戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月26日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)


今度の年末年始は 貞子 がお泊りに来る予定だし、
その他の理由もあって今年も年末年始は旅行はしませんが、
年明けには色々お楽しみもあるので今から待ち遠しいジジイでござります。

来年のおせちももう決めました。
あと60回くらい寝ればお正月・・・
ふふふ・・・


●延暦14年(795)


1月13日、大雪。
1月16日、 天皇が侍臣と宴を催し、「新京は安泰で、平安京は楽土であり、
いつも春の穏やかさを湛えている」という内容の踏歌が詠われる。

1月29日、 征夷大将軍・大伴弟麻呂が参内し節刀を返上。

4月1日、日食。
4月20日、菩提寺が火災に遭ったため、大和国の稲2千束を施入。
4月23日、延暦4年に僧尼が勝手に檀越を決めることなどを禁止したが、
いっこうに守られていないので再度厳しく言い渡す勅を出す。
4月27日、田宅・園地の寺への施入および売買・交換による譲渡は以前から
禁止されているが、寺が他人の名義を借りて土地を手に入れていると聞く。
これを厳しく調査し、今後は寺が得た土地は官が没収するという勅を出す。

5月3日、 右京に諸天(仏教で天部に属する諸神)を自称した女がおり、妖言をもって
人心を惑わした罪で土佐へ配流する。

5月14日、18人に命じて長岡京の旧宮を守らせることとする。
7月18日、使者を七大寺へ派遣して常住する僧尼の調査をさせる。
閏7月1日、出挙の利息を返済できず窮乏する百姓が多いため、勅をもって
出挙の利息の改定を行う。
閏7月11日、大風が吹き、官舎や民家が倒壊する。
閏7月17日、近江・若狭方面の駅路を廃止。
閏7月21日、死亡した百姓が負っている出挙稲は免除しないこととする。

8月7日、陸奥鎮守将軍・百済王俊哲が死去。
8月10日、刑罰の執行や判決の時期が守られていないので、律令に従って厳しく
守らせるようにする。
8月12日、「国師」を「講師」という名称に改め、国ごとに1人置くようにする。
また、講師の補佐の読師は国分寺僧の中から序列に従って起用することとする。
8月15日、近江の逢坂の関を廃止。
8月19日、天皇が工事中の朝堂院を視察。
8月30日、伊勢神宮へ装束を奉納するため、宮中や畿内諸国等で大祓を行う。

9月15日、真実の教えである仏教を支えるのは国王であり、ゆえに梵釈寺を創建した。
願わくは末永くこの寺が人々に崇められるようにとの詔を出す。
9月28日、金星が日中に見えた。
11月3日、出羽に漂着した渤海国の使者が襲われたとの報告が入る。
11月15日、薬師寺の賎身分から良民となった者が姓(かばね)の申請をすることを
禁止する。
11月22日、七大寺の出挙による収益は莫大であるにも関わらず、疲弊した人民に
貸し続けているので、寺に居住する僧侶の実際の必要経費を調査し、民の生活が安定するまで
出挙する稲の数を削減することとする。
12月22日、淡路へ配流されていた不破内親王を和泉国へ移す。
12月26日、 出征中に逃亡した兵士340人の死罪を免除し、陸奥国に配備する。





まず、前年の正月に大伴弟麻呂が節刀を拝領して遠征に旅立ったハズなのに、
もう年初めに帰ってきちゃいましたね。

節刀を返上したということは、38年戦争第3期第2次の遠征は
終わってしまったようです。
『続日本紀』に比べると『日本後紀』の記述は全体的にあっさりとしたもので、
これまでの遠征では現地とちょいちょいやり取りがあったことが書かれているのに、
今回はほとんどそれがありません。

これはどうも『日本後紀』の一部が失われているためのようで、
それが意図的な削除なのかはわかりませんが、 前年10月 に戦果の報告はあったものの、
のちの正史の記述からするとこの時の遠征には兵10万、軍監16人、軍曹58人という


しかも、12月26日の記述によると逃亡兵は340人となってるけど、
実際はもっといたのだろうし、官軍の戦死傷者も相当数いたのだろう。
結局、この遠征も失敗に終わったようです。

諸国も兵ももううんざりしてる様子がうかがわれますね。
もうやめたら?



して、新京の工事の進捗具合ですが、通常の新年の儀が執り行えるような
状況ではなかったようです。
それなのに1月16日の宴の踏歌は現状に則してない感じですが、
「平安であれ~」と繰り返し唱えることでよい気を呼び込もうとしたんじゃないかって
気もします。

だって、庶民は相変わらずビンボーにあえいでるんですよ。
そしてそれは桓武自身もわかっていました。
だから現実をそのまま詠んだ歌だとはとても思えないんだけどね。

庶民がビンボ-で苦しんでる中、平城京に残してきた七大寺は
貧乏人相手にあこぎな金貸しを続け、名義借りまでして金儲けに走っている様子が
4月・7月・11月の記述からうかがえますが、
これだけを見ると確かに褒められたことじゃない・・・

が、七大寺は官寺。
平安遷都の前頃になって「薬師経」や「仁王経」の読経という新しい試みも
行われるようになりましたが、それまでの仏恃みといえば、
「大般若経」か「金光明最勝王経」が2大レギュラーでした。

そして、最勝王経には「寺を美々しく飾り立てれば飾り立てるほど、
仏の功徳が得られる」というようなかなりギラギラした内容もあり、
権威を示したい王者や寺にとってある意味都合のいいお経でもありました。

寺の派手さは王者とは関係ないようにも思えるけど、
仏教が本格的に日本に根付いた頃から権威のアイテムは古墳から寺へと変わったからね。
「叡山攻め(8)」 参照)

ところが、七大寺は長岡には移転しなかった。
寺院の移転を桓武が禁止したという説はわたくしはそういう史料を自分の眼で見てないので
とりあえず支持してませんが、佐伯有清氏はこの辺りをもって
官費による大寺の建立の時代は終焉を迎えたとする。

皆様が豪邸を建てたとしましょう。
土地建物代は金持ちの親が払ってくれたので、人もうらやむ豪邸に住んで
ホクホクの毎日でした。

しかし、どんなにいい家でも経年劣化というのは避けようがありません。
内部の修理もさることながら、外壁の補修だとか、広い庭の芝生は手入れしなきゃ
草ボーボーの荒れ地になるし、いい家ほど維持管理にはお金がかかります。
ところが、お金持ちの親は「それぐらい自分で払えよ」と言って
もうお金を出してくれません。
したら、費用を自分で稼ぐしかないですよね。

これはあくまでわたくしの想像で、実際は七大寺も金儲けが楽しくて
たまらなかっただけかもしれません。
ただ、それまで官費で建立・維持してきたものをお金がないからといって
荒れるに任せるのは大寺の体面やプライドもあるし、
現実的に考えて致し方のない面もあったんじゃないかな~とちょっと思ったんです。

おそらくこういう記述から、仏教界の腐敗とか堕落という風に言われるんじゃないかと
思うんだけど、古い時代の大きな寺ほどある意味お気の毒な面もあるような気がします。

けど、これまでも色々紹介してきたように、南都の寺はただお金儲けだけに
走って本業をおろそかにしていた訳ではありません。
もしそうだったなら、熱意のある僧のために山林読経禁止令を解禁してくれとか、
飢餓にあえぎながら山林で修行を続けている僧への援助を認めてほしいとか
仏教界の実力者が奏上することはないと思うんだよね。
それに、多くの渡来僧ががっちり基礎を固めていた。

歴史ファンにも色々いるもので、この時代の南都のことを簡単に「腐敗していた」
なんて言い切っちゃう人の多くはこうした僧侶の実態を知らないんじゃないかと
思います。

別に、わたくしも自分が正しいなんて思っちゃいませんけどね。
実際は数々の勅の通りに腹黒い僧がはびこってたのかもしれないし
真実なんて今さら誰にもわかりはしません。
ただ、自分で見聞きしたものから受けた素直な感覚を大事にしたいと思ってるだけです。


正史で言うほど仏教界がひどいものじゃなかったのなら、
なんで平城京に置き去りにしたのか?
これは世間でも言われるように、影響力を持ちすぎたという点もあるかもしれません。

前年の終わり、乙訓寺の仏像を遷したニュースがありましたが、
この年は仏教界への取り締まりを強化する一方、5月に諸天を名乗って
流罪となった女の記事があります。

『日本後紀』には載ってませんが、佐伯氏によるとこの年初め頃には
北極星(北辰)を祀ることを禁止しているそうな。

 【その禁令によると、春秋二回、京畿の吏民が職を捨て、業を忘れて会集し、男女
  いりまじって清浄が保たれていないから禁断を加えるのだという。しかも人々が一度に
  集まるのではなく、日を異にして会集してもいけないというのである。したがって、
  この禁制の目的は、どれほど人数が少なくても集会を持つこと、それ自体を排除する
  というところにあったとみなければならない。

  そして、この禁制は、もし、この制に背くならば、法師は名前を僧綱に送り、俗人は
  違勅罪に処するという、きわめて厳しいものだった。取り締まりの対象にまず法師が
  あげられているので、北辰の祭りは僧侶が先導して催していたのである。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

おお、これって妙見信仰のことか~!?と思わず食いつきましたが(←妙見様好き)、
祭りの内容とか是非はともかく、僧侶およびそれに準ずる者に対する政治的措置だと
佐伯氏は語っておられます。

山林読経禁止令も同じく政治的措置ですが、あの時は藤原仲麻呂の乱がありました。
「叡山攻め(31)」 参照)
が、この年は表立ってのそういう動きはない・・・

それでも朝廷が集会を警戒したのは、長く続く蝦夷征討、
相次ぐ遷都による経済的・社会的不安などから来る民衆や仏教界の不満を
感じ取っていたからじゃないだろうか。

そして、政治的措置に加え、この年仏教界に出された禁令は経済的対策だと
佐伯氏は語る。
なるほど、そう考えると主に南都の寺の勢力を削ぐ目的とも取れる訳だな。
勝手に置き去りにしてきちゃった訳だから、恨みを買ってるのも充分わかってたのかもね。

ただ、彼らを置き去りにしたのはそういう現実的な面も確かにあるだろうけど、
桓武自身の事情と信仰による面が大きいのではないかという気がしています。


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最終更新日  2014年10月26日 22時49分10秒


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