草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2011年02月13日
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何やら難しいタイトルになってしまいました。



しかし内容は出来る限り易しく、誰にでも理解できるよう




わたしの・草加の爺の能力の限りを尽くすつもりですので




どうぞ宜しくお付き合いください。ロシアの文豪




ドストエフスキーの作品の中で、虚無的なインテリの兄が




純真で敬虔なキリスト教信者の弟に「神はいない。たとえ




いたとしてもその神は悪魔の顔を持っているに違いない」





と毒ずく場面があります。ある傲慢な貴族の地主が





飼い犬に軽い怪我をさせた農奴の幼い子供を罰する為に











エピソードを挙げる。もし神が全能であるなら、何故このような





残虐非道の振る舞いを見逃してしまうのか?数々の奇跡を





実現可能な神にすればこの地主の蛮行を止めさせることなど





造作もないことではないか。何故に神はその「ほんの些細な手間」




を惜しむのか、と。そして、とどめの一撃として言い放つ。





全能の神などいないのだ。いたとすればその神の顔は





悪魔の形相をしているに相違ない。純粋無垢な弟を理詰めで





追い詰めるのです。私はこの兄に託して言われている内容は




殆ど作者・ドストエフスキーの本音であったと考えますが、以前には




human matterとsacred matterと言う表現を使って




説明しました。これは決して全能の神を貶めることにはならない。










の問題なのだ。極悪非道の悪魔は人間の心の中深くに





棲みついていて、例えば人非人の地主とともに悪の限りを尽くすのだ、と。




今回は別の方向から、この難解な問題にアプローチしてみようと





思っています。つまり、私たち人間には宇宙の全体像を





パーフェクトに把握する能力は無い。どうしても一部分の理解・認識









力の弱い生き物が、強大な生き物の餌食とされる。「なんて残酷なんだ!」




と部分にのみ目が行ってしまう私たちは非難・攻撃を内に込めて




言いますが、全体の調和・完成を専ら心掛けている全能者には




自ずから人間の観点や感じ方とちがっものがある筈。第一




私たちの美醜・善悪・正邪などと違う価値観があるでしょう。それは





部分であり、したがって時間的にも空間的にも極端に限定されている





不完全な存在とは、決定的に異なって当然ですね。あとは信頼すること。





私たちは真に信頼に値する対象を無条件で信頼するだけ。それが





無限の慈愛を注ぎ続けている絶対者に対する最低限の礼儀と言うものでしょう。





如何でしょうか?納得していただけたでしょうか……。










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最終更新日  2011年02月13日 15時46分50秒
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