オバかの耳はロバの耳 

2013/04/19
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転載記事の続き
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祖国遙か-5
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帰ってきて堀喜身子さんにその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをしました。

すると、実はよんどころない事情で、遣いこんでしまったという。
思い当たることはあるのです。
その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。

間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。


埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。

吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園しました。
そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式も行いました。

その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。
演目は、もちろん「満州白衣天使集団自決」です。

この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きました。

すると吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を快く引き受けてくださったのです。

埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じる。

資金面では、すべて吉田氏が引き受けてくれることになりました。
そうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されました。


http://blog-imgs-31-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/201102232236513f2.jpg


地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。

(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子



以上のお話は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいたものです。

大島花枝看護婦のことについては、以前、
「満洲国開拓団の殉難」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html
という記事でも書かせていただいていますで、そちらもご参照いただけると良いかと思います。

またこの記事そのものは、昨年2月に三回にわけて当ブログに掲載させていただいたものを、今回、少し文章等を手直ししてお届けさせていただきました。

前回のアップのときもそうなのですが、今回も、心が死んだような状態になっていた8名の看護婦たちが、堀婦長の献身的な努力で、徐々に生気を取り戻した。そして、やっと、ようやく日本に帰れるとなったその日、晴れやかな笑顔で駅前に現れた3人は、残りの者を迎えに行くといって、覚悟の自殺をしてしまう。

ちょうどこのくだりを書いているとき、ボロボロに泣けてしまいました。

戦後の混乱、敗戦のショック、食べる物さえなく、餓死者まで数多く出した戦後の混乱期の中で、家族国家の住人だった日本人は、生きるのに精いっぱいの状態になりました。

そこへGHQが思想統制、言論統制を行い、日本人の精神構造の破壊工作という追い打ちをかけました。
その呪縛はいまでも続いています。

けれど、そういう過酷な時代にあっても、日本人としての心を失わず、必死に生きた堀喜身子さんのような方や、彼女をささえて献身的に努力してくださった松岡師匠のような方、そして自らの家の土地を進んで墓所にご寄進なされた吉田亀治元陸軍大尉のような方もおいでになりました。

そしてそういう方々のおかげで、いまなお、私達は大島花枝さん以下32名の看護婦さんたちのことを、忘れずに今に伝えることができています。

いま、日本国家を解体しようとする人たちが政界その他に数多くいます。
けれど現実に国家が解体した実例が満州国です。
そこにいた人々がどんな目に遭ったか。
国というものが、いかに大切なものかも、本稿を経由してお感じいただけたら幸いに思います。

【後日談】
夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となられたそうです。

お地蔵さんが建立された青葉園は、いまもさいたま市にあり、その中央には青葉慈蔵尊がご安置され、いつもどなたか(お身内の方でしょうか)によって綺麗なお花が添えられています。

この物語を最初に当ブログでご紹介したとき、この話はつくり話だ、嘘だ等々と中傷する方やサイトがありました。
けれど私は思うのです。
なるほど私はその場にいたわけではないし、当事者でもない。ですから事実の有無は私にもわからない。
けれど、その物語はつむがれ、そこに大きなお地蔵さんが建立されている。
その日本人の真心は、忘れてはならない日本の心として、絶対に後世に伝えていかなければならないと思うのです。
浪曲になった話だから、嘘だ、そういう決めつけではなく、そこから何を学ぶかが大切なのではないでしょうか。


※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。





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Last updated  2013/04/20 02:35:48 AM
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