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【送料無料選択可!】日本海海戦 悲劇への航海 下 バルチック (単行本・ムック) / C.プレシャコフ 著 稲葉 千晴 訳
私
: 旅順港
が日本の手に落ちた以上、 バルチック艦隊
の行く先は、 ウラジオストク
となった。
まず、 インド洋から太平洋
に入るのには、 2つの経路
があるね。
1つは、 ジャワ島とスマトラ島の間
の スンダ海峡
と マラッカ海峡
だ。
ロジュースヴェンスキー将軍
は当初、 マラッカ海峡
で 日本の水雷艇の攻撃が予想
されたので、 スンダ海峡
を予定していたが、ここは オランダが植民地支配
しており、協力的でなかった。
A氏
:結局、 マラッカ海峡
を抜けるのだね。
当然、日本は水雷艇など配置していないね。
私
: バルチック艦隊
は、次に、 仏領インドシナの カムラン湾
に到着する。
しかし、ここは、 艦隊の安息の地
ではなかった。
露仏同盟
があったにもかかわらず、日本が フランスの中立違反を指摘
して、 パリで外交圧力
を強め、それを イギリスが側面から支援
したからだ。
当時の 小村寿太郎
外相
はなかなかの 外交手腕
だね。
フランス
も 中立違反を口実
に、 イギリスと日本が仏領インドシナを攻撃
するのではないかと恐れていた。
ロジュースヴェンスキー将軍
は、 艦隊を本国に引き返す
ことを望んだが、 皇帝ニコライ2世
は 極東での制海権の確保に固執
した。
しかたなく、 後続隊
をここで待って、 合流し、ウラジオストクに向かった
。
ところで、 バルチック艦隊の船員
が寄港地で買い物をするのだが、 日本が作ったロシア偽造紙幣
が登場するね。
日本はすでにいろいろな手を打っていたんだね。
A氏 :一昨日の 朝日新聞 では、 第2次世界大戦中 、 中国の偽札45億元分 を作って中国へ運んで 経済混 乱を狙ったという 登戸研究所 の記事が載っていたね。
ところで、 ウラジオストク に向かった バルチック艦隊 が 対馬海峡 、 津軽海峡 、 宗谷海峡 のどれを通過するかという問題が出るね。
私
: ロジュースヴェンスキー将軍
は、水雷艇の襲撃からして 対馬海峡が一番リスクが少ない
と考えた。
そして、その行方が日本海軍に覚られないようにいろいろな手を打つ。
A氏 :一方、 東郷平八郎 大将 率いる 日本海軍 は、 バルチック艦隊 が 対馬海峡 から来ると予想していた。
私
:しかし、 仏領インドシナ
を バルチック艦隊
が出港してからの情報がない。
日本海軍
は 対馬海峡
を予想していたので、 津軽海峡
の場合、 艦隊を北に移動
しなくてはならない。
5月26日
までに、 バルチック艦隊
の居場所がわからないときは、 津軽海峡への移動
を考えていた。
そこへ、 上海
から バルチック艦隊の輸送船
が 上海に到着
したという情報が入り、 津軽海峡
経由がないと分かり、日本海軍は 対馬海峡
で待ち構えることになった。
A氏
: 日本海海戦の戦闘開始
は、 5月27日午後2時頃
だね。
日本艦隊は、有名な T字戦法
で対応するね。
縦列
で向かってくる バルチック艦隊
の前に横に展開する。
したがって、 バルチック艦隊
のトップを走る 旗艦
は、 集中砲火
を浴びる。
後続の軍艦は、 前の軍艦が邪魔になり砲撃しにくい。
日本は 下瀬火薬
が威力を発揮するね。
私
:結局、戦闘の結果、 バルチック艦隊が壊滅
したのはご承知の通りだね。
ロジュースヴェンスキー将軍
は重傷で、 捕虜
になるね。
日露講和条約
が締結され、 ロジュースヴェンスキー将軍
は シベリア鉄道経由で帰国
するが、途中では ヒーロー的な歓迎
だったという。
ところが、 ペテルブルグ
に到着したとき、 プラットフォームで将軍を待っている役人は一人もいなかった。
1906年5月21日
に、 ロジュースヴェンスキー中将は退役
した。
翌月から 軍法会議
が開かれたが、 無罪
となった。
彼は 私人
となり、家族と共に余生を送った。
3年後の1月13日
、 旧暦の大晦日
を、 ロジュースヴェンスキーは
妻、娘、娘婿、4歳の孫と祝っていた。
元気になんども 乾杯
したという。
翌14日の午前2時頃
、彼は祝いの席を離れて自分の部屋に戻った。
突然、 ガタンという大きな音
を聞いた家族が彼の部屋に駆けつけたら、 元中将
は床に倒れていて、すでにこと切れていた。
60歳の生涯
であった。
皇帝ニコライ2世
は、革命で 最後のロシア皇帝
となり、革命政府に 1918年7月
処刑される。
50歳
。
東郷平八郎大将
は、国家の英雄として余生を送る。
元帥
となり、 伯爵位
を授けられる。
1934年5月
、 86歳
で天寿をまっとうした。