March 21, 2009
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カテゴリ: クラシック音楽
いい演奏会になるだろうという予感はあった。

しかし、その予感はまったく裏切られた。いい演奏会どころではなかったのだ。

日本だけでなく外国も含めて、これほどすばらしい音楽に出会うことは、100年に1度、あるかないかではないだろうか。

クラシックの泰西名曲を演奏したコンサートで類似の感動を得られた経験というと、1982年秋のヘルシンキ・フィルハーモニー初来日公演でのシベリウス「交響曲第2番」(指揮はオッコ・カム)、1990年夏のレナード・バーンスタイン指揮PMFオーケストラによるシューマン「交響曲第2番」のたった2回だけだ。

1982年のあのとき、ヘルシンキ・フィルの楽員は、日本の観客がシベリウスの音楽を集中して聴くことに感激し、涙を流しながら演奏していた。その演奏はひたむきな純粋さに満ち、フィナーレの高揚には神が舞い降りた。

1990年のあのとき、同行したロンドン交響楽団を指揮したバーンスタインには生彩がなかったが、音楽に対する清心な気持ちを失っていない音楽学生たちを前にバーンスタインは別人のように蘇った。

瀕死の半病人が指揮する学生オーケストラは、宮澤賢治の童話「よだかの星」のよだかのように、高みを目指して飛び続けた。指揮者とオーケストラと音楽が完全に一体となるさまを眼前にした稀有(けう)な体験。そしてその演奏は、賢治のよだかのように、カシオペア座に輝く星になったのだった。

78歳と3ヶ月、ドイツでのキャリアを捨て音楽の「伝道」のため日本に定住して活動しているハンス=マルティン・シュナイトは、顔色はいいが、遠目に見てももはや人生の終盤に来ていることが感じられる。

若手指揮者に対しては不遜な態度を示すこともある札響は、こうした高齢の指揮者の下では従順になり、アマチュアのような音楽への情熱と共感を示すことが多い。みな故人となってしまったが、アレクサンダー・シュナイダー、山田一雄、荒谷正雄、ペーター・シュバルツ、ジャン・フルネとの共演がそうだった。



100年に一度の名演となったのはベートーヴェンの交響曲第6番「田園」である。

第1楽章はいきなり主題で始まるが、この主題のさりげない始め方からしてすばらしい。堅すぎず柔らかすぎない、しかし温かい音色はもはやベルリン・フィルなどにはないドイツの伝統的なオーケストラの響きを懐古させる。

第一主題のフレーズの中間のかすかなディミニエンドとリタルダンドは絶妙なまでに自然。演奏が開始されて10秒足らずのこの時点で、この演奏が歴史的なものになる手ごたえを感じた。

テンポは常識的なそれよりもかなり遅い。しかし、この曲はたいていの場合、速すぎるテンポで演奏されていると感じていたので、よけいに期待がふくらんだ。

この曲のクライマックスはもちろんあの悦ばしい幸福感に満ちた第5楽章である。しかし、第1楽章を速いテンポで始めてしまうと、第5楽章をゆっくりしたテンポで演奏した場合、間延びしただらしのない演奏に聞こえてしまうのだ。

かといって、第一楽章をゆっくりやって、第五楽章をさらにゆっくりやると、ぶよぶよした脂肪だらけの体のような音楽になってしまう。

シュナイトがすばらしいのは、全曲を統一するテンポ感を持っていて、かなり遅めのテンポなのに、決してだれることがない点にある。こうして、メロディだけではなく音楽の全体を見渡すように味わっていけるようになるのだ。

快活なだけではない、完結した宇宙のような第一楽章もすばらしかったが、第二楽章はさらにすばらしかった。

弦の単調ともいえる伴奏音型は、演奏する立場からすると最も演奏しにくくイヤなパッセージなものだが、まるで最上級の弦楽四重奏団のセットを多数集めたかのように、豊かな響きでも細部が聴き取れ、大きな音になってもメロディをじゃましない、というオーケストラ音楽の理想の美が実現されていた。

ここまでの二楽章で欠点を述べるとすれば、セカンドバイオリンの響きの薄さというか、アタックの弱さであり、フルート主席奏者のわざとらしい音楽(特に第二楽章)、他セクションと比べて朴訥にすぎる表現が散見された木管セクションである。

札響にはかつて、ホルンに窪田克巳、ファゴットに戸沢宗雄、フルートに細川順三、オーボエに蠣崎耕三、トランペットに杉木峯夫という名手がいた。この5人が同時に在籍したことはないが、第二楽章を聴いていて、この演奏に彼らが主席で参加していたら、どんなによかっただろうと思った。



冒頭2楽章の遅いテンポのあとで、それに見合うテンポで第3楽章が演奏されると、いくら何でも重たいスケルツォになるのではと危惧したが、それはまったくの杞憂(きゆう)であった。

シュナイトの演奏は、たしかに軽くはない。録音で聴くなら、首をかしげるかもしれない。

快適な自動車に慣れた人が馬車に乗ったら最初はそのぎこちなさに抵抗を感じるだろう。しかし、デジタルでマシニックな機械ではなくアナログな生き物が持つ独特のそのリズムにすぐに順応し快感を覚えるようになるにちがいない。

シュナイトのスケルツォは、そういう生物の呼吸や鼓動のリズムを感じさせる。テンポは遅いのに重くない、独特の美をたたえるものだった。

第4楽章はテンポを煽って激しい表現をする指揮者が多いが、シュナイトは決して演出を外から付け加えるようなことをせず、音楽そのものに語らせるような表現をしていく。特筆すべきは強奏時の響きの豊かさ。金属的になることなく、常に柔らかく温かい響きがホールを満たすので、これが同じオーケストラかと耳を疑った。



第5楽章「牧歌、嵐のあとの喜びと感謝の気持ち」は、ひたすらに純粋な音楽だけが響き渡る10分間だった。

冒頭のクラリネット、続いてホルンの分散和音が、何と悦ばしく響いたこと! 

第一楽章同様に遅いテンポなのに、音楽の流れは滞ることがない。

オーケストラは音の職人の集団である。ガクタイという自称はそういう自信と謙遜を含んでいる。

しかし、この日の札響は人間の集団に変身していた。心の底からのベートーヴェンとシュナイトの音楽への共感が特にこの第5楽章では強く感じられて感動的だった。

2度おとずれるクライマックスへの息の長い、歌に満ちた高揚は、宇宙的に大きいスケールでありながら人間的に温かいもので、この部分の最高音Gの響きは何度も思い出すことだろう。

「田園」のような曲は、北国の音楽家でないと共感できない部分がある。雪にとざされた暗く寒い冬のあとに迎える春のうれしさを知っているのとそうでないのでは音楽のリアリティに差が出る。

シュナイトのような表面を飾らない誠実な音楽は、現在の音楽界の主流のファッションからは遠く離れたものであり、メジャー・オーケストラには受け入れられないものであろう。

このコンサートは北国のオーケストラ、シュナイト、それらの「田園」との相性、そして響きのよいホールというもろもろの組み合わせが産み出しえた奇跡だったといえるかもしれない。

前半はブラームスのバイオリン協奏曲。これもシュナイト流のゆっくりしたテンポのたゆたうような演奏。ソリストの神尾真由子は完璧なテクニックと美音で「チャイコフスキー・コンクール覇者」の貫禄十分。ただ若さゆえか一本調子なところがないわけではない。指揮者にうながされアンコールにパガニーニのカプリスを弾いたが、こちらの方が多彩で柔軟な表現力が感じられた。

シュナイトは5月16日に神奈川フィルとの最後の演奏会に出演するらしい。

さっそくチケットと飛行機を手配した。





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最終更新日  March 22, 2009 03:59:12 PM
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