パクス・ジャポニカ Vol.2

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2012/08/06
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テーマ: 城跡めぐり(1252)
揖斐川・長良川・木曽川の木曽三川の河口にある三重県桑名市、ここを訪れた理由は2つあり、その1つが桑名城です。

桑名城跡は九華公園として整備されており、公園の一角には見覚えのある鹿角の脇立兜がありました。
桑名城本多忠勝像 (500x375).jpg
本多平八郎忠勝の銅像
大数珠を袈裟懸けにして、後ろには名槍「蜻蛉切」が控えています。


本多忠勝の銅像があるのは、 岡崎城 と桑名城だけでしょうか。
岡崎城本多忠勝像.JPG
岡崎の本多忠勝像


その風貌は銅像からは窺い知ることはできませんが、実はこんな感じです。
大多喜城本多忠勝1.JPG
大多喜城 (千葉県立博物館大多喜分室)にて



数々の武勇伝を残し、主君の徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉も賞賛する本多忠勝ですが、桑名城はその本多忠勝の築城によるものです。
桑名城古城図 (500x376).jpg
桑名城の古城図
揖斐川の水路を利用した水城で、各曲輪が浮島のように独立しています。


幕末の戊辰戦争で桑名藩は旧幕府方についたため、戊辰戦争後に桑名城は官軍によって破却され、桑名城跡残っているのは当時の曲輪の跡だけです。
桑名城九華公園図 (500x321).jpg
九華公園図



桑名城三の丸虎口 (500x375).jpg
三の丸虎口跡
ここが大手口だったのでしょうか。


桑名城の石垣は明治政府によって取り壊され、四日市港建設の際に防波堤として転用されました。

曲輪の跡は後世になって積まれた石積で囲まれており、もはや当時の石垣を見ることはありません。
桑名城三の丸堀 (500x375).jpg
三の丸の外堀

桑名城二の丸堀 (500x375).jpg
二の丸堀跡


桑名城二の丸虎口 (500x375).jpg
枯れ木も山の賑わいでしょうか。

桑名城の築城当時、大小合わせて50の櫓が建ち並んでいましたが、現在となってはその面影すらありませんでした。
桑名城二の丸 (500x375).jpg
本丸から見た二の丸跡

桑名城西の丸 (500x375).jpg
本丸から見た西の丸跡
当時は石垣も高く詰まれ、曲輪の間には深い堀が巡らされていたことと思います。



桑名城本丸 (500x375).jpg



揖斐川の流れる北側に回ると、船着場のあった付近に当時の石垣が残っていました。
桑名城船着場 (500x375).jpg
江戸時代には東海道桑名宿の宿場町があり、「七里の渡し」の西側の発着点でもあったところです。

桑名城北大手 (500x374).jpg
船着場の近く、旧東海道に面した北大手門跡

桑名城北大手 (500x375).jpg
北大手門の枡形跡


本多忠勝の桑名城を見てみたいという念願かなって、桑名に来ることができました。

残念ながらその城郭を見ることは出来ませんでしたが、縄張りを見る限りでは築城主のような武骨一辺倒な印象はありませんでした。


徳川家康が本多忠勝を桑名に配したのは、東海道を抑えることが目的だったのでしょうが、彦根の井伊直政と併せて桑名に本多忠勝がいること自体がプレゼンスだったのかも知れません。
(桑名城の築城にあたっては、その井伊直政も普請を手伝ったそうです)

家臣団の住む西の丸と本丸の間が近く、また本丸も城下からすぐ近くにあるといった感じで、むしろ親しさと優しい印象を受けたほどです。

徳川家康の三河家臣団を絵に描いたように武骨な本多忠勝ですが、上総大多喜も含め城下町の町割りには定評があり、インフラの整備など善政を行ったと言われています。


徳川家康の家臣として50回以上に及ぶ前線での出陣の中で、本多忠勝はかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。
徳川家康が武田信玄に大敗北を喫した 三方ヶ原の戦い では、その前哨戦である 一言坂の戦い において、本多忠勝の奮戦によって徳川軍は窮地を脱し、武田軍からは次のような落首が書かれました。
「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」

その本多忠勝ですが、隠居後のある日に小刀でうっかり怪我をした時、自分の最期を悟ったと言います。
そしてその数日後に桑名でその生涯を終えました。



戦国時代の桑名には地方豪族が割拠しており、現在の桑名城のある場所には、伊藤武左衛門の東城がありました。
織田信長が桑名地方を平定すると、織田信長方の滝川一益の支配下となり、東城は廃城となっています。

豊臣秀吉の時代になると一柳直盛が城郭を築き、その時に伊勢神戸城の天守を移築しました。
その天守は神戸櫓として、近世桑名城にも残されていたようです。
桑名城神戸櫓 (1) (500x375).jpg
本丸の南西にある神戸櫓跡

1601年の関ケ原の戦い後、 上総大多喜 から本多忠勝が桑名に移封となり、近世城郭を築城するとともに、「慶長の町割り」と呼ばれる城下町の整備と河川工事などを行っています。

第2代藩主本多忠政の時に姫路に移封になると、以後は代々松平氏が桑名藩主となりましたが、幕末の藩主松平定敬は 会津藩 松平容保の弟であったため、桑名藩は戊辰戦争において幕府方に付くこととなりました。

鳥羽伏見の戦いにおいては桑名城を無血開城し、新政府軍は本丸にあった辰巳櫓を焼却することで、開城の証しとしたそうです。
桑名城辰巳櫓 (1) (500x375).jpg
辰巳櫓跡
櫓台の上に大砲がありますが、なぜここにあるかは不明だそうです。





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最終更新日  2017/07/18 06:52:06 AM
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