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野呂邦暢「諫早菖蒲日記」(「野呂邦暢小説集成5」文遊社) 2021年の暮れごろに青来有一という作家の「爆心」(文春文庫)という作品を読んで、「長崎の作家って・・・」と考えてしまったのが始まりで、2022年はこの方で始まりました。 野呂邦暢(のろくにのぶ)です。ちょうど学生だった頃に「草のつるぎ」という作品で芥川賞をとった人ですが、京都大学の受験に失敗して自衛隊に入ったという経歴だけ覚えていました。 「草のつるぎ」はたしか・・・と探しましたが見つかりません。アマゾンとかで調べるととんでもない値段になっていて、図書館を調べると「野呂邦暢小説集成」(文遊社)が所蔵されていました。第五巻「諫早菖蒲日記・落城記」を借りだして読み始めました。 美しい装丁の本です。「小説集成」として集められているわけですから当たり前ですが、600ページを超えていて、かなり分厚い1冊です。 開巻、1行50文字、1ページ40行の密度で「諫早菖蒲日記」250ページです。一瞬たじろぎましたが、読みは始めてはまりました。まっさきに現れたのは黄色である。黄色の次に柿色が、その次に茶色が一定のへだたりをおいて続く。堤防の上に五つの点がならんだ。堤防は田圃のあぜにいる私の目と同じ高さである。点は羽をひろげた蝶のかたちに似ている。河口から朝の満ち潮にのってさかのぼってくる漁船の帆が、その上半分を堤防のへりにのぞかせているのである。ゆっくりとすべるように動く。朝は風が凪いでおり、さもなければ西の逆風が吹く。けさはいつになく東の風である。帆をはるのはめづらしいことだ。川岸に群れつどう漁師の身内どもが見える。先頭の船が帆柱にかかげた大漁旗をみとめてどよめいていることだろう。今しがた私が遠眼鏡で確かめたものである。舟付場に女子が近づくのはかたくいましめられている。去年までは私が舟溜りへおりて魚の水揚げを見物していても母上はだまっておられた。しかし、去年の暮、嘉永の御代が安政となりかわってからは、母上は何かにつけて口やかましく女子の心得を説かれる。十五歳といえば、男子なら元服する年齢である。いつまでもし志津は子供のつもりであってはならぬと申される。(P11) 語っているのは藤原志津、父は諫早藩という、幕末に進取の誉れの評判で名を残した佐賀藩の親類格とはいいながら、一万石に足りない小藩ではありますが、吉田流砲術師範藤原作平太、叔父は蘭学を学んだ藩医藤原雄斎という武家の娘です。 数えで十五歳、男の子なら志学ということで、元服ですが、女の子である志津は母親から大人の女性である心構えと立居振舞を躾けられながらも、生き生きと動き始めた心を抑えることができません。 漁師たちが働く船着き場に直接出かけることを15歳になったからということで禁じられている少女の「遠眼鏡」を手放すことができない好奇心、あるいは、子供であること、女であることを越え出ようとする、その年齢の生命の力を見事に描いた書き出しです。 この冒頭をお読みいただいただけでもお分かりだと思いますが、この小説の唯一の欠点は、この日記が、いつの時代であろうと15歳の人間によって書かれたとは信じがたい文章で書かれていることだと思います。 しかし、日記が語る書き手の姿は、悩みであれよろこびであれ、まさしく、みずみずしくさわやかで、15歳の少女そのものであるところに、この小説の書き手である野呂邦暢という夭逝した作家の並々ならぬ力量が躍如としていると思いました。 ゆっくり、時間をかけて読みすすめるにふさわしい作品だと思いましたが、中でも、この作品の中盤にあるホタルを巡る美しい描写の若々しさが印象に残りました。 佐賀藩の鍋島公の接待の席に、殿様から命じられたお役目で家中からお茶を点てる数人の、彼女と同年配の少女たちが呼び出され、無事お務めを果たした夜の日記の一部です。 それにしても私はいつ蛍を見たのであろう。茶道具をととのえるとき、少将様をお待ちしているとき、蛍など一匹も目に映じなかったようである。少将様が四面宮から慶巌寺へ移られたのち、私たちは道具をしまい、慰労として拝領した佐賀最中をふところに帰宅した。そのどこで蛍を私は見たのであろう。 淡い緑色の光を放つ点が、木立から草むらから漂い出し、墨色の闇をうずめる。綾様のえりくびで光る蛍もいたように思う。光る虫は宙にむらがり、ちらばるかと思えば一つによって、暗闇に大小さまざまな光をともしたかと思われた。きりもなく水面からわき出し、川辺を縦横無尽に飛びかい、水にそのかげをうつした。 帰ってから私は母上に少将様のご様子を申し上げることかなわなかった。おぼえているのは川原のそこかしこで息づくように点滅している青みがかった微光のかたまりのみである。お叱りをこうむらなかったのであるから、手落ちはなかったと思う。かりにいささかの手落ちがあっても、ほしいままに見た蛍どもの景観にくらべたらそれがなんであろう。私は青緑色に輝く光のなだれを全身であびたように感じた。母上は私がいただいた佐賀最中を仏壇にそなえられた。(P143~144) お上や大人たちが、家中の少女たちの大人の世界への顔見世として、その場をあつらえ、期待を込めて美しい着物を着せられ、化粧を施されてその場にいることは百も承知しているのです。しかし「少女」であり「娘」でもある視線は、緑色に点滅し、群がる「ホタル」の淡い美しい光を捉え、その光の明滅する淡々しい世界へ彷徨いこむかのように捉えられながらも、やがて我に返ってきて、頂き物の最中に思いを戻してゆく描写です。 いかがでしょう。初めて大人として振る舞うことを求められた少女の不安と、しくじらずに切り抜け、できれば評判をとりたい娘の緊張とともに、そこはかとなくユーモアまで漂わせている周到さで、思わず微笑みたくなる文章作法だと思いました。これは、とても15歳の少女の技ではありませんが、読み手を堪能させるには十分といって過言ではないでしょう。 小説作品の好みは人それぞれではありますが、群を抜いた傑作だと思いました。ただ、難点は著作集以外には、高価な古本しか入手方法がないことです。ある図書館にはあるようです(笑)。とりわけ、歴史小説のお好きな方には是非一度お読みいただきたいと思った作家でした。
2022.01.31
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魚豊「チ。 第3集」(スピリッツCOMICS) 久しぶりに魚豊の「チ。」の続きを読む気になりました。ヒマなんですね(笑)。このマンガは「顔」の区別がつけづらいのが難点ですね。それから名前が覚えられないのですが、それはマンガのせいではなくて、ぼくの年齢のせいかもしれません(笑)。 さて、第3集では第2集で登場した代闘士オクジー君が修道院の副助祭バデーニ君と出会ってあれこれ、ウロウロすることで話が進み始めました。 バデーニ君は「地動説」の完成を目指す司祭の卵という設定ですが、あんまりいい奴とも思えません。まあ、それはともかく、頭脳明晰なバデーニ君と驚異的な視力の持ち主オクジー君の活躍が3巻から5巻のお話です。 村の掲示板に、中世のヨーロッパが舞台ですから、だいたい、掲示板なんてものがあったのか、なかったのか、と、まあ、訝しむ方は読めないマンガですが、ぼくは気にしません、で、村の掲示板に「地動説クイズ」を貼って回るのが発端です。そこに新しい登場人物がやってくるという展開ですね。 その、誰も寄ってきそうにない掲示板に引き寄せらてやって来たのはこの方です。赤ずきんちゃんではありません。村の図書館の雑用係をしている、まあ、天才少女ですね。ヨレンタさんです。彼女は密かに「地動説」の謎に迫っていたのですが、なにせ「女性」であるということで、せっかく書いた論文も上司であるコルベというクソ野郎に利用されるだけに終わっている悔しい存在なわけです。その悔しさからでしょうか、この掲示板のクイズに解答するというのが新たな展開です。 上に貼った表紙にヨレンタさんと一緒に、もう一人の禿頭の人物が描かれていますが、ピヤスト伯という方です。作中の言葉でいえば「完璧な天動説の完成に生涯をささげている貴族」なのですが、この第3集での主たる登場人物の一人です。ヨレンタさんが勤めている研究所(?)の所長のような方ですが地球の「チ」、「地動説」の「チ」に対して「天動説」の「チ」の代表者、このマンガの登場人物たちのライバルです。 元代闘士オクジー、狷介な秀才バデーニ、哀れな天才少女ヨレンタ、余命幾許もないピヤスト伯、この4人が「チ」を巡って様々に思索する姿が描かれているのが第3集でした。 今回の「チ」は「知」を巡るハラスメント、女性差別の歴史を描いているところがおもしろいですね。中世のC教の教会付属図書館の世界ですが、現代社会に当てはめても、なんとなくリアルなところがおもしろいというか、まあ、魚豊というマンガ家がイメージしているのが、今の社会だということかもしれませんがいやはやなんともですね。
2022.01.30
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田泰弘「紛争でしたら八田まで(1~4)」(MORNINNG KC 講談社) なんか、またまた新しいマンガやってきました。2022年の1月のマンガ便です。いろいろ新しい趣向で書かれているのですねえ。 今度は「地政学」なのだそうです。なんか、薀蓄というか思い出になってしまいますが、40年もまえに勉強しました。ここの所「リアル・ポリティクス」とかを標榜する、なんだか、イマイチ、インチキっぽい政治学者や軍事学者(まあ、政治学の一分野なのでしょうが)、経済学者の煽り始めた学問(?)ですが、70年代に国文学の学生だったぼくが必読文献で読まされた本にありました。 今考えれば変な方向ですが、丸山眞男や橋川文三方面も、ほぼ必読でしたから、先生がそういう方だったのでしょうね。 当時、地政学という学問そのものが、ちょっとタブーな雰囲気で、本もそんなにありませんでしたが面白かった思い出で残っているのはカール・シュミットというナチス・ドイツの法学者の「陸と海と」(福村書店)ですね。目からうろこだった感想だけは憶えていますが、内容はとんと覚えていません。最近、日経BPという出版社で再出版されているようで、やっぱりちょっとブームなのでしょうね。 で、今回のマンガは田泰弘の「紛争でしたら八田まで」です。「地政学科」なんていう学科はおそらくありませんから、政治学で、戦争のお好きな方に学ばれたのでしょうね、そのうえ彼女はプロレスのファンで、格闘技の腕前は半端ないときていて、表紙をご覧になればお分かりだと思いますが、コスチュームはブーツにミニスカートです。まあ、ぼくは老人なのでそっちの方面も「ああ、そうですか」という気分で読み始めました。やたら「ビッチ」が出てくるのには辟易しますが、案外面白いのですね、これが。 ウソかホントかはわかりませんが、いわゆるトラブル対処のコンサルタントという職業があるようで、主人公の八田百合さんは世界中の紛争地帯を飛び回って「八田のチセイ」で解決するというコンサルタント業なのですが、まあ、いってしまえばマンガ世界漫遊記みたいなものでした。 ミャンマー、タンザニアが第1巻の現場で、イギリス、ウクライナが第2巻です。ゴルゴ13が激賞しているらしいです。 第3巻では日本の不良女子中学生の勢力争いを仲介しながら女子中学生たちに講義して、それからインドに出かけます。 で、第4巻がアイスランドです。宣伝用の腰巻には古市某という方が、作家なのか学者なのか知りませんが、「マンガでわかる地政学入門としても読める」とか何とか宣伝なさっていますが、ホントなのでしょうかね。手軽にわかっちゃう時代ですからいいのですが、なんか誤解が蔓延しそうな気もしますね(笑)。 世界漫遊記と茶化したのには訳があります。このマンガのオリジナリティというか、特色の一つは「地図」と「政治状況」の紹介で、専門家の意見や解説まで載っています。まあ、めんどくさいマンガなわけですが、もう一つはその地域独特のジャンクフードというか、B級グルメの紹介です。 最近食欲とはさして縁のないシマクマ君には、さほどアピールしませんが、田泰弘というマンガ家が、今現在なのか、かつてなのかはわかりませんが、案外というか、ひょっとしたらというか、丁寧な取材をしているのかもしれないと思わせるジャンクフードの描写があちこちにあられて感心します。 たとえば第4巻ではアイスランドの朝ごはんの「スキル」なんていう乳製品とか「フラットカーカ」というパンとか出てきますが、Yチューブかなんで調べて書いているのでしょうかね。アイスランドなんて行くの大変そうなんですが(笑)。 巻末には、地政学に関する図書案内もあったりして、世界情勢なんてまじめに取り合う気のない手抜きのサラリーマンには絶好のヒマつぶし勉強マンガかもしれませんね。まあ、暇を持て余している前期高齢者のシマクマ君もしっかりはまって、ただいま第5巻読了です(笑)。
2022.01.29
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100days100bookcovers no65(65日目)エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」(新潮文庫) 長らくお待たせしています。いいわけですが、毎日が、あっという間に過ぎ去る日々なのです。忙しいわけではないのです。ちょっと出かけると、もうそれだけで終わってしまうし。家にいても、落ち着かないまま夜なかになっています。 ブックカバー・チャレンジは萩尾望都「ポーの一族」、ちばてつや「あしたのジョー」ときて、DEGUTIさんが紹介されたのが「アウシュビッツを志願した男」でした。「うーん、どうしよう。あっそうだ、あれにしよう。」 結構すぐに決まっていたのです。でも、棚をさがしても出てこないので、結局、注文して、到着して、読み直して、と、ぼくらしくもなく律義にやっていて、今日になりました。 思い付きの経緯は「少年や少女たちの物語」で、DEGUTIさんの本の舞台はポーランドなので少しずれますが、「舞台がドイツ」だから、まあ、許容範囲かなということですが、まあ、個人的には小学生の頃に、「二人のロッテ」という「少女の物語」で出会った(ここははっきり覚えています)、この作家の、この「少年たちの物語」は、どこかで読んだはずなのに、内容の記憶が、全くないのは何故だろうという疑問を解きたいという、勝手な理由もあって、65日目として紹介することにしたのはこの本です。 エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」(池内紀訳:新潮文庫) 父親の書棚で見つけた古めかしい岩波少年文庫の作家として出会ったケストナーですが、実は、「飛ぶ教室」が岩波少年文庫に登場したのは、「点子ちゃんとアントン」、「エミールと探偵たち」、「二人のロッテ」なんかの名作といっしょに、TAMAMOTOさんが以前紹介された「夜と霧」(みすず書房)の訳者でもある池田香代子さんの新訳でラインアップされた2006年のことのようです。 「飛ぶ教室」という作品の訳者というのは、今世紀に入って光文社の古典新訳文庫版の丘静也さん、岩波少年文庫版の池田香代子さん、いちばん最近では、今回紹介している新潮文庫版の池内紀さんなのですが、それ以前のドイツ文学は高橋健二という方の十八番で、ぼくたちの世代はケストナーもヘルマン・ヘッセもこの人の訳で読んだはずです。新潮文庫の「車輪の下」とかの訳者名とかで覚えていませんか? で、じゃあ、どこで読んだのか?そもそも読んだことがあるのか?書棚にもないじゃないか。というわけで、再(?)購入、再講読と進みました。 今度こそ、正真正銘のクリスマス物語を描く。本来なら二年前、とっくにできていたはずなのだ。遅くとも昨年の内に書き終えていた。だが、世の常のことだが、いつも何かしら邪魔が入る。とうとうおふくろに言われた。「今年も書かないようなら、クリスマスプレゼントはあきらめてもらいます」 これできまった。私は大いそぎで荷造りにかかった。テニスのラケット、水着、緑の鉛筆、山のような原稿用紙、それをトランクに詰め、母ともども大汗をかいて、息もたえだえに駅に来て、ハタと考えた。「さて、どこへ行く?」 おわかりだろうが、夏の真っ盛りにクリスマス物語を書くのは、至難のワザなのだ。いったいどこに腰を据えて書けばいい? 「身を切るように寒かった、雪が降りしきっていた。窓から外をながめたとき、ドクター・アイゼンマイアー氏の両の耳たぼが凍りついた」果たしてこんなことを、人々が焼肉状にプールのほとりに寝そべり、熱射病寸前といったなかで、たとえペンに集中しようとも、書けるものかどうか。書けようはずがない!そうだろうが。 女性はとかく現実的である。母は奥の手を心得ていた。つかつかとキップ売り場へ行くなり、駅員にやさしくうなずきかけた。「おたずねします、どこへ行けば八月に雪がありましょうか?」「北極に行くんだね。」 駅員はつい言いそうになったが、私の母だと気が付いて、からかい口調は飲みこみ、丁寧に答えた。「ツークシュピッツェの峰でしょうね、ケストナーさん」 ハイ、これが、「第一の前書き」の冒頭です。「うーん、これは、読んだことがないんじゃないか」ここら、最終章まで、一気ですね。ちょっと蛇足ですが、第二の前書きでケストナーはこんなこともつぶやいていました。 立派なおとなが自分の幼いころのことを、こんなにもきれいさっぱり忘れられるものだろうか?子供がおりおり、いかに深い悲しみと不幸を味わっているものか、ある日を境に忘れはてる。(だからこの機会に、きみたちに心の底からおねがいしたい。幼いころのことを、けっして忘れないこと!約束してくれるかな?ほんとだね?) ね、エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner、 1899年~1974年)という作家の「ユーモアと誠実」、信用できそうでしょ。ちなみに「飛ぶ教室」が書かれたのは1933年、ヒトラーが独裁を始めたその年です。彼の作品は大衆的に支持されていましたが、ヒトラー政権下では発禁処分になりました。ただ、当時の社会主義的な反ナチ陣営からも「プチブル的」という批判を浴びたそうです。 今、読み返して、なるほど「プチブル的」!。 作品が具体的な社会状況や、「政治思想」の外にあることは、そのとおりだと思うのですが、あの時代に「反ナチス」、「反全体主義」を貫き通した思想性の確かさは、現代に通じる「普遍性」をもっているのではないでしょうか。 ちなみに「飛ぶ教室」という題名は、ギムナジウム(中学校)の寄宿生である少年たちが、クリスマスの夜に演じる創作劇の題目にちなんでいます。 どうも、読んだことがあるのか、ないのかは釈然としませんが、今回、妙に懐かしく読んだことは間違いありません。傑作だと思います。 では、復活のYAMAMOTOさん、よろしくお願いしますね。(T・SIMAKUMA)追記2024・04・05 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.01.28
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ケネス・ローチ「夜空に星のあるように」KAVC ほんの1本か2本しか見ていない監督で、「ああ、この人の作品は、できればみんな見てみたい。」と思う人が時々います。見た作品でも、映画館でレトロスベクティヴとかで特集されると、「ああ、もう一度行かなくちゃあ」と思う人もいます。 ケン・ローチはそういう監督で、KAVCが彼の50年以上も前の劇場映画デビュー作「夜空に星のあるように」をやっているというのででかけました。 2022年の初のKAVCでしたが。ここではいつものことですが、客は数人でした。いつも座る席にいつものように座って映画が始まりましたが、いきなり赤ん坊がお母さんのおなかから生まれてくる実写シーンで、正直ギョッとしましたが、そういえば先日見た「アイカ」という映画でも同じようなシーンで始まったことがふと浮かびました。アイカは赤ん坊をおいて逃げ出しますが、この映画の主人公のジョイ(キャロル・ホワイト)は赤ちゃんを受け取りおっぱいを含ませたのでホッとしました。 ロンドンの労働者階級に生まれた18歳のジョイは、泥棒稼業で生計を立てている青年トム(ジョン・ビンドン)と成り行きで結婚し、妊娠し、出産したようです。夫(?)のトムは赤ん坊にも無関心だし、、ジョイにも暴力をふるう男です。その上、彼は「詐欺」とか「空き巣」とかを生業にしています。いいかげん、そんな夫に嫌気がさしていたある日、トムはついに逮捕され、ジョイは坊やを連れて叔母の家に居候ということになります。 もうこの辺りで、この映画の焦点が、かなり明らかな感じで、彼女が新しい男として、夫の仲間だったデイヴ(テレンス・スタンプ)に惹かれていく様子には、「ああ、どう繰り返すのだろう?」という、ある種絶望的な気分でジョイとその坊やの姿を見続けることになりました。 人柄としては、やさしくて、いい奴であるデイブも、生業は泥棒です。ジョイだって「盗み」を否定しているわけではないというか、ほとんど共犯といってもいい暮らしです。 映画が描いているのは「盗む」ことしか生きるための方法を思いつけない「人間」であり、そんな人間をつくりだす「社会」だと思いました。ドキュメンタリィーなタッチで描かれていて、「Poor Cow」(直訳すれば、哀れな牝牛ですが・・・)の題名通り、主人公のジョイに対しても情け容赦ありません。 ノンビリ「働く」ことで生きることができた老人には、唖然とする展開でした。1960年代のイギリス社会の「現実」に対するケン・ローチの怒りが、映像の底にわだかまっているとしか思えない殺伐たる展開の映画でした。 ただ、ラストシーンですが、ほったらかしにされて行方のわからない坊やを、取り壊される貧困集合住宅の工事現場で探し回るジョイの姿に、やはり胸を打たれるわけで、やっぱりこの監督の映画は、上映されれば見に行くでしょうね。 才気のままに怒りをぶちまけたかのような、若き日のケン・ローチに拍手!かな?監督 ケネス・ローチ製作 ジョセフ・ジャンニ原作 ネル・ダン脚本 ネル・ダン ケネス・ローチ撮影 ブライアン・プロビン編集 ロイ・ワッツ音楽 ドノバンキャストキャロル・ホワイト(ジョイ)テレンス・スタンプ(デイヴ)ジョン・ビンドン(トム)クイーニ・ワッツケイト・ウィリアム1967年・101分・イギリス原題「Poor Cow」日本初公開1968年11月16日2022・01・14-no8・KAVC(no18)
2022.01.27
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クリント・イーストウッド「クライ・マッチョ」109シネマズ・ハット 今日は2022年の1月26日です。ネットニュースによれば兵庫県のコロナ陽性確認数は4000人を越えました。1月の7日ころから、毎日のように映画館に出かけていたのですが、あまりの数字に先週あたりから躊躇する気分が湧いてきて、今日も朝から「どうしようかなあ」と思案した結果、「ここなら大丈夫かな」と選んだのが109シネマズ・ハットでした。 映画はクリント・イーストウッドの最新作「クライ・マッチョ」です。やって来た109シネマズ・ハットはイースト・ウッドなんのそのという感じの安全地帯でした(笑)。 映画は90歳を超えたクリント・イーストウッドが、カウボーイの栄光も、家族も、仕事も失ったマイク・マイロという老人を演じていました。 その老人が、昔、世話になった雇い主ハワード・ポルク(ドワイト・ヨーカム)からメキシコにいる息子のラフォ(エドゥアルド・ミネット)を誘拐して連れてくるよう依頼されるところから旅が始まります。 ぼくはイーストウッドといえばハリー・キャラハンしか浮かばない程度の、まあ、ファンともいえないファンだったのですが、2019年に公開された「運び屋」を見て以来、ちょっと目が離せない俳優だと感じていました。 あの映画でぼくが気に入ったのが画面に現れる表情と物腰だったことを、この作品ではっきり再確認しました。要するに、ぼくを惹きつけたのは「老い」の姿だったのですね。 この作品の前半、特にラフォの母親レタの描き方には「なんだかなあ?」というところがあったり、ぼくには面白かったのですがラファがマッチョと名付けて飼っている闘鶏用のニワトリの大活躍あたりも、少々無理があるといえば無理があるプロットだったりするのですが、カウボーイハットをとった老人が通じるはずのない13歳の少年に人生を振り返って語り掛けるシーンは、やはり見にきてよかったと思わせるに十分でした。 「語らない」はずのイーストウッドが少年を相手に語る姿は、自らの映画人生そのものを語っている老優の印象で、「老い」を晒しながら、訥々と「自分の道は自分で決めろ」と語りかけているシーンに「ある時代」の終わりを、じみじみと実感しました。 「俺はドリトルか」と自嘲したり、チキンに助けられたり、馬に乗っても座っているだけだったり、「運び屋」を疑われてイライラしたり、それでも最後は老いらくの恋の道を「自分で選ぶ」イーストウッドに拍手!でした。 久しぶりにパンフレットを買い込みました。イヤ、ホント30年ぶりです。チッチキ夫人に見せびらかしたかったんです。表紙には眩しげに遠くを見る懐かしのアウトローの老いた眼差しが写っていますが、ページをめくって出てきたこの写真にため息が出ました。 映画の中でも、思わず見入りましたが、馬を撫でているのは素顔のイーストウッドだと思いました。やさしい目と意志的な口元。素顔でスクリーンに登場し、思わず涙を流させることのできる俳優がいったい何人いるのでしょう。まあ、それにしても、この感想も老人のたわごとかもしれませんね(笑)。監督 クリント・イーストウッド原作 N・リチャード・ナッシュ脚本 ニック・シェンク N・リチャード・ナッシュ撮影 ベン・デイビス美術 ロン・リース衣装 デボラ・ホッパー編集 ジョエル・コックス音楽 マーク・マンシーナキャストクリント・イーストウッド(マイク・マイロ)エドゥアルド・ミネット(ラフォ)ナタリア・トラベン(村の寡婦マルタ)ドワイト・ヨーカム(ハワード・ポルク)フェルナンダ・ウレホラ(ラファの母レタ)2021年・104分・アメリカ原題「Cry Macho」2022・01・26-no12・109シネマズ・ハットno6
2022.01.26
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ヴィム・ヴェンダース「都会のアリス」シネ・リーブル神戸 2022年の映画館初詣は、シネ・リーブル神戸の「ヴィム・ヴェンダーズ・レトロスペクティヴ」という企画のシリーズ作品です。 本日1月7日が、企画の初日で、作品は「都会のアリス」です。その当、時映画と無縁だったぼくが、今さら知ったかぶりでいうのもなんですが、ベンダーズは1970年代にニュー・ジャーマン・シネマの旗手として登場した監督で、80年代の後半に日本でも次々と紹介されて、ある種のブームだった人ですが、ぼくは映画館で1本も見たことがありません。見なかったのは、単に映画館に通うことをやめてしまっていたからにすぎませんが、見ないとなると全く見ないようになったのは性分でしょうね。 で、見ないと決めた暮らしをしていたにもかかわらず、ものすごく気になった監督が数人いますが、その一人がヴィム・ヴェンダーズでした。いろんな人が、いろんなところで、彼について書いていました。そういう批評をまだ読むだけは読んでいたので、見もしない映画と監督が意識の中だけは伝説化するというアホな頭でっかちの思い入れの人と映画です。 ワクワクしながら座りましたが、見終えて、しびれていました。主役の二人、フィリップ(リュディガー・フォグラー)とアリス(イエラ・ロットレンダー)が互いに見つめあうラストシーンが繰り返し浮かんできて、涙が止まらないのですが、さわやかなのです。 思いこみの伝説がムクムク姿を現した気がしました。仕事不如意でアメリカからドイツへの帰国を余儀なくされているらしい物書きのフィリップと、英語もよくできない母親から見ず知らずの他人に預けられたのか、捨てられたのか、考えてみればあり得ないほど「途方に暮れる」 境遇の少女アリスの旅でした。 フィリップは何故アリスを捨てないのか、運転しているフィリップの膝にアリスが頭を預けてすやすや眠るのは何故なのか、事態を説明するセリフはほとんどありません。いくら画面を凝視しても、その理由がわかるわけではありません。なのに、それぞれのシーンで、ぼくの中に少しづつたまっていって伝説に凝固していく何かがあることは確かなのです。 ようやく、さがし続けていたアリスの家族の行方がわかり始めて、彼女が家族のもとに引き取られていくことになる終盤のシーンでホッとしながらも、「このままでもいいじゃないか。」 というふうな気持ちが見ているぼくの中に湧き上がってくることを抑えることができませんでした。 二人はただの行きずりです。二人とも我が強いというか、自分を譲れないというか。大人のはずのフィリップは、仕事からも女性からもさじを投げられているらしい、なんだか困った奴です。アリスも10歳くらいの少女にしてはこましゃくれていて、何を考えているのかよく分かりませんが「こんな子いるようなあ・・・」と思わせる何かがあります。まあ、今のぼくにとっては、お孫さんで、愉快な仲間の一人、小雪姫と同い年くらいという別の連想も加わって目を離せません。 その二人が、別れに際して見つめあったとき、ぼくの中にこみあげて来たものは、なんだったのでしょう。えもいわれぬ、喜びのような、哀しみのような、「こんな世界の片隅で、お互い出会えてよかったね」 というか、ささやかではあるのですが、見ている老人の生きているということを励ますような・・・。 飽きもせず小説を読み続け、映画館に通う毎日ですが、小説にしろ映画にしろ、こういう作品と出会うことがあるのですよね。いやはや、ヴィム・ヴェンダーズ! はまりました。 ヴェンダーズに拍手!は言うまでもありませんが、アリスとフィリップの二人組に拍手!でした。ウーン、アリスにはもう一度拍手!ですね(笑)。監督 ヴィム・ヴェンダース製作 ヨアヒム・フォン・メンゲルスハオゼン脚本 ヴィム・ベンダース撮影 ロビー・ミュラー編集 ペーター・プルツィゴッダ音楽 CANキャストリュディガー・フォグラー(フィリップ・ヴィンター)イエラ・ロットレンダー(アリス)リサ・クロイツァー(リザ)エッダ・ケッヒェルアンゲラエッダ・ケッヒェルエルネスト・ベームエージェントエルネスト・ベームミルコジュークボックスの少年ミルコ閉じる1974年・112分・G・西ドイツ原題「Alice in den Stadten」日本初公開1988年11月19日2022・01・08-no1・シネ・リーブル神戸no132
2022.01.25
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フレデリック・ワイズマン「ボストン市庁舎」元町映画館 今日は2022年の1月24日です。フレデリック・ワイズマンの最新作「ボストン市庁舎」が神戸で始まりました。同居人のチッチキ夫人をさそいました。「4時間でしょ。混んでる映画館に4時間はきついわ!」 なんとも、つれない返事でした。彼女のお気に入りの「ニューヨーク公共図書館」だって3時間を超えていたのですが、2018年の夏と2022年の冬とでは事情が違います。できれば混雑には近づきたくないのは同感ですが、ワイズマンの新作です。見逃すわけにはいきません。 そういうわけで、最近、ラインとかいう連絡方法でつながらせていただいている映画館の受付嬢に様子を聴きました。意外なことに「大丈夫!」との返事です。 途中の空腹に備えて大福もちを携えて出かけました。着席してため息が出ました。66席の小さな映画館が半分も埋まっていないのです。混雑を覚悟していたのですが、まあ、拍子抜けということでした。 さて、映画です。2時間経過したところで休憩が入る前半と後半、あわせて274分の作品でした。市庁舎のビルが映し出されると、市長の演説が始まりました。そこから、誰かが誰かに語りかけ、電話をとり、現場に指示を伝え、・・・・とにかくしゃべり続ける映画でした。 上のチラシ写っていますが、映し出される場面は、たとえば、議会での市長の演説。ボストン・レッド・ソックスの優勝に関わる祝辞。パレードの警備の指示とその広報。火事の現場と報告。様々な公聴会での市民や役所の係の発言。部下に対する現場の責任者の指示や市長の政策説明。 と、数え上げていくときりがないのですが、中でも印象に残ったのは、市役所で結婚式を挙げて届け出をする同性婚のカップルでした。 市役所の係の女性が立会人として指輪の交換とかの仲立ちをするらしいのですが、女性同士の同性婚って、双方が「妻」として誓いの言葉をいうのですね。「へえ、そうなんだ!」 なんていう感想をここで書くのは、ある意味トンチンカンだと思われると思うのですが、この映画を見ていて思ったのは、市役所っていう公共の場所というか、公共的機能っていうのは、あくまでも「市民」の「個人の尊厳」を守ることが仕事なんですね。火事があったら消しに行くのも、町のチームが優勝したら一緒に喜ぶのも、行政に不満のある人の話を聴くのも、教会で挙げることのできない同性婚の結婚式をするのも、まず「市民」と呼ばれている個人の尊重という前提があっての仕事なんだということなんですね。 多数決が民主主義で、多い方が勝ちだと思いこまされて弱者や少数者の自己責任を当然視する社会って本当は民主主義なんかじゃないんじゃないでしょうか。「二人の妻」が結婚するシーンは、そういう普遍的で原理的な問いを「ほら、ご存知でしたか?」と軽やかに問いかけていて、笑っているワイズマンがそこにいるようなスリリングなシーンだったのです。 「困っていることがあったら俺に電話してこい。」 市長室からこんなことをいう市長さんは、やっぱり、あんまりいないわけで、まあ、自宅や飲み屋さんでこういうことを吹く人が、ぼくが住んでいるこの国には結構いるようなのですが(笑)、それは市役所の公報で言うのとは真逆ですね。 90歳を超えたフレデリック・ワイズマンが、このマーティ・ウォルシュ市長の姿を執拗に撮り続けるのがこの映画の特徴だと思います。こういう撮り方には、ここまで見て来た彼の作品にはない偏りのようなものがあります。そこにはワイズマン自身の中にアメリ社会の現実に対する焦燥感、なりふり構っていられない危機感のようなものがあることを感じさせるのですが、もう一つの理由は、まあ、単なるうがちで、失礼を顧みずに言うと、やはり、年齢に対する意識もあらわれているのではないかということです。彼は祈るようにこの作品を作ったのではないでしょうか。 民主主義社会における公共性の根幹を相互理解を前提にした「市民」であり、それぞれの「個人」が言葉を語り、それを聞く人がいることを強く印象付けていく映像にはフレデリック・ワイズマンが躍如としている作品でした。 単なる客観ではない「主張」を、淡々と描き続けているフレデリック・ワイズマンに拍手!でした。監督 フレデリック・ワイズマン製作 フレデリック・ワイズマン カレン・コニーチェク製作総指揮 サリー・ジョー・ファイファー撮影 ジョン・デイビー編集 フレデリック・ワイズマン2020年・274分・G・アメリカ原題:City Hall2022・01・24-no11・元町映画館(no110)
2022.01.24
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「ピンボケて墨絵になりました。」徘徊日記2022年1月23日 王子公園あたり。 今日は2022年の1月23日です。コロナ騒動が始まって3年目に入ったわけで、またまた、すごい数字がニュースになっています。出歩くのが不安になる日が再び、いや、三度はじまりましたが、シマクマ君は人込みを避けて、灘区の王子公園にやってきました。改修とかで物議をかもしているらしい動物園が目的ではありません。 あいにくの雨で、いや、人出を考えれば、好都合な雨空で、六甲山も煙っています。王子動物園の真裏の山です。風情がなかなかなので、「ちょっとアップで」とか思って撮った写真はピンボケでした。 まあ、これはこれで、深山幽谷という雰囲気なので貼りました。ついでにもう一枚ピンボケですが、ここに来たのですから、昔動くとか動かないとかで都市伝説だった海星のマリアさんを撮りました。 こうやって貼ってみると、本当にピンボケなので参りますが、足元の鳩もピンボケです。 ここは、王子動物園の東側の公園です。フットボールの競技場の東の通路です。 向こうに観覧車とか動いているのが見えますが、人影はありません。そりゃあそうですね、寒中の雨の日曜日です。寒さがじわじわ身に染みるなかですからねえ。 雨のなかを傘をさして徘徊しているシマクマ君も、まあ、相当なもの好きですが、一応目的地はあります。 で、目的地はどこなのというわけですが、ここですね。 神戸市の「登山研修所」という施設です。こうして写真を見ると、なんか、謎の洋館という風情ですが二月に一度の集まりがここであります。市の施設で、一時利用を注視していましたが、今回はまだ開いているのでやってきました。まあ、いわゆる読書会とかなのですが、大阪とか奈良とか京都から来る人もいらっしゃるわけで、この時世ですから当然、不参加ですね。 シマクマ君は、まあ、とりあえず知っている人とおしゃべりをしたくてやってきました。まあ、近所といえば近所なのでね。 それにしても底冷えのする一日でした。風邪をひかないことが至上命題ですが、皆様もくれぐれもご自愛ください。ボタン押してね!
2022.01.24
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ロベルト・ロッセリーニ「イタリア旅行」元町映画館 「現代アートハウス入門 vol 2」の第7夜、最終回のプログラムはロベルト・ロッセリーニ監督の「イタリア旅行」でした。プログラムを見た最初から「これは!」という気合で見る予定でした。1953年の作品ですが、ロッセリーニ監督が奥さん(?)のイングリッド・バーグマンを撮った作品です。 イングリッド・バーグマンは40年前に映画に熱中していたころ何本か見たなという程度で、最近お目にかかった記憶はありません。そりゃあそうですね80年代には亡くなっていらっしゃるわけですから。そういえば、この映画のころに、彼女はロッセリーニの奥さんだったはずですが、記憶違いですかね。 映画は、ヘンテコな印象の作品でしたね。ゴダールだかが、「自動車と二人の男女とがいれば映画は撮れる」とかいったそう、ホントにそんな映画でした。 自動車に二人の人間が乗っていて、どこかを旅している様子ですが、運転している女性はサングラスをしていて前方を見ています。助手席の男は寝ているようです。自動車からホテルに移っても、二人の視線というか、見ているものがちぐはぐで、見ていてオロオロする気分でした。なんか旧婚旅行のようなのですが、いやはや、これは大変だという様子です。 二人とも、見ているものと見ようとしているものがチグハグなのですが、目と心がズレていることを見せて、人と人がすれ違いあっている様子を見事に映し出していました。凄いものです。 まあ、何年も連れ添うということが理解を深めるのではなくて、諦めを納得するというのが男と女なのかもしれませんが、それにしても殺伐としたというか、若い人が見るとどう思うのかなという展開でしたが、まあ、とどのつまりはどうなるのかは見てのお楽しみですね(笑)。自分の「奥さん」にこんな夫婦関係を演じさせるとはさすがロッセリーニですね。 そのロッセリーニ監督の勇気と、理知的な美貌で、不安といら立ちを見事に演じたイングリッド・バーグマンに拍手!でした。 それにしても美しい人ですねえ(笑)。監督 ロベルト・ロッセリーニ脚本 ヴィタリアーノ・ブランカーティ ロベルト・ロッセリーニ音楽 レンツォ・ロッセリーニ撮影 エンツォ・セラフィン編集 ジョランダ・ベンヴェヌーティ衣装 フェルナンダ・ガッティノーニキャストイングリッド・バーグマン(キャサリン・ジョイス)ジョージ・サンダース(アレクサンダー・夫)マリア・モーバン(マリー)アンナ・プロクレメル(娼婦)パウル・ミュラー(ポール・デュモン)1953年・83分・イタリア原題「Viaggio in Italia」2021・12・17‐no133・元町映画館(no109)
2022.01.23
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100days100bookcovers no64 64日目小林公二『アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』講談社 KOBAYASIさんが『あしたのジョー』を採りあげてから、ずいぶん日にちが経ってしまいました。遅くなってすみません。『あしたのジョー』は、TVアニメで見ていました。原作者高森朝雄こと梶原一騎の原作アニメをあのころいっぱいみていたことを今回初めて気が付きました。格闘技はあんまり好みでなかったのですが、これはその中では哀愁とか影があって一番気になっていました。最終回があっけなくて、録画機なんてなかったあの頃、(えっ、これで終わり?)と思ってよく理解できずに不完全燃焼感がその後も残っていました。それで、近くの古本屋で偶然見つけた漫画文庫12巻を今回揃えてしまいました。けれど、もう歳ですね。字が小さくて読めません。みなさんはまだ大丈夫ですか この後の本はいろいろ思いつきすぎて、迷っているうちに収拾がつかなくなってしまいました。ジョーゆかりの「泪橋」で、映画喫茶「泪橋ホール」を経営しているカメラマン多田裕美子さんのフォトエッセイ『山谷 ヤマの男』(筑摩書房)や最近出た牧村康正の『ヤクザと過激派の棲む街』(講談社)とかも思いつきました。「泪橋ホール」という小さな映画喫茶はとても興味深くて、ネットでもいくつも紹介されています。この小さな写真集のオトコたちも魅力的です。でもまだ気持ちが固まりません。 KOBAYASIさんが壮絶に戦い続けるジョーを「丈にとって「戦う」ことは生きることと同義だった」と書かれていたところから「懲りずに戦う」というテーマかなって思いました。あんまり読んではいない「戦い続ける」作品の中で思い浮かぶものを探すとすると。脱獄ものか、隠れキリシタンのアイヌの少女が日本を脱出してたくましく生きる『ジャッカ・ドフニ』とか。 あー、そういえば、こんな人がいたことに驚きと感動を覚えたノンフィクションがありました。ファシズムと「懲りずに戦った」稀有な男の生涯をたどった作品にします。『アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルト・ピレツキは三度死ぬ』小林公二 講談社 2015年5月発行。 著者は、ポーランド国内の絶滅収容所に20回以上通い、平和研究を専門とする大学教員で、日本ポーランド協会の事務局長を務めたこともあると、奥付にあります。 悪名高いアウシュヴィッツ収容所(第一アウシュヴィッツ収容所とビルケナウの第二収容所の両方の総称)には130万人が移送され、およそ110万人がここで殺され、生き残った人はわずか7000人にすぎない。こんな邪悪な所に、自ら志願して潜り込み諜報活動をして、収容所内部の様子を報告し、あまつさえ脱獄に成功した英雄が実在したとは、これを読むまで全く知りませんでした。祖国解放、独立と自由のために戦ったポーランドの軍人ヴィトルト・ピレツキの生きた足跡を彼の二人の遺児(二人とも80歳を越えている)のインタビューを交えて活き活きと、手に汗握るサスペンスのようなフィクションだと思いました。また、過酷なポーランド史もわかりやすく描き出されているのですが、よく知らなかった私はかなりてこずりました。 ピレツキは1901年に生まれました。この時代ポーランド、リトアニアあたりはロシアに支配されたかと思うと、ドイツに占領され、ドイツ軍が敗退すると、ソ連赤軍が侵攻してくるという時代です。その影響を受けて、彼の一家も先祖伝来の土地を離れざるをえなくなって、転々とします。 少年のころより愛国心強く、10歳代で軽騎兵隊員となり強盗団や赤軍と戦います。(1918年独立回復。ちなみに初代元首ユゼフ・ピウスツキの兄ブロニスワフ・ピウスツキは流刑地サハリンでアイヌ研究をし、チュフサンマという名の女性と結婚し子どもももうけています。西木正明の『間諜二葉亭四迷』(講談社文庫)はそのことも題材にしてフィクションにしています。ポーランド独立のための対ロシア工作を日本と連携しようとしていたとのアイディアです。また、去年の直木賞の『熱源』(文藝春秋)もブロニスワフとチュフサンマのことを取り上げていたと思います。)その後彼は帰郷して美術や農業を学び地域コミュニティを再建する活動に携わりつつ軍人としてのキャリアを積み上げます。小学校再建のボランティアで知り合った教師のマリアともこのころ結婚して二人のこどもにも恵まれます。 しかし、39年にはナチス・ドイツとの戦争が勃発し、ピレツキの騎兵隊は敗退します。一方東からは、ソ連がポーランドとの不可侵条約を破棄して侵入し、20万人の将校兵士が捕虜として連行されました。(後にカティンの森で遺骸となって発見される人々)大統領はルーマニアで身柄を拘束されたために、パリに亡命していた上院議長を後継に指名し、パリを拠点とした亡命政府を誕生させます。(その後ロンドンに移転。)ピレツキは信頼できる人々とポーランド秘密軍(TAP)を創設。ワルシャワなどの主要都市での諜報、武器の貯蔵、保管などを主とする地下組織で活動します。 翌40年6月、オシフィエンチム(ドイツ名アウシュヴィッツ)にポーランド軍捕虜収容所が作られ、ポーランド兵士が収容されました。ピレツキの仲間もその中にいました。TAP内ではこの収容所の実態を明らかにするために、誰かが潜り込むことが必要だと考えました。そこでピレツキが偽名を使い、わざとゲシュタポの人狩りで連行され収容されることにしました。 計画通り、40年9月21日に彼はアウシュヴィッツに移送されました。そのときの詳細な記録が『ヴィトルト報告』として残されています。ご存じのように、収容者のおかれた恐ろしく邪悪で不条理な状況は読むのが辛くなります。しかし、ここではピレツキのことに絞ったいくつかのことを上げます。 ピレツキがアウシュヴィッツに潜入した目的は4つでした。1 収容所内に地下組織を作ること。2 収容所内の情報をワルシャワのZWZ(武装闘争同盟)司令部に確実に届けるルートを確保すること。3 収容所内の不足物資を外から調達すること。そのために、できる限り的確な情報を外部に伝え、必要な物資を内に運び入れるようなネットワークを構築すること。4 ロンドンのポーランド亡命政府を通じて、イギリス政府を動かし、アウシュヴィッツを解放すること。 ピレツキが最初にしたのは組織作りです。まず、5人で1ユニットの最小単位を作り(通称ファイブ)、それをアメーバのように広げます。一つのファイブが摘発されても他のファイブに危険が及ばないようにするために、各ファイブは他のファイブの存在を全く知らないというのが原則だそうです。すでに親しい二人の同志がアウシュヴィッツに収容されていたので、最初のファイブはすぐにできました。収容所内のそれぞれの労働場所にファイブを作りました。この地下組織を通じ入手した情報は、早くも10月下旬に釈放者を通じて11月初旬にはZWZ(武装闘争同盟)司令部に届けられました。(家族からの送金をSSに掴ませて釈放されたり、赤十字を通じて釈放されることはあったようです。)地下組織は、ばらばらなままふえていきます。 そして41年12月にとうとう、ばらばらな地下組織をまとめる極秘のミーティングを成功させました。監視のSSがクリスマスイブにオフィスで酒盛りをしているすきをねらいました。ばらばらなファイブとは、軍事組織同盟、社会主義者、民族主義者、穏健派など思想や収容前の帰属母体が異なるから、相容れないのですが、この時は、反ナチス・アウシュヴィッツ解放ということでスムーズに意見を合わせられました。委員会を設置することと委員会のメンバーを決めました。その後、裏切り者は出ず、相互理解や協力も実現し、地下組織の拡大はこの後も続きます。その後、秘密裡にラジオの送信機を作り、ナチスにばれるまでの間、収容所から深夜に放送もしました。また、元はポーランド軍将校だったSS武装隊員が、地下組織に極秘情報をもたらすこともあったそうです。 しかし、潜入目的4の「外からのアウシュヴィッツの攻撃、解放」はいつまでも動きはないままで、とうとう彼はポーランド国内軍幹部に直接会って収容所救出作戦を促そうと脱走を決意します。(実際脱走はあったようです。収容所閉鎖までに802人の収容者が脱走を試み、約300人が成功しているそうです。 SSのヘス所長専用高級車を使ってみごとに脱走した人の話は、TVドキュメント『逃亡者―もっとも勇敢な男たちのアウシュヴィッツ脱走―』としてポーランドで放送されたそうです。)ピレツキは二人の仲間と43年4月27日に脱走しました。 命がけの脱走と逃避行の末、司令部に接触します。ピレツキ自身は亡命政府からの賞賛と勲章授与の知らせを得るも、ワルシャワ国内軍も亡命政府のあるイギリスも動きません。このころ一度だけ家族に会いますが、また対ソ連諜報活動とアウシュヴィッツの仲間の家族へのサポート活動に戻ります。 翌44年、ソ連の呼びかけと見せかけの援軍でワルシャワ蜂起が起きます。ピレツキも諜報活動の大尉としてでなく、志願兵として参加し、まもなく指揮権を委ねられ死闘をつづけます。が、ソ連軍や西側の支援はほとんどなく、ポーランドの国内軍やワルシャワ市民軍は見殺しにされて降伏。ピレツキはドイツ軍にまた逮捕されます。今度はムルナウの収容所ですが、アウシュヴィッツとは雲泥の差だったようです。翌45年4月28日アメリカ軍によって解放されます。 一方、祖国ポーランドはソ連の傀儡政権となり、ソ連のNKVD(内務人民委員部)に倣って、治安、スパイ組織網を作り上げていました。社会主義ポーランドは、亡命政府やそれに与していた人々を排除し、非合法化していきます。元国民軍兵士たちは、組織が切断されて行き場を失い、逮捕されれば収容所送りか、シベリア流刑、処刑が待っていました。彼らは、森に逃げ込み、新たな対共産主義パルチザンを森で組織するか、もしくは転向して体制側の秘密警察の活動に加わるかしかない事態になりました。(アメリカに行った人も多いですよね。) ピレツキは、ポーランドのソ連からの解放のためにイタリアの亡命政府第二師団(ここは国外の唯一の亡命政府軍)のアンデルス将軍とともに戦います。ソ連が39年から41年の間、ポーランドで行った残虐行為や不法逮捕などに関する証拠を収集し続けます。その詳細な情報「謀略レポート」を亡命政府第二師団におくりました。 しかし、社会主義ポーランド政府にとってピレツキの情報収集は国家反逆であり、逮捕命令が出されました。その後の時系列を記します。3度収容された人ですが、このときがもっともひどかったようです。 公判のとき、初めて家族との短時間の接見が許されたとき、彼は妻に「ここでの拷問に比べれば、アウシュヴィッツなど子どもの遊びだ」と呟いたとのこと。47年5月8日 ポーランド公安省により逮捕。47年5月9日 尋問。(拷問)48年3月3日 裁判。(見せしめ)48年3月15日 「死刑」判決。上告却下、恩赦も執行猶予も行使されず。48年5月25日 死刑執行。(一切発表されず。家族にも知らされず。)(埋葬された場所は不明。ポヴォンスキ軍人墓地か?処刑された人骨の発掘とDNA鑑定で徐々に身元確認の作業が行われている)90年10月1日 司法の発表「ポーランド最高裁判所軍事部決定 ヴィトルト・ピレツキに下された1948年の死刑判決および判決の基礎となった訴因は 遡って無効とする。また同人に対する名誉は回復される。『ポーランド国軍 騎兵大尉ヴィトルト・ピレツキは、あらゆる軍人が敬すべきわが国英雄の一人である。我々は、ドイツ人、ロシア人と同罪である。我々の手で、我々自身の英雄を抹殺してしまったのだから』」(決定の一部抜粋) この文章を書いてきて、最後にいっそう混乱してきました。祖国や同胞のために果敢に戦った男が、体制が変化した祖国にとっては排除すべき異物とみなされてしまったということ。彼は新しい体制のためには生け贄にされなければならなかったのか?実質ソ連の支配下にあるから仕方なかったのか? 社会主義国家が民主化してから、この30年余り、それらの国々で非公開だった文書が日の目をみることになり、誤った判断を認め名誉を回復された多くの人の中の一人、ヴィトルト・ピレツキのことを読みながら、ポーランドの歴史の過酷さを思い知らされました。若いころに観た最後のシーンが忘れられないアンジェイ・ワイダの『地下水道』、去年観た『異端の鳥』など、実はどこかで見ているのに、他人事としてしかとらえていなかったと気づきます。 『我々の手で、我々自身の英雄を抹殺してしまったのだから』このポーランド司法の90年の言葉を支える厳しく己を見る視線。この目は、敵対する他者目線を内面化しているからなんでしょうね。戦うことを避けてきた私にはこれがありません。でも、体制を壊さない、変えない日本という国もそうなんじゃないのかな?日本にも名誉回復すべき人がいるのに、「過去は水に流して」、「何を今さら」と言われそうです。 今回も、あちこちに思いが散ってまとまらず、読みにくいかと思います。このあたりでご容赦願います。SIMAKUMAさん待ちくたびれたと思います。すみませんでした。また、よろしくお願いいたします。追記 写真のキャプチャです。3人で写っている写真は、アウシュヴィッツから脱獄逃走した仲間です。キャプチャをあとから入れる方法が分からなくて困ってて(-_-メ)E・DEGUTI2021・03・27追記2024・04・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.01.22
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堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿「時代の風音」(UPU・朝日文庫) 先だって、堀田百合子さんの「ただの文士」(岩波書店)を案内しましたが、ついでと言ったらなんですが、堀田善衛入門の1冊としては、こんな本もありますよね、と思い出したのがこの本です。 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿「時代の風音」(UPU・朝日文芸文庫) 実はこの本は、すでに朝日文庫に入っていて、入ってから25年経つ古い本です。1992年に元の単行本が出版された本ですから、今年、2022年でちょうど30年前の本ということです。 文庫の表紙カバーは朝日文庫の定番ですが、単行本はカバーが宮崎駿が描いた海賊船の、マンガ風のイラストで、これがとてもいいと思います。どちらにしても古本でお読みになるなら、値段は大差ありません、表紙がステキな単行本を選んだ方がいいんじゃないでしょうか。 思わず、言わずもがなですね。昨今の風潮では、読んだ後の「書籍」はごみ扱いですから、まあ、買うということからしてあり得ないのかもしれませんが(笑)。 さて、この対談、三人ですから鼎談ですが、の当時、宮崎駿は「紅の豚」を完成させて、いったんジブリを離れていた時期のようです。ヒマだったのでしょうね、会いたい人と会っておしゃべりをしているのですが、宮崎駿の堀田びいきは筋金入りのようで、あこがれの人にあってうれしくてたまらない少年の雰囲気が本全体にあります。 もしもお読みになれば感じられると思いますが、鼎談とはいいながら、宮崎駿にとって、彼の意識の上でも、それぞれの作家の実力の上でも、相手がすごかったのですね、いや、すごすぎたというべきでしょうか。博覧強記の権化のような司馬遼太郎と、1930年代の上海を知っていて ― これがまずスゴイ ― ヨーロッパで暮らしながら「藤原定家」や「ゴヤ」、「モンテーニュ」の伝記を書いた堀田善衛です。語り合いのなかでは、全く勝負にならない小僧っ子として宮崎駿が聞き役でした。 振り返ってみれば司馬遼太郎が1990年、堀田善衛が1998年、ともに鬼籍に入り、20年以上の年月が経ちました。司馬遼太郎が対談した本としては、ほとんど最後の本だと思います。彼も、堀田善衛と会ってのんびり話していることが楽しくてしようがない雰囲気です。ひょっとしたら遺言といってもいい「声」が残されているのかもしれません。 宮崎駿にしても、この後、ディズニーと組んで世界征服するジブリの経営はともかく、この対談の話題の中に「物の怪」の話も出てくるのですが、「もののけ姫」から2020年代に至る、その後の宮崎駿を考えると、彼自身の時代の証言というか、その時、彼は何を考えていたのかということを感じさせるという意味でも面白い記録です。 話題は多岐にわたるのですが、30年たって振り返ると、三人三様に、実にまともな状況認識だったことに感嘆!します。 まあ、とりあえずぼくとしては、正直、堀田善衛に再入門しようかなという感じですね。 お若いみなさんも、このあたりから始められたらどうでしょうか。たとえば、ジブリのファンの方が、堀田善衛の社会時評や評伝、司馬遼太郎の「街道をゆく」(朝日文庫)のシリーズをはじめとした歴史評論の世界をお読みになれば、宮崎駿の「マンガの世界」が、実の歴史や社会と結構、地続きで構想されているらしいという面白さにも会えるような気がします。 対談集で、おしゃべりしあっている本ですから、読みやすいですよ。いかがでしょう。
2022.01.21
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「旧年中はご無沙汰しておりましたジジとキキでございます。」バカ猫百態 2022年 その1 新年あけましておめでとうございます。 昨年のお正月のあいさつからご無沙汰しておりましたが、二人(?)とも元気に暮らしております。 ぼくがジジくんです。こうやってるとちょっと凛々しいでしょ。なんちゅうか、だんだん人間とかに似てきている気がしますが、ほんとは平和ボケです。獲物を追わない生活ですから仕方ありません。 あたいがキキちゃんです。一生寝てたい猫です。どっちかというと高みの見物タイプです。 結局、寝てるのがいちばん好きです。太り過ぎを危惧する声も聞こえてきますが、気にしてません。 同じ所にいても、ぼくは気になっちゃうんです。周りの喧騒が。太り過ぎはキキと一緒です。あんまり気にしてません。寝てらればいいんです。 時々二人で遊びますが、結局寝てしまいます。 まあ、こうなってしまいますね。何はともあれ今年もよろしくお願いいたします。 「ねえ、寝苦しいから、ちょっとそっち行ってよ」 久しぶりにヤサイクンからジジとキキの写真が届きました。二人はキキちゃんが姉でジジくんが弟です。今年は、もう少し登場していただくつもりです。よろしくね。ボタン押してね!
2022.01.20
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「今日は厄神さんです!」徘徊日記 2022年1月19日「垂水の八幡さん」 今日は2022年の1月19日です。毎年、お正月の玄関飾りとかを片づけて、「さて、どうしよう?」と思うのですが、以前は団地で行われていた「とんど焼き」(「どんど」、「どんと」、どれがこの辺りの本とかわかりません)の行事が、いつのころからか行われなくなって、思いつくのが「厄神さん」のお祭りの時の垂水の八幡さんです。 昨日から三日間が「厄神さん」です。垂水には多井畑厄神という人気の厄神さんがありますが、人出を考えると、近づく気にはなりません。まあ、少し遠いということもあります。 で、八幡さんにやってきました。 境内に、火の窯があって、ここにお飾りをほりこみます。燃え上って焔が出ると嬉しいのはどうしてでしょうね。 ついでといったら叱られますが、本殿にもお参りしてきました。 まあ、時間が昼過ぎということもありましたが、好ましい人出でした。足元にはソーシャル・ディスタンスとかのシールが貼ってあります。ガラガラの大鈴は今年もありません。 後ろで待っていて、お参りの方々が、皆さん真剣にお祈りしていらっしゃるのを見て、ようやくまじめな気分になって、あらためて、手水を使い、お賽銭も上げてお参りしました。 新しいゆかいな仲間が生まれたり、中には厄年を迎える仲間もいたり、お参りすることはたくさんあるはずなのですが、無念無想でした(笑)。 いつもなら狛犬さんを撮るのですが、この日はちょっと気がせいていたこともあり、素通りで、幟だけ撮ってきました。 ちょっとピンボケですね(笑)。もう一枚はどうでしょう。 ピントはあっていますが、裏ですね。いやはや何ともな厄神さん詣ででした。まあ、とはいいながら、新コロ騒動も収まる気配を見せないこのごろです。家族はもちろんですが、読んでいただいている皆様も、できるなら息災でお過ごしになる1年になりますようにと、結構マジに考えるシマクマ君でした。ボタン押してね!
2022.01.19
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サオダート・イスマイロワ「40日間の沈黙」・「彼女の権利」元町映画館 「で、主人公はどうなったの?」見終えて最初にそう思いました。 中央アジア今昔映画祭という企画にまじめに通って9作品全部見ました。これが最後の2本です。サオダート・イスマイロフという、ウズベキスタンという国の女性の監督の作品らしいのですが、チラシによればウズベキスタンで人生の節目に行われる儀式、40日間の沈黙の誓いを通して描かれる、伝統と今、幻想と現実が交錯する世界を描いたという作品でした。 まあ、今回のどの作品にも共通したことではあるのですが、見ていて、世界のどのあたりの国のどんな場所なのか見当がつきません。画面からわかることは、山奥の孤立した村のようだということだけです。風景がすごいのです。主人公はビビチャという女性です。彼女は「沈黙の誓い」を立てて、それを実行するため祖母の家にいますが、その家には叔母とその叔母の幼い娘、なんだか女性ばかりが一つ屋根の下にいます。 言葉を禁止するという、独特な習俗を描くというシチュエーションだからでしょうが、内面の描写のカットバックが多用されている印象で、ぼくには何が起こっているのか、とうとうわかりませんでした。ここに住み、暮らしてきた女性の過去と現在と、なんだかよくわからない未来が暗示されているのかなあといぶかしんでいるうちに映画は終わりました。 で、「彼女はどうなるの?」というわけですが、寝込んでしまったわけでもないのに話の筋をなぞりなおすことができない鑑賞体験は初めてでした。もう一本の「彼女の権利」は、ほとんどインスタレーション・フィルムの趣で、そちらも、ただぼんやり眺めていただけで、ほぼ、ギブ・アップでした。 ただ、映像に映し出されていることは、おそらく「社会と女性」という視点の表現なのだろうな、監督はかなりしっかりしたフェミニズム思想の表現をたくらんでいるのだろうなという印象は浮かぶのですが、コンテキストがまとまらないのです。多分、ぼくの見方に原因の一つはあるのでしょうが、結構面白がって見てきた中央アジア映画だったのですが、最後の最後がこれだったのでへこみました。まあしようがないですね(笑)。監督 サオダート・イスマイロワ脚本 サオダート・イスマイロワ ウルグベク・サディコフキャストルシャナ・サディコワバロハド・シャクロワサオダート・ラフミノワ2014年・88分・ウズベキスタン・オランダ・ドイツ・フランス合作「彼女の権利」・元町映画館監督 サオダート・イスマイロワ2020年・15分・ウズベキスタン2021・12・07‐no127・no128元町映画館(no108)
2022.01.18
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堀田百合子「ただの文士」(岩波書店) 今日は2022年の1月17日です。神戸の震災の「思い出(?)」はいろいろありますが、あのあと、職場の同僚の数人で始めた「小説を読む会」が今でも続いています。 なんで、そんなことを始めたのかといえば、忙しかったからです。土曜、日曜にクラブ活動の「指導(?)」とかで出勤することが当たり前の職場でした。 「あっ、その日はだめです。ベンキョー会があります。」 とか、なんとか、そんな言い訳のいえる日を作りたかったというのが、ぼくの本音でした。 で、その会の今月の課題が堀田善衛の「方丈記私記」(ちくま文庫)なのです。はじめからのメンバーの一人が提案なさいました。20数年、作家の数でいえば、年に20人ほど、合計すれば500人ほどの「作家」の著作を読んできたのですが、そういえば堀田善衛って読んだことがありませんでした。 推薦なさった方は、最近「めぐり合いし人びと」(集英社文庫)をお読みになって提案されたようです。サルトルとかネルーとかいう人との出会いも出てくる、作家の晩年、1990年ころに書かれた回想集です。その本に対して「方丈記私記」は70年ころの著作です。 堀田善衛といえば、押しも押されぬ戦後文学、第二次戦後派の巨星ですが、「方丈記私記」は芥川賞受賞作の「広場の孤独」、「審判」・「海鳴りの底から」などの初期(?)、1950年代~60年代の小説群のあと、70年代の「ゴヤ」に始まる評伝の大作群の仕事の入り口で書かれた中期の傑作で、のちの大作「定家明月記私抄」 (ちくま学芸文庫)の肩慣らしのようなところもある作品ですが、いわば堀田版「鴨長明論」ともいうべき評論だったなあという、ちょっとあやふやな記憶が浮かんできましたが、そのとき、ふと、思いました。「若い人たちは、そもそも堀田善衛とかご存じなのだろうか?」 まあ、大きなお世話なわけで、お読みになって興味をお持ちになれば、他の作品も、というふうでいいわけですが、なんだか妙な老爺心が浮かんできてしまって、「ああ、あれがいい、あれを案内しよう」 と思ったのがこの本です。 堀田百合子「ただの文士」(岩波書店)ですね。 何かの雑誌の連載なのか、書下ろしなのかはよくわかりませんが、1998年に亡くなった堀田善衛のお嬢さんである堀田百合子さんが、最後の日々には「センセイ」とお呼になるようになった父上のことを、その記憶の始まりからを思い出して書いていらっしゃるエッセイ集です。 変な言い草ですが、読んでいて便利なのは日時を追ってエピソードが語られ、エピソードに合わせて、その当時の作品が、堀田百合子さんによって読み直されているところです。 目次はこんな感じです。 目次「サルトルさんの墓」「芥川賞と火事」「モスラの子と脱走兵」「ゴヤさんと武田先生の死」「スペインへの回想航海」「アンドリンでの再起」「埃のプラド美術館」「夢と現実のグラナダ」「バルセロナの定家さん」「半ばお別れ」 1949年生まれの百合子さんの思い出が彼女自身の記憶としてくっきりとしてとしてくるのが「モスラのこと脱走兵」のあたりからで、百合子さんが小学生のころのことです。一九六一年。「三十余年の眠りから醒め 蘇る幻の原作!」「えッ、この3人が原作者?安保闘争の熱気さめやらぬなか、戦後文学をだ評する3人の作家たちが、新しい大怪獣つくりにいどんだリレー小説。知る人ぞ知る、映画「モスラ」幻の原作、初の単行本化。遊び心と批評精神あふれる想像力の世界」これは1994年に筑摩書房から出版された「発光妖精モスラ」の、何とも大げさな帯の文章です。初出は1961年の「週刊朝日別冊」、中村真一郎氏、福永武彦氏、堀田善衛、3人の合作小説(?)です。映画になりました。砧の東宝の撮影所に、父と見学に行きました。中村先生、福永先生もご一緒でした。モスラが撮影所の真ん中にどーんと鎮座していました。モスラくんは大きな芋虫もどき、ゴジラより私は好きでした。七月、「モスラ」は全国の映画館で封切られ、なかなかの人気でした。夏休みが明け、学校に行くと、休み時間にどこからともなく、「モスラーヤ、モスラー」という歌が聞こえてきます。私は穴があったら入りたかった。この原作に父も加わっていることを友達に知られたくなかった。この映画が、いかに、どのような意味がこめられていようとも、そんなことは子供にわかるはずがないのです。子供社会は難しい。モスラの子(?)などと、絶対に言われたくなかった。(P43) ちなみに、「方丈記私記」の話は一九七一年、ぼくにとって長年、懸案になっている「ゴヤ」の話題が出てくるのは一九七二年です。 一九七二年前半のころ、「朝日ジャーナル」誌より、翌73年からの連載の依頼がありました。「ゴヤ」です。父は、まだ早い、まだ取材が済んでいない、まだ見なければならない絵がたくさんある、と言って連載の依頼をいったん断りました。母は言います。 「来年は五五歳にになる。「ゴヤ」を書くには体力がいる。今、始めなければ、もう書けない。残りの取材は書きながらすればいい」と、父のお尻を叩きました。父は色よい返事をしないまま、七三年六月にA・A作家会議常設事務局会議に出席するためにモスクワへ出かけました。帰国後、父は言います。「来年からゴヤをやることにする。モスクワからの帰りがけ、パリとマドリードへ寄った。何とかなるだろう。半年連載して、半年休み。その間に次の取材をする」大仕事を開始するときに、父は家族に向かって一大宣言をするのが慣わしでした。そして最後に、「よろしく頼む」と言うのです。「ゴヤ」のときはもう一言ありました。「取材費はすべてこちら持ち。朝日には頼まない。それで手枷、足枷がつくのはご免だ」「今までさんざん自前でやってきたじゃないの」と、母は笑っていました。 この後、母は「ゴヤ」執筆に父が専念できるよう、父の前に立ちはだかりました。編集者の方々は、母の関門を突破しないと、父に原稿の依頼ができません。父が電話に出ることはめったにありませんでしたから。出版界で噂されていたそうです。「披露山のライオン」と・・・・・。(P77) と、まあ、こんな感じなのですが、それぞれのトピックは「モスラ」の話であれば、ベトナム戦争に従軍するアメリカの脱走兵をかくまう話とか、「ゴヤ」であれば、親友武田泰淳の死であるとかと重ねて思い出されています。そこに、堀田善衛という作家の社会や歴史に対する基本姿勢のようなものが浮かび上がってきて、ぼくには印象深い話になっていました。 もちろん、最後は晩年の堀田善衛の姿が描かれるわけですが、東京大空襲から25年たって「方丈記私記」を書いた作家が、その後、ナポレオン戦争の「ゴヤ」(集英社文庫・全4巻)、「紅旗征戎非吾」の「定家明月記私抄 」(ちくま学芸文庫上・下」)をへて、「エセー全6巻」(岩波文庫)のミシェル・ド・モンテーニュの肖像「ミッシェル 城館の人」(集英社文庫・全3巻)の大仕事の話題がこの思い出の後半のメインです。 で、ぼくの老爺心の本音は、「せっかく、堀田善衛を読むなら、ここまで付き合ってあげてね!」 とでもいうべきものです。テレビのグルメ番組のようなことをいってますが、若い読書グルメの皆さんが、前菜「方丈記私記」に続けて用意されている、メインディッシュに気づいて頂きたい一心の案内でした。 まあ、腹いっぱいどころではすまない量ですがね(笑)。
2022.01.17
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小林まこと「JJM女子柔道部物語12」(EVENING KC 講談社) 2022年1月のマンガ便に入っていました。小林まことの「JJM女子柔道部物語」、第12巻です。小林まことが柔道家の恵本裕子さんの原作(?)をマンガにしている作品ですが、恵本裕子さんという方はアトランタオリンピックの柔道61キロ級の金メダリストです。女子柔道といえば「ヤワラちゃん」こと田村亮子さん(谷亮子)が有名で、世界選手権などの実績も群を抜いているのですが、オリンピックで金メダルを取ったのは恵本裕子さんが最初らしいのですね。アトランタで「ヤワラちゃん」は銀メダルだったようです。そのあたりの、実力はもちろんですが、ラッキーなめぐりあわせも、このマンガに漂う笑いの理由の一つのように思えます。 まあ、その恵本裕子さんが高校1年生で柔道と出会い、8年目に世界の頂点に立ったという体験談が語られていて、それが、マンガになっているわけです。高校や選手の名前は変えてあるようですが、おそらく実話がベースだろうと思われます。で、実話だとしても、本人であろう神楽エモちゃんをはじめ、小林まこと流の「マンガ化」ですから、やはり、相当のおバカぶりで、そこがこのマンガのやめられないところなのです。 今回は高2の終わりに出場した全日本体重別選手権での活躍の前半が描かれているのですが、登場人物たちのおバカぶりは、いよいよ絶好調という感じです。 これは裏表紙ですが、このえもちゃんの表情も笑えますが、もう一人の女性は72キロ超級の早乙女舞さんで、マホガニー・アキラという男性タレントの彼女らしいのですが、実在の本人がつけられた名前や、この絵を見ると、笑ってばかりはいられないんじゃないかという炸裂ぶりで、サイコーですね。 マンガはこの辺りから、ぼくのような門外漢でも「ああ、あの人だな」という有名選手が登場しはじめてくるようで、小林まことがどこまでおバカに描いていくのか興味津々という展開で、次号が楽しみですね。
2022.01.16
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セルゲイ・ドボルツェボイ「アイカ」元町映画館 映画.com 2021年の秋の終わりに「中央アジア今昔映画祭」という企画で、9本の作品を見ましたが最も衝撃を受けた作品で、「ああ、これは現代映画やなあ」と実感させる映画でした。セルゲイ・ドボルツェボイ監督の「アイカ」です。 舞台はモスクワらしいのですが、映像に登場する人物たちのは「キルギス」から来た不法滞在の労働者たちで、題名の「アイカ」はモスクワで就労ビザを持たずに働いている女性の名前でした。 演じているのはサマル・エスリャーモバという女優さんですが、2018年のカンヌ映画祭で主演女優賞に輝いています。作品を見終えればわかりますが「なるほどそうだろう!」の受賞です。 ちなみに、この年のカンヌのパルムドールは「万引き家族」、他にレバノンの「存在のない子供たち」や韓国の「バーニング」、アメリカの「ブラック・クランズマン」なんかの年です。 2021年の秋、「由宇子の天秤」という邦画作品が話題になりましたが、カメラ・ワークがそっくりでしたが、こちらの方が古い2018年の映画です。 ハンディ型のカメラでを使っているのでしょうか、接写的に主人公を追い続けて、全体状況を、ほぼ写さない方法ですから、映画が始まった当初、何が起こっているのかよく分からないまま、事態が進行していきます。 赤ん坊を出産したばかりであるらしい女性がその赤ん坊に授乳を促されるのですが「トイレに行く」とベッドから立ち上がり、そのトイレの窓から産院を脱出してしまいます。外は雪です。 そこから映画は始まりました。キルギスからの不法労働者を宿泊させているらしい、いわゆるタコ部屋、宿の中の殺伐たる人間関係、故郷キルギスからの金の無心、ほとんど一文無しで、なおかつ借金を背負っているらしい境遇、働き先を失って職探しを続ける殺気立った顔、出産直後からの出血にタオルを当てて凌ぐ苦痛との戦い。 刻々と時がたっていく中で、焦りと苦痛と寒さで疲れ果てていく主人公の息遣いが間近に迫るこんな臨場感はそう経験できるものではないと思いました。この作品のように、見ていて息苦しくなるほどの迫力を感じるのは久々でした。 カメラが追い続ける数日間の逃走の結果、ついに借金取りのやくざに拉致され、彼女は金の工面のために産んだばかりの赤ん坊を思いだします。 ここまで、追いつめられな決して闘争心を失わない彼女の表情を見つめてきたぼくは、彼女が赤ん坊に名前も付けずに置き去りにしたことも、彼女がとどのつまりに思いついたことも、とても非難する気にはなりません。 貧困が世界中で、こんなふうに「人間」を追い詰めているのが現代という社会であることを体を張って演じたサマル・エスリャーモバに拍手!拍手!でした。 キルギスに限らないのでしょうが、アジアの、いや、世界の現実を一人の女性を描くことで活写して見せた監督セルゲイ・ドボルツェボイにも拍手!でした。 とても悲惨な映画でしたが、最後の最後に限りなく美しいシーンが待っていました。ただ、その美しさの次に奈落を感じさせるこの監督はただものではないと思いました。 同じ年のカンヌ出品作は結構話題なのですが、この作品には偶然出会いました。間違いなく傑作だとぼくは思いました。監督 セルゲイ・ドボルツェボイ脚本 セルゲイ・ドボルツェボイ撮影 ヨランタ・ディレウスカ編集 セルゲイ・ドボルツェボイキャストサマル・エスリャーモバ2018年・100分・G・ロシア・カドイツ・ポーランド・カザフスタン・中国合作原題「Ayka」2021・12・07‐no126・元町映画館(no107)
2022.01.15
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ルネ・クレール「巴里祭」シネ・リーブル神戸 2021年の11月にシネ・リーブル神戸で上映された「ルネ・クレール・レトロスペクティブ」の企画で見た作品です。 シネ・リーブル神戸では入場者に一作ごとの絵ハガキを配っていらっしゃって、この絵ハガキを全部いただきたい一心で、全部見ました。 こんなことを言うと「アホか!」といわれそうですが、案外、本音です。なんでもいいから、出かけていくための「起動力」が必要なのです(笑)。 この日に見た映画は原題は「7月14日」というシンプルさですが、日本公開用につけられたのが「巴里祭」だそうです。フランス革命のバスティーユ監獄襲撃記念日、革命記念日だったと思いますが、そりゃあ「巴里祭」の方がお客は入るでしょうね。 映画はタクシー運転手のジャン(ジョルジュ・リゴー)と花売り娘のアンナ(アナベラ)の恋のお話でした。それぞれ、お二人ともに1930年代の顔という印象です。ぶっちゃけ、ラブ・ストーリーというより人情コメディというほうがぴったりな気がしましたが、パリの屋根の下で暮らす庶民の姿が、「ああ、フランス!」という感じの「音楽」と「ユーモア」で描かれていました。 映像のせいもあって古めかしくはあるのですが、そんなに古びているとは思いませんでした。まあ、古びていてもいいのですが、「この監督の人間の描き方はいいなあ」と素直に思いました。 シリーズを見終えて、もう、100年になろうかという映画の始まりから、いろんな作品が撮られてきて、今があるわけですが、「この監督が撮っているように撮ったらいいじゃないか」という気分と、「なんでこんなふうに撮れなくなったのだろうか」という疑問が湧いてきました。 現代という時代の目で、こういう作品を見ると、やはり、ある種の退屈さを感じるわけです。変な例ですが、その退屈さは江戸川乱歩とか芥川龍之介を読み返していて感じるものと、ちょっと似ているのかもしれません。じゃあ、今の方がいいのかというと、そうでもないわけで、どう考えればいいのでしょうね。とかなんとかいいながら、新しい作品に飛びついては、まあ、感心したりシラケたりするのでしょうね。 それにしても90年の時間を見事に飛び越えて見せてくれたルネ・クレールに拍手!でした。監督 ルネ・クレール製作 ロジャー・ル・ボン脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール美術 ラザール・メールソン衣装 ルネ・ユべール編集 ルネ・ル・エナフ音楽 モーリス・ジョーベールキャストアナベラ(アンナ:町の娘)ジョルジュ・リゴー(ジャン:タクシ―運転手)レイモン・コルディ(レーモン)ポール・オリビエ(イマック氏)レイモン・エイムス(シャルル)トミー・ブールデル(フェルナン)ポーラ・イレリー(ポーラ)1932年・86分・フランス原題「Quatorze Juillet(「7月14日」)」日本初公開1933年2021・11・14‐no110シネ・リーブル神戸no131追記 ルネ・クレール(1898年11月11日 - 1981年3月15日) フィルモグラフィー無声映画1924年「幕間 Entr'acte 」・「 眠るパリ Paris qui dort」(未公開)1925年「ムーラン・ルージュの幽霊 Le fantôme du Moulin-Rouge」(未公開)1926年「空想の旅 Le voyage imaginaire」(未公開)1927年「風の餌食 La proie du vent 」(未公開)1928年「イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d'Italie」「 塔 La tour」(未公開)「気弱な二人 Les deux timides 」(未公開)発声映画1930年「巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris」1931年「ル・ミリオン Le Million 」「 自由を我等に À nous la liberté」1933年「巴里祭 Quatorze Juillet」1934年「最後の億萬長者 Le dernier milliardaire」1935年「幽霊西へ行く The Ghost Goes West (英)」1938年「ニュースを知らせろ Break the News (英)」(未公開)1941年「焔の女 The Flame of New Orleans (米)1942年「奥様は魔女 I Married a Witch (米)」1943年「提督の館 Forever and a Day (米)」TV放送/8分間の挿話のみ監督1944年「明日を知った男 It Happened Tomorrow (米)」(未公開/ビデオ)1945年「そして誰もいなくなった And Then There Were None (米)」1947年「沈黙は金 Le Silence est d'or (仏=米)」1949年「悪魔の美しさ La Beauté du diable (仏=伊)」1952年「夜ごとの美女 Les Belles de nuit (仏=伊)」1955年「夜の騎士道 Les Grandes manoeuvres (仏=伊)」1957年「リラの門 Porte des Lilas(仏=伊)」1960年「フランス女性と恋愛 La Française et l'amour (伊=仏)」1961年「世界のすべての黄金 Tout l'or du monde (伊=仏)」(未公開)1962年「四つの真実 Les quatre vérité 第4話「二羽の鳩 Les deux pigeons」(スペイン=伊=仏)」(未公開)1965年「みやびな宴 Les fêtes galantes (仏=ルーマニア)」
2022.01.14
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ソンタルジャ「陽に灼けた道」元町映画館 映画ドットコム 「映画で旅する世界」という企画で見ました。ソンタルジャというチベット(中国)の監督の「陽に灼けた道」という、成年と老人の出会いを描いた作品でした。 今回の企画で3本のソンタルジャ作品を見ましたが、これがデビュー作だそうです。五体投地の巡礼映画も、他の監督の作品も含めて、今回初めて、何本か見て驚くことが多かったのですが、この作品もラサへの巡礼を描いた作品でした。ただし、帰り道です。 偶然の事故で母親を死なせてしまった青年が、母の遺灰を荷物に忍ばせてラサへ巡礼します。こう書くと簡単そうに聞こえますが、実際は1000キロを超える五体投地を一人で成し遂げるわけで、今回のチベット映画で繰り返し見て、見るたびに信じられない気持ちになった行為なのです。ただ、この作品はその巡礼を成し遂げたにもかかわらず、不機嫌そのものの青年と彼が乗り合わせていた帰りのバスで隣り合った老人の出会いの話でした。 青年はほとんど口をききません、老人は生涯の夢でありながら自分には実行できなかった巡礼をやり遂げながら、不機嫌そのものの青年が気にかかって仕方がないようです。 人とかかわりあうのを嫌がる青年ニマ(イシェ・ルンドゥプ)が、バスを降りてしまうと、老人(ロチ)もついて降りてしまいます。凸凹コンビのロード・ムービーの始まりというわけです。 「帰るところ」を失った青年と老人の旅の物語とでもいえばいいのでしょうか。青年の家族の消息は語られませんが、老人の帰宅の遅れは家族から心配されています。にもかかわらず、老人は青年を放っておけないのです。いわば、おせっかいです。ラマだか何だかのフンで焚火をして暖をとり野宿する老人と青年の姿を見ながら、「ああ、二人とも帰りたくないんだな」とふと感じました。 老人が青年の世話を焼くモチベーションが、物語的には弱いといえば弱いのですが、彼もまた「帰りたくない」という気持ちなのではないかということは、自分自身に重ねてわかったような気がしました。 ぼくにとって、この作品の良さはそこでした。人が年を取るということなのか、生きていること納得のいかなさなのか、そのあたりは定かではないのですが、映像が投げかけてくるなにかには共感しました。 それにしても、チベット高原の荒涼とした風景が背景にあることが映画を支えていることは確かですね。 不機嫌な顔を続けてほとんど何もしゃべらなかった青年ニマを演じたイシェ・ルンドゥプと余計なおせっかい老人をおろかに演じたロチという俳優さんに拍手!でした。監督 ソンタルジャ脚本 ソンタルジャ美術 パクパジャプ録音 ドゥッカル・ツェラン作曲 ドゥッカル・ツェラン歌 ドゥッカル・ツェランキャストイシェ・ルンドゥプ(ニマ)ロチ(老人)カルザン・リンチェン(ニマの兄)2010年・89分・中国原題「The Sun Beaten Path」2021・11・08‐no105 元町映画館(no106)
2022.01.13
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アレハンドロ・ランデス「MONOS 猿と呼ばれし者たち」元町映画館 目隠しをした少年たちが、いや少女もいるようですが、サッカーのような遊びに興じています。ボールの代わりに蹴られているのが何なのかは、画面が暗いこともあってよくわからないのですが、見事に標的に命中して、カメラが周囲を映し出すと、彼らが遊んでいる空間がとてつもなく広大な自然の果てのような場所であることが映し出されていきます。「なんなんだこれは?」 映画が始まって、最初にそう思いました。 映画はアレハンドロ・ランデスというコロンビアかアルゼンチンの監督の「MONOS」という作品で、元町映画館のモギリの少年に教えられてみました。 やがて、その広大な風景はアンデスの高地であるらしいこと。彼らは、反政府武装ゲリラ組織の大人たちに武装訓練されながら集団生活を送る十代の少年、少女たちで、互いに「あだ名」で呼び合う、あたかも「遊び仲間」であるような関係であること。彼らの通称がモノス(猿)であり、組織から派遣されている、それこそ、原人のようなメッセンジャーの兵士が、彼らを暴力的に指導していること。米国人らしい、博士と呼ばれている女性の監視が彼らの、今のところの、任務であるらしいこと。南米のどこかの国の内戦の一つの断面を描いていること。 何となく、そんなふうに映画の輪郭が浮かび始める中で、少年たちを支配しているのが、一つは「子どもの遊びの論理」のようなのですが、もう一つ「命令」と「服従」と「規律」いう「軍隊の倫理」をたたき込まれつつあり、「敵」か「仲間」か、「敵」は殺せという「戦場の論理」を、自動小銃をおもちゃにしながら「子どもの感覚」で身に着けつつあるという、危なっかしさが画面に漂い始めます。 映画の始まりに彼らが共有していたはずの無邪気さが、映画の進行に従って、無邪気であるからこそ陥らざるを得ない閉ざされた関係を予感させはじめますが、映画は予感の通りに進行し、いや、予感以上の悲劇的な結末を迎えます。 展開を追いながら、フト、思い出した言葉は、50年前の連赤事件でハヤリ言葉になった「総括」でした。「子どもたち」は自分たちを縛る約束・掟に閉じ込められた「内閉的な集団化」、いじめの集団のあれです、していくわけで、やがて組織の指導者も「敵」として抹殺し、裏切り者を徹底的に追及することで自壊していく道へとなだれ込んでいきます。 この集団と行動をともにしていた、ただ一人の大人であった女性捕虜が、集団の変質と危険性に気づき、必死で逃亡するシーンは、異様にリアルでこの作品の見どころの一つだと思いました。 結果的に、上のチラシの冒頭のシーンで目隠しのまま、無邪気に遊んでいた少年たちのシーンは「目隠しのまま」無邪気な殺し合いを始めてしまい、収拾がつかなくなる結末を暗示していたわけで、「総括」にゴールがないのは50年前に終わったことではないことを実感させた映画でした。冒頭シーンはとても美しくていいシーンなのですが、悲劇の暗示だったわけです。ただ、恐ろしいのはこの少年たちは自分たちが悲劇を演じていることに気づけないわけで、それが見ていて異様にしんどい理由のひとつでした。 コロンビアで1964年から半世紀つづいた内戦の断面を描いた作品のようですが、人間集団の暗いリアルを描いたゴツイ作品だと思いました。 監督のアレハンドロ・ランデスの次作を期待して拍手!でした。それにしても、明るい気持ちにはなれない映画でした。まあ、そこを描けばそうなるわけで、しようがないのでしょうね。監督 アレハンドロ・ランデス脚本 アレハンドロ・ランデス アレクシス・ドス・サントス撮影 ヤスペル・ウルフ編集 ヨルゴス・モブロプサリディス音楽 ミカ・レビキャストランボー( ソフィア・ブエナベントゥラ)ウルフ(フリアン・ヒラルド)レディ(カレン・キンテロ)スウェーデン(ラウラ・カストリジョン)スマーフ(デイビ・ルエダ)ドッグ(パウル・クビデス)ブンブン(スネイデル・カストロ)ビッグフット( モイセス・アリアス)博士(ジュリアン・ニコルソン)メッセンジャー(ウィルソン・サラサル)2019年・102分・R15+コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデン・ウルグアイ・スイス・デンマーク合作原題「Monos」2021・11・24‐no115元町映画館(no105)
2022.01.12
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バレンタイン・デイビス「ベニイ・グッドマン物語」こたつシネマ チッチキ夫人のお誕生日プレゼントでヤサイクンが贈ってくれたのが、このDVDでした。バレンタイン・デイビス「ベニイ・グッドマン物語」です。 スイングジャズというのでしょうか、クラリネットの名手ベニー・グッドマンの「出世」物語です。もちろん出世とは、世に出るという意味です。1956年、今から60年前の映画ですが、楽しさは古びていませんでした。 まず面白いのが1910年代のアメリカの中流家庭の雰囲気と音楽事情です。子どものころの「名犬ラッシー」とかで垣間見た「アメリカ」がよみがえってきました。あの頃の、和製のドラマとは違う世界ですね。 そして、まあ、なんといっても音楽です。後半は特に演奏シーンがメインですから、これは劇場で見られたら、もっと楽しいでしょうね。 この春シネリーブル神戸が「テアトル・クラシックス」という企画で懐かしのミュージカルを特集するらしいのですが、うれしいニュースですね。こういう古い作品を劇場で見ることができる機会は、そうないですからね。監督 バレンタイン・デイビス脚色 バレンタイン・デイビス製作 アーロン・ローゼンバーグ撮影 ウィリアム・H・ダニエルズ美術 アレクサンダー・ゴリッツェン ロバート・クラットワージー音楽監修 ジョセフ・ガーシェンソンキャストスティーブ・アレン(ベニイ・グッドマン)ドナ・リード(アリス・ハモンド恋人)バータ・ガーステン(母)ロバート・F・サイモン(父)ハーバート・アンダーソン(ジョン・ハモンド:アリスの兄)サミー・デイビス・Jr.(フレッチャー・ヘンダアーソン:ピアニスト)ディック・ウィンスロー(ギル・ロダン:サキサフォン奏者)バリイ・トルエクス(グッドマン16歳) デイヴィッド・カスディ(グッドマン10歳) ハリー・ジェームズ(トランペット)ジーン・クルーパ(ドラム)ライオネル・ハンプトン(ヴィブラフォン)ベン・ポラック(ドラマー)1955年・アメリカ原題「The Benny Goodman Story」配給 ユニヴァーサル2021・11・3・こたつシネマ
2022.01.11
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浦沢直樹「あさドラ 6」(小学館) 2022年1月のマンガ便に入っていた、浦沢直樹の「あさドラ 6」最新号です。ヒロインのあさチャンが、少しづつ大人びてきていますが、素敵ですね。 マンガが描いているのは、もう、ご存知の通り1964年10月の出来事です。1964年といえば、先の東京オリンピックですが、その開会式前後に東京湾に出没したらしい「怪獣出現事件」というメイン・ストーリーが、「タレント」、「マラソンランナー」、「女子プロレスラー」という、いかにもといえば、いかにもな1964年当時の高校生の夢と重ねられて、1964年の10月が描かれています。 読者のゴジラ老人は、当時、小学校の4年生でした。10歳です。主人公のアサちゃんやマラソン少年の早田正太君たちが高校生くらいで、5歳くらい年上ですが、いわゆる団塊の世代の人たちです。大学に進むとゲバ棒青年になるはずですが、登場人物の中に大学に進む人なんて誰もいない雰囲気がいかにも1964年のリアルです。そういう時代があったことを60代後半の老人に思い出させるマンガが、2022年の今、リアルに書かれていることが、ぼくには懐かしくもあり、不思議でもあるのです。 いや、それにしても、「この展開で、どうやって結末にたどり着けるのだろう?」というふうに、しっかり引っ張り込まれている自分も自分ですが、浦沢直樹君もなかなかやるものですね。 今回の次号待ちの話題は、もちろん、東京湾で尻尾を振り上げている怪獣もですが、30キロあたりから独走態勢に入った、あのアベベと甲州街道を走ろうとしている、あさチャンの同郷の先輩、新聞配達の早田正太君や如何に?ですね。いやはや、上手に引っ張るものです。 やっぱり次号がのお話が楽しみですというわけですが、もう一つ、ご覧の通り今回は高校生風の「あさチャン」でしたが、次号の表紙の「あさチャン」がどんなポートレイトになるのか、そこも興味津々ですね。
2022.01.10
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濱口竜介「偶然と想像」元町映画館 2022年の「元町映画館」での映画始めの作品でした。年末から封切られていたのですが、かなりな人気で連日満員という、新コロちゃん騒ぎが始まってからあり得なかった事態になっていて、映画館にはとてもいいことなのですが、ぼくはビビってパスしていました。「ドライブ・マイ・カー」、「スパイの妻」、「寝ても覚めても」、「ハッピーアワー」と、一応、浜口竜介の作品を見て来たので見ようかなという気分で見ました。ぼくにとって、この監督さんは、どの作品も納得の一つ手前みたいな人なので、困るのですが、元町映画館の受付嬢にもすすめられて、「見る」と約束していたことも理由の一つで、出かけました。 映画は浜口竜介監督の「偶然と想像」です。トータルには「偶然と想像」という題がついているのですが、三つの短編(?)のオムニバス形式でした。で、見終えて、やっぱり、なんだか、疲れました。 セリフとシチュエーションの緊張感で観客を引っ張る感じなのですが、セリフの内容とシチュエーションの偶然性にノレないと、疲れる映画だと思いましたし、事実、疲れました。作品の中に「見え」を切っている監督がいる感じといえばいいのでしょうか。やっぱり「なんだかなー・・・」 という印象でした。 三つの短編の一つ目の「魔法」では、最初のタクシーのシーンでオシャベリを交わしあう芽衣子(古川琴音)とつぐみ(玄理)という二人の女性の顔立ちが、最後のシーンでは別人のように見えたのに驚きました。「出来事というか内実を知ると、人の見かけは変わるんだなあ」という驚きで、演技的な表情というか演出に対する驚きではありません。 でも、そういう意味では古川琴音という役者さんは、次にどっかで見かけると気付きそうです。 二つ目の「扉は開けたままで」では、芥川賞作家である瀬川先生(渋川清彦)の文学論(?)に吹きそうでした。若き日の村上龍みたいな描写を女子大生が読み上げるシーンなのですが、まあ、映画の客のためのセリフなのでしょうが、「ことばがことばを要請する」 とか何とか、もっともらしいのですが、そういうシーンじゃないところがすごいなあという感じでした。 それにしても、あのメールが何故スキャンダルになるのか、今一よくわかりませんでしたが、何の罪もない瀬川先生はかわいそうな話でした。 三つ目の「もう一度」は、65歳を過ぎて、世間や知人を忘れ始めている人間だから、余計にそう感じたのでしょうが、偶然とはいえ、あまりのありえなさ、ちょっと引きました。顔の印象ということについて「話半分」で思いついて作ったんじゃないかという気がしました。 でも、面白いもので、この作品は「結構いいな」って思ったのですから、不思議といえば、不思議です。映画のシチュエーションって嘘でいいのですね。で、ウソから出たマコトが、この作品はさほどウザクなかったということかもしれません。 まあ、これらの作品で「偶然」でならあるかもしれないという感じのリアリティは、ぼくには皆無でしたが、それぞれの会話のシーンには結構ドキドキしました。 で、その時、やっぱりこの映画の「白熱」の会話シーンは映画の会話だと思いました。あんな会話を舞台でされても、たぶん聞き取れないし、表情をかぶせてくる「作り方」で引き込まれているわけですからね。かろうじて第三話の会話は舞台でもできそうだと思いましたが、だからよかったというわけでもありません。まあ、それはそれでいいのですよね。 最後まで、トータルのタイトルになっている「想像」のほうが、何をさしているのかわからなかったですね。まあ、そういう、なんやかんやで、またしても、よく分からない浜口竜介さんでした。なんでかな?監督 濱口竜介脚本 濱口竜介撮影 飯岡幸子キャスト第1話『魔法(よりもっと不確か)』古川琴音(芽衣子)中島歩(和明)玄理(つぐみ)第2話『扉は開けたままで』渋川清彦(大学教授・瀬川)森郁月(奈緒)甲斐翔真(大学生・佐々木)第3話『もう一度』占部房子(夏子)河井青葉(あや)2021年・121分・PG12・日本2022・01・07-no002・元町映画館(no104)
2022.01.09
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「初詣 三宮神社あたり」徘徊日記 2022年1月7日 新年になって初めてやって来た三宮あたりです。JR元町駅を降りて南に下るとお正月の雰囲気がまだ残っていました。 三宮センター街の西の入り口です。「謹賀新年」の垂れ幕に思わずカメラを向けました。新しい年になって、出かける意欲がわかず、ようやく出てきたので、世間がお正月なことに、ドギマギしています。またまた、オミクロンとかの騒ぎが広がりそうですが、なかなかの人出です。まあ、人のことは言えません(笑) こっちは元町商店街の東の入り口です。要するに、大丸の前の交差点に立っているわけですが、大丸は撮り忘れて、これだけ撮りました。 横断歩道を渡って、ここを通りかかって、思い出したのが初詣です。 「おっ、ちょうどいいところにええもんがあった!」 三宮神社です。一宮から八宮まで詣でる殊勝な方もいらっしゃる、いわゆる生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)とかいう神社の一つです。まあ、六甲からの市バスの終点というのでしか知らなかったのですが、うろうろ映画館に通い出して、しょっちゅう前を通ります。今日も、まあ、ついでで申し訳なにのですがお参りしました。 もちろん、人はいません。今年は大鈴が下がっているのが、なんとなくもの目でらしい気がしましたが、とりあえずジャラガラ鳴らしてお参りです。 よく知られていることだと思いましが、この小さな神社の境内にはこんなものがあります。 大筒です。この場所が幕末の神戸事件が勃発した場所ということで、置いてあるのでしょうか。こんな石碑もあります。 とりあえず、争いのない、楽しい暮らしを祈って初詣終了です。もちろん今日の目的はココではありません、ここからすぐの映画館、シネ・リーブル神戸です。見るのはヴィム・ベンダーズ「都会のアリス」で、映画館の前のポスターはこんな感じでした。 もちろん、これは「都会のアリス」のシーンではありません。まあ、今日から当分この映画館に通うことになりそうですね。そてじゃあまた。ボタン押してね!
2022.01.08
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たらちねジョン「海が走るエンドロール」(秋田書店) 2022年1月のマンガ便に入っていました。宝島社の「このマンガがすごい!2022」で、オンナ編第1位の作品だそうです。 たらちねジョン「海が走るエンドロール」(秋田書店)というマンガですが、そういえば12月に案内した藤本タツキ「ルックバック」は、「このマンガがすごい!2022」で、オトコ編の第1位でした。 まあ、たらちねジョンと名乗るマンガ家が女性だということなのでしょうね。兵庫県の出身だそうで、ちょっと嬉しくなりました。 お話は夫に先立たれた65歳の映画好きの女性茅野うみ子がひょんなことから大学の映像学科で学ぶ、見たところ男性なのか女性なのかわからない内海(うつみ)海君と知り合いになり、映画を創るという夢に向かって「船を出す」という、まあ、おくてのビルドゥングスロマンということらしいです。登場人物の名前にはじまって、みんな「海」というイメージで描かれていて、ありきたりといえばありきたりなのですが、結構うまくいっていると思いました。 ただ、表紙に描かれている人物が、うみ子さんなのか海君なのかよく分からないところが、このマンガの絵の特徴ですが、帯の少女風の人物が海君らしいので、表紙は、やっぱりうみ子さんでしょうか。 楽しく読んだのですが、この作品の茅野うみ子(65)さんといい、鶴谷香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」で活躍する市野井 雪(75)さんといい、高齢の登場人物で、なかなかな活躍をするのが、それぞれ女性なのですが、なんか事情があるのでしょうか。 まあ、ぼくが男性で、二人の真ん中あたりの年齢であるからの疑問なのかもしれませんが、ちょっと気になったのは、そのことと、この作品のうみ子さんの様子が、少し老けすぎているんじゃないかということです。 それにしても、マンガの中で面白そうな映画を描くというのは、うまくいくかどうか興味がありますね。今回も、うみ子さんの写真について、ことばでの描写はありましたが、絵にはなっていませんでした。さて、映画をどう描くのか楽しみですね。 ああ、それから、うみ子さんのビデオ・ライブラリーが「老人と海」と「シャイニング」と「スタンド・バイ・ミー」だったことに、ちょっと笑いました。1980年代に20代後半で、映画が好きだった女性が見た映画って、そのあたりなのでしょうか。娘さんとの話題でも「シャイニング」が出てきましたが「ラドラム、ラドラム」とうめきながら足をひずって歩きまわるジャック・ニコルソンが印象深い世代なのでしょうかね。まあ、しかし、スティーヴン・キングが好みだったというのは頷けますね。確かに、オオハヤリでしたから(笑)。
2022.01.07
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上間陽子「海をあげる」(筑摩書房) 2022年のお正月に読んだ本です。2021年の本屋大賞(ノンフィクション部門)だそうです。お正月に泊まっていったゆかいな仲間が寝ていった部屋の書棚の前に重ねて積んであった一冊で、何の気なしに読み始めました。書名は「海をあげる」で著者の上間陽子さんは琉球大学の教育学の先生だそうです。出版社はちくま生です。「webちくま」に2019年の4月から連載されていたエッセイに書下ろしを加えて本にされたようで、とても読みやすくて、すぐに読めました。 著者にはお子さんがいらっしゃるようで、こんな文章から始まっていました。 私の娘はとにかくごはんをよく食べる。歯がはえると、「てびち」という豚足を煮た大人でもてこずるような沖縄の郷土料理を食べていたし、三歳くらいになって外食をするようになると大人並みに一人前の料理を食べていた。(P8) ここから「美味しいごはん」と題されたこの章は「ごはん」がのどを通らなくて、生きていることが面倒くさかった本人の体験が語られます。一度目(?)の結婚の相手に「不倫(?)」を、された立場として体験した、まあ、カミングアウトのような話なのですが、最後にお子さん、風花ちゃんに「ごはん」の作り方を教えた、こんな話が書かれています。 冷蔵庫には何もなくて、まあ、とりあえず料理の事始めはこれでいいのかなぁと思って、うどんに生卵を落としてネギと揚げ玉をかけただけのぶっかけうどんのつくり方を娘に教える。 普段、私も夫もごはんをゆっくりつくるから、あっという間にできたごはんに、「すぐにできた」と娘はびっくりしながら食べはじめ、「カリカリしたのはもうちょっといれたほうがいい」と言った。もう一度冷蔵庫をあけて揚げ玉を取り出しながら、「納豆もあるよ」と声をかけると、「納豆もいれたい」と娘は言って、自分で納豆を丁寧にかきまぜると、それをうどんにのっけて全部ひとりでたいらげた。(P29~30) かなり切実な「カミングアウト」を読んだ後のこの文章なので、ここに出てくる「夫」は、二度目(?)の方なのでしょうね、とか何とか、つまらぬことが浮かびます。しかし、そんなことより、今、目の前にいる食いしん坊のお嬢さん、風花ちゃんが元気に「たべていること」を、文章の礎に据えたところに上間さんの思想の確かさとでもいうものをぼくは感じました。 じつはこのエッセイ集が話題にしていることは、彼女が仕事として取り組んでいるらしい未成年の少女や少年たちの「悲惨な(?)」現実との出会いの報告であり、彼女が生まれ、仕事をして暮らしている沖縄に対する日本という社会の仕打ちの告発なのですが、彼女がそれを綴る「ことば」の底には、保育園に通う風花ちゃんに食べ物の作り方を教える母であり、百年を超える年月を沖縄で生き続け、静かに去っていった老女の孫であり、何よりも、自らが「おんな」であることを肝に銘じた意志が静かに息づいていることを感じさせる文章なのです。目次美味しいごはんふたりの花泥棒きれいな水ひとりで生きる波の音やら海の音優しいひと三月の子ども私の花何も響かない空を駆けるアリエルの王国海をあげる調査記録 各章の題名は童話の世界を感じさせる、何やらファンタジックなイメージですが、なかなかどうして、書かれている文章は、ゆったりと構えながらも「切ない叫び」を響かせていて、立ち止まって考え始めることを促す内容でした。 素直に一言「乞う、ご一読!まあ、読んでみてください!」という本でした。沖縄のことを、なんとなく気にかけている人には、ぜひ手にとっていただきたい1冊ですね。
2022.01.06
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バフティヤル・フドイナザーロフ「少年、機関車に乗る」元町映画館 映画.com 少年たちの映画が好きです。列車に乗って出かける話も好きです。原題の「Bratan」は「弟」なのか「兄弟」なのか、そのあたりはよくわかりませんが男の子二人の兄弟の話でした。 題名は「少年、機関車に乗る」、監督はバフティヤル・フドイナザーロフという人で、「海を待ちながら」を残して2015年、50歳で早世した方だそうですがが、彼が26歳のときに撮った処女作だそうです。 「中央アジア今昔映画祭」のなかの1本で、「海を待ちながら」と同じ日に2本立てで見ました。ソビエト映画とかロシア映画に詳しい知り合いの方に薦められた作品でしたが好きなタイプの映画でした。 高校生くらいの男の子たちが、なんとなくな雰囲気でウロウロしていて、中の一人が主人公のようです。何か荷物が入っている袋を塀の向こうに投げ入れようとしているようなのですが、失敗して逃げ出します。そんなふうに映画は始まりました。 少年の名はファルー(フィルス・サブザリエフ)で、お母さんさんが亡くなった後、小学生低学年の弟のアザマット(チムール・トゥルスーノフ)の面倒を見ながら、おばあちゃんの家で暮らしています。ファルー君はアザマットのことを「でぶちん」と呼んでいます。ファルー君の仕事は刑務所に違法な差し入れを投げ込んで手間賃をもらうアルバイトです。最初のシーンがそうでした。 でぶちんは、一人になると「土」を食べたがる、へんてこな少年ですが、おにーちゃんのファルー君は彼がかわいくてしようがないようです。 でも、生活は苦しいし、将来の見通しも立ちません。とうとう、ファルー君はでぶちんを離れて暮らす父に預ける決心をします。で、二人はお父さんの町に出発します。出発に当たってファルー君はなくなったお母さんのイヤリングを探し出して、ポロシャツの胸のポケットにさします。彼のなかにはお母さんがいるようです。弟のでぶちんに対する態度も「兄として」であることは間違いないのですが、でぶちんが「土」を食べるのを叱る様子には、どこか「母として」のようなところがあります。そんな兄弟ですが、でぶちんも兄を慕っています。 というわけで、旅が始まりますが、やってきた機関車は凸字型のジーゼル車で、運転手はナビ(N・ベガムロドフ)という名で、なんとなくいい加減な奴です。3両ほどの貨物車をけん引していますが、客車はありません。ふたりは運転室に座りこんで列車は出発します。 ここから、いわゆる「ロード・ムービー」です。あれこれ起こります。駅でもないのに運転手のナビの自宅の前に止まって着替えや弁当を受け取るあたりから自由奔放です。お次はかわいい二人組の女性を同じ運転席に載せるのですが、ナビの目つきが変です。狭い運転席の至近距離の空間で「おいおい」という感じの色目を使い始めます。一人の女の子を目的地で下すと、休憩とか何とか云って、残っていたもう一人と貨車にしけ込みますが、でぶちんが覗きに行きます。 そこから、てんやわんやのドタバタ旅行で書きたいことはたくさん起こりますが長くなるので端折ります。でも、そのあたりがこの映画の見どころだと思いました。実にあほらしくて楽しいのです。 やがて父親(R・クルバノフ)の住む町に到着します。なんと、医者をしているらしい父親は、医者である女性ネリー(N・アリフォワ)と暮らしていて結構裕福そうです。でも、二人の息子の突然の登場には、明らかに困惑しています。とても、でぶちんを預かる空気はありません。父親の態度に困ったファルーは、でぶちんを父の家に置き去りにして、あのいい加減な運転手の帰りの列車に飛び乗ります。 で、お終いなのですが、もちろんでぶちんはファルーより早く乗りこんでいて、にっこり笑ってファルーを待っています。 見ていればわかると思いますが、「当然」の結果でした。ファルー君は土を喰う弟アザマット君とこのへんてこな列車で旅を続けるのが「人生」というものなのです。見終えたぼくはとてもいい気分でした。 ファルーとアザマットの兄弟に拍手!、そして、なんだかわけのわからない運転手のナビに拍手!の映画でした。監督 バフティヤル・フドイナザーロフキャストチムール・トゥルスーノフ(アザマット弟)フィルズ・サブザリエフ(ファルー兄)N・ベガムロドフ(ナビ運転手)1991年・100分・タジキスタン・旧ソ連合作・モノクロ・35㎜・1:1.33・モノラル原題「Bratan」2021・12・06‐no125・元町映画館no103
2022.01.05
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ウォシャウスキー兄弟「マトリックス」こたつテレビ お正月の準備で忙しそうなチッチキ夫人をしり目にこたつにもぐり込んでニ時間頑張りました。見終えて、ボンヤリしていると、一緒に見たわけではないチッチキ夫人が一言声をかけてきました。「テレビで見ても面白くないんじゃないの?」 そうでもないかったのですが、よっぽど、面白くない顔をしていたんでしょうね。 見た映画は、二日ほど前に「マトリックス リローデッド」という、シリーズの第2作を見たのですが、なんと、第1作の「マトリックス」でした。 第4作公開がらみで、シリーズを全部TVで流していたようで、そのチャンネルに偶然出会って座りこみました。年の瀬とか言いますが、することがない老人にはすることがないのですね。 第2作でよく分からなかった主人公のネオという人がハッカーだったとか、どうやって強くなったとか、画面がグンニャリ変化するの理由とか、「どこでもドア」の理屈とか、それなりにわかりました。 あくまでもそれなりですが、要するに養老孟司のいう「脳化」社会の映像化だなというのがぼくの解釈でした。で、思い出したのは「胡蝶の夢」の話でした。昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて志(こころ)に適(かな)へる。周なるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ち蘧蘧(きょきょ)然として周なり。知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。周と胡蝶と、則ち必ず分有り。此をこれ物化と謂ふ。 今から2000年以上も昔の人である荘子の有名な話です。中国の古典には「桃花源記」とか「邯鄲之夢」とか、夢ネタの怪奇譚はたくさんありますが、詩的というか哲学的なのは荘子のこの夢でしょうね。脳=意識の中のヴァーチャル・リアリティーを世界で最初に記した記述かもしれません。 養老孟司の脳化社会論(?)は身体性=自然性を失っていく都市化社会への警告なのだと思いますが、「マトリックス」というこの映画が一切の自然性をヴァーチャル化=脳化して見せているところに迫力を感じました。 もっとも、「マトリックス」から20年たった現在、子供たちに限らず、込み合う通勤電車でマスクで覆面した大人たちがスマホやタブレットのITワールドに夢中になっている光景が常態化しているわけで、現実の方がはるかにホラー的迫力を漂わせていることを思わせるこの作品は、今や「古典的」なのかもしれません。 久しぶりに、ドラゴン・ボールから庵野秀明まで、あの頃のマンガ・シーンを彷彿とさせてくれたウォシャウスキー兄弟に拍手!でした。監督 アンディ・ウォシャウスキー ラリー・ウォシャウスキー脚本 ウォシャウスキー兄弟撮影 ビル・ポープ美術 オーウェン・パターソン衣装 キム・バレット編集 ザック・ステーンバーグ音楽 ドン・デイビス視覚効果監修 ジョン・ゲイターカンフー振付 ユエン・ウーピンキャストキアヌ・リーブス(ネオ)ローレンス・フィッシュバーン(モーフィアス)キャリー=アン・モス(トリニティー)ヒューゴ・ウィービング(エージェント・スミス)グロリア・フォスター(預言者オラクル)ジョー・パントリアーノ(サイファー)マーカス・チョン(タンク)ポール・ゴダード(エージェント・ブラウン)ロバート・テイラー(エージェント・ジョーンズ)ジュリアン・アラハンガ(エイポック)マット・ドーラン(マウス)ベリンダ・マクローリー(スウィッチ)アンソニー・レイ・パーカー(ドーザー)1999年・136分・アメリカ原題「The Matrix」2021・12・30・こたつテレビ
2022.01.04
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100days100bookcovers 番外 幸田文「父・こんなこと」(新潮文庫) 幸田文の「おとうと」を棚から引き出すと、自身のことを書いた「みそっかす」と雁首をそろえるようにして出て来たもう一冊が「父・こんなこと」という新潮文庫でした。 父、幸田露伴の最晩年の姿を、婚家から孫娘を連れて実家に戻って20年近くともに暮らした、出戻りの娘が書いています。彼女は50近くになって父を看取り、初めて人前に出す文章を書いたはずですが、とても素人の文章とは思えません。 今でこそ幸田文は戦後文学に、余人には及び難い独特な位置を占める作家です。これがデビュー作か!? とうなりますが、文豪幸田露伴の死に際して彼女に書かせた編集者がいたことの幸運! をつくづくとかみしめるかの読書でした。 父はその報告を聴いていたが、にこにこと機嫌よく、おまえは私の葬式がどういうようになると思っているかと訊いた。機会である。子の方からやたらには切り出せない事柄である。狡猾さを気にしながら問を以て答えとした。「どんな風にするのかしら。」「おまえがきょう見て来たものとは凡そ違うものなのさ。溢れるほどに人が来るなんて思っていれば見当違いだ。」と云って笑い、「明の太祖の昔話にあるじゃないか。棺桶も買えない貧乏な兄弟がおやじさんを明き樽に入れて、さし荷いでとぼとぼ行く途中の石ころ道に、吊った縄は断れる、仏様はころがり出す、しかたがないから一人が縄を取りに帰ったなんていうのは、いくらなんでもあんまり厄介過ぎるから、まあ住んでいる処の近処並に極あっさりとやっといてくれりゃそれでいいよ。おまえには気の毒だがうちは貧乏だ、わたしの弔いのためにおまえが大骨折って金を集めたり、気を遣ったりして尽くしてくれることはいらない。傷むなと云ったっておまえは子だから傷むにきまっている、それで沢山なんだよ。」なごやかな心で柔かく話す時の父の調子、まったくいいものであった。よその父親は如何に娘に話すか知らないが、こういう時の父は天下一品のおやじだと思っている。どこのおとうさんととりかえるのもいやだと思う。だから叱られて泣く時にはたまらないが、思い出して我慢するのである。(P82~P83) 知人の葬式に、娘の幸田文を名代として参列させ、帰ってきた娘の報告を聞きながら、自らの葬儀について語る露伴の姿が思い浮かぶような文章ですね。 父を慕う娘の素直さがなんの厚かましさもなく表れて、文豪の素顔と幸田家の日々の暮らしのあたたかさがこころのやり取りとして見えてくるようです。 続けて、その娘が父を看取り、送るのは自分の仕事だと決意したのはあの時だったことが記されています。 私が、父の葬儀は自分一人でしなくてはなるまいと思い込んだのは二十三の秋、たった一人の弟をなくしての通夜の晩に、花環のある部屋で杯を放さぬ父の姿を見て、しみじみ寂しかった、その時にはじまる。父もまだ元気で、頸から肩へよい肉づきを見せてい、私も若くむちゃくちゃで、ただおとうさんの時は文子がするとだけで、ほかには何も思わなかった。 「おとうさんの時は文子がする」という子供の言葉に弟に対するこころの奥底の哀しみと、父へのいたわりが響いています。 早耳な国葬云々の話が聞こえた。いあわせた下村さんに訊いた。「勝手にしていいの?」「え?」「お受けするようにきまっていることなの?」野太い声が笑って、「あなたの好きなようでいいんですよ。」父はそんなことを話さなかった。文子がお弔いをすることと思っていた。私もそう思っていた。松の多い、苺のできるこの土地、雨風を凌いだこの家には一年有余の馴染がある。国葬は栄誉なことであるが、私がするなら、借りた伽藍より、ここから父を送ることはあたりまえであった。 「おとうさんの時は文子がする」という小さな気構えを支えに父の最後を看取り、送ろうと生きてきた娘には、思いもよらなかった文豪幸田露伴の死をめぐる世間の大騒ぎです。それ相応に年月も重ねてきた娘が、そんな世間を相手に、もう一度「若くむちゃくちゃ」な気持ちに立ち返る姿に、幸田文という人の本領があるのでしょうね。 その当時の世間を思えば並大抵の決意ではなかったでしょうが、家族を送るという誰しもが出会う人生の時への見事な身の処しかたが、障子の桟の拭きかたを語るかのように語られているところが幸田文の文章だと思います。 日常の小さな思い出が書かれてる1冊ですが、それにしても、初めて彼女の原稿を受け取り、目を通した編集者はうれしかったでしょうね。 永遠に古びない「娘」の気持ち 読んでみませんか。
2022.01.03
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ルネ・クレール「自由を我等に」シネ・リーブル神戸 新年あけましておめでとうございます。 2022年のお正月、1月2日、新年初感想文です。とかなんとかいいながら、去年、2021年の11月見た映画で「なんのこっちゃ」なのですが、映画は名匠ルネ・クレール監督の「自由を我等に」です。ルネ・クレール・レトロスペクティブの1本ですが、題名が、新年にふさわしいと思いませんか。今年こそ、自由を我等に!そういう気持ちです。 さて、映画ですが、1931年のモノクロ作品ですが、現代映画の出発点に輝く傑作だと思いました。映画を見ながら「あれ、この感じどこで・・・」という記憶のようなものが浮かんできて、二十代から今日まで見て来た様々な映画に、この作品の片りんというか雰囲気というか影響というかを感じる作品でした。 刑務所で、あろうことか囚人たちが「自由を我等に」と歌っています。まず、このシーンに脱帽でした。喜劇というのはこうでなくちゃいけませんね。 男前のチビ、エミール(アンリ・マルシャン)と、どこか怪しげで、妙な愛嬌というか、いくら真面目な顔をしても笑えるという雰囲気のルイ(レイモン・コルディ)の二人組の活躍です。そう凸凹二人組です。 その次が脱獄のドタバタです。このシーンにも70年代頃のテレビ・コントからからドリフのケンちゃん・カトチャンのコントまで、あるあるで思い出せるギャグが詰まっていました。で、その結果、ルイだけ牢屋から逃げのびて、なぜか、走ってもいない自転車レースのチャンピオンになってしまうに始まって、あっという間に電蓄、日本でいえばナショナルの松下さんですね、の社長さんになるという、テンポのいいご都合主義も最高です。 その間、牢屋暮らしのエミールがやっとのこと出獄して出会うのは大金持ちになったルイですが、働き始めたルイの工場のベルト・コンベアシーンなんて「ああ、チャップリンや」と誰でも気づくであろうモダン・タイムスぶりで、今となっては二重の意味で笑えます。なにしろこちらがチャップリンより古いのですからね。 実は、ラブ・ロマンス風のドタバタもちゃんとあるのですが、端折りますね。で、とどのつまりはというと、すべて御和算で、おかしな二人組が「自由を我等に」とばかりに、歌を歌いながらトンズラをかますという最高のエンディングでした。 喜劇映画の鉄則でしょうね、明るくてテンポがいいうえに、音楽が楽しいんです。まあ、ぼくごときが言うまでもないのでしょうが素晴らしいと思いました。さすがのルネ・クレールに拍手!でしたね。 ああ、それと、なんだかしみじみとおかしいルイ役のレイモン・コルディにも拍手!です。ぼくはこのタイプが大好きです。ちなみに、もう一人のエミール(アンリ・マルシャン)はチッチキ夫人が気に入ったようですね。「男前やん!」とか言ってました、ということでついでに拍手!です。 監督 ルネ・クレール脚本 ルネ・クレール撮影 ジョルジュ・ペリナール美術 ラザール・メールソン音楽 ジョルジュ・オーリックキャストアンリ・マルシャン(エミール:脱獄失敗の男)レイモン・コルディ(ルイ:脱獄成功の男)ローラ・フランス(ジャンヌ:エミールが一目ぼれの女性)ポール・オリビエ(ジャンヌの伯父)1931年・84分・G・フランス原題「A Nous la Liberte」2021・11・17‐no111・シネ・リーブル神戸no130
2022.01.02
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ウォシャウスキー兄弟「マトリックス リローデッド」こたつシネマ 今は2021年の年の瀬ですが、ちょうど劇場公開されている「マトリックス レザレクションズ」という映画が気になっています。気にはなっているのですが、そもそも、やたら評判のいいらしい「マトリックス」という最初の作品も、そのあとの二つの作品も、全く見ていないわけで、その映画が「SFかな?」とか、まず、言葉がよくわからないのですが、「サイバーパンクかな?」とか、「未来世界ものかな?」というくらいしか見当がつきません。「どうしようかなあ・・」 そう思って逡巡していたのですが、クリスマスの夜に目的もなくTVをつけるとそこでやってました。 「マトリックス リローデッド」です。 どうも「マトリックス」の続編、第2作らしいですね。せっかくのチャンスですから、これは見ないわけにはいかないと見始めました。 ボンヤリ見ていて、ふと、「なんでこうなるの?」という感じで映像がそのようになるということの意味を不思議に思いはじめると、なんだかとてもめんどくさい気分になり始めました。で、しばらくして「ああ、これってどこでもドアやな。」というふうな納得がやってきました。要するにドラえもんあたりの理屈(?)なのだと、ようやく落ち着いて座り直しました。 結局最後までボンヤリ見終えたのですが、不思議だと思ったのは、物語の舞台は「未来」に設定されているのですが、人間同士というか、まあ、アンドロイド(?)とか、レプリカント(?)とかいろいろあるようなのですが、とりあえず「人間」の外見の登場人物たちの「心理」というか「意識」は案外「今風」というか、ヘタをすると、もっと古い「物語」なところでした。 で、その古い意識による行動がストーリーを牽引しているわけで、それじゃあ、どんな「あたらしい物語」が可能なのか、と思っちゃうわけですよね。 昔、「サルの惑星」を初めて見たときに、結局「サル」の姿をした人間の話であることを不思議に思ったことを思い出しましたが、この映画のなかでも「機械」と呼ばれている「敵」についても、たとえば、裸になると体のあちこちボタンのようなものが取り付けられているネオ(キアヌ・リーブス)という、主人公(?)についても、そのボタンの仕組みはよく分かりませんが、本質は、ただの人間というか、見ているこっち側から十分理解が届く存在で、べつに新しい感じはしませんでした。 SF的な作品に対する、マア、ないものねだりというか、むしろ見る側が一歩引いている感じの感想なのですが、そう思って見てしまうと書き割りだけが大仰に未来的な「マンガ」という印象でした。 ここで「マンガ」といいましたが、必ずしも貶しめているわけではありません。ボクはかなり「マンガ」が好きなほうです。ある種のシンプルさによるデフォルメが、マンガの持ち味の一つだと思いますが、この映画も、とてもシンプルだと感じました。 まあ、とは言いながら、映像の動きのなかには、なぜそうなるのかわからないこともたくさんありました。いってしまえばドラえもんを読む小学生は「どこでもドア」の仕組みを考え込んだりしないのですが、そばでのぞき込んでいるおじいさんは首を傾げてしまう、まあ、そんな感じです。 結局、新しい「レザレクションズ」という映画を見ようという意欲はあまり湧いてこなかったのですが、「どこでもドア」の仕組みとか、いろいろ考えこむ作品でした。 いやはや、それにしても、なぜ戦いはカンフーなのでしょう。それが、一番引っかかったことでした。 というわけで、どこに拍手していいかわからなかったので、今回は保留ですね(笑)。監督 ラリー・ウォシャウスキー・アンディ・ウォシャウスキー脚本 ウォシャウスキー兄弟音楽 ドン・デービスカメラ ビル・ポープ編集 ザック・ステンバーグ視覚効果 ソニー・ピクチャーズ・イメージワークスキャストネオ( キアヌ・リーブス)モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)トリニティー(キャリー=アン・モス)エージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)ナイオビ(ジェイダ・ピンケット=スミス) 2003年・138分・アメリカ原題「The Matrix Reloaded」2021・12・24・こたつシネマ
2022.01.01
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