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三島由紀夫の文章がどことなくおかしいのは漢語が多すぎるせいだというのがぼくの考えである。たとえば、『天人五衰』の一節の文章。 今日の日の出は四時五十四分である。その十分前の朝ぼらけの美しさ に、透は東の窓に椅って、硝子窓を開け放った。 日はまだ現れないが、現れるべきところのすぐ上方に、肌理のこまかい 雲が、あたかも低い山脈の連なりのような、山襞の褶曲そっくりの形を高 肉浮彫にしている。この山脈の上にはところどころに仄青い間隙のある薔 薇いろの横雲が一面に流れ、この山脈の下には薄鼠いろの雲が海のよう に堆積している。そして山脈の浮彫は、薔薇いろの雲の反映を山裾にまで 受けて、匂うている。その山裾には人家の点在まで想い見られ、そこに薔 薇いろに花ひらいた幻の国土の出現を透は見た。自立語だけで勘定すると、和語が56語、漢語が17語、外来語が1語で、漢語の占めている割合が23.0%になる。これは相当に漢語が多い文章といえるだろう。 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡々驚きしが、 なかなかに余を譴めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。され ど物語の畢りしとき、彼は色をただして諫むるやう、この一段のことは素と生 れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、 学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的な き生活をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。お のれも亦伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強いて其成心を動かさん とはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんどと思はれんは、朋友に利なく、お のれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して 伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は 深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生 じたる交なり。意を決して断てと。是れその言のおほねなりき。 右は鴎外の『舞姫』の一節だが、今となってはかなり大仰に響くこの文章で、自立語に占める漢語の割合が33.1%。もうすこし時代が下った、口語文と文語文の中間のような感じで書かれた作品として、佐藤春夫の『田園の憂鬱』に拠ってみると、 井戸端には、こぼれた米を拾おうとして――妻はわざわざ余計にこぼして やったかも知れないと彼は思った――雀が下りていた。今までついぞここら で見たこともないほどの沢山で、三四十羽も群れていた。彼の跫音に愕かさ れると、それが一時に飛び立って、そこらの枝の上に逃げて行った。逃げたり などはしなくてもいいのに。その柿の枝には雀とは別の名も知らぬ白い顔の 小鳥も居た。その時彼は鳥に説教した聖フランシスを、思い出した。彼の家の 軒端からのぼる朝の煙が、光を透して紫の羅のように柿の枝にまつわった。 雨に打ち砕かれて、果は咲かなくなっていた薔薇が、今朝はまたところどころ に咲いている。蜘蛛の網は、日光を反射する露でイルミネエトされていた。薔 薇の葉をこぼれた露は、転びながら輝いて蜘蛛の網にかかると、手にはとる 術もない瞬間的の宝玉の重みに、網は鷹揚にゆれた、露は糸を伝うて低い 方へ走って行く、ぎらりと光って、下の草に落ちる。それらの月並みの美を、 彼は新鮮な感情をもって見ることが出来るのであった。この件で漢語が18語、13.7%ということになる。戦後の文章についても調べてみよう。 大型のバスが走っている。舗装された道が一本、真直につづいていて、その 左右はひろびろとした野原である。ところどころに、人家がみえる。やがて、海 が見えた。その海はしだいに迫ってきて、道のすぐ下が波打際になった。波が 砕けて、白く飛び散る。 人家の密集地帯があらわれてきて、道はその中を貫いている。家々の陰に 海が隠れた。魚のにおいが車内に漂った。停留所に二ヵ所停まり、バスはふた たび海のみえる道に出て、大きく左へ曲り、しだいに海から遠ざかった。 魚のにおいが消えた。バスの乗客の大半は、これまでに停まった二つの停 留所で降りてしまった。乗りこんできた客はいない。入口の扉の傍の席に、若 い女が一人と、奥の席に中年の男が一人坐っているだけになった。吉行淳之介の『夕暮まで』の冒頭だが、これで漢語の割合は18.8%である。 あらゆる文章についてこまかく調べたわけではないから、不正確ではあるが、以上の四つの例を見てもわかるように、平均的な口語文体で、自立語に占める漢語の割合は15%前後から多くても20%と見るのが妥当であるように見られる。むろん、日本語の特性上、助詞と助動詞には漢語や外来語が含まれないから、文章全体の単語数で占める漢語の割合は、それよりももっと低くなる。せいぜい10%を越すことはないだろう。 『舞姫』の引用部のような、漢文脈の文語文体――つまり、漢文の書下し文にならった文体――においてさえ、漢語は自立語全体の三分の一程度でしかない。それからいえば、三島の23%という漢語の使用率はいささか異常といってもいい。ほぼ自立語の四語に一語が漢語であるというのは、よく考えてみるとかなり不自然な文体というべきではないだろうか。 そのうえ、用いられている語彙がきわめて特異である。『田園の憂鬱』や『夕暮まで』のなかに出てくる漢語は、「沢山」や「別」のようにもはや和語も同様といっていいほどわれわれの日常生活に近しい語彙か、または「乗客」や「停留所」のように和語で言いかえるのが困難な語彙が中心になっている。それに対して三島が用いているのは「褶曲」や「間隙」といった、およそ辞書でもひかないかぎりめったにお目にかかることのない漢語で、しかもべつだんそれを「山襞の波形」「仄青いすき間」といいかえてもたいした差しつかえのない例なのである。 すくなくともこうした例から判断するかぎり、三島はかなり意図的に漢語を使っている。文章を書くうえで、彼の場合には漢語を多用するということをひとつの技術として行っているようだ。
2006年01月31日
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すくなくともこうした例から判断するかぎり、三島はかなり意図的に漢語を使っている。文章を書くうえで、彼の場合には漢語を多用するということをひとつの技術として行っているようだ。 日本語には和語、漢語、外来語の三つの層があり、特に前二者が文章の基盤を成している。漢語は先進国であった中国から、当時の日本語の缺を補うために移入された語彙であるから、当然、英語におけるフランス語由来の語彙と同じく、論理や観念にまつわる形而上的な語彙が中心になってくる。それにくらべると、和語は情緒や感情をいうための語彙が多く、生活感にもとづいた生な感じがする。 和語には生活の実感にもとづく手ざわりがあるが、その分どこか野暮ったく、また論理の展開に向かない過度に情緒的な部分がある。反対に、漢語には高い論理性や観念性があるが、それだけに話者の皮膚感覚から遊離しがちなかたむきを持っている。たとえばこの「遊離」という語彙にしても、「話者の皮膚感覚から遊離」と書くと一語一語のさししめす内容が明晰でわかりやすくなるが、その分情感のようなものはうすれる。「話手の、地に足のついたものの見方からはなれた」と書くと、わかりやすくはあるが、どことなく曖昧で、かつもたもたした遠回りな言いかたになるために、瞬時に内容を理解しづらい。それゆえ、「遊離」と「はなれた」という語彙は、意味としては大差ないものだが、それぞれの性格に応じて生活の場では使いわけられている。 しかし、文章を書くという作業はもともとが観念的なものであるから、和語よりもむしろ漢語において、それを使ううえでの用心が必要になってくる。本来空中楼閣にすぎぬものを、漢語や外来語(漢語は年経た外来語であるともいえるし、外来語は幼い漢語であるともいえる)によっていやがうえにも飾りたてることは、ついつい文章のなかの地に足のついた落ちつきを奪い、描写から遊離した美文を生みだしてしまう。 むろん漢語を用いることの利点もある。それは、先に挙げたように、論理的、観念的な内容を過不足なく明晰に伝えるということもその一つであるが、日本語の歴史のなかで漢文漢語が知識人の言語とされてきた時代が長かったために、漢語を使うことで文章に格調が生れるという効果もあって、ことに小説の文章において漢語が使われるのは主にこの目的に拠ることが多い。そしてそれは三島においてもっとも顕著であるというべきだろう。 三島の文章はたしかに絢爛たる美文で、しかし美文でありすぎる。彼の文章を読むたびに思うのだが、ここには漢語に全面的に寄りかかりながら書かれた日本語の散文について、その美と醜と両方の極致があるのではないだろうか。「その山裾にはジンカのテンザイまで想い見られ、そこに薔薇いろに花ひらいた幻のコクドのシュツゲンを透は見た」と心のなかで言葉に音を添わせてみるとき、そこには恍惚として美しい響きが出現する。しかし……、音は音として響きはじめたときにすでに意味を離れ、音のみで充足しはじめてゆくかのごとくでもある。 三島の文章は格調高いが、言いたいことが切実に伝わってこない。むしろ意味は音の表面を上滑りしてゆくかのようである。高らかに鳴りつづけるファンファーレのように、それは美しく、ちからづよいが、しかし中身を持たない空疎さを感じさせはしないだろうか。たとえば、右の文章のうち、なぜ「幻の国土の出現を透は見た」と記されねばならないのか、ぼくにはわからない。「国土」と「出現」という漢語が、これほど近くで用いられているために、文章の意味は濁り、何か空威張りしたような、形式的な響きが言葉のうちにあらわれる。観念が過剰にからまわりし、様式美そのものが目的となったフェチズムのようなものさえ、感じられる。 ぼくならここを、「そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土がうかびあがるのを透は見た」と書く。漢語の硬い響き、格調高い韻律、そしてその派手な観念性は、勘所で一つだけを禁欲的に用いるから効果があがる。「国土の出現」式に、べたべたといくつも並べると、漢語どうしで喧嘩をはじめてしまって、かえってその印象が不鮮明になってしまうのである。――それが、三島の場合、文章の空疎な醜さにつながってゆく。彼はあまりにも禁欲ということを知らなすぎる。美文を書きたいという、漢語を使いたいという、みずからの欲望を節制することで、かえってその欲望の目指したものをよく体現するという迂遠な方法を理解しない。ただ心の赴くままに漢語を使いちらして文章を書いている。 われわれはここで先に引用した『田園の憂鬱』の一場面をもって三島の文章に対置してみることができよう。この文章の「その時彼は鳥に説教した聖フランシスを、思い出した。彼の家の軒端からのぼる朝の煙が、光を透して紫の羅のように柿の枝にまつわった。雨に打ち砕かれて、果は咲かなくなっていた薔薇が、今朝はまたところどころに咲いている。蜘蛛の網は、日光を反射する露でイルミネエトされていた。薔薇の葉をこぼれた露は、転びながら輝いて蜘蛛の網にかかると、手にはとる術もない瞬間的の宝玉の重みに、網は鷹揚にゆれた、露は糸を伝うて低い方へ走って行く、ぎらりと光って、下の草に落ちる。それらの月並みの美を、彼は新鮮な感情をもって見ることが出来るのであった」というくだりを、ぼくは美文だと思う。しかもただ単に美しいだけではなく、はっきりと中身のある、言葉に力のそなわった名文であるとも思う。 たとえば、その最初の一文は、和語をもっぱら用いた平淡な描写に終始し、一切の派手さを遠ざけている。これに続く二文は、和語のみを使いながら修辞法を多用することで徐々に文章の華やかさをましてゆく。それはあたかも絃部の厚みのある響きによって助走をはじめる管弦楽の曲に似ている。そして「蜘蛛の網は、日光を反射する露でイルミネエトされていた」という豪奢な暗喩にいたってはじめて文章に漢語と外来語が用いられ、助走は最後の加速を迎える。「蜘蛛の網」と「露」という和語のイメージを基盤にして、そのうえに「日光」「反射」「イルミネイト」の三語をうまく配分してあるのは作者の技量のたしかさを物語っている(これがもし、「日光にイルミネイトされていた」だったら!)。ひとたびの高潮をむかえて、文章はふたたび静かな助走に戻る。しかし今度は先ほどのような長い助走は必要でない。むしろ落ちついた静けさを期待した読者を嗤うかのように、いきなり「手にはとる術もない瞬間的の宝玉の重みに、網は鷹揚にゆれた」というフィナーレを迎え(「瞬間的の宝玉」という言葉が、あえて二つの漢語で構成されていることの意味を、どうか理解してほしい。ここはどうしても「ひとときの珠」のような表現では効果があがらないのである。ぐっと飛躍するその力を、作者は漢語を二つ並べるという奇手に期待している。そしてそのために、前半をきわめて禁欲的な言葉づかいによって描写している)、たたみかけるようにして露の行方をうつくしい和語によって描く。 右の、『田園の憂鬱』の文章は、最大の効果をあげるべく少々あざといほどに考えぬいて書かれているが、きわめて興味深いのは、冷静に読めばそれがどういう計算にもとづいたものであるかが手に取るようにわかる点である。ここには三島の文章のような、なぜここで漢語が二つつづかねばならないのかという疑問が生れる餘地がない。作者がもっとももりあげたいと狙った部分に照準を合わせて派手な修辞や言葉づかい、漢語が効果的に用いられているのであり、機会さえあれば無節操にどこにでも漢語を使おうとする三島とは、その一点においてまったく態度が異っている。 漢語を連続して用いるというのも技法のひとつであるから、それがそれ自体において悪いわけではない。ただ、技法である以上はそれがもっとも効果を上げるやりかたで用いるべきであって、無意味かつ無節操にどこにでも使っていると、ほんとうにそれによって効果を上げたい部分で用いたときにイメージが薄れてしまって十全の効果をもたらしえないことになる。「その山裾には人家の点在まで想い見られ、そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の出現を透は見た」という一文は、特に内容的なもりあがりがあるわけでもなく、敢て格調を求めねばならない箇所でもない。こういう部分で、安易に技巧を弄ぶのはよくない趣味である。三島は、その点について、きわめて節操がないのではないか。 三島由紀夫という人の文章は、美しい旋律やハーモニーを思いつくと、全体の構成をちっとも考えず、手当りしだい空いている箇所につっこんで曲を書こうとする作曲家を思わせる。それで、たいして破綻もせずに一作書けるあたりはさすがに見事だが、文章の美しさという意味ではやや評価しがたい。気分しだいに、デザートの後に肉が出てきて、前菜とお茶漬けと餃子といちごを食わされた後に魚料理が五つつづくような文章を、はたしてわれわれは名文と呼ぶべきか。
2006年01月30日
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野呂邦暢という作家がいた。明晰で、そのくせ叙情的に繊細な文章ですぐれた短篇小説をいくつか書き、ぼくの生れた年に亡くなった。高校を卒業した後、いくつかの職を転々とし、自衛隊に入り、除隊して小説を書きはじめ、十五年ばかりしてそのあまり長くない一生を終えた。 初期の佳作に『狙撃手』という短篇がある。おそらく自衛隊時代の経験を基にしたものだろう。隊内の射撃大会に選手として選ばれた主人公が、ほぼ完璧な射撃によってあと一歩で優勝というところまで近づきながら、最後の最後のところで空に向けて銃を撃ちたくなる衝動に襲われる、というような粗筋の小説で、どことなく中島敦の『名人伝』を思わせるところがあるが、その一節に以下のような文章がある。 どうしたことか、万力ではさんだように銃身が黒点〔引用者註。標的の中心〕からは ずれないのである。腕は他人の腕のように、彼の意志に反してあくまで標的を狙った。 こめかみの血管が激しく脈うち、心臓の不規則な動悸が耐え難く感じられた。日奈は 思いあたった。狙撃手としては、いや狙撃手でなくてすら、ただの猟師でも、いったん 銃を構えて的を狙ったからには、目標に命中させるのが善なのだ。 標的が舞い落ちる枯葉、空とぶ鳥、走るうさぎ、水をくぐる魚、怖れずに言おう、耕す 農夫や髪の柔い少女だとしても、照準レンズの十字線にとらえたうえは、命中させる のが道理にかなったことであり、妥当であり、善なのだ。銃手として故意に狙いをはず すことは、言ってみれば悪なのだ。 四週間の訓練が自分の腕を他人の腕にした。そう、すぐれた射手とは、故意に標的 から銃口をはずして撃てる者として、最後の一発まで命中させることができなくてはい けないのだ。ところが、自分は全弾、標的にしかもほとんど黒点にあててはいるものの (これも考えようによっては奇妙なことだ。人間らしく標的の外に弾がはずれることは無 かったのだから)小銃を自分の思いのままにあやつることすらできない。連隊一の狙撃 手、おそるべき優秀な特級射手は、自分の踏みしめていた固い地面が、もろい砂に変 ってくずれるのを感じた。 現在、能には二百四十数番の曲目がある。能の曲数自体は三千番とも二千番とも言われるが、現行の曲として各流儀が定めている曲目は二百十番から百八十番程度で、五つある流儀によって内容に出入りがあるために、延べで勘定すると右のような数になる。 一人の能楽師が生涯に演じることのできる曲数となると、その人の立場や家柄によってまちまちでいちがいにはいえないが、百曲以上を演じることのできる人はかなり少ないといっていいだろう。まして現行曲完演となると明治以降でも数人ということになる。二百四十番という数は少ないようにも見えるが、このなかには玄人の能楽師でも見たことも聞いたこともないような曲やここ五十年来上演が途絶えている曲というのがある。曲そのものがつまらなかったり、話が特殊すぎて人気が見込めなかったり、道具立てや役を揃えるのがたいへんだったりと理由はさまざまだが、けっきょくはそうした困難を推してでも上演するだけの価値があるとは思われず、また上演したところで見に来る人があまりいそうにもないという曲が、いちおう現行曲のなかに入っていても実質上はお蔵入り(こういうのを「遠い曲」という)ということになっているのだから、それをあえて舞うというのは、よほどの技量や立場にある人でなければ言いだせることではない。 また、それとは別に能には習いということがある。ある種の曲の上演には、師匠や家元の許しが必要であったり、それに加えて家柄が問題にされることもある。たとえばこの道の秘奥とされるのが老女物と呼ばれる曲で、観世流で言えば『卒都婆小町』『鸚鵡小町』『関寺小町』『姨捨』『檜垣』の五曲がこれにあたるが(流儀によっては『鸚鵡』や『姨捨』『檜垣』のないところもある)、『鸚鵡』以上は流儀に昔からある一定以上の家柄の者でなければ許しがおりないことになっている。まして『檜垣』まで演じることができるのはごくかぎられていて、観世流はさすがに人数が多いためにそうでもないが、他流では百年近く『関寺』や『姨捨』の上演が途絶していたという例もめずらしくない。 それゆえ、かつては三老女――観世流では『関寺小町』『姨捨』『檜垣』の三曲を指す――の許しがおりても、そのうち一曲は勤めずに残したままにしておくのがたしなみとされた。これは現行曲全体についても同じような考えかたがあったらしく、大正ごろまでは家元から皆伝を許されても一番だけは残して舞わなかったという人の話を何人か聞いたことがある。こうしたなかなかにゆかしい態度がくずれたのは、他流は知らず、観世では初代梅若万三郎が現行曲完演を達成して以来のことらしい。万三郎は昭和の三名人とまで呼ばれた名手で、いまだにその至藝を絶賛する人が絶えないほどの能役者であったから、現行曲完演は人もゆるし我もゆるしたその自信のあらわれであるのだろうが、どうもむかしの名人のゆかしさと比べるといささか品がないともいえる。二百十番くらいのものを、隅から隅まで演じつくすというのも、やられてみると妙に貧乏くさいものである。 三老女にしろ、現行曲にしろ、この、すべてを演じずに最後に一曲をあまして生を終えるという態度を、最初ぼくは名人の謙遜であろうと思っていた。すべてを演じつくすことがゆるされるのは、名人のうちにもかぎられた名人のみであって、自分はそれに価しない。だからあえて遠慮をする、というこころだろうと思っていた。あまりに完璧すぎる天才はその完璧のゆえに夭折するという。すべてを演じつくすことは、おそらくそうした不幸な天才の姿にも重なって不吉であったろうし、またむかしの謙譲な人びとからすれば(名人とはすべからく謙譲である)不遜にも思われたのだろう。 ――だが、どうやらぼくのこうした考えかたは、ものの半面をしか見ないものであったらしい。そのことに気づいたのは、右に引いた『狙撃手』の一節を読んだときのことである。 ほんとうの名人とは、いったい何なのだろう。野呂の文章は、その問に対してきわめて簡潔に答えるものである。 たとえば、名人とは標的に対して百発百中の狙撃をする人のことではない。むろん、名人はそのことを行いうる。しかしそのことを行いうればかならず名人であるとはかぎらない。百発百中は名人であることの必要条件であるが、充分条件ではない。 百発百中の狙撃は、難事ではあるが、けっしてできないことではない。訓練さえすればだれもが可能なことにすぎない。しかも、それはごく卑近な、目に見える結果にすぎないのであって、このようなものはもともと藝の深奥にあるべきものとは何のかかわりあいもないのである。藝は、目に見えない。目に見えないからこそ、それを見ることに意味があるのである。 名人であれば百発百中はたやすいであろう。名人ならぬ、ただの上手であっても、百発百中は不可能事ではない。ゆえに名人であっても、上手であっても、同じく百発百中の狙撃は可能なのであり、つまり現象的には名人にしろ、上手にしろ、その違いは表にあらわれない。しかし、名人の百発百中と、上手の百発百中は、本質において別なものである。 そのことを端的に示しているのが、『狙撃手』の文章でいえば、「すぐれた射手とは、故意に標的から銃口をはずして撃てる者として、最後の一発まで命中させることができなくてはいけない」という一文である。――名人は、つまり自由な人ではならない。機械であってはならない。名人は心位であり、心位が藝になってあらわれるものでなければならない。 上手は百発百中の狙撃を行いうる。しかし彼は、百発百中の狙撃しか行いえない。彼の銃口は黒点以外を狙う自由を持たない。それゆえにその藝はかぎられた世界にとどまり、ちぢこまり、いじけたものになる。みずからの意識しないうちに自分をちいさな枠のうちにとじこめ、そのなかでいちばんになること、完璧になることにだけ意を注ぐ。卑屈で、いやらしい態度である。 名人は、そうではない。彼はすべてのものに銃口を向け、命中させる自由を持ちながら、そのなかの任意の一つとして、たまたまこのとき標的を狙っている。その心は、ときはなたれ、自由であり、何ものにも掣肘をうけない。ひろやかにどこまでもすすみ、あらゆる契機に応じていきいきと変化する。気韻生動してやむところをしらず、それがたまたまかたちをとって完璧ななにかをつくりあげる。 狙撃などは所詮子供だましの遊びに過ぎないから、名人と上手が本質として異りつつも、百発百中という現象では両者が同じものに見えてしまう。しかし能の場合は、あるいはそのほかの藝術の場合には違う。本質として異るものは、現象においてもあからさまにことなったかたちをとってあらわれる。上手の能と名人の能は、まったく違う、別なものである。上手の射撃と名人の射撃が目に見える部分では変らない、というようなふうにはゆかない。目に見える部分で、その形而下のかたちにおいて、本質は現象となってあらわれる。 逆にいえば、二百四十数番あるなかのどの能を舞ったにしろ、けっきょく能というものは二種類しかないともいえるのであって、つまり名人の能と上手の能がそれである。『井筒』であろうが、『芭蕉』であろうが、『関寺小町』であろうが、名人がそれを舞えば、そこに同じ気韻があらわれる。同じ気韻があらわれて、それがおのおの異ったかたちに変化し、われわれの目の前に立ちあらわれる。すなわちわれわれにおいてその気韻をとらえることに成功すれば、ついに『井筒』も『芭蕉』も『関寺』も、高い意味においてひとつであるということができる。『井筒』があって、『芭蕉』があって、『関寺』があるのではない。そういうものはひとつのこころ、かたち、あるいは位が、変化に応じ、契機によっておのおのことなったものとなって目の前にあらわれているのにすぎず、その奥でそうした現象を貫いてながれている本質は一にして不二である。それを気韻と呼んでもよく、あるいは藝と呼んでもよい。上手にはそれがない。だから上手の能も、ある意味では何を舞っても同じことなのである。 最後の一曲が空白のままに残されるのは、じつは遠慮でも、謙遜でもないのではないか。その人がほんとうの名人であるならば、たとえ生涯『井筒』一曲のほかを舞わなかったとしても、けっきょくすべてを舞ったのと同じことであるといえる。それはあたかも、「故意に標的から銃口をはずして撃てる者」がたまたま標的を狙って百発百中をおさめることに似ていて、たまたま、任意のものとして選んだ一点nについて百発百中であるということは、数学的帰納法の証明と同じように、すべてのものについて百発百中であるということを示し、それならばそのすべてのものについて百発百中であることをいちいち1から順に調べてゆく必要はない。だから最後の一曲は空白であってもかまわないのである。
2006年01月29日
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藤沢周平に『用心棒日月抄』と『よろずや平四郎活人剣』というよく似た連作小説がある。どちらも後期の藤沢作品ではたいへんに人気のある小説なのだが、おもしろいことに『用心棒』の第二部「刺客」と『よろずや平四郎』では、主要登場人物があからさまに対応する構造になっている。 主人公は青江又八郎と神名平四郎。ともに今は陋巷に住いする浪人者で、若くて、剣の腕が立ち、勘のはたらきが鋭い機転の利いた人物で、少々調子に乗りやすい性格。その友人であり、時として相棒になるのが、『用心棒』では細谷源太夫と米坂八内、『よろずや平四郎』では明石半太夫と北見重蔵で、それぞれ細谷と明石、米坂と北見が対応した性格として描かれている。前者は豪放磊落で、剣術も豪快、その一面、世故に長け、金もうけとなると妙に嗅覚がきき、どこかうさんくさい油断ならない感じがつきまとう。後者は、寡黙で控目、粘りのある剣を遣うが、いざというときは頼りになる落ちついた頼もしい人柄で、どうやら三人のなかではもっとも読書家でもあるらしい……。 もちろん、実際の小説では、青江又八郎、神名平四郎をはじめとして、さまざまに細かな性格づけが行われており、仔細に観察してゆけば、それぞれにまったく別な作中人物であることはいうまでもない。しかし一方において『用心棒日月抄 刺客』と『よろずや平四郎活人剣』では、あきらかに同じ型を基にして作中人物がつくられていることもまた明白な事実であって、例えば微妙に色彩は違うにしろ、同じく藤沢の代表作とでもいうべき『蝉しぐれ』の牧文四郎、小和田逸平、島崎与之助の三人は、それぞれ、青江=神名、細谷=明石、米坂=北見の人物造形に影響を受けているように思われる。これほど明白な鼎立型でなくとも、青江=神名型の人物を主人公に、細谷=明石型の人物をその相棒に配した藤沢作品は短篇から長篇まで数多く、ほぼ無数にあるといっても過言ではない(好例は『三屋清左衛門残日録』の三屋清左衛門と佐伯熊太)。 型による人物造形というのは単調になりやすい嫌いはあるが、細部をうまく作りあげてやれば、読者を一気に作中世界に引きこみ、話に勢いのある流れをつくることができる非常に便利な方法で、だいたいにおいてディケンズやバルザックのようなストーリー・テラーの才能に優れた小説家はこれを多用する傾向がある。現代では陳腐にすぎるという懸念のせいか、所謂純文学の小説家はあまり好まないようだが(海外ではかならずしもそうでもないのだが)、大衆小説にとっては依然大きな武器であることに変りはなく、そういう意味では藤沢周平はこうした伝統に忠実であるともいえる。 さて、そこで気になるのは、右に述べたような三人鼎立型の作中人物の作りかたで、これだと三人それぞれの個性が違って対象の妙があるし、違う性格の人間どうしがいっしょに行動するために話の運びが楽になって、つまり短篇連作をやるにはうってつけの方法なのだが、それではこうした型の人物造形というのはいったい何に由来するものなのだろう。 三人で冒険をするというところでだれしもが思いうかべるのはまず『西遊記』だろう。三蔵法師はさておいて、孫悟空が青江=神名型、猪八戒が細谷=明石型、沙悟浄が米坂=北見型ということになって、これならぴたりとあてはまる。 ここでおもしろいのは、同じく三大奇書といわれる『三国志演義』や『水滸伝』では、どうも藤沢作品の人物造形にぴたりとあてはまらないという点であって、たとえば『三国志』では、優柔不断でほとんど無能といってもいい、しかし人から慕われる徳だけはふんだんに持ちあわせている劉備が三蔵法師、沈着冷静で知謀に優れ、身辺清潔、しかも猛将として知られる関羽が沙悟浄、酒や女に弱く、粗暴で無教養、しかし赤誠あふれるがごとき武勇の士張飛が猪八戒ということになって、孫悟空が出てこない。しかも物語中盤から知謀湧くがごとき名軍師諸葛孔明が登場すると、関羽の持っていた性格づけと半分ほど重なるために(そもそも旗揚げのときには、関羽は劉備軍の軍師的な役割として描かれているのである)、以降の関羽の描写に今ひとつ精彩がなくなる。張飛にしても、ふだんはどうしようもない粗暴さと憎めない明るさで、たしかに猪八戒型の作中人物なのだが、ところどころ孫悟空的な活躍ぶりを見せるところもあって、なかなかややこしく、さすがに『三国志』は『西遊記』と違って史実を下敷きにしている関係か、三人(もしくは孔明も入れて四人)の役割分担や性格づけがうまくいってないようだ。 ことは『水滸伝』でも同じで、これは何しろ主要登場人物だけでも百八人というめったやたらに大規模な小説だから、すべてがすべてきちんと書込まれているとはいいがたいが、作中で特に大活躍する登場人物にかぎっていうと、やはり『西遊記』もしくは『三国志』的な性格づけの割振りがあり、しかもやはりあまりうまくいっているとはいいがたい。いちおう劉備=三蔵型が盟主たる宋江と廬俊義、孔明型の軍師が呉用と公孫勝、張飛=孫悟空・猪八戒型がもっとも人気のある魯智深や李逵ということにはなるのだが、沙悟浄型の人物がはっきりとした対応を見せないこと、孔明型と関羽型の人物を区分して造形しているにもかかわらずどうも関羽型のほうは精彩を缺くこと、魯智深や李逵が話の都合で猪八戒型の愚かしい人間になったり、孫悟空型の大暴れをする英雄になったりすること、など不備は多い。もっとも『水滸伝』の場合には登場人物がめったやたらと多いおかげで類型にあてはまらない作中人物も多く、話もうまく波乱に富んでいて、それはそれなりにおもしろくできているからいいのだが、『三国志』のように核となる四人組が最初から最後までいっしょなのにうまく役割分担できていない作品はどうも具合がわるい。 逆に言えば三大奇書のなかでも比較的成立の遅い『西遊記』はその缺点をよく補ってつくられているというべきで、そのうまさにははなはだ感心する。うまさの第一は、三蔵法師と沙悟浄を陰の人物、傍観者的な立場にして描くのに対して、孫悟空と猪八戒を陽の人物としている点である。『西遊記』を仔細に読むとわかるが、三蔵や沙悟浄のせいで難儀に巻きこまれる場合には、ほんとうに「巻きこまれる」のであって、たいてい二人のどちらかが一方的に妖怪にさらわれたということになるのだが、孫悟空や猪八戒が発端となっている場合には、この二人のどちらかがいらぬお節介や、何かの行動を起すことによって妖怪にめぐりあうことになる。前者は受動的、非行動的であるのに対して、後者は能動的、行動的であり、こういうふうにその能動性や行動性によって波乱を呼びおこし、世の中の秩序をめちゃくちゃな混乱に陥れ、しかもけっきょくはその超人的な力によって大活躍し秩序を回復する型の作中人物を、文化人類学の用語でトリックスターという。『西遊記』のうまさの第二点は、このトリックスターを『三国志』の張飛のように一人でやらせず、硬派な孫悟空と軟派な猪八戒に役割分担させているところで、これによって悟空と八戒の絶妙といってもいい関係――あたかも漫才におけるボケとツッコミのような、あるいはドリフターズにおけるいかりや長介と高木ブーのような――がかたちづくられ、物語に生命感とユーモアが生れている。 そう、ユーモア。『西遊記』と『三国志』の最大の違いはユーモアの有無で、『三国志』ではけっきょくのところ、はちゃめちゃな人物が張飛くらいしか出てこないためにそのはちゃめちゃぶりが空回りしてしまって、ユーモアを生まない。劉備はもちろん、関羽や諸葛孔明が張飛に、あたかも八戒に対する悟空のごとくツッコミを入れる図は想像できず、これがために滑稽の味いは『三国志』にうすい。――そしてまた、藤沢がその後期の作品群のなかで常に模索していたのも、この滑稽の味いであった。『用心棒日月抄』第一部は、暗く重たい作風であった藤沢周平の小説にユーモアの味いが加わったという意味でじつに記念碑的な作品なのだが、おそらく作者は細谷源太夫という人物をあえてユーモアの味つけのために登場させたのだろう。滑稽な猪八戒的な性格の持主として。そのせいで、第一部、第二部と執筆を重ねてゆくなかで、第一部においてはまだ暗い影を背負い初期の藤沢作品的だった青江又八郎は、しだいに孫悟空的なトリックスターへと変貌を遂げてゆく。その結果として、第二部「刺客」において『西遊記』の三人鼎立型の人物造形が生れ、やがてこれが『よろずや平四郎』や『蝉しぐれ』に引継がれたのだろうと、ぼくは考えている。
2006年01月28日
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太宰の日本語は何かおかしい。 『斜陽』の「お……させになって」という敬語法の使いかたが変だというのはずいぶん古くからある指摘で、刊行直後に志賀直哉が指摘して太宰と論争になっている。もっとも日本語の問題としては太宰のほうに分がないのは一目瞭然で、太宰は主に志賀に対してからんだに過ぎなかったのだが(ちなみにそのからみかたがいかにも太宰らしくておもしろい。「たしかに俺は間違っていたかもしれない。でも間違った人間にはもっとやさしくしてくれたっていいだろう」という論旨なのだ)。 ぼくは太宰の小説のなかでも『斜陽』の系統が好きで、『人間失格』のほうはあまりありがたくないというはなはだ不熱心な太宰読者だから、どうしても『斜陽』への贔屓があって、この敬語法の問題も、もしかしたら太宰が意図的にやっているのではないかと、何とはなく思いこんだまま過ごしてきた。『斜陽』には種本となった旧華族の女の人の日記があり、これを題材に太宰が小説化したものだから、もとの日記はちゃんとした敬語法で記されていた可能性もあり、それを見て、わざわざ「お……させになって」が出てきたとしたら、これはあきらかに太宰の小説家としての試みということになる……。 敬語法をわざと誤るのは、語り手の幼児性を強調したものではないかと見ることができて、文法の意図的な錯誤は時たま西欧の小説家に見られるナラティブ(語り)の技術のひとつである。『斜陽』は、いうまでもなく斜陽族という流行語のもととなった作品で、崩壊してゆく華族家庭をいかにも太宰らしい虚無的に明るい筆致で描いており、主としていかにもむかしの華族らしい世間知らずで鷹揚な母親の姿を娘が語り手となって叙述してゆく形式の小説だが、母親はむろんのこと、語り手である娘にも、太宰的な道化のイメージが加えられている。華族階層全体の没落のなかで、自分たちの運命を知らず、知ろうとも思わず、いっそ白痴的なまでにその現実になすすべをしらず、ただ平然と没落――いや、いっそ堕落を甘受しようとする彼女たちの肖像は、悲劇的である以上に喜劇的であって、しかもそのことを本人たちがうすうす心のなかで勘づいているかのようにさえ思われる。自分は愚かでどうしようもないというところに覚悟を据えて、それならばどうかこの愚かさを笑ってくださいという底なしの虚無と笑いこそは、まさしく太宰がみずからを規定するのに用いた道化という表現にふさわしい。 敬語法の乱れは、その道化のイメージを強調するためではないのか。 ――と、根拠もなしにぼくはそう思っていたのだが、ちかごろ『晩年』(太宰の処女作品集)を読みかえしてみると、どうもそうでもないらしい。たとえば『晩年』の冒頭にある『葉』という作品。このなかに主人公がかつて書いたという『哀蚊』という小説が引用されているのだが、デス・マス体で書かれたその文章の敬語法は何とも珍妙なものである。いくつか例を引いてみよう。 ○ どうで御満足の行かれますようお話ができかねるのでございます。(「満足 のゆく」の敬語としては「御満足のゆく」で充分。) ○ (祖母は)一生鉄漿をお附けせずにお暮らしなさったのでございます。(「鉄 漿をお附けにならず」が正しい。鉄漿はカネ。お歯黒のこと。) ○ 私を抱いてお寝になられるときには……(「お休みになる」が正しい。)誤りというほどではないが、多出する「お……になる」という語法もうるさい。上の「お寝になる」という用例が顕著だが、これは要するに「お休みになる」「召しあがる」「お目にかける」といった特別な敬語表現を知らない場合に、何にでも「お」と「になる」を付けてその場をごまかすやりかたで(英語でfirstという単語がわからずにonethという言葉を作ってしまうみたいなもの)、あまりに何度も使うと、この作者はよほど敬語の知識がないか、語彙のすくない人なのかと疑ってしまう。例の『斜陽』の敬語法は、じつはもうこんなところに端緒のごときものがあったのである。 つまり、ぼくの『斜陽』論はまったくの買いかぶり、太宰という人はなんだか日本語の使いかたが妙な人だという、ただそれだけのことなのだ。そういえば彼の初期の代表作『道化の華』には「見れる」というラ抜き表現が出てくる。ラ抜き表現自体は戦前からあり、昭和初期にはすでにかなり広く用いられていたらしく、国語学者が聞取り調査をしたのが残っているが、しかし今とは時代が違う。雑誌でラ抜き表現是か非かなどという論争がたたかわされることは夢にも思われないころの話で、規範意識は今よりずっと強い。その時代にあって、思わず(おそらく無意識にだろう)原稿用紙に「見れる」と書いてしまう太宰という人は、よほど言葉について非意識的だったのではないか。 今さらあんまりいじめると泉下の太宰がからんでくるかもしれないからこの辺でやめておくが、しかし、このごくいい加減で無教養な言葉の使いかたは太宰という人を考えるうえでまことに興味深い。ふつう、小説を書く人というのは、多少なりとも言葉に知識があり、またその使いかたに自信を持っている人間である場合が多い。特に戦前の日本においては名文家であることは文士であることと同義であって、たとえば鴎外、鏡花、志賀直哉といった名前はその好例であるといえる。 そのなかにあって、言葉に対する太宰の態度は際だっている。この人は、言葉を使うということにそれほど意識的でもなければ、興味を持っているわけでもない。ただ小説を書くために言葉を用いているのに過ぎないのだ。逆にいえば、この程度の日本語の書手でありながら、それでも小説を書こうと思いたったところに、或いは小説を書かざるをえないような思いを抱えていたところに、太宰の太宰たる所以がある。彼は何はともあれ小説を書くよりほかはなかった。彼の心のなかにあったものは小説以外の方法では表現できず、とにかくそのために原稿用紙のうえに知識もないまま言葉を書きつづったのだ。小説を書くことが大事で、しかし書くという行為そのものが目的ではなくて、小説を書くことで何かが表現されることを、太宰は求めた。 小説が言葉による藝術である以上、できれば小説家は言葉について意識的であったほうがいい。美文家である必要はないが、小説が名文であってわるいことはない。――しかし、それはあくまで結果としての問題であって、それが目的化すると妙なことになる。名文を書くために小説を書いている小説家を、ぼくは好まない(たとえば三島!)。それよりはむしろ、敬語法がおかしかろうが、ラ抜き表現が出てこようが、何かを表現しようというつよい意志のもとで小説を書く太宰のほうがずっと好ましい。 なぜなら、言葉の第一の機能とは、何かを表現するためにあるのだから。何かを十全に表現しえたとき、言葉はもっとも美しい魅力を持つ。言語における表現の機能と美の関係は、決してその逆ではない。だとすれば、区々たる文法的誤りが何ほどのことであろうか。むろん誤りがないに越したことはない。しかしそれ以上に大切なものも、言葉のなかには厳として存在する。 ■ このことは、桂米朝の『馬のす』論を思いおこさせる。『馬のす』は故桂文楽の十八番で、特にそのなかにある枝豆を食べる仕草が至藝として有名だった。話そのものは他愛のない小品に過ぎない『馬のす』にあって、話の本筋とは関係ないにしろ、文楽の名人藝が発揮される枝豆の件を褒めたくなるのは人情だろう。しかし米朝は、それだけを取出して文楽を褒めるのは間違いだし、それは落語に対する批評としても誤っているという。それは大事な細部ではあるが、しかし『馬のす』という咄にはもっと大事な全体性があり、その全体性を支えるほかの部分がある。文楽の『馬のす』が名品だったのは、ただ枝豆を食べる仕草がうまかったからではなく、小品といえども、咄全体をまとめあげ、細部にいたるまで完璧な描写をおこなったその藝にあるのであって、枝豆だけを取出して云々するのはおかしい。まして枝豆の食べかたに、『馬のす』、ひいては落語の神髄があるかのような語りかたはまったくもって落語に対する誤解である……。太宰の言葉づかいとは逆の例だが、これもまた、上に述べたのと同じような考えかたから大いに首肯すべき説である。
2006年01月27日
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むかしからすき焼という料理には不満がある。不満があるというよりも、はっきり嫌いだ。どうも、食べものとして受けつけられない(食べられなくはないのだが)。 関西ふうのすき焼でいえば、まずあの大量の砂糖がよくない。甘すぎて何を食べているのかわからなくなる。かといって砂糖を少なめにすると、要するに醤油で肉を煮ているようなもので、とても食えたものではない。その点、関東ふうの割下のほうが味としてはよくできているのだが、これも溶き卵にまぶして食べるのでは意味がない。 そもそもぼくは生卵があまり好きではないのだが(食べられなくはないのだが)、これに煮た肉を浸して食べるという発想が理解できない。卵のせいで肉の濃い味がやわらげられ、いっそう何を食べているのかわからない。関西ふうでいうと、砂糖に生卵と味のきついものが二つも加わるせいで、ほとんど肉の風味というものが感じられないし、これならべつに肉でなくともいいのではないか――じっさい、すき焼の具は、歯ごたえを別にすれば肉もしらたきも豆腐も同じ味がする――ということになる。 フランス料理の有名な逸話のひとつに、あるとき、旅先で思うような肉の手に入らなかった料理人が、しかたなく会心のソースで靴の底を煮て王様に出したところ、その美味にいたく感激してお褒めのことばにあずかったというのがある。これは何も王様をバカにした話なのではなくて、要するにフランスを代表とするヨーロッパにおいては素材が何であるかわからなくなるまで味を加え、加工することこそが料理の本道であるということなのだろう。そしてそれからいえば、日本料理の場合には、素材が素材のままであることを重視する。刺身がその代表だろうが、野菜にしろ、魚にしろ、素材の味を殺さず、必要最低限の手だけを加えるというところに料理の藝があるわけであって、これはたぶん食べものに関してヨーロッパが貧しく、日本が豊かであったことのあらわれだと思われるが、それはともかく、この二元論的立場からいうと、すき焼というのはあきらかにヨーロッパ的である。 いったい、肉の風味をよく味うには焼くことをもって第一とする。それも韓国ふうのつけ焼きやごてごてとソースを掛けたりするくらいなら(それはそれでおいしいが)、塩か醤油くらいがもっともよい。――好みをいえば、細切れをフライパンで炒めるか焼くかして、かるく塩味を加えたくらいが、肉の味をもっともよく味う方法であると信じる(細切れのように表面積が多い切りかたのほうが、ステーキのごとき肉塊よりもうまみをより多く感じられるはずだ)。これにやや手が込んでくると、たとえばロースト・ビーフや生ハムということになり、ソテーや揚げものということになるのだろうが、いずれにしても肉の味を生かそうとすればごてごてしたものを避けるということになる。 フランス料理でも、仔牛のようにクセがなくやわらかな肉はたいていソテーの類で出てくる。むろん赤ワイン煮込みだとか、なんとかソースだとか、いろいろさまざま方法はあるのだが、あれはむしろ兎や鹿や成牛やそのほかもろもろの、ちょっとクセのある肉のためにある料理法のようで、しかもそれでさえ、肉の風味が害されないぎりぎりのところで調理を止めてある。すき焼のように、とりあえず甘味を嫌になるほど加えて、しかも溶き卵で食べようというような乱暴な料理は、まずヨーロッパにもなかろう。 日本人が発明した肉の料理には、なかなかすぐれたものがある。煮ものでは肉じゃががそうだし、揚げものでは豚カツ(カツ丼もここに加えておこう)、焼きものではお好み焼きやどんどん焼きに肉を入れるという発想が秀逸である。なかにつきてもっとも賞するにたるはしゃぶしゃぶで、何しろこれはやりかたがむずかしく、下手をすると何だか水っぽい、これのどこが肉だというような無惨なものになってしまうが、しかしうまくやれば、ああいう味いはついにヨーロッパ人の知らなかったものであると慨嘆おくあたわざる美味にいたる。いちど肉の味を洗いおとし、残った風味をたれで引立てて食べようというのは(この両者の塩梅がむずかしいのだが)、なるほど洗いという料理を生みだした日本人らしいが、肉の食べかたとしてはなかなか頭を使っている。すくなくとも、すき焼に比べればしゃぶしゃぶのほうがはるかに肉の風味を生かしている。 だから、世間の人があれほどすき焼をありがたがるというのが、今ひとつよくわからない。むろんむかしは肉が高級品もしくは貴重品だったためなのだが、それを言いだすと、戦前までの日本人は家庭で肉を食べるときにすき焼以外の調理法を知らず、つまり肉とはすき焼のことであり、はたしてすき焼をありがたがっていたのか、肉をありがたがっていたのか判然としない部分がある。すき焼はどうも好かないが、ともかく何であっても肉が食えるのはうれしいという口もだいぶあったのではないか。 すき焼の起源は、ふつうには明治の牛鍋であるといわれている。これも地方によって差があったらしいが、その特徴は味噌仕立てで葱を入れるところにあって、おそらく味噌仕立てというのはそれ以前からあった薬食い(猪)にならったものだろう。当時の人びとは肉を食べなれてなくて、特にその匂いが気になったらしい。今の我々ならば腹の虫を誘われるあの匂いを、彼らはきもちわるいと感じたらしく、肉を喰うときは神棚に紙を貼って家の外で煮ただとか、鍋の匂いがいつまでも消えないような気がしてそのまま捨ててしまっただとか、さまざまな話が残っている。魚と野菜だけで生活していた人びとにとっては、それも当然の反応というべきかもしれない。 煮た匂いを嗅いだだけでそうなのだから、口に含んだときの違和感がいっそうであったろうことは容易に想像できる。薬食いという言葉は、ふつう猪を「これは食べものでなくて薬だから」と言いわけして食べたためだといわれるが、ほんとうは「薬のようにまずい」ものを我慢して食べるという意味だったのかもしれない(猪の肉は冷え症や性病の妙薬とされた)。要するに、あたかも今の人が羊かくさやを食べるときのように、みんな鼻をつまむ思いで肉を食べていたに相違なく、だから味噌と葱が必要だったのである。味噌は鍋に仕立てると味の濃さで素材の風味を殺すし、葱は匂い消しの薬味だ。 牛鍋から発達したすき焼にも、どうやらその残滓があるらしい。あれほどに砂糖を入れ、卵をまぶすのは、ひとつには砂糖、卵、肉という貴重品を一挙に用いる豪華さという意味合いもあったのだろうが、むしろ食べにくい肉をいくらかでも食べやすくするために、その風味が消えてしまうまで味つけを加えるという面のほうが大きかったのではないだろうか。ようやっと、牛の肉も食べられるものなのであるという認識の時代の人びとにとっては、それも仕方のないことだったのだろう。 しかし、それ以降のすき焼の発達史は、まことに愚昧としかいいようがない。最初に牛肉と出逢った人たちが、その風味を消し去るような調理法を思いついたのは仕方がないとして、何世代かたって牛肉の風味にやっと慣れてきた連中までそれを踏襲することはなかったのだ。手の込んだ、もとの素材の味がわからなくなるまで加工する調理法を愛するなら愛するで、たとえば仔牛の赤ワイン煮のように、最後の一線で素材の持味に意味を与えるヨーロッパ風の調理法を本格的に学ぶ方法もあったのに、何故かわれわれの先祖は肉の味を砂糖と卵によって圧殺する――それはほんとうに「圧殺」としかいいようがなく、肉という存在は最終的に無意味ですらある――調理法をかたくなにまもりつづけた。それでいて、しかも他方ではしゃぶしゃぶのような料理を考えだしているのだから、なんだかわけがわからない。 民族がある物事に最初に出逢ったときのやりかたというのは、意外と牢固に文化のなかに残っているという好例である。
2006年01月26日
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大江健三郎に『ベラックヮの十年』という短い小説がある。今は講談社文芸文庫の『僕が本当に若かった頃』という短篇集で読むことができる。 主人公はダンテを読むことを志した中年の小説家――それは、いつものように大江自身を思わせる――がそのために雇った家庭教師の若い女の人で、百合恵さんというのがその名前(と思わず大江口調)。百合恵さんには恋人がいて、あるときふとしたはずみに妊娠してしまうのだが、恋人はなかなか結婚を肯んじえない。彼女はカトリックの信者であって、堕胎することもできず、悩んだ末、子供のことを承知して自分と結婚してくれる人を捜す。白羽の矢が立ったのが「僕」で、百合恵さんは、妻子と別れて自分と結婚しヨーロッパへいって暮そうともちかけ、最後には「僕」をある方法で誘惑しさえする。 それ以上の話の運びは小説を読んでもらうとして、十年経ち、当時の問題をすべて解決した――小説家と缺落ちすることもなく――百合恵さんは、もはや初老と読んだほうがふさわしい「僕」と久しぶりに再会する。以下は、小説の結末部の文章である。 そのうち昼食を御馳走するからと、妻が駅前の新しいスーパーまで買物に出て行った。 すると百合恵さんは、それまでの笑いのなごりを一挙に振りはらって、次のような提案をし たのだ。 ――二十分間あるわ。ふたりで罪をおかしましょう。あなたの場合、このまま老けこんで しまうのじゃ、もうその機会もないでしょうが! 食堂の隅で水蒸気を噴出する器機のシューシューいう音を聞きながら、僕は十年前には こんなものもなく、喉がイガイガしてよく朗誦できないと、百合恵さんが不平をいったことな どを、脈絡なく思い出した。 ――もう三分過ぎたよ。やる気はないの? あなたはベラックヮ贔屓だものね。ものぐさ なんでしょう、なににつけても。十年前、こんな怠惰な人を誘って、無意味だったわ。 ――いや、無意味どころじゃなかったよ。僕は確かにベラックヮ型の人間だからね。なん にもしないでじっと考えこむようにして、あれから例の細部のいちいちを、どんなに思い出し たか知れないよ。とくに細部をクッキリ思い出すということは、僕の職業の技術だしね。 百合恵さんのマンマルな顔に、劃然たるといいたいほどの変化があらわれた。それが若 わかしくみずみずしい羞恥の発露なのだ。一挙に僕は十年前へと運び去られた。繰りかえ し思い出すたびに、あの鏡のなかのシーンには「欠落しているもの」がある、と感じられてい た。その「欠落しているもの」のために、暗い光のなかに浮びあがる下腹部、大腿部が、む しろこちらを拒むようであったのだ。 しかし十年前、大きい不安と絶望からのヤケクソの勇敢さにおいて、「局部」をさらし横た わっていた、未成熟な死体のような身体には、わずかに鏡の上隅を覗きこみさえすれば、 羞恥に赤らんでいる若い娘の一所懸命な顔がついていたのである…… この場面は、どうして十年後でなければならないのだろうか? ――その問題は、たぶん、人は何故小説を書くのかという問題とつながっている。 作者を思わせる「僕」はいう。「なんにもしないでじっと考えこむようにして、あれから例の細部のいちいちを、どんなに思い出したか知れないよ」。誘惑されたとき、「僕」には百合恵さんの顔が見えず、ただその裸の下半身だけが見えた。そしてそこに何となく「欠落しているもの」を感じて、彼女の誘いに乗ることはなかった。おそらくそれはとっさの判断、いや判断という言葉は不適切であって、一瞬のうちに目にした光景からうけた主観的な印象のようなものが、「僕」にとって快くはなかったということなのだろう。それゆえ、よく考える前に小説家は据膳を断った。 「欠落しているもの」とはいったい何だったのか。最初、それは「僕」にとって、主観的な、一種の印象として受けとめられた。そこには、これは何であるかという主知的な問いはなく、ただ感情的もしくは生理的な拒否の反応がただあるだけであった。缺落の存在を探り、意味を考えたのは、「僕」が百合恵さんに再会するまでの十年のあいだである。 国語の問題ふうに解答をつくれば、「欠落したもの」とは誘惑する若い娘に相応しい人間くさい感情や態度を指すのだろう。「未成熟な死体のような身体」という表現がそれを示唆している。「僕」はとっさのうちに、裸の百合恵さんがそういうものを持ちあわせぬと悟り、それゆえに彼女と関係を持たなかった。しかし再会までの十年間、「なんにもしないでじっと考えこむようにして、あれから例の細部のいちいちを」繰りかえし思いだすことによって、「僕」は別の結論にたどりつく。――じつは、あのときの百合恵さんには、人間くさい若い娘のはじらいがあふれていたのに、それを自分が気づかなかっただけなのだと。彼女と関係を持たなかったのは、「僕」の誤解による思いこみのせいだったのだと。 右に掲げた引用部に出てくる百合恵さんの「羞恥」の様は、この場で「僕」がはじめて気づき、そのことによって十年前の誘惑の意味を語り手に改めさせた、というような存在ではない。「僕」の語る言葉からもあきらかなように、百合恵さんがいない十年のあいだに新たな結論を得た「僕」の推測が正しかったことを証明する、一種の確認として、ここにあらわれているのである。「僕」は、この場面で「ああそうだったのか」と発見したのではなく、「やはりそうだったのか」と納得したのだ。 しかし、そのことに気づかなかった十年前の「僕」は、若く、知的で、魅力のある娘と関係を結ぶ機会を失った。いや、その当座は、失ったということにすら気づかず、それが自分にとって手に入れられるものであるということすら知らなかったのである。そこにあるのは、かすかな悔いであろうか。小説は先の引用部分につづき、次のようにしめくくられる。 ――あれ、あれ。いまになってその気になっても、もう遅いわ、と百合恵さんはシャツの 衿の花びらのかさなりを青白い喉で押しわけるようにすると、こちらの頭上を透かして見る ような距離のある眼をしていった。十分間、遅かったわね。 ――十年間、遅かった! と僕はいったのだ。 十年間、遅かった! そうだ、小説家というのは、けっきょくいつも「十年間、遅かった」人びとではないのか。そこにある現実を、何度も反芻し、考えなおし、意味づけなおさなければ、自分のなかに受けいれられない人びと。その致命的な「受けいれかたの遅さ」からくる、現実の世界への不器用な、不器用でしかいられない態度。 小林秀雄は、「小説とは夢想者の行為である」といっている。どうにもならなかった現実に対して「こうだったらよかったのに」「ああもなりえたのに」という空想によって行為しようとする、そんなこころが、われわれに小説を書かせる。人は生を一度しか生きられない。したがって、「こうだったらよかったのに」「ああもなりえたのに」という反論や悔恨は、根本的に無意味なのである。われわれは「こうであった生」と「もしこうでなければなったであろう生」を比較することができない。「もしこうでなければ……」という人生を、人はどうやっても生きられないのだから、二つのものは永遠に比較できないのである。――しかし、そのことを、悔いるこころは、未練に思うこころは人間にゆるされている。 「こうであった生」を「もしこうでなければなったであろう生」に変えることはできない。しかし後者を想像してみることはできる。或いは、「こうであった生」のありかたを反芻することで、その意味を組みかえることはできる。そうした、はかなくも、無意味な――すくなくともわれわれが現実として生きている生においては無意味な夢想の結晶が、小説と呼ばれる何ごとかである。 ぼくは小説を書く人間をベートーベンふうの宿命によって彩るロマンチズムを好まない。しかしやはり小説を書くという行為は異常なものであると思う。人間に小説を書かせるのは、「こうでなかったら」「ああであったら」という現実に対する悔いだろう。そしてそのことは同時に、彼が現実に対してうまく生きられなかった、後になってよく考えてみると決してそうすべきではなかったのに敢てその選択をしてしまったというふうな人生を歩んできたことを示唆している。人間はだれしも多かれ少なかれ不器用で、さまざまな悔いを過去に残しながら未練がましく生きてゆくものだが、そのなかでも特に不器用で、それだけに特別悔いも未練も大きな人間が、その悔いや未練のいたたまれなさのあまりに小説という夢想の世界に逃げこむのではないか。 そう、小説を書かなければならないような人間は、けっきょく永遠に「十年間、遅かった!」のである。若い娘の精いっぱいの誘惑とそこに込められたひそかな恋心――やはりそれは、そう呼んでもかまわないだろう――に、十年間思索を費やさねば気づかないような不器用さ。世の中には、ベッドのなかに裸で待っている百合恵さんを見た瞬間に、彼女の気持を直感的に理解する、器用な人びともいるというのに……。 たぶん、そういう器用な人びとは、人生における悔いや未練の絶対量が少なくできているのだと、ぼくは思う。そしてそれに対して、悔いや未練の絶対量が多くできている、多くならざるをえない人間が小説を書く。うまくゆかなかった、悔いの多い、未練まみれな過去の時間に向きあい、自分がどうすればよかったのかにひとつひとつ答を出してやるために、小説家は考えなおし、夢想し、文章を書く。人生を一度で消化できる人がいるいっぽうで、たしかに世界には、反芻を繰りかえさなければ、人生を消化し、ほんとうに自分のものにできない人というのがいるのである。 だから、小説を書くということは、やはり異常な行為なのだと、思う。ふつうの人間らしくない、どこか缺けたところのある人格の持主なのだろうと、思う。人生の敗残者が書き、人生の敗残者が読むものが小説なのだよと、すこしつぶやいてみたくなるときもある。――小説を書くから人生の敗残者になるのか、人生の敗残者だから小説を書くのかは、よくわからないけれど。 ■ ベラックヮは『神曲』の登場人物のひとり。ダンテの友人がモデルで、きわめつけのなまけものであり、煉獄で天国に入れてもらえるのを待ちつづけ、煉獄めぐりをするダンテを傍観者のような態度で眺めている。
2006年01月25日
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三島由紀夫が亡くなった後に吉田健一がこういったという逸話がある。「うん、三島君。彼はとってもいい子だったけどね、ひとつだけたいへんな思いちがいをしていた。あの人は日本に上流階級というものがあると思っていたんだ」 三島の小説が好きな人には説明するまでもないだろうが、彼は本名を平岡公威といって、父親は大蔵省だかの官僚だった(三島自身も東大卒業後、わずかのあいだだが大蔵省に勤めている)。高校は学習院だし、いちおう日本のエスタブリッシュメントだといっていいが、決して上流階級の出身とはいいがたい。イギリス式の発想によれば、上流階級には親代々の門地というものが必要で、その意味では三島は中流上層階級の代表だといっていい。 吉田健一という人は、知る人ぞ知るという批評家だから、あまり世間でその履歴が知られているとはいえないのだが、父親は総理大臣を務めた吉田茂、母親は伯爵牧野伸顕の娘雪子で、牧野は大久保利通の子だから、すくなくとも戦前の社会にあっては正真正銘の上流階級出身である(ちなみに吉田は日本の学校というものは小学校に通ったかぎりで、ケンブリッジに学んでいる)。三島の家系も、吉田の家系も、同じ官僚の家には変りないが、吉田は使ったほうの、三島は使われたほうの家である。 余談だが、戦争末期はほんとうにたいへんだったらしい。売れない貧乏批評家(父親に援助を乞うことを嫌ったし、父親もそれを嫌ったという)は幼い娘と妻を残して、三十幾つの老年で海軍に引っぱられるし、親爺は近衛文麿などと結んだ終戦工作があかるみに出て投獄され、祖父は自由主義者として命をつけねらわれ、かろうじて病身を保っているにすぎない。まさに一家そろって明治国家――決して「昭和の日本」でも「近代日本」でもなく、「明治国家」なのである――と命運をともにしているという感じで、つまりほんとうの上流階級というのはこういうものだろう。個人や家の運命が国家と密接に結びついている。中流階級や下級階級の人間は亡国の憂き目にあっても生活をつづけることが可能だが、上流階級というのは国家が滅びればそれとともに滅びるよりほかはないのである。そのもっとも程度の高い例が、革命によって首を切られたルイ十六世ではないか。 しかしその吉田にして日本にはほんとうの上流階級はないという。上流階級の一員だった人がそういうのだから、これほどたしかな話はないような気がするが、いったいこれはどういうことなのだろう? 筆者思うに、これはどうもイギリスの貴族と比較しての話ではないだろうか。周知のようにイギリスは現在でも貴族が社会に大きな勢力を張っているめずらしい国で、四五百年つづけて常に社会のエスタブリッシュメントであったという家も少なくない。日本の華族のように斜陽の余生を保っているというのではなく、金もあり、権勢もある貴族が、社会のなかで一定の地歩をしめているという意味で、イギリスの貴族はたしかにほんものであるということができるだろう。 ひと言でいえばイギリス貴族は政変や革命につよい。社会に大きな変革が起ってもそれを乗りこえて社会の実質的な上流階級でありつづけている。むろんそこには、イギリス特有の漸進的な革命のありかた――名誉革命に代表される――があり、イギリス貴族の資産がその広大な土地に基礎を持っているという事情があるわけだが、端的にいうならば、イギリスの貴族は長いあいだ持続している。日本の華族や上流階級のように新陳代謝がはやくない。 明治期の大名華族、公家華族という連中が所謂新華族や明治政府の高官たちによって実権を奪われた、実質的には完全な寄食者であり、社会において真の上流階級としての実力を持ちえなかったことはいうまでもないが、たとえばその大名にしても、室町期以来の大名家というのが江戸時代にいくつあったか。せいぜい薩摩島津家、長州毛利家、肥後細川家、秋田佐竹家程度であろう。ほかはどこの馬の骨とも知れない戦国大名の子孫である。そしてその室町大名にしてから、鎌倉期以来の名門といえばせいぜい足利家くらいなものであって、これもそこらの御家人、地侍の末である。 お公家さんも含めて、日本において五百年以上つづいて社会の上流にあり隠然たる勢力を持ちつづけた家というのはきわめて少ない(唯一の例外が薩摩の島津家であろう)。せいぜい二三百年といったところが関の山で、権力の持主はすぐに交代してしまう。イギリスのように王朝が変っても平然と名家として優遇されつづける家は少ない。 おそらく敗戦のとき、吉田はそのことを痛切に実感したのではないだろうか。彼は祖父の牧野伸顕につよい親近感を持っていたようだが、かつて内大臣まで務め昭和天皇と西園寺公望の絶大な信頼を得ていたこの人物すらも、戦後は清貧のうちに病死せざるをえなかった。見ようによっては、吉田茂のようにオールド・リベラリストとして復権することもありえた人物であったが、社会はどうやら持続する上流階級を欲しなかったものらしい。 上流階級が持続しないということは、上流階級固有の風俗も持続しないということである。特に日本の場合は、近代に入ってからの変遷がはげしすぎることもあって、今やかつての華族の子孫でさえその風俗を保ちつづけている例はきわめて少ない。たとえばヨーロッパにおいては、フランスのように革命を経た国であっても、革命前の上流階級の風俗は中流上層のブルジョワジーに引継がれ、そのなかの特に上層の部分が以前の貴族や王侯の生残りと結びついて、新時代の上流階級を形成してゆく。上流階級のメンバーは入れかわっても、そこにある風俗はなかなか変化を見せず(これには、新たに上流階級のメンバーに加わろうとするブルジョワジーの、王侯貴族に対するスノビッシュな憧れが有効に役立つ)、一定のかたちを残したまま持続してゆくのである。イギリスのように牢固たる貴族階級が残っている場合には、その様はいっそう強固なものになる。――現在所謂ヨーロッパの社交界というものはこういうふうにして形成されてきたのであって、その内実を知りたければ『失われた時を求めて』に就くのがもっともよいだろう。 そう、『失われた時を求めて』こそは一九二〇年代のフランス上流階級の風俗をもっともよく描いた風俗小説であって、たしかにこういう小説はほんものの上流階級がある社会を基盤としなくては成りたたない。完全な虚構をものするのならばともかく、ある程度の現実を下敷きにして風俗小説を書くためには、なによりもそうした風俗が安定して現に存在し、あるいはかつても存在し、将来にわたっても存在するであろうという条件が必要になってくる。 三島由紀夫ほど日本の上流階級を舞台にして小説を書いた小説家はほかにいないだろう。しかし彼の小説にどうしてもリアリティの面で脆弱さがついてまわるのは、つまりこうした事情による。彼が小説のなかで暗黙の前提として生かそうとした上流階級の風俗、そんなものは近代の日本に持続的に存在したことはなかったのである。『失われた時を求めて』の圧倒的な現実感と、『豊饒の海』の奇妙な虚構感の対比は、おそらくそこらあたりに理由がある。 もっとも、三島と同じような条件に置かれた小説家は、近代の日本において決して少なくはなかった。たとえば漱石がそうだろう。彼が『三四郎』や『こころ』や『明暗』のような作品で描こうとした、知的で教養の高い中流階級というものは明治や大正の日本には実在しなかった。「先生」のような高等遊民が、美祢子さんのような外国語を駆使して男をやりこめるような知的な娘が、はたして漱石の同時代に存在したか、はなはだあやしい。たしかに西欧風の小説を書こうとすれば、ああいう登場人物を出さなければ話がうまく構成できないという事情はわかる。しかしその設定そのものは、漱石が生きた時代においてはあまりに現実感のないものだった。――だからこそ、鴎外は途中で同時代を描くことをあきらめ、江戸時代という安定した文明と風俗を背景にした史伝を書くようになったのだろう。 しかし、漱石の登場人物には、三島のそれのような、どこか不安定で脆弱な感じ、あからさまなリアリティの缺如を、すくなくともぼくは感じない。そこに漱石と三島の違いがあって、漱石はそういうものが現実には存在しないということをはっきり認識していた。だからこそそのリアリティのなさをおぎなうためのさまざまな仕掛けが小説に施されている。しかし三島はあまりに無自覚であった。彼は天から「日本に上流階級というものがあると」思いこみ、それに全面的に寄りかかりながら小説を書いていた。 結果として、今や太宰の『斜陽』ですら何のことかわからなくなった時代の目で三島を読みかえすと、寄りかかっていた杖を突然はずされてしまった老人のようなよわよわしさが彼の小説にはあるような気がする。――上流社会を含めて、風俗というものを持続させられない日本の社会がわるいのか、それとも三島がわるいのかは、よくわからないが。 ■ 『天人五衰』のなかに本多繁邦が主人公の安永透を養子にして、上流階級の風俗を徹底して仕込む場面がある(透は無教養な孤児であるという設定なのだ)。そのひとつが洋食のマナーで、フォークやナイフを作法通りに扱えることがエスタブリッシュメントへの入口であり、世間の信用を勝ちうる方法の一つだとして、食事の作法や、それを通して自分がいかに上流の生れで、信用のおける、優れた人物かを相手に印象づける方法を、本多が子細に透へ説明するのだが、この部分の描写は『天人五衰』のなかでも際だってすぐれている。ひじょうに小説的で、本多のスノビッシュな生きかたと、それを反省し、冷笑しながら、やはりそれによって生きようとする複雑な性格がよくあらわれており、読んでいておもしろい。――が、これは上流階級の家庭におけるエピソードとしてはまったく不適当だろう。そういうことを、深く考えず、あるいは教えられずに、ごく自然にやってしまうのが上流階級というものであって、本多のように一々「気をつけて」食事のマナーを守るのは所詮成りあがり者の態度ではないか。三島はここでおそらく上流階級の生活を描いたつもりでいながら、結果としては彼にとってなじみの深い中流上層の生活を描いてしまっているのである。たとえば平岡公威少年が大蔵官僚の父親から、こういうふうに食事のマナーを教わるのならば、われわれにはそれがごく自然な光景にうつる。たが、吉田健一少年が牧野伸顕からそんなことを教わるだろうか? 答えは否だろう。たぶん牧野の立居振舞いをごく自然に見おぼえて、健一少年はいかにも上流階級らしい食事のマナーを身につけるのである。
2006年01月24日
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谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。 綿綿若存。用之不勤。(谷神は死せず。是れ を玄牝と謂ふ。玄牝の門は是れを天地の根と 謂ふ。綿々として存するが若く、之を用ゐて 勤れず。) ――『老子』 死に体というのは、今ではすっかり政治用語だが、本来は相撲の言葉であろう。 投げられるときに、まったくなすすべがなく、相手のされるがままになっているのが死に体で、どちらに先に土がついたか判然としないような場合には、死に体と判断されたほうが不利になる。生き体という言葉はないが、投げられながらもなお変じようとする動きが体にあり、そこに自分なりの意志がはたらく余地が残されていれば、体がまだ生きるといえる。よくは知らないが柔術にも同じような考えかたがあり、体が生きた状態でわざと姿勢を低くしたりころんだりして相手を投げに掛けるのは、相手に投げられてころぶのとは区別して判定するのだという。 相撲というのは日本にはめずらしく引分けのないスポーツで――これは戦中にルールがまとめられたこととも関係がありそう――、死に体という発想はそんなところから生れてきたとも考えられるが、見ようによってはこれほどややこしいものもない。相撲ならば土がつけば負けだから心配はないが、柔術で相手に投げられた反動を利用して巴投げを掛けたりするときは、最初の「投げられた」を相手の点と取るか、わざと投げられたのだから無効として後の巴投げだけを点にするか、かなり判断がむずかしい。死に体かどうかの見分けは、ことに瞬時のことだけにむずかしかろう(実際にいつぞやのオリンピックで似たような悶着が起ってけっきょく日本の選手が負けたことがあったはず)。いっそこんな曖昧なものはなくてもよかろうとも思うのだが、しかしどうもこの体が生きる死ぬというのは日本の体藝に深く結びついた観念らしく、なかなか廃することはできなようである。 生きる死ぬという言葉は使わないにしろ、踊りや能でやかましくいうのが体の構えのことで、もっと肘を張れとか、腰が浮いているとかうるさいのは、けっきょく体がむように動きすぎてぶれ「生きすぎ」ている状態や、かちかちにかたまりすぎて表情のない「死んだ」体になっているのを誡めているのである。日本の踊りというと、しばしば人は前者の「生きすぎ」ている状態に対する否定を思いうかべるようだが、ほんとうにうるさくいわれるのはかえって後者の「死んだ」体であって、歌舞伎の劇評などでいう情や風情が足りないというのは多くこちこちになりすぎた体の使いかたに起因する。 たしかに日本の体藝は静の状態を重く見ることが多い。むろん体藝である以上は動くのだが、それが西洋のような連続した、休止のないはげしい動きではなく、ある静から静への、あるいは静の調子から動の調子への、一瞬の跳躍のようなものが日本の体藝における動なのである。世阿弥の藝論では第一の静止を「序」といい、第二の静止(もしくははげしい動き)を「急」といっている。そのあいだにある一瞬の転調が「破」であって、この点において西洋的な持続する動は日本の体藝にはほとんど存在しない。なぜならば、持続する動はすべて一種の静であると考えられるからである。 急の段に「第二の静止」とともに、第一の静止から転調したのちの(持続する)はげしい動きをも含めるのはまさしくこの理由による。能にも、踊りにも、はげしい動きがやみなく連続するものがないわけではない。しかしそれをわれわれは動とはとらえない。これもまた一種の静的なものであると考えるのであるらしい。しばしば用いられる譬喩だが、独楽はもっとも速くまわるとき、もっとも安定していて、その軸がぶれない。回転がはやければはやいほど独楽そのものは静止しているかのごとく見える。およそ藝の基礎はここにあって、微動だにしない静止の状態であっても、極端にはげしい動きであっても、その核心にあるのは、独楽のごとく動くがゆえに静かな体の存在である。序または急というのはいわば表面にあらわれる現象上の相違であり、表情にすぎず、その奥にある本質的な部分は常に静にして動なる安定である。 この問題を身体についてより具体的に言えば、静にして動なる身体性はすべてに応ずることができる。たとえば能の構えでは、肘を張り、腰を入れ、膝を入れ、顎を引いて、すり足で歩くわけだが、このとき腰と膝がしっかり入っていないと上体がひょこひょこと妙な動きかたをする。この状態では、鬼や修羅のような急の動きのものならば何とかごまかせても、女物のようにしっとりした序の舞には応じられない。そして反対に腰と膝――特に膝――を入れすぎると、今度は運歩が遅くなりすぎて、しっとりしたものは舞えるにしろ急の調子に対応できなくなる。いわばその中庸にあって、どちらにも応ずることが可能な状態こそが理想的な能の構えなのであり、やや秘説めかしていえば静にして動なる身体というのはその内側に静と動の両方を含んでいずれにも変化しうる、しかしいまだ変化しない、玄妙な存在であるということができる。 体術に即していうならば、能の構えというものはきちんとそれを構えられていれば、横からかなりの力で押されても決して転ばないようになっている。これは歌舞伎の見得でも何でも同じで、相撲でももろ差しになったとき脚がいいかたちに決らないとほんとうにちからが入らないのだという。先々代の井上八千代という人は九十幾つで京都の市電に手すりにもつかまらずに乗って、急ブレーキがかかってもこゆるぎひとつしなかったという。――それではなぜ、こうした「いいかたち」が微動だにしない力を秘めているかといえば、おそらくはこれらがすべてに対応することのできるかたちだからだろう。ひとつの目的に対しての都合のよさを追求してゆくと、体のかたちはいかにも不安定になる。たとえばテニスのサービスやピッチャーが球を手放す瞬間のかたちがまさしくこれにあたる。相手に球を返した直後のテニス選手の構え(腰を落して上半身を前傾し、全体にラケットを中心としてちいさく体をまとめる)などはいかにも安定しているように見えるが、これは相手がスマッシュをかけるかボレーで返すかはっきりしないから、どの瞬間にどこへでも応じられる体のかたちを取っているためで、そういう意味では能の構えや歌舞伎の見得のかたちに近い。 体が生きている、というのはつまりそういうことである。それはまだ何かではないが、すべてを受けいれて、すべてに変ずる準備が整い、いつの瞬間にでも新たな何かに変じようとする気韻が内側に充満している状態なのである。だからこそ、静にして動という矛盾した身体の状態を保つことができる。 むろん以上に述べたことは相当に単純化して、対比を明確にしている。たとえば柔術のところでいったように、何かをしながらしかしそのほかのすべてに応ずる準備が整っているという意味の、さらに高等な「生きた」体というものがあり、そちらのほうが中心となるべきなのかもしれないが、今回はより体の生き死にの本質的な問題にせまりうる話しかたを取った。問題はむしろそいういうところにではなく、われわれの祖先が静と動とを単なる現象と見、その奥に両者をつらぬいて流れる本質的な存在があると見たことである。 老子の冒頭第六章に「谷神不死。是謂玄牝」云々という文章がある。神秘のうえに神秘なるものは滔々と流れ出てしかも永遠に枯れることのない谷川の水源であるという説だが、流れでるということを動、流れださしめるという水源のはたらきを静と見れば、水源そのものは動にして静、静にして動である。それは微動だにせぬ静謐さでありながら、そのなかに時々刻々と転じうる変化の兆しを孕んでいる。まさに玄の玄なるというべきか。
2006年01月23日
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世阿弥には何人か子供がいたようだが、もっとも期待を掛けていたのは能作者として有名な観世元能(ぼくのあまり好きでない作者だが)であったらしい。残念ながらこの人は父に先立って没し、やむなく世阿弥は甥の音阿弥を養子に迎えて流儀の太夫の地位を譲った。音阿弥は足利義持などに寵愛されたらしいが、養父との関係はよくなく、先代将軍義満のおぼえめでたかった世阿弥はその晩年になって佐渡に配流されてしまっている。まさか音阿弥が讒したというわけでもないだろうが、積極的に将軍とのあいだを取持つということをしたわけでもないらしいから、よほどの確執があったのかもしれない。今、観世流で観世姓を名乗っている人は、家元をも含め、その先をたどるとみな元能ではなくて、音阿弥にゆきつくから、流儀では観阿弥、世阿弥に次ぐ三世は音阿弥ということになっていて、元能は歴代から外されている。 養子との関係がうまくいっていなかった世阿弥が、その代りにかわいがっていたのが娘婿の金春禅竹だったらしい。この人は現在の金春流の実質的な始祖といってもいい名人で、世阿弥没後の斯界にあって能の深化に大きな役割を果した人物だが、当時はなにしろ草創期ということもあって流儀の垣根が低く、折にふれ事によせて世阿弥はこの後輩にさまざまなアドバイスを与えていたらしい。世阿弥の手になる伝書や能本もかなりの分量を禅竹に伝えたらしく、現在でも金春流の家元には世阿弥関連の貴重な資料が多く存している。 ――余談にわたるが、長らく世阿弥の藝論であるとされながら、ゆくえのわからなかった『拾玉得花』という書物がある。これは戦後に入ってから京大教授の野間光辰が発見し、学界に紹介すると、能の専門家のあいだに一大センセーションを与えたという曰くつきの文献だが、じつはこれをほんとうに見つけてきたのは金春流の家元分家の若当主だった金春晃実という人なのである。何でも家の蔵を整理していたらたまたま江戸期の筆写にかかる『拾玉得花』を発見し、それを卒論で取上げたのを、許可を得てさらに野間が学界に発表したというのが実相らしい(だいたい野間は人も知るように西鶴の専門家で、能とは畑が違う)。金春氏は残念ながら先年逝去されたが、京大国文科の卒業生で、何でも新入生歓迎のコンパで酔っぱらって『船弁慶』を箒で舞ったという武勇伝があったり(師匠に話したら、「お家元じゃなかったら破門されちゃう」と笑っていた)、いろいろとおもしろい逸話を持つ能楽師だが、蔵を探したら『拾玉得花』があったというのはなんともすごい話で、卒論にあえいでいたとき友達と二人しみじみその境遇をうらやんだことがある。 おそらくこの『拾玉得花』の写本なども、原本が金春家に伝っていたものを筆写しなおしたか、もしくは先祖ゆかりの書物であることから他家の本をわざわざ筆写させてもらったか、というところだろう。その根元に世阿弥と禅竹の関係があることはまず疑いを入れない。 世阿弥の心を忖度するに、元能が若くして亡くなったことはしかたがないとしても、音阿弥とはどうにも気があわず、また自分の後継者としても器量不足だと考えていたのではないだろうか。音阿弥はなかなか力量のある役者で、貴顕にもおぼえめでたく、政治的な立ちまわりも上手で、観世流の基礎を築いた名太夫と呼んでいい人だが、ただ世阿弥のように深い思索に基づいた藝論を書きあらわすことは生涯なく、能作にもめだった作品はない。おそらく教養としても、二条良基や足利義満のような当代一流の大知識人にかわいがられ、歌道の素養深かった世阿弥とは比べものにならなかったはずで、要するに世阿弥にはこの養子がただ器用に能を舞うやつとしかうつらず、自分どころか元能と比較しても後を譲るに不適格とまではゆかずとも、物足りない感じをぬぐえなかったにちがいない。当時の能太夫は今の家元と違ってただ能をうまく舞えればいいだけでなく、新しい能を作ることが重要な職責であったし、それはできれば歌道の教養や自身の美意識、哲学に根ざしたものでなければならないと、おそらく世阿弥は考えていたのだから。 その点、禅竹は、世阿弥が求め、世阿弥がかつてそうであった能太夫の条件を充分に満たす人物だった。能作の面でいえば、禅竹には『野宮』『芭蕉』『楊貴妃』『定家』のような一連の傑作があり、世阿弥没後の能を一歩進め、閑寂な幽玄の美を完成させた重要な人物で、この点での才能は疑いを入れない。このほかにも『小督』や『俊寛』のような作品も禅竹の手になるもので、これらには亡き元能が実験的に用いた手法を取入れた面も見られる。室町前期の代表的な能作者を世阿弥とすれば、後期のそれは疑いなく禅竹であるといっていいだろう。 さらに禅竹には『六輪一露之記』なる藝論書があり、これは世阿弥の思想をさらに一段階高めたものとして注目される。時代が新しいだけあって、世阿弥よりも現在の能に応用の利くところが多く、その意味ではわれわれにとって藝論としての価値は禅竹のほうが高いともいえる。たとえば世阿弥における幽玄の概念は、女をシテとする優美な鬘能などに限定される美意識で、たとえば鬼の登場するような鬼畜能は幽玄と対立する存在であるととらえられていたが、禅竹の藝論では、鬼畜能であろうと鬘能であろうと、能というものは幽玄を基盤として成りたっており、それが曲趣によってさまざまな現象的変化を経るにすぎないとしている。現在の能において用いられる幽玄の概念は、あきらかに後者のひろい用法によるものであって、これひとつとっても禅竹の思想がいかに現代的な意味を持つものであるかがわかる。禅竹の藝論はやたらと神秘説に傾いたり、牽強付会が過ぎるせいであまりまともに論じられないが、能作同様、世阿弥以降の能の発展を見てゆくうえでは決して缺くことができない重要な存在である。 こうした著述からもしのばれるように禅竹の教養は相当のもので、歌道についてはほぼ玄人なみの知識を持ち、漢詩文についても五山の禅僧などについてよく学んでいたらしい。両者ともに、もしかすると世阿弥を凌ぐのではないのかとさえ思わせる。何しろ『六輪一露之記』に頼んで註を書いてもらったのが一条兼良なのだからすごい。兼良といえば室町中期を代表する大知識人で、漢籍、国書双方にわたっての豊富な教養にもとづいて、有職故実、政治、倫理から王朝物語、和歌、連歌、はては遊藝雑藝にいたるまでありとあらゆるものに註釈書をつくった人物。世阿弥の二条良基を凌ぐブレーンである。一説に、このほか禅竹は一休とも交際があったともいい、当時の一流の知識人と、世阿弥のように「かわいがられた」のではなく、半ば対等に近いつきあいをしていたようにも考えられる。 しかし、世の中というのはままならぬものだ。世阿弥のような天才にして、老いて子を失い、それほど意に添うわけでもない養子を流儀のために取らざるをえず、しかも他流の若き太夫にかつての自分を見るかのごとき才能あふれる人物を見いだすとは。禅竹をかわいがりながらも、世阿弥の心中は複雑だったろう。この男が俺の跡継ぎだったらと思っただろうし、元能が生きていればこうなっていたかもしれないと死児の齢を数えるような心もあったにちがいない。あるいは老い先短い自分にひき比べ若い禅竹に対して嫉妬をおぼえることすらあったのかもしれない。自分は必死に社会の底辺からはいあがってきたという思いがあるのに(世阿弥が若いころ、能とはまだそういう立場にあった)、禅竹は社会で一定の地位を能がしめることが認められた時代に生れている。嫉妬はそうした世代の差にも潜んでいたのではないか。 老いた才能が、若い才能を見いだすとき、その心はよほどに複雑なものであったことを、われわれは容易に想像することができる。世の中とは、うまくゆかないものなのだ――。
2006年01月22日
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ここ半年ほどで二度も女の人から「××くんは不器用なのよね」というようなことをいわれた。ちっとも色っぽくない場面で。 ――年上のお姉さま(?)には、そういうふうに見えるのだろうか? 自分ではちっともその自覚がなくて、いや、むしろ小器用な、小器用でありすぎる人間だと思っている。わりかし何でもできるし、それなりにそつなくこなせるし(二重跳びできないけど……。逆上がりもできないけど……)。どうやら、自分で思っているのと、人が見るぼくとは、違うらしい。 あまりものごとを心がけて生きてはいない性格なのだが、かたよらないようにというのは念頭にあったりする。好き嫌いもはげしいが、嫌いでないものは嫌いにならないようにしている。気の進まないことはやらないが、気が別段進まなくとも、特に嫌だと思わないかぎりは一応やってみることにしている。 やっぱり、不器用なのだろうか? たぶん人生の情熱の五割程度は本を読むことにそそいでいて、これこそわが命と思わなくもない。でも、本がなければないでやってゆけるような気がする。じっさいに、時間の長さでいえば、本を読んでいるのよりぼうっとしていることのほうが多いのがぼくの毎日だ。ときどき本を読まないほうが気楽ではないかと思うことがあり、手に取らないときはかなり長いあいだ忘れ去っていることが多いから、本を読むことしかできない人間ではないと思う。 文章を書くことはどうか? これは半分以上必要にせまられてやっているだけで、別にぼくが選んだ道ではない。もともぼくは引込み思案で、あまり自分のことをだれかに向けて主張しようという意欲はなく、文章を書くのものっぴきならない理由があってか、ただ一人で考えをまとめたり自適するためだったりする。やりはじめると熱中するところはあるから、ある程度以上のものにならないとくやしくはあるが、文章を書くことを自分の存在の基盤に据えるところにまではいたっていないような気がする。 ほかのことも、だいたいは似たようなものだと思う。ぼくのできることのうち半分程度は人並みくらいの技量に達していて、そのうち四つ五つは玄人はだしだというのが、ぼくの自己診断だが、しかしぼくは玄人ではない。あくまで上手な素人であって、そのことについては、おこがましいようだが自分ではシャーロック・ホームズ的生活を送っていると考えている。 ホームズはスコットランド・ヤードも三舎を避ける推理の天才だが、それを商売にはしていない。バイオリン同様、彼の推理はあくまでも趣味であって、おそらく史上最大の名探偵であるこの人は同時に永遠の素人探偵である。素人が趣味で商売人以上の業績を挙げてしまうのはイギリスのよき伝統だが、そのぶん彼らの仕事は気楽で背負っているものがすくない。そして瀟洒で軽々としている。ぼくの文章や謡もまたしかありたいというのが、わがささやかな念願である。 素人の特権はいっしょうけんめいでなくてよいことであり、器用であることだろう。玄人にあってはじめて誠実で着実なことが求められる。素人は無責任でいいから(あるいは自分自身の名誉に対してのみ誠実であることを求められるから)、才子よろしく洒々落々として器用でありうる。玄人が自分の表藝について器用貧乏であることはゆるされないが、素人ならばそれはゆるされてしまう。それどころか何でもさらりとこなせることは一種の名誉でさえありうる。 ――そういうつもりで、ぼくは生きているのだが。 決して、藤純子と競演してたころの高倉健的な生きかたはしてないつもりなのだが。 でも、不器用に見えるのだろうか? 世間にうまく合っていないように、見えるのだろうか。ぎしぎしきしむ音を立てながら生きているように、見えるのだろうか。……自分ではよくわからない。 あるときぼくなりに人生の主題というものを見つけた。それが先にも言った「気のすすまぬことはやらぬだけ」(尾崎一雄の名言)という態度であって、ぼくは自分の趣味に合わないことから一歩距離を置くようになった。その一歩の距離のおかげで、ずいぶんすらすらと、抵抗なく世の中を生きてゆけるようになった気がする。主義とか、主張とか、そういう大声で叫ぶほどのことでなくとも(むろんそれらも含まれはするのだが)、ぼくはぼくなりに自分の持っている世界に入ってきてほしくないものがある。山葵を醤油に溶くのはいやだ、着物でロレックスの腕時計をしている人はいやだ、靖国神社に八月十五日にお参りにゆく人もいやだ。そういうものには、なるたけ距離を置くしかないと、ようようにして覚って、そういうものから自分の生活を守ることを、その結果として自分が毎日機嫌よく生きてゆけることを、多少学んだわけである。 陶淵明の心境か。人境に廬を結びて、しかも車馬の喧しきなし――。退いてみずから足といった恰好である。 別に世の中に拗ねているのではなくて。世間にはぼくと相性のわるいものがいくつかある。そしてそのなかのこれまたいくつかは、水と油のようにぜったいにぼくとは合わない。しかしそういうものにかぎって、往来で行きあった酔っぱらいのように決してむこうからぼくを避けようとはしてくれない。だから、こちらで一歩距離を置いてやるのである。世間を捨てて西行法師のように隠者になるというのではない。「気のすすむこと」とはまだまだ俗っ気を持ってつきあってゆくつもりなのである。ただ、どうにも気のすすまないことからは、すっと逃げたいだけ。 それが、見ようによってはぼくという人間の不器用さに見えるのだろうか。 不器用なのか? 不器用なのかもしれない。ぼくには、気のすすまないことをぼくと合うようにどうにか変えようという気もないし、ぼくのほうが気のあうように変ろうという気もない。まして、気のすすまないことをあえてやってみようという前向きな心根は、薬にするほどもない。……こういうのを人生の敗残者というのか。 高倉健ならば、気のすすまぬ現実に対して自分の「気のすすむ」やりかたをぶつけにゆくだろう(あの類の映画は、たいてい最後は主人公が一人で悪人方に切込みにゆくことになっている)。そして最後にぽつんとつぶやけばいい。「自分、不器用すから」と。――しかし、そういう英雄的な悲劇こそは、もっともぼくの気のすすまないものである。 やはりぼくは不器用で、世間の片隅にひとりでいじけている人間なのか。うまく世の中に立ちまわるべきまっとうな精神を、どこかで缺いているのだろうか。 自分でも、書いているうちにふとそんな気分になってきた。 器用貧乏で、不器用で。我ながらわけのわからない生きかたをしていると、やはりいうべきなのだろうか。 ……すくなくとも、不器用だからといって高倉健みたいにもてないことは事実。
2006年01月21日
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やっと『天人五衰』を読んだ。『豊饒の海』四部作の最終巻である――、というよりも、三島があの事件を起す直前に最後の原稿を書きあげて完結させた作品といったほうがとおりがいいか。 ぼくは三島のいい読者では決してなくて、文体の悪い作家の左右両翼が大江健三郎と三島由紀夫だと思っている(もちろん左が大江で右が三島なのはいうまでもない)。大江健三郎はまだしも意図的にああいう文体を使っていて、それなりに読みやすい工夫をしているから読めなくもないのだが、三島はそもそも自分が悪文を書いていることに気づいていない(それどころか美文を書いていると思っている)ところが厄介である。――かつて中村真一郎の小説を、三島が「文章が大まかだ」と評して丸谷才一と論争になったことがあるが、たしかに中村真一郎の大まかな文体(ほとんどあの随筆と変らない)と比較すると三島の小説は相当に緻密な文章で書かれている。いや、むしろ緻密すぎるくらいで、そのくせ悪文なのである。たぶんそこには因果関係があるのだろうが、ここでは触れる余裕がない。ただその悪文のせいで、ぼくがどうにも三島を読めないということだけを書いておけばいいだろう。 したがって、代表作といわれる『豊饒の海』四巻を読みあげるのも、なかなか億劫で時間がかかってしまった。読んでる時間はそれほど長くないのだが(そもそも三島は難解な小説の書ける小説家ではない)、一巻読むと飽き飽きして次を手に取る気になれないのである。 そのくせ『豊饒の海』というのは最後まで読まないとおもしろくない小説なのである。これにかぎらず三島の小説はいちばん最後にオチがあるものが多く(戯曲では『鹿鳴館』などが代表)、なかには最後の一行を書きたいがために小説をつくったのではないかと思われるような作品もあったりして、この点では山崎正和の「オチ作家」「コント作家」という評が的を射ている。近ごろ『豊饒の海』の第一部『春の雪』だけが映画化されたが、たぶんここだけ独立させても小説のおもしろさは伝えきれないだろう(竹内結子と妻夫木聡を見にいくという目的なら別だが)。 もったいぶって隠しだてするほどの小説ではないから、粗筋をざっと説明すると、松枝清顕という華族の少年が主人公で、これが第一部で聡子という女主人公に恋をする。しかしたがいに想いあいながら二人の恋はかなわず、清顕は若くして病死し、聡子は仏門に入る。第一部『春の雪』は、病に倒れた清顕が聡子の寺を訪れるが、面会をゆるされないという場面で終る。 第二部『奔馬』と第三部『暁の寺』で、清顕は転生をかさね、かつて彼が夢に見たとおりの数奇な人生を送って、二度とも二十歳を前にして死ぬ。清顕の友人本多繁邦は、転生した清顕にめぐりあい、やがてそのふしぎな巡りあわせを知るにいたるのだが、この間、聡子は小説に登場しない。聡子が再び出てくるのは第四部『天人五衰』の最後の場面である。第四部で本多が巡りあった少年は、清顕の転生であるがごとき特徴をしめしながら、けっきょく二十歳を過ぎても死ぬことなく、単なる俗物になりおおせてしまう「偽物」であった。本多は彼を養子にしてまで面倒を見ていたのだが、そのことに裏切られたような気分になり、残り少ないみずからの人生(清顕と同い年だった彼はもはや七十を越している)をかえりみて、せめて一目聡子に会い、このふしぎな運命を語りあいたいと思う。 聡子の寺は、むろん小説上の架空の存在だが、奈良にある某寺をモデルにしたというのが研究者の常識で、小説のなかの本多も奈良に旅行し、五十年ぶりで聡子に再会する。老いさらばえた彼は、かつてこの寺を訪れようとしてはたせなかった親友に代って「松枝清顕という男を覚えていますか」と語りはじめると、今はやはり本多のように老いた聡子はこういうのだった――。「そんな人は存知あげませんが」。 清顕が転生を重ねるたびに前の生の記憶を忘れさり、新たな生命としてあらわれるように、聡子はこの地上にあるがまま転生を遂げてしまった。だからこそ清顕との「前の生」のことはもはや彼女の知るところではない……。物語の構造を三島の腹づもりに立って説明すればそんなところだろうが、なるほどこのオチはよくできている。できすぎなほどによくできている。 おそらくこの一行を書かんがために、この作家は蜿蜒何千枚かの小説をつくりあげてきたのだろう。聡子の「転生」にまつわるこのオチは、聡子と清顕の恋からオチまでの期間が長ければ長いほど効果をあげる。たとえば『豊饒の海』が二部構成で『奔馬』の最後にこの場面があったらどうだろう? まだ四十かそこらの聡子の口からこの科白が出れば、読者はどうしても彼女のおとぼけだと思ってしまう。しかし八十近い老尼が口にするのであれば、それはほんとうに忘れてしまったのか、呆けたのか、或いは彼女の「転生」なのかよくわからない、神韻渺茫たる風情を持つことになる。さらにいえば第二部以降小説の主軸を担っている清顕(およびその転生)と対照的に、ちっとも登場しない聡子には読者の期待がふくれあがっている。おそらく大半の読者は、ひとり清顕を想って清らに暮す尼僧というロマンチックな想像をしているわけで、その期待をみごとに裏切る「転生」のオチは、それゆえ期待が過度であればあるほど効果があがる。清顕が転生して活躍し、聡子が出てこなければこないほど、最後のオチが生きるわけだ。 したがって、逆にいうと、『豊饒の海』というのは第二部と第三部がなくてもいいといえばいい。第二部と第三部を読んだようなつもりになって第一部と第四部のあいだに「長い時間」を空想するなら、べつに第一部と第四部の結末だけくっつけても何とかなってしまうのである。――三島が小説家としてどうしても評価が低くなってしまうのは、多分にこういうところに理由がある。蜿蜒と大長篇を書いて、その四分の三程度がなくてもどうにかなるなどと読者に言われるのは、作家としては最大の恥だろうが、三島を読んでいるとどうしてもそうつぶやきたくなってしまう。理由はかんたんで、オチがあざやかすぎるのだ。あまりにあざやかで、あざとい、才気走ったオチを用意しているから、オチとオチの伏線だけばあればいいじゃないか、ということになってしまう。そのほかの肉付けが無駄に見えるのだ。また三島の場合そう思われてもしかたない部分もあって、彼の描写はどうも作りごとめきすぎておもしろくない。文章がうわついているし、大事な細部の描写にリアリティーや実在感がないのだ。これは小説家としては致命的な缺点だが、そのために三島の作品は筋がおもしろくても、細部がおもしろくない(小説で大事なのは筋と細部で、どちらかといえば細部の上手な小説家のほうが大成する)。さらにいえば、筋は筋、それ以外の肉付けは肉付けであっさり独立していることが多くて(これは筋を考えた後でそれに肉付けをする作業がよほど苦手だったせいだろう)、細部が物語の骨格に結びついて伏線になっていないから、後で見るとその部分がそっくり無駄と感じられることが少なくない。 『豊饒の海』の読後感をひと言でいうならば――それはほかの三島作品についても多かれ少なかれ言えることだが――、脱力感である。なんだ、こういうオチかよ、というところだ。オチそのものはよくできているのに、それがあざとすぎて、じゃここまで読んできた途中の四分の三あたりは、あんまりオチに関係なかったのか、ただ読者の聡子に対する期待を高めるくらいの役割しかなかったのか、とあからさまにわかってしまい、なんと無駄な時間をついやしたことだろう、とがっくりくる。たしかになかなかいいオチだけど、これなら別に『春の雪』の最後のページに「それから五十年後――。聡子は七十七歳になっていた。」と付けたして、結末を移動させてもじゅうぶん読めるんじゃないか、と思ってしまう。 たとえばモーパッサンの短篇もオチのうまさにおどろく。ほほう、と感心して、舌を巻く。しかしその後で三島のようにむなしい気分にならない。そらあたりの違いが、三島という小説家の変なところである。――この人、ぼくにはよくわからない。
2006年01月20日
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近松秋江という小説家がいる。 もっともぼくはこの人の作品を三つしか読んだことがなくて、講談社文芸文庫から出ている『黒髪』と『別れたる妻へ送る手紙』と『疑惑』が入った短編集を通読したぎりである。早稲田の英文科で坪内逍遙に出逢い、同郷の正宗白鳥などとその門に出入りするあいだに小説家を志した人で、白鳥同様明治四十年代から大正初年にかけての私小説作家である。秋江というのは号で、シュウコウと読む。近松は苗字ではなくて、近松門左衛門が好きだったところから筆号にしたのだという。 今では文学史でも名前が取上げられないような小説家の一人だが、ぼくはたまたま名前だけは知っていた。というのは広津和郎の随筆に秋江の名前が出てくるからだ。――宇野浩二の出世作に『蔵の中』という小説がある。話をはしょって紹介すると、貧乏なくせに着道楽な男がつくった着物を次々に質入れするのだが、着道楽だけあって質屋がきちんと手入れしているか心配でならない。ついに質屋に頼んで蔵のなかに入れてもらい、土用のうちに自分の着物を虫干しさせてもらう、という不思議な小説で、宇野は広津や葛西善蔵などと同時期に出てきた私小説家だから、ふつうこれは宇野の実体験を小説化したものだといわれている。また当の宇野も着物凝りで、そう思われても仕方がないような人だったのだが、じつはこれは宇野自身の体験ではなく、近松秋江の話なのだという。 宇野や広津が文壇に出てきたとき、秋江はすでに一家を成していたが、この先輩はひどい変人畸人だというのがもっぱらの評判で、その当時のゴシップのひとつに、この『蔵の中』の珍談があったのだという。どこからかそれを仕入れてきた広津は、小説のいい題材になると思いながら、しかしどうも自分の作風には向かないと思って親友の宇野にすすめ、そこで宇野が書いたのが『蔵の中』ということらしい。 もっともひと昔前の文士なぞというのはたいてい世間一般の常識からははずれた人ばっかりで――漱石や鴎外のような人は特別である――、その貧乏も常軌を逸したものが多かったが、しかしそれにしても近松秋江という人はひどかったらしい。正宗白鳥は秋江にとって同窓、同門、同郷の、第一の友人とでもいうべき人だったが、それでさえ「話をすればおもしろいが、人間は嫌なやつだった。無責任だしね。こいつと行動をともにするとロクなことにならないと思った。ただ書いたものだけはひどくいいんだ」と言っている。天性よほどに社会的生活に向かない人だったようである。 書いたものがいいかどうかは、ぼくにはほんとのところよくわからない。『黒髪』を近代日本文学の十指に入る傑作だとまで言った批評家もいるが、そしてたしかにひどくうまいと思わせる描写がそこかしこにあるのだが、どこまで褒めていいかわからないようなところもある。そもそも私小説というのは構成が平板でぐだぐだになっているものなのだが、特に『黒髪』にはその傾向がつよく、とにかく話のもりあがりがないまま読者の欲求不満がつのってゆくような感じでもあり、しかし一方ではその欲求不満のつもり具合がなかなかおもしろくあったりもする。すこし王朝物語のたいくつな筋運びに似ているところもあり、たしかに余韻嫋々という感じはしないでもないのだが、どこをどうしたいのかよくわからない物語を前に、こちらとしてはとまどってしまう。 中身は要するに情痴小説である。『蒲団』なんぞよりもっと未練がましい、ダメな男が、女に手玉に取られたり、捨てられたりして、しかしそれを思いきれなかったり、忘れられなかったり、ひどい場合には女の心変りに最後まで気づかなかったりして、その微妙な心の変化が綿々とつづられている。そのくせ心理描写はうまくない。ちょっとした風景描写や自然の変化を描くことはまことにうまいのに、小説の大半を成している心理的なものの叙述はあいまいで、どことなく自分でも何がいいたいのかよくわかっていないような印象すら受ける。おそらく自分の心理(私小説だから)に対する分析や掘下げが足りないせいで、たとえばその方向を極限まで推しすすめた大岡昇平の『武蔵野夫人』のような傑作から比べると、そもそもが心理分析という行為そのものにこの作家の性格は向いていないのであろう。 それなのにこの人は、なぜ不得手なことを蜿蜒と繰りかえしながら小説を書いているのかといえば、おそらくそれが好きだからなのだろう。好きというと語弊があるが、要するに秋江に小説を書かせているのは女に対するあきらめきれない未練の気持で、それをともかくも紙のうえにぶちまけなければ気がすまない。ただ、それだけならばふつうの私小説家と何の変るところもないのだが、彼の場合にはそのぶちまけかたが下手なりになかなか丁寧なのである。俺のいっていることを聞け、という乱暴なやりかたではなくて、私のいってることわかりますかね、というやけに遠慮深い、しかしずいぶん執念深くもある筆致で、丁寧に心のうちを描いてゆく。かといってくどいというほどでもなく、文章の粗さが妙に一歩引いた風情をつくっていて、磁器の肌のように描写はひんやりしている。少々矛盾するようだが、下手で、丁寧で、一歩引いた、というのが近松秋江という作家の心の描きかたなのである。 もし文が人をあらわすものなら、たしかにこの人は女にもてないし、それどころか手玉に取られてだまされるし、しかもそれをふんぎりわるく綿々と思いつづけていることだろう。『黒髪』は京都の遊女を身受けしようとして、何度もはぐさかされ、ついに手ひどく裏切られても、まだなお女を信じたいと思いつづける小説である。『別れたる妻に送る手紙』は、逃げた女房への恋情やみがたく、彼女に送る手紙というかたちをとった小説だが、彼女に対する切々たる未練を綴りながら、たまたま知合った娼婦に心から惚れてしかもそれにだまされ、裏切られるという顛末を、未練な恋心まで逐一報告してあるふしぎな小説で、しまいのほうでは娼婦に裏切られてこれほどあわれな自分をどうかお前もあわれんでほしい、というような風情すら感じられる。この人、徹底して未練がましく、ダメ人間であって、しかも致命的に女ごころがわかっていない。人がよくて、気がやさしくて、なかなかあきらめのつかない、だれかに愛してほしくて、女の愛情におぼれたくてしかたがないくせに、ちっともうまくゆかない、しかもそれが悲壮に英雄的なのではなくて、どこかずっこけている。そのずっこけぶりが、丁寧なくせに、どうしようもなく下手で不器用で、そのために積極的にかっこよくもなりきれず、自信なげに世間から一歩退くその文体にあらわれているというのは、穿ちすぎだろうか。 私小説家というのは、男性的に悲劇を生きる悲壮な破滅型の人は多いが、近松秋江のようなあまりにも女性的な破滅型の作家はめずらしい。この人は、太宰治に似ていなくもないが、太宰の饒舌や積極的に破滅を求める幼児性とでもいうべき型の精神性ともまたやや雰囲気を別にしていて、在原業平だとか、光源氏だとか、梅暦の丹次郎だとか、白面のやさ男が現実の前にどうしようもなくて、ただただよよと泣崩れるといった女性的な悲劇を演じる人というのがもっともぴったりくるような気がする。太宰はかっこわるさを装っているが、秋江は正真にかっこわるい。かっこわるさのなかで平然と生きている。 松本さんと同じく岡山の人だが、太宰好きな人にとってはどううつる作家なのだろうか。多少興味がある。
2006年01月19日
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近ごろ、およばれでピアノの演奏会に行ってた。――お目あては、今年五つになる知合いの娘さんがお母さんの伴奏で弾くバイオリンで、これがなかなか上手にドボルザークの《ユモレスク》やなんかを演奏していて、まことにかわいらしい。はじめて逢ったときはまだおしゃぶりをくわえて、なんだかよちよち歩いているちいさな生きものだった子が、あっというまに四分の一か八分の一のバイオリンを達者に弾けるようになって、しかも発表会だというので、まっ赤なドレス(いっちょまえに腰のところがちゃんとふくれているビクトリア朝スタイルのドレスなんです)でおめかししているのを見ると、どうも人間というのはふしぎなものだと思わざるをえない。こっちが年を取るわけだ。 よく日本のピアノの演奏会には二種類あるという。ひとつはほんとうのピアニストがお金をとって聴かせる音楽会で――たまたまこの日《ユモレスク》を聴いた後岡山に行って、ベートーベンだの、《ラプソディ・イン・ブルー》だの、こっちのほうの演奏会も聴いてきた――、これは世界中どこにでもある。たいていこうした演奏会をやるピアニストというのは、それだけで食べている人で、その意味では純粋に職業的な音楽家といってもいい。 もうひとつは、町のピアノの先生が生徒に弾かせるお浚い会としての演奏会で、これはどうも日本にしかないらしい。あるいは他の国にもあるのかもしれないが、日本のように制度化されているところはちょっとめずらしいだろう。《ユモレスク》を聴いたのはもちろんこちらで、じつをいうとこの子のお母さんというのがピアノの先生なのである。 こういう演奏会の特徴は、さっきまで舞台の上でピアノを弾いていた人が、自分の出番が終ると客席に廻ってくることで、要するにどこまでが出演者でどこまでが聴衆なのかはっきりしない。来ているお客さんはたいていが招待客だが、それも同じ教室に通っていてその日はたまたま出ない生徒さんだったり、出演者の知合いだったり、かぎりなく出演者に近い立場の人々で、見ようによってはサクラみたいなものだが、別にだれもそういうやかましいことはいわない。むしろかわいい娘や息子の晴舞台を写真に撮ったり、ビデオにおさめたりするのに忙しい。 温習会というのは、もともとが江戸時代の町のお稽古屋さんの風習で、そのころは町方の女の子の素養として長唄や清元、あるいは踊りなどを習わせることがごくふつうに行われていたわけだが、何しろいっしょうけんめいに習っても発表する機会がないというのは張合いのないものである。まさか歌舞伎座に出演するわけにもゆかないから、料理屋のような広い座敷があるところを借りて、温習会をみんなでやる。もちろん無料で、お客はしかも素人の藝につきあうわけだからたいていお膳のひとつぐらいはついている。当然その費用もバカにならないのだが、これは出演者がそれぞれ割って負担し、その上で師匠にも応分のお礼をして舞台の手助けに出てもらうのである。師匠のほうからすればふだんの稽古料のほかに一種のボーナスとなるわけで、まめな人になるとお浚い会の前に下浚い、小浚いを何度かやったり、正月の稽古初や夏の浴衣会など、丁寧に機会をつくってはかせいでいたりした。――むろん事情は今でも同じで、邦楽のお稽古場にはお能も含めてこうした温習会の制度がきちんと残っている。 ピアノももとは舶来の楽器であるわけだが、長く日本人にしたしまれているあいだにすっかりこうした邦楽のやりかたに習って、お浚い会なるものが生れたらしい。邦楽のほうでいう「お社中」を「お教室」、「お師匠さん」を「先生」、「お浚い会」を「発表会」と言いかえているためにすぐにはわからないが、内実は長唄や日本舞踊のそれと何ら変るところはない。ピアノの温習会がさかんになったのは教室が増えた戦後のようだが、これはクラシックの日本化というよりも、お社中制度というものがいかによくできているかを示しているといえる。素人を教えて生活しようと思えば、江戸時代以来のお社中のシステムほど優れたものはないのである。 むろん事情は千差万別で、ピアノの、或いは長唄や日本舞踊のお社中だからといって、どこも同じとはかぎらない。なかにはお浚い会などをしないところもあるだろうし、純粋に生徒のやる気を育てるために経費だけを求める先生もいるだろう(これは会場の規模を見ればたいていわかる)。しかし一方で、これを徹底して商売に利用している人がいるのも事実で、たとえば生徒がお浚い会に参加しないことを許さなかったり(缺演しても経費とお礼を取られたりする)、年に何度もお浚い会をやったりという話はちょくちょく耳にする。お稽古場というのがなかなかむずかしいのはそのためである。 しかしそれはそれとして、このような温習会が日本の文化のなかから生れてきたのはおもしろい。おそらくわれわれの文明には、伝統的にプロフェッショナルとレッスン・プロのあいだに区別がなかったために、こうした風習が生れてきたのではないかと、ぼくは思っている。たとえばホロビッツが素人のお弟子さんに趣味としてピアノを教えるということはないが、日本では宗祇のような第一流の連歌師が田舎の大名に連歌の手ほどきをして食いつないでいた。モーツアルトやベートベンのむかしに遡れば西洋の音楽家も宗祇のような商売をしていたのだが(作曲で喰うのはなかなかむずかしく、人嫌いなベートーベンでさえピアノ教師の看板は出していた)、いつの間にかこの風俗は廃れたものらしく、リストあたりからプロとレッスン・プロはまったく別のものとなってゆく。日本では、よほど特別な場合を除いて、たとえば長唄や能の、人間国宝となっているような一流の演奏家であっても、素人のお弟子さんを取っているにもかかわらず。 話を単純にしてしまえば藝術では喰えないというのがその理由であって、長唄にしろ、能にしろ、歌舞伎にしろ(歌舞伎役者の大半は踊りの師匠を兼ねている)、たとえ玄人であってもそれなりの生活をするためにはお弟子さんをとらなければやってゆけない。異常なのはむしろ大衆の支持という不安定な要素のうえで生活できているクラシックの音楽家のほうで、モーツアルトもベートーベンもあれほどに貧しかったのに、いったいなぜピアニストはこれほど金持ちになったのだろうかとぼくなどは不思議な思いがするのだが、ひるがえっていえばそれだけ日本という風土は素人の藝事に寛容なのかもしれず、そのことがひいては藝術を社会全体が支えようとする態度をかたちづくっているのかもしれない。ここでおもしろいのは西洋のパトロンが金を呉れるだけなのに対して、日本のパトロンは藝術家の素人弟子になってお稽古料というかたちでパトロネージュを行うことで、たとえばその代表が後鳥羽院と藤原俊成、定家の関係だった。 定家の贔屓だった後鳥羽院は、彼のような歌を詠みたくてたまらず、ついに定家と定家の父親であった俊成を師匠にして旦那藝で和歌を詠みはじめるわけだが、これこそ日本史上最大の玄人師匠と素人弟子の組合せといっても過言ではないだろう。新古今集というのは後鳥羽院が中心になって定家に編集させたもので、いわば大規模な温習会が歌集のかたちを取ったものということもできるわけだが(後鳥羽院は「すこし自分の歌が入りすぎだ」と後で何首か削っている。素人弟子らしく謙虚である)、ただひとつわれわれと違うところは、後鳥羽院が和歌の天才とでもいうべき人であって、ついに師定家と肩を並べる大歌人に成長し、最後には藝術観の相違から仲違いしてしまうことである。 ね、お稽古場というのはなかなかむずかしいもんでしょう?
2006年01月18日
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われわれは人生についてほとんど何も知らないも同然であるが、ただひとつだけはっきりしていることがあって、それは人間がいつか死ぬということである。 だがここからが皮肉なのだが、経験論的にいうと人間は死を知る(認識=経験する)ことはできない。生きている者は死を認識=経験することができないし、死を認識=経験したことのある者は生きてはいないのだから、つまり死を知っている人間はこの世界には一人もいないことになる。――我いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らんや。人間は本質的に生きるということしか知りえない存在であるというべきなのかもしれない。 親鸞は『歎異抄』のなかでこういっている。死後に弥陀の浄土があるかどうか、人が救済されるかどうか、そのことについてわたしは確信がない。ただわたしの師である法然がわたしにそのことを教えてくれた。そして法然という人は決して嘘をつくような人ではなく、わたしはかの師のことを信じている。だから浄土や救済をわたしは信じている。 見ようによってはこれは一種の詭弁であって、親鸞にとって死後の世界はどうでもいいことだったのかもしれない。現世に念仏三昧の信仰を持つ。そのなかに生の充実を感じる。感じれば、それで充分ではないか。死後どうなろうと知ったことではない。この生に満ちあふれる何かを感じれば、それで人は充分に幸せでありうるという思いが、親鸞にはあったのではないか。 我いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らんやという考えかたを、ぼくは反語としてとらえている。なぜ死を知る必要があるのか。死は知る必要のないものであると、孔子や親鸞は言おうとしているのではあるまいか。 人はたいていの場合死にたくないと思う。それは、三歳で死のうが、百歳で死のうが、同じことだろう。死の前の一瞬には、それがどんなに苦しい死にかたであったとしても(はやく死んだほうが楽だとしても)、やはりだれもが死にたくないと思うにちがいない。その一瞬の持つ意味や価値は、その人の生の長さにはほとんどかかわりなく、同一である。そういう意味では、時間というのはすべての人にとって平等なのだ。 幾何学上の概念では、線には長さがあるが、点には幅も長さもない。しかも線は点の集合によって構成される。人生の時間についても同様であって、われわれの生は、極小の、ほとんど時間的幅がないも同然な瞬間が積重なって一本の線になっている。線そのものには長さや短さがあるが、それを構成する瞬間という点は、百年生きた人にとっても、三歳で死んだ人にとっても、同じである。 瞬間という点の連続は、いつ、どれだけの長さの線を構成してとぎれるか、だれにもわからない。しかしいつかとぎれることだけははっきりしている。そして、たぶん最後の点において、人間が痛烈に死にたくないとあがき、あせるであろうことも。 だとすれば、われわれは、それ以前のちいさな点をいかに充実させて生きるかに意をそそぐよりほかはない。幅も、長さもない瞬間という点は、しかし質を持つ。そして、ある一瞬をよく生きることができさえすれば、それは永遠の生へとつながるのだ。なぜなら、われわれの望む永遠の生とは、ただいつまでも死なないことではなく、ある幸福がずっとつづくことなのだから。満ちたりた一瞬を経験した人は、その一瞬を心のなかで無限に並べてやることで、永遠の生を経験できる。永遠につながるのは常に極小の一瞬である。それはあたかも、幾何学において直線のイメージをよくあらわすものは、線分よりも点の集合であることに似ている。 ぼくが死ぬということはぼくが0になるということである。しかし同時に0は永遠の世界にリンクしうる存在でもある。死は形而下の問題であり、永遠は形而上の問題なのだから(線分が形而下の観念であり、直線が形而上の観念であるように)。ジョン・ダンは詩のなかでこう言っている。「死よ、驕るな! お前に何ができよう」。そう、死には何もできない。彼らはわれわれが永遠につながることを妨げえない。 死は、たしかにこの卑小な「現実」という名の世界においてわれわれを殺すだろう。しかし彼らは、ある人の経験した美しい一瞬までを殺すことはできない。ましてわれわれが形而上の世界において、その一瞬を無限に連続させてかたちづくる永遠を、死のごときがどうして手さえ触れることができようか。――死は〈ここに現にあるもの〉を殺せはしても、〈ここにかつてあったもの〉や〈こことは別の世界に存在するもの〉を殺せはしない。 ある一瞬を、美しく、よく生きること。そこに満ちるはりつめたちからのうちに、死はしのびよることをえない。
2006年01月17日
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『翁』を演じる前には、たとえ能ではなくて謡(『神歌』)であっても、あるいは正式の会ではなくて内輪の温習会程度でも、かならずお清めの盃事をする。これは『翁』が半ば神事と考えられているためだが、同時にこの曲が能のなかでももっとも格の重いものとして扱われるためであろう。 能の場合には楽屋に翁飾りという祭壇までつくるが、謡のときはそこまではしない。三宝に御神酒、洗米、粗塩と土器を準備し、出演する人が順に御神酒とお米を頂き、塩で身を清めた上で切火をしてもらい(舞台にも開演の前に切火をする)、その後に舞台にあがる。別にどうということもないのだが、これもひとつの儀式のようなもので、儀式としてやること自体が楽しくもある。 ぼくは近ごろの結婚式があまり好きではない。つきあいだから出はするものの、あれもこれもといろいろ盛込みすぎて、どうもめまぐるしすぎるような気がする。花嫁さんの多くは、披露宴を笑いあり、涙あり、感動ありのもりだくさんな催しにしたいのだろうが、二時間か三時間のなかにそれほどいろいろつっこむのはどうも至難の業で(映画だって笑いか涙か感動か、どれかひとつだ)、けっきょくは何がなんだかわからなくなってしまう。――スライド上映もけっこう、キャンドル・サービスもけっこう、お歌も、寸劇もけっこうとは思うものも、それをぜんぶやろうとすれば、どうもぼくとしては首をかしげざるをえないことになる。 しかし世の花嫁さんはふしぎとそれをやりたがる。あれもこれもぜんぶ盛込もうとしたがる。あれがぼくにはほんとうに不思議で、やはりこれは女の人というのが催しごとや思いでが大好きなせいなのだろうかと長いあいだ思っていたのだが、近ごろどうもそうではないらしいことにふと気づいた。 考えてみると、現代の日本人の生活というのは日常に儀式ばったことが何もないのである。むかしは、そうではなかった。お正月やお彼岸、お盆、花見、月見、雛祭、端午の節句といった年中行事やあるいは神祭や七五三のような通過儀礼はいうまでもないが、日常生活にもそれなりに守るべき規矩や作法があり、多くの日本人はあたかも俳優が舞台で役を演じるように、そうした儀式を演じていた。むろん、それにはたくさんの煩わしさがともなうわけで、お彼岸ごとにおはぎをつくったり、花見のたびにお重をひっぱりだしたりすることは、このあわただしい時代にあってはたいへんな負担である。だからこそ、そうしたものはすこしずつ簡略化されたり、すたれてきたわけなのだが、しかしそれとは別に人間には儀式への欲求というものがある。 民俗学の用語を使えば晴の儀式と褻の日常ということになるのだろうが、人が生きるうえで、特別な日に何か特別なことをしたいという欲求はどうも不可缺のものらしい。たとえば女の人のおしゃれというのがそれで、さしたることのない用事でも、人類の半分は特別に装いたいという欲求を持つ。あれは、そうでなくてははずかしいとか、そうしなくてはならないからという以上に、女の人たちがこの機会におしゃれをしたいと思うからこそ、ちょっとしたことのために彼女たちはめかしこむのである。 そうしたなかば本能的な欲求がわれわれにはありながら、しかし人生のうちにおいて儀式そのものは確実に減っている。そうした現実と理想の乖離によって生れる欲求不満が、披露宴において間歇泉のように噴きあげてくるのでは、ないだろうか。つきあうこちらとしては、いい迷惑のような気もするのだが。 われわれの文明は、もうすこし余裕をとりもどすべきなのかもしれない。戦前のようにしっかりとしたしきたりは無理であるにしろ、『翁』の盃事程度の、だれでもやろうと思えばすぐにできる儀式めいたことは、みんなですこしずつやったほうがいいのではないだろうか。お月見にお団子を供え、芝居見にきれいに着飾ることは、無用であるように見えて、じつはひどく大切なことなのかもしれない。
2006年01月16日
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老人「さあ、友よ。語ろうではないか、かの黄金のひと時を。我らの生が意味のくびきを離れ、純粋な時間の軽やかなつながりへと変じるその時を。――音楽とはただ存在であって意味ではないことをわたしは言おう。それはあたかも熟れた果実を口に含むかのように、ただ官能の奥深い箇所に直接語りかける。意味? 意味は夾雑物でしかありえない。だれが七月の白桃のすがすがしい甘さに意味を求めるだろうか。わたしはプラトンに逆らおう。美は真にして善なるゆえに美であるのではなく、美であるゆえに美なのだ。」 若人「饒舌が老人の特権であるように、皮肉が若者の特権であることをあなたはご存知でしょう。まこと生きることに疲れうるほどに若い者は、その疲れのゆえに物憂く皮肉を弄ぶことができる。ああ、わたしとてなぜ今さらプラトンに賛成しようか。健全な美に我らはもはや飽いた。太陽のあかるさは美しさよりも単調さをわたしに思わせる。爛熟と頽廃、忌まわしい死の匂いなくしてなぜ美がありえるようか? 汚辱のなかに差す一筋の光明をこそわたしは美と呼ぶ。永遠の美、真実の美、善きものの美に呪いあれ。美は阿片だ。ただ刹那に我が生の哀しみをなぐさめる。」 老人「それでは君は、美を意味であると――、裏返された意味であると言うのか。」 若人「さよう、かのギリシアの賢人が真と善に美を見たように、わたしは偽と悪とに美を想う。」 老人「哀れな若者よ、それでは君は音楽の美を知らぬのか!」 若人「なぜ? 音楽こそは意味の美ではないか。あなたはあのラフマニノフを聴かなかったのか。憂悶と暗鬱の、諦念と絶望のためのプレリュード。」 老人「そう、たしかにあのラフマニノフこそは意味の美であった。ああ、わたしはあれほどに、楽譜に音符をもって音楽が記されることをあからさまに示した曲をしらない。ことに我らのピアニストがあの曲を奏でるときはそうだ。意味、意味、意味! 意味の洪水。音符のひとつとして、その音で、そのつよさで、その長さで、そこに存在することを理由づけられないものがあっただろうか。すべては周到に準備され、用意され、はりめぐらされている。」 若人「ディッケンズの小説に登場する端役のように、ことごとくが大きな物語に寄与するために存在する音符と強弱記号。かの人はそれをもっとも美しく奏で、再現するのだ。紙とインクのなかから意味を、理由を、存在の意義を見いだし、それに生命のうるおいを与える様は神の業にすら似ている。」 老人「もし神が創造主であるというのならばね。」 若人「皮肉は老人には相応しくない――。」 老人「そうだ。老人には生に疲れる権利すらない。――続けたまえ。」 若人「たとえばベートーベン。朝の光のように軽やかに伸び、秋の木の葉のように憂愁を弄び、わたしの女友達のように饒舌におしゃべりをつづけるその音色は、しかしどのような細部に至るまでかの人の意志のもとにある。」 老人「技巧や音感の問題ではなく、これはかの人がいかに音楽を飼いならしているかということなのだ。籠のなかの文鳥のごとく飼いならしながら、その歌う声は野にある雲雀のように自由であった。」 若人「過剰なほどにあらわれる連続した音の上行もしくは下降が、そのときどきに必要な表情を持ちながら、泉からわき出ずる水のように尽きせぬゆたかさを持っている。一篇の物語を織りなす明暗の対比。」 老人「地獄を経巡り、天国の門に至るかと思えば――」 若人「永遠の楽園をはやくも追放された巡礼者となり――」 老人「安息を得ることのかなわぬ旅の道に――」 若人「五月の野の花がひらき、或いは十二月の霙が降るのを、彼は見る。どうだろう、何ものかによって人知れず紡がれているかのような、この大きな筋書きは。」 老人「我らの生もまたこのようなものなのだろうか。物語の登場人物たちが、みずからを動かす作者の存在を知らず、あたかも自由な意志によって生きていると誤解するように、わたしの生にはわたしの知らぬ大きな意志があるのではないか?」 若人「それならば、わたしの知らぬ我が人生の小説家よ、どうかこの生に宿命と悲劇を与えたまえ。」 老人「なんたるロマンチズム!」 若人「しかしベートーベンからロマンチズムを取りさっては何が残るだろうか。」 老人「君は、だれかが用意してくれた宿命や悲劇を生きたいというのか?」 若人「その通りだ。それがベートーベンやディッケンズによって周到に準備された宿命であり、悲劇であるならば、それを生きる以上に美しい生きかたがはたしてあるだろうか? ――あなたはわたしよりも長い時間を生きているはずだ。より正確な答えを知っているでしょう。」 老人「答え、答え、答え! ああ、この世は答えばかり求められる。若い人よ、ひとつだけ教えてあげよう。人生に答えを求めることはできない。なぜなら我らはひとたびの生をしか生きえないからだ。もしこうでなかったら、という仮定は無意味なのだよ。〈こうでなかった〉人生をもういちど生きなおすことは何人にも不可能なのだから、〈こうでなかったら〉と〈こうであったから〉を比べてみることができない。」 若人「しかし、知っているはずだ、我らならぬ、我らの人生のベートーベンやディッケンズは。」 老人「なるほど。だがそれはもはや神の御手にのみ委ねられるべき領域なのではないのかね。」 若人「そうであればこそ、より上手に、美しく物語を紡ぐ神によって、わたしの人生は描かれたい。」 老人「それが、たとえばかの人のごときピアニストというわけか。」 若人「そう。戯れは常に真実を孕む。やはりかの人が紙とインクのなかから音楽を導きだすことは、神が人間の運命を準備することに似ている。」 老人「うまくつくられた人生に、それを生きる人すら気づかぬほど自然で美しい、悦びが、宿命が、悲劇があるように――」 若人「かの人の奏でるベートーベンにも、聴くものがそれに心ゆくまで安心して身を委ねることのできる、嵐が、悲歌が、喜悦がある。自然に、美しく。」 老人「音楽を貫いて流れる意味!」 若人「意味をなぜ憎む? これほど自然に、美しく描かれた表情であれば、たとえそれが周密な計算に基いた意味づけであり理由づけであろうとも、我らはそれを純粋に愉しむことができる。」 老人「そう、これほど美しく、これほど立派なベートーベンがほかにあるだろうか。我らはそこに音色の与える官能のみならず、かの人が音符のひとつひとつに見いだした意味や理由を理解する喜びすら見いだしうる。」 若人「神が人生の意図を説明することは決してないが、ピアニストはその演奏のなかに音楽という世界の構造を理性によってひそやかに示すことができる。」 老人「だが――、神ははたしてさびしくはないのだろうか。すべてを理解し、見渡した場所に立って、それをただ他者に与えることの孤独。描かれる小説のなかの人物は何も知らず、それを描く作者はすべてを知っている。ベートーベンを聴く我らは何も知らず、それを弾くかの人はすべてを知っている。たった一人で山巓に立つ心ぼそさを、やはりかの人も感じているのだろうか?」
2006年01月15日
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なんにでもそれなりに体系というものがある。 たとえば仕舞のお稽古なら『猩々』だとか、『鶴亀』だとか、短くて、基本の型がたくさん入っているものからはじめて、順にむずかしいものをやってゆくわけだし、史学ならばたいてい古代から現代へと時代順に学んでゆけばいい。或いは料理にも焼きもの、煮もの、炒めもの、酢のものといった仲間分けがあり、法学にはおおよそ憲法、国際法、経済法、刑法、民法といった区分がある。色鉛筆なら色の濃い順番に、煮ものの調味料なら色のうすい順に、ピアノの鍵盤は音の高低の順に、と、それぞれ多少の違いはあるにしろ、世の中の大半のものには、広大な領域に筋道を立てて、順序よく、わかりやすくするための順番や仲間分けもしくは樹形図があるわけで、それが体系と呼ばれるものにほかならない。 要するに、体系というのは目的にすぐに達しうるための機能であって、それ自体に意味はさまでないのだが、社会の交通整理や道案内としてひじょうに役に立つ。散らかっている部屋でマッチの箱を捜すようなムダな労力を省いてくれるのだから、これほどありがたいものはないわけで、たとえば現実の社会にあって配列、整理、索引、検索機能といったようなかたちをとる体系が、ぼくは大好きだ(その割に部屋は片づいてない)。 余談ながら、索引というのは書物にとってとても大切な機能で、学術書などだと索引がついていない本はそれだけで古書の価値が減る。目次と索引がきちんとしている本は中身の情報に様々なアプローチの仕方が可能だから利用価値が高いし、本文とは異った原理および順番で配列されている索引にあっては思いもよらない二つの情報が出逢ったりして(時としてシュール・レアリスム的とすら思えるような項目が隣りあっていたりして、じつは書物のなかでもっとも詩的なのは索引なのではないだろうか)、発想を刺戟するという役割も果してくれる。 索引のない本は読みにくいし、後々で利用することがむずかしいから、多くの人はふつう様々に索引の機能を自分でつくる。フランスの知識人に多いのはノートやカードをとる方法で(彼らはそもそも図書館を利用して本をあまり持たない)、これは一時期日本でもはやったことがあるが、そのほかにアンダー・ラインを引いたり(これは漱石がよくやった方法で、彼の洋書には万年筆でアンダー・ラインと本文に対する英語のつっこみが書いてある。書込みは岩波の全集で読めます)、ページの端を折るという原始的な方法もあるし、表紙の見返しに本物のお手製索引を作る人もいる。大長篇になると家系図をつくったり、ロシア小説の場合には名前一覧をしおりに書込んだりというのもよくある話。ぼくが主に使っているのは、文房具屋さんで売っている付箋で(ただしいちばんちいさいのでも文庫本には大きすぎるような気がして苦労して使ってます)、これは付箋が埃を拾ってくるのをがまんすれば、本も汚れないし、一目で情報を探しだせるからなかなか便利な方法である。――以上余談おしまい。 部屋の片づけが致命的に下手な人にまま見られるのは、部屋自体に体系がないという型で、要するにものの配置が合理性を持った基準に合致していないわけだが、時にはよく片づいているにもかかわらず、ものの配置が意味不明で必要なものが見つからない部屋というのすらある。これは放っておくとついついものが散らかるという型とは根本的に違い、そもそも整理ということに性格もしくは考えかたが向いていないというべきで、必要なものをすぐ探しだせるということは部屋がすっきりしているという見た目以上に大切な問題である。美しくとも非機能的な部屋は本質的に整理できていないというべきなのだろう。 機能性というのは極限までつきつめるとどうも味気なくなるが、しかしある程度はかならず必要なものであって、その点において論理性と似たところがある。そして体系は機能性の表象とでもいうべき存在であり、これを缺く人とはなかなかにつきあいがたいところがある(ときどき、ほんとうに、まったく機能性もしくは論理性を缺いた人というのが実際にいる)。 しかしだからといって人の悪口はいえない。たとえば学問にも完全に体系性を缺いた分野というものが実際にあり、それがわが文学研究なのである。 ナントカ文学というと、人はその名前に驚いてさぞ立派な体系――具体的にいえば「ナントカ文学早わかり」の類で述べられるような、或いは分厚いマニュアルや手順書に想像されるような――があるように思うらしいが、実際はとんでもない。そんな体系なぞ何一つなくて、いわばどうでもいいような雑学に次ぐ雑学の積みかさねが文学研究という分野であるといっていい。 ただし文学研究の周辺分野、たとえば書誌学(本の印刷や書写に関する学問)や文献学(たくさんのバリエーションのある異文のなかからもっともオリジナルに近い本文を構築しなおす学問)にはそれなりの体系がある。ことに日本人は性格が細かくて偏執狂的なところがあるから、こういう分野ではしばしば世界的な業績を挙げることがあるくらいなのだが、その一方で文学の内容を研究する世界においては体系もマニュアルもなくて、おかげでそういうものの使いこなしかたがうまい日本人はさほどめざましい業績を挙げているとはいえない(日本人とよく似た型にドイツ人の文学研究があり――あのニーチェだって最初はギリシア文学の文献学的研究者だった――、まったく逆の型にフランス人の文学研究がある)。 そういえば『三四郎』の一場面だったと思うが、上京してきた三四郎が九月にはじめて東大で英文学の講義に出(当時は西欧の風習そのままに学期が九月からはじまった)、これから読む文献の著者の履歴を解説されたのを、あまりにも雑然としすぎていてどうノートをとっていいかわからず、とりあえず作者が生れた村の名前のスペルを先生が板書したとおりにノートに写して教場を後にした、という描写があった。大まかにいえば、文学研究などというのは、この類のじつにまとまりのない、雑然とした学問なのである。 しかしさればといって文学研究に体系性が皆無かといえばそうではない。本来の文学研究というのは、要するにこうした雑然たる豆知識の集大成のうえに、みずから一つの体系を構築することにその最終目標がある(そのもっともいい例が折口信夫の業績)。文学研究にあって、体系は次々に現れる研究者たちが構築してはほどき、また自分なりに組立ててゆくものなのである。たいていの文学研究者が、何にでも興味を示して、馬に喰わすほど本を買いあさるのはそのためであって、とりあえず雑知識の山を築くことからわれわれの商売ははじまるのだろうが、悲しい哉、山を築いたところでちからつきたり、山を築くことだけに夢中になったりというのはよくある話である。 その結果として……、むろん部屋の体系性は失われがちであることはいうまでもない。形而上の雑知識と、形而下の本の山はどうやら連動しているらしく、ため込むだけで体系を持たない人というのは、研究においても、部屋の整理においても、同じような結果に陥るものらしい。
2006年01月14日
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『翁』という能がある。正確なことをいうと、本来これは能ではなく、能、狂言と並んで「能楽」を構成する第三の藝能なのだが、能役者と狂言師で演じるという意味では能の一種であるともいえる。 内容は筋というほどのものもなく、翁(老人)が現れて人々を祝福し、祈祷を行う祝言の曲で、折口信夫などは往古の門付藝人の藝能ではないかとしているが、ともかく能よりもずっと古い時代の様式によっているために、種々わからないことが多い。第一詞章からしてが意味不明である。 舞台の経過にしたがって述べると、登場人物は翁(老人)、千歳(少年)、三番叟(色の黒い老人。翁のモドキ)の三人(流儀によっては千歳のほかにもう一人出ることもある)で、それぞれが一番ずつ祝言の舞をする。まず翁が総序として祝祷の謡を謡い、次に翁の露払いである千歳の舞。つづいて翁の舞。その後、狂言方によって三番叟の舞が二番続けて(鈴之段、揉之段)舞われるのだが、これはおそらく露払いの舞(鈴之段)と三番叟本人の舞(揉之段)を一人で兼ねたものだろう。 折口信夫は、千歳―翁の祝舞を鈴之段―揉之段というかたちで三番叟が繰返すのは「モドキ」の発想だと言っている。つまり難解で格式の高い神意だけでは解しにくいために、それを人間(もしくはより低級の神)がおもしろおかしく噛砕いて再現するのがモドキであり、モドキこそはわれわれの社会に通低する文明の型(たとえば和歌と俳句の関係)だというわけである。 『翁』のうち、ぼくのようにシテ方について習っている者に関係あるのは翁の舞のところまでで、この前半だけを取出して、うちの流儀では『神歌』と言っている。 〈総序の謡〉 翁 「とうとうたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 地 「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁 「所千代までおはしませ。 地 「我らも千秋さむらはう。 翁 「鶴と亀との齢にて。 地 「幸ひ心に任せたり。 翁 「とうとうたらりたりら。 地 「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 中の「所千代まで」以降はわかりやすい。この場所にずっと、千年も万年も(「鶴と亀との齢」)、心のままの幸せを得て、住みつづけようという意味で、折口の説に拠るならば、これは村々を廻る門付藝人が旦那の家の前までやってきて、その家(建物としても、家庭としても)の千秋万歳を祈っているのである。「所千代まで」とこの場所に永遠にいよと祈るのは、門付(あちらこちらを廻って家々の門口で祝言の藝をする)ととらえるのがもっともふさわしい。 意味不明なのは最初と最後の「とうとうたらりたらりら」で、いまだに出典や意味について定説がない。ぼくがもっとも妥当だと思っているのは、笛の唱歌(ドレミのように音階を言葉で表現するもの)、もしくはそこからはやし言葉に発展したという説で、催馬楽(平安時代の俗曲)に 酒をたうべて、たべ酔うて、たうと懲りんぞや、詣でくる、なよろぼひそ、 詣でくる、たんな、たりや、らんなたりちりらなどとあるのがその傍証になるだろう。雅楽の笛の譜には「チイラリイリイラ、タアリアリヤリ」というのがあるのだそうである。いずれにしろ、この部分は「やんれめでたや、やんれめでたや」といった類のはやし言葉と解しておくのが穏当だろうか。 〈千歳の舞の前後〉 千歳「鳴るは瀧の水。鳴るは瀧の水。日は照るとも。 地 「絶えずとうたり。ありうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり。常にとうたり。【千歳之舞】君の千歳を経ん事も。 天つ乙女の羽衣よ。鳴るは瀧の水。日は照るとも。 地 「絶えずとうたり。ありうとうとうとう。【千歳之舞】「天つ乙女の羽衣」というのは仏書に有名な劫の説話。四十里四方もある岩の上に、百年に一度天女が舞いおりて、羽衣で軽く岩を撫でて天に帰る。これを百年ごとに繰返して岩が摩滅して消えうせるまでの時間を一劫とする、という話で、「永劫」という言葉の典拠でもある。基本的にこの部分の千歳の祝祷の内容も総序の翁と同内容であるといっていい。 「鳴るは瀧の水。鳴るは瀧の水。日は照るとも。絶えずとうたり。常にとうたり」というのは平安時代のはやり小唄。『安宅』という能にも出てくる。 〈翁の舞の前後〉 翁 「総角やとんどや。 地 「尋ばかりやとんどや。 翁 「座して居たれども。 地 「参らうれんげりやとんどや。 翁 「千早振る。神のひこさの昔より。久しかれとぞ祝ひ。 地 「そよやりちや。 翁 「凡そ千年の鶴は。万歳楽と歌うたり。又万代の池の亀は。甲に三極を 備へたり。渚の砂。索々として朝の日の色を朗じ。瀧の水。冷々として夜 の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。今日の御祈祷なり。 ありはらや。なぞの翁ども。 地 「あれはなぞの翁ども。そやいづくの翁とうとう。 翁 「そよや。【翁之舞】 千秋万歳の。歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。 地 「万歳楽。 翁 「万歳楽。 地 「万歳楽。この部分は三段に分かれる。「参らうれんげりやとんどや」までは翁の出座をうながすやりとりで、神格の高い、重々しいシテが舞を舞うための慫慂といえる(この点は三番叟でも忠実になぞられている)。歌詞はこれも催馬楽の 総角や、とうとう、尋ばかりや、とうとう、離りて寝たれども、まろびあひ けり、とうとう、か寄りあひけり、とうとうの替歌である。もとの催馬楽は「総角(あげまき)のようだ、ヤアヤア。尋(ひろ)ほど、ヤアヤア、離れて寝ていたのに、ころころころがって、ヤアヤア、ぴったりくっついてるじゃないか、ヤアヤア」(総角は紐飾りで、何本かをより合わせてつくるところから、ぴったりくっついて寝ることの暗喩に用いている。尋は長さの単位で、人間が両手を広げた長さ)という意味で、要するにそ知らぬふりで離れて寝ていた男女がやっぱり共寝したではないかとはやす歌(源氏物語に「総角に長き契りを結びこめおなじ所によりもあはなむ」という歌があり、平安期には「総角」は男女のことを指す隠語として用いられた)であるが、『翁』ではこれを、「総角(あげまき)の(歌の)ように、ヤアヤア。尋(ひろ)ほど、ヤアヤア、(離れて)坐っていたが、さあそちらへ参ろうよ、ヤアヤア」として用いている。 以下「天下泰平国土安穏。今日の御祈祷なり」までは翁の祝祷の謡。めでたいものづくしで歌詞を作っている。 「ありはらや。なぞの翁ども」からは翁の舞の様。「ありはらや」は「あれはなぞの」の転化ではないかと思われる。「あれはどこの翁だ、そもそもどこの翁だ」と翁自身と地謡とで繰返して、さあ舞うぞと言っているのである。
2006年01月13日
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「萎める花の色なくて」という言いまわしが能にはよく出てくる。例えば『井筒』に 地 「我ながら懐しや。亡婦魄霊の姿は。萎める花の色なうて。匂ひ残りて在原の。 寺の鐘もほのぼのと。明くれば古寺の。松風や芭蕉葉の。夢も破れて覚めにけり。 夢は破れて覚めにけり。とあるがごとく。 もともとこの言いまわしは古今集仮名序にあるもので、業平の歌風を論じて 在原の業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の色なくて、にほひのこれ るがごとし。と述べた部分が典拠だから、『井筒』のように業平と関係のある能(シテの女が業平の恋人)にはよく引用されるのだが、しかし「萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とはまことにうまいことを言ったものである。たしかに業平の歌は盛られた心が大きすぎて、かたちがうまくととのっていない。しかしそのちぐはぐなかたちとこころのあいだに生れる摩擦熱のようなものが独特の風情を持っていて、言外の余情というとすこしちがうだろうが、心が言葉を超えて遠いところで響いているような印象を受ける。その様はまさしく「萎める花の色なくて匂ひ残れる」なのである。批評というのは、いかに的確に対象を論ずるかだけではなくて、それを印象的に語ることが求められる文藝だが、古今集の仮名序を読むかぎり、この当時の日本はきわめて優秀な批評家を持っていたことがわかる。 世阿弥は若いころに足利義満や二条良基に可愛がられたために、歌道に造詣が深かった。当時の猿楽の役者としてはかなり高度な教養を持っていたはずで、それが作能にもじゅうぶん生かされている。『井筒』も世阿弥の手になる能だが、「萎める花の色なくて」くらいは当然の知識だっただろう。――ただ、能というのは(そのほかの文学形式にしても同様だが)教養があれば書けるというものではない。一篇の佳品を得るためには、教養以上に実作のうえでの技法のようなものが求められる。劇作でいえば、それが趣向にあたる。教養をいかに興趣に結びつけるか。その工夫が足りない能は所詮駄作といわざるをえない。 『井筒』が能のなかでも一二を争う傑作であるのは、ひとえにこの趣向の面で世阿弥が成功したからであるといっていい。『井筒』のシテは伊勢物語の「筒井筒」の段に出てくる女(紀有常の女)の亡霊で、業平への思慕のあまり成仏することを得ず、かつての懐しい井筒のかたわらで業平の片身の装束を着て舞うという筋立てなのだが(井筒が水鏡の役割を果たして、彼女は舞いつつ自分自身の姿に業平を重ねあわせて、それに恋をする)、この、最後の場面でシテが二重の存在になる(業平と紀有常の女)という凝った趣向によって『井筒』の味いはほかの能と比較を絶した深いものになっている。能は所詮舞踏劇にすぎず、そのためにあまり込みいった筋を用いることができないのだが、舞踏の持つ抽象性を極限まで追求しながら、いや追求するあまり、これほど複雑で芳醇なドラマツルギーを紡ぎあげた才能はまさしく天才というしかない。 ――つまり『井筒』という曲の最大の趣向は、女が男になり、自分が自分自身に恋をするというところにあるといっていい。 そして、この複雑な趣向が世阿弥の教養と見事に結びついた例が先に掲げた「亡婦魄霊の姿は。萎める花の色なうて。匂ひ残りて」という一節なのである。本来業平に対する批評であるこの言いまわしが、業平の装束を身につけ、業平になりきって舞う「亡婦魄霊」の描写として用いられることは何の不思議もない。しかしここで注目すべきなのは、このときシテが業平でありつつ紀有常の女でもあるという点であって、つまり本来男性について用いられた譬喩が、ここでは女の身である紀有常の女についても用いられている。 そして人を花に喩える「萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし」という言いまわしは、どちらかといえば女性について用いるほうがより相応しいのではないだろうか? ここはおそらく仮名序を書いた貫之の千慮の一失であって、たしかに業平に対する評語としてはまことによくできた表現であるものの、譬喩に用いられたイメージが業平という男性歌人のイメージとしっくりこないという恨みがある。世阿弥はそこをうまく工夫したわけで、表面上は男(業平)の、実際には男装の麗人(紀有常の女)についてこれを用いることによって、イメージの問題をうまく解決している。 そして女に対してこの「萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし」という譬喩を用いた場合、「色」の意味するところはすなわち容色と取られるべきである。劇作家としての世阿弥がどれほど巧緻な作者であったかということはこの一事を見てもじゅうぶん理解できるのであって、彼はおそらく計算づくでこうした意味のゆれを利用している。「筒井筒」の段を読めばわかるが、紀有常の女は若い女を囲った業平に一時捨てられる。その愁いのあまり容色も衰えたであろうし、また今や亡霊となったその様は往事の美しさの面影はあるにしろ「匂ひ残れるがごと」きである、という含意を、ここで世阿弥は利かせている。 つまり右の『井筒』の文章は、業平の歌風と同時に紀有常の女の容色についても述べた一種の掛詞であるわけだが、このこまやかな描写によってわれわれは『井筒』のシテについて的確な解釈を行うことができる。彼女はおそらくもう若くはない女性で、しかし往事の美貌はまだその面影に残っている。あたかも『井筒』の舞台は荒廃した在原寺(業平を弔うためにかつての井筒の側に建てた寺)であるが、その廃墟にふさわしく盛りを過ぎた美貌の人こそ、この曲のシテなのである。 それゆえ、『井筒』の美意識あるいは主題とでもいうべきものを言うとすれば、それは荒廃の美、失われた美、残りの色香、といったものであろうと、ぼくは思っている。盛りの花ではなく、散り去っておぼろに春月にかすんだ花。寂寥感と無常感をともなったそうした光景こそ、『井筒』という能で世阿弥が求めた風情なのではないだろうか。――その様をひと言でいえば、まさしく「萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし」である。 能の世界では、世阿弥の死後、彼の娘婿であった金春禅竹が『定家』『野宮』『芭蕉』といった曲でこうした美意識を徹底させてゆくが(いずれも廃墟を舞台に、若くはない女性をシテにしているところが『井筒』と共通している)、その先駆はおそらく既に『井筒』にあったのだろう。満開の花を貴んだ古代の美意識がようやく死にたえ、代って寂寥感につつまれた残りの花をその寂寥感のゆえに賞美する時代がやってきたのである。世阿弥はそうした美意識の過渡期にあって、敏感に次の時代を先取りしていたのであろう。 世阿弥よりやや遅れる歌僧正徹は次のように言っている。「幽玄とは、隈のかかった月、霞んだ花のようなものである」――。「萎める花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と、そのこころは響きあう。
2006年01月12日
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桂米朝が師匠の米団治から言われた言葉といふのをどこかで読んだ記憶がある。 ――藝人は、米の一粒、釘の一本もよう作らへんくせに、酒がうまいのまづいのいうて、世間の場所ふせぎに生きたある。せやさかい、むさぼるといふことをしてはいかん。藝のよしあしはお客が決めてくれる。とにかく必死に精進したらええのや。それから、この稼業を志した以上は末期あはれは覚悟の上やで。 職業には貴賤というものがある。米を作ったり、家を建てたり、きちんとものを作って生きている人こそがまっとうな人間であって、それ以外の、それこそ「米の一粒、釘の一本もよう作らへんくせに、酒がうまいのまづいのいうて」金を稼ぐような商売はことごとくやくざなまがいものというべきである。噺家もさうだし、ナントカの研究者などといふのもその代表だ。こんなものはことごとく世間の場所ふせぎのやうな稼業で、人様のお情けにすがつて生きているにすぎない。だいたいそもそもが屁みたいな職業で、巾着切りだの、女のヒモだの、地回りだのと何ら変るところはないのであり、元来が世の中に向つて自慢できるやうなものではないのだ。お百姓さんが明日からゐなくなつたら世間は困るだらうが、新古今集の研究者がゐなくなつてもどうといふことはない。 しかしナントカの研究者のやりきれないところは、それ文学博士でござい、それ大学教授でございと、自分がいかにやくざな人間であるか気づかないところにある。噺家も、巾着切りも、女のヒモも、地回りも、それはそれなりに世間に対して引け目といふものを感じながら生きてゐるのに、たとへばナントカの研究者やカントカの先生は自分が世の中にあつて意味のあることをやつてゐると満腔の自身を持つて暮してゐる。 たとへば文学なら文学といふものは、別に生きてゆくうへでどうしても必要なものではない。無人島に漂着した人間がまづ今夜読むべき小説を準備しようとするだらうか? 所詮かうしたものは虚の虚たる存在であつて、実のあるものとはまかりまちがつてもいへない。むろん虚には虚の魅力があつて、さうであればこそぼくのやうにそれに淫する人間がゐるのだし、そのことに一生を捧げようとする人がゐる。しかしそのことは、虚が実よりも重い意味を持つことを保障するものではない。 無人島に十人の人間が漂着したとしよう。三人で家を建て、六人で食糧を集めにゆく。残つた一人がこれからの暮しの無聊を慰めるために小説を書き、もしくは噺の稽古をしてゐるとする。最後の一人はほかの九人に対してどういふ思ひを抱くだらうか? ――虚を生業とする人間にはそれなりの覚悟と遠慮がなければならない。世の中の絶対に不可缺な求めに応ずる人々の犠牲のうへに立つて、われわれは「酒がうまいのまづいのいうて」暮し、さんざん能書きを垂れながらどうしやうもないやくざな虚の業に身をやつしているのだから。 だからぼくは、国文学の研究がいかに社会にとつて缺くべからざるものであるかについて、一抹の疑ひもなく滔々と論ずることのできる人があまり好きではない。残念ながら文学の研究などは一粒の米を作ることに比べればほとんど無に近い価値しか持たないし、第一われわれはさうした社会的意義もしくは使命感によつて国文学を研究してゐるわけではない。ただ好きだからさうしてゐるだけだ。そして、国文学の研究は、それを好きな人がゐればやればいいし、ゐなかればやらなければいいだけのものに過ぎないが、米を作ることは、それを好きな人がゐやうがゐまいがだれかがやらなければならないのである。 文学の研究など、世の中にあつては何の価値もない。役立たない、といふ意味においてではなく、無人島の喩へにおいてあまりにもあからさまであるやうに、倫理的な問題として何の価値もないのである。その覚悟もなくしてかうした虚の業を生きようとするのは背徳の厚顔無恥さといふものである。 小さいときに祖母から茶碗の米粒は残してはいけないのだといふことを教へられた。米の一粒はお百姓さんの苦労の結晶であるがゆゑなのだらうが、しかし今になつてみるとぼくはそこにもうひとつ違つた意味を見いだす。お百姓さんを実の実なる一方の極であるとすれば、文学を研究しようとするやうな人間は虚の虚なる極といつていい。倫理的な問題として、後者は前者に対する遠慮を常に持ちつづけなければならない。 だから米団治のいふやうに、われわれのやうな人間は世の中に対してむさぼるべきではない。あくまでもわれわれは世間の場所ふせぎで生きて(生きさせてもらつて)ゐるだけなのであつて、そのことを誇るどころか、正面切つて世の中に言ふといふことすらはばからねばならない。それがこの商売を選んだ以上、当然のふるまひではないか。 そのうへで、虚には虚なりの矜持がある、とはじめていふことができる。 社会といふものをひとつの有機体と考へるならば、そのなかにある虚は価値の転倒者としての役割を果してゐる。本来意味などあるはづのないことに意味を見いだしてわけのわからないことをやつてゐる連中。要するに文学の研究に代表される虚の業は、世間の平明な価値観を無視する一種の狂人であるといへて(だからこそ世間的な序列においては下層に属するのであるし、またそのことにわれわれは逆説的な価値を見いださなければならない)、さういふ人間が世の中に常に少しはゐることによつて、世間の「常識」といふものが暴走することを押しとどめることができる。船が一方に傾くときそれを揺りもどさうとするちからを復原力といふが、虚が社会において果してゐるのはまさにこれである。狼少年のやうに、その言ふこと、表現することの大半はうさんくさい目で見られるが、万に一つか二つはそれが的を射てゐて、社会を誤らせないための働きを担ふ。 それゆゑに、虚にたづさはる以上は、その前提となる「うさんくさい目で見られること」を受けいれなければならない。狼少年が常に尊敬されてゐたいと考へるのは不遜といふものだらう。われわれはいつもあからさまにうさんくさい、いかがはしい、世間に対して遠慮を抱きつづける者であらねばならない。価値の転倒者といふのは、さういふものなのである。 狂人は暖衣飽食すべきではない。虚の覚悟といふものがあれば、それは野垂死する決心のことだらう。もちろん、何も進んで野垂死することはないが、末期あはれの覚悟がなくして虚に身を捧げることは、すくなくとも倫理的ではないといへる。世間のまつとうな道を外れて歩いてゆく以上、そこに生れてくる一切のものは自分で引きうけるよりほかはないのだ。――ナントカの研究者に比べれば、噺家のほうがずつと潔い。 息子が文学をやりたいといへば親はぶん殴つてでもそれを止めるべきだし、それでもあきらめなければ親子の縁を切つて、二度と家の敷居を跨がせるべきではない。文士なぞはやくざか泥棒と同じやうなものである。それくらゐの覚悟があつてこそ世間のまつとうさといふものも、文学のおもしろさといふものも、意味を持つ。 世の中のただしい道に背を向けて歩き、その苦しさに耐へ、しかも世間に対する遠慮を常に抱きつづける、その苦行のやうな日々に、見あふだけの価値といふものを、おそらく文学ならば文学、噺ならば噺は持つてゐる。
2006年01月11日
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心 敬 ふかき夜の梅のにほひに夢さめて小簾巻きあへぬ軒の春風 心敬は室町時代の連歌師。 「小簾巻きあへぬ」は梅の香に匂う風がちからよわくして御簾を巻きあげきることができない、の意。「梅のにほひに夢さめて」とあるように梅は忍び男の衣の香であり、下の句は男の訪れがないことの暗喩でもある。「巻きあへぬ」という含みの多い言葉の使いかたがいかにもこの当時の歌人らしい幽玄な感じを与える。 春の歌でありつつ恋の歌でもあることが理解できればそれ以上の解説は必要ない。
2006年01月10日
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九条左大臣女 しらみゆく霞のうへのよこ雲に有明ほそき山のはの空 鎌倉時代後期に京極派の歌人として活躍した人物である。右は「春曙を」として風雅和歌集に採る。 「霞の《うへ》のよこ雲」「有明《ほそき》」というあたりに繊細な技巧がある。時として繊細すぎるために自家中毒になりがちな京極派の和歌であるが、この作にかぎってはその弊はない。霞の上に雲があり、有明(曙光)がほそいなどというのは、ありえない表現ではあるが、しかし言葉の実感としては伝わってくる。シュール・レアリスムのように言葉の意味が融解するところまでは踏みこまず、しかし陳腐な言葉遊びには終らない、そのごくわずかな間隙にあわせて言葉を使っている点が技巧の繊細さなのである。 ほのぼのと明けゆく空、ひとすじの曙光――。朝があけてゆくようにして、ここに春もはじまる。くらがりにつつまれたほのかな光の美しさは、これぞ幽玄無上というべきか。
2006年01月09日
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志貴皇子 岩そそぐ垂氷の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかな だれもが知る有名な万葉歌で、万葉集には「岩走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも 」(巻八)とする作だが、新古今集では初句と第五句を右のように変えて採っている。カモをカナとするのは、上代語のカモが当時にあってはやや異風にひびいたせいで、それ以上の意味はなかろうが、「岩走る」を「岩そそぐ」に改めたのは興味深い。 万葉の本文には初句を「石激」としており、激はハシル(勢いのあるものが流れ出る)と訓むのが至当というべきであろう。ソソグはいささか疑問があるが、平安時代の万葉集訓読ではこういう訓もあったらしい。撰者がわざわざこうした少数派の訓を採用して新古今集に収めたのは、やはり「岩走る」という言葉のあらあらしさよりも、もうすこし春のおおどかな喜びを求めたためであろう。ほんの些細な違いではあるが、これによって歌の印象は一変する。「岩そそぐ清水も春の声たててうちや出でつる谷のさわらび」という作が定家にあるところを見ると、彼の好みなのかもしれないが、それよりももうすこし広く、新古今歌人の間で共通の理解として成立っていた好みであるような気がする。 早蕨は源氏物語の帖名にあり、このために平安末期ごろから歌の題として詠まれるようになった。
2006年01月08日
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菅原孝標女 浅みどり花もひとつに霞みつるおぼろに見ゆる春の夜の月 平安後期を代表する作り物語『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』や『更級日記』を残した女流作家菅原孝標女を歌人として発見したのは、藤原定家であった。定家は菅原家に秘蔵されていた『更級日記』を借受けて筆写し(現在の『更級日記』の伝本はことごとくこの定家筆写本が祖本となっている)、そのうちから右の歌を選んで新古今集に採っている。 詞書として以下のように記されている。 祐子内親王、藤壺に住み侍りけるに、女房、うへ人など、さる べきかぎり物語して、「春秋のあはれ、いづれにか心ひく」な どあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ。要するに奈良末期から平安期にかけて盛んに行われた春秋の論争(いずれがより風雅であるか)のなかで詠まれたもので、孝標女がひとり義侠心から春の歌を詠んだものらしい。 「浅みどり」は実景の色ではなくて、空を青(蒼)とする漢文の表現によるものだろう。おぼろ夜は「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしく物ぞなき」(大江千里)という古歌によるものだが、「花も(霞と)ひとつに霞みつる」としたところが孝標女のお手柄で、繊細な季節のうつろいを上手にとらえている。いかにも定家の好みそうな様だといってよかろう。
2006年01月07日
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宮 内 卿 うすくこき野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え 宮内卿はこの名歌を詠んだがために「若草の宮内卿」という名を得たという。 宮内卿のことは、資料がなくてよくわからない。父は右京権大夫源師光の娘で、源具親には妹にあたる。その歌才によって特に後鳥羽院が出仕を命じたという。鴨長明『無名抄』には歌道執心のあまり病を得、父親が心配してこれを諌めたが聞かず、やがてはかなくなったと伝え、二十歳前後で没したらしいが生歿年は不詳。――以上で、宮内卿に関係する主な史料はすべてである。この人は三百首あまりの歌だけを残して、この世の中から忽然と消えたごとくである。 鎌倉期の説話集『古今著聞集』巻八には「宮内卿男疎遠の時詠歌のこと」として以下のような記事がある。 宮内卿は、甥にてある人に名たちし人也。男かれがれになり にけるとき、よみ侍ける。 都にもありけるものを更科やはるかに聞きし姨捨の山 甥と関係を持ったというのは、史実か、または説話作者の創作であろうか。いずれにしろ、あまりにはかない生涯にこれほどの彩りがなくてはと思うのは、ぼく一人ではないらしい。
2006年01月06日
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後鳥羽院 霞みゆく高嶺を出づる朝日影さすがに春の色を見るかな 遠島百首巻頭歌。隠岐配流の後の作である。 「さすがに」というのは、この隠岐島でも、ということ。都を貴しとし、鄙を賤しとする王朝人の感覚によるものだが、そのことよりも「さすがに」といいながらも隠岐の春を和歌のうちに詠んだ態度に注意すべきである。 新古今期には季節が世界に遍満するという趣向が好まれた。代表的な例は俊成の「今日といへば唐土までもゆく春を都にのみと思ひけるかな」であるが、こうした歌が詠まれたということ自体が大きな意味を持っている。これまでの単純に都の春をのみ詠んだ作から、歌の世界は確実に広がっている。 ここにおいても春はひとつの動きであって、固定したかちかちの何かではない。流れ、遍満する気韻がこの世界のどこかにあって、それが都にあり、隠岐にあり、この歌のなかでは「朝日影」のなかにある。そのことに気づくとき、この歌がいかに晴々と春の訪れを詠んだものであるかに気づくだろう。
2006年01月05日
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ゆうちゃんたちは今日のお昼に帰りました。お父さんが明後日からお仕事だから。……さみしいなあ。 最後に、また新聞を読んでたら背中に飛びつかれました。(ぼくの背中に飛びついてくれる女の子はゆうちゃんしかいません。涙)
2006年01月04日
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式子内親王 幾年の幾万代か君が代に雪月花の友を待ちけん 正治百首祝題九八番歌。 雪月花というのがおもしろい。白居易の「雪月花時最も君を憶ふ」の句によるものだが、これを祝題に用いたのは工夫というべきであろう。白詩は風流の友を思うこころを言うたものだが、この歌では何年、何万年とそのような人を待ちつづけてこの御代に逢うたという。百首歌の主催者後鳥羽院の治世を賛美するとともに、正治百首そのもののくわだてを特にたたえたものであろう。歌人の面目としてこの百首歌に逢えたことを喜んだのである。 漢文の表現である雪月花を歌に取ったところが趣向だが、歌としてはそれ以上言うべきこともない。内親王の作としても特に掲げるほどのものでもないが、ただ風雅の志を賀歌に述べた歌というのはややめずらしい。風流皇帝であった後鳥羽院に捧げるに、いかにもふさわしい歌である。
2006年01月04日
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いろいろ事情があって、父がむかしの同僚だった若い人の仲人――婚姻届に立会人の署名をするだけですが――をすることになって、お客さんに来たので、かんたんに盃事をしました。急で男蝶女蝶を揃えることはできなかったのですが、ゆうちゃんがひとりで三三九度お酌をしてあげました。 ゆうちゃんは緊張してたみたいで、お客さんが来る前に何度も練習させられました。お正月も三日になって泥酔です……。
2006年01月03日
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後鳥羽院 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉白き逢坂の山 新古今集春歌上に採る歌だが、一本に「定隆雅」とあり、撰者のうち定家、隆家、雅経が推薦したことが判る。雅経は院の近臣であるから、これは院の意向を承けたものであろう。後鳥羽院の自讃歌である。 鶯があって、雪があって、杉の葉があって、逢坂の関があって、道具立てがみごとに揃っているところがどこか絵本の世界めいている。後鳥羽院の求めた古代的な趣のあらわれであろう。 歌は下句の緑の杉の葉と白雪との対比に収斂される。すべては清らに雪のなかに消えて、ただあざやかな色彩だけが残る――。単純ではあるがすぐれた技法である。 それ以上のことはあえて論ずる必要はない。春が来たことを素直に告げたまでの歌である。しかしそのことがどれほどすがすがしく芳醇なものを含んでいることか。言葉がこころのうちにひろがってゆくかのようだ。
2006年01月03日
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ゆうちゃんとお買いものにゆきました。高知のデパート。 ぼくの靴を見た後、ゆうちゃんの新しいコートを買いに子供服売場へまわりました。 ゆうちゃんはシックな茶色のコートがちょっと気に入ってたようですが、隣にあった赤い生地に白の縁取りのコートがあまりにも可愛かったので、こっちをたくさんすすめて、買ってしまいました。フードのところにちっちゃなうさぎさんの耳がついてます。着ると、小柄なゆうちゃんがもっとちまっとして、とてもかわいらしい。 ちいさい子がかわいいかっこうをしているのは、とてもいいものです。
2006年01月02日
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藤原良経 み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春はきにけり 「山も霞みて」とあるように、霞むものは山のみではない。「白雪のふりにし里」もまた彼方の春の空に霞んでいる。降りしきる雪のなかで、ほのぼのと。 春のおとずれる先が雪に霞んで目に見えぬのは、ひとつにはむろんそれを読者に想像させる象徴的効果のためであるが、もうひとつには春の訪れを神格視した古代信仰の残滓でもあろう。神は人に見えぬうちに里に通う。隠蓑の伝説はその一例にほかならない。 来るということはひとつの気づきである。春がやってくるところがわれわれに見えるわけではない。ふとした瞬間にそれが既にここにあることに気づく。そのとき「来る」という運動にかたちが与えられるのである。 至り至らぬ様が目に見えぬのは、その気づきのおどろきのなかにひとつの詩があるからではないのか。歌はその心のうごきのなかから生れてくる。
2006年01月02日
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お節のなかでゆうちゃんのお気に入りは黒豆らしいです。 ぼくが帰ってくる前に実家ではずいぶん花豆を煮てあって、これをお節に入れる(めんどくさいから)と母が主張していましたが、ぼくが買ってきて黒豆を煮ました。ちょっと袋が大きくて、ただでさえ飽和状態のわが家の煮豆がどうしようもない量に達してしまいましたが……。 女の人はなぜあんなに豆が好きなんでしょうね? あと、お芋も。(ぼくは両方ともそれほど好きでもない。) ゆうちゃんはお箸がじょうずで器用に黒豆を食べられます。そこで、今年のお正月はちいさな甘納豆を買ってきて、右のお皿から左のお皿へ移す大会(?)をやりました。移せた分だけ食べていいというルールです。 ゆうちゃんは一人で黙々と移して三十八粒食べました。三粒お裾分けにあずかりました。
2006年01月01日
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伏 見 院 咲きそむる梅ひと枝のにほひより心に四方の春ぞ満ちぬる 春はひとつのこころなのだろうか。言いかえれば、どこかにすべての春のもととなるような何かがあって、それがたとえばこの歌のなかのひと枝の梅や、今日の日の色や、風の音や、或いは人の心のうちにあらわれるのだろうか。 目の前にあらわれる春のすがたはさまざまに異る。しかしわれわれはそこに同じ春のこころを感じる。こころとかたち。かたちのうちにはふしぎに共通するこころがある。 「四方の春」はつまりそういうことで、この歌は春のめでたさを詠んだ作ではない。そこにも、かしこにも、ひと枝の梅と同じこころに染めあげられたさまざまの春があるということ、それがめでたいのである。春のすべてはひとつのこころであって、しかも千万の異ったかたちを取ろうとする。 生起し、ひろがり、満ちあふれる、その生き生きとした運動のなかにわれわれが祝祭性を感じる何ものかが秘められている。ひと枝の梅はその象徴である。
2006年01月01日
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