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やさしい秋の日差しのもと山旅は嬉し頂上に着いてはこわごわと火口ものぞく座る場所も確保し眼下の紅葉を歓び昼食をとろうとするがーんがーん忽然と予期せぬ爆発まさかこんな不意なる噴火があるものかしかし煙は山頂を覆い始める小石が降り注ぎ岩石も乱れ飛ぶ緑の山は瞬く間に灰に覆われ山頂の人々は灰に窒息し石に打たれ倒れその上にまた岩石が振り注ぎ灰が降り光の世界は変わり闇となる噴煙はやまずはるか彼方へたなびく
2014年09月30日
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療養中の家族と一緒に生きること神様からの召しとしてまた特権として求められる資質はやさしくあることただそれだけ
2014年09月29日
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千秋楽を終えて、白鵬の優勝で結末。白鵬が負けて、新入幕力士と優勝決定戦などとなったら、横綱の誇りが許さないだろう。こんな真剣勝負は相撲人生の中でもそんなにはないと思われる。白鵬はいつも立派だ。横綱を張る前の白鵬は、りりしかった。キラキラ輝いていた。横綱になってからは少しイメージは変わったけれど日本の相撲をずっと背負い続けた。たった一人で横綱街道をとぼとぼと歩いた時期もあった。何度も何度も優勝を続けた。勝利も記録も忍耐強い精進の当然の結果だから周囲がほめそやしても、舞い上がることは無いのだ。人気先行してつぶれる力士とは根本的に違う。白鵬、いつもありがとう!
2014年09月28日
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ボクの66回目の誕生日は愛する息子、孫の納骨の日。良い天候に恵まれ箱根山麓を三島側から登る。教会の人たちと一緒に。ボクは一番好きな息子の写真と孫の写真を持参した。あなたは確か去年の今頃期せずして家族でそこを訪れ草取りなどをしていたというそんなあなたが、そのなきがらをそこに置くことになろうとは。きっと神様のご計画のうちにあったことだ。そのように何もかも準備されてあなたは天の人となったのだ。幼な子のなきがらは、あなたの壺に入れあなたがたの骨は一つに混じり合ったよ。あなたはきっと喜んでくれるね。きっと愛する主と共に見下ろしていたね。
2014年09月27日
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今日は電車の中で聖書を読んだ。それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」「いいえ、何もありませんでした」ルカ22章35節(新共同訳聖書)今までの歩みを振り返らされた。ほんとうにそうだ、と思った。教会にお仕えした30数年の間不足したものはなかった。わずかな信徒さんの集う小さな教会からスタートして、辞するときも、相変わらずで、数字だけをお話しすれば、がっかりされるかも知れない。しかし信徒さんたちとの交わりはそれはそれは豊かなものだった。心の中に隠されているものは目に見たり、出して見せることはできなくてもいつまでもキラキラ光り続ける。それを天の御国へ持って行く。
2014年09月25日
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教区の聖会が持たれ、出席してきました。講師は村上宣道先生いつまでもお変わりないすてきな先生です。もう80歳を過ぎておられるはず。お話も具体的、わかりやすくて心熱く語られ、一同深い感銘を受けました。う~ん、この聖書の箇所から、こう語るのか!聖書の読み込みの深さそこから信仰の本質に会衆を導いて行かれます。午前の聖会の後、辞して母と2人で駅に向かいます。1キロほどの道のりを歩きます。去年もこうして歩いたっけ。母は、去年よりもいっそう腰を曲げ、杖を手に一生懸命に歩きます。もう86歳です。駅前でラーメンを啜(すす)りました。「2人での食事、久しぶりね」母は子供のように顔をほころばせます。ほんとうに母と外食した記憶はありません。一緒に総武線各停に乗り、ボクは船橋で降りました。
2014年09月23日
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書類を片付けようとしても1枚1枚確かめまたは思い出にふけったりするものだからなかなか片付いていかないまてよこのまま放って置いてもいいのかもしれない時が来たら息子が一挙に片付けてくれるだろうそれまで待っているかいやそれでは自分の気が済まないまてよ自己満足かもしれない
2014年09月20日
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教会のお仕事から引こうと妻から控えめに声をかけられたあの時初めてのように、わが身を振り返った。30数年、一つ教会で生きてきて「井の中の蛙」から抜け出すチャンスでもあった。あれから新しい住まいを与えられ、病める妻に付き添いながら生きて今日を迎える。本質的には変わっていない自分だけれどそれでも、自分を知る3年半でもあった。本当に妻の声に従ってよかった。妻の声は神の声。
2014年09月19日
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教会にお勤めした時代を回想する。あのときもう少し押していればという思いが去来する。あきらめが早い。愛情が薄い人間というのがわかる。
2014年09月18日
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パソコンのディスプレイに蚊が止まった。パチン!血潮を吹き出してつぶれる。デング熱を持っていないよな?
2014年09月17日
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臨死体験をテーマにしたテレビ番組を見た。「死ぬ時に安らかな思いをするようにできている」動物実験でも確かめられるとは驚いた。自分の体を抜けて上から見ている。お花畑を歩く。光輝く中に偉大な存在と会う。生還者は証言している。脳のある部分がそういう経験を司るという。至れり尽くせりではないか。で、結論経験の意味づけはその人の信念にゆだねるほかはないというものだった。
2014年09月16日
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今朝はドラマの後、脚本家とナレーターの対談番組が放映され妻がさらに夢中になりそうな「花子とアン」。ボクたちの家庭礼拝の時間が削られたなど前代未聞。それは、よく練られた、すてきなドラマだとは思うが。も少し、キリスト教色を出した方が正確なような気がしている。花子もその主人もクリスチャンだったはずだ。
2014年09月15日
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ボクたち今は3人家族ですが今日は家族で柏市北辺の「あけぼの山農業公園」に遊びました。春に行った「防災公園」をはじめ、柏市には広々した公園があります。キバナコスモスの畑あり一面の黄色と山吹色初めて訪れる人はあっと驚くでしょうね。ただ普通のコスモスのようなナイーブさには欠けるかな?隣にコスモス畑も並んでいますが、咲き方は今ひとつ。も少し秋が深まったらまた訪れましょう。
2014年09月13日
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午前中、事務所にでましたが地下駅から地上に出ると土砂降りです。30メートルも歩かないうちに靴の中に雨水が入り膝から下がぐっしょり!少しでも濡れないように傘を工夫しカバンを抱えて、一所懸命に歩いて事務所にたどり着く頃は、雨脚が多少収まっていました。まもなくやってきた同労者と、2人で仕事をし、帰路についた夕方は、雨もほとんど止んでおりました。「再臨待望」紙が届いていたので、巻頭の田辺誠一先生の説教を読みました。素直にみ言葉を喜び幼子のように主を愛する素敵な牧師さんだと思いました。頁を開くと横山義孝先生の説教が載っていました。教会にお勤めしていた時代特別伝道会の講師に来ていただいたことがあります。「忠実な良い僕だ良くやった」という題の説教です。先の田辺先生の説教の3倍の分量があります。説教のテキストに対する標準的な説教でしっかりと語られておりました。さすが御大だな!ボクにも「忠実な良い僕だ良くやった」とイエス様が言ってくださるかな?わかんないやおまかせしよう
2014年09月11日
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34歳10ヶ月での心臓突然死だれよりも元気はつらつだったキミ原発放射能禍だったかそうでなかったかそんなことはボクにとってはどうでもいいキミは帰ってこないのだから
2014年09月10日
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9月から1日1説教を読む志を立てた。今日で10の説教を拝読したことになる。1時間の説教も、活字にすると半分以下の時間で読める。今日は手島郁郎の説教を1つ読んだ。電信柱に「生命の光」という機関誌がぶらさげられていたのでいただいてきたのである。その説教を読むと、ポイントが明確で、心に響いてくる。人を惹き付けるツボを心得ている。「私たちに神の生命が注がれると、内側から信仰の花が咲くのであります。」こんな表現は抒情的でさえあり、わかりやすく、人を惹きつける表現だ。ただ、自己顕示欲の強い人だとも直感する。説教を読んでからネットでこの人のことを少し調べた。当時の内外のキリスト教界の、ずいぶん沢山の人とかかわりを持った人だとわかった。そして大変な苦労人だとわかった。「聖霊の愛」が、手島先生の信仰の本質らしい。心に響く部分は大いにある。
2014年09月09日
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今朝読んだ聖書で、妻としみじみと語り合う。第2コリント書10章17節で、パウロは「誇る者は主を誇るべきである」と書き送り、自己を誇ることを戒めている。しかし11章16節で「愚か者扱いにされてもよいから、わたしにも少し誇らせてほしい」と書く。パウロはそれから延々と書き連ねる。自分がこれまでどれだけキリストのために苦しみを味わってきたかを。キリストのために苦しんだ宣教師としての歩み、パウロは当たり前と思ってか、これほど書き連ねたことはなかっただろう。愚か者のように、あえてパウロはそれを誇る。パウロのその思いを、ボクたちはしばらく一生懸命に考えた。きっとコリントの教会の人々は、パウロを軽んじていたのだろう。パウロは自分を真の宣教者、使徒として認めてほしかったのだろう。そしてこのパウロの「誇り」についての言及は、12章の有名な「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」(9節)につながっていく。パウロは心の中を惜しみなくさらけ出す人だ。悲しみも痛みもありのままにぶつける人だ。
2014年09月08日
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「人の子は安息日の主である。」こう言い、イエスは安息日の教義を乗り越えておられる。「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」申命記の中にある律法だが、モアブ人のルツはその信仰のゆえに、上の律法に反して主の会衆に迎えられている。人間中心と言うべきだ。人への思いは、教義を乗りこえることがある。キリスト教徒として生きてきて間違いではなかった。
2014年09月05日
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昨日は息子のSR500というバイクを借りて訪問。走っている時は、自動車を運転しているのと同じ。停まると、思い鉄の塊に過ぎなくなる。原動機付自転車のようには行かない。停まる時もまさに自動車のように扱う。そろそろと、辺りに気を遣いながら急ハンドルにならないように。せせこましい自転車置き場には入れない。倒せばまず起こすことはできない。思うにバイクもある程度以上の重さになれば自転車のようにひょいひょい走れない分、自転車よりも安全。自転車というものは、行動を予測できない乗り物で危険と言えば一番危険な乗り物だ。バイクとは本来ゆったりと乗る乗り物である。渋滞をかきわけ走るというのは邪道だ。(写真はSR500 ウイキペディアより)
2014年09月03日
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久々に夏のような秋晴れだったのでバイクで信徒さんを訪問した。都内の方角にバイクを走らせるのはつらいが、我孫子方面へのお使いであり、渋滞もなく快適。友人の牧師さんからの依頼を受けての訪問である。あらかじめ訪問を伝えていたので80歳を過ぎた女性が待っていてくださった。真新しい老人施設の個室に招かれ、お話、聖書を読み、賛美を2曲ほど一緒に歌う。「バイクでいらしたのですね?」バイクでは来て欲しくないと言われる。「では車ならいいですか?」車でも来て欲しくないと言われる。「では電車では?」電車なら安心して待っていられると言われる。ご自分の息子さんでも、車で来るとわかると、来なくてもいいと伝えるようだ。そうかボクの大好きなバイクも、人には心配をかけているのだ。母は、「バイクでは事務所に行かないで」という。妻も、「歳を考えてもうやめたら」息子も、「125CCはやめて、カブにしろよ」娘も、「まだバイクに乗っているの?」そうか!だめか?どうしよう神様にささげるべきか?
2014年09月02日
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