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新型コロナの緊急事態宣言が発出されたのが4月7日。最初は6都府県だった。緊急事態宣言が「全国」に発出されたのが4月16日。全国に広めて今日でちょうど2週間目になる。外出自粛で、春の観光シーズンの景色が変わった。景色ばかりでなく、心境も変わっていく自分を感じる。日本でコロナが騒がれ始めて3ヶ月ぐらい。先の見えないコロナ騒ぎで世の中がパラダイムシフト(今までの考え方や価値観が180度変わることを指す)しつつあるようだ。・テレワークの普及(在宅勤務)・遠隔医療の普及・学校関係の9月始業の議論どれも、こう変わったらいいな~と思っていたことばかりだ。どきどきしながら今後の成り行きを見守りたい。私の自宅で3月にインターネットを開通した。去年7月にアナログから光回線に工事を行い、ケイタイの低速化に対処するため。プロバイダーを決定し、申し込みし、サポートサービスで自分でセッティングしたが、結構大変な作業となった。2日かかった。まずサポートサービスに繋がらない。ソネットとNttの両方サポートサービス契約していたが、両方電話が繋がらない。需要が多いということだろう。テレワークの普及は早くも3月に到来していたのを実感した。
2020.04.30
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私が書いたコラムを紹介します。栃木県建築士事務所協会の会報1月号に載せたものです。・・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・・・ 近くて遠い親日国「台湾」 広報渉外委員長 中村 清隆知らなかった台湾事情 東日本大震災の時、真っ先に義援金200億円を供出してくれた親日国台湾。 20年ほど前、日光市(旧今市市)の小さな村で、診療所の医者が不在となり全国公募したことがあった。驚いたことに、手をあげた医者は東大医学部出身で東大病院に勤務する青年医師R氏だった。転勤希望の理由は、我が子の教育には東京より自然豊かな田舎が良い、とのことと記憶している。台湾生まれの優秀な台湾人である。 そのころ下野新聞社主催で、すぎなみ政経懇話会があり毎月講師を迎えて講演会が催されていた。(現在は「しもつけ21フォーラム」に集約されている)当時話題になっていたこともあって、R医師が講演者となり、私が台湾に興味を持つきっかけとなったのだ。 講演の内容は、概ね次の通り1.終戦までの50年間、台湾は日本が統治して いた。その期間に日本人の努力により台湾のイ ンフラ、教育が急速に進み、当時の日本と変わ らない生活ができるようになった。2.終戦の昭和20年に蒋介石の軍隊が進出して きて中華民国の統治に変わった。中華民国軍は 文化レベル生活レベルが低く、日本統治では絶 対になかった賄賂社会が始まった。また、38 年もの長きに渡って戒厳令が敷かれ、日本式に 育てられた知識人達が何万人となく粛正され死 んでいった。教育も反日教育で、R氏自身もそ の中で育った。日本語をしゃべっただけで警察 に引っ張られ、暴力を受けたり粛正された。3.しかし、反日教育を信じる台湾人はだれもい ない。台湾人は日本が台湾に残した有形無形の 業績を高く評価し、その日本人そのものが大好 きだ。先生のように慕っている。4.ところが、日本は中国と友好条約を結び、台 湾を一顧だにしない。我々は親から、祖父祖母 から日本の日本人の偉大さを聞いているので反 日教育を信じない。しかし、今後の若い世代が 代々反日教育を受け続けると、日本がきらいに なってくるのではないか心配だ。日本は、台湾 にもっともっと目を向けて欲しい。 私は台湾のことを何も知らない一人だった。そこで台湾のことを少しづつ調べてみた。地図を広げれば、海洋戦略上重要な国であることは誰でも分かる。日本と中国、台湾の3国で領有を主張している尖閣諸島は台湾のすぐ隣にある。また、私の研究分野の二宮尊徳ゆかりの人を見つけたので後述する。台湾の近代史1683年 清国領土となり福建省台湾府となる。1885 年 台湾省となる。 大陸の女性は国外に出ることが許されてなか ったので、大陸に愛想をつかした独身男性が鋤 鍬を持って渡ってきた。漢民族のおじいさんは いても漢民族のおばあさんはいないということ であり、世代を追うごとに漢民族の血は薄まっ ていった。一番近い遺伝子はマレーポリネシア 系。1895年 日清戦争 下関条約により台湾は日本 領となる。1945年 第二次大戦終戦 台湾は中華民国に接 収される。1949年 中華人民共和国建国。中華民国政府が 台北に遷都。戒厳令施行。1951年 サンフランシスコ平和条約締結。1952年 日華平和条約調印1952年 米ニクソン大統領訪中。日華平和条約 破棄、日中平和友好条約締結。1975年 蒋介石死去。1978年 蒋経国、総統就任。(蒋介石の息子)1987年 戒厳令解除。(38年ぶり)1988年 蒋経国死去。本省人初の李登輝総統就任。1996年 李登輝、直接選挙実施、総統に再任。 (台湾民主化の確立)中台危機勃発。2000年 民進党の陳水扁、総統に就任。2012年 国民党の馬英九、総統就任。(8年ぶり 国民党総統奪還。)2016年 民進党の蔡英文、総統就任。(初の女性 総統誕生。)2020年 民進党の蔡英文、総統に再任 日本統治50年間の台湾 台湾人は、清国領土になっていたことがあるが、血も気質も中国人や朝鮮人とは大きく異なるアイデンティティを持つ。戦後なだれ込んできた中国人を外省人、その他を本省人と呼ぶ。38年に及ぶ戒厳令の間、総人口の16%でしかない外省人に政治経済の主要ポストを押さえられていた。 日本領であった50年間に何があったか。日本の地としてインフラ整備に力を入れ、同じ日本人として教育にも力を入れ、就学率は92%に達した。400年オランダの植民地だったインドネシアがわずか3%だったことと比較すると、雲泥の差がある。 いかに日本が台湾の国作りに心血注いだかは、50年の間赴任した19人の台湾総督の顔ぶれで見て取れる。桂太郎、野木希典、児玉源太郎、明石元二郎・・・司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物が次々と日露戦争前後に総督に就任している。 1898年、台湾開拓・整備予算として4千万円を獲得している。日本の国家予算が2億2千万円の時代にである。この資金を元に、第四代総督児玉源太郎ー後藤新平総督府民政長官のラインで台湾の近代化整備が急ピッチで進められた。幅の広い道路、南北縦貫鉄道、この産業基盤の上に製糖業をはじめとする産業が育っていった。日本が作った建造物は100年経ってもそのまま残っており、今も使われている。新渡戸稲造殖産局局長(5千円札の肖像になった人、「武士道」の作者)は、台湾に製糖業を殖産にすべく力を注いだ。精糖産業は1960年代まで台湾経済を支え続けた。台湾精糖(株)の初代社長が、日本の精糖の第一人者鈴木藤三郎である。 日本人が台湾に持ち込んだ無形文化財が,台湾で「日本精神」と呼ばれるサムライ精神である。「日本精神」は4つの精神を言う。規律・清潔・正義感・冒険心である。規律は、時間・法・礼節を守ること。清潔は、外面だけでなく内面も美しい生き方をすること。正義感と冒険心は、弱きを助け強きをくじく精神。こうした「日本精神」をかつての日本人は備えていて、それに台湾人は憧れたという。 もともと「日本精神」が伝わる気質が台湾人にはあったのだろう。同じ島国という環境が似ているからか。 戦時中、中国で日本軍と戦っていたのは蒋介石の国民党軍である。戦力が消耗したところを、毛沢東の共産党軍に押され、蒋介石軍は台湾に渡って「中華民国」としたのだ。蒋介石は、台湾で戦力を整えて再び中国に舞い戻って共産党軍と戦おうとしたが、残念ながらその夢は果たせなかった。 終戦になって台湾の日本人は、50年間費やした公共インフラ資産と私有財産を台湾に残し、手荷物だけ持って故郷日本に帰ってきたのだ。 本省人の李登輝総統の時代になって、やっと台湾の民主化が進んだ。軍部独裁の解体、戦後より改選のない万年議員の解散、立法院(国会)の全面改選、総統直接選挙の実施等である。製糖王 鈴木藤三郎 明治の時代、砂糖は高級品で日本は海外の粗悪品まで全て輸入に頼っていた。藤三郎は遠州森町(現静岡県森町)で菓子屋を営む鈴木家に4才の時養子入りした。21才の頃、報徳の教えを知り、その信奉者となった。家業で報徳の「荒地の力を以て荒地を開く」を実践して、計画経営で5年後に売上げを10倍にのばす。発明家で、160もの特許を取っている。1890年(明治23)日本で初めて純白の精製糖の製造に成功する。 1900年(明治33)国策会社である台湾精糖株式会社が設立し、精糖業に精通した藤三郎に白羽の矢が立ち社長に就任。台湾の精糖業殖産はサトウキビの育つ気候と広大な土地とを有する台湾の主力産業になり得る事業と大いに期待されていた。推進役を果たしたのは、井上馨蔵相ー児玉源太郎総督ー後藤新平行政長官ー新渡戸稲造殖産局長ー三井物産ー鈴木籐三郎社長のライン 台湾の砂糖生産高は、1900年3万t、1905年6万t、1940年160万t、台湾の主力産業となった。現在も遺構を見ることができる。鈴木社長は、農民に利益を与え、同時に会社も利益をあげてさとうきび農業を進歩させる「両得農業法」を考え出し、実践した。 実は、今市二宮神社に鈴木藤三郎から歴史に残る贈り物が残されている。1905年(明治38)二宮尊徳翁没後50周年祭の時、尊徳翁の遺著1万巻が戊申戦争の際相馬に避難して残されていることを知り、翌39年1月から41年11月までの3年間、筆生20人を雇い総数9,014巻の原本を報徳全書2500冊に筆写させ、石蔵・鳥居とともに1909年(明治42)報徳二宮神社に奉納した。これにより、二宮尊徳が各地で行った仕法や日記・書簡類が散逸せずに現代に残された。現在、今市報徳二宮神社宝物館2階に保存されている。さらに、昭和になって故佐々井信太郎先生により「二宮尊徳全集」(全36巻)として刊行された。日光市二宮尊徳記念館にその初版本が展示されている。 参考図書「台湾人と日本精神」 蔡焜燦(さいこんさん)「武士道解題」 李登輝「台湾を見ると世界が見える」藤井厳喜+林建良「報徳産業革命の人」報徳社徒鈴木籐三郎の一生 地福進一「台湾論」 小林よしのり「台湾紀行」 司馬遼太郎
2020.04.07
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新型コロナ対策として、安倍総理が本日午後、緊急事態宣言をするとのこと。私が読んでいるメルマガ「台湾の風」に日本統治時代の後藤新平について書かれた投稿があったので紹介したい。私も1月に、『親日国「台湾」の歴史』というコラムを所属する栃木県建築士事務所協会の会報に載せているので、ぐっと親近感が湧いた。・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・【産経・正論】台湾のコロナ対策と後藤の遺訓 産経新聞2020年4月6日 井上和彦(ジャーナリスト) 「ありゃ、日本はどうしちゃったんだろう? すぐ脳裏に浮かんだのが後藤新平のことでした」 そう言って日本の感染拡大対策に首を捻(ひね)ったのは、台湾出身の知己の内科医だった。 中国湖北省武漢で発生した新型コロナウイルスが世界的感染拡大の傾向を見せはじめたころ、台湾はいち早く有効な手を打って拡大阻止に努めていた。1月には武漢との団体旅行往来を禁止し、2月6日には中国全土からの来訪を禁止した。予断は許さないが、台湾が上手に感染を制御していることに注目が集まっている。◆公衆衛生の観念普及 その背景には、中国を起源とする重症急性呼吸器症候群(SARS)が2003年に台湾で広がった時の苦い経験があった。 この時、SARSに対処したのは、現在の副総統・陳建仁氏で、当時行政院衛生署長だった。 陳副総統が、本紙のインタビューで当時WHO(世界保健機関)に台湾から病例を報告しても反応がなく、WHOから検体が得られていれば不幸な院内感染は起きなかったと語っている。そのため台湾は独自で未知の感染症と戦わざるを得なかったのだ。そんなSARSとの戦いの陣頭指揮を執った陳建仁氏が蔡英文総統を補佐する副総統なのだから、台湾の今次の新型コロナ禍への対応が迅速かつ的確であったことも頷(うなず)ける。 陳氏の存在は、まさに第4代台湾総督・児玉源太郎を補佐した民政長官・後藤新平を彷彿(ほうふつ)させる。 後藤新平─冒頭の内科医が語るこの偉人は、「台湾近代化の父」として台湾人の尊敬を集め、その功績は今も語り継がれている。 日清戦争後の下関講和条約(1895年)で日本に割譲された当時の台湾は、まだマラリアやチフス、コレラなど様々な疫病が蔓延(まんえん)する瘴癘(しょうれい)の地であった。この疫病を駆逐することが台湾統治の最重要課題の一つだった。 児玉総督の右腕として渡台した後藤新平は、大規模な土地調査を実施し、インフラ整備を行うと共に医療環境改善に注力した。医師でもある後藤は、病院や予防消毒事業団を設立し、公医制度を設け各地に診療所を配置したほか、上下水道を整備して衛生環境を改善した。とりわけ手洗いやうがいの励行、布団を干して叩(たた)くといった公衆衛生観念の普及は効果的だった。こうして次々と疫病が駆逐され、近代化の基礎が築かれていったのである。 現在、台東に帰省中のブヌン族青年に電話で新型コロナウイルスの影響を尋ねたとき後藤新平の話となった。台湾の山地では今でも多くの医療用語が日本語のまま使われていると聞かされた。当時の医療行政が台湾全土に行き渡っていた証左であり、まさしく後藤新平の“遺産”ではないだろうか。◆「人を残す人生」の偉業 このとき私の胸に去来したのは、後藤新平の遺訓「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生は上」だった。 1999(平成11)年5月22日、台湾南部の台南市で後藤新平と、新渡戸稲造の業績をたたえる国際シンポジウムが開かれ、私もこれに参加した。ここでは2人が台湾の近代化に尽くした偉業をたたえる声が相次ぎ、感動に胸が震えたことを思い出す。 この時、李登輝総統(当時)の国策顧問を務めた許文龍氏は、会場の台湾人に、日本人の功績によって現在の台湾があることを忘れてはならないと訴えた。 許氏は社員教育で講演した内容の一部を整理した小冊子『台湾の歴史』の中で、こう述べている。≪台湾の基礎は殆(ほとん)ど日本統治時代に建設したもので、我々はその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼らを公平に認識すべきである≫ 事実、台湾人の多くは異口同音に日本統治時代の教育・医療、そしてインフラ整備を称賛する。 今年1月の総統選挙で再選を果たし2期目に入る蔡英文総統を、陳建仁氏に代わって支える副総統は、医師の肩書を持つ頼清徳氏だ。蔡総統は、再び“後藤新平”を右腕に抜擢(ばってき)したわけである。◆台湾の経験に学ぶべき 新型コロナが世界各国に感染拡大するなか台湾が感染制御に一定の成果を上げている。 私には、どうも後藤新平の“教え”が台湾を守っているように思えてならない。日本統治時代の医療インフラを基礎に現在の台湾医療が築かれたからだ。 開南大学で教鞭(きょうべん)をとる台湾人の友人がいう。「台湾は、WHOに頼れないから、独自で感染拡大防止策を考えなければならなかったんです」 結果的にはむしろ、中国への配慮と受け取られかねない姿勢も指摘されるWHOに頼らない方がよかったのかもしれない。 一国への政治的配慮を世界の防疫問題に持ち込んではならない。防疫は世界全体の公衆衛生と人命に関わる問題だからである。 WHOはただちに、新型コロナの感染拡大抑止に成果を上げている台湾を加盟させ、台湾の経験に学ぶべきである。(いのうえ かずひこ)
2020.04.07
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