「後継者は、創業者を越えることは、基本的には、
出来ないと思います。」
でも、近づくことは、出来ると思います。
私は、婿養子です。
従業員の立場で、この会社に入社しました。
創業者の気持ちを忘れないように、
今後とも、意識していきます。

故羽富 正三(創業者)より
いろいろなことがあって、苦労もやまほどして、
ここまで育てた会社です。
あの戦争から、かえってきて始めた行商から出発して、
昭和26年に旅館の一画の倉庫のような場所に、
初めての店を
かまえて。
間口2軒、奥行き4軒からのスタートでした。
一時は、スーパーマケットにまで手を広げて赤字、
縮小などいう失敗も味わいました。
そんな長い長い試行錯誤をへて、やっとたどり着いた、
この婦人服
販売という事業です。
だから私は、わたしの代でこの会社を終わってしまうのを、
どうしても善しとすることはできませんでした。
そもそも、7年前、ある大手ファッションメーカーから
彼を引き抜いたのは、後継者を育てたいという思いがあったからです。
当時28歳。
社長の私をはじめ他の役員側から見れば、
あの頃の彼は、子供のように若く感じられたものです。
経営陣のほとんどが50歳~60歳という組織だったのだから、
とうぜんかもしれません。
私たちの世代には、もう終りがちかづいている。
その危機感が、彼にかけてみようと私達の心を決めさせたのです。
それは、このままでは経営陣の老齢化にともなって
衰退していくことは、目に見えていました。
ならばいっそ、彼の思うままにやらせてみることからはじめよう。
彼にとっては大きな重圧だったのでしょうが、
私達も出来る限り
のお膳立てを整えて
たすけてきたつもりです。
驚いたことに売上げは、対前年比の1.5倍を
記録していました。
彼がしたこと事は、社員のためのマニュアルを整備するという、
今思えば、当たり前のことでした。
お客様の挨拶の仕方、電話の取り方、
そんな目にみえるところから、地味に改善をおこなったのです。
私達には、少なからぬショックでした。
そんな基本的なところに改善の余地を残したまま、
これまでやってきていたとは。
また、若い世代に仕事をまかせることが、
これほどが、これほどの結果を実らせるとは。
ところが、1年が、ふたたび業績の伸びは止まることになります。
あの当時ほど、彼があせっていた時期かもしれません。
それは、大手のメーカーから移ってきたプライド。
自分にかかる期待の大きさ。
なにが何でも売上げを伸ばさなければならない。
ーと彼が思ったのも無理はありません。
しかしもちろん、私達、経営者は、彼を責めるつもりは、
少しもありませんでした。
あの頃の彼(わたし)にこんなことを言ったのを覚えています。
「きみは今までのノウハウをすべて出し尽くしてくれている。
なら、それでいいじゃないか。出し尽くしてゼロになったら、
そこからまた、一緒にはじめようじゃないか」
その当時の彼は言います。
「この会社のために、やってみようと、
あの時本当にそう思った」と
私の娘との結婚が決まった日の不思議な気持ちは、
やはり忘れません。
私の娘は、バツ1です。
この私が、あせってムコの選び方を間違い政治の力を
使ったしまいました。
あせることが、娘の人生を狂わしてしまいました。
申し訳ないことをしたと反省していました。
後継者がいないこのわたしに、
こんなかたちでムスコができるとは。
妻とその晩は、大泣きしたのを今でも覚えています。
都史彰(としあき)は、名古屋うまれ。
わたしも70歳を過ぎ、
他の経営者も相次いで引退していくでしょう。
このせがれには、まだ一緒に仕事をする(悩んだり、喜んだりする)相棒が
いないのです。
同族会社にこだわる気持ちは、まったくないようです。
これまでののような経営手法は、わたしとともに姿を消すでしょう。
終戦直後から、リヤカーを引きながら、
グイグイひっぱってきたやり方から、従業員の立場から考える、
むこのせがれと一緒
になって 次の世代をつくるあなたを採用すること。
・・・これが。私の最後の、最後のおおきな、おおきな仕事です。
ありがとうございました。
ロコレディ 現会長 羽富正三
平成7年の会長のことばを私が、文章にしました。