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昨日女房殿から「貴方はやっぱり変だ・・」「変わっている・・」と言われました。確かに変かもしれません。時に突拍子もないこと言いますし、しますし。結構これでも自分では思慮深く考えているようで、でもなかったり。型にはまっているようで、はまっていなかったり。慎重なようで大胆だったり。意識はひとところに留まっているようで、決して留まらない自由さが大いにあって。明日という日に、とてつもない自分の価値を見出すことあれば、決して現在に未練を持つこともなく、もちろんその時の責任の範囲は考えながらも、しかし我が身を別の所に移すこともできる。まあ私の人生は、これまでもその様なものでした。結局、束縛を嫌う、身勝手な自由人なのかもしれません。だから例えば、ただ足かせにしか思わない、身に余分な不動産等、この商売で生かしてもらいながらも、所有物としては、とんと興味も湧かず、自分には無用なものと思うのでしょう。なにがどうなのか、確かに自分でも自分をよく解らないところがあります。仕事もひと段落した事務所の机で、今、この日記書きながら・・頬杖ついて、ほわ~~んとした気分で、また頭のなかは自由にあちこち飛び回っているのです。いつも自由なのです。子供の頃の気分にも帰れますし、というより精神の本質というものに、ほとんど成長をみることができないのかもしれません。結局、人生を、あちこちぶつかりながらここまでやってきた自分を、、これまで縁あった周りに感謝しながら、時に叱咤激励しながらも、足りないとこだらけの自分を、やっぱり愛しているのかもしれません。そんななか今浮かんだのは・・1.食べるものもなかった学生の私を救ってくれた女房殿が、私が県外に就職試験を受ける段になって、「・・やれやれ これでやっと開放される・・」と思ったという気持ちなど私は露知らず。予定通り?失敗して、伝書鳩のごとくまた妻の下に舞い戻ってしまったこと。やっと自由になれるはずの女房殿は、また束縛され、私は相変わらずの、自分なりに懸命な生き方だけれど、しかし独りよがりの自由人。しかしいずれにしても感謝、感謝。2.大学時代に行きつけの食堂で溜まった通い帳の、5千か6千だったかのつけを払えずに踏み倒した事。 しかもその食堂は警察内食堂だったんですね。 卒業してからついに払う機会を失くした私。しかし当時を振り返れば、どうやら見逃してくれた風なそこの店主。しかしいずれにしても感謝、感謝。いろんな人に感謝しながら、でもやっぱり自分自身は、その後も自分なりに懸命に誠実に生きてきたつもりだけれど、やっぱりいまだに身勝手な自由人・・かも。自分だけ気持ちのなかで幸せ、てなのもいかんですね。周りを幸せにしなければ。多くの人の支えの上に成り立つ今の私。せめてもの恩返しを、触れ合う人々に、その人達の分までしなければ。(^^)
2007年04月04日
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「得意と言えば、畳一帖程の空間さえあれば、いつでもどこでも、我が心にオアシスを持てる事」このような偉そうな言葉を、私は私の日記のプロフィールに書いております。う~ん、格好いい~~。で、これは真っ赤な嘘。人生においての日常というものは、障害物競走の様なもので、なにがあるかもわかりません。特に経営をしておればあらゆる種類の障害物に出くわします。聖人君子でも神様でもありませんので、まだまだ、なかなかそんな平常心を持って、悠長なことはいっておられません。ただ、これまでの人生において出合わす不条理も理不尽も、はたまた時点、時点における自らの未熟さでぶつかる悩みや障害も、その都度なんとかめげずに乗り越えてこられたのは、「なにくそ!」「誰もわからずとも天は、己はよく分かっている!」といった、多少未熟でも基本部分の自分への信頼という握りこぶし程度の、しかしこれこそが今日まで我を導いた、その魂の部分と言えるのです。しかし、振り返っても、確かに生きる上での支柱ではあったのですが、時に人間関係や起こる事象に思い悩むなかで、その様な時には、度々我の砦にとりあえず退却し、再び拳程度の信念というもので、再び気を取り直して立ち上がるという繰り返しだったのです。辛い時、要領が悪く、何事も直線的に素手で立ち向かうようなところのあった私にとっては、その気持ちの取り直し方というものの、正にそれは、今から覚悟して戦場に赴くかのような、時に悲壮的精神の繰り返しだったような気がしないでもありません。それはそれで、気持ちの余裕のないなかで、例えば家族との交わりを犠牲にもしながら、懸命に多々立ち向かいながら今日があるわけで、「よく踏ん張ったな」と自分自身を称えることもできるわけです。今、もちろん私の生きる上での、支柱としての魂は存在しているわけですが、多少以前と違ってきたのは、その握りこぶし程度の「魂」というものが、起こる障害や困難、未熟さから乗り越えられない度々の経験部分や人間関係においても、「この野郎!しっかりせんか自分」「しかし天には恥じることはないし間違いもない」・・等々のある種頑に身構えることによって、人生複雑也と乗り越えるような部分が削ぎ落とされ、もっとナチュラルに、軟らかく、かえって強くも感じる、しかし以前と変らぬ支柱としての握りこぶし程度の我が魂と変化しつつあるようなのです。私は、映画や小説の世界ではないけれど、傍目に軟弱そうに見えて、しかしいざとなったら強い。というようなヒーロータイプが好みですね。格闘の世界も、バットをすねで蹴り折ったり、何枚もの瓦を叩き割ったりの姿ではなく、痩せ男で気弱そうで優しい心根の男が、大男を叩きのめす。いいですね~・話は飛びますが、こんな光景も好きです。一見悪そうな、元暴走族のような若者が、満員の電車内で、さっとお年寄りに席を譲る姿。こんなの見たときには、もうめちゃくちゃ嬉しくなるんです。あの亀田一家も最近徐々に、厳つさが解けて優しくナチュラルになってきましたね。もちろん元々案外気弱で優しいのでしょうが。あれでいいんです。いい感じになってきましたよ。話は戻って、変化しつつずっと私の内に存在し続けているのは、我が人生の支柱ともいえる「魂」なのです。あらゆる障害も困難も乗り越えられる、内なるもの。それは、畳一帖分の空間にオアシスを持つより余程柔軟性を持った強いものかもしれないのです。たった握りこぶし程度の支柱としての「魂」の存在。どこにでも持ち運びできるその魂は、狭く暗い場所に留まることはありません。私のこの日記の上部には、大好きな阿蘇の草原風景が。そしてそのまた上には、寝転んだ牛さんが。私は、今でも出合わす様々なる日常の事柄に、時に草原の空間を飛んだり、そよぐ心地よい風に吹かれながら寝転んだりしながら、日常と気持ちの取り直しの空間を、自由に行ったり来たりするのです。仮に嫌な事があったとしても、心を遊ばせる自分の空間を持っているのです。その様な意味で、私の内には時に信念という心強い、私自身が信頼する支柱というものを創り続けているのです。自分が自分を信頼できなくて、愛されくてどうします?誰を頼るより先ずは身近に親友がいるではないですか。さあ本日はその様な信頼に足る仲間との交流、「福岡よびりん学校」の日です。今日は福岡で一泊します。昨夜は妻殿が用意をしてくれました。妻に買ってもらった綿シャツの封を取り、あまりに新調過ぎておかしいと、アイロンがけして折り目をほどいてくれました。こんな時、私は子供の様なものです。短長に関らず、旅する時は一切お任せです。社員さん、有難うございます。頑張って仕事してちょ~だい。宜しく。
2007年03月10日
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人生生きてりゃ、仕事していりゃ、いろいろあります。ハッピーでいれるときも、時にブルーな気持ちになることも。いずれにしても、いろいろあったときには、真っ直ぐな自分の気持ちを信じて進めば、物事は、ふと気がついたときに解決の方向へと導かれていたりするものです。今朝は、小雪もちらりと舞う、冬舞い戻ったような寒さの空模様だったのですが、今は晴れ間も出てきたようです。先日TVで、山本周五郎原作、寺尾 聡、宮崎美子主演による映画『雨あがる』を観ました。あの主人公の魂の域までにはとても到達はしませんが、宮崎美子演じるその妻殿には、観ていてつい我が妻殿を重ねてしまいます。まあ、実のところあの様な苦労を掛けっぱなしの私の人生。果たして、いい時期があったのかな?充分にとはいかずとも、せめて世間並み程さへも与えてあげれたとは到底思えない。しかし、あの場面の妻殿同様に、不甲斐無き私はよくしてもらったのである。感謝、感謝。しつくしてもし尽くしきれない感謝。一人TVを観ながら様々に、私の脳裏を想いは駆け巡ったのであります。しかしながら、映画のラストの様に、私は、その様々にあった私の道の途中に立ち止り、心晴れ晴れしている心境なのです。いろいろあった今、本心で私は全くあんな気持ちなんだけど。さて、自分自身が最も安らぐ道を、これからも気負わずに己の歩幅で歩んでいくわけです。しかしその心晴れ晴れというのは、あくまで独りよがり的なものであって、妻殿はそうではないかもしれないのです。そうなんです、苦労ばかりかけてきて、それがずっと申し訳なくて。しかし、ここまできたら、ついでにこの先の道中も、ひとつ宜しくお願いする次第。心晴れ晴れと行く私の道すがら・・時々後ろを振り返って見なければ。いつか、とうとう私に愛想つかして、横道をはずれてどこかへ居なくなっていたりして。^^;お願いしますよ。此処まで来たらついでにあの道の先まで、一緒に楽しくのんびりと旅して行こうよ。貴女もこの世に二人と居ない人だけど、私も良くも悪くも稀少な人間であることは確かだ。結局、ぴったしかんかんの夫婦なんですよ。(^^)と、これ言っても、まるっきし相手にされていないのが現実なのであります。また言われます。「ほんともうこりごり。貴方との人生・・」トホホ。^^;この調子では、『雨上がる』どころか、雲行き怪しくなるかもしれません。"^_^"
2007年03月07日
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昨日に続き本日も清清しく快晴でした。やはり明るい風景はいいものです。寒々した空模様は、なんとなく気をふさがせても、陽射す晴れ間は溜飲を下げ、全てにおいて希望をもたらし、何事においても好転していくような前向きな元気をもたらします。車を走らせながら、前方に、天高く広がる青空と白い雲を眺めていると、やがて気持ち穏やかになり、澄み渡るとでもいうような、その風景同様の広がりを、胸の内にも感じることができた私は、その穏やかなる気持ちに浸りつつ、やがてそこですっきりと、よくよく理解できた気がしたのです。人の世における『真理』というものを。我が身の心の現在地はともかくとして、何はなくとも、私にとってかけがえのない、人を観、事を観る、我が魂の最高の道先案内人である『心眼』というものを与えてくれた、親に、神に改めて心より感謝する次第。
2007年02月20日
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深夜から降り積もる雪で、今朝方は辺り一面の銀世界。通りの車は渋滞。お蔭で、会社までいつもの通勤時間の30分を大幅に超え、二時間ほども掛かってしまいました。自然というものは、人間の日常を乱すなんてわけなくやってのけます。昼過ぎて、今年一番の大雪もようやく収まり、薄日も射してきながら、街路は、また普段の光景を示しながら。時に今日のような冬らしき冬もいいものですが、気持ちの上では、身も心もかじかむ様なこの季節より、すべてが息吹く感じの春の方が、活力を呼び起こすようで、やはり待ち遠しく思いますね。今夜は、帰宅が少し遅くなりそうなので、先ほどコンビニで弁当買って来ました。コンビニでは、いつも何気なく行き当たりばったりで選ぶきらいがある私ですが、今日は、妻のいつも言う、「同じ買うなら幕の内にしなさい。特にダイエットには、バランスの取れたものの方がいいんだから・・」の言葉を思い浮かべ、しっかり幕の内弁当を買いました。その近所のコンビニへの往きかえり。雪は収まったとはいえ、暗がりの寒気厳しい通りでは、宅急便の配達の人がまだ頑張っています。レンタカー会社では、戻って来た車を、冷水で綺麗に洗い流し手入れしている若者がいます。例えば車のディーラーでは、表舞台の営業マンに比べ、雨をしのぐ屋根だけの、吹きさらしの工場で夜遅くまでかじかむ手で油まみれになりながら急を要する整備をしている人がいます。概して、この様な場では営業と整備とは仲が悪かったりして。互いに大変な部分を理解しながら仕事すればいいと思ったりするのですが。そしてつい私は、裏方の人達が気になったりします。黙々と今を生きるために頑張っている人達。私はというと、コンビニから帰って、温かい事務所内で温かいお茶で弁当を食べながら・・ふと、自分自身がいつしか、平凡なる日常にどっぷりと甘んじ、少しばかり気持ちもダレてきているのではないだろうか、と思ったりもします。手のかじかむ思いも、様々なる多くの辛さにも、逃げずにただ黙々と仕事をし、自分としては、ただ誠実に生きてきたつもりだけれど、果たして今はどうだろう。経た年月に、妙に中途半端に人生を分かった風で、それはあくまで自分だけの身勝手な納得部分だけであって、さて、家族や関わる人々を、どこまで幸せにできただろうと考えるのです。平凡な日常こそ、本来は最高なものであるともいえるのですが、まだまだその真の平凡な日常さえ、家族にプレゼントしたとは言いがたいかも。有する私の性格が多分にあるとしても、やはり、良い意味での、ここぞという部分への執着と粘りに少々欠けているかもしれないとも。ついつい、人生こんなもの・・の日々に甘えてはいないだろうか。今日は、少々自分自身を省みながら、又明日を想うのであります。昔から、様々な障害や辛さに度々直面した時、私は、精神的にへたばりながらも、その時に自分自身を叱咤激励してくれたのは、もう一人の自分でした。「おいおい頑張れよ、なんだ、それしきことでへこたれて」「どんなに、割りの合わない、報われない状況でも、俺が見ているだろうが。しっかりせえよ!」と、自分で、情けなくも弱気なる自分を励ましたものです。もちろん、何も言わずとも愛するものは心の支えとなり、またそのために、家族と仕事に対する責任感でひと頑張りできる。そして、やはり最後には、立ち上がるも立ち上がらないも、全ては自己の手のなかにあるということなのです。逃避も非逃避も、どちらも選択は可能。やがて過ぎたとき、どんなに嫌な事も辛いことも、不思議に、その後の良き事ひとつで、大したことなくなるんですね。それに、もうひとつ私を踏ん張らせたのは、世の中、まだまだ自分より凄く辛い経験した人や渦中にいる人が山ほどいるということ。それを知ると、己の経験なんてまだまだ、弱気になる自分というものが恥ずかしくなってきてまた立ち上がれるのです。そしていつしかそれら経験は、自分自身の力強いばねと相成るのです。しかし、しかし、今日ふと我を省みたのです。おいおい俺は、なんかだらだらと日々に甘えて、精神が緩みすぎているんじゃない?と。私、もちろん今でも弱い部分ありますから、つい迷ったり弱気になったりすることもあります。そんななか、この所仕事面において、自分自身が少々だらだらっとして、何かぴりっとしたものを忘れかけていたようです。もう少しメリハリつけて、仕事に頑張らなければ。そして後に人生を有意義に楽しまなければ、とそう思った次第。加えてちょっと、額に汗かく部分が欠落気味だったかもと大いに反省。さてさて、そして最近は、以前にも増して、自分に対話すること多くなりました。朝に、「おいおはよう!今日も誠意を持って一日がんばるぞ!」会社からの帰りには、「お疲れさん!今日はいいことあったね」「あれはいまいちだったね。反省、反省」等々心の対話をしているのです。自分のなかの自分。それは、実に信頼に足りて心強い、永遠のパートナーなのであります。昔も、今も、傍らで注意してくれる自分がいるということは心強いものですよ。このもう一人の自分は、時々、いたずらの虫が出るところが要注意。まあしかし、長い付き合いのなかで、至らぬ点も苦笑することも多々ありますが、それはそれでなかなかいい奴です。いい奴・・て、これ私なんですから。”^_^”自画自賛?ということは、もちろん失敗やらかせば、自業自得なわけでして。要するに、自己責任という明快な、我が人生の摂理ということになるのであります。2月10日(土)は、誰でも参加可能な福岡よびりん学校5期2回目が開催されます。福岡よびりん学校主催者さん
2007年02月02日
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朝から、仕事とは無縁の来客続きで、結局今日は一歩も外に出ないままで、時間を忙殺。実質、本日の仕事は、朝の内に一点、夕方に一点と集中して完了。まるで獲物を追うチータの様に、ここぞという機会を逃さず、やるときはやる。格好いい~~ (^^♪とはいかないんですね。なんせ私、牛さんのように普段は、草原でのんびり草を食んでいるようなタイプですから。のんびりな平和主義者。なんだかマイペース過ぎます。いつもながら、やるかやられるかの戦国時代だったらひとたまりもないなと思うのです。平和な世の中、現在は殺される事はありませんが、しかしある種、競争は同じようなもの。そうそう、正月にTVドラマで『明智光秀』やっていましたが、私、昔から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・といった所謂歴史上に大きく輝く英雄といわれる人達より、光秀達のように端役の人間につい惹かれるのです。歴史上には、陰にまわった人物にも、立派な人物や武将はたくさんいるのです。まあしかし、私など、到底、英雄にはなれる器なし、秀吉のように一回りも二回りも大きく立ち回れず、そう、せいぜい光秀と同じ。というのもおこがましいく、光秀殿の小指の先ほどかな。そういえば、会社勤めもなんか似た部分があったかな・・とも。猿さんも狸さんも鷹さんも大苦手だった頃の・・まあ直線的若気の至り。折々においてよくダブらせたものです。しかし結果は、信念に幸有?。7度の転機はラッキー! (^^♪結局私は、自分で自分なりのやり方をするようになっていたのですね。その為には、小さくとも一国の城主になるしかなかったのかもしれません。とはいえ、明智光秀は、一城主として立派な人だった様です。そこのとこが、今回のドラマで描かれていて報われたようで良かったと思います。政治家を含むTV画面を賑わす面々も、どの様に包み隠そうとしても、顔に、言動に自ずとその人の品格というものは出るものです。その点、ただの三日天下の反逆者と揶揄される明智光秀の方が、現在仮にその顔を見ることができるとすれば、余程に人格に誠実なる品性を持っていたと思えるのです。大きく立派な人物にはなれずとも、せめて、明智光秀やその他歴史上の傍らに消えていった素晴らしき武将達の小指程を良し、としながらも、至らぬ点を反省し、少しは度量も大きならなければ、信長殿、秀吉殿、徳川殿の、これまたその良さの、小指の先ほどでも取り込む努力もしながら、私こと、牛さん経営者は、ささやかながら日々精進しているわけであります。(^^)遅々として思うように進歩しない人生ではありますが、結構幸せなのであります。徹底的に何かを手に入れる!というよう部分が欲しいところですが、少しのことで直ぐに幸せ気分になるのです。(^^♪どうです?羨ましいでしょう。えっ?性根がない? トホホ。しかし、やはり日々、一歩進んで二歩下がる・・!?でなくて一歩後退しながら二歩進む、で前向きに生きなければなりません。遥か彼方に道は・・?あります。あります。ずっと続いていますよ。道が続く限り、同じ歩を進めるなら、昨日より今日。そして現在地より明日へ。ハッピーに成長し続けたいものです。日記書き出したら、いつもの調子でまたなんか脱線してしまいました。^^;さあそして、もう週末です。仕事始めが10日だったから早い~~。悠長な事をいいながらも、我々はまったなしなのですね。月末はすぐにやってきます。ああして、こうして、ああなって・・のんびりしながらも、とりあえず短、中期のスパンでしなければならいことをなんとなく頭のなかで巡らせているのであります。えっ?もうこんな時間?日記書いている場合じゃありません。腹減ったのでもう帰ります。このまま続けると夜中になってしまいます。帰宅して妻の手料理を食します。美味しいですよ~~。なにはなくとも、もうこれで幸せ満点です。(^^♪・・・今日は、なんかもうわけわからない日記になってしまいました。^^;
2007年01月11日
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・・三丁目の夕日を観ました。数々の賞を取った映画だったのですが、遅ればせながら先日放映されたTVにて。評判どおりとても良かったですね。年末に、またひとつ私の心に宝物が増えた感じです。決して物や金銭の多寡ではなく、何より代えがたい財産となるものは多々あるものです。いつも思うことですが、それは個人の考え次第で、如何様にも人生を実り豊かにし、又、人間皆等しくその受容の機会を与えられていることを、心底有難く思うのです。この映画に登場してくる当時の光景も、それぞれ様々に豊かなの『個性』を持つ人物にも、子供時代に、私は確かに出合ったようで、観ながらもつい感情移入してしまいました。荒削りの無骨で尖った『個性』・・要するに『人』が人として、生き生きと人間と人間との関わりのなかで心の温もりが踊っているというか。短所も長所も、表面に窺い及ぶその人の、紛れもない人間としての気持ちそのものが息づいていて、それ自体に、今の世の無機質感とが違い、温もりを感じて何故かほっとするというか。そして、決してノスタルジックに涙したわけではないのですが・・。その昔、やはり私も・・町内の菓子店に、唯一初めてのTVが入って、近所の子供たちは、夜になるとぞろぞろ連れ立ってそのお店にTVを観るためにおじゃまさせてもらったものです。私もその中にいました。もちろん礼儀として手に10円玉をしっかり持って。その店で買った駄菓子を手に、皆が行儀よく正座して正面の白黒TVを目も白黒させながら観ていて。三輪ミゼット車も走っていて。・・昔は友達のいるご近所へ、互いに夜でもわいあい集まっていたものです。家人も快く受け入れてくれ、気軽に話しかけてくれたり、その内帰宅した無愛想な親父さんも意に介することもなく。今から考えるとあの時代は、よくもよその子を気軽に受け入れてくれたものだと思います。大人と子供の間に生活における垣根はなく、しかし、子供から観た大人は大人としての、やはりなんとはなくの一目があり、大人から観た子供は子供として、叱りもし、心で抱きもし。互いに接し方の無骨さはあっても、そこに魂が存在していれば、決して今の世の様にはならないのかもしれません。おせっかいにも似た真の関わりというものは、いつの世も大事なのではないでしょうか。・・友達の家に遊びに行った時必ずその時には、おばさんがテーブルに何か出してくれて。夏はスイカ、そう白い『初恋の味』がキャッチフレーズのカルピスも定番。民家の垣根越しに、子供たちや大人達の日常の会話が飛び交っていたりもして。あの映画の様にそれぞれの人の『個性』というものは良い意味で尖がってもいて、そしてその人としての『尖り』そのものに、頑固も、明るさも、物静かさも、がさつさも・・そういった性格の部分を超えて、人としての心の温もりがあって。近所の頑固親父も、おせっかいなおばさんも、子供が成長する過程で遭遇する事象と登場人物の誰もが、しっかり息吹いて存在していたような気がするのです。粘土をこねくり回す様な、がちんこの関わりのなかで、人は気付き、考え、感じて成長していくのではないでしょうか。・・昭和二十二年、光文社刊による定価二十五円なる『一握の砂』石川啄木。私のまだ生まれぬ前の、父が独身時代の青年期に買ったと思われる一冊。子供の頃、これを父の机のなかに見つけ、その後こっそり自分の机に移したまま、私は密かに大切に保管していたものです。父子の会話もほとんどなく、しかしその後姿に愚直さと誠実さを子供心にしっかりと感じていた私なのですが、青年だった父はどのような気持ちで読んでいたのだろうと。私が中学一年になった時、私は自分の小遣いで、新潮社から発刊された『一握の砂』を買ってきて古い一冊と同様に、それもまた大切に今も手元に置いているのです。私は、どちらかというと口数は少ない方です。特に子供頃は孤独に自分の世界に遊ぶというか。(というと知っている人は!?と笑うかもしれませんが、寡黙も時に饒舌も、どちらも二面性を持った私は、もちろん事実の私。”^_^”)映画を観ても、音楽を聴いても・・感動した感情というものは、更に無口になって、どちらかというと内に、内に広がってくタイプでした。ほとんど父子で交わす言葉も少なく、成長期においての反発もしながら、しかし世渡りの決して上手くない父の背中に、その人としての奥にあるものを観て、そして私自身はそれ以上の何をも表現することもなく、心の中に父としての信頼の気持ちを落としている。いかに暗い印象を受けようとも、自分自身としては、父とのほとんどない会話の関係も、今でも思い起こせば、深く胸の内に膨らんでいくのです。『尖っている』ことは、良しなのだと思います。私など、多分にお節介で、やや空回りで時に自己嫌悪に陥ることもありますが。^^;尖るということは、決してつっぱるというのではなく、人が人として先ず心が存在して、例え欠点多く、人間としての荒削の部分があったとしても、やはり感情豊かな『個人』として、この先も生きて行きたいと思うのです。今の世は、何故か妙に分別くさく、オブラートに包まれた様に、相手への関わりも希薄で、人もゲーム上に登場するもののように無機質で。小さな時から塾通い。それよりまだ子供の成長過程にあって大切なものがあるのではないかと思うのです。端から競争のなかで育ち、しかしそれはあくまで『自己愛』というもので人生を終始する。常に自己に向いた被害者意識と傷の舐めあい、馴れ合い的関わりの蔓延。時には必要な、相手を思う故の心の怒りも関わりも・・現代の喧騒の世の中で、その内ピクリとも人の感情に揺れもなくなる恐れ。小説を読むのも、音楽を聴くのも、自然を愉しむのも、・・人として、悲喜、恐怖・・感情と想像力を膨らませ、育んでいく事こそ長い人生におけるその人の幸せを全うする上で、真に大切なのではなかろうかと考えるのです。暴力の傷みも戦争の恐怖も自分ごとのように感じることができる。『明るい』、『暗い』、それらを超えて、心の内に豊かな感性を育んでいる子供は、そして大人というものは、感謝と謙虚さと持って、他人の傷と痛みを我が事のように察しえる事ができるのではないでしょうか。
2006年12月05日
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働いても働いても豊かになれない…。どんなに頑張っても報われない…。今、日本では、「ワーキングプア」と呼ばれる“働く貧困層”が急激に拡大している。ワーキングプアとは、働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない人たちだ。生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1。400万世帯とも、それ以上とも言われている。景気が回復したと言われる今、都会では“住所不定無職”の若者が急増。大学や高校を卒業してもなかなか定職に就けず、日雇いの仕事で命をつないでいる。正社員は狭き門で、今や3人に1人が非正規雇用で働いている。子供を抱える低所得世帯では、食べていくのが精一杯で、子どもの教育や将来に暗い影を落としている。 NHKオンライン「NHKスペシヤル」記事より抜粋昨日、朝のTV番組では、臨時教員という肩書きの女性の事を映し出していました。この方は58歳で、ある小学校の臨時教員。臨時教員という肩書きがどのようなものなのかを私は知りません。一日数時間、そして不定拘束された雇用形態なのか。この方の収入は78万・・といっても月収ではありません。なんと驚くべきには年収が78万。たかだか数時間の勤務でも、必要雑務でサービス残業もあり、しかも安アパートに帰宅した後も、翌日の子供達の事を考えると、貧困なる自分の日々の生活に疲れながらもなおざりにもできず、あれこれ準備にまた時間を取られます。この方は根っから教職の身に意義を持ち、子供達が好きで・・この想いただ一点で、極端に収入的に恵まれていない今の教職員の現場にも、ずっと誠実に関ってこられたのだそうです。しかし、真摯に対峙されている神聖なる教員という立場にも、やはり年収78万の生活の現実は厳しく、時にふと自分の今を思い悩み、迷いの気持ちも湧き上がってくるというのです。それはそうでしょう。もはや職の立場をどうのこうの言う段階でもなく、先ずは己の身を先に考え、とりあえず現在地から逃げることを考えるのが、大半の一般人でしょう。着るものは行きつけの古着屋で時々買い求める一着500円、あるいは高くて1000円のもの。もはや、生活を切り詰めるなどという以上の困窮さなのです。最近やっと月額5万支給の生活保護を受けることになったとのことですが、尚この方に感心するのは、その生活保護申請にも、「教職に尽くす働く身で、果たしてこの事が責任者としてよいのだろうか・・」と随分と悩まれたのだそうです。その責任感と誠実さに頭が下がります。このような人こそ、真に必要な教員であり、教育の最前線にいるべきだと思うのであり、また報われなければならない人であるはずなのです。又、別の事例では、二十歳の若者が奥さんと生まれたばかりの赤子を抱えて、中卒という経歴が影響してか、契約社員的作業現場を渡る生活を余儀なくされていました。年収250万程度で、しかしこの若者も誠実に懸命に夫婦で生きています。しかも、家計を助けるために、日曜日までもアルバイトに出掛け、自らの休日は全くゼロなのです。けれどもこの若者は「家族のためですから・・」と、現実に対して誠実に懸命に生きています。勘違いの優しさ、甘えが蔓延する世のなかで、この方達の「生きる」に敬服し、この日の放送の画面を私は決して忘れず、これから先も時々思い起こしながら、私もまた勇気付けられ日々を気を引き締め頑張れます。本来休みのこの日、詰まった仕事もあるものですから職場にでますと、近くの会社の知り合いが訪ねてきました。50歳近いこの人は昔から知っているのですが、数年前に地場では大手になる会社を、知る限りリストラに近い形で退職。安泰の職場が長く、おそらく波に揉まれたこともない仕事人生でしたでしょう。退職したその後、転々とし、今年、これも私の知る会社に入社。時々、ひょこっと顔を出し、いろいろ愚痴って帰るのです。人は悪くないので、「まあ疲れたらお茶でも飲んで行ってよ」といっているのです。昨日も、「nextさんはいいね。自分で好きにバリバリ仕事やって」「自分でやった方がよかろ?」「私もやっぱり独立しようかと思っている」独立しょうか・・の話は随分前から度々聞いているのであります。^^;「あのね、○○さん。気楽に自由にやっているように、傍からは観えるでしょうけど、社長は大変ですよ」「責任大だし、年がら年中気の休まる時もなく、責任の為には、今病気になってもすぐには休めないかもしれない。職務を果たすためには親の死に目にも会えないかもしれない。」「歌舞伎役者が舞台の上で、プロ野球の監督が大事な試合中に・・自分が責任を持っているの間は、例え身内が危篤状態のなかでも、その場を離れられないのと同じですよ」「もちろん胸のなかでおいおい泣きながらもね」「悪いけど、私は一社員で働いていたときにも職務のためにはその気持ちを持っていましたよ。振り返って、その時のその気持ちの強さが良かったか悪かったかは別にして・・少しばかり家族が後回しになったかな・・」反省。^^;・・・「でも、そのような覚悟と責任を持てれば、独立したら?」その後もしばらく、あれこれ今の現在地の不満を・・「○○さん、まだ今の職場、三カ月しか経っていないでしょ?先ずは会社の為に頑張ってくださいよ」はっきり言って彼はこの会社に拾われたと私は思っている。もう少し感謝の気持ちで役に立てれるように、の想いが先決でしょ。私だったら、この正社員さんを『ただ』でも雇いません。リーズナブルなレストランでは、経費削減が価格に反映されるとして、パートの店員さんの人数は極限状態で賄われています。忙しい時等、観ていて可哀相な位、目まぐるしく働いています。懸命に今日を生きているこのパートさんを二人雇用したほうがよほどいいです。あちこちで甘えず、というより甘えられず懸命に今日という日を生きている人達に、いつかきっと幸せあるように。いえいえ、すでに人として、幸せも価値も十分にその人自身が携えているかもしれません
2006年11月16日
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動物占いによると私は、満月グループ はどはど組の黒豹らしいのです。確かに当たっている部分もあるかも。特に生涯現役・・は、なるほどと思ったりします。それは、ずっと仕事を続けるというのではなく、終わりのその瞬間まで、人としての感性の部分は、やはり生涯現役で持ち続けていたいと願う自分自身がいるからなのです。というより、齢を重ねていきながら、感性の意識は益々明瞭なり、この先どこでどう老いるのか、私自身さっぱり見当もつきません。正直なところ精神は子供の頃と何ら変わらない、というか未成熟というか。現在の自分の実齢と精神がどんどんギャップしていくようで・・齢取るということが現実として認識できないような。音楽も景色も・・いくらでも新たなるどきどき感に遭遇して・・趣味もいっぱい発見して。まるで人生は永遠の様な錯覚さえ。で時々、いろんな場面において、えっ?と、すっかり年取った現在地を認識させられたりもして。私は、モクモクと煙草の煙漂うなかで頭突合せ何時間も費やす麻雀も、騒々しいなかでのパチンコも、予想紙片手の競艇、競馬の人並みも苦手です。誤解しないでください。決してそれらを否定するものではありません。趣味の領域ですから、人それぞれの人生を愉しめばよいわけです。あくまで私の場合は、上記の様ななかに、自己を逃避的に埋没させてしまう様で、時間をもったいなく感じ、それならばまだ空を、海を一日中ぼ~っとでも眺めつつ、自由に心飛ばせて時を過ごしている方がよほど有意義に感じるのです。じっとしながらも心はあらゆるところを飛び回り疲れることをしりません。何時でも人生を方向転換できる、何にも捉われない真の自由というものを、自分の手のなかにしっかり捉えていなければ落ち着かないというか。元来自由人の要素が強いらしく、仕事でも組織でも、又趣味においても、人との付き合いにおいても、自らを時間と現在地に固定されてしまう事への恐怖感というものがあるかもしれません。ですから、仮に私にその才覚があったとしても、過分な不動産を持とうという気はさらさらありません。ましてや、それによって、たかだか70年の人生を固定される子の人生というのも避けたいと思う方です。もちろん引き継ぐ人生もまたありとは思います。歌舞伎の世界などのように、伝統を引き継ぐなどはとても良いことではないでしょうか。私もそのような部分においては納得です。要するに貧乏性なのでしょうか、身辺身軽が一番気楽で良いような気がするのです。かけがえのない人生における自由。まだまだ反省ばかりの日々において、しかし、だからこそまだ到達できない自分の先というもを目標として、また生きている意義も勇気も湧いてくるというものです。しかし、自分のことで精一杯だった私の自由な人生故に、迷惑掛けっ放しだった家族と、これまで生かしてくれた世間の人達に、果たしてこれから先どれ程に恩返しができるだろうかと少々焦りながらも深く思いつつ、しかし情けないかな、未だ己の管理で精一杯で、人としてままならぬ自分自身なのであります。まあ、決して何にも束縛されない心の自由を謳歌しつつ、あちこちぶつかりながらも、めげずにしっかり前を向いて、これまで通り、自分なりの歩を進めていきましょう。いや~益々頭の中は明瞭に、そして自由な空間が。やがて歩んで行ったその先に道は突然消え、真っ逆さまに転げ落ちたところが柔らかく青々とした芝生であれば、またそこから自由な心を持った私が立ち上がり前を向いて歩き出せるのです。未熟な私は、まだそこでも、完結しない自分完成と恩返しを模索しながら、身を心を彷徨わせているかもしれません。時に立ち止り、広がる空や草木を眺めつつ、時に景色に同化しつつ心はいつも自由に飛び回り。やはり自由な心だけは何よりかけがえのないものなのです。誰もが持てる自由な心。
2006年10月31日
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良き妻であるには、決して『賢妻良母』ではなく、『良妻賢母』であってはほしいと思います。そして夫婦の在り方・・人それぞれ、当然にものの見方や価値観には差異があるわけですが、この、ものの見方、価値観というところの大切な点はというと、例えば性格が明るいとか物静かだとか、好きな色は赤だとか青であるというように、それぞれの個性を意味する部分と違い、道徳的に良識があるものの見方ができ、思いやりがある等、人格の基礎となる領域ですから、人としての在り方においては、やはり夫婦共通して同じ見解でありたいと願うのです。又、夫婦だけなく、やはり人として、価値観、ものの見方は大切でしょう。特に夫婦間においては、互いに一目おくというか、相手に尊敬に値する部分を持てるかどうかが、人生を連れ添う上での信頼感を生み、縁あったもの同士として確固たる絆の上に、夫婦として人として、幸福の人生を全うできるかどうかの重要素でもありえるでしょう。かく言う私は、実際には、家庭人として良き夫の役目を果たしておりません。しかしながら日々努力して、いつの日か、しみじみと二人して、振り返ったその人生に乾杯できれば最高だと思うのです。 記: 平成元年11月10日やがて月日は当然過ぎ行き・・「生まれ変わっても、また一緒になろうかな~」(^^)←私。「ほんと苦労ばかりさせられて・・、もうこりごり。次は貴方のようなB型、絶対結婚しない!」←A型妻。・・・と言われ続けております。要するに私は単なる口先だけのダメ夫。トホホ ^^;しかし、B型だけは余計じゃあないの。私は、まともなB型で~~す。(^^♪ 信じてください。"^_^"
2006年10月28日
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人はそれぞれの人生において、生きてきた証としての、その人だけの体験があります。悲しみも喜びも、失敗も成功も、窮乏も富みも苦境も。それは決して、金銭の多寡だけで量ることのできない、その人自身の財産として生きている間、個人の価値観の取り方次第で、まぎれもなく存在するものです。ですから、例え一言で言い表せない程の人生を送ってきた、あるいは現在においても送っている人も、その人が経験した分、その人は、自身の心の捉え方次第で、かけがえのない財産を心に所有している幸せ者である場合もあるのです。様々な方との出会いでは、時に、笑顔の裏にとてつもない程の人としての奥行き感を感じる方がおられます。未熟は私にも、価値ある存在の人というのは判ります。人間的大人とでもいいましょうか、身分も地位も超えた部分で、おそらく想像に絶する程の辛酸を経験してこられた故の、居心地良い、懐の深さと間というものを感じさせるのです。幸せのある部分を、金銭的潤いの最低必要額が占めることも確かですが、人が人として存在すために大切な人間性とか、真の幸せ感を充足させ得る心の糧としての財産は、決して良い事柄ばかりによって成り得るということでもなく、経験した負の部分にこそ、これから先の自分の人生における、大いなる財産、あるいは糧と成り得るのです。経験はその人自身が持つ、かけがえのない財産として、人生における心の充足感をもたらし、限りない程の、幸福感を友とすることができるでしょう。その財産とするところの多いほど、人生路における心強い杖となるのです。しかも、先の、辛さを越えてきた懐の深い人との巡り会いも又ありで、実に幸せなる人生の旅を、片道列車の合席で、時に車窓の遠景を眺めつつ、気取らない平和感のある会話を愉しみながら送ることも可能なはずなのです。私は、不動産業界に身を置いて数多くの取引に立ち会うことができました。700件は超すでしょうか。どれも思い出しますし、その都度とても良き出会い、印象深い取引というものがありました。そのなかでも、最も印象深い取引を一つ挙げるとすれば、それは、ある取引のことを思いだします。数年前のある取引でしたが、全て完結するまで半年がかりでした。価格はびっくりするほどの低価格で、しかも手数料は0円のものでしたが、条件内容は取り掛かる前から了解済の事でした。その頃は、私自身とても多忙な時期でした。その様ななか、私自身、相当の時間を割きその案件に取り組んだのですが、全て完結したときには、私なりの満足感がありました。手数料0円のこの1件の仕事。これを成すために、私はこの業界に縁があったのだと思わせる程の、私なりの自己満足感と、とてつもない幸福感を味合うことができたのです。今でも、これこそが経験した最高の取引だと思っています。そして私のかけがえのない財産として、胸の内にいつまでも存在しているのです。数多い私の財産の一つに過ぎないのですが・・・。事の起こりから、1人の友人の死によって完結したこの出来事。その間多くの人が絡んだ、今でも夢のなかの出来事のような、関る人々に感動さえ与えてくれた1人の友を巡る半年間。まるでドラマを観ているかのようなその出来事の、不動産に関るほんの一部分に、私自身が関れたことを、とても嬉しく思うのです。私をはじめ多くの人に、胸いっぱいの幸福感をもたらしてくれたのです。いつかこの事を書き記す時があるやもしれません。いずれにしても、人はどれほどの自分自身の財産を持ちえるかだと思うのです。様々な経験は、心の持ち方ひとつで、誰よりも幸せなる人生の拠り所を一生の友とすることもできるのです。これは決して、身分、肩書き、金銭の多寡とは別個のものなのです。誰しも持て、しかし誰しもが持つことができないものなのかもしれません。
2006年09月26日
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先日TVで、聾唖者の青年が、医師の国家資格を目指している姿を放映していました。知らなかったのですが、昭和23年制定の医師法による欠格事由によると、聴覚障害者は、その専門的知識取得において困難が予測されることをもとに、人命を預かる医療業務という特殊性を踏まえ、これまでこの様な障害者の方にはその医師への途が閉ざされていたとの事です。しかしこの放送を観る限り、制限緩和に向けて動いているようです。放送のなかの青年は、限りなく純粋に、人のために役立とうという強い思いで医師を目指しています。そしてこの青年は、大切な心の部分を持っているからこそ、途が拓けた将来において、おそらく患者の心をも、信頼をも掴み取ることができることでしょう。果たして今、彼のように純粋な心で医療の場に立つ、あるいは目指す医師、医学生がどれほどいるのでしょうか。やはりいつか雑誌で、高齢の町医者の話が掲載されていました。そのお医者さんは、訪れる患者さんに出す薬が極端に少ないそうです。無用に薬を出すのではなく、十分なる患者への問診で、治せるものは治すという主義で、その町の小さな界隈で、患者の絶大なる信頼得ておられるのです。もちろん、処方箋の乱用なきゆえに、金とは縁遠い様子の開業医なのですが、写真の顔を見れば解ります。医療の立場に立つ人間として、とても信頼に足る医師だと。温もりのある顔をされていました。TVのなかの聴覚障害者の青年の目は澄んでいました。父である老年の開業医師は、真の医療の現場を心から真剣に目指している息子を、閉ざされた資格制度のなかで、自分も懸命に手取り教え、その気持ちを大切に支えてこられた様子も、また感動でした。この障害を持つ青年は、もうそのひたむきさで、障害云々より、医療の現場に立つ資格は十分あるのではないでしょうか。私には、華々しい医師という側面での医者より余程にそう確信できます。よく思うのですが、教育の現場でいえば田舎の小さな学校の先生、あるいは、村の駐在所の警察官だったり、町の診療所だったり・・、小さな現場にこそ、職本来の精神を全うしながらしっかり頑張っている人達が多いことを。何より温もりを感じ、その人自身の、人格の信頼を感じ取ることができるのです。是非、医師資格を目指す、あの聴覚障害をもった青年が一日も早く希望通りの途を歩まれんことを。そして、どのような職の現場においても、その町で、患者と共に信頼を根ざしている一介の町医者の様に、駐在所の警官の様に、山村の分校の教師の様に、真に周囲に役立つ、明るく自分の責務を果たす崇高なる職務精神をしっかりと持った人が、数多く輩出されることを願うのです。
2006年09月23日
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私の父は、若い頃銀行マンだった時期がある。商業高校を出てすぐに入行したらしい。入行して何年にもならない内に、慣れない心労からか胃潰瘍を患い、半年近くの入院を余儀なくされた父。口数も少なく、どちらかというと生真面で、人との関わりも得意ではなかったかもしれない。その父が、入院により休職をすることになった時、「休職の身で、職場に迷惑を掛けたまま給料をもらっては申し訳ない」と、自ら退職願を出したのだそうだ。その後、回復した父は、地元の会社に就職した後、数年して自ら事業を興した。けれども、ただ実直が取り柄のような人間であった父には、元々荒波の商売など似合っていなかったかもしれない。一時的に景気の良い時もあったようだけれど、丁度私が高校生の時、父の会社は倒産に追い込まれた。当時直面した不景気の波に、取引先の連鎖により、頑張ってきた自らの会社を閉めるに至ったのだ。もう少し図太さと立ち回りが上手ければ、回避できたのかもしれない。ただその時、関係者は逃避したけれど、その場に残り負債を受け止めた。ある日、帰宅したら我が家の家具、私の大切なステレオにまで、差し押さえの紙が貼ってあった。私の不在時に税務署の担当官に来てもらったようだ。(現在の仕事をしていて私と同様のケースの方に会うことがある。私は、笑って再起を応援する言葉を掛けるのである。)その後、父は黙々と働き、そしてまた様々に事はあったりして。父が病気を患い、職場に迷惑をかけるに忍びないと、銀行を退職した理由は、祖母から聞いたような気がする。本人は決して言うような男ではなかった。そして、私が小学生の頃聞いたその話を、当時においても子供心に誇らしく思い、そっと胸の内にしまったその後も、私は、時折ふとしたときに、その事を思い出しながら生きてきたのだ。私の人生で、声を掛けられ、縁合って採用していただいた会社。ある独立創業されたばかりのその会社で、入社したばかりの私が、夕暮れ時に営業から帰社すると、事務所には電気が灯っていない。ドアを開けて事務所に入ると、薄暗がりのなかに社長はぽつんと椅子に座っておられた。創業期で大変なんだな、と感じた私は、その後、真夏でも車のエアコンのスイッチを入れる事はなかった。少しでも、経費削減をと思ったのである。少しばかり古い考えかを持つかもしれない私は、お世話になる会社というものは、その会社のためなら、自分の家財を質に入れてでも、大変な時に尽くすのは当然の事、という愚直なる考えをずっと持っていた。決して社長に良く見られようとの保身もなく、極自然な思いで。その後も様々と経験する折々において、「あっ!なんか親父に似ているかな・・」と思うこともあったのである。いいではないか人それぞれ。父と私は、その互いが生きてきた家族縁のなかで交わした会話というものは、おそらく一般的な家族の100分の1にも満たないかもしれない。倒産のその大変な渦中。就職か進学かの狭間で、なんとかいろんな方の援助で大学には転がり込んだ。この事は、生涯唯一の私の甘えだったかもしれない。その後は、当然、仕送りなんてほとんどなかったけれど、この時のお蔭で、勉強はともかく、妻とも出会うことができたのだ。考えてみれば、親父の倒産万歳!でもある。大感謝。回り回って、なんとか今でも、自分の力と人の縁によって生きている。私も父と同じく口下手で、特に家族にはなんか気恥ずかしく、故郷を離れ、たまに帰省したときにもほとんど会話をすることもなく年月だけが過ぎていった。心中は、莫大なる想いを持っていたとしても。時に帰省したとき等、朝早く、昔から変わらずにまめに神棚に手を合わせ、一時経営者だった時とは、雲泥の差の現状の仕事にも黙々と日々出掛ける父は、その出掛け際、まだ寝床にいる私に、寝相悪くてずり下がった布団を、そっと掛け直してくれるのである。いつも。私は、又、いつも横向きに顔を隠し、その父の動作を、気恥ずかしさを持って知らん振りで受ける。その後も様々にあり過ぎる程にあって・・何十年も月日は過ぎながら、相変わらず、会うときにの会話はほとんどなく。自分でも歯がゆいくらいに本心とのジレンマ。そして、その父も数年前に亡くなった。我が子らしい振る舞いを、私はできぬまま。良くも悪くも引き継がれた少しばかりの父のDNA。同様に生真面目すぎるところはあるけれども、私の場合、少しばかり反骨精神があるから、荒波にもなんとか頑張っている。黙々と働きながらも、やむなく転職を繰り返した私。私は、その時々の職場において、私自身を求めて彷徨っていたのかもしれない。
2006年09月13日
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昼のコンビニで、どこか近くの工事現場に入っているのか、作業着姿の茶髪の若者が、カップヌードルにポットからお湯を入れて出て行く。おいおい、大丈夫かい?そんなので。すっかり陽も落ちたコンビニで、おにぎりとつまみと缶ビール1本を買っていく、陽に焼けた顔をした仕事帰りの若者。一日お疲れさん。明日はきっといいことあるよ。日曜日の国道を、勢いよく私の車を追い抜いていく、一見ちょい悪そうな若者と彼女が乗った車。その中古の軽の室内は、しかしとても幸せそうで愉しそう。1人徹夜もしながら、自分のボーナスを他の従業員に回しながらも、黙々と頑張っていたあの頃の一社員に過ぎなかった私。ある時期には、給料を毎月毎月、自分だけ遅配。しかし皆の為ならいくらでも自分の我慢もOK、としていた頃の私。八度の転職のなか、いつの時も、めげることなく、逃げることもなく、手を抜くこともなく。それを誇りとしながら、その都度縁をいただいた会社には、恩こそ思えども、決して恨む事もなく。仕事に、生きることに誠実だったと思う自分なりの自負と生きてきた証が、私のかけがえのない人生の勲章でもあり。そして、だからこそ、懸命に、甘えず黙々と生きている人を応援したくなるのです。特に、エリートでなく、日の目を見ないような、裏方的な人達に、つい目がいくのです。同時に、私も原点に還って、あの時代を思い起こしながら、再びこちらが勇気をもらったりするのです。今日、楽天仲間のときさんから、手作りケーキの箱詰めが届きました。ときさんのケーキは楽天仲間での定評があるのですよ。早速我が家で美味しくいただきました。サンキューです。 ケーキ工房TOKI
2006年09月11日
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人は、その人自身が持ち合わせているもの(性格・五体・・)、あるいは生きてきた道程からの経験則によって様々に感じ得ることがあります。心優しく臆病なところがあれば、例えば、絶つことのない争いのなか、悲壮感の坩堝の中東等。日常的な出来事として報道に映し出され続ける戦渦の恐怖を、自分もその只中に置くことで、心底その悲惨と恐怖と悲しみを感じ取り、瓦礫の中の泣き崩れる人に、強い憂いを持つでしょう。愛する我が子を持つ親は、他人においても肉親の気持ちがわかるでしょう。心に病を持つ人は、同様に病を持つ人に共感するでしょう。例えば五体不満足であったとすれば、その不満足の部分について、不満足の人のその箇所の心の痛みをわかるでしょう。街角で、重度の障害者の方を見かけることがあります。歩行もままならず、身体を揺すりながら歩を進めておられます。目的地まで、健常者の歩の何倍もかかる時間と、そして時に衆目を感じながら。通勤途中、スクールバスを待つ、障害者の子供さんと母親を見ます。毎日こうして、しっかりと子供さんを支えておられる親の、しかし、将来いずれは年取っていく我が身と我が子への漠然としながらの不安を推し量ったりもします。私の心に捉えられる様々な情景。単なるセンチメンタルな偽善的感情かもしれません。私が当事者であればいかほどの強さと真の愛を持てるかも疑問。世の中想像に絶する困難に遭遇している人は多くいます。肉体的な痛みを感じるとき、とてつもなく痛いときは、「うっ!」と声も出ません。同様に、愚痴も、声もでない、嗚咽するような過酷な苦しみの状況下にある人も数知れず。しかし、それを乗り越え強く生きている人もまた多くおられます。我々が容易く口にしがちな、「辛い、苦しい・・」等は、甘えの構造から発する場合が多々あるのです。苦しいながら、誰も助けのない時も、逃げ込むところも持ち合わせない人は、自分自身で立ち上がるしかないのです。生きるということはそういうもの。放棄すること自体が、「生きる」から引き離されることになるのです。職を切り捨てられることになるのです。その様な状況下に置かれた人がいることを、どれだけ推察することがあるでしょうか。つい恵まれている自分の状況下を忘れてしまっている。自分以上に苦難を持つ人がいると解れば、山あり谷ありの己の人生も、さして取るに足らないものとして捉えるこができ、人生の道程における様々なる想いも、ぐっと胸の内に飲み込み、また明るく一歩踏み出せるのです。愚痴をいいながら、笑いながら、一杯飲みながら・・・またぼやきながら・・・こうして考えれば、ただただ感謝の気持ちあるのみ。レバノンでは、四六時中、死の恐怖のなかで一日を生きるのです。日本はしかし、ぬるま湯的に平和です。
2006年09月09日
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K1に度々参戦しながら未だに一度も勝てない曙。倒れて倒れて。もういい加減にみっともないから止めよという外野からの声が聞こえます。横綱であったその輝かしき名誉までが、そのリング上での度々の姿に色褪せて、悲哀を漂わせ、観る側にも辛い気持ちにさせられます。しかしながら、彼の現在の姿は、彼のこれまでの実績と彼の人格までをも、決して否定してしまうものではありません。彼はある部分、この様な、戦いというものに向いていないのかもしれません。実直であるとともに、彼が持つところの心根も十分に優しいのでしょう。人は皆老いていきます。体力あるものも、今の状態を永遠と維持することは不可能で、いくら屈強な者も、やがては時とともに次の若さに取って代わられるのです。何枚も重ねた瓦を自慢げに素手で叩き割る空手家も、ボクシングのチャンピオンも、どの様に拳に自信があろうと、その成長期から絶頂期を迎え、やがてはフットライトを浴びた場所から去らなければならない時が来ます。可愛いアイドルも、女優も、はたまたセレブと謂われる諸氏も、日々、表面磨きが仕事と余裕がある場合故に、一応の綺麗さを維持しょうと努めることができるというもの。一般人には生活臭さが伴って当然のこと。主婦は毎日懸命に掃除、洗濯、料理、子育てと家事に奮闘。その様ななかにおいても、生き生きと真に綺麗な人はいます。大切なのは心の部分です。どんなに若くて綺麗でも、やはりやがては老いていきます。得意満面なチャンピオンも、その後がどうであるのか。仕事していて様々な人と会う機会があります。先生と云われる士業達、あるいは医者も、議員さんも、社長さんも、大手企業に勤める人も、銀行マンも宗教家も、そして不動産屋さんも・・改めて云うまでもなく、その地位、居場所と人格は全く別物。案外、尊敬に値する人というのは、その辺の、あるいは田舎の、外見には何の変哲もないおじさん、おばさん、青年、娘さん、子供達であったりするわけです。人はやはり、老いていったとき、その時の人となりの部分が大きな価値をもつものです。人はつい、嘗ては持ち合わせていた、力(体力や地位)を現在において失くした者に対して、やや見下したり相手への接し方がぞんざいになったりするものです。その人の人生の道程を、裏側を観たりはしません。しかし、例え老いた、今見えるその人というものは、あくまで人目に映る表面のものであって、その人自身が生きてきた過程によって培われた人格には何ら影響するものではありません。むしろ、地位にも権力にも左右されずに深遠なる心で生きている人は、同様に何が人としての価値あるものかを十分に観る人によって畏敬の念で迎えられるでしょう。翻って考えれば、どの様な地位を見せ付けられても全く尊敬に値しない人も多くいるわけで。老いたときには、それこそ尊敬もされない哀れな末。人生は一時のもの。人は地位も力も金も離れて、徒手空拳であるときの、自身の心の位置が重要だと思うのです。曙がこれからも無様に負け続けても、私は、もうこの辺りで止めにしていいではないか・・と思いつつも、決して、彼を、1人の人として、決して嘲笑することはないのです。ガッツ石松を見て、昔チャンピオンの、ただのおっさんだとは思わないのです。築いた彼の一時代は事実として燦然と今もあり、一見ほわんとした彼のキャラも、その奥にある大いなる人格によって、これから先、いくら老いてゆこうとも、過去の実績と現在地がしっかりと同化して揺ぎ無い地位として残るでしょう。失礼な例えで申し訳ないのですが、美智子皇后様。あの方の場合、例え今、全ての地位を失くされたとしても、おそらくその心は微動だもしないでしょう。真に尊敬されるとは、気負いもなく、さりげなくほわ~んとした、その振る舞いのなかに、その人自身が気付かない程の、崇高な心と生き様を持つ人をいうのでしょう。それはやはり、地位も金も越えたところの心の在り方。
2006年08月29日
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お蔭さまで最近はとても忙しくさせていただいています。=儲かっているというのではないですよ。(^^)しかし、日々いい感じで自分に合った仕事させてもらっているような気がしますし、なんとなく良きご縁をいただいているという実感があります。その漠然としながらもその実感の先に、また更に広がる縁が待っていそうで・・。そんな幸せな気分で過ごさせていただいていることを、素直に喜んでいます。元々経営者としては、ほとんど何も策を考えないというか、考えてもかえってジレンマに陥るという失格経営者ではあるのですが、最近は、もうそのあれこれを、「や~めた!」と、気持ちの楽な本来の自分においていると、不思議と自然とあちこち多くの方々とのご縁をいただくようになるとともに、不思議と運も回って来る様な。何より、まずは肩の力を抜いて気負いなく、自分の心を清清しくしておくこと。そして純粋に相手に何かをこちら側が先にして差し上げる精神。これはいいです。どのようなスキルアップより心落ち着きます。営業スキルを高めることや、いかにして売り上げを上げる手段というものをあれこれ模索するより、気持ちを素直に綺麗にしておくことの方が、よっぽど真の幸せに近いと思えるのです。様々なセミナーや研修に参加しましたが、スキルを上げることばかり専念し、肝心ところが抜けていて、おや?という場面も数多く見てきました。確かにスキルも高く売り上げも上げながら、しかし一個人をみると、人としてこれが責任者?と思うことも多々あり、疑問を感じることもあります。全社一丸スキルアップしても何か違う。一見うまく組織が構築されているように見えても、果たしてどれだけ上から下まで、真の意識(心)の繋がりが保たれているのか・・案外トップの勘違いで裸の王様といった場合もありえると感じるのです。個々人が個性をもって生き生きと、しかも社内が大切なもので繋がっている。確かに経営においては、戦略戦術、そのた全社的スキルアップは必要ですが、私自身においては、技巧的な部分に時間とエネルギーを注力してくたくたになるより、自ら持ち合わせている信じる自分の部分を、何よりも優先して日々過ごす事の方が、最も自然で、納得のいく生き方とも言えます。そして結果として何となく生かされている。これはもう自分の本望とするところ。大切な「心」という本丸があって、それを見失わず、経営者としてのスキルUPとしての外堀を埋めていく。人を見るセンスだけはあると自負していますが、これはなにより、そう、物、金よりも最高の、私に与えられた天よりの嬉しいプレゼントと思っています。そして、できる限り、この素直な自己満足的想いで、縁ある方々に私のできる精一杯な部分でお返ししようと思うのです。ここ数年福岡においていろんなご縁をいただきました。いつも疑問に思っていた部分が解消され、私が常々心に持っていたことは間違いではなかったと確信もできました。心より感謝です。「愛」の心はあらゆるマニュアルを超える。これは真実です。余分な精神の迷いが濾過されると同時に、小手先のスキルより己を信じて、明日を夢見る。夢というより、一時に惑わされない明るく開けた場面が自然に浮かびながら現実となる。その様な、このところの私の日々における気持ちでしょうか。以前からそうなのですが、最近は益々のほほんと、それはある部分、経営者としては失格者かもしれませんが、本当に、売り上げとか何をどうしようとか考えなくなりました。清清しく気ままに自由な心で、一番気持ちの落ち着くスタイルで自分の生き方で、経営らしきものをしていく。その様な経営者がいてもいいでしょう。価値観というものをどこに見るのか、持つのか。そこのところ、信頼している私自身というものがあります。そして小さいながらも、人を大切にしていきたいと思います。良き人には、その周りに、またきっと良き人、良き縁が廻っているはずです。それは、どのようなスキルよりも、幸せへの限りない可能性を持っています。死ぬときゃ皆同じ。金、物・・そこそこで十分。(?私はまだそこそこまでいっていない・・(^^))どんまいどんまい。その代わり、私には、この心の内にとっておきの沢山財産を持っていますよ。この財産は、誰でも手には入れられません。羨ましいでしょう。(^^♪愉快に人生いきましょう。その人の気持ちの分だけ、その人に相応しい素敵な縁が待っていますよ。最近いただく様々なご縁・・・招かれる人達が、「もう一度来てみたい。私もここで・・」そう思われる場所はおそらくとても素敵なところでしょう。海の見える迎賓館よびりんさんの生きる勇気が湧いてくる本。絶賛発売中!勇気と愛に満ち満ちた経営指針、人生訓満載。商売の原点
2006年07月23日
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昨日の私の日記には、温もりあるコメントをいただき有難うございます。ただ決して、私が人生達観の境地に至ったとか、私の人生、旅の目的地に辿り着いた、とかいうにはあまりにおこがましい。その様な、高尚な悟りも、また精神を極めるというようなこともありません。どこかに悶々とした、定まらぬ心の所在を探しながらも、人生こんなものかとやや諦めの部分も持ちながら、今になって少し私の精神の拠り所が分かってきて、やっと本当の人生スタートラインに着けた。そんな感じでしょうか。今更・・でも気付けたことはいいことです。ですからこれからは、真の私の日々を、大切に使うことができるというものです。正確に自分自身の心の軌跡を精査していけば、とても一日の日記でまとめることはできません。あれもこれも・・そして心の財産も沢山あります。それは追々、なんとなく断片的にも書き留めてみようかとも思います。かえって、思うままに断片的にでも、あるいは脈絡が前後しても、書き連ねることにより、結果として、その私自身の心の軌跡というものは、一つの繋がりを持って見えてくることでしょう。大したことがあった人生でもないし、かといって、間違いなく通ってきた我が道は、笑顔で振り返ることができる確かなもの。ところで、日記のプロフィールにも書いていますが、私の好きな歴史上の人物に、上杉謙信と吉田松陰を挙げています。松陰先生は、私の故郷の大先輩。上杉謙信は、あの群雄割拠の戦国時代、錚々たる武将達のなかにあって、英雄の一人と呼ばれるに誰も異論はない人物。しかし他の明確なる道を突き進んだ他の武将とは違い、結果、悶々としたその人生そのものは・・。昨日の日記で、このところ、私の心の余計な重石がとれてきたような気分と申しました。そんななか、今でもこの歴史上の二人は、私の好きな人物に違いはないのですが、私ははたと気付いたのです。人生旅の途中において、何か合わぬ心の所在の現在地に、それが何か分からぬまま、ただ負けまいと、本来の自分と違うと思いつつ踏ん張りながら、更に自分を見失いつつ、ただ気負いだけの、しかし自分なりに懸命になっていた自分。そしてやっとなんとなく心の内に、真のオアシスを探し出したようなこのところの自分。上記歴史上の人物の、どちらも、私は、その真っ直ぐさ故に好きではあるが、実に対照的な二人。それはやはり、自分の所在を彷徨いのなかで探しつつ、ついに晴れることのなく、その重さを延々と持って生きた人物と、片や、底抜けに明るく、暗さも重さの微塵も感じさせない人物と・・とりとめなく、では今日はこの辺で。(^^)
2006年07月10日
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このところ、様々な良き縁に出会う機会と同時に、以前に比べ、お客様の方からわざわざ来社いただき相談をお受けするケースも多くなってきたような気がします。これまでの人生において、私は様々な困難と挫折感を経験してきました。何の予測も準備もなく独立した後は、特に多々ありで、時にリング上に大の字で天を仰ぎつつ、しかし、しばらくすれば、自ら再び立ち上がるしかない。そのような状況下に度々身を置きつつ、精神的疲労困憊の自分を起き上がらせたのは、やはり自分なりの、自身の根底に根ざす「生き方」、「信念」というものに他ならないのです。疲れ果て、意気絶え絶えにギブアップ寸前状態でリング上に仰向けでいる自分を、「さあ、いつまでもこうしていたってしょうがない、起きらんかい!」と、手を取り起き上がらせ、自分の背中を押し出すもう1人の自分。「しょうがない、また頑張るか・・」ふっと溜息つきながら気を取り直す自分。あらゆる困難の行き着くところの精神的疲労困憊のなか、私の心も折れずにいれたのは、もちろん家族の支えもあるなかで、やはり何度も言うように、私なりのある種、頑なまでの、その私なりの間違いないとする確信する「生き方」、「信念」というもの。それは、逆境の時、疲れたときに退避する場所でもあったのです。疲れたらそこで一息つく。そして、また踏み出す。しかし考えてみれば、何ともその一息つくところは暗く重い感じを持ちます。「忍耐」「黙々と」「溜息」・・まるで「おしん」の世界。振り返ってみれば、まるでその時々の私は、これから特攻隊で出陣、あるいは今からあだ討ちにでも旅たつかのような覚悟的心境。それはそれで、孤独感漂さえ漂うその信念も、度々困難に遭遇しながら、私の、更に強い精神的ばねとなっていったのも事実。しかし、何故か最近、困難に遭遇したその時々における心の拠り所(退避場所)としての、私の生きてきた人生における自負としての信念は、その重さを徐々に取り除き、退避場所というよりも、今正に、砂漠のなかのオアシス、草原のなかの大きな木の茂る木陰。瑞々しいほどに晴れ晴れしく存在する気がするのです。もちろんこれまで同様、疲れたら、いつでもそこで一休みできます。木陰の切り株に腰を下ろすと、辺りが気持ち穏やかによく見渡せます。そよ風が頬をなで・・私は、そして大の字に寝そべり天を仰ぎます。青空と浮かぶ白い雲。そよぐ風に・・そう、いつもの・・「何はなくとも・・」の真の幸せを十分感じながら。ほっと一息ついたところで、またゆっくりと立ち上がり私の一歩を踏み出すことができます。右に行こうか、左に行こうか、それともとりあえずこの道を真っ直ぐに。そこには悲壮感も孤独感も気負いもなく、まるで人生ピクニックの様。長い年月かかって、ようやく巡り巡って、本来の自分に再会できた、そんな気分の今日この頃
2006年07月09日
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会社の机の引出し奥底から1台のカメラが出してみました。Nikon製の銀塩一眼で、30年前に新婚旅行用に購入したもの。装着のズームレンズは、その後、初めてこの業界に入った会社の社長から、初めて10万の法人賃貸契約を決めたお祝いに、今はなきカメラのドイで買ってもらったものです。このNikon EMは、当時一眼をもっと身近なものとして普及させるべく、簡単オート仕様で世に出されたもの。しかし、これ、デザインは超有名なイタリアデザイナー、ジウジアーロの手によるもの。Nikonはその後もカメラデザインに長くジウジアーロを採用してきました。ジウジアーロは、フェラーリ等、車のデザインでも有名で、日本ではその昔いすずの「117クーペ」が広く知れるところでもあります。その流麗なスタイルは今見ても決して陳腐化せずに輝いています。想いの強さの上に創りだされるものとはその様なものかもしれません。あのTYOTAの2000GTも素晴らしかったけれど。2000GTの発売当時、私は、その少ない販売数のなかで山口県の田舎道を向こうからやって来る白い2000GTのとてつもなく格好いい勇姿に運よく出合えたたことがありました。そしてなんといっても、最大の名誉は、ショーンコネリー主演「007は二度死ぬ」でボンドカーに抜擢されたこと。日本ロケとともに、スクリーンのその姿は素晴らしかった。そういえば、子供の頃のある日、父が購入した初めての新車が我がやってきました。それは初代スカイラインでした。まだ日産でない頃の、プリンス自動車時代のもの。もちろん当初からリアランプは丸目でしたが。話は逸れましたが、このNikon EMのカメラ。もう随分前から使用していませんが、私達夫婦の新婚旅行を撮った思い出詰まったカメラとして棄て難く、しかし忘れられたかのように、今も机の引き出しの奥にひっそりと、その当時としては異彩を放った流麗なる姿で身を置いているのです。そうか、もう結婚して30年にもなるのか・・・お恥ずかしいですが、私は今でも時々妻の手を取って寝ているのであります。(^^)嫌われながらも・・。過ぎた人生。時折ふと思い浮かべる過ぎ去った日々の様々な心象風景は、しかし、折々あらゆる面で未熟だったあの時代よりも(今も子供のままの未熟さですが)、新鮮に時の隔たりを感じさせずに蘇ってきます。良くも悪くも心はずっと変わらず、未熟な私も長い年月によって少しは精神的に大人に・・いろいろあった人生ですが、正直なところ、齢を重ねながらも、精神は、益々清清しく研ぎ澄まされていく様な気がします。その直線的未熟故に永年苦労掛けた女房殿にも、遅ればせながら、今やっと精神的に恩返しできそうな気が・・多分。(^^)椅子に座り、時折思考の迷路を漂う私の机にて・・。117クーペトヨタ2000GTジウジアーロプリンススカイラインは↓こんな感じなんですね。(^^)現在私が乗っているのもSKYLINE↓
2006年06月23日
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いやぁ~、今日は、ぽかぽかの実に春らしい、のだかなお天気でしたね。お昼のお弁当は、一豊の妻?が作ってくれた「特製筍ごはん」。美味しかったですよ~。皆さんにお見せできないのが残念。(^^)そして、満腹後、つい駐車場の屋上の車のなかで気持ちよく昼寝をしてしまいました。平和だな~~(^^♪ところで、昨日、なにかしら芸術的に自己表現できる人を素晴らしく思う、と申しました。歌が上手だったり、ピアノが弾けたり、良い焼き物を作ったり、心に残る曲や、映画を残せたり・・いいものを形にできるっていいことです。それが専門的職業であっても趣味の世界でも、その胸の内にある「いいものに」対する思いの傾向が強いほど、「芸術は爆発だ!」と、沸々なる思いの感性を形として出せぬ、なんとなくない物ねだり的心のジレンマを、凡人である私が持つのも事実。私は、不動産の仕事していながら、自身が不動産を所有することに興味はありません。まっ、その元となるものも、才覚もありませんが。ないから、言えるというのでは毛頭なく、仮にいくらお金を持っていようと、不動産はせいぜい自己居住用だけで十分だと思います。あんな重たくて大きいビルを持ったりしてどうするの?短い人生では、考えただけで不自由極まりない。例え持つとしても不自由さのない程度がいいですね。といいながら、私、お客さんに不動産売っているのですから・・私は・・ということですね。(^^)とにかく必要以上に余計なものは自分がそれによって束縛されるような気がするのです。人生余分な足かせはまっぴら。ましてや子供達にも、自分の人生を親によっての固定化させたくはありません。貧乏性なのか、必要以上なものを所有すると、何故かしら人生を固定される恐怖感というものが漠然とあります。私は、死ぬまで自由人でいたいという気がします。ただ、食わなければいけないので、その手段として、いまでは、天職のような現職業に従事しているだけ。といっても、今の仕事に縁をいただいたことに、振り返って返す返すも感謝しながら、これまで本当に天職!だと思っていたかと訊ねられれば、絶対とはいえませんが。紆余曲折してこの職に辿り着いたということは、私に適職として与えられに違いありません。運が良かったです。お蔭さまで、退職金もありませんが、定年もなく頑張れます。(^^)やはり頂戴したこの職で関わる方々に精一杯の援助をすることが私の使命と今心に強く思います。才能はないのに、漠然と何か芸術的自己表現というものに対して、憧れと欲求がどこかにあって、いいもので感動を人々に提供できる人には少しばかりの畏敬の念を持つのも事実。先程、物、あるいは金銭によって子供や家族を固定化したくないと言いましたが、例えば、これが、代々続く老舗のお店や、脈々と受け継がれる伝統的芸能の伝承等、「いいもの」である場合は、次の人生に多少の固定化もいいではないか、と自然な気持ちで思うのです。ようするに「物」でなくて「心」の部分。しかし、場合によっては、受け継ぐ方からすれば大変な「おしつけ」「固定」であるかもしれませんね。親の自己満足にすぎないこともあるでしょう。自然にその「価値感」が共有できたとき、初めて素晴らしい大切なものが継承されていくのでしょう。ところで、ブログ仲間で恵(ケイ)さん。お会いしたことないのですが、同じ北九州の隣人としていつもよくしていただいています。おまけに自身のサイトで、私の日記も北九州ブロガーリンク集に掲載していただいています。いろいろそのなかで分類されているのですが、なんと私は一応、お心遣いにより、「熟年?男性ブログ」に入っています。その内、いつか「老年」の部に分類されませんように・・”^_^”そして、この方のサイトでいつも癒されているのが、彼女が趣味とされている写真。いつも、いつもサイトをおじゃまさせてもらってホッと癒しをいただいています。で、やはり、思いを自己表現し、誰しも良いなと思えるものを形にできることを、素直に素敵だと、凡人の私は思うのです。カラオケ歌っては音痴、カメラ片手にナイスショット!しても今いち。こうなったら、ないものねだりの、思いの空回りは観念して、あの新庄のように、明るさと笑顔で自由人の最大最高人生をスキップしていこう。これはできるかもしれない。(^^)どんまいどんまい私の胸の内には、形として表現できないけれども、「いいもの」が分かる、信頼に足る自分自身が存在しているのだから。芸術は爆発だ! ぽかぽか陽気でついでに私の頭の中も爆発だ!(^^♪
2006年04月24日
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同業者のYさんはまだ若き女性で、昨年ご主人が急逝された後、女手で数人の女性スタッフも抱えて頑張っておられます。このお店は、ご主人のお父さんの代から長らく地域密着型営業をされてきて、それなりにその地域では名も浸透しています。亡くなったご主人は、お父さんから引継ぎ二代目として表立って頑張っておられた矢先の、まだ四十程の若さでした。当社とは営業地域も離れ、仕事上でも個人としても、それほど親しく付き合う機会はありませんでしたが、此の身近な同業者の若き突然の死というものは、これからというときにさぞかし無念だったであろう彼と同様に、日々、各々独自性を模索しながら、それぞれに思いを持って努力している者としては、後継者等の諸問題をも含め、いずれ誰しも訪れる死とはいえ、この様なときには、おのずとある種の感慨を持つのです。亡くなってしばらくした業界のある会合で、私は初めて奥さんと話す機会がありました。とりあえず代表者変更も済ませ、この仕事を頑張っていくとのことで、表面はとても明るくて安心しました。それから半年以上も経った今、夕刻6時を過ぎると暗くなるその通りの一角に、灯りは煌々と輝いて、当時はご主人の手伝いに過ぎなかった奥さんは、今では、しっかりと後を継いで頑張っている姿がそこに窺えるのです。従来の実績をしっかり守りながら、ご主人の思いを継いで頑張っておられる姿。私は時々通るこの会社の前で、「私も頑張らなければ」と、いつも勇気と元気をいただいているのです。今日は、その会社へ心よりの応援と、そしていただく勇気と元気への感謝を。
2006年03月12日
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幸せを感じる時。それぞれ人にはその感じる時というものがあるでしょう。ふとした時に感じる幸せ感というもの。少しばかり自分自身を思い起こしてみれば、日頃はほとんど気にもとめない、その自分の幸せ感を見つけることができます。例えば、私にとっては、このようなこともそのひとつ。朝方、寝床のなかで、まだ覚めやらぬまどろみのなかに窺う、台所に立つ妻の、朝食準備の様子。まな板を叩く音や炊き上がる炊飯器の音等。あれには、私にとっては限りなく平和な「幸せ感」を持つのです。遠く振り返れば、やはり早朝の炊事場に聞く音は、温もりとどこまでも続く穏やかな日を、子供心にも強く感じさせたものです。私の場合、小さな頃から高校生時代まで、その穏やかな温もりは亡き祖母が担ってくれました。私はおばあちゃん子だったのです。寝るときも一緒でした。10年程前に亡くなった祖母と私は、血縁関係にはありません。酒問屋をしていた夫に嫁いだけれどすぐに死に別れ、若くして未亡人となった祖母には、子供もなかったので、兄妹の多い、遠い縁戚だった父を養子に迎えたのだそうです。現代であれは、十分に将来に向けた再婚の途というものがあったでしょうに。血縁関係に無い。よくよく考えてみればそうなのですが、私にとっては、血の通った実祖母と同じ。小さな頃から私はその祖母に面倒をよくみてもらっていました。若きときには相当苦労をしたらしく、小さいときから奉公に出され、子供の頃からよその家の子守をしながら家計を支えていたようです。学校にもろくに行けず、読み書き算盤も夫と一緒になってから商い上、独学で覚えたようです。昔ながらの大きな5つ珠算盤は、老いても大事に手元に置かれていました。子供時分からも、そして結婚縁も薄かった彼女の人生は、その後も自分の自由と贅沢には無縁の、ただ、我々家族の朝食や夕食の支度をするというだけの、決して幸せだった人生とはいえないものに私にはいつも映っていました。一生が何の楽しみもない人生。考えただけでちょっと辛過ぎます。その祖母には、一時だけの酒問屋の妻となった当時に働いていたという、某使用人が亡くなった後も、身寄りのない無縁仏となったその墓を、いつまでも気に留め、我が家の墓参りの折には、家族同様に世話をしてきたような律儀なところがありました。私は元来口数の少ないほうでしたから、自分の父や母や祖母とも、これまでの人生で交わした会話というのは、一般的家族における1/10程度のものではないでしょうか。コミュニケーションの取り方もうまくありませんでしたし、その点、子供としての孝行を全うしていないかもしれません。私にとって大切だった祖母にも、感謝や想いのたけとは裏腹に、私の接し方は極めて無機質だったともいえます。やがて県外に出た私が、時折帰省したときなどには、いつも、彼女は、その都度貯めた、なけなしの自分の貯金から、そっと小遣いを手渡してくれたものです。相変わらず言葉少なく、ぶっきらぼうな対応の私に、毎度、帰ってきたことをとても喜んでくれていました。その後、結婚した私に子供ができ、私の家族と帰省のときには、私の分まで妻が優しく接してくれていましたから、その点はせめてもの救いのような気がします。ただ、返す返すも心残りなのは、私の住まいについに一度も連れてきてやれなかったこと。いつも気になりながらついに実行できなかったこと。もし一度でも呼んであげたらどんなにか喜んでくれたことでしょう。私には、母親から日常において食事を作ってもらっていたことがありません。手料理の記憶がないのです。ただ一度記憶にあるのは、小学三年生の頃か、私の誕生日に友達が遊びにやってきたときに、カレーライスを作ってくれた、そのときだけに思います。苦手だったのか、不向きの気質だったのか。けれども、私の心には、祖母からもらった、台所の温もりが今でも残っています。何の楽しみもなく薄幸の人生を終えた祖母の、小さな頃から高校を失業し県外にでるまでの世話をしてくれたことへの感謝。そして今でもその温もりを記憶に想う、朝食や弁当を入れてくれるための、カタコト、グツグツ、その台所の支度音なのです。母親の皆さん、そしていつか母親となる女(ひと)へ子供さんのために是非、台所に立ち、しっかり世話をしてあげてください。その頑張っているグツグツ、カタコト賑やかしい「支度音」というものは、きっと子供に、「幸せ感」という温もりで、心の内に、いつまでも残っていくことでしょう。
2006年02月05日
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気がついてみると、私もいい齢の親父になっています。しかしながら、会う人達、知人やお客様からは、私の年齢に、「えっ?意外に若か~い。」”^_^”とも言われているのです。日頃において、自分の年齢など忘れている私が、自身の実齢に、はたと気づかされるときは、TVなどで、人物写真とその人の年齢が紹介されたとき、又は、テレビに見る懐かしの芸能人が、しばらく見ない間に随分と老けてしまっていたとき等か。記憶の人物はあの昔のままなのに、そのとき、さすがにつくづくと年月の流れを感じます。私の知人など、周囲における同年代を見ても、この人は随分と老けてるな、と外見だけでなく全体の雰囲気でそう感じることがありますが、当然私とて、年月を経て会う知り合いには、そこに加齢の私が、同様に映っているに違いありません。そんな連中に、「おいおい、もう少し頑張ろうよ」「寂しいよ」「俺はあのときあの時代の感情を今も持っているよ」「さっさと分別臭く自ら老いの扉を開けるなよ・・」と声を掛けたくもなりながら、しかし、実際は、私自身がいつまでも人間的成長できないでいるのかな・・・そして、大勢で飛ぶ縄跳びの輪のなかに入るタイミングをとれないでいる状態のごとく、年相応の齢のとり方というものの間を見失っているのか、大人になりきらない成長しない子供のままか・・と内心苦笑。我々は、日頃年老いた人に、その外見判断だけで、個人が内面に持つ、年齢に関係ないところでのその人の感情を窺い知ることはありません。しかし、こうして私自身がいい齢の親父になって、いまだに年齢とは裏腹にややノー天気な感情でいるとき、少しばかり、老人を見る目が違ってきているのです。外見も言葉も老人であっても、しかし、ある人によっては、その奥にその人が内包する感情というものが、いまだに若い人よりもとてつもなく瑞々しいことがあるのだと。重ねた齢を振り返りながらの様々な経験の我が人生。再度それを全て歩めと言われれば少々しんどい気もするけれど、長年に亘る私の良き友人である私の感情と感性は、いつか完全に肉体の老いるまで変わらずそのまま私を離れずに存在するでしょう。決して過去に尾を引かれることも、個々の想いに女々しくもなく、しかし流れた時代も青春も、色褪せることなく変わらぬ感情を今に持ち合わせ、齢相応に人間的な成長を明日に見ながら前を向いて、今日も自分は自分自身でありえるのです。サミュエル・ウルマンの詩「青春とは人生のある時期をいうのではなく、心の持ち方である・・」ではないけれど、やはり自分自身の心の在り様だと思います。そして若さとは、ある種、その人の感情と感性のなせる部分も多分にあるのだと。
2006年01月24日
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いよいよ佳境に入ってきた大河ドラマ「義経」。私としては、今回は、俳優人もしっかりした布陣で、脚本もよく、出来は上々ではなかったかと思っており毎週楽しみにしています。極めて日本的な情緒感を持つ物語りですから、多分に見る側としては、つい感情移入してしまうところがあります。先週の放送は、歌舞伎の勧進帳でも有名な「安宅の関」でした。義経の逃避行。北国落ちでの「安宅の関」での義経と弁慶。泣かせるな~。で、いよいよこれからクライマックスへと相成ります。この義経と弁慶達との、利害のない、理屈云々でない繋がりの主従関係は実に羨ましい限り。「大局的に一つの事を成す」それがある種の器量とすれば、義経は頼朝にははるかに及ばないかもしれません。情としても直線的であるがゆえの脆さ。しかし逆にその感情は表裏のない魅力となり、又信頼できるその人の心情となります。その大局的に事をなす観点からして、信長、秀吉、家康・・と、明らかに時代の大きな核となった人物を英雄と呼ぶに異論は誰しもないでしょう。しかし、日本的につい、私は、パワー溢れる覇者より、悲劇性の義経を思ったりするのですね。そしてつい日陰の人にスポットを当ててあげたくなったりもします。私の好きな歴史上の人物に上杉謙信がいます。彼は、戦のなかでの自分に苦悩しながらも、結局戦いの日々のなかで生涯を費やしたのです。しかもただただ「義」のための戦で、自分の領土欲なんて微塵もなかったようです。群雄割拠の戦国時代にあって稀有な存在です。私があの時代に生まれていたら、数いる武将のなかから主として選んだ一人でもあります。謀反の明智光秀、家康に敗れた石田光成。その石田光成に、負け戦と分かっていながらも、これまた彼との友情のために戦場に赴いた大谷吉継。彼らはみな城主としては立派な人だったようです。後年の人物では、西郷ドンに比べ、大局感は持ちながらも何故か不人気の大久保利通・・そして、郷里の大先輩である吉田松陰先生。郷里に帰るといつも立ち寄る松下村塾。そこではいまでも、当時の高杉はじめ、仲間の、楽しい勉学の場が浮かんでくるようなのです。いずれにしても、上記に羅列した人達の魅力は、終わりにおける自身の身辺は実に質素であったこと。大義の中での自分が実にシンプルで、そこが人間としての信頼に値します。権力、名誉とは無関係のなかでの生き様に惹きつけられます。そして「義経」・・私も行動を共にしたい!ドラマとしての一時の感情としてではなく。理屈抜きに、その繋がりは、心の平安と充足感にいつも包まれていそうで、この上ない最良の人生を送れそうです・・あっ!最後は悲劇性を秘めていたのですね。まあそんな結末は二の次。人生この様な気持ちの関わりを持ちたいのは本音。しかし、気がつくと、私の仕事人生は、この心の充足感を求め続けながら彷徨い、結局八度の転職に及んだのかもしれません。
2005年12月03日
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ワタミ株式会社社長、渡邊美樹さん著作に書かれたなるほどと思った一節。「時間は有限であると認識しよう」という内容。それを抜粋すると、『砂時計のようなガラス容器の上部に、一円玉がいっぱい入っている様子を想像してみます。その中に入っている一円玉の数、それはあなたがこの世で生きるであろう日数。その枚数はというと、男女合わせた平均寿命82歳から出した数。すなわち82年×365日=2万9930枚なんと三万枚にも満たない数。その一円玉は、新しい一日への参加料として毎日下に落ちていきます。最後の一枚まで落ちれば無事に寿命を迎えることができて、「めでたしめでたし」ですが、人生そううまくはいきません。この砂時計には一つだけルールがあり、そのたくさんの一円玉のなかに一枚だけ金色の一円玉が入っています。その金色の一円玉が下に落ちた瞬間、その他の一円玉も全て一気に下に落ちてしまうというもの。これが唯一の特別ルール。そう、これはいつ訪れるかわからない「死」。八十二年の人生は決して約束されたものではないのです。金色の一円玉が落ちるのは100枚目なのか一万枚目なのか。明日なのか、それとも三十年後なのか。もし金色の一円玉が一年後に落ちるとしたら、あなたは何がしたいですか。それまでにどのような自分になっていたいですか。そう考えるだけで、やりたいことは山ほどでてくると思います。まずはそれらの願いや希望をどんどん書き出してみましょう。』 渡邊美樹 夢に日付を!よりこれを読んで、改めて日々の大切さ、重さを、強く感じました。大いに明るく有意義に、反省・感謝・報恩・平常心、そして愛の心で大切な日々を生きたいものです。明日は、夕方から親しき仲間と集います。少林寺拳法福岡北道院「だるま会」という名称。OB、現役の社会人が先生を囲んで未来を語っての懇親会。もうかれこれ20年近くになりますか。私は、全く実績はないのですが、それでも快く声を掛けていただいて、良い師に恵まれての、年に2回の総会には、いつまでもここを縁にした門下生が参集してくるのです。なかにははるばる遠路をやってくる人もいます。皆、歳とっていきながらも、いつまでも途切れることのない、とても良い関係なのです。
2005年11月04日
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昨日紹介した夢実現手帳。この手帳の一番上にくるのは、5-YEAR PRANNING。「5カ年計画」というやつですね。この5年間で何をしたいのか、そして5年先にどうなりたいのかの目標設定をし、その計画を記入するものです。この5年計画書、折込になっていて、広げるとほぼB5サイズを横にした大きさなのです。これが5年間分に罫線で分割されているのですが、こうして改めて区切られた1年間ずつを眺めて見ると、あまりにこの期間を短く感じます。油断しているとあっという間に1年の枠をやり過ごしてしまいそうに思えます。やはり視覚的にも、この様な形で、年というものの全体を見てみる必要があったようで、貴重な気付きでした。このB5サイズに見る5年間という白紙の狭い領域を大切に有効に活かさなければいけません。せっかく授かった人生ですから。さあ、これから精進しますよ。小生は。とりあえず現在の狭い事務所の移転計画。今のところはとても狭いのです。独立した当時、急遽の独立でしたから、小さなところでも良しとして、しかも大通りを一歩入ったところで、ここだったら万一うまくいかなかったら人知れず閉めることができるだろう・・などと気弱な気持ちでおりました。ところが活動するにつれ、すぐに同業社間ではそこそこ知名度もあがり、迂闊なこともできなくなりました。しかし、この場所では、紹介客以外の新規の来店客は年間に数人程度です。消極的かどうかは別にして、表にも一切の不動産物件掲示はしておりません。控えめが過ぎたような気もしますが、これでもなんとか今日まで生き延びて?これました。感謝 感謝(^^♪けれども12年間の内に室内は書類で溢れてしまいました。室内を移動するにも蟹歩き状態でストレス溜まります。それに狭いと創造的発想もできませんし、人員も増やせません。そして当社の方向性を模索しての現状維持の脱却作戦。これはここ数年経営計画と連動して考えていたことのですが、なかなかそのタイミングに巡り合えませんでした。今回たまたま良い機会がありまして、若干無計画ながら、これも縁だと先に一歩踏み出し、先日とっとと転居先を契約してしまいました。しかし相変わらずの感覚的行動が多々あります。ふと思い立ち、急にこの1カ月の間で事を運びましたが、若干不安のなかで、まあ、どんまい、どんまいの精神です。ただ、2006年度経営計画は、後追い状態なのですが。"^_^"なんとかなるでしょう。ところで今年の私の運勢は八方塞の年で、新規の事を起こさないほうが良いとのことでしたが、縁は縁ということで、たまたま巡り合った適度の場所の運というもの方を選択しました。来年からの運は上昇ということですから、引越しは新春早々しますが。なんだかんだで、先行き不透明な我々業界において、気持ちも新たに原点に返って、そして前向きに頑張ります。
2005年11月03日
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昨日までの世間は、一般的に三連休ということでしたが、皆さんはいかが過ごされたでしょうか。私はというと、この休みを利用して、自社Webをいじくっておりました。物件ばかりではなく、情報としての魅力に富んだWeb作りを模索しました。HPも、あまり手を掛けずに放っておいたものと、気持ちを入れ、その都度あれこれ改善に努力したものとでは、不思議と敏感に、その反応に結果として差が出ます。思い入れや思いやりは、何でも通じる共通項の様です。さて今週は、またもや会社によっては三連休となる暦。そしてすぐに9月も終わり。最近は実に1週間の経過を早く感じます。昔は1年が鈍行列車に乗っているようで、人生の風景も自分の周りを緩やかに通り過ぎていたのですが、歳取ってくると、それも流れるように過ぎ去っていく感じです。最近は、新幹線にでも乗っているように日々を後方に持っていかれます。実の気持ちは、同行列車に乗っていたときと多分変わらないのにと思うのですが。それだけ、日々の雑多な用も背負ってきているのでしょうつい足元ばかりの諸事に翻弄されるきらいもあります。しかし、新幹線に乗った状態としても、ふと遠景を眺めてみれば、そこに流れるものはしっかりこの目で捉えることができます。私は本来自由人の気質ですから、組織も、時間にも束縛されず、ぼ~っとこの様な遠景を眺めている状態が一番居心地良いのです。経営者としては日々気忙しくても、この部分は昔から変わりません。私は不動産という仕事をしていながら、不動産の所有に興味を持ちません。最低限自分の住まいとしての相応の不動産があればそれで良しとします。生きていくのに不必要な荷物をあまり持ちたくありません。ましてや、家族に対しては尚更です。子供は子供でそれぞれの途があります。そこそこの人生を身軽に生きたいのです。常にそしていつまでも自由さを持っていたいと思うのです。ある意味、心は種田山頭火の様に野原を駆け巡る自由さを。ですから、本心としては、他にかけがえのない価値を見出したら、明日にでも現在というものを白紙にするというようなこともありえるのが私なのです。ただ経営者である今としては一定の責任がありますから、そう簡単にはいきませんが。ですから、その価値的なことから言えば、本業においてなにかしらお役に立っているということが何よりも優先して、この自由人の心を満たしてくれるのです。自由で、のほほんとした気持ちのなかで、そこそこ仕事できたら本望です。地位も名誉も過分な財産も不用です。まあまあ(?)いい家族に恵まれた。これが財産。それで十分でしょう。これ本心。(^^)物としての荷は持たなくても、人生において経験としてのかけがえのない荷(財産)を結構持つことができました。それは、誰にも負とはならない荷でもあるのです。私の人生は、しがらみのない自由人として全うしたいと思います。昨日一代で巨大ダイエーを築きあげた中内氏が亡くなりました。
2005年09月20日
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個人における宝物とは・・。趣味として、貴重な「物」としての個々人による想いいれの所有物と恋人、家族等々「精神的想念」によるもの。人それぞれいろいろあるでしょう。果たして自分の宝物とは何なのか。思い浮かぶものは・・もちろん家族が最優先することはいうまでもありません。しかし、それはさておき、歩んできた道を振り返ってみると果たして何が宝物となるのか。宝物=財産思い描く観点からすると、私の場合、やはりこれまでの、体験した道程そのものであることに尽きるでしょう。山も谷も、凸も凹も谷、谷・・ 凹、凹・・ひょっとしたらこんな感じだったかもしれません。まあ、いろいろあったこれまでの私の人生。しかし、困難は困難、障害は障害で、確かに多くの経験をしてきた私に、もう一人の私が、「よくやった」と声を掛けます。時にリング上で大の字で、もうゴングが鳴ればいいのに、と思う時もありながら、結局又、一人で立ち上がる。そんな自分を、その場面ごとに傍らでしっかり見ていてくれたもう一人の自分がいます。幾多の様々な自分の体験も、振り返れば、決して軽軽しく「苦労」とは言う気にならなりません。不思議と何となく胸の内も充足されるような思い出となります。家族の支え、あるいはそれこそ、妻には「苦労」を掛けたとは言えるけれど。自分なりに、自ら先を選択し、懸命にそれなりの障害を乗り越えこの道を歩んで来た事実。誰よりも、自分自身が自分の生き様を理解している。その事実で十分。様々なことは帳消しにされます。悩みも思いも直線的すぎるきらいもあるけれど、その反面案外お気楽で、いわゆるそれなりの大変だった体験も、なんとなく笑顔で振り返ることのできる今日。なんか自己満足的に、まあまあ・・とつい幸せ気分にまでなってしまいます。振り返り、「まずまず、よう頑張ったじゃないか」と自分に言えること。よくもいろいろ体験させてくれたな・・この野郎・・と、時に誰とはなしに明るくぶつぶつ自問しつつ、しかしなんとなく笑顔で振り返る過去。まだまだこれから先もありそうで・・しかし、後方にしっかり刻まれた私の「わだち」こそが、私にとっては、何よりとてつもなく大きく、そしてこれから先をしっかり支えてくれる、かけがえのない私自身の大きな精神的宝物(財産)なのです。山も谷も 凸も凹も人はその自身の様々な経験のなかで、自分自身の事実としての歩みを、自分次第でしっかり大きな宝物(財産)とすることができるのではないでしょうか。
2005年09月04日
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日中は未だに残暑厳しいながらも、朝夕、とりわけ夜明け方に開けた窓から入り込んで部屋を包む冷気。このひんやりとした空気感は、盆を過ぎるや途端に必ず訪れます。そしてやがて気づくと朝から晩まで秋色。いつも思うように、この季節の変わり目の「律儀さ」が、私は大好きです。年に二度の季節の便りしか出していないお客様からも、5年ぶり、10年ぶりに突然声を掛けていただいたりすることがあります。日頃の疎遠の不義理にもかかわらずに、変わらず御縁を繋いでいただいていることに、心より有難いと感謝しながら、人との交わりにおいても、やはりこの日本の季節と同様に、さりげない律儀さをもった関係に、自然と心も落ち着きを覚えます。そしてもうすぐ私の好きな季節です。
2005年08月22日
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墓参のため、日帰りで郷里に帰ってきました。帰省の際には何時も寄っている、吉田松陰先生誕生地に今日も行ってき来ました。直ぐ傍に市街地を見下ろして立つ銅像。これは、明治維新100周年を記念して1968年(昭和43年)に建立された銅像。海外密航を画策、弟子と共に遠く下田沖のペリー艦隊を見つめている松陰先生です。題字は当時の首相、佐藤栄作氏によるものです。蝉のざわめきと相変わらずの猛暑にも、ここに来て深呼吸すると、不思議と気持ちも落ち着きます。萩市街は三角州上にあります。橋を渡したその三角州の外周に三つの駅があり、これはその一つで、古くて小さな現役駅舎。私の子供の頃から、建物自体はちっとも変っていません。
2005年08月14日
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昨夜、飲み会の帰りにタクシーを利用しました。車中、人なっこそうに話しかけてきた40代らしき、ハンドルがやけに小さく見える、体格の良いその運転手さん。出身地は違うけれど、私とはお隣に位置する同県人とのこと。その出身地と違うこの場所に近い、海峡を渡った隣の市でずっと働いておられたのですが、3年前にその会社の経営が危うくなったために退職、東側にある故郷に帰ることなく、そのまま海峡を渡り、いくらかでも賑わいが予想されるこの地に単身やってきたとのこと。単身赴任で勤務する会社の配属場所は、7区に分かれたこの市でも、洞海湾を隔てたやや過疎的な区。タクシー営業で客を拾うにはやや厳しい場所。「ちょい乗り」が多く、かといって酔客もあてにならないのに、ノルマは厳しい。この日は、夕方からずっと客を乗せることができず、ついにテリトリーを離れ、飲み屋街があるこの市の中心部へやってきたとのこと。時々もこうしているらしく、夕方から一人も人を乗せることなく、夜11時を回ってやっと拾った客が私だったたらしいのです。長い客待ちが余程退屈だったのか、ノルマの糧の私を拾って嬉しかったのか、とにかく誰かれとなく言葉を発したかったようで、その運転手さんは、酔いの疲れで後部座席に背を崩す私におかまいなく、積極的に話しかけてきます。私は、彼の軽やかな口調で話す身辺事情に、少しばかり面倒に相槌を打ちながらも、その内に、私も、何度も転職してきたことや、この地に来てもう随分と長い年月を経たことなどを話していました。15分程走って、やがてタクシーは自宅に到着。その際に、「お客さん、でもやっぱり訛りが残っていますよ」「同県人はやっぱりわかりますよ」・・運転手さんにそう言われ、私は少しびっくり。これまで郷里を出てこのかた、たまに同県人と出会うことがあっても、こちらが相手に方言を感じることはあっても、私自身がその訛りの一片をも持っているとは、長い長い間、露程も思ったことは無かったからです。「お忘れ物ないですか?」大きな身体をよじり、後部座席を覗き込みながら心から親切に言う運転手さんに私は、「お互いにこれからもがんばりましょうよ」と声を掛けました。しばしの会話のなか、とても嬉しそうにしゃべってくれた彼。ひょっとしたら、この日の2000円ばかりの客は、この運転手さんに、束の間の最良の幸福感をもたらす事ができたのかもしれません。決して私が偉ぶるわけではなく、なんとなく喜んでくれたこの人に、私も少しの幸福感を貰ったような、そんな得した夜でした。
2005年07月20日
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山間に広がるパイナップル畑のなかに、その店は在りました。チャーターしたタクシーの運転手さんに連れて行かれたところは、北部にある、築後100年も経つという、この地特有の風情の民家を利用し営業する「沖縄そば」処。本道から、車の離合もままならぬ細い道を下ったところのこのお店は、どうやら有名店らしく、この日も大勢の客が車でやってきていました。私達はここで、座敷に上がり、開け放った戸の向こうに広がる、のどかな風景を眺めながら「そば」を楽しみました。「そば」といっても、沖縄の人以外からするとこれは「うどん」?しかし初めて食べます。我々の傍らでは、部屋の床に飾ってあった沖縄の楽器「三音」(さんしん)を、運転手さんは、おもむろに手にとって、それを弾きながら歌ってくれました。・・ざわわ ざわわ ざわわ・・♪ ♪さとうきび畑の歌でした。開けた障子の堅縁に背をもたせ、片膝姿勢で「三音」を抱え、その歌は、そばを食している我々を優しく撫でて、とびきり上手とはいかないまでも、そこはかとなく純粋に素朴に、部屋に、そして心に染み入ってきました。さとうきび畑ではなかったけど、のんびり広がるパイナップル畑をぼんやり眺めながら、私は、昼下がりの上等の癒しの空間にしばし身を置いて幸せ気分でした。・・・ざわわ ♪~ ざわわ ♪~ ざわわ ♪♪・・・
2005年06月30日
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旅の楽しみの一つに、行動を一にして、束の間に乗り合わせた人との出会いがあります。先日における私達のツアーも、観光バスに相席したのは沖縄の人で同じ研修仲間6人。私達と合わせて20名の、それこそ束の間の楽しいひと時を過ごしました。すでに知っている人も初対面の人も、解放的な気分のなかですぐに互いに打ち解けます。その他の楽しみとしては、機上のスッチー(^^)だったりバスガイドさんだったり。今回はバス利用でしたからバスガイドさんだったわけですが、素朴感たっぷりで、決して流暢ではないけれど、いやみのないその軽妙なこの日のガイドさんの語り口は、快晴の天候のなかにあって、心晴れ晴れととっても楽しいものでした。ローカル色に包まれた車中は爆笑爆笑、拍手喝采。前に左に、遠くに微かに浮かぶ富士山。右に旧東海道を見やりながら、マイクから流れくる愛くるしい程のやや訛りの言葉は変化する風景とともに座席の私達を飽きさせません。ガイドさんの役割は、旅の隠し味?そして旅の終わりの余韻がハッピー感で包まれるかどうかの役割も担っていますね。無事帰りの新幹線口の小田原に着いていよいよお別れの時。運転手さん添乗員さん、そして今回の思い出のガイドさん。笑顔と会話をありがとう。ちなみにこのガイドさん、御年60歳を超えている?どうやら一度は定年退職したかどうかなのに、才能かわれて職場復帰?「いつまでもこうしてガイドできるのを感謝しています」と言っておられました。素敵じゃありませんか、この御歳で今尚元気に楽しみながら働いておられる。前席から後部座席まで揺れる車体に小さな身体を揺らせながら、我々に「今からお茶の接待をさせていただきます」と懸命に動いてくれていました。そしてまた時折何とも言えぬ間合いでジョークを連発。このバスに乗車した当初には、スッチーとはいかずとも、それなりにわずかな期待はしていましたから、思わずびっくりしました。雰囲気としては・・・そうそう、あのイッセー尾形演ずるサニクリーンのおばさん・・・かな?あの女性をやや上品にマイルドにした感じ・・・!?とってもかわいい年季の入った味のあるいいガイドさんにめぐり会えました。ガイドさん サンキューです。(^^♪
2005年06月02日
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今日は昨年亡くなった父の法事のため帰省してきました。私の故郷は山口県萩市。現在地より車で1時間半の距離です。わずかな時間の滞在でしたが、予想された雨もその時間には降らず、桜の満開にも間に合いラッキーでした。帰りの時刻には強い雨脚に見舞われ、桜散る状況でした。いくつか撮った写真をUPしました。 かっての藩校の跡地に存する母校明倫小学校。はるか遠く過ぎ去った、あの時少年少女だった友の面々は今何処。明治19年に建築、昭和10年に改築された年代ものの木造校舎。趣は当時のまま。途中手直しを繰り返しながらの現役です。 桂小五郎と坂本龍馬が手合わせしたという、学校敷地内にある有備館
2005年04月10日
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信号待ちの私の車から、斜め向かいの歩道をこちら方向へ歩いている女性に何気なく目が留まりました。俯き加減だったのではっきりとした顔立ちはわかりません。その若い女性は、歩きながら、手にしたハンカチを度々顔へ近づけていました。女性はその交差点の角を歩道に沿って左折。やがて信号が青に変わり、私の車は対向車の切れ間を右折。交差点をやり過し、歩道側に近づいた私の先のその人は、その様子からどうやら泣いている様子に見えました。私が通り過ぎざまに、左側歩道の彼女をつい見やると、やはりそうでした。何度もぬぐっていました。すぐその先の彼女の進行方向の信号が赤になり、彼女は歩みを止めました。その場で向かいの人目を避けて俯いたままでした。そのまま私は、自分の進行方向へ車を進め、やがてその人は後方に遠ざかりました。これまでも何度かこの様な光景に出会ったことがありました。その都度、何とも言えぬ切なさに包まれました。要らぬ世話ですが、ついその涙の意味をふと考えてしまったりして心痛みます。何かとても悲しいことつらいことがあったのでしょうか。私のこれまでの、それなりに自負する愚直の人生は、それはそれで、自分なりに一所懸命のつもりだったけれども、度々の、全くもって相談なしの度重なる転職においては、女房殿につらい思いをさせてきました。迷惑ばかりかけてきました私は、ひたすら感謝。いまだにお世話になりっぱなしかもしれません。今日の若い女性の泣いている姿に、事情は違うにしても、ついつらくなるのは私の、深い自省からくる私自身の心の痛みなのかもしれません。
2005年04月01日
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真っ直ぐ誠実に仕事を遂行することと還って来る成果が一致するとばかりはいえません。成果とは当然相応の出来高であることも精神的な充足感や達成感であったり。しかし一番重要なのは精神的な満足感を持てるかどうか。もちろん結果云々に左右されない自分自身の行動が納得できるものであったかどうかが大切なわけです。時と場合、あるいは人により、こちらが好しとすることが、相手との間で永遠と噛み合わないこともあります。それはまたままあることでもあります。隅々まで気配りすることが、自らを窮屈にする場合もあり、状況によってうまく受け入れられるとは限りません。しかしだからといってアバウトにはできません。多少はほどほどのスタンスで仕事をするのがいいのでしょうが、つい神経を張ってしまいます。やはりあまり仕事の捉え方は上手な方ではないかもしれません。しかもどうやら私自身、つい難しい方へ自ら足を踏み入れ傾向があるようです。もっと気楽にいいとこ取りのやり方ができればいいのですが、その点の要領悪すぎをつくづく感じないでもありません。尽くすことに苦はなくとも、どうも競うということも不得手です。ただただコツコツだけでもいかんですね。経営者としては大失格者です。長年この点は気づきながらも根底の自分を変えることはできないのですが。これはこれで自分でも納得する部分かもしれないのですが。しかし、精一杯誠実に自分では職務を遂行したつもりでも、時に気持ちの充足感を勝ち取れないときはやや気落ちもします。自分の存在意義に自負はしていても、ふと果たして現在地が私の居場所かな?ともまた考えたりもします。もっともっと心穏やかに安らぐ自分の本当の居場所というものがどこかにあるような気がしてきます。ただただ誠実に自分というものを日常の上に履行することだけを考えておれる場所。これまでの転職も居場所を求めての行動、今更ここにきて無責任な大転換はないとは思いますが。少しばかり自分探しの日でした。
2005年03月23日
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このところ慌しい日常に身を置いています。一日も一週間もが、生活のなかでの車窓に流れる景色のように、心に留まるまでもなくあっという間に過ぎていきます。油断すると、目を通す間もなく会社の新聞は溜まり、読みかけの定期購読物までもが机の上に置かれたままの状態。確かに忙しいには違いないのですが、いまひとつ現状に翻弄されている自分がいるようです。自分というものの精神所在もそうですが、経営をしていると、時々における会社の方向性の確認作業も必要となります。多少時間を割いても、立ち止まり、行く方向を自分なりの羅針盤で捉えてみる。それは私的においては人生計画であったり、経営においては経営計画書であったり。闇雲に突き進むより自分が思い描く地図というものに羅針盤を置いてみる。その都度軌道修正を必要とする人生と経営。緩やかに流れる列車の車窓の先の穏やかな景色のように、すこしばかり立ち止まり、落ち着いた心で私の現在地を確かめることをしてみます。しかしながら、これまでの人生で、生き方の羅針盤は一貫して一点を指したまま。これからも変わりません。どの様な困難な状況の時も、持ち合わせたこの羅針盤のお蔭で、その障害を乗り越えることができたのですから。
2005年03月08日
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昨夜、会社からの通勤路の帰り道。一塊の集団に遭遇しました。追い越しざまに見ると、円を描いて誰かを取り囲んだ集団はカメラやマイクを持った報道陣の様。帰宅後、見たTVニュースによって、それが一昨日福岡で通勤途中に災難に遭われた被害女性の通夜に参集された方へのインタビューだと解りました。入社1年目の23歳の若き人だったとのことです。希望に満ちた彼女のこれからの長い人生が、いとも簡単にこのような形で無法者に遮断されるとは。昔も驚くような凶悪事件はありましたが、現在のように頻繁に発生し、あたかも次々と雑多に詰め込まれ吐き出されるごみのごとく、日常的な有様として、我々の神経もすでにひとところに、留まる猶予も持ち合わせられない程にはなかった気がします。頻繁にはなかったと思いますから、新聞等に載る事件といえば、例えば誘拐事件であっても、あるいは殺人事件であっても、それは世間を驚愕させる出来事として、人の記憶にも歴史的にも永久に記録されるものになりえたのです。一時代前でしたら、そのような事件も、いまでは一瞬の記憶の彼方。すぐに新たな事件の発生です。子供の頃、私の住む田舎ではカギをかけずに自宅を留守にしても大丈夫。ご近所さんとの助け合い精神もしっかりできていました。そんな時代、この様な事件などとても考えられませんでしたし、身近の恐怖など覚えたこともありません。よく性善説ということを言われますが。それは人間の驕り。善も悪も持ち合わせたなかで、いかに人と人が関わりあい平和に共存していけるか。未熟でもありながら限りない成長も期待できる。自省心も深い愛情も持ち合わせている。それが人間。これまで平和にどっぷりと浸かっていた日本が、こうも荒廃していくを見るにつれ、憤りを超えて改めて我々一人一人が現在と未来を考察しなければならないと思います。今朝、出社途中。昨夜は暗くて見えなかった斎場に飾られた花輪に、被害者の悲しみとさぞかしの無念さが濃く映ってみえました。
2005年01月20日
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大型電気店 ケーキ屋さん 居酒屋 コンビニ・・・いろんな業種のお店や企業に出向いたときには、私は必ずそこのお店や会社の雰囲気と社員さん店員さんが気になります。各お店(企業)の、店内(会社)マニュアルの領域外に伺える、その人の接客態度が気になり、ついその店員さんの動きを何気ないふりして伺ってしまいます。社員の採用においては、面接のわずかな時間でその人となりを判断するのは大変困難です。また、その人の経歴も当てにはなりません。輝かしい経歴の持ち主であっても、過去は過去。これから何を成し遂げることができるかが肝心。大切な人を採用するにあたっては、最低三度、場所を変えて面談し、採用するか否かを決定するのが適切とも聞きます。そんななかで、幾度と寄ることのできる、様々な会社やお店では、時をかえて何度も、その場における社員さんを伺いしることができますし、そのお店の評価もできるわけです。で、これは我社にとっても反省や参考の材料に大いになるのです。ときに、あの店員さん欲しいな。と思うこともあります。幸い当社は優秀なスタッフがおりますが、土台作りのために人材を探しているのも事実。少数精鋭でベクトルが合っていい仕事ができる環境にするためには、やはり最低限の人財が必要不可欠。何事も一人ではできません。人材育成し、思い切って権限委譲していかなければいつまでたっても私自身の成長はないと、つくづく最近思っています。いい人材を選択すれば、その人材の周囲にまたいい人の輪の連鎖があります。小さな会社は限りなく人にこだわっていきたいと考えます。最近は1週間あるいは1年というものがとてつもなく早く過ぎるように感じます。日々を無駄にせず、成長のための目標設定をきっちり定めていきましょう。
2004年12月07日
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昨日書きました作家、半村 良についてfried tomatoさんから、お父さんの本棚に作品「雨やどり」を見つけた、とコメントいただきました。嬉しくなってついPart2昨日申しましたように、半村 良の作品には男女の機微というものが絶妙にほろ苦くほろ優しく描き出されています。彼の軽妙なタッチのエッセイはとてもいいですよ。今、私の手元に彼の作品の一つで「女帖」と題したものがあります。これ裏表紙に私が書いた日付を見ますと、1982年7.24(SAT)となっております。その時期に読んだのでしょう。で、私がどうこう下手なコメント書くより、当時のその本に書いてある書評を記しましょう。なんだか今回は半村 良の追悼みたいになりました。過ぎし日、来し方、著者の琴線に触れた数々の“おんな”たち----。考えるより感触で生きる女、家計簿をあれこれ細工する女、「絶対男に負けるもんか!」と負けず嫌いの女、雨降る夜明けの街を傘もささずパーティドレスで彷徨する女・・・などなど、“おんな”の生き様を縦横無尽の筆で艶めかしく描き出す好エッセイ。 解説・落合恵子fried tomatoさんには昨日のweb上で出会ったわけですが、日記にあった「乗る飛行機が欠航で今日は休み・・」みたいな文を読んで、この人スッチーだ!と早合点する間抜けなB型の私です。ところで私が師?と仰ぐ楽天日記仲間の“あかし屋本店”さんと今回出会ったfried tomatoさん、そしてこんな方↓ひめちゃん3058さんこの作家にも負けぬくらいに人の機微を軽妙に描けるのでは?そのセンス十分あると、ふと思った次第です。ところで本日は休日でしたが、携帯にお客様からTELありました。随分前にある物件をご案内した方ですが、そのときに縁はなく、当時新築も検討されていた風だったので、すでに購入され引越し済と思っていましたが、まだ決めておられなかったようです。私の名前をちゃんと覚えていていただいて、また探して欲しいとの事。嬉しい休日となりました。
2004年10月10日
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半村 良という作家をご存知の方も多いと思う。私はこの作家の作品が好きである。近年の文学の世界においては独自の特異な世界を構築した人。その作品は伝奇SF、風俗小説、捕り物帳など幅広い。「妖星伝」「戦国自衛隊」等もそうだ。しかし私がもっとも好きなのは、人々の織りなす様々な人間模様を軽妙なタッチで描写した彼の経験が生きた作品。特に男女の悲哀や下町の人情というものを書いては抜群。注意:私は男女の悲哀はあまりわかりません。 失恋の痛みは経験しましたが(^^♪この人、人生経験豊富でいろんな職をこなしてきている。とりわけ酒場のバーテンやクラブの支配人時代の経験を素材にした下町人間模様を描いた作品にもっとも魅力を感じる。なかでも第72回直木賞に選ばれた「雨やどり」が好きだ。楽天ブックスレビュー↓舞台は新宿裏通りのバー街・「ルヰ」のバーテンダー仙田を主人公に、彼の前を通り過ぎていく、いろいろな男と女の哀歌漂う人間模様を描き出す連作。・・とある。連作とあるように、この手のものを幾つか書いている。女帖・うわさ帖・八十八夜物語・男あそび・・とても人間味があって温かくてなんともロマンチックな気分になる彼の作品群なのである。その昔、学生の頃、キャバレーやクラブでのバイト時代をも思い出す。開店前のお店で皆押し黙って奥の客席に座っているホステスさん達。といっても当時は皆さん私より年上。閉店後、店のワゴン車でホステスさん達と帰っていったこと。車内に漂う表の華やかさとは違った裏のそれぞれの悲喜こもごも。きれいな憧れのホステスさんに弁当作ってもらって心躍ったことも(^^♪たわいない日常に隠れた人情模様を、当時の私もまた初心な心で垣間見ていた。懐かしいな・・・・残念にも数年前にこの作家は亡くなった。
2004年10月09日
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日記2日目にして「夏の葬式は云々」とは・・いかにまあでも書きましょう・・この歳になると、とかく慶弔事に出合います。とりわけ葬儀に出ることが多くなります。知人・友人の別れに立ち会うことが多くなり、生の終焉というものを度々確実なものとして目の当たりにさせられますと、つい悲しみというものが麻痺してくるようにも思えます。(但し当然場合にもよるでしょう。 私だって悲しいときは人一倍悲しいのです)最近父が亡くなりました。1月には家内の父が亡くなり、慌ただしく半年が過ぎました。父の葬儀は,ひなびた城下町の建立300年という小さなお寺で私が喪主として執り行いました。火葬し、再び寺に帰る。葺き替えたばかりの、そこだけが目立つ寺の甍の先に広がる青空と白い雲・・その下、本堂に続く広縁に、集うのはこのような時ばかりの親類縁者達は、めいめい胸元を緩め、精進落としの膳が出るまでしばしくつろいでいます。私も足を投げ出しぼんやりと、寺の低い塀の向こうに連なるやはり古い民家の家並上に広がる青空と白い雲を眺めていました。父の最期辺りは頻繁に帰郷し、病床に添うことができましたので、迫る別れにたいする想いも感慨も、ゆっくりと遠ざかっていきました。私はぼんやりとしながらも、身内との別れに、悲しみは悲しみとして、どこかに自分を含めた周りの光景を、冷静に見つめている自分に気付きます。切なくもなぜかほの甘いこの光景・・随分以前、ある葬儀にでました。農村地帯の自宅葬として行なわれたその告別式が終わり、そのお宅から、故人を乗せた黒光りの霊柩車は合掌する人々を背に、濃い緑の田園地帯を遠ざかっていきました。私もそれを見守りながら、不謹慎にも、葬儀というものに何故かロマンチックなものを感じていました。そのときも父の葬儀と同じく 空には青空と白い雲が広がって蝉の声が降り注いでいました・・※きざにすみません でも本当になぜかせつなくも・・ 次は楽しいことを書きましょうね。
2004年07月20日
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