「ハレ」とは?「ケ」とは?
人間というものはふだんは
だいたい毎日同じようなことを繰り返して生活している。
朝起きて仕事場に向かい、仕事が終われば家に帰り、夕食を食べて寝る。
休日は子どもでも連れて近場の公園などに遊びに行く。
たまにはカラオケにでも行く。まあ、最大公約数的にはこんな感じだろう。
個人によって日常生活はいろいろ異なるかもしれないが、
とにかく毎日同じようなことを繰り返している、という点では一緒であろう。
毎日が変化に富んだ波乱万丈という人は少ないだろう。
こうしたいわゆる日常生活が「ケ」である。
これに対して普段とちがうことをするのが「ハレ」である。
旅行に行く、外食する、お祭り、など、
とにかく非日常的なことをする機会が「ハレ」である。
結婚なども「ハレ」の代表だろうが、
家に帰れば奥さんがいるのが珍しいうちは「ハレ」だろうが、
それが当たり前になってくれば結婚生活も「ケ」となる。
子どもの誕生なども同様である。
「ケ」という言葉は使われなくなったが、
「ハレ」という言葉は「晴れの舞台」とか「晴れがましい」など
といった形で今だに使われている。
「ケ」だけでは人間は生きていけない
その昔、たとえば江戸時代などは世の中の変化もとぼしく、
人口の大多数を占めていた農民などはそれこそ毎日が同じことの繰り返しであったろう。
そして毎年同じことの繰り返しであったろう
春になれば種まきをし、秋になれば収穫する。
ケータイやパソコンなどが新たに出てくるわけでもないし、
自分が年を取っていくほかは何年何十年と毎日何も変わらない生活だったであろう。
しかしこんな「ケ」の毎日では人間はあたまがおかしくなる。
統合失調症(旧精神分裂病)の人などは
同じことを繰り返しやっていても飽きないようであるが、
普通は人間というのは毎日同じことをやっているといやになるものである。
かといって毎日が変化していく波乱万丈の人生などというのは
特に江戸時代などではありえないから、
人為的に「ハレ」を作り出す必要があった。
それが祭り、能狂言、正月などの行事である。
こういった「ハレ」の日には農民も毎日の農耕を忘れ、
思いっきり楽しんだことだろう。
「あと何日で祭りがあるだべや」とかいった
日常生活の区切りがあったからこそ、
退屈な労働にも耐えることができたのである。
また稲刈りや田植えの時などには道化などが出て、
重労働を少しでも精神的に楽にするような慣習のある地域もあったらしい。
これなどは「ケ」の中に「ハレ」の要素を取り入れていたといえる。
現代は「ハレ」の毎日?
こうして人間は「ケ」の日常の中に「ハレ」をときどき入れることにより、生きてきた。
それにしても現代は江戸時代などよりははるかに
変化の激しい時代であり、
またテレビやパソコン、ゲームなど昔にはなかった面白いものがたくさんある。
次々に新しいものが出てくるし、いろいろなニュースや話題に豊富である。
日常の食生活でも昔の人なら
それこそ「ハレ」の日にしか食べることのできなかったごちそうを
当然のように毎日口にすることができる。
服装なども昔なら「ハレ」の日にしか着られなかったようなものを毎日
とっかえひっかえ着ることができる。
現代人は江戸時代人などからみれば
毎日が「ハレ」の生活をしているようなものだろう。
「ハレ」と「ケ」の区別のない時代
このように現代は昔のような「ハレ」と「ケ」の区別が薄らいできているといえる。
たとえば正月なんかでも昔はこのときとばかりきれいな着物を着て、
はねつきをしたり、正月ならではのいろいろな行事をやったり、正月にしか食べられないものを食べたりしただろう。
「♪もういーくつねーるーとーおー正月ー」の歌ではないけれど、
とにかく正月三が日というのは
日常から隔絶した「ハレ」の日々であった。
しかし毎日が「ハレ」のようになった昨今では
正月といっても会社や学校が休みである以外には格別特別なときでもなくなった。
おせち料理など作らなくてもコンビニは空いてるし、
もちなど別に正月でなくてもいつでも食べられる。
正月といっても着物を着る人も最近では少ない。
現代人にとって正月などはまとまって休みが取れるくらいの意味しかないだろう。
日常生活にいろいろな楽しみが多い現代、
正月に限らずいろいろな行事ごとなどは
昔からやっているから惰性でやるとか、
決まっているからやるといった感じで、
それを「ハレ」の日の楽しみな行事としてやっている例は少なくなっていると思われる。
それでも人間は「ハレ」を求める
こうして現代人は昔の人からみれば毎日が「ハレ」のような生活をしているが、
それでもやっぱりさらなる「ハレ」を求めていると思う。
現代人はいろいろな意味で眼や舌が肥えているからよほどの非日常性を
感じさせるようなものでなければなかなか「ハレ」を意識しないようになっている。
たとえば観光地などへ行ってもすでに写真や
ホームページなどであらかた様子を知っているから
実際に現地に来て見ると
「なんだ、写真の方がきれいじゃん」などということになる。
外食をしても「うちで作った方がうまいじゃん」とかになる。
昭和45年の大阪万博などは日本人の半分が見に行ったらしいが、
たとえば万博ではまさに「ハレ」であったファミレスなど
今ではどこでも見かける「ケ」となっている。
これからも人間は新たなる「ハレ」を求めてつぎつぎといろいろなものを作り出したりすることだろう。
反面これまで「ハレ」の代表選手であった正月行事や祭りなどは日常生活の「ケ」の中に埋没していってしまうのかもしれない。
以上引用です。
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私は、子供の頃、
昭和45年
大阪万博を家族で、見に行きました。
興奮しながら、中国館や、アメリカ館や、カナダ館を見ました。
凄い刺激を受けました。
ハレ状態だったのを今でも、
覚えています。
興奮するような刺激のある生活と日常生活の安定さとの
バランスが大切だと重ます。
参考になりますか?