December 8, 2012
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カテゴリ: クラシック音楽
「東京のオーケストラ聞き比べ」を年末の第九でやってはどうかと思ったことがある。

実際、3年前には読響の第九をきいてみた。感想は「ダメ。まったく意味がない」というものだった。

何せ東京のオーケストラは年末には連日のように第九をやる。飽き飽きしているのだろう。ルーティンな演奏しかしない。1980年ごろ、小澤征爾指揮新日本フィルの年末の第九もきいたことがあるが似たようなものだった。

それでしばらく「第九」は敬遠していた。

1988年12月にサヴァリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団来日公演できいた第九は、サヴァリッシュはともかく、ソプラノのアンナ・トモア・シントウからバスのベルント・ヴァイクルまでの独唱陣、さらにはバイエルン国立歌劇場合唱団が見事で、「もうこれ以下のソリストや合唱ではききたくない」という出来だったから、「もう第九をきくのはやめよう」と思っていた。

その方針を曲げたのは、札響首席客演指揮者のラドミェル・エリシュカが指揮するというから。

年末に第九を演奏する習慣は、別によくも悪くもない。ただ定期的にこの曲が演奏される意義というのはある。それは、音楽に親しみはじめたばかりの中学生や高校生にとって、この曲が、たとえルーティンな演奏であったとしてもかけがえのない体験になるからだ。

10代のころにこの曲をきいて音楽を志すようになった人間は有名な音楽家の中にも少なくない。

しかしどうだろう。土曜マチネは満席に近い入りというのに中高生の姿はまったくなく、比較的年配の人ばかり。平均年齢は60歳を超えているのではないだろうか。



そうした席できいて思ったのは、ベートーヴェンがこの曲の内声部にこめたパッションの激しさ。ビオラや第2バイオリンに、「こんな音型があったのか」と思うような破天荒なフレーズがあって驚いた。やはり漫然ときくのではなく、スコアを子細に読み込んでからコンサートに足を運ぶべきと思った。

ウィーンではそういう音楽ファンを何人も見た。

もう一つ気がついたのは、札響は東京のオーケストラとちがってルーティンでこの曲を演奏していないということ。年末でも2回しか演奏しないというせいもあるだろうが、音を大事にしているとでもいうしかない演奏態度が感じられる。札響の楽員が持っている「音と音楽に対する畏怖の念」を高く評価したのは40年前の武田明倫であり武満徹だったが、メンバーがすべて入れ替わった現在でも札響のそうした美点が残っている。

エリシュカのベートーヴェンはひたすら正攻法。速めのテンポだが決して走ることはなく、引き締まった造型の辛口の音楽。かつてリハーサルまで見学してきいたやはりチェコの指揮者、ズデニェク・コシュラーの演奏を思い出したが、オーケストラは当時よりはるかに骨太な響きがしている。

こうした点では満足したが、「第九」に10代の姿がないということはクラシック音楽には未来がないということだ。

戦後教養主義の世代が死に絶える30年後には日本からクラシック音楽は消滅するにちがいない。





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最終更新日  December 12, 2012 05:55:30 PM
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