間平17-2早朝でまだ空いていたので第1駐車場へ停めたが、大間崎公衆トイレ、大間崎テントサイト、炊事棟があり本州最北端でのキャンプができる。大間崎駐車場案内駐車場から海岸線へ、両脇には土産物店が並ぶ。大間崎レストハウス観光案内所で、9:00~17:00まで開業している。期間は4月27日から10月31日まで開業期間です。なお、冬季間(11月~4月後半)は閉館しております。三方がガラス窓で囲まれ、白黒灯台がたつ弁天島や津軽海峡をはさむ雄大な北海道の山々を望むことができ、無料休憩所としてもご利用いただけますと。レストハウスの裏に立っている碑に、「一番マグロの謳 福田こうへい 完成 令和6年7月3日(水)」と。歌は「一番マグロの謳」👈をクリック願います。広いステージがあり、津軽海峡の先には北海道の山並みが見えていた。この日は穏やかな天気であったが冬場は寒風吹き抜ける地。下北半島国定公園「大間崎」と。津軽海峡に浮かぶ「弁天島」に「大間埼灯台」、右側に「ゲンベイ礁灯標」が浮かぶ。弁天島に建つ「大間埼灯台」、後方は北海道の山並み。大間崎から沖合およそ600mにある「弁天島」へは漁船以外に渡る手段はないと。よって、一般観光客は行けないのであろうか。大間埼灯台と弁天神社本殿北の海上に見える弁天島は、白黒ツートンカラーの「大間埼灯台」が目に入いるが、その足元にある赤い建物が「弁天神社本殿」。弁天神社本殿旧三月三日、新暦四月三日は島の弁天様の例祭です。漁師は早朝に起き、漁船を丁寧に掃き浄め、塩をまいて悪魔祓いを行い、前夜のうちに用意した女房手づくりの料理を重箱に詰め、一升瓶の酒を片手に、綺麗に飾り付けを施した船を並べて弁天島へ向かいます。そして小高い山にある弁天様の前で海上安全を祈念しながら神楽を舞い踊ります。この弁天島に誰が祠を建てたのか知る者もいませんが、この祭事を永く伝承してきましたと。モニュメントに「まぐろ一本釣の町 おおま」と。力強い腕で300キロを超えるマグロを釣り上げるのだ。モニュメントは平成6年に水揚げされた440kgのマグロがモデルになっている。最近騒がれているヒグマ、ツキノワグマも大きいものは300キロ超あると。1998年3月建立 大間町 制 作:株式会社 やまと石材 デザイン:㈱アイ・プロダクションまぐろ一本釣の町 おおまクロマグロの値段は、時により1kgあたり10,000円以上の値段がつく。よって100kgのクロマグロなら100万円になる。正月のテレビの話題にのぼる「初荷のご祝儀相場」は、因みに、 2008年重量170kg、607万円。 2009年重量128kg、963万円。 2010年重量200kg、1400万円。(久兵衛と香港すしチェーン店落札) 2011年重量342kg、3249万円。(久兵衛と香港すしチェーン店落札) 2012年重量269kg、649万円。(すしざんまい落札) 2013年重量222kg、1臆5540万円。(すしざんまい落札) 2014年重量230kg、736万円。(すしざんまい落札) 2015年重量180kg、451万円。(すしざんまい落札) 2016年重量200kg、1400万円。(すしざんまい落札) 2017年重量412kg、7420万円。(すしざんまい落札) 2018年重量405kg、3635万円。(やま幸落札) 2019年重量278kg、驚きの3億3360万円。(すしざんまい落札) 2020年重量270kg、1億9320万円。(すしざんまい落札) 2021年重量208kg、2084万円。(やま幸落札)※コロナ禍 2022年重量211kg、1688万円。(やま幸&銀座落札)※コロナ禍 漁師の手元にはこの金額の約5割が振り込まれると。クロマグロ一本釣りの説明板大間沖に回遊するクロマグロは・・・(中略)・・・大間のクロマグロ魚は他地区と異なり、明治・大正から続く、昔ながらの一本釣りである。漁場は、海がなぎていてもその漁場だけは波が高く、五トン前後の船で、数百キロのクロマグロを追う一本釣りは、まさに命懸け□おる。このような命懸けの大間のクロマグロ一本釣り漁を、緒形拳、夏目雅子の主演により、松竹映画にて「魚影の群れ」というタイトルで映画化され、全国から一躍脚光を浴びたのである。七枚のタイルで北海道側の山並みを説明。北方東前方に北海道の恵山(えさん)。標高617メートルの恵山は今も噴気をあげる活火山で、渡島半島の南東端、亀田半島の太平洋に突き出た位置にあります。標高300メートルの火口原駐車場までは大型バスも登ることができますと。恵山をズームアップ。恵山へは4,5年前に北海道の続日本100名城へ登城した時訪れた。その時の対岸からは「函館の旅3日目」👈をクリック願います。恵山は、明治7(1874)年6月に小噴火して以降は小康状態にあるものの、今もなお噴気を上げ続ける姿に大地の鼓動を感じ取れます。栄養分の少ない火山灰、津軽海峡で発生する霧の影響による日照不足などの条件が重なり、さほど高くない恵山では2,000m級の山でしか見られないような高山植物が観察できますと。右から「戸井町」「毛無山」「弁天島」。函館市内方向で、右から主なもので「函館空港」「五稜郭タワー」「函館市街地」「函館山」と。更に左(西側)に振り、右から主なもので「北斗市」「横津山」「駒ヶ岳」「瓜谷山」「木古内町」と。駒ヶ岳方向をズームアップするが確認できなかった。冬場の気温が下がった時は確認できるのであろうか。木古内町から左方向には「知内町」「福島町」。大きなコンテナ船が航行していたがどこの国の船か。山は「瓜谷山」か。一番左側のタイルには、右から「白神岳」「白神岬」「松前半島」「松前町」「日本海」と。松前町方向をズームアップ。松前町方向から更にカメラを左に降ると、今夜宿泊する津軽半島の「竜飛岬」の影。開店前の大間崎レストハウス。観光みやげ店があったが開業前であった。店先に「会津斗南藩 資料館」の看板があったが。8:40ステージに「こゝ本州最北端の地」の碑が立つ。 ー 続く ー
2025.11.19
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時間がなく速足で参拝した恐山菩提寺であった。10月21日(火) 16:05御朱印所建物の入口に「御朱印所」と、右側に寺務所、後方の山に「龍神堂・稲荷堂」が鎮座。荒涼とした参道脇に「林崎方面」と。団体の記念撮影場所「恐山参拝記念」と。かつてバスツアーに参加するとよく撮影したものだが。境内の散策を終え総門前へ。総門の東側に建つ「寺務所、御朱印所」。山門の右に位置しており恐山の運営と事務を司っている。御朱印の記帳、塔婆供養(ご先祖供養)・ご祈祷など、法要の受付をしている。寺務所の後方の山に建つ「龍神堂・稲荷堂」。寺務所裏(東側)の階段上には、護法龍天善神と稲荷明神が祀られています。竜神は雨ごいや止水、大漁祈願や海上安全など、農業や漁業に関わる神で、稲荷明神の信仰は、五穀豊穣や商売繁盛などを祈願するものです。ともに恐山の守護神であると。参拝しなかったのでズームアップ。上から見る境内360度の眺望もよかったようだが。総門を出て境内を振り返る。六地蔵駐車場の西側に並ぶ、六地蔵の座像。六地蔵の座像と立像の違いは、主に姿勢とその意味にあります。座像は瞑想や説法の姿勢を表し、立像は人々を救済するために立ち上がった姿勢を表します。この違いは、信仰の場での役割や、参拝者の心に与える影響にも影響を与えますと。仏教では、この世界は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つに分かれ(六道)、それぞれに苦しむ衆生がいるとされます。その六つの世界で、大いなる慈悲によって衆生を救うのが六地蔵であると。台座の右から、南無地蔵願王尊 釋伽文佛遺付属南無地蔵願王尊 出現悪世入禅定南無地蔵願王尊 地獄無間代受苦台座の右から、南無地蔵願王尊 人間済度生死海南無地蔵願王尊 天上遠離五衰難南無地蔵願王尊 一釋一禮勝功徳門、塀内は有料エリアになっている。冠木門と、?門。西側には極楽浜がある。総門前へ戻る。閉門の17時まで時間がなかったが、まだ訪れるツアー客も。自分ももう少しじっくり見てもよかったのだが、いささか疲れ気味に。16:15入山時に「急いで参拝してください」と言われたため、速足での参拝となった。下北半島のへそに当たる「恐山」は以前から気になっていたので今回の旅で心残りが減る。この後は今夜の宿泊地「大間」をカーナビにセット、所要時間は約1時間と。宇曽利山湖畔の紅葉が奇麗であったので道路脇に駐車、恐山菩提寺を振り返る。南側には宇曽利山湖の外輪山。 右側の山の名が気になっているが「小尽山(標高429m)」であろうか。 湖畔の遊歩道から恐山菩提寺駐車場を振り返る。駐車場の西側には極楽浜があったのだが行かなかったので我が世は「地獄」かと。駐車場の南側。東方向には宇曽利山湖から流れ出る唯一の正津川の出口で、津軽海峡へと流れ出る。宇曽利山湖の北側には遊歩道があるが「熊出没注意!」の看板があり安心して歩けない。ズームアップ。紅葉した樹の斜面に地蔵。地蔵の台座には「三十二番」と。詳細は説明板がなく不詳。ハゼノキであったか。道路脇の石柱に「三丁」と。長さ1丁(町)は約100メートルで3丁は約300メートルになるので恐山菩提寺までの距離か。三途川橋を通り抜けこの先を左折、県道4号線(むつ恐山公園大畑線)へ。宇曽利山湖の三途川橋から山間部を約20分走り薬研温泉郷へ。合流点に建つ温泉案内板、四阿。案内板には「ようこそ 薬研温泉郷 大畑町」と。合流点を左折すると薬研温泉になるが、大間へは右折して大畑漁港方面へ。振り返ると覆い屋の中に地蔵が立っていた。公衆トイレ所在地:青森県むつ市大畑町大畑漁港からの県道4号線(むつ恐山公園大畑線)の薬研温泉途中にある公衆トイレである。この辺りは紅葉の名所で知られトイレもあるので車中泊する人が多いようだ。広い駐車場で整備されていたが他には車は駐車していなかった。最近はクマが出るので一人泊は怖いのでは。この後県道4号線を下り、大畑漁港辺りから夕闇の国道279号(むつはまなすライン)沿いを北上して宿泊地の大間へ。17:35おおま温泉海峡保養センター所在地:青森県下北郡大間町大間内山48-1自宅からの今日走った走行距離は、986キロであった。到着時の気温は10℃。頂いたパンフレットから、センターは日帰り温泉もあり「本州最北のいで湯」である。日帰り温泉は、大人400円であったが宿泊者は入湯税(150円)のみ。センターには大風呂があり地元の方も多く入浴しておられた。自信の逸品「大間マグロ」。宿泊の保養センターはネットから検索して予約した。マグロ一本釣りの町「大間町」。センター内に展示されていた釣り竿。「松方弘樹 マグロ夢世界 ~H15年度 361kgへ挑戦!!」と。俳優の故松方弘樹氏が使用していた、 釣り竿、リール、Tシャツと 沖縄で釣り上げたマグロの背ビレ釣りが趣味で、生前たびたび大間を訪れていた松方氏。長年の付き合いがあった当町マグロ漁師との縁から、松方氏側より大間町での釣り竿展示についての話がありました。その後、松方氏が出演していた釣り番組等で繋がりのある会社:株式会社AOS様の手配により、大間町での展示が実現しました。釣り上げたマグロと釣り人であろうか。知り合いに似た人?が中央に。19時から夕食とのことで大広間へ。数グループの方が宿泊しておられた。夕食膳地酒を一合頂いたが疲れた体には美味しかった。マグロを期待したが、小鉢が多かった。夕食後、風呂へ入り21時には疲れから爆睡状態に。この日の走行距離は986km、歩行数は10,500歩であった。 一日目END
2025.11.18
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恐山菩提寺の参拝を続ける。10月21日(火) 15:45大師堂の裏に立つ「大師説法之地」の石柱。看板には「恐山 心と見ゆる湖を 囲める峰も 蓮華なりけり 大町桂月」。石柱には「空風火水地 大師説法之地」と。岩場の上に像が立っていた。時間がないのでズームアップ。像の台座には「大平和観音」、横には「永代無縁碑」と刻まれた石碑が確認できた。観音像の足元には多くの風車。南方向に”宇曽利山湖 極楽浜”を見下ろす。宇曽利山湖は、直径3kmの恐山カルデラのカルデラ湖で、成層火山の火山活動で、陥没した火口原に水が溜まったもの。石板が3枚立っていた。左側の三角の山は「小尽山(標高429m)」であろうか。石板には、「摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五□ 皆空度一切苦厄舎利子色・・・・・・・ ・・・後略・・・ 昭和六十二年仲秋陸奥恐山於法要 為 清晃軒善覚良然居士 施主 ・・・・・・・・・・・・・」と。般若心経であるようだが。足元には、イソツツジ(磯躑躅)が咲いていた。花の名は写真をスマホから検索。二つの角柱には「法名 年月日 名前・年齢」が刻まれていたが墓石であったか。座には一円、五円玉が供えられていた。同場所から西方向に広がる「賽の河原」を見下ろす。時間がなく、疲れもあり行かなかったが「八角円堂」「水子供養地蔵尊」「血の池地獄」と見どころがあったのだが。八角円堂をズームアップ。八角堂内正面の地蔵菩薩像は、賽の河原の本尊とされ、実際にはこの像が恐山最古のものであるとする説があります。堂内に奉納されているのは、本堂同様にすべて遺品で、主に衣服、履物、写真ですが、玩具、時計、眼鏡などもあり、亡くなった家族を偲ぶものが多く奉納されていると。同場所から南東方向の山門を見下ろす。大師堂を後方から。多くの風車、風があると一斉にくるくると。大師堂前から山門を見下ろす。山門をズームアップ。南方向の丘に「延命地蔵尊」。地蔵殿の左手に広がるのは、火山岩で形成された「地獄」。現世で犯した罪の罰を受ける136もの地獄をあらわしているのだそうです。辺りは荒涼としていて植物もほとんどなく、至るところから火山性ガスが噴出していて、まさに地獄のような景色が広がっていると。延命地蔵尊をズームアップ。地獄のなかで最も高い場所にあるのが、恐山菩提寺の本尊となっている「延命地蔵尊」。急勾配の岩場を進むと近寄ることができ、この辺りからは恐山の本堂や社務所、宇曽利湖が一望できると。奥の院不動明王への参道入口に「納骨塔」。地蔵殿の西側を見下ろす。地蔵殿の横から延命地蔵尊を見上げる。残念ながら急いで参拝しているので行くことを諦めたが、手前にも塔が立っていた。手前の碑には「戦歿者慰霊ノ碑」と。ズームアップすると、左右に狛犬が祀られ、石碑には「戦歿者慰霊の碑」と。地蔵殿の左側の一角に古い地蔵が置かれ、周りには多くのお供え物。左奥の高台には「納骨塔」、右側は「奥の院不動明王」への参道。地蔵殿前から参道を見下ろす。参道から西側の火山岩で形成された「地獄」を見上げる。いたるところから火山性ガスが噴出している。参道から「戦歿者慰霊の碑」を見上げる。碑の前には石が積まれ風車。参道には「危険」と書かれた看板も。参道の右側(東)に「湯小屋」が一棟。境内には4湯の温泉(古くは5湯)があり無料で入浴できる。入口に「薬師の湯 男湯」とあり、湯は眼病に効くと。入山料を支払った人は無料で入浴できると。タオルがなければ700円で販売。入浴された方に聞くと「熱かった」と。男湯前から手水舎を見る。参道を挟んで西側に建つ湯小屋は二棟。案内に女湯とあったので行かなかったが、「冷抜(ひえ)の湯(女湯)」は神経痛やリュウマチに、「古滝の湯(男女日替り)」は胃腸病に効果があると。いずれも硫黄泉である。他に宿坊裏にある「花染の湯(混浴)(現在調整中で入浴できません)」は肌によいとされる。参道の南側に建つ荘厳な山門。塔婆堂参道の西側に建ち、大祭中に卒塔婆供養が行われ、その卒塔婆を奉納するお堂である。塔婆堂の右側には塔婆が立っていた。塔婆にはいろいろと字が書かれ、地蔵も立っていた。地蔵が並び、左には「□□家 先祖代々有縁無縁 供養塔」「故陸軍・・・」と刻まれた塔。宝篋印塔も立っていた。後方には「戦歿者慰霊の碑」。台座には「寶篋印塔、4名の名、安永四□□□」と。湯小屋越しに地蔵殿を見る。塔婆堂前から境内の北側を見る。荘厳な山門である。山門脇から本堂を見る。本堂前から境内の北側を見る。16:05地蔵殿の裏山が紅葉するとまた違った光景になるのであろう。 ー 続く ー
2025.11.17
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恐山菩提寺の参拝を始める。10月21日(火) 15:35総門から境内の参道を見る。総門から本尊地蔵菩薩を安置する地蔵殿まで、一直線に参道が続いている。総門を潜り山門を見る。右側に寺務所、御朱印所がある。寺務所裏側に「宿坊 吉祥閣」があり、少々高額だが宿泊料は1人17,000円(一泊二食付)。山門前の参道左側に建つ建物は、手前に「休憩所?」「本堂」。参道左右の石灯篭は全部で43基あり、江戸時代末に、北前船を主とする海運業に関係する廻船問屋、商人、船主などから寄進された。下北半島最高峰の釜臥山の神(釜臥山嶽大 明神)は、恐山本堂の本尊、釈迦牟尼仏の化身とされ、航海する船舶の守護神であり、海上安全・航海無事を祈る人々の帰依を受けたのだと。柵の前に「永代常夜燈」と。石灯篭は柵で囲われたものもあったが。こちらも「永代常夜燈」であろうか。右は寺務所への石畳。新旧の地蔵が立ち、新しい地蔵の台座には「お願い地蔵尊」。また左の石灯籠には「四十八燈」と。石灯籠には番号が刻まれており、小さな地蔵が奉納されていた。石を積みあげた山に風車がさされていた。本 堂山門前左側に建っている。曹洞宗寺院としての恐山菩提寺の本尊、釈迦牟尼仏をお祀り。塔婆供養の法要は、この本堂(別名は菩提堂)で行う。この建物は元々武術道場で、戦後に移築されたもので、境内の建物では古いものである。入口に「大聖釈迦如来安置 本堂」と。唐破風の彫り物。入口の軒先にも彫物。本堂の内陣をズームアップ。山 門左右に立つ阿形・吽形の仁王像が境内を守護し、楼上には曹洞宗大本山第78世貫首、宮崎奕保禅師様の御親筆による山号額を掲げてある。楼上内には、釈迦牟尼仏の下で悟りを開かれた十六大阿羅漢・五百大阿羅漢などをお祀りしていますと。山門の扁額「霊場 恐山」。右側の仁王像「阿形仁王像 高さ三米三糎 岩絵具着色」。「製作者 四天王寺 成田山 大佛師 松久宗琳」。左側の仁王像「吽形仁王像 高さ三米三糎 岩絵具着色」。「製作者 四天王寺 成田山 大佛師 松久宗琳」。山門の下から地蔵殿を望む。参道の左右に4つの湯小屋が建っている。参道には石灯籠が立ち並び、奥に地蔵殿が建つ。右側には寺務所からの廻廊。山門を潜ると参道の右側に「湯小屋」が1棟建っていた。後方には寺務所から地蔵殿まで連なる長い廻廊。参道の左側にも温泉の湯小屋が建っていた。境内の温泉恐山は、霊場となる以前には、地元の人々が温泉を発見し、湯治場として知られるようになったと考えられている。境内には4湯の温泉(古くは5湯)がある。寅マークのロープが張られ立入禁止エリアも。手水舎御守札所参道の突き当りの一段高いところに建つ「地蔵殿」。階段を上ると左右に新旧の狛犬が立ち、右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。地蔵殿霊場恐山の本尊延命地蔵菩薩像を奉安する地蔵殿。ここでは主に祈祷の法要を行っている。地蔵像は約2メートルで、開山慈覚大師の彫刻と言われる。僧侶の法衣や袈裟を着用した仏像は非常に珍しく、ほとんど例がありません。内陣は撮影禁止になっていた。地蔵殿の扁額「伽羅陀山」。入口に「本尊伽羅陀山地蔵大士安置 地蔵殿」。 ◉田名部海辺三十三観音巡礼三十三番札所 恐山 菩提寺 聖観音及び十一面観音恐山は貞観四年(862)に天台宗の慈覚大師によって開山されたと伝えられる。康正二年(1456)蛎崎の乱の際に焼き払われ、いったん廃寺となるが、享禄三年(1530)に円通寺開山の宏智聚覚和尚が再興した。観音像はこちらの開山堂に安置され、中央の聖観音、十一面観音ともに円空作で、ナタ彫りという独特の技法で作仏されたものであり、巡礼の結願所としてふさわしい霊場である。ここにも円空作の観音があるのだ!円空については「円空の墓」👈をクリック願います。地蔵殿前から参道を見下ろす。地蔵殿の左側へ廻る、ここにも「熊に注意」と。左の地蔵の台座には「三十三番」、右の五輪塔には「供養塔」と。右奥の案内板には「奥の院不動明王 参道」。地蔵殿の左側の一角に古い地蔵が置かれ、周りには小石が積まれ風車が立てられ、供え物、ペットボトル、花が供えられていた。紅葉が始まっている地蔵殿の裏側。小石が積まれた参道の案内板に「奥の院不動明王 参道」と。賽の河原には亡くなった幼い子供を弔うために両親が積んだ石や、くるくるとまわる風車がありもの悲しさが漂う。参道には小さな風車が立っていた。恐山は1万年以上前に噴火したと言われる休火山であるがところどころで噴煙が上がる。噴煙が上がる先の山は?。蒸気が上がる岩場。こちらの岩場には「無間地獄」の看板。恐山には罪を犯した人が罪を受ける場所「地獄」になぞらえた136ものスポットがあります。「無間(むげん)地獄」「血の池地獄」「塩屋地獄」「重罪地獄」などなど、参拝コースの中のいたる場所に〝地獄の看板〟を見つけることができます。無間地獄は、仏教世界の8つの地獄のうち、最も過酷、地獄の中の地獄とされている地獄。絶えず襲いかかる試練や苦痛は、ほかの7つの地獄が可愛く見えるほど。恐山の無間地獄は、そんな地獄のように地形がゆがんでいることからこの名前がつきましたと。北側の山の中腹に「奥の院不動明王」があり参道。岩場の参道を上ると堂が建っていた。最近は各地でゲリラ豪雨が発生、参道に土嚢が積まれており土砂が流れたのであろうか。堂の前に「大師堂」の看板。この堂は慈覚大師をお祀りする大師堂。大師堂周辺、さらに参道沿いの所々に立てられている風車は、亡くなった子供への供養として始まり、今は花の代わりとして、子供に限らず故人の供養に立てられている。慈覚大師堂大師堂の中には石仏があり多くのわら草履が供えられていた。堂の廻りには多くのタオルや手拭、草鞋などが結び付けられている。これは、死者が死後の世界と恐山の間を往来しているという信仰に由来していて、暑い最中の長い道程に必要だと考えて、タオルや履物が奉納されていると。左奥には「大師説法之地」の石柱が立っていた。15:45大師堂の裏に「大師説法之地」の石柱が立っていた。石が積まれ多くの風車、おさいせん箱も。 ー 続く ー
2025.11.16
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11月11日に「楽天ブログのアップが困難に!」をアップした日に何故か、ブログの編集が可能になり、引き続き「続日本100名城東北の旅」をアップします。10月21日(火) 15:00県道6号線(むつ尻屋崎線)から右折、県道4号線(むつ恐山公園大畑線)の坂道を上る。途中、道路をクマの親子3頭が横切りビックリ。樹々の紅葉が始まっていた。県道4号線沿いにこの「釜臥(かまふせ)山展望台」の案内板があり左折し振り返る。恐山展望台所在地:青森県むつ市県道4号線から”かまふせパノラマライン”を上り釜臥山展望台への途中にある展望台。天気が良ければ函館、津軽海峡、陸奥湾が見える。北西の方向に宇曽利山湖が見えていた。宇曽利山湖(うそりやまこ)をズームアップ。湖の名の由来は恐山が古くは宇曽利山と呼ばれたことにによると。ガスっていて遠くは見えなかった。プレートは見ずらかったが「恐山展望台」からの光景。左から「函館方向」「津軽海峡」「恵山岬」、左手前には「宇曽利山湖」「恐山」と。北西の方向にかすかに海が見えていたが。このまま”かまふせパノラマライン”を上ると釜臥山展望台があるが人気がないので、ここで引き返すことに。県道4号線(むつ恐山公園大畑線)へ戻り、恐山へ下る。三途の川(さんずのかわ)所在地:青森県むつ市田名部道路脇に駐車場があり駐車。傍には「小地獄釜の湯」もあり硫黄の臭いが漂っていた。下ってきた道を振り返る。道路標識には、むつ市街、薬研(やげん)の案内。恐山参拝後は、薬研方面へ走る。バス停は下北交通「太鼓橋」。運行期間は5/1~10/31で、一日に4本の運行となっている。東北自然歩道 霊場恐山をたどるみち案内図 青森県・環境省恐山の開山期間 4月末~10月末頃観光道路通行期間 5月初旬~11月3日まで交通機関 下北交通㈱恐山大祭 7月20日~24日恐山秋詣り 体育の日を最終日とする3日間朱色の「太鼓橋」と左側には「奪衣婆と懸衣翁」。正津川に架かる太鼓橋、右側には「熊出没注意!」の看板。駐車場に数台の車がとまっていたので散策できたがクマは怖い存在である。上記3枚はスマホで撮影したが空の雲が奇麗に撮れた。奪衣婆(ダツエバ)と懸衣翁(ケンネオウ)「奪衣婆と懸衣翁」中国由来の経典「十王経」には、死後の世界の話が記されています。それによりますと、人が亡くなって三途の川までやってくると、そこに「奪衣婆」が待ち構えていて、身ぐるみはがしてしまうのだそうです。その衣類を「懸衣翁」が受け取って、かたわらの柳(衣領樹)の枝に懸け、その枝の垂れ具合で生前の悪業の軽重を推量します。この後、閻魔様などの前に出て、地獄か極楽か、どこに行くのか言い渡されるということです。日本では江戸時代末に民間で、信仰されました。通行止めになっている木製の太鼓橋。右側の橋の袂には「三途川」と。左側の袂には「宇曽利山湖」と書かれた木柱。また、小石が積まれ、風車、人形が置かれていた。宇曽利山湖から流れ出る唯一の正津川の出口である。太鼓橋の欄干は近年に塗られたようだ。三途川橋上からむつ市街方向を振り返る。左側に無舗装の駐車場がある。白く濁った正津川。ちなみに正津川の別名は三途川であると。正津川の下流には”恐山野湯群”があり、津軽海峡にある正津川漁港へと流れる。左側の建物は?。左奥に今日の最終目的地「霊場恐山」が見えていた。三途の川にかけられた太鼓橋を渡って霊域に入ると、死後の世界のような風景が広がると。15:20恐山菩提寺所在地:青森県むつ市田名部宇曽利山3−2比叡山・高野山とともに日本三大霊山といわれる恐山。地元では古くから「人は死ねば恐山に行く」と言い伝えられてきました。外輪山に囲まれた霊場は、外部からは見ることのできない途絶された場所であると。また霊場内には4つの湯小屋があり、参拝者は無料で入浴できるが、混浴や男女入替等もあるのでご注意を。広い駐車場があったがこの時間帯でも多くの車が駐車していた。駐車場の正面に「総門」、右側には「総受付」。雲が垂れこみ薄暗くなっていた。トイレ前から売店を見る。既に愛車のノートでの走行距離は930キロで少々疲れを感じる時であった。総受付入山料を700円で購入。係員から閉門の17時まで時間があったが「時間がないので急いで参拝してください」と。急いで参拝することに!恐山菩提寺の創建は862年。慈覚大師円仁が夢のお告げに導かれ、諸国に教えを説いた旅の果てに、この下北の地に「恐山菩提寺」を開山したと伝えられている。◆寺 名 恐山菩提寺◆本 尊 延命地蔵菩薩◆開 基 慈覚大師円仁◆本 坊 曹洞宗円通寺◆開山期間 毎年5月1日~10月末日◆開門時間 5月~9月 6:00~18:00 10月 6:00~17:00◆大祭典 7月20日~24日◆秋詣り 10月の体育の日が最終日となる3日間(土・日・月)◆入山料 個人・1人700円◆宿坊「吉祥閣」宿泊料 1人17,000円(一泊二食付)恐山菩提寺 鳥瞰図境内の参拝の所要時間は約1.5~2時間を要すると。総 門土塀で仕切られた境内の正面が総門。そこから本尊地蔵菩薩を安置する地蔵殿まで、一直線に参道が続いている。総門に掲げられていたお願い。瓦志納のお願い当山では只今「昭和の大復興」と称し境内諸堂の整備事業を進めております。御参詣の皆様にも暖かい御支援を賜わりますようお願い申し上げます。 一、平 瓦 一枚 壱阡円 一、まる瓦 一枚 壱阡円 一、軒 瓦 一枚 貮阡円 一、紋様瓦 一枚 参阡円御志納は志納袋にご記入の上、寺務所及び入山受付所にご提出下さい。 恐山菩提寺「昭和の大復興」とあったが、今でも継続しているのであろうか。15:35総門の左側に「来迎の像」が立っている。恐山奥の院 地蔵菩薩は中心にして不動阿字の本体なり 若し衆生有って是の心を知らば決定して成就す 「仏説延命地蔵菩薩経」より右の一句は地蔵菩薩と不動明王の二而不二を意味し不動明王は地蔵菩薩の化身というのであります。それ故に当山本尊伽羅陀山地蔵大士を中心に、奥の院地蔵山不動明王、奥の院釜臥山嶽大明神本地釈迦如来が一直線上に奉納され三者が一体であることを意味しております。当山は伽羅陀山地蔵大士を本尊に仰ぐ霊場であります。地蔵菩薩の「地」という文字は大地をあらわし「蔵」は生命を産み出す母胎、母の心をあらわしております。人に踏まれても、ひたすら人をささえていく大地と子の痛みを我が痛みとしてしかとうけとめてくれる母の心こそ地蔵菩薩そのものなのであります。即ち、釈迦如来の附属を受けた本尊の慈悲心と一切の煩悩を打ち砕く確固たる不動心の現成が蓮華の花びらのような八峰(地蔵山・鶏頭山・大尽山・小尽山・北国山・釜臥山・屏風山・剣の山)に囲まれた蓮華台の如き恐山そのものなのであります。ご参拝の皆様には「釈迦地蔵不動一体義」の元、右の三聖地をお参りなされる事によって、当山参拝の結願が決定成就されるのであります。 霊場恐山 恐山菩提寺来迎の像右側の石碑には、「恐山 来迎の像 掌をあわせ 篤きものを一心に 拝むこゝろぞ 佛ふりけり」と。 ー続く ー
2025.11.15
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残念ながら17年間で開催を終えた「新磯のざる菊」。地方でも過疎化で祭り等の継承者がいなくて開催の危機に陥っていると11月8日(土) 12:35勝坂はやし保存会のメンバーの演奏。笛・太鼓の演奏であった。相模原・座間市の自称写真家というMr.Tさんも撮影。焼鳥のいい匂いがしていたので2本購入。1本¥100。焼き芋が欲しかったのだが30分待ちとのことで諦めた。中央のテントには「来賓席」と。ざる菊を楽しみ後にすることに。寄付者の名が増えていた。会場をズームアップ。この時間帯には人が減っていた。コキアの紅葉12:45この時間帯でも交通整理。ポスターは自民党系に「市長 もとむら」「県議 京島」「衆議院20区支部長 金澤」各氏。金澤ゆい氏は会場に訪れ記念写真。臨時駐車場へ戻る。この時間帯には駐車場は空いていた。相模の大凧センター所在地:神奈川県相模原市南区新戸2268-1 相模の大凧は、天保年間(1830年-1844年)から継承される相模原市の伝統行事です。今も大凧作りと大凧揚げの技術が地域住民らに受け継がれています。大凧センターはその大凧揚げの文化の保存・継承を目的とした施設で、実物の大凧の展示や大凧が空を舞う映像、日本各地や海外の凧の展示がされています。また工作室では凧づくりの体験や陶芸・手工芸が可能です。センターへはトイレ休憩で立ち寄ったが二度目の訪問である。センターの外壁に大凧。れんげの里 あらいそ ご案内緑色エリア:大凧センター 1階、2階桃色エリア:ふれあいセンター 2階:交流広場黄色エリア:こどもセンター になっている。エントランスを入ると左側にピアノが置かれ自由に演奏が出来る。この日はご婦人が一人で演奏されていた。センターへ入ると正面に記銘帳等が置かれていた。大凧センターは、1階、2階が吹き抜けになっており大凧が吊るされている。詳細は前回訪れた時の「相模の大凧センター」👈をクリック願います。今年上げられた凧も展示されていた。また2階の通路には世界のタコが展示されている。JR東日本×相模原市 デザインマンホール蓋JR東日本横浜支社と市制施行70周年を迎える相模原市が連携して、沿線地域の魅力発信と活性化を図る目的で製作したマンホール蓋。市の伝統である相模の大凧と山々を背景に桜のトンネルを駆け抜ける相模線をデザインしています。デザインマンホール蓋の実物は、橋本駅北口ペデストリアンデッキ下にあるよ!!相模線 E131系ホームドアやワンマン運転に備えた各種設備を搭載し、車両モニタリングや設備モニタリングといったスマートメンテナンスに対応した設計がされている。前面と側面のカラーリングには遠くまで広がる湘南の海をイメージした濃淡二色の青色が使用され、前面のドット柄は迫力のある水しぶきを表現している。相模線×相模原市 鉄×蓋プロジェクト山本由伸投手マンホール蓋同投手は岡山県備前市出身。米大リーグ・ドジャースの山本由伸投手(26)をデザインしたマンホールの蓋が2025年6月25日、同市伊部の「伊部運動公園」に設置された。米大リーグ機構(MLB)が、日本人選手ら12人の活躍をたたえようと企画。山本選手が小学時代に所属したチーム「伊部パワフルズ」の仲間たちと練習に励んだこの公園が選ばれた。ホールの奥に入り入口側を振り返る。吹き抜けの展示ホールの天井からぶら下がっている大凧は圧巻である。7間凧と呼ばれる大凧で、大きさは12.1m四方、88畳もの広さがありますと。ホールには大型モニターがあり、椅子が用意されていた。れんげフェスティバル 入場無料 新磯ふれあいセンター・相模の大凧センター 11.15 Sat 10時~16時当日はいろんな催事が予定されているようだ。また、当日はキッチンカーも2店出店すると。祝 南区誕生15周年令和7年 相模の大凧まつり 題字『喜翔(きしょう)』米大リーガー。ドジャースの大谷翔平の活躍で世界中の方が称賛し喜んでいます。さらなる活躍を望んで大空に翔いてもらいたい。例年大凧の題字は、市民等から募集し、相模原市長が直筆した字画を大凧に描いています。祝 相模原市制70周年相模の大凧文化保存会相模原市は「芝桜祭り」を中止?、今回訪れた「新磯のざる菊」も今年で終了と。相模原市は「沿線地域の魅力発信と活性化を図る」と、うたっているが「大凧まつり」はいつまでも保存継承してほしいものだが。大凧センターの前の通りは「桜のトンネル」となり相模線が走っている。駐車場に立っていた幟旗に「頑張れ! ノジマステラ 神奈川相模原!」と。ノジマステラは、相模原市、座間市、綾瀬市、海老名市をホームタウンとする、日本女子プロサッカーリーグ所属の女子サッカークラブである。帰路、遅い昼食を吉野家でとる。写真は一口食べ撮影したが、牛丼498円。肝心なお米にもちもち感がなくいまいちであった。お米だけは美味しく炊いてほしいものだ! END ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11月11日(火) 13:15 茅ヶ崎中央公園(第一カッターきいろ公園)年末の恒例である「第41回 第九演奏会」が12月7日(日)に開催されるのでチケットの購入に市民文化会館へ出かけ、途中茅ヶ崎中央公園(第一カッターきいろ公園)へ。地球温暖化で長い夏が過ぎ、短い秋ながらもいつの間にか紅葉が進んでいた。今年の冬はどうなるのか。目的の「第41回 第九演奏会」チラシ。開催日:12月7日(日) 14:00 開演(13:00 開場)場 所:茅ヶ崎市民文化会館 大ホール料 金:一般 2,000円 自由席自由席一枚を購入、人生2度目の聴衆である!市民文化会館の駐車場脇に展示されていた菊。いつもは駐輪場スペースだが。係員がおられ菊の販売もされていた。特別賞、神奈川知事賞花名:国華八坂部門:三本立 厚物上から見下ろす。茅ヶ崎市長賞作品は「三本立 間管」。上から見下ろす。このような文化も日本独自のものであるのではと。 END
2025.11.14
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ざる菊会場は紅・⽩・⻩・ピンクなどの約8種類、約1,300株が咲き誇る。”新磯のざる菊”会場へ来て初めて知ったが今年が最後になると、理由は夏場の管理が厳しくメンバーも高齢化したためとのこと。11月8日(土) 11:55若い人も法被を着ておられたが。オカリナの演奏が始まった。曲目は聴き慣れた「筑波山麓・・・」。スマホで撮影。白いベレーボーを被ったメンバーの中に男性が1人。女性一人の場合は「紅一点」だが、男性の場合は「?」。ゲートの下に、「17周年記念 日頃より新磯ざる菊愛好会に対し格別なるご理解とご協力賜り厚く御礼申し上げます。 新磯ざる菊愛好会も地域の皆様、そして各方面の皆様のご支援を頂き花見会も十七回を 迎えることが出来ましたが 十七回を持ちまして残念ながら最終回を迎える事となりました。 最終回を記念し花見会会会場の維持管理費募金に百円以上ご協力頂いた方に空クジなし のクジを引いて頂きちょっぴり得した景品と交換してください。 なおクジ引きは式典終了後となります。お一人様一回限りとさせて頂きます(数に限りが あります) 長年に渡りご支援ありがとうございました。 新磯ざる菊愛好会」。 抽選で生卵をワンパック頂いたが、同じものが200円で販売されていた。ネギが2本で100円であったので購入。まだすべてが満開ではなかった。椅子には市長名もあったのか。白系のざる菊は開花が遅いようだ。オカリナグループを後方からズームアップ。ベンチが置かれていたが多くの人が座っておられた。ざる菊の開花までの管理は、 ① 4月中旬 新芽の掘り起こし ② 仮植え ③ 5月初旬 畑づくり(堆肥投入、マルチ張り) ④ 5月下旬 本植え ⑤ 管理 除草作業、散水、消毒 ⑥ 開花 黄色が10月中旬ごろから咲き始めます。咲かせるまでにいろいろと管理があり、高齢者だけの管理にとっては大変では。赤、黄色系が満開であったか。高台で休憩をしていて相模原・座間市の写真家というMr.Tさんとの会話。式典に来ていた市長に対して「市からの援助をしてざる菊開催の継続を」と伝えたと。また、相模原市では相模川の芝桜まつりもやめていると。どうにか市からの援助をと。スマホで撮影。ここからは大山は見れるが富士山は見れないと。ご婦人が来られ高台から動画撮影。この方もネギを購入しておられた。今まで数回来ているがテントがこれだけ張られているのは今回が初めてである。東側から西側を見下ろす。西側の建物は ”特別養護老人ホームはなさか” 。昨年まではマルチの中にざる菊が植えられていたが。色系によって開花時期に違いがあるようでズームアップ。赤系この系統はこれからの開花になる。こちらのざる菊もこれからの開花。開花状況はまだ五分咲きであったか。先程までこの高台で雑談していた。お二人のご婦人は昭和19年生まれで弁当持参であった。勝坂はやし保存会の演奏が始まっていた。前年度は赤色のざる菊で絵文字が作られていたが。勝坂はやし保存会のメンバーはお子さんもいた。西側の低地から東側を見上げる。このざる菊会場は今年で終わるがもう少し傾斜があれば見応えが違ったのであろう。見るだけの者は勝手に言いたい放題だが。ズームアップ。12:35スマホで撮影勝坂はやし保存会のメンバー ー 続く ー
2025.11.13
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昨日までブログにアクセスすると「エラー」等でスムーズに入れなかったが、今日は何故か自分のブログにアクセスでき編集可能に。ブログがアップできない中、テレビで「ざる菊」のことを報道していたので、愛車のノートで相模原市の「新磯のざる菊」へ出かけた。11月8日(土) 11:05カーナビは高速道路を利用でルート決定。首都圏中央連絡自動車道を利用し、厚木PAスマートICを出る案内。厚木PA (外回り)所在地:神奈川県厚木市関口字御嶽下704書き込みでトイレが和風でどこにもないデザインであると。レストランがあり、近郊、静岡県のお土産も販売していた。厚木パーキングエリアの駐車場のスペースは狭い。厚木パーキングエリア厚木は、大山道などの諸道や相模川の船運により物資の集積地として栄え、江戸末期には「小江戸」と呼称されたともいわれ、繁栄ぶりがうかがえます。厚木PAはその昔懐かしい宿場のたたずまいと建物をイメージしました。 平成25年3月和風のトイレ扉を開けて中に入ると格子の仕切り、畳敷きの長椅子が置かれており数人の方が座っていたが順番待ちであったか。男性用トイレの便器の間には格子状の仕切り。右はトイレ入口、正面は売店入口。館内には「あつぎ食堂」。フードコーナーとあり、当店おすすめメニュー「ホルモンナポリタン定食」。他にも「横浜名物 サンマーめん」「野菜かき揚げそば・うどん」。どれも一度食べてみたいメニューであるが。お土産品コーナー。他府県の土産物として山梨県の「信玄餅」、静岡県の「安倍川もち」「うなぎパイ」等を販売していた。東名高速道路の海老名SAで人気の「メロンパン」も販売していた。他の方も購入しておられ自分も「メロンパン 400円」「海老名メロンパン 380円」を購入。サービスエリアの上には出入りの高架橋。左側にはゴミ種分けのボックス。石柱には「鳥、花」の名が。ゴミは6種類に種分けであったか。11:40いつも留める臨時駐車場は珍しく満車でしばらく待機した。臨時駐車場への待機車。臨時駐車場入り口。入口には、神奈川県警、地元関係者が交通整理されていた。太鼓の音が聴こえてきた。東側の森の上には ”キャンプ座間ヘリポート” がある。コキアも色づいていた。会場入り口に掲示板があり、寄付者の名、金額が貼られていた。寄付金額は「金壱萬圓也、金伍阡圓也」が主流。新磯ざる菊 第17回花見会 のポスター。凧の大きさ日本一!「相模の大凧まつり」を未来へ繋ぎたい!。国登録有形文化財 旧中村家住宅新磯ざる菊 第17回花見会第17回を持ちまして新磯ざる菊花見会を終了させて頂きます長い期間ご協力ありがとうございました。花見会のイベントは 令和7年11月8日(土)開催期間 令和7年11月2日~令和7年11月16日期間中は ・会員による地元野菜の販売(午前中に売り切れる場合もあります) ・焼き芋の販売・ざる菊の販売 ・玉子の販売 を致します11月8日のイベントでは ・勝坂はやし保存会 ・オカリナ ・愛川高校の太鼓 の演奏があります。上記ポスターを見て、初めて今回で終了することを知った!既に式典は終わっていたが、来賓の名が貼られた椅子が並べられていた。ステージでは愛川高校のメンバーによる太鼓の演奏が行われていた。募金箱にコインを投入、抽選券を頂く。空くじなしと。女性一人を含む4人での演奏であった。大鍋の中には汁が少なくそろそろ終わりか。抽選の前にうどんを頂いたが無料だと。具はゴボウだけであったが空いたおなかには美味しかった。抽選コーナー。御前中は多くの方が来場しておられた。景品は、ビール6本、卵ワンパック、チキンラーメン等と豪華であった。生卵ワンパックが当たった。うどんを無料で一杯、生卵を頂いた。皆さん今年が最後と知っておられたのか多くの高齢者が。力強い演奏であった。女性の方は笛もソロで吹いていたか。最近は動画撮影する人も多い。11:55多くのテントが張られていた。人気の焼き芋。サツマイモは「紅はるか」であると。前回は1本100円と安かったが。仕込んでから出来上がりまで30分はかかると。ざる菊会場の東側に掲示されていた、祝 第23回全国花の町づくりコンクール奨励賞受賞 JA相模原市は、新磯ざる菊愛好会の活動を応援しています JA相模原市11月11日(火)の夜のNHKでも「メンバーの高齢化(80歳)で今年が最後」と報道していた。このような賞を受賞しているのに今年が最後となるのは寂しい限りです!今までの管理ご苦労様でした。 ー 続く ー
2025.11.12
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現在、続日本100名城の「東北の旅シリーズ」をアップしておりますが、11月4日(火)以降アクセスすることができない状態が度々発生。よって「2017年11月27日から毎日アップ」をモットーにやってきましたが、しばらく休ませていただきます。楽天の修正がなされた段階で再度アップいたしますので、その際にはご愛読の程よろしくお願い致します。しばらくは「奥の細道」ならぬ「西国の細道」のブログ取材で西国行脚予定です。この後、日本三大霊場恐山、大間のアップ予定でした。早期修復を願うものです!11月8日(土)相模原市の「新磯のざる菊」。諸事情でこのまつりも今年で終了すると。 END
2025.11.11
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尻屋崎ゲストハウスを後にし尻屋崎灯台東ゲートを入る。10月21日(火) 13:35ゲートを入り振り返る、気温が10度を割り寒かった。システムが分からず迷ったが、ゲートに近づくと自動でバーが上がった。尻屋崎ゲストハウスをズームアップ。観光案内板があり駐車。入門ゲートの開閉時間は、・4月1日から4月30日までは午前8時から午後3時45分まで・5月1日から11月30日までは午前7時~午後4時45分まで・12月1日から3月31日までは冬期間ゲート閉鎖となっている。柵内の東側、ゲート方向の南側は「寒立馬放牧場」になっている。尻屋埼灯台の写真に、「空き缶等散乱防止重点地区」ここは、青森県空き缶等散乱防止条例に基づく重点地区です。この地域で空き缶等をみだりに捨てると条例により2万円以下の罰金が科せられることがあります。 東通村 残念ながら一部文字が消えた案内板、青森県自然・・・・・寒立馬の保護寒立馬の由来寒立馬観察に当たっての注意!ゲートを入り津軽海峡沿いを尻屋埼灯台へ向けて走る。この先の右側に整備された駐車場、公衆トイレがあった。津軽海峡からの風が強く寒かった。足元に咲いていたのは背丈の低い「ハマギク」であったか。寒風にさらされるので草だけが低い。西方向にはこの後訪れる霊場恐山の山並み。風が強いので波が高い。駐車場に立っていた観光案内板「ようこそ青森へ」。今回の旅は、下北半島、津軽半島を巡る。脇野沢港から蟹田港へのむつ湾フェリーが明日22日は休航のため青森市内経由になる。灯台に一番近い駐車場へ車を停め散策、小雨が降り風が強かった。駐車場には5、6台の車が駐車、売店があったが閉まっていた。道路を挟んで東側に尻屋埼灯台。尻屋埼灯台所在地:青森県下北郡東通村本州最北東端の岬で、最果ての地といった風情が漂う。風が強く、かつて昔は多くの船舶が座礁・遭難して「海の墓場」と呼ばれていた。岬の先端に建つ尻屋埼灯台は、120年以上の歴史があり、レンガ造りの灯台としては日本一の高さを誇る。灯台は4月下旬から11月上旬までの期間に限り一般公開されており、高さ33m、128段の階段を上ると津軽海峡と太平洋を一望できる。私が訪れた数日後の10月24日の午後、灯台構内にクマ2頭が進入していることが確認されたことから、その後、安全が確認されるまでの間、灯台の参観を休止したと。灯台の展望台を見上げる。このステージへ出れるのだがこの日は風が強いので人影がなかった。灯台は令和4年(2022)12月12日、国の重要文化財に指定され、日本の灯台50選にも選ばれている。案内板には「海上保安庁・八戸海上保安部」。参観案内灯台の参観については、航路標識事業に対する皆様のご理解を深めていただく趣旨で、国においてもできるだけ便宜を図っておりますが、多数の参観者の整理案内につきましては、国では対応することが困難を極めておりますことから、燈光会がこの仕事をお引き受けしております。参観される皆様の安全確保や施設などの維持、各種パンフレットの作成等に当てるため、次の寄付をお願いいたしておりますのでご協力願います。■参観寄付金 大人 (中学生以上) 300円■参観時間 4月 9:00~15:00 受付終了 14時45分 5月~ 9:00~16:00 受付終了 15時45分 ※ただし、荒天の場合や業務の都合等により参観を中止又は参観時間を変更することが あります。参観休止・一時休止の場合のぼることは出来ません■参観の皆様へお願い 1 この灯台は船舶が安全に航行するために大切な施設です。 構内の施設・物品などを壊したり、汚したり持ち出したりしないで下さい。 2 灯台は高いうえに、階段は急で狭く大変危険です。昇り降り、頭上等に十分注意し て慎重に行動し危険防止に努めて下さい。 3 ・・・後略・・・ 社団法人燈光会 尻屋埼支所 右側の窓に「強風のため一時休止中です」と。風が強く、雨が降っていたので陰に入るが。尻屋埼灯台は明治9年に、英国人技師R・H・ブラントンにより建設された、2重のレンガ壁による複層構造の灯台です。この展示は、改修工事により発生したレンガを使用して、外壁部分の積み方を紹介したものです。尻屋埼(しりやさき)灯台この灯台は、明治9(1876)年10月に設置されたレンガ造灯台で設置当時の姿を留めております。日本の灯台50選に選ばれました。 第二管区海上保安本部尻屋埼灯台 施設の概要初 点 明治9(1876)年10月20日位 置 北緯41度25分49秒 東経141度27分44秒構 造 白色塔型レンガ造等級及び灯質 第二等 単閃白光(毎10秒に1閃光)光 度 530,000カンデラ光 達 距 離 18.5海里(約35キロメートル)高 さ 地上~頂部 33メートル 水面上~灯火 47メートル管理事務所 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部 電話 0178-32-4691 風が強い北側へ廻る。津軽海峡側の冬場の光景はいかに。この海域は風が強く、かつては多くの船舶が座礁・遭難して「海の墓場」と呼ばれていた。この日は展望台へ上ることができず残念。展望台からは、東に太平洋、北に津軽海峡・北海道、西には下北半島が見え絶景である。北側の津軽海峡の先には恵山が見えていた。霊場恐山方面の山並みを見ると雲で覆われていた。風にさらされこの花が群生していたが。花の名は、スマホのアプリで見るが?。ズームアップ。手前に「本州最涯地の碑」、右奥に「尻屋崎灯台百周年記念碑」が立っていたが風が強く雨が降っていたので引き返した。駐車場脇の公衆トイレは仮設であった。来た時は駐車場には他府県ナンバーの車が多く停まっていたが早々に引き上げていた。風が強く寒かった尻屋埼灯台を後にした。岸島ゲート尻屋漁港の北側にあるゲート。ゲートのバーに「8:40~15:45の間作動」と。何故ゲートを設けているのか。時間を過ぎたらどうなるのか。校庭が荒れた旧東通村立塩屋小学校。2000年に新築された校舎だが今後の再利用は・・・。14:20次の目的地は予定していた「恐山」にカーナビをセットして尻屋崎を後にした。この後、「霊場恐山」経由、最終目的地「おおま温泉海峡保養センター」へ。距離数は約93キロで所要時間は約2時間。リサイクル燃料貯蔵株式会社所在地:青森県むつ市関根水川目辺り森林の中に突然、大きな建屋があるだけで、敷地周辺には監視カメラが多数配置されていた。外壁の看板に「リサイクル燃料貯蔵株式会社」と。事業開始は令和6年(2024)11月から。使用済燃料中間貯蔵施設は、原子力発電所で使い終わった燃料を再び燃料として使用できるように再処理するまでの間、貯蔵しておく施設である。道路脇の車を停め振り返る。周りには民家はなかった。14:50国道279号をむつ市内に向け南下。恐山へはここを右折。 ー 続く ー
2025.11.10
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原子力発電所PR館の見学後、更に北上して「尻屋崎」へ。10月21日(火) 12:50国道338号のこの交差点を右折して「尻屋崎・尻労(Shitsukari)」方面の県道248号線へ。尻労(しっかり)と珍しい地名であるが、尻労漁港があり東京などの中央市場では名前を知られていると。県道248号線の山間部を走り、この先を左折して県道172号線を「尻屋崎」方面へ。観光案内板には「⇦ 恐山霊場 38km、尻屋崎 13km」と。県道脇によく見かけたこの小屋は「ごみ収集ステーション」。県道172号線から県道6号線(むつ尻屋崎線)へ合流して右折、津軽海峡沿いを東方面へ走る。曇っていたが対岸には北海道が見えていたので停車。13:10津軽海峡夕日が見える展望所所在地:青森県下北郡東通村尻屋八峠2-4北東方向の県道下にある尻屋岬港は、セメントの原料である石灰石の搬出港である。尻屋岬港の灯台港は下北半島の東北端に突き出た尻屋崎西側に位置し、付近海域は潮流が速く、しかも岩礁地帯で濃霧の発生も多いことから避難港として整備が始められたと。北側の津軽海峡の対岸には北海道が見えていた。更に北海道の東側をズームアップ。北海道の恵山をズームアップ。南西の方向には「岩屋漁港」。岩屋漁港の西遠方には今夜の宿泊地大間がある。この後、尻屋埼灯台➪恐山➪大間と移動するが、既にこの日は約900キロ走っている。県道6号線(むつ尻屋崎線)を尻屋崎へ向かうと前方に大きな施設が。この先を左折すると「尻屋岬港」へ。石灰石・セメントの搬出のほかに石炭等の関連物資の搬入も盛んであり、県内地方港湾の中では取扱貨物量が第一位となっていると。日鉄鉱業 尻屋鉱業所所在地:青森県下北郡東通村尻屋八峠2-61背後の山には約3億トンを超える豊富な石灰石が埋蔵されていると。県道の頭上を搬出コンベアが横切る。工場内を多くのコンベアが繋がって石灰石を搬出。13:15尻屋崎ビジターハウス所在地:青森県下北郡東通村尻屋ケシ子山37-20尻屋崎の入口にあるレストハウス的な施設でトイレも併設している。ビジターハウスの前に「尻屋崎エリア」の観光案内板。木柱に「歓迎 ようこそ東通村へ 東通村観光協会」。ここにも「クマ出没 (ツキノワグマ) 注意!」の看板、周りに人がいないので怖い。下北最古の岩石がつくる岬と文化 ・下北最古の化石 ・寒立馬(かんだちめ) ・灯台の土台をなす閃緑岩 ・尻労岩壁 ・海上交通を支える尻屋埼灯台 ・立ち寄ってみよう!おすすめの施設 尻屋埼灯台 野牛川レストハウス尻屋崎灯台 東ゲートカーナビの案内では灯台へはこの道を行くのだが、ゲートがありシステムが分からず県道6号線を南方向へ進んだ。尻屋崎ビジターハウスから県道6号線(むつ尻屋崎線)を南下、県道の左側に学校らしき建物があり立ち寄った。この先には尻屋漁港がある。東通村立尻屋小学校所在地:青森県下北郡東通村尻屋石倉辺り木造の近代的な3棟の建物が建っていた。 校門代わりの木柱が左右に立っていた。右側の木柱には「東通村立尻屋小学校」と。左側の木柱には「愛と寒立馬の里」と刻まれていた。建物は近代的な木造建築の体育館。建物に人の気配がなかったので校舎前へ駐車。尻屋地区は津軽海峡と太平洋に囲まれ、校舎周辺は自然が豊かで漁業の盛んな地域である。尻屋小学校の沿革 1875年(明治8年) 創立 1964年(昭和39年)全校児童 79名 1987年(昭和62年)全校児童 64名 1999年(平成11年)校舎新築 2000年(平成12年)屋内体育館新築 2009年(平成21年)東通小学校への統合に伴い閉校、最後の児童は12名本州最北東端に位置する小学校だったが、児童数減少により閉校となった。正面玄関灯台は実物ではなく学校のシンボルとして建てられ、精巧に造られており時計塔になっている。定期的に管理されているのであろうか。校章をズームアップ。校章の下には「東通村立尻屋小学校」と。この広い校庭を全校児童 79~12名がかけまわっていたのだ。校舎や体育館は1999、2000年(平成12年)に新築されまだ新しくので、別の目的で使われることを祈るが。この過疎化時代には用途が・・・。11月6日(木)のNHK「あさイチ」を見ていて修学旅行生を受け入れるのも一考ではと。六ヶ所村、東通村には生徒への「原子力」に対する認識の教材が多く、また自然が多く人が多い都市部よりいいのでは、ボランティア活動への教育もと思うが。体育館の裏側に神社が建っていた。神社前から、南方向の体育館を見る。人の気配がしないので怖い。東通村のマンホール蓋「寒立馬と能舞の里」の文字がある。能舞は500年ほど前に修験者が伝えたとある。「尻屋埼灯台」は東北最初の灯台で、日本の灯台50選のひとつ。灯台の手前に描かれているのは「寒立馬」。寒立馬とその生息地は青森県の天然記念物に指定されている。神社扁額、由来もなく詳細は不明。尻屋崎ビジターハウスへ戻る。尻屋崎ビジターハウスの周りに広がる牧草地には寒立馬という馬が放牧されています。寒立馬は、寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきましたが、時代の移り変わりと共に激減。しかし、その後の保護政策により現在は30頭ほどに回復しています。尻屋崎周辺が閉鎖される1月~3月は、アタカと呼ばれる放牧地で毎日を過ごすと。寒立馬をズームアップ。東通村の海岸地帯には、南部藩政時代から田名部馬と呼ばれる比較的小柄で寒気と粗食に耐え、持久力に富んだ馬が「四季置付」と称し周年放牧されていました。これらは、南部馬を祖とし、藩政時代から明治、大正、昭和に亘って主として軍用馬として外来種との交配によって改良されてきた田名部馬であり、なかでも、尻屋地区ではこの田名部馬をブルトン種と交配することにより独自の農用馬(肉用馬)として改良したと。県道6号線(むつ尻屋崎線)を振り返る。尻屋崎ビジターハウスの入口に、寒立馬(かんだちめ) 越冬放牧地 『アタカ』案内図1970年(昭和45年)に尻屋小中学校の岩佐勉校長が年頭の書き初め会で、「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」と詠んで以来、「寒立馬」と呼ぶようになったと。室内に入りトイレを借りたが土足禁止になっていた。ログハウス風の施設で中は尻屋崎のいろいろな風景を写真で展示、寒立馬の解説がある。休憩スペースも合ったが無人であった。ちょうどゲストハウスを訪れたがおられ、ゲートを入って行かれたのでシステムが分かり続くことに。またパトロール中の車も来て尋ねた。13:35スピードを落としゲートに近づくと自動でバーが上がると。但し、作動時間は「7:00~16:45の間作動」。雨が降ってきた。 ー 続く ー
2025.11.09
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尾駮沼野鳥観察所で小休憩後、国道338号を北上直ぐによく聞く名の役所があり立ち寄る。10月21日(火) 11:45六ヶ所村役場所在地:青森県上北郡六ヶ所村尾駮野附475六ヶ所村(ろっかしょむら)は、青森県の下北半島太平洋岸に位置する村で上北郡に属する。原子燃料サイクル施設などの原子力施設の他、国家石油備蓄基地や、やませを利用した風力発電基地等、エネルギー関連施設が集中している。ITER(国際熱核融合実験炉)の建設候補地として誘致を推進していたが、カダラッシュ(フランス)に建設されることが決定した。 日本の村を50音順に並べると、当村は最後となる。 (最初は東京都青ヶ島村)※やませ:偏東風(山背)とは、北日本(主に東北地方、北海道)太平洋側と関東地方で春から夏(5月から9月)に吹く冷たく湿った東または北東の風のこと。人口は、9,830人(推計人口:2025年9月1日)。六ヶ所村マンホール蓋周囲の木は「クロマツ」、鳥は「オジロワシ」、花は「ニッコウキスゲ」。原燃などの原子力施設が有名な村。「村」といっても、茨城県東海村同様に税収入が多く、インフラ設備が進んでいる。役場の前に「六ヶ所村民憲章」があったが一部字が消えていた。引き続き雨上がりの国道338号を北上する。国道沿いには住宅街が少なく森林が多かったが、コンビニは数軒あった。前方に太平洋の海原が見えた。12:00馬門川観光公園所在地:青森県上北郡六ヶ所村泊川原国道338号沿いにあった公園で、ちょうど正午で立ち寄ったがチャイムが鳴っていた。六ヶ所村民憲章 (昭和五十五年十一月三日制定) (平成十七年十一月三日改定)わたしたちは、恵まれた自然とたゆみない努力を続けてきた祖先の心を受けつぎ、郷土がますます発展することを願い、産業と科学・文化が共栄する新しい郷土をめざし力をあわせて実践するためここに村民憲章を定めます。一、わたしたちは、太平洋のような広い心をもち、人間愛に満ちた村民になります。一、わたしたちは、小川原湖のような大きな希望を持ち、進んで協力する村民になります。一、わたしたちは、貴宝山のような気高さを持ち、心身ともに健全な村民になります。一、わたしたちは、老部川のような清い心を持ち、親切で礼儀正しい村民になります。一、わたしたちは、七鞍平のようなおおらかな心を持ち、郷土を愛する村民になり ます。村の花鳥木 花 ニッコウキスゲ(ユリ科) 鳥 オジロワシ(ワシタカ科) 木 黒 松(マツ科)3枚の案内板左から「馬門川(まかどがわ)観光案内」「周辺案内図」「施設・イベント案内」。馬門川(まかどがわ)観光案内高低差のある公園で水が流れていて子供の水遊びができる。遊具もあり最新の綺麗な公園である。下には、原子力発電施設等周辺地域交付金事業周辺案内図六ヶ所村の面積は252.58k㎡、人口密度は38.9人/k㎡。施設・イベント案内 1⃣ 六ヶ所文化交流プラザ(愛称:スワニー) 2⃣ 六ヶ所村立郷土館 3⃣ 大石総合運動公園 4⃣ 六ケ所原燃PRセンター 5⃣ むつ小川原国家石油備蓄基地たのしむベ!フェスティバルイカ釣り体験ツアー泊合同例大祭湖畔の収穫祭ろっかしょ産業まつり釣り情報駐車場から公園を見下ろす。春先にはサクラが咲き誇る公園である。馬門川観光公園を後にし、引き続き国道338号を北上するが交通量が少ない。この先を左折し、県道179号線(泊陸奥横浜停車場線)を西へ走ると陸奥湾の横浜町へ。泊漁港国道338号の下にある泊漁港は六ヶ所村最北部の港である。漁港越しにズームアップすると、東北電力(株) 東通原子力発電所。六ヶ所村から東通(ひがしどおり)村へ入る。12:25東通原子力発電所PR館 トントゥビレッジ所在地:青森県下北郡東通村小田野沢見知 川山1-809東通村の美しい森の中にあるトントゥビレッジ。"トントゥ"はフィンランド語で"森の妖精"を表す言葉。東通の音読み「トーツー」にもかけています。館内では、かわいらしいトントゥの家族が温かく迎えてくれますと。開館時間:9時30分~16時30分 月曜日 休館日この日は火曜日で開館日、入館して見学することに。東通村下北半島の北東を占め、東に太平洋、北に津軽海峡に面し、低い下北丘陵が村の中央を南北に通る。海に突き出た半島北端に尻屋崎があり、5キロメートル南に標高402メートルで村の最高地点の桑畑山がある。尻屋崎と桑畑山の間には寒立場が放牧される平地がある。下北丘陵の西は田名部平野で、むつ市と接する。東側の海岸付近には大規模な砂丘やいくつかの沼があり、また多くの河川が海に向かって流れる。村の面積は295.32k㎡、人口5,195人、人口密度17.6人/k㎡(推計人口:2025年9月1日)隣村の六ヶ所村の面積は252.58k㎡、人口9,830人、人口密度は38.9人/k㎡。この後、尻屋崎➪恐山➪大間と移動国道338号沿いにある施設で、公衆トイレもあった。正面のタワーの最上階が展望台になっていた。玄関口に、開館時間=AM.9:30 ~PM.4:30(入館はPM.4:00まで)定休日 毎週月曜日(月曜日が祝日又は振替休日の場合は翌火曜日) 年末年始東北電力 TEPCO 東京電力ホールディングス東通原子力発電所 トントゥビレッジ(Tonttu Village)入館料は無料であった。駐車場からホールへ入ると受付がありそこは2階。受付で「今日は中学生の団体が来ているので騒がしいです」とお詫びの言葉。撮影の許可をもらうが「展望室からの海側の原子力発電所は撮影禁止です」と。頂いたパンフレットから、3階 展望室展望室からは太平洋が一望でき、東北電力㈱東通原子力発電所1号機の全景と東京電力ホールディングス㈱東通原子力発電所建設現場を見ることができます。また、東北電力㈱東通原子力発電所の紹介ジオラマでは、敷地内の施設や安全対策について学ぶことができます!トントゥビレッジ(Tonttu Village)2階:ウエルカムホール・多目的ホール1階:原子力コーナー・レストコーナー・リラクゼーションルーム・授乳室 等3階:展望室東通原子力発電所本館基礎地盤に分布する岩石凝灰岩(ぎょうかいがん、英名 tuff)この岩石は、約千数百万年前の新第三紀中新世前期に、火山から噴出した火山灰や直径4mm以下の細粒の粒子が団結してできた火山砕屑岩(かざんさいせつがん)の一種である。発電所本館付近に広く分布し、基礎地盤の一部を構成している。ウエルカムホールに貼られていた「東北電力東通原子力発電所全景」。当原子力発電所1号機は、沸騰水型原子炉(BWR)でマークⅠ改良型の原子炉格納容器を採用している。青森県内では初の原子力発電所として、2005年12月に営業運転を開始。敷地面積 :約358万平方メートル定格電気出力:110万キロワット1階:レストコーナーハロウインの準備であったか切り紙が吊るされていた。1階から出入りできる外には遊歩道、庭園が整備されていた。中学生が動き回っていたが、原子力発電についての課外授業であったか。外へ出るためのクマ除け鈴が用意されていた。ここにもクマが出没。原子力コーナー原子力コーナーは原子力発電のしくみや放射線、エネルギーなどについてご案内しています。原子炉の構造や原子力発電のしくみを学ぶことができる模型を展示しているほか、原子力発電所のバーチャル見学やエネルギークイズを楽しめるパソコン、東通原子力発電所の概要やエネルギーの大切さを映像と音声で紹介している大画面などがあります!電気は蒸気の力でつくられる 原子力発電の設備とその役割を見てみよう!原子炉のシステム東日本大震災の時はこのシステムをテレビでよく見たことを思い出す。原子炉圧力容器(原子炉)他にもパネルがあったが、エレベーターで1階から3階の展望室へ。エレベーター内に貼られていた順路「1~6」。「さきに展望台にのぼりましょう」➪「つぎに原子力コーナーにおりましょう」と。エレベーターで展望室へ上り山側の西を望む。海側には原子力発電所があるので撮影禁止になっている。展望室に置かれていた「原子力発電所しくみ模型 縮尺:1/250」。こちらのジオラマは「東北電力東通原子力発電所」。下北半島の原子力施設青森県下北半島は、原子力発電所をはじめ、原子燃料サイクル施設、使用済燃料の中間貯蔵施設など、さまざまな原子力関連施設が運転・建設されています。日本における原子力施設の一大集積地、最重要地域となっています。 A 大間原子力発電所(建設中) B リサイクル燃料集積センター C 東通原子力発電所(建設中) D 東通原子力発電所 E 原子燃料サイクル施設東北電力・東京電力ホールディングス敷地配置図左上から、「東北電力東通原子力発電所の概要」 営業運転開始 2005年12月「日本原燃 原子燃料サイクル施設の概要」 操業状況 1992年操業開始 「リサイクル燃料貯蔵 リサイクル燃料備蓄センターの概要」 事業開始 2024年11月左下から、「東京電力ホールディングス 東通原子力発電所の概要」 着工 2011年1月、運転開始未定「電源開発大間原子力発電所の概要」 着工 2008年5月、運転開始未定「送電系統図」日本の原子力発電所配置図展望室から北側の国道338号を見下ろす。12:45速足での見学を終え駐車場へ戻る。大型バスは中学生たちが乗ってきた「Shiriya Kanko」。展望室を見上げる。六ヶ所村、東通村には原子力関連施設等が多くあり、多額の国費が落ちているだ。 ー 続く ー
2025.11.08
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下田百合インタから今夜の宿泊地がある下北半島へ。10月21日(火) 10:308 下田百合IC八戸自動車道は交通量が少なく順調に走ってきた。下田百合ICから、浜街道、国道338号を北上。10:50国道338号沿いに神社があったので立ち寄った。神社の傍に「四川目ふるさと広場ドッグラン」があった。神社の西側には三沢空港がある。国道338号の南方向を振り返る。この辺りは冬場は西からの風が強いのであろうか。標識標識には「三沢空港」と。永劫の里 四川目移転記念碑米軍基地の滑走路の延長線上にあった四目川地区は、かつて数百戸あった集落は基地の騒音から逃れるため集団移転したと。石碑の裏面に「永劫の里」碑文。四川目移転に題す大地と天の恵みを受け、風雪と闘い、疫病、津波等の天災地変の脅威を乗り越え、繁栄してきた四川目の人々。幾多の辛苦を克服し、汗と涙を両手に地をにじませて築いたくらしを、築いては壊され壊されては築き、栄枯盛衰を繰り返した先人達。江戸時代・文化七年、木崎野絵図には四川目五軒あり、文化文政の集落開村の主(開祖)小比類巻為左衛門氏、地曳き網を建てて二代目嘉七氏に引き継ぐ。同氏豊作大漁祈願、集落安泰のため明治十二年(1879)旧正月十八日四国琴平金刀比羅宮に参詣し、御神体を戴いて四川目に初めて金刀比羅神社を造営した。屋号「ヤマイチ」五代をはじめ連綿として続いた四川目。南部藩政時代、木崎野牧の一区画であると共に、黒潮に乗ってくる鰮の良い漁場であった。岩手県北部・八戸地方より、この漁場の地曳網引き子として季節出稼に来た先人達が住み着いたのが四川目の始まりである。その漁法、腕前がかわれ、明治、大正、昭和の時代、北海道鰊漁、ロシア領カムチャッカ等において、鮭鱒漁場等で活躍、南部ヤン衆ここにありといわれ、年間数百人が雇われた四川目の男達。さらに第二次大戦後の混乱期を乗り越え、農漁村として発展した住みよい豊かな四川目。この集落も大戦の終結以後、三沢飛行場に米軍空軍の進駐駐留、我国航空自衛隊の駐在により、頭上を飛行する各種離着陸の騒音に悩まされ、昭和五十四年九月五日及び同六十三年十月三十一日第二種騒音地区に指定となる。轟音と共に軍用機の墜落、爆弾、燃料タンクの誤投下、さらに昭和六十年よりF十六戦闘爆撃機五十機の配備、空母艦載機の夜間訓練(タッチ・アンド・ゴウ)による昼夜の区別なく騒音激化。実に言語に絶する。この状況から住民の生命財産を守るため、そのつど三沢市を通し日本政府、米国空軍当局に飛行中止等抗議してきた。しかし、昭和五十四年より騒音等に耐えかね、四川目外に移転者が出始め、百五十有余年、一世紀余り続いた町内の人々が散り散りばらばら離散する恐れがあり、役員一同苦慮す。再三の協議より、昭和六十二年五月二日町内全戸全員の総意により、集団移転やむを得ないと決定。市、区に種々陳情交渉の結果、種々屈折があったが三沢市長鈴木重令氏はじめ関係機関の理解がえられ、住家、宅地等が国の補償により昭和六十三年第一次四カ年八十七戸、平成四年第二次五カ年百五十九戸、計二百四十六戸、市内大津地区に集団移転することに決定された。国土防衛のため、精鋭軍用機が配備され益々騒音激化し、住民の保護安住のため、断腸の思いで祖先の眠る霊園と鎮守の森産土様(金刀比羅神社)を残し、先人の労苦を偲び、感謝の念を捧げ、苦難哀楽の道を歩んだ四川目を去る集団移転二百四十六戸、各々の都合により市内外に個人移転の百二十六戸、町名変更により他町内に編入された六戸、計三百七十八戸千六百十七名と共に平成九年三月移転完了するにあたり、寝食を忘れ御尽力下された方々に謝念を捧げ、新天地にて共に栄えることを願い、移転者各々が悲喜交々の願い事をし、ある時は大漁旗をなびかせた往時の思い出の地として残した四川目住民の信仰の地、鎮守の森に碑を建立す。 そして、この事実を子子孫孫に伝える。 大澤武雄 撰 平成六年十一月吉日 四川目町内会建立 町内会長 坂岡定松金刀比羅神社所在地:青森県三沢市四川目3丁目77-3当神社は明治十二年(1879)ごろに金比羅宮(香川県)を勧請したとされる。昭和五年(1930)、社殿と鳥居が建立された。海の災害から守るという言い伝えがあり、漁師らが大漁や無病息災などを祈りに訪れている。鳥居の扁額「金刀比羅神社」。鳥居の前に地蔵が置かれていた。愛らしい小僧であったか。ペットボトルが供えられていた。鳥居は老朽化が進んだため、寄付を募い3年前の2022年9月30日に建て替えが完了。大型1基、中型4基の計5基でヒバの木を使用したと。参道の階段は荒れていた。手摺も仮設。階段を上ると石製の鳥居。こちらの扁額も「金刀比羅神社」。境内の東側は、「四川目ふるさと広場ドッグラン」で、太平洋が広がる。社殿の前に対の狛犬。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。拝殿の扁額「金刀比羅神社」。「為大三澤町 農林大臣三浦一雄」と。金刀比羅神社の左側に、稲荷社があった。右側の狛狐左側の狛狐でお互いに赤タオルを結んでいた。社殿は施錠されていた。震嘯災記念碑昭和八年に発生した”昭和三陸地震”の津波災害を伝える灯台型モニュメント。碑には「地震海鳴りほら津浪」と彫られた自然災害伝承碑である。この灯台型のモニュメントは青森県太平洋沿岸部に4基が現存し、この碑はその中で最も北側にあるものであると。平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災での被害はどうであったのか・・・。「震嘯災記念碑」の碑文維時昭和八年三月三日午前二時三十分四十八秒突如トシテ強震□□爾后半刻ニシテ洋上遥カ大音響ヲ聞キ閃光ノ発スルヲ見ルヤ間髪ヲ容□□□□海嘯ノ襲フ所ト為ル怒涛天空ヲ摩・・・後略・・・ 昭和八年十一月十一日金刀比羅神社、稲荷社を見る。10:55金刀比羅神社を後にし、更に国道338号を北上。右車窓の松林の先は太平洋。淋代(さびしろ)郵便局所在地:青森県三沢市淋代3丁目43-10国道338号沿いにある郵便局でコンビニと同様に各地にある。三沢市東部地区の農集排蓋市の花「サツキ」を描いた三沢市東部地区の農集排の蓋。 中央に市章、左右に「のうしゅう」「おすい」の文字。国道338号を北上、標識に「恐山、むつ、野辺地」の聴き慣れた地名が。右側の太平洋側には多くの風力発電の風車が立っていた。空模様が怪しくなってきた。国道338号の左右に尾鮫(おぶち)沼。尾鮫沼を含む湖沼群は、淡水と海水が混ざり合う汽水域ならではの独自の生態系を育み、ニシンやカモ、ガン、オジロワシなど多様な生き物たちのすみかとなっています。なかでも「尾駮ニシン」は淡水で育つ珍しいニシンとして知られ、村を象徴する存在であると。小雨が降り気温も10度と下っていたが風はなかった。車窓左側に「尾鮫レイクサイドパーク」の案内板。尾駮沼にある公園で散歩コースとして多くの利用が見られる。 冬には多くの白鳥が尾駮沼に飛来すると。11:35六ヶ所村商工会所在地:青森県上北郡六ヶ所村尾駮家ノ前90-3公衆トイレがあり、トイレ休憩で六ヶ所村商工会前の駐車場へ車を停めた。国道338号を挟んだ西側に「尾鮫レイクサイドパーク」があったようだ。北上してきた国道338号を振り返る。小雨が降った後で雲が覆っていた。尾駮沼野鳥観察所国道に架かる西側は「尾鮫レイクサイドパーク」になっている。尾鮫沼は、縄文海進の名残をとどめる湖沼群のひとつです。かつては海だったと考えられており、近隣の尾駮沼からは縄文時代の遺跡が出土し国の重要文化財にも指定されている。尾駮沼でみられる野鳥たち ・ホオジロガモ(カモ科) ・ウミネコ(カモメ科) ・カモメ (カモメ科) ・カワウ (ウ科) ・オジロワシ (タカ科) ・イソシギ(シギ科) ・セグロカモメ(カモメ科) ・カルガモ(カモ科) ・ハマシギ (シギ科) ・アオサギ(サギ科) ・オオハクチョウ(カモ科) ・トビ (タカ科) ・カンムリカイツブリ(カイツブリ科) 一年中みられる鳥 夏みられる鳥 ・ウミネコ(カモメ科) ・イソシギ(シギ科) ・カワウ (ウ科) ・アオサギ(サギ科) ・トビ (タカ科) ・カンムリカイツブリ(カイツブリ科) ・カルガモ(カモ科)冬みられる鳥 ・オジロワシ (タカ科) ・カモメ (カモメ科) ・ホオジロガモ(カモ科) ・セグロカモメ (カモメ科) ・ハマシギ (シギ科) ・オオハクチョウ(カモ科) ・カンムリカイツブリ(カイツブリ科)トイレから尾駮沼を望む。ズームアップ。白鳥のえさ箱白鳥の餌付けについて ①白鳥の餌が必要な方は□□□□金額を金銭箱に入れてからご使用ください。 ②餌の空袋については、皆さんで持ちかえってください。 ③小さなお子さんには、保護者が同伴し安全対策をしてください。 ④駐車場内のトラブル等は、一切受け付けしませんのでご了承願います。 ※施設の使用については、お互いに気持ちよく、きれいに使いましょう。 六ヶ所村観光協会白鳥のえさ付けステージ冬季には多くの白鳥が飛来するのであろう。 ー 続く ー
2025.11.07
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引き続き九戸城跡を散策。10月21日(火) 9:05この辺りは二ノ丸の東側に位置しており、工事が行われていた。「令和7年度 史跡九戸城跡第2期整備 (二の丸大手・搦手) 工事 工事期間 令和7年6月3日 ~ 令和8年3月23日」。工事現場に「二ノ丸搦手門跡」と。搦手門跡(からめてもん)二ノ丸から外館(石沢館)、若狭館、三ノ丸方面への虎口跡です。城の表玄関にあたる大手に対し城の裏手を搦手といいました。この付近から外館前の堀底道を通り九戸城の裏側に当る白鳥川まで小径が続いていますが、これは当時からの古い道と考えられ、九戸氏のもう一つの本拠地九戸村へも、こちら側から往来してきたと思われます。古碑群工事中の搦手門跡を入り左に曲がると古碑群があったが工事資材があり近寄れなかった。明治26年(1893)に私立國分農事試験場が城内に創設されたことを記念した碑や、ローマ字の創始者田中舘愛橘のローマ字九戸懐古詩碑などの九戸城に関係する石碑があった。右側の石碑には「九戸懐古詩碑」と。 下には、漢文、ローマ字が刻まれていたが判読できなかった。左側には「荒城の月」の歌詞が刻まれていた。ズームアップ。二ノ丸搦手搦手は正面である大手に対して、裏口を意味します。二ノ丸の出入口である虎口の一つで、城郭を理解する上で重要な道筋です。搦手は南部信直の居城であった福岡城の普請時に改修したと推定されます。現状では細い通路になっていますが、古絵図の中には、二ノ丸大手と同じく方形の空間をもった枡形の虎口が描かれています。搦手からは堀底道を通り、若狭館、石沢館、三ノ丸の各曲輪へ行くことができます。また、九戸氏の本拠地であった九戸方面への道筋にも通じていることから、九戸氏の時代から重要な虎口であった可能性があります。平成29年度の調査によって、搦手の虎口は東西約16メートル、南北約13メートルの規模で枡形を呈していることが判明しました。二ノ丸大手の虎口と同様に、地表を浅く方形に掘り込んで構築されており、土塁壁際には、土留めの痕跡が確認されています。手前の二ノ丸の先に堀を隔てて本丸跡。二ノ丸から本丸跡への連絡通路をズームアップ。本丸は、L字状の上下2段の段差によって区画され、土塁には石垣が残されている。発掘調査によって石階段や立石群、掘立柱建物跡などの遺構が整備されています。南側の、二ノ丸大手を望む。二ノ丸は、本丸の東から南を囲むように配された曲輪です。本丸の約3倍の広さがあり、南に大手虎口、北東に搦手虎口があります。撮影場所は搦手虎口辺りから。工事中の二ノ丸大手跡。2期工事で土塁が盛り直されていた。二ノ丸東側の広場。右側には公衆トイレがあった。二ノ丸大手入口二ノ丸搦手からスタンプをもらうため「二戸市埋蔵文化財センター」へ向かう。ローマ字の創始者田中舘愛橘の墓埋蔵文化財センターへの途中に、田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)の墓があったようだが今回は先を急ぐので立ち寄らなかった。写真はGoogleマップから。墓石にはローマ字で「TANAKADATE AIKITU」と。9:15カーナビの案内で到着したが、二戸税務署であった。とりあえず愛車を駐車してスマホのGoogleマップで、「二戸市埋蔵文化財センター」へ。二戸市埋蔵文化財センターは税務署の東隣にあった。門扉に「総合福祉センター」「二戸市文化振興室 埋蔵文化財センター」と。二戸市文埋蔵文化財センター所在地:岩手県二戸市福岡八幡下11-1当センターでは、発掘調査・展示・教育普及等をおこなっていると。入口に「二戸市埋蔵文化財センター」の大きな看板。館内に入ると係り員の方から「埋蔵文化財センターは3階です」と。エレベーターで3階へ上がる。同階には九戸城に関する史料があり、入場料50円では入れ展示物がずらりあると。近郊の城の登城印。104 九戸城(くのへじょう)別 名:福岡城城地種類 :平山城築城年代 :明応年間(1492~1501)築 城 者:九戸氏主要城主 :九戸氏、南部氏スタンプ場所 :九戸城ガイドハウス(4月~11月) 二戸市埋蔵文化財センター受付受付時間 :九戸城ガイドハウス(10:00~15:00) 開館期間中は休館なし 二戸市埋蔵文化財センター受付(9:00~17:00) 休館日は月曜日これで61城目のスタンプを入手した。ここでも時間がなく早々に退室、次の目的地へと。税務署前から二戸市埋蔵文化財センターを望む。カーナビを、八戸道の下田百合IC経由「尻屋埼灯台」にセット。走行距離は約170キロ、所要時間は約3時間と。いよいよ初めての下北半島へ出発。馬仙峡馬淵川を挟む男神岩・女神岩や大崩崖などがそびえ立つ県北随一の景勝地です。男神岩の方には展望台があり、二戸地域を一望できます。これからの紅葉シーズンは最高と。9:35ENEOS 一戸SS所在地:岩手県二戸郡一戸町鳥越野月内舘3−1国道4号沿いにあるガソリンスタンドで、珍しくセルフではなかった。国道4号のここ”一戸インタ入口”交差点を右折。因みに国道4号は、東京日本橋から埼玉・栃木・福島・宮城・岩手各県を経て青森県青森市に至る、日本で最も長い国道で、全長は約888.8kmに及ぶと。10:00折爪サービスエリア(下り)所在地:岩手県九戸郡軽米町山内第4地割 字駒板111-62-2八戸自動車道唯一の小さいSAで、工事中であったがコンビニの「MINI STOP」があった。折爪(おりつめ)サービスエリア下り線案内図サービスエリア内には、遊歩道・芝生広場があり、標高852.2Mの折爪岳が見える。サービスエリアの樹々の紅葉が始まっていた。サービスエリアの南側へ。八戸道を走っていて山肌に黒い太陽光パネルが沢山設置されていたので当SAへ立ち寄った。右側の山には太陽光パネルがあった。後方の山は折爪岳で山頂には展望台がある。360度の大パノラマ 折爪岳折爪岳は、九戸IC・軽米ICから行くことができます。北上山系の最北端に位置する山(標高852.2m)です。山肌に設置された太陽光パネル。後方の山は北上山系の最北端に位置する折爪岳。Googleマップで見ると「軽米西ソーラー発電所」であった。高速道路を挟んだ反対側の東側には、「軽米東ソーラー発電所」があった。軽米西ソーラー発電所の敷地面積は、東京ドーム約33個分もの広大な面積に匹敵します。その設備容量は約48.0MW。年間では、5,000万kWhの電力を発電することが可能です。これは一般家庭15,000世帯分の消費電力に当たりますと。だが環境破壊が・・・。芝生広場の紅葉。コンビニ側には電話ボックスがあった。コスモスも奇麗に咲いていた。ズームアップ。ひまわりは咲き終わり種が付いていた。10:05反対側には上り側の折爪サービスエリア。この後、下田百合インタから下北半島へ行くので早々に出発した。 ー 続く ー
2025.11.06
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今日最初の目的地を地元の方に聞き駐車場がある「九戸城跡ガイドハウス」へ移動。10月20日(月) 8:25九戸城跡ガイドハウス所在地:岩手県二戸市福岡字城ノ内3-3続日本100名城のスタンプ置き場は2ヶ所あり、他に「二戸市埋蔵文化財センター」。開館期間:4月中旬~11月 ※期間中は原則毎日開館している。開館時間:10時~15時ガイドハウス前は九戸城エントランス広場になっており、駐車料金は無料。扉に、「開館時間 10:00~15:00(最終入館時間 14:30)」「続日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所 104 九戸城」「入館料は無料です」、館内には九戸城関係の資料が展示されている。開館時間が朝10時はチョット遅いのでスタンプは、「二戸市埋蔵文化財センター」へ。~ 日本中世終焉の地 ~ 続日本100名城国指定史跡 九戸城跡 ー 日本城郭協会選定 ー九戸城の歴史(築城~廃城)九戸城は、九戸氏が明応年間(1492~1501)に築城したといわれる。九戸政実が城主の頃、豊臣秀吉による奥州仕置で奥羽が混乱する中、三戸南部26代当主・南部信直は秀吉から本領を安堵された。一方、奥州仕置や信直に不満を持つ糠部(ぬかのぶ)の領主たちは政実のもとに結集、天正19年(1591)春、政実はついに蜂起したが、同年9月、秀吉がおくった再仕置軍に包囲され、政実は降伏し九戸城は落城した。再仕置軍の蒲生氏郷が再普請して信直に引き渡し、信直は南部氏の本城とし名を福岡城と改めた。その後、信直の子利直が盛岡城を築き、本城を移した後は城代が置かれたが、寛永13年(1636)に廃城となった。国指定史跡「九戸城跡」の見どころ九戸城跡は昭和10年(1935)6月7日、国の史跡に指定された。豊臣秀吉が全国統一を果たす最後の合戦場となった歴史的舞台であり、本丸には東北最古級といわれる野面積の石垣が残り、東北の中でも大規模な城郭であったことが指定理由として挙げられる。城は馬淵川右岸の河岸段丘上に位置し、馬淵川・白鳥川・猫淵川を外堀とする。また、二ノ丸と松ノ丸・在府小路の間に巨大な堀(深田堀)がある。現在の本丸、二ノ丸、松ノ丸は落城後に再普請された福岡城期の姿であり、九戸城期の姿を留めているのは石沢館、若狭館と推定される。史跡案内図九戸城跡ガイドハウスの入口に立つ「三ノ丸跡」の石柱。ガイドハウスにトイレがあったが開館前で施錠されていた。三ノ丸は、本丸・二ノ丸・松ノ丸の西側に位置し、本丸との間は堀と土塁によって仕切られている。本丸との比高差は約20メートルあり、曲輪の中で最も低い位置に築かれている。九戸城三ノ丸跡ここは九戸城の総構のなかで三の丸とよばれていた場所で最大の曲輪です。福岡城時代には商家の家並みがあり、城下町として栄えたようです。なお指定当時(昭和10年6月7日)既に市街地化していた三の丸の殆どは当初から国史跡指定地外となっています。赤矢印が現在地エントランス広場の隅に「史跡 九戸城跡」と。広場に車を置き城内の散策に。小径を上ると本丸西側の土塁と堀跡があり、丘上には「本丸跡」がある。本丸西側の土塁と堀跡の南側を望む。本丸西側の土塁と堀跡の東方向を望む。九戸城跡 周辺案内図少々汚れていた「周辺案内図」。本丸西側の土塁と堀跡を渡り、南側への遊歩道入り口に ”お知らせ”。本丸の案内板に ”お知らせ” 。史跡九戸城跡 整備工事に伴う一部通行止めについて令和7年10月9日 ~ 当面の間、整備工事のため、二ノ丸大手から通行が禁止となります。(□ マークの場所)※工事状況により期間が変更となる可能性があります。安全確保のため園路等にバリケード等を設置しておりますので、ご見学をされる場合は下図の矢印に従ってご入城くださいますようお願いいたします。本丸西側の土塁を南に進み、本丸 約480m、二ノ丸大手・・・約310m本丸西側の土塁と堀跡を振り返る。ここで引き返し駐車場へ戻ることに。堀跡内には遊歩道が設けられている。堀底から土塁上に上り、三ノ丸跡にある「九戸城跡ガイドハウス」を見下ろす。エントランス広場には我が愛車のみが駐車。ここでスタンプがもらえるのは10時からのため「二戸市埋蔵文化財センター」へ移動。8:40県道274号線(二戸一戸線)へ出る。ここを左折。スタンプがもらえる9時までにまだ時間があるので九戸城跡を巡ることに。県道脇に立っていた「九戸城周辺文化財案内図」。案内図には距離間のメーター数が書かれている。県道274号線(二戸一戸線)から東側に入り、右上の森の内側は「本丸跡」。ユニークな円柱の鉄製の「案内図入」。中に「史跡 九戸城跡」と。広場があり、奥に土塁。二戸市マンホール蓋ヒメボタルが描かれ、お尻が光ってピカピカお星さまになっている。「ひめぼたる」「にのへし」の文字入りになっている。最近は街中で見かけないバキュームカーが走っていた。この後工事現場の仮設トイレから吸引していた。堀跡に設けられた道路で両側に堀がある。この辺りは九戸城二ノ丸切岸(深田堀)といわれている。石柱に「堀跡」。大手門脇堀跡(史跡九戸城跡)ここは九戸城の二の丸と松の丸、在府小路(ざいふこうじ)(武家屋敷跡)を隔てる堀跡です。底での幅が60mもあり日本の城跡でみられる堀跡としては最大級の立派なもので、城の時期によっては水堀であった可能性もあります。赤矢印が現在地二ノ丸大手入口から大手門脇堀跡を振り返る。二ノ丸大手入口に立つ「史跡 九戸城跡」。緩い坂道を上ると「二ノ丸」だが工事中。工事中の方に聞き中へ入る。二ノ丸大手二ノ丸の正面にあたるのが大手です。二ノ丸には、大手、搦手、西南虎口の3箇所に開かれています。大手は政治的、軍事的にも重要な通路で、堀を挟んだ侍屋敷(在府小路遺跡)と土橋で繋がっていました。二ノ丸大手は、福岡城の普請時に改修したと推定されます。現存する九戸城古絵図には、方形の空間をもった枡形の虎口が描かれています。平成30年度の調査結果から、東西48メートル、南北7.8メートルの枡形虎口であることが判明しました。虎口は、地表を浅く掘り込んで構築され、南から入ると土塁によって西へと進路を誘導されます。虎口内を40メートル程度進むと北に折れ曲がり、本丸南東隅櫓付近で曲輪内に入る構造になっていました。二ノ丸の土塁が復元されていたが、隅櫓も復元されるのであろうか。小路を東側に進み、二ノ丸大手入口を見る。右側は、二ノ丸南側の深田堀で高低差が約10メートルある。工事看板には、史跡工事中令和7年度 史跡九戸城跡第2期整備 (二の丸大手・搦手) 工事 期 間 令和7年6月3日 ~ 令和8年3月23日 請負額 127,050,000円工事中の方に聞き、「二ノ丸搦手」近くまで車で移動。この辺りは二ノ丸の東側に位置しており、工事が行われていた。現在地「二ノ丸搦手」。二ノ丸搦手から北方向へ進む堀底道。ロープに「注意 スズメバチの巣があります」と。草が奇麗に刈られていたのはハチがいるとの情報からか。九戸城跡の西側にあるエントランス広場まで約250m。周辺案内図には豊臣秀吉軍に包囲された時の布陣が記されていた。二ノ丸北側下の広場。この先の窪地を外堀の白鳥川が流れている。この窪地を西方向へ進むと林の先に三ノ丸跡にあるエントランス広場がある。草が奇麗に刈られていたので何も心配ないのだが。同場所から南方向には、左上に二ノ丸、右上に本丸跡がある。9:00南方向にある「二ノ丸搦手」を望む。左上は立入禁止になっていた「石沢館(外館)」、右上には「二ノ丸」。時間も9時になりスタンプをもらうため引き返すことに。 ー 続く ー
2025.11.05
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天台寺の麓にあるバス停「御山」へ下りる。10月21日(火) 7:10天台寺の参道入口ロータリー。早朝で交通量がなかったのでロータリ脇に車を停めた。「土踏まずの丘」とは天台寺参道入口に「桂清水」という桂の老樹の根から湧く名水がある。その反対側、町道「御山線」を隔てて坂道を約三○○米位行くと三重に土盛りされた小高い森がある。この小高い土盛りの森が「土踏まずの丘」と言われる場所である。古くからの伝説によれば多くの経文を埋めた「経塚」であるという説、又第九十八代長慶天皇の皇妃「阿佐妃」の「御墓」説、第三説として安部貞任、他一族の「墓地」説などなど歴史的ロマンの多い「土踏まずの丘」である。県北地方(主として旧南部領内)では今でも、お盆などでは赤飯を神仏に供える風習が残っている。この「土踏まずの丘」にも五人分のお膳を供えたということから五人分の墓地説が地元には強く残っている。角田寿桂先生と私学塾角田寿桂は明治十六年(1883)ニ十ニ歳のときから岡本小学校長流部分校、田山簡易小学校、大清水尋常小学校、津軽石川尋常小学校と教員をしていたが、明治二十九年(1896)三十五歳、父文作死亡により退職し御山に戻る。天台寺総代や村会議員を務め、明治三十八年から四十二年まで役場吏員となる。この間一年余り赤塚村長と共にする。明治四十四年(1911)五十歳にして鉱山技師となり浄法寺村を離れた。すぐ北海道小樽で私塾「北海実業学舘」(国・漢・数・簿記)開設、東京に移り本所で「桂泉学舘」の塾を開いていた。大正十二年(1923)六十六歳のとき郷里に帰り「寿桂学舎」を開き弟子の教育にあたる。昭和十一年(1936)七十四歳のときに、天台寺宗徒漆田信のすすめにより『桂泉天台寺縁起』を著した。寿桂は天台寺桂寿院の身内であり、彼の博学により戦前の天台寺研究の総まとめとなった。寿桂は御山の地で昭和二十年五月一日、太平洋戦争終結を目前に享年八十五歳で没した。説明板の左側に石柱が立っていた。石柱には「・・・・・」、側面に「昭和三十年四月」と。角田寿桂と刻まれていたのか。紅葉が始まった参道入口に立つ「福聚観音」。案内板早朝で人影がないので散策は諦めた。大樹の下に鳥居が建っていた。鳥居前の右下に「⇦ 天台寺参道」の案内、右上に説明板、公衆トイレがあった。木製の鳥居鳥居の扁額「八葉山天台寺」。右側の狛犬、阿形像。左側の狛犬、吽形像。新奥の細道 天台寺を訪ねるみちこのコースは、滝見橋から八葉山天台寺を経て、漆沢までの8.5km自然歩道です。沿線には、国の重要文化財に指定されている天台寺の「木造聖観音像」や町の史跡「浄法寺館」、日本一の生産量を誇る「ウルシの木」等が見られ、浄法寺町の史跡や産業、文化に触れることができる片道約3時間のコースです。天台寺の歴史奈良時代神亀五年(728)に行基菩薩が聖武天皇の命をうけて当山を八葉山と名づけ、山中の桂の大木を刻んで本尊聖観音菩薩とし、宸筆(しんぴつ)(天皇直筆)の額を掲げて開山したと伝えられている。天台寺は古くから「桂泉観音」・「御山の観音」と呼び親しまれており、糖部地方の霊地として崇められていた桂清水が、のちに観音の霊場として、古代最北の仏教文化に発展したと考えられている。「天台寺」の名が初めて資料にあらわれるのは南北朝時代、正平十八年(1363)の銅鰐口で、元中九年(1392)と伝えられる銅鐘銘には「桂泉」の名も見える。この頃には勢力を拡大してきた南部氏が天台寺を崇敬・保護するようになり、室町中期には、糠部三十三所観音巡礼の第一場札所となった。江戸時代になり、萬治元年(1658)盛岡藩主南部重直が天台寺を再興、続いて元禄三年(1690)南部重信が大修理を行ったが、これが現在の観音堂(本堂)である。二十七の末社も整備され、その盛時のありさまが「天台寺古絵図」に描かれている。当時は藩からの百石を越える寺領があり、別当(住職)桂寿院を中心に池本坊・実蔵坊・徳蔵坊などの坊が補佐し、勤行や一山の運営・管理に当たってきた。明治維新以降は、別当桂寿院の焼失・断絶、或は戦後の不幸な霊木伐採事件などにより衰運に向かったが、今再び北東北の霊場としての復興が進められている。 昭和六十三年三月三十一日 八葉山天台寺保存会 二戸市教育委員会天台寺参道入口寺号標柱「国指定重要文化財 天台寺」。左側の石碑には「青面金剛供養」と。登り口の左側に手水舎が建っていた。手水舎の前には赤頭巾の地蔵。桂の老樹の根から湧く名水桂清水(かつらしみず)「桂泉観音(けいせんかんのん)」の由来となる清水であり、巨木の根本から湧く清冽な水は絶えることがない。当地に参堂した菅江真澄は「けふの細布(せはぬの)」の中に次の一句を残している。 かしこしな いく世桂のかげそへて ながるゝ水の 月やすむらむ※ 菅江真澄の名はこの後もよく登場、秋田城近くに菅江真澄の墓があった。以下二枚の写真は、10月25日(土)に訪れた、秋田城跡歴史資料館近くにあった墓地。墓石には「菅江真澄翁墓」、側面に「文政十二巳丑七月十九日卒 年七十六才」。手水舎の裏側に祠が2社建っていた。右奥には「弁財天堂」。左側にも祠があったが?。バス停「御山」のロータリーを見下ろす。散策中誰とも会わずクマの恐怖に・・・。福聚観音廻りにはドウダンツツジが植えられておりこれからの紅葉が楽しみ。枯れ木の切り株の上には赤頭巾の地蔵が置かれていた。福聚観音の後方には桂の老木が聳える。紅葉が始まった蔦。ロータリーの隅に立っていた案内板「ようこそ、北いわてへ」。7:25天台寺から下り県道6号線(二戸五日市線)を右折して二戸市内へ。県道274号線(二戸一戸線)の浄法寺入口交差点を左折。県道274号線(二戸一戸線)に「二戸駅入口」の案内板があり立ち寄った。JR二戸駅東口所在地:岩手県二戸市石切所字枋ノ木63-4二戸市観光の玄関口で、ふたつの二戸駅がある。新幹線側は反対側の西口で、住所も ”二戸市石切所字森合63-68” になる。二戸駅二戸地域の玄関口・二戸駅には、JR東日本の東北新幹線とIGRいわて銀河鉄道の、ふたつの二戸駅がある。東北新幹線の八戸駅開業にともない、JR東日本の在来線が第三セクターとして移管されたのが、IGRいわて銀河鉄道である。JRとIGRがここで結ばれている。東北新幹線で盛岡まで21分、東京駅までは2時間44分。手前はJR東日本の在来線が移管された第三セクターのIGRいわて銀河鉄道。東口と西口の連絡橋。連絡橋の東下に駐車場があったが30分まで無料と。8:20二戸駅から県道274号線(二戸一戸線)へ戻り、九戸城跡へ来たがスタンプ捺印まで時間があり地元の方に聞き「九戸(くのへ)城跡ガイドハウス」へ向かうことに。県道沿いに「九戸城跡」の案内板。 ー 続く ー
2025.11.04
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深夜割引料金を利用して、常磐道、東北自動車道を北上し岩手県へ。10月21日(火) 4:45岩手山サービスエリア(下り)在地:岩手県八幡平市平笠第2地割1-36雄大な岩手山の裾野に位置し、エリア入口側は日本庭園風となっており、東屋やテーブル・ベンチが設置され天気の良い日は休憩に最適!北東北観光に向かわれるお客さまの拠点となっておりますと。窓のポスターに「盛岡冷麺」と。盛岡と言えば冷麺、書き込みで北朝鮮の麺のコシに似ていて歯ごたえがあり美味しいと。駐車場の一般車エリアは少なかったが、トラックエリアは仮眠中の車が多かった。到着予定が早かったので車中で約一時間仮眠した。仮眠後店内に入る。盛岡冷麺を一個購入、帰宅後後日食べたが嫁さんは「麺にコシがありすぎる」と。第2回「ハイウェイめし甲子園」。ここのエントリーメニューは「杜仲茶ポークの彩り豚カラ丼」。コク深く旨味が詰まった杜仲茶ポークの唐揚げと、パプリカなどの彩り豊かなシャキシャキ野菜は相性抜群!! 1,500円(税込)後方に「中尊寺の金色堂」の模型。ケースには、ずんだ餅、黄金たまごのチーズケーキがあったがこれから旅が始まるので。5:50日の出前の朝焼け。今日も好天気が予想された。サービスエリアの南方向には岩手山が聳えているのだが頂上は雲の中であった。岩手山の裾野は見えていたが、夜のニュースで初冠雪であったと。6:00多くのトラックが仮眠中。自分自身も仮眠をしたので出発することに。岩手山SAを出ると直ぐに「松尾八幡平IC」の案内板。6:05前森山パーキングエリア(下り)所在地:岩手県八幡平市松尾東北自動車道の松尾八幡平IC〜安代JCT間に位置し、上下線ともに24時間利用可能な無人のパーキングエリアである。朝焼けが奇麗であったので立ち寄ったが・・・。前森山PAでのカーナビ。6:30浄法寺(Joboji)インタ東北道安代JCTから八戸自動車道を走ったが交通量は少なかった。二戸市浄法寺は、古刹天台寺があり、さらには古くから南部漆の産地として多くの漆掻き、木地師、漆師が住んでいたといわれてきた地です。現在も日本産漆の最大の産地として良質な漆を各方面に出荷しており、文化財の修復や漆器の製造に欠かせないものとなっている。浄法寺インタを出て、県道6号線(二戸五日市線)を右折。浄法寺インタに近い県道6号線(二戸五日市線)沿いに立っていた寺号標柱と案内板。まだ時間が早いので立ち寄ることに。寺号標柱に「国指定重要文化財 天台寺」と。天台寺とうるしのまち浄法寺 ふれあいさんぽ■天台寺 通称 ”おやま” で知られる八葉山天台寺は、奈良時代の神亀5年(728)、聖武天皇の勅 願所として、行基菩薩が自作のナタ彫りの聖観音像を安置して開山したと伝えられて います。大同2年(807)に坂上田村麻呂が堂宇を改修。慈覚大師が同山にとどまり、薬 師如来を安置したとも伝えられています。明暦年間(1655~58)、南部重直が堂宇を 増築し、最盛期には境内に5坊、寺領30石を持って、この地方一帯の信仰の中心とな っていました。本尊の聖観音立像・十一面観音立像は、いずれも藤原期の作と伝えら れ、国の重要文化財にも指定されています。また、寺宝として慈覚大師の作と伝えら れる薬師如来像など多数の遺産が残されています。 昭和62年からは、作家の瀬戸内寂聴さんが住職を務め、全国にその名をとどろかせま した。近郊のMAP県道から天台寺への参道を南下、八戸自動車道を潜ると右側に石畳。八戸自動車道「浄法寺IC出口」案内板。道路脇に車を停め石畳を進むと仁王像が立っていた。奥に建つのは「お食事処 かつら庵」。右側の台座には「歴史と漆の里」と。左側の台座には「桂の道」と。滴生舎(Tekiseisya)滴生舎は、展示販売を行うショールームと漆器製作工房からなっており、漆器ひとつひとつを実際に手に取れるほか、漆塗り作業の様子をガラス越しに見学することが可能であると。滴生舎の隣には工事中の建物があったが。天台寺下の「バス停 御山」へ到着。所在地:岩手県二戸市浄法寺町御山久保石柱に「⇧ 天台寺参道」と。駐車場がなくカーナビの案内でこのまま山道を登った。バス停から坂道を登り、途中に駐車場があったがそのまま山道を上った。不動堂下の広場で車を停めた。天台寺への参道広場に車を停め登ることを考えたがクマが怖いので参拝を諦めた。参道脇にはアジサイが植えられており、赤頭巾の地蔵が参拝者を迎えていた。アジサイは、かつて住職をしていた瀬戸内寂聴さんが植えたと。参拝を諦めたので以下2枚の写真はネットから。本堂参道を上ると仁王門等見るべきところが多くあったが。早朝で参拝者もいなかった。広場脇に奉納されていた地蔵。7:05本堂への参拝は諦め坂道を下りる。 ー 続く ー
2025.11.03
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今年は続日本100名城制覇で精力的に動き60城を攻略、東日本で残るのは東北3県の青森、岩手、秋田県の4城のみとなっていたので4泊の旅を計画した。併せて城以外に下北半島、津軽半島の旅は未経験であったので両半島の最北端を目指した。10月20日(月)この日の目的地は「九戸城」、最終目的地は宿泊ホテルの「おおま温泉海峡保養センター」で自宅から約1,000kmと長距離ドライブ。長距離運転になるので早めに出発し休憩をとりながら北上することに。走行ルートは東北自動車道は何度も走っているので、今回は太平洋側の常磐自動車道を選択した。MAPはいわきJCTからのルート。21:35守谷サービスエリア(下り)所在地:茨城県守谷市野木崎97-3自宅を20時前に出発し、東名高速道路、首都高速、常磐自動車道を走り最初の休憩をとる。深夜割引料金を利用するのでこの日は昼食後寝て体力を温存した。この日は月曜日で観光客は少なかった。フードコーナーも一部のみが営業していた。コンビニのLAWSONは24時間営業。途中の道路標識で「常磐富岡IC ➪ 浪江IC間工事通行止め」と。22:50中郷サービスエリア(下り)所在地:茨城県北茨城市中郷町日棚 字山崎1860-1中郷SAが存在する北茨城市は童謡「七つの子」や「しゃぼん玉」を作詞した詩人「野口雨情」のふるさとであり、"鎮守の森"をイメージし平成31年4月にリフレッシュした庭園には、雨情の代表的な童謡の詩碑が6基あると。この時間でも幟旗が多く立っていたが、フードコートでは当店人気No.1の「中郷ラーメン」を是非ご賞味くださいと。駐車エリアには仮眠中のトラックが多かった。目的地の九戸城まではガソリンが不足するので満タンにした。高速道路内でのレギュラーガソリン値段としては189円/ℓと安かった。23:17関本パーキングエリア(下り)所在地:茨城県北茨城市関本町関本上1970-34常磐自動車道は東北道に比べ交通量が少なかった。ファミリーマート関本PA店があった。眠気を避けるためにファミリーマートでコーヒーを購入した。併せて、常磐富岡~浪江間が工事中のため一般道へ下りるのでシステムを聞く。店員さんから「ETCゲートでなく一般ゲートへ」とアドバイス願った。コンビニは24時間営業しているので助かる。途中、”いわきJCT”があり、磐越自動車道を走り郡山を考えたがこのまま直進することに。10月21日(火) 0:03ならはパーキングエリア(下り)所在地:福島県双葉郡楢葉町大谷上ノ原48-48常磐富岡ICを出た後のルートを確認。カーナビの案内は「常磐富岡IC」の先は浪江まで通行止めのため一般国道へ。0:12常磐富岡インタの一般ゲートへ進み「浪江から継続」と伝える。常磐富岡ICを出て県道36号線を右折。県道35号線を走り国道114号(国道459号)へ突き当り右折。国道114号(国道459号)を走りこの先を右折して再度、常磐自動車道へ。0:3521 浪江インタ電光掲示板に「浪江➝常磐富岡 工事通行止」と。0:50南相馬鹿島サービスエリア(下り)所在地:福島県南相馬市鹿島区浮田深夜になり外気温は10℃と下がり肌寒かった。交通量も少なくなっていた。カーナビの時間は 00:53野馬土手(のまどて)江戸時代の寛文7年(1667)中村藩3代目の殿さま・相馬忠胤(そうまただたね)の時、広大な野馬原の周囲に、高い土手を築き野馬を放牧し、増殖を図ると共に野馬の離散や農作物への被害を防いだ。写真はピンボケしましたが「野馬土手」。1:30鳥の海パーキングエリア(下り)所在地:宮城県亘理郡亘理町逢隈高屋常磐自動車道のパーキングエリアで仙台も近い。自動販売機はあるがレストランはない。施設内には道路情報のモニターが作動していた。常磐自動車道・下り線、最後のPA。高速道路の西側に設けられた上下線集約型のPAである。トイレは上下線で共用となっている。トイレ入口に飾られたドライフラワーであったか。観光PR係長 わたりん男性側トイレ入口にも。ようこそ鳥の海へ写真は「鳥の海全景」平成21年7月撮影。亘理町。東日本大震災前の写真であるようだ。「鳥の海」は、阿武隈川河口の南側に位置しており、阿武隈川旧河口が長年の流砂の堆積により川水がせきとめられ成形された東西約2km、南北約1kmの潟湖(ラグーン)です。名前の由来は諸説ありますが、「鳥の海」は水深が浅く、ハゼ・カレイ・アサリ・シジミなど魚介類が豊富で、これらを餌とする渡り鳥など多くの野鳥が生息していることから「鳥の海」という名がついたと考えられています。「鳥の海」には、藩政時代、亘理の殿様も魚取りや狩りに訪れていたとされる一方で、その風景には人々を惹きつけるものがありました。亘理伊達家の御典医であった馬場三達は、寛延元年(1748)に『鳥の海八景』として詩歌を作り第七代領主村成公に献上しています。そのうちの一つ『松崎夕照』では、 「松崎紅畔 幽閑地 向暮催帰 一釣翁 白鷺亦為 紅鷺去 彩雲遠映 夕陽中」(松崎の入江のほとりは、奥まった静かな所である。夕暮れ近くになり、そろそろ釣りを やめて帰ろうとしている老人がいる。白鷺もまた夕日を浴びて、赤い鷺のようになりな がら彼方へ飛んでいく。空の雲も美しく色づき、夕日の中に美しく映えている。)と、「鳥の海」の情緒ある風景を詠んでいます。鳥の海PAを出た後は北上、仙台若林JCTから仙台南部道路を西へ走り、仙台南ICで東北自動車道で合流し北上。2:15泉パーキングエリア(下り)所在地:宮城県仙台市泉区野村上台前20仙台南ICから仙台の西側を走る東北道を北上、坂を上りここ泉PAへ。仙台に近いだけに駐車場スペースには多くのトラックが仮眠中、外気温が8℃と下がる。2:45長者原サービスエリア(下り)所在地:宮城県大崎市古川宮沢金堀場26この辺りは東北でも屈指の米どころ、伊達政宗公ゆかりの宮城県大崎市にある、自然豊かな緑に包まれたSAであるが外は暗く確認できなかった。宮城銘品を数多く取り揃えており、スマートICを併設している。多くのグルメを販売しているようだが。館内ではお土産物を販売していた。現役時代によく食べた「萩の月」が眼に入る、女子社員が喜ぶ三大土産の一つである。懐かしいのでお土産に3個購入。長者原SAを出た後も北上、岩手県へ入り一関IC、中尊寺近くを走り、平泉前沢IC、花巻ICを通過。インタ近くには行きたい名所が多くあったが・・・。4:05紫波(シバ)サービスエリア(下り)所在地:岩手県紫波郡紫波町片寄後在所3岩手県央部に位置し奥羽山脈の懐に抱かれ、野趣に溢れたSAである。晴れた日には名峰早池峰山も望める抜群の眺望も魅力。四季の移ろいを身近に感じてのお買物やお食事をお楽しみ頂けますとあったが。館内に入るが深夜で土産物店は閉店、小雨が降り気温も6℃に下っていた。ショッピングコーナーとあったが深夜で閉店中。営業時間は、7:00~22:00 朝は早くから営業しているが。 第2回「ハイウェイめし甲子園」。エントリーメニューは「白金豚のトンテキ定食」。コク旨たれとフライドガーリックで白金豚の旨味と甘味がマシマシです!食べれば食欲も元気もさらにマシマシです!! 1,380円(税込)夜明け前でまだ暗く周りの景色を楽しむこともできず。4:15目的地の「九戸城」へは早く到着するのでどこかで時間調整が必要に。トイレ休憩のみで出発した。ここまでの走行距離は583キロ。 ー 続く ー
2025.11.02
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18時から30分間連続で1,000発打上げられる後半の花火を撮影。ND8フィルターを使用したので全般的に露出不足であった。10月18日(土) 18:24撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200打上げ高さが低いので写真をトリミング。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、15秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、4秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、4秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、5/2秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、13秒、ISO 20018:33最後の大玉が打ち上がった。撮影情報:52mm、f/8、4秒、ISO 200今回も拙い花火撮影になりました。 END
2025.11.01
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18時から30分間連続で1,000発打上げられる花火を撮影。ND8フィルターを使用したので全般的に露出不足であった。10月18日(土) 18:14撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、3秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、15秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200写真をトリミング、露出調整した。撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、15秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミングして拡大。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200縦にトリミング。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200縦にトリミング。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200打上げ高さが低かったので写真をトリミング。撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200トリミング、露出調整。撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200露出時間は5秒であったが奇麗に撮影できた。撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 20018:24スマホで撮影した。 ー 続く ー
2025.10.31
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事業名称:「2025ふじさわ江の島花火大会」開催日 :2025年10月18日(土) ※荒天中止/順延日なし打上時間:18時~18時30分(30分間)場 所:片瀬海岸西浜(西浜沖台船から打上げ)打上発数:約1,000発(最大号数20号玉)予定10月18日(土) 17:30一昨年は”片瀬海岸西浜”から撮影したが、今回はサイクリングロードの”辻堂海浜公園”からとした。愛車のリンちゃんで訪れたが既に多くの人が海岸で打上げを待っていた。既に江の島シーキャンドルが点灯していた。茅ヶ崎方面の海岸にも多くの人が。雲が厚く富士は見えていなかった。17:50打上げ開始は18時から、三脚にカメラをセットして待機。手持ち撮影で江の島シーキヤンドルをズームアップ。17:55カメラの設定、使用カメラは Canon EOS 70D。 ① 三脚とレリーズを使用 ② 撮影モード:B(バルブ) ③ 感 度:ISO200 ④ 絞 り:F8 フィルター:ND8 を使用 ⑤ ホワイトバランス:「オート」 ⑥ 手振れ補正:「OFF」 ⑦ ピント合わせ:最初にAFでピントを合わせ後は「MF」に ⑧ カメラは横にセット暗くなった打上げ場所の片瀬海岸西浜を望む。18:05定刻に打上げ開始、今回も撮影情報を記載することに。撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、4秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、13秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、6秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200大玉が打上げられ画面から出た。撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 20018:12スマホで撮影辻堂海岸には多くの人が花火を楽しんでいた。撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、10秒、ISO 200撮影情報:52mm、f/8、8秒、ISO 20018:14撮影情報:52mm、f/8、5秒、ISO 200ND8フィルターを使用しているので全般的に露出不足であった。 ー 続く ー
2025.10.30
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旅友宅へ我が家の甘柿を持参した帰りに以前から気になっていた神社へ立ち寄った。10月18日(土) 11:55善行神社所在地:神奈川県藤沢市善行2丁目19当神社は、源義経を祀る白旗神社の末社で、善行稲荷とも呼ばれる。善行団地に行く坂道の途中に鎮座している。この付近には昔、善行寺というお寺があって、善行という地名の由来になったとも伝えられていると。アクセスは小田急江ノ島線の善行駅から坂を下り、石名坂善行線の善行神社入口交差点を右折して神社前へ。坂の上から振り返る。社号標石「善行神社」。拝殿御祭神:宇迦之御魂大神・須佐之男命例祭日:10月第1日曜日由 緒:善行神社は元々、八坂神社と稲荷神社という別々の2社が善行内に鎮座されていた が、それを平成九年(1997)に合祀して出来たのが善行神社であると。鳥居を潜ると右側に狛犬の阿形像。奉納の記念碑「一金壹百圓 大正七年三月三日□□」。左側の狛犬、吽形像。塀際に並ぶ、庚申塔等の石造物群、また拝殿の左奥には境内社がある。石碑には、「御大典記念 善行八坂神社神輿奉賛者名」。 碑には奉賛金額、氏名が刻まれている。拝殿前には対の狛狐。善行神社は八坂神社と稲荷神社という別々の2社が合祀されたので狛狐であろうか。拝殿前右側の狛狐。拝殿前左側の狛狐。拝殿の扁額「善行神社」。この10月20日(月)から東北旅行をするので安全祈願。神社の西側を走る善行団地への坂道。右側上に団地がある。境内は狭いが奇麗に整備されていた。境内の隅に「日露戦争記念碑」。側面には「明治三十八年十二月 日建之」。裏面には出征軍人の氏名が刻まれている。塀際に並ぶ、庚申塔等の石造物群。拝殿の左側奥に薬師堂。薬師堂の前に立つ地蔵。地蔵には新しい頭巾、前掛け、お供え物があった。薬師堂の前にもお供え物。この祠は現在の善行1丁目21番5の辺りにあった全竜寺から移した薬師堂であると。右側の塀に沿って並んでいる石塔類は、地区内にあったのを集めたもので、なかに「善行寺村」と刻まれた庚申塔があると。説明板はなかったが「庚申塔」と。右側の庚申塔には「慶應二年十一月」と刻まれていた。左から二番目には「寛文四年」と。右から二番目には「庚申供養塔 文化元甲子年」、三番目には「馬頭観世音」と。神社には駐車場がないので道路脇へ駐車して参拝した。駐車場所から境内を見る。善行駅方向を見下ろす。坂を下ると窪地になり善行神社入口交差点がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・我が家のハクモクレンも成長高木になっている。葉が散ったら剪定の予定。今年は珍しく、ハクモクレンの実がついていた。奇形な形の実である。カリンの実野球ボールより小さいカリンの実。昨年購入したレモンも実を付けた。黄色になっての収穫か。オクラは成長しすぎ種子用に。ザクロの木にも実がたわわについていた。実が割れると食べごろになるのだが。10月28日(火) 近くの畑に、イヌサフラン(コルチカム)が咲いていました。イヌサフラン(コルチカム)は、ヨーロッパから北アフリカ、コーカサス、アジア西部に分布するイヌサフラン科イヌサフラン属の多年草である。植物の名前で「イヌ」が冠されるのは、多くの場合「役に立たない」「偽物」という意味であると。ギョウジャニンニクと間違え食べ、食中毒をおこすので要注意である。 END
2025.10.29
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龍珠山瑞雲寺境内、周辺を散策。9月23日(火) 16:05本堂前に咲いていたサルスベリ。瑞雲寺裏墓地への案内板。皇大神宮足場が悪いので途中で見上げる。自修学校創立者瑞雲寺二十一世大井龍跳先生を師と仰ぎここに学びし者、昭和十五年卒業自修学校二十九回生一同が、木工技術を修めた匠に頼み、精魂を打込み仕上げた皇大神宮を母校に贈った。斯れより五十年の歳月を経て、平成十二年寺の物置の改築の折り斯の皇大神宮が発見され、瑞雲寺住職道範師のご協力により、ここに御堂を建設して、皇大神宮を修めて永久に御祭りする事とした。 平成十三年二月十一日 自修学校二十九回 卒業生一同登り口に「曽我兄弟ゆかりの 西行法師開眼 力不動尊」。社が2社建っていた。手前に「力不動尊」、奥の下に「皇大神宮」。力不動尊・(不動根)この瑞雲寺に伝わる錬金伝説この場所は隆起型の活断層である相模トラフ(神縄・国府津ー松田断層帯)の突起場所です。この断層の構造は世界有数のプレート(太平洋プレート・フィリピンプレート・北アメリカプレート・ユーラシアプレート)から造られています。4つのプレートから造られている場所は世界的にも2か所しかなく、その活断層の集合地点がまさしくこの地であります。この断層上でもあり、当寺瑞雲寺の鬼門にある須賀神社の祭神は荒神(荒ぶる神)とは地震(活断層)の神様であります。宗我神社は曽我氏が氏神です。曽我・須賀・蘇我、断層と錬金術この力不動尊の力とは、マグマの集約地点地球・宇宙の生命の黄金の力(パワースポット)です。曽我兄弟が念願成就のため祈願した石造であり、智力・体力・財力等にすべて正しく生きようとする方に無限な強い力をかして下さいます。横たわった説明板に、「不動根 (ふどうこん) 男性に大きな力、たくましさを 子宝に恵まれたい女性はよい子を授けられます。 男性は強く握って下さい 女性はまたいで下さい 念願成就されますことを」と。 不動根私にとってはもう遅いので弱く握ってきました。下にある「皇大神宮」を見下ろす。見晴らし台から南方向を見下ろす。相模湾にうっすらと伊豆大島が見えていた。西方向に本堂境内を見下ろす。富士が見えるのであろうか。本堂裏の東側へ登り墓地へ。瑞雲寺のモッコク 小田原市指定天然記念物(昭和六三年一一月一日指定) (所在地) 小田原市上曽我九○ニクスノキの分布は、本州南岸(南関東以西)、九州の近海地方に育成する暖地性樹木です。しかし、その植栽分布は関東北部、北陸地方の日本海側、東北地方(秋田・宮城・福島)に及んでいます。この木は、瑞雲寺庫裏の東側、寺林内の中腹に生育し、本市内では最大級の古木です。多くのモッコクが単幹であるのに、この木は株立状です。瑞雲寺の寺林は、寺の東北側に隣接する、須賀神社の社叢に続いている自然林的な要素を備えています。この木の近くには、クスノキの大木や、イロハカエデの古木があり、また、ヒサカキやアオキなどの低木も多く生えています。このことから、この木は自生樹と考えられます。 小田原市教育委員会案内板に「⇐ 洗心池」とあったが。確認できなかった。須賀神社所在地:神奈川県小田原市上曽我902上曽我須賀神社の創建年代等は不詳ながら、明応元年(1492)に開山した。瑞雲寺に隣接、「新編相模国風土記稿」には、瑞雲寺持の社として記載され、大六天社と称して上曽我村の鎮守として祀られていたという。明治維新後の神仏分離令により須賀神社と改称した。須賀神社社殿祭神:速須佐之男命祭日:大祭11月7日、小祭4月3日社殿の左側に聳えるクスノキ。木柱に、「小田原市指定天然記念物 須賀神社のクスノキ」と。左側には、「大六天 須賀神社 御祭神 速須佐之男命 小 祭 四月三日 大 祭 十一月七日 御神木 此の御神木・・・・・とあったが字が消えていた」。クスノキを見上げる。須賀神社のクスノキ 小田原市指定天然記念物(平成五年一一月一日指定) (所在地) 小田原市上曽我九○ニクスノキは、元来九州の立花山以南の温暖な気候で多く自生する常緑高木で、6月頃淡黄色の小花を開き全体から芳香を発します。材質が堅く虫に強いため建築材や家具の材料として適していたことから、古代より栽培されるなどして本州の関東以西に分布の範囲を広げてきました。須賀神社のクスノキは、社殿の左側に位置し、やや左に傾いて力強い樹形をしています。市内にはクスノキの巨木が多く存在し、市内最大ではありませんが、房総半島を北限とするオオバヤドリギが30箇所近くも着生している珍木です。地元では寄生木として不思議なため、豊穣の御神木として大切にされています。 小田原市教育委員会右には「浅間大神」、中央には「農業祖神大照大神」、左には石祠。逆光で暗いが石碑には「水道記念碑」と刻まれていた。水道記念碑の右側には「水神」、側面には「久保中」と。須賀神社の北側にまわる。この道を登ると中河原配水池へ行ける。須賀神社境内に立つ二つの石碑。水道記念碑の裏面には、中河原水道組合は市の北東部に位置し市の中心より約七粁離れた梅香る気候温暖にめぐまれた環境の地であるが、ただ一つ□□民の願いは、衛生的な飲料水の確保であるため、昭和三十七年五月十四日部落集会において水道施設の建設に対し討議した。・・・中略・・・資金は各戸が積立てによって調達することとなり、技術面については小田原市水道部の指導のもとに建設は進められた。特記すべきことは□□婦人会の並々ならぬ努力と協力があったことは見逃すことのできないことである。 昭和四十八年三月十□□記念建立 組合長薄暗い須賀神社を後にした。瑞雲寺の駐車場への途中に咲く彼岸花。まだこれから満開に。アゲハチョウが飛来していた。羽を止めることもなく羽ばたきながら蜜を吸う。駐車場に戻り鐘楼を見上げる。16:30東の丘陵地の「中河原配水池」を見上げる。下曽我周辺には曽我兄弟ゆかりの史跡が他にもあるので再度訪れたい。貯水タンクとサルスベリの高木。自宅には17時過ぎに到着。この日の歩行数は14,000歩と頑張った。 END
2025.10.28
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下曽我周辺の寺社史蹟を巡った。カーナビの案内で狭い生活路を走り「瑞雲寺」へ。9月23日(火) 15:55龍珠山 瑞雲寺、曹洞宗 花の寺所在地:神奈川県小田原市上曽我902梅祭りの時期には、境内でコンサートや抹茶の野点(のだて)などが開催され、境内には色とりどりの梅やスイセンが咲き華やかであると。来年は訪れてみたい。Googleマップから下曽我駅周辺の寺社史蹟。天津神社から瑞雲寺まで750m、車で3分。瑞雲寺(ずいうんじ)曽我梅林の中にある寺として知られるこの寺は、龍珠山瑞雲寺と号し、曹洞宗で津久井の大井山功雲寺の末寺であり、相州黒岩城主本多豊前守が、日頃帰依していた功雲寺の5世仁忠継儀和尚を招請して、明応元年(1492)に建立した名刹である。創建当初は、現在地より東方200メートルの丘上に建立されたと伝えるが、江戸時代の後期に現在地に移されたと言う。寺には、18世観源大器和尚の「へえずり石」や、縁結びと子宝を授かると伝える「洗心池とめん玉弁天」があり、また曽我兄弟が父の仇を討つために願文を納めて、「十人力」を授けられたという「力不動尊」が安置されている。この不動尊は大山不動尊の前不動で、曽我剣沢の地にあったものを江戸時代後期に当寺内に移されたものである。なお寺内入口左側の梅林は、21世住職によって創設された当時足柄平野唯一の私学「自修学校校舎」の跡地である。同校は明治43年7月に開設され、大正15年8月、校舎拡張のため東方丘陵に移転。のち湘北中学校、湘北高校、向上高校と校名を変更した。龍珠山瑞雲寺案内図駐車所に車を停め瑞雲寺入口へ出る。左側に沢があったが最近の線状降水帯が発生すると大変な被害が発生するのではと。中河原梅林(曽我梅まつり中河原会場)になっている。道路脇の六角柱に地蔵立像が彫られていた。周りに地蔵立像が彫られていた。別の角度から。花の寺だけに彼岸花も咲いていたがこれから満開に。石碑には「□□□□音」と。甘柿もたわわに。我が家でも次郎柿が裏庭にあるが、今年は猛暑で実が小さい。寺号標石「曹洞宗 龍珠山 瑞雲寺」。後方には枝垂れ梅の樹。参道脇に新しい「上曽我祭典部 山車小屋」が建っていた。隣の建物の壁面には「この地点の海抜 48.8m」と、屋上には拡声器が設置されていた。入口に「中河原公民館」の看板。瑞雲寺山門から東の丘陵地を見上げる。山門の石柱には右に「龍珠山」左に「瑞雲寺」と。丘陵地にある「中河原配水池」をズームアップ。市内の高田浄水場で処理された水は、ほぼ全てこの配水池に送られている。 3基のプールがあり、総容量は26,000㎥。 標高73.9mにあるこちらから小田原市内の約7割の家庭へ水を送っていると。また、富士山、箱根連山、足柄平野を見渡せ、桜の名所であると。参道の左側に鐘楼が建ち、説明板が立っていた。石碑には「自修学校発祥之地」。木柱に「曽我自修学校発祥の地」と。自修学校発祥の地明治時代、小学校の制度は全国的に普及したものの、それより上級の進学は不可能に近い状況が多かった。瑞雲寺二十一代大井龍跳和尚は、この不備を救うため寺の本堂でこの地域の青年を教導し、やがて明治四十三年、ここに校舎を建設した。教科は修身・国語・漢文・英語・数学(代数・幾何)珠算など、後の旧制中学校三~四年程度を教えたという。大正十二年、関東大震災により校舎は倒壊したが、大正十五年、規模を拡大するため東方の台地上に移転した。後に校名は湘北中学校・湘北高等学校となる。更に学園は伊勢原市に移り向上高等学校と改名される。その後、自修館中等教育学校を併設した。明治・大正・昭和・平成にわたり、この私学の果たした地域への貢献はまことに大きかった。平成二十二年七月、学校法人向上学園は、創立百周年を迎えることとなった。 平成二十一年三月 小田原市教育委員会顕彰碑〈復刻〉湘北高等学校長大井龍跳(りゅうちょう)先生逝いて早くも三回忌を迎え温容高風追慕の情転切々たるを覚ゆる瑞雲寺住職として信を一身に聚むるも宣なるかな弱冠にして学舎を寺隅に興してより自修学校を経て自修学園の今日に到るまで風を望み薫化の恵みに浴するもの七千に及ぶ自修創立四十周年を記念して学園卒業生等議のここに先生の墓碑を建立し遺徳を偲ぶ 昭和二十五年十月十四日 自修学園湘北高等学校長 田代信二識 昭和二十五年十月十四日 自修学校卒業生 自修学園卒業生 教職員 生徒 建立この大きな実は?。黄色の彼岸花が咲いていた。薄黄色の彼岸花。入口にもあったがここには、六角柱に彫られた観音座像。廻りには彼岸花が芽吹いていた。参道の左側が一段高くなっており石仏が立っていた。春先の梅の開花時期にはまた違った光景になるのであろう。咲き終わった紫陽花と石仏。秋の花、紅白のハギが咲いていた。ズームアップ。瑞雲寺と石仏群瑞雲寺と石仏群龍珠山瑞雲寺は曹洞宗の寺で、寺伝では明応元年(1492)の創立という。寺号は小田原北条氏家臣の本多豊前守信親(法名瑞雲院龍珠宗洞)に由る。山内には石造物群が多い。・六観音石龕。坐像と立像の二型が現存し、この地方の六観音信仰の遺物として珍しい。・六地蔵石龕・石造阿弥陀如来坐像・石造観音菩薩立像 二躯・石造地蔵菩薩立像 二躯・石造閻魔王坐像・万霊供養塔・唯念名号碑・自然石石塔(観音・馬頭観音)二基 小田原市教育委員会万霊供養塔、他に3基の石塔。境内の案内板。瑞雲寺本堂本堂前にサルスベリの老木が咲いていた。今まで鎌倉の寺院に咲くサルスベリ、ハギを愛でに行っていたがここ下曽我にも名所があるようだ。本堂前に常香炉。本堂の扁額は山号の「龍珠山」。本堂前には土足で入れるようになっていた。引き戸の前に「脚下照顧(きゃっかしょう)」と。脚下照顧の意味は、他に対して理屈を言う前に自分の足もとをよく見ろ。自己反省を促す意で用いられると。本堂入口上に「瑞雲寺」と。本尊は、十一面観音像。本堂内から常香炉を見下ろす。本堂前に建つ鐘楼。16:05本堂の西側に梅園が広がっていた。その入口に顔出しの奇妙な石が置かれていた。顔出しパネルを真似て彫られたのであろうか。更にズームアップ。 ー 続く ー
2025.10.27
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曽我兄弟の菩提寺城前寺から参道を上り宗我神社へ。9月23日(火) 15:30宗我神社社殿現在の社殿は大正12年(1923)の関東大震災後に復興したものであると。鳥居を潜ると右側に御神木が聳え、奥の建物は?。境内の左側に、神楽殿であったか。神楽殿の右側に境内トイレが建っていた。手水舎社殿右前に立つ木柱に「宗我神社(旧曽我郷の総鎮守)」と。銅板葺きの宗我神社社殿。祭神 宗我都比古命 (そがつひこのみこと) 宗我都比女命 (そがつひめのみこと)右側の狛犬「阿形像」。左側の狛犬「吽形像」。唐破風の彫り物ズームアップ。社殿の扁額「宗我神社」。社殿前から境内を見る。御神木が聳える。郷社 宗我神社 小田原市曾我谷津鎮座一、祭 神 宗我都比古命 (そがつひこのみこと) 宗我都比女命 (そがつひめのみこと) 配祀 應神天皇 桓武天皇 小澤大明神一、例祭日 九月二十九日一、由 緒 宗我都比古命ハ武内宿禰ノ子孫人皇後一條天皇長元元年十一月宗我播磨守 保慶ソノ先□ヲ祀ラム□シ勧請當地ノ鎮守トシテ北條氏稲葉氏大久保氏相 次□尊崇ス社殿の縁側に置かれた古木に、神鏡が取り付けられていた。神鏡と幟旗に「祝 2028年 創建千年 宗我神社」。社殿を左側前から見る。社殿の裏側の段上に石祠が並べられていた。別の場所に対の石祠が祀られていた。社殿の右側に立っていた「稲荷神社」。稲荷神社の前には対の狛狐。稲荷神社の扁額「稲荷神社」。宗我神社を後にする。境内は奇麗に清掃されていた。宗我神社から参道を下り青銅製の宗我神社鳥居へ。上から見ると意外と急な坂であった。交差点角に建つ「小田原警察署 下曽我駐在所」。城前寺駐車場から城前寺の高木を見上げる。宗我神社前の案内板に「瑞雲寺 800m」とあったのでカーナビをセットして移動。その途中、狭い道路脇に「天津神社」とあったので立ち寄る。傾斜地の狭い道を登り神社前へ。登ってきた道路脇に古い墓石が立っていたので戻る。駐車場がないので広いスペースを探し駐車。移設されたものもあるのであろうが刻まれた字は読めなかった。車を停めた道路脇にあった説明板。曽我岸本岸遺跡第Ⅰ地点の調査この説明版から南東へ約50mの地点で平成23年(2011)に行われた曽我岸本岸遺跡第Ⅰ地点の調査では、縄文時代の集石や古墳時代後期~奈良・平安時代の住居跡などが見つかりました。特に、奈良・平安時代の「土器焼成遺構」という、土を堀りくぼめて土師器という素焼きの土器を焼いた遺構の発見が注目されます。この焼成遺構の周辺からは焼成粘土塊が見つかっています。焼成粘土塊は、土器の焼成作業中にできるもので、葉スサの痕があることから、「覆い焼き」と呼ばれる土器を藁や灰、土などで覆って焼く技法が行われた可能性を示しています。また、焼成遺構よりも古い8世紀後葉の住居跡からは相模型甕がみつかっています。古墳時代後期の住居跡からは、金床石とみられる石製品が出土しており、この地域では鉄器製作が行われていたことがわかりました。このように、この地域では在地の日常的な土器や鉄器などの製作が行われていたことが発掘調査の成果から明らかになってきました。 小田原市教育委員会上:第1図 小田原市で出土する土師器とその産地中央左:写真1 曽我岸本岸遺跡第Ⅰ地点の全景写真中央右:写真2 粘土集中(東から)下 左:第2図 覆い焼きのイメージ下 右:写真3 焼成遺構(西から)曽我岸天津神社所在地:神奈川県小田原市曽我岸曽我岸天津神社の創建年代等は不詳ながら、曽我岸村の平和と氏子の繁昌守護を祈念して創建したといわれている。鳥居に扁額があったが文字は消えていた。天津神社入口右側に「十二天さんと呼ばれる天津神社」と。天津神社天津神社は、通称十二天さんといわれ、帝釈天(東)・火天(東南)・炎摩天(南)・羅刹天(西南)・水天(西)。風天(西北)・毘沙門天(北)・伊舎那天(東北)、天地を守護する梵天・地天、さらに日月星宿の守護神である日天・月天という古代印度神話の神々が仏教(密教)に取り入れた十二天尊神を祭神とします。旧相州曽我岸村の平和と氏子の繁昌守護を祈念して造立されました。日天・月天は天地人民を養育するが、供養を怠ると災いが到来するという伝承があります。ご神体は5枚の板に描かれていて珍しく、裏書きから元禄12年(1699)造立とわかります。毎年9月28日開催の祭典は、豪華な山車の運行、みこし渡御など大変賑やかです。平和・繁昌守護の神様なので、想い人のある場合に祈願すれば想いが遂げられるといわれ、参拝者は多く、また社地裏の十二天川は、四時水の絶えることがなく、多くの田畑を潤してきました。丘陵地に建っている社殿。境内から南西方向の足柄平野を見下ろす。右側奥には小田原駅周辺のビル群、遠くには真鶴半島が見えていた。境内下の傾斜地には彼岸花、農耕地が開墾されていた。15:50キウイフルーツ畑も広がっていた。鈴なりのキウイフルーツ。 ー 続く ー
2025.10.26
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かねてより訪れたいと思っていた「曽我兄弟の菩提寺城前寺」を参拝。9月23日(火) 15:15曽我十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓本堂裏に樹が生い茂った墳丘がある。裏への途中にあった石碑に「宇佐美君碑」、碑面には「故陸軍砲兵上等兵宇佐美君碑銘」と。本堂の裏にはいろんな像、石碑が立っていた。水子・子育地蔵尊石碑には「曽我□祐信墓」と。傍に説明板が欲しいが。三つの石碑が立っていた。左側の石碑「曽我兄弟□□碑」古来歌舞伎といへば曽我の二文学必ず聯想せられ年首の狂言には祐成時致兄弟□事蹟の劇化せらるゝもの□しかりき且つや其縁起によりて楽屋の三階には曽我兄弟の英霊を祀るの例なりしが近来劇場構造の變遷せしため□祭事はいつしか□□□附せらるゝに至りぬ本協會會長中村歌右衛門當て湘南に□を曳き偶ふ其遺蹟を訪ひしが近頃に至り當下曽我の古刹城前寺の曽我氏□趾にして境内には祐信満江祐成時致等の古墳あるを知りたるのみか附近のさる舊家には其系譜及び寶物ま□も遺存せるを見聞しすなはち識者に考証を乞ふに及びいづれも信を置くに足るものと分明せしかば先つ同地古老の諒解を求め更に本協會の役員を塾誘し協會内に□遺趾の保存會を起し會員諸氏の協賛を得て此碑を建設せり然るは一は之によりて□蹟を永遠に傳へて其孝烈を顕揚し□か風教に資せんか□なり二には之によりて歌舞伎が兩英霊に負ふ□の多年の□□に報いんとするなりと云□ 昭和五年八月 俳優協會発起人 文学博士逍遥坪内雄蔵題額 山□□□□竿書右側の石碑には、「地唄に残る曽我 由縁の由碑 曽我兄弟に由来する地唄三絃局□太夫節が、ここに現存する。 ・・・中略・・・ 昭和五十五年十二月七日 菊□門人 菊明世以花」。 中央には地唄の石碑。こちらの句碑には「宗我神社 曽我村役場 梅の中」。曽我兄弟 発願之像曽我兄弟の幼いころの像である。願 文ふどう明□さまに申あげ候われら兄弟は父にはなれ、母ばかりをたのみ、おもしろさことなく、兄弟つれにて他へまいり候へけ、むかんやしきの□とのにせひらかされ、うはや・・・中略・・・工藤祐経を討ち申したく母さまの大事にせいとのおん教まもり本尊に早よう願ひ、裕教をころし申したく候 おふどうさま曽我十郎・五郎兄弟、父祐信、母満江御前の供養墓4人の供養墓は曽我城の土塁跡にあり玉垣で囲まれている。墓地の敷地内には入れないが、中には新しい塔婆が立っていた。塔婆には「奉修傘焼法要為・・・・・」と。4基の供養墓をズームアップ。左側に兄弟の供養墓。石柱に「曽我兄弟之墓」と。右側には、父祐信、母満江御前の供養墓。石柱に「祐信満江之墓」と。供養墓の中にサルスベリが咲いていた。裏庭から本堂前へ。境内にはイチョウの木が聳え枝が伐採されていた。城前寺を後にする。城前寺の次に「宗我神社」へ参拝することに。宗我神社の参道入口に建つ青銅製の宗我神社鳥居。鳥居右下に立っていた文学碑。曽我の郷文学散歩尾崎一雄 旧宅の一部書斎は南町の『小田原文学館』に移築されています。 小田原市南町2-3-4 TEL 22-9881尾崎一雄の祖父の代まで”宗我神社”の神官を務めた。文学碑には、「富士は天候と時刻とによって身じまひをいろいろにする 晴れた日中のその姿は平凡だ 真夜中冴え渡る月光の下に □く音なく白く光る富士 未だ□の光が残る空に 頂近くは バラ色胴体は暗紫色にかがやく暁方の富士 「虫のいろいろ」より 尾崎一雄文学碑建立の趣旨尾崎一雄先生は、曽我谷津に在住し、作家として日本独特の文学である私小説において幾多の優れた作品を発表し、第5回芥川賞を始め数々の文学賞を受賞されるとともに、昭和53年に文化勲章を受章されました。これは、先生の栄誉であると同時に、本市にとっても大きな誇りでもあります。また、小田原文話会の顧問として後進の指導に当たり地域に根ざした本市文化の向上に寄与されました。昭和55年11月20日の市制40周年記念式典において、先生を特別表彰するとともに、文学碑を建立しその功績を永く顕彰するものです。鳥居から緩い坂を上り宗我神社へ。宗我神社(そがじんじゃ)所在地:神奈川県小田原市曽我谷津386宗我神社は、長元元年(1028)、宗我播磨守保慶の建立で、宗我氏の祖先を祀った神社といわれてる。曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)のそれぞれの鎮守を明治時代に合祀し、曽我の里の総鎮守となっている。谷津の道祖神宗我神社の玉垣に双体道祖神が安置されている。観光案内板宗我神社の新しい玉垣。玉垣の中には数枚の説明板があった。宗我神社祭神 宗我都比古命 (そがつひこのみこと) 宗我都比女命 (そがつひめのみこと)宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、「長元元年(1028)」に奈良県橿原市曽我町の武内大社宗我都比古神社の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿祢及び宗我都比古命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。足柄上郡旧上曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四村を併せて、古くは曽我郷六ヶ村と呼ばれました。その総鎮守が、宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。縄文時代の土器づくりのムラ ~ 曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点 ~この説明板から南東へ約240mの曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点では平成24年(2012)に発掘調査が行われ、縄文時代中期(勝坂式期)の竪穴住居跡の中から、小田原市を含む足柄平野周辺地域で初めて「台形土器」と呼ばれる遺物が見つかりました。台形土器は、ものを載せるための円形の受け面とこれを支える脚部を持つ土製品で、縄文土器を製作する台としての機能が有力視されています。また、焼成粘土塊という粘土の質を確かめるテスト・ピースやミニチュア土器が出土しているほか、土器焼きを行った痕跡と考えられる遺構が見つかっています。このように、この地点の周辺には、かつて縄文時代の土器づくりを行っていたムラがあったことが、発掘調査の成果で明らかになってきました。曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点で出土した勝坂式土器は、その文様の特徴や東海地方の土器が出土することなどから、山梨や静岡の縄文文化の影響を受けて作られた、この地域に特徴的なものであることがわかりました。 小田原市教育委員会曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点左 上:写真1 曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点で出土した台形土器(正面から)右 上:写真2 曽我谷津岩本遺跡第Ⅱ地点で出土した台形土器(上から)右 中:写真3 焼成粘土塊右 下:写真4 ミニチュア土器第1図 説明板周辺の発掘調査地点小田原市指定保存樹林この樹林は、小田原市緑と生き物を守り育てる条例に基づき、小田原市と市民が一体となって、緑豊かな住み良い環境づくりをするために指定されたものです。 指定番号 第9号 指定年月日 昭和53年4月1日 所在地 小田原市曽我谷津384番地ほか 主要な樹種 ケヤキ 面 積 2,000㎡ 小田原市環境部宗我神社へお祭り!!屋台出店!!宗我神社 例大祭開催日 :令和7年9月28日(日)営業時間:16時 ~ 20時場 所:宗我神社 境内 この週末に例大祭が行われる。15:30石碑に「境内石垣完成記念碑」。 ー 続く ー
2025.10.25
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南足柄の酔芙蓉を愛でた後、帰路途中にある下曽我を散策した。下曽我は”梅まつり”で知られているが、日本三大仇討 (曽我兄弟の仇討、赤穂事件、鍵屋の辻の決闘) の一つである「曽我兄弟」の菩提寺があることでも有名。9月23日(火) 14:45御殿場線JR下曽我駅所在地:神奈川県小田原市曽我別所下曽我駅は大正11年5月15日に開業。 近くには、梅の名所である曽我梅林があり、毎年2月上旬から2月下旬まで開催する「梅まつり」の期間中には、多くの観光客で賑わう。また、小田原市では、平成4年(1992)3月に駅の近くに「梅の里センター」を開設した。駅舎には「JR東海 下曽我駅」。JR東海管轄の在来線の駅では最東端の駅となっており、JR東海のみが管轄する在来線停車駅では唯一の関東地方の市に属する駅となっていると。当駅は松田駅が管理し、早朝・夜間は無人駅になっている。駅前からは富士急バスの路線バスが発着している。曽我乃正栄堂 (株式会社正栄堂)所在地:神奈川県小田原市曽我別所808明治38年に創業した和菓子屋で看板も年季が入っている。関東大震災による被災、第二次世界大戦の爆撃による全焼などの危機があったが、地域の皆様に支えられながらこの地で継続して現在に至ったと。店先の幟旗には「わらび餅」「開運大福」「五郎力餅」と甘党の人には。駅前には近くに鎮座する「宗我神社」の幟旗が立ち並んでいた。幟旗には「宗我神社 祭禮 九月吉日」と。ロータリーに立っていた案内板下曽我駅からめぐる小田原の遺跡下曽我駅の周辺には、小田原の歴史を考える上で、重要な遺跡が多く所在しています。遺跡解説の説明板をコース上に設置しています。下曽我駅を出発し、説明板を頼りに遺跡めぐりに出かけてみませんか?■下曽我遺跡・永塚遺跡群(説明板2・3・4) 奈良・平安時代には、地方役所である足下郡家があったと推定されています。古代の 井戸や舗装道路のほか(写真1)、木簡や墨書土器などの貴重な資料が見つかっています。■千代遺跡群(説明板5・6・7) ここには弥生時代後期以降、地域でも屈指の大集落が展開していました。奈良・平安 時代には、千代寺院跡(千代廃寺)が所在し(図2)、瓦や木簡など寺院との関連を示す遺 物が多く見つかっています(写真2・3)。■高田遺跡群(説明板8・9) 8世紀の正倉院文書に記載された「足下郡高田郷」が所在した場所と推定されています。 低地部の調査では、古墳時代の農耕具が見つかっているほか、古墳時代前期の銅鏡な ども出土しています(写真4)。■別堀遺跡群(説明板10) 天保12年(1841)に成立した『新編相模國風土記稿』によると、「高田」という地域に 四方を囲まれ、堀のめぐらされた場所に由来します。低地部では市内4例目の銅鏡(写 真5)や古墳時代前期の木製農耕具が見つかっています。■下掘方形居館(説明板11) 中世の屋敷跡と推定されています(写真6)。屋敷地の名残である方形の区画や土塁が 残存しているほか、周囲を囲む二重の堀が発掘調査で見つかっています。 小田原市教育委員会MAP(図1)モデルコースと説明板設置場所 (1/7,000) 〈現在地:説明板1〉写真1 下曽我遺跡の井戸 写真3 千代南原遺跡第Ⅶ地点出土木簡写真2 千代遺跡出土鬼瓦 写真4 高田南原遺跡第Ⅱ地点出土銅鏡写真5 別堀前田遺跡第Ⅰ地点出土銅鏡写真6 下掘方形居館空中写真 図2 永塚から国府津の古代の様子 (画:さかいひろこ) 少々色褪せていたが、見どころ案内曽我梅林 流鏑馬 右側には所要距離宗我(そが)神社 (傘焼まつり)瑞雲寺 上府中公園/小田原球場ロータリー隅に「長谷川豊吉翁之像」の胸像。胸像をズームアップ。政治家、実業家。相模國足柄下郡曽我谷津村(現神奈川県小田原市)生まれ。村の名主の家に生まれ、明治期には自由民権運動に邁進、戸長から下曽我村長、神奈川県議会議員、衆議院議員(通算5期)を歴任した。その間小田原電気鉄道取締役などにも就いている。衆議院議員時代に日本精糖汚職事件で有罪となり、議員を辞職、関東大震災に罹災して亡くなった。奇祭『曽我の傘焼まつり』 かながわ・おだわらのまつり50選ここ曽我の里は、歴史的遺跡や遺物が何気なく、日々の暮らしの中に、溶け込んでいる里であり、日本三大仇討ちの一つ、曽我兄弟の仇討ちゆかりの地です。建久四年(1193)五月二十八日、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩りで、兄弟は父の仇討ちを成就しました。その時傘を燃やして松明にしたという故事にちなんで毎年五月二十八日、曽我氏の菩提寺『城前寺』で兄弟の供養の為『曽我の傘焼まつり』が行われています。その時、兄十郎祐成二十二才、弟五郎時致二十才でした。この仇討ちは民衆に広く知れ渡り『曽我物語』が生まれ、江戸時代に歌舞伎や謡曲、浄瑠璃等で曽我物として演じられ、人々の心をとらえ、今もその人気は変わっていません。 曽我の傘焼まつりの主な行事 場所 曽我兄弟の菩提寺・城前寺(三百米先)一、五月二十七日 前夜祭 奉納謡曲大会・花火打ち上げ・松明行列一、五月二十八日 曽我兄弟慰霊大法要・傘焼法要(昼夜二回) 武者行列・稚児行列・相撲パレード 子供相撲・播銭播餅・演芸大会 歌舞伎俳優・大相撲関取衆来寺 主催 曽我兄弟遺跡保存会 植込みの中に石碑。石碑に「曽我梅林」と。「果粒は身を養い花は政治の心とする」内閣総理大臣三木武夫先生の言である 昭和五十一年一月三日梅実をたずさえ真鶴に三木先生を訪れて試食を乞い標書を得た 用ってこれを記念するため小田原市長中井一郎氏をはじめ次の諸団体が相い集い曽我の梅の振興を期して建立委員会を組織し本碑を完成した 花と実と宰相が□□□の山 建立委員長 曽我貞次郎 小田原梅研究会 曽我別所梅まつり観光 協会 中河原梅まつり実行委員会 曽我原梅まつり協会 城前寺 下曽我商工振興会 富士急行株式会社 有志一同左側は下曽我駅の南側にある「小田原市 梅の里センター」。小田原市 梅の里センター入口に置かれていた、長谷川文右ェ門氏架橋の石桁長谷川文右ェ門氏架橋の石桁この辺りは、昔から『曽我の郷』あるいは『曽我の里』と呼ばれ、『曽我物語』の舞台として歴史上有名です。しかし、この丘陵は傾斜が急なため、谷あいを流れる菊川、砂留川、鍛冶沢川、芳野川、殿沢川、剱沢川、観音沢などの渓流は、沢山の雨が降ると水が溢れ、砂礫を流して橋を壊すことが非常に多く、人々を悩ませていました。そこで、明治の初期、曽我谷津村の名主であった長谷川文右エ門という人が、堅固な石橋を築造して永くこの憂を救おうと決意し、自らの私財を投げ打ってこれらの川の上に、二十数カ所に及ぶ石橋を架けました。これ以降、大雨による被害は減りましたが、大正十二年(1923)の大震災によって石橋の大半が壊れてしまいました。また、その後の相次ぐ道路の改修工事によって橋は架け直され、橋桁は道路の工事石垣などに利用され、現在では確認できなくなりました。そこで、昭和三十九年(1964)一月、神戸天王社裏の殿沢川にかけられていたこの二枚橋桁を移設し、保存することにしました。 一、長さ 二メートル十八センチ 幅 四十五センチ 高さ 二十七センチ 一、長さ 二メートル十センチ 幅 四十五センチ 高さ 十九センチ 小田原市教育委員会下曽我駅前から、曽我兄弟の菩提寺である城前寺の駐車場へ移動。駐車場傍に立つ青銅製の宗我神社鳥居、石柱。石柱には、正面に「右指 曽我兄弟遺跡城前寺」側面に「郷社 宗我神社」と。石碑には「鳥居建設碑」と。道路を挟んだ右下に城前寺の駐車場がある。鳥居を潜り振り返る、交差点は県道72号線(松田国府津線)の下曽我駐在所前。交差点角に建つ「小田原警察署 下曽我駐在所」。駐車場の東側丘に「城前寺」があり歩いて向かった。Googleマップではこの辺りには多くの「道祖神」がある。辻の上に庚申塔が立っていた。城前寺(じょうぜんじ)所在地:神奈川県小田原市曽我谷津592坂を上り城前寺下へ、広いスペースがあったが駐車できなかった。道路脇に立っていた説明板縄文時代の敷石住居の発見 ~ 曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点 ~この説明板の北側の城前寺境内で行われた曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点の調査では、平成18年(2006)に「柄鏡形敷石住居」という、縄文時代後期の住居が見つかりました。住居の出入口部分が外に張り出し、上から見ると柄鏡のような形をし、床面には平らな河原石が敷かれるという特徴を持ちます。中央には浅鉢形土器を地面に埋め込んだ炉が作られました。敷石に使用された石は、根府川石と呼ばれる板状に割れやすい性質のある石を用いており、市域南西部の根府川から石材を調達していたことがわかりました。曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点で発見された土器は、形や文様の特徴から「堀之内式」・「加曽利B式」と名付けられており、今から約3,500年前に作られました。土器の内側まで文様が付けられ、器壁を薄く光沢が出るまで磨き上げるなど、縄文時代後期の土器はその形や文様の付け方が変化します。曽我谷津岩本遺跡第Ⅰ地点では、この地域で暮らした人々の生活を支えた縄文土器が多く見つかりました。 小田原市教育委員会右上:写真1 曽我谷津岩本遺跡Ⅰ地点の柄鏡形敷石住居(西から) (写真提供:株式会社 盤古堂)右下:写真2 曽我谷津岩本遺跡Ⅰ地点の柄鏡形敷石住居から出土した縄文土器 (写真提供:株式会社 盤古堂)城前寺(浄土宗稲荷山祐信院)曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。建久4年(1193) 富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経(すけつね)を討った後、叔父の宇佐美禅師は、その遺骨を携え此の地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられる。なを、この討入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当る5月28日には、この故事にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが類例の少ない祭であるので有名である。境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄附の兄弟の記念碑等のほか各種ゆかりの品がある。なを、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。階段を上ると左側に、覆い屋の下に六地蔵、その他の地蔵が立っていた。三体の地蔵菩薩地蔵は古いもののようで修復されていた。奉納年代は確認できなかった。地蔵菩薩釈迦如来の依頼をうけ弥勒出現までの五十六億七千万年の間、無佛の世にとどまって六道の衆生を救う、そのため佛になる資格をもちながら衆生に親しみやすい僧形をとる。 地蔵を信ずれば十種の利益がある一、土地豊穣 ニ、家宅永安 三、先亡生天 四、現存益壽 五、所求遂意六、魚水火難 七、虚耗辟除 八、杜絶悪夢 九、出入神護 十、夛遇聖因六地蔵 預天賀 地蔵 天人を利益 放光王 地蔵 五穀をみのらす 金剛憧 地蔵 修羅を化す 金剛悲 地蔵 畜生を化す 金剛宝 地蔵 餓鬼を施す 金剛願 地蔵 地獄澄禅地蔵由来 慶長の頃近江国で生まれた人である。浄土宗宗祖の遺風復舊したいと諸国を周遊し曽我の剣沢に留まることとなった。富士の高嶺を望み弥陀の來迎を機するを願ふより他念なし念仏行者としての澄禅は学徳たかき方であり享保六年二月四日古智谷で遷化した。 昭和五十二年二月四日 建立覆い屋の側面に「地蔵和讃」が書かれていたが、上段はどうにか判読。これはこの世のことならず 下段は判読できなかった死出の山路の裾野なる賽の河原のもの□たり聞くにつけても□れなり二つや三つや 四つ五つ十にも足らぬみどり児が賽の河原に集まりて父上こい 母こいし河原の石を とり集めこれにて回□の 塔をつむ一重くんでは 父のため二重くんでは 母のため六地蔵と左側に観音像。足柄平野を見下ろす高台に「曽我兄弟之遺跡」の石柱が立つ。階段を上ると境内の南側に立つ「阿弥陀如来座像」。阿弥陀如来座像ここに安置された阿弥陀如来座像は、忠臣蔵で知られた赤穂義士の一人(命日)「元禄十六年二月四日」(1703)吉田忠左衛門兼亮の遺児で、当寺十四世の到誉達玄和尚が、元文元年(1736)亡父の三十三回忌に当って造像したものであります。昔から「孝行阿弥陀」ともよばれ、一心に念ずれば諸願成就せずということなしと、伝えてきた有難い御仏でもあります。 南無阿弥陀仏 九拜敬白 平成五年二月四日本堂本尊は、阿弥陀如来像。本堂右前に立っていた『城前寺本「曽我兄弟物語」立木望隆著』。曽我兄弟に関することが書かれ、¥1000で販売している。鐘楼と石碑。石碑には「曽我兄弟之舊跡」と。15:15本堂前から境内を見る。城前寺は足柄平野を見下ろす高台にあり、遠く真鶴半島、伊豆半島が見える。 ー 続く ー
2025.10.24
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再度、午後の酔芙蓉を見るため「ふくざわ公園」へ戻る。9月23日(火) 13:30ふくざわ公園臨時駐車場。酔芙蓉は午後はピンク色になるとのことで訪れたのだが。午後は曇り空に。ふくざわ公園への農道。酔芙蓉は咲き始めは白いが、午後にはピンクに変色するとの事であったが。昼食を食べていなかったので御婦人方が販売していた焼きそばを購入してテント下で食べる。ふくざわ公園脇から酔芙蓉農道の北側を望む。ズームアップするがピンク系は少なかった。地元の方に「変色していないですね」と聴くが。駐車場へ戻り、ここの西側にある「千津島観音堂」へ向かうことに。千津島観音堂所在地:神奈川県南足柄市千津島9番地スマホの案内で生活道路を進むと道路脇に門柱があった。奥に観音堂が建っていた。六地蔵には色褪せた前掛け。反対側には、2体の地蔵。石燈籠には「奉納 観世音菩薩」と。参道の左側には寺務所。寺務所の扁額「玖富山」。古びた手水鉢、六地蔵。本堂前に2本の木が聳える。左側の木は「槇(マキ)」、右は樹皮が捲れた「毘蘭樹(ビランジュ)」であろうか。本堂は明治初期に火災があり、現在の建物は明治24年(1891)に修復再建されたものである。本堂の扁額は読めなかったが、旅友から、「雲夢涵濤堂 (うんむかんとうどう)」ではと。意味は、「雲のように自在に、夢のように儚く、濤(なみ)のように力強い ―― 自然の理と心を映す修行の場」という意味を込めた、極めて禅的・詩的な堂号(建物名)であると。本堂屋根の寺紋をズームアップ。千津島観音堂の由来室町時代以前のことです。難産で妻子を失った千津島の名主瀬戸文右衛門の祖が、妻子の供養と人々が二度と自分のような悲しみを味わうことのないようにと祈願して建立したと伝えられています。以来、安産と子育ての観音様として足柄平野一帯の多くの人々の信仰を集めていました。特に十七年に一度の中開帳・三十三年に一度の大開帳には、近在、近郷の念仏講が集って供養したということです。また、別名の「竹皮の観音さん」という愛称は、境内の北側に竹やぶがあり、竹の子が成長して竹の皮が剥げ落ちる様子にあやかって、竹の子のように子どもが健やかに成長するよう願を込めて呼ばれたものといわれています。この地方では、妊娠するとお観音さんの「お腹帯」を借りて安産を祈りました。この「お腹帯」は、「ご開扉」で使用された禅布で作られており、赤糸の布のときは女の子、青糸の布のときは男の子と、その色によって生れてくる子の性別を占いました。今でも、珠明寺に依頼すれば「お観音さんのお腹帯」を借りることができます。千津島観音堂は、明治初期に火災に遭い、現在の建物は、明治二十四年(1891)に修復再建されたものです。堂内に残されている寄進者の銘板を見ると広く足柄平野一円から寄進されて再建されたことがわかります。また、合天井の板絵にもそれぞれ、寄進者の名が残されています。寄進者の銘板には、明治九年以来しばしば千津島の地を訪れた福澤諭吉翁が観音堂の再建に拾円を寄進されたことが記されていましたが、その部分は、現在では欠落してしまいました。関連事項右上:〈本尊〉如意輪観音 法 量 一寸八分 像 造 浮彫 像立年代 不詳 造作者 伝、恵心僧都 (源信) 右下:〈お前建て〉如意輪観音 法 量 一尺二寸 像 造 寄木造・玉眼・漆箔 像立年代 室町時代 造作者 不明左上:円覚寺鰐口 (国指定重要文化財) 瀬戸文右衛門の祖、瀬戸永歓の銘が刻まれている。天文十二年(1540)左下:福沢諭吉 (1835~1901) 明治九年、三田の龍源寺から大島仁宗が天福寺に閑居したことから親交のあ った諭吉翁が千津島の地をしばしば訪れ、瀬戸文右衛門宅に宿泊した。諭吉 翁から多大な影響を受けた近隣の人々は、明治二十二年の町村制施工で誕生 した新しい村を諭吉翁の徳を称えて「福澤村」と名付けた。 本堂を右側から見上げる。格子状に仕切られた本堂の格天井には、再建のために浄財を寄せた多くの人の名前や居住地、家紋が記された「板絵」が取り付けられている。奉納者の名札に、「天禅寺 一金拾圓也 福澤諭吉 平成十八年中開扉記念事業 加藤武男謹誌」と。境内の東側から本堂を見る。本尊「如意輪観音像」を収めた厨子がある千津島観音堂では十七年に1度「中開帳」、三十三年に1度「大開帳」が実施されている。境内堂宇。ネットには天福寺境内堂宇とあったが。同堂宇を左前から。説明板がなく詳細は不明。境内の隅に立っていた左に「馬頭観世音」右に「庚申塔」。本堂前から境内を見る。境内から生活道路へ。駐車場へ戻ると、マックスバリュ東海の「移動スーパー」が来ていた。扱い品は、野菜、冷凍食品、アイスクリーム、パン等が販売されていた。イオンカードが使用できるとのことでパン、アイスクリームを購入。アイスクリームは車内で食べ、パンはお土産に持ち帰った。ふくざわ公園を後にし下曽我地区へ移動。県道72号線(松田国府津線)の下曽我駅入口交差点。ここを右折した下曽我駅へ。14:45下曽我駅前ロータリー県道72号線(松田国府津線)は何度も走っているが駅前へ来るのは初めてである。 ー 続く ー
2025.10.23
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龍頭山善福寺の参拝を続ける。9月23日(火) 12:50宗祖親鸞聖人お旅立ちの御像親鸞聖人像今年は親鸞聖人関係の史跡、寺院をよく見た(8月の新潟県上越市の旅)。台座に、「宗祖親鸞聖人お旅立ちの御像 本願寺第二十四代即如門主善福寺ご巡教記念 本願寺参与中村安治郎氏と檀徒有志により之を建つ 平成八年十月二日 善福寺住職釈宗之」。正面からきれいな菊が供えられていた。お顔をズームアップ。親鸞聖人像の右側に、説明の立札が立っていたが、「准如上人繫牛之石 この石は本願寺第十二代宗主准如上人が元和八(1622)□□□当山御留□の際 □□□牛・・・・・」と。以下は旅友から、准如上人繋牛之石「この石は、本願寺第十二代宗主准如上人が元和八年(1622)当山御留錫の際所乘之牛繋之 石也」と。当山に御留錫(ごりゅうしゃく)あらせられた際、お乗りになった牛を繋がれた石である。寺務所と庫裡。唐破風の寺務所入口。左側の立札には「即如門主 相模組組巡教 記念植樹 平成八年十月二日」。社務所前から本堂、境内を見る。境内に聳える大銀杏(水まき銀杏)。銀杏の実がついていたか、そろそろ色づいて落ちるのでは。山門から本堂を振り返る。山門から参道を見下ろす。車道は女坂で交通整理の係員が2名。善福寺から次に訪れたのが「藤原範茂卿の墓」。善福寺の裏山の西側にある「範茂史跡公園」。所在地:神奈川県南足柄市怒田125-1急な坂を上り公園へ。鎌倉時代前期に起こった承久の乱(1221年)で、後鳥羽上皇の側近の公家で乱の首謀者の1人であった中将藤原範茂の墓石を中心にした史跡公園である。石には「範茂史跡公園」と。公園は高台にあるのでここまでのアクセスが大変である。広い駐車場。公衆トイレがあったが訪れている人を見かけなかった。聳える樹はポプラであったか。幹をズームアップ。範茂史跡公園内に入るが広場には草が生い茂っていた。書き込みで「市役所へ草刈りを要求したが対応してくれない」と。範茂史跡公園の隅に「藤原範茂卿の墓」があった。藤原範茂卿(ふじわらのりもちきょう)の墓鎌倉時代、北條義時が幕府の執権(将軍を助けて幕府の政治を行う最高の職)の時に、後鳥羽上皇は政権を朝廷(天皇が政治をとり行う所)側に取りもどそうとして、公卿(朝廷に仕える人びと)の人たちを集めて兵をあげましたが、幕府に敗れて上皇(天皇がその位を譲ったのちの称号)をはじめ多くの人がとらえられ罰せられました。これが承久三年(1221)の承久の乱です。その時、上皇側の公卿で参議(官職、公的な地位のこと)藤原範茂卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至りました。明日はいよいよ鎌倉です。つくと、そこで首を切られてしまいます。この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないと言うのです。範茂卿は役人に頼んで近くの清川(今の貝沢川といわれている)で死なせてもらうことにしました。着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最期をとげました。役人達もあわれに思って高台に葬りました。それがこの宝篋印塔のある所です。辞世の歌に 思いきや苔の下水(したみず)せきとめて 月ならぬ身のやどるべきとは と残されています。ここも草が生い茂っていた。左に「浅間大菩薩」、中央に「藤原範茂之碑」、右に「宝篋印塔」。藤原範茂卿の墓の宝篋印塔。傍の木柱には「市指定文化財 藤原範茂卿の墓」と。中央の「藤原範茂之碑」には字が刻まれていたが風化して判読できなかった。市指定文化財だけに草刈り管理はしてほしいものだが。宝篋印塔の右奥に宝篋印塔が集められていたが、範茂卿関係の公家か。説明板がなく詳細は不明。草むらの中に彼岸花が咲きアゲハチョウが飛来していた。蜜をすい・・・。宝篋印塔の後方から範茂史跡公園を見る。公園全体の草刈りが必要である。藤原範茂卿の墓前へ戻る。範茂史跡公園から東方向を望む。開成町、大井町をズームアップ。カメラを左に振り東名高速道路の高架橋。更に左に振り松田町方向をズームアップ。山の麓を横切るのは東名高速道路。東側から範茂史跡公園を見る。西方向には矢倉岳。遊具施設があったが周りには草が生い茂っていた。これでは幼い子を連れてこれないのでは。13:15範茂史跡公園を後にし、午後の酔芙蓉を見るため再度「ふくざわ公園」へ向かう。 ー 続く ー
2025.10.22
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南足柄市にある寶勝山慶傳寺の参拝。9月23日(火) 12:15墓地は本堂の裏の傾斜地にあったが、手水舎は境内奥に。手水舎の右側に立たれる「聖観世音菩薩」。本堂左側が墓地入口になっており入口に新旧の地蔵。ズームアップ。奥の地蔵の台座には「子守地蔵尊」とあったが、手前は?だが、子守地蔵尊であろうか。新しい「子守地蔵尊」。聖観世音菩薩の後方から境内を見下ろす。境内に聳える「毘蘭樹(ビランジュ)」。境内の隅に立っていた石碑。「本堂落慶記念 石積工事 一金 壹千萬円 平成七年一月吉日竣工 寄進者 前住職 斉藤安雄」。参拝を終え、山門から参道を見る。下の道路脇へ車を停めたが境内まで車で入れるようであった。外の駐車場から寶勝山慶傳寺を見上げる。毘蘭樹(ビランジュ)をズームアップ。慶傳寺から次に向かったのは、足柄古道にある「天神公園(長尾天満宮旧蹟)」。天神公園(長尾天満宮旧蹟)カーナビの案内で狭い山道を登り目的地へ。前方に、矢倉岳、中央左に金時山が聳える。金時山の左側を抜けると箱根仙石原へ。数年前に県道731号線(はこね金太郎ライン)が整備され走りやすくなっている。南東方向の国府津辺りを望む。ズームアップ。天神公園(てんじんこうえん)この地は、足柄古道と呼ばれる幾筋かの古道のひとつに位置し、地元の古い文献によると長尾天神社または菅原社と呼ばれた社があった所です。この天神社(菅原社)は、勉学の神様として信仰され、昔は毎年三月二十五日に村をあげてお祭りが行われ、神輿や獅子舞・山車を出したり、時には草競馬もあったそうです。明治の折り、神仏分離の制度により、この地域では当時の福沢村の十一の神社が合併して福沢神社となりました。上怒田からは天神社・天王社が、下怒田からは山の神社・姥神社が合社しました。この時、天神社は福沢神社へ神輿を奉納し、社殿は若宮の八幡宮へ移転しました。この上怒田は神社が多く、現在では自治会が足柄神社・福沢神社の祭りを担当し、その他は自治会各組(天神社一組・八幡神社二組、三組・熊野神社四組・天王社五組)が担当しています。このたび怒田丘陵にアサヒビール会社が進出するにあたり、送電線の新設にともない、天神社ゆかりの地を整備し、見晴らしの良い憩いの場所となりましたので、天神公園といたしました。 平成十二年六月吉日 南足柄市上怒田自治会 南足柄市教育委員会監修福沢神社については「足柄上郡の寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。広場の奥に石碑が立っていたが、ベンチ等は無かった。石碑には「天満宮舊蹟」と。ここは足柄古道と呼ばれる幾筋かの古道のひとつに位置する場所である。左側の谷を越えた怒田丘陵に工場を閉鎖したアサヒビール足柄工場があった。古道脇に駐車場と、案内板があるのみであった。次に訪れたのは、かねてから行きたいと思っていた「藤原範茂卿の墓」へ行くことに。善福寺(浄土真宗本願寺派 相州西之坊)所在地:神奈川県南足柄市怒田153カーナビの案内で来たが目的地は裏山にあったようだが、立派な寺院があったので立ち寄る。県道74号線(小田原山北線)から狭い急な坂を上るので入口に交通整理員。山 門坂の途中にある駐車場に車を停め参拝。山門ここまでは階段の男坂、女坂(車道)がある。山門脇に立っていた寺号標石に、「関東六老僧了源上人開基 浄土真宗龍頭山善福寺」と。左側には、「善福寺薬医門 この門は大久保忠衛(小田原城家老職)の屋敷門を、幕末に小田原城内より移築 したものである。大久保家から善福寺伊東家に嫁した伊東三千代が、婚姻の際 に持参をした」。三千代が嫁ぐとき持参したという山門から本堂を見る。右側の立札に「本願寺第二十四世 即如門主 相模組組巡教 平成八年十月二日」。即如門主(おおたに こうしん)は、浄土真宗本願寺派の第24世門主であり、法名は釋即如(しゃくそくにょ)です。彼は1977年に31歳で本願寺住職および龍谷門主に就任し、全国500余の組巡教や海外の開教区への巡教を行っています。特に、社会問題や国際情勢に対する積極的な発言で知られ、1990年代以降はオウム真理教問題などの影響を受けた宗教に対する社会の不信感に対処するための活動を行っていると。鐘 楼文化二年(1805)に再建。昭和三十八年(1963)に屋根を茅葺から現在の銅葺に改修された。福沢小学校開校之場明治三十四年十月十九日 開校明治二十二年の町村合併の折、怒田・小市・斑目・千津島・壗下・竹松の各村が集まり、この地に深いつながりのあった福沢諭吉翁の承諾をいただき福沢の名を冠する福沢村が誕生しました。その後、福沢村は南足柄市となり今”福沢”の名は地区や福沢小学校の名称として継承されています。福沢小学校は、明治三十四年、この善福寺の地に開校しました。開校前、福沢村の児童は開成小学校へ、一部怒田の児童は南足柄小学校へそれぞれ通学していました。しかし、地元から小学校独立経営の機運が高まり、その年の七月に県に申請、八月に認可され十月十九日、ここ善福寺本堂を仮校舎に充て盛大に開校式を挙行ついに福沢小学校が誕生しました。開校当時の校長は佐藤常吉、当時の教員として木内玄孝、市川清三、高橋信太郎の名が学校沿革史に挙げられています。また、善福寺二十六世伊東宗徳や地域の有識者たちも開校当時の教師陣に加わり、その教育をささえました当時の児童数は、二百七十六名であったと記録されています。善福寺縁起善福寺は龍頭山華水院と号し、親鸞聖人常随の高弟、関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)の創建です。伊東祐光は伊豆の押領使、伊藤祐親の孫にあたり、その次男、伊東九郎祐清の子で、仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟になります。元仁二年(1225)、一族を弔うために出家した祐光は、天台宗高麗寺大権現(大磯高来神社)の別当職につきました。その後、時を同じくして国府津(勧堂)に滞在していた親鸞聖人と出会い、浄土真宗の道に深く心を打たれ、随喜のあまり弟子となりました。そして、念仏の教えを弘めて道場を建立し、延応元年(1239)には壗下の地(壗下公民館)に善福寺を建立いたしました。現在、善福寺は壗下と隣接する怒田の高台に位置しておりますが、これは度重なる酒匂川の氾濫を避けてきたものです。本堂(阿弥陀堂)本尊は、阿弥陀如来像。本堂の扁額「龍頭山」。本堂入口の飾り。石碑に「本堂修復寄進」と。若林□□ 金弐千萬圓 覆名 金壱千萬圓3名の方が 金弐百萬圓、28名の方が 金壱百萬圓 と高額の寄進。本堂の右側から。石碑には「聖水 水屋寄進」と。 本堂前に建つ「弁天堂」。弁天堂の扁額「六賢弁才」。七福寺お寺めぐりの弁財天である。六賢弁才天縁起六賢とは学問、文学、弁論、芸術、音楽、演技のことであり、当山二十九代住職伊東昌彦がこれらの成就を発願し、その顕現として弁才天を勧請した。弁才天は仏教発祥の印度において、学芸神として崇拝されている。令和四年、釈迦如来降誕の四月八日、ここ善福寺に篤信門徒、中村健作の寄進により弁天堂一宇を建立し、同じく篤信門徒加藤浩の寄進により、彫刻家蘭二郎の彫像にかかる弁才天像を安置する。弁才天像は六賢弁才天と称する。また、弁天堂は門信徒供養のため堂内に納骨設備を備えてその安心の一助とする。六賢弁才天 絵馬のご案内 学芸成就 健康増強六賢弁才天はひとりひとりが取り組む学芸の成就、そしてそれを支える上で大切な健康でいることを司ります。音楽、舞踊、絵画など自身の思いや 個性を表現していく芸事の上達、また先人の叡智を学び広く学問、文学、弁論に通じていくこと ー 受験勉強にとどまらず、何か目標に向かって努力すること、より良い自分でありたいと願うことは求道心のあらわれです。願う心をそのまま絵馬に記し表現してみましょう。言葉にすることにより、その願いは確信へと変化していきます。 相州西之坊 善福寺12:50本堂を左側から。 ー 続く ー
2025.10.21
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南足柄市にある酔芙蓉を見るため訪れた。9月23日(火) 11:40先程の斜面の下にも彼岸花が咲いていたがまだこれからか。彼岸花の赤い絨毯になるのか。南足柄市の汚水マンホール蓋雄大な足柄山をバックに、鉞(まさかり)を担いで熊にまたがる金太郎が中心に描かれている。更に、市の木(サザンカ)と市の花(リンドウ)で周りを囲んだデザイン。公園の北東位置にある「ゲートボール場」。斜面に彼岸花が群生するのだがまだ早かった。ゲートボール場は窪地にあり大雨の時の遊水対策用になっているのか。案内板には石垣の下に「シェルター」とあったが。南足柄市運動公園 面積14ha S=1:500公園の北東エリアピクニック広場の横にも新しい駐車場が設けられていた。傾斜地に紅白の彼岸花が咲いていた。駐車場脇に立つ公衆トイレ。野球場横の駐車場へ戻りセンター方向を見る。スコアーボードは誰もいないので電動式になっているのか。後方の丘に先ほど止めた駐車場がある。サクラの時期には丘にサクラが咲き誇るのであろう。試合が終わったようで次のためのグランド整備。彼岸花の群生はいまいちであったが次の場所へ移動することに。慶傳寺所在地:神奈川県南足柄市怒田2061運動公園の近くにあり今まで訪れていないので参拝した。石碑には「顕彰碑」と刻まれていたが説明文は判読できなかった。車を左奥に駐車して参拝。参道入口に立つ寺号標石には、「臨済宗 円覚寺派 慶傳禅寺」と。参道を進むと山門、参道脇には、蘇鉄が植えられていた。右側は「安永□□ 庚申供□」と刻まれた碑。隣には「萬霊等」。山門山門の扁額「寶勝山」。扁額の揮毫は「円覚慈雲」と。山門には左右に仁王像が奉納されていた。右側の金剛力士阿形像。阿形像をズームアップ。後方には「一木造 金剛力士阿形像」と。金剛力士阿形像を側面から見上げる。左側の金剛力士吽形像。金剛力士吽形像をズームアップ。後方には「一木造 金剛力士吽形像」と書かれた札。今までみた山門の仁王像は板戸、網等で保護され撮影しづらかったがここはオープン。山門の天井には多くの格天井画が奉納されていた。格天井画には鳥、花が描かれ60数枚奉納されていた。山門を入ると右側に六地蔵。左側には小僧、台座に「無垢清浄心」と。山門の反対側にも奉納。山門に向かって右側の「四天王 南方増長天」。像の大きさは30センチほどであったか。南方増長天をズームアップ。山門に向かって左側の「四天王 東方持国天」。東方持国天をズームアップ。本 堂慶伝寺を開山した西派和尚は極楽寺第五世住職であった。享和二年(1802)以前に極楽寺が無住となり、その本山である円覚寺は慶伝寺に対し「極楽寺後席人相定め候節まで、慶伝寺代香にて檀用など相勤め候よう」にと申し渡している。極楽寺のような中本山が無住となった場合、その寺役を末寺がつとめた例である(「南足柄市史」より)。極楽寺は「南足柄市狩野782」にあるお寺。本堂の扁額「慶傳寺」。12:15本堂前の境内に聳えていた、「毘蘭樹(ビランジュ) 別名(バクチノキ)、最北限の木」。樹皮が特徴的で「博打に負けて裸になった」ことに例えられ別名バクチノキと。毘蘭樹(ビランジュ)の葉。小田原市の早川に国指定の天然記念物「ビランジュ」がある。 ー 続く ー
2025.10.20
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南足柄市の酔芙蓉農道にある酔芙蓉、芙蓉を愛でる。9月23日(火) 10:40酔芙蓉農道の北側エリアを見る。この辺りからは富士は見えないと。ふくざわ公園から農道を東側へ。この辺りは南足柄市と足柄上郡開成町との境界になる。東側から、酔芙蓉農道の北側エリアを見る。この花は一重咲きの芙蓉。芙蓉の芯の周りが赤くなっているが。花後のつぼみ。これは芙蓉であるか。ズームアップ。酔芙蓉農道には日本人客。流石インバウンド客は見当らなかった。路面には落下した酔芙蓉の花柄。駐車場へ戻る。酔芙蓉の色がどう変わっているのか見るために午後再度訪れることに。この後、以前来た時、南足柄市運動公園の彼岸花を見たいと思っていたので行くことに。南足柄市運動公園所在地:神奈川県南足柄市怒田1734南足柄市の屋外スポーツの拠点として、競技スポーツから健康スポーツまで様々なスポーツができ、大人から子どもまで市民だれでもが気軽に利用できる公園として整備したと。南足柄市運動公園案内図施設は、ピクニックトリム広場・芝生広場・野球場・テニスコート・多目的広場等がある。南足柄球場小学生の野球大会が開催されていた。ピクニックトリム広場遊具施設をズームアップ。球場横の駐車場へ戻り移動することに。南足柄市運動公園の南側の高台にある新しい駐車場へ車を停める。駐車場横から南足柄球場を見下ろす。内野スタンドをズームアップ。駐車場から東側の斜面へ下りる。まだ広く群生していると思ったが。この日は今年最初の彼岸花鑑賞であった。春にはサクラが咲く。まだこれからの彼岸花。ズームアップ。白の彼岸花はまだ咲いていなかった。Googleマップで見ると満開の時は全面に咲き誇り赤絨毯になっている。今年は猛暑日が続き遅れているようだ。外野手は芝生との境に。遊歩道に公衆トイレが設置されていた。センターボードを見下ろす。センター後方から南足柄球場の全景を見る。小学生が使用する野球場としては広すぎると思うが。前方の山頂に「電子機器製造業者 ㈱トヤマ」が見える。いつか頂上に行ってみたい場所である。三塁側のベンチを見る。駐車場を移動して下へ降りる。公衆トイレがある。南足柄市運動公園案内図現在地は黄色の星マークから赤星へ下りてきた。11:40上の高台にある「トリム広場」「ピクニック広場」への入口になっている。横井戸案内図宝永の横井戸遺跡この石組は、むかし斑目村の人たちが利用した横井戸の汲取り口を真似て造りました。人々はここで水を柄杓で桶に汲み、家に運んで飲み水などに使いました。斑目村の人たちは、なぜこの怒田村に横井戸を造ったのでしょうか。宝永四年(1707)の富士山噴火で降り積もった砂が、翌年六月の大雨で流れ出して、大口土手を決壊させ、以後たびたび水害が襲いました。一七□□年には三九人も流れ死にました。村人は、この大地に小屋を建てて移り住み、「命の水」を求めて、この「共同の横井戸」を造り、不便でも安全に暮らしたのです。横井戸は、標高九〇m前後の関東ローム層に掘られた素掘りのトンネルです。汲取り口は三五○mほどの間に六箇所あったそうです。平成五年の発掘調査で、トンネルは曲がったり、枝別れしたりしていました。水は壁や天井から以外に沢山しみ出して流れていました。この横井戸は、一八七七年頃斑目の人々がもとの村へ帰ると百数十年の歴史を閉じました。しかし、一九二三年の関東大震災で井戸水が出なくなった千津島の人たちは、簡易水道の水源として一九六○年頃まで再び利用していました。「宝永の横井戸」は、噴火や洪水・地震などの災害を生き抜いた私達の先祖の知恵を伝える遺跡なのです。(図は「史談足柄」第二七・三一集を参考にしました。)宝永の横井戸遺跡 ー 続く ー
2025.10.19
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南足柄市の酔芙蓉農道にある酔芙蓉、芙蓉を愛でる。9月23日(火) 10:10標高870メートルの矢倉岳をバックに酔芙蓉。ズームアップ。午後にはピンクになるのであろうか。再度、午後来ることに。芯の周りが赤みを帯びていたが、これからピンク色に変化。酔芙蓉と彼岸花が咲く。酔芙蓉農道(約1km)には酔芙蓉700本と芙蓉100本が咲いているが、この木はピンク系の花だが芙蓉であろうか。芙蓉と酔芙蓉の違いは以下の通りです: ・花の形状:芙蓉は原則一重咲きで、酔芙蓉は原則八重咲きである。 ・開花時期:芙蓉は夏の初めに咲き始め、秋まで咲き続けるが、酔芙蓉は約1か月遅れて 咲き始め、9月下旬ごろが見頃となる。 ・特 徴:酔芙蓉は、咲いた時は白く、しだいに紅色に変わる様子が特徴で、酒に酔っ たように見えることからその名が付けられた。一重咲きであるので芙蓉であろうか。ズームアップ。咲き終わりしぼんだ花もあった。ふくざわ公園脇から南側エリアへ進む。酔芙蓉と芙蓉の大きな違いは一重と八重咲きの違い。芙蓉を見上げる。芙蓉の芯を追う。芯を更にズームアップ。田んぼでは稲刈り中であった。畔には彼岸花が咲き、農道脇に大きな袋があったが”もみ殻”であった。後ですれ違った軽トラックがもみ殻を引き取っていた。畦道の彼岸花は満開。彼岸花をズームアップ。後方の傾斜地には西畑公園の松田山ハーブガーデン。コンバインが稼働。最近は人手不足、跡継ぎ問題で会社経営が多いが。この日も暑く日傘をしての農作業。これからは最近の温暖化で稲作も変わってくるのでは。米だけは自給自足であって欲しいものだ。この辺りの酔芙蓉、芙蓉の開花はこれからか。この花の名は。芙蓉の色は主にピンク、白、赤色である。ピンクの芙蓉。南側の酔芙蓉農道エリア。稲刈りが終わった切り株から芽が、昔はこれを鍬でカットしたものだが。酔芙蓉、芙蓉をズームアップ。稲刈り前の色づいた稲穂。南側エリアからふくざわ公園へ戻る。この辺りは酔芙蓉が咲く。繁殖力の旺盛なランタナが酔芙蓉の間に咲いていた。ふくざわ公園を見る。酔芙蓉は午前中のため、今日の花の白色と、昨日の花が赤色に。八重咲きの酔芙蓉。酔芙蓉農道の北側エリアを見る。北側エリアには直線的に500メートルほど植えられている。10:40ローアングルから北側エリアを見上げる。 ー 続く ー
2025.10.18
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南足柄市で「酔芙蓉まつり」が開催されるとの情報で訪れた。併せて近郊の寺社史蹟を巡った。2025酔芙蓉まつり開催期間:令和7年9月20日(土) ~ 9月28日(日) 午前10時 ~ 午後3時まつり期間中の9月20日(土)、21日(日)、23日(火)、27日(土)、28日(日) は、新米等の農産物の販売や模擬店が出店予定です。 ※雨天等により中止の場合あり朝から夕方にかけて花びらの色が白から濃いピンクに変わる酔芙蓉700本と芙蓉100本が、千津島ふくざわ公園脇の酔芙蓉農道(約1km)に大輪の花を咲かせ、例年9月中旬から見ごろを迎えますと。9月23日(火) 9:15カーナビを「ふくざわ公園」にセットして自宅を出発。西湘バイパスを走り、国府津インタから北上、ここ「足柄大橋東交差点」を左折。県道78号線を西へ走り酒匂川に架かる足柄大橋。正面には、金時山、矢倉岳。足柄大橋の東側の欄干には熊に乗った金太郎像。欄干に熊に乗った金太郎像(写真はネットから)。西側(右岸)には、猿、鹿、雉 他を従えた金太郎像がある。ふくざわ公園臨時駐車場所在地:神奈川県南足柄市千津島1845辺り県道78号線の竹松交差点を右折してここ臨時駐車場へ。我が家から約36キロに位置している。道路脇に立つ案内板。案内板に「⇐ ふくざわ公園」と。20数台駐車できる無料駐車場。右奥は駐車場から東に約百メートル程にある”ふくざわ公園”。ふくざわ公園への道路脇にも酔芙蓉。まだ満開前であった。咲き始めの白の酔芙蓉をズームアッㇷ゚。紅白の酔芙蓉に蕾。道路脇の畔には彼岸花も満開。田の奥には酔芙蓉農道が南北につながる。酔芙蓉農道をズームアップ。稲刈り前の稲穂。新米の値段はキロいくらになるのか。JAの農家からの買は29,000円/60kg ➪ 480円/kg で、我々は1,000円/kg で口に。農政改革はどうなるのか。ふくざわ公園内には「千津島自治会」と書かれたテントが数張り張られ、祭り関係者、自治会のメンバー、高齢の婦人会の方々がおられた。ネットでは、売店で、地元野菜、新米を販売しているとあったので、新米の購入を楽しみに来たのだが、既に売り切れであると。仕方がなくジャガイモと玉ねぎを購入(各100円)した。ふくざわ公園東京三田の龍源寺から閑静な地を好む、大島仁宗が千津島天福寺住職に入られたのが明治九年である。明治維新の時、思想家、教育者として活躍した福澤諭吉は親交深かった大島住職のもとをたびたび訪れた。明治二十二年町村制がひかれた時、新しい時代を夢みて衆議一決福澤諭吉の福澤(ふくざわ)を村名にした。この公園の地は天福寺のゆかりの地をもって「ふくざわ」公園と名づけ、後世に夢と理想と希望を語り合える場にと願っている 平成十二年十月大きな石には「拓」と。公園内には、四阿、公衆トイレがあった。 拓●己の手で石を取り除き耕地聖地として拓く:環境整備推進の構築●人の心で人を創(和)り時代と世代を拓く:現在と将来文明社会の構築●先蹝遺産の尊さを勉学し己の身心をも拓く:歴史知識の高揚と心身安穏の構築 千津島地区圃場整備組合長 加藤正造 ふくざわ公園は大きくはないが周りには四季折々の花が咲く。公園内には「春めき桜」が植えられている。北側の山肌には、新東名高速道路の高松トンネルの出口(西側)付近の工事現場。ふくざわ公園近くの道路脇にはこのような幟旗が多く立っていた。酔芙蓉農道の東側から北方向を望む。ふくざわ公園脇から北側を望む。まだ満開ではなかった。酔芙蓉農道(約1km)は千津島ふくざわ公園脇を南北に酔芙蓉700本と芙蓉100本が咲く。酔芙蓉は、朝、昼、夕と花びらの色が白から濃いピンクに変わる。酔芙蓉は、アオイ科フヨウ属で、原産地は日本・中国・台湾。剪定せずに育てると草丈が4m近くまで成長する。寒さにはやや弱く、その代わり暑さには強い。酒匂川からの農業用水路。この辺りでは田への水不足も無いのであろう。畦道には赤い彼岸花が咲いていた。まだ蕾が多い酔芙蓉。スマホで「ハナノナ」ソフトを使用するが。黄色の花は?。酔芙蓉農道は軽トラックが通れる幅で、酔芙蓉の背丈は2メートル以上ある。白の酔芙蓉。ピンクの酔芙蓉。芯をズームアップ。花が咲き終わると12月には根元から剪定し、翌年の4月から延びはじめ開花時にはこの高さまでになると。ふくざわ公園を望む。稲刈りが終わり畦道には彼岸花が咲いていた。まつり会場をズームアップ。畦道に咲く赤い彼岸花。地元の方が撮影をしておられ話をすると「以前は白い彼岸花もあったのだが」と。また「いつも祭りが終わった後、酔芙蓉は満開になる」と。北方向の山頂には「電子機器製造業者 ㈱トヤマ」がある。彼岸花もこれから。10:10酔芙蓉は9月中旬~10月中旬に咲き、ピンクや白で直径10~15cm程度の花をつけます。朝咲き始めた花弁は白いが時間がたつにつれてピンクに変色する八重咲きの変種である。 ー 続く ー
2025.10.17
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スラダン聖地巡礼の鎌倉高校前1号踏切からの帰路。10月5日(日) 14:30腰越漁協直売所周辺のMAP稲荷社所在地:神奈川県鎌倉市腰越2丁目12-6腰越漁協直売所前の国道134号を挟んで左前に鎮座する稲荷社。国道沿いに赤い鳥居が見えたので分かったが見落とす稲荷社である。間口一間ほどの狭い敷地にある。扉は簡易な針金で閉められていた。その他の詳細は不明。国道134号沿いの稲荷社から路地を抜け北側にある腰越駅へ。この先まで自動車と一緒に走る併用軌道になっている。江ノ電 腰越駅所在地:神奈川県鎌倉市腰越2丁目14駅のホームが短いので、一部ドアが開かない車両があるので下車時には注意が必要と。スラダン聖地巡礼の鎌倉高校前1号踏切へ行くためここで下車して徒歩で鎌倉高校前駅へ。中国の方であったか記念写真。駅舎に江ノ電のイラスト。ホームが短いため鎌倉側の一車両の扉が開かない。腰越駅から龍口寺前までの間が、自動車と一緒に走る併用軌道になっている。県道304号線(腰越大船線)の神戸橋(こうどばし)交差点。神戸橋鉄道道路併用橋としては国内唯一の存在鎌倉魚市場所在地:神奈川県鎌倉市腰越3丁目21-1神奈川県で唯一の民間卸売市場です。朝どれ地魚海鮮丼をはじめ、卸売価格で干物を販売していますと。3階の壁面に気になる絵が。湘南名所「鎌倉高校前駅 一号踏切」。車体には「鎌倉魚市場」と。自動車と一緒に走る併用軌道を江ノ島駅方向へ進む。右側の家のシャッターにアート。左隣のシャッターにもアートが描かれていた。Googleマップでは錆びたシャッターになっていたが。PROJECT2025神輿と多くの見物客、江ノ電の絵が描かれていた。藤沢行きの電車が通過。新車両の江ノ電が通り抜ける。龍口寺前交差点。鎌倉行きの電車が急カーブを出てくる。四両編成の江ノ電。急カーブであるので車の停車位置に注意。車掌は安全確認。和菓子屋「上州屋」の前にあったパネル。日蓮宗龍口寺は今回はスルーした。江ノ電江ノ島駅所在地:神奈川県藤沢市片瀬海岸1-4-7当駅は鎌倉方面からの江の島への入口で乗降客が約15,000人(令和元年)と多い。江の島への”すばな通り”は人が多い感じがしたのでここを右折した。境川沿いを南下。弁天橋を渡り、小田急片瀬江ノ島駅へ向かう。小田急片瀬江ノ島駅所在地:神奈川県藤沢市片瀬海岸2丁目15駅前には何度も来ているが江ノ電江ノ島駅に比べ人通りが少ない感じがする。竜宮造りの片瀬江ノ島駅舎片瀬江ノ島駅から国道134号を渡り、「新江ノ島水族館」へ。15時頃であったがまだ多くの入場者が訪れていた。入口にクラゲの模型。本日の営業時間:9時~17時、年間パスポートもあるようだ。新江ノ島水族館を抜け片瀬西浜海岸。この日は気温が高く多くのサーファーが楽しんでいた。片瀬漁港西プロムナードを望む。この後サイクリングロードを引き返した。神奈川県立 辻堂海浜公園サイクリングロードから入り海浜公園へ立ち寄った。この方向に富士が見えるのだが。石碑のプレートに「かながわの公園50選 辻堂海浜公園」と。 サイクリングロードからの入口で、建物は駐車場脇にある公衆トイレ。松の剪定等の手入れがゆきとどいていた。公園に立つモニュメント。再度サイクリングロードを走り「浜須賀」。15:20歩道橋を渡り、浜須賀交差点を見る。自宅へは16時ごろ帰宅、久しぶりに愛車のリンちゃんで遠出した1日であった。10月に入っているが今日も昼間は暑かった。この日の走行距離は22キロ、歩行数は9,000歩であった。 END
2025.10.16
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今日の目的地「鎌倉高校前1号踏切」へ。10月5日(日) 14:00国道134号の鎌倉高校駅前交差点から山側へ入った坂から見下ろす。アニメの一画面の写真を撮りたいために路上に出て交通の邪魔に、歩道にも多くの人が。かつてはこのロータリーの周りにも駐車していたと。坂を上ると「七里ヶ浜」が見下ろせるスポットである。中国人が行きたい国のナンバーワンは「日本」であると。国慶節を前に中国の旅行社が日本の5地域を巡る以下のようなツアーを企画、 1日目:東京地域:浅草、・・・・・ 2日目:鎌倉地域:鎌倉、鎌倉高校前1号踏切、七里ヶ浜海岸、江の島 3日目:富士周辺:富士が見えるコンビニ、・・・・・ 4日目:京都地域:・・・・・ 5日目:大阪地域:道頓堀、万博会場、大坂城、・・・鎌倉行きの電車が通過。訪れた日は1,000人近い人が鎌倉高校前駅周りにいたが何もないのにと思うが。警備員の方が「腰越ラッコ公園」へ入るよう誘導。電車内にも多くの人が乗車。江ノ電もインバウンド効果がすごいのでは。鎌倉高校前駅には売店もなく金も落ちないのではと思うが。腰越ラッコ公園から鎌倉高校前駅へ。防犯市民団体「鎌倉ガーディアンズ」のメンバーの方が誘導しておられた。右側にはマンションが建っている。この辺りは国道134号に沿って走る江ノ電が走る。車窓からの江の島が良いのであろう。この日は暑く皆さん日傘をさし、ひとつ前の腰越駅で下車してここまで歩いて。中国からの多くのツアー客も歩いてここまで。会話からほとんどの方が中国本土からの人たちであった。ツアーの旗を持った人も数人立っていた。江ノ電 鎌倉高校前駅駅は単式ホーム1面1線を有し、江ノ島駅管理の終日無人駅である。藤沢方と鎌倉方に出入口がある。映画、テレビのロケ地になっている人気の場所である。右側にマンションの出入口があったが住民の方も大変であろう。10月になっても日傘が必要な気温になっていた。鎌倉ガーディアンズのTシャツを着たメンバー。市は鎌倉ガーディアンズに対し交通誘導のため中国の国慶節の期間中の協力を要請したと。腰越ラッコ公園には多くの人が電車を待っていた。公園にはベンチ、水飲み場がある。いつもこれだけ人が集まると何か商売をと思うが。この写真は令和4年(2022)8月8日(月)の状況。腰越ラッコ公園の下には駐輪場があったようだ。腰越ラッコ公園をズームアップ。中国の国慶節が終わると訪日客は減るのであろうか。自転車置き場へ戻ることに。予想外の人出にビックリであった。駅舎に、鉄道の日 記念「関東の駅百選」第一回認定駅 鎌倉高校前駅ホームは乗客で通勤ラッシュ状態に。無人駅であるが安全対策は、駅員がいたのか。腰越駅から鎌倉行の電車が入線。これだけ混んでいると地域住民の方も大変であろう。2019年ごろの一日の乗降客は6,500人位であったが現在は?。駅の北側の傾斜地は「七里ヶ浜共同墓地」になっている。祠の中に地蔵像が立っていた。電車が出てもホームにはこれだけの人が。続いて駅には藤沢駅行き電車が入線していた。間際を電車が通過するので怖い。自転車を置いた場所へ戻る。手前は「小動船揚場」、この辺りの国道134号は自転車専用道がないので怖い。国道の海側ステージへ。東方向の峰ヶ原、七里ヶ浜海岸、その奥には稲村ヶ崎と続く。峰ヶ原、七里ヶ浜海岸にも多くのサーファー。沖合にはヨット。この辺りは2020東京オリンピックのセーリング会場になった。西方向には江の島。14:30腰越漁協直売所夕食用に、アジ (1枚)¥800、カマス (1枚)¥500、イナダ (1枚)¥400 を購入した。 カツオも欲しかったのだが売り切れになっていた。 漢字でわかる魚のかんじ ー 続く ー
2025.10.15
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スラダン聖地巡礼の鎌倉高校踏切への途中江の島弁天橋へ。10月5日(日) 13:20江の島弁天橋この日は平日であったがインバウンド客が多かった。昨年の江の島のインバウンド客数は、約2,040万人で過去最高を更新した。この増加は、訪日外国人客の増加や春から好天に恵まれたことが要因とされている。また、宿泊や飲食、レジャー、お土産への支出を算出した観光消費額も前年比5%増しの約1,139億円となり、客数、消費ともに過去最高となったと。江の島弁天橋入口に立つ石碑に「名勝及史蹟江ノ島」と。弁天橋の袂に「江の島弁天橋」と「沿革」が刻まれたプレート。沿 革この橋は、明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料 金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル 上部は木橋として作り直され、その後江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変ったものであります。 昭和33年7月 神奈川県円弧型・日時計日時計製作者 小原輝子台座に、「潮 音 神奈川県知事 長洲一二□」「結成十五周年記念 藤沢湘南ライオンズクラブ 平成元年四月二十六日建立」と。円弧型・日時計”時”には形がなく見えません。しかし私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる”時”に区切りをつけました。それが日時計と時刻です。三角形の石の指針(ノモン)の影を、円弧形の石の時刻目盛で読んでください。影は止ることなく刻々と動いています。それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。午前は西側の影、午後は東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。日本標準時と真太陽時はちがいます。標準時が兵庫県明石市・東経一三五度できめてあるからです。いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹きぬけていきます。太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。日時計の位置は、東経139度29分11秒 北緯 35度18分09秒日時計を南側から、中央には「← 天の北極」と。江の島弁天橋から片瀬漁港入口の赤灯台、白灯台を見る。天気が良ければ富士が見れるスポットである。弁天橋を渡り途中まで行くことに。すれ違う人はほとんどがインバウンド客であった。途中のステージから西方向を望む。北西方向には辻堂駅前の29階の高層ビル、後方に大山。高層ビルをズームアップ。西側の境川河口。富士が見えておれば(右側)絶景ポイントである。白灯台、茅ヶ崎のシンボル烏帽子岩、箱根の山の金時山を見る。江の島弁天橋の途中から戻り、弁天橋駐輪スペースへ。江ノ島で見られる野鳥。国道134号の江の島入口交差点下の地下道。地下道に下り「東浜 ➪」方面へ。片瀬東浜を見下ろす。照明灯の上にカモメ。片瀬東浜越しに江の島を望む。国道134号の片瀬東浜交差点から道が狭いので歩道を走り、右側は腰越海岸。この先の腰越橋交差点を左折すると大船方面へ。13:30腰越漁協 直売所所在地:神奈川県鎌倉市腰越2丁目9-1腰越漁港へ水揚げされた朝どれの新鮮な魚をフライにしてくれ、店内でも食べれテイクアウトも可能で既に数回訪れている。朝出発時にここで昼食と思っていた。ドアーの貼り紙に、「ー 定休日 ー ・水曜日 ・金曜日」「”しらす” は販売してません」「営業時間 午後12時 ~ 午後4時」、但し、店内での食事は午後3時まで。窓口で注文するとその場ですぐに揚げてくれ、フライが出来たら呼んでくれるシステム。揚げたてのフライが食べられるのは嬉しい。黒板に、~ 本日のフライ ~ ・アジ (1枚) ¥800 ~ 店内手作り ~ ・カマス (1枚) ¥500 ・あかもく天ぷら (1パック) ¥500 ・イナダ (1枚) ¥400 ・サバ竜田揚げ (1パック) ¥500 ・カツオ (1枚) ¥200 ・生ビール ¥500 パックごはんあります!! ¥200 ※ 当日の価格は仕入状況により変動します。 ネットの書き込みを見るとアジの値段は、¥500の時もあった。店内には有名人の方のサイン等沢山あり、地元ではもちろんのこと、地元以外の方にも注目されている場所というのがよくわかる。但し、インバウンド客は見当らなかったが今後は。パックごはん・ビールを販売していたが、ビール・おにぎり等の持ち込みはOKである。ご飯物はなかったが、イナダ、カツオを各1個オーダーして昼食とした。揚げたてでソースをかけて食べたが身も大きく、美味しかった。帰路に立ち寄って夕食用でアジフライ等を購入することに。腰越漁協直売所の裏が腰越漁港である。昼食後、今日の目的地「鎌倉高校踏切」へ向かう。鎌倉高校前駅手前(藤沢側)の信号。この踏切は目的の所ではないがここにもインバウンド客。鎌倉高校踏切辺りは混雑していると思いこの場所へ駐輪して目的地へ。危険行為として指摘されている踏切の中で撮影。手前の「腰越駅」で下車してここまで歩いて来ているようだ。鎌倉高校前駅に藤沢行きの電車。走る電車の横で記念写真。振り返ると西方向の空には雲が多くなっていた。右側は「小動船揚場」。鎌倉へのこの辺りの国道134号はいつも渋滞している。このような広いスペースがあるのだが何故か車が入れないようになっている。左側の斜面に墓地があるがインバウンド客が侵入。鎌倉高校前駅。藤沢側にも駅からの出口があった。駅ホームには多くのインバウンド客。愛車のリンちゃんで鎌倉へ行く時この前を何度も走っているが以前より人が多くなっている。鎌倉側の出口に「江ノ電 鎌倉高校前駅」。ツアーの旗を持った人も数人いた。左上は鎌倉高校への通路。高校生も人が多くて困るのでは。国道134号の鎌倉高校駅前交差点。Googleマップに「Slam Dunk 灌籃高手平交道」と。スラムダンクで有名な踏切この踏切は1990年代にヒットした高校バスケットボールのアニメ『スラムダンク』のオープニングシーンに出てくる場所で、今だインバウンド客が多く訪れている。5年前の令和2年(2020)11月30日から何度もここを自転車で走っているが、以前はインバウンド客はチラホラであったが、中国本土からの訪日があるとこれだけに。腰越ラッコ公園所在地:神奈川県鎌倉市腰越1丁目1鎌倉市にある住宅街のスタンダードな公園です。平成初期につくられた公園で、設備には水飲み・手洗い場とベンチがあります。観光スポットとして有名な湘南の踏切のそばにありますが遊具などはないため、一休みするためのスペースといった場所ですと。14:00鎌倉高校踏切、道路には交通誘導員、ガーディアンズのメンバーの方が誘導していた。スラムダンクの聖地巡礼おすすめスポット8選の内の一つ「③鎌倉高校前1号踏切 (神奈川県)」のアニメ一画面。このような写真を撮りたいのであろうか。女子高校生のスカートを着たコスプレの女性ともすれ違った。 ー 続く ー
2025.10.14
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片瀬漁港西プロムナードの白灯台の後、片瀬漁港へ戻り「赤灯台」へ。この日のブログは、二日後の10月7日(火)にも訪れ、その時の写真も含まれておりますのでべんてん丸の運行状況が異なります。10月5日(日) 13:00片瀬漁港所在地:神奈川県藤沢市片瀬海岸2丁目江の島や富士山が望める絶景スポットで、散歩やウォーキングの方に人気があります。また、片瀬漁港では、江の島産の鮮魚の直売を行っています。また釣スポットになっているが禁止エリアがあるのでマナーを守っての釣りをお願いしますと。片瀬漁港鮮魚直売所10月 お魚の販売 18日 (土) ※ 販売開始10:00頃~ (売り切れ次第終了) 8:30頃から整理券配布します。(悪天候の場合は、販売を中止します)湘南江の島”はまぐり” 毎週土日販売します 直売所のいけすでは「ハマグリ」を販売。「湘南江の島 手掘りはまぐり 地方発送できます。 ハマグリ 100g 300円」と。現地に立っていた「片瀬漁港案内図」。海釣りゾーン以外の場所での釣りは、漁業活動の支障となりますので、ご遠慮ください釣り禁止エリアをネットから(赤いエリア)。片瀬漁港の空撮(写真はネットから)。境川河口沿いの東プロムナードを自転車で進む。左側(東)の境川沿いは釣りゾーンになっており数人の方が釣りを楽しんでおられた。片瀬漁港東プロムナードの自転車乗り入れはここまで。この先は左側のボードウォークが「一般者」、右側は「漁業関係者」と。江の島シーキャンドルをズームアップ。東プロムナードの突端に立つ赤灯台。この日も富士は雲の中であった。片瀬漁港入口に立つ赤・白灯台。江の島シーキャンドル、赤灯台、白灯台トリオであろうか。白灯台を望む。江の島弁天橋には多くの観光客が渡っていた。後方には白い湘南港灯台。江の島入口に建つ「中華飯店 吉祥楼」。吉祥楼の右側に建つ「江の島アイランドスパ」をズームアップ。江の島の直下1500mから湧き出る、天然温泉による本格的なスパ施設。マッサージルームや本格的なトリートメント施設・レストランなどがある。赤灯台の周りは広いステージになっていたが安全柵がないので子供連れには不向きか。ステージには救命用の浮き輪が設置されていたが数が少ない。高層ビルは辻堂駅前に建つ、湘南エリア最高層の29階建の「THE TOWER 湘南辻堂」。東プロムナードを振り返る。下の段は漁業関係者のみ立ち入り。東プロムナードを戻る。先日の日曜日はべんてん丸がピストン輸送していたが。江の島遊覧船べんてん丸 江の島弁天橋乗り場江の島弁天橋から稚児ヶ淵までをつなぐ遊覧船。約6分の海上遊覧を楽しみながら天気の良い日には富士山も一望できる。この日は7日(火)で運休日であった。江の島弁天橋釣り人に話しかけ「1時間ほどでエサ無しで10数匹釣った」と。片瀬漁港を後にする。ふじさわのパブリックアート「海の詩」制作者:親松英治竣工年:2006年6月吉日作品材質:ブロンズ像はダイバーが巨大な鯛を抱えて逆さになったユニークなポーズであると。藤沢市観光協会・藤沢市観光センター所在地:神奈川県藤沢市片瀬海岸2丁目20-13国道134号の片瀬江ノ島駅入口交差点の脇に建つ観光案内所で、営業時間は8:30~17:00。Googleマップには、ライトノベル・アニメ「青春ブタ野郎」シリーズの舞台にある観光案内所とあったが私には???。センターの壁面には「青春ブタ野郎シリーズのアニメ」が貼られていた。また入口右側に、この日の7日(火)は「遊覧船 べんてん丸 欠航」と。ポスターも貼られていた。「日本最大級 10,000本のローソクが海風にゆらぐ SHONAN 湘南 Candle 10/11(土) ⇀ 11/3(月祝) 江の島サムエル・コッキング苑 17:00~20:00 土日祝日は21:00まで」。館内には、スタンプラリーのスタンプが置かれていた。関東ふれあいの道「関東ふれあいの道」は、一都六県を巡る自然歩道です。沿線の豊かな自然にふれ名所や史跡を訪ねながら、古里を見直してみませんか。⑥ 湘南海岸・砂浜のみち この道は、県内17コースのうちの6番目です。ここから江の島を背に国道134号を西 へ、新江ノ島水族館、湘南海岸公園を通り、鵠沼橋の西縁には聶耳(ニェアル)記念碑 が建っています。鵠沼橋を渡るとサイクリングロードに入り、右手に松林、左手に砂 浜を眺めながら歩くと、茅ヶ崎柳島海岸が終点です。途中、海に浮かぶ烏帽子岩(えぼ しいわ)や平島を見ることができます。 終点からは、国道134号を渡って、北へ600mくらい歩くと、浜見平団地バス停(茅ヶ 崎駅行)に到着します。 神奈川県 全長L=10.2km(片瀬江ノ島駅 ~ 柳島海岸)観光案内所の左側に広場がありレンタサイクルが置かれていた。対岸には今日は欠航の「江の島弁天橋乗り場」。江の島弁天橋乗り場にある公衆トイレをズームアップ。片瀬橋から藤沢市観光センターを振り返る。片瀬橋から境川の河口(通称:片瀬川)、江の島を望む。この写真は2日前の5日(日)で、江の島弁天橋乗り場には多くの乗船客が並んでいた。江島神社御鎮座記念龍燈籠弁財天と五頭龍の伝説が語り継がれる江の島。この龍燈籠は『江島縁起』による江の島湧出の時から、数え1450年を記念に平成13年(2001)に建てられたもの。 大橋のたもと左右に一対、御影石製の龍をモチーフとした石彫の立派な燈籠。龍燈籠を抜けると左側に弁天橋駐輪スペースがあったので駐輪。車が走る江の島大橋にも自転車通行エリアがあるのだが。ヨットが停泊する湘南港を見る。湘南大堤防先端の湘南港灯台をズームアップ。江の島遊覧船べんてん丸 弁天橋乗り場所在地:神奈川県藤沢市片瀬海岸駐輪場から更に進むと、右側手前にチケット売り場、奥に公衆トイレ。この日は欠航日。江の島べんてん丸 乗り場 岩屋洞窟 方面行 片道料金 大人/中学生以上 ¥400 6歳以上 ¥200運航は当日の午前10:30頃に確定します。運航時間の目安〈平日〉 11:00頃~14:30頃まで〈土・日・祝〉 10:30頃~14:30頃まで※ 1月・2月・12月の平日は欠航 。※ 当日の天候・海況による安全第一優先の運航となりますのでご了承ください。境川河口にある乗り場でこの日は欠航日。江の島の岩屋乗り場を望む。ここから江の島の西側にある稚児ヶ淵までをつなぐ遊覧船で、約6分の海上遊覧を楽しみながら楽に行けるルートである。13:20江の島、新江ノ島水族館の案内。 ー 続く ー
2025.10.13
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鎌倉の「スラダン聖地踏切」への途中、見落としていた「片瀬漁港白灯台」へ。10月5日(日) 12:20片瀬漁港西プロムナードとは、片瀬漁港にある堤防のボードウォークで、入口から突端まで約320m、突堤には「白灯台」が立っている。遊歩道の「海釣りゾーン」手前のここ石積みエリアの上での釣りは禁止になっているのだが、糸を垂れている中学生がいた。ここに立入禁止の立札があったか?。片瀬漁港 江の島や富士山が望める絶景スポットで、散歩やウォーキングの方に人気がある。また、片瀬漁港では、江の島産の鮮魚の直売を行っている。西プロムナードの突堤に立つ「白灯台」。下の通路は一般者は立入禁止。白灯台と江の島シーキャンドル。片瀬漁港東プロムナードの突堤には「赤灯台」。遊歩道での釣りは禁止になっている。赤灯台をズームアップ。後方には江の島大橋・江の島弁天橋。西遊歩道の「海釣りゾーン」。小田急線の渋沢駅(秦野市)から来たと言う男性。見ていると続けて釣り上げられたが小さい魚はリリースされていた。続いて「アイゴ」を釣られたが背びれが痛いのでこれもリリースされた。今日は数匹釣ったので今夜のおかずに。別れ際に「エサが無くなり帰宅するが、自分は独り者で話しかけられて嬉しかった」と。水が奇麗で泳いでいる魚が見えていたが。東方向の「赤灯台」を望む。赤灯台は境川河口(通称:片瀬川)に立っている。赤灯台へは東プロムナードを自転車で行けるようだ?。片瀬漁港西プロムナード突端に立つ白灯台。突端は広いスペースになっていた。白灯台子供連れの親子が座り込んでいた。ステージの柵があるので安全だが。片瀬漁港入口の向かい側には赤灯台。白灯台の頂部を見上げる。江の島遊覧船べんてん丸江の島弁天橋から稚児ヶ淵までをつなぐ遊覧船。約6分の海上遊覧を楽しみながら天気の良い日には富士山も一望できる。江の島観光の後に江の島岩屋から帰りの船としての利用もできると。江の島の西側にある「稚児ヶ淵」へ向かうべんてん丸。江の島遊覧船べんてん丸 岩屋乗り場を望む。岩屋乗り場をズームアップ。多くの乗客が待っていた。江の島入口に建つ「江の島アイランドスパ」を望む。釣り船であったか高速で片瀬漁港へ帰港、乗組員がステージの子に手を振っていた。東プロムナード突端に立つ赤灯台。東プロムナードは釣り禁止になっている。赤灯台の頂部をズームアップ。南側から片瀬漁港を望む。岩屋乗り場からべんてん丸が戻って来る。この日は日曜日でピストン輸送のべんてん丸。乗船定員は船内と船外で20名程度か。岩屋乗り場には多くの乗船待ち客が見えた。白灯台から富士が見えなかったのが残念だが後にすることに。釣りエリアには多くの釣り客。許可不要、無料で釣れると。中学生に収穫を聞くとリュックから出して見せてくれたキス。袋の中には数匹あり、塩締めしていると。今夜の食膳に。キスを見ていると隣の人が釣り上げたタイ。釣り上げたのは父親と来ていた幼稚園児であった。大きさは30センチはあったか。続いて隣の中学生が同時に3匹釣り上げたが魚の名は?。クロダイ、チヌか?。石積みエリアの上での釣りは禁止になっているのだが、「釣り禁止」「立入禁止」の立札がないので分からないのでは。片瀬西浜、鵠沼海岸。片瀬西浜・鵠沼海岸の先に、新しい高層ビル、後方には大山が見えた。高層ビルをズームアップ。辻堂駅南に建つ「THE TOWER 湘南辻堂」で、湘南エリア史上最高層の29階建である。茅ヶ崎の浜須賀交差点に建つマンション群。富士は見えていなかったが、金時山、矢倉岳が見えていた。西プロムナードを戻り、片瀬漁港入口。片瀬漁港鮮魚直売所前から、片瀬漁港、江の島を望む。13:00片瀬漁港入口の赤灯台、白灯台を望む。 ー 続く ー
2025.10.12
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新聞紙上、テレビで鎌倉の「スラダン聖地踏切」が問題になっており「鎌倉の市民団体 観光客誘導」の下記報道があり、以前より鎌倉への途中その光景を見ていたので野次馬根性で愛車のリンちゃんで訪れた。また途中、これまで見落としていた場所へも立ち寄ったブログです。記事は10月2日付き読売新聞より。鎌倉ガーディアンズのメンバーがボランティア活動で警備に当たると。SLAMDUNK(スラムダンク)とは、1993年から1996年までの間にアニメ放送された、週刊少年ジャンプの大人気漫画作品です。当時スラムダンクの影響で空前のバスケブームとなり、社会現象を巻き起こしました。アニメ・原作は1996年に終了していますが、2022年に映画「THE FIRST SLAM DUNK」が公開されました。興行収入は150億円越えと、いまだに根強い人気を誇っています。スラムダンクの聖地巡礼おすすめスポット8選スラムダンクは、主人公の桜木が通う高校が神奈川県なので、神奈川県が主な舞台であると。 ①平塚総合体育館 (神奈川県) ②秋葉台文化体育館 (神奈川県) ③鎌倉高校前1号踏切 (神奈川県) ④桃原西公園 (沖縄県) ⑤渡具知ビーチ (沖縄県) ⑥辻堂海岸 (神奈川県) ⑦森子大物忌神社 (秋田県) ⑧広島経済大学石田記念体育館 (広島県)下記は、問題になっている「③鎌倉高校前1号踏切 (神奈川県)」のアニメの一画面。10月5日(日) 11:20江ノ島電鉄鎌倉高校前駅周辺での駐車スペースがないので愛車のリンちゃんで出かけた。国道134号へ出て東方向へ走る。浜須賀交差点の西側の交差点を渡り海側へ。正月の”東京箱根間往復大学駅伝”が開催されるコースである。この先の浜須賀交差点を直進すると江の島、鎌倉方面へ。交差点から海側に出てサイクリングロードへ、遠く江の島を望む。この日は風も弱く穏やかな日であったが、海には多くのサーファーが訪れていた。自転車にはボードを乗せる治具、皆さんの自転車は油不足のチェーン。今年の夏は猛暑日が続いていたので久しぶりの海岸である。江の島は気温も上がり少し霞んでいた。汐見台ウッドデッキからの江の島。ビーチにはサーファー。サイクリングロードを東へ走り防砂ネットに「藤沢市辻堂西海岸」と。辻堂海浜公園東駐車場辺り。東方向には辻堂海水浴場が広がる。江の島をズームアップ。この夏には釣り人の水難事故が数件発生した。ビーチにはテントが設置されていた。片瀬西浜・鵠沼海水浴場をズームアップ。手前は「出張バーベキュー 五ろ引網 BBQ太郎」。出張バーベキュー 五ろ引網 BBQ太郎所在地:神奈川県藤沢市辻堂 海岸手ぶらで訪れ、地引網、BBQが楽しめるスポットである。大きな釜で、釜あげしているのであろうか。多くの人が訪れていた。サイクリングロードから西方向を望む。冬場には伊豆半島が見えるのだが。空は秋空になっているがこの日は暑く上着を脱ぎ一枚に。釜あげしたしらすを干しているのであろうか。棒柱の上にはカラスが止まっていた。ビーチには地引網の五郎引丸。烏帽子岩をズームアップ。サイクリングロード脇の砂の上には日傘をさしたカップル。TSUJIDO BEACH夏場は海の家が数軒建っているのだが。ここは”スラムダンクの聖地巡礼”の一つだが。以前はサイクリングロードをレンタサイクルで来る人がいたがこの日は見当らなかった。サイクリングロード脇には砂山。この先の屋根は「湘南・海のちか道」。右側の砂浜は鵠沼海岸。防砂柵があるが砂山に。藤沢市鵠沼海岸柳島 7.7km ←→ 鵠沼海岸 起点 0kmムラサキパーク 鵠沼海浜公園店所在地:神奈川県藤沢市鵠沼海岸4丁目4-1 鵠沼海浜公園 B1区画令和6年(2024)6月1日(土)にリニューアルオープンしたスケートパークである。スケートボードもオリンピック種目になり日本人選手が活躍しているので人気がアップ。幼い子は自転車を特訓。西側からのムラサキパーク。ムラサキパーク入口。スケートパーク入口パーク営業時間 3月、10月 平日 10:00 ー 17:30 土日祝 ①部 10:00 ー 13:15 ②部 14:15 ー 17:30 ※市立小中学校の長期休み期間は入替制による2部営業となります。パーク利用料金 中学生以下 ¥100 高校生以上 ¥400 未就学 無料 利用料金が安い!引地川の河口ではBBQを楽しむ数グループ。江の島シーキャンドル(展望灯台)を望む。多くのインバウンド客が来ているのであろう。片瀬西浜・鵠沼海岸には多くの人が訪れていた。ビーチバレー等の競技を楽しんでいた。片瀬漁港西プロムナード。片瀬漁港。西プロムナードの先端にある「片瀬漁港白灯台」へ行くことに。片瀬西浜・鵠沼海岸を東側から。この方向に富士が見えるのだが・・・。左側奥の茅ヶ崎からサイクリングロードを走ってきた。西プロムナードを歩き片瀬漁港白灯台へ。入口に看板、「お知らせ ”ふじさわ江の島花火大会”の実施に伴い、 表記の日時、片瀬漁港西プロムナードは立入禁止となります。 10月18日(土) 9時~20時頃まで ご理解・ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。」と。片瀬漁港西プロムナード入口。自転車も乗り入れ禁止になっている。釣り可能エリアも記されていたが見落としやすい。12:15西プロムナード入口から片瀬西浜・鵠沼海岸を望む。空は既に秋の空だがまだ水遊びが楽しい気温の日であった。ここまで自宅から約10キロ。 ー 続く ー
2025.10.11
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