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改札を出て、駅の広場で立ち止まった。 足元を落ち葉がからからと舞ったからだ。 朝の出勤時にも、同じ光景に出くわした。 見上げた街路樹は、まだまだ色づいた葉を蓄えていたけれど、 掃いても掃いても、雪が積もるように落ち葉が重なり合っていた。 その中を、わざと蹴散らして歩いてみた。 落ち葉は、そのたびにからからとかすかな音を立てて舞うのだった。 この土地に移り住んでから、何度目の晩秋だろうか。 一体、わたしはどこへ流れて、どこで終焉の日を迎えるのだろうか。 北風の中、急に得たいのしれない不安に見舞われた。 もし、人生を選べるのなら。 もし、人生を巻き戻せるのなら。 わたしはどこまで巻き戻して、やり直そうとするのだろうか。 そんなことを唐突に考えた。 だけど、後戻りはできないから。 やり直すことはできないから。 わたしは、今を淡々と、淡々とやり過ごすのだろう。 少し寂しい気持ちで歩いていたら、折からの風で無数の木の葉が舞い落ちてきた。 思わず追いかけて、両の掌で何度も何度も受け止めた。 まるで幼子がするように。 こんな些細なことが楽しくなった。 まだまだ。 季節と戯れるゆとりがあったのだ。 うふふふ。我ながら、大発見。 辺りは、雑踏の中。 わたしはゆっくりと、我に返った。 見上げると、何事もなかったようにケヤキの大木が、わたしを見下ろしていた。
2007年11月29日
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天気予報によると、週末は雨だと言う。 だから、のんびりと怠惰に過ごそうと思っていた。 それでも、早々と寝床を抜け出して、洗濯機を回した。 乾燥機を使って乾かすかなー、とそんなことを思っていたら、突如日が射してきた。 あら、こんなに良い天気じゃない。 慌てて諦めていた大物を洗濯機に放り込んで、二度目を回すことにした。 ところが、またまた日が翳り、曇天模様だ。 そういえば、こういう天気の日、亡き母が笑いながら言った。 「こんなお天気をね、昔の人はこう言ったのよ。『姑の朝笑い』」 「へぇ。でもどんな意味?」 全く意を解さないで、聞き返した。 「姑というものはね、ぱーっと晴れたかと思うと急に雲ゆきが怪しくなったりところころ変わるものなのよ。そんな様をお天気に見立てたんじゃないかしら?」 「なるほどねー」 と応えたものの、当時は相変わらずその意味を解すことはなかった。 時は巡り、遅まきながら結婚して姑と同居した時に、この意味をわたしはいみじくも知ることとなったのだ。 機嫌が良いかと思うと、すぐ様不機嫌になったりと、その変わりようは凄まじかった。 それは言いえて妙と言うか、本当に天気に喩えた昔の人に乾杯という感じだった。 例えば、機嫌よく起きた朝、食器のしまう場所を彼女の気分で変えては、しまい方がなっていないと突如怒り出したり、わたしはまるでその日の天気を予報するように、姑の顔色を伺いながらの日々だった。 特に要注意が、機嫌の良い朝だったのだから。 今朝、そんな遠い昔に思いを馳せて、ふと笑いが込み上げてきた。 夫と別れた後、無縁となった姑は先々月あの世の人となった。 結局、どんな風に出会っても、人はあの世の人になるのだ。 できれば、誰とでも穏やかに出会い、別れたいものだなぁ、と……。
2007年11月11日
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一人で歩く鎌倉の、線路脇で見た風景。 青空に柿の朱色が鮮やかだった。 ぼんやりと、ゆっくりと過ごす時間の、なんて素晴らしいことか。 わたしは鎌倉が好きだ。 でも、いつも同じ道を散策するので、いまだに訪れたことのない場所はたくさんある。 それなのに、足を延ばそうとはしないのだ。 電車を降りるのが北鎌倉か鎌倉の違いはあっても、足の向く場所は限られてしまう。 先日のこと。 やはり足の向く方向は、江ノ電長谷駅で下車して光則寺。 そして由比ガ浜通りを鎌倉まで戻り、寿福寺、海蔵寺。 ひとりとぼとぼと歩いた。 頭の中は、現在・過去・未来。 人生ってなんだろうな、ってふと思ったりエトセトラ。 結局、結論も展望もないままに歩くしかないのだと気付かされる……。 ※一番下の画像は、海蔵寺(鎌倉)の紫苑。 母がとても愛した花で、わたしも大好きな花なので、ハンドルネームにしたのです。
2007年11月08日
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