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2021.04.14
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「私」

1963年2月5日(火)PM7:30 前本部教会
 (第15回、全国伝道師修練会、開会式の御言)


 全部で何人? 約30何人? 大多数のここに集まった人々は、若者です。大多数が30未満の人間ですが、この若いということはハアハアと勇猛で、正しくないことを見るとじっとしていられないのです。義憤心が強いということが青年期の特質です。

 青年期には義憤心に燃える気質を育てよ

 この義憤心をうまく用いたら国を生かし、さらに素晴らしく用いれば世界も生かすことができるのです。ですから今、協会長も話されましたが歴史路程の闘争時代を経てくる時に、戦争において戦う時に、私が多い人間であってはダメなのです。

 我々の国が立てようとする正義の主権を、この天地の前に立てるために義憤心に燃え、この正義の主権の前にそんなもろもろのことがあれば、じっとしていずにこれを撃破する責任を負い、第一線に勢いこんで出て行く勇猛なる気質が、若者というものです。ここにはそんな若者が集ったのです。

 ですから勉強する時、あるいは私生活において、すでに協会長が話されましたが、いろんな苦情はむろんきっとあるでしょう。これはあったとしても、このような生活上のことは・・・。皆さんが今、生活的な面においてそんな苦情があったとしても、我々がここに集まった目的は、皆さんの個人的な義憤心を育てるために集まったのではありません。我々の団体的な義憤心を育てるためです。

 千人、万人の共同目標を代身して行くのですから、この目的を達成するために用いるという義憤心を・・・。皆さんが人それぞれの個体の義憤心があったとしても、全部ひっくるめて括る公的な義憤心に燃える男、あるいは女として造る道場がここです。

 皆さんがここに来る時には、いろんな事情で来たのです。また八道山河、数多くの所から集まって来ましたが、事情も違い、風習も違い、いろんな生活感情が違うところがあるでしょうが、これを全て忘れて下さい。今ここで指導する目標を中心に一時を迎え、素晴らしい義憤心をもって、世界の前に号令する自分自身を捜すために、自分自身を発見するために来たということを肝に命じて下さい。分かりましたか?「ハイ」お願いします。


 修練生が留意しなければならない点



 「あ、本部に来てみると本部の方たちは、統一教会の全体の理念を指導する人たちなのだから・・・」と皆さんが願っている基準以上のものを求めて来るのです。また、大きな抱負を抱いて来るのです。

 また大きな抱負ということは・・・。皆さんが修練を受けるために、そんな抱負が必要なのです。皆さんが抱いている抱負、本部に対する信頼心というか、あるいは信じている寄与の心、このようなこと、今まで抱いていたものをいま一度、修正しなければなりません。いま一度修正しなければならないのです。

 本部の人たちが皆さんに対して、反対のような現象として接するかも知れません。相反する面がないとも言えないのです。しかしながらこのような問題があったとしても、じっと耐えなければなりません。またある時には先生が、時には誰かをして手あらに扱うのです。祖母のような人に対して孫のような人が、目下のように腹を立てたり、そんなことも時にはあるのです。いつ、どんな人を通して、その人を試験するかも知れないのです。

 ですから修練を受けるなら、口はつぐまなければなりません。口はつぐみ、目は下に向け、耳はふさぎ・・・。目をあけ、耳をそばだて、口を開く時は御言と、あるいは直接に指導者と関係する時に開くのです。こうすれば無事通過するのです。

 ですから聞くに遅く、見るに遅く、話すのに遅くして・・・。自分を中心にして、そのようにやっていって、自分を中心にしていったら問題が生じるのです。それゆえ私を忘れて、全体のために生きるという観点で行かなければなりません。

 こんな立場に立ったなら 本部に多くの人がいたとしても、その数多くの人たちが修練生を見る時に、彼らが自分を中心としている修練生ではなく、公的な修練生として認めるようになるのです。しかし公的は立場に立てない時には主管するのです。忠告もするのです。

 忠告する時はあらしのような忠告もするし、容赦ない忠告もしなければなりません。また忠告をする人、忠告をされる人も、公的という厳粛な課題の前に頭を下げなければなりません。忠告する時はアボジを代身し、忠告を聞く時は子女を代身して聞くという心に皆さんがなったなら、この環境がどんなに厳しくても、越えてゆくことができるのです。分かりましたか?「ハイ!」

 ですから今ここに来て環境が違っていても、この本部に信望を抱いて来たのですから、双眼鏡で見回してアラ捜しをしてはダメです。みな解き放すのです。このようにしてみな解き放って・・・。今からもう一度言うことは公的な基準に立って、大衆のためにゆくということです。結論はこのようになるのです。自分のためではなく、大衆のための私。このような立場でゆけば、どんなに厳しい立場に立ってとしても、私は公的な問題に責任をを負っているので、どんなに不平があったとしても公的なみ旨を立てるためには、難しい事があってしかるべきです。ここに抗議するなら「この野郎!」というのです。こんな境地になれば、今まで先生が注意した課題をさっさと蕩減することができるのです。分かりましたか?「ハイ」公的な基準を中心とする私、こんな境地に立てば・・・。公的な私の立場を捜し立てるために、休むことはなりません。


 公的な私にならなければ

 今日この大宇宙を見回す時、この大宇宙には完全に公的なものがあるかという時、答えることができるでしょうか? 完全なその何かがあるのか? 今日我々が暮らしているその環境がそうであり、今日の社会的な現象がそうであり、あるいは歴史的な過去がそうであり、今日の時代的な現実がそうであり、ふたたび求める未来がそうであるでしょうか? 公的なものの中の公的なこと、この公は天が公認し、地が公認し、万民が公認し、過去現在・未来が公認する存在の数多くの実体が、永遠なる目的の実体と同じ公的な存在であると認定することができ、またその価値においては無限なる価値に代えてもなを余る公的な実体であると公認することのできる何かがあるかといえば、これがないというのです。 ですから最高の公的なそれが現れれば、宇宙はいっぱいになるでしょう。最高の公的なもの、万民が苦待するもの、誰もが良いという絶対的な公的なものや人、この公的なものの中にはみな入ってしまうのです。公的な仕事、公的な人、公的な言葉、公的な善、公的な希望、公的なことはみな入ってしまうのです。それである公的な世界において、奪うことのできないそんな最高の公的基準が 天地の間に興らなければならないのです。もしもこれが満たされる日には、この世は自分のほうに来るのです。

 このような基準が成っていないので、今日我々がこのような公的な問題をおいて、個人としての教養を高め、家庭としての教養を高め、社会生活においての教養を高め、国家なら国家においてある主権を中心に、政策的な基準において国民性を改造してゆくのです。これはみな何でしょうか? ついにはこの天地の間に一つしかない最高に公的なものにみな入ってゆくのです。これを残すためなのです。

 それではこのような大宇宙の公的なそれと、すでにお話した公的な誰? 私。問題はここにぶつかるのです。公的なそれと、私。このような問題にぶつかるのです。



 それゆえこのような基準において、公的な基準において皆さん自身を立てる立場に立って下さることを願うのです。ですから大多数の人々は、3日の峠を越えるのに骨が折れるのです。この3日の峠をさっと越えたなら・・・。3日間は複雑なのです。その次には一週間、一週間の峠を越えなければなりません。一週間ずっとやれば、勉強する気分がでてくるのです。

 その次には、これが過ぎれば2週間、約2週間すれば・・・。その次には3週、やく20日過ぎれば、皆さんは本軌道に乗るのです。さらには今回、ここに来た人の中で、新しい人が約3分の1程度ですね、3分の1。そんな人たちが集まりましたので、ここの環境を収拾するのにかなりの支障をきたすと見るのです。それゆえここの指導委員たちと皆さんが、渾然一体とならなければなりません。命令に皆さんは応え、指導委員は不足な面を精算して、正しい面を立てるように渾然一体となって、今回の40日修練を立派にやりとげることをお願いします。おおよそ分かりましたか?「ハイ」また指導委員たち、分かりましたか?「ハイ」


 生活の中で感謝の暮らしをせよ

 それでは今から先生がお話することは何でしょう?「皆さん自身」このように語れば誰でしょう? 私という話です、私。これについて話をしようと思います。さあ、ここに考える青年がいたとします、考える。

 あ、これをお話する前に一言いいます。皆さんいま、明日から水が、ちょっと水がなくなるのです。水が出ないのです。今2階で水がもるので困ったことに生活環境が・・・。明日からは洗面ができません。これを一言つけ加えておきます。先生はこんな考えをするのです。こんな考えをして、こんな生活をする時があるのです。

 人間が最も耐えがたいことは何でしょう? 労働したり鞭で打たれたりすることは耐えるのです。それでは何が最も難しいでしょうか? 最も耐えがたいことは? 答えでごらんなさい。「腹がへって眠くなることです」腹がへって眠くなること。最も辛いことが何かというと、もちろん眠くなることもそうです。最も辛いことは、その中でも腹がへること、空腹の次はのどが渇いても水がない時です、最も辛いことが。

 皆さんはどこに行っても、頭を下げて川の水をゴクゴク飲むことができる環境にいて、その環境は天地の間、どこにでもありますから念頭にも浮かばないのです。きっとそうでしょう。皆さんはだいたい、人間はだいたい「パンのために生きる」と言うでしょう?

 本当は。パンは簡単なのです。パンよりも水を飲まなかったら早く死ぬのです。水が飲めないのが問題です。人間は7割、4分の1は水なのです。渇く時に水が飲めなかったら、腹がへる以上なのです。こんな生活は知らないでしょう。

 監獄生活をしてみれば、とても腹がへるのですが、腹がへるなかで飲んではいけないとなったらですよ。一杯しかないめしと、水を取り替えて飲むのです。それでは若い者が知らねばならないことは「あ、腹がへった時に飲むものがあったなあ、水があるぞ」ということです。皆さん、断食はつづかなくても水さえ飲めば、40日でもやれるのです。



 また腹がすき、のどがかわく時、「アイグ-私は死ぬ!」という時にも、感謝できるものを持っていることを知らねばなりません。これを先生がどのように考えているかというと、腹がすき、のどが渇き、そんな自分が死ぬでしょうか? 死なないのです。それよりもさらに貴いものが私にはあるのですが、何でしょう? 鼻の穴から入ってくるもの。何でしょう?「空気です」分かりますか? 皆さんがそれを持っていることを。そうなのです。

 世の中で最も悪い人間が誰ですか? 最も必要なものを奪ってゆく人間が、最も悪い人間です。最も善なるものが何でしょう? 最も難しい時において、その難しい時に最も喜ぶものを与えてくれることが善というものです。

 では自分の命を維持するのに最も緊迫し、切迫するものが何でしょう? 水よりもさらに、めしよりもさらに切迫するもの? 何が?「空気です」空気。こんな高次的な食物がこの宇宙間に充満して、私のために準備された無限なる糧なのですから有難いことです。 私に怨讐がごはんを与えず、水を与えなくてもかまいませんが、もしも空気まで与えなかったら大変です。このように考える時に、感謝する余裕があるのです。ですから空気を吸い込んでごらんなさい。どんなに素晴らしいでしょう。分かりますか?

 ですから今回、修練生たちにごはんを食べさせず、水も飲ませず・・・。あ、こいつらは今まで・・・。こんな話をすればまたいやになるかも知れませんが、年配の方もおられますが、これが並なのです。平均に扱おうとお話しているのです。淋しく考えてはいけません、これを。このような公的な公約のもとに話すのです。「あ、ごはんも与えず・・」と思うかも知れませんが、めしも食べず、水も飲まないことまで修練なのです。

 穴を何個か掘って、やっと生きられるほどの空気穴を造っておいてみなさい。このように造る訓練をさせてそこにも耐えられ、ここにも感謝できるその何かを・・・。死んでも代えられないものが命、死んでも代えられないものが命であるというのです。

 これは空気が問題ではありません。空気とも代えられない、天下を与えても代えられない、天下の苦痛が侵入できない生命力・・・。そんな場においても感謝することのできるものを持っている人間であるなら、その人間は天下に恐ろしいものがない人間なのです。ないものがないのです。手を差し出せば世界が、天下が巻き込まれて入ってくる生命力を持つ人間になるのです。分かりますか?「ハイ」

 皆さんにごはんがありますか? ごはんがある? ごはんがあれば感謝するのです。ここには水もあり、空気もあるでしょう。ごはんがあれば・・・。水があるでしょう? また空気があるでしょう? 空気とごはんと換える? いいえ。水とごはんと換える? いいえ。このように考える時、我々は富める者です。それだけですか? 太陽の光も持っているのです。

 最も貴いものは安物ですよ、皆さんはそのように分かったのです。最も貴いものは安物だというのです。これが安物だと知ったこの者たちですから、これは悪い者たちですよ。皆さんは水一杯飲む時、、有難く思いますか? 誰がこれを感謝しましたか?

 ここに年のいっておじさんたちも来ていますが、40、50、60年の人生で水一杯飲んで「水さん有難とう」空気なら「空気さん有難とう」太陽なら「光りさん有難とう」と言ってみましたか? 最も貴いものを無価値のように扱う人間は、破壊分子としてこの社会においても、どんな公的な世界においても存在の価値を持てないのです。そんな代物ならそれは悪党どもですよ。これは、皆さんはそうですか? そうではないから修練を受けるのです。

 最も貴いものは太陽の光です。光りがなかったなら、この全ての万物は死んでしまいます。何があるの、空気があるのといって、みな死んでしまいます。空気に対して有難く思いましたか? 私がいつかこんな話をしましたが、お光りさんが、「やあ、ストライキをやろう、人間たちは悪いから。わたしは朝日を昇らせない」とすればみな死ぬのです。

 また水さんが「あ、全てわたしは人間とは関係ない」とストライキをパッとやるときには、人間は死ぬのです。そうでしょう? また米さまが・・・。そうなら借りて生きるのです。借りて生きても有難たく思わないのが人間でしょう? ですからこのようなもの、貴いものをむやみに粗末に扱う者は、悪い連中です。

 それで皆さんはこのようなことをみな・・・。今までがそうですから、これからはそうではないようにしなければなりません。そうでしょう?「ハイ」うん?「ハイ」

 ですから明日から水がないかも知れません。先生も監獄で暮らした時には、水一杯もらうと水一杯で洗面をしたのです。とても貴いもの! 一度やってごらんなさい、どんなにいいか、とてもいいのです。

 水一滴を千金とも換えがたい時に、水一口をもらって洗面をしたら、たらいに適当に入れて温かく洗面するよりももっと尊いのです。一口が・・・。その台所にも水がないの? いまは洗面も・・・。これは本部の一部がこうなったのではないのです。ソウル市でこんな事故が起こってこうなったのであって、水はバケツでくんでやるので、こんなではないんです。

 これを見る時「この人たちはうまくやった。修練の初日から水一杯づつで・・・」という思いをもつかも知れません。これから、明日は水一杯もやれないかも分からない。こうだと、チゲもできないかも知れない。ならば塩がちょっとでしのぐかも・・・。水が出ないなりにしなければ。しかしこのような苦喪があるかも知れませんから、皆さんはこんな生活において、人間が生きる生活において一つのこと、自分の環境を越えてゆく感謝のその何かを発見してゆくことを知らねばなりません。分かりましたか?「ハイ」修練するのです、修練。ですからつけ加えて話ました。

 さあ、これからお話をします。何について話そうとしたのですか?「私について」あ、金さん、朴さん? 何さん? 私のこと。自分。金家なら金家、朴家なら朴家。李家なら李家。この先生のように文家なら文家。自分を中心にして話してみましょう。

 相対の為に宇宙の全存在物を創造された神

 人間を見てみると、耳目を備えた体躯における定数はみな同じです。目が二つ、鼻の穴が二つ、耳が二つ、指が十本。体躯は同じ定数なのです。目、鼻、耳、口、手、足、みな同じなのですが、その内容がさまざまです。あの人も違い、この人も違うのです。

 ですからこのようにさまざまです。持っている数は同じですが、その内容は千、万の違いがあります。それで皆さんの外見は千万の違いがありますが、内面においても千万の違いがあるのです。

 それではこのような数多くの人間なら、人間を中心として「私」はどこに基準を置くのか? 考えてみましたか? 先生がこんな意味で考えてみましょう。「アイグ-、アダムとエバが何だというのだ。人類が何だというのだ、この国が何だというのだ! 自分が先祖だったらどうするか?」ということです。考えてみて下さい、皆さんたち? 考えてみませんか?

 自分が父であれ何であれ、どうでもいいのです。自分が天地の間に目をあげて見て、自分が初めて目を明けた人間なのです。口を開けてみると良い声は出ないでしょう。「キャ-」と泣く時には、悪い声で泣くでしょう。泣いてみれば自分が初めてなのです。見てみれば、動いてみれば・・・。天地の間に自分が初めて行動するなら、どうするでしょう?皆さん、こんなことを考えてみましょう。どうするでしょうか? どうなるでしょうか? どこに、海辺に行くでしょうか、山に行くでしょうか? これはまた、もちろん自然に対してもそうでしょう。この世界に、この絢爛とした天地を見やる時、この天地を中心にして「おお 、このものたちよ!」と号令するか、恐れるでしょうか? このように複雑であっても、とても真摯な事実が沢山あるのです。

それではこのような事はさておいて、私だけが残る時「私」ということは、「私」という名詞を立てる時には・・・。私ということはもはや相対的なのです。そうでしょうか、違いますか?「私」というものは相対的ですか、違いますか?「相対的です」必ず相対を立てておいての「私」なのです。天地を創造したある創造主がこの地におられたら、創造主があったなら、この創造主が「わたしが神様だ!」というなら、ある相対がなければなりません。そのようなものを必要とするのです。

 ですから手が動くということは相対のゆえであり、目が見るということも相対のゆえであり、腕が、足が動くということは相対のゆえです。また分野ぶんやにある目的があるのです。そうでしょう? 違いますか? これが、違う?「そうです」これは否定することができません。相対を必要として、この全ての体の器官がさっと分かれているのです。

 この分かれている器官が統合していって・・・。一つしかない時には「私」という名詞は何であってもないのです。これが実体になるためには、このような器官が合わさって、これが一つの実体として立つためには、この器官のある相対がなければなりません。相対がなければ存在価値がないのです。違いますか?

 手が一つならどうするのでしょう。いくらあっても何をするかというのです。必ず相対的なある対象体が必要ですから、これを相対として動く時に、ここに良くも悪くも価値をおくのです。そうでしょう? 分かりますか?「ハイ」これを、私を中心として現在にいたって、環境的な条件を否定することができないのです。私をおいてみる前に、天地の間に私がまず現れたのか? じっと考えて見てください。これがまた無窮無尽なのです。

 私はどこから、どこから来たのか? 蛙の子から? どこから来たのか? 父母がいないでしょう、私だけが一番初めなら。私とい名詞は存在しないのです。それが何であるか分かりませんが、これがあるでしょう。これがどこから来たのか? 再び考える時に、これは未知の事であるのです。未知の事なのです。未知の事は事ですが、私が来たのです。 来たなら自分が望んで来たのですか? 自分が構想して来たのですか? 目的を持って感情をもって来たのですか? 何もないのです。分からないのです。何だか? 自分が願ったことでもなく、ある感情的な、目的のある何かを必要として来たのでもないのです。 このような事を見る時に、この万有の存在が必ず個体の真理の実体として現れるためには、相対的な基準が絶対に必要だという原則を否定できないので、自分があるための相対の主体は、どこに求められるのか? このような事がまた、考えられるのです。

 ですから相対の主体がなければならないので、私自身が相対の主体となって、相対体になることができるかというときに、これでは満足できないのです。

 ですから今日このような見地で見る時に、ある関係の結実体として、関係の内容を通して、ある関係と、あるいはある内容を通して、現実の目的の結果として、あるいは対象体としてあるべき自分の立場を肯定するならば、ここにおいて私の背後の動機的な、内容的な全ての条件はどこに求められるか? これが今、人間が解決しなければならない重大な問題なのです。生の根本問題が、ここにぶつかるのです。分かりますか?「ハイ」


 動機的な主体である神の前に相対的な存在にならなければならない人間

 過去、過去、過去がない現実、過去のない今日の実存体は、存在の価値がありません。どんなに良く、どんなに素晴らしく生きたとしても、過去のない事実は、過去の自分自身を中心に立証する事実と、そして現実的な全ての環境に価値をおく何かを残さなかったなら、これは何にもないのです。あってもなくても同じなのです。無価値なものです。必要のないものです。そうでしょう?

 ですから今日、自分があるためには前後がなければならないでしょう。そうでしょう?「ハイ」前後、左右、上下がなければなりません。皆さんは知らないでしょうが必ず前後があるのです。左右関係があり、上下関係があるのです。

 それでは自分の周囲に、今まで話したように、自分が対象の実体となるためには、ある動機的な主体がなければなりませんが、その動機的主体が何か? これがあって人間が重苦しい名詞から解かれるのですが、あることはあるので否定できないのですが、それに付けられている名詞が何かというと、ハナニムとかゴッドとか神様とか、いろいろです。すなわち、数多くの人間たちが唱える大名詞を持っているその実体なのです。ですから「ハナニム」と名前をつければ、名は名なのですが、あることはあるのですが内容が未知数なのです。

 これを我々人間が初めにおいてその次に、その次には自分の実体を公認させて、その次には何だか分かりませんが、自分が行かなければならない目的の世界に向かっていま行っているのですが、今までの教養や修練など、全てのものが目的に向かって行く時には、人間を主とするという目的観を中心に来たのではないのです。今までの歴史は神と人間、このように来たのです。

 今に到っては人本主義になってしまっているのですが、、結局はまたそうなるのです。ですから今の主義が何だといえば、一方は神がいるということ、一方は神はいないということなのです。これが歴史的な形態を経ていって、二つに分かれてこのようになっているのですが、結局は今日の人間が真の所望としているこの理想世界が・・・。

 自分が何であるかを知らない過去を捜し求め、本体の前に現実の自分自身を立て、未来のある目的を立てなければなりません。私、ということは必ず、対象的なある目的がなければなりません。目的を中心にして見る時、ここにこの目的が人間を主としている限り、私を主とする目的は、成就しないのです。なぜ? ですからここには歴史的な反応を起こす主人の立場に立つ神が必要なのです。人間が神を中心にして、その次には人間、私を中心にして「私」というこの「私」は、肉を中心にした「私」ではないのです。

 このような背後に天なら天、神なら神を背景にすることのできる相対的な第1基準が、肉体ではなく心なのです。良心を中心として、良心には天があるというのです。天は変わることのない法度圏内の主体なのです。それでこの主体圏内に属して動くことができるものは、変わるそれ自体ではありません。

 人間をおいて、変わることのない自体を捜し求める時には肉体ではなく、目ではなく、耳ではなく、鼻ではなく、腕ではありません。しかしながら人間において、変わることのない一つの何かがあるかという時、これがあったら何か? 何でしょう? 良心です。

 それでは天があったとしたなら、天は必ず良心の橋をかけて、過去の我々の先祖たちから橋をかけ始め、今日まで世界に橋をかけていって、ある絶対的な主体の本体が人間に橋をかけて、絶対的な目的の世界に向かって行く、そんなみ旨があるという考えを持つことができるのです。このみ旨が何でしょうか? 神の目的です。我々の原理でいえば、創造目的です。創造のみ旨です。み旨を立ててこそ目的が成るのです。そうでしょう? み旨を立ててこそ、み旨を立てて行けば・・・。み旨を立てる時には何によって立てる? 生活的な日々に立てなければなりません。日々に立てると同時に、一時に立てる一つ、より小さな何百分の一を瞬間に立てることができ、実績を積む者でなければ、その目的の世界に行くことはできないというのです。分かりますか?「ハイ」そんな立場に立つ私です。 それでは私という存在は、どんな立場に立っているのか? 中間位置におかれているのですよ、中間位置。分かりますか?「ハイ」私とはそういうものです。


 神様と一つにならず混同状態にある現実

 さあ、それでは神様が頬を「この野郎!」とぶたれたら「どうしてですか?」と言うでしょう、言いませんか? 言うでしょう、言いませんか?「言います」あ、素直に話しなさい。「言います」そうなんです。お、もう手足までふるわせて・・・。

 しかしながら殴る時には、自分が良くなり立派になることを願ってぶつなら、ある打つ人間があるとして、100%その人が間近な立場で打つなら、愛する父母がいて息子を殴る時に「このようなことは、私のためを思ってのことであり、私を貴くするために、私をより立派にするために、私を価値あるものにするために、私を世界的なみ旨を抱き、世界的な目的を持つことができる段階まで上らせるためなのだ」と考えなければなりません。背後にこのような大きな意味を持っているのです。

 背後の大きな福の機関、あるいは福の価値の問題を与えるために打ったということを知る時には、鞭打たれてどうするのでしょう? どうなるでしょう? 自分が鞭打たれる痛みよりも千倍万倍、大きな福を与えてくれることを知ったなら、鞭打たれても感謝するでしょう。そのようにする素質がありますか? ありませんか、ありますか?「あります」そのようにする素質のない人は、明日の朝には荷物をまとめて帰りなさい。(笑い)

 ですから昔から言うのに、憎い子には何をあげるのですか?「ごはんを多くあげるのです」憎い子には?「餅です」餅1個よけいにあげるのです。餅ひとつ。「昔から食らえ、こいつめ!」これは早く滅びろということです。孤雲の子女には・・・。昔からこんな言葉があるというのです。これはなぜ、このようになっているのでしょうか。

 鞭をふるって打つ時に、不義の父母の前に打たれる時には、逆らっても天法に外れないのです。不孝をしなければなりません。今日、歴史の終末時代においては孝子・孝女の道理がみな壊れているのです。みな壊れているのです。みな壊れなければなりません。先生はそのように考えます。壊れてしまえ。壊れてしまえ。父母が父母のようではなくなったのです。子女のために鞭をふるって打ったとしても。

 「この子よ。おまえ、自分のめしも稼がないで食うのか?」こんなことはありまん。それはきっと天道に背くことです。今日、家庭が散々に壊れ、社会の我々の趣味がみな破壊されているということは、人間がそうしているのではなくて自然的に、歴史的環境がそうなっているのですが、自動的にそうなることはないでしょう。人間がいまだ理解しがたいある動機の裏面の世界において反応が起こり、現実に現れたことを理解できないのでそうなるのです。ですから散々に壊されてしまうのです。みなそうでしょう?

 真なるものが何でしょうか? 正しいことが何でしょうか? 善が何でしょうか? 力は正義である。この一言が全でしょうか。力というものは、永久なものではありません。真なるものは鞭で打たれても、やられても有難たいのです。不義なるものは貰っても、貰っても憤ろしいのです。このようなことを時には感じますか? ある人が私に何か買ってくれたのですが、分かってみると不義なものだったのです。私が正統な道を歩み、私が本心の良心生活、こんな理論的な自我人格を形成しようとしているのに、誰かが殺人強盗をして大宴会を催してくれたとしたらです。これを食べさせ「どうぞもっとお食べ!」と言われて、いただきますと答えたらですよ。そのざまは、どんなに不義なることでしょう。食べたなら憤懣に耐えないのです。

 ですから今日の社会を見てみると、真なることが真なのか、真ならざることが真なのか分からないのです。父母の名は私の父母なのですが、あなたの父母なのか、私の父母なのか、お祖父さんの父母なのか、曾祖父のお祖父さんの父母なのか、名は同じなのですが、環境が異なっているのです。ここには時間と距離が異なっているのです。異なっているので、このお母さんという名も異なってくるのです。それで今日、これまで全て家庭的に、全部が壊れているのです。社会的な名なり全てのものが、昔には主権者だったり何だったりしたものが、みな力を失ったのです。分かりますか?「ハイ」


 心を中心にして誤った現実を切って捨てる勇断を下せ

 さあ、このようなある流れが自分を伴って流れているのですが、どんな目的の世界に向かっているのか、必然的な途上なのにもかかわらず、今日の現実に面している立場が覆われているので、前を見れば行くべき目的の世界が、どこに行くのかないのです。後ろを振り返っても、動機的な実体はどこに行ったかないのです。それで、前は塞がれ、後ろが塞がれ、ここに孤立している自身をおいて嘆息する嘆きの大声、その声の他には聞こえてこないのです。この声が心を過ぎ、社会を過ぎ、国家を越えて、世界に波動となっている現実であることを、皆さんは知らねばなりません。そうですか、そうではありませんか? そうですか、そうではありませんか?「そうです」

 今日この地上では最後の定着地に向かって、急行列車の速さ以上の速力で、自分の運命を引きずってゆく死の波濤が、自分の尻尾に、裾に、肢体に押し寄せ、押し流しているのです。今は自分が死ぬか生きるかが指一本にかかって、ここに命の綱をかけ、前後左右と避けねば死ぬのであり、最後の最後に来ているということを、世界人類が全て感じる時代的な環境、時代的な環境というより、時代的な刹那に面しているのです。さあ、こんな環境で今、家庭が破滅しているのです。元に戻ろうにも、戻る力がないのです。

 それではこの社会をづっと行って、右側に落ちるのか、左側に落ちるのか、避けることができる方向があるのかということを、誰もが叫び、誰もが深刻な立場でこれを捜し求めているのですが行くべき道、入って行ける道、あるいは左右の道を避けることができる避難道がどこにあるかというのです。

 ここに手ですがり、体でぶつかっているのが、今日世界30億人類の現状であり、ここに集まった過去の皆さんの姿なのです。今日この時間にも皆さんは、このような現象を避けるためにここに求め入って来たのです。逃避して、前後を避けてゆく穴を捜すために来たと言っても過言ではないのです。そうですか、そうじゃありませんか?「そうです」そのような立場の私であるのです。

 それでは、どうしなければならないでしょうか? 問題はここにあるのです。どうしなければならないか、ここで? 一方を切って捨てよ、切って捨てよというのです。頭が障害になったら、頭を切ってしまわなければなりません。足が障害になったら切ってしまわなければなりません。精算しなければならない時が来たのです。

 このような死亡の波濤が押し寄せて来るここにおいて、急流に捨ててしまうのです。ナイヤガラの滝のような運命が押し寄せていることを考える時に、どうするのでしょうか。「水がなくなる。どうか来い」大きな図体をしていても骨髄から全部みんな剥いでしまわなければなりません。縁に、へりにひっつくのです。

 ですから社会生活において正当な立場で全てを得て流れゆく思潮の前に、うらやむ主体的な思潮の立場に立たないということ! どうするのですか? わき道で生きよというのです。でなければ足をすくわれるのです。勇断を下すのです。でなければ行った道を振り返るのです。

 勇断を下そうにも下すことができず、帰ろうにも帰ることができずに、ここに一つの秘法を求めた最後の方法が、わき道を行けというのです。そうする以外のないのです。わき道を行け。私は主流を流れるのではなく、傍流を行けというのです。渦潮から外れて縁のほうへ縁のほうへ流れてゆくのです。このような位置で・・・。これが何かというと、今日この社会的な発展途上で、歴史的な発展途上において、このような類に属している群れがどんな群れかというと、世の中で体をゆすって拍子をとって「エイ、食ってしまえ、エイ、いいぞ」と踊りを踊っている群れではないのです。あなたたちが流れてゆくなら行きなさい。我々はわき道を行く」とそんな道を求めて行く群れがあるのですが、、その群れが何かといえば、人倫道徳を論じ、善の理念を追求して、神を崇める群れなのです。こんな群れが必ず、歴史途上においてなければならないのです。こんな群れが誰かというと、宗教人なのです。宗教人。これは非現実的でしょう。そうですか、違いますか?「そうです」そうだというのです。これが分からなければなりません。

 わき道に送らなければならないのです。わき道を行かねばなりません。行かねばならないので勇断を下し、これをぶち破り、これを全て蹴とばして押し流す能力がなく、入って行く秘訣を知らず、仕方なくわき道を行くのです。わき道を行くので工夫しなければなりません。全部がふたつに分かれているので、ここに山中修行などして・・・。

 いろ恋も知らないのです。宗道の道を行く人々は。妻子も捨てるのです。みな切ってしまうのです。ついには自分の肉をも切ってしまうのです。この腕めというなら腕を切って捨てるのです。腕が怨讐なら腕を切って捨てるのです。こうして殻を脱ぎ捨てて何を?

 心が休まる所を造るのです。今はどれほど差し迫っていることでしょう。じっとしていてもせかれるのです。6・25動乱から、韓国の民はどれほど苦労したでしょうか? みな裸になって、食べず着ないで心が安らぐ所を求めたのです。安らぐ所とはどこか? 急流におぼれてゆくことが最も幸福なのです。

 死亡の途上においてアブラハムがですね、ソドムとゴモラを天が火で審判なさることを知って夜中に逃げ出す時、後ろを振り返らないでわき道に引っぱったのです。

 腐敗した環境を収拾できる宗教指導者を信じ従え

 このような事をなして今日・・・。ある主人がいたとしたなら、この主人の目的が成されるその過程的な途上においては、時代、時代に従って相ぶつかる面が必ず起こって、ここから後退したのです。これから逃避作戦をする方法を今日、人間に暗々裏に提示することがなければなりません。

 このような道が歴史を通してあるかというとき、これが宗道だというのです。この道、こんな宗教という名詞を中心として、人間をして逃避という方法の内容を説明する形態があるのですが、今日の歴史過程においてきっと人間の背後で摂理され、人間を逃避させるひとつの方便を立てる、私以上のある存在をあるということを否定することができないのです。分かりますか? こんなお方が神なのです。「あハ、神様とはそうなんだ!」

 ですからどの時代であっても危機に逢着すれば逢着するほど、預言者が現れるのです。時代、時代に必ずそこには指導者が現れるのです。腐敗の一路で終わるのではなく、腐敗の場において改革がなければなりません。革命を起こす新しい一族を中心として、その道はわき道を行くのです。今日も自由党の時からわき道を行くでしょう。神もふさぐことができません。しきりと引き寄せられるのです。このようにしてわき道を行って、しっかりつかまり「洪水が襲っても流されないぞ」としなければなりません。ここで始めて流れていっても、その立場から四方を収拾していって、理念をつかんでゆこうとするのが宗教理念なのです。

 このようにして宗教理念を中心として、最後に人類を・・・。人類歴史上において世界的な指導者が現れなければならないことは無論ですが、今日このような理念圏内の分別された立場において、自分自身の信念を立てて、その環境的な立場がどんなに難しくても、ここに侵入を受けることなく、この環境を収拾することのできる理念的な宗教指導者が必要なのです。

 世界的なこの理念的立場において、万民が流れゆく激流の途上で逃避して、自分が始めて天宙と共に一つの目的的な対象の実体となって、ここに自らの価値を立てた後に多くの実績の道理を立て、満宇宙の前に新たに現れる存在を天は必ず必要とされるのです。ここに必要な存在が何であるかと言えば、宗教的な世界的指導者なのです。このようなお方が何かと言えばメシヤであり、このような思想がメシヤ思想なのです。分かりますか?

 ごらんなさい。今や神がおられることが分かったでしょう? こんな因縁が歴史途上にあることが分かったでしょう? こんな因縁が歴史途上にあるなら、ある文化歴史途上の世界史の中でこのような動きがあるなら、神の実存を否定することができないのです。

 神の実存を否定することができないなら、神が要求している人間が必ず現れなければなりませんが、この人間を中心に見る時、この人間はどんな人間なのでしょうか? この人間がどんな人間でなければならないかと言えば、人間自体が自分の代身の中心体であると願っているお方でなければなりません。自分がこのお方にのみ従っていれば過去を知ることができ、現在を知ることができ、未来を知ることができるのです。分かりますか?

 このお方にのみ従っていれば上を知ることができ、このお方にのみ従っていれば下を知ることができ、左右を知ることができるのです。そうなのです、これが。


 神の創造の動機は善だが人間出発の動機は悪

 「私」というものは絶対的な因縁の中から外れたら、絶対にいけないのです。自分が外れたら主体も、私を中心とする絶対的な存在となるはずのその主体も、私によって無価値になってしまうのです。

 こんな見地か見てみるときに神も今日、動機と結果のそんな世界に向かって摂理されておられるのですが、ここではそれは没落的なのです。全部この世界は願わざるものでしょう。これは喜びではありません。喜びですか? 喜びではありません。悲しみです。

 人間始祖が生まれたその日から、これまでの全ての夫婦が喜びの夫婦ではありません。喜びの夫婦ではないゆえに、喜びの家庭ではなく、喜びの家庭ではないゆえに喜びの社会ではなく、喜びの社会でないゆえに喜びの国家ではなく、喜びの国家ではないゆえに喜びの世界ではないのです。喜びの世界ではないゆえに、喜びの天地にはなれないのであり、喜びの天地になっていないがゆえに、神も結局は悲しみの神様になっているのです。

 それでは悲しみで終わることが、宇宙創造の動機でしょうか? 動機はそうではなかったのです。母親がおなかの中に幼子をはらんだ時に「お、このおなかよ! どうしてこんなにふくらんだ?」と言う? どうですか? 悲しいですか、嬉しいですか? さあ、娘さんたち? とても深いみ旨の因縁の中で、「おまえでなければあたしが死ぬ。あたしでなければおまえが死ぬ」と言うのです。二人はひとつ、ひとつが二人、あなたはわたし、わたしはあなた・・・。そんな中でおなかでやや子が動いて、だんだん大きくなるおなかを見やる時、そのお母さんやお父さんが気分が悪いという人間がいるでしょうか? どんなにかたわであっても・・・。

 私が一度、こんな事がありました。見るとですよ、腕はきかないで、口はゆがむだけゆがんで、目はちんばで、歩く姿は覗き眼鏡で見るようなのです。八道山河いろとりどりの人以上です。研究してみればとても興味ある人間がいるものです。またこんな老いた男がいました。老人がそうであり老夫人がめくらという人たち。彼ら夫婦にできたおなかの子供に対して「老夫人もおなかに赤子がいるのは良いですか?」と言えば「ほほ、われ知らず心がうきうきするのです」と言い、その女性もかたわなのですが「おなかにいる赤子のことを考えると嬉しいですか?」と言えば「嬉しいものです」というのです。「あなたのような息子娘が産まれたらどうしますか?」といえば、そんなことは考えもせず、とにかく良いというのです。そんなものなのです。

 ですから人間がおなかから産まれてくるものをじっと見る時、誰かれを問わず父母の立場に立つ人間はみな良いというのです。独り者は知らないでしょう。一度結婚してみなさい、そうか、そうでないか。何だかんだと説明はしませんが、動機は良いのだが・・・。ところで産まれて見れば「アイゴ-!」生まれてみれば、悲しみのこの世に生まれたことが恨となるのです。

 同じように神も人間を創造する時に悲しみにひたり「アイゴ-、この世の中よ! とうとうこれが・・・。アイゴ-胸が! 大変なことになった! アイゴ-、悲しみよ!」と涙をぼろぼろ流すために創ったのですか? 神様がおられたなら、創られた全てにご自身の情熱が・・・。一つ造り、二つ造り、千々万々の数が生まれてくるに従って、そこには神の事情が通じ、神の心情が伝わり、心情が伝わるのみならずご自身の全てがどっと止むにやまれず・・・。味でいえば最高の味なのです。虎が腹がへっている時に兎の子をつかまえたらパクと飲み込む、それ以上に腹のすいた時に素晴らしい山海の珍味に出会ったよりも・・・。

 このような喜びがそこに潜んでいれば、神もその難しい創造の全てを・・・。そうではありませんか? もしも神がおられるなら、その神はどうして創ったのか? 悲しくて創った? 悲しくて創った神ならば、罰を受ける神です。そんなことはないというのです。天とはどんな天か? この創造主がおられたなら、創造主は出発当時から悲しみの動機を抱いていたなら、その悲しみの動機を持つ神であるなら、人間とは何らの関係もないのです。怨讐です。

 これを考える時にどこまでも善、善を求めたのです。善を主とする限り、このような原則の論理は否定することができないのです。そうではありませんか? ですから動機は善なのです。動機が善なのですから、過程も善であり、過程が善ですから、目的も善であるはずです。

 人間がこのような立場に立ったなら、人間は苦しみの中で生きるのではなく・・・。ここにおいて動機は善なのですが、神が人間を創られた創造の動機は善なのですが、人間の生活の出発と生活の動機が、善で出発したのではなく、悪において出発したのです。分かりますか? 人間の生活の動機と出発は? 悪!

 ですから人間の動機と出発は、生活的動機と出発は悪から始まったので、喜びの日から始まったのか、悲しみの日から始まったのか? 悲しみの日から始まったのです。人間の動機が悲しみの日となったので、悲しみの日から始まったので、悲しみの自身を持つようになったので、個人的悲しみは家庭的な悲しみに移され、家庭的悲しみは民族的悲しみに移され、民族的悲しみは国家的悲しみに移され、その次には世界的な悲しみに、このように広がってきたのです。

 それではひとつの最後に勝利することのできる、歴史途上において最後に残ることができる、喜びのひとつの主権を取り戻すその日が来てこそ、神が喜ぶことのできる時が来るのではないでしょうか? 常識的に考えても、このように考えることができるのです。分かりますか?「ハイ」

 どこから出発したのですか?「悪から出発しました」悪で出発したので、何から? 悲しみから始まったので、人間は世界性をおび、人間は世界と関係を結び、世界的な因縁を持って、神の大創造の目的と共に関係の途上を抜けることができない、そんな本性的な創造の因縁がありますから、その本性を離れることができないことによって・・・。人間が個体から始まったことは、世界性を必ずおびなければ解決できないので、個人的悲しみは宗族的悲しみに、宗族的悲しみは民族的悲しみに、だんだん大きくなるのです。民族的な悲しみは世界的な悲しみの段階に向かって・・・。


 メシヤ思想を信じて新たに出発する人類

 人間には喜びを保有することのできる内的な基準と、悲しみと接している外的な基準があるのですが、肉体は悲しみに接していて、内的な心は喜びと接しているのです。喜びと接する時にはどのようになるのでしょうか? 歴史的な因縁と接しようとするのです。これまでのその国の国法があるならば、国法を中心としてそれはダメと言えばですよ、新しい時代が来ても、良心は過去の法を中心として認識されたその基準を中心に「やってはならぬ!」と言うのです。肉体はこの心に反対して相ぶつかる立場で、体と心の世界が二つに分かれて興り、一方は内的な世界観を中心としているのであり、他方は外的な世界観を中心としているのです。一方は物質を中心とした世界であり、他方は心を中心とした世界です。このようになっているでしょう。分かりますか?

 それでこれは何ですか? 世界的に見る時、これが範囲が大きくなっただけで、人間個体は本来、世界的な代表者です。世界的な代表者ですから、世界的な代表型ですから、自分の個体として見れば、一方は体の代表者であり、他方は心的な代表者です。一方は唯心史観であり、他方は唯物史観を中心としてぶつかっているのです。体と心が闘っているでしょう?

 このような歴史的な途上において今まで、体と心が闘争してきたことが、世界的な闘争現象として起こってきたのです。一方が受け入れられないのです。共産主義がやろうとすることは、民主主義の全てを願わないのです。民主主義がやろうとすることは、共産主義の全てを願わないのです。自分のような外的な形状の実体性が、世界的な代表型として生まれたのです。分かりますか? このようにして悲しみから出発した人間は、世界を中心にして必ず分かれてゆくのです。二つに分かれるのです。

 いま一方の基準が完全に立たなかったなら、みな二つに分かれるのです。一つの完全な基準を立てるには、合わせるか分けるかしなければなりません。分けようにも分けようがないのです。民主主義をおいて見る時、唯心史観を中心とする絶対的な心の基準が何でしょうか? ないのです。絶対的な基準が何か? ないのです。ないので仕方なくここに真の心の人間、真の体の人間を標榜しなければならないのです。分かりますか?

 このような内容がありますから、この史観的な現象を見てみる時に、神はこのような歴史的な終末が必ず来るということを予想されていたので、地上に初めて指導者、救世主を送られようとするのです。救世主。分かりますか?「ハイ」ですから救世主思想が現れるということは不可避であることを、知らねばなりません。

 それではどのようになるのか? この救世主思想が現れれば人間はみな・・・。このお方の心からにじみ出る御言があり、御言を通して成す生活的な舞台、また御言を通して成す理想的生活環境などが・・・。ですからこのお方の良心を通してにじみ出るものは、天と地の因縁となるのです。神が、神が役事されるでしょう。神は再び壊されるのです。裂かれるのです。右足はすでに出発しているのですが、左足が行く目的はどこに? 完全な人間をぐっと踏みしめて越えてゆくのです。人間を支配して越えてこそ、神が神となるのです。

 その人間はどんな人間か? 世界を与えても、今までの堕落した世の中の数多くの人間が抱くある主義、主権や、ある国民や文化など、全て与えても取り替えることができない人間なのです。

 ですからこのことによってそのお一人だけ・・・。世界は瞬間にこのお方によって、神の前に全て支配を受ける圏内に入ってくるのです。ですから絶対的な基準によって悪を処理することができる宇宙の中心が生まれるのです。完全な宇宙の中心たる私!「私」が成るのです。分かりますか?「ハイ」


 メシヤは人間の前に最後の理想的な見本

 この一人の方の心をつかめば、自分の心の歴史的な苦痛の日々を全て除き、所望の自分の個体から、所望の家庭から所望の・・・。所望の民族から、所望の国家から、所望の世界性を帯びてくるそんな喜びの対象の実体と化して現れる化身体が、救世主なのです。体を通して今まで苦痛を受けてきた、今まで悲しみつつ継ぎはぎしてきた、このような個人的な苦痛を避けようとして、家庭的な苦痛、宗族、民族、世界的な苦痛を避けようとしてきたのですが、避けることができなかった全ての事実が、この方の体と共に接することによって、世界的な苦痛を避けることができる化身体であるこの方を求めれば、宇宙の私を発見するのです。過去に失った私個人を捜すのであり、過去の我々の先祖が個人を失ったことを、私が復旧することができるのであり、過去の我々の先祖の家庭、民族、国家と世界を復旧することができるのです。今までの数多くの先祖たちが所望としてきた、その所望の実体と接する人間は、そのお方を持つ人間は、この歴史を全て完成する実体として、勝利的な実体として現れるのです。今まで天は「この一人の方を捜すためには、全部捨てよ!」とされたのです。その一人のお方は数多くの、今までこの悪なる世の中において、数多くの人間を犠牲にされたその上に来られるお方です。このような私・・・。

 皆さんがこんな立場に立って必ず、出発が善でありますから、過程が悪であったとしても目的は善でなければならないでしょう。神がいるなら、神が構想された実体を立てる時においては間違いなく善の実体として立てられたのですが、善の実体にならずに悪の実体になってしまったので、悪の実体を整備して、これを再び修正して再創造されるまでは、神は喜びの心を再び犠牲にすることができないので、復帰途上において今まで再び救援という苦しこを立てて来られたのです。他人を救うのは苦しいことでしょう? 罪人を救うなら罪の場に入らねばなりません。糞溜めにはまった人を救うなら、糞溜めに入らなければなりません。みな入らねばなりません。入らねばならないでしょう。ですから神は今まで最高の苦労の王者として君臨されたお方なのです。

 それではこのみ旨に従ってきた、数多くの先知先烈たちはどうなったのでしょう? 全部が死の途上においてさまよい、我々後孫たちの前に最後の遺言を残すに、善は勝利するといい、天が共におられることを信じて叫んだその目的は、今日始めて最後の一人のお方によって歴史的な実が結ばれるのです。ですから、その実が結ばれて始めて完全な秤が現れるので、にせの秤は・・・。にせの秤が多いでしょう!

 完全な秤が現れる以前は、原器、原体、原来の秤がありませんから、偽者がみな本物の役割をしましたから、元来の完全無欠なる天地が公認する秤がさっと来る時には、これを中心にして偽者を全部、追い出すのです。

 これが人間の理想的な最後の標本、見本なのです。型、何かを刷る時の原型になるのです。このお方が来られたら、このお方に似なさい! このお方はどのように来られるか?神の心の相、心相の存在から出てくるのです。神が天地を創造される時、善から出発されたのです。人間が生活的な基準において、出発と動機が悪ではないのです。元来は善でありますから、本来の人間が堕落する前、人間を創造される前の構想から生まれたお方が、そのお方なのです。そのお方を持ち上げて議論すれば、このお方は神の創造理想、相なのです。形相、構想のその本質、構想の本質の中においてなければならない本来の人間なのです。

 偽者である私は悪の武装体

 ですから今までの人間は全部、偽者なのです。ここに宇宙の人間から滲みでて、この天地-天地人なのです、天地人ー天と地を中心として、人間として初めて価値をもって、天地の前に初めて四方に羽を開いて、上下を全て動かすことができる価値的な使命者として来られるお方が、このお方が誰かといえば、すでにお話したように自分があるために必要な理想的主体の代身者なのです。分かりますか?「ハイ」ですから皆さんは偽の私です。偽の私だというのです。それで、皆さんはどんな私ですか?「偽の私です」何の私や?

「偽の私です」何の私?「偽の私です」何の私!「偽の私です!」偽の私! 優れていようとなかろうと全部、偽の私なのです。偽者ですよ。であればどうなってるの? 見れば目玉の上に角が生えて、鼻の穴に鉤をつけて、口にはいろんなものが出ているのです。毒蛇の舌のようなものが生えているのです。手錠なり何なり、いろんなものがあるのです。こうして何を取って食うのですか? 心を取って食い、社会を食ってしまう凶器はみんな持っているのです。悪の武装体です、武装体! このぞっとする何の私? 偽りの私でしょう?「ハイ」悪の武装体だというのです。これがぞっとする私です。これが分からなければなりません。これを壊さなければなりません。これを切って捨てよ! そのためには心から目を抜き出すには、この心が決心をしなければなりません。その目に怨讐の矢がつき刺さっているのです。怨讐の矢が引き抜けないでしょう? 心からこれを断ち切って、そうしてこれを精算しなければなりません。これを精算するのです。であるなら分からなければなりません。

 それでは神とは何か? 統一教会は何をするところか? こいつの四肢五体が怨讐の武装体ですから、これを切って捨てるのです。切って捨てるのです。嫌だと襲いかかってきても切って捨てるのです。自分の力では切れなかったら、医者が手術をするように抜き出して・・・。ならば「ア-ン、ア-ン」と泣くことでしょう。刃を当てれば・・・。

 皆さんはそうでしょう? 手術などする時には、腹を切開する時は容赦なくやるでしょう。これを切るのです。時間がたてば、その時間に切らなかったら死んでしまうのです。同じ理屈です。切って捨てるのです。このように切れば「アイグ-私は死ぬ。アイグ-、アイグ-、いやだ、いやだ」とこうでしょう。こんな時は手でもなんでもスパツと切ってしまって、スパツと切って生かすのです。死の立場から生かされたので「有難とうございました」となるのです。このようにしなければなりませんん。怨讐の武装体を、このぞっとする武装体を・・・。おう、そこまでぞっとする話をしなくても、先生がそこまでひどい話をしなくてもいいのに・・・。けれども自分の体だから、なぜそこまでしなければならない? と言うかも知れません。しかしながら説明してみましょう。

 「なぜこのように怨讐の武装体となって・・・。アイグ-、だけど自分の手であり、この手でお父さんに誠精をこめて、餅をあげたのに」と言うかも知れません。やったことはやったけれど、そうではないというのです、その内容が、その動機が。なぜそうか、一度見てごらんなさい。皆さんがいつ、神がおられることを知りましたか? 神がいることを知りましたか、神がいることを? 話は聞いたが、いるという話は。世の中がどうなっているか、知っていますか? 村の犬は主人の何かが無くなっていないか、夜も昼も守っているのです。門前にかまえて、真冬であってもじっとうずくまって、寝食をせずとも守っているのです。犬は主人を案じて寝食をせずとも守っているのですが、皆さんはそうしてみたかというのです。全部が自分勝手に生きてきたゴロツキではありませんか? こんな話をしたからといって、淋しく思わないで下さい。ゴロツキですよ、言ってみればみなゴロツキです。

 また、いつこの口が、この自分の手が、神が喜ぶ口や手になったでしょうか? この手が素晴らしい手でしょうか? 死んでから天国に行く時、自分の手を博物館に標本として残したら良い、こんな考えをしてみましたか?「やあ、私の眼は黄金の眼より、私が思うに天下に最も貴い黄金の眼よりも貴いものだ。私の眼よ!」そうしてみた?「やあ、私の体がどんなに美しくて貴重であろうか? 天下が全て頭を下げる貴い存在であることよ」そうしてみた? こいつらはどこにも使こがないのです、この全部が。


 悪を精算する時には最高に憤り怨痛なる心を抱いてやらねば

 それゆえここは何ですか? このようなサタンの物を全部、どうするのですか? 切って捨て、取って捨てて収拾して、どうしなければならないのですか? 再創造しなければなりません、再創造! 再創造しなければならないのです。ではどこから? ここから。真の真理なら、真なる真理ならば泣いても、世の中で最も大きく泣くことがなければなりません。泣け、慟哭せよ。アイグ-、悔しい! アイグ-、悔しい! 私のお父さんお母さん、数千万の父、母が倒れて死んだとしてもこの悔しさが・・・。父母が死ぬなら死ぬで悲しみが何か? そんな父母が千人万人が死ぬ悲しみがそんな・・・。

 この国に愛国者がいたとして、その愛国者よりも憤らねばなりません。世界主義者がいたとして、善なる立場で闘って虐殺されたその人よりも、さらに怨痛なるそんな心を抱かなければなりません。こんな憤懣を感じて皆さんが今まで、あるいは年をとって死ぬほどになったとしても、数十年、あるいは百年近いそんな人生を生きてきたとしても、その中で考えてみれば、最も憤らねばならないのです。最も怨痛しなければならないのです。怨痛して自分の刃がなければ、刃の代わりに竹槍を刃と思って、闘わねばならないのです。竹槍が刃の代わりですから、竹槍と刃を比べてみて弱いと思えば、私は誠意と熱意をもって闘う、こんな心がなければならないのです。こんな人間を造る前には、敗者になるわけにはいかないのです。私を見いだせません。私を見いだせないのです! 壊してしまわなければならないのです。

 それでは皆さんがいつ神に対して、罪の衣服を燃やして「私は天下が公認する息子としてゆきます、アボジ!」としてみましたか? 統一教会員たち、そのようにしてみましたか?「あなたが捜し求めていた息子、私が来ました、アボジ!」そうでなければならないのではないでしょうか? アボジのみ旨に通じ、アボジの事情に通じ、アボジの心情に通じ、通じるのみならず、お前とわたしは一つだという公認を受けなければなりません。こうしてこそ、人間として生まれた本来の目的を達成するのです。


 天宙主義者となれば本然の人間の基準を通過する

 神のみ旨のみを知れば、何もいらないのです。み旨のみを知ればどうする? 今日、善なるみ旨を知らずして実践できないでしょう? 自由党が政策がまずくて滅びましたか?事情が通じなくて滅びましたか? 心情が通じなくて。どんな心情? 天理の心情が通じなくて。この国家の運勢の心情が通じなくて。

 み旨に通じ、事情に通じ、心情が通じたらどうするかというのです。じっとしているのではないのです。通じれば、全て授け受けることが完全に通じれば、和合を成さねばなりません。電気が完全に合わさればどうなるでしょう? 電気でもなく何物でもない光りになるでしょう、光り。

 完全に通じて、ついにはどうなるかと言えば、一つのになるのです、一つ! み旨は一つ、事情は一つ、心情は一つですから、体と心を中心とする神と一つでなければなりません。そうならねばならないのです。そうあるべきが人間の本意ですから、これを考えてみて下さい。皆さんが堕落したために、私は堕落したことによって、私は父母も偽りの父母を持ち、兄弟も偽りの兄弟であり、私の従兄弟、あるいはまた従兄弟、親戚という名を持つ数多くの群れも、やはり全部が偽者という名の仮面をつけている人々なのです。今日、自分が愛する民族、私が愛する国家、私が愛する世界、私が生きているこの天地の間の全ての万有の現象の全部が、悪の仮面から抜け出せない、そんな圏内にあるのです。これをはぎ取らなければならないのです。

 ですから人間は世界主義者でなければなりません。分かりますか?「ハイ」世界主義者になると同時に、その次には何になるのですか? それと対等の立場では万物を主管できないでしょう。それでここに一つの主義を添付し、神主義を添付し、天宙主義という名詞を立てなければならないのです。分かりますか? 何の主義?「天宙主義です」

 では天宙主義という名を掲げて、何をするのですか? ここに入り、この時、この場に行かねばなりません。本来の人間が誕生して神と最も近い場、堕落していない我々の先祖の場に行かなければなりません。その場がどこや? 天宙主義が完成した、天宙主義者として初めて天と地と万物を代身して、創造主の実体の前に、私がこの創造主の対象体として立ったというその場をつかむことによって、初めて人間の先祖が堕落しないで行かなければならない第一の基準を通過するのです。分かりますか? ですから宗道の道においては、独身生活をしなければならないのです。

 女もこのような女ではなく、男もこんな男ではなかったので、早く男が来なければならないのです。救世主は男ですか、女ですか?「男です」女でしょ。おんな!「男です」おんな!「男です!」それが正しいなら正しいとするのです。正しいなら首が飛んでも正しいとしなければなりません。その次には私が降伏です。女ならぬ男です。では男でも女でもその場に行けなかったのでその男、独身で捜し求めるそのお方、そんな君がおられるのですが、その君が何か? キリスト教で言うところの新郎たるイエス様なのです。分かりますか? 分かるかというのです?「ハイ」夫婦で来るのではなくて、独身の男性として来るのです、男性として。


 世界的宗教は個人から世界的な祭物的存在を持つ宗教

 神は今まで6千年の間、天地創造以後のこれまで、人間が偽者として出発して、悪として出発したこの世界を整理するために、一人の人間を捜し求めたのです。一人の人間、一人の人間! 真の人間! この本物はどんな人間ですか? 今お話したように神のみ旨に通じていなければなりません。み旨に通じるなら動機を知らなければならず、結果に通じるなら、動機と結果に通じるなら、因縁を知らねばなりません。因縁、この過程的な因縁を避けることはできないのです。ですから今までの人間が因縁を中心として、人間が自己の責任を果たさないので、人間の因縁に橋を架けるための群れがあるのですが、そんな群れが数多くの個体を代身して橋を架ける人々なのです。そのような人間ですからアブラハムは個人であり、ヤコブは家庭であり、モ-セは民族であり、イエスは世界。格式に合っています。

 ですからこんな論法から捜し求める時、必ず個人から世界的な代表者、指導者、世界的な祭物的存在を必ず持つ、歴史的な宗教の内容を持ッてこそ世界的な宗教であって、でなければ世界的な宗教ではないのです。こんな見地から見る時、キリスト教が世界的宗教の内容を持つと言えるのです。理解できますか?「分かります」こんな話をなぜするかというと、新しいく入って来た人たちが多いからです。

 それで個人を立てる時、天は世界を支配することができる世界的な救世主を、どれほど慕ったことでしょうか? 本来は自分個人を立てるその時において、世界的であり個人的な勝利者にならねばならないのですが、それができなかったでしょう。なぜ? 堕落したために。いっぺんに世界性をもつことができないので個人的な時代、家庭的な時代、民族的な時代、国家的な時代、世界的な時代へと分担してこの歴史路程を、遙かな時代を経て来て、天は世界的な人物一人を育てるための材料を収拾するために、分担的な救世主の使命を代身する者を送られて、全てこの地上で悲しむ者の立場を代身して、悔しい者の立場を代身して、死に追われる者の立場を代身させられるのです。

 ではこれから、今世界的な指導者として来られるそのお方は、そのお方は今まで個人的な救世主の使命を開拓するために、個人的な責任を負って来られるお方であり、民族的な時代においては民族的な救世主の責任を負って、民族を連結させるための責任者であり、個人から家庭から民族的な基準を立てていって、国家的な基準を中心として、国家的基準で勝利の一つの基準を立て、ここにおいて世界的な代身実体として現れるお方なのです。このお方が、メシヤというものなのです。

 ではメシヤ一人が現れることによって、どんな事をしなければならないのでしょうか?その昔に恨を抱いた個人的な先祖が、ここに所願成就するのです。そうでしょう? 昔、家庭的な摂理時代に犠牲になっていった、そんな家庭的は先祖たちの恨を解怨成就するのです。民族的な摂理時代に犠牲になっていった、先祖の恨を解怨成就するのです。

 このお方は過去の天の個人と、天の家庭と、天の社会を代表して、天の国家的な理念を摂理される天の、我々人間が知ることのない背後の理念的な基台の上にひそむ大きな無限の価値、歴史的な価値の実体であるメシヤであることを、知らねばなりません。過去を良く知れば、現実の自我がこのお方を相続して、我々の先祖の全てのものを相続することができるのです。

 人間の欲心は神の髷の先まで昇って踊りを踊りたいほど大きい

 それでは今日この時がどんな時であるかといえば、天宙主義の時代ですから、天宙主義の時代であるならここに個人から、家庭から、国家的に世界的なメシヤとして来られるこのメシヤが理想的な天国、理想天国世界まで全て知ってこそ成るのです。こんな基準が残っていますので、人間は理想主義者なのです、全てが。全部が個人主義ではないのです。全部がその心は世界主義者なのです。ですからどんなにダメでも、皆さんの心は「君、出来るのがいいか出来ないのがいいか?」といえば「聞くまでもないでしょう?」とこうでしょう。「出来るのがいいか出来ないのがいいか?」二つの偶数の言葉の中でどっちがいいかと言えば、聞くまでもないと言うのです。「それは無論、出来るほうがいい」と言うのです。そうですか、違いますか?「そうです」そうですか? では「どのくらい、どのくらい出来たら? どっかの大統領ぐらい出来たら? ケネデイ大統領が最高ですか? どの程度よかったら?」といえばどうですか?

 あの世に神に忠誠を果たした功臣がいたとします。そんな功臣もいるでしょうし、僕の中の僕もいるでしょう。それでは、ケネデイ大統領があの世に行ったら、天使世界の天使長になるでしようか? これが問題です。どの程度になったかが問題ではなくどの程度に欲心が多く、自分が苦待したかが問題です。もっと、もっと、もっと、どこまで昇ってゆくのか? 神様のてっぺんまで昇るのです。「神の前にゆけば良いのです。神のお使いになれば良いのです」と言うのです。お使いで満足するでしょうか? しないのです。ならば何で僕で満足するでしょうか? これもしないのです。僕の中の僕で満足ですか? これもしないのです。では娘婿で満足するでしょうか? これもしないのです。どうして?婿になればその義父の遺産と、全ての目的と暮らしがどえらくて素晴らしかったら、これを全部もらえるのですから「ホ、ホ」となるでしょう。人間の心とはこれほど大きいのです。サイズが大きくないですか? みなそうでしょう? 人間の欲心は、神様にのって耳をつかんで踊りを踊ってみたいのです。欲心はそうなのです。皆さんはそうではありませんか?「そうです」そうですか、そうではありませんか?「そうです」そう、そう! それでは今、ごらんなさい。

 それでは僕の子が主人にのって、耳たぶをつかんで踊りを踊っていていいでしょうか。こんな法があるでしょうか?「ありません」どんな法でそんな場に出られるや? 愛する息子娘、おお よしよしわたしの子よ! 分かりますか? 二人とないわたしの息子よ、お前はわたしの花の中の花、骨の骨、肉の肉、わが髷の上まで昇って、千年万年大公使となって、永遠無窮に幸福の歌を歌って宴をやるならやり、何でもやりたい事をやれ! このようにできる存在です。これを見て「や、こいつら、なぜそうする?」と言われない立場に立つには、どうしなければならないか? 神の二人とない愛する息子娘にならねばなりません。分かりますか?「ハイ」その名が万事に通じぬことはない名なのです。

 人間が神なき世界の基準になってしまったので、このような欲望が最高に悪質な者となったのです。堕落して悪質な者になったのです。元来は悪質でなく、善良な性質であったのです。堕落したために悪質になったのです。しかしながらその本質の性禀は、質は残っていますから、人間は最高や! 神様の髷まで昇って踊っても、神も喜ぶのです。このようにしたいのが、人間の欲望なのです。


 人生の最高の目的は神の息子娘になること

 それではこの欲望を解消するには、どうしなければならいでしょうか? 出来ないでしょうが、神の所望の実体の息子娘の名分を得るなら「お前は天地の間にただ一人だ、天地をやっても取り替えることが出来ないお前であるよな。おお よしよしわしのかわいい!」となればどこまでも高く、踊りだけ踊りたいのです。こんな立場まで人間はゆこうとするのです。

 ですから宗教的な基準で、人間を真の善で支配して、理念的な世界において変わることのない一つの中心となる因縁、内的な鉄壁の城のような連結された鉄鎖というか、撚られた糸というか、こんな基準を完全に結んで、離すことができない絶対的な因縁を結んで、創造主に対して「わがアボジ!」という時、そのお方が「やあ 、わたしの愛する息子娘よお前がいなければわたしは千年の大公使もいらない」というのです。どんなに天地間に勝利したとしても、怨讐を屈伏させることで喜ぶのではなく、怨讐を屈伏させた後に、息子娘が生まれて喜ぶのです。分かりますか? 怨讐を征服して勝利して喜ぶのですか? 勝利していって必要とするものが何ですか? 息子娘がその勝利の栄光に同参しなければならないのです。分かりますか?「ハイ」

 ですから神の目的は何でしょうか? 息子娘を捜し求めることです。ですからこのような宗教の内容を持って、このような基準で人間を救うという名詞が必ずなければならないので、宗教の内容を持って神をアボジという名詞で呼ぶ団体が、キリスト教以外にはないのです。それでキリスト教を足場にして、今来ているのです。こうして神と私とが一体になるのです。ここに私が、私としての命が連結されるのです。分かりますか、何の話か? 歴史的なこのような因縁を経て、実践過程を全て越えて行って、目的的な実体を中心として行けば、ここに栄光の中の栄光の場に行っても、神が良しとし、地の自分が良しとするのです。この基準が何かと言えば、息子娘という名詞がなければダメということです。 それで皆さんがここに来たということは何でしょう? 息子娘の因縁を結ぶか結ばないか、これを学ぶために来たのです。修練を受ける目的はこれであります。ある短時間内にアボジの息子娘になれるでしょうか? その心情に自分が通じて、その事情に通じ、そのみ旨に通じ、その事情とみ旨と心情に通じて、その代身の人格者、心情と事情とみ旨に通じ、永遠なる骨の骨、肉の肉、その代身者である息子娘の立場になることが、我々の人生のこの地上における、最高の目的であるというのです。分かりました、目的?「ハイ」

 ですから神はこの事をされているのです。

 こうしてどうするのでしょう? 一つになるのです。ですから全部、収拾しなければなりません。では皆さんは神とさっと一つになって、神様の髷の上まで昇って、踊りだけ踊っていればいいのですか? その次には、喜びとなるのは人間に万物を与えられたことです。喜びで与える遺業、我々の息子に与える物がなければなりません。神も息子に何か与える物がなければなりません。お前とわたしは永遠に一つの立場で、その次には息子娘に何を与えるのでしょうか? 私の喜びの材料、私の暮らしの材料として下さった物が万物であるというのです。分かりますか?「ハイ」この神の息子娘は感情によって喜ぶのですから、息子娘を持つなら、与える物がなければなりません。それで天地万物を息子娘のために創造されたという結論が出てくるのです。分かりますか?「ハイ」それで今、この地上の人間は欲心が多いでしょう。神を征服してゆくのは、心の世界では神を征服していって「世界はわがもの」とこうです。この化け物のような奴がみなそうなのです。そうしているでしょう。これが事実なのです。神の息子娘ならば、神のものはわがものではないかというのです。


 過去・現在・未来を代身する父母・夫婦・子女の三対象基準を持て

 内的な心情一致・事情一致・所願一致がなって、所願成就・事情成就・心情統一した後には何をするのですか? 「天地万物をわたしが誠精を込め、誠精をつくして創ったが、これをお前のものとしてあげる」となるのです。父母が誠精をこめて集めた全て、一品といえど惜しんで集めた全ての貴いものを、子女に与えるのと同じように喜びで下さるのです。与えるには後悔しないという立場で、人間に相続権を付与されるのです。ここに初めて神との一致がなり、神の喜びが私の喜びとなり、神の名が私の名となり、神の喜びによって出発した、その喜びの圏内で万物を相続する立場に立つ私なのです。この私が歴史を代弁することのできる私、歴史の実体となる立場に立つ私にならなければなりません。このような実体になってこそ、時代を代表して率いることができ、時代を代表して率いてこそ万物が、全ての天地の運勢がその膝元に集まるのです。こんな立場で息子娘を生んで、再び相続させてゆく人間であってこそ私として、すでにお話した前後・左右・上下を持つ立場の私として、完成するという結論が出るのです。分かりますか? 分かるかと言うのです?「ハイ」

 ですから上は神であり、父母です。今日が誰であるかというと自身の相対です、夫婦。家庭といえば祖父が中心ではありません。この夫婦が中心になるのです。そうでしょう?「ハイ」これが現実です。現在ですよ、現在。その次には子女です、子女は未来です。

 過去・現在・未来を通して歴史が興ってきたので、前後関係が因縁となっているこの世界の因縁を持って初めて知縁を受けるので、人間は必ず父母がなくては悲しいのです。そうですか、そうではありませんか? 夫婦に子がないと悲しいでしょう。そうですか、そうではありませんか? 子女がいなければ悲しいでしょう。これが悲しくない奴は天地の法度を破る者です。これは罪人です。子女がいないと喜んでいる奴は、みな罪人です。

 ですから父母がいなくても悲しく、夫婦に誰かがいなくても悲しいのです。独りで生きることも天地の法度に外れているのです。合格者ではありません。かたわです、かたわ。 ですから父母を持たなければならず、その次には夫婦にならなければならず、子女を得て三対象基準を持たなければなりません。これが対象基準です。(板書されて話される)祖父・祖母も対象でしょう?「ハイ」これが自分たち同士、相対的です、これが。左右となって、その次には父と息子は上下です。このようになっているのです。私を中心として見るとき、上は父であり、次に下は子女です。私を中心にこれが前後関係です。その次に夫婦です、左右。次に親戚、このように家庭がなっているのです。

 こうしてルンルン、これだけで解決するのではありません。その次にはこれを中心に天下を抱かなければなりません。「アボジもわがもの、アボジが創造された全ての被造物もわがもの」という立場に立つ私が、人生の所願を果たした私、天の所願であった私、神の事情に通じたかった私であり、歴史的な善なる人間の事情に通じたかった私であり、また神の心情があったなら、その心情に通じたかった私であり、歴史的な偉人たちの所望があったなら、その所望の心情が求めた私であるというのです。このような私として完結されて初めて、私は私としてこの地上に存在の価値を完結させ、初めて責任を全て完遂するのです。これを成して初めて天地を創造した、対象実体世界を創造されたその原則の元に、自身の動機も目的も全て成した、その核心的縮小体になるのです。これが今お話した天の家庭です。

 それでイエス様におかれでは新郎・新婦が問題です。神がいないのか? 神が祖先としておられて、最も問題となるのが新郎・新婦です。祖先はあるのですが新郎・新婦が合わさらなかったのです。それで祖先から神に侍って、息子と神と内的に合わさったのが即ち相対的ですから、この世を中心として救世主として来られて相対、外的な基準において相対を求める新郎・新婦の理念を立てて、新郎・新婦を中心として子女の名分を残すということが、このキリスト教の理念なのです。そうでしょう?「ハイ」ここにこの善なる理想世界、地上天国を成して、天下を統治すれば万王の王となるのです。それで万王の王という名詞を残したのです。それでは万王の息子娘ならば、万王の王の後継者です。息子娘が万王の後継者でしょう。分かりますか?「ハイ」


 宗教の出発を否定からしなければならなかった理由

 ですから今まで生きてきたこと全てがダメなのです。いつ自分が神を父母として侍り、自分たち夫婦が楽しく生きて、おまえでなければ死にますなどと誓ったり、いろんなことをやって暮らしてきて、彼らがいつ神がもろ手を挙げる祝福を受けたでしょうか? このおじさん、受けましたか? 受けましたか? そんな祝福を受けましたか?「祝福は受けていません」受けてはいないがそうなったら受ける?「ハイ」ここに曲折が多いのです。息子娘もいるでしょう?「ハイ」いつ神から「アイゴ-、わが孫は尊い!」という声を聞いてみましたか?「聞いてみません」(笑い)聞けませんよ、知らないのだから。

 ですから全部、壊してしまう器です。すみませんね。ですから人間が公認するそんな社会制度はあるかも知れませんが、天理が公認する永遠無窮なる理念を中心とするそんな神の、創造主の心情に通じ、み旨に通じる基準から起こる所望の、その型がないのです。ですから否定です。宗教は否定から。最も近いところから否定せよ! その自分の最も近い者が怨讐だというのです。(録音がしばらく切れる)

 イエス様が母に対して「婦人よ、わたしとあなたが何の係わりがあるか?」と言われたでしょう、違いますか?「そうです」これが福音を宣布されて最初の御言です。また弟子たちがやって来て、母親と兄弟が尋ねて来たと言う時「わたしの母、わたしの兄弟とは誰のことか」と言われたでしょう。何をする人間が? 父のみ旨を成す人間が。み旨とは何ですか? み旨とはそんな家庭制度ではありません。今お話した天倫の心情に通じ、天倫の事情に通じ、天倫の所望のみ旨に通じるそんな父母になっていないので、喧しいというのです。妨げる者です。兄弟たち、兄弟たちがみな妨げる者になったのです。助けにはならず、全部が妨害する者です。怨讐です。ですからわが家の食口が怨讐であるというのです。聖書にそんな御言があるでしょう?「ハイ」こんな見地からこれは解かれるのです。分かりますか?「ハイ」


 統一教会は盤石の上に立つ実体回復方法を学ぶところ

 それでは私として成すべき目的実体は何か? 主様に出会うことです。主様は天の本家として来られる総領息子ですからこの息子を迎えればアボジの消息を知ることができるのです。神に侍っておられるこのお方が来られて、どうなるのでしょう? 我々堕落人間は全て神との因縁がありませんので、このお方は総領の代表者として弟のように育ててくれるために来られるお方、このメシヤを待ちこがれているのが現在の人類の現実なのです! こうして何をするのですか?「あなたは神の息子として来られ、神の娘をめとって家庭を造られ、この家庭を中心にして我々の家庭を率い、世界万物を率いて祝福して下さい」とすることができ、祝福を堂々と受ける私であるという立場で「あなたは私を祝福して下さらねばならず、私はあなたから祝福を受けねばなりません!」としてこそ初めて人間としての所望を果たすことができ、所望を抱くことができる出発点に立ってこの天国社会、天国の国家の生活における第一歩を、踏み出すことができるのです。分かりますか? おじいさんでも誰でも、みなこのように出来なかったのです。

 それでは統一教会は何をやろうという所か? このようなことを教えてあげる所です。教えるにはどうするのですか? 変わろうにも変わることができない私の位置、私の価値私のみ旨、私の所願、私の心情の全てが天を代身して「私がいますら私から因縁を結んでいる全ての被造万物は、私を通さなかったらダメです」と天地と取り替えることもできない、天地が動いても動くことのない、完全に盤石の基台の上に立つ一つの実体を成したという自己を回復するために現れたということを教えてくれる教会でなかったら、統一という名詞は出てこないのです。「統一」という時(統)とはなんの(統)の字でしょうか?「率いる(統)」の字でしょう? 統一教会が何の統一教会でしょう? そうではなくて統一できるかというのです。ですから皆さんがこのような忍耐力、「過去の人間はこうであった。今日の私はこうであり、これからはこのようになる。神の事情がこうで、神のみ旨がこうで、神の心情がこうで、アボジの苦痛がこうです。悲しみのアボジですから、そのアボジの前に私がどのように出てゆくのしょうか? 血と涙と汗で祭物になったので、祭物を受けるには血と涙と汗で受けなければダメです」こうして悲しい涙で「アボジは与えるために悲しみで来られ、与えるために血と汗を流されて来られたので、我々人間は受けるためにずっときて、受けるために涙を流し、受けるために苦痛を受けてきたので、授け受けるその一日がどれほど嬉しいでしょうか? 泣きながら出発して、嬉し泣きで前がさえぎられ、わが口には滲みこんだ恨が爆発してほとばしり、喜びと栄光と勝利の凱歌を歌うことができるその日を持たねばならない」このようになるのです。ここに初めて神が「お前はわが息子だ。お前はわが娘だ」となるのです。天下万物の全ての福を前に置いて神の心情と事情に通じることができる一体的な因縁圏内において「お前はわが息子でありわたしはお前のアボジだ」という父子の因縁を復帰して、印を押してもらって初めて天の家庭を成し、天の民となって一つの世界、一つの主権、一つの天地を造ることができるのです。これが人間としての私がなる因縁の中心であることを、皆さんは良く知らねばなりません。父母とその次には何?

 父母と夫婦と子女と万物、これが三位基台です。これをアボジを中心に世界が公認する法度、原則、あるいは公式法度で通過することができる私の価値、これを皆さんは持つために来て、そんな私を求めるために皆さんは来たということを、知らねばなりません。分かりますか?「ハイ」




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2021.04.14 19:05:17
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