忘れもしません、新聞配達をしながら、
大学に通っていました。
昭和53年4月1日~昭和54年3月31日まで、
新聞奨学生でした。
昭和53年11月3日、
オヤジのガンの手術の日です。
契約上、休みはありません。
新聞休刊日も、ほとんどありませんでした。
日曜日だけ、夕刊配達が ありませんでした。
日曜日だけが、唯一の楽しみでした。
父親が、入院したのです。ガンです。
新聞配達の所長の許可をもらい、
朝刊を配り終えたら、すぐ名古屋へ帰省しました。
母親は、胃潰瘍の手術としか、医者に知らされていませんでした。
今だから、言えます。
新聞屋の所長から、
「胃潰瘍の手術で、何が休みくれ」「あまい」と言われました。
わたしも帰省するつもりは、ありませんでした。
しかし、母方の母(祖母)より、
「あなたのお父さんは、ガンよ、早ければ、3ヶ月。
成功しても2年だ」と言われました。
病院に駆けつけると、オヤジは かん
が鋭いことは、
知っていましたので、明るく挨拶すると、
「何故、居るんだ。すぐ帰れ」
「胃潰瘍位で、死ぬはずないよ。」
お蔭様で、手術は成功しましたが、・・・。
次の日
新聞配達しなければ、いけないので
すぐ、川崎市多摩区へ戻りました。
術後、オヤジは良くなり、一人でトイレにも行けれるようになりました。
入院中、親父は、朝3時30分に必ず目をさますようにしていた。・・・と母から聞きました。
病院の窓をみながら、
「今頃、としあきは朝刊配っているだろうな~。
寒いだろうな~。」と泣きながら、
般若心経を唱えながら、
私の
健康に氣を使ってくれたのです。
寒い12月上旬まで続けてくれました。
「あいつに剣道を継がせたい、でもあいつは断った。
母さん、あいつの好きなようにやらせろ。名古屋を出て行け」と言ったそうです。
その後オヤジは元気になり、退院し、剣道道場に出るようになり、
昭和55年3月、国際審判委員に選ばれ、
ハワイへ行くことになり、東京のホテルで夜会ったのです。
もう、痩せてきていました。
オヤジの部屋へ大好きな日本酒をもって行くと、
「日本酒持って帰れ、
仕送りなくて悪いなぁ~」
とオヤジが言います。
私が言います。
「心配するなよ、オヤジ。
バイト先の人も良くしてくれるから」
そして、ゴミ屋のアルバイトをしながら、
お店が
捨てるハンバーガーを
食べていることをお袋には、
言わないということで
すべて、話しました。
オヤジが私の手を握り泣くのです。
「としあき、お父さんは、
お金は残さないが、
教育を残すようにしてきた。
いいか、おまえの好きなことをやれ、
頭にきたことがあったら、
お父さんのことを思い出せ。
オレが死でも、
心の中にいつもおまえといっしょだ。
苦しい時は、
オレが教えたことを参考にしろ」と言うのです。
20分ぐらいでしょうか???
泣きながら、ホテルを出ました。雨がもの凄い勢いで降っていました。
もう、涙なのか?雨なのか?
わかりません。 今でも、この光景を覚えています。
学生時代に
その時に一日も早く自立させてくれたオヤジに
感謝以外の言葉はありません。
昭和55年です。
死ぬ間際、忘れません9月30日。急に元気になったのです。
そうです。神さまが最後の親子の会話の時間をくれたのです。
「としあき、おいしそうにカップラーメンを食べてくれ」
そうです、オヤジは食べ物も受け付けません。
私と兄が、滝に夜打たれながら、
山水を取りに行き、オヤジ
の口に運んだのです。
10月1日、意識が無くなりました。
今もその光景は覚えています。
昭和55年10月2日夕方4時02分、天国へ行きました。
授業料も払えず、
停学処分(荒木教授には、大変お世話になりました)になりましたが、
何とか払えました。
一人だけの力ではありません。
オヤジ代わりの長岡のおやじさん、冨吉夫婦、都議会議員秘書の小野さん、
ゴミ屋の社長の長田社長、
そして、大学時代の友人がどれだけ応援してくれたでしょう。
奨学金を受けていなければ、おそらく卒業は無理だったでしょう。
だから、わたしは、ユニセフ基金、がん撲滅運動に少しでも協力したいのです。
故オドーリー・ヘップバーンの生き方を
知って、少しでも、協力をしたいと考えたのです。
参考になりますか???