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先日16日は<ボランテイア∩445さんを囲む会>の充実一日だった。 午前中は恒例となった国立デイケアーでのボランテイア。 ことしはフラメンコも加わり<さくら一座>は一段の盛り上がりを。 入所者の方がたとも顔なじみもできて、リラックスして双方が楽しめた。 午後より、和の宮さんの師であり、わたしたちのあこがれの人445さんが合流し、なにやらこちらが本番の気配~。 神代植物園へとまずは足を伸ばす。 思いもかけず秋薔薇が満開。 今にも降りそうな雨模様と3時を廻っていたこともあり、ひとけゼロ。 三人のための薔薇園だ。 贅沢ねえ、とことばを交わしながら、周遊する。 薔薇といえば、イメージは445さん。 そこで写真をパチリパチリ。 ああ、だのにこれを、送るスベを知らない。 昨夜、つきまちの会のあと、我が家に立ち寄ったhime☆さんからようやく教わり445さんに転送。 成功したか!と思ったらウイルスチェックとかにかかり送信不能のようだ。 ほんとにパソコンを自由自在にあやつることは難しい。 ええい、この美しさを一般公開することは445さんもやぶさかではないでしょう、とこちらに転載することと相成った。 これだけは、なんとかスムーズにできるようになった。 60の手習いは楽しさと苦しさと相半ばする。
2007年10月24日
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この写真は昨夜のもの。 今晩が十三夜だが、雲にかかった夕べの月のほうがはるかに素晴らしかった。 写真を撮っては「この眼に映る月の方が、どうしてこんなに美しいのだろう」と写真の限界をつくづく感じる。 高級カメラになれば、いくらか「眼」に近づくかもしれないけれど、やはりナマには及ぶまい。 それでも10分の1の記録として載せておこう。 今日は和の宮さん、himeさんと共に「つきまちの会」に参加。二人ははじめて体験。 調布、多摩川のほとりにすむ会員のお宅に伺う。 新潟から移築した蔵を住まいに改築されて、大勢の人たちがつどう<たまり場>の雰囲気。 今日は15名の会員が、それぞれの個性を光らせながら楽しいひとときを過ごした。 食道癌におかされている、お一人がかくしゃくとした声で「かぐや姫にまつわる日中比較文化」をはじめいろいろな問題提起をされた。 しめて7ページに及ぶ資料をいただいた。 あしたゆっくり咀嚼することとしよう。 一品持ちよりパーテイーは初対面の人が多いにも係わらず、出し物あり、宮司の祝詞あり・・とバラエチティーにあふれていた。 初参加のふたりも先日ボランテイアでやったばかりの歌を披露し、拍手喝采を受けていた。 紹介したわたしとしては大変ハナが高いことであった。 会のあとには、おきまりのさくら亭コースでうちあげのお茶をして、ホッとする。 異文化にふれるということは、やっぱり結構疲れることだね、と興奮しつつも本音も語る。 帰り道、十三夜の月を背に夜の多摩川に沿って駅に出た。 そんな体験もお初のことであった。 写真はともにベランダから
2007年10月24日
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秋みっけ。 朝のひとはけ。 夕べのひとはけ。 これだけでいい。 栗原さんと電話で会話をする。 「俺か?見たさ。 毎朝五時には起きるんだ。真っ暗だぜ。そこがいいんだ。」 栗原さん、それって「曙」でしょ?暁へと変わる様をとらえてるんですね。やっぱり画家の魂・・? 「今日のひとはけは、栗原さんの筆をもってしても多分描けませんよね」 「あったりまえさ」 「わたし?ええ、すっかり元気です。最近源氏物語を読み出したら、足が抜けなくなってるんですよ」 「おお、源氏かあ。俺の仲間にも源氏の絵を描きだしたら、止まらなくなったヤツがいるよ」 「銀座まで足を運ぶことがムリなようだから、わたしたちで話し合ったんです、こちらからまたお伺いしよう、って。 栗原さんの<眼>がすてきだ、ってみんな言ってましたよ。 今度は4人で登場。わたしはお灸をしますからね」 「うれしいなあ、行けないけど、来てもらえるのは大歓迎だ。楽しみに待ってるよ」 久しぶりに栗原さんの声が聞けて、幸せ気分が広がった。 もしかしたら栗原さんも幸せ気分になった一日かもしれない。 空と会話と散歩の秋好日。 写真はともにベランダから
2007年10月22日
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すすきはおとな色。 すすきの穂波。 すすきのざわめき。 暗くなるほどに、白さをます変げの一瞬。 すすきに魅せられて、ことしも友と二人旅。 箱根・千石原 13日夕暮れ景色
2007年10月15日
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母の句集作りを姉と共に係わっていたら、自分のことを思い出した。 昨年のバッタと倒れる前後、わたしの頭は「自分の本を作らねば」という焦燥感があった。 血圧を上げた一要因だったかもしれない。 2ヶ月の休養を取っている間に「この一冊が出なくとも、世の中は変わらない」というあたりまえの境地に達し、思いを捨てた。 それがまた思い出されたのである。 この話にはナロリンはじめ随分大勢の人の智恵をお借りした。バンブーさんはすべての元原に句読点チェックまでしてくださった。 編集を引き受けましょう、とダライママさんも申し出てくださった。 だが肝心の思考がどうにもまとまらなかったのだ。 母の句集を見て「シンプルでいいのだ」と気づいた。 コハルママが「カラーコピーという手があるわよ」とひとこと。 気づくと早い。 手順が頭にパッとひらめくや、行動を開始している。 昨日からだ。 多分、やっとそのときが来たのだろう。 「原稿は『朝日新聞生活情報紙』に載せたものだけに絞る。項目に編集せず、掲載された順にならべよう。必要な人にだけ配布すればいい」ということに。 それにしても目次と前文だけは作らねばならない。 昨日はあんなにいいお天気だったのに、パソコンにへばりついてそれをやりとげた。 自分の原稿を「朝日新聞生活情報紙」から42枚カラーコピーし、ひとつは保存用、ひとつは原稿として切り取った。 ひとつひとつに思い出がある。 わたしのなかでは2002年から2006年にかけて毎月460字のこの原稿を書くことは、楽しみでもあったが、エネルギーを相当注いだものだ。 古典にあたり、漢和辞典をたえず引きながら格闘した。 あとは、これを必要部数、カラーコピーすればいい。 製本も自分でやってみよう。 できあがったら、まずはお世話になった方たちに差し上げたい。 新聞を見て「本になったら欲しい」と予約をされた全国からのかたがたにも差し上げたい。 ああ、よくも放置していたものだ。 できあがれば本というより手引き書、小冊子というところだろう。 母の句集の最初の予定、30冊はわたしが実現することとなりそうだ。 そうだ、必要に応じて数部づつでも補完すればいいのだ。 夕方一段落したところで、ようやく散歩に出た。 雲に輝く夕日が、ことのほか美しく見えた。
2007年10月12日
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還暦近くなったせいか、すっかり涙もろくなってしまった。 「エビット・ピアフ」の映画を観て、幾度も涙が頬に伝わった。 ストーリーもさることながら、最初と最後の歌だけで、涙ホロホロ。 彼女のデビューは、ろくでもない大道芸人の父親から背中を押されて、道ばたから始まった。 「なにかやれ」とこずかれて歌った歌が国歌だった。 フランス人が誇りに思うこの歌を、年端も行かない娘が歌い、道行く人々の足を止めた。 はじめて歌い、はじめて帽子にお金をもらい、はじめて拍手をもらった。 ピアフの歌うフランス国歌にわたしも涙した。 壮絶な人生の晩年に、海辺で編物をするピアフがいる。 砂浜からハイヒールを手にしたインタビュアーがやってくる。 数々の質問。 そのひとつに「好きな色は?」 と問う。 当然「黒」と答えるかと思ったが、彼女の答えは 「青」だった。 「人々へのメッセージは?」 という問いに 「愛よ。愛すること」ときっぱり。 トリコロールだ、と気づいたのは帰宅してからだった。 「自由・平等・博愛」を意味する三色の国旗。 たてに青・白・赤と染め抜かれたその色を彼女は語ったのでは、と。 壮絶なのにすがすがしく、重いのに感動的な人生。 それはフランス人の心そのものと思えた。
2007年10月04日
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さきほど物知りナロリンから、意味不明の俳句を読み解いてもらった。 紙治観て街の夜風の冴え返る この紙治の意味がわからない、なにか芝居の演目だろうか・・という見当まではつけたのだが。 困ったときのナロリン頼み、だ。 なんと即答してくださった。 心中天綱島の登場人物、紙屋治兵衛のことだそう。 知る人には常識かもしれないが、知らない人には意が汲めない。捨てるところであった。 姉から「母の句集を出そうと思うけど・・」と相談を受けた。 母は生前、幾度となく「自分の句集を出すようなことは、したくない」と言っていた。 母の意向を汲めば、出さない方がいいのかもしれない。 だが「眼を通してみて」といわれた原稿は、母そのものの人生が凝縮されていて、この機会を失うことは二度母を失う気がした。 「捨てる俳句を選んで」という作業を頼まれ、幾つかの句のひとつが上の句だった。 こんな程度だから「選者」の資格はかなりあやしい。 だが、「あとがき」の文案をそえて、10月2日までには、姉のもとに届けなければならない。 その作業は明日することにしよう。 紙治観て・・さぞや久しぶりの芝居だったのだろうなぁ、それが近松かぁ 街の夜風の・・夜出歩くことの極端に少ない人だったなぁ 冴え返る・・芝居のはねたあと、外に出た一瞬に感じとった内と外とのギャップかなぁ 母には母の世界があることを垣間見る思いもする。 この句集、30部の予定が500部からしか印刷できない、ということで500部仕上がるらしい。 あちらから苦虫をかみつぶす顔が目に浮かぶ。 しょうがない、おかあさん、もらってくれる人を探すからね。 ナロリンのおかげで、お蔵入りしないですんだ句の話でした。
2007年09月28日
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おととい、法政大学で公開講座を聞く。 「京ことば語り 夕顔の巻」 朗読 山下智子 音響 鈴木 うさぎ キャリアデザイン学部古川講座だ。 この古川さんも山下さんも実は「つきまちの会」の会員である。 公開だったので、たくさんのつきまち会員が聴講に見えていた。 つまり、つきまちの方たちと連日のお付き合いをしたわけだ。 山下さんはプロの声優である。 NHKラジオ番組のドラマを聞いていたとき、名前を聞いてハッとしたことがある。 その山下さんが「京ことばで源氏を語る」というのだ。これはどうしても聞きたかった。 しかも法政は、かっての学び舎だ。こんな機会でもない限り、一生門をくぐることはないだろう。 うれしいことに奇跡的に残っている58年館というわたしが学んだことのある校舎で行われた。 講読された本は大修館書店「現代京ことば訳 源氏物語」からだった。 最初からすっとはいった。 夕顔との出会いから、生霊にとり付かれて死別するまでが、京ことばによっても、なんの違和感もなくストーリー展開をしてみせた。 いや「実際の会話はこの方が近いかもしれない」とさえ思えてき た。 山下さんはほとんど全部を、一度の乱れもなく京ことばで読みきっていた。 そして最後に自分の所感として「源氏は京で生まれた作品です。その地ではぐくまれた言葉によって語る意味は大きいと思います。みなさんも産土の言葉を大事にしてください」と述べられていた。 原文でもない、訳文でもない、音としてのきょう言葉による朗読に、いままで触れたことのない源氏を見る思いだった。 昨日の山下さんは、おとといにも勝る魅力あふれる人だった。 しぐさがきれいだ。ことばもキュートだ。 「ああ、さまになる人がいるものよ」とうっとり。 つきまちの会ざんまいを過ごした感想に是非、書き留めておきたい体験だった。
2007年09月26日
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昨夜「シャンソン女山」で月を眺めた。 夜はまったく別の顔になる。 太陽と地球と月が一列に並ぶ日。つまり仲秋の名月の現れる日だ。 夜、この丘に登ったのははじめてのことである。 昼間と打って変わって涼風が吹き渡る。4時39分が月の出だということで、「つきまちの会」の人々とじっと眼をこらす。 雲がかかっているためか、なかなかお出ましにならない。実際に確認できたのは5時5分ごろ。 雲と月の色がほぼ同じで、ただまあるくぽっかりうかんだことで、月であることがわかる。 月の出を待っていたわたしたちは思わず拍手をする。 ご来光に万歳をするのと、ちょっと違う気分だ。やっぱりもっとひそやかで神秘なものに対するあこがれめいたもの、か。 昼間案内する友人たちにも、この瞬間を見て欲しかったなあ、とひそかに思う。 丘の芝生にはお供えが並べられている。 これを運んだ、つきまちの会の行列は、かなりあやしい姿に映ったに違いない。 かってわたしが、カレンダーをいただいたお宅を拠点として出発した。 先頭にはススキを一本挿した花瓶を頭上に載せて歩く女性が、胸を突き出すように歩く。 二番手は高坏におだんごを盛ってささげ歩く。 3番手は、これは一番重い。アケビで編んだ籠にいがのついた栗・柿・栃の実・里芋・ぶどうなど、五穀豊穣の実りのものをあふれんばかりに活けて持ち歩く。 以下10名近くがぞろぞろと、わたしのいつもの散歩コースを歩く。 丘の上で、お供え物を月の出る方向にきちんと並べた。あとは寝っころがったり、座り込んで360度に広がる天の変わり行く様を楽しんだ。 拠点のお宅に帰ると、二部の宴会準備だ。 栗と棕櫚の実を使って大胆に活けこむ男性がいた。ほれぼれするぐらいの切りっぷりだ。 わたしがいつも散歩のとき「不思議な家」だなあとチェックしていたお宅の中は、シタールはじめインドめいたものがインテリアに使われ、やっぱり不思議な空間だった。 宴のハイライトは会員のひとりが「朗読」を暗誦で演じられたことだ。ふだん会計をやる地味な裏方さんが、衣装も変え、落ちのきいた短いながらしゃれたお話しを15分ほどした。 驚くことは沢山あって、わたしの生きてきたフイールドにダブる人が沢山いた。中研や、栗原さんの生徒さんなどなど。 わきあいあいのうちに、わたしにとって二度目の「つきまちの会」参加をおえる。 この中で、声優をする山下智子さんの話は源氏にからむ。 これは次回にあらためてしよう。
2007年09月26日
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昨夜、長文の日記を書いて「確認」を押し、再度手直しをしようとしたらパッと画面が消えてしまった。 「クリックの恐怖」を書いてからまだ日も浅いのに・・。 そのままボーゼンジシツ、立ち直れずふて寝をし、今日に至った。 もう一度やるかと、目下気持ちを切り替え、まずはホホエミさんの日記を見ると・・おお、彼女もどうやら消えて意気消沈しているではないか! 同朋がいたよ、と同情どころか、うれしくなる。今日はそのホホエミさんから伝授いただいた<Word>から書き込み、何度消えても大丈夫なようにまずはガードをかためよう。 源氏・源氏・源氏の日々である。 22日、石井和子さんの「『源氏物語』に隠された天気の科学」という講演を聴く。 話が、とびとびでよくわからず「平安の気象予報士 紫式部」という講談社から出された石井さんの著作を借りて読む。 とっても面白かった。この本を読んでから著者の話を聞けば、もっと楽しかったろうと思わせる。 物語の内容と天気状況が実に一致していることに気づかされる。 あの、須磨の暴風雷雨も(どうやら寒冷渦というものらしい)、源氏のどうしようもない不運な状況をさらに劇的に高めるのにぴったりな設定であったようだ。源氏はこの不運は自分の罪ではない「宿世(すくせ)によるもの」とあきらめる。そして、物語をダイナミックに次の場面へと展開させる。 横軸をおおきく広げる作用をさせた天気状況だ。 そして縦軸である、時間の経過もこの天気状況を記すことでより具体性をもつことができる。 たとえば「夕顔」で源氏と夕顔が過ごす夜明け前後の描写をこんなふうに4段階に追っている。 1> ~あかつき近くになりにけるなるべし 暁とは「夜を三つに分けた三番目」の明るくなる前の暗いうち をさす 2> ~明け方も近うなりにけり。 明け方は、暁より空が明るくなっている頃をさす 3> ~あけゆく空、いとおかしく あけていく空がうつくしい 4> ~ほのぼのと、もの見ゆるほどに、おり給ひぬめり うすぼんやりとあたりのものが見え始める日の出前の5時ごろ か このおり給ひぬる、とは源氏は夕顔を連れ出して、何某の院について車を降りるシーンである。 このわずかな時間の経過を、暗闇からあけゆく空の微細な変化をとらえることで、浮き立たせている。 気象予報士が「源氏物語」を読み解くと、こういうことになるのか、と興味のつきない本であった。 源氏の話はまだ続くが、「コピー・貼り付け」がうまくいくかどうか、ここでひといきつくこととしよう。
2007年09月25日
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明日、たづくりで聞く「『源氏物語』に隠された天気の科学」のためにもう一度、須磨・明石の嵐のところを読んだ。 読む、といっても図書館から借りてきた鈴木一雄解説・白坂道子朗読のテープと合わせながらだったが。 仕事をした夜にこのテープを聞くということは、結構しんどい作業だ。けれど「鈴木先生、そういうことなんですか!」と目からうろこの話しが続出して、目が離せず一気に読み合わせをした。 前回、わたしは随分間違い、勘違いを書き込んでしまった。 ひとつは須磨に流された原因である。 朧月夜との関係は表層問題だった。 ひとつは嵐の状況である。 <雷を伴う春の嵐>という突発的なものと思い込んでいた。 そうではない、もっと深刻、もっと異常な気象である。 来る日も来る日も雨と雷が鳴り止まない。 それはどうやら14日にも及んでいたようだ。 源氏も供人たちも神に祈りをささげる。 「よろずの神たちに願を立てさせ給ふに、いよいよ鳴り轟きて、」 「廊(下)に、落ちかかりぬ」と落雷のさまを描いている。 この天変を源氏がどう受け止め、物語が凶と出るか吉とでるかの大きな折り返しの巻だそうだ。 あしたの講師の方も、この気象と源氏の境遇をあわせて、読み解かれることだろう。 「須磨源氏」という言葉があるそうだ。 内容的に重要な巻という意味と、「ここまで読んだから、もうよし」と終わらせる事が多いそうだ。 今回は嵐のところだけを読み聞いたが、いずれ「須磨」も「明石」も通して聞くこととしよう。 そういえば、去年電通大の島内先生から「明石」を受講したのが源氏との最初だったなあ。 源氏物語は漢籍からの引用が多く、この巻も<シュウコウタン>という故事に由来するそうだ。それに由来するならめでたし、となるそうで・・。 喜びも悲しみも、表現にはかならずと言っていいほど<故事来歴>を踏まえている。 歌にも掛け言葉がはりめぐらされていて、単純に読めるものは少ない。 ホホエミさんの<漢籍力>を活用したら随分読みやすいことだろうなあ、と一緒に聞けないことが改めて残念だ。 講演を聴く前にふたつも「さくらの源氏雑記帳」に書き込んでしまった。 明日の先生も、今ごろ準備に余念がないことだろう。
2007年09月21日
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自分が読み出したせいか、<源氏>ということばが出てくるとぱっと反応する。 二つほど講演会を見つけた。 ひとつは和の宮さんが「アサヒタウンズ」の切り抜きをもってきてくれたものだ。9月22日立川「1千年目の源氏物語」というもの。主催は国文学研究資料館だ。NHKアナウンサーの加々美幸子さんが出るからだろうか、1000名の枠に応募したものの、はずれてしまった。断りのはがき文に「締め切り前に千名を大幅に越える事態となりましたので」とある。 源氏物語が書かれて千年という節目だろうか、源氏人気を改めて思い知った。 もうひとつは調布たづくり主催「文化講演会・<源氏物語>に隠された天気の科学」というものだ。 演者は石井和子さんという気象予報士会会長・TBSアナウンサースクール朗読講師という肩書きをお持ちの方だ。 これは先着200名という枠である。 早めに行くこととしよう。 勝手な推理をたてる。 石井さんは「須磨・明石」の巻をとりあげるのではないか? 源氏は女性問題の不始末から須磨へと都落ちをする。 ある3月のこと。 「海面(うみつら)もゆかしうて、いで給う」 穏やかな春の海に、船人をして、源氏は人形(ひとかた)流しをする。 この人形流しはのちのちもしばしば出てくるが、禊の意味がこめられている。 と、そのとき「にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ」 「海の面(おもて)は、衾(ふすま)をはりたらむように光り満ちて、神、鳴りひらめく。」 「(雷が)おちかかる心地して、辛うじて、(家に)たどり来て「かかる目は、見ずもあるがな」」 こんなひどい天気は見たこともないよ、とあわてふためいたお供たちが興奮して言う。 夜になって雷は少し鳴り止んだけれど、 「高潮という物になむ、とりあえず、人そこなはるる」 今度は高潮の心配だ。 雷はまた勢いづいて、 「いよいよ鳴り響きて、(源氏の)おはしますに続きたる廊に、落ちかかりぬ」 ついに住まいへ落雷・火災という憂き目に遭う。 春の嵐の直撃を受けたわけだ。 春には雷を伴うのだろうか。 七二候を記した「つきまちの会」作成のカレンダーを見ると、3月下旬に「雷即発生」とある。 光る源氏といえども自然にひれ伏すばかりで、自然の脅威からのがれることができなかった。 あわやというところで、命さえ落としそうになったのである。 動揺し、おそれおののく源氏だ。 夢で須磨から離れよ、というおつげを聞く。 それを知ったかのように明石から迎えの舟がやってくる。 これは潮の流れにのったのだろうか。すごいスピードのように描かれている。 この一連の流れはやっぱり「天気の科学」から読みといたら面白いと思う。 9月22日、今週の土曜日二時からだ。 調布も「満員御礼」「入場お断り」となるのか、どうか、これも見ものではある。
2007年09月16日
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秋雨前線がはりだし、長雨が続いている。 暮れるのも早くなった。 夕焼けが空に広がるのを久しぶりに見る。透明な秋の色だ。 部屋に差し込む陽の光りが奥まで伸びてきた。 日脚の伸び具合など、去年の今ごろまで目に入らなかった。 時間に追われる生活だった、あのころまでは。 母の亡くなった後、姉は2ヶ月の休職をした。 妹のわたしは、なんと仕事はそのまま続けた上、職場の引越しをやりおおせたのである。 調布駅前一等地に位置する、われらがたんぽぽ針灸院は<立ち退き・移転>という形で敷地内移動をしたのだ。 <線引きから施工まで>を無料で大家が持ってくれた。 本来はとってもありがたい話である。 だが、数名の針灸師の寄り合い所帯のたんぽぽには、院長というものが存在しない。 船頭がいなくて、誰が責任をもってやるか? まったく同じ形の建物だったら簡単だったろう。そうしたくなかったわたしがいた。 つまりわたしが設計の基本を考えたのだ。 一族結束の要は亡き兄の長男、つまりわたしの甥っ子だ。 大工である彼にわたしのイメージを告げ、幾度となく図面を描きなおしてもらっては、思案をこらした。 反対もされない代わりに、協力もない環境だ。 イメージを形にすると、今度は業者と打ち合わせの日々だ。 甥っ子はしばしば現場に来ては助言をしてくれた。 一方で建物が形になる中、二十年来の旧たんぽぽの始末をしていった。 一番の古株であるわたしと二番手の古株が、なんとはなしに選択と決断をしていった。 引越し直前の寒い雨の降る夜、突然「明朝までに不燃物運び出し」のため集合がかかったこともあった。 数名いても、来るのはやはり古株だけだ。 そうして昨10月24日、無事、新治療院完成・引越しを迎えることが出来たのだった。 この間、国立のデイケアーで3人組ボランテイアなどもこなしている。 朝日カルチャーにも休まず、講師を続けていた。 講談にも通い、友達ともしょっちゅう会うペースも落ちなかった。 さて、手帳を見れば、11月は治療をきちんと続けている。 だが、疲労はわたしを覆ってきていたのだろう。空白の日がある。 そして12月1日。 わたしの血圧は250という数値に跳ね上がったのだ。 仕事の後、ふと手首をみると妙に脈打っている。 いやな気がして血圧計を取り出し、計る。ピーンと真上まではねあがっているではないか。 まさか、自分ではうまく計れないのだろう・・と親しくする医院で計ってもらい、即刻榊原記念病院へと紹介されていく。 あの日以来、ぷっつり?、お酒も夜更かしもしなくなってしまった。 <突発性高血圧>だから、降圧剤服用すれば問題はない、という結果だ。 ではあったが疲労がわたしを蝕んでいたのは確かである。 12,1月の2ヶ月間を休職した。 姉と時間差で同じことをしている。 このスローなライフはそこから始まっている。 mixiに日記を書き始めたのも、このスローライフをはじめたときと軌を一にしている。 新治療院は、まことに快適で、今年の暑さもまるで気にならなかった。できることなら生涯現役で、今のように細く長く続けたい。 こうしてみると去年の秋は人生のターニングポイントだ。 忘れようにも忘れられない。
2007年09月13日
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図書館に視聴覚ライブラリーという部屋がある。 たづくり6階だ。 整理のため、ずっと閉じられていて、気がついたら再開していた。 相当広く、しかもビデオにDVD、CD、テープと充実している。 「なんともったいないこと、すっかりご無沙汰していたわ」とザーッと見て歩く。 発見、発見、大発見 源氏物語の全巻が「原語で語られ、解釈がついている」ものを見っけたのだ! 「わあ、うれしい~~~」と思わずはずむ。 朗読は白坂道子、講師鈴木一雄 NHKサービスセンター発行とある。 今読んでいるところの宇治十帖「東屋」の段をさっそく照らしあわす。目を閉じて聞く。 「ああ、そうか」と細かいところまで目に浮かんでくる。 白坂さんの朗読のよどみのないこと。 「こういう風に読みたい」とイメージしていたものが形となって現れている。。 このテープを聞くと、不思議と自分も声を出して読みたくなる。 ホホエミさんと胡弓に合わせて朗読して以来、ふっつり、声は出さなくなっていた。 今また、声に出して読む源氏、にはまりそうだ。 今借りてあるテープ<「東屋」その5>は414回とある。多分全巻500回ぐらいになるだろう。 行きつ、戻りつ全巻きいたら、どれほどかかることだろう。 スローライフでなきゃやれない、贅沢だ。
2007年09月10日
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去年の今日は母を見送る家族葬の日だった。 亡くなった夜、姉の決断したことは「家族葬にしよう」ということだった。 わたしたちは4人兄弟であった。 あった、というのは3年前、不慮の事故で長男である兄を亡くしているからだ。 両親と同居する姉がなにかにつけ、音頭をとらざるをえない。 姉の決断に誰も口を挟むものはなく、ことはすすめられた。 これは主として「年寄りの友人たちに来てもらうのは、悪い」という理由だった。 親戚の極端に少ない一族でもある。 実家からわずか数百メートルのところに葬儀社はあった。まったく普段通りかかっていても、記憶のひだにさえ入らないところであった。 姉とわたしは、母と最後の夜をともに寝た。 いや、すぐさま寝たわけではない。 町じゅうの花という花を買い集めた。 母の眠る部屋、母のひつぎのまわり・・すべてを二人で活け、埋め尽くした。 そうすることが、母から頼まれている、無言のメッセージのように思ったのだ。 葬儀の当日、埋め尽くされた花のなかで、お坊さんを呼ぶ、というあたりまえのことが混乱した。 小平霊園にお墓をもつ実家は無宗教である。迷いなく呼べるお坊さんがいない! 「わたしが、やる!」とわたしでないわたしの声に突き動かされて わたしは言った。 姉は一瞬あっけにとられたが、「そう、まかすね」と言うのみ。 父をはじめ十数名の一族が集まり、式は始まった。 「般若心経」を繰り返し二度、読み上げた。 家族全員が唱和した。 無宗教でもこのお経だけは亡くなった兄も諳んじていた。 みんなが写真に向かい「故人と自分」の思い出を一人一人述べて別れをつげた。 わたしが、母の俳句をもっていたところ、姉がとっさにプリントしてみんなに配った。 わたしが読む。解釈する。 「子の髪を 切り揃えやる 花石榴」 と、兄が「自分も髪をやってもらった」と語り出す。 父や兄、そしてときには孫にも散髪をする器用な人だった。 年老いた父は腰が抜けるほどにショックだったに違いない。 だが、力のある孫たちにささえられ、きちんと挨拶をした。 式を終えた後、姉は2ヶ月も仕事を休み、焼香をあげる客人に対応した。その間に悲しみも癒したのだろう。 わたしは自分の友人に来てもらうことはとってもいやだった。悲しみは身内だけでいい、という思いだった。 たった一人の友人だけが、飛び込むようにしてやってきた。 あれ以来、彼女は身内である。 そして、母の死を超え、距離のあった姉と妹は急に接近度を増し、お互いを頼るようになっている。 姉だけではない、一族の結束が固くなった。 「家族葬にしてよかった、お母さん、そうでしょ?」と台風明けの空を眺めて、つぶやくわたしがいる。
2007年09月09日
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昨年9月8日に母は旅立った。 姉と号泣したのが昨日のように蘇る。 ふいに悲しくなることもあるけれど、多分涙を出し尽くしたのだろう。今は泣くこともない。(ちょっとぐむことはある) 母は89歳だったから天寿をまっとうしたといえる。 だが、母の死に立ち会って、初めて知った。 たとえ幾つで亡くなろうと悲しいものは悲しい、泣けるものは泣ける、ということを。 亡くなる一週間前の9月1日、いつも出かけるデイケアーの迎えのバスに乗ろうとしたときのことだ。 小雨が降った朝だった。 膝の悪い母は足元が滑り、ステップに乗りそこねて道路に転倒。 救急車で運ばれ、大腿骨骨折と診断された。 診断されたものの、降圧剤服用のため、手術は一週間延期された。 ベッドから一歩も出られない状態でいながら、母の意識ははっきりしていた。 仕事帰りに立ち寄り会話を交わす毎日だった。 手術2日前のことだったか。 母の顔が異様に黄色く見えた。 母の身にただならぬ気配を感じた。 危篤、とは思いたくなかった。 だが孫である息子には来て欲しかった。 息子は来れない、という。 わたしはどうしてもコンタクトをとって欲しかった。 「来れないならお見舞いのメッセージをちょうだい」 息子から返事がきた。 「おばあちゃんは、ぼくの誇りです。あさってには会いに行くから待っていてください」 メールの言葉を紙に書き写し、翌日母のもとへ届けた。 母の返事を、筆記した。 「直ちゃん、おばあちゃんはときどき直ちゃんの歌を聞いているよ。がんばってね」 母はわたしの書き写した孫からの返信を、手ににぎりしめていた。 手術の予定日、姉が立ち会うこととなった。 電話で、検査数値が高いため、手術延期の知らせを受ける。 心がはやってはやって、仕事が終わるや、転がるように病院へ駆け込んだ。 母の意識はまだはっきりして、わたしの姿を認め、目でうなずいた。 わたしが右、姉が左にぴったと寄り添った。 医師も看護婦さえ顔を出さない病院の点景だ。 間に合った、と言う言葉がぴったりだろう。母は号泣する娘たちに看取られながら息をひきとった。 一周忌の日、お墓のまえで息子は歌を歌った。 声がお墓に染み込んで行く。 「ときどき聞かせておくれ」と母の声が聞こえる。 母の死は一年たっても悲しい。 改めて向き合うとが、ほっぺを伝う。
2007年09月08日
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8月のことだ。 30日にスイスのハイジさんから「脳のワークショップ」を受講した、ということをメールの中でちらりと聞いた。 最初は、今はやりの「脳トレ」か、などと簡単に受け止め、日を改め「どんなことをしたの?」と尋ねたところ、その詳細な答えに、衝撃を受けてしまった。 「まだ9時だけど、疲れたのでお風呂に入って寝ます」とあったのもうなづける。アウトラインを聞いただけで、わたしなどフラフラしてしまった。 ハイジさんは毎年、職場を一日休んでこの講義を受けているそうだ。 そして今年のテーマが「上の命令を聞く追従さと良心の葛藤」というものだったそう。 これはStanley Milgranというかってホロコーストを生き延びたユダヤ人が「なぜドイツ兵はあんな残酷なことができたのだろう。 上官の命令を聞いたとき、心の葛藤はなかったのだろうか」という思いからはじめた実験だ。 この実験は1960年から3年間に及ぶ。 実験方法は次のようなものだったそうだ。 1 被験者・実験者・監督の3人を設定する。 2 実験者は被験者が間違えると、高圧を流す 3 監督は、高圧を流しても「やめ」といわない 4 そのときの実験者の反応をみる つまり、この実験で、実験者の心がどのように動くか、生物学的、心理学的結果を知ろうとしたわけだ。 ハイジさんは、そこで学び、討論し、基調講演を聞いた。 ハイジさんに<グローバルな人>という印象を持ったのは、こうしたヨーロッパの負の歴史さえ学ぶ姿勢があるからかもしれない。 「戦場のピアニスト」は過去の物語ではなく、今生きているすべての欧州の人々の問題なんだ・・と、一通のメールから受け止めた。 翻って日本はどうか? 9月2日、3チャンネルETV特集「日中戦争70年 隠された化学戦の実態」という番組をやっていた。 夜遅い特集だったので、最後まで見ることが出来なかったが、やっぱり神経が高ぶってしまった。 日中戦争の当時、国際条約に違反して日本人は化学兵器を使いまくった。 731部隊ではあのおぞましい人体実験をくりかえした。 化学兵器を使いまくった兵士に罪の意識はなかったか? 人体実験を繰り返した人々は「上官の命令」というだけで良心の呵責はなかったか。 テレビが追う、わずかに生き残っている人々も、残された記録も淡々と語り、綴られていた。 テレビで真剣に怒り、涙したのは今も、残された化学兵器で体をずたずたにされた中国の民間人だけだった。 「ひとごとにしすぎる、日本人は!」と自分もふくめ、憤りと悲しさでいっぱいになる。 昨日、中国語の通訳をする友が、南京の化学兵器除去に関するNPOに参加すべく日本を発ったことを知る。 帰国後、彼女の報告を聞くことは、とりあえずわたしにとっての「学習」だ。 戦後に生まれた人間も決して過去の問題にしてはならない、と改めて思う。 ハイジさんからのメッセージと受け止めた、勝手ながら・・。
2007年09月06日
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源氏研究のため来日中のホホエミさんは、たくさんの考察を記している。 わたしはどうもホホエミさんのようにスラスラと書くことが出来ない。 悪戦苦闘の只中だからか、緒につきはじめた、と毎度思うせいか総論的な感想を持つことが、とってもしにくい。 ただ、ただならぬものにとりつかれた、という感触だけを頼りに読み進んでいる。 ただならぬもの・・とは文章の格調の高さであったり、うらはらにハラハラさせる場面展開であったり、男女のことか、と思わせて実は暮らしや自然を描いて千年の時空を飛び越えさせる。 この変幻さに、眼をくらませながら立ち入ってしまった、という思い、か。 局部的なことについては、そのおもしろさを語れる。 ひょっとしてそんなことの積み重ね・・と後で思うかもしれないが。 たとえば<洗髪>。 「宇治十帖」の「東屋」という段に 「夕つ方、こなたに渡らせ給へれば、女君、御ゆするの程なりけり」 これは匂宮が、夕方、妻(ただし、正妻ではない)の中君のところに来て見れば「ただいま、洗髪中」ということで、「さうざうしくてや、ながめむ」とがっかりする。 つまり洗髪はとっても時間がかかるので、さびしくてぼんやり眺めるしかない、という情景だ。 あの長い黒髪を洗うのにタイトルの<ゆする>という漢字を使う。 このさんずいに甘いという漢字は何を意味するのだろう・・と思って漢和辞典をひく。 なんと米のとぎ汁、とあった。 千年前のシャンプー・リンスにあたるのか。 室外でやるときは、ついたてをたてて、お供の人たちが専用の着物に変えて行う。 室内でやるときは、たらいをいくつも並べて、とぎ汁を入れたお湯 をはり、洗う。 どちらにしてもおおごとだ。 こんなおおごとだからしょっちゅうはやらない。 「ああ、まずいときに来た」 とがっかりする匂宮の姿を見て、おつきの大輔は 「今日過ぎば、この月は、日もなし。九、十月には、いかでかは」 つまり8月はこの日しか、やれる日がないんです。九、十月はよい日がまるでないし・・と気の毒がって慰めている。 あの流れる黒髪は、年に数度しか洗髪しないのだ。 千年前のはかりしれぬ距離を感じる。 ちなみに時間をもてあました匂宮は、屋敷を所在なげに歩き回って、ある女性を見かけ、近寄る・・と物語は展開する。 源氏物語の最後を飾る中君の異母妹<浮舟>との出会いのシーンだ。 洗髪が長すぎたので、出会ってしまったのだなあ・・と妙に感じ入る。 毎日シャンプーするのがあたりまえの現代人。 温暖化もなく、さほど動くでもなく、じーっとしていれば、そんなに洗髪しなくても気にならないのかなあ。 お香が愛用されたわけだなあ・・と洗髪ひとつから、きりなく想像はふくらむ
2007年09月04日
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バンブーさんから、8月29日の新橋演舞場の様子を伺った。 トップバッターの445さん、「アコーデイオン弾き」の歌を歌って圧巻だったそうだ。 満場の中、どうどうと歌い上げる445さんの姿が目に浮かぶ。 「ブラボー!!」とわたしも大きな声をあげたい さかのぼること1週間ほど前の23日、成瀬「マシャンブル」で同じ曲を聴いていた。 この曲を、こんな風に覚えている。 わたしの仕事は人にはいえない。 仕事がひけたあと、自分の魂を慰めるため、違う店に行くの。 そこには心を溶かすようなアコーデイオン弾きの男がいたわ。 アコーデイオンの音色は、わたしの身についたすべてのけがれを落とすようで、純な自分に戻れるの。 わたしはあの人が好きなのかもしれない。いえ、好きで好きでたまらないわ。 彼の眼が、今日もわたしにほほえんだ。わたしの生きがい。わたしのいのち! ある日、アコーデイオン弾きが死んだことを知った。 わたしの輝きはたちまち失せた。 ただのおちぶれ女。 ある日、さまようようにお店をたずねると、 ええっ、いるの?ほんと?ほんとにあ・な・た? アコーデイオンの音色に一瞬、わたしは幻影を見た。 違う!違う!彼じゃない! 絶望と暗闇だけが、わたしの前にたちふさぐ。 「やめてー!」 震える声は凍えるような寒い虚空に消えていく・・・ シャンソンを聴いて涙する、ということがあったろうか。 445さんの歌い上げる「アコーデイオン弾き」の曲に、はじめて涙した。 たとえていえば、やっぱり栗原一郎的世界が出現するような・・ 新橋演舞場の観客も、わたしと同じ思いになったことだろう。 バンブーさんは445さんと最後の人が一番お上手だったと評されている。 ラジオやテレビで引っ張りだこになったなら・・ 「やめてー」 と叫びたい
2007年08月31日
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<夕霧>は光源氏の息子の名前である。 夕霧草を見るまで<夕霧>の由来は「夕方の霧」だとばかり思っていた。 本日、植物園で「夕霧草」に対面。はじめて植物名であることを知る。 夕霧草は、植木鉢に入れられ「さしあげます」と書き添えられて、おいてあった。 花々を売る売店のかげに、名前は目立つが姿はひっそり。 ちょうどパセリを濃くしたような緑の実が、緑の葉の上から顔を出している。 「夕霧、あなた地味すぎる!」と内心話し掛けながら眺めていた。と、その声が聞こえたのか 「これは花が終わっているんですよ。咲くと紫のきれいな花が咲くんです」 「もっと実が茶色になるまで置いて、来年の春、その種を撒けばきれいに咲きますよ」 「お持ちになるなら、袋をもってきましょう」 植物園の人だ。 植物園の人々は植物と日々暮らしているからか、なんともおだやか、やさしい、親切だ。 ありがたくいただき、持ち帰ってからベランダにある寄せ植えの欠けたところに入れた。 ピタッとおさまったのがうれしい。 夕霧草を植物辞典でひく。 花の咲いた様子をみると、霧がかかったようにふんわりとした紫色になる。 紫は高貴とされる色だ。 紫式部が、源氏の嫡男につけた名前としてまことにふさわしいことを知る。 こうした<発見>があると、またまた興がわいてくる。
2007年08月30日
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孫を持つとメロメロになるタイプと結構覚めたタイプに分かれるようだ。 わたしがババになる日があったら、多分後者だろう。 昨日会った友人はメロメロ組。 たっぷり写真を見せてもらって、シアワセのおすそわけをいただいた。「うらやましいでしょう?」というが、本音のところ、いまいちピンとこない。 「音楽のイメージに合わせて手足を振るのよ。まだ一ヶ月なのに!」と感極まったように言う。 その彼女のセリフのなかで「わっ、素敵!負けた!」というのがあった。 彼女はダンスが趣味である。 かってはフラメンコ、現在はコンチネンタル・タンゴを続けている。結婚前からだから大変なキャリアだ。 当然プロポーションも抜群である。 「好介君が大人になったとき、一緒にダンスをしたいの。だからそれまで格好悪くなりたくない」 バストはキュッとあがり、細身の7分丈パンツの似合う友人。 それがキープされて20年後を夢に描く・・んん~負けたなあ。 手足バタバタだけでも、こんな夢を描けるなんてマゴリョク恐るべし。 そうだ、そうだと思い立ち、秋のボランテイア活動に参加をすすめる。 もちろん快諾。 (一緒に「レッスン」というアントニオ・バンデラス主演の映画を観た帰りという勢いもあったかな?) 10月16日恒例のオクトーバーフェスタは、またまた盛会になる予感。 夜にはプロデューサーさくらが活躍。 第一回、四者顔合わせの日取りを決める ちょっといい話のはじまりだ。
2007年08月24日
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この夏、5時起床・散歩を目指していた。 本日、ようやく達成。 よりもよって、猛暑日が去り、一番しのぎやすい日に実現したのはやや皮肉だが、満足感100% いつも歩く野川・柴崎コースを、逆に三鷹方向へと歩いた。 日差しに追い立てられる、というあせりがなかったせいか、随分歩を延ばした。 東大の馬場を通る。馬は一匹も見られい。「馬インフルエンザか?」とちらり脳裏をかすめる。 この馬場で、馬を駆っていた人たちを以前見たことがある。馬気のない厩はわびしいものだ。 突然田んぼが出現する。 「ほたるの里」という立て札がある。 木道まで整備されていて、自由に歩くことが出来る工夫がされている。 「調布の里山に、まさるともおとらないわ」と<新しい道>発見気分。 しかもその木道の先に、「わさび田」という看板が! 確かにここは崖だし、水も湧いているし、ちょうどほどよく日陰だ。生育に適しているのかもしれない。 多分、この環境を保持するためには、たくさんの人の努力があるのだろうな・・と誰もいないこの一角にしばし立ち尽くし緑のわさびを眺め入る。 早朝の野川は鳥たちも元気がいい。 群れをなして出勤するすずめたち。かも達も勢いよく頭を水面につっこんでいる、朝食捕獲か。コサギ・オオサギが羽を広げては優雅に空を旋廻する。 5時半散歩はまことにいい。こうしたひとときを過ごすだけであとの一日がピリリとひきしまる気分になる。 夜は遠花火の音が響いた。 「池袋演芸場では、紅さんがトリをとっているころだな」と思いを馳せる。 一人静かな散歩も、人の集まる楽しい場所も、今日という一日が無事過ぎてこそ、確かなものといえる。 中越の地震や、ペルーの地震。今朝東京でも感じた小さな地震・・。 地震ばかりではない、あまたの悲惨なニュースはいつ、わが身にかかるやもしれない。 自然の息遣いに寄り添うと、この命あるものがたとえようもなく大事なものに思えてくる。 五時半散歩をはたした今日は、とりわけシアワセ感と危機感がないまぜとなった。
2007年08月18日
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昨日は暑さにもめげず、<ラジオを聴く>という題で、日記を作成。 橋本治の源氏物語をたまたま、耳にすることができたからだ。 あまりの暑さで、うちわ片手にごろりとなった。 今、まさに借り出して読んでいる「源氏供養」を書いた著者ではないか。わたしは、バタバタあおぎながらも、かなり真剣に聞いた。「ふ~ん、六条院は骨董市場かあ」などと斬新な意見に耳はチェックチェック。 ホホエミさんの源氏論ととてもよく似た発想をする人だ。 合間のニュースがはさまれたとき、あわててホホエミさんに電話を入れる「ナニ?ないの?」 これはホホエミさんにも伝えねば、という思いで、かなり長文を書いた。 見直してさあ<確認>というとき、わたしの手は不覚にも二度クリックしてしまった。 クリックは戻らない 消えた画面をボーゼンと見つめるばかりだった 過去にも同じ事故を起こしていたのを思い出す 「今日はこれから橋本治の話を書くわね」とホホエミさんの日記に書き込んでいた。 しかたない、事の顛末を伝える。 ホホエミさんから 「ふつうに書いて、コピー・貼り付けでやれば間違えることがない。それにしてももったいなかったね」 というわけで、目下ワードに向かっている。 今回は、その方法でやれるかどうかのテスト。 成功したら、今度からこの方法で書くことにしよう。 それにつけても、昨日の話は昨日しか書けないものだと再認識。
2007年08月18日
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文字通り、リフォームの話である。 風呂を変え、水廻りりを変え、クロスを張り替えるというあのリフォーム。 単に外観を変える、というのではなく、人生後半を快適にする、という覚悟が見えるのが、団塊世代のリフォームだ。 羽村に暮らす旧い友人宅を訪ねた。 3人の子育てを終え、幼稚園の園長という責は負っているものの、「人生・リフォーム時」と思ったのだろう。 築30年のマイホームを思いっきりデザインしなおしていた。 ご自慢の泡風呂に体験入浴させてもらう。 「ふ~ん、このリフォームで100万円かあ」とありがたく泡を流す。 キッチンは今はやりのシステム式だ。「ナニーィ、わたしの方がぴったりの高さじゃないの」と言いつつ、すっきりした台所にためいきをつく。 庭は、と見てやれば、かっては草ぼうぼうのイメージしかなかったのが、きちんと刈り込まれ、友の好きな「実のなる木」もそれぞれ大きく育って、しかも見事に剪定されている。いい味を出しているではないか。 こんなにいい家だったかしら、と見直す思いだった。 人生折り返し地点にたって、リフォームをする余裕のある生き方のできる友の人生を、素直にいいなあ、と思った。 目ざとく見つけたわたしは、彼女ご自慢の実のなる木を少しばかりいただいた。 <柚子>に<ざくろ>に地味な実の<沙羅双樹>だ。 いずれもめったに花屋でお目にかからない素材だ。 帰宅後、ゆったりと楽しみながら3つの器に活けた。 わたしの人生・リフォームは、こんな風に<いいとこ、いただき>で楽しむこと、か。 いやはや、お金をかけずに人生のリフォーム時を認識するって、これもいいではないの
2007年08月14日
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ホホエミさんが去って静かな日々が戻った。 ホホエミさんのいた間に血圧を測ったことがある。 昨年、突発性高血圧にみまわれてから、いまいち安定した血圧を得られなかった。 それが、110-70という数値にピタッと戻っていた。 いやあびっくりしたのなんの! 試しに今、計ったらやはり115の70、ホホエミ効果は持続している。 ホホエミさんの心理テストを受けた。 4枚の図柄を示され、そこにわたしがイメージするものを足して、短い言葉を添える。 それをみて、ホホエミ分析をした結果 「さくらさんは、<バランス>を求めているね。つまりバランスが欠けていたんだね」ふむふむ、あたらないでもない。 ホホエミさんの歴史占いを受ける。 なんと、なんとわたしは<吉野太夫>だそうだ。 「一生懸命うちこむけど、すぐ飽きる。しかも飽きることをなんとも思わない」だと! う~ん、言われてみりゃァ、思い当たること、多々あるなあ。 でもね、イラストのような、こんなにかんざしをつけたことは、ありんせん。 ちなみにホホエミさんが<紫式部>っていうのはできすぎじゃありませんか。 ホホエミさんから幾度も<お祓いマッサージ>を受ける。 このお祓いで、くたびれたり、落ち込んだときの危機回避をしてもらった。 このお祓いは「ニン・ニン」とやるだけでなくマッサージがはいるので、まことに気持ちよい。ホホエミさんの手がどんどん熱くなるのがわかって「魔女だなあ」と何度思ったことか。 長年の邪気もとれた気分である。 ここまで書いただけでも、ホホエミさんが
2007年08月13日
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猛暑での汗はしかたがない。 冷や汗はしとど、胸はドキドキの昨夜の話だ。 「ホホエミさん来る」を書いた日記に、ついうっかり「ホホエミさん、息子のライブのため、9日まで延泊する」「このチケットの希望者はいませんか」などとしたためた。 結果、一流プロ歌手の445さんまで見えることに相成った。 最初は「ふむふむ総勢6人か・・」などと気楽に構えていた。 が、ひょっこり家にあらわれた息子の歌を聴いたら、まるでいただけない。「ええ~っ?!」 ここから、母さくらの苦悩とプレッシャーは始まった。 ああ、すくなくともプロの445さんには聞かせたくない。 「きっとジムにでも行ったほうがましだった、と思うでしょう、無駄な時間になるので、見えないほうがいいと思います」とやんわりお断りを入れた。 こちらの意図も汲まず、やさしい445さんは「応援しましょ」ととりあってもくれない。 このあたりから胸が、ドキ。 前日には確認メールがきた。また、ドキ。 幸いなことに雲南省で日本語教師をする旧友が帰省していて連絡がとれた。急遽彼も加わることになる。 多分、注意がそちらに向くだろうと少し、ホッ。 ふたをあければ、息子はそれなりにがんばっていた。 ドキドキは、聴いているうちに消えていた。 打ち上げで、445さんはさすがプロと思える感想も言ってくださった。おじさんナロリンもホホエミさん、和の宮さんもそれぞれに褒めてくださった。多分「味があるね」という風に受け取ってもらったのではないか。 手放しというわけではないけれど、息子の生き方がムダなことではない、と後押しされたようでうれしかった。 息子には「始まったらドキドキしなくなったよ、よくやったね」とメールを打つ。そして6名の方たちからいただいた感想も書き込んだ。 永遠反抗期の息子が神妙に「ありがとうございます、みなさんに直接お礼を言いたいのでアドレスを教えてください」と返信。 ああ、転送方法がわからない しかも今のパソコンには息子のアドレスが未登録 というわけで、とりあえずは、母さくらよりお礼申し上げます。 ナロリン、ホホエミさんにはまた格別のご配慮をありがとうございました。 445さん、和の宮さん、これにこりずに是非次回もご一緒して、成長を見届けてください。 ピンイエさん、「直樹君自身の味がでてきた」というセリフはうれしかったです。 ダビッド君は再来週、息子と会う段取りに。友達になれるといいね。 ハラハラドキドキも、まあるくおさまって幕を閉じた夏でした。 <ホホエミさんとの別れ>はまた次に。
2007年08月10日
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・・夜の調べはシャンソン・・ この夜はホホエミさんのみならず、わたしの友人たちが大挙して445さんのシャンソンを聴きに行った。 スイスのハイジさんは、三男の親友というスイス青年を伴って現れた。彼女とはほぼ2年ぶりに会う。前回は講談、今回はシャンソン・・わたしの興味の赴くままにつきあってくれる。 8月1~5日まで台湾旅行をし、実家の名古屋に帰る前に一日だけ時間をとって上京したそうだ。昼間、台湾出身の恩師の方と会い、夜シャンソンを聴き、そのあと我が家に泊まり、翌朝名古屋へという強行スケジュール。だが、体力・気力の充実したハイジさんは少しの疲れも見せず、すべての日程を楽しんでこなしているようだ。 6時に集合し、445さんを囲んでナロリン手配のそば懐石を賞味する。 案の定、おしゃべりホホエミが本領を発揮してデヴィッド君に質問ぜめ。26歳の青年は、ヒーフーと必死の応対。 バンブーさんはすっかりフレンドリーに対応。あの調子だとほんとに多摩川までつりに連れていきそう。 開幕前のあでやかな445さんと記念写真もとる。デヴィット君ははにかみながら、ホホエミさんは「スター二人だよ」とはしゃぎ ながら。 初対面のバンブーさんが、ハイジさんに花束を手渡す。 もう、はじまる前からにぎやかなこと、和気藹々である。 だが、シャンソンがはじまると水を打ったように静まり、445さんの魂に触れる歌声がみんなの心をぎゅうとつかんでいく。 隣に座るホホエミさんが、その存在感の大きさに圧倒されていくのが、伝わる。 シャンソン、タンゴ、映画音楽とレパートリーも広くおそらく全員が445ワールドに酔いしれたことだと思う。 そして、な、なんと8月11日誕生日のわたしのために445さんからハッピーバースデーの歌をプレゼントされる! よく、こういう場面に遭遇するけど、わたしがやってもらうとは! しかも素敵なポーチまでいただいた。 445さん、こんなにして下さったら商売になりませんよ、いや、素直にほんとにありがとうございました そんなこんなで、すばらしい夜はあっというまに更け、<国際交流・シャンソンの夕べ>は幕を閉じた。 遅い帰宅のあと、ホホエミさんはさらに<インターネット的生活>を続行。 時計が1時をまわるころ、ようやく川の字の布団に戻った。 おかげで、その間、ハイジさんと二人きりで寝ながらのおしゃべりを。 スイスでの生活、最近のわたしの生活など語り合う。 長い、長い夏の一日がこうして暮れた。
2007年08月08日
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6日は胡弓とシャンソンの一日だった。 ・・胡弓と源氏物語・・ ホホエミさんの胡弓の音色はさまざまな表情をもつ。 この変幻自在の音色を、大地のもと、広がる空の下で奏でたら、それはさぞ、ぴったりすることだろう・・と室内で聴いていて思った。 わたしのいつもの散歩コースなら、ぴったりのスポットがいくつもある。そうだ、胡弓の音色を聴きながら源氏物語を読もう・・なんと贅沢ではないか、と思い立つ。 というわけで、お弁当と胡弓と本をかかえて例のカニ山・シアンソンジョ山コースへと向かった。 炎天にも係わらず木陰は思いの他涼しい。 ホホエミさんの調子を合わせる音が鳴り出すや、山が息づき、緑が揺れる気配を感じる。 わたしは、それが最初から決まったことかのように「源氏物語」を声に出して読み出した。不思議なことだ。声に出すのははじめてのこと、屋外にあって、二人の<気>がそうさせたとしかいいようがない。 ホホエミさんは劉天華の「月夜」を弾く。わたしはページをパラパラとめくり「橋姫」の最初の段を読む。 曲の終わりと橋姫の話の一段落するところがぴったり。 なにより、胡弓の哀調を帯びた音色と、没落した貴族の哀しみを描く橋姫の段がぴったり。 二人はすっかり夢中になって何度も何度も合わせた。 「さくらさんはさすがに講談できたえているからうまいねえ」とホホエミさん。おだてられるとすぐのるわたしは、姿勢をただし、腹に力を入れるようにして読む。二人で「もう一度、もう一度」と何度やったことだろう。 ホホエミさんはすっかり調布の里山が気に入り「さくら的生活はいいねえ」と。 シアンソンジョ山のふもとでお昼をとる。 静寂のなか、何枚もおニューのデジカメで写真をとっていた。 その一枚に緑を背景にしたわたしの後姿がある。心なしか若やいで見えるよう。 こうして、にわかコンビ結成とあいなり、シャンソンを聴きにいく前の「さくら亭試聴会」は「源氏物語つき<月夜>」とホホエミさん独奏<病中吟>の二曲を披露。 聴衆(バンブーご夫妻、和の宮さん)のとまどいと拍手を受けながら、六日前半「胡弓の部」を無事終えた。 バンブーさんから花束まで贈呈されたホホエミさんは、さぞうれしかったことだろう。 夜の話はページを代えて記載しよう。 ちなみに二人のコラボは、翌日テープにおさめて表題を「2007年・ 夏の思い出」とした。
2007年08月08日
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ホホエミさんは二胡の名手でもある。 今日は、わたしが仕事で留守にしている間に、かっての教え子たちがさくら亭に集合した。 ホホエミさんが電通大宿舎に住んでいた7年ほど前に、1年ほど教えた人たちだ。 昔、わたしも彼女たちの演奏を聞いたことがある。 帰宅と同時に胡弓の音が耳に入った。 「さくらさんを待って発表会を開こうと思っていたのよ」と言われ、さっそくその後の成果を聞かせて貰った。 なるほど、うまくなっているなあ・・と感心。 だがせっかくのチャンスだ「ホホエミさんの模範演奏を聞かせて」とお願いする。 びっくりした。 圧倒された。 楽器とホホエミさんが一体となって呼吸しているかのようだった。 同じ部屋にいながら、ポーンとわが身が中国に運ばれたような思いになった。 この音色はそう、たとえば上海・周荘で、観光客が去ったあと、地元の愛好家たちが集まり、胡弓や揚琴を楽しむ・・そんな風景を思い起こさせる音色だった。 ホホエミさんの中に、とてつもなく大きな中国の文化が脈打っているのを実感する。 愛知へ訪ねた時、胡弓は置いてなかった。 それが「突然、演奏会にゲストとして呼ばれ、曲を弾くこととなったの」「それで、そこから胡弓が送られてきたので、今は毎日2、3時間練習しているのよ」と言う。 どの指にもたこができるほど、練習をつんでいるそうだ。 うまくなっているはずである。 だが、<うまい>だけでは表現できないカラーが加わっている。 すばらしきかな、その音色、だ。 ちなみに弾いた曲目は劉天華「病中吟」。 来年2月に福井でやるそうだ。 この文章も胡弓の音色をバックに書いている。
2007年08月03日
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ホホエミさんとの「東京の日々」は特別な日々。 だけど、なかみはわたしにとっておなじみなことが多い。 おなじみコースながら、ホホエミさんといると、光が別に射すようで、キラキラとした毎日だ。 秋谷の催しのあと、鎌倉の和の宮別邸に泊まり、合宿気分を味わう。あの悪天候のなか、どんなに助かったことだろう。 すばらしく広いリビングルームで4人が頭を並べておしゃべりをしながら休んだ。 その翌日、28日はわたしの提案で「深大寺温泉」で骨休めをした。 温泉のあと、韓国人のエステティシャンからお肌のリフレッシュも受ける。 レストランでもけっこうおいしい食事だった。そして大広間で昼寝をする。 二人はすっかり爆睡し、気が付けば夕方に近い。 昨日までの疲労が完全に抜けている。 そんなわけで、もうひとつの予定、植物園散策の時間はなくなり、温泉三昧の一日となった。 昨日は「新宿御苑・末広亭・ビッグカメラ」のおのぼりさんコースだ。 御苑は、静寂そのもので緑陰は涼しく、よく手入れのされた庭園はホホエミさんの感動まで惹き起こしたようだ。 持ち込んだサンドイッチをほうばりながら、北京の生活や東京でのわたしの暮らしを話すでもなく話す。新宿で、こんなにゆったりとできる空間は多分ほかにはないことだろう。 そのあと、御苑にほどちかい末広亭へ。 ほんとは講談を聞かせたかったのだが、上席は見るべきものがなさそうで、花禄・小さんの出るすえひろを選んだ。 面白かったのは三三という落語家が講談調になって、落語をやったことだ。なんだか、それで聞かせたかった講談は十分という感じだった。ホホエミさんも三三の熱演は花禄と並んで面白かった、といっていた。 最後は、またまたすえひろからほど近い「ビッグカメラ」でデジカメを購入する。一眼レフのかなり高級品を求めていた。 この三つのことをそれぞれに<たっぷり>時間をかけ、この日は暮れた。 わたしは、もとよりさほどの体力がない。 帰ってからバッタンキューとなった。 暮れても、ホホエミさんのインターネット的生活は深夜にまで及んでいたようだ。 彼女のプログにアクセスすれば、東京生活が彼女の目で詳細に語られている。ぜひご覧ください。 http://plaza.rakuten.co.jp/brightcui/ さて、今日はまたお出かけだ。この報告は次回に。
2007年08月02日
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ダライ・ママさんは逗子・秋谷にお住まいである。 定期的にわが治療院に来られて何年になるだろうか? 逗子から調布の距離は、車を駆ってのこととはいえ、容易なことではない。 今回、「草迷宮」のお誘いを受け、初めて逗子に下りた。そこからバスでさらに葉山御用邸なるところを通過し、大海原が見渡せる長者ヶ崎を抜け、ようやく秋谷に到着。その距離の長さを実感。 ダライ・ママさんは生まれてこの方、ここの海に洗われて育っているのだと思う。たとえ足や手に痺れがあろうとも、あのように生き生きと市民運動ができるのは、郷土の秋谷を愛する気持ちが人一倍強いからに違いない。 そして、実際、秋谷というところは何か人を惹きつける磁場のような魅力があった。 泉鏡花もその磁力に惹きつけられ逗子に滞在中しばしば秋谷を訪れ、散策を楽しんだという。そのなかで生まれたのが「草迷宮」だそうだ。100年近く前の秋谷は、なお人馬も容易に通えぬ草深いところであったそうだ。 今回の「草迷宮」へのいざない・語り芝居と琵琶演奏の夕べは、その企画・立案・実行のすべてをダライ・ママさんをはじめとする「おおくすエコミュージアムの会」のボランテイアのかたがたが市の協力を得て行った。 会場の設営も第一部は「草迷宮」にちなんだ若命家(ワカメイケ)という、なまこ塀をもつ、もと長者のお宅前で行う。 200人は越そうか、という聴衆のため、門の前に青いシートを敷き詰め、蚊とり線香を随所に配置する気配りも会の人たちだ。 会の始まる前、ダライママさんから<おおくすエコ>の人たちの活動を写真にしたパネルを見せてもらう。 大楠山という名は何度もダライママさんから聞かされていた。 その山の樹木の名札つけなどもする。 大楠山という山全体を博物館と見立て、そこから自然を観察し、自然を保護しようという姿勢があふれている。 見回せば、会の人の数は相当なものとお見受けした。「草迷宮へのいざない」というキャッチコピーにふさわしい手作り灯篭に灯が点火される。100年前へわたしたちをいざなうのにピッタリだ。 この灯篭も会の人たちによる手作りだそうだ。 これがありきたりではない。スパッと斜めに竹を切り、1メータほどの高さにしつらえ、和紙を巻いて中にろうそくを立てている。 パネルといい、灯篭といい、そのしたてのセンスのよさに舌を巻く。 一部の会場から二部は、大楠山とおぼしき山のふもとの正行院というお寺に移動。 この灯篭が移動するときの道しるべとなる。おびただしい光の連続だ。だが、なんと静かで、やわらかな光だろう。そしてその光を守り、無事の誘導を確保するため、数メートルごとに「おおくすエコ」の人たちが立っている。 妖しいばかりに美しい光と、その光をささえるエコの人々の姿。もうひとつのドラマである。 二部の半ばあたりから、遠雷が聞こえ出し、突如割れんばかりの落雷音と大雨に会場の寺は閉じ込められた。 草迷宮の迷宮じみた様相がいよいよ濃くなるようで、大勢の人がいながら、わたしは心臓がキュッとなるようだった。 幕が下りたあと、雷も雨も止む気配がない。 と、このとき「かさをお持ちでない方は、これを使ってください」と声がかかった。 おそらく<おおくすエコ>のメンバーがあのつんざく雷の中、奔走してかき集めてくださったに違いない。 ありがたくも、胸が熱くなりながらもお借りして帰途につく。 秋谷を舞台の「草迷宮」は、その物語もさることながら「秋谷と秋谷に魅せられた人々」というもうひとつの顔を見せて、忘れられない一夜の体験となった。 共に行った4人の仲間もそれぞれに忘れがたい一夜となったことだろう。 ダライママさんとそのすばらしい仲間たちへ、心からの感謝を申し上げます。
2007年07月31日
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ホホエミさんがわたしのところに来てもう4日になる。 怒涛のように時間が流れるので、日記に書き込む時間も無かった。 昨日は本来の目的の「同時通訳協会設立」のシンポジウムに出かけた。そしてそのまま友人のところに泊まったので、昨日と今、わたしは一人である。 今は一人だが、夕方には逗子で合流する。 例の横須賀市制100周年事業「草迷宮」を友人たちと見に行く。 上京の26日はたまたま友人たちが我が家に集まる日だったので「ホホエミさん、歓迎会」に切り替えた。 「コミュニケーション能力抜群」の彼女はあっというまに話題の中心に。 初対面の人たちまで、「ホホエミさんの13歳の息子、初デートのその後はどうなるか!」というほほえましい話題に、おおいにわく。 歓迎側は浴衣姿のhime☆さんがジャズを、和の宮さんがシャンソンをそれぞれに披露し、ホホエミさんをうっとりさせた。 わたしがmixi日記にはまっているように、ホホエミさんも楽天サイトに日記を書き込んでいる。 会ったことが無いのに、かなり親蜜な人たちがいて、そのやりとりに相当な情熱をそそいでいる。 昼は読書、夜はインターネットが基本の生活のようだ。 そこで、わたしも伝授を受け、ここmixiに書き込んだ日記を楽天にも転載することにした。 なんだか完全にホホエミさんのペースにのせられている。 でも、彼女とのコミュニケーションがもっと簡単にできそうなので、喜んで楽天に登録した。 シンポジウムでホホエミさんが発表する原稿も聞かせてもらった。 居並ぶパネリストの一番手だ。 5年に及ぶ北京語言大学での同時通訳教育の成果が、じつに要領よくまとめられている。 この会をたちあげた杏林大学の塚本先生という名前が何度も登場して日中友好に尽力した人がいるのだな・・と感動した。 ホホエミさんは自分の実績を語ることなく、存在が実績であることを示す十分な貫禄を備えていた。 完璧な文章を前にわたしのアドバイスは、ただただ「ゆっくり、にっこりね」とだけ。 NHKも取材に来るそうだ。会はきっと成功したことだろう。 まだまだ<合宿>は続く。 こうやってときどき息をぬきながら、笑ったり、真剣になったりの二人のバケーションを繰り広げたい。
2007年07月30日
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本日、わたくしさくらは妹のホホエミに導かれて、ここ楽天にデビューいたしました。生まれ育った多摩川の水から離れがたく、幾星霜の日々を調布から離れず暮らしております。以後、皆様におかれましても、どうぞよろしくお見知りおき願いたくお願いする次第です。
2007年07月26日
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マリアンは作家である。 作家である前に友人である。 こつこつこつこつと書き溜めていた作品が、ついに形となるのが7月26日だ。 天から降ってきたものと、それを受け止める自分で<作品>はなりたつものらしい。 マリアンは「日本で初めて木による人体模型を作った人物」をテーマとすることを天から与えられた。 彼女がその生みの苦しみのため、身を細らせていたのを知っている。 投げ捨てようか、と幾たびも歩を鈍らせたのも知っている。 だが、天との約束は彼女をひたすら、作品結晶への道を歩ませた。 そして7月26日、天との合体を果たした作品が誕生する。 大きな書店には必ずや並ぶだろう。 人物往来社刊 「木骨記」 本名、市原麻里子と記されているはずだ。 昨夜の電話で 「見本を手にしているけど、こんなもののために、こんな思いをしたのかあ・・って思っている」 多分、それは作家とよばれる人の多くがそう思うのではないだろうか。 7月26日、わたしも本屋へ足を運ぶ。 幾百枚ものゲラを見せてもらっていた私。本の重さを手にしたら、きっとジンとくるに違いない。
2007年07月26日
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