せんだって日記

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2008.04.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 せんだってからちょっと思うところあって、しばらく思いつきを書き散らすことにした。


 コンテンツを、頭じゃなくカラダで読む(聴く、観る)ってことは、ある。
 カラダで読んだ(見た、聴いた)もんは、交換不能だ。
 強く訴えるものはまずカラダに「来る」。
 ほんとにいいもんは、深い解釈に絶えうる強度を保ちつつ、下世話な部分でも強い。
 もっとこう、カラダに「来る」批評があってもいい。


 批評や評論の抱える熱い思いと、カラダに響かない言葉遣いやアカデミックな解釈遊びの間にあるなんか越しがたい溝みたいなのが気になる。


 批評、評論の役割ってのはいろいろあるけど。
 作品に歴史的な位置づけをするとか、解釈して価値を固定するとか、作品論や作家論の中でマッピング(村上春樹の影響が…云々みたいなの)するとか、密室のサロンで高尚な知的遊びをするぶんには楽しいけど、本来エンターテインメント性を充分に持っている強いコンテンツに「賢い解釈をしないと楽しめないのですか、ハードル上がってないすか」的な色をつけちゃう弊害があることは、かつてのサブカル周辺でよく見られた誉め殺し効果でね。





 劇団のチェルフィッチュの岡田利規が、HP中の演劇論において『方法論を体系化するのは「引き寄せる」ことだ』みたいなことを書いてた。
 引き寄せて掴んだ「論」を明確にする理由は、いつまでも掴み続けてないで、すばやく手放しそこから逃走するためだと。
 劇作家の彼がこう言うのはすごく説得力がある。
 創作のエネルギーは固定された「論」から逃げていく速度だってのは、ひとつの真理だよね。


 文芸批評、漫画評論、劇評などの繊細な解釈とかはそれ自体が面白い行為だ。んでも、批評がやる、解釈や分析やマッピングは「固定」の方向だ。
 すぐれた作家は、固定された価値からどんどん逃げていこうとして、ときには極端に先鋭化して普遍性を失ったり、あるいは逃げ疲れて急にヌルくなったりしてしまう。


 ここんとこ「思うところ」の中には、こないだ観たポツドールの舞台『顔よ!』と、それにまつわる激賞の蔓延への違和感がある。


 ポツドールは劇団。誤解を恐れずに固定化すると。
 性と暴力をてらいなく使う演出と、人間のやるせない部分をぐいぐい押し付けてくる脚本で、評論家周辺からの評価も高い。


 『顔よ!』は、ぬるかったと思うんだけど、あちこちですげえ絶賛されてて、中には最高傑作なんて書いてあるブログもある。ブログかよ。
 違和感がある。





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最終更新日  2008.05.05 22:12:21
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