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以前も似たようなテーマで書いたかもしれない。しかし、民主党が政権を取ってからこと、エコについて何か違うような路線を歩み出したような気もするのでもう一度自分の考えをまとめてみようと思う。エコロジーというのは我々が住む地球上の環境が(主に人間の活動によって)変えられていくのを防ぎ、祖先から頂いてきたこの自然環境を次世代以降につなげていこうという考えだと思っている。この考え方には無論、賛同するのであるが、「エコ」と略されると何か違うものに捻じ曲げられてしまうような気がする。あまりにも白黒はっきりつけたがるというか、「エコ」様がこの世で一番偉く尊い存在であるが如く扱われているような気がするのは私だけだろうか?中でも一番胡散臭いのは「二酸化炭素の温室効果」という点だ。温室効果というのは地球上の大気が熱せられて気温が上昇し、我々の住環境を変えてしまう効果のことをいうらしいが、確かにそれはそれで危惧すべきことではある。しかし、本当に大気中に存在する気体の中で二酸化炭素だけが極端に温室効果が大きいのか?もっと他にも温室効果が大きいものがあるんじゃないか?それとも、そんなに温室効果のある気体自体がもともと存在しない?一つ仮説を立ててみることにする。実は、温室効果というのは人間の活動に関係なく長い周期で見るとここ数十年は何もしなくても地球上の気温が高くなる時期であり、二酸化炭素にもそんなに温室効果はないとしよう。すると二酸化炭素を悪者に仕立て上げた者、それに乗った政府や各産業団体はかつての富士山噴火説を唱えた学者のようにバツの悪い時期を過ごさなければならなくなるが、逆にこの「二酸化炭素の温室効果」と「地球温暖化」を結びつけた誰かの本当の目的は何かを考えてみると面白い。本来、エコというのは人間の気まま勝手な活動により消費、ときには浪費される限りある物資をもっと大切に使うようにして、資源をあまり消費しないことにより地球環境を保持しようとする考えに立っているのは間違いない。私はエコはとても地味で、経済とは対立軸にあるものだと思っていた。人間の消費活動を抑制し、もって地球環境のためになることをしようというのだから至極当然だと思う。しかし、経済とエコの利害を一致させるとどうなるか?先ほどの仮説が真実に近いものとするならば、エコを言い出したのはおそらく経済との利害を一致させたい者がいろんな学者を口説き落としてこの世に広めていったものと思われる。その筋道はこうだ。今や先進国では食べるものはおろか、耐久消費財に至るまで隅々まで行き渡り、もはや欲しいものはなくなってしまった。これは経済成長や世界景気というものを考えるとそれらの牽引役である先進国が早晩、経済的に行き詰まってじり貧になることを意味する。そうなるといずれその影響は新興国や開発途上国にまで及び世界経済は破綻の憂き目にあうことになる。それは困るから先進国でもこれまで同様、経済需要を喚起しなければならない。そこでにわかに懸念されていたのがオゾンホールの拡大や地球温暖化という環境汚染だ。これに経済を結びつければ需要が引き起こすことができると考えた頭のいい人がいたのだろう。つまり、「今すでにいろんな耐久消費財(車、テレビ、エアコン、冷蔵庫など)をお持ちだろうが、それらは地球環境に配慮しなくてもいい時代に作られたものだ。だから、それらをそのまま使い続けると地球環境に良いはずがない。よって、それらを手放して地球環境に配慮された新製品を買うことによってエコロジーに寄与するのだ」とした訳だ。エコには道徳心がつきまとうから、買換えすることによって自身の善良さが自覚できる。しかし、古い時代に作られたものと今の時代に作られたもので地球環境にどれだけ影響の違いがあるかというと殆どないに等しいという寸法だ。エコが経済需要を引き起こす買い替え需要のエサにされてしまったという訳だ。では、何故二酸化炭素だけが悪者になるのか?確かに二酸化炭素には温室効果があるらしい。しかし、それの何十倍も温室効果のある気体が我々の周りに存在している。それは何かというと水蒸気だ。やかんを火にかけておくとしばらくすると沸いて出てくるあれだ。その様を見ていると(目に見えるのは水蒸気ではなく、湯気であるが)確かに熱を伝える力は相当なものがありそうだ。湿度が高いときも蒸し暑く感じるとともに、その状態が続くと温帯も亜熱帯くらいになってしまうと言われるとそうかな、と納得してしまう。それほどの物質なのに何故かエコにはとんと登場しない。まず、二酸化炭素以上に身近な水蒸気を悪者にすると俄にエコ自体が胡散臭さを放ち、人々への広まりが困難になってしまう懸念が出てくる。そんなことを政府が発表するとその国でパニックが起こるかもしれない。何せ、「明日からお湯を沸かすことを禁止する。湯沸しはエコに反するからだ・・・」なんてことになりかねないから・・・。それと、水蒸気には温室効果とともにマイナスの温室効果をも兼備している。つまり、水蒸気が多くなるとやがて雲になり地球に太陽光が届かないようにする効果が出てくるということだ。だから水蒸気自体は大きな温室効果を持っているが、マイナスに働く場合もあるためいろんな面でややこしくなるから悪者にされなかったのだろう。では何故二酸化炭素なのか?やはり化石燃料から出る気体だからだろう。化石燃料の大量消費国はこれから先進国より新興国にシフトする。人口も経済規模も大きいし、何といっても経済の延びしろがあるから当然の成り行きだと思う。しかし、これまでの世界経済を牛耳ってきた先進国としてはそれを座して見守るというのはとてもじゃないができることではなかった。そこでこれから延びてくる新興国に一定の消費枠をエコを使って設けたのではないだろうか?「我々先進国はこれまでたくさん化石燃料を使ってきたけど、これからは地球環境のことも考えないといけないから君達新興国はこれまでとは違うよ」という筋道を作ったのだ。ここでもエコの持つ道徳心をくすぐる力というのは大きい。二酸化炭素を悪者にすることによって買換え需要が起こるのはどんな商品か?車、バイク、機械に至るまで化石燃料を消費するものは全てにこの需要が起こり得る。なかなかよく考えたものだと思う。実際、現在の我が国でもエコカー減税とかいってエコカーに買換えた者に税の特典という形で買換えのインセンティヴを与えている(私は税のために買い換えるというのは本末転倒であると常々思っているが・・・)。もともと、日本というのは資源がない国だからこの小さな島の上にあるものでしか生活ができなかった。だから我々のDNAには「もったいない」という意識が深く刻み込まれている。このことが戦後の経済成長にうまく利用され、モノづくり国家として巨万の富を手に入れることができたのだと思う。これはこれからも未来永劫、我々の民族の武器となっていくであろう。その「もったいない」という精神があるから我が国のエネルギー効率は世界でもトップクラスだ。つまり、少ない資源で大きなエネルギーを手にすることができる、太古からのエコロジー国家なのかもしれない。前政権時の誤った国土計画により山林などの自然破壊が進み、また、工業化により公害を引き起こすなど我が国も環境汚染が進んでしまったからことさらエコを言いたくなるのは分かる。しかし、我が国はもともと「もったいない精神」に富んだ国であり、エネルギー効率は世界一高いといっても過言でないくらいエネルギーを消費しない国だ。そこにきてエネルギーを25%削減とか乾いた雑巾を絞るようなことを言っても何かぴんとこない。数字をいうのは格好いいが、もともと資源を消費しない国が25%削減したところで全世界的な見地でどれだけ地球環境に貢献するのだろうか?この高いエネルギー効率を駆使した機械なりシステムなりを世界に輸出してこの分野のリーダーになることこそが本当の意味での我が国の地球環境に対する貢献だと思うがいかがだろうか?少なくとも国内ではもったいないことはやめようというかつての「省エネ」のような国民活動で十分だと思うが。ここでもエコが政治に利用されているのだろうか?(注)この仮説はあくまで仮説であり、真実は不明。
September 21, 2009
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標題のようなことを聞かれたらどう答えるだろうか?確かに日本人に限らず、国民性というのはいろいろあってこれだ、と一つに絞ることはなかなか難しい。しかし、私は日本人の特性を聞かれたら迷わずこう答えると思う。「周りと同じであろうとすること」。今まで何度もここに書いてきたが、私の仮説によると日本人は大陸から追い出された者が東の端に見つけた島に住み着き、いじめられた苦い経験のある者同士一定のルールを作って暮らし始めた。このルールというのは「みんな仲良く」すること。二度と大陸のような争いに巻き込まれないためにも、そもそも争いごとをなくせばみんなうまくいく、という発想だったのだろう。だから「みんな仲良く」暮らすことが何より大切な訳だ。では、「みんな仲良く」するためにどのような知恵が出てきたか。やはり、平等であろう。みんな同じであれば仲たがいすることもない。平等の実現がなされたことはなかったにせよ、どの時代の日本人もそれを目指してきたと思う。そうでないと、恵まれている層と恵まれない層との間でいつも仲たがいが起こる。この理想と現実のギャップを「身分」というもので納得させられてきたのであろう。そこで、「仕方がない」という仲良しグループを維持するのにとても都合のいい感情を表す表現ができたのだと思う。また、仲良しグループを恒久的に維持していくためには嘘つきを廃除しなければならない。嘘つきを野放しにしておくといつグループ内の信頼が崩れ、ひいてはグループ自体が崩壊する危機につながるかもしれないからだ。日本人は実害の有無にかかわらず嘘つきを非難する。これはいいことなのだが、いきすぎる部分もある。最近の例でいえば、産地偽装など。それによって食中毒が起こるとかいう訳でもないのに、また、数日の賞味期限を過ぎたものを売ったということで会社が潰れることもある。これも偏に日本人の嘘つき嫌いのなせることであろう。もう一度言うが、日本人の最大の特徴は「周りと同じであろうとすること」だ。つまり、みんなと同じ色でい続けるということ。それによって大陸という怖いところとは隔離された、自分達だけの弱い者パラダイスを維持できるのだ。この特性もいいところもあれば悪いところもある。いいところの例は、やはり教育と道徳が同じ方向性で教えられ(最近はそうでもないかもしれないが・・・)、国民全体の底上げができることだろう。戦後の経済成長はこの国民性なしではここまで成功しなかったと思う。この国民の上に優秀な「お上」が立ってリードしていけばその方向が間違っていない限り全体が向上していく。この「全体」を考えた場合、日本人のこの特性はかなり大きなアドバンテージとなる。しかし、最近ではこの国民性の悪いところも露呈している。どうしても周りと同じ色でいようとするため、ちょっと変わったことをする人や妙な感じで優れている人を叩いてしまうのだ。「出る杭は打たれる」ってやつだ。出る杭は周りとは違った色となる。これはどんなに優秀でも周りの色とは違った色になり、全体の和を壊す可能性が出てくる。だから打ってしまえ、ということだ。これは現在のように社会が変化を求めるときに足を引っ張る。何か今までどおりではないことをしようとしても、妙に保守的な年長者によってその芽を摘み取られてしまうのだ。2週間ほど前、この国で信じられないことが起こった。衆議院総選挙で今までこの国を支配してきた「お上」にNoを突きつけたのだ。国の支配者を国民自身の手で変えたのはある意味、日本史上初のことではないか。我が国にも他の民主主義国家並みの経験値が加わったのかと思う。自由や民主を標榜する欧米諸国はほとんどが国の体制を国民の力で変えた歴史があったり、国の成立に携わった経験があったりする共通点がある。だから我が国ほど「お上」が偉くならない。車を降りれば運転者も歩行者という交通弱者になるのと同じで、「お上」もその立場を離れれば一国民であるということを我が国よりはよく分かっているのだろう。しかし、我が国では「お上」は一般国民とはかけ離れた特権階級だ。よっぽど極悪な犯罪でも犯さない限りニュースでも名前は出ないし、仮にそのようなことがあっても仲間が国家権力というとてつもない力を使って全力で守ってくれる。そして、何といっても仕事の最終責任を取らなくていい。選挙で落選すればただの人となってしまう与党議員が代わりに責任を取ってくれるからだ。中学生の頃、インドではカースト制度という身分制度があると習ったが、我が国にも今だに極端な身分制度が存在するのだ。こんなパラダイスのような身分で、実際に行われているのは学生時代の延長線上にある出世競争だけ。はっきりいうと、こんなの自己満足にすぎない。「お上」の本分は国民の奉仕ということになっているが、そんなのはおかまいなしだ。「英語で98点取った、お前は90点か、俺の勝ちだな」。こんなことと大差ないことが各省庁で行われているのだろう。そこに仕事の「本当の」成果は関係ない。そんな「お上」が今まで守ってくれた与党議員が下野することとなり、代わって自分達を攻撃する人達が与党となるということで戦々恐々としているようだ。まさしく、国民がこの国の上層部をひっくり返したと言っていいだろう。与党の派閥の長と言われる議員といい、「お上」といい、その立場に安穏としていた人たちにとってはこれからずっと向かい風が吹くだろう。自分たちの本分を忘れて(というか、棚に上げて?)自分に向かってだけ仕事をしてきた報いだ。それにしても現与党の混乱ぶりを見ると長らくこの人達に政治を託してきた我々の間違いに滑稽さすら感じる。何はともあれ、こういう特性を持ち、「長い物には巻かれろ」主義の仲良し軍団が本当に自分達の意思で国を変えたというのは感心した。これからうまくいくかどうかは分からないが、国民が自分達で選んだ道。「お上」と与党議員の馴れ合いのために費消されていた我々の財産(=税金など)が本当に我々のために使われる日が近いかもしれない。いいことばかりではないにせよ、来週から与党となる党の議員の皆さんに淡い期待を抱く。
September 10, 2009
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