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学園ラブコメ調時間SFミステリ。主人公が混乱した一週間を取り戻すまでの、気持ちのいいくらい贅肉のないパーフェクトな構成の作品。お見事。パチパチ。映画化もされてるそうですが やはり本を先に読んだほうがいいと思います。簡単な事象メモもとりながら読むと一層楽しめます。高校2年生の鹿島翔香は、気づけば火曜日の朝、彼女は月曜の記憶を喪失している事に気づく。そして、彼女に日記には、自分の筆跡で書かれた謎の文章があった。”あなたは今、混乱している。若松くんに相談しなさい・・・”これは単なる記憶喪失ではなかった。翔香の意識は未来ばかりでなく、その跳躍の空白を埋めなおすように過去にもリープ(跳躍)するようなのだ。通常、1,2,3,4,5という順に時間を経験するとすれば、翔香の場合、2,5,3,4,1というような順で ランダム・リープしているとわかってくる。同じ時間は2度経験しないところや、身体をともなわないところが、タイムトラベルとちがうわけ。 リープの原因と除去にむけて 助っ人、若松くんの分析推理と対策が冴え渡る。しかし若松くんにも 危機が。 最後は 翔香が独力で 最初のリープが起こった恐怖と謎の日曜日へ返り、重要な決断をしなければならなかった....、 高畑氏は「クリス・クロス」で 第一回電撃ゲーム小説大賞、2作目が本作。電撃文庫に所収され、ライトノベルの時間SFの名作との評判ですが、「本格ミステリ・クロニクル」にも1995年の傑作として紹介されていました。うるさがたの本格ミステリファンにも受けた理由をつらつら考えると・・・・・。 本格ミステリには ストーリーとプロットがある。人によって用語が混乱しているけど、ここでは ストーリーとは 謎解きによって判明する深層の因果関係物語、プロットとはそれまでの混乱した表面的に読者に現象している物語 としましょう。プロットの謎の断片が整理されてストーリーに追いつくまでがミステリの構成 といえるでしょう。そういう目で見ると、タイム・リープが いかにそういうミステリの本質をうまく取り出したているメタミステリであることかに 驚いてしまいます。謎解きによって判明する物語の深層の因果関係(ストーリー) が若松くんらのいる絶対時間。混乱した表面的に読者に現象している物語(プロット) が 翔香の巻き込まれた バラバラのタイム・リープ的時間。この両者の接近が 2人の心理距離に重ねあわされているところも見事だなーと感心してしまう。どんどん謎がとけて 両者近づいていくとXXのシーンになるはずですが そこも ひとひねりしてあって 2度読みの楽しみが待っています。
2005.01.12
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1994発行。小学校上級以上 という読者想定の講談社青い鳥文庫からでている。名探偵夢水清志郎事件ノート シリーズの一弾目。ライトノヴェルよりまだ下むけの探偵小説。 子供向き探偵小説って どんなんかな、と見学気分で読んでみましたが、たははと笑って読めます。しかし よく読みなおすと、なめたらいかんぜよ、なのだ。人間は みんなと同じ群集的存在でありながら 同時にひとりだけ例外的な個人でもある。この両面の相克・葛藤・矛盾というテーマを持った探偵小説の物語構造が たいへんよく見えて なるほどと感心することしきりの作でした。同じテーマをあつかっている、「生首に聞いてみろ」と同じくらい評価したいですね。 小学生のわたし、亜衣のとなりの家に引っ越してきた夢水清志郎は名探偵。表札にも名刺にも、そう書いてある。だけど、ものわすれの名人で、自分がごはんを食べたかどうかさえわすれちゃう。つっこみどころ満載。夏でもグラサンに黒背広。名探偵は変人でなければならないのがポーの創造した貴族の末裔デュパン以来の伝統的お約束。つまりは もとは近代に誕生した一般大衆と同時に誕生し 大衆とは隔絶した特別な自意識をもったダンディが探偵だったわけだが 現代大衆文化のなかではパロディにしかならない 笑える気取り屋にすぎない。ところが、亜衣たち姉妹は 彼をおちょくりがてら訪問するのだが ここで彼女らは 清志郎に絶大なる信頼感をもつことになる。それは彼が たびたび訪問する女の子が 実は毎回別人であること つまりは姉妹が三つ子であることを見破ったからだ。家族以外で三人の見分けがついたのは清志郎がはじめてだったのである。それが亜衣たちにはたいへんうれしいことだった。これ以降 三つ子たちは彼のレギュラーな助手になる。ここで三つ子というのは にたりよったりの大衆的存在の隠喩にもなっている。大衆の欲望というのは なんとか特別な自分を証明することなのだろう。それが一人の変人探偵によってなされたのだ。本番の事件では 4人の天才少年少女が 自称「伯爵」なる犯人に連続誘拐される。この犯人の気取りは 探偵と同等の反近代的貴族的身振りだ。警察ではなく同類の探偵のみが犯人の動機が読め、この種の事件を解決できるというのも探偵小説のお約束である。「芸術とロマンの香りのする知的犯罪」にしか興味のない清志郎が急に生き生きしだす。こういう犯人は群集の一人であることにあきたらず、空っぽの「私」を充填しようとして犯罪をおこす。探偵は犯人より受動的で そういう犯人を見抜くことによって自己証明をおこなうわけだ。さて今回の事件の被害者である4人の天才少年少女は当然特別な存在なわけで、すると犯人は自分の理想像をわがものにするつもりなのだろうか。ところがどうもこの4人の特別さは 親に強いられて訓練された特別さらしいとわかってくる。ゆがんだ特別願望を持っているのは 大衆でありそのことに満足できない親たちであった。こどもたちの本音はどうなのか、というところから、犯人の動機がみえてくるのであった・・・死者なし、ハッピーエンドで事件は解決する。めでたしめでたし。ハッピーエンドな探偵小説て書くのむつかしいのではないだろうかね。それはアンチミステリーな構造にもならざるをえない。高等技術だと思いますね。 まっとうな平凡さ まっとうな特別さ とはなにかということを なかなか考えさせられる いい作品でした。「亡霊(ゴースト)は夜歩く」も読みましたが 三つ子は中学生になっていて 、みんなと同じ、と 特別な自分というテーマは 校則をめぐってでてきます。 はやみね氏は1964生、小学校教師だそうです。
2005.01.11
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ずっと読みたかったが 「頼子のために」以降の長編を読んでからにしようか どうしようか と迷っていたけど 先に読んでしまった。わお。去年末にでたベストミステリーのガイド「このミス」「本ミス」ダブル一位という ミステリ通には えらく愛されている作品だが両誌のほめかたは 的をえているとは思えない。また ネットでの評判をみてみると、なんだこれはー、一見テレビでやってる2時間ミステリ風ではないか という不評もあるようですが。それは ずいぶん損をしている、おもしろい読み方があるのです。ドぎついタイトルに反し 前半は誰も死なず。小説内で登場する芸術作品のなぞときがクールに展開される。この解読部分だけでも充分面白いのだが、それが 後半の肉親をめぐる犯罪悲劇のなぞとき と絡まりあい、ついには この小説内の芸術作品の全貌と この概念芸術のような探偵小説としての作品が ある一点で収束し 同時に完成するさまは 実にスリリング。おそらく 中心コンセプトは「複製」 なのだろう。ベンヤミンの評論などにつうじているとなおさら面白く読めのではないかと思います。彫刻家・川島伊作が病をおして取り組んでいた遺作は、その娘、江知佳をモデルにした全身石膏像であるらしい。しかし伊作がついに倒れ ベールをぬいだ遺作には なんと首が無かった。何者かが持ち去ったのか、もともと そういう作品なのか。この遺作のコンセプトは 伊作の過去の名作であり、当時、江知佳を懐妊した妻・律子をモデルにした像と対をなす鏡像のような作品であるはずだった。いったいどのような意味での対なのか。それがポイントになっている。現在 この律子は伊作とは不倫が原因で離婚し 伊作の葬儀にも顔をみせず、江知佳とも会おうとしないという因縁がある。この小説のおもしろさは 大脱線かとも思える現代芸術談義。伊作というアーティストは 実在したアーティスト、ジョージ・シーガルの日本版、和製シーガルといわれているという設定になっている。シーガルは 生身の人間から直接、石膏像をかたどるという革新的技法で有名であり 現代の群集としての人を表現しえたという。 伊作もその技法を使っている。したがって 和製シーガルを意識していた伊作の最後の作品のおおまかな企画は いくつもの「複製」の対、{人体:石膏、シーガル:伊作、母:娘、過去:現在}が重畳した概念芸術のようであるのだが・・・。だんだん ネタバレにちかくなるので ご注意。もうひとつ 小説冒頭で 探偵綸太郎が訪れた後輩写真家のある個展のコンセプト解説があり これも 伊作の最後の作品がなんであったかのヒントとなる重要な対となっている。もともと写真芸術は 複製芸術のさきがけであるが ブラインド・フェイスと名づけられた この架空の写真展では 被写体のモデルが見ることのできない目をしっかり閉じたモデル自身の鏡像というコンセプトをもっている。その点を やはりこの個展におとずれた江知佳も おもしろがるのだった。なぜかといえば 石膏どり技法でも モデルは目をつむっていなければならないからだ。ここから先は ちょっと 超舌足らず 駆け足な説明になってしまうがご容赦を。小説家法月綸太郎は作品内で ベンヤミンの命名した「複製技術時代の芸術」の核心をひねる作品を 2つも 仕上げているのだからうなってしまう。モデルにとって目をつむった自己像とは、鏡像をみるようなナルシスティックな自己像とはちがう 複製技術時代にふさわしい似たり寄ったりの群集のひとりである自己像ではないか。 ところで 3つめの 探偵小説自身もまた 複製技術時代の芸術感をとりこんだ芸術ともいえる。ここでも 探偵小説の発生を論じたベンヤミンの名が思い浮かぶ 「探偵小説の根源的な社会的内容は、大都市の群衆の中で個人の痕跡が消えることである」というベンヤミンのテーゼは 笠井潔などが発展させ、群集性への抵抗としての探偵小説、さらにそういう古典的探偵小説批判としてのアンチ・ミステリへとつながっていく。つまりは かけがえのない一個の芸術作品、と、かけがえのないひとりの個人は ペアであり、複製技術時代の芸術と、大衆としての個人 は ペアなのだ。ととりあえず 整理できる。しかし 人は交換可能な大衆としての個人でありつつ 同時に やはりかけがえのない個人 であるのだから そこに 悩ましい葛藤があるのだろう。 複製技術時代の芸術家であることを 意識していた伊作。しかし 死期が近づくにつれ かけがえのない自分の人生の一回性をも意識せざるをえなかったのであろう。それは作品のオリジナル性 独創性を歪んだかたちで 表現し、やがてそれにも敗北せざるをえない悲劇へと つながっていく。ここで 小説家、法月綸太郎は 笠井潔「哲学者の密室」と同じく特権的な死の夢想を批判する視線を共有しているばかりか、伊作と同じく 和製クイーンか和製ロス・マクドナルドか知らないが 西洋の作家のフォロワーである自身へ向けた問いをも内包しているのでだろう。悩める綸太郎が今回はみられないのが残念、という評をみかけたがやっぱ このつたない感想の千倍ぐらい 悩んでるんだろうなー と思うのである。
2005.01.10
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「ふるさと。またはソラリスの海」という評論を含む論集。前作「不死のワンダーランド」の続編。紹介するには まだまだ 難読の本なのですが、ああ なんとなく そうかもな という話がいろいろ。人類は外部の探求のはてに 歴史の終焉の果てに 自らの鏡像を見出す。その鏡像のナルシズムをさらに 打ち破るときに見出されるのは オイデプスのいく荒野でありフロイトのいう不気味さ であり坂口安吾のいうふるさと であり・・ という なんだか 最近の読書が いろいろリンクしてきたような気が。とりあえず メモっておこう。
2005.01.09
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1989年の作品。作者のペンネームと同一の探偵。探偵がおちこめば 作者もまたおちこむ。そんな話を書かなくても いいのだが、それが この人の生きる道らしい。 自殺に失敗し入院中のある父親の手記からはじまる。その内容は、高校生の娘 頼子を何者かに殺された父親である私は、頼子を妊娠させ殺した英語教師をつきとめて刺殺した。以前の交通事故で半身不随の妻を残すのは忍びないが 自分は責任をとって死を選ぶ──というもの。この父親の素人探偵ぶりが それなりに見事ではあるが、なにかがおかしい。スキャンダルをおそれた学園長は 探偵 法月綸太郎に調査を依頼するが それは 真相追求という動機ではない。 なんとか 学園には傷のつかない結論をだすように 法月を操ろうとする。操られてたまるものかと奮闘し 陰鬱な真相を喝破した綸太郎。しかし 彼ももうひとつの 操り に気づいていなかった。本格探偵小説ファンの間では いわゆる 「後期クイーン問題」の代表作として 有名らしい作品。 指定BGMもまた ド陰鬱 である。 頼子が聴いていたCDが ジョイ・ディビジョン のクローサー。拙者、ヴォーカル、イアン・カーティスの声をはじめて聴いたとき、事情もしらず 死人のような声だと思ったが ある作中人物もはじめて聴いて同じ感想をもっている。イアンはこのCDを遺作にして自殺しているのだった。 警告。以下の記述で 真相にふれているかもしれません。 実行犯を操る真犯人がいたとして その 操りが純粋に心理的なものであったならば 真犯人による実行犯の操作について なにも証明できないではないか。そういう問題が「後期クイーン問題」の一部であるらしい。論理による透明な世界の回復。そういう探偵小説の権能はここに失墜するのであった。最近、ブッシュのはいっている秘密結社のことが話題になっているらしい。 世界は陰謀に満ちている、という妄想を否定も肯定もできないような 世界政治の真相になんとそっくりなことか。
2005.01.08
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ピーター・グッドチャイルド著池澤夏樹 訳前に書いた、歴史ミステリ 柳広司の「新世界」の 巻末には原爆関係の参考資料が多くあげられていますが その一つのノンフィクション。あとがきによれば 池澤氏はこの翻訳の仕事がきっかけで「楽しい終末」を書いたそう。 「新世界」でのエピソードの大半は 狂気じみていて ほんとにそんなことが と思った話が多いのだが 本書にもずいぶん該当個所や人名がでてくるの。インドの宗教書バカヴァード・ギーターでクリシュナが破壊神の姿をあらし「われは死なり。世界の破壊者なり」と唱える場面を オッペンハイマーは気にいっていて 初の核実験の光景をみて思い起こすところ。(ちなみにオウムの麻原もそこがお気に入りだったが)イザドア・ラヴィが核爆発の光景後 高揚し別人のようなオッペンハイマーをみて光景以上のショックをうけるところ。はしゃぎまわるキスチャコフスキー。後の戦勝パーティで酔っ払った彼による爆薬の馬鹿げた祝砲。後日のハリー・ダグランのうっかり被爆事故。彼は28日間かけてグロテスクな死に様をみせる。などなどなんだか こっちの 体調までどんどん悪くなってくる。池澤夏樹氏は年をおいて あとがきを2度かいていて 後のほうでは誰が悪いと非難してもなんの訳にもたたない。と書いている。どうせ誰か核兵器を開発することになったのだろう。ま そりゃそうだが、日本人が彼らの責任を 胸倉つかんで問う という経緯を一度も経ることなしに そういう悟った結論にいっていいものか、そんなアメリカの核兵器の庇護下にある日本は やっぱり歪みまくっているのだろう。などなど と思う。しかし そんな どっかで聞き飽きたこんな感想もあんな感想も 生存者の 死者にたいする 弁明の多くの一つに思えてくる。死者のいいたがっている話は 科学者の戦争責任とか 核廃絶運動とか そういう 政治的な話なのだろうか。まずは、唯、 「あんたたちも いっぺん 被爆して死んでみれば?」「それが無理なら 想像してみれば?」ということなのかもしれない。
2005.01.07
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03年刊。原子爆弾を開発したロスアラモスが舞台のミステリ。オッペンハイマーやフェルミら実在の人物たちが登場する歴史フィクション。 うー、このロケーションとテーマなら もっと時間をかけて丹念に書いてくれれば「哲学者の密室」以上の 名作アンチ・ミステリになったかもしれない。おしい。それでも すごい話ではある。 なにしろ、クローズドサークルとして 戦時中にニューメキシコ州の砂漠にできた人工秘密都市ロスアラモスは魅惑的だ。FBIさえ立ちいれない治外法権区。陸軍情報部が保安をとりしきる。そこに世界各国から集められた ノーベル賞クラスの天才科学者たち。いや マッドサイエンティスト達というべきか。時は 日本降伏後 つまりは広島・長崎へ彼らが開発した原爆が使用されて後の戦勝パーティで ある科学者がねらわれた謎の殺人未遂事件がおこる。 現地語で偶然「死への旅」を意味するジョルダナ・デル・ムエルトでの史上初の核爆発実験トリニティの光景の記憶。自分たちがなにをしでかしたか、ようやくおびえはじめる科学者たち。所長オッペンハイマーの見る幻覚の少女の徘徊。招待されたヒロシマの「英雄」、B29搭乗員。隠蔽された病棟での被爆人体実験。所長を含む科学者のスパイ容疑。 多くの記録、ノンフィクションを参考につくられている部分だけでも読み応えがある。なかでもトリニティ実験の際、核爆発はそのまま地球上の大気に引火する可能性を認識しつつ実験は遂行された、というくだりはほんとに狂っている。罪におびえつつもさまざまな言い訳で自己をとりつくろう科学者たちのなかにあって、ただひとり、 広島、長崎で なにがおこっていたかを幻視のなかで正視してしまった犯人の男は 狂う。それは もっとも正常な想像力を持っていたものこそ 狂わざるを得ない光景だった・・・・。古典的な通常の探偵小説では 犯人の作り出す狂気の世界は探偵によって正気の世界へと 回復されるはずである。しかし ここでは事件の前から もともとの世界のほうが すでに狂っているのだった。もはや一人の犯人がつくりだす犯罪なぞ どうでもいいくらいの巨大な歴史的犯罪行為はすでになされてしまっているのだから。犯行の真相看破によって回復されるべき正常な世界は もはや人類はもっていない。それが新世界なのか。 古典的な探偵小説という仕組みが なんらかの正視にたえない現状への抵抗、あるいは隠蔽ならば、探偵小説の枠組みに亀裂をいれたとき、単なる実録ノンフィクションでけでもみえない、なにか得体の知れないものが溢れてみえてくるのではないか。それがアンチミステリー、メタミステリーの可能性だろう。
2005.01.06
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1998。第五回メフィスト賞。自殺した研究者の父の遺品のコンピュータ。電源を入れると妹を自称する対話プログラムが起動するが。 この手の人工知能チャット、いまでは もうこの作品ぐらいの会話ができるものが あるのかもしれない。昔の 「わからない。」「記憶にない。」を連発する低機能タイプでも それなりに 不憫な奴だなー と 相手に人格を認めてしまいそうになったけど。 作品では 主人公はコンピュータは意識をもつとみてよいと哲学談義のすえ納得。すると これは いったい誰の意識なのかと探求していく。 本格ミステリでは 最初の世界設定で超能力や超未来科学をだしてもいいが 謎とき部分で そういう設定がでてくるのはご法度だけどなー、作者はどうするつもりか、と読んでいるうちに そんなことはどうでもよくなり、 コンピューターの正体は 主人公の青年の知らなかったアイデンティティともからんで2転3転、そして あっと 驚く収束点。この作品の収束点には読者自身の影も 巻き込まれる感じがする。ミステリ小説を超えて 小説のミステリ現象のようなものが そこでは起こっているのだろう。叙述トリックではないのだが 同じ効果があるようで。後頭部をガツーンとやられます。誰でも 自分の出生事情というのは 青春期には一度は気になったとおもいますが 一人称話者の主人公のピリピリ感も魅力。指定BGMはYMO。 浦賀作品には こういう過去を背負った この 主人公が探偵になって登場するシリーズがある。「透明人間」は読みましたが ちょっと 本作と対のようで興味深かったです。
2005.01.05
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1989の作品。冒頭で、双子を含む3兄弟のプロフィールが示される、しかもこのタイトル。もうはじめっから 本作品は正面から 入れ替わりトリックですよー。と 宣言しているようなものである。そのぶん意外性はない結末だが 考えることはいろいろある作品。このクビなし死体 誰やねん ほんまにもう。 ところで本作品内の時代背景が入れ替わりトリックとマッチしています。連合赤軍事件とオウム事件の中間期にあたる。元爆弾犯がニューエイジ宗教信者になって出頭という事件がたしかこの作品の少し前にあったと思う。過激派の学生運動、新新宗教。両方とも社会・家族から離反した人々の人工的な共同体づくりともいえるのかもしれないが 本作品ではそれに加え、入れ替わり願望の犯人の人工的アイデンティティが問われるわけです。古い共同体から離れた匿名性をもった都市の大衆・群集の成立と 探偵小説の成立 には 深いかかわりがあるそう。しっかし 最近読んだ推理小説、よっくでてくるなーもう 双子 だらけ。単に思わせぶりなフェイクな登場の場合は まあいいとして単純に入れ替わってたりしたら 大ヒンシュク。作者ミステリ業界追放という厳しい掟がある(たぶん?)でありますから もうひとひねり あの手この手が見所。マナカナの双子探偵というのもあったなあ。探偵が双子ってなんか意味あったのかどうか不明だったけど。誰か 双子のでてくるミステリ というリスト作ってくれてないでしょうか?
2005.01.04
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1989の怪作。原因不明な死者の甦りというニュースが聞こえだした頃の、あるアメリカの田舎の葬儀屋さん一家が舞台。葬儀屋もまた死ぬ。他殺も疑われる当主自身の葬儀。その後まもなく発生する長男の「殺人事件」、と 言っていいのかどうか。なにしろ迷推理を披露しだした警部の目の前で、ナイフが背中にささった被害者の死体が起き上がり、なぜか、どっかへ逃げちゃうのである。ううむ、死者に甦ったりなんかされては 葬儀業も危機だが 探偵小説も危機である。警部ならずとも 読者も なにを推理したらいいのやら 。だいたい 甦る可能性があるのに なんのために犯人は殺すのか。その前に舞台となっている葬儀文化の薀蓄がおもしろい。アメリカ流葬儀文化の特徴は、死者の血管への防腐剤注入や死に化粧や遺体修復技術であるエンバーミングだが、その歴史源流は 南北戦争という大量死にあるそうだ。遠方の故郷へ ずたずたな遺体を なんとか腐らせずに修復し運ぶことにはじまったそう。南北戦争といえば、風と共に去りぬ、にもあったけど、南北戦争前には戦争というものは貴族的決闘の延長線上にあるものであり、栄誉ある死、というものが信じられていた。ところが進歩していた兵器においつかない稚拙な戦術のせいもあって 栄誉もへちまもないズタボロな60万という大量死をまねいてしまった。そういう死の後始末として近代葬儀業の発達があったそうである。山口氏の頭には あきらかに 第一次大戦の大量死にたいする抵抗としての探偵小説の興隆 という笠井歴史観があるのだろう。葬儀文化も探偵小説も 大量死にめをそむける似たようなものであるなら 両方をコケにしまおうというわけか。 それにくわえて土葬があるが これはキリスト教の 最後の審判という思想が背景にある。そのときがくれば 死者は復活し 善人は永遠の命が 悪人には再び死の恥辱があたえられる。火葬してしまっては 復活ができないのだと かたくなな信仰者も多いようである。神をも恐れぬ山口氏 ではそのとおりにとばかり おさきに死者を復活させてしまうのであった。 なにがなんだかの へぼ警部にかわって 真打探偵として登場するのは 当家の孫である元パンク青年。かれも実は 毒をもられて死んでいる 生ける屍なのである。こんな無茶な世界設定でありながら しっかり伏線を読んでいれば真相がわかる論理的な本格推理小説でもあります。元祖、西澤保彦といったところか。 結局 人にはもはや 聖なる死 というものはあたえられていないんではなかろうか。でも そのかわりに・・・というラストには ジーン ときますです。
2005.01.03
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表向きは これからライトノヴェルでも書こうかという若い人むけの 入門書だが、 実は キャラクター小説の向こう側を問う という くそまじめな表現論の問いかけがあちこちにある。 とりわけ気になったのは、キャラクターの死についての、考察なかばの論考。記号の組み合わせにすぎないキャラは ほんものの生死を表現できるのか、ということ。そういえば 外人が日本のアニメをみて たまげるのはキャラが死ぬことがある という事のショックだと聞いたことがある。アニメキャラなんて不死身であるか 記号的に倒れるだけのしろものだったのだ。この記号キャラが死を表現できるかという問いの源流は 大戦経験者の手塚治虫らしい。 しかし キャラが血を流し、体を寸断され、といった表現もまた なれてしまえば ただの記号表現にすぎない。どこまでいっても 表現とは しょせん記号表現なのだ。しかし その表現の限界を知っているかどうかが むこうがわへの視線をもちつづけられるかが さまざまな表現の創意につながる と 著者はいう。たとえば 記号世界と現実世界 のギャップは 鉄腕アトムでは 機械身体と人間の心 というギャップに おきかえられている などの指摘は なるほどだ。
2005.01.02
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1996の第一回メフィスト賞作品。浅田寅ヲ という人がマンガ化してたのを見つけて読んだ。なんだか ひどく読みづらい。あとがきを見ると、森さん本人の作画者指定であるし 気に入ったできなんだそうで、失敗作というわけではなさそうだ。原作を読み直す。やっぱ読みづらい。なんでかなあと 考えると 奥行き のようなものがないというか 起伏がないというか ひらべったいのだ。そこがまた すべてが記号におきかわるようなコンピュータの世界の雰囲気とマッチしている。以下、ネタバレ感想。以前読んだときは ハイテク目くらましのせいで 気がつかなかったが、 読み返して、新本格の系譜をみると、西尾の「クビキリサイクル」の源は この「すべてはFになる」であり、さらにそのの源は麻耶の「翼ある闇」ではないのか。いずれも入れ替わりトリックで閉じた空間から脱出する怪物的犯人という共通点をもつ。もともと探偵小説というものキャラクター、とりわけ容疑者たちは、人間性を剥奪された駒にすぎないといえる。もともと探偵小説というもの人間を描けない、描かないしろものかもしれない。記号の組み合わせによって 見分けがつく程度のキャラたち。だからこそ 探偵小説では みかけのキャラの入れ替わり という 主要トリックが成り立つし、人間ではなくて みかけのキャラの向こう側の 怪物的人間 (もしかして もっとも現代的な人間像)を描くことが できるのではないだろうか。密室やら孤島という閉じた空間とはなにより 狭隘な探偵小説という作品の隠喩ともおもえる。そこから ヌー っと顔をだす怪物は 不気味 である。すべてがFになる では 探偵もそうとうへんだが、なんたって怪物的主役は、14歳のとき両親殺害をするも心神耗弱で無罪になるが、その才能を生かすため、孤島のハイテク研究所に拘禁されている天才工学博士、真賀田四季。結局、いったいなんなんだ この人。というのが どうも納得できないのも わかりにくさ と 魅力の一因である。森さんには 四季が出演する「有限と微小のパン」や四季シリーズがあるというのを知らなかった。気になるなあ。ところで ワトソン役少女の名が 萌絵 というのは 笑わせる。 森さんの確信犯的命名なのかな。いったい「萌え」って いつからできた言葉なんだろうか。いかにもキャラ萌え的キャラで 唯一 「人間」ぽい、というのも なんだか 逆説的なのである。
2005.01.01
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