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marnon1104 @ Re:三峡老街へ(11/27) New! 三峡、日本統治時代の建物が残っている そ…
パパゴリラ! @ Re:三峡老街へ(11/27) New! 山峡街は日本統治時代の建物が並ぶとあり…
moto,jc @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! おはようございます ビビアン・スーさん…
あきても @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! 外国に行っても行きたい場所 一人で行け…
ララキャット @ Re:烏来老街にいく(11/26) New! へえ、現地語で話しかけられましたか? …
Sep 28, 2024
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カテゴリ: カテゴリ未分類
ヨーロッパ1の親日国ポーランド。

ほとんどロシアと隣接してるヨーロッパでも辺境のポーランド、日本からの距離が8,500km も離れたポーランドがナゼ親日国なのか?
しかし実際、ポーランドの首都ワルシャワでは、日本の歴史や文化を伝える「日本祭り」が毎年開催されてるし、ワルシャワ大学には日本語を勉強する「日本語学科」ではなく、日本そのものを学ぶ「日本学科」が設立されてて、ここに入るのが至難のワザと云うくらい大人気なんです。


ポーランドの宿敵は今も昔もロシアです。
日露戦争よりずっと前、1795年(寛政7年)には完全にロシアとプロイセン(ドイツ)・オーストリアに侵略されポーランドと云う国そのものが消滅してしまいます。
そしてポーランドで独立運動をしていたポーランド人は次々と極東シベリアへ流刑されてしまったのです。
ポーランドが独立を回復するのは、それから123年後、第1次世界大戦後の1918年のことです。
国家は消滅しても、民族は消滅しません。

ポーランド志士らは不屈の精神で国の再起を目指して、独立に向けた地下活動を行っていました。
「日本の勝利は、ポーランドが独立する千載一遇のチャンス」と考えた独立活動家らが日本政府ヘ接触を試みたのです。

その一人が「ポーランド建国の父」と云われ、1918年の独立回復時に初代元首となったユゼフ・ピウスツキ。
彼は「日本軍のためにポーランド人の軍隊を召募する」とまで提案し、日本と同盟関係になる使命を背負って訪日したと云われてます。
しかし、日露戦争当時のポーランドは既にロシア領。
早々に投降して愛媛県松山市の収容所などに送られたロシア軍兵士の中には、半強制的に徴兵されたポーランド人兵も多かったのです。
彼らポーランド人兵士は敵国の捕虜にもかかわらず、日本の勝利をまるで自国の勝利のごとく狂喜乱舞しました。

そして日本側でも日本で捕虜生活を送るポーランド人兵士に対して、日本赤十字から派遣された看護師が献身的に働き、また松山市民からも温かい「おもてなし」を受け、遠足に行ったり温泉に行ったりと捕虜とは思えない待遇されたのですね。
このときの数千人におよぶポーランド人捕虜の日本への好印象が、ポーランドの親日感情の原点となったのです。
そんなポーランドと日本の関係が一気に加速したできごとがあります。
1914年からの第1次大戦、1917年のロシア革命に続き、1919年にコミンテルン(共産主義インターナショナル)が結成され、シベリアの各地で反革命軍が赤軍と交戦。


このときシベリアに強制的に移住させられて強制労働させられてたポーランド人は約20万人。
反革命軍と赤軍の内戦によって、そのシベリア在住のポーランド人も少なからず戦死し、ポーランドからの難民も餓死、病死、自殺、凍死、虐殺など次々と命を落としていったのです。
その膨大なシベリア抑留ポーランド人のなかには、両親と生き別れ、死に別れ、死の淵を彷徨っていたポーランド人孤児も大勢いました。
しかし極東の果てシベリアとポーランドではあまりにも離れすぎてます。
ポーランドの首都ワルシャワから7,500km も離れてるのに、ロシア革命で陸地は戦争状態。

唯一考えられる解決策は船でぐるっとユーラシア大陸を回るコースです。


そこで孤児たちを祖国に返すため「ポーランド孤児救済委員会」を立ち上げ、各国に救助を要請したのですが、ヨーロッパ諸国はどこも要請に応じず、要請に応じた国が日本だったのです。
日本赤十字社が主幹になって765人のポーランド孤児が先ず福井県の敦賀港に移送されました。
移送船に乗った孤児の中には素足の子も大勢いたのです。
このとき敦賀の港は人で溢れかえりました。
孤児たちが船から降りると、敦賀の人々はポーランド旗と日本旗を渡し、日本のが配られたのです。
食料が困窮してて体力がない子どもたちに、先ず身体に優しいリンゴがふるまわれたのですね。
こうして敦賀の町をあげてポーランド孤児を歓迎してくれたのです。

その後、孤児たちは東京の福田会育児院に収容され、手厚く保護されたのです。
日本全国から寄付が集まり、現金の他にビスケットやお菓子も振る舞われました。




来日したばかりのポーランド孤児たちは、腸チフスや風邪、百日咳などさまざまな病気を罹患していました。
日本赤十字神奈川県支部に所属していた若い看護婦、松澤フミは腸チフスに感染して重体となっていた孤児を付きっきりで看病しました。
「せめて最期は自分の胸の中で」と夜もその子を抱いて寝ていたため、自身も腸チフスに感染、そのまま亡くなってしまいました。
それも承知の上での看護だったのです。
そして重体だった孤児は、松澤フミの命をもらったように奇跡的に一命を取り留め、その後体力も回復して無事にポーランドへ帰国しました。
松澤フミはその功績が讃えられ、ポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞を授与されています。
日本の手厚い保護で急速に体力を回復したポーランド孤児たちは、読書や勉強をしたり、寄贈されたオモチャで遊ぶなど、シベリア抑留時代では考えられないほどの平穏な時間を日本で過ごしていきました。
子供たちに笑顔が戻り、身なりも整い、安心してポーランドへ帰国させられる準備が着々と整えられていったのです。

子供たちがポーランドへ帰国する日がやって来ました。
出港の間際、子供たちは船のデッキに並び両国の国旗を手にしながら、涙ながらに「君が代」と「ポーランド国歌」を斉唱し、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫んで別れを惜しんだのです。
船には日本全国から集まった衣服やおもちゃが積み込まれ、布地の帽子や聖母マリア像が描かれたお守り、そして航行中寒くないようにと毛糸のチョッキが全員に支給されました。
幼い子供の中には、親身になって世話してくれた日本の看護婦さんたちとの別れを惜しみ、船に乗ることを泣いて嫌がった子らもいたと云います。
彼らを乗せた日本船の船長は、就寝時間になると毎晩ベッドを見て回り、ひとりひとり毛布を掛け直しては、熱を出していないか頭を撫でて確かめていったのです。
このお話はポーランドでは授業で歴史の時間に必ず教わることです。
またポーランドには、「ポーランド・シベリア孤児記念小学校」と云う公立の小学校もあります。
それが1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災のときに、被災した日本人の子供たちがポーランド旅行に招待されたことにつながってるのです。
2023年には駐日ポーランド大使とポーランド開発銀行の頭取が参加して、日本で「リンゴ植樹会」がおこなわれました。
ワルシャワでも敦賀高校の生徒がリンゴの植樹をおこないました。



後半部分は以前取り上げた記事に加筆訂正したものです。





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Last updated  Sep 28, 2024 05:15:48 AM
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