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『事を謝するは、まさに正盛の時に謝すべし。身を居くは、よろしく独後の地に居くべし。徳を謹むは、すべからく至微の事を謹むべく、恩を施すは、務めて報いざるの人に施せ。』(官位を去るのは全盛を極めている時がよい。退任後に身を置くのは名利などの争いのないところがよい。善行を積むのは極力小さなことから積むべきだし、恩を施すのは恩返しのできない人に施すがよい。)現職から退くのは正盛の時とあるが、言い換えると、最も退き難い時でもある。責任ある地位から退いて気楽な余生を送りたいという人は少ないようで、まだ、働ける、我輩が退いたあとが心配だ、などと自分勝手な理由をつけて居座ろうとしている。周囲では、退いた方が会社のためと思っているが、本人は去った後が心配と考える。多くの場合、去った方が安心なのである。近年、よく大企業のトラブルの責任をとって去っていく人もあるが、中には去るべき時に去らなかった悔いを残した人もいるのではないか。現在上場している会社の社長だが、社長らしからぬ態度に退任を迫ったが応じず、株主総会の決定によることになった。それでも社長の椅子にしがみついて離れようとしない。結局、株主総会の決議で退任を余儀なくされたが、第三者から見ても当然の決議としてむしろ歓迎されている。天下に恥をさらすために社長になったようなものである。別記したように、私は第二の会社へ再建目的で入社したが、達成完了後ではなく達成見込みがついた段階で退いてしまった。銀行の任務は経済社会への奉仕にあると考えていたからで、会社再建に奉仕すれば事は終わりと考えたからである。先日講演先で中堅会社の社長から相談を受けた。「今度社長を退いて長男に譲ろうと思うが、会長になったら、どういう仕事をしたらよいでしょうか」ということであった。私はこう答えておいた。「会長になったら、相談に答えるだけで会社の経営はすべて新社長に一任し、あとは趣味、社交で時間をつぶし、気楽に暮らすことでしょう。ただ、こういうことは心に留めておくことも必要です。昔、豊臣秀吉に仕えた黒田如水は引退後に急に短気になり、些細なことで家来たちを叱りとばすようになった。見かねた城主の長政が、『家臣たちが困りきっておりますから、今少し穏やかに願います。』すると如水は『わしが口うるさくすれば、その分おまえを慕うようになるだろう。わしがうるさくしているのは、おまえと、黒田家のためにやっていることなのじゃ』と。会長の任務といえば、社長を立派に育て、会社の発展を希うだけでよいのではないでしょうか。」さて、私自身の引退後だが、別に述べたように、文字どおり「晴耕雨読」の生活。その間、飢えれば食い、眠けりゃ休む、一日一回昼寝一時間、晴れれば、鎌かスコップを手にし、疲れれば捨て石に腰を降ろす。そうした時、自然に出てくるのが、白楽天の詩。「日高く睡り足りてなお起くるにものうし。小閣に表を重ねて寒さをおそれず」と詠いだす。遺愛寺の鐘は聞こえず、香炉峰の雪を見ることはできないが、たわわに実っている柿やミカンを見ることができる。この項の終わりに、銀行員の頃の思い出話を一つ。スポーツ用品メーカーの美津濃の創立者、水野利八元社長と対談した時、社長から、「あなたはんは学校も出なんで、よう大銀行の専務さんになられましたな」と、名刺交換の際に言われ、返事に戸惑ったことがある。今にして考えると、学歴のない私は単純な知識、言い換えれば物事の基本となることを学ぶにしかずということで、たとえば人の用い方の基礎である「仁」、処世の基本である「礼」を身につけるよう努力した。経営に当たってはその基礎である「徳」に徹した。これが自分の肩書につながったのではなかろうかと、自己採点、自己満足しているわけである。 <終> (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.24
『日すでに募れて、しかもなお姻霞絢爛たり。歳まさに晩れんとして、しかもさらに燈橘芳馨たり。ゆえに末路晩年は、君子さらによろしく精神百倍すべし。』(日が暮れても夕映えは美しく輝き、年の瀬が近づいてもダイダイやミカンは、さらに芳香を放っている。このように、晩年になっても精神を百倍にも奮いたたせるべきだ。)私はまだ93歳(2003年)で老いを語る資格はないが、よく長寿の秘訣を聞かれるので答えの用意だけはしているのである。私の秘訣はたった一字“予”である。予定の予、予備の予で、「あらかじめ」とも読む。何事かの目的を定めてその目的を達成するための準備である。準備するためには、頭も使えば手足も使い、結果を希んで楽しみも得られ、生きがいも得られる。こうしたことの日常生活が心身の健康を保たせてくれる、と自分なりに考えているわけで、格別の長寿技術を施したわけではない。そうしたことで長寿の方法を聞かれても答えようがなく、“予”の一字で言い逃れているといえるのである。『中庸』という本に「事は予めすればすなわち立ち、予めせざればすなわち廃す」とある。事はあらかじめ準備すれば成功するし、しないと失敗するという意味である。この本を読んだのは30歳の時だったが私の準備は20歳前からで、借金返済が遅れ、内容証明郵便で驚かされて返金準備の必要を知ってからのことである。生涯信条を借金から得たということで、恥じ入った話だが、これが事実なのである。私の家の物置きには、20キロ入り肥料が、常に十数袋置いてある。「何に使うんですか」と聞かれ「このまま食べるわけじゃないんです」と答えた。私の書棚を見た人が、「誰が読んだ本ですか」と聞く。中国の史書古典が並べてある。これも私の準備品である。篤農家(?)としての準備も忙しい。春は除草に種まき、夏は灌水から除虫、果物の袋かけ、秋は収穫、冬は果樹の枝の剪定など、野菜と果物が私に強制労働を命じる。これが健康を助ける。年をとると動くことも億劫になってくるが、彼らの命じる強制労働に対しては立ち上がらざるを得なくなる。いわゆる経済人に「創造とは」と尋ねたら、「それは準備である」と答えてくれた。目的を定めて達成しようとしている時、何かのヒラメキをおぼえる、と。なるほど、経営戦略・戦術にしても、画期的な目的を抱いて思考を重ねている時、ふと頭に浮かんでくるものがある。それが案外目的にかなっていることも少なくない。別項でも述べたが、私はよく、疲れをとるため、また気分転換のため、最近では声を張り上げて吟詠、演歌から昔の軍歌など、思いつくまま歌い出す。とうとうボケが始まり、頭にきてしまったと人は思うかもしれないが、自分としては頭にこないための準備なのである。白頭を怨む詩も悲恋の演歌も、私にとってはすべて長寿の妙薬。心の持ちようで長命にもなれば短命にもなる。自分の心に責任をもたせ、別の自分の心を気楽にしておくことも長寿につながるのではないか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.23
『士君子は貧にして、物を済うことあたわざる者なり。人の癡迷(ちめい)のところに遇いては、一言を出してこれを提醒(ていせい)し、人の急難のところに遇いては、一言を出してこれを解救(かいきゅう)す。またこれ無量の功徳なり。』(学があって徳の高い人は、自分が貧しいから人を物質面で救うことはできない。しかし、愚かで迷っている人に会った時には、助言して苦や悩みから解放してやることができる。これも、計り知れない功績というものである。)学があって徳の高い人は、貧しいから人を物品で救うことはできないが、助言で救うことができるという。私は、その助言で助けられた。夜学へ通っている時であった。「君は夜学へ通っているそうだな。夜の次は朝だ。昼の者より早く朝がくるからな。」こともなげにいっているようであったが、私にとっては励ましの一言であった。会社が借金苦に悩んでいた時、ある人に話したところ、「借金なんかでくよくよすることはありませんよ。あんなものは返せばいいんですから。」なるほど言われるとおり、悩むことはない。会社がその日暮らしの状態で、社員を経済的に救い喜ばせることができなかった時のこと。そこで思いついたのが分社経営。営業店を中心に40部署を独立会社にしてしまった。いずれも株式会杜であるから、一社3人の取締役にしても120人の取締役。その中から40人の代表取締役が生まれることになる。3人、5人の会社でも名刺はマンモス会社の社長のそれと変わることはない。これこそ本項にある「無量の功徳」といえるだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.22
『彼富ならば我は仁、彼爵ならば我は義。君丁もとより君相(くんしょう)の牢籠(ろうろう)するところとならず。人定まれば天に勝ち、志一(いつ)なれば気を動かす。君子もまた造物の陶鋳(とうちゅう)を受けず。』(彼が富でくるなら我は仁徳をもって対抗、彼が爵位でくるなら我は道義をもって対抗す。そこで仁義道徳をもって立つ君子は、富貴によって立つ君主や宰相などの言うままになることはない。人は一念を通せば天にも勝つし、運命を開くこともできる。志が専一であれば気を率い動かすことができる。君子たる者は君主や宰相はもちろん造物者によっても、型にはめられ意思の自由を束縛されることはない。)中国の故事に「一念岩をも通す」というのがある。前漢の李広は強弓の名人として知られ、誰にもおくれをとることはなかった。ある時、草原の岩を虎と思い込んで射たところ、矢鏃(やじり)がかくれるほど石に深く突きささった。その後で再び射たが、今度は突きささらなかったという。石と知っては弓を引く力もにぶるからである。この故事の教えるところは「集中の力」ということもある。『孫子』の兵法に、「激水の疾(はや)くして石を漂わすに至るは勢(せい)なり。鷙鳥の撃ちて毀折に至るは節なり」とある。すなわち、せき止められた水が激しい流れとなって大きな岩を押し流してしまうのは、流れに勢いがあるからだ。猛禽が獲物を一撃のもとに打ち砕いてしまうのは瞬発力があるからだ。何事に対しても、あれもこれもと力を分散しては、成ることも成らなくなる。志を一点に集中して当たることが成功の近道である、と考えるべきである。知人に「地下足袋社長」といわれていた社長がいた。学校にも行けず、読み書きさえ不自由。服装はいつも詰襟服に地下足袋。もとの仕事は屑物集め、いまでいうバタ屋。その人が戦後、溶接棒製造に挑戦し、公の規格に合格すべく研究を始めた。参考書が読めるわけでなし、経験があるでなし。ようやく国立大学の先生を訪ね薬剤配分などの教えを受けた。先生にメモ書きしてもらい、奥さんがそれを読み社長が配分する仕事であったが、公式規格には、大手メーカーに次ぎ全国二番目に合格している。それを生産するための設備資金として20万円の借金を申し込まれ、私がその稟議書を書いたが、それが銀行屋として初めての貸出稟議書となった。その時、「私の当面の目標は年に法人税と借金利息を一千万円ずつ納めることです」といっていたが、何年か後には、その額に○を一つ重ねるほどになっている。まさに一念岩をも通したといえるだろう。“根性”とは「一つの目的を達成するために全知全能を傾注し続ける気力である」とは自分の借金返しの体験から出た文句だが、目的達成の執念さえあれば、李広ならずとも石に矢を通すことができるのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.21
『徳を進め道を修むるには、個の木石の念頭を要す。もし一度欽羨(きんせん)あれば、すなわち欲境に趨らん。世を済い邦(くに)を経(おさ)むるには、段の雲水の趣味を要す。もし一度貧着(とんじゃく)あれば、すなわち危機に堕ちん。』(徳を進める修養や道を体得するには、世の中の富貴に対して木石のように冷淡な考えをもつことが肝要である。もし一度、それを羨ましく思ったり頼ったりするとたちまち欲の虜(とりこ)になってしまい、修養ではなくなってしまう。また、宗教家として世を救い、政治家として国を治めるには、その去就に対して、行雲流水のような無心な心になることが大切である。もし一度去就に執着する心をもったが最後、たちまち危地に陥ってしまうだろう。救世も治国もあったものではない。)会社経営とは徳の実践であるともいえるもので、大いに発展を期すべきである。しかし、いったん徳を離れた行為をすれば、積み上げてきた徳はたちまち失われることを知らねばならないだろう。土地投機がさかんに行われていた当時、ある会社から土地投資について相談を受けたが、強く反対しておいた。ところがその社長、土地がだめなら土地に関係あるゴルフ会員券をと、何千万円かで買った。それが仇となって四苦八苦の状態に陥ってしまった。先日、私のところへやって来て、その処置について相談を受けた。そこで皮肉にもこう言ってしまった。「そのうち会社へ出勤しなくともいいことになるだろう。そうなったら、買ってあるゴルフ会員券を利用してプレーして回ったらいいだろう。」その社長が私を訪ねた理由は、倒産を防ぐために何か起死回生の儲け話はないだろうか、と聞きたいからに相違ない。そこで先手を打った。「一攫千金を夢見るより一躍千尋(いちやくせんじん)の谷を想え」と。つまり、一度に大金を得ることを考える前に、その結果は深い谷底に落ちることを考えるべきだ、という意味である。希望や夢がかなえられるなら、これほど幸福な人生はない。しかし、希望や夢は現実となって優く消えてしまうものである。その時、私は社長にこうも話しておいた。「最も頼りがいのある一人に頼みなさい。千人万人より大きな力を出してくれるでしょう」社長は、「それは私自身のことなんですね。やってみます」と手を上げて帰ったが、今もって便りがない。会社が手を上げてしまったのではないか、と心配しているのだが。とかく、窮すれば通ずというが、詰まるところまで詰まってしまうと通じなくなる。藁をもつかみたくなる気持ちもわからないではないが、一攫千金の道だけは選びなさるなといいたい。千尋の谷に通じていると思われるからである。別記したと思うが私は20歳で生涯計画を実行に移した時、これを貫くために、勝った、負けた、損をした、という趣味娯楽を断った。つまり一攫千金の道も塞いだことになっているが、たった一度だけ投機に手を出したことがある。すでに書いたことだが、朝鮮動乱不況の昭和30年に借金して株式投資をし、約2倍半に殖やして自宅を新築してしまったことである。それに、現役を退いてからは投機に明け暮れの生活といえるほどだが、それは賭博でもなければ、競馬、競輪でもない。天を相手の投機である。野菜の種をまき、施肥、除草など、資本と労力を生育に賭けることになるが、天候、害虫などに左右される。まさに投機である。当たればその処分に悩み、外れれば投下資本は皆無となる。これでは大型耕運機の分割払いにも支障がでてくる。ここでこう書くのも、夢にもならない夢のまた夢。広大な農地といっても駐車場の半端な土地、それも4ヶ所で150平方メートルほどのもの。大型耕運機どころか手押し一輪車も入らない。それを、専業農家だ、農繁期だと口にしているのであるから、他人様から見れば投機ならぬ頭が逃避してしまっていると思うだろうが、当たらずといえども遠からずである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.20
『小人(しょうじん)を待つは、厳(げん)に難(かた)からずして悪(にく)まざるに難し。君子を待つは、恭に難からずして礼あるに難し。』(小人に対して、いくらでも厳しくすることはたやすいが、それによって、その人間まで憎みやすい。つまり、その行いを憎んでその人を憎まないということは難しい。君子に対しては、その長所、美点を尊敬し、自分でへり下り恭(うやうや)しくすることはたやすいが、卑屈に陥らないで礼を尽くすという点は難しいことである。)私には、人の欠点、過ちなどを報じた人の言葉や活字に拒否反応を示す特異な神経があるらしい。欠点だらけの人間であったためかもしれない。誰々にはこれこれの長所があるといえば、いや、あの男にはこれこれの短所があるといい出す。あの人にはこういう功績もあるといえば、これこれの失敗もあるという。格別の魂胆があってのことではなさそうであるが、人を良い者にすれば自分がそれよりも劣る人間と思われやしないかとでも思うのではなかろうか。人が人をほめたら自分もほめる気持ちになるのが、大人といえる人間ではないかと思う。過ちを犯した人間にしても、まったく反省していない者は稀といえるだろう。少なくとも心の隅にでも自責の心が働いているに違いない。とすれば、他人まで責める必要はないといえるだろう。人が人の短所を指摘したら、その長所を見いだし、あるいはその人の心になって同情の心を注ぐことも欠かせないのではないか。そうあってこそ、その人も反省し心から改めようという気になるのではないか。銀行のあと、メーカーに勤めていた頃、生産部員が失敗したということで担当部長が私に報告にきた。私からすれば、現場で処理できる問題である。そこで「そこまでは目が届かなかったな」といっただけでことはすんだ。生産部のことなど目が届いていてもわからない私だったが、後で、大事にならなくてすんだ失敗社員に出会ったらニコニコ顔で、私のわからない目を見ているようであった。これは、また銀行時代の話である。ある行員が社内規則に違反した理由で退職を命じられた。人事部長であった私は、今後のこともあるので注意だけはしておいた。その行員が退職した後に、私は再就職先探しに努め、ようやく内定を得て本人に通知したところ夫婦でとんできた。「部長さんも監督不行届きということで頭取から怒られたという話を聞き、私は部長から憎まれ怨まれていると思っていました。就職の世話まで・・・」といって涙を拭いていたが、私は当人を憎む前に、当人の将来が気がかりでならなかったのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.19
『人情は反復し、世路はきくたり。行きて去らざる処は、すべからく一歩を退くるの法を知るべし。行きて去るを得る処は、務めて三分を譲るの功を加えよ。』(人情は掌を返すように変わりやすい。人生の行路もまたけわしい。こうした困難な世渡りの秘訣として、人に譲る心が必要になる。たやすく通れない道は一歩退いて他人を先に通すようにすることである。また、たやすく通れるところでも、そのまま行かず十のうち三を他に譲るようにすればよい。)会議などで見られる風景だが、主題とかけ離れた論議になった時、それが発展して感情が加わり、ついにはけんか沙汰にまで発展することさえある。会議が論争になると互いに理性が失われ、会議の目的などは投げ出されるようになる。「わけのわからないやつだ」などと言い出す。わけのわからないのは、実は自分であることも忘れているのである。もし、会議の目的に外れていない意見なら素直に賛同すべきである。それが組織内の和を保つ一助ともなるし、自分の仕事を進めるための道にも通じてくるものである。私は銀行の課長時代、ある計画書を常務会に提案したが審議未了で6回も返され、7回目にトップとの直接交渉で承認を得たことがある。トップが承認印を押しながら「井原君は東京から北海道へ行くのに九州回りするような人間だな」といわれ、「世界一周をしても北海道へ行きます」と答えたことがあった。目的は計画の承認にあると考えていたからである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.18
『径路の窄(せま)き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味の濃(こま)やかなるものは、三分を減じて人の嗜(たしな)みに譲る。これはこれ世を渉る一の極安楽(ごくあんらく)の法なり。』(狭い道では自分が一歩よけて相手に譲り、うまいものは三分減らして相手に食べさせる。こうした心掛けこそ人生をわたる上で一つの安楽の法である)歩いては他を追い越し、乗っては人を押しのけ、シルバーシートを若者が独占している。バイキングでは欠食児童さながらに振る舞い、自腹はきらぬが招待酒は斗酒をも辞さぬ、という御仁にとっては、本項の言葉は耳ざわりな文面であろう。シルバーシートに20・30代の翁が座っている。高年者が来ると目を閉じて狸になる。目を閉じるところを見ると、幾分良心が残っているらしい。もし、あるなら、さっさと席を立つべきである。こうしたことは電車内に限らない。立派な組織内にも見られる。出る杭を打ち、伸びる人の足を引っぱるなど、よく見かける手合いである。銀行員時代、トップを引きずり落として次席を担ぎ出そうとする運動が起きた。株主総会で演説するやら、飛行機でビラをまくやら大運動を展開していたが、結果は不首尾に終わっている。終わるはずである。主謀者たちの目的が、自分たちの野望を遂げるためであったからである。「邪は正を侵(おか)さず」という言葉がある。いかに策を弄しても結局、邪悪は正義には勝てないという意味である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.17
『面前の田地は、放ち得て寛きを要し、人をして不平の嘆きなからしむ。身後の恵沢は、流し得て長きを要し、人をして不きの思いあらしむ。』(現世に処する心構えとして、何人にも公平にし、不平不満を嘆く人のないようにしたい。死後に残る恩恵については、長く後世に残して人に乏しい思いをさせない。いい換えれば豊かな思いをさせるようにしたい。)よくいわれる文句に「籠に乗る人、かつぐ人、そのまたわらじを作る人」。人が変わり、仕事は変わるけれども、この一つが欠けても仕事にはならない。人は皆同じ、職業に変わりはない、人は皆同格という意味である。ところが実際は、肩書や職業によって差別し、貧富によって見る目を異にし、態度、服装によってまで差をつけたがる。昔は士農工商などといって差別したし、男女の差別も著しいものがあった。私が銀行に入ったのは大正12年の4月で、関東大震災の半年前であった。当時、背広を着ていたのは役人と銀行屋ぐらいであった。おカネを取り扱っていた銀行屋などは、人々からおカネぐらい値打ちがあると見られていたらしい。ある銀行マンが、「葬式後の食事の時、坊さんの次に僕が座った」と自慢していたほどである。こうした銀行屋の考えは、太平洋戦争後にさらにエスカレートし、慇懃無礼の代名詞として陰口の種になっている。そうした中で私は昭和24年5月に本部の課長になったが、周囲から、年が一番若い、学歴なしの課長は初めて、などと言われて、それまで抱いていた劣等感はどこへやら、優越感が高まってくる。ある時、秘書室長だった島田竜郎という先輩に「私の長所はなんでしょう」と聞いたところ、「それが君の最大の欠点だ」と一喝され目が醒めた。さて、芽生えたうぬぼれ根性をどう斬り捨てるか。そうした時、思いついたのが、うぬぼれたくてもうぬぼれることのできない人たちとの交際ということだったのである。その手始めは、上野公園の、モク拾い(タバコの吸いがら拾い)、次いで、バタヤ、流し、石焼き芋屋、仲居、ホステス、競馬の予想屋、虫売り、サンドイッチマン、花売り娘から2人の乞食など40人近くにもなろうか。それを38歳から60歳の専務で終えるまで続け、その間、NHKテレビの「交際術」という番組に、こうした街の友人2人と共に出たこともある。また、取締役になった50歳の時、徳間書店から『やかん談義』という本を出版したこともあった。自分のヤカン頭と夜間をかけた書名である。これは街の人たちとの対談を中心に書いたものだが、実は他に目的があった。その第一は、銀行屋は、自分たちはエリート人種と思っているが周囲からは慇懃無礼人種と思われているので、中にはこういう銀行屋もいるのだという気持ちを知ってもらいたいと考えたからであった。その二は、自分に芽生えてきたエリート意識を根絶したいという願いである。その三は、当時から私は銀行は大衆化すべし、今言われているように中小企業、一般大衆を取引先とすべしという主張を強調してきたが、そうするためには、エリート意識を持たない人々と同じ心になる必要があると思ったからである。その四は、街で働く人々は苦労は体験ずみ、世間をよく知り、甘い辛いも知り尽くしずみの人だからである。仕事も、儲けるための商売ではなく、生き抜くための商売、真剣さが違う。私が対談中「商売の秘訣は」と聞いて即答できなかったのは、老女の乞食一人だけであった。今でも、時間を見ては道端の小さな畑に出る。通りがかりの人が目礼しても近所の中学生が言葉をかけてきても、こちらは帽子を取って礼をすることにしている。家族のものたちから、わざわざハゲ頭を見せることもなかろうに、と言われる。しかし、自然に手が帽子を取ってしまうのであるからいかんともなし難い。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.16
『貧家も浄(きよ)く地を払い、貧女も浄く頭を梳(くしけず)れば、景色は艶麗ならずといえども、気度はおのずからこれ風雅なり。士君子、一度窮愁蓼落(きゅうしゅうりょうらく)に当たるも、いかんぞすなわちみずから廃弛(はいし)せんや。(みすぼらしいあばら家でも庭をきれいに掃除し、貧しい女でも髪をきちんととかしておれば、見たところはあでやかではないが自然の趣もあり気品も感じられる。これは人も同じで、万一失意のドン底に落ちても、やけを起こして投げやりになってよいものか。)ここに、大槻磐渓作「太田道灌蓑を借る」と題した詩を引いてみる。孤鞍(こあん)雨を衝(つ)いて茅茨(ぼうし)を叩く小女為に遺(おく)る花一枝(いっし)小女は言わず花は語らず英雄の心緒乱れて糸の如し太田道灌が狩に出て夕立にあったが雨具がない。一軒のあばら家を訪ねて雨具を借りようとした。これにこたえるかのように一人の少女が山吹の花一枝を差し出した。が、道灌はその意味を解しかね心は千々に乱れてしまった。帰城して聞くと「七軍八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」山吹は、花は咲くけれども実はつけない。実と雨具の蓑をかけた歌であることを知り、以後歌の道に励んだという。英雄の心緒の乱れは、少女の粗末な姿の中に秘められている高い教養によって、さらに増したのではなかろうか。この思いは、着飾った女よりも紅襷(べにだすき)姿の茶を摘む乙女が美しく見え、田植え姿の女性にたのもしさを感ずるに等しいのではなかろうか。外は粗末でも心は錦を思わせるからであろう。演歌「王将」にも「破れ長屋で今年も暮れた、愚痴もいわずに女房の小春、つくる笑顔がいじらしい」。夫・坂田三吉に尽くす女房の心根が知れて、破れた長屋も瀟洒(しょうしゃ)な家に見えてくる。そこへいくと、三千年も昔の話だが、太公望の女房は夫が読書に明け暮れて稼がず、食にもこと欠くというので家出してしまった。後に太公望が出世して大名になると帰ってきた。そして言うには、「私はもともと、あなたの妻、これからも妻として仕えさせていただきます。」この時、太公望はだまって器の水を地上に投げ、「あの水をこの器に戻しなさい」といったという。「覆水盆に還らず」のいわれだが、気の短い男なら器の水を地上に投げず、女の顔に投げつけたであろう。本項の最後に、「万一失意のドン底に落ちても・・・」とあるが、まさにこのとおりで、一度や二度ドン底に落ちたからといって、自分の気持ちまで落としてしまうようでは、片隅にも置けないといわれるだろう。「やると思えばどこまでやるさ、これが男の魂じゃないか」 -「人生劇場」の一節だが、敗北を悔いるより自分が生まれてきたことを悔いよ、といいたい。敗れても破れても、やると思ってどこまでもやり抜く、これが男の魂じやないか、である。武田信玄は「成せば成る、成さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人の浅はか」と詠んでいる。やればできるのに、できそうもないと言ってやらない、馬鹿げたことだ、という意味だろう。私の失意貧困時代の最盛期といえたのは20歳前後であったが、当時悟ったことは、もし失意のドン底に落ちたなら、一切の依存心を断って自分一人だけとなる。なれば、自分の心身の力が蘇ってくるということであった。『言志四録』には「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め。」とある。要するに、暗いドン底に落ちても心配しないで、ただただ自分一人を頼りにしなさい、という意味である。ドン底に落ちた人間のセリフは捨て鉢的なもので「神も仏もあるものか」であるが、神も仏もいないわけではない。ただ、自分一人の力でドン底からはい上がろうと努力している人だけに手を差しのべているだけなのである。近年のように不況で失意の人も増え、神も仏も多忙を極めているのだろう。そうそう手もまわりかねているらしい。こう考えると、私という人間は幸福だったと思う。なぜなら20歳のいわゆる青春時代に脱毛症でヤカン頭になった。いまだに治療法が見つかっていない難病、神や仏でもさじを投げているほどのもの、これでは頼みたくても頼めない。そのため、ヤカンを抱えてヤケになるか、それとも、ヤカンを忘れて力を尽くす道を見つけるか、二者択一となる。毛はなくても目は見え耳も聞こえる。聞いて学び、見て学ぶことはできることに思いつくことになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.15
『家人過あらば、よろしく暴怒すべからず、よろしく軽棄すべからず。このこといい難くば、他のことを借りて隠にこれをほのめかせよ。今日悟らざれば、来日を俟って再びこれを警めよ。春風の凍れるを解くがごとく、和気の氷を消すがごとくして、わずかにこれ家庭の型範なり。』(家族の者に過失があっても荒々しく怒ってはならない。といって何も言わず、ただ捨ておくのもよくない。もし、言いにくいことなら他の事にかこつけて婉曲に話すことである。一度で効き目がなかったら、時が過ぎてから話すがよい。そうすれば春風が氷を解かすように、穏やかなうちに家庭の円満を保つことができる。)周朝を開いた武王の弟の周公が、兄の子である幼い成王の教育係となっていた。周公としては、幼いといっても国王の子、厳しく教育するのもはばかることになる。そこで周公は自分の子伯禽を鞭打って、暗に成王を戒めた。伯禽が成長して大名に封じられた時、周公は次のようにわが子を戒めた。「自分は文王の子であり、武王の弟である。現在の国王である成王の叔父である。しかし自分は一度髪を洗う間も、洗いかけた髪をつかんだまま何度も人に会い、一度の食事中でも、何回も口中の食物を吐き出し、待たせることなく、すぐ会うようにして人材を待遇した。これほどにしても天下の賢人を失いはせぬかと心配している。おまえも魯の大名になったならば一国の君であることを自慢して、人民におごりたかぶってはならないぞ。」「三度哺(ほ)を吐いて王師(おうし)を迎う」の故事である。直接戒めては反発されるであろうことも、婉曲にさとせば素直に聞き入れられる。現役時代、ちようど石油ショック後の不況時であった。担当部長が全店各部門に対し節約指令を社長通達で出した。幾日か後の会議の際、部長が、「節約指令を出したが実行されていない。社長通達を無視している。先が思いやられる。」と苦情を述べている。会議が休憩に入ったので、私はそれとなく雑談の中でこう話した。「私は何度も中国へ社用で行ったが、暇をみては農村地帯にまで足を運んだ。実りの秋というのに雀が一羽も見当たらないので案内の人に聞いたところ、雀が降りてくると鐘太鼓で音を立てて追い払う、また降りようとすると音を立てる。雀は長く飛んでいられないので落ちてしまう。そこを捕まえて全滅させたと話してくれた。実力行使作戦といえるし、日本ではかかしを立てるが、雀は見馴れてくるとかかしに止まって羽休めをしている。」と。くだんの部長が「我々をかかし、と言いたいのでは」と聞き返したので、それが分かればあとは言うまい、と話しておいた。間接説法の方が効き目があると思われる。そのあとで、次の話をつけ加えた。「私が銀行の証券課長時代、時折り兜町の空気を吸いに出かけた。ある時、取引のあった三木証券へ立ち寄り、社長に敬意を表すべく面会を求めた。社長は鈴木三樹之助さん、和服に前掛けをし、社員と変わらない机に向かい、机の上には古封筒、ハサミ、ノリが置いてある。古封筒を裏返して再利用している。それに和紙を細く切って紙縒(こより)を作っている。何かを綴じる準備だろう。そこへ和菓子を二つ出され、召し上がれとすすめられたが、社長の前に菓子はない。食べるわけにもいかない。挨拶だけで帰ったが、送り出してくれた外務担当の社員。「あのお菓子は地下の売店で二つだけ買ってきたものです。食べなくてよかったですよ、社長は次に来た客にも出すつもりですから。客が来なければ自分で持ち帰る。私も一度だけ伊東温泉へお供したことがあるんですが、駅前の果物屋さんへ寄って皿盛りの果物を買って旅館へ行くんです。ナイフだけは持って行きます。安い皿盛りは少々傷がついています。それを削り取るためです。」この三木証券、昭和40年の証券パニックの時、証券会社発行の小切手は誰もが警戒して受け取りを拒絶したといわれた中で、四大証券のうち三社と三木証券だけは現金並みに扱われたという。その頃、故大平正芳総理大臣は、池田勇人総理の秘書官だった。三木証券社長の紹介で大平さんと二人で飲んだが、社長の娘が大平さんの奥さん。いずれも慧眼であったことは間違いない。封筒の裏返しが婉曲に大きな信用につながっている。社長はそこまで考えていたかどうかわからないが、結果は確かに事実を証明しているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.14
『飽後に味を思えばすなわち濃淡の境すべて消え、色後に婬を思えばすなわち男女の見ことごとく絶ゆ。ゆえに人、常に事後の悔悟をもって臨事の痴迷を破らば、すなわち性定まりて動くこと正しからざるはなし。』(満腹した後は、うまいまずいの区別もなくなり、情事の後では男女の欲も消えてなくなる。したがって常に終わった後の気まずさ、味気なさなどを思い浮かべ、事に臨んで、そこで起こる愚かな迷いを醒ますように心がければ、本心が定まって行動で過ちをおかすことがなくなる。)ここで教えることは、誰しもわかっているのであろうが、一瞬のブレーキがきかなくなる、人間の性である。「わかっちゃいるけど止められない」と言わず、わかっていたなら止めるべきだ。一瞬の心のゆるみが、大事の元となるのであるから。『荘子』には「小惑は方(ほう)を易(うつ)し大惑は性(せい)を易す」(小さな惑いならせいぜい方角を間違える程度のことですむが、大きな惑いは生まれながら持っていた本性まで取り違いかねない-つまりやり直しのきかないことを招きかねない。)とある。さらにいえば、小さな惑いが身も国をも亡ぼしてしまうものである。殷の紂王は象牙の箸のぜいたくから発展して国を亡ぼし、これを亡ぼした周の武王は、逆に犬一頭の溺愛を捨てて周朝の安泰を約束している。いずれも一瞬の判断が明暗を分けているといえよう。会社や団体などの公私混同などにしても、最初は法も許すであろうほどの小さな額から出発しているものである。現役時代、ある会議の休憩時間に唐の太宗の「肉を割いて、もって腹に満つ」の話をしたことがある。太宗はあるとき側臣にこう語ったという。「人君は国のおかげで立っていられるものであり、国は民によって立つものである。それなのに民から重い税金を取りたてるのは、ちょうど、自分の肉を切りさいて、腹一杯食べるようなものだ。腹が一杯になったときには、わが身は死んでしまい、君が富んだときには国が亡びてしまうだろう。」この戒めは会社にも通じることで、会社のカネで私的に飲み食いすることは、会社を食っているのと同じ、会社を食いつぶすことは、自分たちを食いつぶすのと同じ結果を招くだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.13
『餓うればすなわち附き、飽けばすなわちあがり、あたたかなればすなわち趨き、寒ければすなわち棄つ。人情の通患なり。君子はよろしくまさに冷眼を浄拭すべし、慎んで軽々しく剛腸を動かすことなかれ。』(飢えている時はつきまとうが、満腹になると飛び去ってしまう。こちらが裕福の時は寄り集まってくるが、落ち目になると見捨ててかえりみなくなる。これが人情の通弊である。こうした現実に対して、君子としては目をぬぐい清めて冷静に直視すべきだ。軽々しく世間の人情にふりまわされてはいけない。)中国の戦国時代、中小国の燕・趙・韓・魏・斉・楚の六ヶ国を歴訪して同盟を結ばせ、強国の秦に対抗させた男がいる。蘇秦である。この時の口説き文句が「鶏口となるも牛後となるなかれ」、すなわち「強国秦に屈して臣となるよりは、同盟を結んで独立を維持し名誉を保ちなさい」である。この蘇秦、一回目は失敗し、哀れな姿で家に帰り、家族の冷たい仕打ちにあう。つまり妻は織機から下りず、兄嫁は食事の仕度さえしようとしなかった。二度目には成功し、六ヶ国の宰相を兼ね、大名行列に劣らない盛大な姿で帰ってきた。妻も兄嫁も地に平伏して頭も上げない有様。蘇秦がその訳を尋ねると、地位が高くなり金持ちにもなったからだ、と答えた。蘇秦は「同じ人間なのに貧富によって差がつくのか」といって、持っていたカネを与えたという。「花開けば万人集まり、花尽くれば一人なし」は詩の文句だが、たとえ花は尽きても、そこに隠れている来年のつぼみを見いだすことができたら、心も和んでくるのではないかと思う。戴益(たいえき)作「春を探る」の詩の中に「春は枝頭に在りて已に十分」(春は梅の木全体を見なくとも、小枝の先に現れている小さなつぼみを見つけただけで十分である)とあるが、人の心の片隅にでも相手を思う心がありさえすれば満足するものである。ある会社へ入った時、創立以来の社員までが去っていく。退職届を郵便で送り届け、他社へすでに移っている、という話まで耳に入ってくる。去る人を追う気持ちにはなれなかったが、淋しい気持ちは続く。引き留めても留まらなかったと嘆く担当部長と飲んだ時、こんな話をしたものである。「『淮南子』という本に『一葉落つるを見て、歳のまさに暮れんとするを知り、瓶中の氷を見て、天下の寒さを知る』、木の葉が一枚落ちるのを見たら年の暮れはもう近いことを知り、瓶の中の氷を見たら冬の寒さを知るということで、小さな現実から大きな変化を知るという意味だ。坪内逍遙の芝居『桐一葉』は、豊臣家の衰亡を見越して「賎ヶ岳(しずがだけ)七本槍」の一人片桐且元が、疑いをかけられて大坂城を去っていくのを、木村長門守が見送り別れを惜しむ場面だ。今、会社の人たちが去っていく。部長が別れを惜しんでいる。しかし、長門守が別れを惜しんでも且元は帰らなかった。去る人を追って経営はできない。ここは、去った人間の穴をどう埋めるかを考えるのが、任務に忠実ということになるのではないか」 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.12
『家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり。人よく誠心和気、愉色婉言もて、父母姉妹の間をして形骸両つながら釈け、意気こもごも流れしかば、調息観心に勝ること万倍なり。』(家庭の中にも一個の真正の仏様がいるし、日常生活の中にも一種の真正の道がある。一家中が誠実おだやかに心を解け合わせて暮らすことができれば、呼吸をととのえ坐禅を組むよりも万倍の効があるものだ。)人間社会で最も美しいものは、と聞かれ「家庭の和」と答えたことがある。この美しさは家庭に限らない。会社内の和に、国民の和、いずれも代え難いあたたかさと力強さを与えてくれるものである。それならそうした和は、どうすれば築かれていくのかの答えは、お互いの思いやり、言い換えれば礼を守ることといえるだろう。つまり、自分の置かれている立場を考え、それにかなうよう努めることではないかと思う。かつて、長男が結婚して数年たった頃であったろうか、その嫁の叔母という方と出会った時、「私の姪がお宅へ嫁に行っていますが、よくやっているでしょうか」と聞かれ、こう答えたことがある。「あれには一つ欠点があります。私は仮にも親。親として時には注意をしたり叱ってみたくもなるものですが、それが一度もできないでいるわけです。これが一つの欠点です。」と。あれから30年近くになるが、その欠点はいまだに改まっていない。改められて一番困るのはこの自分なのであるが・・・。先日、あるところで「90過ぎまで長生きして、一番幸せであった時代はいつごろか」と聞かれ、「35歳から55歳までの20年間」と答えた。そのわけをこう説明しておいた。「35歳は太平洋戦争が終わり私が復員した年だが、その年から、銀行の常務取締役までの25年間、母の膝に頭をのせ、風呂敷を首に巻かれ、手動バリカンで散髪してくれた一回2、30分間の幸せは、どんな幸せにも及ばないものであった。その頃、少し伸びてくると母がバリカンと風呂敷を持ち出してくる。50を過ぎた銀行の常務が母の膝の上に頭をのせる。手動バリカンは毛を切り終わるとバチッと音がするが、母はすでに老人性難聴症、その音が聞こえない。音なしのまま離すから毛が挾まれて痛い。私が声を出すと母が笑い出す。その笑い声がいまだに耳に残っている。幼な子が母親の乳房をつかんで母を見上げている。感謝の心からではなかろうか。中年男が乳のみ子の心になる。これほど心を和ませることはない。」 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.11
『功名富貴の心を放ちえて下せば、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ちえて下せば、わずかに聖に入るべし。』(誰しも富貴を望まぬ人はいないが、これを求めようとする心を流し去ることができれば、凡俗の域を脱することができる。同様に、形式ばった道徳仁義の心を流し去ってしまえば、逆に多少なりとも立派な人間に近づくことができる。)老子は「天地が悠久なのは長く存在しようと思わないからだ。聖人が人の先に立てるのは先に立とうとしないからだ。成功者は自分を没却するから成功するのである。」と述べている。私は私なりに「自分を捨てきれない者は、会社を捨てるか自分が捨てられる」として自ら戒めている。歌謡曲の「柔(やわら)」に「勝つと思うな、思えば負けよ」とあるが、試合前から勝ちを意識しているようでは真の力は出ないし、臨機応変のとっさの知恵も出なくなるだろう。私がある投資名人に「株式投資で儲ける秘訣は?」と聞いたところ、「無念無想の境地」とたったの二言がハネ返ってきた。私は起床は四時、そのあと三百まで数えながら全身体操を続けている。朝食は遅くとも五時までに済ませ、食器を洗う。そこに家族のものがあれば、すべて洗ってしまう。「そこまでしてもらわなくとも」と家族はいうが、見ると放っておけなくなる。私の持病だ、といっておくが、これを家族のためと考えたら、そう長続きはしなかろう。丹精して育てた野菜や果物が時々盗まれる。惜しくないのか、怒りたくないのかといわれるが、自分が道楽したものの余り物と思っているから、頭にくるなどということはまったくない。渋沢栄一翁の話の中に「父からよくいわれた話だが、隣村に九十郎という70になる老人がいた。若い頃から商売に精を出して、カネも土地も多く蓄えた。あるとき孫たちが集まって『うちにはおカネも田畑もたくさんできているから、そんなに働かないで、伊香保温泉でも行ってノンビリしてきたら』といったところ爺さんが怒って、『おまえらはそろってわしに道楽を止めろというのか、この不幸者たちめ。おまえたちは、なんぞというとカネだ土地だというが、あんなものはわしの道楽のカスだ。』皆さんもせいぜい道楽をして、そのカスをたくさん貯めてはどうか」と。次の話を小冊子で読んだことがあった。ある男、食べたいものも食べず、高利貸しまでやってたくさんカネを貯めた。病気になり臨終も近くなった頃、奥さんが、「一生懸命おカネを貯め続けたのに、使わずに死んでしまうのはさぞ心残りでしょうね」と言ったところ、「いやいや、わしはたくさんカネを殖やし貯めることが道楽で、貯めたカネにはなんの興味もない。おまえに全部やるから存分に使いなさい」といって息絶えた、とあった。その頃から私は椿の花に興味を持ち、五百種類の挿木で殖やして何千本かになっていた。女房曰く「『私は椿を殖やすのが道楽だ、殖やした椿には未練がない、おまえにやる』といわれても困りますよ」と。その椿、毒毛虫の発生に負けてしまい、今残っているのは何本だろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.10
『父兄骨肉の変に処しては、よろしく従容たるべく、よろしく激烈なるべからず。朋友交遊の失に遇いては、よろしく剴切(がいせつ)なるべく、よろしく優ゆうたるべからず。』(親兄弟の異変に対処するときは冷静沈着であるべきで、決して激しく感情に出してはならない。友人が過ちを犯したときは、親切に忠告するがよく、それをためらってはならない。)別項で友人との例として、管仲、鮑叔牙の交友を述べているので、ここでは「糟糠(そうこう)の妻」の故事をあげてみたい。後漢の祖・光武帝には未亡人の姉・湖陽公主(こようこうしゅ)がいた。姉は、かねてから大司空の要職にあった宋弘と再婚したいと願っていた。それを知った帝は、なんとか姉の望みをかなえてやりたいと考え、ある日、姉を別室に控えさせ、宋弘を呼んでこう切り出した。「よく、『富みては交わりを易え、貴くしては妻を易う』(裕福になったら友を替え、位が高くなったら妻を替える)といわれているが、貴公はその辺のことをどう思うかね」いかに帝といえども、姉と結婚してくれとは言いかねたからであろう。宋弘は、これは姉と結婚しろ、という意味だろうと考えたが、はっきりとこう答えた。「貧賎の交わりは怠るべからず、糟糠の妻は堂より下さずというのが本当の道だと思います。」すなわち、「貧乏時代の交友は忘れるべきではないし、糟(かす)や糠(ぬか)を食うような貧乏を共にした妻は、たとえ名利を得るようになっても、捨てたり粗略に扱うべきではないと考えるのが人の道だと思います。」と。光武も姉も、この一言であきらめたということである。兄弟仲にしても、その多くは親からの遺産相続が原因で悪くなっている場合が多い。事情はどうあれ、第三者から見ても醜いものである。「泣く泣くも良い方を取る形身分け」という川柳があるが、泣く泣く取っても後々までしこりが残る場合も少なくない。親の遺産争いで一生の角突き合いほど馬鹿げたことはない。私は女房にも長男の嫁にも相続権を辞退させた。いずれも高価な放棄であったようだが、将来の感情的なしこりに比べれば安いものであったと思う。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.09
『人の悪を攻むるときは、はなはだ厳なることなかれ。その受くるに堪えんことを思うを要す。人を教うるに善をもってするときは、高きに過ぐることなかれ。まさにそれをして従うべからしむべし。』(人の悪を責めて善に導こうとするときは、あまり厳し過ぎてはならない。相手がそれに耐えられるかどうかを考える必要がある。また人に教えて善をさせるにも、あまり目標が高過ぎないようにすべきだ。その人が心服し、実行できるように心がけるべきである。)組織内で部下を教え導く目的は、非を是に、悪を善に改めることが目的であって、怒り叱ることが目的ではない。もし、権力を笠に着て力に依るとしたら、結果は威服はするが心服する者はなくなるであろう。また、職場は上司の威厳を示す場ではない。威厳を伏せる場である。現役時代、会社の会議室の前を通ったところ、生産部の課長が頬杖をついて新入社員に講義しているのが目に止まった。さっそく人事部長に電話して注意するよう話した。しばらくして人事部長を伴って現れたので、こう言った。「課長が今日頬杖をついて講義していた件は永久に忘れよう。すぐ、ここに来てくれたことは永久に記憶しておこう。私から言ことはそれだけだ。帰って仕事をしてもらいたい。」これだけであったが、私が退職した頃、この課長は海外の子会社の責任者に出世している。好意ある一言は百言の効を示すものだが、敵意ある百言は一害をも除き得ないものである。ある部長を訪ねたときである。一人の部下を直立不動のまま、多数の部員の前で叱りつけている。「君のおやじの顔が見たいほどだ」とまで声を張り上げている。どのような過ちを犯したのかわからないが、父親まで引き合いに出すことはなかろうに。中に入って私は「部長のお父さんの顔を見たい」と皮肉まじりに言っておいた。部下に注意するにも一対一ですべきである。街道一の親分といわれた清水次郎長は、人前で子分を叱ることは決してしなかったという。名親分の誉れが高いのは、厳しい中にも思いやりがあるからなのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.08
『人は名位の楽しみたるを知りて、名なく位なきの楽しみの最も真なるを知らず。人は餓寒(きかん)の憂いたるを知りて、餓えず寒えざるの憂いのさらに甚しとなすを知らず。』(世の中の人々は名位、名声があることを幸せだと思っているが、それらから離れた人の楽しみ、幸せこそ最高なものなのである。世の中の人々は飢え、寒さに凍えることを不幸と思っているが、富貴にとらわれた者にこそ、一層深刻な悩みのあることを知らない。)『書経』に「五福、一に曰く寿、二に曰く富、三に曰く康寧(こうねい)、四に曰く好むところは徳、五に曰く終命を考(な)す」とある。すなわち、幸福の五大事とは、長命であること、裕福であること、達者で安らかであること、道徳を好むこと、長命天寿を全うすること、という意で箕子(きし)が周の武王に告げた言葉とされている。また、北宋のていいの言として、弟一に年若くして優等で官吏登用試験に合格すること、第二に父兄の権力によって良い官職につくこと、第三に優れた才能があって文章がうまいこと、この三点を三つの不幸とし、その理由として学問の未熟、騎慢、徳の不足を招いて、人間としての大成を妨げるとしている。いずれも理にかなったもので噛みしめるべき言葉であるが、幸不幸は自ら求めるもので、他から求められるものではないということである。だいたい、苦と思えば苦だが、苦は楽の種と考えれば苦もまた楽しということになる。何度も書いたように、私は苦から出発しているためか、苦は楽のタネとだけ考えて歩んできた。そのため、理屈に合わないことまで苦を楽に置き換えてきたためか、それほど苦を苦と考えないようになっている。借金は苦か楽か。私は素直に楽と考えるという具合である。人生の楽とは何か、と聞かれたら「苦は楽と考えること」と答えるだろう。苦を苦と考えるから、今述べた五つの福をも逃がしてしまうのではないか。その昔、会社の借金をゼロにし、不動産の権利書と社長個人の保証書を銀行から取り戻して社長に返した日、帰宅して女房に、「今日は、若い頃親からの借金返しをしたのに続く、会社の借金を返済した楽しい日だ。一本余計につけてくれ」と話したところ、「二本つけましょう、二度あれば三度あるといいますから。もう一度借金返しの楽しみなど味わってもらいたくないですから」という返事であった。しかし、借金返済を志して次第に減っていく借金残高を見ていると、体を押さえつけている重い石がだんだん軽くなっていく気がしてくる。この楽しさは、重い石をハネのけた経験者でないと分からないものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.07
『世を蓋(おお)うの功労も一個の衿(きょう)の字に当え得ず。天にわたるの罪過も、一個の悔(かい)の字に当え得ず。』(世に知られた大きな功労も、これを誇る心が出てはなんの値打ちもなくなり、有名な大きな罪過でも悔い改めるようであれば、それも消滅してしまうことになる。)組織ぐるみの功績を独り占めしようとすると功は無になるが、組織全体の功とすれば将一人の功と見てくれる。前漢の劉邦と争って破れた項羽を、かつての部下であった韓信が評している文句がある。「項羽が怒ると部下は恐怖にかられてひれ伏してしまい、部下に事を委(まか)すことも知らない。部下を信頼できない者は、いかに威厳を見せても一凡夫の勇でしかない。それに、部下に恩賞を与える時も手に汗がにじむほど握って離そうとしない」と。この言葉からも、項羽は力も手柄も独り占めしているかのようである。功は部下に譲り、責は自分で負う心であれば、かえって己の功は認められるものである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.06
『桃李は艶なりといえども、何ぞ松蒼柏翠の堅貞なるにしかん。梨杏は甘しといえども、何ぞ橙黄橘緑の馨れつなるにしかん。まことなるかな、濃夭は淡久に及ばず、早秀は晩成にしかざるや。』(桃やすももは美しい花を咲かせるけれども、常に青さを保つ松や檜の見事さには及ばない。梨や杏の実は甘いが、橙やミカンの高い香りには及ばない。そこでいえることは、きらびやかだが長続きしないものは、地味だが長続きするものには及ばない。早成は晩成にしかず、である。)中国・宋の司馬光は『資治通鑑』で「もののにわかに長ずるものは夭折し、功のにわかに成るものは亟壊す」、すなわち突然、だしぬけに成長したものは早いうちに失敗するといっているが、これは会社、個人にも見られることである。たとえば、堂々と華やかに開店した大型小売店が行きづまり、右から横書きにされた古びた看板を掲げた小型店が繁盛を続けている。桃李を看板にしたか松蒼柏翠を用いたかの差にたとえられよう。私が、ある会社の再建に当たったときである。その会社は、なんぞというとストライキに入り、赤旗が立ち並び、ストビラが張り出される。営業中であるのに空き地に集まっては気勢をあげている。その勢いは強く、幹部の連中さえ会社に向かって職務を尽くしているのか、労組に向いてしているのか判断に苦しむほどであった。そのため組合の幹部ともなると、その態度たるや天皇と呼ばれるほどのものであった。毎朝本社ビル、工場入り口で組合幹部がビラ配りをしている。そうした中で一人の若い社員がほうきを手にして庭掃除をしている。その社員は夜学にも通っているという。誰から命ぜられたわけでもない。彼を見て知っていた者は工場の守衛と、組合のビラ配り員、そして就業時間の一時間前に必ず出社していた私だけであったろう。会社の非を攻撃する者もあれば、工場の美に努める者もある。異様な光景を目の当たりにして、同じ働く青年社員の様々な心根を思い、うれしくもなり、悲しくもなったものである。しかし、この両者の将来の違いは予測することはない。現在すでに決定しているようである。一人は昨年の暮れに、社用で一時ドイツから帰国して浦和の私を訪ねてくれた。今、ドイツの子会社で竹ぼうきは手にせず采配を手にしているという。一方の、ビラ配りでわが世の春を謳歌していた者は、工場の隅で仕事じまいの片づけにほうきを手にしているのではなかろうか。まさに「桃李は艶なりといえども、何ぞ松蒼柏翠の堅貞なるにしかん」である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.05
『富貴の地に処しては、貧賎の痛養を知らんことを要す。少壮の時に当たりては、すべからく衰老の辛酸を念うべし。』(地位や財産を築き上げたら貧賎であった当時を思い、現在、恵まれずに苦しんでいる人のことを理解することが必要である。若くて盛んな時は、年をとり弱り衰えた時のつらさを思いやるべきである。)前にも書いたが、銀行の青年行員といわれた当時、書家でもあった老行員が唐の詩人劉庭芝(りゅうていし)の詩を書いて説明しながら、「ここにある『宛転たる蛾眉(がび)能く幾時ぞ。須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の妖し』(美しい眉を誇るのも幾時の問ぞ。たちまち鶴のような白髪が糸のように乱れかかる。)井原君だって、今若さを誇る眉毛をしているが、そのうち、私のような雪眉毛に変わってくる」と言われたことがある。自分だけは例外だ、と思い込んでいたものであったが、今では眉毛さえなくなっている。時折りペンを止めては天井を見据えることがある。そんな時、無意識のうちに頭に浮かんでくるのが、唐の政治家張九齢(ちょうきゅうれい)の詩「鏡に照らして白髪を見る」である。「宿昔青雲の志、蹉だたり白髪の年。誰か知らん明鏡の裏、形影自ら相憐れまんとは。」(昔、青雲の志を抱いていた自分も、つまずき、今は白髪頭になってしまった。その白髪頭を自分が鏡に映して淋しく悲しく思うとは、考えてもみなかった。)唐の詩人杜甫は「春望」と題した詩に「白頭を掻けば更に短く、すべてしんに勝えざらんと欲す」(白髪頭を掻くと短い毛ばかりが残って、今では、冠を止めるかんざしも差せなくなってしまった)と詠んでいる。時代が変わり、人が変わっても人情は変わらぬもの。白髪を悲しむ思いは同じである。この春だったか、農作業に疲れたので捨て石に腰を降ろして休んでいた。すぐ前を、幼い子供を中にして若夫婦が通り過ぎた。思わず「人生の黄金時代ですね、大事にしたいもんですね」と声をかけた。そして「もう一度私もその坊やのようになってみたい」思わず巧まず出た言葉だったが、張九齢は鏡を見て自ら憐れみ、私は幼い坊やを見て自ら憐れんでいる。といって、老いて悲しみだけを残しているわけではない。張九齢にしても官にある時は、安禄山に反相ありとして、反乱を予想して忠言をあえてしている。不幸なことに、事は忠言どおりになったが「尽くすべきことは尽くした、やるべきことはやった」という自分の心の満足は残ったに違いない。これは比較にもならないことだが、私は銀行員時代、特に終戦後から、銀行は大衆化すべし、リテールバンクに徹せよと主張し続けてきた。もし、その方針が貫かれていたとすれば、今日の銀行は姿を変え、国破れて山河ありの悲哀を招くことはなかったろうと思い返してくると、自分なりの誇り、自己満足だけは得られる。また、現在老いの不自由はあるが、20歳の時に自分なりの人生計画を立て、70余年たった現在もそれに従ってきていることにも、自分だけの誇りを感じているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.04
『欺詐(ぎさ)の人に遭わば、誠心をもってこれを感動し、暴戻(ぼうれい)の人に遭わば、和気をもってこれを薫蒸(くんじょう)し、傾邪私曲の人に遭わば、名義気節をもってこれを激礪(げきれい)す。天下、我が陶冶の中に入らざるものなし。』(詐欺師のような人間に会ったら真心をもって接して改心させ、乱暴者に出会ったら温和な態度で感化させ、心のねじけた小悪人に会ったら人間としての道を教えて改めさせる。このように心がけると、天下の人の全てを正しくすることができる。)銀行員として勤務していた時代、それも戦後間もない頃のことである。当時は電話接続のため電話局には電話交換手がおり、銀行や会社などにも交換室があった。交換手はだいたい女性であったが、その応対ぶりは直接顧客に知れ渡るため、交換手の態度で銀行の接客態度そのものが評価される。当行の態度が悪いという評判が立ち、その是正をどうすべきかが問題になった。交換手は窓口担当とは違い、銀行員とは見られず、単なる交換手として見られ、本人たちも劣等感を抱いていた。そこで私は、交換室を店長室の隣にするよう献言し実現させたところ、たちまち改まって、優秀交換手として中央から表彰を受けるに至った。もちろん銀行の名誉として頭取表彰も受けている。これは次に移った会社でのことになる。ある時、人事部長が社長に呼びつけられて大目玉をくらっている。理由は本社の受付係の態度が悪いということであった。人事部長の教育が悪いからという理由である。私は見かねて「私に任せてください」といって、その場はすんだ。翌朝から受付嬢の前で立ち止まって「おはようございます」と一礼することにした。それを受けて彼女たち二人も立ち上がって挨拶してくれる。私を訪ねてきた人から「おたくの受付は相当訓練されていますね」とほめられたので、彼女たちにケーキを買って渡した。十日ほどたった時、社長が独り言のように、「最近受付の態度が変わりましたね」といっていたが、上が礼を示せば下も礼を返す。孟子ではないが「人の性は善なり」なのである。昔から「人のふり見てわがふり直せ」と教えられてきた。他人の立派な態度を見て自分の悪い点を直しなさい、という意味だが、上に立つ者が自ら改めれば下は自ら直ることになる。現役時代、私は埼玉県の浦和から東京・池袋へ行き、西口ヘ降り、タクシーに乗っていた。その際に必ず「おはようございます。お願いします」と言って乗り込むことにしていたが、同じ運転手さんに出会ったことが何度かある。一人の運転手さんから「どちらのお寺さんですか」と聞かれて面くらったことがある。坊主頭からも、どこかのお坊さんと思ったらしい。池袋西口で朝の挨拶をして車に乗る人は二人いるが、もう一人もどこかのお坊さんとか。私のようなお経も知らない頭だけ坊主も、口のききようによっては本物に見えることもある。人を正そうとするならまず己を正すことである。己を正せば、いわず教えず人も自ら正すことになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.03
『念頭の寛厚なるものは、春風のく育するがごとく、万物これに遭いて生ず。念頭の忌刻なるものは、朔雪の陰凝するごとく、万物これに遭いて死す。』(心が寛く、あたたかい人は、春風が万物を育てるように、そういう人のもとではその恩恵で成長する。これと反対に心の冷たい人は、北地の雪が万物を凍結してしまうように、すべての物が死滅してしまう。)『大学』に「富は屋を潤すも、徳は身を潤す。心広くして体ゆたかなり」とある。財産は家屋敷を立派にするだけであるが、徳というものは自分自身を立派なものにする。その心持ちは広くゆったりとし、その体つきは丈夫で健やかである、という意味である。現代の職場でも見られることだが、部下を指導する場合、上に立つ者が自ら手本を示し、つまり部下を教え導いて感化する者と、部下を厳しく教え導こうとする者とがある。前者には、心からそれを学び従おうとする気持ちが起こるが、はじめから厳しく教え感化しようとする者には、まず厳しさに反発する心が先行するため、心から従い学ぼうとする心が遅れ鈍くなる。「身をもって教うる者は従い、言をもって教うる者は訟(あらそ)う。」『後漢書』にある言葉である。イソップに、太陽と風が旅人のマントを脱がせる寓話があるが、経営にも通用する話であるといえよう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.02
『道はこれ一重(いちちょう)の公衆物事(こうしゅうぶつじ)なり、まさに人に随(したが)いて接引すべし。学はこれ一個の尋常家飯(じんじょうかはん)なり、まさに事に随いて警てきすべし。』(道徳は万人共有のもの。誰もが接近して行うがよい。学問は三度の飯のようなもの。誰にとっても欠くことのできないものだ。怠ることのないよう戒めよう。)空腹は自覚するが、空脳にはそれがない。ないわけではないが、なくとも生き続けることは可能である。そのため空脳を満たそうという気持ちも遅れがちになる。その遅れや不便も、他から責められることがなく生活をおびやかすことも少ない。ついつい、考えてはいるんだが、どうも、となっているようである。しかし、『言志四録』に「朝にして食わざれば、すなわち昼にして飢え、少にして学ばざれば、すなわち壮にして惑う。飢うる者はなお忍ぶべし、惑う者はいかんともすべからず」とあるように、若い時より中年になり責任ある地位についてからの空脳は、己一人の悩みに止まらない。たとえば日々の決裁、命令、指導にしても学んでいなければできかねることになる。狭い机の上に未決・既決の箱を置いているのをよく見かけるが、何か平素の不勉強を語っているように映ることさえある。時間短縮、高能率、コスト引き下げなどと叫んでいるが、学問ほどこれらに役立っものはないようである。『論語』にも「われかつて終日食わず、終夜寝ねず、もって思う。益なし、学ぶにしかず」、つまり、「私は昼夜寝食を忘れて考え抜いたが、たいして得ることがなかった。やはり読書を通じて先賢に学んだ方が早道であった」と述べている。私なども文字忘れが激しくなり、使いなれている字さえ忘れることがある。いくら思い出そうとしても思い出せない。手もとにある辞書をめくるとすぐ知ることができるが、たった一字を知るにさえ時間が必要。まして難問ともなると、終日どころか何日考えても名案が浮かんでこない。しかし、史書は、ただちにそれを明らかにしてくれるものである。しかも史書は問題を示すとともに結果の可否まで教えている。だから、自信をもってことに当たることができるはず。よく、昔の人の言ったことなど、今の世には役に立たないという人がいるが、それは読んで楽しかった、つまらなかったと批判するだけで、何を教えているか何を示唆しているかを考えないからである。活字を数えているだけで、活字を読み何を自分に教えているかを考えないからである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.08.01
『人を害するの心あるべからず、人を防ぐの心はなかるべからずとは、これ慮(おもんばか)るに疎(うと)きを戒(いまし)むるなり。むしろ人の欺(あざむき)を受くるも、人の詐(いつわり)を逆(むか)うることなかれとは、これ察(さつ)に傷(やぶ)るるを警(いまし)むるなり。二語並び存すれば、精明にしてこんこうならん。』(人を陥れようとしたり危害を加える心を持ってはならないが、人から危害を被るのを防ぐ心がけは持たねばならないという言葉は、思慮の浅い人を戒めたものである。また、人から騙されるとしても、人から騙されまいと神経を研ぎ澄まして身構えるべきではない、という言葉は目先のきき過ぎる人を戒めたものだ。この二つの文句を肝に銘じて実践すれば、思慮深く円満な人間になることができる。)現役時代、ある国へ一年間の輸出価格を決めるために行った時である。私が挨拶を始めたところ相手4人で雑談を始めた。聞く耳は持たんの素振りである。ところが相手の挨拶は一時間にも及び、それも、いやがらせ文句を並べ、その合い間に「これ以上話し合う考えはない」をつけ加えている。これはいうまでもなく、出鼻をくじいて有利な立場になろうとする魂胆である、と思って翌朝の再会の最初に私はこう言った。「昨日の挨拶の中で、これ以上話し合うつもりはない、といっていたが、本当にそうだとすれば、我々がこれ以上ここに留まっていることも無駄、繰り上げて帰国したいと思う。」と切り出した。すると相手は「ちょっと待ってくれ、輸出価格を4%値上げで妥結しようではないか」と言い出した。私は一度も値上げを口にしたことはない。会社内の打ち合わせでも、前年並みの価格なら上々の出来とまで言われてきたのに、4%の値上げである。私はダメを押した。「日本では4という数字を嫌う、5%値上げにしてもらいたい」と。相手4人は何やら話していたが、結局5%値上げでOKした。相手は策を用いて勝とうとしたが、策を用いて負けてしまっている。もし、相手が本項冒頭の文章を読んでいたとしたら5%の値上げは避けられたろうに。かくいう私は、相手国の文字を書くこともできなければ話すこともできなかった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.31
『恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、すなわち斗粟(とぞく)も万鍾(ばんしょう)の恵みに当たるべし。物を利する者は、己の施しを計り、人の報いを責むれば、百いつといえども一文の功を成し難し。』(人に恩を施す者は、心の中に施す自分を意識することはない。相手の感謝や賞讃を考えなければ、わずかな恩を施しても莫大な恩恵にも価するものである。反対に、人に利益を与える者が、自分の利益を計算したり、その報酬を求める心を起こしたりすれば、仮に大金を与えたとしても、ビタ一文にも価しないものである。)ある社長がこう話してくれた。「私は創業間もなく経営に行きづまり、わずかな物品でも現金引き換えでなければ買えなくなった。そうした中で近くの豆腐屋さんが『人間誰しも浮き沈みはあるもの。豆腐で飢えがしのげるならいくらでもお持ちなさい、払えるようになったら払ってくれればよい』と言ってくれた。その豆腐屋さんからは、今でも買っている」と。その会社は、今、当時の何十倍にもなっている。そして社長は「とにかく売ってくださるということはありがたいことです。ですから、うちの諸支払いは月末締め切り、翌月5日払いですが5日には社員が購買先の豆腐屋へ出向き、『先月はありがとうございました』といって支払ってくる」と。豆腐屋の昔の主人は生きていないだろうが、受けた方は、死んでも恩が死ぬことはないと思い込んでいるのである。これと同じような体験が私にもある。私が十歳の時である。父に、本を買うカネをねだったところ、家の前にある畑に生えている柿の木を指さして「あの実を採って売ってカネをつくれ」と言って、売り先の地図を書いてくれた。翌朝、31個採ってザルに入れ、浦和の八百久(正塚久蔵さん)の店先に立ったが、雨戸が開いていない。戸袋の前で腰を降ろしていたところ久蔵さんが雨戸を開け、用件を聞かれた。朝早く盗んで売りにきたと思ったのであろうか。私が父の名前を告げると了解したらしく、柿のヘタの近くをなめて「まだ渋が残っている。今すぐの売り物にはならないが、売ったカネを何に使うのかね」と聞かれた。「本を買うんだ」と答えたところ、ギザギザのついた十銭銀貨3個を私の手に握らせ、「よく勉強するんだよ」と言ってくれた。私が自力で稼いだ最初のカネは金30銭なりであるが、その悦びは、その何百、何千倍にもなっていただろう。帰る途中、「今に大きくなったらお礼にこよう」と考えていたが、それは40年後に果たすことができた。ちょうど50歳の時、銀行の取締役に就任した折り、株主総会が終了すると同時に八百久さんへ礼に行ったが、久蔵さんはすでに亡くなっておられた。長男の方は、そういう話は、おやじからも聞いていない、という。そこで、新築前のお店の戸袋はこの辺にあったはず、ということが判明して、久蔵さんの仏前に頭を下げて帰った。久蔵さんは恩を施したとは毛頭考えていなかったようだが、私としては今でも大恩ある人の一人と思っているのである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.30
『勤は徳義に敏し、しかるに世人は勤を借りて、もってその貧を済う。倹は貨利に淡し、しかるに世人は倹を仮りて、もってその吝を飾る。君子身を持するの符は、反りて小人私を営むの具となれり。惜しいかな。』(勤勉とはもともと道徳の実践に励むという意味だが、世人はそれを財産を増やすためと誤解している。倹約とは本来利の追求に走らずということで、むしろ財には淡白なことであるが、世人はそれをケチ、吝薔を飾る口実としてしまっている。この二つは君子が身を守るための守り札であるが、かえって小人には私利をむさぼる道具に使われている。残念なことである。)戦争直後、勤労者の中には、「働いただけ取れ、くれただけ働けばよい」というような労働の切り売り的な考えを持つ人が少なくなかった。これに対し、働くことは人間としての当然の道、国家社会への奉仕であり、力のあるかぎり働くのが当然と考え、働き続けた人がいる。この両者、天はいずれに味方したであろうか、いうまでもない。また、倹約といえばケチ、シマリヤなどといって軽蔑し、あるいは不況の原因とみる人も少なくないようだが、近年の不況続きの中においても連休ともなれば何十万人の人が海外へ向かう空港へ殺到し、スポーツ大会では大競技場を埋め尽くす。個人貯蓄千何百兆円の安心感を背負っているからではなかろうか。極端になるが、もし日本人が戦後収入のすべてを使い果たし、貯蓄なしということであれば消費意欲は地に落ち、産業界は闇と化すだろう。このように考えてくると、今日の不況を下支えしているものは日本人の倹約にあり、ともいえるのではなかろうか。『韓非子』に次の記述がある。昔、戎(西方の異民族)の王が由余という使者を秦の国に派遣したときのこと。秦の穆公は由余にたずねた。「昔の明君たちはどのような方法で国を作り、国をなくしたかについて聞きたい」「倹約で国を作り、贅沢でなくしたということです」「私は恥を忍んで聞いているのに倹約とは・・・。そのような話は聞きたくない」「いや、私は、こう聞いています。昔、堯が天下を治めていたときは素焼きの食器で飲食していました。そのため、太陽や月の出入りする地点まで、みな堯の支配に服していました。次いで、舜が堯のあとを継ぎますと食器は山から木を切り出し、それを加工して、うるしで表面を飾り、宮中に運んで使いました。堯のときより贅沢になったというので、支配に服さない国が十三も出てしまいました。次のうの時代になりますと祭器を作り、外側を黒く内側を赤く塗り、絹の敷物を置き、ゴザのへりには飾りをつけ、盃や銚子、樽や肉を盛る器にまで飾りをつけました。一層贅沢になったということで、支配に服さない国が三十三に増えました。次いで殷の代になりますと、天子は特別な車を作り、房のついた旗を九本立て、食器に彫刻、盃には金をちりばめ、四方の壁は白く塗り、敷物には模様をつけました。ますます贅沢になったという理由で、支配に服さない国が五十三にもなりました。このように、上に立つ者が美しく飾ることを知るにつれ、服従する者が少なくなっていったのです。こうしたわけで、倹約こそ国を作る道であると申し上げたのです。」これを聞き終えた穆公は、隣国に由余のような聖人がいては心配でならぬということで、近臣に対策をたずねた。寥という記録官が答えた。「戎王は僻地に住んでいるため、中央の音楽を聞いたことがない由。当方から女歌舞団を送り由余の帰国を遅らせ、謹言できないようにすることです。」穆公はそれに従い、十六人の女歌舞団を送らせた。戎王は酒宴を張り日々歌舞に酔い、一年もの長い間所を変えなかったため、牧草は食い尽くされて牛や馬が半分も死んでしまった。この弱味を利用して秦が攻め入り、戎の領地十二の国と千里四方の地を得てしまった。いずれにしても倹約にまつわる話であり、現代の経営に対してもよい参考になるといえよう。中国五代時代の譚哨という人は「一人倹を知ればすなわち一家富み、王者倹を知ればすなわち天下富む」といっているが、「社長倹を知れば一社富む」ともいえるだろう。これは私の思い出話の一つである。会社を退る時、会社の有力な協力会社の社長から「虫の息だった会社を虎の咆哮(ほうこう)にも似た会社にしたのは井原副社長だ」と言われたので、「いや私ではない。労働組合のストライキの時、会社の至るところに張り出されたビラ、アジビラに書かれていた人ですよ」「それですか」といって笑っていたが、そのビラには「ケチ出ていけ、ハゲを追放しろ」という文字とケチだといわれた人物の似顔絵があった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.29
『貞士は福をもとむるに心なし。天はすなわち無心のところに就きてその衷をひらく。けん人は禍を避くるに意を着く。天はすなわち着意の中に就きてそのはくを奪う。見るべし、天の機権の最も神なるを。人の智巧は何の益かあらん。』(節操の堅い人は、進んで幸福など求めないが、天はその心に感じ、福に無心な点に報いて幸せの窓を開いてくれる。陰険な者は、禍を避けることばかり考えているが、天はかえってその心に報いるため遠慮なく不幸を与える。このように天の働きというものは微妙不可思議なもので、人間の浅はかな知恵などは及びもつかない。)ここでは「愚公山を移す」の故事をあげてみたい。北山に住む愚公は、太行山と王屋山の二山に面して住んでいたが、この二山を平らにして南に通ずる平坦な道を開こうと家中の者に相談をもちかけた。子と孫は賛成したが妻君は反対。「あなたの老いた体では小さな丘さえ切り崩せないでしょう。それに切り取った石や土をどこへ捨てるつもりですか」「渤海の浜へでも捨てるさ」と言い捨てて愚公は三人の子供と孫を引きつれ、石を割り土を掘り、箕やモッコに入れ渤海の浜へ運び始めた。愚公の隣に住む幼い子も助太刀に加わった。何しろ、渤海までの往復が一年がかりという気も遠くなるような仕事。これを見た智そうという男は笑いながら愚公に忠告した。「あんたの馬鹿さかげんには、あきれてしまった。老い先短いのに、その老体では山の一角さえ切り崩すこともできまいに。それに、この大きな石や土をどうしようというのだ」すると愚公は哀れむように溜息をついてこう答えた。「お前さんみたいな浅はかな心の持ち主にはとてもわかるまい。いいかな、たとえ老い先短いわしが死んでも子は残るし、子は孫を産み、孫はまたその子を産みして子々孫々絶えることはあるまい。ところが山の方は増えるものじゃない。とすれば、いつかは平らになる時がこようというもの、といえるのではないか。」智そうもこれには二の句がつげなかった。これを聞いていた山の蛇神は山がなくなっては大変と、さっそく事情を天帝に訴え出た。天帝は愚公の真心に感じ、力持ちの二人の子神に命じ、二山を背負わせて他に移させてくれた。『列子』にある寓話であるが、人の真心には天も味方するという意味でもある。あくまで志を遂げよ、とする教えともいえる。事に向かって一心不乱に当たれば成功するし、それに私利私欲を忘れて当たれば不可能も可能になる。これは私事だが、銀行で人も羨むほどのスピード出世で本部課長になった。与えられた任務遂行の一点に力を注いだ結果であったと思う。しかし、その後は万年課長と陰口を言われるほどで、待てどくらせど昇格の噂さえ聞こえてこない。こうなると上司の不徳不明は先走るが、頭は後ろ向き-不平不満の多い、後ろ向きの人材となった。それが、ある特命を果たしたということで部の次長に昇格し、その後は4年で4つの部長を務め上げ、取締役1年で常務、その間5年。課長を6年もの長い間強いられたのに比べると、スピードで、荷車と自動車以上の差がある。しかし、これもみな、すべてわが身から出た心の錆、そして光であると考えているわけである。二宮尊徳の歌に「この秋は雨か嵐か知らねども今日の務めに田草取るなり」とある。先々の苦楽を忘れて今日の務めに励みさえすれば、天は雨も嵐も避けてくれることになる。「わが先は昼か夜かは知らねども今日の務めに本を読むなり」これは二宮金次郎の銅像を見上げながら、前記の和歌を思い合わせたときふと頭に浮かんだ詠み替え歌である。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.28
『天地は寂然(せきぜん)として動かずして、しかも気機は息むことなく停まること少なり。日月(じつげつ)は昼夜に奔馳(ほんち)して、しかも貞明(ていめい)は万古(ばんこ)に易(かわ)らず。ゆえに君子は、間時(かんじ)には喫緊の心思あるを要し、忙処には悠間の趣味あるを要す。』(天地は動くことなく、日月の明は永遠に変わることはない。が、その中にも陰陽があり、地変天災もある。作為的な異変もあり得る。この中にあって存続発展するためには、平穏の内には変に応じる心構えが必要である。といって、日夜、それのみに心をとらわれていることは、守りを先にして攻撃を怠ることにもなりかねない。忙中に閑、厳中に和の境地に己を置くことも欠かせないことである。)「責任ある地位にある者は常に『準備』の二字を忘れてはならない」とは私自身を戒めている文句だが、『中庸』にも「事予めすればすなわち立ち、予めせざればすなわち廃す」とある。何事もあらかじめ準備しておけば成功するが、していないと失敗するという意味である。また『易経』には次の言葉もある。「危うしとする者はその位を安んずる者なり。亡びんとする者はその存を保つ者なり。乱れんとする者はその治を有つ者なり」(常に危険を感じて警戒を怠らない者は地位を安定させることができる。破滅することを警戒し慎む人は家代々の存立を保つことができる。世が乱れることを警戒する人は国の平和を維持することができる。)次も『易経』にある文句で、私が会社の再建を果たし退社する際、別れの挨拶の中に加えたものだ。「安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず」いずれも、経営者が常に心しておきたい言葉である。といって、経営者の頭の中が四六時中守り中心の考えであっては、前進姿勢も崩れることになるだろう。やはり、忙中に閑を求め、閑の内に忙を求め、明の暗に変わることを知り、暗は明に移る前兆であることを知ることも欠かせないことといえよう。ある社長は、「会社が不景気の時はノンビリとゴルフを楽しむことができるが、好況になると会社へ詰めっきりだ」と話していた。「不景気になると全社が緊張して精一杯働きだすから、社長が尻をたたく必要はなくなる。しかし、好況になると上から下まで気もゆるんでくるし、手の動きも鈍くなる。その時、喝を入れるのは自分一人になってしまうから、忙しくなってゴルフにも行けない」と。かつての長期不況の時、ある社長会の酒席に招かれたことがあった。酒が進むにつれて歌もでてくる。一人の社長が立ち上がって村田英雄の「人生劇場」を歌いだした。「やると思えば、どこまでやるさ、それが男の魂じゃないか。」2、3の社長も加わって合唱になった。次いで歌いだしたのが「王将」。「明日は東京へ出て行くからは、なにがなんでも勝たねばならぬ」ここまで進んだ時には、半数以上の人の口が動きだした。「空に灯がつく通天閣に、俺の闘志がまた燃える」「俺の闘志が」を何度も繰り返していたが、私もつられて口ずさみながら考えた、逆境をハネ返そうとする社長魂が演歌に現れているたのもしさを。その昔、職場の忘年会で一人の先輩が歌いだした。「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせ二人はこの世では、花の咲かない枯れすすき」。大正から昭和初期の世界大恐慌当時に流行した歌である。その時上座にいた支店長まで合唱に加わっていたほどであるから、心は枯れすすき一色になっていたのではなかろうか。「歌は世につれ、世は歌につれ」というが、歌は人の心を楽しくもすれば悲しくもする。浮かせもすれば沈ませもする。そうしたことで、歌というものは会社経営などにも大きなかかわりがあるものと考えているわけである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.27
『耳中(じちゅう)、常に耳に逆うの言を聞き、心中(しんちゅう)、常に心に払(もと)るの事あれば、わずかにこれ徳に進み、行を修むるの砥石(しせき)なり。もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、すなわちこの生を把りてちん毒の中に埋在せん。』(諌言・忠言は耳に逆うものであるが、常にこれに耳を傾け、心に思いどおりにいかないことがあって、はじめて徳を高め、ことを修める基となる。耳を喜ばせるような甘言で満足しているようでは、人生を猛毒の中に沈めてしまうことになる。)古今東西、忠言、諌言に耳を傾けて成功した例も多いが、その一方で、甘言に従って己を失った者も多いものである。中国の歴史を見ても、諫言、忠言を用いたか退けたかによって明暗を分けている例が多いものである。2、3の例をあげてみよう。殷の紂王(ちゅうおう)は、微子(びし)、比干(ひかん)、箕子(きし)の諫言を用いず殷六百余年の歴史に幕を閉じ、「三仁去って殷亡ぶ」の怨みを残している。楚の項羽は范増(はんぞう)の計を用いず、烏江(うこう)の露と消え、唐の太宗は皇后の諌言、狩役人の忠言に耳を傾けて名君の名を欲しいままにしている。ここで少し説明を加えると、太宗は狩が唯一の楽しみであったが、家臣たちは、そのために政務に支障があってはならないと考えていた。家臣の谷那律(こくなりつ)が、諫言を呈するのが役目である「諌議大夫(かんぎたいふ)」になり、帝に従って狩に出た。途中雨にあったときである。太宗が谷那律に「雨の浸み通らぬ雨具はないか」と聞いたのに対し「瓦で作ったものであれば雨を防ぐことができます」と答えた。暗に「狩を控えるように」という意味であった。太宗はその言葉に絹五十段(たん)と金帯を賜わったという。平日ゴルフを諌めた者を遠ざけたという社長とは、人種が違うようである。また太宗は一頭の愛馬が死んだ時、馬役人の過ちとして死刑にしようとした。皇后がそれを聞いて諌めた。「昔、斉の景公も愛馬が死んだ時、係の役人を死刑にしようとした。これを見て、宰相の晏嬰が願い出て公に代わって馬役人の罪状を数えあげた。『よいか、おまえがどんな罪を犯したか、ここで教えてつかわす。まず第一は、担当の役人でありながら愛馬を殺してしまったこと。第二に、わが君にたかが馬一頭のために人一人を殺させる。このことを人民が知ったなら、人民の怨みはわが君に集まるであろう。第三に、諸侯がこのことを知ったなら、必ずやわが国を軽んずるようになるだろう。そのほうの犯した罪は、以上三つである』と。これを聞いていた景公は、役人を許したということです。陛下も、このことはご存知のはずです」太宗はこの皇后の言葉を悦び、役人を許したあとで「皇后は私の至らない点をよく指摘してくれる、かけがえのない女性だ」と語ったという。「女の出る幕じゃない」と一喝したとしたら、男の値打ちは馬より下がることになるだろう。『韓非子』に「小逆心に在りて、久福(きゅうふく)国に在り」(耳が痛くなるような意見を聴くと、君主たる者には少し耳に逆らう心が生じるが、国には末長い幸福をもたらす)とある。ある本に、「国が亡びたのは賢い臣がいなかったからではなく、賢い臣がいたのだが、その人間のいうことを聞かなかったからなのである」とあった。会社が倒産したのは賢い社員がいなかったからではなく、その人たちのいうことを聞かなかったからである、と読み替えてみると、倒産した会社の内幕が見えてくるような気がする。現代ではそうした賢者が社内にいなくとも、それぞれの専門の先生方もいるはずである。時折り病院へ健康診断に行くように、会社の健康診断も欠かせないのではなかろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.26
『寵利(ちょうり)は人前に居ることなかれ、徳業は人後に落つることなかれ。受享(じゅきょう)は分外にこゆることなかれ、修為(しゅうい)は分中に減ずることなかれ。』(人から受ける寵愛や利益は、他の怨みを買うことになるので、他より先にとろうとしてはならない。しかし、人のためにする道徳や仕事に対しては、他に遅れをとらないようにしたい。人から受けるものは、もらうべきものであっても分相応を超えてはならない。自己の修養は分以下にせずに、より以上に努めなければならない)銀行員時代のこと、「新時代に対応するための銀行経営の進め方」というテーマのプロジェクトチームが発足し、私がそのチーフに任命された。課長当時である。もちろん組織改革も含まれていた。従来は部長の序列は並列であったが改革案では総務部長を資格・権限とも他の部長より上位とすることにした。ところがこれに伴う人事異動の際、格上げした総務部長に私を充てるという内示があった。直接頭取に変更を申し入れた。自分が格上げした席に自分が座るということは他の不満の種となるという理由である。それなら空席になっている経理副部長で、ということになったが一ヶ月後には副部長の副がとれ、その後一年で総務部長に昇格ということになった。また、部長時代であったが、副頭取から「今年の昇給をストップするから承知してもらいたい」と言われた。このところ昇給額がトップを続けた、最高額でしかも2位との差が大きくなり過ぎたから、というのが理由であったが、自分としては落胆よりもトップを続けさせてくれた悦びをまず感じた。それに、寵利を先に得て悦んだとしても、自分が悦んでいるだけ他の人は怨んでいるかもしれない。怨まずとも妬む心ぐらいはあるに違いない。ここまで考えると、何となく自分の心を責める気にもなってくる。人に妬む心を抱かせることも、人の道に背くような気にもなる。会社などで受ける寵愛も周囲の羨望となり、ひいては怨みや憎しみにも変わってくるものである。近年よく新聞報道されている企業、団体などの不始末の露顕も、こうした感情の爆発が内部告発となって現れている面があるのではないかと思う。最近は不況のためか社用族の姿も見え隠れ程度になったようだが、隆盛をきわめていたころにはバー、キャバレーなどのホステス嬢さえ愛想尽かししていたほどであった。かつて東京・銀座のあるクラブのホステスと対談し、来客の品定めをしてもらったことがある。気にくわない客として、一、油頭を私たちの衣服につける人、二、頼みもしないのに名刺を渡したがる人、三、会社の仕事の話しかできない人、四、一人で来て請求書の客数の1を4に直して 会社に取りに来いという客、五、招待客との料金に、彼女と来たこの前の料金を加えて 領収書を持って会社に取りに来てくれという客、をあげた。「それなら、ご指名を受けた人のノルマが達せられて、いい客ではないか」といったら「詐欺をするような人のおかげでナンバーワンになりたくありません」と話してくれたが、寵利寵愛をガメツク求めようとすると、結果は仇となって自分に振りかかってくる。利愛が強ければ強いほど、結局、幾倍もの代償を払わなければならなくなるに相違ない。銀行で働いていた頃、私は招待を受けると、宴席の場所を必ず指定したものである。隣にパチンコ店がある飲食店というように、である。パチンコ店の隣に高級料亭はない。相手の負担を軽くするとともに自分の驕る心を抑えるためでもあるし、周囲の批判から逃れるためでもあった。『韓非子』に次のような故事がある。魯の国の宰相であった公儀休は大の魚好きであった。それを知った国中の者は彼のもとへ競って上等な魚を届けたが、すべて断ってしまった。弟がそのわけを聞いたところ、「好きだから断っているのだ。もし受けとれば世辞の一つもいわなければならないし、相手のために法を曲げることにもなってくるだろう。そうすれば免職になることは必定。免職ともなれば、いくら魚好きだからといって小魚一尾届けてくれる人はいなくなる。今こうして断っていれば免職にされないで、いつまでも自分のカネで買って食えるではないか」といった、とある。このように考えてみると、徳でないことをすれば結果的には得を失い、徳に従えば得につながる、といえるのではないか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.25
『世に処するに一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるはすなわち歩を進むるの張本なり。人を待つに一分を寛くするはこれ福なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。』(この世で生きていくためには、先を争う時、人に一歩譲るのがよい。一歩退くことは後に一歩進める伏線になる。人を遇するには、厳しすぎてはならない。一分は寛大にする心がけが必要。それが自分のためになる土台である。)『易経』に、尺取り虫が身を縮めるのは前に進むためであり、竜や蛇が冬ごもりするのは身を守るためとある。この言葉は、謙虚であれと教えている言葉でもあり、一歩退くは大をなすためであるとも教えているものといえよう。人を用いる道として、『老子」には「人をよく用いる者は、これが下となる」とあり、また「江海(こうかい)の能(よ)く百谷(ひゃっこく)の王たる所以のものは、その善くこれに下るをもってなり」とある。すなわち、大河や大海が数多くの谷川の王者であり得るのは、それが低いところに身をおき、よくへり下っているからこそである。いい換えれば、人の上に立とうとするには、言葉、態度を謙虚にしてへり下らねばならない、ということである。『論語』には、こうある。「能をもって不能に問い、多きをもって寡(すく)なきに問う」(才能が十分であるのにへり下って才能のない人にまでたずね、学識が豊かであるのに謙虚に、修業不足の人にまでたずねる。)この言葉は孔子の弟子の曾子が、兄弟ともいえた顔回の人柄を評したものであるが、これに次ぐ言葉に「あれどもなきがごとく、実つれども虚しきがごとく」とある。すべて謙虚を表したものであるが、「なけれどもあるがごとく、空なれども満つるがごとく」振る舞っている人間への戒めのようでもある。私の銀行員当時、ある上司は目上目下を問わず「○○さん」とさんづけで呼び、手紙の場合は「君」も「殿」も使わず「様」で通していた。もう一人の上司は部下を呼び捨てるときもあり、機嫌良好のときでも「○○くん」と呼んでいた。さんづけの人は頭取になったが、呼び捨て常務はいつのまにか姿を消している。呼び捨てが災いとなったばかりではあるまい。二人の人格の差が、地位の隔たりをもたらしたといえよう。私が今まで、君も僕も使わず、殿も用いず「様」で通してきたのはその先輩を見習ったからである。これは些細なことだが、私が銀行で常務から専務に昇格したときである。後輩の常務からより優秀な自動車に買い替えてくれと言われ、わけを聞くと、先輩が現在の車だと我々一段高級な車に乗れないから、という。「私は小さいから三輪車でも間に合う」と言って断った。一ヶ月たったころ、カタログ持参で「この車にしました」といってきた。「いまなら高値で車を下取りしてくれますから」といっていたが、私としては車が問題ではない。より上等な車に乗って、乗る自分をより上等な人間に見せようという根性が問題なのである。体は高級車に乗っても心が二輪車並みでは釣り合いも取れまい。謙虚で、へり下った人間がへり下った車に乗ってこそ、威風がある。自動車で見栄、強がりを示しても、見る人は虎の威を借る狐どころか鼠とも見るまい。さて、この項の終わりに孟子の言葉を引用してみよう。孟子は「呼びつけできない部下を持て」と教えている。呼びつけることができないほど自分より秀れた人という意味で、上司として謙虚な人でなければできないことである。こんな故事もある。兵法家で知られている呉起が魏の武侯に仕えていたとき、武侯が部下と協議を終え、得意満面で部屋から出てきて呉起にいうには、「会議したが自分より秀れた意見をのべる者はいなかった」と。これに対し呉起は「昔、楚の荘王は臣下と会した後に『ことを計ろうとする者には必ず聖人君子といえるほど秀れた人物がいるものだが、今見渡したところ自分より秀れた臣は見当たらなかった。将来が思いやられる』と言って慨いた、とあります」とチラリと苦言を呈したという。世界の鉄鋼王といわれたアメリカのカーネギーの墓石には、「自分より秀れた人間を用いた天才がこの下に眠る」という文字が刻まれているとか。大成する人の共通点を一つあげよ、といわれたら“謙虚”と答えるに違いない。「世に処するに一歩譲る」とあるが、ある投資名人に「株式投資で確実に儲けるには」と聞いたところ「自分だけが儲けようとしないことだ」と答えた。十の値上がりを見越したら七か八のところで売れという意味であった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.24
『人となりて甚(なん)の高遠な事業なきも、俗情をはい脱し得れば、すなわち名流に入る。学をなして甚の増益の功夫なきも、物累を減除し得れば、すなわち聖境を超ゆ。』(ひとかどの人間になるには、高遠な事業を成さずとも名利の俗念さえ払い去れば、それで名士である。学問をなすには、学識を増やす工夫をしなくとも、外物によって心が煩わされることがなければ、それで聖人の境地を超えたものである。)年を重ねるにしたがって、見知らぬ人からの挨拶の文句まで変わってくる。近年一番多いのが「お元気そうですね」「お顔の色も若々しい」「張りのあるお声ですね」「おいくつになりました」等々、いずれも悪意のある挨拶ではない。他には「長生きの秘訣は」と聞く人も少なくないし、「お幸せのようですね」と声をかける人もある。受ける私も悪い気はしない。むしろ褒められている気分にもなる。先日も老境に入った人たちの集まりがあった。93歳の私が最年長であったためか、質問も多く出された。「長寿の秘訣」の答えは一つ、過去の不満を思い出さず現在に満足することである。とかく、地位が得られなかった、恩賞が受けられなかったなど、昔を今に返せないことを気に病んでいる。バカげたことだと思う。私は「天命を果たし、天寿を全うしている現在、何の不満も感じてはいない」と答えておいた。その時、私のあり方を聞かれたので、このように答えた。第二の会社で社長になってくれといわれたが、その場ですぐ断った。退職後、相談役という肩書をもらい任期は死ぬまでと言われたが途中で辞退し、それまで受けていた手当を会社へ寄付してしまった。仕事もしないでの報酬は心の負担と考えたからである。年寄りには、農作業の重荷よりも心の負担の方が重く感じるからである。心の負担といえば、私はよく農作業の合間に木の切り株に腰を降ろし、白楽天の詩を口ずさむことにしている。詩中の一句に「匡慮(きょうろ)はすなわち是れ名を逃るる地」(盧山は名誉心から逃避する人の住むところ)とあるが、心は白楽天になりきってしまう。口ずさむ私の声を聞いている人は寿命を縮めるだろうが、私にとっては長寿の妙薬と思っている。自分の声に自分で満足しきっているなど、これも長寿に役立っているのかもしれない。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.23
『友と交わるには、須(すべから)く三分の侠気を帯ぷべし。人となるには一点の素心(そしん)を存するを要す。』(友人と交わるには、打算からではなく、三分の義侠心が必要。一人前の人物になるには、世俗に流されない純粋な一点の本心を残しておくべきである)交友の手本としては、中国の春秋時代斉の桓公に仕えた、管仲と鮑叔牙の貧時の交わりがある。二人は若い頃親友であったが、後にそれぞれ別の国王に仕えたため、敵味方に分かれることになった。管仲は破れたほうの王に仕えていたため、捕らえられて殺されることになった。この時、勝利者側の桓公に仕えていた鮑叔牙は桓公に、「王が斉一国の統治で満足するなら、高けいとこの鮑叔だけで十分でしょう。しかし天下に覇を唱えようとするなら、管仲を用いなければならないでしょう」と進言した。桓公は信頼厚い鮑叔牙の言に従い、管仲を大夫に任じて政治に当たらせた。果たして管仲は桓公を春秋五覇の筆頭に大成させるほどの大任を果たしている。後に管仲は鮑叔牙に感謝して、「私は若い頃鮑叔君と一緒に商売をしたことがある。その利益の割前をいつも私が多く取ったが、彼は私を欲ばりとは言わなかった。私の貧乏を知っていたからだ。彼のためと考えてやったことが失敗し、彼を余計に窮地に陥れたが、彼は私を愚か者とは言わなかった。時には外れることがあるということを知っていたからだ。また私が出仕して何度も首になったが、私を無能とは言わなかった。まだ運の向いてこないことを知っていたからだ。私が何度も戦いに行き、その度に破れて逃げ帰ったが、彼は卑怯者とは言わなかった。私には年老いた母のいることを知っていたからだ。私と共に捕らえられた召忽が恥じて自殺した時、私は縄目の恥を受けたが彼は恥知らずとは言わなかった。小事にこだわらず、天下に功名の現れないことだけを恥としていることを知っていたからだ。私を産んでくれたのは父母だが、私を知ってくれたのは鮑叔君だ」と述懐している。ここには鮑叔牙の義侠、管仲の素心を感ずることはできるが、利害打算をうかがうことはできない。打算につながる友情は、恨みにつながることはあっても、心と心を結ぶことはできない。銀行員の駆け出し時代と夜学で四年間苦労を共にした友人が倒れ、体の自由を失った。慰めるつもりもあって、彼の屋敷内にリンゴの苗木を一本植え、こう話した。「四年後には実をつけるはず、それを食べるまで死んではならない」それで翌年また一本植えて、これは品種の違うリンゴだから、これを食べるまで生きていてくれ、と話した。こうして毎年植えていけば死ぬわけにはいかなくなる。誰にもわかる子供だましのことのようだが、やらないと気がすまなくなる。彼はリンゴの花を見たあたりでこの世を去ったが、秋になり仏前に供えられたリンゴを見て、「うまかった」と言ってくれたかどうか・・・。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.22
『地の穢(けが)れたるものは多く物を生じ、水の清めるものは常に魚なし。ゆえに君子はまさに垢(こう)を含み汚を納るるの量を存すべく、潔を好み独り行うの操を持すべからず。』(汚い土には作物も育つが、澄みきった水には魚は棲みつかない。そこで君子は、汚いものも受け入れてやる度量を持つべきだし、一人よがりに潔癖過ぎるべきではない。)「虎穴に入らずんば虎子を得ず」で知られる後漢の班超が西部方面の統治の任を終え、その後任に任尚という男が就任した。任尚は、先輩の班超に統治のあり方について教えを求めた。班超の答えは、あまり厳し過ぎないことと、性急に過ぎないことの二点であった。「水清ければ魚棲まず」のたとえもある。ところが任尚は、この平凡な答えを侮り、守らなかったために統治に失敗したという。人間誰しも緊張を続けることはできないし、一時でもゆったりした気持ちでいたいものである。やはり、厳の中にも和があり、清の中に濁があるところに人間味がある。ある会社の社長が、「社長らしくもあり、社長らしくもなし」というのが社長の心得であると話してくれたが、厳格ずくめの訓示を聞いているより、少し冗句の入った文句のほうが聞き入れやすい。ある工場主は「私は短気だから部下を叱りつけるが、一言でも相手が救われることをつけ加えることにしている。たとえば大声で叱りっけた後で『俺の血圧を上げないようにしてくれ』とか、『そう怒らせるな、また今晩も晩酌を楽しみたいし』など、たわいもない一言だが、これで相手も救われたことになる」と。現役時代、中国へ行き、輸出品について価格協定を行った時である。お互いの主張がかみ合わず、ついに、無言の行に入ってしまった。その時、中国の責任者は、気分転換のためだったろうか突然言いだした。「井原さんは花卉園芸を趣味にしているそうだが土地はどのくらい所有していますか」と。そこで私が「土地は持っていますが、お国(中国)の国土より狭いんです」と答えたところ、一同手を打って笑い出した。その後は交渉もトントン拍子に決まってしまった。その翌年に出向いた時は、交渉に入る前に中国側から注文が出された。「おたくの機械は良いが、チベットの高い山で計ると若干の狂いが出るので改良してもらいたい」という。「さっそく技術屋に改めさせます」と答えた後で「機械はすぐ改めますが中国側でもご協力願いたいことがあります。高いチベットの山を少し削り取って低くしてもらえませんか」この時も爆笑が後を引いて、なごやかなうちに交渉をすませることができた。ユーモアの通じる人との話し合いで暗礁に乗り上げることはないものである。これは私が銀行に務めていた当時のこと。先輩常務が浮かない顔で頭取室から出てきた。「頭取の扇子がバラバラになるほど机を叩いて怒られてしまった」と言っていた。その常務。翌朝ニコニコ顔で頭取室から出てきた。「昨日頭取の扇子をバラバラにしてしまったから新しいのを買って届けてきたが、頭取から『もう一度バラバラにできる』と言われたので『もう新しいのは買ってきません』と言って出てきた」と。これなら、怒った頭取も怒られた常務も心にしこりが残ることはない。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.21
『藜口けん腸の者は、氷清玉潔多く、袞衣玉食の者は、婢膝奴顔に甘んず。蓋し志は澹泊をもって明らかに、しかして節は肥甘より喪うなり。』(粗衣粗食の人は氷玉のような清く、けがれのない心の持ち主が多い。美衣美食の人は最低で、おべっか、追従を上役にする見下げた態度をとる者が多い。人間としての道を守る力は淡白な生活によって磨かれるが、その気概は豪奢な生活によって次第に失われていく)ここに「創業守成」の故事がある。唐の太宗が、ある時、重臣たちに「国家経営を始めるのと、すでに完成している国家を守るのとでは、いずれが難しいか」と尋ねた。房玄齢は「天下が治まるまでは多くの英雄、豪傑たちが覇を争い並び立ちます。これらを征服して天下を得るのですから創業のほうが難しいと思います」と答えた。これに対し、魏徴は「昔からいずれの帝王も艱難辛苦の結果ようやく天下を得て、安楽で無事平穏の時に失っていますから、守成のほうが難しいと思います」と答えた。太宗はこの二人の意見を聞いて「玄齢は、自分と共に、百死に一生を得る思いで天下を得たため創業の難しさを述べている。魏徴は、自分とともに天下を治めて、騎り、たかぶりは富貴に慣れるところから生じ、禍や乱は、物ごとをいいかげんにするところから生ずることを心配しているが、創業はすでに終わっているのであるから、今後、守成のためにお互いに努めたい」と話した。こうした話は現代の会社経営にも通ずることで、現代の企業の衰退を見ても創業の辛苦を忘れて、物事をおろそかにし、謙を忘れ、倹を退け、研を軽んじ、堅を捨て、結果は会社を捨てざるを得なくしている。日露戦争当時、鈴木久五郎という人がいた。戦争景気を見越して、兜町で当時の花形銘柄であった鐘紡株を買い、買った株を担保にさらに買い進んだ。株は戦勝が重なるたびに値上がりして大儲けをした。儲けたカネで大盤振る舞いが始まり、自宅の建築祝いには招待客を乗せた人力車が長い行列をつくり、東京の一流料亭の座敷に砂利を散らし、その中に金貨を埋め、きれいどころに裾をからげて拾わせたというから、今の世でも見られない豪遊。しかし結果は、戦争終結で株は大暴落、さすがの大尽も一夜乞食となって幕を閉じたという。といって、今の人々も久五郎の姿を見て笑って過ごすことはできない。人は違い、その行為は違うにしても、している中身は同じであるからだ。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.20
『父は慈、子は孝、兄は友、弟は恭。たとえ極処になし至るも、ともにこれまさにかくのごとくなるべく、一毫の感激の念頭を着け得ず。もし施す者は徳に任じ、受くる者は恩を懐わば、すなわちこれ路人、すなわち市道とならん。』(父は子を慈しみ、子は親に孝行を尽くし、兄は弟を愛しいたわり、弟は兄を敬う。これは肉親として当然の情愛であって、少しも感謝の心を抱くには当たらない。もし、それを施した方が恩着せがましく考えたり、それを受けた者が恩を感じるならば、それは他人同士と同じことになり、商取引と変わらないことになる。)昔の小学校唱歌に二宮金次郎をうたった唱歌があった。「芝刈り、縄なえわらじをつくり、親の手助け弟を世話し、兄弟仲よく、孝行つくす手本は二宮金次郎」今歌ってもほのぼのとした気分にしてくれるが、これとは逆に兄が弟をいじめた話もある。『三国志』の一方の雄、魏の曹操の長子は曹丕、三弟が曹植。この兄弟は仲が悪かった。兄が位についたが、ある日弟に対して「余の前七歩を歩むうちに詩を作れ、成らぬときは勅命にそむくものとして重罪に処す」と。こうして弟を苦しめようとしたが、曹植は兄の言に応じて立つと、たちまち作った。豆を煮て持して羹を作るしを漉して以て汁となすきは釜底に在って燃え豆は釜中に在って泣く本と是れ同根より生ず相煎る何ぞ太だ急なる(あつものを作ろうとして豆を煮、味噌をこして汁を作るのに、まめがらは釜の底で燃え、釜の中の豆が熱さに堪えかねて泣きながら言うには、「豆もまめがらももともと同じ根から育った間柄なのに、こんなに急いで煮るのはあんまりではないか」)これを読み替えると「父母を同じくする兄弟なのである、本来なら兄弟は協力すべきなのになんで弟の私を責めようとするのですか」という切ない弟の訴えでもある。兄の曹丕は、これで幾分反省したとあるが、いずれにしても、力ある兄が弱い立場の弟を苦しめることは、誰にしても許しがたい気持ちになるに違いない。わが国でも、源義経に味方し同情する者はあっても、頼朝を天下の英雄と称える者はなかろう。ことはどうあれ、実の弟、弱い弟を討つ者を尊敬する人間はいないからである。これは兄弟の間柄についてばかりではない。ことに親は慈、子は孝。互いにかくあるべし、という考えは人間誰しも共通しているだろうが、これにも差がある。慈に対し孝で報いようとしない人間はいずれは脱落し、報いようと努める人のみが成長していくことになる。「忠臣を求むるは、必ず孝子の門においてす」と『後漢書』にあるが、忠義な家臣を得たいと思うなら、必ず孝行に厚い人物を選びなさいという意味である。銀行員時代、新入行員の面接試験をしたことがある。当時、銀行の新入行員採用条件の一つは両親が健在であること、ということになっていた。私が面接した時、「採用が決定した場合、まず報告したい人、それに悦んでくれる人は誰ですか」という質問に「いずれも、母です」と答えた人に、私は内規に反して採用の印を押してしまった。私が課長を退いて何年か後に、ある支店へ出向いた。待合室に立っていた私に支店長席から立ち上がって近づいてきた人物がいるが、一面識もない。と思っていたのは私だけ、相手は私が面接試験をした新入行員であった。まず私が聞いたのは「お母さんは」であったが、彼が支店長になって間もなく亡くなったということであった。その時ふと頭に浮かんだのが「孝は道の美、百行の基なり」という後漢の歴史学者・班固の言葉であった。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.19
『欲路上のことは、その便を楽しみて姑(しばら)くも染指(せんし)をなすことなかれ。ひとたび染指せば、すなわち深く万仞(ばんじん)に入らん。理跨上のことは、その難を憚(はばか)りてややも退歩をなすことなかれ。ひとたび退歩せば、すなわち遠く千山を隔てん。』(欲望に帰することは、ついでだからといって、かりそめにも手を出さないように。一度手を出したが最後、その味を覚え、引き込まれて溺れ、ついには万仞の深みに落ち込んでしまう。反対に道理に帰することは、その困難なことを億劫がって少しでも尻込みしないように。一度尻込みすると、なおさら億劫になり、ついには千山を隔ててしまい追いつくこともできなくなってしまう。)中国の春秋時代、斉の桓公が宰相の管仲に、「富」に限界というものがあるかと尋ねた。管仲はこう答えた。「水の限界は水の尽きたところ、富の限界は、これ以上富は不要と考えたところでしょうが、人間はこれ以上は不要とは考えず、さらに積み上げようと考え、結果はすべての富を失ってしまいます。ここらが限界といえます」今から二千数百年も昔のことだが、人間の欲というものは何年たっても変わることはないようである。といってまったく限界を知らない者ばかりではなかった。「陶朱猗頓(とうしゅいとん)の富」の故事で知られる陶の朱公とは、「臥薪嘗胆」の故事にかかわる越王・勾践に仕えた范蠡(はんれい)のことである。范蠡は勾践が天下をとると、勾践の人相は苦しみを共にできる人だが、楽しみは共にできないとして、財をまとめ一族を連れて斉に移り、商品の売買をはじめ数千万の富を得た。これを知った斉王は迎えて宰相にしようとしたが、「家にあっては千金を儲け、官については卿相となるのは栄華のきわみ。身のためにあらず」として断るとともに、儲けた数千万金をことごとく人々に与え、山東省の定陶に移り名を朱と変えて再び大金を儲け、それも人々に与えてしまった。19年間に3度も儲けたとある。子孫もまた栄えたという。限りない欲をもつ者は最後にはことごとく失い、欲の限界を知った者は儲け続けている。この故事を学んでいた人は土地投機で悔いを残すことはなかったろう。ある有名会社の社訓に、文句は忘れてあいまいだが「恐るべきは日々軽々の損、望むらくは日々軽々の利」、また、「恐るべきは一時の大利、恐るべからざるは一時の大損」という意味のものがあった。一時の大利を得て、それだけで満足する者はない。再度大利を狙ってことごとく失い、これを取り戻そうとして大損する。落ちゆく人間の常である。その昔、競馬の予想屋二人と語りあったことがある。一人は「大穴を当ててみろ」、もう一人は、「確実に取って帰れ、最終レースだ」と叫んでいた予想屋で、その二人から馬券を買ってみた。いずれも外れ。夕食を共にしながら聞いた。「百発百中大穴を取って帰れと言っていたが?」「大穴が百発百中なら、予想屋を止めて自分で馬券を買いますよ」「予想屋で預金を増やすには?」「絶対馬券を買わないこと」「競馬で一番確実に儲けている人は?」「それは地面師だろう、何しろ、捨ててある馬券をかき集めて持ち帰り、当たり券を探し出して次の日に引き替えるから確実だ」一人の予想屋はそれ以前は新橋で既製服を商っていたと言い、もう一人は元私大の労働法の講師だったと答えてくれた。酒も出ていたので田端義夫の「大利根月夜」でも歌うかと思っていたが歌は聞けなかった。「愚痴じゃなけれど、世が世であれば、大学の先生でいられたものを、今じゃ、今じゃ浮き世の予想屋暮らし」会社経営などが落ち目になると一穴当ててやろうという気にもなろうが、結果は大穴は当たらず大穴に落ちることになる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.18
『事これを急にして自らかならざるものあり、これを寛くせばあるいはおのずから明らかならん。躁急にしてもってその怒りを速(まね)くことなかれ。人はこれを操りて従わざるものあり、これを縦てばあるいはおのずから化せん。操ること切にしてもってその頑(かたくな)を益すことなかれ。』(急いで知ろうとしても明らかにならないことがある。そうした時は、のんびり構えておれば明らかになることがある。あまり急いでは人の怒りを買うことになる。人を使う場合も同じで、働こうとしない者や命令に従わない人にうるさく言うよりは、自由に放っておけば自発的に動くようになる。うるさく言えばかえって依怙地(いこじ)になってしまう。)ある工場で、よく働く人と、怠けている人を区分して、工場の右側で作業する人間はよく働く人たち、怠けがちの工員は左側にし、右側の壁には「目標達成に全力投球しよう」「なせば成る」と書いたポスター、左側には「○○日は花見、○○日観劇」というポスターを掲げた。何日かたった頃、花見、観劇のポスターは破り捨てられていた。恥を意識したからだろう。これは私の体験だが、工場内に、口は八丁だが手は一丁という人間が20人ほどいたので、彼らを一括して一部を設けた。仕事は特に与えず、退屈しのぎに新聞と週刊誌だけは配布しておいた。幾日か過ぎた頃、何か仕事を出してくれという申し入れが出た。潜んでいた良心が促したのではなかろうか。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.17
『肝、病を受くれば、すなわち目視ること能わず。腎、病を受くれば、すなわち耳聴くこと能わず。病は人の見ざるところに受けて、必ず人の共に見るところに発す。ゆえに君子は罪を昭々に得ることなきを欲せば、まず罪を冥々に得ることなかれ。』(肝臓を病むと目が見えなくなり、腎臓を病むと耳が聞こえなくなる。このように病気というものは最初は人に見えない内部からおきて、やがては誰にも見えるようになるものである。それゆえ、君子たるものは、人目につくところで罪を犯さないようにしたいと思ったら、まず人目のつかないところで罪を犯さないように心がけなければならない。)罪を犯す人は、誰にもわかるまいと思って犯していると思う。しかし、衆目から逃げることはできないもので天知る、地知る、吾知る、子知る、で最少四者は知っていることになる。仮に自分だけが知っていたとしよう。独り知っていたとしても、罪を犯した償いをまぬがれることはできないだろう。自責の念、劣等感、引け目などいずれも終身刑に当たるだろう。こうした「自分で、自分に科した罪」ほど勇気を妨げるものはない。私の場合、身から出た錆とでもいおうか、例の青年時代のヤカン頭である。当時私は尺八を楽しんでいた。三味線、琴との三曲合奏には有名校出身、良家の若い女性と席を同じくする。しかし、話しかけたこともなければ、見つめたこともない。なんとなく引け目を感じたからだ。尺八、琴の先生から「この中からお嫁さんを探しなさい」と言われたこともあったが、全くその気にもなれなかった。劣等感が先立ったからだろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.16
『夜深く人静かなるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄窮まりて真独り露わるを覚ゆ。常に此の中において、大機趣を得。すでに真現れて妄の逃れ難きを覚ゆれば、またこの中において、大慚忸(ざんじく)を得。』(夜ふけて静まりかえっている時に自分の内心を見つめていると、妄念は消え去ってただ自然の真心だけが現れてくる。常にこうしていると、応用自在な心の働きを知ることができる。すでに真心を知っても妄念の去り難いことを知ると、そこで懺悔の心が生まれ、正しい道を志すことになる。)まさに私のような人間の頭には邪念邪欲、現在、過去、未来あり、悲喜去来して止むことを知らず、といえるような雑念が本心を失わせて止まないものである。これを一時でも払拭しないかぎり、知恵も出なければ善良な意欲も出ないことになる。ことに経営に当たる人にとっては肝要なことであって、名経営者といえる人は頭の休養に心掛けているものである。野村證券の元社長の奥村綱雄さんと生前対談したとき、「よく海釣りに出かけるが、船頭さんに『こちらから声をかけるまで話しかけないでくれ』と言っておく」と語っていたが、雑念一掃のためであったろう。そういえば太公望呂尚は川で釣りをしているとき、周の西伯(後の文王)に見いだされたとある。「釣れますかなどと文王そばに寄り」という川柳もある。このとき太公望の釣り竿には、針がついていなかったとか。となると、太公望の目的は、魚ではなく、精神統一にあったのではなかろうか。西濃運輸の創立者・田口利八さんと対談した時、「今、私は70歳だが、今でも判断に苦しむと母の墓前へ相談に行く。決断がつくまで妄念を去ってぬかずく」と話していた。そのとき私が社長のいがぐり頭を見ながら、「社長も私と同じくバリカンの世話になっていますね」と言ったのに対し、「一人前になるまでは」といっていたが、そのころ社長は“陸運王”といわれていた。傲慢という邪念を追い払う心掛けの坊主頭ではなかったろうか。また、ある社長は土曜の午後から行方不明になることにしている。ホテルに一泊してテレビも見なければ新聞も読まない。食事はルームサービス、部屋からも出ない、という。孤高の境地に己を置こうという考えであろう。一日一回椅子に座って般若心経を唱えるという社長もいたし、東京から福島まで週に一度は帰って一日農夫になるという社長もいた。昼食は南京豆という社長がいた。「皮をむいている間は何も考えないから」と。誠に恐れ入った努力である。私の雑念退治は家にあっては農作業、職場にいた頃は吟詠であった。詩中の心になっていると、他のことはたちまち霧消するから不思議である。9月10日去年の今夜清涼に侍す秋思の詩篇独り断腸恩賜の御衣今此に在り捧持して毎日余香を拝す作者・菅原道真の誠忠の胸の内、それを思いやるばかりで、他は無想。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.15
『苦心のうちに、常に心を悦ばしむるの趣を得る。得意の時、すなわち失意の悲しみを生ず。』(苦労している最中にこそ真の喜びがある。これとは反対に、望みを達した得意の時に失意の悲しみが忍び込んでくる。)ナポレオンは、欧州全土を席巻し次はイギリス本土攻略を目指して英仏海峡に臨んだ時、厳然として浮かんでいるイギリス大艦隊を眺めて、勝利の悲しみを味わったという。百戦百勝のうちにも勝ちの悲しみが潜んでいるものである。太平洋戦争の真珠湾攻撃の悦びの影は太平洋の孤島に悲しみの影となって見え隠れしていたろうし、バブル初戦の得意顔の亡霊はバブル崩壊後の失意の亡霊に姿を変えている。「盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」の名文句は『平家物語』に限らないようである。これとは反対に、苦心のうちに悦びを見い出し、苦労脱出に挑戦し続けた人は、悦びの涙を噛みしめているに違いない。「柔」の歌ではないが、「負けてもともとわが胸の、奥に生きてる柔の夢が、一生一度・・・」の栄光が待っている。負けても負けても最後まで金メダルを目指すところに金メダルは輝くものである。勝負の世界も会社経営の世界も同じ。負けの中に小さな金メダルの光を見い出し、これを手中に収めずんば已まずの旺盛な気力で体当たりする者は、金メダルを手にすることができるだろう。困難不可能を前にして将来の栄光を信じない者は、悲しみを抱いたまま消え去っていくに違いない。だいたい、有終の美を飾る者は百戦百敗しても挫けない不屈の精神の持ち主で、百敗の中にも常に一勝の楽しみを抱いているものである。とかく、経営に行き詰まると何かに頼る気を起こす。これは已の心に負けの悲哀が増してきているからだ。天も神も、そこまで手を差しのべる余裕はなさそうである。現役当時、会社再建5ヶ年計画を発表した時、達成祈願を奨められたが断り、達成後のお礼参りになら行くと答えたことがある。「天は自ら助くる者を助く」といわれている。我々が自ら助かろうとして努力すれば、天は頼まずとも助けてくれる。それに対してのお礼参りだ、と。そして、こうつけ加えておいた。「厳しい、苦しいということばかりを考えるから苦しくなる。神に頼んで早く楽になろうとすることは、せっかく天が用意してくれている楽しみ、悦びを味わうことができなくなる。苦労と戦っている最中の悦び、楽しみというものは、悦びの中で最高のものといえるだろう。私は20歳前後の頃、父が残した借金返済のため銀行から急いで帰り、荷車を引いて、大豆、サツマイモを2キロ離れた街中へ売りに行った。持ち帰るカネは2円か3円だったが、年4回、1回分40円の分割返済の1回分にもほど遠い2、3円のイモの代金を、おしいただくほどありがたく思ったものである。帰って母に渡す。母はそれを仏壇に供えて線香を立てている。こうしたひとときの悦びも苦があればこそといえるもので、天は人に苦ばかり強いているものではないと思えば、一つ楽しみを加えることになるだろう」これは後日のことになる。私の個人の借金苦は18歳から32歳までの14年間であったが、完済して土地建物の抵当権を解除し権利書を取り戻して母に渡したところ、仏壇に供えて線香に火をつけようとした。が、「これでご先祖様に申しわけが立った」と言いながら流れ落ちる涙で火がつかない。生涯、私が感激した最高のものであったと思う。厳しさ、悲しみを求める者はなかろうが、不幸にしてそうした境遇を余儀なくされたら、美空ひばりを気どって「柔」の一節でも歌ってみるがよい。「行くもとまるも坐るも臥すも、再起一筋、再建一筋」と繰り返せば、後の文句は力強く出てくる-「夜が明ける」と。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.14
『事々、個の有余不尽の意志を留むれば、すなわち造物もわれを忌むこと能わず、鬼神もわれを損ずること能わず。もし業は必ず満を求め、功は必ず盈(えい)を求むる者は、内変を生ぜざれば、必ず外憂を召く。』(何事もゆとりを持ち、控え目にする気持ちを持っていれば造物も我を忌みきらうことはなく、鬼神も害を加えることはない。しかし、仕事にも功名にも十二分に満ち足りることを求めれば、内部から変革が起こったり外部からの変事を招いてしまうものである。)ここに「何事にもゆとりを持ち、控え目に」とあるが、これに従っていないのが現在の私自身のようである。聖人孔子は、「私は15歳のときに学問によって身を立てようと決心し、30歳で自分の立場ができた。40歳で自分の方向に確信を持ち、50歳で天から与えられた使命を自覚した。60歳で、誰の意見にも耳を傾けられるようになり、70歳になってからは自分で抑える努力をしなくても常識を越すようなことはしなくなった」と述べているが、60までは、私なりにこの言葉に副ってきたつもりである。しかし、70からは「心の欲する所に従って、矩を越えず」とあるが、私は度々これに背いている。この違反については家族からも注意され自分なりに注意しているが、90過ぎた今も背いている。「論語読みの論語知らず」を裏書きしているようだが、不治の病ではないかと思う。「矩を越している」とは、私の百姓道楽で、除草で肩こりから炎症を起こして首が痛んで回らなくなって一年以上も苦しんだり、肥料をやり過ぎて枯らしてしまったり、盆栽作りのために土鉢を三千個も買って始末に苦しんだり、いずれも過ぎたるは及ばずの悔いである。今では家の近くにいる長女と家の嫁の監視つきで、過ぎると道具を取り上げられてしまうので、論語違反も減りつつあるが、それでも死んだら野菜の種を棺桶の中に入れてくれと言ってある。冥土というからには土があるだろうと思っているのであるから、この道楽は死んでも続けるつもりらしい。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.13
『身を立つるに一歩高くして立たざれば、塵裡(じんり)に衣を振い、泥中に足を濯うがごとし。いかんぞ超達せん。世に処するに一歩退いて処らざれば、飛蛾の燭に投じ、てい羊(よう)の藩に触るるがごとし。いかんぞ安楽ならん。』(この世で身を立てようとすると、常に一歩だけ世人よりも高くしておかないと、塵の中で衣を振るい、泥の中で足を洗うようなもので、汚れが増すばかりである。また、この世をわたっていくためには、世間から一歩だけ退いていないと、ちょうど虫が灯に身を投じ、牡羊が柵に角を突っ込んで進退窮まるようなことになる。それでは安楽に過ごすことができようか。)明の王守仁は、その著『伝習禄』で「志は易きを求めず事は難事を避けず」と述べている。つまり、志は容易にできるようなことを選びなさるな、また、それが困難が予想されることであっても避けなさるな、という意味である。その昔、子供に「将来何になりたいか」と聞くと、「大臣、大将」と答えた。大志まことに結構といいたいところだが、果たして何人が志をかなえることができたであろうか。「男子志を立てて郷関を出ず」誰でも志を抱いているものだが、その実現は極めて困難といえるだろう。『十八史略』にこんな記述がある。前漢の祖・劉邦は、現在でいえば小さな田舎町の警察署長程度の役人でしかなかった時、秦の始皇帝の豪華な行列を見て「大丈夫まさにかくのごとくなるべし」(男と生まれたからには、このくらいの人になりたいものだ)と将来への志を口にし、その生涯のライバルとなった項羽は、同じ行列を見て、「吾必ず始皇に代らん」といったという。しかし、この結果は、劉邦の勝利に帰している。その理由には武力と徳の差、部下への信頼と不信、謙虚と傲慢の違いをあげることができよう。男子が志を立てることは共通しているが、立てた志の達成いかんは仁徳の差によるものとも考えられる。これを端的にいえば、『伝習録』にある戒め、すなわち「人生の大病は、ただこれ傲の一字なり」ということになるだろう。少々有利な立場になると傲慢病に冒され前途を失うものである。また、この項の冒頭に「一歩退いて処らざれば」とある。せっかく大志の実現を目前にしていながら挫折してしまう人も少なくないが、いずれも大志に満足せず、さらにより大きな志を遂げようとするからである。その実例はバブル当時の失敗で、ここで述べるまでもなかろう。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.12
『醸肥辛甘(じょうひしんかん)は真味にあらず、真味はただこれ淡なり。神奇卓異(しんきたくい)は至人にあらず、至人はただこれ常なり。』(濃い酒、こってりした食べ物、辛過ぎ甘過ぎるものには本物の味はない。本物の味は淡白なものである。これと同じく奇抜な振る舞い、奇抜な才能を振り回す人は道を究めた人ではない。真の人物というのは平々凡々な尋常な人である。)聖人孔子は、忠恕合わせて“仁”の一字を貫いたという。『論語』の里仁(りじん)篇にこんな記述がある。「子曰く『参(しん)や、わが道は一もってこれを貫く』。曾子曰く、『唯(い)』。子出ず。門人問いて曰く、『何の謂(い)いぞや』。曾子曰く、『夫子の道は忠恕のみ』」実に簡単な文句だが、この意味は、きわめて大きい。「曾参(曾子)よ、私という人間は、ただ一つの原則だけで貫かれているのだ」という孔子の言葉に、曾子はただ「ハイ、そうですか」と言うだけであった。孔子が去ったあとで他の門人たちが「先生が貫いたという一つのこととはどういうことなのでしょうか」と尋ねたのに対し、曾子は答えた。「先生は良心をいつわらないこと、すなわち“忠”と他人への思いやり“恕”とが人倫の根本だと言われたのである」一つのこととは、忠と恕を合わせた仁の一字で、孔子は仁の一字を根として、人々への思いやりを施したということである。たった一字が、いかに多くの人々の心に感動を与えたか計り知れないものがある。いい換えれば、美辞麗句よりも簡単明瞭な文句のほうがよい、ということになる。なるほど回りくどい文句を読み聞きするよりも、簡単明瞭であるほうが聞きやすくもあり、従いやすくもある。昔、武士が戦場から送った妻への手紙が「火の用心、おせん泣かすな、かぜひくな」。まさにいい尽くされた手紙である。南極越冬隊員に新妻が打った電報は「あなた」だけ。欧州の作家が出版社に宛てた電文は「?」マークだけであった。「本の売れ行きいかに」の意味だ。会社が行きづまり、資産のすべてが差し押さえられ、進退きわまった夫を迎えた妻の言葉は「あなたは」の一言。「よもやあなたまで差し押さえられたわけではないでしょう」を略した文句である。私が会社の借金過多をグチったら「借金なんか返せばいいんだ」と言ってくれた人がいたが、嘆くより、返せばグチも出なくなる。会社再建5ヶ年計画を立てたときの計画目標は、「0、1、2、3」、つまり0(無借金)、1(東証2部上場から1部への昇格)、2(無配から2割配当)、3(社員ボーナスを年3回とする)という単純きわまるものであったが、漢文調の激励文句より効果があったと思う。簡単淡白をなぜ良しとするのか、ということで考えたことがある。思うに淡白、簡単であれば相手に考えさせる、思わせるという効果がある。そのため説得力も加わることになる。たとえば、会社が差し押さえられた夫に「あなたは」といえば、万物の自由は差し押さえられたが、自分の自由を知れば元気も出るし知恵も出る、失意を気力に変えることもできる、というような。目標の「0、1、2、3」にしても、不可能に考えていた向きを可能と願う気になるだろう。美辞を並べても失意に陥っているときは、並べれば並べるほど計画に対して疑心を増すようになる。会社の計画書などにしても、読んでは楽しいが読み終わってみるとあとに何も残らないものがある。昔の聖人は「無為にして化す」、つまり何もしないで人々を感化したというが、そこまではいかずとも簡単で効果のある手段方法を選ぶことに心がけたいものである。昔から私は自分なりの処世訓として「敬」の一字を守り通しているが、たった一字なら相当のボケが進んでも守ることができるのではないか。敬とは「己を慎み人を敬う」を意味している。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.11
『功過は少しも混ずべからず、混ずればすなわち人は惰きの心を懐かん。恩仇は甚だ明らかにすべからず、明らかにすればすなわち人は携弐の志を起こさん。』 (功績と過ちの評価を少しでもあいまいにしてはならない。あいまいにすると部下はやる気を失うことになる。また、人の恩と仇とを明らかにしてはならない。明らかにしすぎると人は離れるようになる。)組織内でも多くのトップの過ちは公私混同である。経費などの公私混同は部下の目をごまかすこともできようが、部下の評価についてはそう簡単にはすまされない。これについては中国の春秋時代斉の名宰相といわれた管仲の教えがある。管仲はトップの敵として、(1)から(6)の6つをあげている。1、(1)親族、(2)高官が命令に反してもとがめない。2、(3)金持ち、(4)愛妾が禁令違反をしても処罰しない。3、(5)へつらい者、(6)道楽仲間に功労がなくても位を与える。これらの点については現代でもありがちなことであるが、トップの公私混同、功罪の不公平は組織全体に悪影響を及ぼすはずである。不公平だけではすまされないこともあり得る。功ある者を罰し、功なき者を賞する類いである。ある上場会社のことである。バブル当時、土地投機で損が生じ、紛飾決算を余儀なくされたが、その後に出た利益で粉飾を中止してはと献策した、いわば忠臣を左遷したという。会社危うくして忠臣現れたのにこの忠臣を遠ざけるようでは、その命いくばくもなしと誰しも考えるだろう。『三国志』を飾る人物といえば蜀の諸葛孔明だが、今に孔明の名を高くしているのが「涙を振るって馬謖を斬る」であろう。孔明は、軍律命令違反の罪で馬謖を断罪に処している。孔明は馬謖の才能を認め将来に期待していた人物であったが罪は罪、涙を振るって斬っている。また楚の共王は、戦闘中酒で酔いつぶれたという罪で、かけがえのない子反将軍を断罪に処している。いずれも軍律を守るためには人傑も惜しまず、という心がなければできないことである。しかし孔明は馬謖を斬った後、家族の生活には事欠くことのないように配慮したという。公は公、私は私の区別を判然とすることが人々を率いる者の心しておきたい点である。とかくトップの心すべき点は数々あげられているが、帰するところは信賞必罰の公平にあり、といえるだろう。韓の公子・韓非の著した『韓非子』には、人を率いる条件は賞罰だけでよい、という意味のことが書かれている。このように組織運営の要は公平な賞罰を行うにありといえるが、とかく賞は行うが罰は行わず、あるいは、賞罰は行うが公平を欠く、さらに、賞罰共に行わず、賞罰規程は作ったが有名無実に終わったりで、その結果は会社そのものまで無名無実にしてしまう。ばかげたことである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.10
『世を渉ること浅けれ点染もまた浅し。事を歴ること深ければ機械もまた深し。ゆえに君子は、その練達ならんよりは朴魯なるにしかず。その曲謹ならんよりは疎狂なるにしかず。』(世を渡る体験が浅ければ、世間の悪風に染まることも少ない。体験を重ねるにつれて、手練手管、からくりも上手になる。そのため君子は世事にたけ、万事に如才ないよりは、いくらか間が抜け、飾り気のないほうがよい。むしろ粗雑だが志のしっかりしたほうがよい。)『論語』に「巧言令色、鮮なし仁」(巧みな弁舌、人をそらさぬ応対、そんな人間に限って仁には遠いものである)という文句がある。組織内にも、弁舌はいともさわやかだが、才能、手腕ともなるとさわやかならず、という者がいる。反対に口で言うより手のほうがうまいという人がいる。両者の話を聞いていると、弁舌鮮やかに聞こえて内容の多くは自己弁護に過ぎているようである。手腕力量を弁舌でカバーしているようなもので、いわば実のない内容の乏しいものに終わっているが、訥々としていても事の要点を指して話す者は聞く人に感激を与えている。昔から「鳴かない猫ほど鼠をよく取る」といわれているが、とかく口八丁の人は手は二丁三丁の人が多い。中国の戦国時代に活躍した策土たちが用いた名言奇策集がある。多くは言葉巧みに相手を説得して我田引水の目的を果たそうというものである。これはこれとして人々に興味を与え、何事かのヒントを与えてくれるものといえるが、悪心を抱いて言葉巧みに近づき我欲を満たそうとする者は警戒しなければならない。別項でも述べたが、大姦は忠に似、大詐は信に似ている。つまり大悪党は忠義者に似ているし、大うそつきは信用できる者に似ているという意味だが、トゲはきれいな花にだけあるのではない。言葉巧みな花には猛毒のあることを知っておくべきだろう。言葉というものは飾りつけができるため、心にもない飾りつけを簡単にしてしまうものがある。銀行に勤めていた頃、常務から仕事上の命令を受けた。私が「粉骨砕身やってみます」と答えたところ、「君に粉骨砕身されたら香典を出さなければならない。死ななくてもこの仕事はできるはずだ」と言われたことがある。いずれにしても、言葉巧みはかえって軽蔑され信用を落とすことが多い。また粗雑な態度は礼を失する心配もあるが、媚びへつらう態度は、相手に警戒心を与え、真実を自ら打ち消す結果となることに心したいと思う。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.09
『事を議する者は、身は事の外に在りて、よろしく利害の情を悉(つく)すべし。事に任ずる者は、身は事の中に居りて、まさに利害の慮(おもんばかり)を忘るべし。』(議論をする場合は自分を第三者の立場に置き、利害得失を検討し尽くすようにしなければならない。実行する場合は己を当事者とし、自分の利害得失を忘れてかからなければならない。)この文言は、いずこかの国会議員のために特に加えたのではないか?と考えられる。○○族とかいわれている“我田引水先生”ならぬ“専声”たちの「まさに利害の慮を忘れず」が思い浮かぶからである。私は現役当時、会議となると自分や自分の職だけの利害にとらわれて会社全体の利を考えない管理者があまりにも多く、また労働組合の勢力が盛んであったため、会社の利を捨てて組合の意に副うことのみに腐心している様子が会議中にも見られたため、「総論賛成各論反対」を主張する者は会場から出ていってもらうと宣言したことがある。会社の利害を後にした意見が多かったからである。もし、総論賛成というなら、各論に反対せず総論賛成に副うように努めるのが参加者の任務ともいえるからである。さらに会議をするものには「会して議せず、議して決せず、決して行わず、行って責任をとらず」であってはならない、という戒めがある。ある会社に関係して間もなく、そこの会議に出席したことがあった。議題は、機械の付属器機の研究開発に10億円の費用を投じ10年の年月を要しているが、いまだ未完成、今後も開発を続けるかどうかを決めることであった。その場に開発を担当している幹部も出席していたため正面切って反対ができず何回となく会議を繰り返していたらしい。これにしても、開発者に気兼ねすることは私的感情で、その損失は会社が負担することになる。その時、私も意見を求められたので、黒板に「鶏肋(けいろく)」と書き、これを説明して開発中止とした。「鶏肋」のいわれは『三国志』の魏の曹操が撤退命令に用いた隠語で「鶏の肋骨は食べるところはないが捨てるには惜しい」ということで、蜀の諸葛孔明と関中の争奪戦をしていた時の撤退命令の代わりに用いたものといわれている。また、私は子会社の責任者会議には一年間の業績順に席を与え、発言順も業績順にしたため、時間内に発言できない者もいた。この苦情に対して「敗軍の将は兵を語らず」というではないか、次の会議には発言可能な席を奪い取れと励ましたこともあった。「会議の有効利用」だと言っていた者もいたようである。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.08
『疾風怒雨には禽鳥も戚々たり。霽日光風には草木も欣々たり。見るべし。天地は一日も和気なかるべからず。人心は一日も喜神なかるべからざるを。』(天気の悪い日には、鳥たちも悲しげに鳴く。晴れた日には、草木も嬉しそうだ。だから人間は、たとえ一日でも、喜び楽しむ心がなくてはならない。己の心の暗さは他人の心まで暗くしてしまうものである。)トップの一日の喜心は、全社員の喜心。トップの志気は、全社員の志気となる。トップの白信は、全社一丸の白信となる。打算的な言い分だが、トップの喜心には代価を必要としないが、代償は全社員の志気となって返ってくる。一方、部下を叱ると、部下をくさらせ、己にも不快を招く。これほど高い代償はない。今は昔、取引先の社長は豪快な人で、社員に対しても平素は穏やかだが、怒ると、まさに「烈火のごとし」という人であった。「私は気にくわないと怒りたくなる性分で、そこにいる誰にでも怒りをたたきつけて溜飲を下げることにしている」と言っていたので、私が「社長、溜飲は下がるが血圧のほうも上がるでしょう」と言ったら、血圧も下がるといい返していたが、2、3年後だったか、脳疾患で倒れている。「克己、自分に勝つ勇気は一呼吸の内にあり」とは先賢の教えだが、自分の喜心を妨げるものを取り除くことが一瞬にあると考えれば、一瞬、一時の間に、憂い、怒りを抑えることができるはず。このように考えてくると、トップはわずかな喜心も捨てるべきではない。これも、「私事をもって公事を害せず」の精神に副うことになるからである。唐の詩人・白楽天は「壮士憂いによりて減じ形容病と共にす」と詠んでいる。すなわち、やる気満々の若人でも心配事があるとその意気込みも減退し、病気になると顔形にまで現れてくる、という意味だが、壮士を社長に読み替えてみると会社の安否まで危ぶまれてくる。 (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.07
『己をかえりみる者は、事に触れて皆薬石となり、人をとがむる者は、念を動かせばすなわちこれ戈矛なり。一はもって衆善の路を開き、一はもって諸悪の源を深くす。相去ること霄壤なり。』(自分を反省する者は、体験するすべてが日々成長の糧となる。人に責を負わせようとする者は、思い考えるすべてが自分をそこねる戈となる。前者は善に向かう路を開くのに対し、後者は悪の源を深くするもので、この両者には天と地との差がある。)「反省は準備なり」とは私の持論でもあるが、反省は攻守いずれにも通じる力となるものである。よく、「ボウフラ経営」という人がいる。景気がよくなると会社の業績も上がっていくが、不況になると沈んでしまう。会社の業績が上向き好調な時に反省してみると、この好調の原因は自分の力ではなく環境好転の力であることに気づくだろう。反対に、業績の悪化は環境悪化のためでもあろうが、好調時になぜ不況に耐えるための準備を怠っていたのか反省も起こってくるに違いない。このように考えてくると、業績の良し悪しにかかわらず反省の必要がある。それを知っておかねばならないともいえるわけで、これを怠ると、浮いたり、沈んだりの繰り返しで、少しも前進することができない、ということになる。それなら、なぜ反省を怠ることになるのか。端的にいえば、良いこと、成功したことは自分の力と考え、悪いこと、失敗は他のせいにしてしまうからである。成功を自分の力と考えるから、うぬぼれ根性も出れば有頂天にもなる。失敗を他に転嫁してしまうから一時は救われた気分になるが、悩みは果てないことになる。「過ちて改めざる、これを過ちという」「過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ」(過ちがあったなら、ただちに改めなさい)いずれも『論語』にある言葉である。しごく当たり前の文句のようだが、反省を怠ると会社の命取りになることも少なくない。東西の歴史を見ても、反省を促されて改めた者は成功し、改めなかった者は大きな悔いを残している。会社経営などにしてもしかりで、失敗を他のせいにして省みることなく過ごした者は、後日必ずその何倍、何十倍かの代償を強いられるものである。銀行員時代、同じ年齢で同じ学校を同じ年に卒業した新入行員の集まりに出席を求められ、こう話した。「現在は、すべて条件を一つにした選手がスタートラインに立ったと同じだが、次第に小差から大差がつくようになり、決勝点に着くまでには脱落する者も現れて、この同級会も自然消滅するだろう。それを避けようとするなら、互いに遅れている点を指摘し合い、反省し合い、励まし合っていけば大差なく決勝点に到着することになるだろう」この会は数年後には解散になっている。半数ほどの者には肩書がついたが残り半分にはつかなかったからで、肩書のない者は会に出席しなくなったからである。このグループの決勝点での成績は一人が常務取締、三人は有力支店の支店長で、最下位は一人だったが平行員で終わっている。最後の一人は「残業紳士」と言われたほど残業手当稼ぎを注意されたが反省することがなかった。『菜根譚』には、こんな文句もある。『声妓も晩景に良に従えば、一世のえん花もさまたげなし。貞婦も白頭に守を失えば、半生の清苦、ともに非なり。語に云う「人を看るには、ただ後のはんせつを看よ」とまことに名言なり。』(芸妓も晩年に身を固め貞節な妻になって夫に尽くせば、昔の浮いた暮らしも引け目とはならない。貞節であった妻も白髪になってから操を破るようであれば、それまでの貞節が水泡に帰する。ことわざにもある、「人の値打ちを見るには後半生を見るだけでよい」と。まさに名言である。) (『菜根譚』を読む 井原隆一著より)
2005.07.06
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