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3月だというのに、一応春だというのに、まだまだ寒く冬のまま。というわけで、寒いうちに書いておこうと思った。さらに言えば、最近チャイコフスキーづいているのだが、初期の作品も聴いておこうというわけで。この曲はチャイコフスキー26歳の時に第1稿が完成されているのだが、現在聴くことのできる形で全曲初演されたのはなんと43歳の時、ブラームスほどではないにしてもこういう苦労があったんだなと知った。チャイコフスキーは師匠から演奏を許してもらえなかったり、初演を失敗してみたりとかなりついていない部分が多いのだが、これもその一つだろう。後世での人気ぶりを彼はどう思っているのだろうかなどと思う。この曲には、有名な後期の交響曲とはまた違った趣がある。さらに、前半の楽章には副題までつけられている。もちろん、後期の交響曲ほど練られたものではないように感じてしまうのだが、逆に純粋な感じがするのもいいように思ったりする。-------------------------第1楽章:「冬の旅の幻想」ヴァイオリンのトレモロに乗っていきなりフルートとファゴットによる第1主題。時々低弦による半音階の合いの手が入るところが珍しい感じ。そこから追い込むようにユニゾンで盛り上がっていくところは後の作品にも見られる形で、チャイコフスキーらしい一面を見せる。第2主題はニ長調のチャイコフスキーらしい旋律。クラリネットで最初に出てヴィオラとチェロに受け継がれていくが、後者への広がり方がいい感じ。その後の転調も「らしい」感じがする。金管楽器が断片的に盛り上がってくる場所はまだ圧倒的な雰囲気はない。展開部では半音階で持ち上げられるような感じと常に前進していくような進行が力強い。再現部は提示部の短いバージョンでト長調を中心に音楽が展開されている。最後は第1主題をもとにした旋律が遠のいていくように終わる。まさに「幻想」だったという感じ。-------------------------第2楽章:「寂しい土地、霧の土地」この楽章の弦楽器だけで演奏される冒頭(序奏)が大好きである。後の弦楽セレナードの第3楽章を思わせる。和音進行がたまらない。ここはピアノ(弱く)と指定されているが、弾き込んだ方が雰囲気が出そうである。第1楽章で表現された「冬」とはまた違う何かが表現されているような気がする。第1主題はオーボエ。これがまた切ない感じで素晴らしい。変ホ長調で始まっているのだが、旋律の途中にある短調の部分が心にしみる。フルートやファゴットの合いの手も素晴らしい演出になっている。第2主題はフルートとヴィオラに変イ長調で表れるが、そこからロ長調に行ってしまうという展開が意外で、なぜかまた元に戻ってくるというのが面白い。ここでも旋律の途中で顔を見せる短調の部分がやはり切ない。第1主題が再び出てくるが、これがチェロの高音で歌われてみたり、またヴィオラのソロが一瞬だけあったりする。後期に見られる「泣き」の旋律の雰囲気がここにはすでにある。3回目に出てくる寸前にはホルンだけがフォルティシモで出てくるのだが、この音型や、最後に盛り上がった後に弦楽器が高音から下りてくる音型などは新鮮な感じがする。最後は冒頭の雰囲気に戻る。やはりこれも「幻想」の世界なのだろう。-------------------------第3楽章:やはりこれも幻想的な導入で始まる舞曲風の音楽。チャイコフスキーの作品で言えばバレエの中にこういう要素を持った曲はあると思うが、他ではあまり見ないような気がする。中間部は打って変わってヴァイオリンによるなだらかで伸びやかな旋律。主部のシャキッとした感じ(温度を低くした感じ)とのコントラストがとてもいいと感じる。どこの調に行こうとしているのかという展開が小規模ながら面白くきこえる場所でもある。最後の手前でおさまる場所ではティンパニの弱音や弦楽器のソロが使われている。しかし、最後は2発で「おしまい」となっている。-------------------------第4楽章:導入部分はゆっくりで、まずは主題の断片からスタートし、しばらくしてからヴァイオリンで主題が提示される。この主題は当時の大衆歌に基づくものであり、要素は第2主題に引き継がれていく。テンポがアレグロになるとどんどん盛り上がって(朝に雨戸を開ける感じだろうか)その先に第1主題が登場する。これがしばらく展開されて転調すると、ホルンを合図にヴィオラとファゴットによる第2主題が登場。これはまさに「コサックダンス」がやりたくなる人が出てきそうだ。展開部では新しい素材が使われている。この部分では後の作品に見られるような音型がたくさんある。雰囲気は多少違ってもこの曲はやはりまぎれもなくチャイコフスキーのものだ。第2主題がかなり省略された形で出てくると音楽は一度おさまってしまうのだが、そこから長いクレシェンド(増大)とアッチェレランド(加速)をして、終結部分になだれ込んでいく。ここでは冒頭の主題が表舞台に登場という感じ。そこからさらに加速していき最後まで突っ走る。最後の音が一発でおしまいというのがかなりあっさりした感じである。-------------------------この曲は、自分としてはもう少し演奏機会があってもいいのかなと思ったりする(大学オケあたりだと取り上げられたりすることもある)。後期の作品に比べればかなりロシア色の強い作品であるなと思ったりはするのだが、それもまた一つの魅力だと見ることもできると思う。前でも書いたとおり、この曲の中にはすでに後の作品につながるものがたくさんあるように思う。ルーツをたどってみる意味でも一度聴いてみる価値はあるだろう。この曲はまだ演奏したことがないがいずれ機会があればやってみたい曲である。
Mar 14, 2007
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聴いている時には楽しいが、演奏するとなると大変だというのはどの曲でも言えることだが、この曲は本当に大変である。ノリの良さが決め手になったりするので、ゆっくりしたテンポでやるということはまああり得ないだろうと思う。それだけでも大変なのに、スコアを見るととにかくシンプル、弦楽器は裸で恐ろしく速いパッセージがあったりする(コントラバスまで!)ので、適当に弾くというのも格好悪くなってしまうから大変だ。次回の演奏会のオープニングでやることに...。-------------------------グリンカはロシア国民学派の始祖と呼ばれる作曲家であるが、とにかくメジャーな曲といえばこれに尽きるだろう。グリンカは最初、正規の音楽教育は受けていないアマチュアの作曲家として活動し、後から本格的に音楽を学び直したそうである。何事も最初にやるというのは大変なことなのだなと思う。このオペラは1842年に初演された。初演時はなぜかどうやら不評だったらしい(「音楽も筋も悪くないはずなのに」という評価のようだ)。リュドミラとは、婚礼の時に悪魔にさらわれてしまう主人公の女性であり、ルスランとはリュドミラの結婚相手である。リュドミラはルスランを含めて3人の男性から求婚されていたのだが、リュドミラがさらわれた後に父が「娘を助けた者に娘を嫁にやるぞ」と言ったので、3人が救出に向かい、結局ルスランが助け出してめでたしめでたしというお話。冒頭から派手な全奏の後すぐに弦楽器の怒濤のパッセージ。これだけでオケの力量がバレてしまうという感じだ。そして華やかな第1主題が登場。しばらくその断片がいろいろな楽器で受け継がれた後、少し幅広い感じのする第2主題がチェロとファゴットで登場し、それが木管楽器とヴァイオリンに受け継がれていく。このフレーズのおしまいだけが短調になっているところが面白い。展開部は2つの主題を主に扱うが短い。そのあとすぐに弦楽器による怒濤のパッセージが復活し、再現部へと突入。第2主題の再現部はチェロだけになってファゴットはお休み。「なぜだ~!」というのはファゴット奏者の一言。こういうのはオケではよくあることだ。コーダに入る直前には、面白い音階が出てくる。トロンボーンと低弦が全音階でオクターブ下りていくというもの(ドシ♭ラ♭ファ♯ミレド)。ドビュッシーがよく使った音階だが、実はもっと前に実例はあったというのは、スコアの解説を見てなるほどなと思った。コーダはさらにスピードを上げて盛り上がって終わり。わずか5分ほどの曲だが、ライトな感じがとても楽しい。-------------------------そういえば、オケの練習予定を書いていたホワイトボードの「ルスラン」の文字がどう見ても「ノレスラン」にしか見えないというくだらないネタで盛り上がった。汚く書けば、「リュドミラ」も「リュドミう」に見えるかも。くだらないが、これだけでも十分盛り上がるって、「箸が転んでもおかしい年頃」はとっくに過ぎているはずなのだが...。それはともかく、この曲はやっぱりきっちりとさらうことが重要。当日のテンション次第ではF1マシンを操縦する気分にならなければいけないように思う。「ジェットコースターから振り落とされないように」ではマズイ。とにかくきっちりと自分でコントロールしていかなければならないのだ。速さにあたふたしている状態だとそれはダメで、お客さんを振り回してしまうだけになってしまう。そうならないように、しっかり操縦できるように練習しておかなければ。これは奏者としての自分の腕が問われる曲になりそうである。
Feb 6, 2008
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いよいよ本番が近づいてきた。この曲は今までにいくら望んでも演奏できなかった曲、出演できそうなときには別の人が先に入ったり、頼まれたときに限って用事が重なっていたりで、どんなに弾きたいと思っても出会えなかった曲なのだ。やっと自分の手で本番を演奏できる。この曲はチャイコフスキーにとって最後の交響曲、しかも死の直前に初演されたものである。彼の死因には謎が多いというのは有名な話だが、「悲愴」というタイトルにも謎が多いようだ。「悲愴」のもとになる単語の意味は、日本語での悲愴とは違って、むしろ「情熱的」というニュアンスが込められていると言われる(英語だと「悲しみ」という意味が最初に出てくる。言葉は本当に難しい...)。彼の謎の急死のイメージと曲のイメージが相まって広まったと言えるのかもしれないが、とにかく真相はよくわからない。この曲の調性はロ短調、私はこれがチャイコフスキーの「勝負調」だと思っている。チャイコフスキーにはこの調性を直接使うもののみならず、随所に見え隠れする作品がけっこうある。この調を前面に出しているもので最も有名なのは、「白鳥の湖」「ロメオとジュリエット」などがそうだ。「悲愴」が劇的に聴こえる一つの要素であることは間違いないだろう。-------------------------第1楽章:冒頭はいきなりロ短調で始まるわけではなく、別の調(ホ短調)から入ってきて、しばらくしてから完全な形で姿を現す。このようにメインになる調の和音を出さないというのは第4楽章でも同じ手法で、ロマン派以降で多用される「じらし戦法」ともいうべきものである。第1主題は、初めて聴いたときにヴァイオリンなのかと思ったら、ヴィオラの高い音だったことは後で知った。この山型の主題(頂点に重心が来る)もこの曲の随所に見られるアイデアだ。しばらくして第2主題、ニ長調の平和な感じのする音楽。良き思い出を回想するかのようだ。ここは演奏してみると奥が深いなと思う。許される範囲内で目一杯時間を操作し、音色を作り上げる、そんな楽しみがこの旋律にはある。盛り上がって煌びやかな雰囲気を作った後でそれがおさまり、最後はp(ピアノ)6つ!ファゴットでそんな音は出ないぞという訳で、バスクラリネットで代用されることが多いようだ。ここは見えなくなるまで手を振る別れのようだ。長調でありながら悲しい。すると、突然最弱音を切り裂くように激しい音楽が展開される。最初にヴィオラで演奏された旋律の断片がどんどん展開されていく。金管楽器がほえまくり、木管楽器と弦楽器が風の音のように激しく動き回る世界は圧巻である(脱水機に放り込まれたらこんな感じかな?)。コロコロと調を変え、またダイナミクスもどんどん変わっていく。何かに追われて逃げ切ったかのようでいてまたすぐに追いついてくるかのようなシーンもある。そしてクライマックスではトロンボーンによる最後の審判のようなモチーフ。それが静まった後最後にやってくる一撃と静かなピチカート。何だか幻想交響曲の断頭台とちょっと似ているかも(それよりははるかにスケールがでかい感じがするが)。そして、それがおさまると、平和な音楽が今度はロ長調で出てくる。これもチャイコフスキーお得意のパターンである。いろいろあったけれど、すべてが浄化されていくような音楽の流れ。低減のピチカートにトランペットの弱音が重なる部分はぞくっとする。最後は平和な雰囲気のまま終わる。これは天国を表しているのだろうか。死んだ後だという人もいれば、まだ希望があるのだという人もいる。解釈が分かれるところなのだろうな。すべてが崩れてもまだ「光が差しているのかも知れない」と私は思ったりするが、どうなのだろうか。-------------------------第2楽章は5拍子でありながら、ワルツ的な舞曲。変な拍子にきこえないところがどう考えても謎である。チャイコフスキーってやっぱりすごいと思う。基本的にはニ長調で進んでいく。この楽章にある第1主題と中間部主題はどちらも旋律線は本当に単純だが、単純だと誰も思わない。むしろ弾く立場になって初めて「え?こんなに単純なのか?」と思ってしまうくらいだ。しかし、シンプルなものほど難しいのは世の常(中華料理のチャーハンと同じで)、これもご多分に漏れずそうだ。中間部はロ短調の要素が出てくる。以前ある指揮者に「ロ短調なのにティンパニはずっとここはレの音で叩いているんだけど、なぜかわかる?」と聞かれたことがある。それはニ長調の要素が入ってくるからだということでまあ正解だとのことだった。それはさておき、このあたりは本当にうまくできているなと思ってしまう。シンプルなだけに難しいのは弓の上げ下げをどっちで始めるのかということで、かなり悩んだ。せつない雰囲気をどうやって出すのかは、いろいろ試してみないとわからないものだ。5分ちょっとの楽章だが、本当に奥が深い。-------------------------第3楽章:最初に出てきた主要な旋律が楽器を変えて何度か出てくるという、つくりとしてはあまり複雑ではない。中間部で木管楽器が演奏するところでは少しおどけた感じになるし、最後の方で金管楽器が演奏するところでは豪快な感じがする。ここで金管がブリブリ鳴っていると弾いていて鳥肌ものである。「音は空気が揺れて出るものである」ことを実感する。いかに重厚でありながらもたもたせずに演奏しきれるかが問題である。ロシアではこういう場所を「重戦車」だと例えるらしい。最後のティンパニによる「ダダダダン!」という締めは、やはり「運命」を表しているのだろうか。他の楽章と不釣り合いなほどバカ騒ぎっぽい音楽にきこえるだけに次の楽章との落差が非常に大きくなっているのだが、これは「重戦車が通った後に何も残らない状態」なのかもしれないときいたら、恐ろしくなる。-------------------------第4楽章:この音楽は、本当に泣ける。冒頭の旋律は、1stと2ndという2つのヴァイオリンパートが2つの旋律の間を行ったり来たりするという変わった書き方になっている。理由はよくわからないが、ステレオ効果なのだろうか。本当に「泣く」ような始まり方だ。後でこの旋律が出てくるときには低音からあふれ出てくるような音型に導かれて出てくるのでますます「泣き」の感じが激しくなってくる。しかし、本当に泣けてくるのは、そういった短調でいかにも泣いている感じの場所ではなく、自分にとっては中間に出てくるニ長調の部分だ。ホルンのリズムに導かれて弦楽器がゆったりとした旋律を演奏する。ここは「優しく、そして慎み深く」と書かれている。これは祈りの世界なのだろうなと思う。このニ長調で何かを求めるように上昇していく音型は「もっと生きたい。お願いだから!!」と言っているように感じる。これが何度か繰り返されてニ長調の世界が崩れてテンションが最高潮に達すると一気にその世界が崩れていく。気持ちが高まっても祈りは通じずに最後は泣き崩れてしまうような感じに思えてしまう。その後は「泣き」の世界が続く。弦楽器はどんどんリズムの単位が細かくなって咳き込み、さらにトランペットのクレッシェンドは張り裂けんばかりに叫ぶ。冒頭の「泣き」の旋律を何度も繰り返すが、それはどんどん力を失っていき、ドラの一発が運命を決めてしまう。そして、トロンボーンとテューバのコラール。コントラバスが3連符を基本とした音型とピチカートで最後はすべてが消えてなくなるように終わっていく。心臓が止まっていくかのように...。-------------------------この曲は震災直後に狂ったように聴き続けたことをよく覚えている(あといつも聴いていたのがマーラーの交響曲第9番)。なぜだかわからないのだが、これらの曲を聴いていると落ち着いたものだ。よく考えてみると、落ち込んだときには徹底的に落ち込みそうな音楽を聴いてしまうのが自分の癖であるように思う。もちろん、そういうときにしか聴かないというわけではないのだが。以前もこの曲について書いたのだが、部分的には演奏してみて自分の中で解釈が変わった場所もある。やってみていろいろと感じてそうなっていく。やっぱり演奏は生きているのだと思う。この曲のライブの響きをしっかり出せるように、今できる自分のすべてを出し切れる演奏にしたいと思う。実はまたこの曲を後日演奏することが決まった(もちろん別のオケ)。何年も出会えなかったのに一度出会うとこんなものだと思うのだが、演奏するメンバーはまったく違う。今回やれることは、次回にはできない。いや、二度とできない。今回の大切なメンバーと共に素晴らしい演奏をできたらと思う。
Feb 16, 2007
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ベートーヴェンの交響曲といえば、奇数番号の方がよく聴かれると思う。それはやはり展開にドラマチックな要素があるからなのか、はたまた偶数番号の方が落ち着いた感じがするからなのか、よくはわからない。私も最初は奇数番号ばかりを聴いていたような気がするが、最近では偶数番号もお気に入りになってきた。この第4番は、「運命」や「田園」が作曲される前の傑作が集中している時期に当たる。例えば、「熱情」ソナタであり、弦楽四重奏曲の「ラズモフスキー」だったり、ピアノ協奏曲第4番だったり、というところが作品番号でもくっついているのだが、実は「英雄」からそれほど離れていないというところも興味深い。この曲にはもともとシューマンが言ったとかいう言葉の影響で女性的なイメージが持たれてきたようだが、それは違うような気がする。確かにそういうかわいい要素が「英雄」に比べればあるのだろうが、テンポの心地よさとリズムのキレなどは、第7番にむしろ近いのではないかと思える。ただ、踊っている人がもう少し若くて、少々品がありそうな感じがするぐらいかなと。-------------------------第1楽章:「英雄」では序奏なしでいきなり曲が始まるが、一転、この曲は長い序奏がついている。最初は変ロ長調と言いながら短調の要素たっぷり、ちょっと「レオノーレ」序曲の荘厳な冒頭のような(それほどのものではないかもしれないが)雰囲気があったりする。序奏の間は「?」という問いかけの要素があり、答えが出ない状態の中、いきなり急なクレッシェンドの後、ティンパニの音と共に爆発し、そこからアレグロの明るく快活な主部へ。内声部のキザミがやはりベートーヴェンだなという感じ。シンコペーションのリズムでおどけてみたり、突然一発だけフォルテを入れて脅かしてみたり、2拍子の流れの中に3拍子を入れて調子を狂わせてみたり、いたずら心いっぱいのベートーヴェンがそこにはいるのだろうなと思う。そういう意味でもこの曲はとても魅力的だ。ちなみに、途中で「第九」の第3楽章によく似た和音進行がある(ロ長調から変ロ長調に戻るところ)。ここで実験したのかなと思ったりして。 -------------------------第2楽章:付点のリズムにきれいな旋律が乗っかるゆっくりとした3拍子。ゆっくりとした変ホ長調を基調としているのは交響曲ではこの曲だけ。そこには同じ変ホ長調でも「英雄」や「皇帝」とは違う世界があるように思う。この楽章は基本的に変奏でできていて、展開部に相当するものがないのが特徴であるが、ここには形式で聴かせようというのとはまた別のカジュアルなベートーヴェンというのが顔を見せているのかもしれない。この楽章の最後にも静かに終わらせると思わせてビックリさせようという仕掛けがある。 ちなみに、ここにも「第九」の第3楽章によく似た和音進行がある(変ホ短調から変ト長調に行くところ。ただしここは主調である変ホ長調に戻っていく)。またクラリネットの高い音域を使っているところもよく似ている。ここでもやっぱり実験したのかなと思ったりして。何の根拠もないのだが、こういうマニアックな想像も面白いかなと思う。 -------------------------第3楽章:いきなりヘミオラのかたまりという面白い楽章。演奏していると譜面に完全に騙される。主題がいきなり出て遠い関係の変ニ長調へ行くというのは第1番の第3楽章にもあったパターン、いろいろと手を替え品を替えやっているんですなという感じ。中間部は少しテンポを落として落ち着いた感じでスタートするが、弦楽器の波が飲み込むように登場してみたり、その波にアクセントがついていたりと、またここでもベートーヴェンは遊んでいる感じである。 -------------------------第4楽章: とにかくスピード感が勝負という楽章。演奏する際には運動神経をフル稼働させなければならない。16分音符でのキザミがとにかく難しい音で入ってくるし、拍子と違う音進行のパターンが混ざっているので大変。しかし、それがきっとベートーヴェンの意図なのだろうということで、従わなければならない。きっとちゃんとできたらきれいなんだろうなと思う。この楽章にも途中で感動的な解決に行くはずの和音進行から「何じゃこの和音は?」という不協和音が突然入れられていて、やはりいたずら心いっぱいである。ここは何か最高のひとことを言おうとした寸前に「ン~ッ、ゲホゲホ!!」と咳き込んでいる感じで笑える。さらに曲が進んでいくと、そこからさらに転調までして遊び始める。この間もキザミは恐ろしく難しい。そして最後にまた仕掛けが。フェルマータを使ってゆっくりした雰囲気を作ってそれで終わるのかと思ったら、土壇場でたたみ込むように終わってしまう。しかし、ここまでやっても曲としての統一感が保たれているというのがベートーヴェンのすごいところだ。どうやったら、そういう曲が作れるのかと思ってしまう。 -------------------------この曲はベートーヴェンの交響曲の中で唯一フルートが1本しかなかったり(他の木管楽器は2本ずつ)、楽章の展開部がコンパクトだったり、あるいはなかったりという、特徴的な部分がある。ある意味、期待通りではないのだが、そこがまた面白い。なかなかアマチュアオケで演奏する機会には恵まれないのだが、今回はその機会に恵まれた。せっかくの機会だから楽しく味わいたいと思う。
Nov 24, 2009
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先ほど書いた話とのつながりでショスタコーヴィチにしてみた。この曲は彼の最大の傑作に位置づけられるもので、他の曲に比べて演奏会で取り上げられる機会も圧倒的に多いのではないかと思う。この曲は、1937年に作曲されたのだが、その前年に彼の作曲家生命を脅かす事件が起こる。彼の作曲したオペラが社会主義リアリズムに反する作品であるとソ連当局から公式の場で徹底的に批判されたのだ。このことは作曲家として失格であるという烙印を押されたに等しく、彼は粛清によって命を落とす危険性にさらされることになってしまう。彼は社会主義的リアリズムの要請に応じ(とは言っても、自分の気持ちとの折り合いをつけて)、簡潔で明快なこの曲を完成させた。そして、この曲は発表後高い評価を受け、彼は再びソ連当局の信頼を回復することになったのである。と、ここまで見てくると、生臭いイメージを持たれるかもしれないが、実際には全曲を通してわかりやすく、聴きやすい曲だと思う。また、この曲では重苦しさや勇ましさが感じられるような場所のインパクトの方が強く感じられがちだ、透明感や凛とした雰囲気のある場所も多く、むしろそのコントラストがこの曲の味わい深さを作り出していると思う。-------------------------第1楽章 強い緊張感をもって低弦からいきなり始まる冒頭の動機が静まると、第1ヴァイオリンが中心となって旋律を歌う部分が続く。本当に寒い(温度が低いという意味で)音楽で、この部分は不安や疑念を表していると言われている。しばらく進むと今度は大きな凸凹のある旋律が第1ヴァイオリンとヴィオラによって2回出てくるが、特にヴィオラが演奏するときには通常オーケストラ作品では使用されないような高い音が使われており、それが絶妙な効果を生み出している(ヴァイオリンだと楽に出せる音域を敢えて本来音の低いヴィオラで出すことによって苦しそうな音になる)。その後、転がり落ちていくようにスピードがどんどん速くなり、最高に加速したところで突然行進曲(小太鼓のリズムとラッパによるファンファーレ)が登場し、その末尾からシロフォン(木琴)を加えながらクライマックスに突入していく。ここでは圧倒的なユニゾンが印象的だ。その部分が終わると、フルートが明るい旋律をさわやかに歌う(この旋律は前でヴィオラに出てきたものとほぼ同じものというのがスゴイ)が、すぐに暗い世界に引き戻されてしまう。そして最後はソロ・ヴァイオリンやチェレスタが登場し、静かに終わる。冒頭部分で示された不安や疑念は結局解決されないまま、次に続いていくことに...。-------------------------第2楽章 冒頭から低弦で主題が歌われる。3拍子で踊りの要素を含んでいるが、軽さはなく大男が踊っている(むしろ怒っている雰囲気さえある)かのようだ。続いて木管楽器がこれに答えるようにトリルを交えながら忙しそうに動き回り、おどけた感じのリズムが続いた後に、ホルンの合図(これがまた面白い)をきっかけに中間部が始まる。中間部ではヴァイオリン・ソロが活躍し、その旋律を使って音楽が展開されていき、最後はティンパニ独奏に導かれてオーボエが寂しそうに歌った後、突然強く終わる、皮肉たっぷりの音楽である。-------------------------第3楽章この楽章は、全曲の中で最も詩情豊かで美しいが、悩みや悲しみに満ちているようにも感じられる(単純な和音から少し音をずらすことで独特の歪みを生じさせることでこういった表現をしている)。冒頭の弦楽器は通常よりも多くのパートに分けられ、それによって、より繊細な響きが追求されている(少ない人数のパートが数多く重ねられるので、細い糸を細かく編んだような繊細さが生まれる)が、各パートの動きはきわめて単純であるために、透明感を失わない絶妙なバランスになっている(こういうところ、彼は天才だと思う)。この弦楽合奏が終わると、ハープに導かれてフルートが寂しげに歌い、しばらくしてヴァイオリンのトレモロを背景として木管楽器が順に歌っていく。このあたりは美しく凛とした静寂の世界になっている。その後、冒頭部分の旋律が木管楽器によって歌われ、曲は力を増してクライマックスへと到達していく。この部分ではチェロによる締め付けられるような音(オーケストラ作品では通常使わない高い音がまたまた登場)や、その後クライマックスが終わって静まった直後の弦楽合奏が静かに無の状態からもう一度始まる部分などが印象的。最後は、ヴァイオリンの高音からコントラバスの低音まで下がる進行に導かれてハープとチェレスタが中間部の木管の旋律を回想し、消えていくようにこの楽章は閉じられる。チャッチャカ系のイメージとは対極にある感じだ。-------------------------第4楽章この曲を全曲聴いたことがないという人でも、たぶん「どっかで聴いたことあるぞ」というであろう楽章。この楽章は、管楽器の強い音とティンパニの行進曲風のリズムの上にトランペットとトロンボーンが主題を示すことで開始される。曲は直後にスピードを増し、冒頭主題が拡大されたり変形されたりしながら、息をもつかせないような緊張感を保って進み(冒頭からしばらく続くこの部分は重い機関車が猛スピードで走り続けているような感じ)、クライマックスを超えたところで突然一発のドラを合図にティンパニの刻むリズムが重みをどんどん増しながらスピードを落としていき(この時の指揮者の顔はたいていものすごい表情をしている)、静かな部分へと入っていく。この部分では漂うような伴奏の上にホルンによる落ち着いた旋律や、ヴァイオリンによる起伏の激しい旋律などが歌われ、ハープを伴った弦楽器による透明感のある音で締めくくられる。すると今度はゆっくりとしたテンポで静かに冒頭主題が始められ、それが長い時間をかけて高揚して、最後は圧倒的なラストを迎える。ところで、この楽章は解釈をめぐってこれまでにさまざまな議論が闘わされてきた。以前は、圧倒的なラストが苦難に打ち勝った勝利(第1楽章で提示された不安や疑念の解決)を示しているのだと言われてきたが、それは人々の心から自然にわき上がるような歓喜の歌ではなく、強制された歓喜であるといわれている。確かに、ラストの部分で旋律を担当するもの以外のほとんどの楽器が同じ高さの音で同じリズムを執拗に繰り返すが、ここを演奏していると、出口が見えないまま同じことを繰り返しているかのように続けられるこの部分にはそういった要素があるようにも感じられる。何しろ、普通なら伴奏の音型なのに、丁寧にピアノの高音までこれでもかと重ねてあるというところに恐ろしさを感じてしまう。やはりスゴイ音楽である。
Sep 20, 2006
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「春」と名の付く曲はいくつかある。最も代表的なものはヴィヴァルディの「四季」にある「春」、あといろいろあるが、新緑の季節の風景に合うのは、この曲ではないかなと思ったりする。シューマンは4つの交響曲を残しているが、その中でも最も活き活きとした感じがする。作曲されたのは1841年、たったの4日間でスケッチは完成され、1ヶ月でスコアも完成されたというから、あふれる出す感覚をそのまま楽譜にしていったのだろう。彼は当時、シューベルトのような交響曲を書きたいと考えていたらしく、さらにその当時読んだ春の詩が重なって交響曲として着想されたそうだ。そしてこの曲は、メンデルスゾーンの指揮で行われた。-------------------------第1楽章:最初はホルンとトランペットのファンファーレと木管と弦による応答でスタート。この最初のフレーズの構成音が、着想時に考えられたものとは違っていたというのを高校生の時に「レコード芸術」で読んだように思う(記憶が若干曖昧だが)。現在のスコアだと「シ♭・ド・レ」が構成音なのだが、当初は「ソ・ラ・シ♭」だったのだという。では、なぜシューマンがそうしなかったのかといえば、当時使われていたホルンでやろうとするとクシャミのような音がするからだったということのようだ。興味深い話だったので大まかな話の流れは覚えている。確か、バーンスタインの録音に、着想バージョンがあったと書いていたように思う(あと他に主部で1箇所♭が♭♭(ダブルフラット)になっている場所が確かあったはず)。序奏の部分は、最初は変ロ長調なのだが、いきなりいろいろな調の和音を行ったり来たりするので、「あれ?」と思う動きになる。とはいえ、それもとてもさわやかな音楽だ。弦楽器が3連符で草のざわめきのような音を出し、それに木管のシンコペーションで生き物が動き出し、金管で光が差し、そしてアレグロの主部に入り、春がやってきたという感じ(いわゆる「春爛漫の...」という感じかな)。その後の第2主題に当たる部分は、主題とはちょっと言いにくい断片的な感じ。第1主題とこの第2主題によって展開部が後に来る。途中に出てくるトライアングルが何ともいい味を出しているように思う。その後、いきなり曲はゆっくりになって序奏の断片が登場し、その後でまた第1主題の世界へ戻る(「運命」第1楽章のオーボエソロの部分のような感じ)が、第2楽章のしっとりとして雰囲気を若干漂わせつつも、最後は快活に終わる。-------------------------第2楽章:変ホ長調のゆっくりとした音楽。夕日をバックにした菜の花畑のような始まり。シューマンの交響曲にあるゆっくりとした楽章には優しさを感じるが、その原点にあるものである気がする。途中チェロで主題が変ロ長調で演奏されると、第1楽章の主題との関連性が一気に浮かび上がってくる。やはり交響曲を作曲できる人はすごく頭がいいのだと、いつも通り感じてしまう。音符が細かくなってくると少し波風を感じたりはするが、あくまで読点を打つ場所は優しい雰囲気に戻る。主題が繰り返されるときに細かい音符で伴奏が付くところもちょっと「運命」っぽさ(第2楽章)がある。しかし、この楽章は「?」な感じを残して、なんと第3楽章にアタッカする(切れ目なく続く)。-------------------------第3楽章:ニ短調のワルツ風のスケルツォ。シューマンはこの楽章に当初「楽しい遊び仲間」というタイトルをつけていたが、確かにそういう雰囲気がある。トランペットが3連符を伴う「運命」のモチーフを吹いてフレーズを終わらせる方法はなかなか洒落ている。第1トリオはニ長調で2拍子に変わる。遊び仲間が女の子から男の子に変わったような感じだろうか。主題に一度戻った後第2トリオへ。こちらは変ロ長調でスピードもアップ、遊び仲間がさらにやんちゃになった感じ。再び主題に戻った後のコーダは遊びが終わって帰る前という感じだ。-------------------------第4楽章:あまり終止感がないまま第4楽章へ突入。弦楽器の急速な上行音型を伴ったファンファーレ風の開始。第1楽章とは違って「優美に」という指示があり、2拍子でありながら軽く跳ねている変ロ長調の面白い音楽。こちらも春色満載である。ファンファーレ風の音楽軽くと跳ねる音楽が基本にあって、それに違ったエピソードが挟まる感じになっている。途中、木管楽器が中心になって展開される音楽ではちょっと風が出てきたかなという感じで、それが静まるとホルンの呼びかけにフルートが応えるのだが、鳥の鳴き声を模したのだろうか。それが終わると共にまた軽く跳ねる音楽が再登場。しばらく続いた後で曲のテンションはどんどん上がっていく。この過程で出てくるトロンボーンが「やっと出番があってよかった」という感じ。最後は春の喜びを歌い上げるように終わる。-------------------------この曲は、演奏する機会がありそうでなかなか巡りあわない曲の一つ。木管楽器がとにかく重要な位置を占めていて、腕に覚えのある人が揃うと映えるのかなという感じがする。この季節になると聴きたくなる曲の一つである。
May 2, 2007
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何と読むのか?などというと謎な話だが、これは今日、子供たちと出かけたときに電車から見えた看板のこと。ふりがながふってあったが、それは「やもめ」と読むらしい。漢字っぽく書いてあるとかなり不思議な感じだ。さて、今日は風邪から復活後初のお出かけ。妻は家でゆっくり、私が子供たちを連れて電車に乗る旅へ。息子が電車のビデオで見た路面電車を見て行きたいと言ったので、京都の京福電鉄に乗るためにわざわざ行ったのだ。ただ、予想通りのスゴイ人だった。京福電車の始発駅である四条大宮まで向かうが、阪急の特急は通勤時にもあり得ないほどの寿司詰め状態。途中の高槻市から桂まで子供には酷だったが、少しだけ我慢してもらった。桂から普通に乗り換えていく。大宮駅には学生の頃に行ったことがあって、当時から某ハンバーガーチェーンが駅前にあることを記憶していたので、そこで昼食。横断歩道を渡って四条大宮駅に行くと、何と人が駅に入ることすらできない長蛇の列。恐るべし秋の京都!2両編成でゆっくり走る路面電車の駅、ここまでの混雑は予想できず...。1本行ってから、待って駅に入る。いよいよ電車がやってきた。子供たちと一緒に先頭車両に陣取る。路面電車なので、一般の車と一緒に道路の上を走るのだが、子供たちは大喜び。途中、太秦などの名所からどんどん人が乗ってくる。北野白梅町行きと接続している帷子ノ辻駅で、一気にまたもや満員電車に。そこから終点の嵐山まで大変だった。嵐山について改札を出ると、今度は道に人があふれかえっている。こんな嵐山界隈は見たことがなかったので目が点になってしまった。どこからこんなに人を集めたのかといいたくなるほどだった。阪急嵐山駅へと歩くが、渡月橋もここまでの人の多さでは情緒なし。阪急もスゴイ人だった。私は帰ったらへとへとだったが、子供たちは大喜びで元気だった。また電車の旅に連れて行くことになりそうだが、やっぱり11月に京都はやめておきたいと改めて思ったのだった...。
Nov 24, 2007
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前回、「新世界より」を取り上げたが、ドヴォルザークにとって傑作揃いの時期の作品について過去に書いたものをもう一度見てみようということで、今回はこれを取り上げることにした。-------------------------この曲は、大学時代、卒業した高校の文化祭で後輩たちが演奏していたのを聴いて一度で好きになった曲だ。この曲の作品番号は「新世界」「アメリカ」に続くもので、まさに傑作の宝庫と言える時代に属する。この弦楽五重奏曲は通常の弦楽四重奏にヴィオラをもう一本足したもので、編成としてはポピュラーな方だ。前の2作品と同様、インディアンの音楽、当時のアメリカの音楽、そして彼の故郷ボヘミアの音楽の要素を見事なまでにミックスして仕上げられている。第1楽章は明るい民謡風(これはおそらくアメリカのものだろう)の開始だがおとなしめ。だんだん盛り上がって、民謡舞曲の雰囲気になる。ここでもあっけらかんとした部分と少し陰を含んだ部分をうまく織り交ぜながらドヴォルザーク節が自由自在に展開されていく。五重奏らしい少し厚めの響きがある場所も聴きどころ。最後はおとなしくしめていくところが心憎い。第2楽章はインディアンの民謡っぽい感じ。最初の2小節で示されるリズムが主要な部分で常に鳴っているのだが、このリズムが特徴的である。この曲は変ホ長調(b3つ)が基本だが、この楽章はなんとロ長調(#5つ)。かなり関係としては離れている。変ホ長調は雄大さを表す場面でよく使われるが(ベートーヴェンの「英雄」「皇帝」、R.シュトラウスの「英雄の生涯」など)、逆の関係すなわちコンパクトというか素朴な感じ、そして軽い感じが出ている。途中短調になったところでのヴィオラの泣くようなメロディがたまらない。第3楽章は変イ短調(b7つ!)という珍しい調で書かれている変奏曲。旋律の最後の変イ長調の流れによって救われる気分になる。しっとりとした調子から激しい調子まで変幻自在に作られていて、さすがである。しかし、楽譜を見るたびに音とるの大変だなこりゃと思ってしまう。全部の元を半音下げてイ短調で書いてくれという人もいたりする(それは無茶だが)。第4楽章は跳ねるようなメロディーとしっとりとしたメロディが交互に出てくる楽しい曲。これを初めて聴いたときからこの曲が大好きになった。一度はやってみたいと思い、楽器5種類分の楽譜を買うのがしんどかった中、スコアを買ってすべて写譜して大学オケの仲間に一緒に演奏を頼んでやってもらったのがいい思い出だ。-------------------------この曲は体がしんどいときにでもすんなり聴くことができる。さっぱりしているが味もちゃんとある中華粥のような味わいがすると感じる。今日聴いた演奏は、アンナー・ビルスマなどがいるラルキブデッリという弦楽アンサンブルによるもの。何でも、この団体はガット弦を使って演奏しているのが特徴であるらしく、なるほど音は他の演奏よりもまろやかにきこえる。また、奏法もヴィブラートを極力抑えた感じ(これっていわゆる「ピリオド奏法」に近いものかな?)。しかし、それが味気ないものにならないのがすごい。弓のコントロールがきっと絶妙なのだろう。それに自信がなければあんなにヴィブラートがないのに味のある演奏はできないだろう。もちろん、現代的な響きが魅力的に感じることもあるので、いつもそれがいいという評価にはならないところが、音楽の面白いところでもある。この曲、「新世界より」「アメリカ」と続けて聴いてみると、いい感じかもしれない。この後に、ヴァイオリンとピアノのためのソナチネや、チェロ協奏曲といった曲が続いていく。
Jan 8, 2007
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この曲は1881年に初演されたもので、サン=サーンスにとっては、すでにしっかりとしたスタイルができている頃の作品である。初演でソロを弾いたのは「ツィゴイネルワイゼン」で有名なサラサーテである。しかしながら、技巧に走る作品ではなく、むしろその美しさはメンデルスゾーンからのつながりを感じさせるようにも思う。-------------------------第1楽章:ティンパニのロールと弦楽器のキザミでもやっとした世界から決然とソロ・ヴァイオリンによる第1主題がいきなり登場する。サン=サーンスはフランスの人だが、この音楽はそういったイメージというよりは、地中海沿岸のアフリカ、あるいはアラビアかという感じがする(「バッカナール」や「エジプト風」などの曲があるからというわけではないだろうが)。月夜に照らされた夜の砂漠といった雰囲気が似合うような気がする。ソロ・ヴァイオリンの旋律は砂漠を吹く風という感じがする。ロ短調といえば、共通する雰囲気を持っているのは、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の第2曲かなと思う。そこからコテコテのアラビア色を少し抜くと、こういう味になるのかなと思ったりする。第2主題はゆったりとした雰囲気。ホ長調で美しく歌い上げる。ドイツ音楽のようなかっちりとした運びではなく、音の動きもフワフワ感があって面白い。しかし、ここが終わるとまたスピード感のある第1主題が戻ってきて、展開部という感じになる。この部分はとても短く、またすぐに第2主題がロ長調で登場。こちらはセピア色の輝きを持っていて、これまた美しい。コーダに当たる部分はソロ・ヴァイオリンが忙しく動き回る。完全なカデンツァが存在しないのもこの曲の一つの特徴になっている。最後はオケとともに決然とした感じでしっかり決めて終わる。-------------------------第2楽章:両端の楽章に挟まれる楽章が遠い関係にある調で書かれているのは珍しい。変ロ長調という明るい色合いを持つ調性で書かれているので、雰囲気の変わり方がかなりはっきりしている。冒頭はさわやかな朝の光を見るよう、とても幸せな雰囲気である。フレーズの終わりにあるフルートで演奏される少し遊ぶようなアルペジオがとても洒落た感じでよい。中間部はヘ長調に転調してさらに輝きを増す感じ。ソロが朗々と歌っている裏で伴奏の形が凸凹しているところは、また味わいがある。しばらくすると楽器の組み合わせを変えた冒頭主題が戻ってきてさらにコーダへ。ここでは、ソロ・ヴァイオリンがフラジオレット(ハーモニクス)で木管楽器と一緒にアルペジオを演奏するというアイデアが面白い。朝にきこえる鳥の鳴き声という感じだろうか。とにかく、とことんさわやかな音楽である。-------------------------第3楽章:いきなりソロ・ヴァイオリンがホ短調で激しく入ってきて、オーケストラがそれに渦を巻くように答える。また風の吹く砂漠に戻ってきたという感じがする。しばらくしてようやく主調であるロ短調に戻ってきて、飛び跳ねるような主要主題がスタートする。その後、しばらく技巧的に派手な部分を通り過ぎ、ニ長調のカッコイイ旋律を歌い込み、やがて静かな部分へ。この部分はト長調、静かに夢を見るようである。そこが終わると冒頭の雰囲気に戻り、さらに飛び跳ねるような主題を含めたいくつかのエピソードを見せて、輝かしいロ長調のコーダへ突入していく。このコーダの金管楽器がとてもいい味を出している(ほとんど派手に出てこないので、さらに印象が強い)。さらに曲は最後に向かってテンポアップ、オーケストラによって輝かしい雰囲気がさらに演出され、かっこよく終了する。-------------------------この曲は一度だけオーケストラで弾いたことがある。大学オケの手伝いに行ったときで、たまたま予定がうまく合って、合宿に参加できたときである。場所は富士山の見える場所だったが、晴れた朝に、宿舎の外に出て富士山の背後から太陽の光が差してくるのを見たときに、この曲の第2楽章が頭の中を流れた。演奏するまでは、正直行ってこの曲をほとんど知らなかったのだが、こういうエピソードもあって一気にお気に入り曲になった。まさに演奏することによってだんだん好きになっていった感じである。どうもこういう経験がたくさんあるというのは、食わず嫌いでよくないのかなと思ったりもするが、後からおいしさがわかるのも幸せだなとも思ったりして、複雑だったりする。
May 12, 2008
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「のだめとおじさんの曲」、我が家の子供たちはこの曲のことをそう呼んでいる。「のだめ」というのはテレビ版「のだめカンタービレ」の最後にかかっていた曲だからということ。妻が昨年末の再放送で見まくっていたため、子供たちの頭の中に「=のだめ」とインプットされたらしい。「おじさん」というのは「ファンタジア2000」の中でこの曲をバックにしたアニメのことである。このアニメはニューヨークの人々を描いたもので、「いろいろと面白くないことがあっても楽しいことだってある」ということを日常にありそうなエピソードを面白おかしくつなげたものである。この曲に合わせたアニメの構成はなかなか見事である。この曲が作曲されたのは1924年、彼が26歳の時である。ガーシュウィンはこの曲を作る前に、すでにソングライターとして脚光を浴びていた。しかし、その範囲にとどまらず、シンフォニック・ジャズという領域へと踏み出していった。とはいえ、当時のガーシュウィンはオーケストレーションに通じていなかったため、最初はバンドとピアノのために作曲され、それを「グランド・キャニオン」で有名なグローフェが編曲した。-------------------------曲はクラリネットのグリッサンドで始まる。グリッサンドが駆け上がった後の旋律が、いわゆる主題であり、その後何度も出てくる。つづきをしばらくきいていると、金管楽器で演奏される背景になる和音が独特の雰囲気を醸し出している。ニューヨークに行ったことはないが、写真で見るニューヨークの風景のバックはやっぱりこの音楽だと思えてしまうのは不思議なものだ。曲の構造はいくつかのわかりやすい旋律の間にピアノの技巧的なソロが挟まっているというもので、比較的シンプルなものである。ガーシュウィンは当時人気のソングライターだっただけあって、どの旋律も魅力的だと思う。個人的に大好きなのは真ん中より少し後にある、ホ長調で書かれている部分(CMとかでよく使われる場所)。特に、最初にしっとり出てきて、2回目に盛り上がる前のヴァイオリン・ソロの部分(とても短い)がいつもくすぐられる感じでいいなと思う。-------------------------この曲は1度だけ演奏する機会があった。演奏していても楽しい曲で、ピアノはもちろんのことだが、特にクラリネットとトランペットがうまい人だと楽しさは倍増する。ジャズに独特の節の回し方ができる人だときき惚れてしまう。さらに、ミュートをつけたトランペットで「ホワ~ン(吉本新喜劇のテーマに出てくるみたいな音)」「ボワボワ~~ン(加藤茶のちょっとだけよに出てくるみたいな音)」というのをうまくやられると弾きながら思わず笑ってしまう。この曲を最初に子供にきかせるときには「ファンタジア2000」を見せるといいかもしれない。他にも面白い映像がたくさんある。音楽に対しての接し方としては、音を純粋に楽しむべきだという向きからすれば邪道なのかもしれないが、入口としてはいいように思う。この曲が用いられた部分のアニメはとてもよくできている。ニューヨークの喧噪、人々の心の移ろい、そして一瞬ガーシュウィン本人が出てくるというマニアックな小ネタ、大人でも楽しめる感じ。「ファンタジア2000」を何度か見せた後、カットなし17~18分の全曲CDを子供たちは楽しんできくようになった。
Mar 29, 2008
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20世紀の音楽作品の中にも美しいものはたくさんある。濃い美しさを持っているラフマニノフ、さわやかな美しさを感じさせるシベリウスなどいろいろあるが、この曲ではそれとはまた違った美しい世界を感じる。暗闇の中に青い光を放っているようなイメージを私は持っている。シェーンベルクは十二音技法(われわれがよく耳にする音楽には機能和声といってコードに役割があるのだが、こちらはオクターブにあるすべての音を対等に扱う音楽で、聴き心地がいいとはあまり言えないかなと私は思う)を始めた作曲家として有名だが、この作品はそれを確立する前のもので、聴きやすい。「腐りかけの肉が美味しい」というのと同じような感じと言えばわかりやすいだろうか...。-------------------------この曲のタイトルは、デーメルという詩人による詩と同じである。その詩の内容はだいたいこんな感じだ。「枯れて冷たい林の中を二人の男女が歩いていく。月も二人の上を一緒に歩いている。女は男に他の男の子供を身ごもっていることを告白し、母親になることにあこがれていたのだという。おぼつかない足取りで歩きながら女は月を見上げる。男は、世界はなんと明るく輝いていることか。あなたは私のために、私たちの子供として生むでしょうと答える。あなたは私に輝きをもたらし、私を子供にしてしまったのだと言い、キスをする。二人は浄められた明るい夜を歩いていく」(音楽之友社「名曲ガイドシリーズ」を参考とし、一部変更)-------------------------全曲の演奏時間は30分ほどだが、大きく2つの部分に分かれる。ちょうど中程で明るい曲調に変わるのだが、おそらく、それが男が女を許す場面なのではないかと思う。初演は1902年、もともとは弦楽六重奏曲として書かれたが、後にコントラバスを加えた弦楽合奏版もつくられている。「冷たい林の中を歩く」冒頭は、チェロとヴィオラの2番がレの音でリズムを刻んでいる。音には長めに弾く指示があり、重い足取りであることを示している。そこにチェロとヴィオラの1番が旋律を始める。ニ短調というのは何となく寒いイメージがある(シベリウスのヴァイオリン協奏曲で使われるニ短調と雰囲気が似ている)。その後、音楽は暗く激しさを増す。このあたりは「女の告白と心の動揺」を示しているように思う。そして、時折静かに繊細に旋律が流れる場所は「月が二人を照らしている」のだろう。このあたりの音の処理はすごいものを感じる。和音というよりも、いろいろな旋律が絡み合いながらその瞬間にできあがる色合いがすごく繊細なのだ。これが世紀末風の音楽だろうし、マーラーの世界に共通するように思う。同じ題材でもブラームスやチャイコフスキーなら違う旋律を書いただろうし、モーツァルトはそんな題材に目を付けることすらないのではないだろうかと思う。何度もゆっくりになったり早くなったりという状態を繰り返すのは、「おぼつかない足取り」を表しているのだろうか。しばらく続いた後で、突然ホ長調の世界に入る。急にさわやかに、そして優しく甘い音楽になる。このあたりは「見上げた月が美しかった」ことを表しているように思う。しかし、その世界もグロテスクな和音とともに崩れ去り、不安定な世界へ。時にはちょっと触ると壊れそうな繊細な音だったり、固まりで重くのしかかってくるような音だったりするこのあたりは「男の心の動揺」なのだろうか。このあたりは次の音が予測できない展開になっているので、かなり演奏が難しい。このような音の進行を考える頭の中はいったいどうなっているのか見てみたいほどだ。この曲の中では次に旋律の頂点だと思われる場所に来るとことごとく「すぐに弱くする」という指定がある。到達できたと思ったら突然その場所が姿を消してしまうのだ。ある指揮者は「ベートーヴェンが始めたエッチな表現」だと言っていた。なるほど、確かに...。不安定ゾーンを抜けていこうとする場所は、繊細な和音のオンパレード。ここのパート間の受け継ぎは、「こんな私でも許してくれるかな?」と女が不安な気持ちで男に言っているようだ。ここは変ホ短調というあまり使われない調が使われている。次の場面との対比を考えて慎重に選ばれたのだろう。そしてニ長調の和音が長くのばされる。これで「女は男に許された」のだと思う。至福の時、すべてが円満になったことを示す。この移り変わりは最高に美しい。音符はとても簡単なのだが、すべての音が活きている。同じ音でも文脈によってここまで違う印象になるのかと思う。音楽って不思議だ。その後のチェロによる旋律とそれに絡んでくる和音は本当に美しい。いろいろな調を行ったり来たりするのだが、どれも幸せに満ちている。男はきっと女のことを心から愛しているのだろう。その後にくるヴァイオリンの旋律(嬰ヘ長調)は夢の中にいるよう。伴奏の波打つような音は「夜の林の中で木々の葉や草がこすれ合う」音のようだ。その次に出てくる変ニ長調の世界(この切り替わりは聴いていてもすぐにわかる)は、「月が優しく二人を照らしている」ように思う(ちなみにドビュッシーの「月の光」もこの和音が使われているのだが関係はあるのだろうか?)。その世界からまた激しく不安定な和音を通って、最後は至福の時を表すニ長調に戻ってきて、幸せな世界となる。二人の中に共有された「明るい夜」の世界をゆっくり時間をかけて終わっていく。冒頭の暗い旋律がここで長調で書かれているのが印象的。ここで本当に「浄められた夜」になったのだろう。最後に書かれている2ndVnのアルペジオが美しい。-------------------------この音楽にはまだ調性の要素が残っているのだが、一部崩壊している場所もあったりで、その危うい感じの美しさがたまらない。一生のうちに一度でいいから演奏してみたい曲だが、何しろ演奏がかなり難しい。一度だけ仲間内で試しにやってみたことがあるが、やっぱり無謀だった。その後は誰に頼んでも断られている。まずは人探しからか?シェーンベルクと聞いただけで逃げる人が何しろ多いもので...。でも、この音楽が求める世界に一度でいいから近づいてみたい。
Jul 6, 2007
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最近、墨汁の臭い(匂い、どっちで表現すべき?)がするなあとか、飲んだこともないのに墨汁の味がするという話で盛り上がっている。墨汁の臭いというのは、先日子供たちと公園に行ったときのこと、公園の池の周りを走っているときに、ふとその臭いがした。その池には、鯉も亀も棲んでいるので、それでいえば水自体がひどく汚いというわけではないのだろうが、何とも言えない臭いに、「これって何だったかな?」と思いながら走っていると、思い出した。「そう、墨汁だ!」墨汁の味といえば、これは同僚の研究室でランチをしていた時のこと。新しいコーヒー豆を試すことになり、入れて飲ませてもらったのだが、揃って味に「???」という顔。「この豆ってこんな味がするのかなあ」などと話していたら、「墨汁の味やなあ」という話に。誰も飲んだことがないはずなのに、みんな揃って「そう、それ!」。そう言えば、血も鉄分の味などという。鉄を舐めたことなどないはずなのに、成分からいえば確かに納得なのだが。その後、あきらめきれないメンバーは、また夕方に集まってもう一度コーヒーを入れてみる。飲んでみると、普通のコーヒーの味。この結果にまたも「???」となってしまった。いろいろと原因を追究してしまうのはほとんど職業病の世界なのかもしれないが、結論は「コーヒーメーカーを洗ったときの洗剤の残り」の味ということに。とかいいながら、真相は未だにもってわからないままである。
Jun 19, 2007
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とは、明石家さんま氏が大物になるずーっと昔、某ガス会社のCMに出ていた頃に出していた歌の一節。実はこのCM、今でもよく覚えている。当時の明石家さんまは形態模写タレントで、CMでものまねの定番にしていたのが昨日亡くなった小林繁氏だ。このCMでも明らかにそれだった。投げた指先から暖かい空気の線が流れるファンヒータのコマーシャルだっただろうか。このCMは昭和54年あたり、ということは小林氏が阪神に移籍した年ということになる。この年、いわゆる江川事件(空白の一日)というのがあって、小林氏は阪神へ。当時、子供だった私は巨人に対して「何ていうことをする球団なのか」と怒りまくって、小林氏が投げる試合、サンテレビの中継を見ながら応援したものだ。この年22勝、そのうち巨人から8勝。カッコよすぎる。しびれた。しかし、そんな小林氏も最後は2ケタ勝利をあげながら突然の引退。どうも阪神球団が今度はひどいことを言ったのでキレたからだと氏は後に語っていたそうだ。まったくプロ野球ってねえ...。「小林のモノマネ」は当時みんなやっていた。もちろん、私もその一人だったが、マネをしてストライクが入った人は誰もいなかった。独特のフォームで体の全体をしならせように投げるのだが、腕がついてこないか、早く出過ぎるかで、まともにコントロールできないし、そっちに意識が行けばスピードはがた落ち。いかにすごかったかがわかる。江川氏とはその後日本酒のCMで対談することになったのだが、この特集をテレビ番組で見た。「お互いに大変だった」といったことを話していたが、なんとオトナな...。カッコイイというイメージが当時は先行していたが、実際にはとても気が強く、それでもどこか優しいところもあって、という意味で本当にカッコイイじゃないか。頼れるエースは逝ってしまった。しかし、小林氏の姿は自分の子供の頃の思い出と共に一生残ると思う。早すぎる死が、残念でならない。ご冥福を祈ります。
Jan 18, 2010
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かれこれ20数年、アマオケでヴァイオリンを弾き続けて、いろいろな曲を経験すると、「いつかはやってみたい」という曲がどんどんできてくる。そして、その思いが後に実現するということもあった。そしていつしか、やってみたい曲はどんどんマニアックなものになりつつあったりする。この曲は現在一番やってみたいと強く思う曲の一つだ。とはいえ、それはステージを進んでいってみたいという感覚ではなく、本当に好きだからやってみたいものだ。エルガーは「威風堂々」で知られるイギリスの作曲家。実家は楽器商で、音楽にまつわるものはたくさんあったらしく、スコアを片っ端から読みまくって、作曲を勉強したそうだ。しかし、先日このページに書いたシャブリエと同様、親の反対もあってそれだけで生計を立てることは許されなかった。しかし、それでも作曲は続けて、ヒット作が出たのをきっかけに、プロとしてデビュー。その時に彼を支えたのがアリス夫人であり、結婚の際に「愛の挨拶」を贈ったというのは有名な話だ。この曲は「威風堂々」ですでにブレイクした後、満を持して作曲され、1908年に初演された。地元イギリスでは大反響を呼び、初演から1年で100回も演奏されたそうだ。「おらが国」に世界的な作曲家が出たことはやはり喜ばれたのだろう。ちなみに、以前イギリスから来た留学生が「クラシックに別に興味があるわけじゃないけどエルガーはよく知っている」と言っていた。初演したリヒターは特に緩徐楽章をベートーヴェンのそれに匹敵すると評価し、またブラームスの第5交響曲だと評する人もいた。そこまで言っていいんだかどうかというのは、それらの作曲家の曲をしっかり勉強しないと言えないことなのだとは思うが、とてもいい曲だというのは、確かに思う。-------------------------第1楽章:冒頭の主題は、全曲中に何度も出てくるのだが、とにかく印象的。イギリス紳士が高貴な感じで歩いてくるというイメージ(ちなみに、スコアには「高貴に、かつ素朴に」という指示が書いてある)。調性は変イ長調、とても優しい感じである。初めてこの曲を聴いた時、この旋律が耳から離れなかったことをよく覚えている。冒頭の主題が一通り終わると、今度はいきなりニ短調に転調し、目まぐるしい展開に変わる。冒頭の主題の印象があまりに強すぎるので、最初はあまりよくわからないなと思ったが、何度か聴いていくと、その渋い雰囲気にはまってくる。実際には冒頭の主題がいろいろと形を変えて埋め込まれている、凝ったつくりになっている。途中、金管楽器がバリバリ鳴っている場所の音の進行は、少し後に書かれたヴァイオリン協奏曲と雰囲気が似ているところがある。しばらく紆余曲折を経た後、変イ長調の和音が戻ってくるところは、ちょっとした感動ポイント。しかし、冒頭主題が戻ってくるのかと思いきや、ますます激しい展開になっていき、金管の咆え具合も大きくなっていく。最後は再び変イ長調に戻り、静かに終わる。-------------------------第2楽章:スケルツォとは書かれていないが、それに当たる楽章。嬰ヘ短調で何ともせわしない感じでスタートする。スコアを見て驚いたのが、この楽章は2分の1拍子だということ。ほとんど見たことがない表示。なぜ4分の2ではなく2分の1とわざわざ書いたのかというのは興味深いところだ。また、2部のヴァイオリンが交替で演奏する部分もおそらく対向配置でやったら面白いかも。途中、簡素な中間部には変ロ長調の爽やかな場所があり、ヴァイオリンのソロなども活躍する。小さな川の近くの風景を見ている雰囲気だ。そして、再びせわしない感じが戻ってきて、それがだんだん緩やかになっていき、アタッカで第3楽章へと続いていく。-------------------------第3楽章:初めてCDを買って聴いた時に、しばらくこの楽章を何度も聴いたほどはまった楽章。響きが優しく温かい、こんな曲があったんだと感動した。ゆっくりとニ長調で始まる旋律は、実は第2楽章のせわしない旋律と同じだったりするのが面白いところ。また、CDを聴いているだけでは気づかないのだが、旋律はシンコペーションで書かれているため、不思議な揺らぎが生まれている。その後、ちょっとしたエピソードを挟んで、ヴィオラとチェロでイ長調の旋律が朗々と歌われる(ちょっとラフマニノフの交響曲第2番第3楽章を連想するところがある)。ここは夕日の輝きを想像してしまう。その後、また先ほどのエピソードを挟んで少し陰のある盛り上がり方をするが、再び優しいニ長調とイ長調の旋律が続けて戻ってくるところが感動ポイント。そして、最後はもっと穏やかに歌って遠ざかるように終わっていく。-------------------------第4楽章: 前の楽章から一転、暗い雰囲気でスタートする。ニ短調で現れる主題はこの楽章の中で何度か出てくる。冒頭主題もすぐに登場するが、こちらも暗みを帯びている(その後一瞬だけ変イ長調で姿を見せるのが印象的)。しばらくするとヴァイオリンの急速なパッセージを合図に激しい音楽が始まる。こちらはとにかくどんどん推進力を持って突き進んでいくのが基本型。途中ゆっくりとしたエピソードが挟まれるが、こちらはハープによる装飾があり、何とも切ない雰囲気がする。そして、この楽章の主題を合図に最後の部分へ突入。だんだん変イ長調へと和音が近づき、ついに冒頭主題がやってくる。今度はいろいろな楽器で装飾されてさらに堂々とした雰囲気。最後はスピードを増していき、華やかに終わる。この最後の部分も最初ここだけ何度も聴き直したことを覚えている。-------------------------この曲、今でこそ日本語版があるのだが、初めて聴いてからいつか演奏したいと思って、早い段階で高い洋書版のスコアをわざわざ買って持っていた。もちろん、スコアを見ながら聴いてみるといろいろな発見がある。例えば、「一番後ろのプルトだけ弾く」という指示がある場所が数カ所ある。これを本当にやったらどんな響きがするのだろうと思う。本当に響かせたポイントではsonore(歌って)とたくさん書いてあるのも特徴。また、とにかく書き方が細かいために、交通整理は大変そう。ごちゃごちゃした感じとか、とりとめがない感じなどもちょっとあるのだが、それも一つの味だと言えるのかもしれない。そういうところも含めて、まぎれもなくエルガーの曲だと感じることができる。この曲を聴くと思うのは、涼しさを感じる部分と包み込むような温かさがうまくミックスされているということ。演奏はけっこう難しそうだし、いかにもわかりやすそうな作品かと言われれば、それで貫徹されているわけではないので難しいところだが、難解というわけでもない。もっと演奏されてもいい曲だなと思っているが、果たして自分で演奏できる日は、いつやってくるのだろうか。
Mar 10, 2010
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この曲は、リヒャルト・シュトラウスがこの分野において最初に成功した作品であり、その時彼は20歳代前半だった。若くしてここまですごい曲を書くとは、そして何とも鮮烈な出世作なのか、という感じである(もっとも、初演の評価は二分されたとか)。ドン・ファンといえば、プレイボーイの代名詞として語られる伝説上の人物である。ドン・ファンとは、情熱的で女性の間をスマートに渡り歩く調子のいい人物だとか、狡猾な面がある人物だとか、そういった描かれ方が多くあったといわれるが、リヒャルト・シュトラウスがインスピレーションを得たのは、レーナウの叙事詩であり、そこではむしろ理想の女性を追い求めながらも、ずっと出会えず、満たされず、最後は死んでしまうという内容になっている。-------------------------曲はインパクト十分の序奏でスタート(N響アワーのオープニングで使われていた)。女性を表す動機や、ドン・ファンが理想の女性を追い求めるための冒険のような気持ちを表す動機が登場する。実際に演奏するときに使うパート譜の1ページ目がその場面なのだが、演奏はきわめて難しい。プロのオーケストラのオーディションで課題曲になるほどである。これを実際にオーディションをめざす人の演奏で聴いたことがあるのだが、何ともすごい。難しい音程も、こんなの弾けるわけがないと思えるような重音でもさらりと弾いている。おそるべしプロ...。ドン・ファンの様子が描かれた後は、一人目の女性に会うシーン。その最初に出てくるヴァイオリン・ソロからしてすでに雰囲気が出ている。その後は二重唱のような展開で二人の甘い世界が広がり(ロ長調という調性もそのために選ばれているように思う)、それが転調を重ねながらどこへいくのかわからない(終わりが見えない)無限旋律の形で続いて盛り上がっていくが、頂点でいきなり短調に変化する。金管楽器の強烈な3連符は「やっぱり違う!!」とでもいっているような感じ。思いは一気に覚めてしまったということか。あきらめたドン・ファンは気を取り直し、また冒険に出て行くが、今度は少し考えるところがあるのか、冒頭よりも不安定な転調を繰り返す。そして二人目の女性をつかまえようとするが、女性が迷う姿がシンコペーションで表されている。しかし、それも最後は結局一緒に過ごすことになるような感じになる。こちらはト長調を基調とした癒し系の世界でスタートするが、また盛り上がっていき、ロ長調や変イ長調、イ長調、変ホ長調というように、いろいろな調性が間に挟まることで女性のいろいろな側面が映し出されているようにも見える。ところが、そこから突然ドン・ファンが大きな姿でホルンで表されて登場する。この部分は「これも違う!」といっていると解釈する向きもあれば、ドン・ファンの堂々とした姿だと解釈する向きもある。後半のクライマックスでもう一度登場することを考えれば後者なのかなと思うのだが、実際は何ともわからない。その後いきなり軽やかな場面へと進むが、ここは仮面舞踏会の様子だそうだ。ただし、ここも急速に短調へと音楽は展開、ドン・ファンの冒険を表す動機も短調になっていて、不吉な運命を暗示するかのようだ。そしてその動機はヴァイオリンの「キーッ!!」という音と、強烈な不協和音とともに崩れ落ちていく。その後の静かな部分はドン・ファンの見た寝覚めの悪そうな夢という感じ。それでもドン・ファンは、冒険を続けようと立ち上がっていく。冒頭を短縮した形で再現し、それから何とかもっと高みへ上がろうとするのを示すかのように長く展開していき、頂点でドン・ファンの大きな姿が堂々とホ長調で現れる。ここは輝かしいクライマックス、とてもカッコイイ場所である。この部分もやはり無限旋律的な展開を見せ、いろいろな調を行ったり来たり、そしてその結末は拳を突き上げたまま止まってしまうかのように、音がバッサリと断ち切られる。長い全休止の後は、暗い短調の世界。今までの10何分は一体何だったのかというほどの暗さ。ドン・ファンは燃え尽きてしまったのだろう。ここは完全に死の世界を示す音楽、深いところへと沈んでいくようだ。そして最後はあっけなく終わってしまう。-------------------------この曲は現在市民オケで練習しているのだが、練習後の飲み会で「この曲が官能的だと思うか?」という話になったことがある。そう思うと答えるのは男性で、そうかなあ?と答えるのは女性が多かった(ちなみに、妻は「何だか偉そうにきこえるからリヒャルト・シュトラウスは嫌い!」と言っている)。なぜだろうという話になって結局は「作曲家が男性だから、そうなるんじゃないのか」という話に。それは本当にそうなのか、そうだとしたらなぜそうなのだろうかという疑問が新たに出てくる。それはともかくとして、この曲は本当に演奏するのが難しい。特に弦楽器は難しい動き(分散和音だったり音階だったり)を目まぐるしい転調の中でやらなければならないのがとてもやっかいである。それで、「リヒャルト・シュトラウスはいったい何を考えているのか」などと逆ギレモードになってしまいかねないところだが、この時代になると、そうでもしないと新しいネタとして認められないからなのだろうと思う。まったく新しい体系をつくるか、従来からあるものをとことん展開していくかの選択になるのだろうと思う。しかし、そうはいっても、この作品は和音もそんなにひねくれていないし、展開も非常にわかりやすい。ただ、技術的な難しさが半端ではないのでやりにくいのだ。やはりここは、全体をわかった上でさらっていく両面作戦が必要になってくるように思う。ところで、クライマックスの部分から最後までを聴いていると、まるで二日酔いになったときのようだと思ってしまう。宴会で最高潮に盛り上がって気分よく眠り、目が開いたら体が重くどよーんとした感じ、しかも頭がガーン(これはトランペットがアクセント付きで演奏する場所)、ヴァイオリンとヴィオラのトリルが何ともゲロゲロとした気分。そして最後の3つの音で「立てなくなりました...」という感じ。これを隣で弾いている人に話すと「思い出して弾けなくなるじゃないですか~!」とまた言われてしまった。もちろん、ドン・ファンの話にはまったく関係のない筋書きなのだが、ついつい身近な話に置きかえて思いついてしまう。作品そのものはとても好きだし、正式なストーリーもわかっての話なので、冒涜しているわけではないことは付言しておきたい。
Sep 1, 2008
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この曲は、ゲーテの戯曲「エグモント」のために書かれた劇付随音楽の序曲である。エグモントは実在したオランダの英雄とされた人物である。物語は、スペインの圧政に苦しむ16世紀のオランダが舞台。民衆たちを救おうと独立運動の指導者としてエグモントは登場するが、捕らえられて死刑を宣告されてしまう。彼の愛人クレートヒェンは彼を救おうとするも、できずに自殺してしまう。エグモントが処刑される直前、クレートヒェンの幻影が彼の前に現れ、彼の勇気や正義を祝福し、彼は敢然と死についていく。ベートーヴェンは、「英雄」でナポレオンをモデルに描いたが、その後のナポレオンの行動に怒りまくったという話は有名だが、ベートーヴェンはこの題材に理想の「英雄」像を描こうとしたのかなという気もする。彼にとっては「苦難に立ち向かう悲劇のヒーロー」こそ描きたいものだったように思う。この序曲は、ずっと悲劇の要素が流れ続けて、最後に「勝利への祝福」がドラマチックに登場するという、物語の筋を凝縮したようなつくりになっているように思う。-------------------------冒頭は全員で「ファ」の音をデクレッシェンドしてのばす。音が無くなったところで、弦楽器による重厚な動機が登場する(以前、この曲の練習でトランペットが失敗して「ぷははは...」という音になり、笑いが止まらず弦楽器がみんな弾けなくなったことがある)。序奏の部分では、表に裏にこの動機が使われている。すぐその後で木管楽器が小さい音で登場、それが盛り上がって今度は全員フォルティシモで「ファ」の音を決然とのばす。この2回の「ファ」の対比は「?」と「!」という感じである。その直後、変ニ長調の優しい響きになるが、それも長続きせずだんだんとヘ短調を匂わせる響きへと落ち着いていき、一瞬の空白の後弧を描くような動機(これは主題の一部)がヘミオラ(この曲は3拍子だが、この部分は知らずに聴けば2拍子にきこえる)で登場、そこから主題が続けて登場する(この主題は3拍目から始まるのだが、知らなければちゃんと弾けない。また、動機を何回繰り返したのかわからなくなって字余りや字足らずの人が初期の練習では続出する)。主題の後にピアノから息の長いクレッシェンドがあるのだが、そこでは「運命」の動機が使われている。やはりベートーヴェンはこの動機を劇的に盛り上げるための勝負所で使っているということなのだろうか。盛り上がった後、曲は変イ長調になり、堂々とした音楽になる。エグモントが快進撃を続けているという感じなのだろうか。木管楽器で少し遠い調の響きが表れるのだが、それが愛人を表しているのかなと思ったりもする。その後、小さい音を中心にしばらく音楽は展開されるが、弦楽器がひたすら刻んでいるところはやはりベートーヴェンらしい。その上で木管楽器が少しのんびりした調子で流れるが、いきなりそれを裂くようなリズムがときどき登場する。これは序奏で出てきた要素が使われている。木管楽器の旋律が短調にころっと変わると、またヘ短調の主題が戻ってくる。しばらくは繰り返しだが、出口はいきなり変ニ長調に変わって、また先ほどの堂々とした音楽が繰り広げられる。そして、ホルンが序奏の動機を合図に場面が変わり、弦楽器が「ド~ソッ!」と切り裂くような音を出して一瞬音楽が止まる。これはどちらかが死んでしまったことをイメージさせる。その後、木管楽器の夜明けの霧を表すような音に続いて、ヘ長調の前向きな音楽。弦楽器が急速な旋律を弾き(もちろん刻みもやっている)、それが成長したところで金管楽器やティンパニも登場し、勝利を表す音楽になる。ここから先は最後までとにかく「勝利への祝福」という一言に凝縮される音楽となる。-------------------------この曲も5,6回は演奏していると思う。スコアはきわめてシンプルに書かれているのだが、そこからあれだけのドラマが出てくるというのはすごい。ただ、やはりそれをちゃんとやろうと思うと、演奏家の助けが非常に大事だなと痛感するのがこの曲。シンプルなだけに、適当にやるとかなりショボい(貧弱な)音になってしまう。それを表現するだけの確かなウデにプラス、身を削るようなテンションの高さが必要である。この両者が揃わないと、ただの汚い音になってしまうか、エグモントが「まろは...で、おじゃる」みたいになってしまう。長くアマチュアオケをやっていると、曲によってお約束の失敗エピソードが出てくるのだが、この曲はその宝庫であるように思う。と、それはさておき、この曲も何度やっても難しいなと思う。自分自身が経験を積めば積むほど毎回いろいろなことに気づかされる。前にはわからなかったことが突然わかったりということもしばしばである。ベートーヴェンの曲はやはり深い...。
May 30, 2007
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シューマンの交響曲は全部で4曲あるが、この第4番とされる交響曲、実は第1番の直後に書かれており、本来ならば第2番になるはずだった。ところが、初演はされたものの、あまり注目されずに出版には至らなかった。この当時の「初稿」が出版されたのはもっと後のことである。シューマンがこの初稿に改訂の手を加えたのは、第3番「ライン」の作曲後のことである。この改訂版が初演後出版されることになったので、番号は第4番となったわけである。この曲は作曲時期を反映してのことだろう、使われているリズムの運び具合などは第1番に似ている感じがする。さらに初稿を聴いてみると、楽器の使い方や重ね方の具合もやはり第1番に近い。しかし、やはり改訂が加えられたもの(実際にはそれの方がよく知られているのだが)は、全体の統一性を考えているように思う。--------------第1楽章:最初はニ短調の暗い序奏。時折薄曇りになるが基本的には曇っているという感じの印象。その後スピードを速めて主部へとなだれ込む(ちなみに、初稿はなだれ込み状態になるまでの時間がかなり短い)。主部の流れは心地よいものがある。ミ♭のユニゾンをきっかけとする展開部では、短いサイクルで繰り返される転調やエピソードの転換が印象的。このあたりがシューマンの魅力であろう。最後の方ではニ長調の世界が短い時間でどんどん現れてくるのが印象的。初稿は管楽器も含めてオーケストレーションがかなり薄いのだが、改訂版ではかなり弦楽器の刻みが増やされており(第3番は刻みが多用されている)、響きは分厚いものになっている。また、改訂稿には細かい謎がある。初稿は冒頭が1拍目から始まっているのだが、改訂稿は3拍目(アウフタクト)から始まっている。最初の音が1拍分のばされているのはなぜだろう?。また、主部も4分の2拍子だったものが4分の4拍子になっている。安定感を増すことにつながるとか?スコアを見比べると面白い。--------------第2楽章:イ短調のロマンツェ。古い時代を思わせる素朴な歌である。オーボエとチェロのソロを重ねるというのがすごいアイデアだなと思う。伴奏は弦楽器のピチカートが基本で、ギターと歌に近い感じを目指したのかなとも思ったりする。途中、第1楽章の序奏のメロディや第3楽章と中間部と共用されているメロディ(ヴァイオリン・ソロで演奏される)があり、有機的なつくりを目指していることがわかる。中間部のニ長調の部分がとても穏やかでいい感じ。ごく短い楽章だが、実に魅力的である。--------------第3楽章:ニ短調のスケルツォ。主部は第1番の第3楽章にちょっと似た雰囲気があるが、こちらの方がもう少し激しい。中間部はのんびりとした雰囲気。主部を繰り返した後中間部が登場するものの、形は少し変えられていきそれが静かになっていく。そして、そのまま第4楽章へアタッカ(区切りなし)で入っていく。--------------第4楽章:冒頭は霧がかかったような雰囲気でスタート。変ロ長調からニ短調へまた暗く重い感じになるが、管楽器の急速な3連符の動きを経て輝かしいニ長調の主部へと変わっていく。主部を含めたこの部分が特に初稿と改訂稿で違っている。改訂稿の方がよりドラマティックな雰囲気を作りやすいオーケストレーションになっているが、初稿は主部の直前がフェルマータではなくなだれ込みになっている。この部分は初稿も結構好きだったりするのだが、直後のオーケストレーションが薄いのでもったいないなとも思ったりして。うまくはいかないものである。後の展開は、改訂稿の方がやはりドラマティックでいい。初稿は同時に鳴る楽器が少なすぎて、和音の移り変わりが感じにくくもったいないような気がしてしまう。やはりシューマンの美味は転調の早さにあるように思えるのだ。基本的には明るい流れが続いていて楽しい音楽である。もし本当の意味での第4番だったら、ここまで明るい音楽になったのかなという気もするので、第1番の後でよかったなと思う。--------------この曲は、今度演奏する機会がある。やってみるまでは、あまりこの曲は好きではなかった。まあ、いつもの「やってみたら、案外面白いやん」という食わず嫌いパターンだったなということがよくわかった。しかし、同じシューマンでも「春(第1番)」や「ライン(第3番)」は大好きなのに、不思議だなと思っていた。独特の暗さが知らないうちに自分から遠ざけるようにしていたのかもしれない。ただ、曲の特徴にも原因があるのかなとも思った。シューマンの交響曲をつまらなくないように聴かせるのはとても難しいということは、複数の指揮者から聞いたことがある。ハッキリ聴かせるのに、トランペットとかティンパニでも書いてくれていたら...とか、刻みが多すぎるから音を整理しづらいとか。そう考えた人は少なくないようで、マーラーなどはオーケストレーションを自分で変えて演奏していた。初稿と改訂稿を両方聴いてみると、やはり改訂稿の方が完成度は高いなと思うが、初稿の雰囲気も案外捨てがたいと思ったりする。初稿はエピソードの運び方が少々強引かなという印象もあるのだが、その凸凹感が面白かったりするのだ。改訂稿ではそれが改善されているのだが、後にブラームスは初稿がいいと言ったそうだ。たとえて言えば、「完熟のじゃがいも」と「新じゃが」みたいな違いなのかなと思ったりする。同じものなのに違う味、でもどちらもそれぞれの味があるという具合に。この曲をよく知っているという人は、両方聴いてみるのをオススメしたい。
Oct 4, 2010
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